4:aho ◆Ye3lmuJlrA[saga]
2013/12/22(日) 17:23:20.13 ID:y7rCDTmB0
「コーヒーでも淹れましょうか……櫂さんもいかがかしら?」
「えっ、いやそんな、あたしが淹れますんで」
「そんなに気を遣わなくても大丈夫よ……少し待っていてね」
やんわり止められたので、櫂は渋々座り直す。
そのまま瞳子がコーヒーを用意するのをじっと待っていたが、どうにも落ち着かない。
芸能界は運動部以上に上下関係が厳しい世界と思い込んでいたが、この事務所はそうでもないのだろうか。
(……いや、それ言ったら大先輩の寝顔をのん気に眺めてた時点で物凄い失礼かも……)
櫂が一人悔やんでいると、
「どうぞ……」
と、目の前にコーヒーが差し出された。慌てて「ありがとうございます」と、両手で受け取る。
「櫂さんは礼儀正しいのね……」
「あ、えっと、ずっと水泳部だったもんで、はい」
しどろもどろになって応えると、瞳子は懐かしむように目を細めた。
「そう、水泳部……きっと、楽しかったでしょうね……」
「ええまあ、気のいい仲間にも恵まれて、毎日毎日泳いでばっかで……ははは、学生なんだからちょっとは勉強しろって感じっすよね」
「ふふ……いいじゃない……友達と思い切り遊んだ時間って、きっと一生の財産になると思うわ……」
そんなことを言われて、ちょっとじんときた。
よく考えると別段大したことは言われていないようにも思うのだが、柔らかな優しい声音のおかげか、自然と言葉が胸に染み渡るのだ。
まるで、聞いているだけで仲間たちとの楽しい思い出が脳裏に甦ってくるような。
(さすが、ベテラン女優は違うなあ……)
櫂がしみじみとその気持ちに浸っていると、瞳子はその柔らかな声音のまま、
「私はその頃、毎日一人でレッスンしていたわ……」
「……えっ」
「……ちょうど、仲間が皆アイドルを辞めてしまった頃で……事務所にお金もなかったものだから、あまり良いレッスン場が借りられなくてね……年配のトレーナーさんと一緒に、雨漏りの修繕をしたりしたわ……」
「……」
――どう返せばいいんだ、これ。
「……そ、そうなん、ですか」
「ええ……そのトレーナーさんはとても優しい方だったのだけれど、労働環境のせいか体を壊してしまわれて……そのままそのレッスン場は閉鎖されてしまったの……」
静かに語ってコーヒーを一口啜ると、
「懐かしいわ……青春の思い出ね……」
「……」
このコーヒーはこんなに苦かっただろうか。
暑くもないのに、背中に汗が滲んでくる。
自分が楽しい青春を送ってきたと話したばかりだから共感を示すわけにはいかないが、かと言って笑ったり茶化したり出来るはずもない。
ちなみに薄暗い青春を送った当の本人は別段こちらを困らせる意図はないらしく、むしろ懐かしい思い出を振り返ってちょっと上機嫌そうですらあった。
もちろん、アイドル業界はそんな甘いもんじゃないのよ、という説教の類でもなければ、同情を引くための不幸自慢でもないようだ。
本当に、ただ普通に、話の流れで自分の思い出を語ってみせただけ、らしい。
(もしかしてちょっと天然入ってるのかな、この人)
そんな、失礼なことまで考えてしまう。
「……ああ、そうだわ」
ふと、瞳子が何か思い出したように目を細めて、
「レッスン場と言えば……こんなこともあったわ……」
――続けるんすか、この話。
急速に事務所の空気が重くなっていくような錯覚に、櫂はごくりと唾を飲み込んだ。
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