過去ログ - やる夫が正史を書くようです38
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667:同じ本よりほかの箇所[sage]
2016/12/07(水) 22:00:59.49 ID:129YBKglo
p60
(「献帝春秋」の、董卓が「天下の主はかしこくないとだめだ。霊帝のことを思い出すとそのたびにむかっ腹が立つよ(中略)
それにまあ、劉氏のタネがいなくなったって、別にかまやしないじゃないか。」
(中略)なにぶんこの話は、裴松之が「史籍の在任」と罵倒した『献帝春秋』の記事だから、あまりあてにはならない。(中略)
だから、謹厳な鎮守は「劉氏のタネはのこらなくてもいい」のところだけをとり、范曄は「霊帝のことを思うと腹が立つ。」の部分だけをとり、
小説大好きの司馬温公は全面的に採用している。

p101
『後漢書』「伏后伝」華キンは(中略)后を収容するため兵をつれて宮中にはいった。
后は戸を閉め、壁中にかくれた。キンは后を引っ張り出した。(中略)
后は「もう生きてはいられないのでしょうか。」帝は言った。「私もいつまでの命かわからないのだ。」(中略)
一見してお粗末な小説だが、『資治通鑑』もだいたいそのまま載せている。
だいたい、というのは、后を引っ張り出すところを「戸をこわし壁を発いて」と華キンの行為をいっそう乱暴に書いているからである。
(※曹瞞伝に書かれてるが後漢書では削除したのを司馬光が資治通鑑で復活させた)

p396
(杜牧が、荀ケを「泥棒に壁を壊しかたを教えながら盗品をいっしょに持って逃げませんでした、というようなもの」
と、曹操に尻尾を振りながら漢の忠臣の美名を得ようとしている!と罵倒したことについて)
司馬光が「資治通鑑」建安十七年に右の杜牧の言を引いた上でこうたしなめている。
「孔子は『文が質に勝れば則ち史』と言っている。すべて史を為(つく)る者が
人の言を記すのは、以て之を文する(飾り立てる、尾鰭をつける)ところ有るにきまっているのである。」
(中略)しからば司馬光はそうした発言を自分の『資治通鑑』から取り除いているかというと
決してそんなことはない。立派な発言ならばみなちゃんと取り入れてある。
なぜならば、それが「歴史」だからである。

やはり司馬史観は小説だったのだ


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