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新田美波「わたしの弟が、亜人……?」

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148 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/04/23(日) 20:33:42.46 ID:5HbT9nK2O
4.待って、行かないで


死の残酷さは、臨終の現実的苦痛をもたらしながら、真の終りをもたらしてくれぬことにある。ーーフランツ・カフカ「八つ折り判ノート」

首の出来る所はただ一ヶ所ほかない
ーーギルバート・キース・チェスタトン「秘密の庭」


永井圭は山梨県で捕獲された。その足取りは誘拐された慧理子の携帯電話から捕捉された。誘拐以降、慧理子の携帯が一度だけ使用されたとき、基地局から通話先のエリアが特定され、そのエリアが永井圭の現在地と推測された。

戸崎はその地域のどこかで永井圭と帽子が接触し行動を共にするだろうと予測していたのだが、警察の捜索が開始される前に永井圭は勝沼分署の前で意識不明で倒れているところを発見拘束され、同日中に都内にある研究所に移送された。戸崎は帽子がなぜ永井圭をこちら側に差し出すような真似をしたのかその意図を掴みかねた。帽子と永井圭が接触したと思われる神社で神主の惨殺死体が発見されたのは、永井が研究所に向けて移送されてから数時間経った後のことだった。

研究所の前には当然ながら大勢の報道陣が詰め寄かけていたが、この集合にはもうひとつの極があって、美城プロダクションの前にも彼らのざわめきと光源が群れを成していた。弟の捕獲について新田美波から何らかのコメントをもらうことが彼らの関心であり目的でもあったのだが、その可能性がほとんどないことにプロダクション前にいる報道陣たちは薄々感づいていた。美波はプロダクション所有の女子寮にいて、この女子寮の所在地は外部の人間には当然ながら明らかにされていない。
149 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/04/23(日) 20:36:35.60 ID:5HbT9nK2O
美波はラウンジでテレビに見入っている。まわりには寮に住んでいる美波より少し年下の女の子たちがいて、ここにいてもいいのかそれとも立ち去るべきなのかわからないといったふうに少し距離を取っていた。いちばん近くにいるみくにしても、美波の視界に入らない位置に腰を下ろしている。

美波の視線はずーっと真っ直ぐ、テレビを貫くように向けられていて、まるで山頂から向こうの山頂の青く霞んだ景色の中にいる動くなにかを探し出そうとするかのように画面を凝視している。あるいは、念じることで遠く離れた場所に何かの力を作用させようとするかのように。

レポーターが永井圭が捕獲された状況を説明している。彼女の背景には研究所の白い外壁がぼんやりと浮かんでいて、スクリーンのように投げかけられた光の中に過る人々や機器や車の影を映している。ざわめきの波がレポーターの左方向ーー画面を見るものには右側ーーからやって来て、彼女のところまで到達したとき、レポーターは首をめぐらし振り返った。警察車輌に先導された黒塗りのワゴン車が群がる記者たちをゆっくりとだが、確実に無視の態度をあらわしながら走行してきた。研究所の警備員にとって、カメラのフラッシュはほんとうに厄介だった。次から次へとまるで失明を狙うかのように瞬く光を頭を下げて避けながら、押し寄せてくる人波を懸命に押し戻す。研究所のゲートが開き車が敷地内に入っていく。レポーターはその様子を説明しながら、あの車に永井圭が乗っているのでしょうか、とわかりきったことを口にする。
150 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/04/23(日) 20:37:20.88 ID:5HbT9nK2O
美波は画面を凝視したまま、自分自身の肉体を締め付けるかのように身体を強張らせた。期待というより願望していた光景とテレビからもたらされる映像はまるで違っていた。リモコンでチャンネルを変えると、別の放送局が別の角度で同じ中継映像を届けている。カメラはゲートのすぐ横から記者の群れを掻き分けて進むワゴン車を見下ろしている。カメラは赤いテールランプを追いかけてパンしたが、その映像はスタジオに返され見れなくなった。美波はまたチャンネルを変えた。まるで機械を演じているかのような動きだ。美波は作動する部分と固定した部分を身体で分割しながら、いまこの夜だけでなくその後何日も同じ動作を反復していた。
151 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/04/23(日) 20:39:40.17 ID:5HbT9nK2O
永井は意識を取り戻し眼は光を受容したが、視界は白一色に染まり何も見えなかった。眼に覆いをかけられているせいだった。瞼に触れる覆いの感触からそれが包帯であることがわかり、さらに全身に包帯がきつく巻かれていることがだんだんとわかってきた。腕に力を入れてみたが、すこし震えただけで上がらない。全身が手術台の上で固定されていた。永井がもがき身を捩るあいだ、自分の喉から出てくる音が声でなくなっていることに気がついた。喉はただの風穴になっていて、隙間風のような空気が漏れ出てくる音しか出さない。声帯が切り取られていたせいだった。


研究員1「トラック事故の現場に残された左腕のDNAと一致」

研究員2「間違いなく亜人だ」

研究員3「よし、始めよう」


仰向けに横たわる永井の上に研究員たちの声が降ってきた。そのうちの一人が永井の左側に回ると、手に持った機器のスイッチを入れた。きいぃぃんという恐怖を掻き立てる高音が痛みを伝えるように響いた。研究員はそれを永井の腕にあてた。皮膚と包帯が同時に裂け、筋肉が千切れた。手に持てるサイズの電動の丸のこだった。血が撒き散らされないように止血を施されていたが、それでも、血管を切断したときは火花のように赤い血が飛んだ。苦痛にもがく永井をまるで存在していないみたいに研究員は腕の切断を続行した。やがて、刃が骨にあたった。研究員は丸のこに体重を掛けて回転する刃を骨に食い込ませた。しばらくそのままの体勢で力を入れ続けていると、すとんと底が抜けたかのような感覚が研究員の手に伝わった。


研究員3「これ、岩崎さんに送っといて。再生前のと見比べるらしい」


152 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/04/23(日) 20:41:23.49 ID:5HbT9nK2O
切断した左腕を渡してから、研究員は丸のこを金切り鋏に持ち替えた。


研究員3「今度は脳の活動を観察しながらだ」


研究員は今度は右側にまわった。右手の包帯を解くと鋏を開き、中指に刃をあて、研究員は脳波モニターに視線を向けた。


研究員3「痛みに対する反応の仕方で、これまでに何回死んだかをおおよそ予測できる」


研究員は鋏を閉じた。ぱちんと刃と刃が噛み合わさる音がして、永井の指が切り落とされる。研究員は慣れた手つきで剪定するかのように永井の指を落としていった。五本の指を落とす鋏の音はリズム良く、軽快とさえいって良いほどだった。切断のあいだ、永井の意識はずっとあった。


研究員3「数回程度しか死んでないな……次は」
153 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/04/23(日) 20:42:34.06 ID:5HbT9nK2O
背後からがりっという硬く耳障りな音がして振り向くと、手術室の中を見通せる見学室とのあいだに設置されたガラスに爪痕のような四本の線があった。このガラスは強化ガラスだった。ガラスの向こうにいる人物は影になっていて、そのうちの一人の腕が上がりスピーカーのスイッチを入れた。『どうした?』という声に研究員は聞き返した。


研究員3「いや……ガラスの傷、最初からありましたっけ?」


『ああ、最初からあったが?』


スピーカーの声はとぼけるような調子だった。


研究員3「そうですか。すみません」


研究員はとくに気にするでもなくふたたび実験に戻った。ガラスの向こうの見学室では亜人管理委員会のメンバー、もっとも高齢の岸博士を中心とする上位の研究員三名、自衛隊のコウマ陸佐、Nisei特機工業の石丸武雄、戸崎と下村も合わせて合計七人が見学室から永井圭の実験の様子を観察している。研究員たちが次々に感嘆の言葉を口にするなか、戸崎は冷ややかに眼を細めながら下村に聞いた。


戸崎「見えるか?」

154 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/04/23(日) 20:43:44.20 ID:5HbT9nK2O
下村の視線の向いている場所は、研究者や自分を計るかのように見つめる戸崎とは別のところだった。実験中の研究員たちの手前、だれもいないはずの空間に下村は眼を集中させている。


下村「……はい」

下村「います」


下村の眼には、黒い幽霊が映っていた。永井の幽霊の形状は下村や田中と違ってプレーンといっていいほど無個性で、頭部の形や手は人間のそれと良く似ていた。


岸「この傷……超音波か何かか?」

研究者1「違う。帽子襲撃現場には足跡のようなものが残されてたんだぞ。それはどう説明する」

コウマ陸佐「はっ、足の生えた幽霊でもいるってのか?」
155 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/04/23(日) 20:45:07.42 ID:5HbT9nK2O
もっと痛みを与えて観察しよう、という研究者の声がして、実際にスピーカーから指示を与えていた。黒い幽霊は何もかもに無関心な様子でぼおっと突っ立ったままで、ぼそぼそと呟きを発している。


戸崎「なぜだ……」


戸崎は滞りなく進む実験の様子に不満があるように言った。


戸崎「なぜ永井圭は、あの研究員達を攻撃しない……ガラスに傷を付けてから、あまり動きが無いように見えるが?」

下村「……もしかしたら自覚してないのかも」


下村はすこし考えこんだあと、戸崎を見上げて答えた。


戸崎「無自覚のほうが本能的に攻撃しそうな気がするが……」
156 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/04/23(日) 20:46:04.42 ID:5HbT9nK2O
下村「いま自覚してないとすると『幼少期からずっと』ということになります。長期間干渉しあわないまま過ごした結果、彼と黒い幽霊のリンクは、極めて不安定なのかもしれません……例えるなら、電波状況の悪いところで通話する感じでしょうか。ですから、いずれは彼らを攻撃する可能性が……」

戸崎「いまは?」

下村「え?」

戸崎「いまはどこで何をしている」

下村「いま、ですか……その……」


戸崎は口を閉ざし、冷たく沈黙したまま下村の答えを待った。下村はやがて遠慮がちに言った。


下村「戸崎さんを、見てます」


一瞬、戸崎の眼が丸くなり驚きを現した。首を少し後ろに引き、ガラスと眼の距離が離れた。
157 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/04/23(日) 20:47:19.12 ID:5HbT9nK2O

戸崎「……見てる……か……」


だがすぐに戸崎の視線は細く鋭いものに戻り、透明なガラスの向こうの戸崎には見えない幽霊に、忌々しいものを見つめるときのような侮蔑と憎しみに染まった眼を突きつけた。


戸崎「偉そうに」


戸崎はぼそりと呪詛の言葉を吐いた。


戸崎「お前らのおかげでどれだけ私の人生設計が崩れたか……わかってるのか……?」


下村は戸崎の言葉を視線を床に落としたまま聞こえないふりをしていた。そうすれば戸崎に見つからないとでもいうように頭を下げてじっとしていたが、儚い希望をあっさり無視して戸崎は下村に声をかけた。


戸崎「よく見ておけ、下村君」


下村の肩がびくっと震えた。
158 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/04/23(日) 20:48:28.22 ID:5HbT9nK2O
戸崎「きみがここでそうしていられるのは、私が秘密裏にかくまっているからにすぎない。しっかり働けよ。さもなくば……きみもああなる」


下村は頭を上げられなかった。じわじわと恐怖によって玉のような汗が滲んできた。実験室の音声がスピーカーから聞こえてくる。実験道具が出す高音と肉が掻き分けられる湿った音、低く響き渡る苦痛の音声が恐ろしいハーモニーを生んでいた。


戸崎「情け容赦無しだ」


戸崎は無感情な眼で永井を見据えながら言った。永井は左腕と右手の指が全て切断され、両脚に釘が打たれて赤い血の筋が包帯に染み込み手術台に落ちていた。顔に巻かれた包帯は涙や鼻水でべたべたになっていたが、永井自身の嗚咽や痙攣はピークを過ぎだんだんと間隔が広くなっていった。永井の腹部が割られている。開腹手術の真っ最中だった。永井の臓器は活動する様子を外部に晒しながら、灯りに照らされて健康的なピンク色に艶やかに光っていた。
159 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/04/23(日) 20:49:31.08 ID:5HbT9nK2O
研究者1「反応がにぶくなってきたな」

研究者2「リセットするか」


見学室の上級研究員がふたたびスピーカーを入れ、指示を出す。


『よし、一度殺して休憩にしよう』


研究員3「はい」

研究員1「ふう……トドメよろしく」

研究員2「お先」

研究員3「お疲れ様です」


残った研究員が先の尖った金属こてを頭の上まで持ち上げる。こての位置は永井の胸部の真上にあった。床や手術台の上に滴り落ちた永井の血はまるで火のように赤く、そこから黒い物質が煙のように立ち上り出していることに研究員は気がつかなかった。
160 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/04/23(日) 20:51:07.07 ID:5HbT9nK2O
下村「あっ」


下村がそれ以上反応を見せるのを戸崎は睨みつけることで抑えた。実験室内の黒い幽霊が永井の感情に感応したのか、研究員の背後へゆっくり近づいていく。研究員は狙いを正確に定めようとこてを持ち上げたまま動かない。黒い幽霊は研究員に近づきながら腕を上げ、手で鉤爪を作るように指を折り曲げた。下村は研究員が引き裂かれると思い、眼をつむった。瞼の裏の暗いスクリーンの中に慧理子の病室での出来事が今このときのようにありありとよみがえる。戸崎の眼は冷徹に前に向けられたままだ。

黒い幽霊が腕を振り抜いた。と同時に幽霊の身体の構成が根本から分解されたのかというように幽霊の節々が瞬時に崩壊し、研究員はそのあおりを食らったが傷ひとつ負うことはなかった。


研究員3「風?」


研究員が室内にも関わらず風が吹き付けてきた現象の原因を求めるように腰をまわして大きく振り返った。しばらくのあいだ部屋の中のあちこちに視線をやったが結局何が原因だったのかはわからない。もしかしたら気のせいだったのでは、と研究員は思い始めたとき、見学室からまたリセットの指示が来た。研究員は気を取り直し、永井の胸部に金属こてを真っ直ぐ突き落とした。
161 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/04/23(日) 20:52:16.95 ID:5HbT9nK2O
永井はふたたび意識を取り戻し眼は光を受容したが、視界は白一色に染まり何も見えなかった。眼に覆いをかけられているせいだった。瞼に触れる覆いが包帯であること、さらに全身に包帯がきつく巻かれていることを今度はあらかじめ知っていた。腕に力を入れてみたが、すこし震えただけで上がらない。全身が手術台の上で固定されていた。永井はもがくのやめこれから到来する苦痛に呼吸を荒くしていると、自分の喉から出てくる音がやはり声でなくなっていることに気がついた。喉はただの風穴になっていて、隙間風のような空気が漏れ出てくる音しか出さない。声帯が切り取られていたせいだった。


