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姪「お兄ちゃんのこと、好きだよ?」男「……そう? -
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1 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[sage saga]:2012/09/10(月) 22:06:16.49 ID:f2pJeNOlo
◇序
これから僕が記す文章は、昨年八月から九月にかけての一ヵ月のあいだ僕を悩ませたある出来事についての記録として読んでもらいたい。
おそらく大半の人間にとっては、この文章は何の役にも立たないものになるはずだ。ある種の人間にとっては有害ですらあるかもしれない。
そう感じた時点で、この手記のページを閉じてくれて構わない。
なんだ、こういう類のものか、と、眉をひそめて忘れるのがいいだろう。それがお互いの為だ。
僕は何も誰かを不愉快にさせたくてこんなものを書いているわけではない。そのことを覚えていてくれれば幸いだ。
反対に、こういったものを必要としている人間がいるはずだと僕は思う。
この言い方は正確ではないかもしれない。
僕はこういったものを必要としてくれる人間がいるものだと信じたいのだ。
もしかしたらそんな人間はこの世にいないのかもしれない。
こんな記録を必要としているのは、ひょっとしたら僕一人なのかもしれない。
それは今の僕には判断のつかないことだし、またどちらでもいいことでもあった。
いずれにしろ、僕は書くことに決めたし、決めた以上は書ききってしまいたいと思う。
そうするために、僕はいくつかの不愉快な過去を自分の手で掘り返さなければならないだろう。
いくつかのかさぶたを剥がさなくてはならないし、ひょっとしたらその傷口に指を突っ込んで掻きむしらなければならないかもしれない。
それはもちろん、僕にとってもできるなら避けたいことだ。
SSWiki :
http://ss.vip2ch.com/jmp/1347282376
1.5 :
荒巻@管理人★
(お知らせ)
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もし、探しているスレッドがパートスレッドの場合は次スレが建ってるかもしれないですよ。
■ 萌竜会 ■ @ 2024/12/27(金) 07:13:23.83 ID:RNpZlb8Co
http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/aa/1735251203/
【安価】ジャン「マルコの死に顔面白かったなーw」 @ 2024/12/27(金) 03:37:23.08 ID:x92rkRgDO
http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1735238243/
アルティメット寿司じゃんけん早くやりたい @ 2024/12/26(木) 22:32:23.83 ID:hBvDa0350
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義姉から変なメールがきた のスレ主だ。 @ 2024/12/26(木) 13:53:16.21 ID:4lTrHP/b0
http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/part4vip/1735188795/
閑古美鳥 @ 2024/12/25(水) 21:22:58.81 ID:YY6WHNR0o
http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/aaorz/1735129378/
手毬「りーぴゃん、私もユールフィンカが食べたい!」 @ 2024/12/25(水) 20:21:00.20 ID:2zFqy3rDO
http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1735125660/
殺伐としたA雑にメリーサンが! @ 2024/12/25(水) 11:36:23.64 ID:1QHmKLXYo
http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/aa/1735094182/
■ 萌竜会 ■ @ 2024/12/25(水) 07:20:35.56 ID:HWdTDWrWo
http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/aa/1735078834/
2 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[sage saga]:2012/09/10(月) 22:06:52.48 ID:f2pJeNOlo
けれど、そうしなければ前に進めないという場合がある。何らかの新しい展開を望むとき、痛みが不可欠な場合は往々にして存在する。
あるいは、痛みや不愉快に耐えた先で得たものがまったくの徒労だったという場合もあるだろう。
それならそれでかまわない。つまり本当のところ、この文章を書くことで僕が得たい結果とは、展開ではなくて納得なのだろう。
これを記すことは、僕にとっては単なる記録で、整理でしかない。
その結果何かが得られるかもしれないという「期待」はほんのささやかなものだ。
たかだか文章を記す程度のことで何かが得られるはずだという、バカバカしい確信など持ち合わせてはいない。当たり前のことだ。
僕はあの一ヵ月のあいだにいくつかのものを失った。得たものは特になかったはずだ。
徒労というのならば、あの一夏の出来事こそがまさしくそう呼ばれるべきだろう。
けれど反対に、僕はあの出来事を通じて、本当のところ何ひとつ失っていないのではないかと感じることがある。
現に僕はそれ以前とほとんど変わらない生活を送っている。
なついていた猫がどこかに行き、大事にしていたギターが盗まれて、たったひとりの友だちがどこかに行ってしまった今でも。
中途半端な書き出しはよそう。何よりも順序が大切なのだ。
前置きは十分すぎるくらいに長引かせた。ここからはあの夏の出来事を反芻しよう。
あのむせかえるような夏のことを、可能な限り真摯に書き留めてみよう。
混沌に支配された一ヵ月と少しの出来事を、可能な限り感じた通りに。
3 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[sage saga]:2012/09/10(月) 22:07:19.79 ID:f2pJeNOlo
◇一
彼女がいなくなったのは、七月二十六日のことだった。
「なんだか、ときどき、すごくむなしくなるの。どうしようもない波が来て、頭をぐるぐるかき混ぜていくの」
いつだったか、彼女は笑いながら言った。朝から続いた霧雨で、街は灰色に煙っていた。
授業中だったので、その日の校舎はひどく静まり返っていた。
街中が、どこか遠くの国の王様の死を悼んでいるように静かだった。
授業をサボって、僕と彼女はよく屋上に行った。そこで彼女は僕にたくさんのことを話した。
彼女をよく知らない人間は、彼女が口を開くことがあることすら想像できなかっただろう。
実際、彼女は僕の前でだけ饒舌になった。それ以外に対しては、ずっと口を閉ざしていた。
「バッカじゃないの」
と、僕は彼女によく言ったものだった。
僕には彼女の考えの大半が子供っぽくてバカバカしい、現実から遊離したものにしか思えなかった。
だから僕は彼女の話を一通り聞き終わってから、いつもそう返事をすることになった。
4 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[sage saga]:2012/09/10(月) 22:07:46.33 ID:f2pJeNOlo
彼女は怒らなかったし、僕を説得しようともしなかった。
どちらにしても彼女の態度は同じだったし、そうである以上僕の返事も同じだった。
じっさい、彼女の語るあれこれよりもよほど切実な問題が、現実には山ほどあるように、僕には思えた。
金が必要だった。時間と住む場所が欲しかった。早く学校を出て、職に就かなきゃいけなかった。
可能な限り早く独り立ちしたかった。金を貯めて、何が起きても大丈夫な状態にしておきたかった。一刻も早く。
どれだけ困難であろうとも、そうしておきたかったのだ。
でも、彼女はそんな僕を見て笑う。
「無理だって、そんなの」
僕たちはきっと似た者同士だった。容器の形が違うだけで、中身はおんなじものだったのだ。
本来ならひっかき傷程度で済む怪我が致命傷になってしまう。
瓶にヒビが入って、中の水が漏れ出している。壊れてしまったものを直すことはできない。
ヒビの入った瓶は新しい水を受け入れることができないのだ。
だからこそ、彼女の辿った結末を、僕だけはしっかりと覚えておかなくてはならないのだろう。
5 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[sage saga]:2012/09/10(月) 22:08:15.64 ID:f2pJeNOlo
「遠くにいきたいな」
と、ときどき彼女はそんなことを言った。
「遠くってどこ?」
「月とか」
その言葉に、僕たちは顔を見合わせて笑った。
けれど実際、彼女はいなくなってしまった。
きっと、夜明け前、霧雨に煙る街を出たのだ。
街には人ひとりいなかっただろう。電線の上から何十もの鴉が彼女を見下ろしていたはずだ。
手ぶらのまま、彼女は南に向かって歩き出す。近所の公園にでも行くような気軽さで。
少し湿った空気に、少しだけ心を躍らせて。
そしてずっと遠くについてから思うのだ。「いつのまにこんなところまで来たのだろう?」と。
彼女はきっと一度も振り返らなかった。そして二度と戻らないだろう。
旅立ちの日、彼女の姿を見たという者、彼女がいなくなったことに気付いた者は、ひとりもいなかった。
ただのひとりだっていなかった。
僕はその日、彼女のことを思い出しもしなかった。
6 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
(チベット自治区)
[sage]:2012/09/10(月) 22:08:37.42 ID:2XJa1cavo
きもちわるい
7 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[sage saga]:2012/09/10(月) 22:08:50.18 ID:f2pJeNOlo
三週間後の土曜日、彼女がひとりで暮らしていたアパートの部屋を、彼女の叔父が訪れた。
部屋の中は整然としていた。生きる為に必要なもの、便利なものはあっても、それ以上の余分なものはなにひとつなかった。
部屋にあったのは無愛想な机と最低限の筆記用具、それから低めのテーブル、小さめの冷蔵庫だけだった。
冷蔵庫の中には大量のミネラルウォーターが入っていた。それ以外には何も入っていなかった。
テレビもパソコンもなかった。本棚もCDラックもなかった。なにもなかった。
机の上には携帯電話が放置されていた。充電は切れていた。
後になってから、彼女に関する情報を求めて、彼女の叔父がその携帯を充電した。
数十分放置されたのち、電源が入れられる。
叔父が画面を開くと、ディスプレイは数百件以上のメールの着信を知らせていた。
それらはすべて(本当にすべて)迷惑メールやメールマガジンばかりだった。
それ以外のものはなかった。ただの一通だってなかった。
誰も彼女に向かって何かを伝えようとはしなかったのだ。
叔父は未送信メールのフォルダを覗き、宛先のないメールが十数通保存されているのを見つけた。
すべてがすべて白紙だった。長く下に伸びていたが、どれだけスクロールしたところで何の文字も浮かび上がらなかった。
その長さはきっと、彼女の未練のようなものだったのだろう。何かがあるはずなのだ、という。
現実問題として、彼女には伝えたいこともなかったし、また伝える相手もいなかった。
それが致命傷だったのだ。
◇
8 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[sage saga]:2012/09/10(月) 22:09:24.54 ID:f2pJeNOlo
◇
これは携帯電話についての話ということになる。
9 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[sage saga]:2012/09/10(月) 22:10:07.91 ID:f2pJeNOlo
◇二
ドアがあった。数は数えきれない。その部屋には無意味な壁があり、無意味な扉があり、無意味な窓があった。
大抵の扉は横に三つずつ並んでいた。そこを抜けると同じ空間にたどり着く。
違うドアから入っても、たどり着くのは何もない、同じ空間。一切の実用性が排除された扉。
何処から入って何処から出ても一緒だ。
八月三日の十一時、僕はドアのショールームにいた。
無意味な扉とか、無意味な壁というのは、不思議な魅力にあふれている。
その先の空間はどこにも繋がっていない。にも関わらず、なぜか開けてしまう(それを試す目的でないにしろ)。
どん詰まりの魅力といおうか、迷路の袋小路といおうか、いずれにしろ、何かしら人を引き寄せるものがある。
少なくとも僕はそう感じた。
ショールームはアルミサッシ製造メーカーの事業所敷地内にあった。国道沿いに建つこの事業所の敷地は広い。
工場への入り口には大仰な門があり、労働者はこの門で警備員にIDを提示した上、車のまま入場する。
人々がいつ入場し、いつ退場したのかはその門のコンピューターによって管理されている。
ついでにいくつかの監視カメラが、その門の周囲を常に見張っている。
10 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[sage saga]:2012/09/10(月) 22:10:34.55 ID:f2pJeNOlo
敷地の全容は中で働いているものにしか分からない。外側からは把握できないほど広いのだ。
ショールームは門のすぐ傍にあり、こちらは一般にも開放されていた。
僕は夏休みで暇を持て余した小学生の姪を連れて、近所の自宅からこの工場へと歩いて向かった。
無骨に見える工場と、人を寄せ付けない巨大な門のせいか、ショールームは客寄せに難儀していた。
もちろん家を新築する場合などは、こういった場所にやってくるという場合もある。
(というより、そういった用事以外でこんな場所に来る理由を僕は思い付けない)
けれどその日に限っては事情が違い、子供向けのヒーローショーが催されていた。
その催事はどちらかというと、グループ加盟店の宣伝としての意味合いが強かったのだろう。
展示場を抜けた中庭にはいくつかのテントが立てられ、その下では浄水器だの非常時用ランプだのの宣伝が行われていた。
集客は――「こういった場所にしては」という枕詞があるにしても――なかなかだった。
近所の住宅街に住む大勢の子供連れが、無料で配られた水(例の浄水器を通してある)とうちわで熱気をごまかしていた。
11 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[sage saga]:2012/09/10(月) 22:11:02.93 ID:f2pJeNOlo
ヒーローショーに間に合うような時間に出発したものの、それを楽しむのが目的ではなかった。
むしろ、目的なんてなかったと言ってもいい。姪は今年十歳になる。僕とは七歳離れていた。
十歳ともなれば、ヒーローショーを無邪気に楽しむ、とはいかない。しかもその日のショーは男児向け。
体よく追い払われたのだ、と僕は思っていた。
姉は二十八歳のシングルマザーだった。十八のときに妊娠し、結婚。子供を産み、翌々年の春に離婚した。
それ以来ずっと実家で暮らしている。二十代前半の頃から、いつかは家を出ると言い続けたが、結局この年まで居座っている。
仕事が忙しいと言い訳して、若いころから子供の面倒はろくに見なかった。
まだ姪が小さいとき、一度でもおむつを替えると、誇らしげに面倒を見た気になっていたものだった。
実際には、おむつどころか服や靴下ですら自分の金では買い与えず、幼稚園の入園準備すらろくにしなかった。
すべての世話を父母に任せ、自分は外に彼氏を作っている。
幸か不幸か容姿だけはたいした美貌だったので、男にはいつも困らなかった。
とはいえ、バツイチで子持ちで二十八だ。まともな交際を考える男がどれだけいるだろう?
姪がいなければ、バツイチでなければ――とっくに新しい男との生活を歩めたのに、と姉は考えているだろう。
もちろん口先では愛しているだのなんだの言っている。半ば義務的、もしくは強迫観念的に。
12 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[sage saga]:2012/09/10(月) 22:11:29.42 ID:f2pJeNOlo
でも実際にはこんなものだ。たまの休みに一緒に出掛けるでもなく、弟に世話を押し付けて自分は服を買いに出かけている。
それを不満に思わないと言ったら嘘になる。でも、姪と遊びに出かけるのが不愉快というわけじゃなかった。
姪は、母親が反面教師になったのだろう、子供の割に落ち着いていてしっかりしている。
少し引っ込み思案なところはあるが、賢く、心優しい子だ。めったにわがままも言わない。
身内の欲目も少しはあるだろうが、母親があんなふうだからこそ、姪は父母や僕に気遣うようになってしまった。
不機嫌を隠そうともせず当り散らす母親を幼少期から見てきたのだ。
周囲を気遣う気持ちだけは人一倍強くなってもおかしくない。
姪がそんなふうに育ったのがいいことなのか悪いことなのか、それは僕に判断できることじゃない。
姉の生活についてだって、僕がとやかく言えることじゃない。
好き勝手言うことはできる。
けれど現実問題、姉と姪を家から出し、ふたりの暮らしを始めるとなったとき、とばっちりはすべて姪にいくのだ。
だから、父母としても姉を追い出すわけにはいかない。
13 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[sage saga]:2012/09/10(月) 22:11:55.73 ID:f2pJeNOlo
姉はときどき姪につらく当たる。姪もまた、母親が自分を疎んじていることを感じている。
だからこそ彼女はそんなとき、あまり母親に近付かない。母親にどれだけ話したいことがあっても黙っている。
嵐が過ぎ去るのを待つかのように。
七歳だった僕は十七歳になり、姪は十歳になった。
僕は姪を歳の離れた妹のように思っていた。
むしろ姉の方をこそ、僕は同居している親戚という程度にしか考えられなかった。
すべての判断は保留のまま、十年の年月が流れた。
嵐は一向に過ぎ去る気配を見せていない。
14 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[sage saga]:2012/09/10(月) 22:12:23.38 ID:f2pJeNOlo
スレタイミスったけど書きます
15 :
たわし
◆TAWaSIT2OA
[sage]:2012/09/10(月) 23:41:46.47 ID:LmHYcKlIO
さっさと書け太郎
16 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
(東京都)
[sage]:2012/09/11(火) 09:53:42.87 ID:L4GJcbPDo
期待してる
17 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[sage]:2012/09/11(火) 11:46:06.58 ID:Id582b34o
◇三
案の定、姪はヒーローショーには興味を抱かなかったようだった。
強い日差しから逃れるように、僕たち二人は屋内に戻った。
ヒーローショーの代わりに、彼女は展示場のドアを開けるのに夢中になった。
どこかに出るわけでもないのに、ただ静かにさまざまな扉を開け閉めする。
中庭の催事場に人が集まっているので、ショールームの中はほとんど無人で、ひどく静かだった。
僕たちふたりは黙って扉を開け閉めする。姪は少しはしゃいでいるようにも見えた。
「楽しい?」
と僕が訊ねると、
「うん」
と本当に楽しそうな顔で姪が頷いた。それだけで来てよかったと僕は思った。
そして、この場に居ない姉に対して更に怒りを燻らせることになった。
18 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[sage saga]:2012/09/11(火) 11:47:34.48 ID:Id582b34o
僕のそんな感情を、姪はよく察した。そのたびにかわいそうなほどうろたえる。
僕が母親について些細な(本当に些細な)文句を言ったときでさえ、彼女はひどく悲しんだ。
彼女は別に、僕が言うことが間違っているとは思っていないだろう。
ただ、どのような人間であるにせよ、彼女にとってはそこに存在している実の母親なのだ。
「だからなんだ」という気持ちもあった。
実の母親だからといって無条件に子から愛されるわけでも求められるわけでもない。
求められるべきだという決まりがあるわけでもない。
だが、そんな言葉で姪が姉に向けている感情が消えるわけではない。
僕はいつしか、彼女の前で姉を話題にすることがなくなった。
彼女を悲しませたり傷つけたりしたいわけではないのだ。
姉のことを考えているうちに、ほとんどのドアを開け閉めしてしまった。
すべての扉を一周し終えると、姪は満足そうに溜め息をついて笑った。
僕はどちらかというとバカバカしいような気持ちになったけれど、姪の笑う姿を見ると少しだけ心も晴れた。
19 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[sage saga]:2012/09/11(火) 11:48:33.65 ID:Id582b34o
十分に遊んで満足し、僕らはもう一度外に出ることにした。
先を行く姪の背中を見ながら展示場を歩いていると、不意に視界の端に何かが引っかかった。
妙に気にかかって、その正体を確認する。
それは緑色の扉だった。緑色をしているという以上に取り立てた特徴はない。
しいていうなら、それは少し寒々しい壁に取り付けられていた。壁は塀のようにも見えた。
でも扉は扉だったし、壁は壁だった。僕はさして気にもとめず通り過ぎようとして、ふと疑問に思った。
こんな扉がさっきまであっただろうか?
あったといえばあったような気がしたし、なかったといえばなかったような気もした。
突然扉が現れるなんてことはありえないので、おそらくは何かの錯覚なのだろう。
けれどその錯覚らしきものが、僕の頭の奥の方にじんわりと広がっていった。
僕はためしにその扉に歩み寄り、ノブに手を掛けてみる。がちゃりと音を立て、ノブが動くのをやめた。
安堵の溜め息をつく。どうやら扉がかかっているらしい。自分がとてもバカなことをしたような気分だった。
そして気付く。
――鍵?
20 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[sage saga]:2012/09/11(火) 11:49:50.47 ID:Id582b34o
背筋が粟立つのを感じた。僕は扉から少し離れた。ひどく気味の悪いものを見たような気分。
なぜ、どこにも繋がっていない扉に鍵がかかっているんだろう。開けるための扉に、なぜ鍵がかかっているんだろう。
ひどく不安な気持ちになる。その気持ちを振り払うために、ことさら明るく考えようとした。
ちょっとした手違いか何かで開かなくなっているだけだろう。
これだけの数のドアがあるのだから、そんなことがあってもおかしくはない。
そう考えてみても、気分は落ち着かないままだった。
しばらく呆然としていると、後ろから声を掛けられて心臓が早鐘を打った。
振り返ると、姪がきょとんとした表情でこちらをうかがっている。
自分が意外なほど動揺していることに気付き、僕は笑いだしたい気持ちになった。
「何かあったの?」
「……いや」
何もない。扉はどこにも繋がっていない。壁の向こうには意味のない袋小路があるだけだ。
「行こうか」
僕はごまかすように答えた。
姪は怪訝そうな表情を見せたが、さして気にするほどのことではないと考えてか、あまり追及してこなかった。
21 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[sage saga]:2012/09/11(火) 11:50:31.74 ID:Id582b34o
中庭のヒーローショーは既に終わっていて、悪役の着ぐるみが風船を配っている。
小さな子供たちが風船にはしゃぐ様子を見て、姪がうずうずしていたようだったので、「もらっておいで」と声を掛ける。
「いいの?」という顔で僕を見上げてから、少しの間逡巡していたが、彼女は結局駆け出した。
日向にくると、さっきまでの不穏な感触はどこかに消えてしまった。
気味の悪い感覚。きっと何かの錯覚だったのだろう。
もしくは、自分の中の神経質で過敏な部分が、薄暗い、ある意味では異様なあの空間に反応したのかもしれない。
ショールームには、どことなくそういう雰囲気がある。
姪が駆けだすのと同時に、悲鳴とも歓声ともつかない声が催事場に響いた。
子供の手から離れた風船が、勢いよく空へとのぼっていく。
するすると糸に手繰り寄せられるように、風船は西の方へと昇っていった。
僕はなんの気なしにその姿を目で追った。風船は展示場の建物の上を泳いでいく。
その人物と目が合った。
22 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[sage saga]:2012/09/11(火) 11:53:04.43 ID:Id582b34o
彼は展示場の二階の窓からこちらを見下ろしていた。僕は強い動悸に襲われた。
気味の悪い感触がふたたび鎌首をもたげる。
その顔には見覚えがあった。
見覚えというより、その姿はどのような言い訳のしようもなく、僕そのものだった。
もちろん僕は鏡や映像以外で自分を客観視したことはない。けれどその顔はたしかに僕に似ていた。というより、同じだった。
背丈も、服装も、顔のパーツのひとつひとつも、僕に似ていた。彼はこちらを見下ろしていた。中庭を、ではなく、僕を見下ろしていた。
目が合って少しすると、彼は口角を鋭く曲げ、ゆがんだ笑みを浮かべた。
その顔は、やはり僕に似ている。
僕は無性に不安な気持ちになった。催事場の光景やそこにいる人々の存在が、蜃気楼のように不確かに感じられる。
やがて彼は、窓辺から身を剥がした。去り際、こちらに向けてもう一度微笑する。
胸がざわざわと落ち着かない。足が縫い付けられたように、身動きが取れなかった。
異様な息苦しさを感じた。暑さにやられたのかもしれない。僕は重い体を動かして木陰を目指す。
水を飲みたかったが、浄水器についての講釈を長々と受けるのはごめんだった。
いや、見るからに物見遊山の学生に向けて、宣伝などはしないだろうが……そんな扱いは嫌だった。
木にもたれかかると、じんわりとした熱が体中に広がっていく気がした。
23 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[sage saga]:2012/09/11(火) 11:54:08.66 ID:Id582b34o
ふと、手のひらを掴まれて全身がびくりとこわばった。
「……ほんとに、大丈夫?」
心配そうにこちらを見上げる姪の表情に、落ち着きをとりもどす。
そして自分がひどく動揺していたのだと実感する。息を整えるのには難儀した。
「ああ」
やっとの思いでその相槌を吐き出したが、それではまだ不足だった。
僕は一度深呼吸をして、目を瞑って、頬を伝う汗をぬぐってから、頷いた。
「……うん」
姪はまだ不安そうな表情をしていたが、それでも僕が冷静さを取り戻したことが分かったのか、幾らか安堵したように見える。
……さっきのは、なんだったのだろう。
錯覚か、白昼夢か。
24 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[sage saga]:2012/09/11(火) 11:55:32.93 ID:Id582b34o
いずれにしろ、どうでもいい――と僕は考えることにした。
僕にはどこかに気をそらしている余裕なんてない。
姉と父母の関係は、日ごと険悪になっていく一方だ。
せめて僕だけでも、姪にとっての安らげる家族でありたい。
そうなれなくても、一緒にいて不安な気持ちにはさせたくない。
「せめて」。無責任な言葉だ。僕には現状を打破する力もなければ気概もない。
ただある状況の中でできることをやるだけだ。状況を改善しようとはしない。
でも、他に何ができるだろう。そんなことばかり考えてしまう。
今の僕はあまりに無力だ。
だから――早く独り立ちしなくてはならない。金が、職が、住居が必要だった。
いざというとき、僕だけの力で彼女を支えられるように。彼女が大人になるまでの、ほんの数年だけでいいから。
25 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
:2012/09/11(火) 11:55:59.61 ID:Id582b34o
つづく
26 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[sage]:2012/09/11(火) 15:17:40.60 ID:tCUMrUCSO
乙
前置きイタかったけど、本編はなかなか良いな
27 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[sage]:2012/09/11(火) 19:25:51.15 ID:oyz6xZIIO
乙
様子を見ようか
28 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[sage]:2012/09/11(火) 23:48:02.84 ID:9sqZ4/VE0
乙
おもしろい
29 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
(千葉県)
[sage]:2012/09/12(水) 20:27:18.11 ID:U2Sgx2kDo
あれ、この書き方はもしかして…
30 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/09/12(水) 22:46:25.35 ID:rI6aBzuyo
◇四
ヒーローショーの翌日はバイトがあった。
八時に出勤すると、バックルームでは夜勤の先輩がストアコンピュータの端末で廃棄商品のバーコードを読み取っていた。
十六のときに始めたコンビニのバイトも、気付けば一年以上続けていることになる。
この店は例の事業所の近くにある。つまり国道沿いで、工場のすぐ傍。ついでに住宅地も近い。
人の出入りは激しい。ひどく混む。品物は売れる。それだけ出さなければならない商品も増える。店全体もすぐに汚れてしまう。
人の出入りが多いコンビニは、人の出入りが少ないコンビニと比べると圧倒的に仕事量が増える。
その差はピンキリだと、先輩に聞いた。よくコンビニバイトは楽だというが、場所にもよるのだと今の僕なら言える。
夜勤の先輩はこことは別の店舗のシフトにも入れられていて、そちらの方が遥かに楽だ、といつもぼやいている。
「この店は異常だよ。あっちじゃ午前三時ごろに客なんて来ない。こっちだと、一人帰ったらまた一人来て、なんてのが珍しくない」
夜勤の基準は分からなかったが、彼はたしかに朝方になると疲れた顔をしている。
土日など学校が休みの日、僕は日勤で入ることが多く、時間の指定をせずにいたから八時や七時に出勤ということが多々ある。
そうなると夜勤と交代ということばかりで、彼とはよく話す機会があった。
(朝六時から九時まではちょうど混み合う時間なので、話す機会がない場合の方が多いが)
31 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/09/12(水) 22:46:55.69 ID:rI6aBzuyo
僕は先輩と軽く話してからユニフォームに着替えて出勤した。夏休みの予定の大半はバイトで埋まっている。
もちろん学生バイトの給料なんてたかが知れているし、何かの足しになるわけでもない。
それでも僕は早急に金が欲しかった。どれだけ少なかろうと、ないよりはましだ。
金銭的なことだけで判断するなら、ここではなく、もっと他にいい場所もあっただろう。
けれど、ここが家から一番近い場所だった。自転車や徒歩でも通える距離の。
それ以上遠い場所だと、父母の運転に頼ることになる。そうなると好きなだけ働くとはいかない。
売り場に出てすぐにレジに客が入った。一度捕まるとそのうしろに客が並ぶ。
その二人目が終わる頃に、またひとり増える。延々と増え続ける。
僕はそれらを可能な限り手際よくさばいていく。
大抵の客は缶コーヒーや煙草、雑誌や新聞などをひとつふたつ買っていくだけだった。
夏だからというので大量の氷やアイスを買いこんでいく人もいる。
こういう人が来ると片方のレジの動きが遅くなり、もう片方のレジに客が集中してしまう。レジに列ができるのはそういうときだ。
僕はとにかく落ち着いて、客の相手をすることにしている。
大勢の人間がやってくるのだから、中にはガラの悪い人もいるし、機嫌が悪い人だっているし、急いでいる人だっている。
そういう人がやってきて、僕の仕事ぶりに対して何かを言ったりする。僕の質問に対して答えをよこさなかったりする。
平謝りでその場をやり過ごし、とにかくその客を追い出して(実感としてはそんな感じだ)、次の客の相手をする。
ピークが過ぎるまでそれが続き、途切れる頃になるとさまざまな雑事をこなさなくてはならない。
そして雑事が終わるか終らないかというとき、今度は昼過ぎのピークがやってくる。
昼過ぎのピークが終わると、また雑事。夕方が近付くとまたピーク。
その頃に米飯類などの荷物が届く。このとき働く人間はピークの対応をしながら品物を出すことになる。
ちょうど夕勤と交代する時間だ。
僕は働くとき、あまりものごとを考えないようにしている。
32 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/09/12(水) 22:48:02.73 ID:rI6aBzuyo
◇
「それ、ドッペルゲンガーって奴?」
ちょうど退勤の時間が一緒だった先輩と、仕事が終わってからもバックルームに残って話をしていた。
夜勤で働く一人の先輩と僕を除いて、この店には男性がいない。
今話している先輩は当然女性で、学生で、僕より三つほど年上だった。
彼女は日勤の中で唯一まともに働く人間だった。
彼女以外の日勤は――そこには副店長なども含まれているが――正直、仕事が遅い。
なによりも、仕事を人任せにして、自分はほとんど動かない。
入ってきたのがもっとも遅い僕にこう思われているのだから、夕勤や夜勤の人も思うところはあるだろう。
僕は学校がある平日は夕勤に入っているが、その温度差はすさまじい。
同様に彼女も平日は夕勤に入るので、日勤に入るときはひどく憂鬱そうにしている。
手を抜きたがる人間の中のまともな人間と言うのは、ある意味では不幸な存在なのかもしれない。
もっとも僕だって、そんなに仕事ができるわけではないのだけれど、それでも真面目には働いているつもりだ。
33 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/09/12(水) 22:48:38.54 ID:rI6aBzuyo
僕は彼女と話をする機会が多かった。シフトが重なることが多いせいだ。
僕は彼女にいろいろな相談をしていた。
彼女は話を聞くのも相談に乗るのもうまかった。適度に歳が離れていたし、適度に歳が近かった。
だからこそ、前日、目撃したものについて、彼女に話してみる気になったのだ。
ドッペルゲンガー。自分と同じ姿をした幻影。
「死の予兆、ってよく言うよね」
先輩はからかうように笑った。僕は頷く。まぁ、そんなふうに茶化す以外の反応は、僕だって想像できなかったのだが。
自分によく似た人間を見た、と言われたところで、だからなんなのか、と言って終わりだ。
見たからどうだというのではない。あえて気にしないようにはしていた。
それでも、なんとなく据わりの悪いような感覚が、昨日からずっと続いていた。
なんだか、自分が知らないところで何かまずいことが始まっているような予感が。
けれど、そんなことを誰かに話したところでしょうがない。何かの誇大妄想だと受け取られてもしかたなかった。
それなのに、なぜ話題に出してしまったのだろう。
34 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/09/12(水) 22:49:09.57 ID:rI6aBzuyo
「……疲れてるの?」
案の定、先輩からの精神の不調を疑われた。
けれど、体は至って健康だし、休息も十分にとっている。
だとするならなおさら、錯覚や見間違いと言うのは考えにくいのだが。
「早く帰って寝た方がいいよ。明日も出勤でしょ?」
「……はい」
「日勤?」
「そう。じゃあ、わたしも帰ろうかな。お疲れ」
先輩は軽やかに立ち上がって、バックルームを出て行った。僕はしばらく動く気が起きなかったが、仕方なく無理矢理足を動かした。
35 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/09/12(水) 22:49:35.74 ID:rI6aBzuyo
◇
家に帰ると、母が姪と一緒にドラマを見ていた。僕が「ただいま」というと、母は「早かったわね」と答えた。
うん、と頷いて冷蔵庫を覗く。作り置きの麦茶が入っていた。コップに注ぐと、母が自分の分を要求する。
仕方なくコップをさらに二人分用意した。僕はリビングのテーブル近くに腰かける。
「おつかれさま」
と姪が言った。僕は曖昧に二、三度頷きを返す。たしかに疲れた。
「何かあったの?」
母は少し心配そうな表情をこちらに向けた。そんなに疲れた顔をしているのだろうか。
なんとなく不安になった。母がバイトから帰った僕にそんな言葉を掛けるのは初めてだと言う気がする。
たしかに疲れている。けれど、いつにもまして、というほどではない。
なんとなく納得がいかなかったが、そういう日もあるのだろう。そう思うほかなかった。
36 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/09/12(水) 22:50:08.74 ID:rI6aBzuyo
ふと、また嫌な感覚が広がった。ざわざわとした胸騒ぎ。不安が胸の奥に詰まる。
違和感のようなものだ。僕は自分の行動やさっきの会話におかしなところがなかったかを探したが、すぐには分からなかった。
コップの中の麦茶を飲み干した時、さきほどの母の言葉を不意に思い出した。
『早かったわね』
――早かった?
時計を見る。三時四十五分。僕が退勤したのは三時で、いつもは四時二十分には帰ってくる。
今日は先輩と話していたので、いつもより遅くなったのだ。
この時間よりも遅い時間に帰ってくることがないわけではないし、母が何かを勘違いしただけなのかもしれない。
僕は母に何かを訊ねようとしたけれど、何をどう訊けばいいのか分からなかった。
きっと何かの勘違いか、そうでなければ言葉が咄嗟に口をついて出ただけなのだろう。
僕だって似たような具合で、一度は相槌を打ったのだ。たいして会話を意識していなかったのかもしれない。
僕は努めてそれ以外の可能性について考えないようにした。
もっとも、それ以外にどんな可能性があるのか、僕には思いつかなかったのだけれど。
37 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/09/12(水) 22:51:02.82 ID:rI6aBzuyo
◇五
自室にもどって、僕は驚いた。
スタンドに立てかけておいたはずのエレキギターが、ベッドに横たわっていたのだ。
朝出勤するまで、ベッドには僕が眠っていたのだから、ギターがベッドに倒れているはずがない。
もし変化がそれだけだったならば、姪が悪戯でもしたのかと思えなくもないが、ギターの弦が切れていた。
しかもほとんどの弦が。かろうじて切れていないのは四弦だけだった。
それ以外の弦はすべて、中ほどから途切れて外側に跳ね上がっている。
僕はギターに触れて状態を確認してみた。そして間違いなく弦が切れていることを確認した。
なぜ弦が切れているのだろう。僕は漠然とした不安を感じた。
弦は何もせずに切れたりしない。錆びていれば弾いているときに切れたりもするかもしれないが、替えたばかりだ。
姪がペグを回して切ってしまったのか。それならば、どこかひとつの弦が切れるだけで終わりそうなものだ。
第一、そんなことをしたら、姪はすぐに謝りに来るだろう。
だったら母? 母は自分がギターをいじれば僕が良い顔をしないことを知っている。母ではない。
姉は僕がバイトに向かう頃には仕事に出ている。父も同様だ。……じゃあ、誰も触っていないのに切れたのか?
そんなはずはない。
38 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/09/12(水) 22:52:15.76 ID:rI6aBzuyo
だが、弦がこんなふうに切れている以上、人為的に切断されたのだろう。
よく見れば、ベッドの上にはニッパーが放り出されていた。
僕がいつも使っているニッパー。デスクの引き出しの中に入れてある。
姪も、母も、ニッパーの位置は知らないはずだ。僕以外が使う機会はないのだから。
知っているのは僕だけ。僕以外の人間は知らない。
僕以外の人間は――。
……何を考えているのだろう。僕はデスクの引き出しを開けてみた。そこからはたしかにニッパーがなくなっている。
けれど、だから何だと言うんだろう。ギターをやっていれば弦の交換くらいする。そうだとすればニッパーくらい持っている。
部屋の中でそういった道具をしまいそうなところを探せば済むことだ。別に場所を知らなくても問題はない。
でも、いったい誰がなんのために弦を切ったりするんだろう。
嫌がらせ以外の理由は、思いつかない。
それ以前に、その『誰か』は、いったいどうやってこの部屋に入ったんだろう。
姪は夏休みで家にいる。遊びにいったりすることはめったにない。それに付き合って、母も家に残っている。
家に人がいない時間はない。朝まで弦は切れていなかったのだから、有り得るのは僕が出かけてから帰ってくるまでの間。
僕がバイトに出る時間に、母は既に起き出していた。
39 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/09/12(水) 22:52:49.86 ID:rI6aBzuyo
もし、家族の仕業でないとしたら。
『早かったわね』
……思考が、一方向に引き寄せられる。僕は努めてその考えを頭から排除しようとした。
ふと、考えが浮かんだ。
普通に考えれば、他人の部屋に忍び込んだ場合、自分が侵入した痕跡を残そうとはしない。
物の配置にすら気を配るだろう。にも関わらず、ギターの位置は動き、弦が切れている。
つまり、犯人(そんなものがいると仮定すればだが)の目的は僕の部屋に忍び込むことではなかったのかもしれない。
むしろ、ギターの位置をあからさまに動かし、弦を切ること自体が目的だったのではないか。
なぜ"あからさまに"ギターを動かし、弦を切ったのか。
僕は根拠もなく考えを巡らせた。
つまりこれは、意思表示なのではないか。
僕の家族が家にいる間に、僕の部屋に簡単に忍び込み、ギターの弦を切り、何事もなかったかのように家を出る。
「自分にはそうすることができるのだ」という、これは意思表示で、つまりは脅迫なのではないか?
40 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/09/12(水) 22:53:25.36 ID:rI6aBzuyo
バカバカしい考えだ。何よりもバカバカしいのは、そうとでも考えないかぎり、こんなことをする理由が分からないということだ。
単なる嫌がらせとしてはリスクが多すぎるし、仮に嫌がらせだとするなら、なぜ自宅に忍び込むようなことまでするのか。
こういった類の行為は、大抵の場合所属集団内で行われるものがエスカレートっした場合に発生する。
学校、職場。――どちらでも、嫌がらせを受けた記憶はない。
――ドッペルゲンガー。何度振り払おうとしても、その言葉に僕の頭は支配されてしまう。
僕とまったく同じ姿をした誰かが、僕が仕事から帰ってくる前に、家にやってきた。
そして何食わぬ顔で母と姪に目撃される。そのときの態度は、おそらく不自然なものだったのだろう。
だからこそ母は『何かあったの?』と僕に訊ねる。
何者かは部屋に向かい、ギターをベッドの上に寝かせる。
僕がいつもそうするようにペグを回して弦を緩め、ニッパーで切断する。
そして何食わぬ顔で部屋を出る。玄関に向かい、家を出る。
「どこかに行くの?」と母は訊ねるだろう。
「ちょっとそこまで」とでも、彼は答えるかもしれない。
……「早かったわね」は、それに対しての答え、と言えるのか。
すべて、想像の域を出ない。
朝、寝惚けて自分でギターを倒してしまい、そのときに弦が切れたのかもしれない(ちょっと上手く想像できないけれど)。
思えば僕が違和感を抱いたのは母の言動だけだ。母がちょっとしたイタズラのつもりでやった可能性もある。
が、だとすると悪趣味にすぎる。もしそんなことがあったなら、それこそ母の精神の不調を疑わなければならないだろう。
41 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/09/12(水) 22:54:12.82 ID:rI6aBzuyo
「お兄ちゃん?」
と声がして、僕は振りかえった。部屋の入口に姪が立っていた。
立場としては叔父だったけれど、彼女が生まれたとき、僕は十歳だった。
僕は当然のように叔父と呼ばれるのを嫌がった。三歳ごろになると、姪は僕のことを、姉や父母がそうするように呼び捨てで呼んだ。
それもそれで不愉快だったので、僕は姪に呼び方を変えるようにと言った。
「お兄ちゃん」は、妥協点だ。
「なに?」
僕が問い返すと、姪は視線をあちこちにさまよわせ、こちらの機嫌をうかがうような声を出した。
「どうかしたのかな、って、思って」
不安そうな表情。自分だけは、彼女にこんな表情をさせたくないといつも考えていた。
けれどそれは理想であって、僕だって失敗もするし限界はある。いつでも彼女を気遣えるわけではない。
異変が大きすぎた、ということもある。
『それでも』、僕は可能なかぎり彼女にこんな表情をさせたくなかった。
42 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/09/12(水) 22:55:03.98 ID:rI6aBzuyo
僕はできるだけ明るい声音で言った。
「いや、ギターの弦を張り替えてただけだよ。すぐ下にいくから」
「そう、なの?」
「ああ」
もう一度頷く。
彼女は納得したようなしていないような曖昧な表情をした。
僕が視線を動かさずにいると、仕方なさそうに頷いて部屋を出て行く。
僕は溜め息をついて、弦が切れたままのギターをスタンドに立てかけた。
予備の弦はたしかにあったが、張り替える気にはなれなかった。
気味が悪い。いや、もっといえば、恐ろしくすらある。昨日僕を見下ろしていたあの視線。
あの目。僕のものと同じ、あの目。僕はなんだか、足元がぐらつくような感覚に襲われた。
ふとデスクの上を見る。メモが残されていた。その存在に、なぜ今まで気付かなかったのだろう。
僕が使っているものと同じメモ帳の切れ端。
だが、僕はこのタイプのメモ帳を、バイト先でしか使っていない。いつもユニフォームのポケットに入れっぱなしにしている。
――汗で服がべたつく。暑さのせいか、不安のせいかは分からなかった。
43 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/09/12(水) 22:57:11.60 ID:rI6aBzuyo
僕はそのメモを手に取る。拍子抜けしたような、肩透かしを食らったような気持ちになった。
そこには何も書かれていなかった。白紙。
そしてすぐに、その白紙のメモが、ひどくおぞましいものに思えた。
白紙であるにもかかわらず、メモを残す。
その行為の意図は読めないけれど、そこにはたしかな悪意的な意思が感じられた。
僕はメモをぐしゃぐしゃに丸めてゴミ箱に捨てた。それから落ち着いてコーヒーでも飲もうと考える。
リビングに降りて、母に頼んでコーヒーを入れてもらう。
僕はダイニングの椅子に座って全身の力を抜く。知らず知らず長い溜め息をつくと、姪が心配そうにこちらに駆け寄ってきた。
僕は彼女の頭を撫でる。昔から、ついやってしまう癖のようなものだ。
子供の頃は、何かをするたびに彼女の方から頭を差し出してきたものだが、近頃では子供扱いが嫌になったらしく、あまりいい顔をしない。
それでも僕の手を避けるようなことはしなかった。そのことは少しだけ僕を安心させる。
僕は少し考えて、そしてあのメモを残した誰かについて考えた。
さっきまでの想像を続ければ、あのメモは大きなメモを持つことになる。
気のせい、錯覚、見間違いでは済まされない。
最悪の場合、この出来事は僕だけでなく、僕の家族にとっての危険にもなりうるのではないか。
素知らぬ顔をして僕の部屋に忍び込み、何かの意思表示をした誰か。
いったい、誰がそんなことをするというのだろう。
コーヒーを飲んでも気分はまったく落ち着かなかった。
さっきまでの漠然とした不安は、既に得体のしれない恐怖に変わっている。
44 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/09/12(水) 22:57:38.64 ID:rI6aBzuyo
19-12 扉が → 扉に鍵が
つづく
45 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[sage]:2012/09/13(木) 06:41:07.89 ID:j5dX190bo
乙
また楽しみにしています
46 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/09/13(木) 17:27:07.01 ID:qpP07fyYo
◇六
胸騒ぎに反して、すぐに何か具体的な異変が起こることはなかった。
僕は相変わらず姪の相手をしながらバイトをして、長い夏休みを着実に消化していく。
数日経つと、結局あの出来事は何かの間違いで、気のせいだったのではないかと思い始めた。
人間の記憶なんて曖昧なものだ。ひょっとしたら僕はあの前日、ギターの弦を張り替えようとしたのかもしれない。
ギターの位置が動いていたのだって、僕が気にしすぎていたのかもしれない。
たとえばスタンドに上手いこと立てかけられずに倒れてしまったものを、母が気付いてベッドに寝かせた、とか。
そういう可能性だってないわけじゃない。思いつきはしたものの、確認する気にはなれなかった。
バイトのない日は姪の相手をして、付近で遊んだりもした。母の気晴らしに付き合って遠出もした。
予定のない夜は勉強に使った。ときどき気分転換にギターを弾いたりした。
弦を張り替えると、やはり何かの間違いだったのだという気分が強まる。
けれど、心の奥の方に、しこりのような不安がかすかに残り続けていた。
本当に、そんなふうにごまかしてしまっていいのだろうか、という不安が。
47 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/09/13(木) 17:27:33.48 ID:qpP07fyYo
八月六日は近所で花火大会があった。僕は夕方過ぎに、姪とふたりで街に出かけた。
近所からバスをつかって会場を目指す。浴衣姿の若い女が何人か乗っていた。
ラフな格好をした男も何人かいた。親子が連れ立っている姿もあった。
僕と姪は二人掛けの座席に座り、黙って後ろに流れていく窓の外の風景を見下ろしていた。
姉は仕事から帰ってきていない。母は僕と姪をなかば追い立てるように出掛けさせた。
姪には友達がいない、と、母が言っていた。一緒に花火を見にいく友達がいない。
だからお前が連れて行ってやれ、と母は言ったけれど、その先でクラスメイトにでも会ったらどうすればいいのだろう。
友達なんていないところで、特に問題はない。僕の歳になればその程度は割り切れる。
表面上の付き合いで、ある程度はどうにかなるのだ。
でも、姪の歳では、そういうわけにはいかない。十歳の僕にとっては学校と家が世界のすべてだった。
もちろん姪にとってもそうだとは限らない。だが、簡単に割り切れる話でもないだろう。
良し悪しでは、あるのだが。
48 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/09/13(木) 17:28:03.56 ID:qpP07fyYo
適当な場所でバスを降り、会場へと徒歩で向かう。普段は寂れている道も、歩いている人が多かった。
僕は既に疲れていたが、姪に悟られぬよう、表情には出さないように心掛けた。
雑踏も喧噪も苦手だった。だからといって静かな場所が好きかと言うと、そうでもない。
ショッピングセンターの屋上駐車場には、臨時のステージが設置されていた。
パイプ椅子が何列も並べられいる。この街出身の演歌歌手が舞台の上で何かを喋っていた。
人はごった返していた。屋上には、数は少ないがいくつかの出店があった。
行列が多く、見ているだけでうんざりしそうだったけれど、時間は余っていたので、姪に何か食べたいかと訊ねた。
「かき氷」
たったそれだけの言葉を聞くために、僕は前かがみになり、彼女に耳を寄せなければならなかった。
それくらい騒々しく、人のうねりが激しかった。
僕と姪は手を繋ぎ、人ごみを掻き分けてかき氷を買わんとする人々の行列の最後尾を目指した。
さまざまな方角に好き勝手に歩く人々とすれ違う。そしてふと、自分がその中のひとりなのだと気付いた。
僕は自分がこの場所に、自分の意思ではなく、もっと大きな何かによって唐突に運び出されたような気がした。
なんだかとても孤独だった。宇宙に放り出されたような気持ちだった。でも、不思議と不安ではなかった。
ただ、たしかにそうなのだ。今これだけの数の人間がここにいて、僕を知っている人はいない。
いや、いるかもしれないが、とても巡り合えない。そういう実感があるだけだった。単なる感覚でしかないのだが。
49 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/09/13(木) 17:28:35.62 ID:qpP07fyYo
黙ったまま行列に並ぶ。その時間はさして苦痛ではなかった。さまざまな音が何かの皮膜越しに聞こえた気がした。
その不思議な感覚は、不意に肩を叩かれるまでずっと続いていた。
僕の肩を叩いたのは、バイト先の先輩だった。ドッペルゲンガー、と口に出した女性。
彼女は何食わぬ顔で僕の隣に並んだ。
「わたしもかき氷食べたい」
そう言って彼女は、ごく自然に僕の隣に立ち、僕と手を繋いでいた姪を見てきょとんとした。
「その子、誰?」
僕は彼女に姪を簡単に紹介した。
姪は人懐っこい笑みを浮かべてあいさつしたが、彼女は怪訝そうな表情になるだけだった。
「ずっと一緒にいたの?」
「一緒にって?」
「その子と」
「……ええ、まあ」
どうしてそんなことを訊くのだろう。
50 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/09/13(木) 17:29:02.82 ID:qpP07fyYo
彼女は納得しかねたような表情でうなる。自分に落ち度があったと思ったのか、姪がおろおろしていた。
行列が進む。姪を促し前に進んだ。先輩も、遅れてついてくる。
「ふうん」
かき氷を買って、僕たちは行列から抜け出した。
花火を見やすい位置を探そうとしたが、既に人々が見やすい位置を埋め尽くしていた。
屋上なので、みんな立ち見だ。当然、背の低い子供なんかは、最前列にでもいかないと見えにくい。
どうにか開いていそうなところを探し、三人で歩いた。
さいわい見やすそうな位置を確保できたので、待機する。
「先輩は、誰かと一緒じゃなかったんですか?」
「いや、別に」
一人で観に来たのだろうか?
「ま、いいからいいから」
何がいいのかは分からないけれど、先輩はここから離れる様子を見せなかったので放っておく。
時間が経つ。待ち疲れてうんざりしはじめたころ、誰かが時計を見て、始まるぞ、と言った。
51 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/09/13(木) 17:29:38.13 ID:qpP07fyYo
姪は屋上の手すりを掴んで背伸びをしていた。危ないぞ、とたしなめる気にはなれない。
遠い音が聞こえた。僕は空に目を向ける。姪が「あっ」と声をあげた。
花火が空の向こうに咲いた。
先輩が感心したように間抜けた溜め息をついた。
僕は姪の方に目を向ける。目を輝かせて、花火に見入っていた。
とりあえず、彼女が喜ぶのなら、それだけで来た価値はある。
納得のいかないことは多いけれど。
持ちにくそうにしていたので、かき氷のカップを代わりに持ってやる。
なぜかは分からないけれど、花火を見ていると気が滅入りそうだったので、僕はあまり真剣に空を眺めないでいた。
すると妙に不安な気分が沸き上がってくる。さっきのように、喧騒が皮膜を通したようにぼんやりと聞こえた。
何か気配に、振り向く。
背筋が凍った。
その目は僕を見ていた。
52 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/09/13(木) 17:30:15.86 ID:qpP07fyYo
振り向いた先の視界には大勢の人がいた。人だかりが、僕たちと同じ方を向いて立っていた。
けれど、視界を埋め尽くすほどの人間を、僕の頭は認識しようとしない。
そのときの僕に、彼らは蜃気楼のようにぼんやりとした存在に見えた。
不安になって、僕は姪の方に手を向けようとしたが、やめた。彼女は花火に見入っている。
邪魔をしたくなかったし、不安がっていると気付かれたくなかった。
汗がべたついて、気持ち悪い。
人だかりの向こうから、こちらをじっと見つめている目があった。
その視線はたしかに、こちらを、というよりは、僕を見つめているようだった。
周囲の視線が少し上に向かっているのにたいして、彼はまっすぐこちらを見ている。
その人物の顔は僕のものだった。
彼は僕に向けて、微笑んだ。
――その微笑みに、悪寒が走る。
以前見たときとは違い、彼はすぐには去ろうとせず、むしろこちらに向けて何かを伝えようとしているふうだった。
やがて僕の姿をした誰かは、小さく手招きをして、自分の後ろを示した――ように見えた。
臨時ステージに設置された、パイプ椅子。もう既に、そこには誰もいない。
53 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/09/13(木) 17:30:49.21 ID:qpP07fyYo
咄嗟に彼の手招きに応じようと足を踏み出しかけるが、先輩に手首を掴まれた。
「どこ行くの?」
彼女は見透かしたように言った。何か悪いことをしたわけではないのに、後ろめたい気持ちになる。
「ちょっと、トイレに」
僕は嘘をついた。なぜ嘘をついたのかは分からない。なんとなく、あの男の存在を人に知られるのが嫌だった。
当たり前と言えば当たり前の話なのだが……。
姪は不意にこちらを見た。視線は名残惜しそうに花火と僕をいったりきたりしている。
「先輩、少しの間、この子を見ててもらっていいですか」
「かまわないけど……」
彼女はあからさまな疑いのまなざしをこちらに向けた。
僕は詳しい追及を受ける前に、お願いしますと短く告げて、人込みを掻き分けて臨時ステージを目指した。
姪は花火から目を離し、手を振り払われたような表情でこちらを見ていた。
けれど僕は彼のもとを目指した。
なぜかは、やはり分からない。
54 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[sage]:2012/09/13(木) 17:31:58.89 ID:qpP07fyYo
36-6 四時二十分 → 三時二十分
>>45
いいかげん愛想を尽かされても仕方ないころだと思っていたので、
わりと真剣に励みになります
55 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
(チベット自治区)
[sage]:2012/09/13(木) 23:44:32.27 ID:MOwO+NS/o
乙
楽しみにまってます
56 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[sage]:2012/09/14(金) 00:26:19.53 ID:y4A7vTeo0
おいおい中々どうして引き込まれるジャマイカ
乙
57 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/09/14(金) 18:16:26.02 ID:mwhBKNv0o
◇七
特設ステージの脇に僕を誘った男は、物陰まで僕を促してから、こちらに向き合った。
「こんばんは」 と彼は笑った。
僕は答えずに彼の姿を眺めた。僕に似ている、というより、僕と同じ。鏡でも見ているようだ。
けれど――それまではまったく気付かなかったのだけれど――服装が違った。
彼は僕の持っていない服を着ていて、眼鏡をかけていて、髪が少しだけ僕より長かった。
だからだろうか、僕たちのことを気に掛ける人はいなかった。あるいは花火に夢中になっていて気付かないのかもしれない。
僕と彼の顔が鏡写しのように瓜二つだということに。
「初めましてというのも変な話だけど、やっぱり初めましてと言うのがふさわしいんだろうね」
僕が黙ったままでいると、彼はからかうような口調で言った。僕はひどく動揺している。
周囲のざわめきがとても遠く感じた。
僕は自分が幻でも見ているような気分だった。
自分がここにいるのだと漠然と思った。ここにいるのは僕なのだ。
58 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/09/14(金) 18:17:45.54 ID:mwhBKNv0o
何も答えようとしない僕を見て、彼はたたえていた微笑を消し、無神経なほど不機嫌な表情になった。
「――返事くらいしなよ」
その攻撃的な表情に、寒気がした。花火の音が鋭く響き、歓声があがる。
僕は身動きひとつとれなかった。
その表情は、ひどく生々しいものだった。人間らしいと言い換えてもいい。
僕ではない僕が、人間らしい表情を浮かべている。人間らしい仕草をしている。
その事実に、恐れを抱かずにはいられなかった。
無感情で爬虫類的な笑みを浮かべられただけだったなら、ここまで怯えることもなかっただろう。
人間にしか見えない。僕にしか見えない。それが一番おそろしかった。
「君は、誰?」
気付けば、そう問いかけていた。
彼は不愉快そうに眉をねじまげて、嘲るように笑う。
ひどく気分が悪かった。自分はこんなふうに笑うのだろうか?
自覚がないだけかもしれないが、少なくとも僕はこんなふうに笑わない気がする。
顔はそっくりなのに、仕草や表情は僕とまったく異なっているように思える。
59 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/09/14(金) 18:18:12.18 ID:mwhBKNv0o
「言ったところで分からないだろう。どちらかというと、僕から質問があるんだ」
「質問?」
「いくつかね。真剣に答えてほしい。僕にとってはとても致命的なことなんだ」
「……話が分からない。君が何者かも分からないのに」
「少なくとも生き別れの双子の兄ではないし、赤の他人のそっくりさんでもない」
彼は真剣な口調で言った。
「僕の名前は君が良く知っているし、住所も生年月日も分からないはずはない。家族構成は違うかもしれないけどね」
「……君は僕なのか?」
「僕は君ではない。君とは違う。でも、もし君という人間が持つ個人的要素と同じ要素を僕が持っているかと訊ねられれば、答えはイエスだ」
「――何を言っているのか、分からない」
「僕は君と同じ名前で、同じ生年月日に生まれた。同じ家に住み、同じ学校を出て同じ学校に通っている」
60 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/09/14(金) 18:18:56.86 ID:mwhBKNv0o
「そんなわけがないだろ?」
と僕はなぜか泣き出したいような気持で言った。
「僕の家に君は住んでいないし、僕と同じ学校に君は通っていなかった」
「でも僕はたしかに住んでいたし、たしかに通っていたんだよ」
それ以上は説明のしようがないとでもいうふうに、彼は口を閉ざした。
僕は彼の言葉を十分に咀嚼しようとしたけれど、思考は混乱していく一方だった。
こんな男の言葉を信用しようとするのがそもそもの間違いなのかもしれない。
不意に浮かんだ考えが、思わず口をつく。
「――ドッペルゲンガー」
「……え?」
僕にとって一番意外だったのは、彼のその反応だった。予想もしていなかった攻撃を受けたような表情。
彼は心底不思議そうな顔をしたあと、ひどく頼りない表情になった。
61 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/09/14(金) 18:19:30.66 ID:mwhBKNv0o
「それ、どういう意味?」
僕は彼の様子を不審に思いながらも、仕方なく答えを返す。
「君はドッペルゲンガーなんじゃないのか。僕にとっての」
彼は深く傷ついたような顔をした。僕は動揺する。こんなふうに彼が傷ついたりするなんて想像さえできなかった。
強い怒りや悲しみを抑え込もうとするような震えた声で、彼は静かに、強く言う。
「その言い方、やめろよ。それじゃあ、まるで――」
彼はかすかに俯いた。僕が目を細めて続きを待っていると、こちらをきっと睨んでくる。
不安が強くなる。足元がぐらついている気がした。僕という人間が、僕という固有性を失って空気に溶けてしまいそうだった。
「――それじゃあまるで、僕が偽物みたいじゃないか!」
その言葉は、まるで僕の方が偽物だと言っているようだった。
62 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/09/14(金) 18:19:58.40 ID:mwhBKNv0o
彼は興奮して荒れた呼吸をなんとか落ち着かせようとしていた。頬を垂れる汗をシャツの肩で拭く。
妙に息苦しくなってきた。周囲の景色がぼんやりと歪んでいるように見える。
彼は僕なのだろうか? ならば僕はいったい誰なのか?
僕が僕であることは間違いがない。――そうだろうか? そう思い込んでいるだけではないのか?
バカバカしい考えは、切り捨てるに限る。
彼はひどく混乱した様子で、僕の方を睨んでいたが、やがて落着きをとりもどした。
「……まあ、いい。そのことについては、どうだっていいんだ」
僕にとってそれはどうでもいいことではなかったけれど、だからといってさっきの彼の様子を見た上で問いを重ねる気にはなれなかった。
必死の形相で、自分は偽物ではない、と叫ぶ彼の姿に、僕は何が何だかわからなくなってしまった。
「僕が訊きたいのは彼女についてだよ」
「彼女?」
彼の視線は僕からずれた。その先を追いかける。視界の歪みが、少しだけ直っていく。
その先には、先輩と姪の姿があった。
63 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/09/14(金) 18:20:46.29 ID:mwhBKNv0o
「……あの、子供のことだ」
ひどく言いにくそうに、彼は言った。
僕は少し意外に感じた。てっきり先輩について言っているものだと思ったが、どうやら違うらしい。
「姉の子供だよ」
と僕は正直に答えた。
ここで嘘をつくことは無意味だと思ったのだ。けれど、どうして彼は彼女のことを知らないのだろう?
