595:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(神奈川県)[saga]
2012/11/21(水) 23:28:43.61 ID:lZg7FiiSo
翌日あたしは編集部の共用アドレスに『午前中:取材先直行。お昼頃帰社』というメー
ルだけを送ってから、マンションの地下のガレージで自分の車に乗り込んだ。憂鬱なこと
に外では結構強く雨が振っている。外気温が低いせいで愛車のエンジンはなかなかあたし
の言うことを聞こうとしなかった。最近の車にはないだろうチョークを思い切り引っ張っ
て近所迷惑を顧みずに空吹かしをしていると、ようやく三十年前に製造された直列六気筒
のエンジンが安定した重低音を響かせ始めた。
雨の日の平日の朝の道路は案の定混んでいたけど、初めて行く土地だったからあたしは
多少早めに家を出ていた。だから約束の時間に遅れることはないだろう。
交差点で右折待ちをしながら、あたしは奈緒人の顔を思い浮かべた。彼はあたしが黙っ
て勝手に池山に会いに行ったことを知ったら怒るだろうか。病院であたしが奈緒人に助力
を申し出たときあの子は話を逸らした。自分では自然なつもりだったのだろうけどそれは
見え見えの仕草だった。優しい子だからきっとあたしを危険なことに巻き込みたくなかっ
たのだろう。
奈緒人は昔からそういう子だった。結城さんと姉さんとの新しい家庭に迎え入れられた
奈緒人は当面の辛い生活からは開放されたのだけど、そのことに喜んでいる様子はなかっ
た。それまでずっと寄り添ってほぼ二人きりで一緒に暮らしてきた奈緒ちゃんとの別れは、
奈緒人にとっては新しい家庭生活で代替できるようなものではなかったのだろう。
当時の奈緒人は母親に放置されていても失わなかった、生まれつきの明るさを全く外に
表わさないようになってしまっていた。それだけ奈緒ちゃんとの強制的な別れがショック
だったのだ。
結城さんと姉さんはそんな抜け殻のような奈緒人に優しく接していた。一見、奈緒人も
奈緒ちゃんのことを口にするでもなく、それに応えているようだった。でもあたしが見て
いるところでは、当時の奈緒人には奇妙な落ち着きがあった。奈緒ちゃんのいない今の生
活に満足していたはずはない彼は、両親にもあたしにも奈緒ちゃんが不在であることに対
する不満を一切口にしなかったのだ。
まるで奈緒ちゃんに関する記憶だけが失われたかのように。
その奈緒人の行動には二つの側面が会ったと思う。一つは精神病理学的な側面だ。あた
しは奈緒ちゃんのことを一言も口に出さない奈緒人は、自分の妹や実の母の記憶を失って
いるのではないかと考えていた。それは昨年結城さんと姉さんが子どもたちに事実を打ち
明けたときの奈緒人のショックで証明されたと思う。
解離性障害。そのうち奈緒人に当てはまるのは解離性健忘という症例だった。
あたしはそのことを以前に少しだけ奈緒人に話したことがあった。あのときの奈緒人は
混乱していたしはっきりとは覚えていなかったんじゃないかと思うけど。それは人間の心
の自己防衛機能のひとつだ。
例えばレイプされた女の子はその衝撃的な事実から自分を守るためにそのときの記憶を
全く失ってしまう。普通なら障害トラウマになりPTSDを発症するような出来事だけど、
本人には全くその記憶がないので傷付くことすら生じない。
奈緒人の実の母親にネグレクトされた記憶や奈緒ちゃんとの別れの記憶もきっとそうい
うことになっていたのではないか。
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