研究員1「よーし、後半戦いくぞー」


ふたたび研究員の声が上から降ってきた。


研究員3「上の命令はとにかく痛みを与えろだと」

研究員2「何の実験ですかね」

研究員1「さあな。おれらは従うだけだ」

研究員3「さてと……歯からいくぞ」


永井の喉から洩れる音は声とはいえないほど掠れてくもぐっていたが、それでも苦痛に苛まれている者が発する悲痛な音声であることは誰の耳にもあきらかだった。

実験室の使用を示す赤いランプはそれでもずっと灯り続け、掠れた空気の洩れる音も点灯と同じだけ鳴り続けていた。
162 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/04/23(日) 20:53:38.23 ID:5HbT9nK2O
十日後、雨がしつこく篠突いている中、今日も各報道局のレポーターがレインコートを羽織りカメラに向かって報道している。

この日はアメリカからオグラ・イクヤ博士が来日・視察のために研究所を訪れる日だった。生物物理学者であるオグラは九九年に渡米し、同地で亜人研究トップクラスの地位を得ていた。亜人研究は各国競争状態で、基本的に他国の亜人事情にはノータッチが原則なのだが、日米の一部の研究機関は協力関係を結んでおり、日本で新しい亜人が発見捕獲された場合オグラ博士が視察することになっている。

博士を乗せた車両が研究所のゲートを通り抜けるあいだ、レポーターたちはこれらの情報を説明していた。ゲート周辺は幾つもの光源が寄り集まり、ひとつの大きな光のドームを作っていた。そこでは雨筋が白い糸となり、垂直機織でもしているかのように上から下へと送られ続けている。ゲートのすぐ横には二メートル程の高さの植込みが光を遮る壁となっていて、黒い葉を雨で揺らしながら敷地の内と外を区切るフェンスを光から遠ざけていた。
163 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/04/23(日) 20:54:58.04 ID:5HbT9nK2O
雨滴はフェンスの網目に沿ってしとしとと植込みの向こうに広がる草の上に流れていて、それを目で確認するのは暗闇のせいでかなわない。唯一その様子を見て取ることができるのは敷地内を巡回する警備員がライトでフェンスを照らしたときだけだ。ライトは防水式LEDタイプのマグライトで直線的な黄色の光線を遠くまで延ばして草の上に落ちていた。光線の長さにつられるように、光が当たっている草の影も長く延びている。光線はフェンスの方向を照らしていたが、地面には網目模様の影はうつっていなかった。フェンスは四角く切り取られていて、そのすぐ横に首から顎、そして顔面にかけて深い裂傷を負った警備員が倒れていた。警備員の眼に雨が当たる。その眼は光を失ったまま、雨滴に無反応で瞼が壊れたガレージのように開いたままだった。


佐藤「絶好の反逆日和とはいかないなあ。雨の中じゃ黒い幽霊の操作はしにくくなる」


警備員の死体の横に田中の幽霊が立っていた。警備員の首を切り落とすはずだった黒い幽霊の右腕はすでに消滅していて、幽霊は片腕にもかかわらずなにか他に気になることでもあるかなようにブツブツ独り言を切れ目なく続けている。

佐藤はナイロン生地のボストンバッグを開けると中からこれから起こす出来事に必要なものをを取り出して、田中も佐藤といっしょにそれらの銃器を身につけていった。装備にまだ時間のかかる田中を佐藤はいつものように微笑みながら待っていた。
164 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/04/23(日) 20:57:06.02 ID:5HbT9nK2O
佐藤「田中君は作戦C、オグラ博士の誘拐担当! 私は作戦B、永井君の救出担当だ!」


オートマチックの拳銃を腿のホルスターとコンバットベストに収め、動作確認をしたショットガンを手に持った田中に向かって佐藤は言った。二人はズボンの裾を撫でる草むらから水たまりが光るアスファルトへと歩いていった。佐藤は躊躇いのない歩みで水たまりを平然と踏みしめたので、水跳ねの音が強い雨音の中でも耳に届いた。降りしきる雨はふたりのコンバットベストに染み込み、身体に引き寄せ持った銃器を黒く輝かせた。


佐藤「さて、どうすれば城を落とせるか」


二人が分岐するポイントまで到達したとき、出し抜けに佐藤が口を開いた。田中が視線をやると、佐藤は内部を透視するかのように研究所に視線を固定している。帽子の庇からは雨が粒となって尾を引きながら垂れ落ち、後ろでは吸い取りきれなかった雨粒から首を伝って佐藤のシャツの襟の中へ流れていた。
165 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/04/23(日) 20:59:35.23 ID:5HbT9nK2O
佐藤「単純! 敵の想定する火力を上回ればいいんだよ。いま私たちが持てる最大火力で、圧し潰す」


田中は自分達の重装備を見ながら、武器を調達したとき佐藤が言ったことを思い出していた。田中はトランクに積み込まれた銃器の量に、こんなリスクを冒してまでして永井圭を助ける価値があるんすか、と佐藤に尋ねた。永井圭を人間側に差し出したのは、佐藤が仕組んだことだった。人間への憎悪を育み、殺人へのハードルを下げさせたうえで恩を売り仲間にする。少なくとも田中はそのような目論見だと考えていた。佐藤はトランクを閉めながら田中の疑問に、ないよ、とあっさりした調子で答えた。

最優先事項じゃあないんだよ、永井君の救出は。そのように言う佐藤に、田中は、やっぱりこの人はよく分からない、と正直な気持ちを起こした。


佐藤「小細工などいらない」


そう言う佐藤の声はあのときよりいくらか楽しそうだった。それについては田中も同様で、銃器の冷たい感触に密かに興奮していた。二人は別れ、田中はオグラ博士がいる地下の駐車場へ向かって歩いていった。佐藤も自分が担当する侵攻箇所まで歩き始めた。ストラップの付いたM4のグリップが右手で押さえられ、下を向いている。ストラップは左手にも握られていて、掌の中で折りたたまれ握られているそのストラップも火器に付けられたものだった。歩くたびに前後に揺れるその火器は、太い筒の形をした対戦車用の携帯火器だった。
166 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/04/23(日) 21:00:34.64 ID:5HbT9nK2O
研究所内を警備する警備員の数は永井が移送された日から通常の倍に増員されていて、警備室の監視モニターにはいたるところに配置され、警戒を強めている警備員が映っている。永井圭が亜人と発覚してから、研究施設と契約している警備会社は社員に麻酔銃の訓練を受けさせた。

麻酔銃の使用には銃砲所持許可が必要で、麻酔薬として麻薬に指定されているケタミンも使用するので麻薬取扱者の許可も同時に必要になってくる。現在の日本の法律では、麻酔銃を取り扱えるのは獣医師くらいしかいないのだが、亜人管理委員会を擁する厚生労働省はこの違法を黙認していた。

警備室の近くにはガラス張りの喫煙室が設けられていて、そこでは連日の出勤に疲労する四人の警備員が一時のリラックスを求めて煙草を吸っていた。四人の中でいちばん若い警備員は入ったばかりで、いきなりの特別出勤と違法行為にまだ折り合いがつけられないようだった。
167 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/04/23(日) 21:01:43.21 ID:5HbT9nK2O
警備室のモニター画面の一つがパッと明るくなった。研究所の東側の入口に設置されている人感センサーが反応し、ライトが灯ったためだった。そこには一人の男が黄色い色をした光の円の中心に立っていて、なにか筒状の物を肩に担いでいる姿が映っていた。警備室近く東入口の喫煙室でタバコを吸いながらたむろしていた四名の警備員は、雨の中にいる男の姿を正面から見た。男は帽子を被っていた。佐藤だった。

佐藤が肩に担いでいる無骨な筒はAT4と呼ばれるもので、直接の見覚えがなくても警備員たちはそれが携帯式の対戦車火器であることがわかった。発射音による空気の弾性波が津波のように轟き渡り、火器後方から塩水が噴き出すと成形炸薬弾が東入口で爆発した。火と金属片と衝撃波が警備員たちを襲った。黒い煙といっしょに吹き飛ばされたガラスが通路を満たし皮膚に突き刺さる、壁や床を這いまわる火が倒れて這いつくばって苦しんでいる警備員たちの背中や腹と床との隙間に流れ込み、オレンジ色をした火が流された赤い血と混じって強く発光した。火が彼らを苛む、皮膚と筋肉と血管を焼いて焦がす。
168 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/04/23(日) 21:03:20.57 ID:5HbT9nK2O
佐藤は無反動砲を濡れた地面に投げ捨てると、M4アサルトカービンを火の中へ向けてフルオートで撃ち始めた。銃声が警備員たちの絶叫を打ち消した。銃弾は熱せられた空気の中を飛び回った。残っていたガラスを割り、穿った壁に埋まって粉塵を飛ばし、天井のライトを吹き飛ばし、床を削り取って火の中に飛び込み、警備員の身体を貫通し、爆発で穴が空いた壁の向こうの警備室まで到達した。銃弾は様々な物体とぶつかり、物体の素材ごとに異なるあらゆる音が警備室周辺の空間に乱れ鳴っていた。

佐藤は銃弾をばら撒きながら前進した。狙いはつけず、通路の左の壁から右の壁まで線をなぞるようにして銃口を動かした。帽子に当たる水滴が、空から落ちてくるものから天井に備え付けてあるスプリンクラーによって散水されたものに変わった。ガラス片を踏むぎしゃりという音がした。爆風で吹き飛んだ警備員たちに銃弾は容赦無く降り注いいだ。四人の警備員のうち二名はもう事切れていて、身体に空いた穴の数が増えていってもまったく気にしてなかった。水に浸された床にタバコが数本浮いていて、そのすぐ側に皮膚の焦げた死にかけた警備員が蹲って身をよじらせていた。佐藤は歩きながらその男の頭に弾を撃ち込んだ。水と煙と火の中を抜けると、通路の奥で片腕が千切れた警備員が炸薬弾からも銃弾による大数の法則からも奇跡的に生き延びて壁に寄りかかって懸命に息を吸っていたので、佐藤はいちばん若いその男の胸部と頭部に二発一発と銃弾を叩き込んだ。廊下を左に折れて警備室に入っていく。部屋の中は廊下の状況ほど酷くなく、煙と熱が苦しいくらいで、熱気のほうはスプリンクラーが冷まそうとしていた。軽傷の警備員がモニターの向こうに話しかけている。佐藤はその男の頭部に照準を合わせた。銃を持ち上げたときの気配と音でその警備員は自分に狙いをつける佐藤を見ることになった。佐藤は眉間を撃ち抜かれた死体を跨いでモニターに顔を寄せると、画面の向こうにいる戸崎に向かって、やあ、と話しかけた。


佐藤「そこにいるのかな? トザキ君」

169 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/04/23(日) 21:04:33.76 ID:5HbT9nK2O
佐藤はさの音節を濁らせ、冗談でも言うみたいにわざと読みを間違えた。


佐藤「私がなぜここに来たかまだわかるまい。だが、今夜日本の亜人事情は大きく覆る」


佐藤の眼が薄く開いた。降り注ぐ水滴が白い条を何本も描くなか、佐藤の眼が刺すような光を放った。


佐藤「そう宣言させてもらうよ」


モニターが黒くなった。沈黙する画面を苦々しく見つめる戸崎に、コウマ陸佐が詰め寄った。
170 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/04/23(日) 21:05:39.59 ID:5HbT9nK2O
コウマ陸佐「戸崎、どう対応する! 永井圭は初日以降、別種の力を見せず究明はまったく進んでいなんだぞ!?」

戸崎「警備を大幅に増やしてます」


戸崎の表情は締め付けられたかのように動かなかった。


戸崎「麻酔銃が一発当たりさえすれば……何十人犠牲になろうと、眠らせさえすれば、我々の勝ちです」
171 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/04/23(日) 21:06:26.57 ID:5HbT9nK2O
コウマ陸佐「麻酔の有効性は認めるが、そこまでして殺害を回避したい理由は何だ?」


コウマ陸佐は多少落ち着いて尋ねた。


戸崎「強化ガラスなどで守られているわけではないこの部屋では、我々にまで危険が及ぶ可能性……」


戸崎は陸佐に顔を向けた。うって変わって、その表情は苦渋に滲んでいた。


戸崎「亜人の殺害は『中村慎也事件』……つまり最悪の事態の引き金になりかねないと考えられているからです!」
172 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/04/23(日) 21:07:21.02 ID:5HbT9nK2O
スプリンクラーはまだ水を撒き続けていた。研究所の三階、サンプルの保管室へと繋がる通路の前に、十五名の警備員がピストルタイプの麻酔銃を構えて侵入者を待ち構えていた。警備主任が、順番に撃てよ、過剰投与は結果的に殺害になりかねない、と荒っぽく声をあげる。主任は保管室の前、つまり最も後方にいた。前方にいる警備員たちの手が震えていた。さっきから、ぱん、ぱん、ぱん、と散発的に、ときには連続して発砲音が聞こえてきたからだ。その音はシャッターに阻まれてこもって聞こえたが、明らかに保管室に近づいていた。ごん、という金属を金属で思いっきり叩いたかのような音が響いた。前方の警備員たちの身体がびくっと跳ねて、一人が麻酔銃を手から落としそうになる。銃弾が分厚いシャッターに当たった音だった。それから少しの間、銃撃は止んで、スプリンクラーの散水音しか聞こえなくなった。片膝をついて麻酔銃を構える若い警備員が、必要以上に力を入れて麻酔銃を握り直す。防火シャッターは、一瞬震えたかと思うと、ゆっくりと左右に扉を開けてゆく。そこから見えるのは同僚たちの死体だ。皆、頭か胸を撃ち抜かれ、床に倒れている。床を浸す水は血の赤色を薄めて、警備員たちのいる通路に向けて洗い流そうとしている。シャッターすでに半分以上開いたが、侵入者の姿はまだ見えない。先頭にいる警備員は彼から見て右側のシャッターのすぐの横の床に近いところに、小さな黒い穴がぽつんとあるのに気がついた。その警備員は眉間を撃ち抜かれ、死んだ。


佐藤「いくよー」
173 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/04/23(日) 21:08:40.30 ID:5HbT9nK2O
佐藤はシャッターから身体を出し、バキン、 バキン、と空間が限られた場所なのにセミオートで一発ずつ発砲しながら通路を進んだ。佐藤は銃弾ひとつで警備員一人をきちんと殺す。発射された麻酔ダートを躱し、また引き金を引くと六人目が死んだ。

ハンドガードを持つ佐藤の左腕に麻酔ダートが突き刺さった。麻酔銃を撃った若い警備員が思わず、よし、と言ったとき、佐藤は腰からブッシュナイフを引き抜いて、左腕を切り落としてしまっていた。佐藤は素早い動作でブッシュナイフを拳銃に持ち替えると、切断面を晒している左腕を拳銃を持つ手の支えにして、その警備員の顔に三発叩き込む。警備主任も死んでしまった。佐藤と対峙することになった二人の警備員はパニックになり、当てずっぽうで麻酔銃を撃った。麻酔ダートは佐藤の右半身、脇の下と胸に刺さった。佐藤はまだ熱い銃口を首の下に押し当てた。皮膚が火傷を負った。