家族構成が違う、と言っていた。……状況が、上手く想像できない。彼の言葉の半分も、僕は理解できなかった。
目の前に唐突に現れた自分とうり二つの人間が、自分は「僕」だと名乗る。
「僕」がふたりいる。どちらかが本物で、どちらかが偽物でなくてはならないはずだ。
僕は本物だ、と少なくとも信じている。信じざるを得ない。ならば、彼は偽物。……そのはずだ。
けれど、どうして、家族構成の違いがあったりするんだろう。うまく想像できなかった。
「君になついているみたいだ」
「――そう見えるなら、そうなのかもしれないけど」
実際にどうなのか、僕には分からない。
64 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/09/14(金) 18:22:03.88 ID:mwhBKNv0o
「……そんなことがありうるのか?」
彼は自問するように呟いた。
「ありうるなら、それだったら、じゃあ僕は……」
彼の独り言は、僕をどんどんと不安にさせた。
僕には僕自身よりも彼の方が、よほど人間らしく考えたり感情的になったりしているように見えた。
不安が途切れない。僕は僕であって、そこにはどんな誤謬も挟まりようがない。……そのはずだ。
「ねえ、君は彼女のことをどう考えている?」
「どう、って?」
ふたたび歪み始めた視界の中で、彼の声は透き通るようにはっきり聞こえた。
「べつに。家族だよ。ごく当たり前の……」
「家族、ね」
含みがあると言うよりは、僕の答えを材料に思考を組み立てようとしているような相槌だった。
65 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/09/14(金) 18:22:55.07 ID:mwhBKNv0o
「家庭には、何の問題もないのか?」
「姉が……」
と言いかけて、僕は口を噤んだ。
そこまで喋ることはない。いわばこれは僕の問題なのだ。姉のことを話すのは筋違いだ。
けれど、途中までの答えを聞いて、彼はなるほどというふうに頷いた。
「それなのに、仲が良いんだね」
僕は頭に血が上るのを感じた。なぜだかは分からないが、自分の生き方それ自体をバカにされたような気がしたのだ。
侮辱や嘲笑のようなものに僕は弱い。相手にそのつもりがなくても、過敏に反応して感情的になってしまう。そういう傾向があるらしい。
「どういう意味?」
僕が投げかけた質問に、彼はあからさまに動揺した。
「いや、別に。ちょっと不思議だっただけだよ」
落ち着け、と僕は自分に言い聞かせる。ここで声を荒げても仕方ない。
「僕は別に君を挑発したかったわけじゃない。いくつか確認事項があっただけだよ」
66 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/09/14(金) 18:23:23.54 ID:mwhBKNv0o
彼は言葉の通り、ずっと何かに思いを巡らせている様子だった。
「いくつか、分かったこともある。分からないことだらけだけど……」
疑問を感じて、僕は質問を返した。
「同じことを聞くようだけど、君はいったい何者なの?」
「少なくともドッペルゲンガーじゃないことはたしかだ。でも、僕自身にも詳しいことが分かっているわけじゃない」
彼は言う。
「ただひとつはっきりと言えるのは、僕は何らかのめぐり合わせでこの場にいるということだ」
抽象的な言い回しに苛立ちを感じる。
67 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/09/14(金) 18:24:19.59 ID:mwhBKNv0o
「魔女の甘言に乗せられて、緑色のドアの向こうにやってきた。と、詩的に表現すればそんなとこか。はっきりとは言いたくない」
気恥ずかしくなるような表現で、彼は大真面目に言った。僕は少し考える。
緑色の、ドアの向こう。
『タイム・マシン』を書いたH・G・ウェルズの小説に、そんなものがあったっけか。
あるいはO・ヘンリの方かもしれない。そっちはどうしようもない出来だったと思うけど。だからなんだと言いたくなるような。
……何をくだらないことを考えているのだろう、僕は。
緑色のドア。――あの、ショールーム。
「ひょっとしたら」
と、彼は小さく呟いた。
「君にとっては、僕の存在がひどく致命的なものになるかもしれない。僕にとっての君がそうであるように」
僕は何も答えられなかった。
68 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/09/14(金) 18:25:02.90 ID:mwhBKNv0o
◇
「ところで、僕のギターの弦を切ったりした?」
「何の話?」
69 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/09/14(金) 18:25:29.01 ID:mwhBKNv0o
つづく
70 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[sage]:2012/09/14(金) 18:40:34.88 ID:y4A7vTeo0
乙
71 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
(東京都)
[sage]:2012/09/15(土) 08:44:33.27 ID:yhIZ+6/Mo
乙
面白いな
72 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[sage]:2012/09/15(土) 22:53:28.33 ID:GDQLF85IO
何作目だっけ?
73 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/09/16(日) 09:40:13.68 ID:26vfFW49o
◇八
帰りのバスの中で、姪はずっと黙り込んでいた。
一番のメインだった花火を見るとき、僕が一緒にいなかったので拗ねているらしい。
ありがたいといえばありがたい話かもしれない。でも、ちょっとだけ不安な気持ちだった。
なぜかは分からない。
姪は、何かをずっと考え込んでいるような表情だった。
子供離れした悲壮な雰囲気をまとっている。そこには一種の決意すら覗き見えそうだ。
僕は息が詰まる思いだった。
あの男、どう呼ぶのが正しいのか分からないので、そう呼ぶしかないのだが、結局あの男との邂逅は、僕に何も教えてくれなかった。
彼がどこの誰で、どのような人間で、僕とどのように関係するのか。なにひとつ分からなかった。
分からないことが増えただけだった。
74 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/09/16(日) 09:40:41.09 ID:26vfFW49o
「ねえ」
と姪が声をあげた。目を向けると、彼女はさっきまでとまったく変わらない姿勢、表情で、視線を床に落としている。
「わたしね、お兄ちゃんのこと、好きだよ?」
「……そう?」
唐突な発言に面食らったような気分で、間抜けな返事をした。
「おじいちゃんのことも、おばあちゃんのことも好きだよ」
「うん」
「お母さんのことも……」
彼女はそこで、何かをためらうように口を閉ざした。
少しの逡巡のあと、今度は不安そうな顔で僕を見上げて、姪はふたたび口を開く。
75 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/09/16(日) 09:41:32.25 ID:26vfFW49o
「お母さんは、わたしのこと嫌いなのかな」
僕はどう答えればいいのか分からなかった。
どう答えても、それは嘘になるような気がした。僕は姉ではないから、彼女が姪についてどう考えているのかは分からない。
直接聞いたこともない。僕にできるのは推測とか、想像とか、そういうことだけだ。
でも、そんな勝手な「推測」なんかを、姪にぶつけるわけにはいかない。
だから僕は、
「分からない」
と、そう答えるしかなかった。
彼女はそれきり本当に黙り込んでしまって、家につくまで一言も話さなかった。
その様子は家に帰ってからも変わらず、ずっと何かを思いつめているような顔をしていた。
家族の前では普段通りの自分を演じていたようだったが、そこは子供のすることで、様子がおかしいことにはみんな気付いていた。
気付かなかったのは姉ひとりだけだった。
76 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/09/16(日) 09:42:19.38 ID:26vfFW49o
◇
翌朝、早くに目を覚ました僕は、寝汗を洗い流そうとまずシャワーを浴びた。
ひどくうなされていたようで、髪もシーツもぐっしょりと濡れている。悪い夢を見ていたようだった。
服を着替えて、そういえば今日はバイトが休みだったな、などとぼんやり考える。
いつものように自分でコーヒーを入れて、窓の外の曇り空を眺めながら、ぼんやりと外を見る。
やがて姉が仕事の準備を済ませて降りてきて、軽い朝食をとったあとすぐに家を出て行った。
彼女がリビングを出ていくまで十五分と掛からない。
僕は溜め息をついてダイニングテーブルの上に置きっぱなしになっていた本を掴む。
けれど気分が落ち着かず、なぜだか集中できない。どうせ手慰みのつもりだった。僕は本を閉じる。
それから僕はただぼんやりと時間が流れるのを感じていた。
ただぼんやりと。それはとても透明な時間だった。すべての時間がすべてのものに平等に流れている。
そういうことを実感する機会は少ない。
77 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/09/16(日) 09:43:01.78 ID:26vfFW49o
どうも僕はどうでもいいことを考えているようだった。疲れているのかもしれない。
家の中はしんと静まりかえっていた。いつも静かな家なのだけれど、今日は昨日までと何かが違うという気がする。
何かが欠けているのかもしれない。何がだろう。
僕は少し考えてから、そんなことを大真面目に考える自分を笑いたい気分になった。
何かが僕を不安にさせていた。コーヒーを一口飲んで時計の針の音に耳を澄ませる。時間は確かに流れている。
僕はこのあいだからずっと何かを不安がっている。それは予感のようなものなのかもしれない。
『その言い方、やめろよ。それじゃあ、まるで――』
揺さぶられている。
足元がぐらつくのだ。足場が不確かで、身動きもとれない。
神経が過敏になっているのだ。
78 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/09/16(日) 09:43:58.62 ID:26vfFW49o
でも、僕は何を不安がっているのだろう。昨日会った彼のこと?
たしかにおかしいとは感じる。わけのわからないことだとも。でも、今感じているそれは、そういった不安とは種類が違う。
もっと漠然としていて根源的な不安なのだ。
階段が軋む音が聞こえた。上から誰かが下りてくる。父と姉は仕事に出ている。ならば母か姪だろう。
案の定姿を見せたのは母だった。妙に頭が痛くて、上手くものごとを考えられない。
母はダイニングを見回すと、すぐに出て行った。どうも他の部屋を見て回っているらしい。
いったい何をしているのか。窓でも開けるのかもしれない。
やがてもう一度階段が軋む音が聞こえた。今度は昇っているようだ。
僕は自分がとても疲れているような気がした。とても。時計の針の音はまったく変化がない。
やがて母はもう一度ダイニングに現れると、僕に向かって言った。
「……ねえ、あの子は?」
その朝、姪が家から姿を消した。塗りつぶしたような曇り空の日だった。
79 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/09/16(日) 09:44:41.28 ID:26vfFW49o
つづく
>>72
たぶん5本目だと思いますが、正確な数は覚えてません
80 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
(千葉県)
[sage]:2012/09/16(日) 10:29:10.89 ID:CBtKZXAzo
乙
前作がなぜさわったしなら5作目かな
今回は朝の更新が多いのかな
81 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
(田舎おでん)
:2012/09/16(日) 11:46:28.63 ID:TbrqZkko0
乙
82 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[sage]:2012/09/16(日) 13:26:10.34 ID:8SIkVUbf0
乙
83 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[sage]:2012/09/16(日) 15:39:07.90 ID:OkyiKr5IO
おっつん
約1年で5本ペースなのね
84 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/09/17(月) 09:47:24.05 ID:/CtqLgvYo
◇一
「自分のために生きるのは、やっぱり限界があるんだよ。どこかに無理があるんだ。どうやっても」
いつだったか、誰かが僕に向かってそんなことを言った。誰かは忘れた。
たぶんここ数年の間に一度でも話した誰かだと思うが、よくは思い出せない。きっと男だったはずだ。
でも、そんなのを必死になって思い出そうとする気にはなれなかった。
とにかく僕は自分のためになんて生きていたくなかったから、それならそれで一向にかまわなかったのだ。
85 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/09/17(月) 09:47:50.17 ID:/CtqLgvYo
◇
僕は姪の姿を求めて街を走り回った。
近所の公園、よく行った市営図書館、夏休み中の小学校。
それからあまり気は進まなかったけれど、何人かの同級生の家にも電話を掛けた。
当たり前のように彼女は見つからなかった。僕は彼女がなぜいなくなったりするのか分からなかった。
まったく分からなかった。前日、彼女の様子がおかしかったことには気付いていた。
でも、いったいどうして彼女がいなくなったりするんだろう。その理由はなんなんだろう。
彼女は自分の意思でどこかに行ったのか。それとも誰かに連れ出されたのか。
前者だとしても後者だとしても、その出来事は僕にとって不安でしかなかった。
見えない何かが自分に追いすがっているような気がした。
僕は彼女の行きそうな場所を考えてみて愕然とした。
彼女がどんな場所で遊ぶのか、どんな場所が好きなのか、僕はまったく知らないような気がした。
午後二時半を過ぎた頃、僕は歩き疲れて街中のベンチに座って休んだ。そして彼女のことを考えた。
焦燥が背中をじりじりと焼いている。吐き気がするような緊張が全身を覆っていた。
86 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/09/17(月) 09:48:29.57 ID:/CtqLgvYo
不意にポケットの中の携帯が鳴る。母からだった。
「今どこ?」
「……街」
「とにかく、一度帰ってきなさい」
「でも」
「いいから」
僕は電話を切ってから少し考え、帰りながら街中に彼女の姿を探した。
姪の姿は見つけられなかった。けれど家に向かう途中、彼に出会った。
87 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/09/17(月) 09:48:55.40 ID:/CtqLgvYo
◇二
彼は僕の顔を見て怪訝そうに眉をひそめた。僕と同じ顔。心臓が強く脈打つのを感じる。
空は滲んだ曇り空で、今にも雨が降り出しそうだった。
おかしなものでも見るような目でこちらを見下ろして、
「……どうした?」
と言った。
僕は溜め息をついた。深呼吸をして気分を落ち着かせようとする。でも駄目だった。僕の心は僕の言うことを訊かなかった。
「お前か?」
震えたその声が自分のものだと、僕は最初気付けなかった。
「……何の話?」
「あの子がいなくなった」
彼は息を呑んだ。僕は言葉を重ねる。
88 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/09/17(月) 09:49:22.97 ID:/CtqLgvYo
「お前だろ?」
返事はなかった。僕は苛立つ。
「お前が連れ去ったんじゃないのか。それ以外に心当たりがない。お前があの子をさらったんだろう?」
「――待てよ」
彼は真剣な表情で言った。
「落ち着けよ、取り乱すな。何があったんだ?」
僕はまだ気分の高ぶりがおさまらなかったけれど、だからこそ彼の言葉に従った。
深呼吸をして、なんとか頭に昇った血をおさえようとする。
混乱してはいけないのだ。動揺してはいけないのだ。こんなときだからこそ。
僕は疲れている。混乱している。そう自覚することで、なんとか落ち着きをとりもどそうとした。
やがて深い溜め息をつき、僕は正面に立つ彼の目を見た。
気分が悪くなるほど僕と同じ顔をしている。それが心配そうな顔をしていた。
気味が悪い。だが、なんとか落ち着けた。
89 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/09/17(月) 09:49:54.36 ID:/CtqLgvYo
「悪かった」
と僕は謝る。実際、根拠はなかったのだ。
「いなくなったって、何があったんだ?」
「分からない」
僕は昨日の姪の様子を思い出す。あの思いつめたような表情。
僕は何かを間違えたのかもしれない。言うべきことを言わなかったのかもしれないし、言うべきじゃないことを言ったのかもしれない。
何がそれだったのかは分からない。でも昨日、僕は彼女に何かを言い損ねたのかもしれない。
「……とにかく、一旦帰った方がいい」
90 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/09/17(月) 09:50:23.96 ID:/CtqLgvYo
彼は僕に向けて真剣な顔で促した。
「家に帰って、落ち着くべきだ。ひとりで探して見つかるほど街は狭くない」
「それはそうだけど」
「そうだからこそ、だ。僕もできることは協力する」
「お前が?」
「僕が」
彼は強く断言した。そう言われてしまうと僕は黙るしかなくなってしまった。
たしかに僕は混乱している。いちど落ち着くべきなのだ。落ち着いて考えるべきなのだ。彼の言う通り。
91 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/09/17(月) 09:51:06.46 ID:/CtqLgvYo
◇
当然、家には姪の姿はなかった。母は真っ青な顔でどこかに電話をかけている。姉と父かもしれない。
僕は帰ってすぐに自室のベッドに寝転んだ。どうして彼女がいなくなったりするんだろう。
頭が痛くてどうしようもなかった。手慰みに携帯電話のディスプレイを開く。
どこからも連絡はなかった。
気付けば僕は眠っていた。眠っている間、夢を見ていた。
嫌な夢だった。このままずっと姪が帰ってこない夢だった。僕は毎日を憂鬱そうな顔で過ごしている。
姉は家を出て行って、家は今以上に静かになる。
そして僕は寝て起きるだけの毎日をただただ繰り返し続けるのだ。
夕方五時半に目をさまし、ベッドを這い出た。気分はちっとも晴れない。不安なままだった。
窓の外では弱い雨が降っていた。この街のどこかで姪が雨に濡れている気がした。
そうすると僕はいてもたってもいられない気持ちになるのだけれど、現実問題として心当たりはなかった。一切なかった。
どうしようもない。母が僕に向けて何かを言ったが、その言葉は耳に入らなかった。
なんだか何もかもが透明で澱んだ皮膜越しに見聞きするようにぶよぶよとしている。
生活の中から実感と呼べるものが欠如していく。
いったい僕の身に何が起こっているのだろう?
92 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/09/17(月) 09:51:32.49 ID:/CtqLgvYo
つづく
93 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
(兵庫県)
[sage]:2012/09/17(月) 11:18:00.97 ID:vK/vQC+Ko
おっつん
94 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[sage]:2012/09/17(月) 13:19:50.25 ID:vQ/ky+gSO
期待
95 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[sage]:2012/09/18(火) 07:24:35.42 ID:3c4QHmVSO
楽しみ
96 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/09/18(火) 12:21:38.19 ID:vFG0Et9ho
◇二
リビングから話し声が聞こえた。僕は足音を立てずに階段を下りる。
母が何かを騒いでいる。相手は誰だろう。姉だろうか。
ここからでは、よく聞き取れない。
口論しているようだった。
足を止め、少し待ってからその声がやまないのを確認し、自室に戻った。
何かが致命的に狂いだしているような気がする。
でも、実際にはそんなことはない。何もおかしなところはない。
誰も彼もまっとうな反応を見せていた。
姪がいなくなったのだ。母は神経過敏になって姉を責めるかもしれない。
母に責められれば、姉は母の責任を問うだろう。なぜちゃんと見ておかなかったのかと。
父はその言い争いを聞いて声を荒げるに違いない。落ち着け。冷静になれ。きっとそんなことを言う。
誰も彼もまともだった。考えうるかぎりでも一、二を争うほどまともな反応だった。まともじゃないのは僕だけだった。
どうして僕はまともじゃないのだろう。……いや、違う。逆だ。
どうしてみんなまともでいられるのだ?
彼女がいなくなってしまったのに。
97 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/09/18(火) 12:22:04.99 ID:vFG0Et9ho
◇三
朝起きて、バイトに行く。僕は仕事中、何も考えないようにしている。
けれど姪がいなくなってからはそれがまったくうまくいかなかった。
何にも集中できなかったし、失敗をしてばかりだった。
そうして失敗したあげく、僕は集中し直そうと努力する。でも駄目なのだ。なにひとつ上手くいかない。
僕を正常に動かしていた歯車のひとつが欠けてしまった。それがあってこそ僕は動くことができたのに。
誰の言葉も耳に入らなかったし、どんな動作も実感として脳に伝わってはこなかった。
にも関わらず、不意に誰かに言われた言葉に傷ついたりしている。
そして何もかもやめてしまいたくなる。
こんなにまでなって働く理由なんて何も思いつかなかった。
だって彼女がいないのだ。働いたりするよりも、今すぐにでも駆け出して彼女を探した方がいい。
でも、心当たりはない。それは致命的なことだった。
自分が彼女について何も知らないのだと思い知らされるのが怖い。
いずれにしても僕はまともに動けなかった。まともに動けなくてまともに考えられなかった。
それでも僕はまともに動こうとして、まともに考えようとしている。
僕にはそのことが不思議でならなかった。
なにが起こっているのか? ――何も起こっていないのかもしれない。
僕は昨日までの自分を思い出そうとしてみた。もっと前の自分について少しだけ考えてみた。
でもどうしてもうまくいかなかった。どうあがいても、僕が思い描く自分の姿は赤の他人のように空々しかった。
98 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/09/18(火) 12:22:31.15 ID:vFG0Et9ho
「大丈夫?」
と先輩は言う。
「早退してもいいよ。もうすぐ、交代の時間だから」
「いえ」
と僕は断る。
「すみません。迷惑をおかけして。大丈夫です。だと、思います」
「本当に、そういうんだったらいいけど、でも、迷惑を掛けるのはやめてね。その前に、自分で判断して」
「……はい」
僕は頷く。でも、なぜ僕は帰らなかったのだろう? 一刻も早く彼女の姿を見つけたいのに。
その答えはまったく分からなかった。理由が何も思いつかない。僕はどうにかなってしまったのだろうか。
僕はなんのために働いているのだろう。……何のために生きているのだろう。
努めて、思考を頭から追い出す。いつものように動けばいいだけなのだ。まともに機能する、歯車になればいいのだ。
99 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/09/18(火) 12:22:57.49 ID:vFG0Et9ho
◇四
その夜、僕は眠れずにベッドを抜け出した。寝間着から着替え、財布と携帯だけを持って家を出る。
なんとなく気持ちが落ち着かなかっただけで、目的があったわけじゃない。
とにかく、今の僕に必要なのは冷静さだ。落着き。そのための夜の散歩。悪い考えじゃない。
僕の足取りはきっと覚束なかったはずだ。なにせ僕自身どこをどう歩いたのかまったく覚えていないのだから。
きっと夢遊病者のように見えただろう。実際似たようなものだったかもしれない。
気付けば国道にぶつかっていた。潰れたボウリング場の駐車場から、バイクのエンジン音が響いてくる。
目覚ましにはちょうどよかった。僕は歩く。夜とはいえ、夏の夜はひどく蒸し暑かった。
僕はどこまで歩くのだろう。足は勝手に進んでいく。
喉がひどく乾いていた。
気付けば僕は例の事業所の敷地に足を踏み入れていた。完全に不審者じゃないか、と自嘲する。
だが足は止まらない。ほとんど勝手に動いているようなものだった。
僕の足は勝手にショールームへと向かっていく。なぜだろう?
大仰な門の監視カメラが、僕の方を睨んでいる気がした。それは錯覚ではないだろう。
けれど今は、気にならなかった。
ショールームの入口は以前の明るい雰囲気とは違い、どことなく拒絶するような雰囲気が生まれていた。
僕はドアを押す。
なんの抵抗もなく、簡単に開いた。
100 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/09/18(火) 12:23:52.75 ID:vFG0Et9ho
◇
ショールームの中は静かだった。相変わらずたくさんのドアが並んでいる。
どれだけ静かに歩こうと、足音はうるさく響いた。僕以外に誰もいないのだから当たり前だ。
僕はここに何をしにきたんだろう。
なんとなくだけれど、何かをしなければならないような気がして、手近にあったドアを開けてみる。
何もない空間に繋がっている。
それは当たり前のことで、まともなことだった。
当然だけれどショールームに姪の姿はなかった。あるいは隠れているのだろうか。
彼女はきっと僕に見つけてほしくないのだ。彼女は気付いてしまっている。
最初から気付いていたのかもしれない。
「……」
ドアを幾つあけても、どこにも繋がらなかった。
開いた先には何もなかったし、誰もいなかったし、何も起こらなかった。
掛ける先のない電話のような、宛先のない手紙のような。
要するにそういう種類の空虚なのだ。
そういう空虚さの、象徴としての場所なのだ、ここは。
101 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/09/18(火) 12:24:19.40 ID:vFG0Et9ho
「……なんでだろう」
と僕は呟いた。なぜだろう。何がおかしいんだろう。ここにいると静寂に飲み込まれそうになる。
何か知らない場所へと連れ去られそうになる。真黒な怪物が、口を開けて待ち構えているのだ。
僕は最後のドアを開く。
開いた先は、やっぱり同じ。
やはりどこにも繋がっていない。
――僕は、最後のドアを、開いた。
「……え?」
僕は最後のドアを開いた。最後のひとつまで残さず開いてしまった。すべて。
なのに。
緑色のドアがない。
どこにもなかった。
102 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/09/18(火) 12:24:53.45 ID:vFG0Et9ho
◇五
不意に、ポケットの中の携帯電話が震えた。僕の心臓は強く震える。
落ち着け、と僕は自分に言い聞かせる。ドアなんて見逃しがあっただけだ。すぐ見つけられるに決まっている。
それより、今は電話だ。電話を受け取らなくては。
僕はディスプレイの表示をろくに確認せずに通話ボタンを押した。
――きいいいいいいん、と、音がした。
どこか遠くに繋がっている、と漠然と感じる。そことこことの間には、深い断絶、大きな溝がある。
僕は不安に駆られる。何が起こっているんだろう。訳の分からないことばかりが起きる。
この電話はどこから掛かってきているのだろう、と僕は不安に思った。
時空などをはるかに超越した場所から掛かっている気がする。
あるいは時間だけかもしれないし、空間だけかもしれない。どっちにしてもそこはここから遥か遠い場所に違いない。
そういう確信を根拠もなく抱く。なぜだろう。
「もしもし?」
と僕は言った。
誰かが呼吸するかすかな音が、電話から伝わってくる。
やがてその呼吸は声になり、言葉になった。
「――お兄ちゃん?」
103 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/09/18(火) 12:25:42.02 ID:vFG0Et9ho
つづく
104 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[sage]:2012/09/18(火) 12:31:22.85 ID:3q/DFyI+o
乙。続きが気になる
105 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
(東京都)
[sage]:2012/09/18(火) 12:45:24.91 ID:u6n5bUOxo
乙乙
106 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
(田舎おでん)
[sage]:2012/09/18(火) 13:28:32.26 ID:DVOARtx60
乙やで
107 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[sage]:2012/09/18(火) 16:22:17.36 ID:hdJuDZCIO
おっつん
緑色って怖いよな
108 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/09/19(水) 12:11:47.42 ID:SUryF2qSo
◇六
その声が、僕の鼓膜を揺すったとき、涙が出そうになった。
自分の中から何かが零れ落ちてしまいそうだった。自分の奥の方でうずくまっていた何かが揺さぶられていたようだった。
僕は深く安堵しかけた。それは無駄な動きだった。かりそめの安堵だった。一瞬だけの、まともな反応だった。
少しだけ悲しくなって溜め息をつく。何が僕をこんなふうに混乱させているだろう。
少なくとも今だけは、その答えが明白だった。
「誰?」
「……」
「君、誰?」
僕の問いに、電話の向こうの女が息をのんだ。
なぜだか知らないが、僕の言葉によって彼女が傷ついたような気がした。
僕はたしかにそう感じた。僕の言葉に、彼女はたしかに傷ついたのだ、と。そのことが僕にははっきりとわかった。
それは錯覚だったのかもしれない。彼女は平気そうに返事を寄越す。
「やっぱり、分かっちゃうんだね」
109 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/09/19(水) 12:12:35.54 ID:SUryF2qSo
昔からの知り合いのように、語らずとも前提を共有しあっているかのように、彼女は言う。
同い年くらいの女の子だろうか。誰かは分からないけれど、声には聴き覚えがある。
それでも僕は彼女のことを知らなかったし、彼女の言葉の前提を知らなかったので、「やっぱり」という言葉の意味は分からなかった。
「少しだけ、傷ついたよ」
大人びたような声で、平気そうに言う。僕はその声の主を知らない。僕もまた、少しだけ傷ついた。
彼女の声はあの子に似ていた。
お兄ちゃん、と彼女は僕を呼んだ。
どうして僕を期待させたりするんだろう。
どうして僕を騙したりするんだろう。
期待に揺れ動いた心がまた黒ずんでいく。
僕は未だ、どこにも繋がっていないショールームに立ち尽くしていた。
どこにも行けない。
でも、誰かに繋がっていた。
そこには何かの意味があるのかもしれない。根拠もなく思う。だって彼女は僕を「お兄ちゃん」と呼んだのだ。
そうである以上、僕と彼女について何かを知っていなければおかしい。彼女の居場所について、何かを知っているかもしれない。
110 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/09/19(水) 12:13:01.61 ID:SUryF2qSo
「君は、あの子が今どこにいるか、知ってる?」
もちろん、普通に考えれば知っているはずがない。ただ試してみただけだ。
何の意味もない、ただのテスト。あてになんてしてない。
彼女の答えはシンプルだった。
「むかつく」
「は?」
「わたしの話は?」
「……」
どうも、自分なりのペースというものを持っている相手らしい。
「……ん? いや、あ、そうか」
と、彼女はぶつぶつと独り言を始めた。電話を掛けてきておいて独り言というのもいかがなものだろうか。
僕は少しだけ彼女を叱りたくなったけれど、見知らぬ相手を叱れるような性格をしていなかった。
でもなんだか、彼女のことを叱ってやらなければならないような気がする。いや、気がするだけなのだけれど。
111 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/09/19(水) 12:13:28.89 ID:SUryF2qSo
「うーん……」
彼女は電話の向こうで深く溜め息をついた。何か判断をしかねているような気配がした。
僕は会話を始めて一分足らずで相手に主導権を握られつつあった。
なんとなく、緊張が緩む。
いや、なんで緩むのだ、と僕は気を取り直した。
知らない相手からの謎の電話。しかもこんな時間に。冷静になれば、むしろ緊張しなければならないのはこれからだった。
なのに、なぜだか、緊迫感はまるでなかった。
「それで、あの子の話だけど……」
「待った」
……出鼻をくじくのが特技なのかもしれない。
「ゆっくりと、話をしましょう」
彼女は、たとえを自ら示すように、ことさらゆっくりとした口調で、言った。
僕は「ああ」と頷きを返す。結果的に僕が知りたい答えが返ってくるなら、なんでもかまわない。
僕の反応に対したものなのか、彼女は「ちぇっ」と拗ねたように口で言った。舌打ちはしないらしい。
112 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/09/19(水) 12:14:13.46 ID:SUryF2qSo
「……君は誰?」
僕は冷静に話を運ぼうとしたが、彼女は取り合ってくれない。
「秘密」
「なぜ?」
「秘密主義者だから」
「それはなぜ?」
「秘密」
答えらしい答えが返ってこない。
113 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/09/19(水) 12:14:41.68 ID:SUryF2qSo
「でも、何もかも秘密じゃあお兄ちゃんがかわいそうだから――」
と、彼女は当たり前のようにあの子の呼び方を真似して、
「ルールを少しだけ教えてあげる。何にも分からないままじゃ大変でしょ?」
上から目線でそう言った。
僕は少し辟易しかけたけれど、なんとか堪えて続きを促す。
「……本題に入ってほしい」
「……ごめん。少しテンションあがっちゃって」
素直に謝れるのは美徳かもしれない。とにかく悪い人間ではなさそうで、僕はほっとした。
「それでね。えっと、あなたの……姪? 姪か。うん。の、ことなんだけど」
僕は彼女の言葉の続きを待った。
「わたしと一緒にいるから」
悪い人間ではないというのは気のせいだったらしい。
114 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/09/19(水) 12:15:16.86 ID:SUryF2qSo
◇七
「何が目的?」
と僕は訊ねた。あくまでも、冷静に、落ち着いて。ドッペルゲンガー(ではないらしいが)も言っていた。落ち着け、と。
落ち着きが大切なのだ。
ここで激昂して怒鳴りつけてもいいことがない。
電話を切られてしまえば姪の手がかりを二度と得ることができなくなるかもしれない。
それどころか、彼女が姪になんらかの危害を加えないとも限らなかった。
この陽気な少女は誘拐犯なのだ。陽気な狂人というのも、なくはないだろう。
「警戒しないでよ、そんなに」
彼女は取り繕うように言ったが、その言葉によって僕の警戒心がほどけることを期待してはいないだろう。
当たり前だよね、とでも言いたげに、彼女は笑う。
「わたしがしたいことはね、たったふたつだけだよ」
「ふたつ?」
「そう。ふたつ」
115 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/09/19(水) 12:16:20.45 ID:SUryF2qSo
「それは、なに?」
「ひとつは、復讐」
「フクシュウ?」
「そう、復讐」
「……」
「恨んでるんだ」
たいしたことではなさそうに、けれど確かな重さを乗せて、彼女の声は僕の耳に届いた。
そこには真実らしきものが隠れているように思えた。
少なくとも、その言葉が僕の耳には真実らしく聞こえた。
心当たりは全然なかったけれど、後ろめたい気持ちになる。
でも、少しだけだった。心当たりがないのだから、それ以上先に進みようがない。
「ルールの説明、始めてもいい?」
僕の返事を待たずに、彼女は続けた。
116 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/09/19(水) 12:17:12.38 ID:SUryF2qSo
◇八
彼女の話は抽象的で分かりづらかった。
「わたしは、いくつかの分岐と結果をあなたに見せるために来たの」
分岐と結果。抽象的なワード。僕はうんざりした気分になる。
はっきり言って、興味を抱けなかった。僕にとって重要な情報は、姪が今どこにいるのか。
どんなふうに過ごしているのか。それだけだった。それ以外の情報はほとんどすべてどうでもよかった。
「分岐と結果?」
と僕はなかば義務のような気持ちで訊ね返す。彼女はあからさまな僕の態度に気を悪くするでもなく答えてくれた。
「そのままの意味。あなたは、既にそれを見つけているはず」
「……何の話?」
「それから、あなたの方からわたしに働きかけようとしても無駄。絶対に、無駄。これも分かっておいてね」
……無駄らしい。どうりで質問してもまともな答えが返ってこないわけだ。
彼女は真面目な声音で続けた。
117 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/09/19(水) 12:18:04.38 ID:SUryF2qSo
「なぜだか分かる?」
「いや」
「わたしだって、できればあなたの影響を正面から受けられたら、と思う。でも、できない。決まってるの」
「なぜ?」
「人は空を飛べないし、猫は喋らないし、死んだ人は蘇らない。あなたはわたしを変えることができない」
何が言いたいのか、さっぱり分からなかった。
「とにかく、わたしはあなたに対して、いくつかのものを見せる。それはね、はっきり言って、あてつけみたいなもの」
「あてつけ?」
「逆恨み、って言ってもいい。でも仕方ないの。あなた以外のどこにも向かいようのない感情が、そうさせるの」
「僕以外には?」
そんなにも強い感情を向けられる心当たりはない。復讐。いったいどこで、そんな恨みを買ったのだろう。
そこまで強い感情を向けられるような心当たりを頭の中で探してみるが、まったく思い当らなかった。
118 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/09/19(水) 12:20:21.47 ID:SUryF2qSo
「厳密にはちょっと違うけど、でも、似たようなもの。……だと、思う。はっきりとは言えないんだけど」
彼女はそこで言葉を止めた。続く声は、祈るように響いた。
「あなたは、そこから何かを掴み取ってね。わたしが渡す情報から、何かを掴み取ってね」
僕は、その声がじんわりと耳の内側に広がっていくのを確認する。
それからしばらくの沈黙があった。僕はショールームの中にたたずんでいる自分を発見する。
ここはどこにも繋がっていない。宛先のない手紙。そういう種類の空虚さ。
この場所では、その空虚さが糸になって繋がるのだ。漠然とした認識。緑色のドアを通り抜けてくるのだ。
沈黙の果てに、彼女は子供のようなか細い声でささやいた。
「最後にはきっと、もう一度会えるよ」
それが姪のことを言っているのだと気付くまで、時間が掛かった。
「置いていかないでね」
その声はやはり、あの子に似ていた。
119 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/09/19(水) 12:20:47.65 ID:SUryF2qSo
つづく
120 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
(東京都)
[sage]:2012/09/19(水) 12:32:56.36 ID:We7Hgi+zo
ふむ
121 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[sage]:2012/09/19(水) 17:07:42.37 ID:ZJI4i+pIO
おっつん
122 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[sage]:2012/09/19(水) 17:43:19.72 ID:EwEhdhdIO
乙
123 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[sage]:2012/09/19(水) 18:37:26.61 ID:Dl9zTfN6o
乙
同じ顔か
124 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/09/20(木) 14:34:56.26 ID:XqK4XIK7o
◇八
気付けば電話は切れていて、僕は真っ暗なショールームに一人で立ち尽くしている。
もうこの場所はどこにも繋がっていない。誰ともつながっていない。まともな姿だ。
僕はひとりぼっちで立ち尽くしている。そこにはやはり姪の姿もない。
携帯のディスプレイは通話が終わったことを示していた。さっきまで電話がつながっていたのだ。
でも、もう繋がっていない。不思議な気分だった。何かどうしようもない断絶に触れた気がした。
それも一瞬だけのことだった。僕は溜め息をついて携帯を畳み、ポケットに突っ込む。
そして少しだけ考えた。さて、これからどうしよう?
分岐と結果。それを見せる、と女は言った。
でも、ここには何もない。僕は誰かに何かを見せられたりしていない。ここにあるのはごく当たり前の現実だけだ。
相変わらず僕が探している相手はおらず、相変わらず僕はショールームに立ち尽くしている。
僕はまじないでもかけるような他人事めいた気持ちで呟く。
「分岐と結果」
分岐と結果。意味が、分からない。考えてみよう。
選択と結末。
いや、分岐は選択とは限らないか。であるなら、偶然とその帰結。
分岐。それは僕の身に即した言葉なのか。だとするなら、その言葉が意味するところは明白に思えた。
125 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/09/20(木) 14:35:22.56 ID:XqK4XIK7o
なんらかの分岐。その地点が過去にあったとするならば、当然のように「結果」である現在は変わる。
要するに、「分岐とその結果」とは、「ありえたかもしれない現在」のことだ。
ごく単純に、彼女の言葉の意味を想像するならば。
当然の話として――そんなものをまともに信用できるわけがない。
だが――。
『あなたは、既にそれを見つけているはず』
――心当たりが、ないわけではない。
『魔女の甘言に乗せられて、緑色のドアの向こうにやってきた。と、詩的に表現すればそんなとこか』
「魔女」
と僕は声を出してみた。魔女とは、誰だ? 電話の女のことか?
彼女の目的は……。
『そう、復讐』
……復讐?
だとするなら、相手は……。
『あなた以外のどこにも向かいようのない感情が、そうさせるの』
やはり、僕、ということになるのか。
126 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/09/20(木) 14:36:03.95 ID:XqK4XIK7o
僕はちっとも冷静になれていない。混乱している。何が起こっているのだろう。
そもそも彼女はいったい何者なのだ?
僕は既に、その答えを知っているような気がした。
でも、そんなわけはない。声に心当たりはなかったし、彼女は名乗りもしなかった。
彼女に関して、僕はなにひとつ分からない。ただ感覚的に、なんとなく僕に関係がありそうだと感じるだけだ。
なんだか、ひどく疲れた。何も考えたくない。
ショールームの床に、僕は寝転がった。ひんやりとした堅い感触が背中に広がる。
こうしていると少しだけ気分がマシになった。さまざまなことを考えずに済んだ。
けれど本当なら、僕はむしろ考えなければならないのだ。
僕はあの子ともう一度会わなくてはならないのだ。
そして彼女がいなくなってしまった理由を知らなければならない。
姪は女にさらわれたのではない。自発的に出て行ったのだ。そのことに、僕は確信を抱いていた。
『最後にはきっと、もう一度会えるよ』
最後、とは、何の最後なんだ?
何が終わるとき、彼女に会えるんだ?
おそらく、彼女が見せたい『分岐と結果』を僕が見終えたとき、それが『最後』なのだろう。
127 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/09/20(木) 14:37:05.21 ID:XqK4XIK7o
そう気付いたのが合図だったように、足音が聞こえた。
体を起こして、音のする方に顔を向ける。暗くて姿は見えないけれど、相手が誰なのかはすぐに分かった。
分岐と結果。
おそらく彼は、もうひとりの僕なのだ。ありえたかもしれない、ひとつの結果なのだ。
暗闇からするりと這い出て、彼は窓から差し込む薄い月光の上にあらわれた。
僕と同じ顔。
表情は、いやに真剣なものだった。初めて彼を見た場所が、ここの二階だったことを思い出す。
「こんばんは」と彼は言った。
「こんばんは」と僕も返した。
そのやり取りに意味はなかった。僕たちはお互いが考えていることがなんとなくわかった。
「彼女に会ったの?」と彼は訊ねた。
「どっちの?」と僕は問い返す。
彼は少し面食らったような顔で僕を見返していたが、やがて諦めたように溜め息をついた。
128 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/09/20(木) 14:37:55.34 ID:XqK4XIK7o
「魔女についてのつもりだったが、両方」
「会ってない」
「本当に?」
「電話が来たんだ」
「電話」
彼は意外そうな顔をする。僕も、自分で言いながら違和感があった。電話を、彼女が持っているのか?
いや、持っていたとして、それが繋がるのか? もっといえば、彼女は掛けようとするのだろうか?
ひどく不自然でおかしな話に思えた。
魔女、と、彼は電話の女をそう呼んだ。僕もそれに倣う。意味はない。ただの記号わけだ。
「君は魔女について何かを知ってる?」
「何も知らない」
と彼は答えた。
「あの子は、魔女と一緒にいるらしい」
「……まあ、そうだろうね」
129 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/09/20(木) 14:38:35.55 ID:XqK4XIK7o
「どうしてだと思う?」
「分からない。けど、彼女はたぶん、繋ぐんだと思う」
「……繋ぐ?」
「電話みたいなものだよ。たぶん、このショールームが、そのための場所なんだ」
「待ってくれ。何の話をしているのか分からない」
「たぶんね、言わなくてもそのうち分かる。でも一応説明する。僕は魔女に誘われて、ここに来たんだ」
「"ここ"?」
「この世界」
セカイ。
「僕にとってこの世界は、いわゆるパラレルワールドって奴なんだ。最初君を見たときは、悪い冗談かと思ったよ」
彼はそこで嘆息した。その卑屈じみた笑みが、彼にはよく似合った。こんな言い方は失礼かもしれない。
でも、よく似合った。卑屈な自嘲。憫笑。それは僕にはないものだ。僕はこんなふうに笑えない。
僕と彼は似ているのではない。同じなのだ。
でも、明白に違う。彼は僕であって、僕は彼だったが、彼は僕じゃないし、僕も彼じゃない。
130 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/09/20(木) 14:39:04.69 ID:XqK4XIK7o
「だが、違う。悪い夢なんかじゃないんだ。僕は現実に彼女に誘われて、望んでこの世界を眺めにきた」
甘言に乗せられたのは本当だけどね、と彼はまた笑う。
僕は沈黙を返した。並行世界。
「分岐と結果」
と僕は頭の中で呟いた。
「たぶん、魔女は繋ぐんだ」
彼はもう一度同じ言葉を繰りかえした。
「僕や、君や、おそらく他の人間。あの子についても、みんなそうだ。そういう人間のある種の性質を利用して、繋ぐんだよ」
ある種の性質。
「繋がるはずのない電話で、繋がるはずのない番号にかける。当然、繋がらないはずなんだ」
空虚さ。
でも、と彼は続けた。
「彼女はそれを、無理矢理捻じ曲げて、繋げるんだよ。どうしてそんなことができるのかは知らない。でも彼女はそうするんだ」
「……分かったような、分からないような」
僕は困った。彼の言葉はやっぱり抽象的だ。どうすればいいのか、僕には分からない。
分からなければ、僕は二度と姪に会えない。……かもしれない。どうすればいいのだろう。
131 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/09/20(木) 14:39:32.14 ID:XqK4XIK7o
「ずっと気になっていたんだけど、どうしてそこまであの子に執着するんだ?」
その彼の言葉に、僕は痛いところをつかれたような気持ちになった。
家族だからだよ、と答えようとして、口籠る。当たり前のように家族だからだ。
でも、それは嘘かもしれない。
僕自身本当のところはよく分かっていないのだ。
僕はむしろ、彼の話を聞くべきなのかもしれない。
そして、なぜ彼が彼女に執着しないのか。その理由を確認するべきなのだろう。
そうでなければ、――あるいは、そうすることでこそ――僕の卑怯さが、矮小さが証明されてしまう気がした。
どっちにしたって同じなのかもしれない。
僕は諦めたような気持ちで答えた。
「夢も希望もないからかもね」
比較的、正直な気持ちで答えた。
「……何の話?」
「そのままの意味で、僕はなんにも希望がない人間なんだ。やりたいこともなりたいものも別にない」
「僕もそうだけど」
彼は平気そうに言う。少しだけ羨ましかった。
132 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/09/20(木) 14:40:20.91 ID:XqK4XIK7o
「そう。みんなそうなのかもしれない。でも僕は嫌だった。そういうことなんだと思う」
「……何が言いたいんだ?」
「僕はあの子のことを家族として大事に思っているし、人間として彼女が好きだ。
でも、ときどきこうも考える。僕は本当のところ、彼女を大事に思ってなんていないのではないか? と。
僕は彼女が「可哀想」だから相手をしてるんじゃないか? と。
他に何もやりたいことがないから、つじつま合わせ程度の「生きる理由」として、あの子の境遇を利用してるんじゃないか? と」
一息に言い切っても、彼は黙って僕の方をじっと見ていた。
「実際、僕はあの子が今のような境遇になかったら、きっとあの子に優しくなんてしなかった。
僕が彼女に優しくするのは、彼女が「可哀想」だからだ。そうすることで自分に付加価値を見出そうとした。
要するに僕は、結果的に「親につらく当たられている子供」としての彼女を望んでいたんだ。
彼女の不幸の上に、自分の価値を生み出そうとしたんだ。
たぶんそういうことなんだと思う。そういう汚さを、あの子は見抜いたんだ。きっと。気付いたんだよ」
「……」
「それを思うと、たまらなく怖い。息もできなくなりそうなくらいだ」
「――あのさ」
「なに?」
「落ち着けよ」
彼は呆れたように溜め息をついた。
133 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/09/20(木) 14:41:08.46 ID:XqK4XIK7o
「どうも君は、すごく混乱してるみたいだ。混乱していて、疲れてる。だからそんなことを考えるんだ」
「でも」
「でも、じゃない。そんなに混乱しておいて、彼女を利用しているだけだとか、よくもまぁそんなバカな話を考えられるものだ」
僕は少し驚いた。
彼は怒っている。明白に、怒っていた。
「君はいくつか思い違いをしている。君は間違いなくあの子を大事に思っているし、大事にしているよ。
そのことが僕にははっきりと分かる。僕だからこそはっきりと分かる。そこには同情もあったかもしれない。
でも、たしかに君は彼女のことを考えていたし、彼女のために何かをしたい、と思っていたんだよ。
もちろんそうすることで、自分に付加価値を与えるだの、なんだのとかいう、よく分からない話の期待も、あったかもしれない。
でも、“それだけ”じゃない。そんなことしか考えられない奴が、その汚さに気付かれて、「怖い」だなんていうはずがない」
彼の声が僕の耳を通って、言葉として理解されるまで、長い時間が必要となった。
僕は彼の言う言葉が何かの呪文のように聞こえた。意味を掴むのが困難だった。
でも、徐々にだが、言わんとすることが伝わってくる。
「怖いのは嫌われたくないからだ。軽蔑されたくないからだ。もし君が利用するだけの奴だったら、そんなふうには思わない。
こんなふうに、ひどく混乱したりしない。なんとしても彼女を失わないために、もっと理性的に、彼女をとりもどそうとするはずだ」
134 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/09/20(木) 14:41:58.48 ID:XqK4XIK7o
そして何よりも、と彼は続ける。
「その人が今幸せなのか不幸なのかは、その人以外には分からない。絶対に、分からない。
表層的なものの見方では分からないものなんだ。お前には彼女の境遇が不幸に見えるかもしれない。
でも、そうとは限らない。結局それは、比較からの結果論でしか分からないことなんだよ。しかも比較対象は空想だ。
“もしもこうだったら”と考えても、それはあくまで絵に描いた餅だ。そんなもんを比較対象にしたって仕方ないだろ?
少なくとも現実は、君が頭で思い描くほど単純じゃない。僕が知っているほど複雑ではないかもしれないが……。
だが、いずれにせよ、僕にとってはそれが唯一無二の現実だったし、それに比べたらこの世界の方が遥かにマシなんだ。
もちろんあっちの彼女が不幸だったとは限らないし、あっちよりマシだからこっちが不幸じゃないとかいうつもりはない。
でも不幸だとか、可哀想だとか、そういうものを理由になんてできないんだ。それだけは絶対なんだ」
途中まで何となく理解できたけれど、彼の言葉は一定の地点から理解できなくなった。
前提が共有されていないのだ。彼は僕の知らないことを知っている。
だから僕と違う結論を出せるし、僕の言葉を否定できるだろう。
根拠を知らない僕には、結局その言葉は気休めでしかない。
気休めでしかないけれど、僕は彼の言葉に励まされた。
涙が出そうなほどだった。
おそらくずっと不安だったのだ、僕は。もしも本当に、僕の気持ちが、薄汚れた利己的なものでしかなかったらどうしよう、と。
それを、無根拠とはいえ、力強く否定してもらえたことは、すごくうれしいことだった。
「とにかく、落ち着けよ。それから自分が何をすべきか考えるんだ。それはたぶん、僕にとっても大事なことなんだよ」
135 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/09/20(木) 14:42:36.90 ID:XqK4XIK7o
つづく
136 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[sage]:2012/09/20(木) 14:46:23.30 ID:v2Cr10FIO
おっつん
137 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
(東京都)
[sage]:2012/09/20(木) 14:58:06.99 ID:9+/Z6Hpyo
乙
読み返すとまた面白い
138 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[sage]:2012/09/20(木) 19:04:59.10 ID:mZUtTYE30
乙
139 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
(田舎おでん)
[sage]:2012/09/20(木) 19:40:57.18 ID:5N2BroJR0
乙乙
何となく序文・一がみえてきたな、期待大
140 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/09/21(金) 15:38:30.28 ID:gNdtp0tJo
◇九
僕と彼はひとまずショールームから出た。外では細かな霧雨がプランクトンのように宙を舞っている。
ひどく肌寒い。不思議なことに思えたが、かといって、そのことに何か重要な意味なんてありそうにもない。
彼は僕を振り返り、静かに言った。
「君と僕の違いってなんなんだろうな」
「違い?」
「たしかな違いがあるはずなんだ。でも、僕にはそれがよく分からない。ひょっとして、そんなものなかったのかもしれない」
僕と彼の違い。服装と眼鏡の有無。表情。でもきっと、彼が言いたいのはそういうことじゃない。
それは分岐と結果の話。
なぜ僕は今ここでこうしていて、なぜ彼は今ここでこうすることになったのか。
僕が彼の立場でなく、彼が僕の立場でなかったのはなぜなのか。その違いはなんなのか。
考えれば考えるほど頭が痛くなりそうな話だ。
141 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/09/21(金) 15:38:56.40 ID:gNdtp0tJo
「たぶん僕たち自身には決定的な違いはなかったんだと思う。しいていうならそれは外側が生んだ差異なんだ」
「外側」
鸚鵡返しの返答に短く頷いて、彼は皮肉げに顔を歪めた。
「"たまたま"こうだったのかもしれない、って意味」
「たまたま、ね」
だとするなら、僕たちは何に怒って何に感謝するべきなのか。
いずれにせよ、それも重要なことではないように思えた。少なくとも僕にとっては。
142 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/09/21(金) 15:39:30.54 ID:gNdtp0tJo
◇
僕はそれから家に帰ってベッドに倒れ込んだ。
ぜんぜん眠れなかった。何もかもが不安でたまらなかった。
何が不安なのか分からないくらいだ。僕は何かをなくしそうで怯えている。
僕は何を不安がっているのだろう。その不安の正体が分からないことが一番大きな不安だったのかもしれない。
僕は彼女にもう一度会えるのだろうか。
何が不安ってそれよりも大きな不安はなかった。とにかくただただ不安でたまらない。
油断をすると指先が震えだしてしまいそうだ。そのくらい巨大で圧倒的な不安だった。
僕は落ち着きをとりもどすためにコーヒーを入れて自室に戻った。蛍光灯をつけて、デスクに向かった。
それから机に積みっぱなしになっていた文庫本を手に取った。適当に買った小説だ。
読書はちっとも捗らなかった。名前がどうとか、名刺がどうとか言う話が続いている。
不条理なあらすじ。僕は溜め息をついてコーヒーに口をつける。でもそれだけだった。
コーヒーを飲んだところで、コーヒーを飲んだという結果以外はなにひとつ生まれなかった。
不安はなくならなかったし、本の内容は頭に入らなかった。
143 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/09/21(金) 15:40:38.92 ID:gNdtp0tJo
僕はこれからどうなるのだろう?
ふとどこか暗い場所へ連れ去られてしまいそうな気がした。
ここよりも暗い場所。霧が立ち込めた街。僕はどこかに連れ去られてしまう。
僕は疲れて机に体を投げ出した。どうもここは居心地が悪い。自分の部屋なのになぜだろう?
瞼を閉じる。頭が熱に浮かされたようにぼんやりしていた。
――きいいいいいいん、と、音がした。
意識が失われていく。僕の連続性が切り取られる。
どこか別のところに繋がってしまうのだ。おそらくは彼女の手によって。
それは錯覚かもしれない。錯覚かもしれないけれど、僕の中で、何かが変わってしまった。
144 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/09/21(金) 15:41:12.61 ID:gNdtp0tJo
◇
◆破
僕はひどく疲れていた。何かが僕を強く苛んでいる。きわめて悪意的な何かが。
その悪意は外側から現れたものだと思っていたが、どうも違うらしい。
これは内側からやってきている、と僕は今になって確信している。
つまるところこれは現実に起こった出来事と、それに対する周囲の反応を飲み込んだ僕が生み出したのものなのだ。
きわめて悪意的な何か。僕を苛み混乱させる何か。それは肥大していく。
エスカレートしていく。それは僕では止められない。でも、たしかに僕が行っている行為なのだ。
それは自責と呼ばれるのか。それとも自傷と呼ばれるのか。あるいは自慰と呼ばれるのかもしれない。
いずれにせよ僕は混乱していた。混乱して冷静さを見失っていた。
こんなときこそ、大切なのは落ち着きだ。僕は考える。
何よりも大切なのは状況の整理だ。何が僕をこんな状態にしているのか?
それは取り返しのつく状況なのか?(おそらく、取り返しはつかない)
それは避けられる事態だったのか? であるなら僕はどこかで間違えたのか?
その問いは長い時間僕に宿り続けた。途方もなく長い時間だ。問いは僕をなじった。
なじり、苛み、苦しめ、そしてその苦しみすらをせせら笑った。
落ち着け、と僕は自分に言い聞かせる。僕は今ひとりぼっちでいる。
「いつも通りじゃないか」と、僕は自分に向かって呟いた。何がおかしいんだ?
情報を整理しよう。順番が少し狂っているのだ。だからこそ、整理をしなくてはならない。
何よりも大切なのは、順序だ。それを、整えなければならない。
145 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/09/21(金) 15:41:39.26 ID:gNdtp0tJo
◆
不意に聞こえたノックの音に、僕はうたた寝から目を覚ました。
146 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/09/21(金) 15:42:25.03 ID:gNdtp0tJo
◆一
目を覚ますと、寝る前に入れていたコーヒーはすっかり冷めていた。
僕はなんとなくそれに口をつけて顔をしかめる。おそろしくまずかった。
どうやら机で眠っていたらしい。顔を起こすと読みかけの本は栞も挟まれずに閉じられていた。
これではどこまで読んだのか分からない。ひとつ嘆息してから諦め、僕はベッドに倒れ込んだ。
倒れ込んでから、枕元の置時計に目を向ける。一時半。寝なければ明日に響く。
と考えてから、僕は響いて困る明日なんてないことを思い出した。今は夏休みじゃないか。
それから瞼を閉じて、このまま好きなだけ眠っていられたならと考えた。
カーテンは閉じられていた。明かりはつけっぱなしだった。ドアは閉ざされていた。
今ここは、たしかに僕だけの空間だった。
瞼の裏に蛍光灯の灯りが浮かぶ。光が静かに僕の意識を侵食していった。
侵食していってから、僕は不意に――本当に不意に、ノックの音が聞こえたことを思い出した。
面倒だったが、仕方なく立ち上がり、ドアの前に立つ。心当たりはなかったが、誰だろうとかまわない。
どうでもいい気分だった。なんなら幽霊でもかまわないし、怪物でもかまわない。そういう気分だったのだ。
ドアを開ける。もしも変わらない日々を望んでいたのなら、僕はきっとドアを開けるべきじゃなかった。。
でも僕は結局開けてしまったのだし、開けてしまったのだから仕方ない。
ひょっとすると、どこかの並行世界には、"ドアを開けなかった僕"もいるのかもしれない。
でも僕は"ドアを開けた僕"なのだ。結局のところそういう話だ。
147 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/09/21(金) 15:43:00.98 ID:gNdtp0tJo
◆
「こんばんは」と彼女は笑った。どこか皮肉めいた笑顔だった。その表情がなんだかおかしくて、僕も笑いながら返した。
「こんばんは」
僕はベッドにふたたび寝転がる。ひどく疲れていたのだ。
「入ってもいい?」
と彼女は言った。僕は彼女の顔を見ずに手招きする。どうでもいい。入りたければ入ってもいいし、出たければ出て行ってもいい。
不思議なことに興味はわかなかった。一切わかなかった。誰が僕を訊ねてもいいし、誰がここから去ってもいい。
だって、ここには最初から何もないのだ。
「変な部屋」
彼女は部屋を見回して、言った。僕もそう思う。ここは変な部屋だ。
本来ならば他の場所に当然あるべきもの、当然属すべきものを、無理矢理他の場所に移し替えたような空間。
その印象はある意味では正しかった。僕は溜め息をつく。
148 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/09/21(金) 15:44:55.70 ID:gNdtp0tJo
「嫌な感じかな?」
「少しね」
僕が笑うと、彼女も笑った。
「ねえ、ところで、お願いがあるんだ。いいかな?」
彼女は言った。僕は問い返す。
「なんだろう?」
「わたしはこれからある場所に向かおうと思う。あなたについてきてほしいんだ」
149 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/09/21(金) 15:45:47.81 ID:gNdtp0tJo
「どうして?」
「都合がよさそうだったから」
ひどい理由だと僕は思った。そんな理由で誰が彼女についていったりするんだろう?
