過去ログ - 橘ありす「その扉の向こう側へと」
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11: ◆kiHkJAZmtqg7[saga]
2017/04/09(日) 15:44:40.17 ID:L8J356lk0
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ぼんやりとした意識が覚醒したのは、自分の身体がゆらゆらとした振動を感じなくなっていることを自覚した時だった。
……しまった、寝過ごしたかも。
慌てて辺りを見回す。だけど、予想していた光景はそこにはなかった。
「電車、止まってる……?」
そう。窓から見える景色は明らかに駅のそれではなく、電車の扉も一つたりとも開いていない。
しばらくアナウンスに耳を傾ければ路線のどこかで人身事故があって電車が止まっていることだけはわかったけど、そればっかりなせいで私の居場所はわからない。
ただ、はっきりとしない時間感覚から、きっと本来降りる駅を通り過ぎてしまったのだろうと予想はついた。
プロデューサーに連絡しないと。……ちょっと、気が重いけど。
私のミスで本来なら起きなかったはずの問題が生まれて、それで他の人に迷惑をかけてしまう……考えれば考えるほど後ろめたくて気後れした。
作詞だって、うまくいってないのに。
動かない電車の中で、身体をよじって鞄からタブレットを取り出す。
『橘です。事務所に向かっている途中で電車が止まってしまったので、到着が遅くなりそうです。迷惑をかけて申し訳ありません』
……これで、大丈夫だろうか。
文章とその内容に逡巡すること数分。
少しでも早く連絡した方がプロデューサーも対処しやすいだろう、とようやく観念してメールを送る。
返信はすぐに届いて、事務的なことはやっておくから心配しないで、と。
そしてどうしても電車が動かないようなら迎えに行くから連絡して、と、そう書かれていた。
怒ったり、困ったりしているような言葉はどこにもない。
それにもかかわらず、むしろそのせいで更に心が重くなるのだから、気遣いすら無駄にしているようで嫌になる。
小さく息をつく。やるべきことを終わらせたと思えば、代わり映えのしないアナウンスに不安といらだちを感じるようになった。
私の周りにいる人たちもそれぞれに全く違う事情を抱えていて、それでもたぶん抱いている感情は似通っているのだろう。
小さな声でいつ動くだろうかと言葉を交わす様子も目に入った。私には、そうする相手がいないけれど。
もうとっくのとうに目は冴えてしまって、だからとりとめなく記憶にも残らないような考え事をしていると。
ようやく、がたんと振動を感じた。
運転再開にはならないけれど、いちばん近くの駅までは動いてくれるらしい。
乗客らしく揺られた時間は、待っていた時間の十分の一にも満たなかった。
あっという間にその駅にたどり着いて、次に動き出すのはいつになるだろう。
駅名と路線図を見れば予想通り、降りる予定だった駅は通り過ぎてしまっている。
仕方ない。とりあえず降りよう。
電車を降りて、空調のきいていない空の下で風に吹かれて。
その次の一歩を、踏みだせない私がいた。
見知らぬ景色の中、急に世界が途方もなく広くなってしまったように感じた。
これからの方針を定めたらしい他の大人たちは、駅のホームに立ち尽くした私の横をどんどんとすり抜けて、いなくなっていく。
喧騒はゆっくりと静まり、どこか遠くへ。
私はそんな中でただひとり、どこへ行く力も見つからないまま置いていかれていた。
手元に抱えたタブレットを使えば、代わりの交通手段を見つけられたのかもしれない。
駅員さんに聞いてみれば、どっちへ行けばいいのかがわかるのかもしれない。
そうした方がいいことなんて、とっくにわかっているのに。
ああ、それでも私は、どうしてか立ち止まっていたかったんだ。
ひとりぼっちでこの広すぎる都会を歩くのが、ひどく怖かった。
ゆるりと緩慢な所作で、待合室へ。
少なくとも、待っていればいつか電車は動き始めるはず。
それが思っているより早くになることを期待しながら、私が選んだ道は……立ち止まることだった。
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