脳天から血が飛び散り、帽子が吹っ飛ぶ。佐藤は死んで、だらんと仰け反り崩折れる。身体が床につくまでの僅かな間に、黒い粒子が集合し無くなった腕を再生した。残された警備員たちはほんの一瞬、驚いただけだった。床に背中がついた瞬間、佐藤は上半身を跳ね起こし、残りを一気に始末した。佐藤が引き金を引いているあいだ、かれらの身体は揺さぶられ続け、まるでダンスを踊っているみたいだった。噴き出す血煙がスプリンクラーから撒かれた水に反射し、ピンク色にてらてら光っていた。

ア レ
佐藤「黒い幽霊いらずだね」
174 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/04/23(日) 21:11:11.90 ID:5HbT9nK2O
すみません。

>>173 のルビが大きくズレてしまいました。「アレ」のルビは黒い幽霊の上ということでお願いします。
175 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/04/23(日) 21:12:07.71 ID:5HbT9nK2O
佐藤は濡れた帽子を拾い上げ、被り直しながら言った。帽子に穴は開いていなかった。


佐藤「さて、永井君。お迎えだよ」


佐藤は保管室に入っていった。その部屋は殺風景で、遺体安置室そのものだった。佐藤は「003」と通し番号がふってある埋め込み式の金属製の寝台を引き出した。

永井は死体のように静まりかえって横たわっていたいたが、上下する胸の動きや微かな呼吸の音が確認できる。腕の静脈から注入されている麻酔のせいで眠っているだけだった。佐藤はブッシュナイフの柄を両手で持つと、刃先が永井に対して垂直になるように構えた。


佐藤「君はどう仕上がるかな?」


佐藤がナイフを突き下ろした。刃物は深々と突き刺さり、やわらかい喉元を貫通した。ナイフを前後に動かし傷口を切り開いてからずるりと刃を引き抜くと、血が噴き出すかわりに黒い粒子が放出され、再生が始まった。佐藤は永井の生き返りが完了するまえに顔に巻かれた包帯を剥ぎ取った。包帯を床に捨てると、ちょうど永井が眼を開けたところだった。

永井はゆっくりと身体を起こした。
176 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/04/23(日) 21:14:13.24 ID:5HbT9nK2O
佐藤「永井君わかるかい? 助けに来たんだ」

永井「どれくらい……僕はここに……」


永井はなかばぼうっとした意識で佐藤に尋ねた。


佐藤「そうだな、十日以上はいたのかな?」


頭の中で佐藤の答えが反響しているのか、永井は茫漠とした表情をしていた。


永井「それしか経ってないのか……」


永井の眼に涙が滲んだ。永井は瞳から滴が零れそうになるのをぐっとこらえ、佐藤に顔を向けて、佐藤さん、と呼びからけてから大変申し訳無さそうに言葉を続けた。


永井「お手数おかけしてすみません」

佐藤 (この仕上がりは……失敗だな)


佐藤はつまらなそうな無表情で永井の言葉を聞いていた。佐藤の手にはまだブッシュナイフの柄が握られたままだった。
177 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/04/23(日) 21:15:43.80 ID:5HbT9nK2O
フード付きの青いレインコートを頭からすっぽり被ったその人物が報道陣から離れた西側の林の中を慎重に歩いていると、草の上に引かれた黄色い真っ直ぐな光線が爪先にかかり、反射的に脚を引っ込めるのと同時に研究所の反対側から爆発音がした。

レインコートの人物は十日前から可能な限り研究所を訪れていた。はじめはうっかりして研究所を眺めるために周辺を徘徊してしまい、応援に駆けつけた報道局の人間か警備員に見つかってしまうこともあった。その場からすぐ離れれば問題は起きなかったが、自身の不用意さにひどく恥ずかしくなった。

次の日からはもっと思いきった行動を選択した。研究所の中に黒い幽霊を忍び込ませたのだ。黒い幽霊は人間には見えないし、撮影機器にも映らない悪さをするにはうってつけの存在だった。とはいえ、そのうってつけのためにその人物は後ろめたさに悩んだ。父親との約束を破り自ら一線を踏み越えてしまったことへの罪悪感から、黒い幽霊の操作に躊躇いが生じ、研究所の一階部分を見て回るのにも数日かかった。一階の捜索では、美波の弟を見つけることはできなかった。
178 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/04/23(日) 21:16:46.95 ID:5HbT9nK2O
五日目になって、二階の探索にかかろうとしたとき、通路の奥に若い女性の後ろ姿を幽霊を通して見た。研究所の中で唯一の女性だったので、わずかにスーツを着たその女性の背中に意識が向いた。ミディアムの外ハネの黒髪が揺れたかと思うと、下村は首の後ろを指で触れられたかのようにばっと振り向き、それとまったく同じタイミングで幽霊の派遣者は幽霊の身体を壁に隠した。理由の分からない焦燥に急き立てられ、黒い幽霊をもっと見つかりにくいところに隠さなければならないという思いが全身に広がった。

黒い幽霊をとっさに跳躍させると、幽霊は通路の角の壁に静かに着地した。音を出さないように素早く動かしながら、階段まで戻る。階段に足を置かず手摺を掴んでぶら下がると、直線に一度折れ曲がった階段の隙間に身体を通しまた音もなく着地する。顔を上げると、ファイルが詰まったダンボールを抱えた研究所のスタッフと眼があった。スタッフは脚を上げ腿でダンボールを支えながら右側にある資料室のドアを開けると部屋の中に入っていった。
179 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/04/23(日) 21:21:21.34 ID:5HbT9nK2O
膝を曲げたままの姿勢で固まっている黒い幽霊の頭部が崩壊を示しはじめた。拡散する黒い粒子が空気の中へ消えていく。消滅までやり過ごそうとまだ閉まりきっていないドアを抜けまっすぐ突き当たりまで進み、三列に並ぶスチールラックの上に、ラックが揺れないよう慎重に幽霊を乗せた。ラックの上からスタッフが背に貼られた通し番号順にファイルを整理している様子が見えた。

閉まっていたはずのドアが風に揺れるカーテンのように静かに開いた。三角形の頭部を持った黒い幽霊が部屋の中に入ってきた。下村の幽霊は浮き上がったように身体を持ち上げ、資料室を見渡そうとした。派遣者はラックの上にいた幽霊の身体を回転させ、床に落とした。着地音を吸収するように両手両足が床に張り着いたまま、幽霊は動かなくなった。着地の瞬間には、頭部がもう完全に消滅していたからだ。

下村の幽霊はラックから下りると、今度は部屋のなかを歩き出した。首を動かし、ラックの間に頂角を向ける。幽霊とのリンクが途切れた派遣者はただ祈ることしかできなかった。下村の幽霊が頭部の無い幽霊がいる奥のラックの方へ進むと、ファイル整理を終えたスタッフと対面し、一歩後退ることになった。スタッフはそのまま真っ直ぐ幽霊の方に歩いてきた。下村はさらに後退し幽霊の背中をラックにつけてやり過ごすと、スタッフが出て行ってから資料室の捜索を再開した。何かの存在の痕跡は、跡形もなく消えていた。
180 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/04/23(日) 21:24:19.36 ID:5HbT9nK2O
それから五日間、黒い幽霊が研究所内を歩くことは無かった。

二度目の失敗は一度目のときより遥かにこたえたが、しばらくすると希望的な観測が派遣者の中に生まれていた。あの亜人の女の人が美波と話をした政府の人といっしょにいるのなら、美波の弟だって外に出られるのかもしれない。いまはまだきっといろいろな検査をしているときだから、すぐではないにしてもその可能性がある以上、それを確認して見届けなければ。でも、黒い幽霊も送り込めないのにどうやって?

レインコートが雨を弾く音を聞きながら、その人物は光線が放たれてる場所を見ていた。ライトは地面に直線に走ったまま動かない。その光は目印のように固定され、誰かを導くのを待っているかのようだった。光線と爆発音がレインコートの人物の頭の中で明滅と反響を続けていた。

レインコートの人物は右側から回り込むように光線の根元へ近づいていった。フェンスに身体を付けながら腰を落として草を踏みながら進んでいくと、ライトがフェンスが四角く切り取られている部分を照らしていることに気がついた。レインコートの人物は唾を飲み込み、フェンスの穴を一気に通過しようと決めた。
181 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/04/23(日) 21:28:00.70 ID:5HbT9nK2O
切断されたフェンスをくぐり抜けたとき、地面にうつ伏せている警備員の眼を見た。警備員の眼は虚ろで死体の眼をしていた。顎から眼の下のあたりまで深い傷が刻まれていて、それが致命傷なのだとすぐに理解できた。恐怖がレインコートの人物を刺し貫いた。冷たい恐ろしさが骨格の代わりになってしまったかのようにその場から動けなくなり、喉が閉まり呼吸するのも苦しくつらい。剥き出しになった死を目の当たりにするのは、これが初めてだった。

ふたたび研究所内からさっきの爆発音と同種の音が響いてきた。その音が鳴り続けているあいだ、誰があの建物の中で死んでいる。レインコートの人物は苦しみながらなんとか口を開け、必死になって息を吐き出した。渇きを癒すために水を喉に流し込むかのように空気を大量に吸い込むと、息を止め一気に駆け出す。燻りと灰と焦げ臭さが残る東入口に彼女がたどり着いたとき、銃声はすでに止み、冷たくなった静寂が研究所をすでに満たしはじめていた。
182 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/04/23(日) 21:30:09.14 ID:5HbT9nK2O
今日はここまで。やっと『シンデレラガールズ』側の亜人を登場させることができました。

それと、亜人実写版の慧理子役の人、浜辺美波さんという方なんですね。アニメ版の慧理子と美波の中の人が同じなのはそんなに珍しくもないんですが、今回の偶然の一致にはさすがに声が出ました。
183 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/05/16(火) 20:08:42.60 ID:AMJLL1TVO

緑色の照明に照らされた駐車場にショットガンで撃たれた四人の死体が転がっている。ダブルオーバックの鹿撃ち弾に撃たれ頭部か胸部が大きく欠けた死体は、警備員とオグラ・イクヤの護衛で、護衛のふたりはアメリカ人だった。


田中「銃ってなあ……結構疲れんだなあ……」


ひと息ついた田中は、とりあえず佐藤のアドバイス通りにできたことに安心した。


佐藤「きみはまるでミシシッピだねえ」


田中が銃の訓練をはじめたとき、銃弾が飛んでいった場所を見ながら佐藤がいった。銃弾は的から右に二メートルほど逸れ、細長い濃い緑色の葉を茂らせた夾竹桃の木の枝をひとつ吹き飛ばすと、背後にあるノウゼンカズラの茂みの中へ消えていった。弾倉が空になるとあざやかなピンクや白やオレンジ色の花びらたちが、木陰がかかった黒い地面を彩っていた。


田中「生まれは川沿いの病院っすけど」


田中は拳銃を握った両手を下げ、銃弾のそれ具合に気まずくなりながらいった。


佐藤「ますますミシシッピだね」


その名称が州や川のものではなく、映画の登場人物のあだ名であることはあとから知った。佐藤は田中に、まずはショットガンの練習からはじめようにアドバイスした。


佐藤「大丈夫。ジェームズ・カーンものちにウィーバースタンスを身につけるから」


どうやらそれは励ましの言葉であるみたいだった。肩にあたる銃床は硬く重かった。
184 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/05/16(火) 20:09:51.51 ID:AMJLL1TVO

田中は息を落ち着かせ、はじめてのときのようにショットガンのフォアグリップをスライドさせ、空薬莢を排出し、薬室に次弾を装填した。弾薬を使い過ぎた気がしつつも、田中はオグラ・イクヤを乗せた黒いワゴンの側面に近づいていった。


田中「出て来い」


田中はショットガンを構え、車のドアを開けた。車内は無人だった。


田中「あら?」


田中は振り返り、駐車場を見渡した。四角いコンクリートの柱が立ち並ぶほか、四つの死体が転がっている。緑色の光の中、生きているのは田中ひとりだけだった。


田中 (失敗……)


田中は首を押さえながら頭をさげた。おおきくため息をつくと、ショットガンを手持ち無沙汰にしながら、やることがなくなってしまった時間をどうするか頭を悩ませた。


ーー
ーー
ーー

185 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/05/16(火) 20:11:28.30 ID:AMJLL1TVO

コウマ陸佐「不死身とか……それ以前の話だ。この亜人は何者だ!」


佐藤が警備員を突破し、永井圭が保管されている部屋に悠々と入っていく様子をモニターで見ていたコウマ陸佐は、苦渋に表情を歪めながら叫ばずにはいられなかった。


研究者1「なぜ別種の力を使わなかった?」

研究者2「そう見えなかっただけじゃないのか?」


「見えなかったもなにも、アレははなから見ることができない」


その声は水を踏むぴちゃんという音とともに、ドアのほうから聞こえてきた。


「まったく、なんでこんなに騒がしい」


部屋の入り口近くに立っているその男は口にタバコを咥えていた。中年で短いボサボサの髪、ジャケットの下は安っぽいTシャツ、ジーンズは色落ちしていた。男の背後には、金髪を短く刈り上げたアングロ・サクソン系のボディガードがいてサングラスをかけている。


オグラ「このオグラ・イクヤ様が来日したってのに」

186 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/05/16(火) 20:13:48.93 ID:AMJLL1TVO

戸崎「すみません……緊急事態でして」


戸崎はタイミングの悪さに悪態をつきたい気分だった。


コウマ陸佐「待て博士、さっきはなから見れないとか言ってたた。どういうことだ?」

オグラ「んんっ? あぁ?」


オグラはタバコの煙を肺いっぱいに吸い、受動喫煙を推奨するかのように、部屋中に行き渡るようタバコの害を撒き散らすと逆に聞き返した。


オグラ「きみたちはIBMの話をしてたんじゃないのか?」

岸「アイ・ビー・エム?」

研究者2「別種の力のことを合衆国の研究者はそう呼ぶんだ」

オグラ「IBMは人の目に見えないくせに人の形をしているクールな奴なんだ」

研究者1「またバカなことを……」


研究者たちは久しぶりに聞かされるオグラの突拍子の無い物言いにあきれ返った。


コウマ陸佐「じゃあ別種の力とは……霊的な何かだというのか!?」

オグラ「陸佐……“バカ”かね? 君は」


両手の人差し指と中指を二回チョンチョンと動かし、ダブルクォーテーションを意味するジェスチャーをしながらオグラはいった。


オグラ「IBMは物質だよ」


ーー
ーー
ーー

187 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/05/16(火) 20:16:37.80 ID:AMJLL1TVO