少しうんざりしたが、でも、頼みを受け入れる理由がなかったように、断る理由も僕にはなかった。
要するにそういうことなのだ。僕には今、なんらすべきことがなかった。
ただ目の前に振りかかった現実を、とにかく認識する以外には。
「ひどいものを、見ることになるかもしれないけど」
「かまわないよ」
むしろそういうものを目撃したい気分だった。少しでも珍しいもの、変なものを見てみたかった。
今この場所にある現実以外のもの。それを一度目撃してみたかった。
「ところで、君は誰?」
「秘密」
僕と彼女はそのように出会った。
おそらく僕のことだけを考えるならば、彼女と僕は出会うべきではなかったのだ。
それは僕に対して何ももたらさない邂逅だった。
でも、仕方ない。そのときの僕には、どうでもよかったのだ。
150 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/09/21(金) 15:46:22.31 ID:gNdtp0tJo
つづく
ちょっと間が空くかもしれないです
151 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
(東京都)
[sage]:2012/09/21(金) 16:18:51.26 ID:VtMYao0Do
乙です
152 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
(関東)
[sage]:2012/09/21(金) 16:28:01.95 ID:Bz8pmE+AO
乙です
相変わらす読みごたえあるなぁ
長い迷路をぐるぐる回ってるような、そんな不思議な感覚が癖になる
153 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[sage]:2012/09/21(金) 17:46:29.96 ID:2kUvAavIO
乙
154 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[sage]:2012/09/21(金) 17:46:58.06 ID:2kUvAavIO
乙
155 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[sage]:2012/09/21(金) 18:15:35.28 ID:RIReRkLIO
おっつん
156 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/09/22(土) 13:41:47.45 ID:o2xJKFVJo
◆二
僕と彼女は家を出た。先導されるがままに歩いていくと、近所の川沿いの堤防へと彼女は進んでいく。
霧雨に覆われた夜の空気はひんやりとしていて、それは少し僕を安心させた。肌寒いくらいだったけど、気にならなかった。
空には星と月がぼんやりと浮かんでいる。目に映るすべての輪郭が霧に煙って判然としない。
不意に、女が声をあげた。
「こんな感じの道をさ。子供の頃、よく歩いたんだよ」
夜の底で聞く彼女の声には、どこかしら人を飲み込むような響きがあった。
「二人で、一緒にね。散歩に行ってきなさい、ってよく言われたんだ」
何かを思い出そうとするような声だった。もしくは、何かを悼むような、惜しむような声だった。
「似てる。その道に。ね、そんな場所をそんなふうに歩いた記憶、ある?」
「ない」
僕ははっきりと答えた。
「そっか」
彼女は当然だとでも言いたげに頷く。僕はなんだか居心地が悪くなった。
なぜだろう? 彼女といると、僕はひどく後ろめたい気持ちになる。
157 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/09/22(土) 13:42:13.53 ID:o2xJKFVJo
「それでね、堤防を抜けた先に、何かの事務所みたいなのがあるの」
僕には分からない話を、彼女は続けている。けれど不思議と、その話に登場する土地について、僕は知っている気がした。
なぜだろう? 彼女の話す場所は「ここ」とは違うのだ。「こんな感じの場所」。ここではない。
「敷地の入口に自販機があって、そこでコーヒーとリンゴジュースを買うの。それを飲みながら、道を戻っていくのが散歩のコース」
言葉にすることで何かを確認しようとするように、彼女は話を続けた。
「一年中、ずっと。春は風が強かったりして大変だった。
河川敷の草むらは、夏になると背が高くなって、迷い込むと出られなくなったりするんだよ。一度そうなって、怖かった。
秋になると夕方でも真っ暗だった。虫の声がうるさかったな。早めの時間に歩くとね、夕焼けとススキが綺麗だった。
冬の寒いときなんかは、もうちょっとだけ歩いてコンビニまでいって、肉まんを食べながら帰ったの。寒い寒いって言いながら」
「……誰と?」
「……」
彼女はそこで立ち止まった。僕たちは土手のちょうど真ん中あたりで立ち尽くす。
霧雨は細かかったけれど、僕たちはたしかにその粒に濡れていた。
服がしっかりと雨粒を吸い込み、気付けばびしょ濡れになっている。
女はこちらに背を向けたままだった。僕はいやな気持ちになる。
158 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/09/22(土) 13:42:43.58 ID:o2xJKFVJo
不意に、彼女は河川敷の方に体を向けた。背の高い夏草が人の行く手を阻んでいる。
彼女はためらわずに足を踏み入れる。
「こっち」
なんでもないことのように、彼女は言う。
背が高いとはいえ、頭まで覆われてしまうほどではない。僕は彼女を追った。
視界が奪われるほどではないが、何かを落としたりしたら見つけられないだろう。
蛙や虫がいそうなことも嫌だったが、それよりも霧雨の雨粒に濡れた草の感触が気持ち悪かった。
するすると進んでいく彼女の姿を追いかけ、僕は必死に草を掻き分ける。
月がこちらを見下ろしている。夏の夜なのだと僕は思った。
やがて草むらを抜ける。当然だけれど、川があった。
このあたりは水深が浅く、水底の砂利がよく見えた。水が澄んでいて綺麗。小魚が泳いでいるのが見えるくらいだ。
躊躇なく、彼女は川に足を進めた。
「こっち」
前を向いたまま、女は言う。
159 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/09/22(土) 13:43:19.98 ID:o2xJKFVJo
「こっちだよ」
真剣な表情を見て、僕もそれに従った。気圧されたという方が近いかもしれない。
彼女の表情は、常に真剣だった。それに対して僕の態度はいつだって曖昧で不誠実に思える。
それは仕方ないことだ。僕はそういうふうになってしまったんだから。
水に足を踏み入れる。それは思ったより気分の良い行為だった。
靴も履いたままだし服も来たままだった。裾をまくりげる気にもならない。
どうせびしょ濡れだったのだ。いまさらどうなったところでおんなじだ。
「ごめんね」
と彼女は言った。
「あなたがどう感じるか、わたしには分からない。ひょっとしたらすごく傷つくかもしれないし、怒るかもしれない」
――水面が、波紋を広げるように、かすかに動いた。
「でもそれは、どうしても必要なの。そうしないと、我慢ならないの。わたしはだめだったから、せめて」
せめて、と彼女は言う。波紋は大きな波になっていく。僕はちょっとした焦燥に駆られた。
160 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/09/22(土) 13:43:46.11 ID:o2xJKFVJo
「これ、何が起こってるの?」
異様だった。水面の動きは川の流れとも僕らの動きとも無関係に激しくなっていく。
水が意思を持って蠢いているようにすら見える。それは決して飛躍した発想ではないだろう。
彼女は僕の問いに答えず、にっこりと笑った。
「身勝手だって分かってる。でも、納得できない。だから、最初に謝っておく。ごめんね」
彼女は笑う。
水流は僕の足をさらう。何かが足を掴んだ気がした。引きずられて倒れそうになり、咄嗟にうずくまる。
僕は何かを叫んだ。女はこちらを見て笑っている。
水の流れが僕をどこかに連れ去ろうとしている。引きずり込もうとしている。
「ごめんね」
と彼女は笑う。
それは悲しそうにも見えたし、嬉しそうにも見えたし、そのどちらでもないようにも見えた。
いずれにせよその表情は、僕にとってはどうでもいいものだ。赤の他人なのだから。
だからきっと、彼女にとっても僕の態度はどうでもいいものだったのだろう。
でも、そのときの僕が最後に見たのは彼女の表情だった
月の光にぼんやりと照らされて、青白い景色に包まれて、夏の夜の中に居た。
彼女のその表情を、僕はたしかに綺麗だと思ったのだ。そんな、場違いなことを考えたのだ。
161 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/09/22(土) 13:44:50.34 ID:o2xJKFVJo
◆三
水滴の落ちる音で、意識をとりもどした。
湿ったコンクリートの上に、僕はずぶ濡れのまま倒れていた。
ずきりという頭痛が走る。身体の節々が痛くて、頭が回らなかった。
僕はなんとか体を起こして、周囲の様子を確認した。
薄暗くて分かりづらい。何かの機械の音がする。ごおおおおお、という排気の音も聞こえた。
音はそれだけだった。まずはなんとか視界を確保しようと、僕はポケットから携帯を取り出そうとする。
水に濡れていたせいか、携帯は壊れていて、ディスプレイは真っ暗だった。僕は舌打ちをする。
ふと、光が後ろから現れた。
「行こう」
女は懐中電灯を握っていた。僕は意識を失う前のことを思い出す。
これはあの続きなのだ。
冗談じゃないと言ってやりたかったが、ここがどこなのか分からない以上、彼女に逆らうのは賢い選択ではないように思えた。
162 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/09/22(土) 13:47:48.51 ID:o2xJKFVJo
言葉を返さずに頷き、彼女が進むのに任せた。
それにしても、ここはどこなのだろう。機械と、何かのメーターのようなものがある。
天井から床まで、大量のパイプが、どこからか入ってきて、どこからか出ていく。
パイプには操作するためのハンドルがついている。床は濡れていて滑りやすく、壁はコンクリートの打ちっぱなしだ。
漠然と、ここで何かを操作し管理しているのだということは分かったが、具体的に何を管理しているのかは分からない。
通路のところどころにはパイプが伸びていて、ときどき屈んで通らなくてはならなかった。
ときどき、魚の骨格標本や何かの水槽のようなものも見つけた。たいして興味は引かれない。
やがて通路は二手に分かれる。彼女は入り組んだ方へと進む。小さな木製の階段があった。
黙って進んでいく。その先には扉があった。
迷わずに、彼女はドアノブを回した。
「先に行って」
と彼女は言う。僕は怪訝に思いながら、足を踏み出した。
僕らは扉をくぐる。
扉を、くぐった。
163 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/09/22(土) 13:48:42.97 ID:o2xJKFVJo
やがてショーが終わり、着ぐるみが子供に風船を配っている。
ひとりの子供が受け取ろうとしたとき、手が滑ったのか、風船は空へと舞いあがった。
けれど、僕の視線はそれをとらえなかった。
どうしてかは分からないが、あえて探そうとせずとも“彼”がそこにいることにすぐ気付いた。
まるで引き寄せられるようにすぐ気付いた。
彼は風船を視線で追う。やがて風船はこの窓の近くを通って空へと飛んで行った。
その人物と、目が合った。
僕は身動きが取れなくなった。彼の表情、姿は“僕”と似ている。
似ているというより、同じだった。本当に同じだった。服装も髪型も仕草も表情も。
思わず顔が勝手にひきつった笑みを浮かべた。真昼の太陽に照らされて、その姿は僕にはっきりと見える。
これはどういう冗談なんだ?
164 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/09/22(土) 13:50:18.60 ID:o2xJKFVJo
「見えた?」
と女が言う。
僕は答えない。彼はこちらをじっと見ている。居心地が悪くなって苦笑し、僕は窓辺から身を引きはがした。
彼女は試すような目でこちらを見る。僕の背中がじっとりと嫌な汗を掻いた。
「これはどういうこと?」
気味悪さに、背筋が粟立つ。
いったい僕の身に何が起こっているのだろう。
彼女は僕の問いに、にっこりと笑った。
その笑顔が、僕には恐ろしくすら思えた。
165 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[sage]:2012/09/22(土) 13:50:48.47 ID:o2xJKFVJo
訂正
>>162
->>163のあいだに2レス分
166 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/09/22(土) 13:51:15.37 ID:o2xJKFVJo
◆
音もなく扉が閉まった。僕が振り向くと、彼女が扉に鍵をかけている。
その扉は、くぐってきた扉とは大きさが異なるように思えた。錯覚かもしれない。
緑色をしたそのドアは、緑色だという以外には特に言うべき特徴を持っていない。
でも、その扉はどこかしら変だった。分からないけれど。
「ついた」
と彼女は言った。僕は辺りを見回す。
ドアがあった。無数のドア。僕は眩暈がしそうになる。突然現れた無数のドアが、窓からの日差しに照らされている。
時間も空間も、おかしかった。
窓からの日差しは暖かい。夏の真昼の太陽だ。僕は周囲を見回す。どこまでも白い壁に、無数の扉があった。
幻想的というよりは悪夢的な光景ですらあった。
「別に、分かってしまえばそんなにたいしたものじゃないから、驚かなくても大丈夫だよ」
そこが単なるドアのショールームだと僕が知るまで、結局数十分の時間が必要になった。
167 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/09/22(土) 13:51:44.08 ID:o2xJKFVJo
無数の扉に囲まれた気味の悪い場所を、彼女は迷わずに進んでいく。
関係者以外立ち入り禁止のプレートを無視して、階段を昇った。
「説明、しないとね」
階段を昇ってすぐ、細い通路に出る。左手はただの壁で、右手には三つ扉が並んでいた。
彼女は一番奥の扉を開いた。
その中は物置になっているようだった。いくつもの段ボール、何に使うかも分からないオブジェ。
棚の中では大量の書類が埃まみれになっている。
彼女はひとつ咳をした。それから窓辺に歩み寄り、手招きする。
嫌な予感がした。
それでも僕の足は窓辺に進む。なぜかは分からない。
僕は窓の前に立つ。彼女を見る。ひとつの方向を見ていた。
中庭のような場所。結構な人がいて、いくつかのテントが立っている。
そして、正面には何かのステージのようなものがあった。何かのショーをやっている。
「もうちょっとだと思うんだけど」
と彼女が言ってから、しばらくのあいだ何も起こらなかった。
僕は不安と焦燥が綯い交ぜになったような気持ちを抱えて、じっと窓辺に立っていた。
そして誰かに見咎められるのではないかと不安に思う。なぜ不安に思うのか分からなかった。
そもそもここはどこなのだろう? 僕たちはここに居てもいい人間なんだろうか。
168 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[sage]:2012/09/22(土) 13:53:11.50 ID:o2xJKFVJo
162-166-167-163-164
147-6 訊ねて → 訪ねて
ややこしくてごめんなさい
つづく
169 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[sage]:2012/09/22(土) 16:09:02.69 ID:GZ3E0ASIO
乙
170 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
(田舎おでん)
[sage]:2012/09/23(日) 00:13:56.19 ID:1OhaZsoD0
おつ
171 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/09/23(日) 15:28:57.50 ID:mhAwP2D1o
◆三
「簡単に言うと、あれはあなた」
と女はあっさりと言った。
「どういう冗談?」
僕は笑い飛ばそうとしたけれど、上手くいかなかった。
否定しようとしても、僕はその姿を見てしまったのだ。
「はっきり言ってね、説明する義理なんて、わたしにはない気がするの。そうじゃない?」
彼女の表情は冷淡で、それが僕を一層不安にさせた。
僕は彼女についてくるべきではなかったのかもしれない。
でも、それとは逆に、半ば本能のような感覚が頭の中で疼いていた。
「あなたにはわたしに義理立てする理由がない。わたしにはあなたに義理立てする理由がない。わたしとあなたって、お互い他人事でしょ?」
彼女の言葉には、少なからず皮肉めいた響きがこもっている気がした。俯いて、考え込む。
いったい彼女は何を言おうとしているのだろう?
「でも、かわいそうだから、仕方なく教えてあげる。二度目だけど、あれはあなた」
172 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/09/23(日) 15:29:48.14 ID:mhAwP2D1o
「僕?」
「そう。あなた」
「……それはおかしい。僕はここにいる」
「そう。あなたはここにいる。あそこにもいる」
「同じ人物が、二人いる、なんてことは、有り得ない」
「でも実際、起こっている」
彼女は断言した。
「ねえ、はっきり言うけど、いま現に起こっている異常に対して、「ありえない」なんて言葉はなんの意味もないよ」
その通りだ。僕は現にあの姿を目撃している。
ありえないなんて言葉に、何の意味もない。あれを幻覚だとか言いだすなら、話は別だが。
「悪い夢でも見てるのか?」
「残念ながら」
と彼女はくすくす笑いながら言う。
「ここに転がっているのは、現実だよ。どこまでも無様で悪趣味な、現実だよ」
173 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[sage]:2012/09/23(日) 15:30:29.35 ID:mhAwP2D1o
◆
「とりあえず、服を着替えた方がいいと思う」
彼女にそう言われて、僕は自分の服がびしょ濡れのままだったことに気付く。
「って言ったって、替えの服なんて持ってないよね」
「身一つで来たからね」
「仕方ないから、買ってあげましょう」
彼女はそう言って、ふたたび窓辺から中庭を見下ろした。僕は窓に近付くのがなんだか恐ろしかったので、身動きを取らずにいる。
やがて彼女は、どこかに視線を固めた。穏やかな目で、何かを見下ろしている。その視線の先に何があるのかは、僕には分からない。
それはとても悲しいことなのだろうと思った。だって彼女は泣き出しそうな顔をしていたのだ。
やがて、彼女はあっさりと窓辺から体を引きはがし、僕の方に向き直った。
「行こう。まずは、服屋にいかないとね」
174 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/09/23(日) 15:31:17.86 ID:mhAwP2D1o
一応財布自体は持っていないわけではなかったが、さっきまでの出来事のせいで中身もずぶ濡れだった。
仕方なく彼女に金を借りて(店に入れないのでついでに買ってきてもらい)、服を手に入れる。
付近にあった公園の物陰で着替えた。タオルで体を軽く拭い、シャツとジーンズを取り換える。
安物だったが、他人の金で買ってもらったものだし、濡れ鼠でいるよりはましなので文句は言えない。
僕は濡れた髪をタオルで拭きながら彼女に訊ねた。
「何度も聞くようだけど、これはいったいどうなっているんだ?」
「どうなっているのか、というのは教えづらいし、なぜ、と訊かれても答えられない」
ベンチに座ったまま、彼女は自販機で買ったアップルジュースに口をつけた。
「何が起こっているか、というところだけ教えてあげる。ここはあなたにとってのパラレルワールドなの」
「パラレルワールド?」
「そう、パラレルワールド。さっき見たのが誰だったか、分かった?」
175 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/09/23(日) 15:31:46.44 ID:mhAwP2D1o
「……ちょっと待ってくれ」
「なにかご不明な点でも?」
彼女はおどけて言う。僕は呆れながら考え込んだ。パラレルワールド。
「常軌を逸してる」
「それも、起こってしまったことには無効な言葉だと思う」
彼女は、どこまでも正しい。
「納得がいかないなら、悪い夢でも見てるってことにすればいい。でも、そのうち気付くはずよ。夢でも現実でも変わりはないって」
「どういう意味?」
「いずれにせよ、あなたは見せられてしまう、という話。だよ」
176 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/09/23(日) 15:32:13.29 ID:mhAwP2D1o
彼女の言う通り、夢か現実かという判断はひとまず脇においておくべきなのだろう。
それよりも、いくつかおかしな点がある。
彼女は僕の顔を見てくすりと笑った。
「さっきまで、死んでるみたいな顔してるのに」
「……」
「外に出てみると、やっぱり変わっちゃうものでしょ?」
僕はその言葉を無視した。
「それより、この街のことだけど……」
「何か、不思議?」
「パラレルワールド、って、そういうこと?」
「……ひとつでは、あるよ」
177 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/09/23(日) 15:33:24.02 ID:mhAwP2D1o
彼女は否定しない。僕はなんとなく理解し始めた。
この街は、僕が以前、一年前まで家族と一緒に暮らしていた町だ。
ある事情から、僕はこの街――父母と離れ、親戚の家で暮らすことになった。
つまり現在の僕は、この街では暮らしていない。
「今日は何月何日?」
「八月、三日」
「……」
年号を聞こうと思って、やめた。それはバカらしいことに思えた。気になるなら後で調べてみればいい。
コンビニにでも入って、新聞を確認すればいいだけだ。
僕は溜め息をついて、それから少しだけ考えた。
「パラレルワールドって言ったよね。いったい、これはどういう変化なんだ?」
「どちらかといえば――」
と彼女は笑顔をかき消した。
「あなたの世界の方が、いちばん、驚きに満ちてるけどね、わたしに言わせれば」
178 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/09/23(日) 15:33:51.06 ID:mhAwP2D1o
なんとなく、怖気がした。
そうだ。たしかに、パラレルワールドというならば、“あれ”は起こったのだろうか? この世界でも。
「さっき、見なかった?」
「……なにを?」
「見なかったなら、いいよ」
僕は嫌な予感がした。この世界に紛れ込んでしまったことは、僕にとって致命的なことではないのだろうか。
僕自身が抱いていた不安や、疑問。それを完全に肯定する結果になりはしないか?
そうだとしたら、もしも本当にそうだとしたら、僕はいったい、どうすればいいのだろう。
“――ねえ”
並行世界なんてものがあるとすれば、もしかしたらこの世界で“あれ”は起こらずに。
つまり“あれ”は回避できる出来事で。
“――わたしが悪いの?”
要するに僕は、どこかで間違った選択をしてしまったのだろうか。
彼女は――でも――。
179 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/09/23(日) 15:34:18.37 ID:mhAwP2D1o
「さて、と」
考え事に耽っていると、彼女はアップルジュースの空きボトルをくずかごに捨てて立ち上がった。
「わたし、これから会わなきゃいけない人がいるから、行くね」
「……ちょっと待って。それは困る」
「残念だけど、ね。わたし、あなたと話してると、すごく、胃のあたりがむかむかするの」
「……」
「もう、行くね」
彼女はそう言い残して、本当に去ってしまった。最後に僕に男物の財布を手渡して。
取り残された僕はしばらく呆然と立ち尽くしていた。行くあてはなかったし頼る人もいなかった。
この世界で僕は、当たり前でまともな話なのだけれど、どうしようもなくひとりぼっちだったのだ。
180 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/09/23(日) 15:34:44.66 ID:mhAwP2D1o
つづく
181 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
(千葉県)
[sage]:2012/09/23(日) 16:56:17.81 ID:RLRHAYjyo
乙乙
間があくってこのくらいだったの?
182 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[sage]:2012/09/23(日) 21:45:06.40 ID:2KzGL7Ex0
おつー
183 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[sage]:2012/09/23(日) 23:43:04.53 ID:yjFtxsQs0
乙
184 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[sage]:2012/09/24(月) 06:49:45.15 ID:PDozzceSO
乙
185 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/09/25(火) 15:52:03.23 ID:lv342E7No
◆四
僕は公園のベンチに座って何かを考えようとしてみた。
何か考えなければならないはずなのだが、何を考えればいいのか分からない。
それは僕にとって大事なこと、致命的なことだったはずなのだ。
でもなにひとつ思い出せなかった。とっかかりひとつ思い出せなかった。
僕の頭にはただ、あの自分自身の表情だけが残っている。どんな感情をたたえているかもさだかではないあの表情が。
どうしてこんなことになったのだっけ? と考えかけて、ふと思い出す。
僕は――こういったことが起こるのを望んでいたはずなのだ。なぜ?
それは自分でもわからないけれど、きっと僕は、なにかの変化を切望していたのだろう。
どういう形であれ、それは叶えられたと言っていいのだろう。
でも、これからどうすればいいのだろう? 訳の分からない空間に放り出されて、僕はいったい何をどうすればいいのだ。
"あなたの世界の方が、いちばん、驚きに満ちてるけどね、わたしに言わせれば"
……。
186 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/09/25(火) 15:52:34.68 ID:lv342E7No
とにかく、座っていても仕方ない。きっとあの女も、すぐには戻ってこないだろう。
待ち合わせをしているわけでもないが、頼りにできるのは彼女しかいないのだ。
少し時間をやり過ごして、またここに戻ってくればいい。そうすればまた会えるかもしれない。
会えなかったら……。
僕は手渡された財布の中身を確認する。財布の中には何枚かの紙幣と結構な数の硬貨が入っていた。
一万円札は三枚、五千円札が一枚、千円札が三枚。硬貨は細かいものがあまりなく、五百円玉が三枚と百円玉が八枚。
それよりも僕を怖がらせたのは、無造作に放り込まれたカード類だった。
どこかのコンビニのポイントカードに保険証、病院の診察券。どれもすべて財布に突っ込まれている。
彼女が準備したものというよりは、実在する男の持ち物を引っ張ってきたみたいに見えた。
カード類には名前の記述があった。そこには僕の名前が書かれていた。
「……」
彼女は何者なのだろう。
ようやく頭が疑問を走らせ始めた。
187 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/09/25(火) 15:53:06.73 ID:lv342E7No
あの女。唐突に僕の部屋に現れ、この場所へと僕を誘った女。
たった一度気を失った間に、遠い街に僕を連れだした女。
パラレルワールド。自分にうり二つの人間がいるか、白昼夢でも見たかということにしないかぎり、俺は彼女の言葉を信じざるを得ない。
でも、疑えなかった。
それでも僕は便宜的に、彼女の言葉を疑ってみることにした。
僕は公園を出て、コンビニを探した。さいわいそれはすぐに見つかる。
まず、新聞の日付を確認する。間違いなく、本来の日付と同じものだ。
正確に言えば、彼女が僕の部屋に来てから半日以上の時間が経っていることになる。
彼女が来たのは夜中の一時半。今はもう昼過ぎなのだから。
次に、新聞の記事を確認する。僕は自分が知らない大きなニュースがないかを知ろうとしたが、大差はなかった。
もともとニュースなんて確認しないタチなので、もしあったとしてもたいした情報にはならなかっただろう。
ついでに毎週立ち読みしていた漫画雑誌を読んでみる。内容は僕が知っているものの続きだった。
僕がこの街にいるかいないかは、世界にたいしてあまり大きな影響を与えないらしい。当たり前の話だが。
僕はジュースとパンを買って小銭を崩し、軒先の公衆電話で自宅の番号にかけた。
電話には知らない女が出た。知らない苗字を名乗った。僕は間違い電話だと謝って電話を切る。
さて、と僕は思う。
確信できる根拠もないが、否定できる材料もなかった。
188 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/09/25(火) 15:53:58.51 ID:lv342E7No
◆
僕はとりあえず自分が昔住んでいた家を目指すことにした。
ひょっとすれば僕が見たあの人物は、僕にうり二つな誰かという可能性がないわけではない。
とにかく情報が少しでも多く欲しかった。
しばらく通っていない道を通ると、奇妙な感慨が僕の胸に去来した。
これは郷愁のようなものだろうか? でも、僕は別にこの街が好きだったわけじゃない。
むしろ、嫌いだった。
何もなくて、ろくな奴がいなくて、自分はずっとここにいるしかないのだと考えるたびに絶望的な気持ちになった。
でもそれは僕だって同じなのだ。僕だって誰かの「何か」になれたわけではないし、ろくな奴でもなかった。
そういう話なのだ。
家は相変わらずそこに立っていた。数年前に建てられた一軒家。
僕はうんざりしたような気持ちでそれを眺める。たいした感慨はなかった。
あるのはただ呆れたような心地だけだった。結局なにひとつ変わってなんかいないんだ。
僕はインターホンを押そうと思ったけれど、やめた。仮に「僕」と鉢合わせしたらまずい。
そう考えかけて、何がまずいのか具体的に言えない自分を発見したが、結局やめておく。
表札には僕のものと同じ苗字が示されていた。それだけでは何の証明にもならない。
でも、僕の世界なら、表札は外されているはずなのだ。
溜め息をついたタイミングで、肩を叩かれた。
189 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/09/25(火) 15:54:32.49 ID:lv342E7No
◆五
慌てて振り返ると、見知った顔があった。
「よう。何してんだ?」
と、僕の反応に面食らった表情を見せながら言ったのは、昔からの友人だった。
近所に住んでいて、子供のときから付き合いがあった。僕は一瞬安堵しかかったが、まずい、と思い直す。
「いや……」
と僕は言う。どうにかして、この世界が僕の世界と違うものなのかどうかを確認する方法はないだろうか。
彼に何かを訊ねて。そう考えかけて、強い納得のような感情が胸の内側でくすぶった。
「でも、ちょうどよかった。ほら」
彼は当たり前のように、手にもったビニール袋を僕に手渡す。
「これ、お袋から。おばさんに渡しといてくれよ」
じゃあな、と彼は背を向ける。
袋の中身は何かの食べ物のようだった。
ごく当たり前のように、彼は僕がここにいることに何の疑問も抱かなかった。
彼は、僕がここにいることに何の驚きも抱かない。
僕はこの家にいて当たり前の人間なのだ。
“僕”はこの家に住んでいる。
190 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[sage]:2012/09/25(火) 15:55:11.14 ID:lv342E7No
つづく
191 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[sage]:2012/09/25(火) 17:10:45.10 ID:05Nb+kQIO
乙
192 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/09/27(木) 16:01:18.69 ID:pqSsrL/mo
◆五
僕は彼女と別れた公園に戻った。
とにかく今は彼女と会わなければならない。そしてこの不可解な状況の法則を確認しなければならないのだ。
今僕に振りかかっているのはいったいどのような出来事なのか。それをたしかめなければ話が進まない。
でなければ、僕はこんな場所に理由もなく放り出されていることになる。
彼女の目的はなんなのか。彼女は何のつもりで僕をここに連れてきたのか。
僕には圧倒的に情報が不足していた。僕をここに連れてきた以上、彼女には何かの目的があるはずなのだ。
「お願いがある」と彼女は言った。僕にさせたいことがあるのだ。
公園のベンチに座って、僕はみじろぎもせずに彼女が来るのを待った。
手持無沙汰で、何度もポケットの中の携帯を開こうとしたが、画面は真っ暗なままだった。
僕の身に何かが起こっていて、彼女は僕に何かをさせたくて僕はおそらく何か奇妙なものを目撃することになる。
そこまでは分かるのだ。でも、僕がここにいることで達成される目的とはなんなのだろう?
僕という人間、僕という駒がなり得る布石とはなんなのだろう。
193 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/09/27(木) 16:01:51.57 ID:pqSsrL/mo
まったく心当たりはなかった。僕は頭を掻いて考え込む。
最大の問題は、僕自身のことだ。
僕は望んで彼女についてきた。そしてここで彼女に放り出され、それをただ待っている。
でも、僕は何を望んでいるのだろう? 一方的に連れ出されたわけではないし、自分からついてきたわけでもない。
ただ誘われて、それに乗った。それだけだ。僕の目的はいったいなんなのだろう。
そこが、まず分からなかった。僕には目的意識というものが欠けている。
ごく常識的に考えるなら、僕は帰りたいはずだ。いくらなんでもこんな世界に運び込まれるのは想像していなかった、と。
でも、帰りたいというほどではない。というよりは、帰りたくなんてなかった。
じゃあこの世界にいたいのか、というとそうではない。ここは居心地の悪い空間だ。
僕の目的はなんなのか? 最大の問題は、たぶんそこだ。
いずれにせよ、今は彼女にもう一度会って、そして話を聞きたい。文句のひとつでも言ってやるのもいいだろう。
でも、心の底からそうしたいと望んでいるわけではない。本当のところ彼女のことなんてどうでもよかった。
僕が今考えていることと言えば、今晩の寝床がないのは困るな、とか、せいぜいそんなところだ。
彼女のたくらみも、他のことも、ほとんどどうでもよかった。
なぜだろう?
194 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/09/27(木) 16:02:20.57 ID:pqSsrL/mo
◆
僕が公園でじっとしている間にも太陽は動いていたし、時計の針は回っていた。
気付けば時刻は夕方を過ぎていて、僕は自分が何もしていないことに愕然とした。
それどころか、何か少しのことだって考えた記憶がない。僕は何もしていなかった。ただぼんやり座っていた。
何もせず、ただぼんやりと――。
――頭の中で、ずきりと何かが軋んだ気がした。
その痛みはごく単純に僕の内側を捩じっていった。何故だか涙が出そうになる。
自然と荒くなりかけた呼吸を、僕は努めて静まらせる。
何の問題もない。僕には何の責任もない。
僕は自分のことだけを考えて生活していた。そこには何の非もない。
ただ、自分のためだけに生きていければそれでよかったのだ。その結果が今であろうと、そこには何の失策もない。
いまだって、そうなのだ。
195 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/09/27(木) 16:02:47.11 ID:pqSsrL/mo
「疲れてる?」
夕焼けがかすみ始めた頃、彼女の声が聞こえた。
「……少しね」
本当のことを言うと、少しどころではなかったけれど、まぁ同じことだ。
僕は疲れていて、混乱している。
俯けていた顔をあげると、やはり彼女がいた。別れたのはついさっきだったという気さえする。
彼女の後ろに、見慣れない少年の姿があった。
「……誰、この人?」
と少年は言った。同い年くらいに見える。知っている顔ではない。相手もどうやら、僕を知らないらしい。
「秘密」
と彼女は答えた。単純な仲間というわけではないらしい。けれど僕に会わせるということは、彼女の目的に関係のある人物なのだろう。
196 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/09/27(木) 16:03:14.26 ID:pqSsrL/mo
「いろいろ、言いたいこともあるだろうから、とにかく、順を追って説明しようと思って」
無論、言いたいことは山ほどあったけれど、そんなことよりゆっくり眠りたい気分だったので、僕はそのことを彼女に伝えることにした。
疲れたからゆっくりできる場所に行きたい。僕が言うと、彼女は静かに頷いた。
分かった、と彼女は言った。
「とにかく移動しましょうか。屋根のあるところじゃないと、たしかに落ち着かないしね」
「……どこに?」
訊ねたのは少年だった。僕は少しだけ彼の存在を怪訝に思う。
今まで限りなく調和のとれていた空間に、ぽつんと入り込んだ異分子。
そういった要素を、彼から感じた。
僕たちは国道沿いを移動して、近場のファミレスに入ることにした。
とりあえずの腹ごなしと相談事を兼ねていたので妥当と言えば妥当だったが、僕には今晩の寝床の方が気になって仕方なかった。
彼女にそのあたりのことを訊ねても、
「まぁ、なんとかなるよ」
と楽観的なことを言うだけだった。どうも寝床に関しては、彼女にも心当たりはないらしい。
少し不安に思ったが、とりあえずは気にしないことにした。
197 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/09/27(木) 16:03:58.01 ID:pqSsrL/mo
彼女は腹を空かせていたらしく、店に入ってすぐに食事を注文した。僕も腹は空いていたが、食べる気にはなれなかった。
それは少年の方も同様らしい。彼には不可解な雰囲気があった。
「まずは、いくつかの説明、ね。その前に――」
と、彼女は少年の方を見た。
「ねえ、ケイくん」
それはおそらく、彼の名前だったのだろう。不愉快そうに眉を寄せると、少年は「なに?」と訊きかえした。
「少し頼まれごとをしてくれない?」
「頼まれごと?」
「ちょっとした買い物。待ってて、今メモするから」
彼女はそういうと、本当にポケットからメモ帳を取り出して、ボールペンでメモを始めた。
ぶつぶつと独り言をつぶやいている。懐中電灯、飲料と食料、タオル、消臭スプレー。言葉に出しながら書き足していく。
198 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/09/27(木) 16:04:27.63 ID:pqSsrL/mo
「はい。お願い」
「……これ、なに?」
「近くにドラッグストアがあるから。だいたいのものはそこで揃うよ。そこになければ、もうちょっと歩いた先にデパートがあって」
「そういうことを訊いてるんじゃなくてさ」
「お願い」
と彼女は笑った。ケイは面食らったような顔をしたが、しぶしぶと言う顔で頷いた。
「あとでちゃんと説明してもらうからな」
「うん。分かってる」
二人のあいだには、何かの信頼関係のようなものが見えた。僕にはそれが奇妙なものに思えた。
なんというのだろうか。決してごく単純な友人同士には見えない。
何か、お互いに距離を作っているように見える。にも関わらず、強く信頼し合っているように見えた。
きっとそれは気のせいなのだろう。漠然と思う。そうでなければ――こんな事態は成立しない気がした。漠然と。
199 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/09/27(木) 16:04:56.96 ID:pqSsrL/mo
ケイが席を立ってすぐに、外ではぽつぽつと雨が降り始めた。
「薬局、すぐそこだから、そこに傘売ってると思うんだけど……」
それでも少し心配そうな顔をしていたが、やがて頭を切り替えたように表情を一変させ、彼女は溜め息をついた。
「どこから説明すればいいかな」
「……」
「どこから訊きたい?」
僕はその問いに相応しい答えを持ち合わせていない。何が分からないのかすら、僕自身分かっていないのだ。
ただ、ひとつだけ、気になることがあった。
200 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/09/27(木) 16:05:26.14 ID:pqSsrL/mo
「……この世界の"僕"は、この街に住んでるよね」
「うん。そうだよ」
「それは、どうして?」
「分かってることを確認しなきゃ気が済まない性格、おんなじだね」
誰と、とは訊きかえさなかった。
「簡単でしょ? 理由がないからだよ」
僕がこの街を出ることになった理由。
――それがない。
「つまり、この世界では……」
「そう。そういうこと」
彼女は死んでいない、ということだ。
201 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/09/27(木) 16:05:54.46 ID:pqSsrL/mo
つづく
202 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[sage]:2012/09/27(木) 18:34:09.74 ID:wrm7ESaIO
「彼女」って死んでたのか
203 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[sage]:2012/09/27(木) 20:18:20.82 ID:gJB7yTxCo
初っぱなで死んでたろ
204 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/09/29(土) 14:34:56.78 ID:7nWqN2Zvo
◆六
「ところで、ひとつ聞いてもいい?」
彼女はそれまでの空気を吹き飛ばそうとするみたいに笑った。
「ずっと気になってたんだけど、その荷物、なに?」
言われて、僕は家の前で受け取った荷物をそのまま持ってきてしまったことに気付いた。
「タクトからもらった奴だ」
「タクト?」
「昔、知り合いだった」
「ふうん。ひょっとして、大柄の人? よく吠える大きな黒い犬を飼ってる?」
「そう。いや、ここでも飼ってるのかどうかは分からないけど」
と頷いてから、僕は眉をひそめた。
205 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/09/29(土) 14:35:30.56 ID:7nWqN2Zvo
「知ってるの?」
「あんまり。犬もその人も、怖かったし」
「そうなんだ」
……いや、そうなんだ、ではないだろう。
僕はいいかげん、そこを気にするべきなのかもしれない。
「君はいったい誰なんだ?」
「だから、秘密」
答えは予想通りだったけれど、今度ばかりは質問をひるがえす気にはなれなかった。
「じゃあ、どうして僕のことを呼んだんだ?」
「言わなかったっけ?」
「漠然とした話は聞いた。今訊きたいのは具体的なことだ」
「うーん」
彼女は愛想笑いで首をかしげた。
206 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/09/29(土) 14:36:05.05 ID:7nWqN2Zvo
「ごく簡単に言うとね、わたしはある一人の女の子の未来を守りに来たわけ」
「……女の子?」
「そう」
その女の子というのが誰のことなのかも気になったが、それよりも気にかかったのは、
"守りに来た"
という部分だった。
来た、ということは、ここではないどこかから来たのだろう。
つまり彼女はあくまでもここではない外側からやってきた人物であって、「内側」ではない。
ひょっとすれば、僕と同じような具合なのかもしれないが。
「未来を守る、ってどういう意味?」
「そのままの意味」
「まるで、君がどうにかしないとその子の未来が失われてしまうような言い方だ」
「その認識であってるよ」
「……いったいどんな理屈で、君はその子の未来を知っているんだ?」
「――――」
207 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/09/29(土) 14:36:32.62 ID:7nWqN2Zvo
彼女の表情が凍るのが分かった。
僕はなんとなく空恐ろしい気持ちになる。これは触れていい話題だったのか?
地雷ならいいが、逆鱗なら目も当てられない。
僕が今の状況に何らかの展開を望む場合、彼女の存在は不可欠なのだ。
彼女は取り繕うような笑みを浮かべて、肩先まで伸びた自分の髪を軽く撫でてから目を逸らした。
「秘密」
と一言いうと、そこで口を閉ざす。そのことについてこれ以上話す気はない、ということだろう。
「ねえ、それより、気にならないの?」
「なにが?」
「生きているあの子のこと」
「……別に」
たしかに驚きではあったけれど、意外ではなかった。
なんとなくだがそうではないかという気はしていたし、第一、そうでなければ理屈が合わない。
ひどいものを見ることになるかもしれない、と目の前の女は言った。
僕にとってのひどいもの――要するに、僕の現実よりマシな世界、のことだろう。
僕の現実。さまざまな意味で混乱し破綻した場所。
"手遅れ"の世界。
208 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/09/29(土) 14:37:05.74 ID:7nWqN2Zvo
「もうひとつ、訊きたいことがあるんだけど」
「なに?」
「君は僕をパラレルワールドに連れてきたわけだけど、どうしてこんなことができるんだ?」
その質問に彼女は、そんなことは考えたこともなかったというように目を丸くした。
「……現にできてるんだし、あんまり関係ないよね? わたしもよく知らない。気付いたらできただけ」
僕は納得できなかったけれど、その話題があまり有益ではなさそうだと気付いて口を閉ざした。
重要なのは「あの子」が生きていることじゃない。ここが別の世界だということでもない。
僕の世界に比べてこの世界がどうだという話でもない。
問題なのは、僕がここに迷い込んでしまったということ。そして僕がどうしたいのか、という問題だ。
それを考えようとすると頭が痛くなるのを感じる。元の世界に戻りたいのか、というとそうではない。
だって僕にとっては、どうだっていいような世界なのだ。何もかも手遅れだし、破綻している。
そうでなくたってどうでもいいような場所だった。両親や部屋を貸してくれている親戚夫婦には悪いけど、たいして愛着もない。
じゃあここに残りたいのか? というと、別にそうしたいわけではないが、それはそれでかまわないという気もする。
現実問題、生きていくのが困難そうなので嫌だという気もするが、いざとなれば死んでしまえば済むことだ。
209 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/09/29(土) 14:37:36.83 ID:7nWqN2Zvo
彼女は不意に口を開いた。
「……わたしがあなたをここに連れてきた理由だけどね」
唐突に始まった話に面食らう。知りたくないわけではなかったけれど、意外さもあった。
どうしてこのタイミングで、話したりするんだろう。
「必要だったからだよ、あなたみたいな要素が。つまりね、あなたみたいに怠惰なあなたが」
「……どういう意味?」
「端的に言うとね、わたしが守りたい女の子っていうのは、あなたの世界じゃ死んじゃったあの子のことなの」
僕は水の入ったグラスに口をつけた。あまり聞きたくないことが言われようとしている。
「つまり、あなたの姪のことね」
210 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/09/29(土) 14:38:03.27 ID:7nWqN2Zvo
グラスをテーブルに置く。窓の外の夕焼けは静かに薄紫へと変わり始めていた。
「怠惰なあなたを、この世界のあなたに見せるの。自分のことしか考えずに、ただぼんやりと過ごしたあなたをね」
僕は黙って彼女の話に耳を傾けていた。心臓がわずかに音をあげた。深く息を吐く。
何もかも澱みきっている。うんざりした気分だった。
「そうして怠惰だったあなたが招いた結果をこの世界に彼に見せる。そして、彼自身が決して無力ではないことを教えてあげたいの」
「……つまり、僕のせいで彼女は死んだ、と言いたいのかな?」
「別に。ただ、この世界のあなたに、"あなたが彼女のことを考えたから、彼女はこっちでは死んでない"と言いたいだけ」
「おんなじことじゃない? 僕が彼女のことを考えずにいたから、彼女は死んだって意味だろう?」
「違う。たしかに似ているように聞こえるかもしれないけど、少なくともあなたのせいで死んだわけじゃない」
ただ、と彼女は続ける。
「ただ、あなたが彼女のことをもう少し考えていれば、回避できるかもしれない未来だった、と言っただけ」
211 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/09/29(土) 14:38:31.75 ID:7nWqN2Zvo
だから、それはおんなじことじゃないのか。
僕は自然に唇が歪むのを感じた。自分でも嫌な笑い方をしているだろうと分かる。
でも止まらなかった。指先が小さく震えている。怒りだろうか。悲しみだろうか。
「現にこの世界のあなたは、彼女の死を既に回避しているしね。本当に些細なことだったけど、あなたがしなかったこと」
「……」
「あなたが悪いんじゃなくて、こっちのあなたが偶然できただけよ。そんなに気にしなくていい」
「――ちょっと黙ってくれないか?」
彼女は僕の言葉通り、本当に黙った。そんなところも気に入らなかった。
僕はまたグラスに口をつける。何かがおかしかった。仮に僕のせいだったとしてなんなのだ?
別に僕が彼女を直接殺したわけではないのだ。彼女の言う通り、僕のせいという話にはならない。
212 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/09/29(土) 14:38:57.36 ID:7nWqN2Zvo
第一僕にだって考えなければならないことがたくさんあったのだし、他人のことまで構っていられない。
――そう思いかけて、「それが可能だった自分」が存在していることに気付いた。
つくづく悪夢的だ。実例を前に出されては、言い訳すらもできない。言い訳のしようもなく、僕は怠惰だった。
「……また、彼女の未来が失われようとしている?」
「そう。でも、今度はもっと馬鹿らしい理由。彼女自身の問題。結構先のことなんだけどね。数年後ってところ」
女は溜め息をついて、窓の外を眺めた。
「でも、たぶん、このあたりが問題なんだと思うから。具体的にいうと、八月六日の花火大会」
「……」
「あの日が、きっと問題なのよ。……でも、誰かが悪いわけじゃない」
彼女はまだ何かを言っていたけれど、僕の耳は上手く情報を掴み取ってくれなかった。
なんだか何もかもが澱んでいる。ファミレスは薄暗いし、外は翳っている。
僕は溜め息をついて席にもたれかかり、瞼を閉じた。
そして、強く意識して、三回深呼吸をした。目を開けても視界は澱んだままだった。
少しして、ケイが冗談みたいな大荷物を抱えて戻ってきた。僕たちは会計を済ませて店を出る。
「さて、行きましょうか」
彼女は笑った。僕はどうしたって笑う気にはなれなかった。
外に出ると、雨脚が強まっていた。
213 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/09/29(土) 14:39:45.62 ID:7nWqN2Zvo
◆
寝床は、町はずれの小さな無人駅の駅舎だった。
ひどく狭かったし、夏場なので虫が多かった。寝床と言いつつも、「眠る」というよりは「雨風をしのぐ」と言う方が近いだろう。
雨が強くなってきたので、屋根があるのはありがたかったが、人目は気になった。
僕の不安はむしろ強まったけれど、仮にこの世界で人を殺したところで僕自身の問題にはならない。
この世界に存在しない人間。
つまりはそういう話だ。
床の隅には蛾の死骸が落ちていた。ベンチの上はひどく汚れていて、床の上と大差ない。
女はケイに買ってこさせたタオルでベンチの上を軽く拭い、その上に長いタオルを敷いた。
「今晩の寝床」
と女が言うと、ケイが顔をしかめた。
彼が買ってきたもののなかに、あれば助かるようなものは大概が揃っていた。
たしかにこれだけの物資がそろっていれば、屋根さえあればどこでも眠れはするだろう。
214 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/09/29(土) 14:40:21.24 ID:7nWqN2Zvo
だが、仮に寝床がここではなく、そこそこまともなホテルのまともな部屋だったとしても、僕はまともに眠れなかっただろう。
「明日は、早起きしようか」
女が言った。まるで旅行にでも来ているみたいな言い方だ。
僕はうんざりした。ベンチに腰を下ろして背をもたれたまま、眠る気がしない。
二人組は疲れていたのか、場所の悪さも気にせずに早々に眠ってしまった。
神経が図太いのかもしれない。僕にはよく分からなくなった。
彼女のことをぼんやりと考える。たいして仲が良かったわけではない。話すこともそう多くはなかった。
疎ましく感じたこともあるけれど、決して嫌いではなかった。
相手の機嫌をうかがうような態度にいら立ったこともあったけど、死ねばいいと思ったことはない。
でも死んだ。そしてきっと、それは僕の行動によっては回避できる結果だったのだ。
今なら少しだけ泣けそうな気がしたけれど、別に泣きたいとは思わなかった。
よく分からなかった。涙を流すとしたら、僕は誰のために流すべきなのだろう。
何もかもが暗く澱んでいた。雨の音だけがはっきりとしていた。
215 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/09/29(土) 14:40:52.21 ID:7nWqN2Zvo
つづく
216 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[sage]:2012/09/29(土) 15:03:29.15 ID:vup/uagIO
分からなくなってきた
最初に出てきた「彼女」
217 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[sage]:2012/09/29(土) 15:05:20.43 ID:vup/uagIO
何故か途切れた
最初に出てきた「彼女」
218 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[sage]:2012/09/29(土) 15:07:38.32 ID:vup/uagIO
何故途切れる
最初の彼女と姪は同一人物?
姪は途中で行方不明になったんじゃないのか?死んだの?
219 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[sage]:2012/09/29(土) 17:07:34.99 ID:Ohl/+MFWo
乙
220 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/10/01(月) 17:10:42.80 ID:XDukWaqTo
◆
◇十
目を覚ますと泣いていた。眠る前に入れていたコーヒーはすっかり冷めている。
読んでいた本は栞も挟まれずに畳まれていた。僕は自分の部屋にいた。たしかに自分の部屋だった。
眠る前と同じだ。
僕は椅子に座りなおして、自分が誰のために涙を流しているのかについて考えた。
そして、誰かのために涙を流すということについて考えようとした。それはとても身勝手なことに思えた。
溜め息をついて、それからうんざりした気持ちで瞼を閉じた。
夢の輪郭は既に曖昧になっていた。僕はもう一度溜め息をついた。五秒ごとにでも溜め息をしそうな勢いだ。
何かが胸のつかえになっていた。そうだ。姪がいなくなったのだ。僕にとって重要なのはそこだった。
目が覚めてからずっと頭が痛かった。
僕は額を押さえながら、僕が僕であると言うことについて考えた。そのことはとても奇跡的なことに思えたし、呪いめいても思えた。
いずれにせよ僕は目が覚める前と同じように僕でしかなかったし、そうである以上は僕であり続けるしかない。
そこまで考えてから、自分がどうしてこんなことを考えているのかが分からなくなってしまった。
221 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/10/01(月) 17:11:19.67 ID:XDukWaqTo
時間は深夜三時だった。僕は部屋を出て、真っ暗な廊下を歩く。
部屋の扉は当たり前のように家の廊下に続いている。正常なつながりが保たれている。
僕の時間は僕の時間にたしかに繋がっている。
でも、なぜだ? そこには何かが欠けている気がする。
僕は僕でしかない。でも僕が僕であるという当然の認識の隙間に、何かが挟み込まれている。
分かることはひとつだけ。姪がこの家からいなくなってしまったことだけは、間違いようのない現実だ。
頭がぼんやりとしていたので、すぐに部屋に戻ることにした。
体が重くて、怠い。気分が悪かった。
瞼を閉じると睡魔が襲ってくる。
電話で聞いた魔女の声を、ふと思い出した。
彼女は僕に向かって何かを言った。でも、何を言ったんだろう。思い出せない。
僕はあまりにも無傷だった。
222 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/10/01(月) 17:11:58.18 ID:XDukWaqTo
◇
◆七
目を覚ますと雨は止んでいた。彼女とケイの二人は既に起きていて、窓の外の暗い空をじっと眺めている。
時計の針は四時半を差していた。僕たちは荷物をまとめて駅舎を出た。
彼女はうんざりした顔で澄んだ空を見ていた。八月四日の空には雲一つなかったが、暗幕のように澱んでいた。
太陽だけが強い光を放っている。それ以外のものは、ただ澱んだ空気の下にいた。
眠る前にどんなことを考えていたのか、僕は忘れてしまった。
僕はあくびをひとつしてから、街の光景をじっと見つめた。
静まり返った朝の街は、昼間とは違い人の気配がまったくしなかった。
街がまだ眠っている。そういう中でしか僕は上手に世界に溶け込めない。
僕はどこまでも異分子だからだ。
223 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/10/01(月) 17:12:50.43 ID:XDukWaqTo
「まだ寝ててよかったのに」
と彼女は言う。僕はうんざりした。あんな場所にこれ以上寝ていられるものだろうか。
「どうせどこにも行けないんだから」
「…………」
四時半。僕がそうであるように、彼女とケイもこの世界に溶け込める人間ではないらしい。
居場所がない。入れるのは何かの店くらいだが、こんな時間では休める場所などありはしない。
雨が降れば雨宿りの場所に困るし、夜になれば寝る場所に困る。
ひどく絶望的な感情に囚われた。
「どこにも居場所なんてないんだ」
僕はそう呟いた。呟いたところで何かが変わるわけではなかったけれど、ただなんとなく呟いた。
なんだかいろんなことが面倒に感じ始めた。いつからこんなことになっていたんだろう。
224 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/10/01(月) 17:13:41.84 ID:XDukWaqTo
「ねえ」
と彼女は僕の顔を見た。
「わたしはあなたのことを利用しているけど、でもね、あなたの不幸を願ってるわけじゃないんだよ」
「何の話?」
「わたしにだって説明できないけど、できないけど、巻き込んで悪いなって気持ちも、少しはあるの」
彼女の表情は僕にはよくわからない。僕にはよくわからないことばかりだ。
なんだかヤケになったような気持ちで空を見上げる。
雨が降ればいいのだ。
「あなたを見ることで、こっちの世界のあなたは、何かを得ることができるかもしれない」
でもね、と彼女は続ける。
「反対にあなただって、何かを得ることができるかもしれないと思う。そうであってほしいと思う」
「……得る?」
何かを得る、ということについて、僕は考えてみることにした。
得て、どうなるのだ? どうせ彼女は死んでいるのだ。
今更何がどうなるというんだろう。
225 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/10/01(月) 17:14:12.33 ID:XDukWaqTo
「手遅れだよ。僕はもう終わってしまっている人間だし、僕の世界はもう終わってるんだ。ここにきてそれがはっきりした」
「本当に?」
彼女は真剣な声で言った。
「本当に、手遅れなの?」
「どういう意味?」
「あなたは本当に終わってしまっているの?」
僕は何も答えなかった。
226 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/10/01(月) 17:14:38.20 ID:XDukWaqTo
◆
僕たちは駅から移動を始めた。どこに向かっているのかは僕には分からなかった。
大きな旅行バッグをかかえたケイが、彼女の少し後ろを歩いている。
その更に後ろを、僕が追いかけていた。
どうして僕はこんなところにいるんだろう。誰も僕のことなんて必要としていないのに。
僕なんかいなくても、彼女の目的はきっと達成できるはずなのだ。
しばらく歩くと、蒸気のような雨が降り出した。
さらさらとした細かな砂のような雨粒が、僕たちの肌を濡らした。
「あ」
と彼女が声をあげた。
「なに?」
「お風呂入りたい」
「……」
ケイは溜め息をついた。
227 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/10/01(月) 17:15:42.37 ID:XDukWaqTo
駅から三十分ほど歩いた。歩くというのは体力を消耗する。
朝の街は昼間に比べれば涼しかったが、湿気が多くあまり気分はよくない。
たどり着いた先はパチンコ屋の裏にある銭湯だった。
入口の券売機で入場券を買ってカウンターに出す。ごく単純なシステム。
店に入るとすぐにチープなUFOキャッチャーがいくつか並んでいる。
早い時間だが、割と混み合っている。銭湯なんてそんなものだろう。
「じゃあ、後で」
そう言って、彼女は簡単に女湯ののれんをくぐった。
「用意周到だな」
ケイがぼそりと呟いたので何かと思って訊ねると、どうもこうした場所で使うだろうものも買わせていたらしい。
当たり前と言えば当たり前の話かもしれない。トラベルセットなんて、このご時世ならコンビニでも扱っているのだから。
ケイの旅行鞄はなんとかロッカーに収まった。
それだけでロッカーをひとつ占領してしまったために、彼はロッカーを二つ使わねばならなかった。
本来なら避けるべきなのかもしれないが、やむを得ない場合もある。
228 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/10/01(月) 17:16:10.16 ID:XDukWaqTo
湯気に包まれた浴場に足を踏み入れてから、そういえば銭湯なんて何年も来ていないな、と考えた。
朝方の銭湯には独特の空気があって、一日の始まりの前の前を感じさせる。
実際にはいろんな人がこの場所には来ていて、ひょっとしたら一日の終わりにここにきている人もいるのかもしれない。
でも、僕は少なくともそんな印象を抱くのだ。
「さっき、あいつが言っていたことだけど」
とケイは僕に向かって言った。僕らは仕切りの壁をひとつ挟んで体を洗っていた。
「気にしない方がいい」
「さっきのって」
「あの、抽象的な話だよ。彼女はああいう意味ありげな言い方をすることが多いんだ」
ケイは吐き捨てるように言った。
「あいつのことは嫌いじゃないけど、あいつの話はバカらしいと思う。現実に即してないんだ」
「……そう?」
「僕はね。そう思う」
僕は、と彼は言う。そういえば、彼と二人で話すのは初めてだという気がした。
229 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/10/01(月) 17:16:44.84 ID:XDukWaqTo
「君は彼女の何なんだ?」
「さあ」
と彼は僕の問いに首をかしげる。
「分からない。友達、だと思う。それ以上じゃない。でも、僕にとっては唯一の友だちでもある」
「へえ」
友達。
「君はなぜ彼女と一緒にいるの?」
「脅されてるんだ」
予想外の答えに、少し驚く。
「友達なのに?」
「友達なのに、ね」
彼は疲れたように溜め息をついた。
230 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/10/01(月) 17:17:21.08 ID:XDukWaqTo
「本当なら僕はこんなところにいるべきじゃないんだと思う。だって僕は無関係な人間なんだ。あなた以上に」
「じゃあ、どうしてこんなところに?」
「知らない。何のつもりなのか分からない。今のところ、荷物持ちとしてって以上ではなさそうだけど」
「それは……」
なんとも言い難い話だ。
「たぶんあいつなりに、僕を呼んだ意味って言うのもあるんだろう。人手って意味以上でね。でも僕には関係のない話だ」
冷淡にそう言い切ると、ケイは立ち上がって湯船に向かった。
僕は彼女の言葉について考える。
何かを得る。
何か?
考え事をしながら銭湯につかっていると、いろんなことが馬鹿らしく思えてきた。
十分に体を温めてから浴場を出て服を着る。入口の広間に行くが、二人ともまだあがっていないようだった。
銭湯の内部に入っていた食堂はまだ営業を始めていないようだった。同様にゲームの大半も灯りがついてない。
僕は自販機でスポーツドリンクを買って飲んだ。時間の流れがひどく遅く感じた。
231 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/10/01(月) 17:18:13.76 ID:XDukWaqTo
でもそれは仕方ないことなのだ。時間は誰の身にもおおよそ平等に流れる。
それを変えるのは困難だし、現実的に考えて奇跡めいている。
現実の人間は、どこかのディストピア小説のようにはいかない。
レバーを押したり引いたりするだけで、物見遊山気分で人類の末裔を見に行ったりできないのだ。
あの小説の作者は社会主義に傾倒していたのだという。
人類の進歩と発展は既に上昇ではないのかもしれない。そんなどうでもいいことをぼんやり考えた。
いずれにせよ僕らが生きるのは人類が行きつく果ての未来ではなく途上の現在でしかない。
考えなければならない現実は目の前にあるのだ。いつだって。
僕たちは時間の流れに従って生きている。というよりは、僕たちの正常な変化の一連の流れを時間として規則立てている。
そこには正当な手続きが必要になる。六時の次は七時だし、七時一分の次は七時二分だ。
七時二分の次を六時五十分にするわけにはいかない。
ちゃんと順番に従わなくてはならないのだ。今は六時。まともに活動するには、まだ早すぎる。
時間が流れるのを待たなくてはならない。少なくとも今のところは。
232 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/10/01(月) 17:19:32.82 ID:XDukWaqTo
つづく
実生活の方が忙しいので不定期になるかもしれません
一応二日に一回は来れるようにしたいと思います
233 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[sage]:2012/10/02(火) 08:11:16.07 ID:srRS+T8IO
乙
234 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/10/03(水) 13:44:49.68 ID:51GYTAGko
◆八
時間をやり過ごして、十時を回った。
魔女の提案で、僕たちは服屋に向かうことになった。
「……正直、汗くさいよ?」
誰のせいだと思っているんだろう。
僕としては特に異論もなかった。彼女の財布を頼らなければならない事実だけが癪だったが、まぁ仕方ないと言えば仕方ない。
できることとできないことがある。今までだって散々誰かを頼って生きてきたのだ。今更どうという話でもない。
自分の身の回りのことを自分の力だけで済まそうとするなんて馬鹿げてる。使えるものは使えばいいのだ。
適当に見繕おうとすると、彼女が何度もダメだししてきた。どうでもよかったので言うに任せる。
ケイが奇妙なものを見るような目で僕と彼女をじっと見ていた。
僕はその場で服を着替え、ついでに伊達眼鏡を買った。
たいした意味があったわけじゃなかったが、顔をさらして街を歩くのに抵抗があったのだ。
235 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/10/03(水) 13:45:15.88 ID:51GYTAGko
服を選び終わって、朝食兼昼食を取ることになった。
昨日と同じファミレスならば楽だったのだが、彼女が嫌がったので少し遠い場所にあるラーメン屋にいくことになった。
僕らは時間が流れるのと同じように歩いて移動し続けた。
歩いている最中はずっと無言だった。
僕は歩きながら考え事をするはめになった。ずっと自分が終わっているのかどうかについて考え続けた。
そして、終わっているというのはどういう状態なのかについて思考を巡らせた。
それは間違いなく死のことだろう。
店に入って注文を済ませる。僕たちは順調に時間を消化しつつある。
消化しつつあるけれど、僕はここで少し不安になった。
消化してどうするのだ? 僕には何か目的があるわけではないのだ。
ようするに、目指すべき時間がない。やりたいことがあるわけでも行きたい場所があるわけでもない。
時間をやり過ごしてどうしろと言うんだろう。
236 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/10/03(水) 13:45:56.24 ID:51GYTAGko
「ね、そういえばさ」
と、ラーメンを食べ終えて、満足そうな溜め息をついてから、魔女が笑った。
「荷物、届けないといけないんじゃない? 昨日受け取ってたやつ」
「……ああ」
タクトから受け取ったものだろう。
「……届けようにも、僕が家に入るわけにはいかないよ」
「そこは、ほら、忍び込むとか」
……僕はこの世界で、家族がどんなふうに過ごしているのかしらない。
けれど、姪が生きているとしたら夏休みの最中のはずだし、順当に考えれば母だって働いてはいないのだろう。
であるなら、忍び込んだりするのは困難めいて思えた。
「……どっちにしろ、あなたは一度あの子に会っておくべきだと思う」
「どうして?」
「なんでかは知らない。でも、なんかそういうの、ない?」
「……」
237 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/10/03(水) 13:46:24.67 ID:51GYTAGko
◆
「……?」
店を出て少し歩くと、魔女とケイの姿は消えていた。
冗談みたいに綺麗に消えていた。僕は強く動揺した。人はこんなに簡単に消えたりするものだろうか。
それがあまりに一瞬のことだったので、僕はしばらく彼らがいなくなったということに気付くことができなかった。
僕の心は突然不安定になった。まったく未知の空間、時間に放り出されたのだ。
僕はいったい何をどうすればいいんだろう? そのことが一瞬で分からなくなってしまった。
ほとんどの荷物はすべてケイが持っていたし、ここではすべて魔女の言う通りに行動していた。
すべきこともしたいことも何ひとつ思い浮かばなかった。いつも通り。
僕が持っているのはタクトから受け取った例の荷物と、彼女から渡された財布だけ。
僕には何もなかった。からっぽだった。器の中身はとっくになくなっていた。
最初からなかったのかもしれない。当たり前のことだ。いつだってその場しのぎでやってきたのだ。
なにもないのだ。気付かなかっただけで。気付かないふりをしていただけで。
この荷物を届けよう、と僕は思った。それだけが今僕がすべきことなのだ。
それ以外のことは何もない。あとは本当にからっぽになるだけだ。
238 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/10/03(水) 13:46:50.83 ID:51GYTAGko
僕はとにかく歩くことにした。そしてあの家に向かおうと思った。
そうする以外に何も思いつくことはなかったのだ。
途中に見つけた本屋に立ち寄って、例の小説を読みなおしてみた。
僕はゆっくりと時間を掛けて本を読む。それを何度か繰りかえす。
三度目以降から、読んでいる最中に僕の頭の中に不思議な感慨がつきまとうようになった。
なんだ、僕には関係ないじゃないか。
外に出ると景色はすっかり変わっていて、太陽が西の方に移動していた。
時間を掛けて街を歩く。僕は歩いてばかりだった。
うんざりしてきた。僕はどうして歩いているんだっけ。いったい誰がこんなところに僕を連れてきたのだろう。
僕は何もしたくないのに。家に引きこもっていたい。本でも読んでいられればそれでいいのに。
嫌気がさしていても歩くのをやめたりはしなかった。なぜだろう? 僕はこの世界で、なんの責任も負っていないのに。
ポケットに手を突っ込むと携帯があった。僕は取り出してみる。相変わらず画面が真っ暗だ。
心底嫌気が差す。誰ともつながっていない。
239 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/10/03(水) 13:47:17.35 ID:51GYTAGko
(終わってるのかって?)
