904:黒の牢獄 (お題:遺影)2/6[saga]
2013/12/09(月) 22:28:48.72 ID:i5OAEZ7e0
<thief>
彦坂は立ち上がり、散らかった部屋の中心に置かれたさらに散らかった机を見た。まず鍵と携帯を探してポケットに突っ
込んだ。電気代の明細に通夜の知らせの葉書、空になったコンビニ弁当の箱。お前らはゴミ箱行きだ、と呟きながらゴミ
箱に向けて投げ捨てる。飲みかけの麦茶を飲み干し、掛けてあった厚手の上着を羽織った。気は進まないが、しょうがな
いな。頭の中で何度か繰り返し、家を出た。
彦坂の住むアパートから最寄駅までは10分弱かかる。歩きながら彦坂は、ヨットサークルにいたころの館野を思い出して いた。
彦坂が大学に入ったとき、2つ上の館野はまだ2年生であった。全然勉強しなかったら留年しちゃってさ、とあっけらか んと話す館野には、確かに大学の講義なんて似合わないように思えた。
自由な男。
それが彦坂にとっての館野の第一印象であり、いまでもそれが揺らぐことはない。一人乗りの小型ヨットを乗りこなす 館野の姿は、いまでも彦坂の目に焼き付いている。サークル自体が大会での勝利を絶対の目標にするような堅い雰囲気で ないのも館野にとってはよかったのだろう。時に風に乗って滑るように走り、時に荒れた海に強引に突っ込んでいく、た だそれだけが楽しいのだ、と館野は彦坂に何度も語っていた。
「亮さんは、何で二人乗り、やらないんですか」
あるとき彦坂はそう尋ねた。二人乗りで館野と組みたい、という下心があったのも事実だが、館野が頑なに一人乗りに こだわる理由が知りたかったのだ。
「んー、なんか、一人の方が楽しいんだよ。海と、ヨットと、俺。それだけで十分じゃないのか」
「そんなもんなんですかね」
「そんなもんだろう」
そう言って、その日も館野は子供のように気の向くままヨットで海を駆け回っていた。
そんな館野から、二人乗りヨットに乗ろう、と持ちかけられたのは彦坂も大学を出てからのことだった。驚く彦坂に、 館野は
「中古で安く売ってたから」
とだけ答えた。
それからというもの、毎週末のように彼らはヨットを走らせた。彦坂は、館野と乗るたびに他の誰と組んだ時でも得ら
れない不思議な高揚感をはっきりと感じ取っていた。サークルにはもっと上手い奴もいたはずであるが、海全体と共鳴す
るような館野のヨットさばきは彦坂の琴線に触れた。それと同時に、館野が無茶な操縦をしなくなっていることにも気づ
いた。大学にいた頃はどんなに風が強くても、その風を味方につけヨットを飛ばした館野が、いまでは風の穏やかな日を
選び、ゆるやかにヨットを滑らせることに終始している。彦坂は何か引っかかるものを感じながらも、自分を危険に巻き
込まないよう配慮しているのだろうとそのときは結論付けた。事実、館野はいつだって後輩たちの危険な行為には厳しか
ったのだ。
彦坂は、気づくと駅のホームにいた。いつもの習慣で、思い出に浸りながら無意識にでもここまでは辿り着くことがで
きる。だが、今日の目的地は会社ではなく館野の実家であり、普段とは逆の電車に乗らなければならない。
「しまったな」
そう口の中で呟き、向かいのホームを目指して階段を下った。
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