赤く濡れた通路に二十体以上の死体が倒れていた。仰向けの死体に、うつ伏せて四肢を投げ出している死体、普段なら曲げないであろう限界まで関節が曲がり奇妙なオブジェのように壁に寄りかかっている死体、張りつめて伸びた脚のあいだに背中を丸め頭を垂れ、額を床にぴったりつけている死体など、さまざまな姿勢の死体が廊下の前後どちらにも続いていて、冷たくなった身体の下にあるぬめった血溜まりの周縁部は水に溶け、形状をあいまいにしていた。

血溜まりは天井の灯りを反射して白く輝いていたり、反対に光を吸い込んでいるように黒く見えるものもあり、赤、黒、白の色彩はそれぞれコントラストを作っていて、それ以外の光がちらちらと散っているところは小川のようだった。二人が歩くと踏まれた箇所に波紋が広がり、濡れた通路の床はほんとうにせせらいでいるように見えた。

佐藤は銃を水平に構えたまま移動し、開いたドアがみると部屋の中を確認した。無人であることを見てとると、銃口を斜め下に下げて通路を眺める永井の背中に向かって声をかけた。


佐藤「気になるかい?」

永井「え? 別に」


永井はさしたる動揺もあらわさず、振り返って佐藤に答えた。

188 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/05/16(火) 20:17:56.02 ID:AMJLL1TVO

189 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/05/16(火) 20:19:27.21 ID:AMJLL1TVO
>>188は投稿ミスです


永井「ココを守るのがこの人達の仕事でしょうし、もう死んじゃってますしね」


永井はあらためて通路を見やった。その視線はただの小川を眺めるときのように思考や感情のはたらきのない視線だった。


永井「そんなことより、こんなところ絶対脱出したいので、よろしくお願いします」


そう言う永井はあからさまに態度を変え、生体実験に恐れをなしているといった表情をしながら佐藤に頼んだ。


佐藤「じゃあ急ごう」


永井を先導するかたちで研究所内を、パシャパシャと水音を鳴らして進みながら、佐藤は神社で交わしたやり取りのことを考えていた。


佐藤 (初めて話したときに感じた違和感を思い出した。妹の心配をしているが、どこか嘘くさい感じ……亜人になったからとかじゃない。もっと根本的にこの子はおかしい。この仕上がりは失敗と言ったが、もう少し様子を……)


通路の左側から、がたんと物音がした。そこには備品室のドアがあり、物音はそこから聞こえてきた。佐藤は左手を拳を作った状態で上げ、後方の永井に向かって停止のサインを送った。
190 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/05/16(火) 20:22:01.58 ID:AMJLL1TVO

永井「待ち伏せ?」

佐藤「確認する必要があるね」


佐藤がドアを開ける。備品室の中には三人の研究員がいて、手術用ガウンを着たまま、怯えた様子で両手を挙げ、降伏のポーズを示していた。


研究員3「撃つな……われわれ三人は警備員じゃない……」


マスクをした研究員の声は震え、くもぐって聞こえた。永井は研究員たちの怯える様子に安心し、ほっと息を吐き、佐藤に話しかけた。


永井「先を急ぎ……」


佐藤は引き金を引いた。銃弾は佐藤から見て左側にいた研究員の頭部を貫通した。隣にいたマスクの研究員が発砲音がした瞬間、身体を震わせ、身を伏せるように瞼を閉じた。


永井「あ」

191 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/05/16(火) 20:23:32.70 ID:AMJLL1TVO

永井は首を動かさず、横たわる死体と声も上げられないほど恐怖している二人の研究員を横目でちらと一瞥してから、佐藤にたずねた。


永井「殺すんですか?」

佐藤「万全を期す」


マスクの研究員はもう目を開けていた。顔からは玉のような汗が流れ出していた。佐藤はホロサイト越しにこちらを見ていて、さっき同僚が撃ち抜かれたのと同じところが狙われていると感じた。眉間のあたりがやたらと熱い気がする。研究員の視線が、自分を眺めている永井のと交わった。同情も困惑もない、透明なものを見ているような眼をしていた。

研究員はそこですべてを諦めた。仕方の無いことなんだ、と彼は自分に言い聞かせた。おれが上の命令に従ったのも仕方の無いことなんだし、その結果、おれが殺されるのも仕方の無いことなんだ。研究員は自分が殺されることを受け入れるというよりは、自分が殺されることを永井が認めているということを受け入れる、とでもいうようにそっと瞼を閉じた。永井はその様子をじっと見つめていた。
192 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/05/16(火) 20:25:10.94 ID:AMJLL1TVO

引き金にかかる佐藤の指に力が入る。引き金が引き絞られてから銃弾が発射されるまでの時間は瞬間的で、僅かな秒数でしかない。その一秒にも満たないあいだに、永井は反射的に動いていた。銃身を掴み、ありったけの力で下のほうに抑え込む。銃弾は薬莢よりはやく落ち、床に弾痕を残した。


佐藤「永井君?」


佐藤は銃身を持ち上げようとしたが、永井がさらに力を入れて抑え続けているので、カービン銃はわずかに上下に揺れる程度の動きしかみせなかった。綱引きのような引っ張り合いをしながら、永井が恐る恐るといった調子で言った。


永井「いえ、あの、助けていただいてる身分で大変言いにくいんですが、無抵抗ですし、殺さなくてもいいんじゃあ……」

佐藤「麻酔銃を隠してるかも」

永井「あ! 目を潰すとか、腕を折るとかはどうです?」


永井は、まるで停滞している会議を進展させる良いアイデアを思いついたかのように、声の調子を弾ませながら言った。

193 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/05/16(火) 20:27:36.90 ID:AMJLL1TVO


佐藤 (永井君、やはり君は……)


佐藤の手がカービン銃から離れた。左手でストラップを外すと、脚を踏ん張り、重心を後ろにして銃身を押さえつけていた永井は、後方へと倒れていった。ストラップを外した佐藤の右手は瞬時にレッグホルスターに伸び、そこに収められていた拳銃を引き抜いていた。


佐藤 (失敗だったよ)


拳銃を握った右手が上げられ、ふたたびマスクの研究員に銃口が向けられる。佐藤に照準を合わせるつもりはなく、拳銃が研究員の頭部のあたりまで持ち上がれば、適当に引き金を引いて銃弾を数発浴びせようとしていた。

永井の眼は、佐藤の右腕が上げられていく運動の軌跡を分割して捉えていて、一つ一つの固定された画像は、映画のように画面が次々に移り変わることによって現実の運動を再現しているというふうに映った。

腕の上昇と身体の落下が、それぞれの結果に行き着く前に、部屋の中に銃声が轟き渡った。
194 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/05/16(火) 20:29:41.17 ID:AMJLL1TVO

銃撃の音は研究員の鼓膜だけでなく、その皮膚にまで雪崩のように押し寄せてきて、激しい震えを与えた。肌を打ち続ける轟音に、マスクの研究員は、自分が撃たれてしまったのかと思った。瞼の裏が熱く、血潮が脈打っているのがうるさかった。

鼓動と脈拍の喚きがいつまでも止まないことに気づいた研究員は、恐る恐る、眼を開けてみた。細い白煙の一筋が眼にはいった。煙は、M4カービンの銃口から昇っていた。永井は尻もちをついた状態で、ドアに背をつけている佐藤に銃を向けており、永井の周囲にはたくさんの空薬莢がまだ熱を持ったまま転がっていた。

備品室の入口周辺のドアと壁が銃弾に穿たれていて、その中心に背をつけて立っている佐藤の身体にも、ドアや壁と同様に多くの弾痕が刻まれていた。佐藤はちいさく咳き込むように血を吐いて、ぼそぼそ言った。


佐藤「私を……撃ったな……」


佐藤の声は血で濁っていた。血に浸されたコンバットベストに空いた穴はくっきりと黒かった。ベストの上から腹部の銃創を手で押さえる様子は、手のひらに血を染み込ませて、皮膚の色を赤色に染めあげようとしているように見えた。
195 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/05/16(火) 20:31:53.00 ID:AMJLL1TVO

永井「ごめんなさい、とっさに」

佐藤「永井」


自分自身の行動に戸惑いを隠せない様子の永井が、手のひらをみせて謝罪ともごまかしともつかない言葉を口にしたとき、死にかけている人間が発するものとは思えないほど、輪郭のはっきりした殺意が佐藤の口から放たれた。


佐藤「君も、ブチ殺してやる」


佐藤は笑顔だった。血塗れの口が開き、僅かに残った歯の白い部分が灯りを照り返し、凶暴そうに光っている。狼が獲物の咽喉部を喰いちぎるときはきっと、このように牙を見せるのだろうと思わせる佐藤の笑顔は、永井にまっすぐ向けられていた。


永井 (ああ……いまさら気づいた)


背中がズルズルとドアを滑り落ち、脚が力なく床に伸びる様子を見ながら、永井はようやく佐藤の一端を理解した。


永井 (この人、『静かに暮らすのがモットー』なんて、ウソだ)


佐藤の頭ががくんと落ちた。帽子の上部がかすかに揺れるのが見えたが、すぐに動かなくなり、息が止まったかのように部屋のなかは、しんと静かになった。


永井 (ていうかそんなことより……脱出が、困難に……)


佐藤が事切れる瞬間を目撃した永井は、みずからの行動が現在進行で状況を悪くしていることにいやな汗をかかずにいられなかった。

196 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/05/16(火) 20:33:47.75 ID:AMJLL1TVO

研究員2「なあ、麻酔銃ないか!? いまのうち! 二発!」

研究員3「え?」


マスクの研究員が同僚の言葉に十分に反応できないでいると、佐藤の身体から黒い粒子が噴き上がり始めた。黒い粒子は、赤く歪な銃創を覆い隠したかと思うと、損傷箇所を修復し傷口を閉じていった。修復が完了すると、佐藤は瞼を開けた。


佐藤「どこに隠れた?」


佐藤は立ち上がり、備品室に並べられているメタルラックの列を見渡した。一列につき六台のラックが並べられていて、永井たち三人は、三列あるうちの中央、いちばん奥に配置されている六台目と五台目のラックのあいだに身を隠していた。


永井 (武器もない。ルートもわからない。どうやって脱出するか……)


永井が荒い音が出ないようにゆっくり呼吸を整えながら考え込んでいると、隣にいる前髪を鶏冠のようにあげた研究員が愚痴をこぼすのがきこえた。


研究員2「まさか亜人と隠れることになるとはなあ」

研究員3「よせ、かばってくれたんだぞ」

研究員2「ふざけんな。そもそもコイツがアイツを呼び寄せたんだ」

永井「えーっ。脱出をふいにしたのに」

197 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/05/16(火) 20:35:36.36 ID:AMJLL1TVO

研究員2「おまえのせいで何人死んだと思ってんだ!」


声を押し殺しつつ、研究員は永井に責任を押し付けようとした。永井は通路にあった死体の数をざっと思い出しながら、「僕が殺したわけじゃないしなあ」とどうでもよさそうにつぶやいた。永井は小さな黒い眼で隣の研究員を見据えた。瞳の黒さには、どこか冷酷な感じを与えるものがあった。


永井「だいいち、アンタらが僕にしたことを忘れたわけじゃないからな」

研究員2「ぜってえ解剖台に戻してやる」

永井「いやだ。死んでも戻りたくない」


永井は立てた膝のうえに顎を置いて前を見ながら言った。永井は視線の先にある空間を見ているというより、さっき研究員が放った“解剖台”という語が連想させる仮定ーーふたたび仰向けの固定姿勢で痛みが与えられるという仮定ーーが、映像として空間に投影されているというような眼で、恐怖をじんわりと汗をかくように感じながらいった。


永井「そういうアンタらも死なずに外へ避難したいはず。目的は一緒。ギブアンドテイクだ。僕が囮になってアンタらココから出す、アンタらは安全に外まで行けるルートを僕に示す」

研究員3「いいのか? 囮なんて……」

永井「死なないですし」

研究員3「それはちが……」

研究員2「よせよ! やる気になってんだから!」


マスクの研究員が言いかけた内容をその同僚が遮ったことを永井が怪訝に思っていると、復活した佐藤が聞き取りやすい響きを持った声で永井に呼びかけてきた。


佐藤「永井君、聞いてるかな?」

198 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/05/16(火) 20:37:16.81 ID:AMJLL1TVO

佐藤は入口のドアの近くに立ったままで、首をめぐらし、どこかのラックの裏に隠れているであろう永井に向かって話しかけた。


佐藤「死なない安心感が、あらゆる判断を安易にさせているんだろう。私が殺すといったのは比喩ではない」

佐藤「亜人は死ぬんだ」


さっきマスクの研究員の言葉を遮った男がいまいましげに舌打ちをした。永井は佐藤がいった安易という語に対して言い訳でもするみたいに、漠然としたなにか、自分だけでなく、自分の周りに漂う、空気のように境界線を同定できないあいまいな対象が終わりを迎える瞬間について思いを馳せた。“宇宙の終わり”という言葉が、具体性を欠いた明滅的なイメージしか喚起しないのと同じように、“終わり”についての永井の実感もほとんど湧いてくることはなかった。

佐藤は部屋の奥にむかって足を踏み出し、話を先に続けた。


佐藤「死をどう定義するかにもよるが……亜人は『遠くに行き過ぎた身体に部位は回収されず新しく作られる。もしそれが頭だったら?』」


佐藤は歩きながら腰に差したブッシュナイフの柄を掴んだ。ナイフが引き抜かれていくとき、刃がナイロン製のシースと擦れた。擦過音は一秒にも満たず音自体も微かだったが、それは残響となり、部屋の奥に進む足音と亜人の死について説明する声に重なると、擦過音は通低音と化し、声の底にこびりついた。

199 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/05/16(火) 20:38:51.88 ID:AMJLL1TVO

佐藤「私はいまから、必ずきみを断頭する」

佐藤「そしてその頭を拾い上げ、すこし離れたところで、新しい頭が作られてしまうさまを、絶命するまで観察させる」

佐藤「さて、新しくできたきみの頭は、脳は、心は、今のきみなのか?……否だ。きみはこっち。ココでおしまい」


佐藤の声がだんだんと永井のほうに近づいてゆき、それとともに音節の明瞭さも増していった。永井の脳は声を聞きながら、佐藤の説明する死についてのイメージを自動装置のように描き出していった。切断され宙に浮く自分の頭部、髪を掴まれ頭皮が引っ張られる感覚、しばらく続く眼球の運動、首の無い死体、切断面から立ち昇る黒い粒子、死と再生、そして“終わり”。永遠に。“こっち”にいる永井は、宇宙に先んじて“終わり”を迎え、宇宙が終わるまで“終わり”続ける。切断、持続、接続、永遠、無縁、という語句が永井の頭に浮かんだ。