僕は魔女の声を思い出した。
(終わってるじゃないか。言い訳のしようもなく。僕はただ歩いているだけで……立ち止まっていないだけで)
涙は不思議とでなかった。
(目的がないんだ。誰かの「おつかい」程度しか。自分がいないんだ。からっぽなんだ)
それとも、違うのか?
まだ何かがあるのだろうか?
魔女はきっと何も言わないだろう。
愛想をつかされているのだ。
誰も、僕を必要としていない。
僕は、機械になりたい。
240 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/10/03(水) 13:47:53.59 ID:51GYTAGko
家に着く頃には三時を回っていたらしい。らしいというのは、時計を持っていなかったのであとから時間を確認したのだ。
僕は玄関を当たり前のように開けた。
「おかえり」
と声がした。母の声だった。懐かしい響きだったけれど、僕の憂鬱は決して晴れなかった。
いっそ僕が違う世界から来たのだと言うことを伝えようかと思ったけれど、やめておいた。
彼女は僕の母ではなく、この世界の僕の母親だった。この世界の姪がそうであるように。
この世界のタクトがそうであるように。
魔女はそのことに気付いているのだろうか?
この世界で彼女を守れたとしても――守れなかった彼女を守れたことにはならないのだ。
並行世界と呼ぶ以上、そのふたつは別物なのだ。
241 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/10/03(水) 13:48:26.32 ID:51GYTAGko
「ただいま」
と僕は自棄になったような気持ちで言った。
母は玄関に出ないまま僕に答えた。
「風邪でも引いたの? 声が変」
僕は笑いだしたい気持ちになった。
「なんでもない」
言ってから、僕は荷物を玄関先に置いた。それから少し迷ったけれど、家に足を踏み入れた。
見つかったところで適当に言い訳すれば逃げられるだろう。僕は僕と似た顔をしている。
それはパッと見ただけでは同じに見えるかもしれないけれど、"違う"のだ。明確に違う。
僕は彼とは違う。違う経過を生きた人間なのだから当たり前だ。
僕は彼とは違う。
僕は彼になれないし、彼は僕にならない。
どうして――姪が生きていたりするんだろう?
242 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/10/03(水) 13:49:04.73 ID:51GYTAGko
そのことが気になってたまらなかった。どんな魔法を使えば彼女を助けられるのだろう。
僕には最初から助ける気なんてなかったけれど。
"――ねえ"
頭が痛む。視界が澱んでいく。
"――わたしが悪いの?"
階段を昇って部屋に入る。部屋は僕のものと似ていた。似ていたけれど確かな違いがあった。
机の上には写真立てがあった。家族が映っている。その中で僕と姪は中央に並んで立っていた。
僕の手のひらは姪の頭の上に乗せられている。姪は満面の笑みでこちらを見ていた。
僕は少し照れくさそうに笑っている。でもそれは僕じゃなかった。
その写真の中に、姉が映っている。
これは"いつ"撮ったものだろう。
分岐はどこにあったのだろう?
――。
何かがおかしい。
この写真に写っていないものがある。なんだろう?
何かが欠けている。僕はいる。姪もいる。姉もいる。母も父もいる。
……何が欠けているのだろう?
背景は自宅の玄関。おそらくこの世界の僕の高校入学時に撮影したのだろう。まだ制服に着られているように見える。
243 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/10/03(水) 13:49:53.36 ID:51GYTAGko
写真には、姉の夫の姿がない。
「――――」
僕は愕然とした。
そこなのだ。そこが違うのだ。この世界で姉は離婚している。
僕は恐ろしくなって写真立てから目を逸らした。
それはいつのことだ? 分岐があるとするなら、もう何年も前ということになるだろう。
そうだ。六、七年前、姉と義兄のあいだには、一度離婚話が持ち上がった。
「……待て。それはおかしい」
こらえきれずにあげた声は、少し震えていた。
あのとき、母はとても悩んでいた。僕を夜中に車で連れ出して、車内で姉と姪について相談してきた。
僕は姪のこともどうでもよかった。ただ、姪の夜泣きや姉夫婦の喧嘩の声が、うるさかったな、と……その程度だった。
僕はぎすぎすした家の雰囲気にイライラしていたし、傍若無人な義兄の振る舞いにイライラしていた。
生んだ子の世話もできない姉にも、泣いてばかりの姪にも。
だから、
“どうすればいいと思う?”という母の問いに、
“――どうでもいいよ”と。
そう答えたのだ。
244 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/10/03(水) 13:50:28.17 ID:51GYTAGko
母は離婚家庭に育った。母親が片親であることでどれだけ苦労をしたかを知っていた。
娘に離婚なんてさせたくなかった。姪を、父親のいない子供にさせたくなかった。
だから、誰もなにも言わなければ、どれだけ上手くいきそうになくても、母が姉に離婚しろなどと言うわけがない。
誰もなにも言わなければ、どれだけ喧嘩続きでも、姉は踏ん切りがつかないだろう。
当然結婚生活は続き、いずれは家を出ることになる。少なくとも、僕の知る過去ではそうなった。
数年後、僕が高校に入学する前の年、つまり、去年、姪と姉は死んだ。
もしあのとき僕が何か違う言葉を母に言えば何かが変わっただろうか?
変わったかもしれない。変わらなかったかもしれない。
いずれにせよ姪は死んだ。でもこの世界では生きている。
――この世界の僕も、僕と同じことを経験しているのだろうか。
だとするなら、彼はいったい母になんと言ったのだろう。
でも、仮にそのときの僕の言葉が何かを変えられたとして、そうしなかったことに責任があるんだろう。
ただそれだけのことをしなかった僕を、誰が責めるのだろう。
――だって僕は、そのとき十歳だったのだ。
245 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/10/03(水) 13:50:58.41 ID:51GYTAGko
◆
不意の物音に振りかえると、扉の傍に姪が立っていた。
僕は言葉をなくして立ちすくんだ。
彼女がただそこにいるという事実に身震いするほどの恐怖を感じた。
彼女は本当に生きているのだ。
ただそこに立って、呼吸をしていた。僕は不安になる。
冷静なって考えれば、ここで姿を見せるのはまずかった。
僕は僕を知っている人間を可能な限り避けないといけない。
そうでなくても、勝手にこの家に入った人間がいると分かれば、無意味にこちらを混乱させかねない。
――そうなったところで、僕は別に困らないのだけれど。
「……お兄、ちゃん――」
そんなふうに、彼女は僕を呼ばなかった。
「――じゃ、ないよね?」
246 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/10/03(水) 13:51:32.55 ID:51GYTAGko
問いかけるような言葉には、確信がこもっていた。
服装が違うからではない。声が違うからでもない。態度が変だからでもない。
彼女には分かってしまうのだ。
この世界では、僕と姪はそれだけの関係なのだ。
そのことに気付くと僕はひどく悲しい気持ちになった。
僕には誰もいない。
「……お願いがあるんだ」
と僕は言った。彼女は面食らったように目を丸くして、気圧されたように頷く。
生きている。
「僕と会ったこと、誰にも言わないでくれないか?」
「……あなた、誰?」
「言っても分からない。騒がないでくれると助かる。無茶を言っているって、分かるけど」
胸の奥から何かがせり上がってくるような錯覚。
泣き出しそうなのだ。
247 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/10/03(水) 13:52:00.85 ID:51GYTAGko
「今はとても混乱してるんだ。上手に物事を考えられない。それにすごく疲れてる」
「……大丈夫?」
彼女の声は僕をいっそう不安にさせた。
手遅れなのだ。この声も、この姿も、すべて僕から失われてしまったものなのだ。
それが僕の責任ではないとしても、僕だけは、自分が彼女のことなんてちらりとも考えていなかったことを覚えている。
悔恨ではないし、後悔とも違う。
僕は彼女のことなんてちらりとも考えなかった。ただ、自分のことだけを考えていたのだ。
隣の家で買っている家が、やたらうるさく吠えるなと、その程度にしか彼女のことを考えていなかった。
僕は姪のことを、生きたひとりの人間としてとらえていなかったのだ。
僕は立っていられなくなって、ベッドに腰掛けた。俯いて考え込んだ。
何がおかしいんだろう。僕は別に何かをしたいわけじゃなかった。
ただどうでもよくて、ただ不快だった。それだけだった。
僕が無関心であったことが、彼女を殺したのではない。
でも、僕は無関心でなかったら、彼女は死なずに済んだかもしれない。
それは自惚れなのだろうか。
248 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/10/03(水) 13:52:27.17 ID:51GYTAGko
僕は目を瞑って深呼吸をした。それから何かを考えようとした。何かが何なのかは分からない。
不意に、何かが僕の頭に触れた。
驚いて顔をあげると、すぐ傍に姪が立っていた。
目が合うと、彼女は気まずそうに表情をくもらせる。
彼女が僕の頭に手のひらを乗せたのだ。まるで子供にでもやるように。
「ごめんなさい」
彼女は謝ったけれど、謝られたところでどうしようもなかった。
すべて過ぎてしまったことだった。取り返しはつかない。僕は僕のことだけを考えて生き続けるしかない。
誰かのためには生きられない。
「なぜ悲しいの?」
「……」
249 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/10/03(水) 13:52:58.46 ID:51GYTAGko
なぜ? と。
それは答えようのない疑問だった。
僕は少し考えてみたけれど、なかなか答えは浮かばなかった。
なぜ、悲しいのだろう。彼女が死んだからではない。死んだことが悲しいのではない。
「きっと――」
と、僕は声をあげた。少し鼻声になっていた。
「――自分が無効な人間になったからだ。誰にも何も訴えかけられないし、誰のことも触れられない。誰にも見えない。そういう人間に」
僕にできることはひとつもないし、僕を必要としている人間はひとりもいない。
僕が助けられた人間はひとりもいないし、僕を助けたい人間もひとりもいない。
僕を好きでいてくれる人間はいないし、僕を嫌いになる人間もいない。
ただそこにいるだけの存在。でもそれは僕が望んでそうなったのだ。
「いつのまにか終わっていたんだ。何も手のひらに残らなかった。どうしようもないんだ。
いつのまにかこうなっていたんだ。それは自分のせいかもしれないけど。
僕はどこにも行けなくなっていたし、誰にも会えなくなってた」
僕は誰にも必要とされようとしなかったし、誰も助けようとしなかったし、誰にも助けてほしくなんてなかった。
誰にも好かれたくなんてなかったし、誰にも嫌われたくなかった。
どこにも行きたくなかったから、いつのまにかどこにも行けなくなった。
誰にも会いたくなかったから、誰にも会えなくなった。
僕はただ――寝転がってテレビを見ていただけ。誰ともつながろうとしなかった。最初から。
どうしてそうなったのかは知らないし、こっちの僕がどうしてそうならなかったのかも分からない。
でもそれは、決定的な違いだ。致命的なことだ。
250 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/10/03(水) 13:53:29.49 ID:51GYTAGko
「……見えるよ」
と彼女は言った。僕は一瞬、何が起こったのか分からなかった。
彼女は僕の手を掴んだ。
「触れるよ」
当たり前のことを当たり前に言うような、「何を言ってるんだ」とでも言いたげな、間抜けな表情で、彼女は言った。
「――」
すとん、と、胸に落ちるような納得がよぎる。
こういう子だったのだ。
一緒に居る時間が短かったから分からなかった。
こういう子だと知っていたから、この世界の僕は彼女のことを考えたのだ。
僕は知らなかった。知ろうとしなかったし、知る機会がなかった。
であるなら――この世界と、あの世界の致命的な違いを生んだのは、きっと……。
251 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/10/03(水) 13:53:58.42 ID:51GYTAGko
「ありがとう」
と僕は言った。立ち上がると、彼女は掴んでいた手を離す。
「もう行く。悪いけど、僕のことは誰にも言わないでほしい」
「……うん」
彼女は状況がうまく飲み込めていない顔をした。
「誰にも、だよ」
「……うん」
何か思うところがあるような顔で、彼女は俯く。
「どうかした?」
252 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/10/03(水) 13:54:24.75 ID:51GYTAGko
「ううん。えっと、お兄ちゃんの、知り合い、なの?」
「……いや」
「お兄ちゃんのこと、知らない?」
「知っては、いるけど」
「最近、変なの」
姪は表情を曇らせる。僕は訊ね返した。
「……何が?」
「すごく疲れてるみたいなの。なんだか、ずっと大変そうで。なんでだろう?」
「――――」
253 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/10/03(水) 13:54:50.94 ID:51GYTAGko
この世界もまた、決して順風満帆ではない。
"ごく簡単に言うとね、わたしはある一人の女の子の未来を守りに来たわけ"
放っておけば失われてしまうのだ。彼女はまた死んでしまう。
なぜ、そんなことになるんだろう。僕は無性に気になった。
この世界で何が起こるんだろう。
それはすぐ起こることではない、と魔女が言っていた気がする。
僕は――目の前にいる彼女のために、行動を起こしてもいいかもしれない。
そうしたくなった。たったこれだけの会話で、僕は彼女のことを好きになっていた。
見過ごすことができなくなってしまった。
「分からない」
と僕は正直に答えた。
254 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/10/03(水) 13:55:34.45 ID:51GYTAGko
「大丈夫だよ。きっと、不安に思うことはない」
僕の言葉が彼女の耳に届いたかどうかはさだかではない。
彼女はきっとこの世界の僕のことだけを考えていて、僕のことは目に入っていなかっただろう。
それでいいのだ。
僕は素知らぬふりをして玄関を出る。そこまで姪が見送ってくれた。誰にも言わない、と彼女は約束する。
その時にはすでに、彼女は当たり前のように笑顔になっていた。まったく陰りのない表情。
きっと彼女は、この世界の僕の前でも、この表情になるのだろう。そして僕のことを騙すのだ。
何の不安もないような顔で、何か思いつめている。
家を出たのは三時半を過ぎた頃だった。
不意に後ろから物音が聞こえて振り返ったけれど、誰もいない。
怪訝に思ったがいつまでも同じ場所に居続けるわけにはいかず、僕は歩き出す。
――魔女を探す。そして、彼女の未来について問いただす。
255 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/10/03(水) 13:56:08.01 ID:51GYTAGko
つづく
256 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[sage]:2012/10/03(水) 20:26:22.33 ID:2HUEBBmIO
◇が姪がいる時間軸で、◆が姪がいない時間軸か
257 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/10/05(金) 14:34:54.54 ID:YWQt4mxFo
◆九
けれど魔女はその日、僕の前に姿を現さなかった。
僕は夕暮れの街を歩きながら彼女の姿を探したけれど、どれだけ探したところで無駄だという気もした。
彼女の意思の上でしか、僕は彼女に会うことができない。
それでも惰性でさがしていたけれど、半分以上諦めていた。街を歩いているのは別の理由からだ。
自分が住んでいるときは分からなかったけれど、街には結構人が歩いている。
以前とは違って見える。僕の目にはさまざまなことが色づいて見えた。
なぜこれだけのものを見過ごしていられたのだろう、と僕は愕然とした。
五時を過ぎる頃に街には雨が降り始めた。
静かで綺麗な雨だった。僕は近くのコンビニに立ち寄って傘を買った。
傘を買うとき、レジを打った店員が奇妙なものを見るような顔をしていた。
僕は気にせずに店を出た。傘を広げて街を歩く。
人の姿は消えていた。部活帰りなのだろう、ジャージ姿の学生が自転車を慌てて漕いでいった。
僕はとりあえず雨宿りできる場所を探したが、新しい場所に向かいたくはなかった。
とりあえず思いついたのは、昨夜の無人駅だけだった。
連日忍び込むのは危ないかもしれないが、他に心当たりもない。
258 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/10/05(金) 14:35:30.23 ID:YWQt4mxFo
傘を畳んで無人駅に入ると、先客がいた。彼女は僕の顔を見て一瞬不思議そうな顔をする。
僕は目を逸らして知らないふりをした。
「ねえ」
とすれ違いざま、女は僕の顔を見て声をあげた。そうまでされると顔を合わせないわけにはいかない。
僕は溜め息をついて女に目を向けた。
僕の態度に、彼女は怖気づいたように後ずさる。
そして数拍おいてから、
「……ごめんなさい。人違いでした」
謝る。たぶん人違いではないだろう。
どうも、こっちの僕は知り合いが多いらしい。
259 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/10/05(金) 14:36:14.25 ID:YWQt4mxFo
彼女はすぐに駅を出て行った。僕はベンチに腰を下ろして溜め息をつく。
物事にはきっと、相応しい時間というものがある。
魔女もまた、何かを考え込んでいるような顔をすることがときどきあった。
彼女にも何かがあるのだろう。僕には分からないこと、僕が知らないこと。
瞼を閉じると眠気が襲ってきた。疲れているのだろう。たかだか二日間の出来事なのに、ものすごい密度に感じる。
何かをしたわけではない。なぜこんなに疲れているのだろう。
歩き回ったからだろうか。眠気はすぐに襲ってきた。僕の意識はすぐにさらわれる。
魔女を探さなくては。……彼女の言葉の真意を問いたださなくては。
そうしなければ……。
260 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/10/05(金) 14:36:43.76 ID:YWQt4mxFo
◆
◇十一
目を覚ますと外は白み始めていた。僕は体を起こして頭痛に顔をしかめる。
朝が来たのだ。全身に鈍い痛みが走っている。
ただ眠っていただけなのに、なぜだろう。
『たぶん、魔女は繋ぐんだ』
彼は言った。
『僕や、君や、おそらく他の人間。あの子についても、みんなそうだ。そういう人間のある種の性質を利用して、繋ぐんだよ』
性質。……性質? 僕や彼やあの子に共通する性質。
ある種の空虚さ。
僕という人間の生活について考える。
僕はごく平凡な高校生だ。両親は健在。歳の離れた姉と、その娘と同居している。
姉は一度離婚を経験していて、二十八になる今でも実家暮らしを続けている。
261 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/10/05(金) 14:37:09.98 ID:YWQt4mxFo
近くのコンビニでバイトをしている。
趣味は特にないが、ときどき古本屋に言って五十円で買える中古の小説を何冊か買って暇を潰している。
炭酸飲料と甘い食べ物が苦手。
客観的に言って、少し姪に執着しすぎているかもしれない。
客観的に、と僕は思う。それが大事なのだ。僕と言う人間を客観的にとらえ直すことが。
客観的に言って、僕は焦っている。八月三日の日に自分と同じ姿をした人間を見てから、ずっと気分が落ち着かない。
では、それ以前は普通の精神状態だったのか? ――どうだろう。それ以前のことはよく思い出せない。
夏休みに入る前、僕はどんな学生生活を送っていたのだろう。
友達はいたのだろうか? クラスメイトとの距離感は? 学校での成績、勉強の調子。
部活動には所属していたか? 人に言えないような秘密はあったか?
こうして考えてみると、そのほとんどの問いに僕は答えることができない。
本当に思い出せないのだ。僕は唖然を通り越して笑いだしそうな気持ちになった。
僕の身に何が起こっているのか。
262 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/10/05(金) 14:37:40.41 ID:YWQt4mxFo
が、まずはそのことを保留にする。現状を把握し直そう。
あの日、ヒーローショーの日のショールームの二階、あそこで僕とそっくりの男を見かけた翌日。
家に帰るとギターの弦が切れていて、白紙のメモが残されていた。
あれは誰の仕業だったのか。
「何の話?」と彼は言った。
彼が関与していないとなると、候補はひとりしかいない。
"魔女"と彼が呼んだ女。電話の女。
その三日後の八月六日、僕は彼と初めて言葉を交わすことになる。
彼の話はまったく要領を得ず、僕を混乱させるだけだった。
彼は僕と姪の関係についていくつかの質問を投げかけたあと去って行った。
そのことも今考えれば納得できなくはない。彼にとってこの世界は未知の並行世界だったのだから。
この世界の僕と姪の関係を知ろうとするということは、つまり彼の世界での関係性はこちらとは異なるという意味だ。
だが、それは"彼"の話であって"僕"の話ではない。
263 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/10/05(金) 14:38:06.66 ID:YWQt4mxFo
姪はその翌朝、僕の前から姿を消した。八月七日。空は曇り空だった。
なぜ消えたのか。
僕には、姪が自発的にいなくなってしまったように感じた。
それを思えば前日の様子はおかしかった。いつもならしないような話をしたりもした。
彼女は何かを思いつめているように見えた。何を思いつめることがあるのだろう?
一応、僕は姉と父母の不仲を危惧してはいたが、それでも安定はしていたのだ。
彼女が不安に思うこと。それってなんなんだろう? 姉の愛情? 父母のストレス?
それともそれ以外?
よく分からない。なぜ彼女がいなくなったりするんだろう。でも漠然とそう感じるのだ。自発的にいなくなったのだと。
姪がいなくなった日、僕は彼女の姿を探して街を走り回ったが、結局見つからなかった。
264 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/10/05(金) 14:38:45.38 ID:YWQt4mxFo
母からの電話の後、帰ろうとする途中でもう一度彼に会った。
彼の様子はどうだったろう? 初めて会った時と比べて。
……ひどく落ち着いているように見えた。
最初は、彼自身もひどく混乱しているように見えた。けれど二度目の彼は、少し落ち着いていたのだ。
彼の言葉の通り僕は家に帰り、休むことにした。そしてその翌日にはバイトがあって――。
その頃からずっと、頭がぼんやりしている。
夜、ショールームに忍び込んだ。今思えば……なぜ入れたのか。
――――。
"なぜ?"
緑色のドア。
魔女の居場所はどこだろう。
265 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/10/05(金) 14:39:42.06 ID:YWQt4mxFo
僕はショールームで彼女からの電話を受けた。そこで初めて、彼女の存在を知る。
フクシュウ。分岐と結果。
彼女との電話が切れたあと、僕は彼とふたたび会うことになる。
思ってみれば……彼はなぜあのショールームを訪れたのだろう?
――。
「…………え?」
彼はあの日、僕を見つけて、バカみたいな挨拶のあとにこう言った。
『彼女に会ったの?』
僕はこう問い返す。
『どっちの?』
『魔女についてのつもりだったが、両方』
彼自身は、別の並行世界から来たただの人間に過ぎない。
だとするなら、彼は僕の行動を把握できるわけがない。
266 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/10/05(金) 14:40:21.59 ID:YWQt4mxFo
『彼女に会ったの?』
「会えたの?」ではなく「会ったの?」と言った。
彼の目から見て、僕は彼女に『会える』状態にあったのか?
……バカバカしい。ただの言葉のニュアンスの問題なのかもしれない。
だが、ひょっとしたら、彼はあの夜、魔女に会いに行くつもりだったのかもしれない。
魔女に会いにいったら、偶然僕がそこにいた。
だからこう訊ねることになる。
『彼女に会ったの?』と。
僕はそんなことを知らないから、電話が来た、とだけ答える。
彼は何も言わなかった。
『あの子は、魔女と一緒にいるらしい』
『……まあ、そうだろうね』
姪が魔女と一緒にいると聞いたとき、彼は驚かなかった。
彼はこの世界の事情に詳しくないはずだ。姪がいなくなる他の要因があるかもしれないと、想像してもおかしくないのに。
つまり彼は、知っていたんじゃないか。予想できていたのではないか。
あの日、姪がどこに居たのか。
267 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/10/05(金) 14:40:52.00 ID:YWQt4mxFo
あの日、僕はひどく混乱していた。彼の言葉になんの違和感を抱かないほどに。
あの日? ……いや、違う。まだ混乱している。時間の感覚すらおかしくなっている。
これは――昨夜の出来事だ。
魔女は、あの子は、昨夜、あのショールームのどこかにいたんじゃないのか?
ひどい頭痛だった。僕は携帯を手に取って予定表の画面を開いた。バイトのシフトは入っていない。
もう一度、あそこに行ってみなければならない。
でも、あの日、あそこに緑色のドアはなかった。
僕には、それが何か致命的なことに思えた。
あのドア。
とにかく、落ち着け、と僕は思った。
頭痛がだんだんとひどくなる。立っていられなくなる。
落ち着けよ、と彼の声が聞こえる。
それから自分が何をすべきか考えるんだ。それはたぶん、僕にとっても大事なことなんだよ。
頭が痛くてうまくものごとを考えられない。僕は瞼を閉じてベッドに倒れ込んだ。
でも、眠りたくなかった。変な、奇妙な、憂鬱な夢が、ぼんやりと印象だけを僕に残していく。
眠りたくなかった。
268 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/10/05(金) 14:41:22.17 ID:YWQt4mxFo
つづく
269 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[sage]:2012/10/05(金) 18:12:22.78 ID:vA8S2v5IO
乙
270 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/10/07(日) 16:21:05.24 ID:wY39qn+Wo
◇
◆十
翌朝目を覚ましてすぐ、僕は全身の痛みと気だるさに意識を引っ張られた。
堅いベンチで眠っていたから体が石のように凝り固まっているのだ。どこかでゆっくりと休みたい気分だった。
僕はポケットに突っ込んだ財布を取り出してみる。不思議なことに気付いた。
金が減っていないのだ。
そういえばこの財布の中身をどれくらい使っただろう? 最初はいくら入っていたのだっけ? よく覚えていなかった。
むしろ使っていない分の金が余って増えているようにも見えた。当初入っていた金の三倍はある。
なんだ、と僕は思った。この金があればこんなところで寝泊まりなんてしなくてもよかった。
食うものにも服にも困らない。そう思って僕はまた、例の銭湯へと向かった。
途中で歩くのが面倒になり、タクシーを呼んで運んでもらった。大抵のことは金があればなんとかなる。今の世の中は特に。
271 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/10/07(日) 16:21:32.62 ID:wY39qn+Wo
僕には何か考えなければならないことがあったはずなのだが、よく思い出せなかった。
とにかく僕の頭に流れていたのは、つい昨日あったばかりの姪の姿だった。
彼女がどこか遠くで泣いている気がした。でも、僕は彼女の居場所を知っている。
なぜだろう? 強く混乱しているのだ。
風呂に入って汗を流した後、僕は銭湯の大広間にあったマッサージチェアに腰かけた。
いつの間にか眠っていて、目が覚めたら十一時を過ぎていた。腹が空いていたので店を出て、タクシーでファミレスまで移動する。
朝食をとったあと、僕はどうしようかと考えた。
とにかく街の方に行くと映画館のポスターが目についた。僕は吸い寄せられるように入場してチケットを買った。
店の中は空いていた。休みだと言うことを考えれば学生がいてもよさそうなものだが、本当に数えるほどしか客がいなかった。
寂れているわけでもなさそうなのに、なぜだろう。だが、それもどうでもいいことだった。
今の僕にとって重要なのはそんなことではない。では何が重要なのか? それがさっぱり思い出せない。
シアターに入場して席に着く。まだ明るい。
272 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/10/07(日) 16:21:58.67 ID:wY39qn+Wo
僕という人間について整理する。
僕は高校生だ。
親は生きているが、別居している。生まれた街――つまり今僕がいる街――を離れて暮らしている。
部活動には所属していない。勉強にも熱心じゃない。バイトをするわけでもない。
どこにでもある程度はいる無気力な学生。友人も少なく活力がなく趣味もない。それが僕だ。
歳の離れた姉がいる。彼女は姪を生んだ。そして殺した。そののち、自分の手で自分を殺した。
彼女たちの死はちょっとしたニュースとして全国を騒がせたが、それは二件目だった。
同様の出来事が、その年にあと三回あった。あわせて四回の、子殺しのニュース。
ちょっとした社会問題にもなったが、たとえば姪の人格や姉の精神性などを問題にする人間は少なかった。
問題は最近の母親、最近の子供、最近の家庭の事情にすり替えられた。誰も彼女たちの固有性に目を止めようとはしなかった。
姉の夫はその後蒸発した。どこに行ったのかは知らない。
いずれにせよ、僕の生活はそこからおかしくなった。
僕はひどく混乱したし、わけが分からなくなった。なぜかは分からない。
僕はそもそも他人のことを慮らず、自分のことのみを考えることを信条として生きてきた人間なのだ。
誰もが自分のことのみを考えていれば十分だと信じていた。
だから僕は他の人間のことに関与しないかわりに、他の人間の責任を取ろうとしなかった。
僕の混乱は姪の存在に起因している。僕はあの出来事から一年以上ずっと、姪の死について考えていた。彼女は八歳だった。
なぜ、八歳の子供が死ななければならなかったのだろう?
姪の遺体はひどく痩せていて、生前ろくに食事を与えられていなかったらしいとニュースキャスターが言っていた。
273 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/10/07(日) 16:22:25.86 ID:wY39qn+Wo
もちろん子供が死ぬなんて珍しいことじゃない。そんな例はごまんとある。今だってきっと死んでいる。
でも、なぜ母親に殺されなければならなかったのか? もちろん姉にも事情はあっただろう。
本人なりの苦悩もあっただろう。ならばなぜ周囲がそれに気付いてやれなかったのか?
責任と言うのは連帯させようと思えばどこまでも連結してしまうものだ。
だから僕は根源的に責任の連帯というものを嫌う。きりがないからだ。
だが、そのことがあってから僕はずっと考えてしまう。
僕は姪の死に関して本当に一切責任がないと言えるのか?
十歳のときに母に何かを言えなくてもいい。それ以来何か他にできたことはなかったのか?
僕はなぜ姉の異変に気付けなかったのか? 僕は姪に対して何かをしてやったのか?
姉は母が姪をかわいがるのを嫌った。そうすると姪につらくあたった。だから母は姪の様子をうかがいにいくにも機会を見る必要があった。
誰の責任なのだろう? 姉は悪い。だがその姉を追いつめたのは誰か? 義兄か? 母か? それとも姪か?
274 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/10/07(日) 16:22:59.44 ID:wY39qn+Wo
僕は――自分以外の人間のためにも、少しくらいは心を使ってもよかったような気がしている。
でも何もかもが手遅れだ。
ライトが消えて映像が流れ始める。
僕は頭を抱える。いったい何を考えているのだろう? 思考から一貫性がなくなっている。
僕には何かができたのか? それともそれは傲慢か陶酔か?
その答えは分からない。
けれど、僕は彼女の為に何かがしたかったのか? という問いに僕はシンプルに答えることができる。
僕は彼女のことなんてちらりとも考えていなかった。
ただ自分のことだけを考えていた。
だが、それなら、どうしてこんなに、僕は彼女のことに思考を奪われてしまうんだろう。
死者は蘇らない。
275 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/10/07(日) 16:23:26.21 ID:wY39qn+Wo
◆
時間の感覚が曖昧になる。おそらくは次の日の夕方だろうが、不確かだ。
街の賑わいに誘われて、僕は人ごみにまぎれ歩いた。花火大会があるのだと言う。
そういえば、魔女が花火大会について何かを言っていたような気がする。なんと言っていたのだっけ。
僕は、この世界にたしかに生きる姪のために、自分が何をできるのかを考えた。
何も思い浮かばない。僕はなぜか強く混乱している。
こんなふうに僕が混乱しているのは、きっとこんな不条理な世界にひとりぼっちでほったらかしにされているからだろう。
『こんな不条理な世界にひとりぼっちでほったらかしに』された人間はひどく混乱してしまう。
そういう人間の抱えるある種の空虚さ。思考の空洞。そこには普遍性があるように思われた。
が、どうでもいいと言えばどうでもいい話だ。
何がおかしい?
チューニングがあっていない。
落ち着け、と僕は内心で唱えた。何を不安がっているんだ?
僕が今更不安がることなんてあるのか? ……手遅れじゃないのは、この世界のことだけ。
僕はこの世界の姪のことだけを考えればいい。
――この世界の姪を苛むものはなんなのか?
それをたしかめるのにもっとも手っ取り早い手段がある。
この世界の僕に会えばいいのだ。
276 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/10/07(日) 16:23:54.32 ID:wY39qn+Wo
◆
その日、僕はこの世界の僕に出会った。彼はひどく憂鬱そうな顔をしていた。
僕に対して怯えている様子だったが、そのことは対して気にかからなかった。
僕は僕と同じ顔をしている人間の存在に向かって、意外なほど冷静だった。
あまり自分のことを正直に話す気になれず、いくつか嘘をついた。
彼が僕について何かを知ることで、魔女の計画が崩れるかもしれないという危惧もあった。
彼と話していると、情報の整理のために混乱することはあったが、そのことはさして苦痛ではなかった。
むしろ苛立ちを感じたのは、彼自身がひどく疲弊しているように見えたことについてだ。
どうして彼はここまで疲れているんだろう。僕はそのことを不思議に思った。
話しているうちにどうしても苛立ちを堪えられなくなって、僕はだんだんと話す気が失せてきた。
ところどころで目新しい情報もあったが、かといって確信的に言い切れることはなにひとつなかった。
上の空で、集中が途切れていて、何かを諦めている。そんな表情をしている。
追いつめられているのだ。僕は、魔女が危惧することの正体がなんとなくわかった。
そしてこうも思った。
僕にとって、彼の存在は、「正解」だ。この世界は僕にとって「正解」の世界なのだ。
つまりそれは、僕自身を「間違い」とする世界のことだ。
にも関わらず……なぜこの世界はこんなにも危ういのだろう?
277 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/10/07(日) 16:24:20.27 ID:wY39qn+Wo
その答えを、既に僕は持っている。
つまり僕がこの世界に来たのは、決して"僕"のためではない。むしろ『彼』のためなのだ。
この危うさを、魔女はどうにかしようとしているのだろう。
だが、僕が存在することで改善できる危うさとはなんだろう?
僕は彼に対してどのような影響を与えられるのか?
むしろこの世界に来て、危うさが増したのは僕の方だと言う気がした。
……思考が、断線して、混乱している。繋がるべきじゃないところに、繋がっている。
おそらくは、ひとりでいるからだ。
だから、落ち着こう。落ち着くことが、大事なのだ。
僕が今考えるべきなのは、正解とか、不正解とか、そんなことじゃない。
この世界の姪を苛むものがなんなのか。
それだけだ。それ以外のことは、すべて手遅れだ。
それに、ひょっとしたら――そのことを考えることが、僕の思考の答えになるのかもしれないのだから。
278 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/10/07(日) 16:24:49.17 ID:wY39qn+Wo
◆
不意に目が覚めた。時間の感覚はとうに失われている。僕はまた無人駅で眠っていた。
今はいつだろう? 既に分からない。
何か嫌なことが起こりつつあるような気がした。
僕は体を起こす。不思議と全身の痛みは消えていた。それから落ち着かない気分で街を歩いた。
外は真っ暗だった。夜なのだ。それも深夜に近いのだろう。人の気配が街から消えている。
漠然とした予感のようなものがあった。
起こりつつある。早まっている。
変化の原因はいくつも思いつく。
魔女が危惧する未来。
おそらく、この世界の僕はいずれ、破綻する。
今でさえかなり疲弊している。それが分かっていた。
この世界の姪にとって、『彼』がよりどころになっているのは間違いない。
であるなら、姪に死が訪れるとして、そのことに『彼』が無関係と言うことはありえるだろうか。
不意にそのことに気が付くと、急激な不安に襲われる。
姪ならどう考えるだろう? あの疲れ切った表情に、彼女が気付かないわけがない。
――誰のせいで、と考えるのだ?
279 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/10/07(日) 16:25:23.57 ID:wY39qn+Wo
それでなくても彼女は負い目を感じ続けている。母に対しても祖父母に対しても。
僕の世界の姪には、頼れる相手がひとりもいなかった。
だから、姉が姪を殺さずとも、姪はいずれ死んでいただろう。
ではこの世界の姪には? 少なくとも姉は母として健在であり、衣食住は父母が整えているらしい。
そのうえ、一応は『彼』が面倒を見ている。
『姉が……』
と、あのとき『彼』は言った。
姪が『彼』の家に住んでいるということは、おそらく姉もそこにいる。
姉と父母の関係はどうだろう。姪と姉は。姉と『彼』はどうだろう。
そこに何らかの不和があったとき、姪は自分に責任を感じずにいられるだろうか。
僕は急に不安になった。この世界の彼女には頼る相手がいる。
でも、たとえば、自分が迷惑を掛けている、と彼女自身が感じたらどうだろう?
たとえば姉と父母の不和があったとして、その理由が自分だと感じたら?
叔父の疲弊の理由が自分にあると感じたら?
姪はそれ以上迷惑を掛けまいと他人を頼れなくなってしまうのではないか。
僕はそこまで考え、バカバカしい推測にすぎないと振り払おうとしたが、無理だった。
なぜだろう。
確信めいている。
そうなったとき、彼女はどうするのだろう。
僕には、そういくつも考えが浮かばなかった。
280 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/10/07(日) 16:25:54.80 ID:wY39qn+Wo
つづく
281 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[sage]:2012/10/07(日) 16:40:05.30 ID:V2JSDJP80
乙
282 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/10/09(火) 14:03:47.87 ID:hMoQYFR5o
◆
僕は、なぜこんなにも混乱しているのだろう。
たぶんそれは、軸がぶれているからだ。
そもそも僕は、何のためにここにいるのだろう。
魔女は言った。僕のような僕を彼に見せることで、この世界の結末を少しましにしたいのだと。
でも、それは本当だろうか? あまりにも嘘くさく思える。
彼はむしろ混乱を強めていたし、どのような形であれ、こんな異常が正常な世界へと働きかける手段になるわけがない。
魔女はなぜこんなにも回りくどい手段を取るのだろう?
魔女がすべてを知っているのなら、彼に向かって「このままでは悪いことが起こる」と教えてしまえばよいのではないか。
そうするのがいちばん手っ取り早いのだし、確実だ。信じてもらえるかどうかはやり方にもよるだろう。
彼女の行動と言動は噛みあっていない。
それ以上に意味が分からないのが、彼女が"この世界の彼女"を救おうと思った理由についてだ。
なぜ"この世界"なのか? 並行世界という不可解なファクターを持ち込んだことで、彼女の行動は一層おかしなことになっている。
"並行世界"。
283 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/10/09(火) 14:04:23.42 ID:hMoQYFR5o
僕はこの言葉についてあまりに無関心すぎたかもしれない。突拍子がないのだから当然と言えば当然だが。
並行世界。枝分かれする世界。"いくつかの分岐と結果"。
……僕はそのことについて考えるのをやめた。彼女がなぜそんなことをしているのか、それはどうでもいい。
問題は僕のことだった。
僕はなぜここにいるのだろう。僕はなんのつもりでこんな場所に居続けているんだろう?
僕はもう終わってしまった人間だ。無効になった人間だ。
見えるし触れるけれど、でもそこに存在しているわけではない幻。
僕はなぜここにこうしているのか?
僕は少しずつ、自分の心が萎みつつあることに気付いていた。
それはこちらの世界の彼女にあってから、ずっと起こりつつあった変化だ。
彼女の言葉は明白に僕の心を救った。その代り、今僕をひどく傷つけつつある。
《何を言われようと、僕は所詮この世界では生きられない。》
そういった絶望が僕の胸に巣食い始めていた。
要するにこの世界は僕にとって致命的な存在ではあったが、僕はこの世界にとって致命的な存在にはなれなかった。
魔女は思い違いをしていたのだ。
なんだかひどく退屈な堂々巡りに陥ってしまった気がする。
僕はすべてが終わった後どうするつもりなんだろう。この世界にはいられない。
でも、あちらの世界に僕は戻れるのだろうか?
僕はこの世界を既に見てしまっている。そのうえで帰って、尚生きることができるのか。
おそらくできない。
僕は終わってしまっている。魔女は僕を殺したのだ。
ただ、この世界の姪のことだけが、どうしても心配だった。
なぜだろう?
284 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/10/09(火) 14:05:06.82 ID:hMoQYFR5o
◆
◇
僕は目を覚ました。目を覚ましてすぐに服を着替えて顔を洗い、歯を磨いて、ついでに髪を軽く洗った。
財布と携帯電話をポケットに突っ込んで家を出る。時刻は朝七時を過ぎた頃だった。
僕はショールームへと向かった。何が起こっているのか、僕にはまったく分からない。
でもすべては此処から始まっていた。
魔女とは何者なのか、という問いの答えを、僕は既に持っている気がした。
展示場につく。入口の扉は開いていた。たぶん、そこに理屈は通用しない。
中には、人影があった。
ちょっとした眩暈。僕はいくつかの事実を思い出そうとしたが上手くいかない。
僕が探している人間はたったひとりだ。
僕は思う。
混乱することはひとつもない。姪がいなくなった。僕は冷静さを失い、取り戻した。
そして心当たりを当たっている。そこにはどんな動揺も含まれていない。
落ち着いている。
目の前に立つ人影は、僕の知らない人間のものだった。
285 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/10/09(火) 14:05:35.16 ID:hMoQYFR5o
「おはよう」と少年は言った。ギターケースを背負っている、背の高い、線の細い少年だ。
「……君は誰?」
「たぶん、言っても分からないと思う」
彼はそっけない表情で言い返した。僕は苛立つ。
「まぁ、それはどうでもいい。どうでもいいから――」
自分でも声が震えていることに気付いた。
「その子を返してもらえる? 僕の姪なんだけど」
彼の後ろで、小さい影がひそかに動いた。
「落ち着けよ、おじさん」
少年は皮肉げに口元を歪めた。僕と同い年くらいの少年。
「物事にはさ、順序ってものがあるんだよ。必要な手続きってものが」
「それが終われば、彼女を返してもらえる?」
286 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/10/09(火) 14:06:24.26 ID:hMoQYFR5o
「上手くいけばね」
「……」
「すべて本人の気持ち次第ってこと。ついでにいうと、僕は少し怒ってるんだ」
「……怒っている?」
「なんせ、あんたは僕の友だちを殺したから」
「――?」
「それより先に見てほしいものがある」
と少年は体を翻した。彼の真後ろにはドアがあった。
緑色のドア。
「いいかな、これから見るものを、これからする話のすべての前提として共有しておいてもらいたい」
彼は緑色のドアを、二回、小さくノックした。
ぐるり、という眩暈が、僕の頭を襲う。
287 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/10/09(火) 14:07:05.37 ID:hMoQYFR5o
一瞬、周囲が静寂に包まれた。何もかも飲み込んでしまいそうな静寂だった。
光も音も波もすべて、すべてが無効になったような静寂だ。
僕はそのような姿の静寂に会ったことがない。そこには何もなかった。途方もない虚無だけが存在していた。
すると、ショールームのドアがひとりでに開いた。右端の茶色いドアだ。次にその隣のものが音もなく開く。
ドアはどんどんと開かれていく。僕の眩暈は激しくなってきて、背筋に強い怖気が走った。
僕はそのドアの向こうの景色を見た。
「可能性という言葉はひどく難しい。ありとあらゆる可能性があると言われれば、余計なものまで想像してしまうものだ」
でも違う、と彼は言った。
「ここにあるのがあなたの可能性のすべてだ。いくら可能性と言っても、今家にいた次の瞬間に、ニューヨークの市街地で車に轢かれたりはしない。
わかるかな、物事には限度があって、順番がある。あなたは視界に映るすべてを理解しようとしなくていい。
でも、たったひとつだけあなたが理解しておくべきことがある。
この世界は、あなたが持つ可能性の中で唯一、彼女を守ってやれる可能性のある世界だったということだ。
だから僕はこの世界にいるのだし、彼女も彼もこの世界にやってきたんだ」
彼の声はショールームにおぼろげに反響していた。僕にはその声が、脳の中に直接響いているように感じられた。
288 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/10/09(火) 14:07:31.86 ID:hMoQYFR5o
「だからこそ、僕はとても怒っている。もちろんあなたからすれば理不尽な話だ。なんせあなたは普通に唯一として生きただけなんだから。
でもね、僕は彼女のことが好きだったんだよ。だからこそ二重に悲しい。僕にはどうにもできなかったんだ。
あなたにしかどうにもできないことがあったんだ。だからといって責任があなたにあるとは思わない。彼女の問題だ。
だから知っておいてほしいし、どうにかしてほしいんだ。分かるかな」
「……きみは」
僕は、彼の言葉を追いかけているうちに、魔女の正体に辿りつけた気がした。
「きみたちは、未来から来たのか?」
「摩訶不思議にもね」
彼は特別不思議でもないと言う顔で言った。
「重要なのは」
と彼は言う。
「あなたと、この子のことだ。僕とか、彼女のことは、いまさらどうだっていいような話なんだ。
最初から、それ以外のものは存在していないのと同じなんだ。枝葉末節なんだよ。分かるかな」
「待ってくれ」
と僕は言った。彼の言いたいことがよく分からなかった。
「きみの言っていることを通して考えると、つまりきみがいる未来では、きみの言う「彼女」は死んでいるんだな?」
「そうだよ」
なんともないような顔で言う。
「だから僕はここにいる。あんたに、ガキっぽい感傷をやめてもらって、しっかりと彼女のことを考えてもらうために。
自己陶酔に浸った妙なやり方じゃなくて、地に足についたやり方で、彼女を守ってもらう為に」
289 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/10/09(火) 14:07:57.94 ID:hMoQYFR5o
つづく
290 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[sage]:2012/10/09(火) 16:09:44.96 ID:8SrEK3SIO
乙
291 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/10/10(水) 15:03:20.39 ID:9w2XXqC5o
◇
◆
僕は、今、何月何日にいるのだろう。よく思い出せない。
なにひとつ、思い出せない。
◆
◇
「その扉の向こうを、覗いてみなよ」
僕は彼の言葉のまま、扉の向こうを覗きこむ。そこには、僕と同じ顔をした誰かが映っている。
「自分以外のことをかえりみなかった人間の、それは、なれの果てだよ」
292 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/10/10(水) 15:03:47.65 ID:9w2XXqC5o
◇
◆
僕はなにひとつ失ってなんかいない。そもそも僕は何も欲しがってはいないからだ。
僕はただ自分が快適に生活するためだけに生きていた。
にもかかわらず、僕はなぜこんなに不快な状態に押し込められているのだろう?
僕を苦しめ苛むものはなんだろう?
僕は彼女を、どうしたかったんだろう。
◆
◇
「僕の言いたいことが分かるかな。彼もまた、今は彼女のことを考えている。
でも――すべては手遅れなんだ」
「……どういう意味?」
「たぶん、彼女はこういったことを想定していなかった。そのあたりが彼女の甘さなんだ。自分がつなげることの重大さに気づいていなかった」
彼はいったい何を言っているんだろう。
293 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/10/10(水) 15:04:44.83 ID:9w2XXqC5o
◇
◆
誰か、誰でもいい。僕について上手に説明をつけてくれる人間はいないだろうか?
僕はどこで間違ったんだろう? 何を間違えたんだろう?
それとも間違えてなんかいなかったんだろうか。でも、それはおかしい。
そうじゃなければ、僕はなぜこんな場所にいるんだ?
薄暗くて、狭くて、息苦しくて、耐え難い。
まるで山椒魚みたいだ。
◆
◇
「彼の致命的な失敗は、自分以外の人間のことを一切考えずに生きてしまったことだ。あんたとはその時点で異なっている」
僕は黙って目の前の少年の言葉を聞いていた。
「僕は彼のような人間が嫌いじゃないけど、でも、それも、彼女を見殺しにしなければ、の話だ。
あいつを見殺しにするような人間を、僕は許せない」
だから、と彼は言った。
「そういう奴には、相応しい場所がいる。そいつには、そこが妥当なのさ。ずっと閉じこもってたって、ちょうどいいくらいだ」
その笑みは酷薄で、悲しげだった。
「あいつはそれを思い違いしていた。どんなに取り繕ったつもりでいたって、そいつは彼女を殺したんだ」
294 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/10/10(水) 15:05:11.86 ID:9w2XXqC5o
◇
◆
暗い。……狭くて、昏い。息苦しい。
僕はここでいったい何をしているんだ? 少なくとも呼吸はしている。
だが、それ以外の身動きが一切とれない。腕を動かすのも、足を動かすのも、不可能だ。
いや、できないんじゃない。
したくないんだ。しようとすると、心がそれに逆らう。
いまさら体を動かしたところでどうなるんだ? と。
◆
◇
「分かるかな。それが違いだよ。致命的な差異だ。あんたと彼を別つものは偶然なんかじゃない」
宣告するように少年は言う。
「誰のために生きたか、だ。だからあいつは死んでる。いや、生きてるけど、死んだも同然だ」
僕や彼女がしたこととは無関係に。
彼女が彼を迎えに行くよりも先に、彼は既に死んでいた。
「終わっていたんだよ。彼女はそこを思い違いしていた。手遅れな奴は、とっくに手遅れなのさ」
分かるかな、と彼は繰り返す。
僕には、よく分からない。
「あんたは無傷だから、気付けないかもしれないけど……今、ずいぶん危険なんだ。このままだとね」
でも、と彼は言う。
「本当のところ、僕にはよくわからないんだ」
295 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/10/10(水) 15:06:04.71 ID:9w2XXqC5o
◇
◆
腐っていく。
ここは、どこだろう?
僕は今、どこにいて、何月何日なんだろう。
腐臭が、鼻をつく。この臭いは、どこからやってきているんだろう。
僕はかすかな呼吸を繰り返し、気付く。
ああ、ここは、そうだ。
現実だ。
腐臭は、きっと――僕の身体から、出ているものだ。
296 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/10/10(水) 15:06:41.86 ID:9w2XXqC5o
◆
◇
「彼女がなぜ死んだのか。もちろん、彼の世界の彼女が死んだ理由はとてもはっきりしている。
彼が無関心だったのもそうだし、他の誰もが無関心だったせいでもある。
さまざまな事情が、別世界のあなたの姉を殺意に駆り立てた。
だから厳密に言えば、僕は彼だけを責めるべきじゃないんだろう。でもね、腹立たしいのはそこじゃないんだ」
震えた声で彼は言った。僕にはそれが子供のわがままのように聞こえた。
「無関心とか、無神経さとか、そういうものが、そういうものが、嫌なんだ。うんざりするんだ。反吐が出る。死んじまえばいいと思う。
無神経な人間には、生きてる価値がない。そういう人間は、死んでしまうべきなんだ。一匹残らず消えてしまうべきなんだ」
その言葉には、どうしてだろう、どこかしら自傷的な響きが込められている気がした。
「だからね、僕は僕の世界の彼女がなぜ死んだのかを知りたいんだ。
とても都合のいいことに、僕は彼みたいに世界を移動しなくても、時間を巻き戻るだけで原因を確かめられたってわけだ」
そこで彼は目を細めた。射るような視線だった。
「もっとも、あんたが関係しているのははじめから明白だったけど」
「――」
「もちろん、今のあんたに言ったって仕方ないことだ。彼女を殺したのは未来のあんたであって、今のあんたじゃない」
どういう意味か分かる? と彼は訊ねた。
「つまりこのままいけば、あんたも彼女を殺すってことだ」
僕には、彼の言葉の意味が、半分も理解できない。
――ああ、そうだ。
297 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/10/10(水) 15:07:09.64 ID:9w2XXqC5o
◇
◆
僕の身体は動かない。僕の中に意思が存在していないからだ。
僕はただベッドに寝転がって毛布をかぶっている。カーテンは閉め切られている。
太陽の光を拒んだこの部屋に二度と朝が来ることはない。
僕はこの中に永遠に住み続けるしかない。
そういう宿命だったのだ。
それはおそらく回避しようのあるものだったろう。でも僕はここに来てしまった。
この僕は今ここにいる。そうである以上、分岐がどこにあろうと関係はない。
僕は結果としてここにいるのだ。
体からは腐臭がする。魂が腐っているのだ。
誰からも見えないし、誰にも触れられない。僕はここに閉じこもっている。
いつからだろう? どうしてこんなことになったのだ?
切断されたのだ。僕が繋がるはずだった、繋がっているはずだった場所から。
それはなぜ? 僕が不要になったからだ。
だって僕は、ここで腐っている以外に何にもなりようがない存在なのだから。
手足はとうに、朽ちている。
頭はとっくに枯れている。
そんな人間は、誰にとっても無効でいい。
298 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/10/10(水) 15:07:47.52 ID:9w2XXqC5o
◆
◇
「ひとつ言ってもいいかな」
と僕は彼に向けて言った。
「なんだろう?」
と彼は首をかしげる。僕は笑い飛ばしたい気持ちになった。
「何の話をしているのか、さっぱり分からないんだけど」
少年は面食らったような顔になる。ばかばかしさに僕は舌打ちした。
「きみはさっきから何か思い違いをしているんじゃないか。僕はそんなことには一切興味がないんだ。
別世界とか、そういうのはね、正直どうでもいいんだ。わけが分からないことが起こるのはとても困るけど。
でもね、僕が、きみや、魔女、それから、別世界の僕? うん。きみたちが現れてからずっと考えていることはひとつだけなんだ。
きみたちは僕と、それから姪に対して何か害をなす存在なのか? それだけなんだ。
それ以外のことはたしかに、きみの言葉を借りれば枝葉末節なんだよ。僕にはどうでもいいことなんだ」
僕が言うと、彼は唖然とした顔で僕を見た。
299 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/10/10(水) 15:08:13.38 ID:9w2XXqC5o
「僕の話を聞いていなかった?」
少年は苛立った顔で言う。
「あんたはこのままだと、彼女を見殺しにすることになる。分かる?」
「忠告ありがとう。そうならないように気をつけようと思う」
「話を聞けって」
「きみこそ話を聞いてる? 僕はきみに興味がないって言ったんだ。早く彼女を返してほしい」
彼は肩を竦めて嘆息した。
「なるほどね。これは――ひどい話だ」
「……何?」
「気にしなくてもいい。枝葉末節の話だから。ま、あんたの望みの話をするなら、そこはね、本人の意思を尊重している」
「彼女が僕のところに帰ってきたくないと思ってるって意味?」
「そうだよ」
僕は黙り込んだ。
300 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/10/10(水) 15:08:39.56 ID:9w2XXqC5o
「第一、彼女をとりもどしてどうするんだ?」
「どうする? どうするってどういう意味? 元通りの生活を送るけど?」
「そのまま生きて、彼女を殺さないって保証は?」
「そんなものはないよ。先のことはなにひとつ分からない」
「じゃあ――」
「そうだね。とりあえず、携帯電話でも持たせようと思う」
「――は?」
「またいなくなったときに困るから」
「……」
彼は表情を強張らせて、それから溜め息をついた。
「なるほど。よく分かった」
「……なにが?」
301 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/10/10(水) 15:09:09.65 ID:9w2XXqC5o
「いや、そりゃ、あいつも死にたくなる」
「……なんていうか、そういう思わせぶりな言葉とか、態度とか、正直いってうんざりなんだ」
僕は言った。
「なんていうかね、誰も彼もみんな、たいした理由もなく自分の胸の内を明かそうとしない奴らばっかりでうんざりしてるんだ。
どうして全部を喋っちゃダメなんだ? たとえば何かが原因で僕が姪を見殺しにしてしまうとしよう。
で、未来からきたなら、きみはその原因を知っているわけだよね。そうじゃなかったら僕のところには来ない。
でも、じゃあどうしてその原因を直接伝えないんだ? こうして話してるってことは、別にタイムパラドクスがどうとか言う話でもなさそうだ。
付け加えれば、べつに不干渉を貫かなきゃならないってわけでもない様子だし。
僕に言わせればきみのやり方の方が陶酔じみてるし馬鹿げている。はっきり言って意味が分からない。理屈が通ってないんだ」
彼は無言になった。
彼は僕を侮りすぎている。彼だけではない。皆、僕を侮りすぎている。
そのことが僕にはよく分かる。父も母も、姪自身だってそうだ。
姪がいなくなったことで、僕は不安になったし弱気にもなった。
でも根本的に、僕は、彼が言うような抽象的な話はどうだっていい人間なのだ。
302 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/10/10(水) 15:09:52.59 ID:9w2XXqC5o
◇
◆
『見えるよ』
不意に、部屋の中に声が響いた気がした。それはきっと気のせいだ。
僕は急に泣き出したい気持ちになる。その声は僕の心をたやすく引き裂いた。
そう言った種類の声だった。鋭い痛みが走る。強い悲しみが僕の思考を襲った。
でも、なぜだろう、その痛みは決して不愉快なものではなかった。むしろ爽快ですらある。
『触れるよ』
僕は目を覚ました。起こされた、と言い換えてもいい。
とにかく僕には、まだやるべきことがあるように思えた。
魔女は何者か?
彼女はなんらかの手段で僕をあの世界に導いた。
そして、その回線が突然途切れた。だから僕は今元の世界、元の場所に居る。
日付を見る。八月七日。カーテンを開けた。まだ昼間だろうか?
僕は起き上がった。身体がじんわりと痛んだけれど、それはたいして苦痛ではなかった。
服を着替えて財布を手に取った。彼女が僕の前にあらわれたあの日と、すべてが同じように思えた。
なぜかは分からない。僕はもう一度あの世界に行かなくてはならない。
魔女には会えなくてもいい。でも、もう一度僕に会っておきたい。
伝えなければならないことはないし、たしかめなければならないこともない。
でも――彼女が彼の前からいなくなってしまったのだ。それだけは、僕にははっきりと分かるのだ。
303 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/10/10(水) 15:10:23.90 ID:9w2XXqC5o
僕は家を出た。
家を出るとき、後ろから声が掛けられる。僕は曖昧にぼかして行先を告げた。
彼女と歩いた堤防を走る。
土手の真ん中あたりで夏草を掻き分けて河川敷に踏み入る。川の浅い部分が見えた。
僕はその中に歩いて行った。何も起こらない。何か条件が必要なのだろう。
彼女が必要ならお手上げだ。でも、とにかく何かを試してみるしかない。
僕は何かの条件を探そうとした。
ふと、ポケットの中に携帯電話が入っていることに気付く。ディスプレイが光っていた。
――。
彼女にもらった財布は、ジーンズのポケットの中だった。僕はそれを開けて中身を確認してみる。
小銭入れの中に小さなお守りが入っていた。僕はそのことに初めて気付く。
交通安全? ……交通安全のお守りだ。僕は何か意外な気持ちでそれを握る。
それから携帯電話のディスプレイを見た。電波は来ている。繋がっている。
条件は分からない。
けれど、水が、かすかに蠢いた。
「――」
僕は、飲み込まれる。
304 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/10/10(水) 15:10:50.12 ID:9w2XXqC5o
◆
◇
「まずはね、きみに基本的なことから訊ねたいんだ。とても基本的なことだ。それが分からなくちゃ何がなんだか分からない」
「……なに?」
「きみの名前は何で、うちの姪とどういう関係になるのかってことだ。答え次第じゃただじゃおかない」
「……なんていうかさ、呆れるよ。ほとんど病気だ、あんたのそれは」
彼は少し、緊張を緩めたように見えた。
305 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/10/10(水) 15:11:16.17 ID:9w2XXqC5o
◇
◆
僕は、不意に目を覚ました。喫茶店のテーブル席だろうか。周囲を見回す。テーブルの上にコーヒーが乗せられていた。
とりあえず飲む。美味かった。自分でいれるインスタントのものとはわけが違う。
さて、と僕は思った。これからどうすればいいのだ?
