862:少年よ五百円玉を抱け 6/10 ◆1ImvWBFMVg
2012/08/01(水) 07:47:02.41 ID:idTh5FcP0
生き生きしている』
シャツの下、手首に貼り付けた五百円玉から、少女ののどかな声が響いた。今から大惨
事が起きるかもしれないというのに、ずいぶん悠長なものだ。
『すいません。でもわたしは見ているだけですから。頑張ってください、ジェントル克俊
さん』
調理場のせまい入り口から中へ入ると、いつものようにレジに綾音おばさんの姿が見え
た。
「あらようやくお出ましね。さっそくだけど窓側のお客さまの注文お願いね」
プラスチックの注文バインダーをこんなに重く感じたのは生まれて初めてだ。そして今
日が最後かもしれない。
「どうしたの。ほらチャッチャと急ぐ。いっといで」
押されるように向かった席にいたのは、見ていられないほど悲壮な表情をしたスーツ姿
のくたびれた中年男性だった。
『愛の手を。どうかあなたに出来るだけの慈しみを持って』
藤澤正也、五十二歳。職業公務員。家族は最近亡くなったばかりの妻・清美と、その妻
の間に生まれた娘・正美の二人がいる。娘は幼い頃から何万人に一人という難病にかかり、
とても長い闘病生活を送っていた。公務員である正也に蓄えなどあるわけもない。
夫婦で何とか毎月の入院費を稼ぐだけで精一杯の苦しい暮らしであった。しかもその入院
もただ症状の悪化を遅らせるだけで、根本的な解決につながる訳ではない。治すには海外
の専門の病院での大がかりな手術が必要だった。
なにより金が必要不可欠だった。そうこうしているうちに月日は流れ、去年の春のこと。
娘の主治医はついに正也に余命一年の宣告を告げた。恐れていた日が実際に来ようとして
いた。正也は今まで一度も休んだことのない仕事を放り出して、日夜金策に明け暮れた。
だが金はいっこうに集まらなかった。困り果てていたある日、妻が何かを決心したように
こう言い出した。
「あなた、私にいい案があるの。一日二日待っててね。必ず正美に手術を受けさせてあげるから」
何度問いただしてみてもいっこうに訳を言わない妻に、正也は幾ばくかの不安を感じな
がらも、藁にすがりつく思いで頼むと答えていた。
次の日、妻が死んだ。正也の携帯にそれを知らせる警察からの連絡が入った。どうやら
高速道路で車を運転中、ハンドル操作を誤り車体をスピンさせ、そのままガードレールに
直撃したらしい。即死だったそうだ。
バカなことを。正也は激しく後悔していた。保険金だ。妻は保険金狙いで、自らを事故死
に見せかけようとしたに違いない。なぜそんなことを。いくら正美のためだってお前が死
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