佐藤はさっき死ぬまえに見せた凶暴な笑みをふたたび顔に浮かべ、はっきりと明確な意志を感じさせる一歩をさらに踏み出し、締めの言葉で断頭宣言を終えた。


佐藤「私を殺したことを、死ぬほど後悔させてやる」

200 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/05/16(火) 20:44:39.00 ID:AMJLL1TVO

永井は急に息苦しくなった。実在感を獲得した恐怖の感情は窒息器のように作用し、永井の呼吸を阻害した。自分自身のいやおうのない消滅を避けられず、情け容赦の無い事象が存在の根を切断していこうとするのに、抵抗の努力はすべて敗北する。無力感が巨大で物質的なものに思え、精神でなく肉体までも破壊していくように感じる。佐藤の足音がさらに近づく音を聞くと、毛穴が開き、身体から水分といっしょに空気まで抜け出ていくような脱力に襲われた。


研究員3「永井圭、君」


マスクの研究員が永井にゆっくり呼びかけた。永井は研究員のほうを向いた。


研究員3「やめてかまわないよ」


研究員の同僚が驚いているのを尻目に、永井は首をもとの位置に戻した。それから歯を噛み締め、顎をあげながら静かに口を開いた。


永井「やめない」

永井「アンタを、外に出す。そうするべきだ……たぶん」

201 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/05/16(火) 20:46:17.22 ID:AMJLL1TVO

佐藤が三列目のラックのあいだを探し終えたとき、中央五列目と六列目のあいだから三本の指がのぞいているのを見つけた。佐藤はラックの側面に左手を添え、床に座っているであろう永井の首めがけてナイフの刃を振り下ろそうと、右腕をあげた。

ラックの陰に残っていたのは、切断された三本の指だけだった。


佐藤「え?」


ラックの上にいた永井が佐藤めがけて静かに落ちてきた。左手に金属こてを握りしめ、親指と人差し指が残された右の手のひらを握りにあてている。


永井 (狙いは首のうしろ。脊椎。うまくいけば殺さず、全神経を断てる)


ふたりの身体が重なり合った。ぶつかったときの衝撃が互いの身体ににぶく響きわたり、刃物はふたりを繋ぎとめるみたいに、一方の身体を貫いた。


ーー
ーー
ーー

202 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/05/16(火) 20:50:00.23 ID:AMJLL1TVO

オグラ「IBMは物質だよ」

コウマ陸佐「では、なぜ見えない」


オグラは唇をつきだし咥えているタバコを上向けながら、コウマ陸佐に向けて中指を立てた。


オグラ「これが見えるか?」


陸佐は露骨にいらだったが、オグラはそれを了解のサインとでもいうように話をつづけた。


オグラ「おべんきょうタイムだ。光源から放たれた光は物質に反射、それを目が受け取り、人はものを見ている」

オグラ「じゃあなぜ、ガラスは透明なのか」


そこまでいって、オグラは口に咥えていたタバコを指のあいだに挟んだ。


オグラ「それはガラスな光を透過する性質の物質で構成されているからだ。一般的なガラスの透過率は八〇〜九〇パーセント……」


オグラは結論の重要性を補強するように、タバコを持っている手で陸佐を指し示した。


オグラ「IBMは、全身が透過率一〇〇パーセントの未知の物質で構成されているんだよ」


ーー
ーー
ーー

203 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/05/16(火) 20:52:14.01 ID:AMJLL1TVO

ドアが開いた。そこから飛び出してきたのは、手術用ガウンを身につけた二人の研究員だった。先頭にたつ研究員は、一刻も早く佐藤から逃げるため振り向きもせず走った。後から出てきた方、手術帽とマスクをつけた研究員は黒のマジックインキのキャップを外した。


研究員2「何してんだ!」

研究員3「約束しただろ」

研究員2「逃走幇助とか……おれは責任とんねーぞ!」


同僚を無視して、マスクの研究員は左手に持ったマジックの先を壁に当てる。キュッというフェルトの擦れる音がして、研究員の走行に従って壁に黒い線が引かれていく。

備品室のなかにいる永井も、研究員たちと同じ方向に後ろ向きでよろめいて、壁に背をつけると膝がかくんと落ち、ずるっと太い赤線を引きながら、はやくも後悔していた。


永井「やめとけば……よかった……!」


脇腹にはブッシュナイフが貫通した傷があり、出血で意識がなくなるのを防ごうと左手と右肘そして壁をつかって三方向から圧力をかけていたが、新鮮で鮮やかな赤い血はゆっくりと壁に広がり、三つの隙間からたらたらと滴が垂れ落ちていっている。


永井「くそ、くそっ! なんでこんな目に……!」


佐藤が目の前に迫ってきた。あからさまにナイフを持つ腕を大きく振りかぶって、気持ちの良い断頭を目論む佐藤の態度は、その振りかぶりといつもの笑みが合わさったせいで、余裕たっぷりにみえた。

204 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/05/16(火) 20:53:55.61 ID:AMJLL1TVO

永井 (来る! 断頭される!!)


永井はとっさに左腕を上げた。


永井 (腕で防ぐ。腕には橈骨と尺骨、二本の骨がある。それで防げなかったとしても、勢いは弱まるし軌道もぶれる。断頭は回避できるかも)


ぎゅっと手を握り締め拳をつくったことで、前腕の筋肉が引き締まり強張った。それでも細い永井の腕ごと切断しようとする刃物の軌道は、佐藤の驚きによって停止した。


佐藤「……なんだ、これは?」


佐藤の視線は永井の頭のうえに行き、天井を見上げるように首を傾けていた。その動きにつられ永井は眼を上にあげた。すると、自分の身体から黒い粒子が業火が生み出すどす黒い煙のように立ち昇っているのに気がついた。この黒い粒子は今までにもたびたび、死ぬたびに見てきたものだった。粒子はまだ出血が続く傷口からも放出されていて、赤と黒という色の組み合わせは、それこそ火と煙の関係を連想させたが、血の赤色と火の赤色は比べてみるとまったくちがっていた。


佐藤「なんなんだ、その量は?」

永井「幻覚……?」

205 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/05/16(火) 20:56:12.17 ID:AMJLL1TVO

天井を覆い尽くす大量の粒子は、隅の方へ流れている。そこでは換気扇が作動中だった。


永井 (いや、換気扇に吸い込まれてる。煙? 粉?)


粒子は雲のようになっていた。黒過ぎるその雲から二本の腕が飛び出してくると、雲は異次元に通じる裂け目のようにみえた。腕は螺旋が巻くように形成され、浮遊的な気体の状態から人間のかたちにそっくりだが、有機体ではない肉体へと組織されていった。黒い幽霊は無意識のうちに発現していた。黒い幽霊は床に着地すると、顔の無い頭部をあげ、佐藤を見上げながらいった。


IBM(永井)『あな……たの、娘さん……殺されちゃうよ?』

佐藤 (これが永井君の……形状はプレーン)


黒い幽霊はしゃがんだまま、動きをみせず黙ったままだった。膠着状態ができあがったが、永井はそれにつきあおうとせず、佐藤の視線が黒い幽霊に注がれて固定されている隙に、幽霊の脇を通ってドアまで真っ直ぐダッシュした。佐藤の反射は速かった。永井が一歩目を踏み出したときにはもう身体が反応し、二歩目で腕を上げ、三歩目で首のうしろに狙いをつけていた。


永井「痛て!?」


黒い幽霊の腕のひと振りが、佐藤のナイフを持っている方の腕を切断した。幽霊の腕の勢いはそれでとまらず、横を駆け抜けていく永井の上腕を鋭くとがった爪がすぱっと裂いて、三本の切り傷をつくった。


IBM(永井)『腕を折る……とかは、どうです?』

佐藤 (なんだコイツは?)

206 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/05/16(火) 20:58:28.19 ID:AMJLL1TVO

黒い幽霊の振り上げた腕が今度は佐藤の左脚を切断した。ーー確かに黒い幽霊はーー 永井はドアから通路に出ていた。佐藤の身体は上下が反転していて、頭から床に落ちていったが、 ーー命令せずとも言葉を反復したり、ーー 床が佐藤の頭を帽子越しに打つまえに ーー少しうろついたりはするがーー 黒い幽霊の手が佐藤の腹を貫いた。ーーコイツはちょっと……ーー幽霊は佐藤を床に叩きつけると、腹部を貫いていた指がずるりと抜いた。

幽霊は足元の佐藤にもう関心を払わず、背骨を伸ばすと首を上げて天井を見上げた。

永井とまったく同じ音声をした幽霊は、上を向いたまま声帯ではなくなにかべつの構造をしたものを震わせて、叫び声をあげた。


IBM(永井)『あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛』

佐藤 (勝手すぎだよ)


腕と脚、腹部からの出血は止まらなかったが、佐藤の唇を広がり、歯が剥いて、死の床に横たわりながら笑顔になっていた。


佐藤 (……おもしろいかもね)

IBM(永井)『あ゛……あ゛……』


黒い幽霊は鎮まると、頭部から崩壊を始めた。


IBM(永井)『お手数おかけしました』


それだけ言い残すと、黒い幽霊はこの世から完全に消滅した。それからすぐ、佐藤が死亡した。黒い粒子の発生とともに、切り落とされた手足が切断面にすべるようにむかって行き、断面同士がくっつくと細胞まで元どおりになった。
207 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/05/16(火) 21:00:26.81 ID:AMJLL1TVO

一方、永井は壁に引かれた線をたどって、痛みのせいでときおり息を詰まらせながら、通路を走っていた。


永井「ざまーみろ……助かった……アレのおかげで」


同じころ、モニタールームにいるオグラは岸からの疑問、IBMを構成する未知の物質と亜人の不死の関係性について解説をしていた。


オグラ「人は、なぜミカンを食べるのか」


激痛が走るたびに永井は叫ぶように口を開け大きく息をはき、痛みを紛らわしながら前に進んだ。


永井「黒い幽霊……亜人はアレが出せるんだ」


オグラは目に見えないミカンを持つフリをしながら解説をつづける。


オグラ「人はビタミンCを自ら生成することができない。だから果物などから摂取する必要がある。栄養不足で死んだ亜人は、再生時それすら作り出すことができるんだ」


別々の場所にいる永井とオグラは、ほとんど声を合わせるように同じタイミングで、まるっきり正反対のことをいった。


永井「ていうか、不死身とカンケーないじゃん」

オグラ「未知の物質を作り出すことと無関係なはずがない」


永井がその部屋を通り過ぎたとき、それまで壁にまっすぐ引かれていた線はいちど途切れ、曲線を描いて下降していたが、永井は気づかず通路を先へ進んだ。しばらくあとで永井を追う佐藤がその部屋のまえで立ち止まり、部屋の中を透かして見ようとするようにドアを見つめた。佐藤は血の跡に視線を戻し、また歩き出した。


研究員2 (よし!!)


前髪をあげている研究員は足音が遠のいていくの聞きながら、自分だけは生還した、もう安全だ、とよろこんだ。
208 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/05/16(火) 21:03:01.39 ID:AMJLL1TVO

発砲音が二発つづいた。シリンダーとノブの下部が吹っ飛び、鍵が破壊されたドアが銃弾を受けた衝撃ですこし開いた。その隙間から射し込む光は暗闇にうすい切れ目を入れ、部屋の奥の方まで延びたが壁にとどかず、まるでこの空間が安全でなくなったかのように、途中で途切れてしまった。


研究員2「え!?」


ぎいぃぃと、ドアがか細く軋みをあげながらさらに開いた。拳銃を持つ手、黒い色をした、鋭くとがった爪を持つ六本指の手、佐藤が発現した黒い幽霊の手が部屋の中に入り込んできた。


研究員2「いいぃ……?なに……」

IBM(佐藤)『あ、見えるかい?』


ハンマーを元の位置に戻しながら、幽霊は研究員に頭を向けた。佐藤の幽霊は永井のと異なる頭部の形状をしていて、扁平な頭頂は先にゆくほど細くなり、そのかたちはハンチング帽か下顎から上が真っ二つに切断された爬虫類の頭部といった印象をあたえた。佐藤は通路を歩きながら幽霊を通して研究員に話しかけた。
209 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/05/16(火) 21:04:40.75 ID:AMJLL1TVO

佐藤「強い感情を向けられたとき、人間にもコレが見えることがある」


研究員と同じ部屋にいる幽霊が、佐藤が口にしたことをリアルタイムで再現する。


IBM(佐藤)『殺意、とかね』

研究員2「た、たす、たすけ」

IBM(佐藤)『すまない、無理だ』


研究員の命乞いを、幽霊は穏やかに遮った。


IBM(佐藤)『私はねえ……殺すのが結構好きなんだよ』


黒い幽霊の平べったい頭の先から、細長い蛇のような舌がするすると伸びてきた。舌があるということは口があり、口があるということは喉があり、喉があるということはなにかを飲み込むことができるということだ。飲み込むためには、口内のものを咀嚼するための歯が必要になり、黒い幽霊が蛇が獲物を丸呑みするときのように、顎の関節が人間よりはるかにおおきな可動を見せながら開口すると、口の中には、太く短い、獲物の肉によく食い込みしっかり噛み千切るための牙がきれいに並んでいた。


研究員2「う゛あ゛あ゛ぁ゛……ぁぁ゛……」


研究員の叫び声は通路まで、すこしのあいだ、響いた。それはほんとうにすこしのあいだで、その部屋のあたりはもうしんと静まり返っていたが、よく耳を澄ますと、ドアの隙間から、ぷちりぷちりという、弾性のあるやわらかいものがちぎれる音が、死者からのメッセージと誤解される機器の誤作動のような微かな信号みたいに、静寂のなかに溶け込もうと、しばらくのあいだ、鳴っていた。

ーー
ーー
ーー

210 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/05/16(火) 21:08:02.53 ID:AMJLL1TVO
いったん離脱します。30分後くらいに再開予定。
211 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/05/16(火) 21:37:46.66 ID:AMJLL1TVO

212 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/05/16(火) 21:40:18.70 ID:AMJLL1TVO

永井が屋上へつづく階段の手前までなんとかたどり着くと、階段の前に、星の光をシンボル化したような十字形の頭部を持った黒い幽霊が待っていた。

永井は足を止め、壁にもたれながら警戒するように身体を引くと、目の前にいる幽霊をみすえ、いった。


永井「田中か……!」


この黒い幽霊を発現したレインコートの人物が驚いたのは、幽霊越しに見る美波の弟が、血まみれで、深手を負い、息も絶え絶え、黒いちいさな眼は刺しこむ敵意を向けていたからだった。敵意が誤解であることはわかったが、それを解こうにも、幽霊の持ち主であるレインコートの人物は、永井が自分の幽霊をいったいだれのものと勘違いしているのか見当もつかず、どう対処していいのかわからなかった。