とりあえず勘定を済ませて店を出た。
ポケットの中の携帯は壊れていた。財布の中には相変わらずお守りが入っている。
街に出て、僕はそこが自分の住んでいる街ではないことを確認した。戻ってきたのだ。
時計を見る。二時半。僕の中には漠然とした予感のようなものがあった。
街にぼんやりと立つ。この街で僕ができることは、いつだって何かを待つことだけだった。
足音。急いでいる。近付いている。僕は顔をあげる。
目が合った。
306 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/10/10(水) 15:12:04.52 ID:9w2XXqC5o
「……お前か?」
と彼は言った。
「……何の話?」
と僕は問い返す。
「あの子がいなくなった」
――予感はあった。
彼がここまで焦るのだから、それ以外には思いつかない。
「お前だろ?」
僕は返事をしない。彼女はどこに行ったのか? ……目の前に立つ僕は、ひどく疲れた顔をしている。
「お前が連れ去ったんじゃないのか。それ以外に心当たりがない。お前があの子をさらったんだろう?」
「――待てよ」
と僕はどうにか言った。彼を刺激しないように気を遣う。なんとも面倒な奴だった。僕だけど。
307 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/10/10(水) 15:12:48.70 ID:9w2XXqC5o
「落ち着けよ、取り乱すな。何があったんだ?」
こちらに来たばかりなのに、よくこんなにも冷静でいられるものだと自分に感心した。
いつのまにか疲れも混乱も消え失せている。頭痛だってない。頭が冴えている。
彼はこちらの言葉になんとか冷静さを取り戻そうとしていた。やがて深い溜め息をついて、僕を見る。
不思議なほど僕と同じ顔をしている。僕は彼のことを急に親密に感じ始めた。
「悪かった」
と彼は謝る。その謝罪については、どうでもいい。
「いなくなったって、何があったんだ?」
僕は単刀直入に訊ねる。返ってきた答えはなんともはっきりしないものだった。
「分からない」
僕は彼女のことを考えた。
『すごく疲れてるみたいなの。なんだか、ずっと大変そうで。なんでだろう?』
理由には心当たりがある。考えるまでもない。
308 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/10/10(水) 15:13:18.95 ID:9w2XXqC5o
「……とにかく、一旦帰った方がいい」
僕は真剣に言った。彼に必要なのは休息だ。ゆっくりと休むこと。あせらないこと。
「家に帰って、落ち着くべきだ。ひとりで探して見つかるほど街は狭くない」
「それはそうだけど」
彼はすぐに反駁しようとしたが、僕はそれを封じる。
「そうだからこそ、だ。僕もできることは協力する」
「お前が?」
「僕が」
他に誰がいるというのだ。
309 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/10/10(水) 15:13:47.67 ID:9w2XXqC5o
◆
◇
「でも、意外だな。あんたはもっと、鬱屈としてるもんだと思ってた。
どうしようもないクズみたいな陶酔野郎だと思ってた。僕が言うと失礼だけど」
好き勝手言う少年に、僕は溜め息で答えた。
「別に、否定するつもりもないけど……でも、冷静にならなきゃいけないだろ?」
僕は冷静でいなきゃいけない。自分が持っているもの、自分がなくしそうなものを把握しておかなきゃいけない。
手のひらからこぼれおちないように。
そう思えるのは、僕の性格が理由じゃない。
彼の言葉が理由なのだ。
あのときの僕にとって、彼の言葉はこれ以上ないほどシンプルで、かつ有効だったのだ。
310 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[sage]:2012/10/10(水) 15:14:34.93 ID:9w2XXqC5o
つづく
311 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[sage]:2012/10/10(水) 18:36:35.33 ID:Tqw6uBAw0
乙
312 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/10/12(金) 10:23:53.52 ID:+CjrUlw0o
◇十二
これは例え話だ、と男が言った。ずっと前の話だ。そのことを、ついさっき思い出した。
男は公園のベンチに座っていた。くたびれたスーツを着た、二十代前半と言った雰囲気。
僕は彼のことをよく知らなかった。たった一日、出会って、話しただけなのだ。
彼は突然現れた。ずっと前から僕のことを知っていたような顔で、僕に話しかけたのだ。
「拗ねたような顔をしているな。気に食わないことでもあったのか?」
おもしろくもなさそうに、男は言った。
僕が答えないでいると、彼は退屈そうに溜め息をついた。
「黙っていたんじゃ、分からない」
男との出会いがあまりに印象的だったせいか、その言葉を、僕はよく覚えていた。
男と会ったことを忘れてしまったにもかかわらず、その言葉だけは、何度も頭の中で繰り返していた。
黙っていたんじゃ分からない。
分からせたいなら、話すしかない。
分からせたくないなら、黙っていればいい。
その考えは、思えばいつも僕の根本にあったような気がする。
313 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/10/12(金) 10:24:22.89 ID:+CjrUlw0o
「僕が……」
と、気付けば、男の声に僕は答えを返していた。
「僕が、悪いんだと思う?」
「……何が?」
「母さんと父さん、いつも姉さんのことばかり話すんだ」
男は、唐突ですらある僕の話に、たいした反応を見せなかった。
僕が黙ってしまうと、彼は仕方なさそうに溜め息をついた。
「さあな」
「どんどん、自分の中で嫌な気持ちがたまっていくんだ。最初の頃は、寝て起きると消えていたけど」
僕は『嫌な気持ち』を吐き出したくて長い溜め息をついた。
「……もう、だめみたいだ」
314 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/10/12(金) 10:24:50.06 ID:+CjrUlw0o
男は何も言わなかった。彼もまた溜め息を重ねるだけだった。
「僕が悪いのかな。僕がもっと上手くできたら、母さんたちも少しは僕の方を見てくれると思う?」
「……」
「僕が、もっと。でも……」
深呼吸をする。ひんやりとした空気を肺に吸い込むと、少しだけ肉体に変調があった。
それは一瞬だけの錯覚で、すぐに普段通りの自分に戻ってしまう。
何もかも一時的で、効果が長続きしない。窓ガラスに結露した水滴。弾かれて垂れ落ちていく。
霧に包まれたように覚束ない視界。その頃の僕はどうしようもない袋小路に迷い込んでいたような気がする。
あるいは、今もその場所でずっと立ち尽くしているのかもしれなかった。
「姪が――」
今思えば、なぜ彼は彼女のことを知っていたのか。
「姪が、いるんだろう?」
315 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/10/12(金) 10:25:40.71 ID:+CjrUlw0o
「……うん」
「好きか?」
「嫌いだよ」
僕は心底からの気持ちでそう答えた。今思えば、それは子供っぽい妬みでしかなかったけれど。
でも、心底からの気持ちだった。僕は彼女が嫌いだった。
「すぐ泣く。話が通じない。うるさいんだ。すごく」
「子供なんて、そんなもんだよ」
「僕だって子供だよ」
その言葉に、男は少しだけ悲しそうな顔になった。
「……そうだな」
僕はその相槌に、どうしようもなくいたたまれない気持ちになった。いっそ、他の人と同じように否定してくれた方が楽なくらいだった。
『お兄ちゃんに、なるんだぞ』。
どこかのドラマで聞いたセリフを、そのまま使える喜びに、まるで酔ってるみたいに響いた。
彼女は僕の妹ではなかったし、父はそれを、ちょっとした冗談のつもりでいったんだろうけど。
316 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/10/12(金) 10:26:10.87 ID:+CjrUlw0o
『お前はしっかりしてるから――』
しっかりしてるから――僕にかまってくれないんだろうか。
手が掛からないから。
面倒を掛けないから。
大丈夫だから。
だとしたら――僕はしっかりしていなかった方がよかったんだろうか。
「形は違うが、今のお前と似たような状況を抱えてる女の子がいた」
僕は、唐突に話を変えられたことにも、その内容が僕以外の人間についてということにも、苛立った。
僕は子供のときから、ずっとそうした理屈が嫌いだった。
似たような苦しみを知っている人間は他にもいる、と物事を相対化しようとする態度。
そうすることで、この僕がいま切実に抱えている苦痛を無効にしようとする態度。
「お前だけじゃないんだから、弱音を吐くな」と。
そういう態度が、すごく、すごく嫌いだった。
「この僕」の苦しみは、それでもたしかに切実なものとしてそこにあったのだから。
それは易々と無効になってくれないんだから。
317 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/10/12(金) 10:26:36.75 ID:+CjrUlw0o
「悲しいと思うか? そういう奴がたくさんいて、どいつもこいつも報われない」
でも、彼の話し口は少し他とは違っていた。
「子供なのに存分に大人に甘えられない奴もいる。
甘えられない子供のまま、気付いたら大人になって、ろくに甘えたこともないのに甘えられる側になる奴もいる。
どうして自分が、って思うだろ、普通。だってそいつは、ろくに甘えたことがないんだ。
甘えたことがないのに、気付いたら甘えられていて。それができないっていうと、大人なのにと責められる」
理不尽だとは思わないか? 男は胸ポケットから煙草を取り出して口にくわえた。
「月並みに言えば、これはつまり、愛の問題だよ。両親の、周囲の大人の愛を受けて育ったか?
言い換えれば、『自分は愛されている』と感じて育つことができたか?
そうだったか、そうじゃないか。それがその後を分けるんだな。
事実として、ではなく、本人がそう感じて育つことができたかどうか。
もちろんそれですべてが決まるわけじゃない。
両親の愛なんてむしろ邪魔だって場合もある。でもな、そういう話じゃなくて、要するに問題は、
自分がここにいてもいいと、そう自分自身を確信できるかどうかなんだ」
「『自分がここにいてもいい』?」
318 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/10/12(金) 10:27:43.35 ID:+CjrUlw0o
「……そう。自分がここに、いてもいいのかどうか。ここに居るだけの理由があるのか」
「理由……」
「そう。理由だ」
「そんなもの……」
僕には、ないように思えた。
「あなたは?」
「……何が?」
「理由、って奴。あるの?」
「さあ。あってほしいと思って、いろいろ試してはみたんだが……」
男は煙草に火をつけた。一拍おいて、灰色の煙を口から吐き出す。
その煙が、僕の胸の内側にたまっていた『嫌な気持ち』のかわりだったみたいに。
吐き出した煙が空にのぼる有様は、僕の心を少しだけすっとさせた。
「――どうも、分からないな」
319 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/10/12(金) 10:28:37.34 ID:+CjrUlw0o
こいつは例え話だよ。男はそう言って、ベンチの端で灰を落とした。
「バカな男がひとり居てな、自分のためだけに生きてたんだ。
なんせそいつの周りには、そいつのことを考えてくれる奴なんてひとりもいなかったから。
少なくともそいつ自身は、そう感じてたから。だから、誰かのために何かをするなんて、まっぴらごめんだったわけだ。
で、だ。そいつはある日、自分と似たような境遇にあった女の子を見つける。
でも、女の子のために何かをする気にはなれない。だからほっといた。
するとな、女の子が死んじゃったんだ」
男は自嘲するように笑ってから咳き込んだ。ごほごほ、という音。何かがしたたかに、彼の胸の内側で暴れているみたいに見えた。
「死んじゃったんだよ」
男はまた、煙草に口をつけた。彼の目は、ひどく澱んで見える。
「たぶん、そいつは彼女のために何かをするべきだったんだよ」
「どうして?」
「順番に囚われすぎていたんだな。きっと。でも、関係ないんだ。順番は大事じゃないんだ。
その子のために何かをすることができたら、誰かがもしかしたら、いつか、そいつのために祈ってくれるかもしれない。
それまで誰もそいつのことなんて考えなかったとしても、彼女のために生きれたら、誰かがいつか、愛してくれたかもしれない」
320 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/10/12(金) 10:29:22.58 ID:+CjrUlw0o
まあ、でも、と男は言葉を繋いだ。
「……全部、手遅れなんだけどな」
彼は嘲るように言った。
「自分のために生きるのは、やっぱり限界があるんだよ。どこかに無理があるんだ。どうやっても。
もちろんこれは、誰にとってもそうだと一概に言えることじゃないかもしれない。
自分のためだけに生きた方がいい人間だっているし、そうするに足る理由を持ち合わせている人間もいる。
誰かのために生きるのだって、まわりまわって自分のために生きてるだけだと言いかえることだって出来る。
でも、少なくともそいつはそうだったんだよ。そいつは誰かのために生きるべきだったんだ。
そうすれば、どうにかやっていけたかもしれないんだ」
男はそこまで言い切ると、数秒押し黙って、煙草の吸殻を地面に捨てた。靴の裏で踏みにじり、それから拾いなおしてポケットに突っ込む。
かすかに残った真黒な灰は、砂と一緒に静かな風にさらわれた。
「なあ、お前。姪のために生きろよ」
「……どうして?」
「言ったろ。そうすることで、誰かがお前のために祈ってくれるかもしれないんだ」
321 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/10/12(金) 10:30:11.69 ID:+CjrUlw0o
「……僕は」
「姪のことが、嫌いなんだろ」
彼の言葉は諭すようでもあったし、それこそ祈るようにも聞こえた。
「でも、好きなふりをするんだよ。愛しくてしょうがないふりをするんだ。
面倒をみたりかわいがったりしていれば、お前の両親が、お前を見てくれるかもしれない。
お前のことをかまってくれるかもしれない。動機なんて不純でもいいんだ」
「もし、それでもかまってもらえなかったら?」
「諦めろ」
と男は言った。それは難しい話だった。
「代えのきかないものなんてない、と思うしかない。そう思えなければ、世の中にはあまりに不条理が多すぎる。
解決不能の問題が多すぎるんだ。
お前にとっての両親の代わりが存在しうるなら、お前こそが、姪にとっての母親の代わりになれるかもしれない。
だってお前とお前の姪は、とてもよく似ているんだ。お前が姪のことを考えることは、そのまま、お前がお前を守ることでもあるんだ」
その理屈は、ひどく歪んでいるように思えたけれど、でも、少しだけ、どこかに救いのようなものが含まれている気がした。
322 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/10/12(金) 10:30:38.48 ID:+CjrUlw0o
「そのうち本当に、姪のことを愛せるようになるかもしれない。始まりは不純でいいんだ。
そうすれば、姪もまた、お前のことを愛してくれるかもしれない。お前が求めていた『たったひとり』になってくれるかもしれない」
そう思わないと、俺だってやっていけない。男の声には憤りのようなものが含まれている気がした。
男はそれまでよりもずっと長い溜め息を吐いて、さて、と立ち上がった。
「そろそろ行くよ。悪いな、長い話をしちまって」
「それはかまわないけど、あなたはいったい」
「俺のことはいいんだよ。知らなくていいことだし、知ったところでどうにもならない。俺はそろそろ帰ろうと思う」
「どこに?」
と気付けば僕は問いかけていた。
「俺の現実」
323 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/10/12(金) 10:31:21.44 ID:+CjrUlw0o
彼は笑って、それからポケットから財布を取り出して、僕に向けて放り投げた。
「なに、これ」
「やるよ。必要なもんは入ってないから」
「……なんで、こんなの」
「武器だよ」
「――?」
「この世界で唯一の武器だ。生き延びるための武器だよ」
男は満足そうに頷いて、最後にこう付け加えた。
「生き延びろよ。どうにかして、生き延びろ。俺も、どうにかして生き残る」
その言葉の意図は、僕には半分も伝わってこなかった。
それでも男は去ってしまって、僕はそれを受け取るしかなかった。
本当をいうなら、その場に捨ててしまう方が安全だし、妥当だった。
けれど僕には、彼が自分に敵意を抱いているとはどうしても思えなかったのだ。
財布の中には何枚かの紙幣と結構な数の硬貨が入っていた。
一万円札は三枚、五千円札が一枚、千円札が三枚。硬貨は細かいものがあまりなく、五百円玉が三枚と百円玉が八枚。
免許証や保険証の類は入っていなかったが、代わりに小銭入れの中にお守りが入っていた。
交通安全のお守り。僕はそれを取り出して手のひらの中に握ってみた。
その財布は、今も僕の机の中にそのまま残してある。
324 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/10/12(金) 10:32:07.84 ID:+CjrUlw0o
つづく
325 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
(東京都)
[sage]:2012/10/12(金) 10:32:15.48 ID:Y1Hk+FRWo
今日は早いね
乙
326 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[sage]:2012/10/12(金) 18:05:55.27 ID:816TVPET0
おつかれー
327 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/10/13(土) 15:02:44.39 ID:SfZHSJK3o
◇
見知らぬ少年が僕に見せた扉の向こうの景色には、ひとりの男がいた。
いつかあの公園で出会い、僕に武器を与えた男と、その男の顔はよく似ている。
彼はただ起きて、ただ食べ、ただ働き、ただ眠っている。
"なれの果て"。つまりはそういうことなのだろう。
でも――それは敗者の姿ではない。
328 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/10/13(土) 15:03:17.84 ID:SfZHSJK3o
◇
「僕がきみの世界の"彼女"を殺すっていったね」
「言ったよ」
ギターケースを担ぎ直して、彼は溜め息をついた。
「その原因をたしかめに来た、とも言った。時間が遡れたから、原因をたしかめるのは容易だった、というようなことも言った」
「言ったかもしれないね」
「きみの世界の彼女を殺した原因って、なんだったんだ?」
「……これは、はっきりと言うとひどく下世話な話になるけど」
彼は心底嫌そうな顔で言った。
「恋だよ」
僕は笑えなかった。
「彼女はあなたが好きだった。だから死んだ。シンプルだって思わない?」
「――」
悪い冗談みたいな話だったけれど、僕にはその話を真に受けるより先に思い浮かぶことがあった。
329 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/10/13(土) 15:03:44.20 ID:SfZHSJK3o
『お願いだから、置いていかないでね』
じゃあ、あの言葉は、なんだったんだろう。
『今度こそ』とでも付け加えそうだったあの言葉は。
「……どうかした?」
「いや。……ところで、それが本当だとして、僕が悪いんだって思う?」
彼は少し考えるような仕草をしたが、やがて肩をすくめた。
「さあ。別に悪くはないだろう」
「……僕に責任があるような言い方をしていなかった?」
「ある意味では、あるだろう。子供をたぶらかしたんだから」
……なんとも言いにくい。そもそも『この僕』の話ではないのだが。
このままいくと、と彼は言った。このままいくと、また彼女は僕を好きになり、そのせいで死ぬ?
それって、ずいぶん馬鹿げた話じゃないか?
330 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/10/13(土) 15:04:41.34 ID:SfZHSJK3o
「ところで、きみの名前を訊ねたはずなんだけど」
僕が言うと、彼は少し困ったような顔をした。
「名乗ったところでしょうがないけど、まぁ、その方が話が分かりやすいかもね。
僕は、まあ、なんでもいいんだけど、彼女には『ケイ』と呼ばれてた」
「ケイ、ね」
「本当は、アルファベットのKらしいよ」
「本名じゃないのか?」
「彼女がつけたあだ名なんだ。由来は知らないけど」
測量士。
……は、突飛か。
「そろそろ、その子を引き渡してくれないかな?」
「……まあ、いいかげんかまわないかもしれない」
ケイはまだ何かを言いたげな表情だったが、ゆっくりと背に隠した少女を促した。
そこで、何かの違和感を抱く。なんだろう?
「……ところで、魔女は?」
と僕は訊ねた。彼は何も答えなかった。
331 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/10/13(土) 15:05:34.37 ID:SfZHSJK3o
◇
「本当にいいの?」
と僕は訊ねた。
「何が」とケイは訊きかえす。
「僕が彼女を連れ帰ってしまったら、きみは僕を思い通りに動かせなくなるよ。
僕に何かを言うこともできなくなるかもしれない。本当にそれでいいの?」
「かまわないよ」
とケイが言った。
「僕だって、自分がどうするのが最善なのか、今はつかみ切れていない。あなたにこれ以上何ができるのか、まるで分からない。
知らなかった事実を聞かされて、動揺したのかもしれない。彼女が死んでいると知ってから、まだ時間が経っていないんだ。
だから、八つ当たりみたいな部分もあったんだろう。僕にも、何が起こっているのか、分からない」
僕が黙っていると、ケイは「それに」と言葉を重ねた。
「どうせすぐに気付くよ」
332 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/10/13(土) 15:06:06.16 ID:SfZHSJK3o
◇
怯えたように歩み寄ってきた少女の手のひらを、僕は握ってみた。
その手は驚くほど冷たかった。これまで誰も彼女の手を握ったことがないかのように冷え切っていた。
視線は諦めに凍えていたし、表情は恐怖か何かで濁っていた。何が彼女をこんなふうにしたのだろう。
僕はその手を握って、笑いかけようとしたけれど、きっとまともな笑みの形にはならなかっただろう。
彼女は寂しげですらなかった。
ただ諦めがあるだけだった。
333 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/10/13(土) 15:06:32.39 ID:SfZHSJK3o
◇
◆十一
その日、僕は無人駅で夜を明かした。何の準備もなかったので寝心地は悪かったが、だからといってどうということもない。
なぜかひどく疲れていて、夜を明かして朝が来ても身動きを取る気にはなれなかった。
僕はその一日を、例の小説の内容を反復して過ごした。それ以外はほとんど動かなかった。
食事もとらなかった。一歩も歩かなかった。
一輪の花、一輪の花。僕はずっとそれについて考えていた。
やがて再び日が暮れて、夜になった。時間の流れは例の小説の終盤近くみたいにあっという間だった。
日が昇って沈んだ。夜が来た。僕はそこでようやく立ち上がった。
魔女が、あの子を連れ去ったのだと言う。
であるならば、僕は魔女に会わなければならない。
そして、この世界の彼女に伝えるのだ。
お前のせいなんかじゃない、と。
お前のせいで苦しんでいる奴なんかいない、と。
お前はこの世界にいてもいい人間なのだ、と。
いるべき人間なのだ、と。
僕とは違って、そうできる人間なのだ、と。
それは、彼女には伝わらないかもしれない。
だから、僕はショールームを目指した。そこにいるのだろうと、僕には分かっていた。
魔女にもまた、この世界に居場所なんてないのだから。
あの場所は『エントランス』だ。世界と世界を繋ぐ中間地点。
だから、あそこの鍵はいつでも開け放たれている。あそこは現実ではないから。
もちろんそれは単なる妄想のような話で、僕には確固たる自信があってそう考えているわけではなかった。
でも……あそこのドアは開け放たれている。そう、漠然と感じた。
だから向かった。
一輪の花。
334 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/10/13(土) 15:06:59.46 ID:SfZHSJK3o
◆
◇
家に彼女を連れ帰ると、時刻は朝九時を回っていた。
「お腹は空いている?」
と訊ねると、彼女は黙ったまま、無表情のまま慎重に頷いた。
何か警戒しているようだった。僕は冷蔵庫と炊飯器の中身を確認した。
ご飯は炊けていたし、卵があった。それだけでどうにでもできる。
一応ベーコンとソーセージが入っていたうえ、市販の冷凍ハンバーグも入っていた。
インスタントの味噌汁もあったので、お湯さえわかせばどうにでもなりそうだ。
料理をする間、僕は父母が起きてこないかとひやひやした。彼らとは、まだ会わせるわけにはいかない。
僕の胸の内側には強い不快感のようなものがあった。
僕はコップに牛乳をそそぎ、彼女の前に置いた。
彼女は最初、じっとこちらの様子をうかがっていたが、やがておずおずと手を伸ばし、コップに口をつけた。
その仕草も、顔も、姪のものだった。態度だけが違っていた。たしかに、姪のものだと言えた。
料理を終えて食器を並べ、ふたりで食卓につく。ベーコンエッグと味噌汁とハンバーグ。
僕は手抜きであることを簡単に謝ったけれど、彼女は目の前の料理に気を取られ、こちらの声が聞こえていないようすだった。
しばらくすると、はっと気づいたように少女はこちらを見上げる。「いいのだろうか」という顔。僕は強い憤りを感じた。
335 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/10/13(土) 15:07:35.12 ID:SfZHSJK3o
「どうぞ」
と僕は言う。箸を差し出したが、上手く使えないらしい。ハンバーグを細かく切ろうとして、彼女は床に箸を落とした。
たん、という音が静かな室内に大きく響いた。少女は目に見えて焦っていたし、怯えていた。
なるほど、と僕は思った。これで気付かないわけはない。そして、なんとも悪趣味なことだ。
どうしていまさらこんなことが起こるのだろう。誰の意図で?
「大丈夫」
と僕は言った。
「箸が苦手なら、フォークを使えばいい。なんなら、手を使ってもいい。腹が膨らめば、手段なんてなんでもいい」
僕は立ちあがって台所に向かい、フォークを持ち出した。彼女の前に置く。
最初、戸惑ったような顔をしていたが、彼女はそれを握る。さっきよりはいくらかマシな動きで、ハンバーグを切っていく。
彼女は緊張した様子で口を開き、ハンバーグを口に運んだ。
咀嚼し、嚥下する。彼女の目がかすかに光った気がした。僕は少し悲しい気持ちになる。
彼女はそれからものすごい勢いで手を動かした。僕はその様子をじっと眺めながら自分の分の牛乳をすすった。
やがて彼女の目の端がかすかに光った。泣いているのだ、と僕は思った。
嬉しいのではなく、きっと悲しいのだ。僕が知っている、いつかの姪と同じ顔。痩せこけた幼い姿。
彼女のことを、僕は知らない。
336 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/10/13(土) 15:08:17.45 ID:SfZHSJK3o
◆
『エントランス』でこの世界の僕と出会い、別れた。
少しだけ感傷的な気分になる。僕らを別つものは、やはり偶然だったのだろうか。
でも……と僕は思う。
そうではないのかもしれないし、そうなのかもしれない。
けれど。
結局、僕ができるかぎりをしなかったことに変わりはない。代わりはなかった。
僕は、ショールームのドアを素通りして階段を昇る。関係者以外立ち入り禁止の立札。
階段を昇ってすぐ、細い通路に出る。左手はただの壁で、右手には三つ扉が並んでいた。
僕は一番奥の扉を開いた。
中はやっぱり物置で、でも、その中には魔女がいた。
「こんばんは」
と彼女は言った。
「……こんばんは」
と僕も答えた。
魔女の様子は少し変だった。傍らにはケイが居た。彼は、愕然とした様子で立ち尽くしている。
337 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/10/13(土) 15:08:43.33 ID:SfZHSJK3o
「どうしたの?」
彼女はくすくすと笑う。僕はなんだかひどく身勝手な怒りに囚われる。
「結局、きみは何がしたかったんだ?」
僕の問いに、彼女は一瞬だけ無表情にくちごもった。
でも、それは本当に一瞬だけで。
薄っぺらな笑みは、すぐに戻ってきた。
「復讐と、八つ当たりと、人助け。でも、もうよく分からなくなっちゃった」
「……“彼女”は?」
僕の問いに、魔女は今度こそ無表情になった。
「見えない?」
と魔女は言った。
部屋の中は暗かったから、僕は最初、ちっとも気付けなかった。
窓辺で月の光を浴びる魔女のかたわらには、もうひとり人間がいる。
その背格好は、あの子に似ている。
似ていたから、僕は最初、おかしいなと思った。
雰囲気が、違う。
338 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/10/13(土) 15:11:10.12 ID:SfZHSJK3o
「……分からなく、なってきたでしょ?」
彼女はあてつけのような攻撃的な声で言った。
そして、吼えるように、心の底から傷ついた人間がそうするように、
魔女が、激昂した。
「終わらせてなんかやらない! もうあんたたちのことなんて知らない! あんたたちは、わたしにどうやったって影響を与えられないんだ!」
ざまあみろ、と彼女は哄笑する。月明かりを浴びて青白く照らされた肌、見開かれた目、吊り上げられた口角。
――魔女、と僕は思う。
「わたしのことを考えてくれないなら――わたしがどれだけ助けたって、あんたたちにとっては無効なんだ!」
そう叫んで、魔女は窓の外に身を投げた。呆気にとられた僕が動くより、ケイが正気をとりもどす方が早かった。
「おい!」
と彼は叫んだ。
×××、と、僕にはケイが叫んだ声が、ノイズのようになって聞き取れなかった。
窓に駆け寄ったケイを追って、僕もまた外を眺めた。
何もない。暗闇だけがある。
339 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/10/13(土) 15:11:59.32 ID:SfZHSJK3o
僕はしばらく唖然としていたが、やがて身動きをとれるようになった。
動かずに硬直しているケイを無視して、僕はもうひとりの方に歩み寄る。
彼女があとずさる。僕はかまわず近付いた。
状況は一向につかめない。でも、今はとりあえず、彼女のことを優先しよう。
ぜんぶ、そのあとでいい。物事には順序がある。
顔をよく見たかった。僕は屈み、彼女と視線を合わせる。暗闇の中だったが、月明かりで青白く照らされて、僕にはその表情が見えた。
彼女にも、僕が見えたように。
見えたから、だから彼女は、僕を認識して、
「……叔父、さん?」
と呼んだ。
「――――」
僕はなぜだか、事態は収束に向かっているのだと思っていた。
違う。
終わってなんかいない。
なにひとつ、終わってなんかいないのだ。
340 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/10/13(土) 15:12:40.15 ID:SfZHSJK3o
つづく
341 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
(千葉県)
[sage]:2012/10/13(土) 18:58:33.65 ID:lXBSFz5Wo
誰が誰なのかただ読んでるだけじゃわからなくなるな
342 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[sage]:2012/10/14(日) 00:28:09.30 ID:B3yo/7DP0
そうかな?
おつかれー
343 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[sage]:2012/10/15(月) 12:07:38.17 ID:Ek2HF8Tco
数日間更新できません
ごめんなさい
344 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
(東京都)
[sage]:2012/10/15(月) 12:13:15.77 ID:OfYW9nlGo
そのくらいは気にしないでくれていいよ。
みんな訓練されてるからちゃんと待てるよ。
345 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/10/18(木) 16:28:50.45 ID:kSWs7BFdo
◆
◇
食事を終えると、少女は警戒するような目でこちらを見た。
阿るでもなく、ためらうでもなく、ごく当たり前に信頼できないという瞳。
この少女はいったい誰なのか。考えるまでもない。並行世界における僕の姪なのだろう。
それ以外に答えがない。問題は、それをどうするか、なのだ。
彼女は僕のもとにやってきた。おそらく誰かの意図で。それは魔女の意図かもしれない。
少なくともケイの意図ではないのだろう。彼にはもはや、僕をどうにかしようという気なんてないはずだ。
彼自身、何をしたいのか分かっていないように見えた。
僕は考えを巡らせるのをやめて、目の前の少女の姿を見た。
彼女はどのような流れの上でこの場所に立っているのか?
僕は前に進んでいるのだろうか? それとも堂々巡りに巻き込まれているのだろうか?
魔女はどこにいる? 彼女はまだ魔女と一緒にいるんだろうか? ケイはいったいなぜあそこに一人でいたのだ?
彼女をとりもどす。そのための手続きがどうしてこれほど入り組んでいるのだろう?
何かの意図ならば、いったいどのような意味があるのか。
それは僕に対するものなのか? それとも他の誰かに向けられたものなのか。
『代えのきかないものなんてない、と思うしかない。そう思えなければ、世の中にはあまりに不条理が多すぎる』
目の前の少女が、まさか姪の「代わり」なんて話にはならないだろうが。
346 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/10/18(木) 16:29:16.74 ID:kSWs7BFdo
◇
◆
そのこどもは、一瞬、ひどく怯えた。
彼女はこんなふうに僕を怖がっていた。僕だけではない。姉のことも怖がっていたけれど。
でも怖がっていたのは僕の方だった。なぜ彼女が今になってこの場に現れるんだろう。
僕は後ずさった。彼女はそれを見てひどく傷ついたような顔になる。でも僕が悪いのだろうか?
だってどうして彼女がここにいるんだ?
僕の世界の姪は実の母親に殺害されている。つまり既に死んでいるのだ。
魔女がいなくなり、ケイは立ち尽くしたまま動かない。この部屋で身動きをとり、現実的な反応を見せているのはふたりだけ。
僕と彼女だけだった。
彼女は何も言わなかったし、僕も何も言えなかった。何を言えるというんだろう。
たとえば高い秋の空を見て不意に手を伸ばしたくなるときがある。
別にどこかに届くと思うわけじゃないし、ましてや何かをつかみたいと思ったわけでもない。
結局その手はなにひとつ掴むことがなくて、何をやってるんだと自分に呆れたりするんだけど。
347 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/10/18(木) 16:29:43.61 ID:kSWs7BFdo
そんな無意識な行動のように、彼女は僕に手を伸ばした。
哀れさすら浮かぶ無表情で。
でも、僕はその手を掴めなかった。掴むことがおそろしく感じた。
なぜだろう? ただ手を掴むだけなのに。それはけっして難しいことではないはずなのに。
ここなのだ、と僕は思った。ここが、僕と『彼』との違いなのだ。この世界の自分にできて、僕にできないこと。
僕は彼女を引き受けることができなかった。これからもできないだろう。
僕には誰かのために何もかもを捨て去る覚悟がなかった。ただ自分というものを後生大事に抱え込んでいるだけだ。
どうせからっぽの自分という器を。
そんな人間がいまさら、何をしようとしていたのだ?
僕が黙っていると、彼女は「それはそうだ」とでも言いたげな乾ききった表情で手首をぶらぶらと揺すった。
誰も彼女の手を掴もうとなんてしなかったのだ。
僕はいたたまれなくて、恥ずかしくて、無性に逃げ出したくなった。ケイはまだ黙っている。窓の外には闇が横たえていた。
空には月と星があったが、それは僕にも彼女にも他人事のように感じられた。
なんなのだろう。
何がいったいどういう理屈で、僕の前に彼女が現れたりするんだ。
死者は、蘇らない。
僕は急な吐き気を覚えて、部屋を出た。暗い部屋に彼女を置き去りにした。
階段を駆け下りて『エントランス』を出る。ひどい気分だった。何かがせりあがってくるような感覚。
そのまま国道沿いの道をひた走り、僕はどこかを目指す。歩いたり走ったりばかりしている。
なんなんだろう。どこに向かっているんだろう。どこに辿りつけるんだろう?
348 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/10/18(木) 16:30:10.65 ID:kSWs7BFdo
◆
このおかしな世界に迷い込んで、あの公園で財布を渡されてから、僕はずっと思っていた。
あの小説になぞらえるなら、この世界における時間航空者は誰であり、彼(あるいは彼女)にとっての一輪の花はなんなのか?
もちろん、小説になぞらえる必要なんてない。でも理屈として、これだけのことが起こったなら、それは収束しなくてはならない。
どこかに収斂しなくてはならない。乱雑に散らばってみえても、そうでなければ意味がない。
「タイム・マシン」として機能しているのは「エントランス」。つまり魔女の持つ超常的な力と例のショールームだろう。
ある種の精神的な欠損。その共通性、類似性を利用した接続。超常的。
僕たちはただ異常に巻き込まれこの場所にいる。その結果、別に見たくもない、知りたくもない話を聞かされている。
その話は眼前にあって切実であり、それと同時にあまりに他人事じみている。
僕は彼女に手渡された財布の中身をもう一度確認する。
財布の中には何枚かの紙幣と結構な数の硬貨が入っていた。
それに無造作に放り込まれたカード類。
どこかのコンビニのポイントカードに保険証、病院の診察券。どれもすべて財布に突っ込まれている。
彼女が準備したものというよりは、実在する男の持ち物を引っ張ってきたみたいに見えた。
349 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/10/18(木) 16:30:44.49 ID:kSWs7BFdo
カード類には名前の記述があった。そこには僕の名前が書かれていた。
僕がこの財布を恐れたのは、だからじゃない。この財布の中に僕の名前があったからではない。
僕はもうひとつの財布を取り出した。僕がもともと持っていたものだ。
こちらの世界に最初にきたとき、濡れてしまってろくに使えなくなった財布。
僕はふたつの財布を取り出して並べてみた。
そのふたつの財布はまったく同じ形、色をしていた。中身もまた同様のものだ。
ただ、カード類に関する情報が少し違った。
たとえばどこかの店のスタンプカードのようなものが、魔女に渡された財布には入っている。
日付を見ると、それは僕が知っているよりも未来のものになっているのだ。
数年先の日付になっているのだ。
何かの悪戯という可能性があるが、そうすることのメリットが見えない。
つまりこの財布は未来の僕の持ち物なのだろう。
350 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/10/18(木) 16:31:18.21 ID:kSWs7BFdo
数年後、と僕は思う。数年後の僕と、姪は会ったことがあるのだろうか?
それは"この"僕ではないかもしれないし、"この世界の"彼でもないかもしれない。
とにかく僕と同じ名前、僕と同じ顔を持つ誰かと、彼女はあったことがある。
そして財布を受け取っている。
僕はこうも考える。
死者は決して蘇らない。そのはずだ。
身動きをとるもの、言葉を発するもの、何かの影響を何かに与え、何かに影響を受けるもの、それは生者だ。
では、僕を「叔父」と呼んだ彼女は死者か、生者か? むろん生者だ。
僕が知っている姪は既に死んでいる。
矛盾を解決する答えはひどくシンプルだ。
351 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/10/18(木) 16:31:44.72 ID:kSWs7BFdo
『エントランス』を通じて、さまざまな世界にいる人間がこの世界に集まっている。
魔女が、ケイが、僕が、僕の目の前にいる『姪』が、そうであるように。
もちろん――彼女が僕の世界で死んだ『姪』と同一人物だという保証があるわけではない。
別の世界の、僕の世界とよく似た並行世界の『姪』であるかもしれない。
でもその話について考えるのはあとにしよう。
仮にさっき目の前に現れた彼女が僕の世界の姪であるなら、答えはひとつしかない。
彼女は僕にとっての過去からやってきたのだ。
つまり、僕が通り過ぎてしまった時間から、彼女はこの世界にやってきた。そういうことがありえる。『魔女』と『エントランス』。
『魔女』は何者か?
彼女とケイがどのような存在で、どのような経緯でそのような力を得、どのような意図で僕をここに連れてきたのか。
それらを置いておいても、あの財布を踏まえて考えれば、『何者か?』という問いにはシンプルな答えが用意できる。
あの財布が(いずれかの)未来の僕から受け取ったものだとするならば、彼女は未来から来たということになりはしないか。
352 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/10/18(木) 16:32:20.16 ID:kSWs7BFdo
未来。
数年後先の未来。そしてあの程度の年齢の少女。僕はその心当たりがひとつだけある。
もちろん、他の誰かと言う可能性だってあり得る。
でも、「この世界における僕の姪」という少女の未来、生死に干渉しようとする心当たりはひとつしかない。
つまり魔女とは、『この世界の姪』の、未来の姿なのではないか。
少なくとも彼女は『僕の世界』の姪ではない。僕の世界で、姪は死んでしまっているからだ。
『魔女』について考えるにあたって、よく考えなければならないことがひとつだけある。
『エントランス』によってつなげられたいくつもの世界。
その中で、『この世界』に繋がっている世界はいくつあるのか?
僕たちはいったいいくつの世界を想定すればいいのか? という話。
それが分からなくては、いったい誰と誰の世界が同じであり、異なっているのかが分からなくなってしまう。
353 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/10/18(木) 16:32:58.87 ID:kSWs7BFdo
世界は少なくとも二つある。
僕の世界と、この世界。
「姪が死んだ世界」と「死んでいない世界」。
僕が元いた「死んだ世界」。今いる「死んでいない世界」のふたつ。これは確実に現状に関わりのある並行世界だ。
他に想定される世界は、今の段階では考え付かない。
「ケイ」と「魔女」がいた未来では「彼女」は死んでいる。
それはこの世界――「姪が死んでいない世界」の未来と考えるのが妥当だろう。
そうでなくては、彼女たちがなぜここに来たのかが分からなくなってしまう。
そして次に、僕の前にあらわれた二人目の姪。
彼女は「死んだ世界」の過去からきたものだと考えるのが自然だろう。
なぜなら、「死んでいない世界」の姪は、この世界の僕を「お兄ちゃん」と呼んでいるからだ。
彼女は僕を「叔父さん」と呼んだ。つまり、最低でもこの世界の存在ではない。
354 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/10/18(木) 16:33:26.72 ID:kSWs7BFdo
僕の世界から来たとするなら、彼女は死んでいるのだから、過去からきたと考えるほかない。
整理すると話はごく単純だった。世界がふたつあり、それらが交錯している。
そして、ここで三つ目の分岐が現れる。
「魔女が来なかった世界」、「魔女が来た世界」のふたつだ。
「魔女が来なかった世界」から、ケイと魔女はやってきた。
その時点でこの世界は「来た世界」になり、「来なかった世界」とは別の世界となってしまう。
この世界もまた、ひとつの並行世界として相対化されなければならない。
この世界を呼称するなら、「死んでおらず、魔女が来た世界」となる。
僕の世界を呼称するなら、「死んだ世界」となる。死んだ世界に魔女はやってこない。
魔女とケイの世界を呼称するなら、「死んでいないが魔女が来ず、結局彼女が死んだ世界」となる。
枝分かれ。分岐と結果。この世界における結果は、どういうものとなるのか。
誰のもたらす結果なのか? それが分からない。
僕の考えは、そこそこ理屈に合っている。少なくとも、そういうふうに思う。
だが、ひとつだけ分からない部分がある。
355 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/10/18(木) 16:33:53.73 ID:kSWs7BFdo
『未来を守る、ってどういう意味?』
『そのままの意味』
『まるで、君がどうにかしないとその子の未来が失われてしまうような言い方だ』
『その認識であってるよ』
魔女はたしかにそう言った。
僕は魔女の世界での『姪』は死んでいるものだと思っていた。魔女も、そんなことを言っていたように考えていた。
でも、彼女の世界の『姪』とは『魔女』ではないのか?
だとしたら、魔女は既に死んでいるはずだ。
僕は少し分からなくなった。魔女に限って言えば、死ぬよりも先にこの世界にやってきたということがありえない。
なぜなら彼女は、自分が死んだことを知っているからだ。死ぬことを知っているということは、死を経験したということだ。
死ぬ前の「彼女」は、こちらに来たとしても「自分が死ぬこと」を知ることができない。
そうなると、彼女の目的は失われる。
なにしろ、守るまでもなく(彼女の認識では)死んでいないのだから。。
あるいは「ケイ」と「魔女」では時間が少しずれていて、ケイが魔女の死を彼女自身に教えた?
――違うだろう。ケイの様子は、そんなふうではなかった。
僕はそこまで考えてばかばかしくなった。魔女なのだ。彼女にだけは、理屈を当てはめようとしても無理がある。
僕はここまで考えてから、自分が公園のベンチに座っていることに気付いた。
逃げて逃げて逃げ回って、僕はここまできて、やっぱりひとりぼっちで、どこにも行き場なんてなかった。
356 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/10/18(木) 16:34:21.29 ID:kSWs7BFdo
つづく
次来れるとしたら来週の水曜になると思います。
357 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[sage]:2012/10/18(木) 19:13:24.94 ID:GBJ/ICVIO
すまない
今現在誰が登場して、どんな関連なのか
時間軸はどう動いているのか誰か教えてくれ
正直わけが分からん
358 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[sage]:2012/10/19(金) 01:20:13.19 ID:+JyYwWkA0
考えるな感じろっ!
ってのは嘘で、さっと出来事だけ追ってみては?
おつかれー
359 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/10/23(火) 14:40:39.15 ID:DnR1l0oYo
◆
◇
さいわいに、というべきではないだろうが、母が出かけていたので、家には誰もいなかった。
父と姉は仕事だった。
母は長く続いた父との喧嘩に嫌気が差したのか、それとも姪がいなくなった現実が嫌になったのか、どこかに逃げたらしい。
母の母、つまり僕の母方の祖母は病死していたので、おそらくは母がよくなついていた父の姉、伯母のところにでも行ったのだろう。
少女は僕の方をじっと見つめている。
さっきまではぼんやりとした目をしていたが、今は少しだけはっきりとしている。
何を言っても伝わらないような表情から、少し動揺しているような気配が伝わる。
ようするにさっきまでの彼女は朦朧としていて意識が判然としていなかったのだろう。
だとするなら、ようやくまともに話が出来る頃だろうか。
「きみの名前を聞いてもいい?」
僕は念のために確認した。答えは聞かなくても予想がついた。なんせそっくりだったから。
彼女は少しためらったけれど、ためらう意味がないと判断したのか、結局答えた。
その声は僕には、
「×××」
とノイズがかって聞こえた。
360 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/10/23(火) 14:41:10.25 ID:DnR1l0oYo
「もう一度」
僕が促すと、彼女は怪訝そうな顔をしながらももう一度名前を唱えた。
けれどやはりそれは「×××」というノイズになるだけだった。
「……うん」
僕は一応、分かったという態度を見せた。ようやく伝わったと思ったのか、彼女が安堵のものらしき溜め息をついた。
「×××」
名前。
名前?
僕の頭にある考えが浮かんだ。ひょっとしたら、名前というものが意味を失っているのかもしれない。
僕の名前。僕はそれを思い出そうとして見る。でも無理だった。
家族構成、通っている学校の名前、それらは思いだせた。容易だった。住所、年齢、生年月日。簡単だ。
でも名前は思い出せない。
361 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/10/23(火) 14:41:39.41 ID:DnR1l0oYo
ようするに、今僕の周りで起こっているのはそういうことなのだ。
名前と言うのは個人を区別する記号だ。ごく単純なシステムの識別手段。
でも、この世界において、名前を用いた区別は既に不可能になっている。少なくとも僕と、そして姪に関しては。
僕ともうひとりの僕は、名前によっては区別できない。
できるとしたら過去の記憶、情報、行動などにおいてのみ。名前はとうに無効化されている。
たとえば僕と誰かが、もうひとりの僕について話をするとする。
そのとき僕らは彼を名前で呼ぶことができない。
「彼」とか「あいつ」「あの人」。そういった代名詞で表現するしかない。
僕たちは代名詞化されている。たぶんそういうことなのだろう。何がどうしてノイズになるかは分からないが。
少なくとも「名前は無効化されている。有効なのは代名詞だけだ」。
362 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/10/23(火) 14:42:13.50 ID:DnR1l0oYo
僕は馬鹿げた考えを放り投げて、目の前に座る少女を見る。
「少女」。まぁこれも代名詞だ。少なくとも固有名詞じゃないことだけは明白だ。面倒な話。
「僕」「彼」「彼女」「あの子」「少女」「魔女」「女の子」。僕らは代名詞化されている。
だからどうしたと言われると分からない。それはある種の示唆なのだ。
「――どうか、したの?」
声の響きをたしかめるかのように慎重な言い方で、少女は自分から言葉を発した。
僕は少し動揺した。彼女がまさか、自分から声を出すとは思っていなかったのだ。
「いや」
と僕はなんでもない風を装う。とにかく必要なのは、目の前の少女が何者なのかを知ることだ。
思えば僕は、今起きていることについて何も知らない。
ただ「もうひとりの僕」が現れ、「魔女」から電話がかかり、「ケイ」に怒鳴られただけ。
そこにはなんの説明も付与していなかった。
ヒントは、分岐と結果。それから、未来。彼女の死。それだけ。
363 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/10/23(火) 14:42:48.10 ID:DnR1l0oYo
目の前の少女は、誰なのか?
その姿は姪に似ている。でも、別人だ。姪よりも幼い。
だが、僕には心当たりがある。
この世界に生きている僕。この世界とは違う世界に生きていた僕。
この世界にも姪がいて、ここではない世界にもきっと姪がいる。
……もうひとりの僕。彼の世界の姪。
でも、それならどうして、彼女はこんな姿をしているのだろう。
『ずっと気になっていたんだけど、どうしてそこまであの子に執着するんだ?』
彼は、僕ほど姪に執着していなかった。
その違いだろうか。
その世界では、いったい何が起こったのだろう?
364 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/10/23(火) 14:43:18.82 ID:DnR1l0oYo
僕はそのことを問いかけようかと思った。けれどやめた。
同時に、彼女は何か、いなくなってしまった僕の世界の姪について知っているのではないかとも思った。
でも、やめておいた。
彼女にそうするのは、とてもまずいことだと思ったからだ。
目の前の彼女は、不意に首をかしげた。その仕草はどこか小動物めいている。
姪にそっくりな仕草。けれど彼女は姪ではない。
そう意識的に思い出しておかないと、緊張感を失ってしまいそうだった。
「出かけようか」
と僕は言った。僕はなんだかおかしな気分に陥った。そういえば、バイトにしばらく出ていない。
シフトを確認する。……休みが続いている。こんなこと、しばらくなかったのに、なぜだろう。
いや、夏休みの中盤からは、休みを増やしてほしいと頼んでおいたんだっけ? 予定が入るかもしれないからと。
でも、明日はシフトが、入っている、ような気がする。
……どうも、思い出せない。僕は僕のことを思い出せない。たぶん、混線しているのだ。
365 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/10/23(火) 14:43:46.52 ID:DnR1l0oYo
「……"でかける"?」
少女は不思議な響きを重ねるみたいに呟いた。言葉の意味が思い出せないみたいだった。
しばらく待つと、彼女はようやく意味と音が重なったというふうな顔になって溜め息をついた。
「おでかけ、するの?」
小さな声。僕はわけもなく眩暈に襲われる。
「ああ」
頷く。家にいると、何かと不都合があるかもしれない。
けれどそれ以上に、彼女をこの家にいさせておくのはまずいという気がした。
『分からなくなる』。
なにせ、今この世界で、名前は意味を失っているのだ。
彼女を姪と区別するものは何もない。『彼女』と一言言ってみても、どちらの『彼女』をさしているのか分からない。
混乱しているのだ。ここに居させておくのは、まずい。
366 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/10/23(火) 14:44:30.92 ID:DnR1l0oYo
「……うん」
彼女は不意に頷いた。僕は一瞬、それが僕の提案に対する返事なのだと気付けなかった。
僕たちは出かけることにした。日常の雑多なあれこれはすべて置き去りにしていたし、非日常は一応の節目を見せていた。
僕らにはすべきことがなかった。時間が空白になっていたのだ。
僕は一度自室に戻り、簡単に身支度を整えた。服をかえてから洗面所に向かい顔を洗う。
鏡を見るとひどい顔をしていた。
彼女は僕が移動するたびに兎が跳ねるみたいな歩きかたで追いかけてきた。
自室の机の上に、僕は以前見たものと同じメモ用紙を見つけた。
以前は白紙だったそれに、今度は以下のような文が記されていた。
367 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/10/23(火) 14:45:09.08 ID:DnR1l0oYo
"人々を区別する記号は世界である。
わたしはあなたの敵ではない。
彼女は何も悪いことをしていない。
あなたにはあなたにしかできないことがある。
彼女はあなたに会うことを痛切に望んでいる。
あなたは暗闇に手を差し伸べることができる。"
また裏面には以下のような記述があった。
"世界を支配する魔法は不条理であり、不条理である以上、正体を探ろうとする試みは不毛である。
わたしはあなたたちとは無関係の存在だ。
世界は不公平に満ちている。
不可能を可能にすることはできない。
彼女はあなたを手に入れることができない。
あなたは決して彼女を救えない。"
僕はそのメモ用紙をポケットにつっこんで、後ろから不思議そうに覗き込んでくる少女の目に入らないようにした。
僕の頭をたったひとつの疑問が支配した。
『彼女』とは誰か?
368 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/10/23(火) 14:45:35.28 ID:DnR1l0oYo
◇十三
彼女が襤褸布めいた汚れたワンピースを着ていたので、僕らはひとまず服屋に向かった。
途中でコンビニに立ち寄り、ATMでバイトで貯めた金を下ろす。
そうすると、すっと肩の荷が下りた気がした。自分が背負っていた荷物が急に軽くなった気がした。
少女が自分の意思で服を選ぼうとしなかったので、サイズからデザインまですべて僕が見繕うことになった。
僕にはファッションセンスなんて皆無だったけれど、姪の服を選んだことはないでもなかった。
大抵の場合、彼女には文句を言われるか、やんわりと否定されるばかりだったけれど。
僕が選んだ服を、彼女は何の抵抗もなく受け止めた。あんまりにも何も言わないので、僕の方が不安になる。
本当にこれでいいのか? と真剣に首をかしげることになった。
さまざまなものを試したけれど、試せば試すほどわからなくなって、結局無難な方向に落ち着くことになる。
とりあえず今日着る分の服を買い与え、着替えさせる。彼女は一切抵抗しなかった。
新しい服に袖を通すと、今度はその肌が少し黒ずんでいることに気付く。
このまま家に帰るのもなんだか馬鹿らしかったので、昔一度家族で行ったきり一度も使っていない銭湯に向かうことにした。
369 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/10/23(火) 14:46:05.70 ID:DnR1l0oYo
たどり着いてから、僕は彼女がひとりで風呂に入れるのかどうかを疑問に思った。
「ひとりで大丈夫?」
と訊ねてみると、
「……」
という沈黙がかえってくるばかり。
僕は溜め息をついた。どうすればいいのだろう。
まぁ、彼女は八歳前後に見えたし、兄妹に見えれば男湯に入れても問題はないだろう。
問題があるとすれば、僕と彼女が赤の他人というところにあった。
彼女はもうひとりの僕の姪、かもしれない。でも、そうじゃないかもしれない。
赤の他人。これって誘拐にならないのか。
それを言ったらそもそもケイの奴が僕に引き渡したのが間違いなのだけれど。さらに言えば自称魔女が。
でも、謎の男女に引き渡されたので女の子を銭湯に連れて行きました、なんて言い訳して誰が信じてくれる?
……信じてくれたところで普通に問題がありそうな話だ。
370 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/10/23(火) 14:46:36.66 ID:DnR1l0oYo
男湯に二人で入る。平日の朝だったから、人はほとんどいなかった。朝にしても特に少なかった。
彼女が自分の意思で服を脱いだりしようとしなかったので、僕はいちいち指示する羽目になった。
小さな女の子に服を脱げなんて言っている自分を意識すると、情けなくて恥ずかしくていたたまれなくて周囲の目が気になった。
さいわいあたりには誰もいなかった。それだけが救いと言えば救いだった。
僕があたふたとしている間、彼女は平然と次の指示を待ち続ける。
体力をやたらに消耗する相手だった。
少女を促して浴場に向かい、体を洗わせる。そこまで行くと後はひとりでやった。
まさか自分に洗わせはしないだろうなとひやひやしていたので、僕は安堵した。
体を洗うとき、ふと彼女の方を見ると、腕に痣があるのが分かった。
よくよく目を凝らせばその痣はいくつもあった。
自分が見られていることに気付いて、少女は表情も変えずに僕から距離を取ろうとする。
羞恥というよりも、気まずさからに見えた。
その腕をつかむ。
少女の身体がびくりと揺れた。
顔を歪めている。
痛がっているのだ。
371 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/10/23(火) 14:47:08.13 ID:DnR1l0oYo
僕は手を離した。手を離して、目の前で起こったことを冷静に受け止めようとした。
これはいったいなんなのだろう?
僕は自分の判断を少し後悔しはじめた。これは僕の手に負えることだろうか?
僕がいますべきなのは、彼女と話すことではなく、彼女の世話をみることでもなく、ケイに会うことなのではないか。
ケイに会って、目の前の少女が誰なのかを訊ねることなのではないか。
けれど僕は、ケイには二度と会えないような気がしていた。
それはとても不自然な感覚だったけれど、でもだからこそ信憑性がないでもなかった。
でも、僕はやはりあそこに向かうべきなのだろうか? あのショールームへ、もう一度?
けれどそうすればきっと、この少女とは別れることになるだろう。
それは――避けたかった。なぜだろう?
僕はずっと彼女の為にできることを考えている。
それはきっと独善的で馬鹿らしい感情なのだろうけど、だけど、彼女は僕に似ている気がした。
だからこれは、きっと一種の自慰行為なのだろう。
「他に痛いところは?」
僕が訊ねると、彼女は恥じ入るような真剣な表情で首を振った。
自分の深いところに何かが侵入してくるのを拒もうとしているみたいに見えた。それはたぶん習性だ。
「そう」
僕はそれだけ言って、あとは何も訊かなかった。何を訊けばいいのかも分からなかった。
372 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/10/23(火) 14:48:03.20 ID:DnR1l0oYo
つづく
一日早いですが案外余裕があったので
373 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[sage]:2012/10/23(火) 18:30:00.24 ID:ZrKERAxIO
乙
374 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[sage]:2012/10/23(火) 20:14:54.69 ID:ilPsBmgC0
おーつ乙
375 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
(千葉県)
[sage]:2012/10/23(火) 20:15:27.14 ID:z26eWYDvo
乙乙
376 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/10/24(水) 15:44:20.81 ID:RluAtI6Yo
◇
◆十二
夜は深まっていた。僕はいまだベンチに座ったままでいる。
結局僕は動けないのだ。僕は身動きを取れない。取りようがない。
すべては手遅れなのだ。この混乱の上に何かを根ざすことはできない。僕はここで終わってしまうのだ。
僕はこの世界に何をしにきたのだろう? 魔女は僕の存在に意義を見出しているような口ぶりだった。
でも、僕はこの世界においてかぎりなく無価値だ。
僕はこの場にいる必要のない人間だ。発展性もなく必然性もない。
物事の解決に一切寄与しない。何ももたらさない。どこにもいかない。何の役にも立たない。
そんな人間はこの混乱に一層の深みを招くだけではないのだろうか?
魔女のたくらみはきっと失敗したのだ。僕は何をしているんだろう?
飛び降りる瞬間の魔女の顔。僕は思い出す。彼女の悲痛な表情。
僕はそれに限りなく無関係だった。彼女の痛みに対してまるで無関心だった。
それらは僕という人間を象徴していた。僕はそもそもどこかにいる必要もない。最初から発展性も必然性もなかった。
物事の解決に寄与したことなど一度もない。何かをもたらしたこともなく、どこかに行ったこともなく、誰の役にも立たなかった。
そんな人間はそもそも存在する理由がない。
それは人間ですらない。
377 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/10/24(水) 15:45:12.85 ID:RluAtI6Yo
僕は頭が痛いとずっと思っている。でも痛みはおさまらない。当たり前だ。僕は薬を持っていないからだ。
僕は痛みを止めるための薬を持っていない。だから痛みは治まらない。ないものを飲むことはできないのだから。
でもどうしてだろう? 耳鳴りがだんだんと近くなって僕を揺さぶっている。僕は入口を行ったり来たりしている。
入ることも出ることもできずにただ行ったり来たりしている。悟ったフリをしたり迷ったフリをしたりしている。
でも本当は心底どうでもいいのだ。
僕はこの世界に余計な人間だ。
それで。
僕は元の世界でもいる必要のない人間だ。
だから。
僕はどこにも行けない。僕は戻りたいと思っていない。とどまりたいとも思っていない。
堂々巡り。僕は袋小路に迷い込んだ。だって僕は混乱して右も左も分かっていないのだから。
空には月が浮かんでいる。
僕を見下ろして笑っている。
378 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/10/24(水) 15:46:03.39 ID:RluAtI6Yo
僕が存在しなければ話はだいぶスムーズに進んだ。魔女の発想は逆転しているように思う。
この世界の僕――といってしまえばだいぶ失礼にすら感じるが――は、まったく問題のない人間に思える。
疲れたり混乱したりはしているが、それは僕や魔女の責任だ。
この世界の僕の姪もまた、僕の世界に比べればだいぶまともに育っているように思える。
もちろん魔女はその未来の悲惨な事態を知っている。僕の仮定が間違っていようと、彼女自身がそう言ったのだ。
でも、それならばもう役割は済んでいるのではないか?
魔女は忠告して、立ち去ればいい。それでいい。それだけでいい。
それなのに魔女はなぜややこしい手段を取り、なぜ僕はここに居るのか。誰のどんな意図で?
僕は何かを聞き逃しているのか? それともまだ知らない何かがどこかに置かれているのだろうか?
