過去ログ - やる夫が正史を書くようです21
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800:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします[sage]
2012/04/04(水) 16:16:03.83 ID:Wl2yuCCa0
当方794です。

とりあえず、「元和郡県図志」(中華書局版)の文から書きます。

『譙周墓,在(巴西)縣南十六里。
 周将亡,戒諸子曰:「吾後嗣当有黄頭黒歯,幾亡吾族。」周孫縦之生也,頭黄歯黒。
 晋末,刺史毛璩使縦領白徒七百人,由涪水下討桓玄。西人不楽遠征,乃逼縦為主,攻陥巴西,遂屠益州。
 既害毛璩,自號成都王。義煕九年,朱齢石討平之。卒如周言。』

つまり譙周が「ウチから一族を滅亡寸前に追いやる奴が出てくるぞー」と予言をし、東晋末に成都王を名乗った
譙縦がその予言の人物であった…という話です。
でも、譙縦は譙周の孫ではないですし(子孫の子の字が脱落した可能性はありますが)、「晋書」の譙縦伝にも
先祖が譙周と書かれてはおりません。
「譙周=売国奴」と捉えた「図志」の編者が、「先祖は売国奴で子孫は反逆者、いい対比じゃないか」的な考えに
基づいて、噂話レベルの逸話を挿入したのではないでしょうか。

実際の譙周の孫で史書に載っているのは譙秀(「晋書」巻九十四、隠逸伝)と譙登(「通鑑」永嘉三年)の二人で、
特に譙登は李雄と奮戦して殺された忠臣なのを考えると、「図志」の記事はかなり不公正な印象を受けます。
個人的には、時代が下るにつれて譙周の評価が悪化した証左のひとつなのかなぁ、と。

長文乱文、失礼しました。


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