永井は星十字の幽霊を田中のものと思い込んでいて、自らも黒い幽霊で反撃しようと意識を強めた。
永井の肩から黒い粒子が放出され、空気のなかに昇った。次の瞬間、ホウセンカの果実が種子を播種するときのように、粒子が出た永井の上腕が赤く弾けた。


佐藤「あれ? 誰だろう?」


拳銃を両手で構えながら、佐藤は疑問を口にした。だが幽霊の正体にはそれほど気にとめず、腕の銃創を押さえてうずくまる永井に佐藤はふたたび銃口を向け、永井の背中に銃弾を叩き込もうと連続して発砲した。
213 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/05/16(火) 21:41:34.68 ID:AMJLL1TVO

永井が反射的に眼をつむっていると、星十字の幽霊が佐藤と永井のあいだに割り込み、銃弾をすべて受け止めていた。


IBM(???)『逃げて!』


少女の声をした幽霊に言われるまでもなく、永井はすでに階段を駆け上っていた。星十字の幽霊は佐藤に向き直ると、跳躍し、拳銃を奪い取ろうと突進した。佐藤は身体を半回転させ幽霊の突進をかわしたが、突き出した黒い手が拳銃を持つ佐藤の腕にかすり、血管が断たれた。腕をつたう赤い渓流をみて、レインコートの人物は動揺し、それは幽霊の態度にもあらわれた。距離をあける佐藤にたいして、星十字の幽霊は追撃もせず棒立ちで見送った。


佐藤「永井君のお友達かな」


佐藤は拳銃を持ち替えながら、いった。その言葉にハッとしたのか、星十字の幽霊は両腕をあげ、脇を締め戦闘の構えをとった。様になっているとは言いがたかったが、黒い幽霊が相手となると、佐藤といえども生身での対応は困難だった。


佐藤 (どうしようかな。幽霊はいちど出しちゃったし)


佐藤は血流が皮膚のうえを流れ落ちるのを感じながら、使用者不明の黒い幽霊への対処について考えを巡らせていた。幽霊は足を擦ってジリジリと距離を縮めつつあった。佐藤は突っ立ったまま。傷を負った方の手を、清流をすくうみたいに指を曲げ、血を手のひらに溜めている。
214 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/05/16(火) 21:43:28.93 ID:AMJLL1TVO

幽霊は一足跳びで佐藤を拘束できる位置まで距離を縮めていた。前に出した右脚に力を集中させ、バネのように弾き出そうと幽霊に意識を伝達するその瞬間、佐藤の左手が突然あがった。十字型の頭部の中心点めがけて銃弾が襲ってくる。幽霊は思わず右に動いた。脚に込められた力が右方向に解放され、壁に激突、ぶつかった箇所が思いっきり凹む。頭を壁から抜いて、衝撃で揺れる視界が修正されると、目前には佐藤がいる。佐藤は血の流れる腕を振り、手のひらに溜めた血を幽霊の顔めがけて投げかけた。

視界が赤一色になり、あわてて血を拭おうと幽霊は両手で顔を擦ろうとする。身体を曲げ、頭をさげる。佐藤は剥き出しになった幽霊の首に腕を巻きつけ、グッと腰を落とし、全身の筋力を利用して幽霊の身体を浮かせると、背中を仰け反らせ、幽霊を後方に投げ飛ばした。床に叩きつけられた星十字の幽霊は、いちどバウンドし宙に浮いた身体を捻ると、爪を床に突き入れ無理やり体勢を戻し、膝をついた。幽霊は顔をあげ、こんどこそ躊躇を捨てて拘束しようと佐藤を探した。
215 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/05/16(火) 21:45:24.76 ID:AMJLL1TVO

佐藤は通路の真ん中で拳銃の銃口を天井にむかって真っ直ぐあげていた。天井のスプリンクラーは未作動のものだった。佐藤は拳銃を発砲した。銃弾がスプリンクラーに衝突した。機械が作動し通路に降雨した。星十字の幽霊が膝をついたまま動かなくなった。佐藤が拳銃をレッグホルスターにおさめた。佐藤は動けない幽霊に向かっていった。


佐藤「動きはいいんだけどね」


レインコートの人物は佐藤の声を聞いた。その声には、多少の失望感が混じっているように聞こえた。


佐藤「人を殺せるようになったら、またおいで」


佐藤は星十字の幽霊に背を向けて、階段をのぼっていった。佐藤の姿が曲がり角に消えると、通路に座り込んでいる幽霊の頭部が崩れ始めた。レインコートの人物は、いまさっきの出来事が現実だと信じられない気持ちで混乱していた。佐藤が黒い幽霊に生身で対応したことも驚愕だったが、いちばんの衝撃は、佐藤がのこした最後の言葉だった。言葉が伝える内容ではなく、佐藤が語る言葉の響きが、帽子の男が殺人者だと、研究所の人びとを殺して殺して殺しまくってきた殺人者だと、レインコートの人物に確信させた。

階段をのぼる足音が散水の音に混じって反響して、星十字の幽霊まで届いた。レインコートの人物の聴覚はその反響を、理解が届かない存在が現実に存在する証拠として、認識の主体である彼女に冷酷に教え、提示していた。


ーー
ーー
ーー

216 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/05/16(火) 21:46:58.57 ID:AMJLL1TVO

屋上に飛び出してきた永井の頬を雨粒が叩いた。研究所は屋上緑化を進めていて、鮮やかな緑色の葉をした植物が植込みの中で存分に生い茂っている。その植物を眺めるのに最適な位置に、ベンチが全部で四脚、通路の上に背中合わせで配置されていて、平らなL字型のルーフがベンチにかぶさり、南側の縁にまっすぐ平行に延びるルーフとつながっている。

永井が肩で息をしながらドアに寄りかかっていると、唸りをあげる風の中から自分を呼ぶ声が聞こえてきた。声のほうを見やると、マスクの研究員が屋上の縁で手を振って永井を待っている。永井は息を吸い、研究員のほうへかけて行った。


永井「なんでまだいるんですか?」

研究員3「これの使い方を教えないと」


研究員は金属製の箱に手を置いた。


研究員3「火災用脱出シュート。これで降りる」

永井「いやいやいらないですよ、僕には」

研究員3「あ、そうか」

永井「この高さで死ねるかな……」

研究員3「……けど、それだけで待ってたわけじゃないんだ」

217 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/05/16(火) 21:49:55.00 ID:AMJLL1TVO

下をのぞきこむ永井の横顔を見ながら、研究員は永井に話しかけた。


研究員3「きみが外へ出たあと、おれの車でどこかまで送ってもいいよ」

永井「え!」

研究員3「仕事だと割り切っていたが、ほんとうに酷いこたをしたから……あとひとつ、安心してほしいことが」


研究員は永井の肩にゆっくりと手を置いた。


研究員3「きみはきみのままってこと。実験中一度も断頭は行ってないし、トラック事故現場にも脳細胞は残されていなかった……それだけ伝えたかったんだ」

永井「なんで、他人を気遣えるんですか?」

研究員3「ん?」

永井「人の痛みなんて、わかります?」


思ってみなかった永井からの質問に、研究員は戸惑った。永井は対処できない事柄を合理的に放棄したときのような、極めてフラットな無感情を顔にあらわしていた。


研究員3「それは、きみが亜人になってから酷い目にあって、心が……」

永井「いえ」


研究員のわかりやすさを求めるひどく一般的な推測は、永井のつぎの言葉によって退けられた。


永井「僕は、上辺以外で人の心配なんてしたことない」


218 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/05/16(火) 21:51:44.77 ID:AMJLL1TVO

銃弾が永井の肩に命中した。佐藤が永井と研究員からすこし離れた位置に立っていて、ふたりを拳銃で狙っている。


研究員3「隠れろ!」


研究員は永井に覆い被さるように肩に腕を回し、屋根のある通路に向かって走った。佐藤は冷静に引き金を引いた。銃弾が二発、二人のすぐ横を通り抜けた。通路のすぐ横にある一・五メートルほどの高さを持った潅木植物が植えられている花壇に二人が自分たちの身を隠そうとしたとき、三発目の銃弾が研究員の胸の真ん中を捉えた。銃撃の衝撃で研究員は前につんのめり、通路に仰向けに倒れた。


永井「あーあ……」


動かなくなった研究員を見ながら、さすがに永井もすこし残念な気持ちになった。


永井 (死んじゃあもうたすけようがないなあ……さて)

永井「飛び降りて逃げなきゃ」

永井 (最短距離はあっちだ)


永井は視線を研究員から屋上の南側に移した。南側に転落防止柵は備えられてなかった。研究員の身体が通路に横たわっている。


永井(……うーん、死体が邪魔だな)

永井「が、贅沢言ってらんない」


永井はおおきく息を吸い走り出した。柱のところまで来ていた佐藤が上半身を屋根の下のほうに傾け、逃げる永井を撃った。弾は永井の左脚に掠ったが、逃走をとめるには至らなかった。拳銃にスライドストップがかかり、スライドが後退した位置のまま固定された。


佐藤「弾切れー……」


縁へ走る永井の視界から屋上の景色が退いていく。


永井「もうすこし、もうすこしだ!」

219 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/05/16(火) 21:53:58.69 ID:AMJLL1TVO

研究員3「ぅ……」

永井「へ!?」


永井は立ち止まり、急いで振り向いた。研究員がかすかに身じろぎしていた。


永井 (まだ、生きてんのかよ!!)


通路に立つ佐藤は空になった拳銃からブッシュナイフに武器を持ち替えていた。横たわる研究員を挟んで、永井と佐藤は向かいあって対峙するかたちになっていた。


永井 (いやいや、この状況……助けようないだろ! だいいちあの人、即死じゃなかったみたいだが重傷! たぶんすぐ死ぬ)


永井の逡巡に待ち切れなくなったのか、佐藤がさきに一歩を踏み出す。


佐藤「最終ステージだ、永井君」


それにつられて永井もスタートを切った。


永井「くそっ、どうすんだよ」

220 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/05/16(火) 21:55:23.10 ID:AMJLL1TVO

研究員まで走る。腕を振ると、指を三本切断した右手が視界にはいってくる。


永井 (佐藤さんの刃物、重さを利用して叩き切るから大きな振りかぶりが必須、柱の並んだここなら攻撃しにくいかも)


永井「だからって……どうにもなんねー!」


永井は力の入らない右手を研究員の脇に下にいれ、肘を使って持ち上げた。左手は指がすべて使えるので、そちら側の脇は手で支える。佐藤が刃物を手に迫ってくる。永井は研究員の身体を引きずりながら、叫ぶ。


永井「だから、黒い幽霊! もう一度出ろ! 出てくれ!」


黒い幽霊があっさり発現される。幽霊は身体を構築しながら佐藤に向かっていく。


永井「出た!?」


佐藤も幽霊を出す。構築途中の脚が扁平な頭部を矢のように突き出す。


IBM(佐藤)『は、は、はーー』


黒い幽霊は互いに速度を緩めることなく走り続け、通路の真ん中で衝突を開始した。


ーー
ーー
ーー

221 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/05/16(火) 21:57:28.62 ID:AMJLL1TVO

警備員用のロッカールームはもう使われることのない部屋になっていて、閉じたられたままのロッカーから警備員たちの服や私物が遺品として家族のもとに返されるのはまだ先のことになりそうだった。だから、レインコートの人物が姿を隠すにはそこはうってつけの場所だった。

彼女は、雨滴を滴らせながらロッカーの隅に身を潜めていた。はじめは埃っぽかったが、黒い幽霊のほうに視覚と聴覚を集中させているあいだは埃っぽさを忘れられた。幽霊とのリンクが途切れると目の前が灰色のスチール板だけになり、レインコートの人物は閉じ込められたのだと錯覚した。彼女はロッカーの隅から飛び出し、息を喘がせた。得体の知れない恐怖は落ち着いたが、焦りの感情が潮位を増していた。黒い幽霊はあと一回発現できる。だが、永井がいる屋上は激しく雨が打っている。監視カメラの死角を縫うように移動してみずから屋上に赴くことも不可能で、レインコートの人物に打つ手はないように思えた(ロッカールームまで来れたのも、佐藤の襲撃によってカメラが破壊されていたためだった)。

まるでロッカーから飛び出してきたかのようにレインコートの人物は前につんのめり、床に手をついていた。どうしよう、どうしようと泣きそうになりながら頭をあげると、飛び出した勢いでポケットから床に落ちたスマートフォンが目に入った。ーーもしかしたら、研究所前の報道陣のカメラが屋上にいる美波の弟を映しているかもしれない。ーーレインコートの人物の希望は、手のひらサイズのスマートフォンの画面の中で映像として実現した。
222 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/05/16(火) 22:00:15.93 ID:AMJLL1TVO

雨脚は弱くなっていて、白い筋が消えた画面の中にいるアナウンサーが、研究所で起きた爆発音についてあわただしく説明している。その背後、研究所の屋上の端に動くものがあるのをカメラマンが気づいた。映像がズームする。画質がすこし荒くなる。レインコートの人物は、手術着姿の研究員を抱えているのが美波の弟だということがズームするまえからわかっていた。

レインコートの人物はロッカールームを掛け出てた。電話するみたいにスマートフォンを耳にあて報道を聴いていると、アナウンサーが、屋上の南側です、といっている。研究所の外壁の南側に回る。角を曲がったところで黒い幽霊を発現すると、硬い材質の外壁に星十字が浮かんだ。幽霊は一階と二階のあいだあたりの高さで発現されたが、雨のせいで動きはぎこちなく緩慢だった。肉眼で星の動きを観察しているときのように、星十字型の頭部の位置に変化は見られない。

はやく、はやく、はやくーーと、レインコートの人物は黒い幽霊への命令を心のなかで唱えていたが、黒い幽霊の動きは遅く、レインコートの人物は命令を実際に言葉にして口に出すまでになってしまっていた。星十字の幽霊の動きが目にみえて良くなったとき、フードが弾く雨音は、研究所に侵入する前に林の中で様子を伺っていたときと比べればほとんど無音といってもいいほど弱まっていた。壁をよじ登る幽霊の動きを追って、レインコートの人物は頭をあげた。顔にちいさい雨滴があたったがまばたきはしなかった。彼女の眼は、もうすぐ屋上に到達する自分の幽霊とともに、縁に立ち研究員を抱える永井が、後ろを振り返り、緊迫から解放されたようになにかに気を取られている様子を見ていた。


ーー
ーー
ーー

223 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/05/16(火) 22:02:48.84 ID:AMJLL1TVO

真っ直ぐ突き出された打撃をかわした黒い幽霊は、佐藤の幽霊が右腕を引き戻す前に爪を立て腕を振るい、右腕を切断した。切断された腕は一瞬だけ宙に静止すると、黒い粒子が結合を図ろうと活性化し、断面の粒子が磁石に引っ張れられる砂鉄のように逆立った。佐藤の幽霊は再結合途中の腕を引き、くっついた瞬間、攻撃後の隙を狙って永井の幽霊の頭に強烈なアッパーカットを打ち上げた。空中の腕が拳を作ったことを見てとっていた永井の幽霊は、スウェーすることでその攻撃をかわした。


永井 (頭を狙ってる?)