いずれにしても僕にとっての問題はひとつだけだ。
僕はどこに行けばいいんだろう。
どうせ何もかもが手遅れなのに。
月が陰った。
「本当に?」と声がした。
379 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/10/24(水) 15:47:07.81 ID:RluAtI6Yo
◆
魔女の声だった。
彼女は僕の目の前に立っていた。声を聞いた瞬間に泣きそうになる。
「わたし、思うの」
僕は顔をあげることができなかった。彼女の顔を見ることが怖かった。
「過剰な加害者意識というのは、ある種の自己陶酔か、もしくは自己防衛の一種だって」
言葉の意味よりもその声の音色に心が揺さぶられる。
すぐそばに魔女がいた。あんなふうに吼えて消えてしまった魔女。
声音は、けれど、落ち着いている。
「何がそんなに怖いの? あなたは無傷でそこにいて、五体満足で、わたし以外に何も持っていなかったわけでもない」
彼女の声は責めるようでもあって、諭すようでもあって、そのどちらでもないようでもあった。
あんまり綺麗な声だから、祈るようにすら聞こえた。
380 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/10/24(水) 15:47:41.16 ID:RluAtI6Yo
「叔父さん」
と彼女は言った。
あの子なのだと僕は思った。そんなはずはないのに、でも確信を抱いてしまった。
僕は手のひらで顔を覆う。何も見たくなかったのか、それとも誰にも見せたくなかったのか。
「分からない。世界が真黒に見えるんだ。何もかもが澱んでいる気がする。
どうしたって剥がれ落ちないんだ。何かが僕の日常に忍び寄って、それまで当たり前だった景色を塗りつぶすんだ。
そうなると僕は、どうしようもなくなる。当たり前で大好きだった世界が、急に薄汚れて見え始めたんだよ。
どんなものごとの裏側にも真黒な何かが張り付いている気がする。実際にそう見えるんだ。
真黒なんだよ、この感覚が伝わるかな。大好きだったものが、ありふれた、陳腐でくだらないものに見えるんだ。
何もかもが、悪意と敵意に満ちている気がして、それ以外のものが嘘にしか見えなくなるんだ」
僕の声は震えていた。僕にとって彼女が死ぬということはそういうことだった。
世界は正常な色彩を失った。はじめから真黒であることこそが正常であったかのように。
381 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/10/24(水) 15:48:11.16 ID:RluAtI6Yo
だから僕は何も見たくなかった。何も分からなくなってしまった。
ひとりの人間の死が僕に暗闇をもたらし、そこから出られなくなってしまった。世界は黒で覆われている。
でも魔女は、
そんなのはまるで大したことではない、と言いたげに笑う。
「世界が黒く見えるのは、叔父さんの目に汚れがはりついてしまったからだよ。
世界はべつに、綺麗でも汚くもないよ。ただ世界は、世界ってだけ。
世界が澱んで見えるのは、叔父さんの目が澱んでしまったからだよ。
その汚れを剥がすは大変かもしれない。でも、不可能じゃないよ」
彼女は言葉を選ぶような間をあけてから、ためらいがちに続けた。
「わたしの世界は、暗いばかりじゃなかったよ。叔父さんにとって、それは救いにはならないかもしれないけど。
もう一度、真黒じゃない綺麗な色を、叔父さんも見ることができるよ。
手遅れなんかじゃないよ。本当に、そうなんだよ。わたしにも、真黒じゃない、綺麗な色が見れたんだから」
僕は泣いたけれど、それは彼女の言葉に泣いたのではなかった。
彼女にそんなことを言わせてしまった自分が情けなくて泣いたのだ。
僕はいつまで言い訳を続けるつもりなのだろう。
382 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/10/24(水) 15:49:43.83 ID:RluAtI6Yo
彼女はそれを見透かして、見透かした上で鼓舞してくれているのだ。
僕はようやく顔をあげて彼女を見上げた。
その表情は、やはり魔女のものだ。
でも、彼女は魔女ではない。
いや、どうなのだろう。どんなことが起こって、彼女がこんな姿でいるのかは分からない。
この世界では、世界、時間、空間の移動という点での不条理がありふれている。
でも、ありえない姿をしている人物はいない。
ここにいるのは魔女。――この世界の姪の未来の姿のはずだ。
なぜなら彼女は、"僕と同い年くらいの姿をしている"からだ。
僕は彼女を、僕の世界の姪だと強く感じる。今も感じている。でも、そんなことはありえない。
"彼女が僕と同い年くらいの姿になることはありえない。"
"なぜならそれより先に彼女は死んでしまうからだ。"
"死者は蘇らない。"
いったい何が起こっているのだろう?
それはちっとも分からない。
でも、なにかが僕の中で溶けた気がした。
「許してほしいなら、許してあげる」
彼女はそう言って、悪戯っぽく笑った。
383 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/10/24(水) 15:50:22.67 ID:RluAtI6Yo
◆
僕の意識は浮上する。ということは、今まで沈んでいたということだ。
何だか頭がぼんやりしていて、自分がどこにいるのかが分からない。
ただ、なんだか喉がいがいがとした。小鳥のさえずりが聞こえる。
目を開く。
僕は今まで眠っていたのだ。そして今目をさました。僕は公園のベンチの上に寝そべっている。
太陽はまだ東の空で街が起き始めるのを待っているようだった。
日の光が公園の木を照らしている。僕は頭を掻いて体を起こし、それから少し怯えた。
懸念はすぐに晴れた。自販機が缶を吐き出す音。振り返ると彼女はそこにいた。
「おはよう」
と彼女は笑い、僕に向けて缶を放る。缶コーヒー。
「ありがとう」
僕は言い切ってから、僕は付け加えた。
「おはよう」
朝の匂いがした。僕は静かに起き上がってゆっくりと伸びをする。
それから長い息を吐いた。
「そばにいたんだな」と僕は言った。
「ずっといたよ」と彼女は言った。
384 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/10/24(水) 15:51:10.23 ID:RluAtI6Yo
適当な時間に公園を出て、朝食をとれる店へと向かった。
芸もなく同じファミレスに向かう。僕はこの世界に場違いな存在だったけれど、そうした感覚は薄れてきた。
でも、それは薄れるべきものではない。
僕はこれから僕の世界へと帰らなければならない。
僕の現実へと戻らなければならない。
そうした目的意識が僕の中に出来上がった。
朝食を食べながら僕たちはたくさん話をした。
彼女は自分の好きな音楽について語った。いくつかの邦楽バンドの名前が出た。
art-school、Syrup 16g、people in the box。
知っているのばかりだな、と僕は言う。
「ちょっと前のバンドだから」
と彼女はくすくす笑う。僕はそれがなんだかおかしなことに思えた。
魔女の姿は僕たちと同じくらい。つまり、魔女は数年後まで生き延びる。
だから、僕の知っているバンドを「少し前の」と呼んでも変じゃない。
でもやっぱり、そこには何かしらおかしな部分がある気がした。
385 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/10/24(水) 15:52:07.37 ID:RluAtI6Yo
「なんだか聴いていたら憂鬱になりそうなラインナップだ」
「ちゃんと他のも聴くけどね」
「聴く」と彼女は言った。「聴いていた」ではなく。まるで生きている女の子みたいに。
彼女は話を続ける。特にpeople in the boxのghost appleというアルバムには思い入れがあるらしい。
初めて自分で買ったCDだから、と。でも彼女がCDを買う姿なんて僕にはちょっと想像できなかった。
理屈があっていない。
けれど僕は、あまり深く考えないことにした。それが重要なこととは思えなかった。
「なんだか、もっと前に、きみとこうやって話をするべきだったという気がする」
僕が言うと、彼女は寂しげに笑った。
「そうなんだろうね」
386 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/10/24(水) 15:53:06.77 ID:RluAtI6Yo
その声には、本当にそうだったなら、という願いにも似た響きがこもっていた気がした。
あるいは錯覚だったのかもしれない。彼女の表情はすぐに元通りになった。
昼過ぎまで、僕らはそうやって時間を潰していた。
僕らは何年分の土産話を持て余していたみたいに喋り続けた。中身はほとんどなかった。
ある時間を過ぎると彼女は立ち上がった。別に時刻に意味はないのだろうと思う。
ただ、もうそろそろいいだろう、という気持ちになったのかもしれない。
「そろそろ、行こうか」
と彼女は言った。
387 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/10/24(水) 15:54:12.69 ID:RluAtI6Yo
僕は不意に思い出した。
「この財布、返すよ」
最初に僕が魔女から受け取った財布。彼女はそれを不思議そうに眺めていたが、やがて手に取った。
「分かった」
と言った。でもそれは受け取ったというより、誰かに届けることを承った、みたいなニュアンスに聞えた。
僕にはその響きが、他の会話から奇妙に浮き上がって聞こえた。
「行こう」
ともう一度彼女は言う。
どこへ、とは聞かなかった。
あの暗い部屋に、もう一度戻るときが来たのだ。
僕は、そこからしか始まらない。
388 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/10/24(水) 15:55:27.55 ID:RluAtI6Yo
◆
◇
銭湯を出る。街をぶらついて本屋をのぞいた。
僕にはこうした時間が必要だった。落ち着き、混乱を振り払う時間が必要だった。
そうするために本屋はうってつけだったのだ。
彼女は何も言わずについてきた。気が付くとはぐれそうになるので、手を繋いでやる必要があった。
誰かと一緒に出掛けることには慣れていないらしく、すぐにふらふらとどこかへ行ってしまう。
昼近くなると付近のファーストフード店でハンバーガーを買って食べる。
僕らは時間を順調に消化しつつあった。
僕はいなくなってしまった姪のことを考える。
彼女にそっくりな、目の前の少女のことを考える。
電話の向こうの魔女のことを考える。
389 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/10/24(水) 15:55:53.25 ID:RluAtI6Yo
ケイは言った。彼女は死んでしまったのだ、と。
おそらくそれは本当だった。
ケイの言う彼女とは僕の姪のことだろう。
つまり彼女は未来では死んでいる。
それを考えると心が痛んだ。悲しかったし理不尽だとも思った。
でも、それを僕が知ったということは、僕はその未来を避けることができるということだ。
姪が死ぬ世界を世界aとする。そこは僕の過去から地続きの未来だ。
でも、魔女やケイが未来からやってきたことで、世界は世界a'に分岐する。
彼女の死は不可避のものではない。それだけ分かれば十分だった。
……だが、現状はどうなのだろう。魔女――こう呼ぶのも馬鹿らしい話だが――の思惑から大きく外れているのではないか?
僕の傍にいる少女。
彼女は魔女にとってもイレギュラーだったのではないだろうか。
魔女は言った。「そこから何かを掴み取ってね」
390 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/10/24(水) 15:56:53.26 ID:RluAtI6Yo
何かって何だ?
僕が掴むべき何か。僕が掴んでいない何か。
魔女の行動と言動はおかしい。
何か、一致していない、不自然なものを感じる。
なぜだろう? 魔女の目的はいったいなんなんだろう。
彼女自身、それを掴めているんだろうか。
"塀についた扉"のあらすじを、僕はなんとなく思い浮かべた。
僕らは不毛な消耗を続けている。そんな気がした。
終わらせるべきなのだ。
391 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/10/24(水) 15:57:43.38 ID:RluAtI6Yo
◇
本屋を出ると、僕の目の前にひとりの少女があらわれた。
同い年くらいの少女。僕には彼女が誰なのかすぐに理解できた。
◇
392 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/10/24(水) 16:00:06.83 ID:RluAtI6Yo
◆急
そのときのわたしには、その人が、なんだか泣いているみたいに見えた。
◆
393 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/10/24(水) 16:00:33.62 ID:RluAtI6Yo
つづく
394 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
(千葉県)
[sage]:2012/10/24(水) 17:08:54.28 ID:pNr81Ks2o
フムム乙
395 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[sage]:2012/10/24(水) 18:10:58.89 ID:PUiz07wIO
乙
396 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[sage]:2012/10/24(水) 19:38:32.39 ID:YJw7faTG0
おっつん
397 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/10/27(土) 12:33:02.18 ID:2YHTalj/o
◇
彼女の顔を見たとき、僕は唐突な不安に駆られた。それはすぐに言語化して脳を支配する。
「彼女の死は不可避のものではない。それだけ分かれば十分だった」?
なにが、十分なのだ?
僕はこうも想像した。魔女の想定は外れ始めているのではないか、と。
そもそも僕が姪を探さなくなったのだって、魔女のところに彼女がいると分かったからだ。
魔女にはどうやったって手出しができない。そう漠然と感じていたからだ。
その魔女の思惑が外れつつあるとしたら。
姪の身に今何が起こっているのか、僕にはまったく分からないのではないか?
どうしてそんなことに気付かないほど呆けていられたんだろう。
事態はまったく変わっていない。
僕はもっと事態に考えを巡らせるべきだった。"現に彼女はいなくなってしまっている。"
僕はひとりの少女と手を繋いでいる。彼女は彼女に良く似ているかもしれないけれど、別人だ。
目の前には見覚えのない同い年くらいの女の子が立っている。
彼女はきっと、魔女なのだろう。
398 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/10/27(土) 12:33:43.88 ID:2YHTalj/o
苛立たしげに眉を寄せ、魔女は息を吐く。
「ずいぶんと、仲良くなったみたいだね」
怒気の含まれたその声に、僕は心底恐れを抱く。
「もう、代わりがいるからどうでもよくなったわけ?」
僕は一瞬、繋いでいた手をふりほどきかけた。
咄嗟の判断でそれを押しとどめる。でも、僕は本当のところどうするべきだったんだろう?
僕は彼女の手を握るべきではないのかもしれない。
僕は彼女について何かの責任を取ることができない。
つまり、無責任なこと。
僕がしているのはそういうことだ。
でも、離すことはできない。それはあまりにも無惨なことに思えた。
「混乱してるみたいだね。なんていうかさ、あなたは自分が何をやっているのかも分からないんじゃない?」
目の前の少女は言う。僕はひどくうろたえてしまう。
彼女は笑った。
その笑顔は僕を居心地悪くさせていく。
399 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/10/27(土) 12:34:22.51 ID:2YHTalj/o
「……きみが、魔女?」
僕がたずねると、彼女は意外そうな顔をした。
「なに、それ?」
"魔女"と。
そういえば、誰がそう呼んでいたんだっけ?
なんだか、さまざまな情報が混乱している気がする。誰が何を知っていて、誰が何を知らないんだっけ。
僕は何を知っていて、僕は何を知らないのか。
なんだかまた頭が混乱している。
落ち着け。今何が起こっているのか、しっかりと理解しようとしろ。
理解しようとする意思が必要だ。それを保ち続けることが必要だ。
思考を止めないことが。
それがたぶん必要なことなのだ。
400 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/10/27(土) 12:34:53.85 ID:2YHTalj/o
僕は彼女の顔を見る。
どうしてだろう。見覚えなんてないのに、僕は彼女のことをよく知っている気がした。
彼女の仕草、表情、立ち姿。そういったものにはまるで見覚えがない。
にもかかわらず、彼女のそれは、誰かに似ている気がした。
誰かと同じだという気がした。
「もう全部終わりにしよう。あの子に会わせてあげる」
彼女はそう言った。そう言えるということは、彼女は姪の居場所を知っているということだ。
でもそんな言葉より、彼女のやけになった態度の方が気になった。
たぶんそれがいけないんだと思う。
僕は姪ひとりのことだけを考えていればいいのに。
どうしたって気になってしまう。
僕は繋いでいる手の力を強めた。少女は僕の傍らで黙っている。
僕は責任をとれない。
401 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/10/27(土) 12:35:19.64 ID:2YHTalj/o
「なんだかね、けっきょく、どうしようもないんじゃないかって気がする」
「……なにが?」
「けっきょく、わたしが逃げただけなんだと思う。そのせいで、こんなことになったんだって」
「何の話?」
「わたしが勝手に死んだから」
と彼女は言った。
「勝手に死んだくせに、こんなところまで来て、ぜんぶ台無しにして、混乱させてるから。
いいかげん、終わりにしようって。けっきょくわたしが、受け入れれば、それで済むことだから」
要領を得ない、うんざりするような口ぶり。
「だってけっきょくわたしが最初に逃げ出したせいだから」
自責のような言葉が、子供のわがままみたいに吐き出され続ける。
402 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/10/27(土) 12:35:48.65 ID:2YHTalj/o
「……でも、わたしは大丈夫なんかじゃなかったから」
僕はその言葉に、どうしようもない苛立ちを感じた。
もしくは、彼女がそんな言葉を吐かなければならない状態に苛立ちを感じた。
ケイと初めて会ったとき、僕の中には、魔女の正体の心当たりが生まれていた。
だとすれば、その憤りは彼女自身というよりは、僕自身に対するものになる。
「でもね、勘違いしないで」
彼女はそのとき、とても綺麗に笑った。
僕と手を繋いだ少女が、少し強く僕の手を握った。
ふたりの少女。
「なんていうか、わたしってばかだったなあ、って、そう思ってるだけだから」
403 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/10/27(土) 12:37:01.26 ID:2YHTalj/o
◇
◇
その頃のお兄ちゃんは、なんだかとても疲れているように見えた。
疲れているというよりは、それはもう、憔悴していると言ってもいいくらいに。
夏休み中はずっとアルバイトが入っていた。
お兄ちゃん自身の希望もあったみたいだけど、実際には、単に人手が足りないという部分の方が大きかったらしい。
バイト先のコンビニはトラブル続きで、しかも忙しくて、それに加えて人間関係もごたついていてと、ろくなものじゃなかったという。
割に合わないバイトなんて、やめちゃって他を探せばいいんじゃないかって今なら言える。
でもそういうのは、あとになってからおばあちゃんに聞いた話で、その頃のわたしはまったくそんなことを考えていなかった。
それに、お兄ちゃん自身、仕事を辞めたかったというわけではなかったという。
というか、仕事を辞めるのを怖がっているみたいでもあった、とおばあちゃんは言っていた。
今ならなんとなく、お兄ちゃんのそういう性格について、納得のいく部分もある。
お兄ちゃんは根本的に自分というものを信じていないし、自信というものをまったく持ち合わせていない人間なのだ。
楽なバイトって言えばまっさきにコンビニってあげられるくらいだから、コンビニの店員なんて楽な仕事だ、とみんなが思う。
大変だ、とはよくお兄ちゃんも言っていたけど、たぶんそれでも、他の仕事に比べれば楽なものだと思っていたんだろう。
404 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/10/27(土) 12:37:40.07 ID:2YHTalj/o
だからこそお兄ちゃんはバイトを続けた。
コンビニのバイトくらい続けられないんじゃ、この先どうにもならない、と。
そういうよく分からない思考をする人だった。なんていうか、頭は悪くないくせに根本的にバカな人だった。
変に真面目なものだから、仕事をばっくれることもできなかったんだろうし。
もっと要領よく生きればいいのに、変な枷を自分から嵌めるタイプの人間だった。
そんなわけでとても疲れていて、その様子はわたしの目から見てもすごく深刻だった。
もちろん、休みがまったくないわけじゃなかったし、肉体的な支障が出るほどではなかった。
ただその頃、お兄ちゃんはとても精神的に思いつめていたんだと思う。
何かを必死に考えて、答えの出ない堂々巡りの中で頭を抱えていたんだと思う。
そういうことがなんとなくわたしにもわかったのだ。
お兄ちゃんは学生なのにろくに遊びもしないし、ろくに彼女だって作らなかった。
405 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/10/27(土) 12:38:54.46 ID:2YHTalj/o
あの頃のわたしからすればお兄ちゃんはものすごく大人だった。
でも、同年代になった今にして思えば、特になんていうことのない人だったんだなあと思う。
いや、わたしだって別に遊んだり彼氏を作ったりしてたわけじゃないにしても。
なんというか、そういうわたしの中の「大人なお兄ちゃん像」みたいなものは、最近では壊れてしまっていた。
それでも、わたしの中のお兄ちゃんに対する憧れのような感情は、まったく消えることがなかったんだけど。
自分でもバカみたいだよなぁと思いつつも、お兄ちゃんのことを考え続けている自分がいじらしくもありアホみたいでもあり。
――いや、その話は横においといて。
とにかくお兄ちゃんはろくな息抜きもしなかったし、それなのに職場のごたごたや家の中のあれやこれやを引き受けるから、すっかり参ってしまっていた。
それであの花火大会の日。
まだ幼くていい子でけなげだったわたしは、じゃあお兄ちゃんの迷惑にならない子になろうと、密かに誓ったのだった。
406 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/10/27(土) 12:39:26.24 ID:2YHTalj/o
「ねえ」
と、帰りのバスの中でわたしは言った。
「わたしね、お兄ちゃんのこと、好きだよ?」
臆面もなくそんなことを真顔で言える自分を思い出すと顔から火が出そうになる。
なんていうかもう、無邪気だった。あの無邪気さをとりもどしたくもあり、記憶から削除したくもあり。
「……そう?」
お兄ちゃんはそのとき、「こいつまた妙なことを言いだしたぞ」みたいな顔でわたしを見た。
今思えば、真剣だったわたし(子供時代)に対して失礼この上ない態度じゃなかいだろうか。
そういうお兄ちゃんの気のない態度が、のちのちわたしが死ぬ原因にもなるのだから笑いごとじゃない。
「おじいちゃんのことも、おばあちゃんのことも好きだよ」
「うん」
「お母さんのことも……」
その頃のわたしには、お母さんについてのことも一大事だった。
結局お母さんはその三年後には蒸発してしまった。
まぁたぶん樹海かどこかで死んでるんじゃないかと思うんだけど。
407 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/10/27(土) 12:40:13.24 ID:2YHTalj/o
今思えばろくな親じゃなかったなぁと思うけど、それでも嫌いになったわけじゃない。
いや、どうだろう。よく分からない。
でも、お母さんがお兄ちゃんを困らせる姿は、その頃から何度も見ていた気がする。
勝手な言い分でいいように使ったり、わたしのことでお兄ちゃんを責めたり。
どっちのことも好きだったけど、わたしには既にその頃から、お母さん<お兄ちゃんみたいな図式が完成していたのかもしれない。
「お母さんは、わたしのこと嫌いなのかな」
もちろん、お母さんがわたしのことを愛していたのか、愛していなかったという問題は、死んだ今になってすらわたしの胸に残っている。
考えてもしょうがないことだし、客観的に答えはもう出ているのかもしれないけど。
「分からない」
それでもお兄ちゃんはそうやって答えを濁した。濁した時点で、答えたようなものかもしれない。
わたしには、お母さんがわたしのことを、機嫌のいいときですら愛玩動物程度にしか考えていないことがなんとなく分かっていた。
だったら、せめてわたしのことを愛してくれている人のための子供になろうじゃないかと。
わたしはお兄ちゃんのための「良い子」になったのだ。
408 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/10/27(土) 12:41:51.22 ID:2YHTalj/o
わたしの自分プロデュースはまさしくその日から始まった。その変貌ぶりはすさまじいものだった。我ながら。
それまでのわたしの生活は食べる・寝る・遊ぶの子供スタイル。気分が乗れば家事の手伝いをしたりもした。
思えば家庭環境の割に、普通の子供みたいな生活を送れていた気がする。このあたりは祖父母の尽力が大きかったんだろう。
おじいちゃんとおばあちゃんには頭をいくら下げたってたりない。
わたしはまず祖母に掃除、洗濯、料理を教わった。
最初に教わったのは料理で、本当に初歩的なことしかやらせてもらえなかったし、逆に足手まといになる場合の方が多かったように思う。
それでもわたしには、家族のために何かをしているんだという自信が生まれて、なんとなく嬉しかったのを覚えている。
徐々にできることが増えていって、いろいろなことを覚えていくうちに、なんとなく視野が広がっていくのも感じた。
小学校六年生になる頃には、わたしはほとんどの家事を自分ひとりでこなせるようになっていた(ちょっとだけ自慢)。
とにかく早くしっかりして、お兄ちゃんのサポートをしなくては、と思ったのだ。
わたしがそうした手伝いを始めた時期に、お兄ちゃんの職場では何かが起こったらしい。
詳しいことは分からないけれど、その出来事の結果、お兄ちゃんはバイトをやめて、ただの学生になった。
遊んでもらえる時間は増えたし、仕事がなくなってお兄ちゃんも身体的な不調を訴えることがだいぶ減った。
そのかわり、以前から考え込んでしまう性格だったお兄ちゃんが、より一層思い悩むことが増えたように思う。
このことがわたしには少しだけ不満だったけど、でも一緒に居る時間は増えたんだしまあいいか、という気持ちの方が大きかった。
409 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/10/27(土) 12:42:31.22 ID:2YHTalj/o
時間が経つに連れてわたしはお兄ちゃんにより一層なつくようになったし、母はそれを不愉快そうに眺めることが多くなった。
この頃になると母はお兄ちゃんに対してあからさまな敵意を見せるようになった。
それを祖父母が咎めると、もう状況は最悪。お兄ちゃんは気を遣って、母のいる前ではわたしに近付かないようになった。
別に母のことが嫌いになったわけじゃない。でも、その頃にはもう、母はわたしにとって邪魔者でしかなかった。
だからお母さんが蒸発した日、お兄ちゃんがわたしに泣いて謝ったときも、わたしは決して泣かなかった。
わたしのことを考えて泣いてくれるお兄ちゃんのことを考えていただけだった。
わたしはそのとき、お兄ちゃんのために生きようと決めたのだ。
とにかくお兄ちゃんのために生きよう、と。
そうした自分の考えが、周囲の常識に照らし合わせればだいぶ逸脱していることに、わたしは自分でも気づいていた。
なんせわたしは、当時中学生だったわけで。
410 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/10/27(土) 12:43:20.24 ID:2YHTalj/o
母親が自分を捨ててどっかに行ってしまったんだから、普通は絶望的な感情に襲われそうなものなのに。
悲しいことは悲しかったけど、どちらかというと身勝手な母親に対する怒りの方が大きかった。
本当のことを言えば、よく分からなかったことも大きいんだと思う。
母のことを自分のなかで上手く処理できていなかったのだ。わたしは母のことがよくわからなかった。
だからあまり考えないようにしていた。だって、よくわからなかったから。
この頃は、自分の中のお兄ちゃんに対する感情が恋愛感情だなんて思いもしなかったけど。
思いもしなかったというか、そもそも恋愛を自分には遠いものとして扱っている節があって、気付かなかったんだけど。
死んだ今になって思えば、わたしはあの頃からお兄ちゃんのことが好きだったんだなぁと感心する。
……あほみたいだなぁと思いつつも。
411 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/10/27(土) 12:43:47.00 ID:2YHTalj/o
わたしが中学にあがるということは、お兄ちゃんは高校を卒業するということで。
正直、このころのわたしはお兄ちゃんが一人暮らしでも始めるのではないかと気が気じゃなかった。
進学にしても就職にしても、どうにかして自宅から通える範囲にしてほしいものだと。
わたしはお兄ちゃんのために生きようとぼんやり考えていたけれど、お兄ちゃんから離れた生活なんて想像もつかなかった。
その意味では母の蒸発がお兄ちゃんの選択にも関わってきたのだと思う。
わたしのことを放っておけないと思ったのかもしれない。
結局お兄ちゃんは自宅から通える範囲の場所にあっさり就職を決めてしまった。
複雑な気分ではあった。
お兄ちゃんの枷になりたくないのか、お兄ちゃんと一緒にいたいのか。
そのどちらが優先的な気持ちなのか、わたしには判断がつかない。
でも、たぶんどっちも同じなのだ。
わたしはお兄ちゃんと一緒にいたかったから、できるかぎりお兄ちゃんの邪魔になりたくないと思ったのだ。
邪魔にならないかぎり、お兄ちゃんは一緒にいてくれるはずだから。
少なくともその頃のわたしは、そう信じていたから。
412 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/10/27(土) 12:44:14.68 ID:2YHTalj/o
その頃になると、働き始めたお兄ちゃんのお弁当はわたしが作っていたし、朝食も夕食もわたしが作ることが多くなっていた。
というか、わたしがやりたがったのでおばあちゃんがその座を明け渡したことになる。
「まるで奥さんみたいね」
なんておばあちゃんは茶化した。わたしは「もう、やめてよ」なんて嫌がってみせたけど、内心ではかなり浮かれていた。
実際、その頃のわたしは仕事から帰ってくるお兄ちゃんを家で迎えるのが嬉しくてしょうがなかった。
「おかえりなさい」
とわたしが言うと、お兄ちゃんは少し疲れた顔に微笑をのせて、
「ただいま」
と照れくさそうに笑うのだ。
これって新婚さんみたい? なんてバカみたいに浸っていた自分が恥ずかしいやら埋めたいやら。
413 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/10/27(土) 12:44:52.67 ID:2YHTalj/o
そこまで行くと病的だよなぁ、と、思わなくもないのだが。
ていうかその頃には気付いていた。
自分がだいぶおかしい、ということには。
とにかく、わたしはお兄ちゃんのことが好きだったし、お兄ちゃんと一緒にいるのが好きだった。
でも、この頃になると、お兄ちゃんの方の態度が変わってきた。
なんだか、わたしにたいして距離をおきたがったりすることが多くなった。
硬化した、というか。
あからさまに変な態度だった。
その頃になるとわたしは自分の中の感情が、どうやら恋愛感情と呼ばれるものらしいと気付き始めていた。
もちろん、どう足掻いたって叶うようなものではないので、早々に見切りをつけたんだけど。
だからといって他の男の人に自分が惹かれるとは思えなかった。
少なくとも同年代の男子は、自分には遠い存在に思えた。かといって年上なんてもっと遠い。
今にして思えば――単純に、お兄ちゃん以外の人間をそうした対象として見ていないというだけだったんだと思うけど。
勉強だって熱心にしたし、部活にだって打ち込んだ。友達だってできた。
そこそこ充実した中学校生活を送ったわたしは、当たり前みたいに卒業して、高校受験に合格し、中学生じゃなくなった。
その年のことだった。
お兄ちゃんがとある女の人を恋人として家に連れてきたのは。
414 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/10/27(土) 12:45:40.54 ID:2YHTalj/o
つづく
415 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
(東京都)
[sage]:2012/10/27(土) 12:50:53.43 ID:vuo8MD+8o
乙
なんとまあ
416 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[sage]:2012/10/27(土) 13:35:20.70 ID:xfFGdJQxo
乙
おもしろい
417 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
(東京都)
[sage]:2012/10/27(土) 14:03:15.72 ID:vuo8MD+8o
テキストエディタですべての行頭にタブを2つ入れる
行頭が数字ならタブを全て消す
タブ◇のタブを消す
タブ◆のタブを消す
テキストを保存
Excelで開くと…
僕はこのSSで正規表現が少しわかるようになりました。
418 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/10/28(日) 13:19:58.27 ID:DOJagQqEo
お兄ちゃんに言わせれば、そのとき女の人を連れてきたのは単にそうしたいとねだられたからで、深い意味があったわけじゃない、とのことだった。
深い意味もなく女の人を家に連れてくるあたり、なんともお兄ちゃんらしい話だが、まぁそれはさておき。
さいわいというべきか、その女の人とはあんまり続かなかったらしい。
兄ちゃんと気の合う女の人なんて、そうそういないだろうことは分かっていた。ていうかいたら驚きだ。
今だからこそ落ち着いてそう言えるけど、当時のわたしは大パニックだった。
なにせお兄ちゃんに恋人ができるなんてことすら想像していなかったんだから(失礼な話だ)。
けれどそうしたことが起こったとき、わたしは自分に対して疑問を投げかけずにはいられなかった。
「わたしはいつまでお兄ちゃんと一緒にいられるのか?」
「いつまでお兄ちゃんと一緒にいたいと思っているのか?」
わたしはお兄ちゃんと自分との関係を変えたいとは思っていなかった(とその頃は思っていた)。
そして、わたしとお兄ちゃんの関係が単なる姪と叔父である以上、何があろうとその関係は揺るぎないはずなのだと信じていた。
だが、その考えは、ちょっと自問を続けているとすぐに揺らいだ。
少なくとも、わたしはお兄ちゃんの姪であって妹ではない。もともと同居しているのが自然な存在ではないのだ。
419 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/10/28(日) 13:20:24.78 ID:DOJagQqEo
わたしとお兄ちゃんは時間が経てば(まぁ普通の兄妹関係だってそうなんだけど)離ればなれになる宿命。
悲劇として酔いしれるには、その問題はわたしにとって切実すぎた。
お兄ちゃんと離れてしまって――わたしは上手く生きていけるんだろうか?
お兄ちゃんと一緒にいるためだったら優等生にもなれたし、真面目にもなれた。
きっと劣等生にだってなれたし、不真面目にだってなれただろう。
でも、お兄ちゃんがいなくなったら、わたしは何かで在りつづけることができるんだろうか。
なんだかそれを想像すると、自分の存在がすごく希薄になってしまう気がした。
さっきまで鮮やかな色をしていたゴム風船が、クラゲみたいに色を失う。
そんなふうに、自分の存在感が、まるまる消えてしまう気がした。
自分でも異常だと思った。
別にお兄ちゃんだけじゃなくてもいいのだ。
わたしには祖父母だっていたし、またそれで不足なら母の消息を追うことだってできた。
わたしにはそうした、宙ぶらりんのままほったらかしにしてしまった「わたし自身」についての問題がいくつかある。
420 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/10/28(日) 13:20:50.22 ID:DOJagQqEo
でもわたしは、どうしたってお兄ちゃんの傍から自分がいなくなることを想像できなかった。
そうなるとわたしはクラゲになってしまうのだ。
実際、その頃のわたしは色を失いかけていた。
お兄ちゃんの態度がおかしくなって、女の人を連れてきて、それで成績が少しずつ落ち始めた。
わたしの様子がおかしいことに、お兄ちゃんだって気付いていたはずだと思う。でもお兄ちゃんは何も言わなかった。
だからなおさら成績が落ちた。
ひょっとしたら、これ以上ないというところまでクラゲになりきってしまえば、お兄ちゃんが何か言ってくれるかもしれないと思った。
でも、悲しいかな、わたしはわざと悪い点数を狙えるほど器用じゃなくて、成績の下降は一定位置でストップしてしまった。
それでも祖父母からは何かあったのかとは訊かれた。
かといって真剣に答えたところで問題が解決するわけではなく、大丈夫だよと答えるしかなかったんだけど。
421 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/10/28(日) 13:21:16.69 ID:DOJagQqEo
もっと切実な問題も、あるにはあった。
単に離ればなれになるだけなら、お兄ちゃんはわたしのことを考え続けてくれるかもしれない。
でもたとえば、お兄ちゃんに結婚して、そして子供ができたら?
わたしのようなどっちつかずのまがいものじゃない、本当の子供ができてしまったら?
不仲だった姉との子供なんて、その子供との関係なんて、疎ましく思うだけではないだろうか?
もちろんお兄ちゃんがそんな人ではないことは分かっていた。分かっていたけれど、絶対の自信もなかった。
わたしはお兄ちゃんに、都合のいいお兄ちゃん像を押し付ける悪いくせがあったことを自覚していたから。
そんなわけでその頃から、わたしの生活を奇妙な不安が覆い始めた。
それは霧のようにわたしの生活を覆い尽くして、いつまでもわたしのことを憂鬱にさせ続けるのだ。
つまりわたしは、根本的にお兄ちゃんに対する気持ちに「見切り」なんてつけられていなかったのだ。
わたしは、頭では分かったようなことを考えているつもりになっていても、実際的にはお兄ちゃんの隣に居続けたかった。
「いつか離れる」ことを受け入れられないなら、それはいつまでも一緒にいたいってことだ。
いつまでも一緒にいたいってことは、ようするに、たぶん、その人のことが好きだってことだ。
わたしは、お兄ちゃんのかたわらに立ち、お兄ちゃんと共に生活するのが自分であってほしいと願っていた。
422 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/10/28(日) 13:21:51.51 ID:DOJagQqEo
趣味の悪いことに――お兄ちゃん自身は知らなかったけど――わたしとお兄ちゃんに直接の血縁関係はなかった。
というのも、わたしの母――つまりお兄ちゃんにとっての姉――とお兄ちゃんとの間に血縁関係がなかったからだ。
というよりも、もっとはっきり言ってしまえば、お兄ちゃんとわたしの祖父母との間に血縁関係がなかったのだけれど……。
いや、なかったわけではないか。でもまあ、そのあたりは祖父母とお兄ちゃんについての話になってしまうので省略する。
少なくとも法的には、わたしの気持ちには何の問題もなかったということになる。
……でも、法律以外の部分というのが大事なのだ。
たとえばお兄ちゃんは、自分を育てた父母との間に血縁関係がないことを知らない。
たとえば祖父母は、姉とお兄ちゃんを、わたしとお兄ちゃんを、分け隔てなく平等に育ててくれたはずだ。
たとえば世間は、わたしとお兄ちゃんを、叔父と姪として、もしくは兄と妹として以外に見てくれないだろう。
そうしたあれやこれやの問題こそが、現実としては大事なのだ。
仮にそういった一切のことを無視して、お兄ちゃんと一緒になることができるか? と自問すれば答えはノー。
明白に問題が多すぎる。第一お兄ちゃんの心情をまったく考慮していない。
そんなわけで、わたしは自分の気持ちに気付いた後もそれを抑え込むはめになった。
423 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/10/28(日) 13:22:32.15 ID:DOJagQqEo
これが憂鬱に拍車をかけたわけで、そりゃあ思いつめて自殺のひとつでもしたくなるよ、と自分に同情したくもなる。
わたしは健気にも、お兄ちゃんの態度が変わってしまった後も彼の為に新妻よろしくお弁当を作り、毎朝送りだしていたわけで。
それを思えば自分がかわいそうで涙が出そうになる。
なんせ完全に叶わない恋なわけで。
さらに言えば、相手は恋人なんかを気ままに作っちゃうくらいにこっちを見向きもしてないのだ(したら問題があるけど)。
とはいえわたしは、お兄ちゃんが好きだという、ただそれだけの事実を思い出すだけで幸せに浸れるくらいの色ボケだったので。
憂鬱になりつつも、日々をたしかに楽しんでいたのだけど。
その頃のわたしは、お兄ちゃんとはろくに話せないし、優等生としての友人関係にも疲れていた。
ので、いつも屋上でぼんやりと過ごしているとある男の子と話すようになった。ケイくんとわたしは呼んでいた。
そのころちょうど夏目漱石の「こころ」を読んでいたからって、ただそれだけの理由だったりするんだけど。
実際、「ケイ」と呼ぶにはちょっと不適切だという気がする。なんでかは分からないけど。
でも、まぁ、彼は本名で呼ばれることを嫌っていたから仕方ない。
というよりは、自分の家が嫌で仕方なかったのかもしれない。詳しいことは知らないが。
とにかくわたしは、自分の中で何かがどうしようもなくたまっていくのを感じたとき、どうでもいい話を彼にして気を紛らわせた。
彼は少しだけ、お兄ちゃんに似ていたから、わたしは少しだけ彼のことが好きだった。
嫌な想像に振り回されて疲れつつあったわたしは、その頃からあんまり深く物事を考えないようになっていた。
考えるとすぐ悪い可能性ばかりが浮かんでくるから。
424 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/10/28(日) 13:23:13.14 ID:DOJagQqEo
お兄ちゃんの態度は一向に変わらず、かといって自分からお兄ちゃんを問い詰める勇気も持てずに一年を無駄にした。
ここで大きな変化が起こる。たぶんこれがわたしの死因。……とは言わないか。なんていうんだろう、こういうのは?
お兄ちゃんが家を出て一人暮らしを始めたのだ。もうこれでアウト。わたしのメンタルはやられてしまった。
お兄ちゃんが家を出たら、わたしは祖父母と暮らすことになる。
祖父母はわたしのことを気遣ってくれたけれど、母のことでさまざまな感情がないまぜになった複雑な思いをわたしに向けていた。
申し訳なさとか、負い目。愛情とか憎悪とか、そういうものまで。
だからわたしは、祖父母と三人で生活していくのがつらかった。
でもお兄ちゃんはいなくなってしまった。まるでそうしないとどうにかなってしまうみたいに。
で、わたしはもう、ここらへんでどうしようもなくなった。
だって、家に帰ってもお兄ちゃんはいない。しかもお兄ちゃんは、一人暮らしを始めて、部屋に恋人でも連れ込んでるかもしれない。
もっと言えばある日「できちゃいました」とか言って帰ってくるかもしれない。
わたしはそういったことを想像するだけで吐き気がするほどにつらかった。
比喩じゃなく吐いた日もあった。
425 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/10/28(日) 13:23:39.44 ID:DOJagQqEo
ある激しい台風の日、わたしは家にひとりぼっちで、どうしようなくつらくて誰かに会いたくなった。
誰かに会いたくなったんだけど、誰に会えばいいのか分からなくなった。
たぶんお兄ちゃんに会いたかったんだろうし、お兄ちゃんに会いに行こうと思えば会いに行けたんだけど。
でも、なんていうか、それは困難だった。
なぜだろう? ほとんど白昼夢じみた実感をともなった映像が見えたのだ。
お兄ちゃんがわたしの知らない女の人と一緒に居て。
それから小さな子供を抱いて笑っている光景が。
なんていうか、それだけでわたしはどこにも行けなくなって。
家に帰るのもつらくて。
誰かに会いたかったんだけど、わたしにはお兄ちゃん以外の人がいなかったから。
だから――。
その台風の日、わたしは川に身を投げた。
古風で、なかなかいい。
426 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/10/28(日) 13:26:59.46 ID:DOJagQqEo
で、死んだ。
思えば短い人生だったと思う。なんせお兄ちゃん一色の人生だ。
こんなことだったらもうちょっとあほみたいに生きればよかったかなぁとも思う。
でも、まぁいいか、とも思う。わたしはお兄ちゃんのことが好きで好きで仕方なかったんだから。
痛くて苦しくて死ぬかと思ったけど(死んだんだけど)、こんな死に方もありだろう。
そりゃ、未練は山ほどあるし、納得はいかないけど、でも死んじゃったんだからしょうがない。
――ところで。
死んだなら、今こんなことを考えているわたしはいったいなんなんだろう?
わたしはそんなことを考えて――仕方なく目を開けた。
開けて、光を感じた。
それはすごく暗い光だったけど、すごくまぶしく感じた。青くて、黒くて、冷たい光だった。
薄暗くてよくわからない場所に、わたしは放り出されていたのだ。
「おはよう」
と、女の声がした。
「はい?」
と間抜けに問い返したわたし(享年十六歳)。
いったい何が起こったんだろう?
わたしは上半身を起こして首をかしげて、それから自分の身体が動いていることをはじめて意識した。
「なにこれ」
とわたしは言った。残念ながら、誰も教えてはくれなかった。
427 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/10/28(日) 13:33:27.21 ID:DOJagQqEo
413-9 その頃になると → そんな生活をしばらく続けるうちに、
つづく
>>417
章分けっぽく配置してる記号の意味はともかく、数字に関しては何の意味もなかったりします。
数字に限って言えばむしろ邪魔かもしれません。
あとから気付いてやばいなぁと思ったのですが、気にしないでくれると助かります。
428 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[sage]:2012/10/28(日) 13:58:33.70 ID:zZw4iJ5Go
乙
429 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[sage]:2012/10/28(日) 19:29:32.71 ID:A90n9tML0
そんな風に思ってくれる女の子が欲しいと思った
430 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[sage]:2012/10/28(日) 21:39:16.27 ID:UJL5Wiyd0
おつ
431 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/10/29(月) 15:10:45.55 ID:nZA5eeUmo
◇
「どちらさま?」
とわたしは訊ねた。目の前に立つ女の人はちょっと爽やかな風貌。
薄暗くて底冷えする空間に、その恰好はあんまりに不似合。
でも、彼女の場合はひょっとしたらどこにいてもこうかもしれない。
ときどきそういう人がいるのだ。
どこにいても上手く馴染めない人間。馴染まない人間。
彼女は小さく微笑して、
「魔法使い」
とからかうように言った。
「……はあ」
わたしはとりあえず頷く。よくよく考えれば彼女が誰かを知ったところで何の意味もなかったのだが。
432 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/10/29(月) 15:11:15.23 ID:nZA5eeUmo
「ちょっとあなたに提案したいことがあって」
「……提案?」
わたしは首を傾げたけれど、そもそもわたしは自分がどういう状況にあるかも分かっていなかった。
死んだんじゃなかったっけ? そもそもここはどこなのだ?
「ここは控室」
女の人はそう言って、
「みたいなところ」
と付け加えた。
……いや、その説明じゃさっぱり分からない。
わたしは周囲の様子を眺める。音を立てて唸るポンプのような機械。床や天井を這いまわる何かのパイプ。
ポンプにはハンドルと何かの数値計。そういったものがあちこちに配置されている。壁は打ちっぱなしのコンクリート。
わたしはその光景に覚えがある。
「水族館の地下?」
「というよりは、えっと、こういうところなんていうんだっけ? バック、バックなんとか」
いや、知らないけど。魔法使いは思い出すのを諦めて、「ま、いいか」と頭を掻く。
一度だけ、水族館の裏を見学したことがある。子供の頃、祖父母に旅行に連れて行ってもらったときだ。
433 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/10/29(月) 15:11:50.76 ID:nZA5eeUmo
結構大きな水族館で、大きな水槽があって、あとトンネルみたいになってるところがあって……。
……どんな魚がいたかは思い出せない。
「場所自体にあんまり意味はないから。問題は、ここがどこに繋がってるかってこと」
彼女の言葉に、わたしは首をかしげた。「繋がってる」とか「どこに」ってどういう意味?
それじゃまるで、水族館以外の場所に繋がってるみたいな言い方だ。
……いや、そもそも、わたしはいつのまに水族館にいたんだろう?
というか、記憶が判然としないけど、川で溺れるか何かして死んだんじゃなかったっけ?
もしかしたら流木に体を打たれたのかもしれないけど……という死に際の細かいディティールはどうでもよく。
「ね、あなたさ、自分が死んじゃったって覚えてる?」
「――あ、やっぱりそうなんですか?」
「うん。まぁね」
ひとつ疑問がとけた。……ノリが軽いのが気にかかるが。
434 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/10/29(月) 15:12:20.65 ID:nZA5eeUmo
「そっか。やっぱり死んでたんだ、わたし」
「うん。そんでね、提案なんだけどさ、ちょっと未来、変えてみない?」
「え、変えられるの?」
「変えられるんだよ。それが」
……やっぱりなんか軽い。
わたしはなんとも微妙な気持ちになる。何が微妙って、この女性の言葉に一切胡散臭さを感じない自分自身に。
まぁ、なんで感じないかっていうと、たぶんどうでもいいんだと思う。だって死んじゃったし。
別に嘘でもホントでもどうでもいい。どっちにしたってわたし死んでるし。
「……過去を、じゃなくて、未来を、変えるの?」
「いいとこに気付いた」
魔法使いは笑顔で頷く。わたしはなんとも言えない気持ちになった。そもそもなんですか、魔法使いって。
「過去は変わらない」
「……じゃあ、未来も変わらないのでは?」
435 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/10/29(月) 15:12:51.21 ID:nZA5eeUmo
「ま、そのあたり、わたしが魔法使いたる所以って奴でさ」
女はそれから、コンクリートの壁に背をもたれて人差し指を立てた。
「ようするに、タイムスリップ、的なことを、他の人に体験させられるんだよ、わたしは」
「……どうやって?」
「理屈とかないの。超自然的って言葉は、自然の範疇を超えてるから超自然的っていうの」
「あなた、何者?」
「魔法使い」
女は笑って、
「“わたしはあなたの敵ではない”」
と言った。そして溜め息でもつくみたいに続ける。
「“わたしはあなたたちとは無関係の存在だ”」
436 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/10/29(月) 15:13:58.90 ID:nZA5eeUmo
「……」
意味が分からない。わたしはその言葉を振り払うみたいに首を振ってみたけど、あんまり効果はなかった。
「……その話はもういい。でも、わたし、死んでるよ。死んでる人って、タイムスリップできるの?」
「控室に来た以上はね。ていうかわたしが連れてきたんだけど」
わたしはちょっとだけ気になって訊ねた。
訊ねたところでどうなるってものでもないだろうけど、聞いたところで損をする話でもないだろう。
「何が目的?」
「観劇」
ずいぶんと悪趣味な魔法使いがいたものだ。
いや、魔法使いなんてそんなもんか?
「というかまぁ、研究、みたいなもの?」
「いや、疑問形で言われてもね」
437 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/10/29(月) 15:14:31.87 ID:nZA5eeUmo
「とにかく、さくっと過去にタイムスリップして、未来を変えてみない?」
「……過去に飛ぶなら、過去も変わるのでは?」
魔法使いはくすくす笑って、それ以上何も言おうとしなかった。
「で、どうする?」
と魔女は言った。
わたしはどうでもいいやと思ったけど、少し真面目に考えてみる。
仮に過去に戻って何かを変えられるとしたら、わたしはどうするだろう?
わたしにはさっぱり思いつかなかった。
わたしにはお兄ちゃんと一緒に生きられる未来なんて作れるとは思えなかった。
そうである以上、わたしにこれ以上の生はまるっきり無意味なのだ。
なんというか。
死ぬときは、混乱していたし、疲れていたからよく考える余裕もなかったのだけど。
何も死ぬことはなかったんじゃないか?
と早くも後悔。
438 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/10/29(月) 15:15:14.52 ID:nZA5eeUmo
べつに現実に何かが起こったわけではなかったのだし、ゆっくりと時間の経過を待てば――。
ひょっとしたら、わたしにもお兄ちゃん以外の何かがあったかもしれないのでは?
そんなふうに考えたら、やり直してみたくもあったけど、でも、それだって同じことだった。
お兄ちゃん以外の何かは、現に今のわたしにはないし、そうである以上わざわざ探しに行く気にもなれない。
「一応魔法のルールを説明しておくとね、何人か必要な人間を連れてくこともできるし」
いきなりよく分からないルールだ。他の人間を連れて行ってどうするんだろう。
「もしくは、巻き込むこともできる」
「……巻き込む?」
「うん。ま、これやるとめんどくさいし、あんまりお勧めしないけど。前にやった人はね、一人で行って一人で帰ったよ」
前例があるらしい。
439 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/10/29(月) 15:16:14.38 ID:nZA5eeUmo
「あとは、過去に戻った段階で世界は分岐する」
分岐、とわたしは鸚鵡返しする。
「うん。分岐。だから結果が変わる」
つまり、結果とは未来か。
でも、分岐――枝分かれということは、「こうだった」部分が「こうじゃなくなる」ということで。
それってやっぱり、過去が変わっていることになるのでは?
「あ、それと補足。入り方はひとつだけど、出方はひとつじゃない。あっちにいくと区別がなくなっちゃうから。
たとえばA世界にBがCを巻き込んで入ったとき、Bの意思じゃなくCの意思で帰ることもできる。
するとね、Cがいろんなものを負っちゃって、Bは巻き込まれた側の立場になる」
「……えっと」
「うん。このあたりの話はよく分からないと思うから、聞き流していいよ。契約書の、細かい文字で書かれてるとこみたいなもん」
それ、聞き流しちゃだめだと思う。
440 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/10/29(月) 15:17:31.90 ID:nZA5eeUmo
「あと巻き込まれた人間は気分に左右されやすくて、すぐにちょっとした超常現象起こすけど、あんまり影響ないから気にしないで」
なんかすごいこと言ってる気がするけど、正直実感がわかない。よく分からない。
「それから、あ、そう。わたしの魔法ってば適当だからさ、ちょっとした誤差が生まれたりもするんだよ。
A世界にBが向かうとき、Cを巻き込んだとすると、巻き込まれたCがCの世界に帰るとき、ちょっと時間のズレが起こったりするの。
でも、意思的に出た人物――ふつうなら最初に入った人と一緒なんだけど、その人の時間だけは元通りの時間に戻る」
――えっと。
「つまり、普通の場合、入った時間と同じ時間に戻るってわけ」
「……戻る?」
「そりゃそうだよ。未来を変えたら戻ってこなきゃ」
「えっと。未来が変われば、結果も変わる?」
「なにせ、未来が結果だから」
「でも、過去は変わらない?」
「分岐するだけだからね」
それって――どういう意味?
441 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/10/29(月) 15:18:03.08 ID:nZA5eeUmo
「口で言ったってわかんないって。実際やってみなきゃ。どうせ失うものなんてないんだからさ」
そりゃ、そうなんだけど。わたしはなんだかその話に乗り気になれない。
乗り気になれないも何も、わたしの望む未来が、どんな形であれ手に入るとは思えないからなんだけど。
「……うーん」
「やっぱりダメ?」
「気が乗らない」
「……じゃ、このまま死んだまま?」
「それでいいかなぁ。未練はあるけど……」
でも、過去に戻ったところで、何が変えられるっていうんだろう?
わたしはどこにいったって、無力な子供でしかないのだ。
「そっか」
と魔法使いは頷いた。
そして、怖気がするような酷薄な笑みを浮かべる。
「――じゃあ、叔父さんも、死んだままでいいんだね」
その言葉に、心臓が凍る。
442 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/10/29(月) 15:18:43.38 ID:nZA5eeUmo
「……死んだ?」
問い返したわたしの声は、わたしの声じゃないみたいに聞こえた。
なんだか薄い膜越しに聞くみたい。ぼんやりとノイズがかっている。
「死なないと思う?」
「……え、叔父さんって、お兄ちゃんが?」
「うん。いや、まだ死んでないか。もうちょっと先だね。一年後? 一年はもったんだ。思えばよくもったよね」
「……お兄ちゃんが、死ぬの?」
足元がふわふわとして頼りない。わたしの身体から感覚が抜け落ちていく。
「死ぬでしょ。あなたは疲れてて混乱してて、上手に考えられなかったみたいだし、思いつかなくても不思議はないけど。
ね、死ぬでしょ? だって、ねえ。あなたの叔父さんだよ? 溺愛してた姪っ子が自殺したらさ、後を追うでしょ?
そういう人だもん。想像つくでしょ?
普通の叔父だったら違うかもしれないけど――あなたのところは、普通の叔父と姪じゃなかったしね。
それから、そのあとすぐにお祖母ちゃんも病気になって死んじゃうけど」
「――」
443 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/10/29(月) 15:19:26.71 ID:nZA5eeUmo
お兄ちゃんが、死ぬ? わたしを追って?
というか、それは――わたしが殺したようなものだ。
「不思議な関係だよね、あなたと、あなたの叔父さん。どっちもさ、互いを失ったらまるっきりからっぽになっちゃうみたい。
驚いたことに、始めからそうだったんだよ。そのときは別に、特にお互いのことを考えてたわけでもないみたいだったけど」
魔法使いの言葉は、わたしの耳を通り抜けていく。
お兄ちゃんが死ぬ。
わたしのせいで。
――心底思う。わたしはバカだ。
なぜ死んだ? なぜ耐えられなかった?
さっきまで、その気持ちは身を切るほど切実に我が身を苛んでいたのに、でも、強い後悔がわたしの胸を襲った。
耐えられなかった。混乱していたし疲れていた。頭がうまく回らなかった。
つらかった。だから死んだ。それで、それでお兄ちゃんが死ぬのか。
――それは、ダメだ。それだけは、ダメだ。
お兄ちゃんが死ぬなんて、わたしのせいで死ぬなんて、ダメだ。
お兄ちゃんのためにわたしが死ぬことはあっても。
わたしのせいでお兄ちゃんが死ぬことはあってはならない。
444 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/10/29(月) 15:20:04.06 ID:nZA5eeUmo
「行く」
とわたしは言った。
「行って、どうするの?」
魔法使いはわたしに訊ねる。
わたしは答えた。
「わたしが死ぬのを、止めなきゃ」
そうしなければお兄ちゃんが死んでしまうなら、わたしは三秒前の決意だって翻せる。
お兄ちゃんが他の人と幸せになる姿を見るのはつらい。
本当のことを言うと、わたしの後を追ってお兄ちゃんが死んでくれるなら、それが本当なら、少しだけ嬉しかった。
でも――ダメだ。ダメなのだ。
そんなのは、納得がいかない。自分の身勝手から生まれた結果だとしても、それを許すわけにはいかない。
その未来を変えることができるなら、その蜘蛛の糸が、わたしの目の前にぶらさがっているのなら、わたしはそれを掴むしかない。
魔法使いが満足げに笑った。
445 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/10/29(月) 15:20:38.20 ID:nZA5eeUmo
つづく
446 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[sage]:2012/10/29(月) 18:38:45.35 ID:BieUkYtLo
乙
447 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[sage]:2012/10/29(月) 19:56:46.32 ID:Ylp8ffGT0
乙
448 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
(千葉県)
[sage]:2012/10/29(月) 21:13:55.41 ID:hXF5Hi/0o
乙
ここへ来て姪視点は面白いね
>>427
数字は単に自分の整理のために念のために残しておいただけでした。すいません。
449 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[sage]:2012/10/30(火) 13:37:17.05 ID:Bd/YqcmRo
ちょっと時系列とか情報整理するので二日間くらい休みます。
一応の見通しはついてますけど、なんかいろいろごたついててよく分からなくなってきました
>>448
な、なにも謝らなくても、というかそんなにかしこまらなくても……。
450 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/11/01(木) 12:16:33.17 ID:4/BT8rM8o
◇
「なんだか言い足りないことがある気がするけど、まあいいか」
魔法使いの女の人はそんなふうに言った。
「伝え忘れたことも、追々分かってくるだろうしね。行こうか」
「……行く?」
「過去に」
魔法使いがわたしに背を向けて歩き始めた。
通路の様子は薄暗くて分かりづらい。何かの機械の音がする。ごおおおおお、という排気の音。
天井から床まで、大量のパイプが、どこからか入ってきて、どこからか出ていく。
パイプには操作するためのハンドルがついている。床は濡れていて滑りやすく、壁はコンクリートの打ちっぱなしだ。
懐かしいなぁ、とわたしは思う。でも、こんなに暗かっただろうか?
やがて通路は二手に分かれる。彼女は入り組んだ方へと進む。小さな木製の階段があった。
黙って進んでいく。その先には扉があった。
451 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/11/01(木) 12:17:02.58 ID:4/BT8rM8o
「準備はいい?」
と魔法使いは訊ねる。
「まだ、って言ったら待っててもらえる?」
「だめ」
殺生な。
とはいえ、準備に不足があったわけではなく(なんせ死んでるもんだから、このままいくしかない)。
さいわい服は着ているし、財布はある。
……なんでだろう。この"わたし"はいつの"わたしなんだろう?
もし死んだときそのままの姿だったら、服も体も、もっとボロボロでおかしくないのに。
「ちょっと不確定なところまで遡ってるからね」
心でも読んだようなタイミングで、魔法使いがよく分からないことを言った。
452 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/11/01(木) 12:17:39.08 ID:4/BT8rM8o
「不確定?」
「そう。でも忘れてていいよ。携帯とか、なくしてない?」
「……うちに置いてきたかも」
「なんで?」
「もともと持ち歩かないんだ」
「そっか。不便だな」
ドアノブに手を掛けたまま、何かを考え込んだ様子の魔法使いは、ふとポケットに手を突っ込んだ。
「じゃあ、これあげる」
彼女が取り出したのは黒いスマートフォン。略してスマホ。
453 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/11/01(木) 12:18:45.20 ID:4/BT8rM8o
「わたし、初スマホ」
動揺する。わたしはわりとミーハーなのだった。縁がないものではあるが。
受け取って、適当に触ってみる。画面は真っ暗なままだった。
「くれるの? ありがとう。高いのに」
「死んでるくせに、物もらって嬉しいの?」
「人からものをもらうなんて、めったにないから」
魔法使いはなんだかあったかいものに触るような目でわたしを見た。子供だと思われたかもしれない。
「動かないよ?」
「……脇にあるボタン押すと、反応するようになるから」
「おお」
「画面が表示されたら、錠のアイコンに指で触って、そのまま右にずらす」
「……ずらす? あ、動いた」
「そしたら普通に操作できるようになる」
454 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/11/01(木) 12:19:22.38 ID:4/BT8rM8o
「電話を掛けるにはどうすれば……」
「ホーム画面にショートカット作ってあるんじゃない? たぶん電話帳かな。わたしの番号、それに入ってるから」
「……どうして? これ、あなたのじゃないの?」
「違うよ。他人のだよ」
「……他人のをあげるって、どうなの?」
「譲渡されたの。で、それをさらに譲渡する」
「……繋がるの、これ?」
「たぶんね」
「ところで、あなたの番号はなんて名前で登録されてるの?」
「"変な女"」
「……」
455 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/11/01(木) 12:20:41.48 ID:4/BT8rM8o
発信履歴と着信履歴を見ると、その名前が真っ先に見つかった。
次は自宅、その次は部長、西沢、花巻。多分仕事仲間か。
わたしはちょっとした好奇心でメールボックスを探してみた。
悪趣味だとも思ったけど、あんまり抵抗がない。死んでるからか。
「メールは……ここか」
ホーム画面からメールっぽいアイコンに触れる。
受信ボックスと送信ボックスを覗いてみる。文章を見る限り、どうも丁寧な人らしい。
……いや、無愛想という方が近いか。そのわりに人望がないわけでもないようだ。
プロフィールは、どこから見るんだろう。いったい誰のものなんだろう。
「そろそろ、いい?」
魔法使いが呆れたように言った。わたしはあわててスマホをポケットに突っ込む。
「うん」
魔法使いが扉を開いた。
456 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/11/01(木) 12:21:08.64 ID:4/BT8rM8o
「どうぞ」
と彼女は促す。
わたしはちょっと戸惑った。
「あなたは、行かないの?」
「行けないの。……ごめん、わたしさっき、ちょっとだけ嘘をついたかもしれない」
「……え?」
「完全に無関係ってわけじゃないんだよね、あなたたちと」
魔法使いは、そういって気まずそうに前髪を掻きあげた。
「ちょっとは、手伝ってあげる。ちょっとだけね」
「……なんか、いやな感じ」
「がんばってね」
と彼女はわたしの背中を押した。
仕方なく、わたしは扉をくぐる。
視界が光に覆われる。
まっしろい光。方向感覚と平衡感覚が失われて、地面と接地している感覚が消えていった。
ちょうど消えていくみたいだった。
たぶん成仏するのってこんな感じ。今のわたしが言うと冗談にならないけど。
457 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/11/01(木) 12:21:39.59 ID:4/BT8rM8o
目が慣れてくると、たくさんのドアが見えた。
「ここ、どこ?」
と振り返って訊ねると、扉は既に閉ざされていた。気のせいだろうか。扉のサイズがくぐる前と違う気がする。
緑色のドア。ちょっと悪趣味。
まあ、別に不思議なことでもないか。いや、不思議は不思議だけど、不思議なのは当たり前だ。
わたしは少し不安になった。それで、まず何をすればいいんだろう?
