366:海へ行く日(お題:サヨナラ)3/3 ◆Yiyjt.sk4Y[sage]
2013/08/16(金) 05:29:40.05 ID:SlbyiViy0
「……さん。……さん。おきて……」
私は強く目を見開いた。それと同時に彼女の手が私の頬にそっと置かれるの
を見た。
「大丈夫ですか? ほら、起きて。今日は海に行くんでしょう。もうそろそろ
起きないと道路が混みますよ」
「ああ、そうだった。大丈夫。なんだか変な夢を見たみたいで。ああ、大丈夫
だよ。もうこんな時間か。もっと早く起こしてくれてもよかったのに」
「何度か起こしましたよ。でもあとすこし待ってくれ、あとすこしだからって
何度もおっしゃるから」
「そうか。すまない。よし、君はしっかり起きているようだ。これならなんと
か混む前に海に着けそうじゃないか?」
「まったく……」
そう言うと彼女は台所へ向けて歩き出した。いつもの習慣でパジャマの裾を
引っ張ってやりたい欲求に駆られたが、裾はすでに手の届く範囲の外にあった。
息を深く吸うとコーヒーの匂いがした。彼女はずっと前に起きていたのだろう。
そして私がベッドから転げ落ちた音を聞いて――おそらくいつものように子
犬じみた小走りで――駆けつけたのだ。私は首をひねってみた。普段通りに動
かすことができる。なんとなく手首を見てみた。何もない。たしか、夢の中の
私は縛り付けられていて、なんだかとても恐ろしい目に遭ったような気がする。
しかし、そんなこと、今はどうでもいい。重要なのは今日、海へ行くことだ。
彼女と初めて出会った海へ行くこと。そして……
パンを焼くいい匂いがしてきたとき、ふいに彼女の携帯電話の振動音が聞こ
えた。彼女はすばやくエプロンのポケットに手を入れた。私は気付かないふり
をして、床に仰向けに寝転がっていた。薄く開けた横目で、彼女が私の目の届
かないところへそっと歩き去っていくのを見た。フローリングを歩く足音には、
かすかにためらいのような物が含まれているように感じられた。メールを打っ
ている気配もした。私はその相手を知っている。私の同僚であり、彼女の上司
であり、彼女の大学時代の先輩だ。これは思いすごしではない。私は知ってい
る。我々がいずれ別れなければならないということを。そして今日がその日で
あるということを。
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