佐藤の幽霊の攻め方を観察していた永井は、自身の黒い幽霊にむかって叫んだ。


永井「おい! おまえも頭を狙ってみろ!」


黒い幽霊は背後から飛んできた命令に振り返らず、愚痴をこぼすように言った。


IBM(永井)『ったく、なんで皮肉……を言われなきゃ……』

永井「ああ?」

佐藤「おお、命令無視もするのか」


佐藤は、余裕がある感じで永井の幽霊の振る舞いを興味深げに観察していた。佐藤の幽霊はボクシングの構えをとったまま、距離をとっている。黒い幽霊はゆっくり永井に振り返った。


IBM(永井)『ひとりでカワイソウだ……から、構って……やってた……だけだ……しね』

224 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/05/16(火) 22:06:18.60 ID:AMJLL1TVO

真っ黒な無貌が口にした言葉には、何の感情も込められていなかった。それゆえ、永井は自分が実際にその言葉を発したこと、そのときとそれからのことに向き合わざるを得なくなった。


永井「そんな昔のこと、言わないでくれよ……」


永井は研究員を引きずるのを思わず止めていた。意識が朦朧としている研究員は、残った意識が感じている感覚が止んだことに気づき、永井にさらに困難が見舞ったのだろうとおもった。研究員は、か細い声が消え入らないように努力しながらつぶやいた。


研究員3「永井……君、いい……逃げ……ろ」

永井「いやだ」


永井がきっぱりと言い切った。マスクの研究員は、永井がここまでやってくれたことを十分だと感じていたし、感謝の気持ちもあった。あの焼けつく恐怖のなか、前触れもなくいきなり死に連れ去られてしまうよりは、いまみたいに、すべての感覚がしだいに遠のいてゆき、暗闇が訪れといっしょに眠るように最期を迎えることができるなら、十分だと研究員は思っていた。そんな研究員がまだ眼を閉じないでいられたのは、永井が指の欠けた手で研究員を抱きかかえ、息も絶え絶えなのに、彼の身体を懸命に引っ張っているからだった。


研究員3『なんで……おれ……なんか……』


自分の身体がまた引きずられはじめたのを感じた研究員がいった。永井は屋上の端をめざしながら、そちらに顔をむけた状態でまくしたてた。


永井「僕は誰とも関わってこなかったしそんな必要なかったし他人なんてどうでもよかった」

永井「かつやっぱり今でも、他人なんてどうでもいい!」


一気に喋ったせいで永井の身体から力が抜ける。永井はおおきく息を吸い、腕に力を入れ直すと研究員の身体をグッと上に持ち上げる。二歩歩き、また息を吸い、ふたたび研究員を引きずる。
225 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/05/16(火) 22:07:53.64 ID:AMJLL1TVO

永井「でもアンタは助けたい」


屋上の端に到達した。永井は左手で右手首を掴み、研究員の身体を支えながら縁に立った。


永井「ココから落とす。それしかない」

永井 (「〇〇メートルから落ちたら死ぬ」という明確なデータはない。四十七階から落ちても助かった事例があるくらいだ。だが、やわらかい土や雪の上に落ちれば生還率は確実に上がる)


永井「どこだ……どこがいい」


永井は研究所の中ほどにあるバルコニーに植込みを見つけた。通路では黒い幽霊同士の争いがつづいている。佐藤の幽霊が永井の幽霊の拳に打撃をあたえ、両者の左手が消失する。


永井「いいですか、膝をくの字にしてください。行きますよ!」

研究員3「待て」

永井「え!?」


研究員の思いもよらない強い口調に、永井は手を止めた。


研究員3「アレが……見える、か……?」

永井「アレ?」


研究員は震える頭を動かし、永井に言ったものの方向を示す。


研究員3「車で……送れ……な、かった、から……アレなら……逃げられる、かも……」

226 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/05/16(火) 22:09:44.28 ID:AMJLL1TVO

佐藤の幽霊の左の肘打ちが、永井の幽霊に残された右拳を奪った。


IBM(佐藤)『それでどう戦う?』


永井の幽霊は失われた両手を見ながら、考え込でいるのか黙っている。佐藤の幽霊は左腕が肘から先が消失していたが、まだ右腕が完全な形で残されている。扁平な頭をした幽霊が、防御も反撃もできない永井の幽霊の頭部にむかって鋭いストレートを放つ。


IBM(永井)『おまえも……頭を……』


黒い幽霊はそのパンチをすばやく右にスウェーすることでかわす。佐藤がその反応に感心した様子を見せる。永井の幽霊は地面を割るみたいに強く踏み込み上体を勢いにのせると、佐藤の幽霊の頭部にみずからの頭部をぶつけた。


『なんだ、四十七人もいるのか』


佐藤「ん!?」


『How many times do I have ーーl you? You've got to learn ーーen!』


永井「!?」


衝突の瞬間、黒い幽霊の頭と頭が一瞬だけ溶け合うようにひとつになり、永井は佐藤の記憶、佐藤は永井の記憶が逆流してくるのを、脳に閃いたイメージの通過として感じ、特別な力を持った人間がはじめて他人と感応したときのように驚きの反応を示した。
227 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/05/16(火) 22:11:38.46 ID:AMJLL1TVO

永井「佐藤さんの……記憶?」

佐藤 (永井君の記憶の一部が、流れ込んできた……)

佐藤「頭同士だと、こんなことが起こるのか」


頭部を失った幽霊たちは通路に倒れ、首の部分が崩壊し終えたところだった。永井はまだ記憶の逆流に呆然としている。星十字の幽霊が屋上まで登ってきた。屋上の縁から幽霊の肩から上がのぞいている。永井はまだ屋上の方へ振り返っていて、研究員も抱えたままだった。


IBM(???)『待って!』


幽霊の叫びに永井が反応する。永井はふたたび現れた星十字の幽霊にたいして警戒し、その正体を考えてみるが見当もつかない。そもそも、なぜこんなことをするのか。わざわざこんなところまで出向いてリスクを冒してまで自分を助けようとする亜人は、いったいどんな企みを持ってるいるのか。


研究員3「永井……君」


閉じてしまいそうになる意識の最後の力を使って、研究員は言葉を口にした。永井は視線を幽霊から研究員に戻す。


研究員3「行け」

228 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/05/16(火) 22:15:53.48 ID:AMJLL1TVO

IBM(???)『行かないで!』


星十字の幽霊は、研究員の言葉とほぼ同じタイミングで叫んでいた。永井は手を離した。研究員が落下し、永井は縁を走る。東側の壁と南側の壁の角にいる星十字の幽霊は、南側の壁に移り壁面を踏んで落下する研究員にむかって跳んだ。研究員の身体を右腕で抱きとめ、左手を壁面に突き刺す。バルコニーに降り立ったとき、幽霊の足が植込みの木を折った。記憶の混線から回復した佐藤が西に向かって走る永井にむかってナイフを投擲した。ブッシュナイフは回転しつつ、永井の首めがけて飛んでいった。


永井「う、あ、あーー」


永井は走りながら前につんのめった。膝がかくんと折れ、転ぶようにして縁から跳ぶ。ナイフの刃が首の後ろの皮膚を切り裂くのを感じながら、永井は氾濫する河川の濁流のなかに落ちていった。研究員が示した脱出路は、この川のことだった。この川は放水路で、大雨のときには海まで水門が開くようになっていた。そしていま、茶色い大水に飲み込まれ、水死の苦しさを味わいながら永井は開いた水門へ流されていく。

星十字の幽霊の手は、西側のバルコニーの手摺から暗闇に向かってのびていた。その手のなかにはなにもなく、やがて幽霊の頭部は、ふたたび崩壊をはじめた。


ーー
ーー
ーー

229 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/05/16(火) 22:19:45.80 ID:AMJLL1TVO

田中「遅いすよ、佐藤さん」


研究所への進攻前に二人が分かれた地点で待っていた田中が言った。田中のオールバックにした髪はすこし湿っている程度で、いまでは雨はほとんど降り止んでいた。


佐藤「いやあ、永井君が面白い感じに動くから遊んじゃったよ。怒ったフリもしてみるもんだね」


佐藤はしゃがみ込み、ボストンバッグを開けた。中に銃器類をしまい込むと、別のバッグから袋詰めにした衣類を取り出す。


佐藤「さて、いろいろやったけどここから本番だよ」


言いながら、佐藤は田中に取り出した衣類のひとつを投げ渡した。


田中「服? なんすかこれ?」


田中に渡されたのは、生地の薄いブルーの患者着だった。


佐藤「戦略というのはだな、状況に合わせ最も適した……」


血塗れのシャツを替えながらの解説は途中でとまった。佐藤はなにか思い出したように口を開けたままにしている。


田中「なにか問題が?」


田中がジャケットを脱いで、着替えながら尋ねた。佐藤はポンと思いつきを口にした。


佐藤「なんか、ハンニバルみたくなってきたなあ」

田中「はあ?」

佐藤「私がハンニバルだとすると、きみは……」

田中「……クラリスすか?」

佐藤「いや、マードックだな。顔的に」


そう言われても田中に思い当たるところはなかった。そもそも田中はトマス・ハリスの小説はおろかジョナサン・デミによる映画も観ていなかったし、佐藤の言うハンニバルが『特攻野郎Aチーム』のジョン・スミス大佐のことだと最後まで気づくこともなかった。


佐藤「それじゃあひとつ始めますかな! 『作戦は気を持って良しとすべし』だ!」


佐藤はハンニバルの口ぐせを真似しつつ、ネクタイを締めたシャツの上にジャケットを羽織った。


ーー
ーー
ーー

230 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/05/16(火) 22:22:03.17 ID:AMJLL1TVO

研究所からの騒ぎの音が聞こえなくなると、正面ゲートに陣取っていた報道陣がざわめき、ゲート担当の警備員に詰め寄った。雨ガッパを着た警備員は所内との連絡に努めているが、上司や同僚とは一向に連絡がとれず困り果てていた。警備員のひとりがトランシーバーを片手に直接中に赴くべきか悩んでいると、敷地内から車椅子を押す帽子の男が現れた。マスコミのカメラは車椅子の男と帽子の男を映し、アナウンサーがその様子を中継する。

波のように押し寄せてくる報道陣に対し、帽子の男はあわてることなくゆっくりと車椅子を押して進む。車椅子の男はこうべを垂れ、無反応をつらぬいている。


佐藤 (重要だったのは、タイミング)

佐藤 (永井圭捕獲とオグラ・イクヤ来日。多くのマスコミが一箇所に集まる、今日というタイミング)


佐藤がとまったとき、マスコミは佐藤を囲うように周囲に円をつくっていた。マスコミの質問に答えず沈黙したままの佐藤にたいし、報道陣の質問もしだいにおとなしくなっていく。やがてカメラのシャッター音くらいしか聞こえなくなったとき、佐藤は唐突に口を開いた。


佐藤「今日は一般の方々に知ってほしいことがあってここへ来ました。二つだけ、話を聞いてください」


佐藤の突発的な発言の開始に、マスコミだけでなく、テレビの前の視聴者も釘付けになる。


佐藤「私の名前は佐藤……亜人です」


美波の眼はまるで銀盤写真のように見開かれていた。弟の姿が映ってから鏡を見るときの距離でテレビの画面を凝視していた美波は、佐藤の手の動き、話すこと、それらを眼球に感光して、写真記憶として保存しようとしているみたいだった。
231 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/05/16(火) 22:24:50.05 ID:AMJLL1TVO

佐藤は、永井圭君のお姉さんが会見でおっしゃられたことの繰り返しになりますが、と前置きしてから亜人捕獲の懸賞金がデマであることを説明した。佐藤はそれに加え、デマの発祥が車椅子に座っている田中が発見された当時のテレビ番組にあると語った。そして、今回の永井圭に関する報道は、本質的に田中に懸賞金を懸けた番組と大差ないという旨の言葉を、報道陣の前でひるむことなく言い放った。

報道陣は過敏に反応したが、それは佐藤が二つ目の事実を語ったときに比べればまったくおとなしいもので、二つ目の反応は爆発的だった。


佐藤「知ってほしいことの二つ目は、『政府は亜人で非人道的な実験を行っている』ということです!」


佐藤がその言葉を口にした直後、マスコミから批判の声が湧き上がった。都市伝説、デマ、と罵倒に近い言葉を投げられけても佐藤は微動だにしなかった。


佐藤「証拠はあります」


佐藤がそういったとき、美波の心は緊張感に締め付けられた。ほんの二週間ほどまえ、美波を訪ねてきた佐藤は結局、美波の話を聞くまえに去っていったのだが、その去り際に佐藤が言っていたことは、今日の日まで美波の意識にのぼらないことはなかった。ーー政府による亜人虐待の証拠ですが、近いうちにお見せできると思いますよーー。美波にとって、提出されてほしくない証拠、証明されてほしくない事実のことを、この瞬間まで美波はずっと考えていた。


佐藤「それはすでに、web上にアップロードしました」

232 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/05/16(火) 22:28:13.65 ID:AMJLL1TVO

美波の腕は、まるで風に吹かれた布切れみたいに音もなくあがり、スマートフォンを操作していた。美波の様子をうかがっている女子寮のメンバーたちは、美波にそれをさせていいのかわからなかった。彼女たちは、その映像は、美波にとってよくないものなのではないかと漠然と感じていた。だからといって、見るなと言うこともできなかった。研究所にいた弟が、そのあいだどのように扱われていたのかを知る唯一の具体的な証拠だったからだ。彼女たちの予感の方向性は映像が再生された途端、正しかったのだとわかった。

アップロードされた映像のなかで、包帯によるがんじがらめの拘束がされた田中が銃で撃たれて死んだ。次の映像で田中は金属製の台の上に寝かせられていて、その台は巨大な機械の一部で、その機械はプレス機だった。機械の作動スイッチが押され、田中の肉体は圧力で潰れた。映像はきちんと音声も記録していた。胸部に杭を打ち込まれた状態の田中が激しい苦痛に咽び泣いている十五秒ほどの映像がそのあとに続いた。

次の映像は自動車の衝突実験の記録映像だったが、美波はもう映像を見ていなかった。トイレに駆け込むと、口を押さえていた手を離し、激しく嘔吐した。最近は食欲があまりなく、吐き出されたのはほとんど胃液だったが、嘔吐は一回で終わらず長いあいだ続いた。最後には胃液すら出なくなり、それでも胃の痙攣と喉のえづきが止まないので、やがて喉が切れ血が混じった唾液を口から垂らした。吐き気が去るとやって来たのは救いようのない絶望だった。美波は嗚咽した。裁判での自分の証言が家族の断頭台行きを決定付けてしまった人間のように嗚咽した。前川みくがおそるおそるといった感じで美波の小刻みに震え続ける肩を抱いたが、それ以上のことはなにもできなかった。
233 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/05/16(火) 22:31:58.93 ID:AMJLL1TVO