というか、わたしは本当に過去に来たんだろうか? 日付を確認したい。
携帯電話の日付……は、なんだか信用にならない気がした。
とりあえずこの場所にカレンダーはなさそうだ。
というか、ここは既に過去の世界なのだろうか? それとも例の「控室」の地続きみたいなものなのかもしれない。
たくさんのドアは非現実的な様相を呈していて、わたしはなんだか怖くなる。
「うーん」
と唸ってみると、声は思いのほか大きく響いた。
周囲には誰もいない。ここはどこだろう?
458 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/11/01(木) 12:22:12.19 ID:4/BT8rM8o
わたしはこの場所に来たことがあるような気がする。
記憶の隅の光景と、この場所が重なる。見覚えがある。
たくさんのドア。昼下がりの太陽が窓から差し込んで、真っ白な壁に跳ね返っている。
窓の外には木々が並んでいて、緑色の葉をつけていた。
向こう側には道路が見えて、たくさんの車が左右に抜けて行った。
見覚えのある国道バイパス。わたしの家の近く。
わたしはとにかく建物の中を歩いてみた。
時計は、カレンダーはないだろうか? ……ない。
よく見ると、扉以外にも窓なんかが壁についていた。
壁は、まるでそこに突然あらわれたみたいな形で立っている。
まるで扉や窓をそこに作るために、壁を立てたみたいだった。
窓のそばにはプレートみたいなものが取り付けられていた。美術館なんかで、絵画のそばにつけられてるようなもの。
「……ああ」
つまり、展示しているのだ。
459 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/11/01(木) 12:22:43.93 ID:4/BT8rM8o
ようするにここは、ドアのショールームなのか。
ということは、ここはあの事業所の……。
だとするなら、ここは既に過去の世界なのだろう。
なにせわたしは現在では死んでいるわけで、現在には存在できない。
それができたら、話が終わってしまう。
わたしはなんだか不安になって、自分の手のひらを見た。
死ぬ前と同じ、十六歳の手のひら。
「うーん」
なんだか実感がわかない。死んでるんだからその方がいいのかもしれないけど。
とりあえず適当に歩いているうちに出口を見つけた。わたしは外に出る。
そこはまだ事業所の敷地内で、そばには厳めしい門が立っていた。
わたしはなんだかまずいことをしているような気になった。人目を忍んだ方がいいかもしれない。
460 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/11/01(木) 12:23:10.66 ID:4/BT8rM8o
ところで、今はいつなのだろう?
魔法使いはわたしを過去に送ると言った。送ることができる、といった。
でも、いつに送る、とは言っていなかった。
わたしの自殺を止めるためには……わたしが自殺するその瞬間に行けばいいのだ。
そうすればわたしは、わたしに直接会って、話すことができる。
自分と同じ顔をした人間に声をかけられて、自殺を止められたら、わたしは信じるだろう。
「あなたが死んでしまうと、お兄ちゃんも死んでしまうの。だから死んじゃだめ」
この程度でいい。たしかにわたしが死ぬことは、お兄ちゃんにとってはショッキングなことだろう、とそのわたしにも想像できるだろう。
だとするなら、わたしは今、自分が死ぬ三日前くらいに来ているとか?
とりあえず国道沿いを歩いて、わたしは付近のコンビニに向かった。
すぐに、その事実に気付く。
461 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/11/01(木) 12:23:45.26 ID:4/BT8rM8o
「……店が違う」
ファミマがリトルスター(ローカルなコンビニ)になってる。
……いや、事実からすれば逆なんだろう。
ちょっと前にここいら一帯のリトルスターがぜんぶファミマになっちゃったのだ。
ちょっと前っていうか、十六歳のわたしから見て三、四年前。
「……ええー」
魔法使いはいったい何を考えてるんだろう。
つまりわたしが今いるのは、三、四年以上前の過去ってことでは?
ていうか……。
「そんなに遡って、いったい何を変えればいいの……」
絶望する。
魔法使いの言葉に耳なんて貸すから、こんなことになったんだ。
「騙された……」
戻りすぎでしょう、いくらなんでも。
462 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/11/01(木) 12:24:13.88 ID:4/BT8rM8o
念のためにコンビニに入る。
入口から、時計が見えた。十二時三十五分。ひどく混み合っている。
レジから列が伸びていた。ふたつ。おぞましくすらある。リトルスターって、人気なかったと思ったけどな。
たぶん立地がいいのだろう。事業所と住宅地がすぐ傍で国道沿い。ここらへんは工事関係の人も多い。
わたしは入口で新聞を掴んで年号を確認した。六、七年前?
日付は……七月二十三日。
溜め息をついて、わたしは思う。
わたしが死んだ日だ。数年前の。
「なんか、悪趣味……」
いや、単に年単位で移動させただけだったりして。面倒だから日にちはそのまんまでいいよね、という。
あの女の人、そういう性格っぽいし。
「なんか、お腹すいたな」
新聞を棚に戻して、わたしは店内をめぐる。電子レンジが何度もピーピー言ってる。みんなお弁当をあたためてるのだ。
わたしは適当にパンを見繕った。あらかた売れていたけど、いくらか残っているものもある。飲み物も一緒に買った。
463 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/11/01(木) 12:24:44.26 ID:4/BT8rM8o
会計の列に並ぶ。たぶん七分くらい待った。わたしはレジに品物を出す。
店員の慌てた様子にせかされて、急いで財布を出して、千円札をカウンターにおいた。
ついでにポイントカードを出す。店員が不思議そうな声をあげた。
「……あ」
当たり前だ。ここはリトルスターだった。Tポイントカードを出してどうするのだ。
ていうか、この時代にTポイントカードってあったっけ? わたしは慌てて財布にカードをしまう。
店員と目があった。
「――え?」
「……はい?」
わたしの声に、店員はふたたび不思議そうな声をあげた。
どきりと心臓が跳ねて、一瞬思考が凍る。
なんとか頭を落ち着かせて、差し出された品物を受け取って、お釣りを受け取った。
うしろの列にせかされて、わたしは意思と反してレジから吐き出される。
客の流れはわたしを店の入り口まで連れ去った。入口の脇で流れからはみ出て、わたしは後ろを振り返る。
464 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/11/01(木) 12:25:24.91 ID:4/BT8rM8o
――お兄ちゃんがいる。
動揺よりも先に、わたしの胸はなんだか高鳴る。
「……若い」
というか、同い年くらい。
いや、そりゃそうなるか。わたしとお兄ちゃんの年の差は七つ。七年戻れば、お兄ちゃんは今のわたしと同い年くらいだ。
ぽーっとなって仕事ぶりに見とれる。騒々しくて聞き逃していたが、声にだってちゃんと覚えがあった。
「うわ、働いてる……」
なんだか感動。
……落ち着け、自分。
ここであんまり目立つのは、得策ではない。とりあえず、店を出よう。うん。
わたしは店を出て、それから魔法使いの顔を思い浮かべた。
あの人、なかなかにいい仕事をする。
さて、とわたしは思う。どうやら本当に過去に来てしまったようだ。
465 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/11/01(木) 12:25:56.08 ID:4/BT8rM8o
つづく
466 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
(東京都)
[sage]:2012/11/01(木) 13:04:14.32 ID:8zLtXfUqo
乙乙
467 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[sage]:2012/11/01(木) 13:09:11.48 ID:DCfZNO+p0
乙
468 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[sage]:2012/11/01(木) 15:50:09.51 ID:nOkDrH8do
乙
469 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
(島根県)
[sage]:2012/11/03(土) 08:18:45.48 ID:HmLqLWY5o
朝見つけてからここまで読みました記念
470 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/11/03(土) 10:45:29.12 ID:gvI3BO7Ko
まずは状況を把握しなければならなかった。
中天に浮かんだ太陽がじりじりとアスファルトを焦がしていて、空は真っ青に拡がっていた。
どこまでも透き通った夏の日。はしゃぐ子供たちが自転車に乗って国道沿いを走っていく。
コンビニの駐車場では、スーツを着た男の人が運転席にもたれてカーラジオをかけっぱなしで昼寝している。
通りすがりの車の運転手が歩道に立ち止まるわたしの顔をちらりと伺ってすぐに逸らした。
街には落着きがない。
わたしはコンビニの軒先にしゃがみ込んでパンを食べた。それから死んでいてもお腹が空くなんてなぁ、と考えた。
それを思えば無為に思えたお墓へのお供え物にも意味があったのかもしれない。
なんて話はどうでもよく。
パンを食べ終えると、ついでに買っておいたお茶を一口飲んで、立ち上がってゴミを捨てた。
それから鞄がほしいなと思った。手軽に持ち歩ける鞄がほしい。なるべく大き目の奴を持っておきたい。
でも、それはあとにすることにした。
なんだかここでぼーっとしていると時間を無駄にしてしまいそうだ。
少し名残惜しかったけど、わたしは一瞬だけ振り向いて、それからあとは普通に歩き出した。
もっと抵抗があるかと思ったけど、そういった感覚は別になかった。
471 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/11/03(土) 10:45:55.35 ID:gvI3BO7Ko
とりあえず……どこに向かおう?
わたしは未来を変えるためにここに来た。
だとすればわたしが考えるべきなのは、どうすれば未来を変えることができるのか、だ。
こういった感覚はわたしにとってはとても楽だった。目的があらかじめ示されている。
これがみんなにあったら楽なのに、とわたしは思った。役目が自明化されていて、それに従うだけでいい。
でも大抵の人間は目的なんて持ち合わせていないわけで、せいぜい暇を潰すくらいしかやることがない。
目的が分からないから混乱してしまうのだ。
そういう意味では、幼いころに自分なりの目的を見つけられたわたしは幸福だと言えたのかもしれない。
仮にその目的に殺されてこんな場所にやってきたとしても。
「うーん」
とわたしは考える。どうすれば未来を変えられるのか? 見当がつかない。
そもそもそんなに簡単にわかるなら、最初からそんな未来にはならなかったわけで。
472 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/11/03(土) 10:46:24.18 ID:gvI3BO7Ko
より根本的な話として、わたしはなぜ死んだのか。
自殺というのはこう、なんか、イメージとして、いろんな要因が重なり合った結果という気がする。イメージとして。
わたしの身に起こったのは――例の悪夢的な白昼夢。
要するにあの光景が現実化することが、わたしは死にたくなるほど嫌だったんだろうけど。
どうしてだろう。死ぬ前の自分のことが、他人事のように思える。
でもわたしはあのときの記憶をちゃんともっているので、間違いなくわたし自身なのだ。そこに間違いはない。
混乱していて、不安になっていたのだろう。じゃあ、その不安はどこから生まれたんだっけ?
お兄ちゃんに冷たくされたから?
という心当たりは浮かんだ。なんというか、それは当たりではあるのだけれど、根本的ではないような気がする。
でも、それ以外に心当たりもないわけで。
473 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/11/03(土) 10:46:50.78 ID:gvI3BO7Ko
ひとまずそのまま考えを進める。
お兄ちゃんを死なせないためには、わたしが死ななければいい。わたしを死なせた原因は、お兄ちゃんの態度が原因。
じゃあ、お兄ちゃんの態度の方に訴えかければいいわけだ。
つまり、お兄ちゃんがわたしから離れないようにすればいいのだ。
……やはり、悪趣味だという気がする。
よりにもよって、それを自分の手で行うことになるのだから。
なんていうか、それは、ひどく自己愛的なことに思えた。
というかまぎれもなく自己愛的で。
しかも歪んでいるのだ。
救いようもなく。
474 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/11/03(土) 10:47:30.19 ID:gvI3BO7Ko
「……とにかく」
とわたしは声に出してみる。別に言いたいことがあったわけではないのだけれど、とりあえず声を出した。
こういう気持ちは案外大事だと思う。とりあえず「とにかく」と言っておけば、そのうち続きが思い浮かぶのだ。
たぶんお兄ちゃんにはそういう余裕が足りない。
「そうだ。家に行ってみよう」
どうせわたしは今、未来の姿をしていて誰にも気づかれない。わたしは他人のふりをして、誰にでも近付くことができるのだ。
それを思うと、自分という存在がすごく超次元的なものに思えた。
わたしが誰なのか、誰にも分からない。
この時間にわたしは存在していない。
「非現実的」
とわたしは溜め息をついた。
でもそもそもの話が非現実的で、わたしは既に現実の住人ではないのだ。
季節は夏で、学生たちは夏休み。街を歩きながら、わたしはぼんやりと考える。
どうすれば、わたしを死なせずに済むのか。
475 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/11/03(土) 10:47:56.78 ID:gvI3BO7Ko
――無理じゃないか?
なんていうか、こういう立場になって初めて思うけれど、ようするにわたしはお兄ちゃんのことが好きで。
あの人の隣に誰かが立つことを想像するだけで体が不調を訴え始めて。
要するにお兄ちゃんが誰ともそういった関係にならずに生きていく以外に、方法がないように思える。
でも、お兄ちゃんの人生を束縛することなんて誰にもできない。
もしそれ以外に方法を探そうとするなら、お兄ちゃんとわたしが結ばれるか。
あるいは、わたしが堪えるしかない。
こらえるのは無理だったわけで。
じゃあ、お兄ちゃんにわたしを好きになってもらうしかない。
――なんていうか。
それは、ええと。
ばかみたいな話だ。
476 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/11/03(土) 10:48:22.84 ID:gvI3BO7Ko
ていうか、仮にそうすることで未来が変えられるとしても――それってわたしにどうにかできる問題?
歩いていると、家に段々近付いていく。
当たり前だけど距離は縮まっていく。
それがなんだか不自然なことに思えた。
歩けば距離が縮まる。太陽が照れば暑さを感じる。
わたしがどうして、そういうごく当たり前の流れの中にとどまっていられるんだろう。
「……ま、いいか」
考えたって仕方ないし、何を考えているのか自分でもよくわかっていないのだ。
477 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/11/03(土) 10:48:51.92 ID:gvI3BO7Ko
家を直接訪れるわけにはいかないし、外から様子をうかがうことしかできない。
とりあえず中には誰かがいるらしい。母と、この時間のわたしか。
わたしは、この時間のわたしと、この時間のお兄ちゃんの間に、何かの変化を残さなければならない。
そうすれば未来は変わる。
「……あれ?」
変わったら、どうなるんだろう?
未来が変わると、「この時間のわたし」の未来も変わって。
たとえば万事が上手く回って、わたしとお兄ちゃんが結ばれたとして。
するとわたしは自殺しないし、お兄ちゃんも死なない。
わたしが死なないなら、わたしはこんなところにいないわけで。
なにかの本で読んだことがある。親殺しのパラドックス。
478 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/11/03(土) 10:49:50.23 ID:gvI3BO7Ko
『過去は変わらない』
と魔法使いは言った。
『過去に戻った段階で世界は分岐する』
分岐。枝分かれ。
彼女はこうも言った。
『つまり、普通の場合、入った時間と同じ時間に戻るってわけ』
『……戻る?』
『そりゃそうだよ。未来を変えたら戻ってこなきゃ』
つまり、死んだ時間から来たわたしは、自分が死んだ時間に戻らなきゃいけない。
でもわたしが未来を変えたら、わたしは死なない。じゃあ、戻るべき時間はどこに行ってしまうんだろう。
つまり――それが分岐ということなのだろうか?
わたしがここで未来を変える。すると、本来辿るはずだったものとは別の未来に、この世界は変わってしまう。
枝分かれするのだ。
「…………」
それは、つまり。
479 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/11/03(土) 10:50:41.07 ID:gvI3BO7Ko
考え事を続けようとしたところで、後ろから声を掛けられる。
「……あの」
とか細い声。
わたしは慌てて振り返る。
わたしが居た。
「うちに何か御用ですか?」
「――」
わたしはどう答えようか迷って、結局何も答えなかった。
何も言わずに背を向けて逃げ出す。わたしはいつも肝心なことから逃げてばかりだという気がする。
彼女の視線が、ずっとわたしを追いかけているような錯覚。咎められているような、錯覚。
480 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/11/03(土) 10:51:14.87 ID:gvI3BO7Ko
◇
わたしは自分が今どうするべきかだけを考えることにした。
時間とか世界とか、そういう話は別に知らなくてもいいことだ。
わたしがすべきことは、お兄ちゃんとこの世界のわたしを死なせないように努力すること。
わたしが死んだのは、たぶん、お兄ちゃんの態度が原因だ。お兄ちゃんの冷たい態度が。
じゃあ、少なくとも、お兄ちゃんが普通通りの態度で接し続けてくれたら。
わたしは死なない。じゃあ、そうなるように仕向ければいい。
でも、それはどうすればいいのだろう?
つまり、冷たくならないようにするには。そもそもお兄ちゃんは、どうしてわたしに対する態度を変えたんだろう。
それさえ分かれば対策ができないこともない。
でも……それが分かっていれば、わたしはそもそも死ななかったんじゃないか。
わからないから不安になって、死んだのだ。
お兄ちゃんは、わたしのことを嫌いになったんだろうか。
481 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/11/03(土) 10:51:57.87 ID:gvI3BO7Ko
……一瞬、その考えに呑まれかけた。死ぬ前のわたしは、そう考えていた気がする。
でも、違う。魔法使いは言っていた。お兄ちゃんはわたしが死んだあと、自分もまた死を選んだのだ。
つまり、わたしの存在がお兄ちゃんにとって大きなものであったのは間違いない。
わたしはそこにあまり自信が持てなかったが、魔法使いの言葉を信じることにした。
そうしなければ立ち止まってしまう。
お兄ちゃんに嫌われない方法なんて思いつかなかった。
だってわたしは、そうならないようにせいいっぱいやってきたんだから。
せいいっぱいやってダメだったなら、これ以上はどうしようもない。
じゃあ、他にあるとすれば?
……思いつかない。
まったく、見当もつかなかった。
482 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[sage]:2012/11/03(土) 10:52:54.90 ID:gvI3BO7Ko
つづく
483 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
(静岡県)
[ ]:2012/11/03(土) 11:19:44.14 ID:ZSfr7V2To
乙!
484 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[sage]:2012/11/03(土) 13:56:05.88 ID:r1E/adpgo
乙
485 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[sage]:2012/11/03(土) 15:43:23.09 ID:WD0oYutr0
乙
486 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
(愛知県)
[sage]:2012/11/05(月) 18:05:54.30 ID:+/4ddpsio
かわいいな乙
487 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/11/07(水) 13:30:12.23 ID:G0Qej85so
ふと気付くと、わたしは見覚えのある児童公園の入り口に立ち止まっていた。
この世界のわたし――まだ子供のわたしから逃げ出してきて、こんなところに来てしまったのだ。
ポケットからスマホを取り出す。どうでもいいけど、スマホのことはなぜか携帯ではなくスマホと呼んでしまう。
いや、本当にどうでもいい話なんだけど。
時刻はまだ昼過ぎだった。わたしはコンビニで買った飲み物に口をつける。
そういえば……お金はどうしよう。
こちらで行動するのにだって、なにかとお金はかかるわけで……そのあたりのサポートは、魔法使いから受けていない。
思ったのだけれど、わたしが今考えなければならないのは、未来や世界のことではなく、今晩の寝床や夕食のことではないだろうか……。
二十一世紀にもなって、なぜこんなにサバイバルな。
思わず恨み言のひとつでも言いそうになったところで、スマホが振動して着信を知らせた。
画面の表示は「変な女」。噂をすれば電波。
「通話ってどうするんだろ。これ? ……あ、ずらすのか」
ぶつぶついいながら画面に触って、どうにか通話させる。耳に当てるとちゃんと声が聞こえた。
488 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/11/07(水) 13:30:38.16 ID:G0Qej85so
「ちょっとまずいことになったかも」
と魔法使いは挨拶もなしに言った。
「なに、なんの話?」
それより夕飯やお金や寝床のことで相談があるんだけど、とわたしは言おうとしたけれど、魔法使いの言葉に遮られる。
人の話を聞かないのはお互い様か。
「なんかね、巻き込まれちゃったみたい」
「巻き込まれた? なにが」
「人が」
「……なにに」
「つまり、あなたがそっちに行くときに、巻き込まれて控室まで来ちゃったみたいなの」
「誰が?」
「見に来て。ちょっとめんどくさいことになったかも」
「……それ、どういう意味?」
「うん。来たら分かる」
489 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/11/07(水) 13:31:35.77 ID:G0Qej85so
電話が切れる。
来たら分かるって、どこに行けばいいんだ。
そもそも、わたしがこっちに来てからまだ一時間と経っていないのに。
あの魔法使い、自分でも適当だって言ってたけど、ボロが出るのが早すぎる。
この分じゃだめかもしれないな、と諦め気味に思いながら、わたしはスマホをポケットにしまった。
「とりあえず、さっきのショールームに行けばいいのかな」
お兄ちゃんが家を出てから、ひとりごとが増えたのは自覚している。
とはいえ、どうせ誰も聞いてないわけだし。
「……」
なんだか、生きてるときより世知辛い気がする。
490 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/11/07(水) 13:32:09.16 ID:G0Qej85so
◇
白昼に堂々と事業所の敷地に忍び込むのは、困難だった。
さっきまでとは違い、人が大勢いたからだ。何かの催事の準備をしているらしい。
打ち合わせのように、何人かの大人が頭をつっつき合わせたり歩きまわったりしている。
とはいえ、不思議とわたしは見つからずに済んだ。これは本当に不思議なことだと思う。
ドアに埋もれた部屋を抜けて、人気のない方へと進む。
忍び込んだはいいが、どこに向かえばいいんだろう。
控室、と魔法使いは言った。
つまりさっきの場所にいけばいい。緑色のドアを探せばいいのだ。
「んー、と」
どこらへんにあったっけ。
結構奥まったところだったような気が……。入ってきたときはまだ感覚がつかめなかったから、よく思い出せない。
もともと道を覚えるのって苦手だし。RPGなんかもワールドマップでつまずくし……。
491 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/11/07(水) 13:32:52.81 ID:G0Qej85so
でも、それにしても……。
「ない」
ひょっとして色を見間違えていたんだろうか?
青とか、薄茶色とか、黄色とか、光の加減で緑に見えただけで、実は黒だったり白だったり……。
というわけでもないだろう。いくらなんでも。
でも、緑色の扉はひとつも存在しない。
じゃあ見間違い以外に可能性はないはずなのだが、なぜか、そうとは思えない。
わたしはスマホを取り出して、魔法使いに電話を掛けた。
「いまどこ?」
「控室ー」
魔法使いは間延びした声で返事を寄越した。
492 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/11/07(水) 13:33:19.07 ID:G0Qej85so
「あ、そこまで来た? ちょっとまって。今開けるから」
「……開ける?」
「うん。わたしの意思で開くようになってるから、ここ」
「……へえ」
ホントに不条理な存在。魔法使いって。
「三秒、目、瞑ってて」
「はい」
わたしはたっぷり三秒数えた。
493 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/11/07(水) 13:33:45.33 ID:G0Qej85so
「開けて」
開けると、目の前に緑色のドアがあった。
つくづく、不条理。
「待ってるから」
そう言って魔法使いは電話を切る。
さて、とわたしはドアノブに手を掛けた。
「鬼が出るか蛇が出るか」
なんて、大層な話じゃないといいんだけど。
494 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/11/07(水) 13:34:32.08 ID:G0Qej85so
◇
ドアを抜ける。音もなく扉が閉まる。金属製の重く冷たいドア。振り返ると、その大きさは明白にそれまでと異なっている。
繋がっている、ということだ。
わたしは溜め息をつく。自分は何をやっているのだろうと思った。
いや、もちろん自分がやろうとしていることはなんとなく分かっている。
そうするだけの理由もある。でも、上手に言葉にできないけど、何をしても無駄だという空しさもあった。
わたしはなるべくその空しさの相手をしないようにして、歩を進める。
最初わたしと会ったときのまま、魔法使いは立っていた。
「や、おかえり」
「段取り悪すぎ」
わたしが皮肉を言うと、魔法使いは苦笑した。
「悪いね」
と彼女は謝り、さらりと続けた。
495 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/11/07(水) 13:35:05.06 ID:G0Qej85so
「でも、もっと悪いことが起こるかもしれない」
どういう意味、と問いかける前に、彼女のかたわらに一人の子供が立っていることに気付く。
「――――」
さっき見たのと、同じ少女。
いや、違う。服装や体格、身長なんかが、異なってる。
表情も、さっきの子――要するにわたしなんだけど――はごく当たり前にごく普通の顔をしていたのに。
この子は、ごく当たり前に暗い顔をしている。
でも、その顔は、わたしにしか見えない。
496 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/11/07(水) 13:35:59.97 ID:G0Qej85so
「これ、どういう……」
「面倒なことになったかも、って言ったでしょ」
「開き直られても……」
少女はぼんやりとした目でこちらを見上げる。わたしはなんとなく彼女が怖かった。
なんとなく? いや、もっとはっきりと。
はっきりとした恐怖を感じていた。
「……あの、どういうこと、この子、誰?」
「たぶん、ひとりめ、なんだけど……」
「"ひとりめ"?」
「あ、うん。ごめん。えっと……別の世界のあなた、って言った方が分かるか」
魔法使いはごまかしたし、わたしは追及しなかったけれど、その「ひとりめ」という言葉は影が差すようにわたしの心に残った。
でもそれ以前に、
「……別の世界って、なに?」
497 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/11/07(水) 13:36:37.42 ID:G0Qej85so
「あ、そっか。そこからか」
失念していた、というふうに魔法使いは額を押さえた。
「えっとね。世界っていうのは分岐してるの」
また、分岐か。わたしは溜め息をついた。でもなんとなく、その言葉の意味は理解できる。
「並行世界ってこと?」
「そう、一種のパラレルワールド」
SFだなあ。わたしはぼんやり思う。いつから世の中はこんなに不条理になったんだろう?
ああ、元からか。
「たぶんだけど、重なっちゃったんだと思う」
「重なるって、世界がってこと?」
「そう。んで、こっちに吐き出されちゃった」
「……どうしてそんなことに」
「さあ」
と魔法使いは首をかしげた。
「この子も川で溺れたんじゃない?」
498 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/11/07(水) 13:37:13.55 ID:G0Qej85so
◇
「それよりも問題は」
と魔法使いは続けた。
「この子がこっちに来てしまったことで、未来を変えるどころじゃなくなるかもしれないってこと」
「……どういう意味?」
「だって、完全なイレギュラーだよ。ほっといたらどうなるか分からない。未来が、あなたの思惑とは違う方向に進むかも」
「……わたしの思惑とは違う方向?」
それってどんなものだろう? わたしはとりあえずお兄ちゃんの死を回避できさえすればいいのだ。
逆にいえば……お兄ちゃんの死以外の未来ならどんなものでもかまわない。
……頭の奥がずきりと痛んだ気がする。
わたしはお兄ちゃんを不老不死にでもしたいのか。
……違う。死んでほしくないだけじゃない。
死ぬなら、幸せになって、それから死んでほしいのだ。
そのとき隣にいるのがわたしだったら、というのはついでの妄想みたいなものだ。
別に死んでほしくないわけじゃない。人は死ぬ。お兄ちゃんが死ぬたびに、はいまたやり直し、なんてやってられない。
死ぬなら、幸せに。わたし以外の誰かとでも、我慢できる。……いや、我慢できなくたって、どうしようもないんだけど。
499 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/11/07(水) 13:37:57.57 ID:G0Qej85so
「まあとにかく、どんな形の終わりになるか分からなくなってしまうってこと」
「……もうこっちに来ちゃってるんだもん。手遅れじゃないの?」
「まだ世界に出たわけじゃないから、影響は生まれてないはず」
「というか、送り返せないの?」
「難しいかも。一回来ちゃったら、ちょっと時間が掛かるんだよね。何より……」
と、魔法使いは一拍おいて、
「この子、たぶん帰りたくないんだと思う。本人が望んでないと、鍵を開けても意味がないんだよ。本人が扉をあけないから」
それはよく分からない理屈だったけど、彼女の理屈が分からないのは最初からずっと同じことだった。
「じゃあ、他にどうできるの?」
500 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/11/07(水) 13:38:23.82 ID:G0Qej85so
わたしが訊ねると、魔法使いは少し考え込んだ様子だった。しばらくの沈黙のあと、嫌そうに口を開く。
「ここに軟禁、とか」
「……ひどい発想」
それを名案だと思ってしまうあたり、わたしも歪んでいるんだろうけど。
かわいそうだとは思うけど、でも、仕方ない。
迷子の面倒まで見ている余裕はない。そこは魔法使いがどうにかしてくれるだろう。
すぐには帰れないとは言っても、そのうち帰すことができるのだろう。魔法使いの言葉にはそういう含みがあった。
手違いでここにきてしまっただけなのだから、しばらく大人しくしていてもらうのがいい。
何より、よその世界にやってくるなんて、本人にしても面倒なだけだろう。
何より、わたしは彼女の顔を見るのがなんだか嫌だった。
怖い、と言い換えてもいい。それはなんだか、昔見た悪夢が、頭の中で再放送されてるみたいな不快感だった。
わたしはこの子が怖い。
真正面から目を見れないほど。
「任せてもいい?」
と訊ねると、魔法使いは不承不承といった様子で頷いた。
501 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/11/07(水) 13:38:52.65 ID:G0Qej85so
◇
別の世界、分岐、並行世界。
わたしはこの世界にきた瞬間からずっと思っていた。
わたしは十六歳の姿のままこの世界に戻ってきた。
たとえば同じく未来を変えるなら、意識を保ったまま時間を巻き戻し、子供時代の自分に戻る方が容易なはずなのに。
おそらく魔法使いの魔法では、それができない。
要するに、時間が巻き戻されたのではなく、過去の世界にわたしがぽんと投げ込まれただけなのだ。
「過去は変えられない」と魔法使いは言った。
変えられるのは未来だけ。
でも彼女の言葉には嘘がある。わたしはそのことに気付きかけていた。
502 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/11/07(水) 13:39:35.49 ID:G0Qej85so
わたしは未来すらも変えられない。ただ分かれ道を作るだけだ。
世界の分岐。もともと同一だった世界がふたつに分かたれるということ。
お兄ちゃんが死んだ世界と、お兄ちゃんが死なない世界のふたつに、この世界は分岐する。上手くいけば。
それはつまり、お兄ちゃんが死んだ世界はけっしてなくなるわけではないということ。
わたしにできるのは「お兄ちゃんの死なない世界」への分岐を作るところまで。
お兄ちゃんが死んだ世界をなかったことにすることはできない。
つまり――わたしが元いた世界で、お兄ちゃんは死んだままだし、わたしもまた死んだままなのだ。
だからこそ、魔法使いは言った。
『未来を変えたら戻ってこなきゃ』
わたしが戻るのは当然、わたしが死んだ世界。お兄ちゃんが死ぬ世界。
ようするにわたしは、最初からなにひとつ変えられないのだ。
503 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/11/07(水) 13:40:19.29 ID:G0Qej85so
「……これって詐欺だよね」
とつぶやくと、魔法使いは苦笑した。
「ホントにそうとも、限らないけど」
わたしは少し失望したけど、それでも、もともとゼロだった世界に可能性が加わったと考えることだってできなくはない。
『このわたし』がダメだったとしても。
『この世界のわたし』と、『この世界のお兄ちゃん』に、何かが残るのなら。
そこにどんな意味があるのかは、あまり考えないことにしよう。
きっと、意味はない。
ようするにこれは、自分を納得させる作業なのかもしれない。
このままでは納得できない。だったら、やるしかない。
わたしとお兄ちゃんの未来が、死以外にはありえないなんて、そんな現実は、絶対に認めるわけにはいかない。
わたしはここにも何かの矛盾があるような気がしたけれど、あまり考えないようにした。
504 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/11/07(水) 13:41:11.25 ID:G0Qej85so
つづく
体調が悪かったのでちょっと間が空いてしまいました
505 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
(東京都)
[sage]:2012/11/07(水) 17:18:37.90 ID:55pWO5Veo
乙!
506 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[sage]:2012/11/07(水) 18:07:24.44 ID:FCq36HDMo
乙
507 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
(千葉県)
[sage]:2012/11/07(水) 20:21:32.12 ID:1w+xFddWo
乙!
この辺りはわかりやすくて普通に楽しめるね
508 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[sage]:2012/11/07(水) 23:06:38.92 ID:xri6cQ2t0
確かに
509 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
(静岡県)
[sage]:2012/11/08(木) 08:34:02.59 ID:H0ZLSIaAo
乙乙乙乙
乙
乙
乙 乙
乙乙乙乙乙
510 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/11/10(土) 08:16:45.91 ID:we9ZnMFPo
◇
それから、わたしの数日は特に得るものもないまま過ぎて行った。寝床に関しては魔法使いを頼った。
控室の中で休んでいいという。寝具なんかも用意してもらえた。
こちらの世界に来て、何かをしたというわけではない。
昼間になったら街に出て、お兄ちゃんとこの世界のわたしの身の回りを観察していた。
特にどうということのない生活。覚えのある平坦さ。
この時期のわたしがどんなことを考えていたのか、いまいち思い出せない。
なにをしたわけでもないのにひどく疲れがたまって、わたしは控室で休んでいることが多かった。
このままで何かを変えることができるのかという不安もあったけれど、他にどうしようもない。
例の女の子とわたしは控室の中の同じ空間にいた。
少し開けているけれど、変わらず薄暗いし、少し寒。
冷たい空気が走っている。
わたしは何をしにきたんだろう。
あんまり考えないようにする。
わたしが考えるべきなのはどうすれば未来を変えられるか。
ではなく……良い分岐をくわえられるか、ということ。
511 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/11/10(土) 08:17:45.87 ID:we9ZnMFPo
少女は膝を抱えて座り込んだまま、ぼんやりとした目で虚空を見つめている。
とても落ち着いているように見える。そう見えるだけかもしれない。
なるべく離れていたかった。彼女のことが怖かったから。
わたしはこの子に何かを訊ねるべきだと言う気がする。
気のせいなんだろうけど……。
なんだか、落ち着かない。
何かを聞き逃しているという気がする。
あるいは、なにかを捉まえ損ねているような……。
少し怖かったけれど、彼女に話しかけてみることにした。
「ねえ」
と声を掛けると、少女はぼんやりとした頼りない目つきでわたしの方を見た。
その瞳には怯えもないし、疲れもない。何もない。
それが心底怖くなって、わたしは続く言葉を吐き出せなくなってしまう。
512 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/11/10(土) 08:18:13.32 ID:we9ZnMFPo
立ち上がる。あの目はわたしを居心地悪くさせる。
わたしは入り組んだ迷路みたいな構造の中を歩いて、魔法使いのいる場所へ向かった。
彼女はずっと、例の扉の近くに座り込んで休んでいる。
「おはよう。なにかする気になった?」
わたしの顔を見て、魔法使いは笑う。
「ねえ、できれば教えてほしいことがあるんだけど」
訊ねると、彼女は「言ってごらん」というみたいに首をかしげた。
「あの子……あの子の世界で、いったい何があったの?」
「……それを知ってどうするの?」
"どうする"?
どうするというのだろう。そうだ。知ったところでどうしようもないことだ。
異なる世界で起こったことなんて知らない方がいい。
事態がややこしくなるかもしれない。頭が混乱するかもしれない。
513 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/11/10(土) 08:18:44.41 ID:we9ZnMFPo
知らない方がいい。
でも……。
あの目。
どうしてわたしが、あんな目をしたりするんだろう。
いったい、何が起これば、あんなことになるのだろう。
"ひとりめ"。
「あなたは、それを知ることができる。でも、知らないでほしいと望んでいる人もいるかもしれない」
「……それ、どういう意味?」
彼女は答えない。
514 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/11/10(土) 08:19:39.60 ID:we9ZnMFPo
「ねえ、ずっと考えてたんだけど、あなたの言っていることと、あの子の存在は一致しないように思うの」
「……どういう意味?」
「わたしは、お兄ちゃんを死なせないためにこの時間に来た。でも、未来は変えられない。
ただ、別の可能性を生み出すことはできるかもしれない、というだけ。
それってつまり、お兄ちゃんが死んでいない並行世界は、この過去からはもともと存在していないってことだよね?」
魔法使いは微笑を絶やさずわたしの顔をじっと見つめる。
その目はなんだか、底知れない。
「わたしが何かしないと生まれない。これってどうして?」
「そういう可能性が、もともとなかったからじゃない?」
つまり。
お兄ちゃんは死ぬ以外なかった、という意味だろうか?
515 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/11/10(土) 08:20:08.71 ID:we9ZnMFPo
でも、そうだとしたら、並行世界、可能世界ってなんなんだろう?
「別の可能性」という意味での並行世界だとしたら、それは存在していないとおかしい。
死ぬ以外に未来がなかったというならそれは、そのまま……そのまま、並行世界なんてない、というのと同じようなものだ。
「だとしたら、あの子はなんなの?」
別の世界から現れた少女。どこかで分岐した、わたしとは違う過去。
魔法使いはその問いに答えるかわりに、別の答えを寄越した。
「あの子のいる世界じゃ、あなたの両親は離婚してないの」
「……え?」
わたしは急に話が飛んだような気がした。
「あの子は、両親と一緒に暮らしてる。祖父母や叔父の家を出て、三人で」
「……」
並行世界。こうであったかもしれない、という可能性。
その意味では、たしかにそれはあったかもしれない可能性のひとつ。
516 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/11/10(土) 08:20:46.04 ID:we9ZnMFPo
「――じゃあ、どうしてあの子はあんな顔をしているの?」
「何が間違いで何が正解かは一概には言い切れない。そういった極端な定め方をする方が間違いなのかもしれない」
魔法使いの言葉は他人事のように空々しくて、しかもはぐらかすように抽象的だった。
「あなたの父親は少し感情的になりやすかったし、あなたの母親は少し身勝手だった。悪い人たちじゃないのかもしれないけどね」
でもいい人でもなかった。
「あの子、虐待を受けてる」
魔法使いがさらりと言った。
「頼る相手がひとりもいない。あなたの祖父母が様子を見るくらいはしてるけど、母親があんなんでしょ。あんまり強く踏み込めない」
そうだ。母は周囲から注意を受けたり咎められたりすると機嫌を悪くして、それで……。
――怒鳴り声には覚えがある。でも……。
517 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/11/10(土) 08:21:24.08 ID:we9ZnMFPo
「……お兄ちゃんは?」
そうだ。
強く出れなかった祖父母のかわりに、わたしを守ってくれたのはいつだってお兄ちゃんだった。
「その世界の、お兄ちゃんは……」
「さあ?」
と彼女は首をかしげた。
それで分かってしまった。
「いろんな要因がね。ごちゃごちゃにこんがらがって、さ」
だから、と魔法使いは言う。
「誰のせいでもないし、誰が悪いわけでもない。いや、誰かを悪いと言うこともできるけど、そういう極端な見方って意味がないんだよね」
彼女は一言。
「結局、そうなったってだけ」
そんなふうに笑った。
518 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/11/10(土) 08:21:53.26 ID:we9ZnMFPo
「ねえ」
しばらくの沈黙のあとわたしが声をあげると、魔法使いは表情をこわばらせた。
その表情の意味は見えない。
「その世界のお兄ちゃんに会ってみたい」
魔法使いは押し黙る。
彼女はその世界のお兄ちゃんについて、どのようなことを知ってるんだろう。
「……会って、どうするの?」
……イレギュラー、と彼女は少女を、そう評した。
でも、わたしにはそうは思えない。
彼女の存在はわたしにとってなにかの必然性を帯びているように感じられる。
「……あなた、言ったよね。あの子は、「巻き込まれた」んだって。そして、わたしは「巻き込む」こともできるんだって」
「やめなよ。きっと相手は、あなたに会いたいと思ってない」
不快そうに眉を寄せ、魔法使いは歯を見せる。
その態度に、わたしは不可解なものを感じる。
「あなたの目的はなに? 単なる観劇、研究じゃないの? だとしたら、役者に自由に演じさせるべきじゃないの?
それともあなたは脚本家だったの? だとしたら、あなたはどういう展開を想定しているの?」
苦虫を噛み潰したような表情。わたしの鼓動は少しだけ早まる。
519 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/11/10(土) 08:22:35.23 ID:we9ZnMFPo
「あなたのためを思って言ってるんだよ。会うべきじゃない」
魔法使いは言いつのるように言葉を重ねる。
わたしは別の問いを返した。
「その世界に行ったことがあるの? その世界に、何か関わったことがあるの?」
彼女はしばらくこちらをじっと見つめていたが、やがて目を逸らした。
「あなたは何が目的なの? いったい何をさせたくて、わたしやお兄ちゃんに関わろうとしているの?」
「わたしは……」
彼女の表情がかすかに震える。なぜ彼女はこんなに動揺しているんだろう。
イニシアチブを握っているのはいつだって魔法使いの方なのに。
「わたしには、約束がある。それだけ」
「約束?」
いったい誰との、どんな。
けれど。
それを聞いたところで意味などないようにも思えた。
520 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/11/10(土) 08:23:15.71 ID:we9ZnMFPo
「あなたこそ」
魔法使いはひどく重苦しい息を吐いてから、ようやくわたしに反論した。
「目的を忘れていない? 違う世界の事情なんて知ったところでどうするの? あなたがするべきなのは、この世界を変えることじゃないの?」
その通りだった。
わたしがすべきなのはこの世界に変化をくわえること。
どうにかして。なんらかの形で。
でも、今はそれよりも、あの少女の目の方が気になる。
あの目……。
「……違う世界のわたしは、あんな姿になってる」
そう。
無感動で、無表情で、何にも怯えていないのに、何かに怯えているみたいな。
「じゃあ、その世界のお兄ちゃんと、この世界のお兄ちゃんを比較することで、その違いから生まれた変化を検証することで、何かが分かるかもしれない」
そうすれば、この世界にどのような変化をくわえればいいかも、分かるかもしれない。
何が必要で、何がいけなかったのか。
無理な理屈なようだったが、筋が通らないわけではない。
521 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/11/10(土) 08:23:51.55 ID:we9ZnMFPo
「それとも、あなたには、わたしの行動を制限する理由があるの?」
いや、あるのだろう。でも、その権限はないのだ。
彼女は最初から「できない」とは言わなかった。
「会わせることはできない」と、魔法使いが言ってしまえば、そこで話は終わるのに。
「会ってどうするの?」と訊いたのは、会わせることができるからだ。
だから彼女は、わたしがその人に会おうと望むことを、やめさせようとしている。
会ったところでどうにもならないから、と。
それがどうしてなのかは、魔法使いの事情であって、わたしには関係ない。
彼女の事情はわたしには関係ない。
わたしはわたしの事情だけを考えればいい。
「会わせて。そうすれば、未来を変えられるかもしれないから。わたしはそのためにここに来たんだから」
魔法使いは答えない。わたしは答えを待った。
彼女はその間なんの反応も寄越さなかった。
ようやく彼女がわずかな反応を見せたのは何十分も経ったあとのことだ。
「わかったよ」と彼女は拗ねたような小声で言った。
「でも、言った通り面倒なことになると思う。どんなことになっても、わたしは責任を取らない。自分で収拾をつけて」
わたしは頷いた。
522 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/11/10(土) 08:24:30.36 ID:we9ZnMFPo
つづく
523 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
(東京都)
[sage]:2012/11/10(土) 08:53:18.82 ID:vzSLugDUo
朝から乙
524 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[sage]:2012/11/10(土) 13:35:10.20 ID:2FJYDnMpo
おつ
525 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[sage]:2012/11/10(土) 16:49:29.27 ID:Fsvshjbx0
乙
526 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[sage]:2012/11/12(月) 14:22:44.12 ID:0uA2fY5/o
すみませんがしばらく投下できません
十日以内には戻ってこれると思います
527 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
(東京都)
[sage]:2012/11/12(月) 14:37:43.23 ID:8XdScjhSo
待ってまっせ!
528 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[sage]:2012/11/12(月) 18:56:14.03 ID:3bfXgSqoo
待ってるよ
十日くらいなんでもないさ
529 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[sage]:2012/11/12(月) 20:38:59.40 ID:DP546gqPo
待ってます
530 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
(東京都)
[sage]:2012/11/15(木) 08:13:15.65 ID:Zzd6T8u2o
軽く整理してみた
◇
>>1-143
>>220-221
>>260-267
>>284-288
>>291-294
>>296
>>298-301
>>304
>>309-332
>>334-335
?
>>345
>>359-371
>>388-391
>>397-521
◆
>>144-162
>>166-167
>>163-219
>>222-259
>>270-283
>>291-294
>>295
>>297
>>302-303
>>305-308
>>333
>>336-339
>>346-355
>>376-387
>>392
531 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[sage]:2012/11/15(木) 13:14:30.19 ID:T6+Vh3M6o
やるじゃん
532 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/11/17(土) 09:41:07.97 ID:fLGXd50oo
◇
「じゃあ、目を閉じて」
魔法使いの言葉に従う。彼女は少し辟易したような顔をしていた。
わたしは目を閉じる。世界は真っ暗になる。
「開けて」
何かを考える暇もなく、指示がくだされる。わたしは瞼を開いた。
「……うん」
と魔法使いは頷く。わたしは少し怪訝に思ったけれど、あえて何かを問いかけることはしなかった。
「もういいよ」
と彼女は扉を示した。
「行っておいで」
「……本当にこれで大丈夫なの?」
「さあね」
533 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/11/17(土) 09:41:34.05 ID:fLGXd50oo
魔法使いはふてくされたみたいな態度をしていた。構っていてもしかたないと判断して、わたしは扉に向かう。
「それにしても、回りくどい手段を選んだね」
わたしの背中に、彼女はあてつけみたいな声を投げつけた。
「直接話をしてみたりとか、考えなかったの?」
「『突然ですけど、このままじゃあなたの姪が死んでしまいますよ』って知らない女に言われて信じる人っているの?」
「……」
会話はそれで終わった。
わたしは扉を開ける。
534 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/11/17(土) 09:42:14.15 ID:fLGXd50oo
◇
扉を開けた先には、ドアのショールームがあった。わたしは振り向いて文句を言おうと思ったけど、扉は既に閉ざされている。
これで「もうひとつの世界」についていなかったら詐欺だ。
『もうひとつの世界』
『分岐』
わたしは少し立ち止まって、そのことについて考える。
なんだか整理が欠けている気がした。
わたしが分かっている限りで、情報を整理しておこう。
わたしが元いた世界――わたしが死に、お兄ちゃんも死ぬ世界。
あの子が住んでいた世界――『わたし』が虐待を受け、『お兄ちゃん』を頼りにできない世界。
まずわたしが元いた世界を、「世界a」として定義する。
「世界a」で死んだわたしは、魔法使いの力を借りて「世界a」の未来を分岐させようと企てた。
つまり、「世界a」の過去の一点(数年前)を基準に「世界a'」を作ろうとしている。
ややこしいので、過去のわたしのことは「少女」と呼称しよう。
535 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[sage]:2012/11/17(土) 09:43:13.67 ID:fLGXd50oo
「世界a」の過去に存在する過去のわたし=「少女a」。彼女はこのままではわたしと同じ結末を辿る。
そこで、この世界をなんらかの手段で「世界a'」に分岐させる。結果、「少女a」は「少女a'」に分岐する。
……全然整理できていない気がしてきた。とてもややこしい。入り組んでる。
そして、「巻き込まれた」という例の少女のいた世界を「世界b」とする。
「世界a」にいるお兄ちゃんを「お兄ちゃんa」……間抜けだからやめよう。「叔父a」とするなら。
「世界b」にいるお兄ちゃんは「お兄ちゃんb」……じゃなくて、「叔父b」となる。
同様に、「世界b」から巻き込まれた存在である、控室に軟禁されている少女は、「少女b」となる。
……とりあえず、こんなところでいいだろうか。
人物と世界に関する整理はこんなものだろう。……整理がついている気がしない。
わたしはポケットからメモ帳を取り出した。
536 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[sage]:2012/11/17(土) 09:43:39.71 ID:fLGXd50oo
叔父a――ややこしいからやめよう――お兄ちゃんが昔から愛用していたメモ帳。
ちょっとした機会でわたしも同じものを使うようになったのだ。
とりあえずわたしは簡単に文章にしてみた。
『最初にいた世界、普通の現実、わたしが十六歳で死んだ世界=世界a』
『わたしが変えようとしている世界、魔法使いの力を借りてたどり着いた世界=世界aの過去(もしくは世界a')』
『控室の少女が元居た世界、今から向かう世界=世界b』
世界に関してはこんなところだろう。
人物は……。
『わたし=わたし。世界aの過去(もしくは世界a')におけるわたし(九歳)=少女a。お兄ちゃん=叔父a』
『世界bにおけるお兄ちゃん=叔父b。巻き込まれた少女=少女b(世界bにおける過去のわたし)』
……後で読み返して、ちゃんと思い出せることを祈ろう。
537 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/11/17(土) 09:44:08.65 ID:fLGXd50oo
◇
さて。これからどう進むべきなのだろう?
どうでもいいと言えばどうでもいい話だけれど……仮に世界bに来れたとしたら、わたしは世界bの『いつ』にいるのだろう。
単純に考えれば、少女bがいた時間だろうか?
仮に、叔父bがいない時間に放り出されたらどうしよう? 十年後や十年前では何の意味もない。
……いや、それはないか。いくらなんでも、魔法使いがそんなことをするとは思えない。
少なくとも、わたしの目的に即した状態の彼に会わせてくれるはずだ。
わたしは叔父bに会って少女bがあんなふうになっている原因を確かめる。
それが何かのヒントになるかもしれないから。
でも、その前に……。
わたしはスマホを取り出して「変な女」に電話を掛けた。
「……もしもし」
と魔法使いは憂鬱そうな声で返事を寄越す。
「説明不足。どこに進めばいいの?」
「……適当に、出ればつくと思う」
538 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/11/17(土) 09:44:54.46 ID:fLGXd50oo
「ちゃんとナビして。ついでに、軽くこの世界の状況と、時間についても説明して」
「……わたしを便利に使わないでよ」
魔法使いは不満げだったが、結局説明してくれた。
わたしは電話越しに彼女の声を聞きながらショールームの出口に進む。
気付けば、どこかの川辺に居た。
「……は」
振り向いてもドアはない。
夜だ。水辺だからか、少し肌寒い。
わたしは斜面を昇り川を離れる。道に戻ってから辺りを見渡した。
そして呟く。
「……ここ、どこ?」
わたしの知らない街だった。
わたしの知らない場所だった。
そのことがすぐに分かる。
539 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/11/17(土) 09:45:29.57 ID:fLGXd50oo
魔法使いはその声に返事を寄越さない。
なんだかひどく心もとない気分になる。わたしはどうすればいいのだろう?
状況は前に進んでいるんだろうか?
「あなたがいるのは、あの子の世界」
あの子――少女b。
「……まさか、嫌がらせに全然違う街に飛ばしたとか、そういうのじゃないよね?」
「そうじゃない」
と彼女は首を振る。
「……じゃあ、ここは」
彼女は発した言葉を訂正するような響きで唱えた。
「あなたがいるのは、あの子が"居た"世界」
「……居た?」
なぜ過去形で言うんだろう。
540 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/11/17(土) 09:46:11.19 ID:fLGXd50oo
「あなたが控室でみた女の子。要するに、違う世界の、子供の頃のあなた」
あの子はね、死ぬの。魔法使いは言った。死んでしまうの。死んでしまったのよ。
その街はあの女の子が死んでしまったあとの世界なの。
「……わたしが死んだあとの世界?」
「違う。あなたじゃない」
あなたじゃない、と魔法使いは言う。
あなたとは違う。同じなんてありえない。
わたしは何も答えられなかった。
「いい? 今その街は、あなたがさっきまでいた世界と同じ時間の、違う場所。
あなたには見覚えがないであろうその街に、あなたの叔父の家があるの。
今からそこまでナビする。きっと彼はあなたの誘いを断らない。
なぜなら彼は死にたがっているから。心底死にたがっているから。でも彼は死なない。このまま放っておけばね」
541 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/11/17(土) 09:46:58.41 ID:fLGXd50oo
「……死にたがってる? なぜ?」
お兄ちゃんが、死にたがるって、どういうことなんだろう。
そんなの、想像もつかない。つかないけれど、お兄ちゃんが自殺する、というのは聞き覚えがあった。
世界aにおけるわたしが死んだあとの話。
でもこの街は世界bにおける過去であり、わたしがいた世界とは違う。
そして、彼は死なないらしい。魔法使いの言葉を信じるなら。
「会えば分かるかもしれない」
わたしはその言葉に不安になったが、それでも彼女の指示に従ってお兄ちゃんのいる場所を目指すほか術がなかった。
いったい何が歯車を狂わせているんだろう? 我々を苛むものの正体は何か?
そんな大仰な問いを冗談交じりに自分に向けたくなるほど、不安だった。
542 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/11/17(土) 09:47:40.13 ID:fLGXd50oo
◇
そしてわたしはその家にたどり着く。
灯りはほとんど消えていたが、二階の一室にだけともされていた。わたしはスマホで時刻を確認する。
一時半。……一時半? そりゃ、電気が消えてるわけだ。
わたしは玄関の前に立つ。扉には、きっと鍵が掛かっているだろう。
「関係ないよ」
と魔法使いは言った。
「開けてみて」
躊躇したが、開く。
ドアが動いた。
大きな音を立てて軋んだので、わたしは少しびくりとしたが、しばらくしても何の変化もない。
どうやら家の主たちはすっかり眠ってしまっているみたいだった。
「電気のついている部屋に向かうといい」
彼女の指示通り、二階の電気がついていた部屋に向かう。二階は寝室、私室のスペースらしい。
わたしは隙間から灯りが漏れているドアを目指して、足音をひそめた。
543 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/11/17(土) 09:48:06.57 ID:fLGXd50oo
そこで彼女は、この世界の状況についてわたしに簡単に説明した。
あの子は母親に虐待されたあげくに殺される。母親もまたそのとき自死した。父親はその後蒸発した。
彼は彼女のためになにひとつ行動を起こさなかった。そのことで自分を責めている。
責めているが、なぜ責めているのか自分でも分かっていない。
静かな家の中で、電話越しの彼女の声は、なんだか、わたしの頭のなかでだけ聞こえる妖精の声みたいに思えた。
彼の様子はその後おかしくなる。学校に通わなくなる日が増え、あまり出掛けなくなった。
それまでごく普通の学生だった彼がだ。その原因を、彼の母は周囲の目だと判断した。
身近な場所で起こったショッキングでセンセーショナルな出来事に、周囲の彼を見る目はかわった。
父母は決心し、彼を遠い県に住む親戚の家に預けることにした。
親戚は頼み込んだ父母にしぶしぶ折れて彼の世話を引き受けたが、あまりいい顔もしなかった。
たぶんこれも(彼が死にたがっている)原因の一端だろう。
そして彼はそこにいる。そこで最低限ふつうの生活を送っている。――ように見える。
そこまで言い切ると、魔法使いはそれ以上説明をくわえようとしなかった。
「それじゃあ、あとは好きにして」
パラレルワールド、分岐と結果。
わたしはこの世界に来るべきではなかったかもしれない。
544 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/11/17(土) 09:49:18.27 ID:fLGXd50oo
だって、この世界のわたしが母に虐待され死んでいるということは、つまり、わたしがそうなっていたかもしれないのだ。
というより、わたしが、現にそうなっているのだ。何かのはずみで何かの状況が変わることで。
それだけわたしは母に憎まれていたのだ。
……でも、なんだろう。わたしの世界とあの子の世界を別つものはなんだろう?
ごく単純に考えれば、いちばんの違いはお兄ちゃんだろう。お兄ちゃんの態度が、こちらとあちらではまったく違う。
要するに、何かを原因にお兄ちゃんが分岐した。
……分岐?
わたしは世界について考えていたときに覚えたかすかな矛盾を掘り起こしてみた。
そう、どこかで分岐したのだ。……でも、"どうして分岐なんてものが生まれるんだろう?"
いや、わたしは既に知っている。
並行世界なんてものが最初から存在するなら、わたしはそもそも魔法使いの甘言に乗る必要なんてなかったのだ。
何もしなくても、「お兄ちゃんが死なない世界」は存在しているはずなのだから。
そういった可能性がないとは考えがたい。だってそれは無数の可能性のはずなのだから。
だとすれば、原則として、"何も起こらないかぎり並行世界なんてものは発生しない"と考えるべきだろう。
545 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/11/17(土) 09:50:01.72 ID:fLGXd50oo
分岐と結果。その分岐を生むものは何か? わたしは既にそれを知っている。
魔法使いの魔法。彼女の手によって、世界は分岐する。
『前にやった人はね、一人で行って一人で帰ったよ』
魔法使いは言っていた。わたしの前にも、この魔法を受け入れた人間がいるのだ。
それが誰なのかは分からない。でも、分かるのは、その人が"分岐を作るのに成功した"ということだ。
世界a、世界bというふたつの世界が存在するのは、その人物が分岐を作り出したからではないだろうか?
「前にやった人」はわたしたちの現実に関わりのある人物なんじゃないか。
それは明白だという気がする。
魔法使いはこうも言ったからだ。
『完全に無関係ってわけじゃないんだよね、あなたたちと』
その彼(あるいは彼女)は分岐を作り、ふたつの流れを生み出した。
だとするなら、世界aと世界bの、どちらかが本流で、どちらかが魔法によって生まれた分流ということになる。
ごく単純に考えれば。
世界bこそが本流であり、世界aこそが分流である、と考えるのがたやすい。
546 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/11/17(土) 09:50:27.61 ID:fLGXd50oo
もしそうでなければ、世界aの、十六歳のわたしのもとに、魔法使いがあらわれるわけがない。
世界aがもし「誰かが失敗とみなした世界」であるなら、その軌道をさらに修正しようとする人間はいないだろう。
わたしたちの認識についてはともかく、魔法使いの記憶は連続性を保っているはずだから。
彼女は「誰かが作り出した結果」を、さらに分岐させようとするはずだ。根拠はないけど……わたしが彼女ならそうする。
であるなら、世界aと世界bの違いは明白だ。そして、世界bにおける少女が世界aにおいては死なずに済むことの原因も明白だ。
ふたつの世界の最大の違いはお兄ちゃんの態度。
つまり、『世界bにいた何者かがその結果を良しとせず、魔法使いの力を借りて未来を分岐させた』。
さらに言うなら、『その何者かはお兄ちゃんの態度を分岐させる手段を取った』。
では彼が作りたかった未来、避けたかった未来とは何か? 答えは単純だと言う気がする。
『彼はお兄ちゃんの態度を変えることで、わたしの死を回避しようとしたのではないか?』
……これは半分妄想のような想像だ。わたしは頭を振る。そして考え事をやめた。
ドアを見る。この向こうには、『彼』がいる。
あるいは、彼こそが……。
いや、そのことについて考えるのは、今はやめよう。
547 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/11/17(土) 09:50:53.61 ID:fLGXd50oo
「……?」
けれど、わたしの考えはまだ後ろ髪を引かれる。
わたしがここで『彼』にあったら、……"こちら"の世界はどうなるのだろう?
わたしは溜め息をつき、今度こそ本当に考えを打ち切った。
なんだか目の前の扉がひどく重そうに見える。不安な気持ちだった。わたしは本当にこの扉を開けていいんだろうか。
開けてはいけないような気がする。わたしはこの扉を開けるべきではないのだ、という気が。
でも、反対に、わたしはこの扉を開けなくてはいけないのだ、とも感じた。それはぼんやりとした感覚だったけれど……。
覚悟を決めて、扉をノックする。軽い音。ドアの向こうはしんと静まりかえっていた。しばらく、なんの音もしなかった。
けれど少し経つと、ドアがかすかな――それは本当にかすかな――軋みをあげ、開かれた。
わたしは彼の顔を見た。その瞬間、魔法使いが言っていたことが分かったような気がした。
この世界の彼の目は……お母さんに似ている。
お母さんに似ているのだ。
わたしはそのことに気付くと、なんだか笑い出したい気持ちになった。
なんだ、そういうことか、という納得があった。
「こんばんは」
とわたしは言った。
「こんばんは」
と彼も返した。
548 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/11/17(土) 09:51:46.19 ID:fLGXd50oo
◇
彼はわたしの姿を見ると、すぐに興味を失ったようにベッドに身を沈めた。
少しだけ戸惑う。まるでわたしが来ることをが分かっていたかのような態度。
でもそんなことはないはずだった。わたしは彼にとって突然の闖入者であるはずだ。
この世界にわたしは存在していない。この時間にわたしはいない。
彼がわたしのことを知っているはずはない。
だから彼はわたしを知らない。知らない人間が、なぜ突然の訪問に驚かないのだろう?
