2:>>1[saga]
2011/03/28(月) 21:19:07.51 ID:gJVBoKdj0
それは唐突に、そして偶然に。神の導きによって行なわれた、ある種の奇跡である。
秋川秀一の場合。
その日、秋川秀一はひどく疲れていた。臆病で気が弱く、常に脅えて暮らしている彼には疲れない日などないのだが、それでもこの日はひどく疲れていたのだ。
彼は美術部に所属しているごくごく一般的な高校一年生で、前述したように常人よりかなり怖がりな性格をもつ少年である。そんな彼にも好きなものがあり、それは絵であった。特に色鉛筆画や水彩画に関しては自身でいくつかの賞を受けたほど絵に打ち込んでいた。中学校のころには廃部寸前の美術部に一人、毎日通いつめて作品を完成させていた程である。そんな彼なので、高校――学校名は八木東高校というが――に入学してからも迷わず美術部に入部したのである。
しかし、理想と現実が食い違うのは世の常である。彼が求めていた美術部というのは、静かで、自分の作業に没頭でき、自分の世界を教室という空間に露出させ、思う存分筆を振るえる空間であった。しかしながら、不幸にもこの八木東高校の美術部というのは人が多かった。そうなってくると彼は聞こえてくる雑音やその他がどうしても耐え切れないものになってしまっていったのだ。そしてある日、彼はある事を決意したのである。端的に言えば、退部したのだ。臆病なところの彼である、退部届けを顧問に提出する際も常に周りが気になり、数回はわき見をした。引き止める顧問の話も半分は聞けていなかったろう。 彼はほとんど涙目になりながら、美術部を後にしたのである。もう、疲労困憊で息をするのも彼には難しかった。
しかし、彼はどこか胸のつかえが取れたように達成感と希望に満ち溢れていた。これで僕は自由だ、といった具合の考えである。人の数倍は悩み事を抱えている彼にとって、美術部を抜けると言う大きな出来事はその悩みのいくつかも忘却の彼方へと追いやることができたのだ。すっかり重荷の取れた彼は何がしたいのかを考える余裕すらできていた。久しく忘れていた、何を描きたいかという発想。この美術部に入っていては描きたいものも描けなくなってしまうと彼は心の中で断言していて、知れずのうちに、彼は呟いた。
「絵本とか描いてみたいね」
そしてそれは、彼の望みを叶える結果にもなるような独り言であった。
冬森雪花の場合。
その日、冬森雪花はひどく疲れていた。臆病で気が弱く、常に脅えて暮らしている彼女には疲れない日などないのだが、それでもこの日はひどく疲れていたのだ。
彼女は文芸部に所属しているごくごく一般的な高校一年生で、前述したように常人よりかなり怖がりな性格をもつ少女である。そんな彼女にも好きなものがあり、それは物語であった。特に童話なんかに関しては、自身で何本も書き綴ったほど執筆に打ち込んでいた。中学校のころは家で一人、休日なんかはカンヅメになってまで作品を完成させていた程である。そんな彼女なので、高校に入学してからは念願の文芸部に入部したのである。
しかし、理想はいともたやすく破られてしまう。彼女が求めていた文芸部というのは、もっと真剣に製作にあたり、少しおしゃべりしながらのんびりと緩やかに自分の作品を書けるような、そんな空間であった。しかしながら、不幸にもこの八木東高校の文芸部は忙しすぎた。漫画研究会と合同でコミケに参加して同人誌を販売するような集いで、部員はほとんどが女子なのだが、口を開けばやれどこそこのサークルの同人誌の質が良いだの、新人のボーイズラブ作家がいいだのと彼女にとって不純且つ不潔なものであった。空気が合わないと判断した彼女は人知れず退部届けを顧問に黙って提出し、部室をあとにした。彼女がソレを提出するときのストレスといったら並大抵のものではなかった。記入漏れがないか何度も何度も確認し、少し文字が気に食わなければ書き直し、退部理由も三度は書き換えた。顧問に提出するときとてどこか後ろめたい様子で、うつむいて涙目になってしまうのを堪えていた。部室を出た直後は息をするのもままならなかったぐらいである。
しかし、少し気を落ち着かせてみると彼女は肩の荷が降りた気分になっていた。彼女なりに心配事は数多くあるものの、一番気に病んでいたことからは離れられたのだ、無理もない。彼女は本来の自分を取り戻し、どんなものが書きたいのかを考える余裕すらできていた。そう思うとかねてより彼女にはやってみたいことがあった。文芸部に入って、できればいいなと思っていた淡い幻想。それを彼女は意図せず呟いたのだ。
「絵本を書いてみたいなぁ」
そしてその幻想は、思わぬ形で叶うこととなった。
また、あした
びっくりした。ひどくびっくりした。なんせ、僕の呟いた言葉とほぼ同じ言葉が真横から聞こえたのだ。まさかのシンクロだよチューナーはどっちかななんて冗談を飛ばす余裕なんて僕にはなかった。おそるおそる右を向くと、同じようにひどく驚いた様子の女の子がこちらを見つめていた。前髪をそろえた長い黒髪の、背が小さく気の弱そうな子だ。確かクラスメイトだったと思う。名前は冬森雪花とかいったかな。ここで奇遇だね、あはは。なんて言えれば上等なのだろうが、あいにく僕はなんか口が動かなかった。僕にできることといえば下駄箱で待機してくれているであろう友人のもとへ逃げるように駆けることぐらいだろう。
そう決断したら僕の行動は早かった。異性に苦手意識を抱いている僕にとってこの状況はとてもよろしくない。女というのは常に集団だ。あの子自身は何もしなくても、そのお仲間が僕に難癖をつけてこないという確証はない。然るに、いつでもどこでも逃げるのが得策なのである。僕は下駄箱に向かい走った。彼女は少々呆然としていた様子だけど気にすることはない。その場から逃げ出せば多くの場合安全だ。幸い、美術室と下駄箱は思っているより近い。運動神経が鈍すぎる僕でも数秒も走ればたどりつけた。
「なんでそんなに急いでいるんだ?」
ようやく下駄箱にたどり着くと、低く迫力のある声が僕を出迎えてくれた。無駄にマッチョな僕の友人、夏原智一が変な物を見る目で僕を見ていたのだ。そんな目で見ないでほしい。まぁ、僕が走るなんて異常事態であることは確かだから、気持ちはわからないわけでもないのだけれど。
「急いでいたわけじゃないけど、少しね。望みが絶たれるところだったから」
「よくわからんやつだな。しかし本当に美術部をやめてきたのか?」
「ま、まぁね……前々から僕の肌に合ってないとは思っていたんだ」
「勿体無い。その力を発揮するところがないわけだな」
「夏原こそ、その筋肉なにに使うのさ」
「最近は空手に打ち込んでいるぞ。お前もやるか?」
「やだ。殺す気?」
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