だれもいない談話室ではテレビがつけっぱなしになっていた。佐藤と田中はカメラの前から姿を消していた。アナウンサーがまくしたてるように、佐藤が二日後に厚生労働省前にて抗議活動を行うと言ったと伝えている。テレビの画面はアナウンサーの中継映像から抗議活動を宣言する佐藤の映像に切り替わった。佐藤の口調や身振り手振りは激しく、真剣な調子を帯びている。アナウンサーの声が映像に重なり、アップロードされた映像から実験に協力した企業の名前も確認できるようですと伝える。

アナウンサーの音声が退き、佐藤の映像と音声が同期する。カメラは佐藤の表情にズームしていて、その細かな変化まで捉えていた。佐藤の表情から先ほどの義憤の激しさは消えていて、身に潜む悲しみをこらえきれないような表情に変わっていた。佐藤はその表情のまま、静かに言葉を発した。


佐藤「そして、一人一人の幸せのために」


そんな言葉をつかって人びとに訴えかける佐藤の頬を、一筋の涙が悲しそうに流れていった。
234 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/05/16(火) 22:41:31.94 ID:AMJLL1TVO
今日はここまで。

冒頭で佐藤がいうミシシッピが登場する映画は、ハワード・ホークスの『エル・ドラド』のことです。ジェームズ・カーン演じるミシシッピはとにかく銃が当たらないキャラクターで、拳銃では話にならないから散弾銃を持たされるのですが、それでも当たらない。やっと当たったかと思えば、ジョン・ウェインの太ももに弾をあててしまういう始末。ちなみに、その後カーンはマイケル・マンの『ザ・クラッカー/真夜中のアウトロー』で卓越した拳銃捌きをみせます。

ジョナサン・デミの名前も無理やり出しましたが、『羊たちの沈黙』『ストップ・メイキング・センス』などで有名な彼はつい先日逝去されました。こんなところでいうのもなんですが、安らかな眠りを祈っています。R.I.P.
235 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2017/05/16(火) 23:25:12.21 ID:eQfWZV+Z0
おつー

パパ
星十字
美波の家族を救出しようとしていた

さーて誰かなー(棒)
236 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2017/05/18(木) 02:30:47.33 ID:0t2xyFIko
なんか適当にスレ開いたらえらい力作を見つけてしまった
期待してます
237 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2017/05/21(日) 19:34:41.99 ID:xk1Vvrqk0
がっこうぐらしのやつ書いていた人?
238 : ◆8zklXZsAwY [sage]:2017/05/22(月) 07:14:36.56 ID:Do/POMNGO
>>237
はい。そのとおりです。
239 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/06/10(土) 21:48:00.17 ID:7K73HWKCO

5.けっこう旨かっただろ?


けれども、エバンドロ・マノロ・トーレスは、たったの五歳で、そうれはもう一点の曇りもなく、自分が死ぬことを悟ったのだ。おそらく今日死ぬわけではないが。いや、今日死ぬこともありうる。ーーデニス・ルヘイン『ザ・ドロップ』

しかしそれは石で始まって、石で片がついた。ーーレイモンド・カーヴァー「出かけるって女たちに言ってくるよ」


送迎用のミニバンのハンドルを右に切ってかすかな遠心力の作用を肩で感じたとき、プロデューサーの頭から一瞬だけ成長中の竜巻のような苦悩が去っていった。交差点を右に折れ、ゆるやかにミニバンを進める。フロントガラスから真っ直ぐに射し込んでくる日光に街の風景が奪われかけるが、白い光のなかにかろうじて赤い点灯が瞬いたのを見分けることができ、ブレーキを踏む。いつもよりもブレーキが強かった。後部席の白坂小梅が停止時の慣性で上半身がシートベルトに絞められ、息をはくようにちいさく呻いたことからそれがわかる。小梅の右側の顔にかかる前髪が、疾走する二歳馬の尻尾のように跳ねて宙に持ち上がったとき、彼女の髪は光を反射して白銀のように輝いていた。

送迎の際の運転はいつも慎重ににおこなってきたが、とくにここ最近は神経を尖らせて運転するようになっていた。ハンドブレーキを解除するときや、カーブ前に左右の安全確認をするとき、バックで駐車するとき、あるいは発車するとき。そういったときどきに緊張が、鋭い錐かなにかのようにこめかみのあたりを走り抜け必要以上の力が入り、仕事が終わったときには疲弊している。今朝など、指の関節が石のように固くなっていて起きてからしばらく手を開くことができなかったくらいだ。
240 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/06/10(土) 21:50:15.37 ID:7K73HWKCO

それでも身体が強張り、動作に多少の不具合が生じる程度のことならば、まだなんとか対処できた。問題はふたたび頭脳に到来したあの苦悩、まるでゴム紐にでも括り付けられているかのように、振り払おうとしても勢いづいて戻ってくるあの苦悩のことだ。それは解決不可能で、巨大で、いまもなお発展し続けている。どこまでも政治的で現実的な問題。

新田美波の弟が亜人だということは、それが発覚した当初より広範な範囲におおきな影響を与えるようになっていて、その余波が台風に飛ばされうねりながら空中を流れる看板みたいに次々とプロデューサーたちに直撃した。

しかし、これでも。プロデューサーは思った。しかし、これでも余波に過ぎない。
241 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/06/10(土) 21:51:47.49 ID:7K73HWKCO

マスコミはこの二日間でますます不躾で、無遠慮になってきた。かれらは永井圭が山梨の警察署の前にいたのは美波の会見によるものと断定的に報道していて、永井圭の研究所脱走と亜人虐待映像のウェブアップロードについて美波のコメントを得られればと、昼夜を問わずひっきりなしに電話で攻勢をしかけてくる。まるですべてのテレビ局関係者や雑誌記者たちがグルになって、プロダクションの人間の耳に電話の呼び出し音を永遠に聴かせつづけようとしているかのように。電話線を切ってしまうわけにもいかず、それで受話器を手に取ると、ただでさえうんざりしているのにそこからさらに絶望的な気分にさせてくるマスコミの質問を耳にしなければならない。

「新田美波さんは亜人の虐待映像を見て、永井圭が同じ目にあったと知ったわけですが、どのような反応を見せましたか?」この質問ですら、まだ良心的な質問と言えるだから、マスコミの質問に対応するプロダクションの人間たちは、人類に対して絶望してもいいような気がしてきた。

おそらくだれもが悪意さえなければ、他人にやさしくしたり、気にかけたりしなくてもいいと思っているのだろう。朝仕事に行く道中で出くわした同僚と世間話するとき、たいして関心はないが新聞やニュースで見かけたからという理由で話題になっていることを口にするときみたいに、ちょっと踏みとどまって出来事の背景や人物たちの思惑や感情を気にとめたりしないように、他人に対して思いやりを持つことは、べつにそれをしなくても構わないことになっている。たぶん、とっくの昔からそうなのだ。他人に迷惑をかけることはダメだが、無視することに異をとなえる奴はいない。
242 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/06/10(土) 21:53:23.96 ID:7K73HWKCO

今朝、トイレの洗面台でプロデューサーがハンカチをくわえながら手を洗っていたところ、ふたりの社員が彼の背後を通り過ぎ、便器の前に並んで用をたしながら、ここ最近の忙しさについて愚痴を言い合っていた。正面と右側から聞こえる水音に混じって届くその愚痴に、言葉の悪さを感じつつも同調する気持ちもあったのは、鏡に映る自分の目元がいやな感じのする黒い隈をつくっていて、その変色はまるで黒くなったところが腐り出して眼球が転がり落ちてしまうような不吉な予感を彼に与えていたからだった。

このまま隈が広がったら。とプロデューサーは思う。眼球を提供した遺体みたいになってしまうのだろう。黒いからっぽの眼窩に氷を詰められる。それでも、いまのこの呪いがかかったかのような眼つきよりだいぶましになるだろう。

プロデューサーは肩を開いたかたちでまだ水気を帯びている両手を洗面台に置いていた。右手にはくしゃくしゃになったハンカチを持っていて、手を拭く途中で疲労が一気にのぼってきて、眼に重りがつけられたかのように頭をさげている。同僚ふたりがプロデューサーの隣で手を洗い始めた。すぐ右隣の同僚が鏡越しにプロデューサーを一瞥し、疲労困憊といった様子の彼にお疲れと言葉をかけた。プロデューサーはかるく頷いただけだった。
243 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/06/10(土) 21:55:45.67 ID:7K73HWKCO

いっそのこと、眼帯でもしてしまおうか。顔をあげ、ふたたび鏡を見たプロデューサーはそのように思った。さっき彼にお疲れと声をかけた社員はハンカチで手を拭いている。もうひとりは洗面台で手を振り水気を切ってから、ハンドドライヤーの方へ歩いて行った。手を入れると温風がゴォーッと唸りをあげた。

早坂美玲がしているようなやわらかくキュートな眼帯はとてもつけられないが、医療用の白い眼帯も気が進まない。昔のハリウッドの映画監督みたいに黒い眼帯をしてみたい。ジョン・フォード、ラオール・ウォルシュ、フリッツ・ラング、ニコラス・レイ、あとアンドレ・ド・トス。アンドレ・ド・トスがトビー・フーパーの『スポンティニアス・コンバッション』にカメオ出演しているのは、彼が五十年代に『肉の蝋人形』を撮ったからだと白坂小梅は言っていた。

小梅はほかにも、『リング2』で中谷美紀が精神病棟に入る際のカメラワークは、『エクソシスト3』でジョージ・C・スコット演じる主人公のキンダーマン警部が入院中の友人の神父が殺害された現場を訪れるシーンのカメラワークとそっくりで、それは意図的な引用だろうと力説していた。『エクソシスト3』は原作者ウィリアム・ピーター・ブラッディが自作『レギオン』を自ら脚色、監督した作品で、公開当時はのちにJホラーの担い手となる日本の映画監督や脚本家からウィリアム・フリードキンの最初の『エクソシスト』よりも恐ろしいと大絶賛された素晴らしいホラー映画だと(『エクソシスト』は本質的にパニック映画であり、『エクソシスト3』こそ真にホラー的な演出によって構成された作品なのだ。これはたしか黒沢清の言葉だったと思う)小梅は輝かしい瞳を爛々とさせながらプロデューサーに語った。

小梅ならこの皮膚に毒が染み込んだかのような隈を喜ぶかもしれないな、と思ったところでプロデューサーの現実逃避は実際の声によって途切れることになった。
244 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/06/10(土) 21:57:35.96 ID:7K73HWKCO

ハンドドライヤーがたてる唸った風音が、拗ねた子犬のたどたどしい鳴き声のようになったとき、手を乾かしおわった社員が待っていた同僚にむかって言った。


「このままだと死にそうだな」

「永井圭の身がわりってわけか」


プロデューサーは反射的に首を向けた。ふたりの社員はすでにトイレから出ていて、手を離れたドアが閉まりきらずかすかに揺れていた。彼はそのドアを見たまま、ハンカチを持つ手に力を込めることもできずただ言葉を失っていた。

いくらなんでもそれはあんまりだろう。同僚たちの冗談めいた揶揄に、プロデューサーはそう思わざるを得なかった。彼は、永井圭は、死んでしまったというのに。永井圭は亜人だが、生き返ったことを除いて、彼が亜人であったことは、彼や彼の家族の人生になんらプラスに作用していない。ただそうであるというだけで、損なわれた人生を生きることを強いられる。それは、あまりにもフェアではない。
245 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/06/10(土) 21:58:41.43 ID:7K73HWKCO

弟が研究所を脱走した日から、美波の心の大半を自責の念が占めていた。ふさぎこんでいて、この二日間まともに食事もとっていない。軽い鬱のような状態になっていて、意味がわかる明瞭な発音の言葉はほんの二言三言だけしか言わなかった。


美波「あれは助けてた」


永井圭の研究所脱走の翌日、プロデューサーが厚生労働省前で行われる集会に美城プロダクションに所属しているアイドルや社員は参加しないようにという指示があったことを伝えにいったとき、美波はそのことだけが縋りつくことのできる唯一の救いであるかのように言った。美波の声はちいさくぼそぼそと聞き取りずらかったが、悔い改めよ、と罪人に告げる宗教者の声の響きを持っていた。

プロデューサーは一瞬、美波が何をいっているのかわからなかった。だがすぐに、研究所の屋上から永井圭が研究員を落としたことを指しているのだと気がついた。ニュースでは永井圭は研究員を故意に突き落としたと報道されていた。精神錯乱の状態だったという報道を美波はあきらかに信じていなかった。
246 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/06/10(土) 21:59:42.54 ID:7K73HWKCO

美波「そうだ、ごはん食べないと」


美波は突然首をまわし、食堂のほうへ顔を向けながら何気ないふうにぼそっとつぶやいた。時刻は午後四時三〇分過ぎ、まだまだ光の状態は日中のときとさほど変わらない明るさを保っていた。突然脈絡の無いことを言い出した美波にプロデューサーは戸惑った。美波は昼食を口に入れいちど嚥下したが、消化する前に嘔吐した、とプロデューサーは寮母から伝えられていた。躊躇いがちに美波に声をかけると、美波はなかば惚けた表情をしたままプロデューサーに向きなおり、力のない声で言った。


美波「おおきな声が出なくて。元気つけないと、集会に参加しても意味がないですよね」


そう言った美波の瞳の中には朦朧とした雰囲気が見てとれた。美波は椅子から立ち上がった。だが膝は身体を支えることができずカクンと折れ、落とし穴にはまったかのように美波は床に手をついた。
247 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/06/10(土) 22:00:45.86 ID:7K73HWKCO

美波「レシピは知ってるんです。元気になるレシピ……」


プロデューサーに呼ばれた寮母が手伝い、美波を部屋まで連れていった。ふらつきながら力なくこうべを垂れる美波の姿は、プロデューサーの内面に取り返しのつかない後悔を生み、いまでもその念が彼を悩ませている。


小梅「プロデューサーさん……信号、変わったよ……?」


小梅に話しかけられ、プロデューサーの意識がはっきりと現実にもどってきた。あわてて発車しそうになるが、なんとか息を吐いてからゆっくりアクセルペダルを踏んだ。車は千代田区を走っていた。日比谷公園が見えてきた。桜の樹木の葉が緑に輝いている。公園の向こう側にあるビル群は、陽光を浴びて発光するかのように白い光を反射している。フロントガラスから見える街の景色の眩さに目をしかめたプロデューサーは、とりあえずいまは運転に集中するべきだと考え、ハンドルをぎゅっと握った。
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