彼の態度はわたしを不安にさせる。
でも、それは態度だけのせいではない。
まるで"外側"から何かの感覚が流れ込んでくるようだった。
彼の言葉、態度、そのひとつひとつがわたしを不安にさせる。
それはちょうど、わたしがお兄ちゃんと過ごしている感覚とまったく逆のものだった。
流れ込んでくる感覚。
名状しがたい感情。
疑問。
「……」
わたしはその感覚を無視した。特殊な状況に陥って、何かが混乱しているだけなのだろう。
549 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/11/17(土) 09:52:13.69 ID:fLGXd50oo
「入ってもいい?」
なるべく落ち着いた声を意識して、わたしは言った。
許可を取るのも今更のようにも思えたし、もっと他に言わなくてはならないような気もした。
でもわたしは、彼を前にするとどうしてもそうならざるを得なかった。
なぜだろう?
彼の顔はお兄ちゃんにそっくりだ。でも、似ているようでやはり違う。同じなんかじゃない。
それなのに……。
なんだろう、この感覚は。いったいなんなんだろう。わたしを混乱させている何か。
彼はわたしの問いに答えを返さなかった。視線すらも寄越さなかった。
わたしは奇妙な感覚を振り払おうと一歩踏み出した。とたんに不自然な感覚に襲われる。
『叔父さんの部屋には、入っちゃダメ。……怒られるから』
『叔父さんは、怒ると、とても、怖いから』
内側から聞こえる、外側から流れ込む声。
わたしが覚える強い混乱。
550 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/11/17(土) 09:52:42.15 ID:fLGXd50oo
まるで、誰かの感覚がそのままわたしに流れ込んできているような錯覚。
いや、ひょっとしたら――それは錯覚ではないのかもしれない。
わたしは軽く呼吸を整えた。落ち着け、とわたしは思う。落ち着くんだよ。それが大事なんだよ。
「変な部屋」
とわたしは言った。
彼は疲れたように溜め息を漏らす。でもそれはわたしの言葉に対しての反応というより、もっと自然にわき出したものに思えた。
ようするにそれは彼にとって日常的なものなのだ。だが、わたしを前にして、彼はどうしてそんなふうに振る舞えるんだろう。
彼は死にたがっている。魔法使いはそう言っていた。
彼にはもう、ほとんどのことがどうでもいいのかもしれない。
551 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/11/17(土) 09:53:32.40 ID:fLGXd50oo
「嫌な感じかな?」
「少しね」
彼が笑うから、わたしも笑った。でも、わたしには自分たちがなぜ笑ったのかがさっぱり分からなかった。
「ねえ、ところで、お願いがあるんだ。いいかな?」
居心地の悪さに話を進める。わたしはこの部屋にいたくなかった。
お腹の奥の方に、ずしんという嫌な重みがあるような気がする。
ここにいるとわたしは、言いようもなく不安になるのだ。
「なんだろう?」
彼は平然と問い返す。
「わたしはこれからある場所に向かおうと思う。あなたについてきてほしいんだ」
「どうして?」
552 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/11/17(土) 09:54:41.33 ID:fLGXd50oo
その反応に、わたしは少しだけ苛立つ。いったい、なんなんだろう?
まるで馬耳東風といった雰囲気だ。彼はおそらくわたしに興味を抱いていない。
"わたしに興味を抱いていない"。なるほど、とわたしは自分の感覚に頷いた。それは致命的だ。
「都合がよさそうだったから」
苛立ち混じりに言うと、彼の眉がぴくりと動いた。動いたけれど、それだけだった。
「ひどいものを、見ることになるかもしれないけど」
その言葉はわたしなりの警戒でもあったし、また気遣いでもあった。
この人がこれからあの世界にいって、どんな気持ちになるのか、わたしは想像することしかできない。
「かまわないよ」
553 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/11/17(土) 09:55:07.41 ID:fLGXd50oo
どこまでも他人事のように彼は頷く。嫌な気持ちがどんどんと膨らんでいく。
これはいったいなんなんだろう。
「ところで、君は誰?」
「秘密」
わたしは一刻も早く話を終わらせたくて、彼に外出の準備を促して家を出た。
玄関先で待っていると、彼は何分か置いて服を着替えて出てきた。
彼を待っている間、わたしは自分がどこに向かえばいいのかについて考えた。
どこに行けば、彼を連れてあの世界に帰れるのだろう?
でもわたしはその答えをあらかじめ知っていた。魔法使いに聞いたわけでもなく。
誰かが知っていたことを、盗みだしたみたいに、その情報は頭の中にあった。
これはいったいなんなんだろう?
554 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[sage]:2012/11/17(土) 09:57:27.97 ID:fLGXd50oo
つづく
>>530
>>336
の初めに◇が一個抜けてますね……。
気付かないところでした。ありがとうございます。
555 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
(東京都)
[sage]:2012/11/17(土) 11:36:59.96 ID:UrtVTC1Fo
乙
なにやら答え合わせみたいな感じだね
556 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[sage]:2012/11/17(土) 21:48:00.93 ID:7lfNnvPxo
乙
姪ちゃんが救われるといいなぁ
557 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/11/21(水) 10:36:09.14 ID:mkJ4uCfeo
◇
わたしたちは近所の川沿いの堤防へと進んでいく。
霧雨に覆われた夜の空気はひんやりとしていて、それが少しだけわたしを不安にさせた。
夜の冷気が肌を刺す。この街の景色はわたしを妙に不安にさせた。
空には星と月がぼんやりと浮かんでいる。夜空に煌々と光る月の明るさ。
その光を、わたしはいつか、見たことがあったような気がした。
「こんな感じの道をさ。子供の頃、よく歩いたんだよ」
夜の底に沈み込んだわたしたちは、堤防を静かに進んでいく。
わたしの足取りに迷いはない。来たこともない街なのに、不思議と。
「二人で、一緒にね。散歩に行ってきなさい、ってよく言われたんだ」
わたしとお兄ちゃんはそうやって、母と祖母の喧嘩が始まるといつも追い出された。
祖母がわたしの面倒を見るのを面白がらなかった母は、いつだってお兄ちゃんにわたしを押し付けていた。
558 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/11/21(水) 10:36:39.76 ID:mkJ4uCfeo
「似てる。その道に。ね、そんな場所をそんなふうに歩いた記憶、ある?」
「ない」
彼のはっきりとした答えには、ちょっとした寂しさのようなものが含まれている気がした。
彼には何も分からないだろう。死んでしまった彼の姪の、異なる姿がわたしだと、自身では分からないのだから。
彼にとってわたしは、突然現れた見知らぬ女でしかない。
「そっか」
でも、彼の顔も、声も、わたしのよく知っている人に似ている。
なんだか自分が、ひどく悪趣味で罰当たりなことをしているような気分になった。
でも、当たって困る罰なんて、今のわたしにはもうない。
「それでね、堤防を抜けた先に、何かの事務所みたいなのがあるの」
わたしはその記憶のディティールを可能な限り忠実に頭の中で再現しようとしてみた。
それは困難な作業だったけれど、けっして苦痛ではない。不思議なほどよく思い出せる。
なぜだろう? あの頃からもう何年もの歳月が経っているのに、その記憶はまったく色あせない。
559 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/11/21(水) 10:37:06.33 ID:mkJ4uCfeo
「入口に自販機があって、そこでコーヒーとリンゴジュースを買うの。それを飲みながら、道を戻っていくのが散歩のコース」
頭の中の景色が実感を孕んでいく。
わたしはあの道を、たしかにお兄ちゃんと歩いたのだ。何度も何度も。それは本当なんだ。なんとなく、そんなふうに思う。
「一年中、ずっと。春は風が強かったりして大変だった。
河川敷の草むらは、夏になると背が高くなって、迷い込むと出られなくなったりするんだよ。一度そうなって、怖かった。
秋になると夕方でも真っ暗だった。虫の声がうるさかったな。早めの時間に歩くとね、夕焼けとススキが綺麗だった。
冬の寒いときなんかは、もうちょっとだけ歩いてコンビニまでいって、肉まんを食べながら帰ったの。寒い寒いって言いながら」
一定の距離を開けてわたしを追いかけてくる彼が、少し呼吸を止めたような気がした。
「……誰と?」
「……」
560 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/11/21(水) 10:37:42.89 ID:mkJ4uCfeo
わたしは歩みを止める。このあたりでいいだろう。自分が何を求めているかも分からないくせに、たしかにここでいいのだと思った。
「こっち」
わたしは一度だけ振り向いてそう言う。あっけにとられたように固まる彼を背に、夏草の中に身をもぐらせた。
霧の雫をためこんだ夏草を掻き分けて進む。川辺には虫の気配がした。
うしろから彼がついてくる。わたしはそれがなんとなく恐かった。
月がこちらを見下ろしている。夏の夜なのだ。
やがて草むらを抜ける。当然だけれど、川があった。
このあたりは水深が浅く、水底の砂利がよく見えた。水が澄んでいて綺麗。小魚が泳いでいるのが見えるくらいだ。
わたしは靴を履いたまま、川の中へと進んでいく。
「こっち」
前を向いたまま、彼を促す。
561 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/11/21(水) 10:38:24.27 ID:mkJ4uCfeo
「こっちだよ」
彼は少しだけ躊躇していたけれど、やがてたいした決意もなさそうにあっさりと足を踏み出した。
まるで、「まあいいか」とでも言いたげな表情。
べつにどうなったっていいんだ、とでも言いたげな。その表情はわたしを少しだけ苛立たせる。
「ごめんね」
とわたしは言った。彼がどんな人間であるにせよ、立場的には無関係である人間を身勝手に巻き込もうとしているのは変わらない。
わたしは、自分のために、他人を巻き込もうとしている。
「あなたがどう感じるか、わたしには分からない。ひょっとしたらすごく傷つくかもしれないし、怒るかもしれない」
水面に波紋が広がる。澄んだ水に浮かんだ月が形を歪めた。
わたしは少しだけ溜め息をつく。巻き込もうとしている。でも、なんだろう。この気持ちには、それ以上の何かがあった。
わたしは彼に何かを求めている気がする。
その感覚に気付かないふりをする。それはおそらく「外側」のものだ。
「でもそれは、どうしても必要なの。そうしないと、我慢ならないの。わたしはだめだったから、せめて」
そうだ。
せめて、可能性くらいは残さなくては。
562 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/11/21(水) 10:39:00.44 ID:mkJ4uCfeo
「これ、何が起こってるの?」
彼の目に、その光景は異様に映っただろう。波紋はやがて激しく波立ち蠢き出す。
わたしたちの足元をすくおうというように、意思を持って襲い掛かる。
溺れたこどもを水底に連れ去ろうというように。
わたしは笑った。
「身勝手だって分かってる。でも、納得できない。だから、最初に謝っておく。ごめんね」
水流がわたしの足をさらう。でもその前に、彼が流れに呑まれて倒れた。
彼は何かを叫んだ。わたしにはなんだかその姿がおかしく見える。
わたしは空を見上げた。月が浮かんでいる。わたしはいつか、あの光を見たことがあるのだ。
「ごめんね」
とわたしは言った。でも、自分でも誰に謝っているのか分からない。
青白く照らされた景色の中に、わたしはぼんやりとひとりで立ち尽くしている。なんだかひどく眠い。
柔らかに、足元から、川の中へと吸い込まれていく。
静かに飲み込まれていく。
わたしはその意味を知っていた。たぶん、重なっているのだ。誰かの感覚が流れ込んできている。
だからだろうか。
とても悲しいのだ。
563 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/11/21(水) 10:39:26.77 ID:mkJ4uCfeo
◇
奔流のような感覚に酩酊したのか、頭痛で目が覚める。
ふと目を覚ますとわたしは川辺にいた。一瞬、さっきと同じ場所かと思ったら、どうやら違う。
わたしが知っている街の川辺。
起き上がる。身体に土がついていた。服を払いながら空を見上げる。
辺りは暗い。まだ夜なのだ。わたしは落ち着こうとしたが、あまりうまくいかなかった。
魔法使いのいる控室を経由せずに、こちらに戻ってくるとは思っても見なかった。
けれどおそらく、ここは世界bの見知らぬ街ではなく、世界aの過去の街なのだろう。
それ以外に思いつかない。
でも、だとすると……『彼』はどこに行ったのだろう?
辺りには『彼』の姿は見えなかった。
わたしはなんとなく不安に思う。何が起こっているんだろう?
564 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/11/21(水) 10:40:12.25 ID:mkJ4uCfeo
わたしは戻ってこれたのだろうか? だとすれば『いつ』に?
でも、答えはどこからもない。わたしはポケットからスマホを取り出す。濡れたはずだけど、平気そうだ。
わたしは発信履歴から魔法使いの番号を呼び出す。
……だが、出ない。
なぜだろう?
何かが起こったのかも知れない。彼女にとってすら予定外だった何かが(そんなことがあるのだろうか?)。
ま、繋がらないものはしょうがない。
わたしはとりあえず例のショールームに向かうことにした。
ふと不安になってもう一度ポケットからスマホを取りだす。
日付は零時をまわって八月三日。……こちらに来てから、もうそんなになるのか。
夜のショールームには異様な雰囲気があった。わたしはふたたび忍び込んだけれど、あのドアは見つけられない。
少し待ってみたがやはり何の変化もない。わたしは溜め息をついた。
565 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/11/21(水) 10:40:49.31 ID:mkJ4uCfeo
なにひとつ思い通りにいかない、とわたしは思った。
でも、今まで何かがわたしの思い通りに進んだことなんて一度もなかったわけだし、それが重なったからといっていまさら文句を言うこともない。
とはいえ、それに文句をつけるために、今わたしは行動しているわけなんだけど。
「さて、と」
わたしはなんだか心細くなりはじめた。誰かに会いたいなぁと思った。そういえばわたしはずっとひとりぼっちなのだ。
でも死んじゃったんだし仕方ないじゃないか。この世界にはわたしを知っている人なんていない。
魔法使いだって、わたしがこの世界に連れてこようとした『彼』だって、わたしの知り合いってわけじゃない。
はっきりいってわたしはこの世界で部外者だ。無関係の人間だ。
心細いなんてことは言ってられない。
言ってられない、のだけれど……。
ふと、ポケットから振動が伝わる。
スマホ。画面には変な女の文字。
566 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/11/21(水) 10:41:15.42 ID:mkJ4uCfeo
「はい、もしもし」
即座に反応。
「……あ、えっと。うん。何かあった?」
わたしの声に戸惑ったように、魔法使いはヒキ気味で反応を寄越した。
「え、ないけど」
「あ、そう。なんか反応早かったから」
「……うん。あ、いや。あった。例の人、連れてきたつもりだったんだけど、いないんだよ。どういうこと?」
「ああ、それ。そのことで電話したんだよ」
そこで言葉を選ぶような間があった。
567 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/11/21(水) 10:41:42.30 ID:mkJ4uCfeo
「……えっと。大丈夫、だと思う。ちょっとズレただけだから」
「……ズレ?」
「――うん」
……いや、なんなんだ、この、万能のようでいて欠陥だらけの魔法使いは。
おかげでこっちもいろいろ混乱させられる。……ズレ? ってなに?
「うん。ええと、そうだな。そのうち来る」
「……なにそれ」
「仕方ないんだよ、こっちにもいろいろ事情があるの。これでも結構無理してるんだよ」
わたしはむっとしたけれど、電話口で口論する気にはなれなかった。
それに、わたしには彼女の助力が不可欠なのだ。あまり機嫌を損なうこともない。
でも、なんだかとても不安になった。
568 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/11/21(水) 10:42:10.84 ID:mkJ4uCfeo
「ねえ、正直に言っていい?」
「なに?」
「すごく不安」
「……」
魔法使いは溜め息をついた。
「わたしはここに来て、何かをできているの? というか、わたしはちゃんとここにいるの?」
「……だいぶ切羽詰まってるみたいだね、わけわかんないこと言ってる」
「ひょっとしてあれなのかな、これも実は走馬灯とかそういうあれで、もしくはわたしの夢とかそういう……」
「……うーん。否定しづらいことを言うよね、あなた」
「やっぱり妄想――」
569 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/11/21(水) 10:42:41.05 ID:mkJ4uCfeo
「なんだってそんなに思いつめてるのさ」
「だってわたし、ここに来てからまだ何もしてないんだよ。何もできてない」
「……ま、不安がるのは分かるけどね。期限もあるわけだし」
「――――」
わたしの呼吸は少し止まった。
「今なんていった?」
「え? ……不安がるのは分かるって」
「そういうベタなやりとりいいです。そのあと」
「……期限もあるわけだし?」
570 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/11/21(水) 10:43:36.13 ID:mkJ4uCfeo
「そう。それ。何それ。期限ってなに?」
「言ってなかったっけ?」
「聞いてない!」
「……ごめん。言い忘れてた。有効期限みたいなものもあってさ。えっと、一ヵ月くらい?」
情報の伝達ミスにくわえて情報それ自体が大雑把ってどういうことだ。
いや、たしかに期限がなかったら……いつまで経っても終わらなくなりそうだし。
思いつかなかったわたしがバカなんだろうか。
「何か他に伝え忘れてることってない?」
「それを思い出せたら、忘れてるって言わないよね」
「開き直らないで! 期限を過ぎたらどうなるの?」
「……えっと」
「うん」
「強制成仏、とか?」
……死んでも死にきれない。
571 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/11/21(水) 10:44:01.95 ID:mkJ4uCfeo
一ヵ月となると、もう期限の四分の一くらいは使ってしまっていることになるのだろうか?
……本当に、洒落にならない。
「ごめん。ま、でも、不安になるのは分かるよ。説明不足だったしね」
説明不足とかそういう次元じゃないと思うんだけど。わたしはもっと彼女の責任を追及しても良い気がする。
「……"前の人"も、似たような状況だったの?」
わたしは咄嗟にそう訊ねていた。『前回』魔法使いの魔法を使い、「一人で来て一人で帰った人」。
その人は、いったいどのようにして未来を変えたんだろう?
「うん。まぁ、彼の場合とあなたの場合は大きく違いがあるんだけど……」
男だったんだ。今まで気にしていなかった。
「彼の場合は、一日でスパッと。んで、実際に未来を変えちゃった」
「……」
冗談でしょう。
572 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/11/21(水) 10:44:31.77 ID:mkJ4uCfeo
「それは、えっと、事前にわたしのときより丁寧に説明した、とか?」
「まあ、覚悟の問題かもね」
「覚悟?」
「彼の場合は、未来を変えるなんてファンタジー、最初から信じてなかったから」
どきり、とした。
それは「誰か」の話に、ではない。
魔法使いが「未来を変える」ことを「ファンタジー」と呼んだことに対してだ。
要するに彼女にとってもそれはファンタジーなのだ。
わたしは死んでいる。死んだのだ。自分の意思で。
その結果ここにいる。でも未来なんて変えられない。
一ヵ月。わたしに許された時間はこの一ヵ月のあいだに、可能性を作ることだけ。
それ以外には何もない。一ヵ月が過ぎれば、わたしはどちらにせよ消え去る。
573 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/11/21(水) 10:45:09.91 ID:mkJ4uCfeo
たぶん。魔法使いが言った「成仏」なんてふざけた言葉の意味がそうであるなら。
何よりもわたしを動揺させたのは、わたし自身がその事実に傷ついているということだ。
わたしはまだ期待していたのだ。
魔法使いの言葉の節々に見え隠れする、甘い期待を抱かせるようなニュアンス。
その響きに「もしかしたら」と期待していたのだ。わたしは。
覚悟という言葉を使うなら、わたしにはそれがなかった。
「……いや、待って。彼の場合は、それを受け入れる準備をしていたってだけでさ」
「うん」
取り繕うような魔法使いの言葉に、わたしは頷きを返す。
「分かってる。ファンタジーだって。わたしはここに来て、やらなきゃいけないことがあるんだから」
574 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/11/21(水) 10:45:37.62 ID:mkJ4uCfeo
でも……。
身勝手だろうか?
悲しいと思うのは。
だってわたしは死んだのだ。自分から。
わたしは死にたかったんじゃない。でも、それを言ったっていまさらだ。
「……なんかもう、やだ」
「え、なにが?」
「生きるって、めんどくさいね」
「いや、あなた死んでるから」
……分かってるけど。
575 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/11/21(水) 10:46:21.53 ID:mkJ4uCfeo
「落ち込んでるところ悪いけど、ちょっと悪い知らせがある」
「……なに?」
「なにか変なことが起こってるみたい」
魔法使いは言った。
「変なこと?」
「具体的には言えない。こっちの都合もあるし、どうなるか分からないから、これから連絡とれなくなるかも」
わたしはその言葉に急に不安になる。そうしたらわたしは、誰のことも頼らずに「未来」を変えなければならない。
はっきりいって、もうその自信はなくなっていた。
576 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/11/21(水) 10:47:00.71 ID:mkJ4uCfeo
「……寂しい、んだけど」
わたしは掠れた声で言ったけれど、魔法使いは呆れたように溜め息をつくだけだった。
「我慢しなよ」
もしくは、と彼女は言う。
「もうひとり巻き込む、とかね」
「……?」
「ともだち。連れて来れば?」
……ともだち。
「ていうか、連れてきなよ。あなた、たぶん、ひとりだと何もできなくなっちゃうタイプだね」
数日前に出会ったばかりの人間に見透かされてしまうほどの底の浅さ。
わたしは自分に呆れたけれど、呆れよりも寂しさの方が少しだけ強かった。
でも、ともだちなんて。
わたしにはひとりしか心当たりがないのだった。
しかも、わたしは彼を友達だと思っていたけど、彼がわたしをそう思っているかは怪しい。
いわば片思い的な。
577 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/11/21(水) 10:47:51.86 ID:mkJ4uCfeo
「……できるの?」
とわたしは聞いた。連れてくるってことは、それはつまり、この世界の未来。世界aの、わたしがいた時間に戻ると言うことではないのか?
それができてしまっていいのだろうか?
「割と融通はきくよ。どっちにしたってあなたは一ヵ月で消えちゃうわけだから」
魔法使いは言った。
「どうする?」
「……お願い」
とにかく今は、わたしのことを知っている誰かに会いたい。
それが彼ならば、言うことはない。
でも、それができるなら……。
578 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/11/21(水) 10:48:29.06 ID:mkJ4uCfeo
「お兄ちゃんともう一度会うことは、できない、の?」
恐る恐る訊ねた声に、魔法使いはさらりと答える。
「できなくはない」
その答えは、わたしには少し予想外だった。
「できるの?」
「できるね。会って、話もできる」
けど、と魔法使いは言う。わたしは彼女の発言の含みに気付いた。
もしも、とわたしは思う。もしもそれが可能なら、こんなにややこしい手段を取る必要はないのだ。
お兄ちゃんのところに化けて出て、お兄ちゃんは死なないで、と言えばそれでいい。
でも――そうしてでもなお、お兄ちゃんが死んでしまうとしたら?
わたしはひょっとしたら誤解していたのかもしれない。
579 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/11/21(水) 10:48:58.69 ID:mkJ4uCfeo
お兄ちゃんが死ぬのは、わたしの死が原因ではないのかもしれない。
それは起点にはなるかもしれない。でも、そのあとでお兄ちゃんにわたしが何を言おうと無駄なのだ。
ようするにわたしは、お兄ちゃんの中に隠れた暗闇を呼び出すスイッチを押してしまっただけなのではないか。
もっと根本的なものがお兄ちゃんを悩ませていて、それを解決するためには、時間を遡らざるを得なかったのではないか?
でも、ならば、お兄ちゃんは、なぜ死ぬのだろう?
わたしの死が原因ではないのなら。
わたしが死ななかったところで、お兄ちゃんの死は避けられないのではないか?
……魔法使いは、わたしとお兄ちゃんをどうしたいんだろう?
わたしが死んだ理由ははっきりしている。
でも、お兄ちゃんが死ぬ理由は……分からない。
580 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/11/21(水) 10:49:25.57 ID:mkJ4uCfeo
いったい何がお兄ちゃんを苦しめているんだろう?
それはわたしにはどうしようもないものなんだろうか?
――いつだったか、こんな気持ちになったことがある気がする。
「……行く」
とわたしは言った。
「うん。でもね、残念ながら、どちらかにしか会えないよ」
「……なぜ?」
「別に原理的に不可能って意味じゃない。わたしが選ばせたいだけ」
「なに、それ」
「いいから。どっちにする?」
わたしは……。
581 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/11/21(水) 10:49:58.63 ID:mkJ4uCfeo
結局わたしは、お兄ちゃんに会うことを選ばなかった。なぜだろう?
本当に、なぜなのだろう? どちらにしたってわたしは死んでしまう。
わたしはなぜ、お兄ちゃんに会いに行けないのだろう?
会って訊ねることができないのだろう? なぜ死んでしまうのかと。もちろんそんな問いを直接ぶつけたって仕方ないのだけれど。
「そう」
魔法使いの落胆したような声が、わたしの耳にこびりついて離れなかった。
わたしはどこかで間違えたのだろうか?
けれど、とわたしは思う。わたしが会いにいったところで、お兄ちゃんの死は回避できないのかもしれないのだ。
それならばもっと抜本的な解決を目指した方がいい。具体的に言うなら、この世界に干渉することで。
でも……それはなんだか、言い訳じみているようにも思えた。
区別が難しい。でも、あまり深くは考えないことにした。
582 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/11/21(水) 10:50:24.80 ID:mkJ4uCfeo
つづく
今年中に終わるといいんですが
583 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
(千葉県)
[sage]:2012/11/21(水) 13:14:46.04 ID:j2PAkYhRo
乙
再来年まで続いたって構わないよ
584 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[sage]:2012/11/21(水) 17:30:37.58 ID:qFfnA4vso
乙
もっとみんなちゃんと話し合うべき
585 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/11/24(土) 14:41:00.18 ID:sIBdVn+so
◇
「それじゃあ、また目を閉じて」
魔法使いの声は電話越し。でもその響きは、前回と変わらない。わたしはそれに従う。
本当にこれでよかったのか。そういう漠然とした気持ちがあった。
「開けて」
あっという間に景色は入れ替わった……ように見えた。でも、実際には変わらない。
例のショールーム。
呆然としていると、魔法使いはいつのまにか電話を切っていた。
わたしは不安を感じつつも、とりあえずショールームを出た。
とりあえず例のコンビニの近辺に向かう。看板はリトルスターからファミマになってる。
今度はTポイントカードが使えるな、とどうでもいいことを思う。
さて、と思う。時間はあまりない。こちらでうろちょろしている余裕もない。
辺りは真っ暗で、だからまだ深夜なのだろう。車の気配すらまばらだ。
と、わたしは思う。
そういえば、彼の家をわたしは知らない。
どうしたものだろう?
586 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/11/24(土) 14:41:27.00 ID:sIBdVn+so
高校の近くまでいけば何かの手がかりになるか? ……いや、地元の生徒とも限らない。
わたしは大いに悩んだ。携帯のアドレスは知らない。というより、わたしが持ち歩かない主義だったから。
……こうなると、結局心細さはあまり変わらない。
わたしはスマホを開いて、魔法使いに電話を掛けようとして、やめた。
彼女は彼女で忙しそうにしている。そんなのこっちが気にする理由もないんだけど、何か不都合が起こっても困る。
何の気もなしに電話帳に登録されている人名を見る。ひょっとしたら彼の名前が載っていないかなと思ったが、ない。
当たり前と言えば当たり前だ。
「……とすると、本当に手がかりなし?」
わたしはなんとなく不安になる。
……少なくとも、ここらへんの人間ではないと思う。中学は違った、はず、だし。
だとすると、本当に範囲が広がりすぎて、手の打ちようがない。
「……どうしよう」
587 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/11/24(土) 14:41:54.41 ID:sIBdVn+so
と声に出したところで状況は開かれず。
不意に彼との会話を思い出す。なんでもない会話の流れで、彼の住んでいる場所について聞いたことがある気がする。
彼は独り暮らしをしていたのだ。
「……ひとりぐらし」
年相応に、憧れがないではなかったけど、わたしは祖父母と同居していた。
アパートを借りて一人暮らし、なんてこともそのうちやってみたかったんだけど。
わたしは一人暮らしをしたことがない。これは"本当"だ。
大雑把な場所のあたりはついたけれど、移動するには遠い。
さて、どうするか、と思って、とりあえずコンビニに入った。
考え事をするついでに飲み物を買っていると、店の中に誰かが入ってきた。
「あれ?」
とわたしは言う。
彼は怪訝そうな顔をした。
まぁ、よく考えれば、いかに大雑把な魔法使いといえども、会えるように取り計らうくらいはしてくれていても不思議はないのだった。
「や。ひさしぶり」
声を掛けると、彼は猫の尻尾でも踏んだみたいな顔で唸った。
588 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/11/24(土) 14:42:32.28 ID:sIBdVn+so
◇
わたしは彼のことをケイくんと呼んでいた。だからここでもケイくんと呼ぶだけでその本名は打ち明けない。
これは世間を憚る遠慮というよりは、その方がわたしにとって自然だからである。
まぁただのあだ名なんだけど。
彼とわたしの出会いは学校の保健室だった。
わたしがひどい頭痛と腹痛に悩まされて保健室に行くと、彼はそこで優雅に本を読んでいた。
養護教諭の姿はそこになく、保健室にいたのは彼だけだった。
わたしは心の底からうんざりした。どうして人がいるんだろう? なぜひとりにしてくれないんだろう?
ちょうどそのころのわたしにとって学校なんていう場所はどうでもいいものだった。
だからある意味では、そういう時期に彼との出会いはわたしの自殺を少し遅らせたとも考えられる。
一時的な麻酔のような存在。でもそれは一時的でもいいのだ。定期的に投与できるなら。
あるいは中毒になることもあるかもしれない。だが鋭敏すぎる感覚を麻痺させる必要もあるのだ。ときどき。
ある種の人間を救えるかもしれないのは愛と思考と友情と文化、あるいはそれらしく見えるものだけだ。
それにはいろんな姿があるしいろんな言い方がある。
……自分でも何を言っているのかよくわからない。
589 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/11/24(土) 14:42:59.20 ID:sIBdVn+so
ケイくんは保健室の引き戸を開けた音でこちらに気付いたけれど、ちらりと一瞥した以上には何の反応も見せなかった。
ファーストインパクトは最悪と言っていいと思う。彼のじとりとした視線は「よくも読書の邪魔をしてくれたな」と憤っているようにも見えた。
でも反対に、ひょっとしたら彼はいつでもどこでも誰に対してもこんな態度なのかもしれないとも思える。
彼は自分のそういう態度を好んでいた、というより、そういう態度を自分に強いていたように見えた。
わたしは彼の様子をじっと見つめた。初対面でなんて図々しい奴だということもできる。
でもなんだか、彼の表情には他の人にはない誠実さのかけらの余韻のようなものが見え隠れしていた。
今だったらそりゃ気のせいだよと自分に言ってやることもできるんだけど。
保健室の入口で呆然と立ち尽くすわたしに、彼は退屈そうに声を掛けた。
「体調が悪いんじゃないの?」
「……え?」
「具合が悪いなら入って休んでいるといい。先生もたぶんすぐに来るから」
「……あ、はい」
と間抜けな返事をする。わたしは取り繕うみたいに笑った。
「ありがとう」
590 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/11/24(土) 14:43:49.57 ID:sIBdVn+so
でも彼はわたしの表情を見ようともしなかった。じくじくとした痛みがお腹のあたりに宿った。
胃腸のあたりから血が出ているんじゃないか? 体勢を変えようとすると引きちぎられそうな痛みがある。
わたしはふと、子供の頃スイカの種を飲み込んだときのことを思い出した。
お腹の中でスイカの種が根付いて、やがて育った果実がわたしの身体を内側から破裂させる想像。
視界がぐらついて、わたしは仕方なく椅子に座った。
彼はわたしのことをほとんど気に掛けずに本に集中している。わたしは呼吸を整えてから訊ねてみた。
「何を読んでるの?」
「百年の孤独」
「……?」
「うそ」
「…………」
なんだ、こいつは、とわたしは思う。
第一なんで百年の孤独なんだ、と思って本の装丁を見てみると本当に「百年の孤独」だった。嘘じゃない。
付き合いにくそうな人だなぁとわたしは思った。
591 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/11/24(土) 14:44:27.16 ID:sIBdVn+so
彼が本を読む姿をぼんやり眺めていると、やがて養護教諭が慌てた様子で保健室に駆け込んできた。
「あれ、ごめんね。ちょっと探し物しててさ。どうした? 具合悪いの?」
「……あ、はい」
なんだかエネルギッシュな女性だった。おそらく三十前後。
白衣を着て髪をくくっている。なんだか若々しい。少し赤みがかった細い髪の毛。
「そっか。おい、そこのサボり魔」
と彼女はベッドで本を読む彼に向けて眉を逆立てた。あ、やっぱりサボりだったんだとわたしは思う。
「あんたは体調が悪い女の子を前に黙って本読んでたのか」
「何もしなかったわけじゃない」
「何をしたの?」
「保健室に入るのをためらってたようだったから、とりあえず中に入って座るように勧めた」
「ほう」
「なぜためらっていたのかは僕の知るところじゃない」
……まあ、彼がいたせいなんだけど、それを口に出すのも面倒だった。
「というか、僕は保健委員じゃない。薬の在処も知らないし、どうした処置が適切なのかも分からない。何かしろという方が無茶だし無責任だろ?」
「正論だ」
……なんなんだろう、このやり取りは。
592 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/11/24(土) 14:45:20.31 ID:sIBdVn+so
「いいから早くその子をどうにかしてやってよ」
うんざりしたように彼は言った。
「さっきからずっとしんどそうだ。見てて落ち着かない」
彼はそこまで言ったあと、「そしてさっさとここから追い出しちまえよ」とでも言いたげに顔をしかめた。たぶんそう見えただけだろう。
「サボり魔にしては珍しく建設的な意見だ」
そこで養護教諭はわたしの体調について詳しいことを訊ねはじめた。
とりあえず薬を飲んでベッドで休んでいたら、と彼女は言う。
それでも体調がよくならなかったら早退して休みなさい。わたしは二つ目のベッドにもぐりこんだ。
ひんやりとしたシーツの感触がよそよそしい。
保健室の中はゆったりとした空気に変わった。他人事。春先の空気は冷たくて寒いくらいだった。
石油ストーブが音を立てている。
ここは居心地のいい空間だなぁとわたしは思った。その日からわたしは頻繁に保健室に通うようになった。
それはつまりケイくんと会う機会が増えたということだった。
593 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/11/24(土) 14:46:20.59 ID:sIBdVn+so
◇
「人が笑う顔が苦手なんだよ」
とケイくんは言った。六月、学校の屋上だった。
何度も会って話しているうちに、最初は結果的な付き合いだった関係は目的的な関係になった。
保健室はふたりで居座るにはあまりに実務的な場所だ。
だからわたしたちはふたりで同時に授業をサボろうという段になると、他の場所を探さざるを得なかった。
「なんていうんだろうな。気味が悪くないか?」
わたしは彼の言葉にそれこそ笑い出しそうになったけど、やめておいた。
「どうして?」
「どうしてだろう。昔からずっとそう思ってる」
ケイくんは言葉をえらぶような沈黙のあと、こう言った。
「笑顔ってものには、下卑た阿りがあるような気がするんだよ。ひねくれすぎてるのかもしれないけど……」
「ふうん。バカみたい」
「……ま、そうかもしれないけど」
彼はわたしに自分の考えを理解させようとはしなかったし、わたしも無理に彼に同意しようとはしなかった。
でも実際、わたしは彼が――皮肉や嘲りを含んだものを除いて――笑ったことを見たことがなかった。
これは"本当"だ。そしてそれを不愉快に思ったことはない。
594 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/11/24(土) 14:46:47.15 ID:sIBdVn+so
◇
だから、わたしが目の前に現れても、彼は顔をしかめこそすれ笑うことはない。
彼にとってのある種の誠実さなのだろうけれど、だからといってそれが良い方に作用しているとも言えない。
「こんなところで何してるの?」
と彼は言った。
「うーんと、散歩?」
わたしは適当に答えた。久々に話ができると思うとなかなかに気分が良かった。
麻酔を切れたので、わたしは死んでしまった。
「ちょっと事情があって、手伝ってほしいことがあるんだけど」
いいかな、と訊いてみると、彼は目を細めた。
「いやだ」
「……えー」
別に予想外でもなかったけど、わたしは落胆して見せた。
595 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/11/24(土) 14:47:49.09 ID:sIBdVn+so
「何か面倒そうな感じがする」
彼の勘はなかなかに鋭い。
「とりあえず、家まで連れてってくれない?」
「……嫌だ」
「なぜ」
「なし崩し的に手伝わされそうな予感がする」
本当に鋭い。
「悪いんだけど」
とわたしは言った。
「遠慮できるほど余裕がないの」
彼は溜め息をついた。
596 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/11/24(土) 14:48:40.92 ID:sIBdVn+so
◇
ケイくんは部屋にわたしを招くと白くて丸い小さなテーブルの上でコーヒーを入れてわたしに差し出してくれた。
ベッドの上にはニッパーとギターが転がっている。本棚にはギター関係の雑誌と教本とバンドスコアが入っていた。
机の上には少し前の型のノートパソコンが置かれている。
わたしは彼がギターを弾くということをそのとき初めて知った。
「それで?」
と彼は言った。
「手伝ってほしいことってなに?」
「うん」
と頷いてコーヒーに口をつける。そうしてから、自分は彼に何をしてもらうために来たのかがいまいち分からなくなってしまった。
どうなのだろう?
「……えっと」
そもそもわたしは何をしたかったんだっけ?
……いや、それを忘れるのはさすがにまずいだろう。
597 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/11/24(土) 14:49:25.24 ID:sIBdVn+so
わたしは少しだけ不安になった。わたしは自分で思っているよりもずっと死に近付いているのかもしれない。
連続性と妥当性の喪失。
「……うん、とにかく、ついてきてほしい」
ケイくんは呆れた顔で何かを考え込んでいるようだった。
でも他にいいようがない。
ここにきてわたしの不安は拡大する。
いつのまにかわたしがわたし自身を見失おうとしている。
このままではどこか暗くて深い場所にひとりぼっちで吸い込まれてしまいそうな気がした。
足元がぐらついてぬかるみのように足を取る。わたしはどこか深い場所にのみこまれている。
この不安はいったいなんなんだろう。
時間がないのだ。
「……とにかく、一緒に来てほしい」
598 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/11/24(土) 14:49:54.33 ID:sIBdVn+so
「分からないな」
と彼は言った。
「何を手伝うのかも説明できない。でもついてきてほしい」
そこで彼は一拍おいてコーヒーに口をつける。それから部屋のベッドのうえのギターを見た。
「自分でおかしなことを言ってるって分かってるよな?」
わたしは沈黙する。何も言い返せることはなかった。
自分が彼を必要としていることははっきりとわかった。でもそれがどのような形でなのかは分からない。
言いよどむわたしに、彼はまた溜め息をつく。そして不似合なほど親切な声で言った。
「別に手伝うのがいやだってわけじゃない。ただ説明してほしいだけなんだ」
わたしは頭の中で考えを整理して、それから慎重に言葉に出してみた。
599 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/11/24(土) 14:50:28.11 ID:sIBdVn+so
「このままだと死んでしまうの」
「誰が?」
「……わたしの叔父さん」
「病気か何か?」
彼は訊ね返してから、思い直すように首を振った。
「悪いけど、そういうことなら手伝えることは何もない」
「そうじゃないの。そうじゃなくて……」
わたしは上手く説明しようとしたけれど、口が思うように動かなかったし、考えも思うようにまとまらなかった。
わたしはいったい彼に何を説明しようとしているんだろう。
今日は八月三日。この世界のわたしは既に死んでいる。今のわたしは幽霊みたいなものだ。
「大きな流れみたいなものがあって、わたしはそこに飛び込んだの。その結果、何かを変えられるかもしれない」
彼は怪訝そうに眉を寄せる。わたしは緊張した。
「抽象的だな。よく分からない」
わたしが必死に言いつのったところで、伝わるのは言葉のうえの意味だけだ。
「その、何かを変える作業を、僕に手伝えってこと?」
「……そういうことになる、かも」
「僕は必要なの?」
とケイくんは大真面目な顔で言った。わたしは口籠ってしまう。
その一瞬の隙を彼は見逃さなかった。
600 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/11/24(土) 14:50:54.10 ID:sIBdVn+so
「必要ってわけじゃないんだろ? だったらなぜ巻き込もうとするんだ?」
寂しいから。
なんて言えない。
どうなんだろう。いまだって段々と自分の考えが分からなくなっていく。
蛍光灯の薄明かりに照らされた部屋の中は夏だというのになんだか寒々しい。
カーテンが開けっ放しになっていて、窓の外が真っ暗に見える。
「わたしには……やらなきゃいけないことがあるの」
「やらなきゃいけないことなんてないよ。やりたいこととやれないことがあるだけだ」
と彼は言った。
「でも、このままじゃダメなんだよ。このままだと、死んでしまうの」
「じゃ、そのあとは、どうするんだ?」
「……どういう意味?」
「だから、死んでしまうんだろ? それで、その人を死なせたくないから、どうにかしようと言っているわけだ」
そうだろ、とケイくんは言う。わたしは頷く。そう、そういう話だった。
「でも、仮にそれをどうにかできるとして、どうするんだ?」
「なにが」
とわたしは少し動揺しながら訊きかえした。彼の言葉の続きをあらかじめ知っているみたいに思えた。
「だから、お前はその人が死にそうになるたびに、流れとやらに飛び込んで何かを変え続けるつもりなのかってことだよ」
「……それは、だって、死んでほしくないから」
「そりゃそうだ。でも人はいずれ死ぬ。いつ死んだって悲しいものは悲しい。それを変えようだなんて変だよ」
「変?」
「いびつだ」
わたしは何も言えずに押し黙る。
601 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/11/24(土) 14:51:20.82 ID:sIBdVn+so
「第一、その人はどうして死ぬんだ?」
「……それは、わたしが死ぬから」
彼はそこで一瞬だけ表情をこわばらせた。
でもわたしは、そうじゃないかもしれない、と思っていたのだった。
「未来が見えるとか、そういう話?」
彼は胡散臭そうに言った。わたしは白状することにした。
「そう。そういう話。わたしには未来が分かってるの。このままだと彼は死んでしまうの。わたしはそれをなんとしてでも避けたい」
「じゃあ死ななきゃいいだろ」
うんざりしたようなケイくんの言葉に、わたしはその通りだと思う。でももう死んでしまっているのだ。
……だから過去まで行かなきゃいけない。でも、そうしたところで、この世界の未来は変わらない。
だったらわたしがしていることってなんなんだろう?
「そういうわけにもいかないみたいだな」
彼はここで初めて表情に怒りを滲ませた。
「どうして死ぬんだ?」
「……どっちが?」
「お前だよ。病気か、事故か」
「……」
わたしは何の反応も返さなかった。彼はそれを予感していたふうですらあった。
602 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/11/24(土) 14:51:51.43 ID:sIBdVn+so
「いったい何が起こるって言うんだ?」
「それは……言いたくない」
「叔父の死が避けたいのは分かった。でも、自分の死を避けようとは思わないのか?」
それはあまりに、都合がよすぎる。
「叔父の死の原因が自分の死なんだって言ったな」
ケイくんの言葉には咎めるみたいな響きがあった。
「要するにお前は、自分が死にたくないわけじゃないんだな。後ろめたさを感じずに死にたいだけなんだろ」
どう言い返せばいいか分からなかった。
「お前は諦めてるんだろ。そして逃げるつもりなんだ」
言い返すかわりに、立ち上がってベッドの上に置きっぱなしだったギターを抱えた。
ニッパーを掴んで弦にあてる。
「うだうだ言ってないで手伝って! こいつがどうなってもいいのか!」
自分でもバカみたいだと思いつつ、脅しにかかる。正直口だと彼にはかなわない。
「いいよ。どうせ弦交換するつもりだったし」
彼の反応は至って冷静だった。わたしは泣きたくなる。
わたしだって本当は、自分がしていることに何の意味があるのか分かっちゃいないのだ。
自分がやっていることはたぶん不毛で、無意味なんだ。何かのイニシエーションみたいなもの。
それも身勝手で、たしかにいびつなのだ。でもせずにはいられない。
603 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/11/24(土) 14:52:38.05 ID:sIBdVn+so
「それと、弦はゆるめないと切りにくいし、跳ねるよ」
わたしはニッパーを構えて力いっぱい弦を切ろうとする。でも力を籠めてもなかなかきれなかった。
お兄ちゃんがしているのを、子供の頃何度か見たことがある。わたしは年をとったけれど、できないことがたくさんある。
だからお兄ちゃんなしじゃ生きていけなかった。お兄ちゃんがいなくちゃ不安で、生きていける気がしなかった。
それなのにお兄ちゃんはわたしを置いていったのだ。
恨んでいるし、怒っているし、悲しいし寂しい。でもそれは仕方ないことだと心のどこかで分かってはいた。
でも、じゃあ、どうすればよかったんだろう?
「なあ、手伝うよ」
とケイくんは言った。
「だから死なないでくれよ」
わたしは本当に涙を流しかけた。でもそれはもう手遅れなのだ。
わたしはとっくに手遅れの住人なのだ。ケイくんの声は彼らしくもなく震えている。
それがいっそう悲しい。あの日彼がわたしの傍にいてくれれば、わたしは死ななかったかもしれない。
そう声を掛けてくれたなら。でも、それを聞き逃したのは他でもないわたし自身なのだ。
誰の声も耳にしたくなかったのはわたし自身なのだ。
すべての原因はわたしにある。いつだって。誰のせいにもできない。
604 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/11/24(土) 14:53:15.53 ID:sIBdVn+so
◇
ケイくんはわたしからそれ以上の説明を引き出そうとするのを諦めたようだった。
わたしは念のため、彼のギターをソフトケースに突っ込んで背負った。
「これ、人質ね」
彼はお手上げというふうに肩をすくめて溜め息をついた。
「ありがとう」
とわたしは言った。なるべく真面目に言ったつもりだった。ケイくんは顔をしかめる。
「いいよ、別に。迷惑してるけど」
それは本当にそうだろう。出かける準備をして戸締りを確認し、部屋の灯りを消す。
鍵を閉めて、アパートを出た。
「出かけるのは分かったけど、どこに行けばいいんだ?」
彼の問いに、わたしは簡単に答える。
「過去」
何度目かの溜め息を彼はついた。わたしは少しだけ笑った。
605 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/11/24(土) 14:53:54.28 ID:sIBdVn+so
つづく
606 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[sage]:2012/11/24(土) 19:22:07.26 ID:x70fjYsH0
乙
607 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[sage]:2012/11/25(日) 17:43:39.21 ID:+aJ+jYbzo
混乱する
乙
608 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/11/27(火) 14:22:47.13 ID:0XXjShCvo
◇
わたしとケイくんはふたりでショールームへと向かった。微妙に距離があったけど、歩くのは苦痛じゃない。
物質的な距離は最初から問題にならなかった。移動にかかる時間も。
あのあとすぐ、わたしはスマホを取り出して、魔法使いに電話を掛け、例の世界に戻る手筈を整えてもらうことにした。
彼女には何か、他にしなければならないことがあったらしいが、そんなのはわたしの知ったことではない。
仕方なさそうに彼女はわたしに指示を下した。とにかくショールームに戻るようにと。法則が読めない。
彼女はどのような条件下で他人を移動させることができるんだろう? でもそんな超常現象を説明づけたところで仕方ない。
ショールームについてすぐ、わたしはふたたび魔法使いに電話を掛けようとした。
でも、電話が繋がらない。
なんだろう? 妙な不安がある。
「どうした?」
とケイくんが言う。わたしは首を振る。大丈夫なはずだ。何の問題もないはずだ。
なんだか、ひどく肌寒い。頭痛に額を押さえると、じっとりと汗が滲んでいた。
鼓動が早まる。なにが起こっているんだろう。
609 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/11/27(火) 14:23:22.45 ID:0XXjShCvo
わたしは扉に手を掛け、ショールームに忍び込む。ケイくんは少し躊躇してからわたしを追ってきた。
立ち止まって呼吸を整えてから気分を持ち直そうとする。
「大丈夫なのか?」
「ぜんぜん、大丈夫」
「誰もお前の体調なんて心配してない。忍び込んで大丈夫なのか、って聞いてる」
ちょっとひどい。
「……あのね。もうちょっと心配してくれてもいいと思うの」
「じゃあ、大丈夫か?」
「うん。大丈夫」
「……何の意味があるんだよ、この会話」
610 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/11/27(火) 14:23:51.85 ID:0XXjShCvo
「会話には、会話であるからこその効用があるんだよ。会話であるだけでね」
「何を言ってるのか分からない」
実はわたしもよく分かっていない。
「それで――大丈夫なのか?」
「だから、大丈夫」
「そうじゃなくて。忍び込んで」
「大丈夫でしょ、たぶん」
「……たぶんって」
そんな会話をしていると、奥から誰かの話し声が聞こえた。
611 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/11/27(火) 14:24:17.71 ID:0XXjShCvo
「……本当に大丈夫?」
少し小声で、ケイくんは訊ねる。わたしも小声で答えた。
「……たぶん」
「……当てにならないな」
隠れた方がいいんじゃない? とケイくんは言った。
「……でも、入れた」
「なにが」
「ここに入れたよ。入口に鍵はかかってなかった。別に場所が違ってるわけじゃないんだ。ちゃんと繋がってるはずなんだよ」
「何の話? ……いったいどこと?」
「控室。だから、話し声が聞こえるとしたら……」
魔法使いのもの。
612 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/11/27(火) 14:24:51.54 ID:0XXjShCvo
「警備員の見回りじゃないのか?」
「いま何時だと思ってるの? 三時だよ、夜中の三時。いくら警備員って言っても、こんな場所をこんな時間に見まわりするの?」
「それは、俺は警備会社の人間じゃないから、分からないけど」
彼はちょっと戸惑ったように頬を掻いた。
「もしくは、密談とか?」
「……うーん」
「幽霊、なんていうのもありか」
それは既に彼の目の前にいる。ちょっとは怖がるかと思ったのか、ケイくんは拍子抜けしたような顔をした。
少し申し訳ない。
それにしても、なんだか体がだるい。
耳鳴りすらしてきそうだ。……これは単なる体調の悪化なんだろうか、本当に?
613 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/11/27(火) 14:25:50.76 ID:0XXjShCvo
「とにかく……近付いてみよう」
「見つかるかも知れないぞ」
「見つからないように近付けばいい。そうでしょ?」
「……やっぱり来なきゃよかったな」
ケイくんはうそぶいて肩を竦める。わたしは足音を立てないように気をつけて声のする方向へ向かった。
なんだかんだ言いつつ、彼もわたしの後ろをついてくる。
少しずつ声のする方に近づいている、はずなのだが、なかなか声の主の姿が見えない。
でも、たしかに近付いている。……でも、近付いていて、声も大きくなってきているのに、姿が見えない。
まるで誘われているみたいに感じるのは、ちょっと不思議体験を繰り返しすぎて神経が高ぶってるんだろうか。
慎重に足を進めているうちに、話の内容が聞き取れるようになってくる。
「……本当に、そんなことをするつもり?」
聞き覚えのある、女の声だった。けれど、雰囲気が違う。なんだろう?
614 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/11/27(火) 14:26:47.32 ID:0XXjShCvo
「それができるんだろう?」
今度は、男の声がした。知らない声だ。……いや、知っている声だ。
わたしはこの相手のことを知らない、と確信する。
でも、わたしはこの声を聞いたことがある。
間違いようがない。この声は、お兄ちゃんの声だ。雰囲気が違っているけれど……。
「俺は」
と声は言った。でも変だ。彼はそんなふうに自分のことを呼ばなかった。
「変えなきゃいけないんだ。いつまでも逃げてばかりはいられない。向かい合わなきゃいけないんだ」
声を辿っているうちに、階段にたどり着いた。この会話はこの階段の上から聞こえてきているのだろうか。
「……なあ、明らかに、面倒な感じなんだけど」
「静かに」
あからさまにやる気のないケイくんを嗜めて、わたしは階段を昇る。うしろで彼が静かに溜め息をついた。
615 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/11/27(火) 14:27:14.29 ID:0XXjShCvo
「でも、そうしたところであなたが手に入れられるものなんてなにひとつない」
「そこは、お前に口出しされるところじゃない。それに俺は、別に結果を変えたいわけじゃないんだ」
会話は続いている。
階段を昇ってすぐ、細い通路に出る。左手はただの壁で、右手には三つ扉が並んでいた。
息を殺して、進む。
「お前が俺を誘ったんだろ?」
「そりゃ、そうなんだけどさ」
「だったら、文句を言わずにさっさと始めろ」
「でも、上手くいくとは限らないよ」
「そのときは」
力強い調子の男の声に、女は気圧されたような声を漏らす。
616 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/11/27(火) 14:27:56.30 ID:0XXjShCvo
「お前がどうにかしろ。どうにかできる、とお前が言ったんだ。どうにかできなかったら詐欺だ。契約不履行。そうだろ?」
「……でも、わたしにだってできることとできないことがあるんだ」
「できる限りでいい」
一番奥の扉の前に立って、わたしはノブを掴んだ。
「おい、やめとけって」
うしろからケイくんがわたしを止める。……そうだ。何を考えているんだ、わたしは。
頭が回っていないのかもしれない。でも、ふたりはいったい何をしているんだろう?
この状況はなんだろう?
「できる限りでいい。もし俺がやったことが、結局失敗で、無意味になりそうだったら――」
声は言う。
「――お前がなんとかしろ。絶対だ。約束だ」
「簡単に言わないで」
「難しく言っても仕方ないだろ? なあ、こんなチャンスをくれて、お前には一応感謝してるんだぜ」
「……」
そこで魔法使いらしき声は黙った。
わたしはノブを握ったまま目を瞑り、頭痛を堪える。
617 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/11/27(火) 14:28:25.00 ID:0XXjShCvo
「どうして?」
数秒の沈黙のあと、魔法使いがふたたび口を開いたようだった。
「どうしてそこまでこだわるの? あなたにはどうしようもないことだった」
「そうだよ。俺は無関係で、たぶん何の責任もない。でも、俺はあの子のあんな死に方を認めるわけにはいかないんだ」
「なぜ?」
「イライラするんだよ」
憤った調子で男の声が荒くなる。わたしは少しだけ怖くなったけど、でもそれはびっくりしただけで、心の底から怯えたわけじゃない。
「無関係だった自分に腹が立つんだよ。いや、そうじゃないのかもしれない。でも他に言いようがない。上手く言葉にできない」
とにかく――納得できないんだ。
男の声がそんな言葉を放つ。
わたしはノブを回す。
ケイくんが何かを言うよりも先に扉を開いた。
扉の向こうには、誰もいなかった。
618 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/11/27(火) 14:28:51.04 ID:0XXjShCvo
◇
◆
ファミレスを出た僕と魔女は、そのまま例のショールームへと向かった。
結局、僕はこの場所に何をしにきたのだろう? そんなことを考えている。
でも、それはあまり意味がない思考のように思えた。
おそらく、事態は逆転しているのだ。誰にとっても。
与える側の人間が与えられ、もたらす側の人間がもたらされている。
でも、そういった考え事すら、すでに僕にとってはどうでもいいことと成り果てていた。
魔女は黙って僕の前を歩いている。
僕はそのあとを黙ってついていく。
僕たちの前には緑色のドアがあった。
僕たちはこの扉の向こうにもう一度帰るべきなのだ。
でも、それは「帰らなければならない」ではない。僕たちには選択権が与えられている。
僕たちは帰らないこともできる。
でも、僕たちは帰るべきなのだ。
619 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/11/27(火) 14:29:17.99 ID:0XXjShCvo
「会えてよかった」
と彼女は言った。僕は頷く。
「本当はこんなつもりじゃなかったんだよ」
彼女は笑って、それから僕が返した例の財布を取り出して、扉の前に放り投げた。
「……それは」
「いいの、これで」
彼女が満足そうな顔でそう言ったので、僕はそれ以上何も言うことができなかった。
「たったこれだけのことで、いろんなことが変わるんだよ。
もちろん、わたしはこうしないこともできる。でも、する。選択の余地はないの。
結局ね、そういうことなんだと思う」
魔女はそれから少しの間黙っていた。やがてふと悲しげな顔になった。
それがあまりにも悲しげなので、ひょっとして僕の錯覚で彼女はただ当たり前の表情をしているだけではないのかとすら思った。
620 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/11/27(火) 14:29:50.68 ID:0XXjShCvo
「それじゃあ、行ってらっしゃい」
と彼女は言った。
「わたしはまだすることがあるから」
「……僕は、もういなくなっていいんだろうか?」
いいと思う、と彼女は言う。
でもそれは、あなたが必要のない人間だとか、ここにいても意味がないとか、そういう意味じゃない。
というかね、そんなのはどうでもいいことなの。
問題なのはね、あなたが世界にとって価値がある人間かどうかじゃないの。
この世界が、あなたにとって価値のある世界かどうか、なの。
ここに来たこと、ここにいることは、あなたにとって価値のあることだったのか、それともまったく無意味なことだったのか。
それだけでいい。あなたはね、別に世界に必要とされなくたっていい。そんなに遜る必要はないの。ぜんぜん。
彼女は言いきってから笑った。生まれて初めての笑顔みたいに澄んでいる。
「ありがとう」
と彼女は言った。
621 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/11/27(火) 14:30:18.76 ID:0XXjShCvo
僕は少しの間ためらった。本当に僕は行ってしまっていいんだろうか。それは無責任なことにも思えた。
でも、僕はそもそも何かに責任を取ることなんてできない。
僕はただ放り出され、そして流れに身を委ね、そして行きついただけなのだ。
そこにどのような意味があるのか、僕は知らない。
彼女のいうように、気にするだけ損なのかもしれない。
でも、仮にそんな意味なんてものがあるとするなら。
それが分かるのは、"これから"なんだろう。
「ばいばい」
と魔女は手を振った。
「さよなら」
と僕は言って、扉をくぐった。
622 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/11/27(火) 14:30:47.68 ID:0XXjShCvo
緑色の扉をくぐる。ぶよぶよとした皮膜をくぐり抜ける感触。
視界と意識が光に包まれる。どっちが上でどっちが下なのか、どっちが前でどっちが下なのか、分からなくなる。
僕の思考の流れは感覚的な情報に奪われる。考えることは困難だった。それは長い感覚だった。
情報の濁流に呑まれながら僕はさまざまなことを考えようとした。魔女のこと、さっきまで僕がいた世界の僕のこと。その世界の姪のこと。
死んでしまった僕の姪と姉のこと。いなくなった義兄のこと。長く顔を合わせていない祖父母のこと。
僕がこれから帰るべき世界のことを考えた。
そしてその世界に自分が所属しているのだと言うことを意識しようとした。
僕が一緒に暮らしている親戚のこと。通っている学校の教師やクラスメイトのこと。
あるいはそれらの人々の家族や友人のこと。僕はその中に含まれていない。今はまだ。
さて、と僕は思った。
そこからが問題なのだ。僕にとっては。
623 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/11/27(火) 14:31:16.33 ID:0XXjShCvo
◆
◇
本屋の軒先で、魔女と僕は出会った。
あの子に会わせてあげる、と魔女は言った。
僕にとってそれは願ってもない話だった。
でも。
「……落ち着けよ」
と僕は言った。
「まず、腹ごなししよう」
「……は」
魔女は呆気にとられたようだった。
「とにかく今は落ち着きたいんだ。さまざまなことを整理したい。時間を消化したいんだ」
「……あのね。いまさら何を整理することがあるっていうの? 聞きたいことがあるなら、全部説明するから」
「違うんだ。説明がほしいわけじゃない。……いや、欲しいけど、それはあとでいい」
624 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/11/27(火) 14:32:29.74 ID:0XXjShCvo
「じゃあなに?」
「話がしたい」
魔女は顔を歪めた。
「とにかく、腹ごなししよう。焦ることはないだろ。どうせ話は終わりかけなんだ」
僕にはそのことがよく分かった。
もう終わろうとしているのだ。それは流れ込んでくる。
さまざまなものが閉じられようとしている。説明はいまだに加えられていない。
でも、それはたしかに変化を残していくのだ。不明瞭ではあるのだけれど。
僕と手を繋いだ少女が、不安そうな目でこちらを見上げてくる。
風呂上りの髪はまだ少しだけ湿っていた。僕はいつも姪にしたようにその頭を撫でてみる。
彼女は一瞬怯えたような表情を見せたが、今度は意外そうな顔をした。
来るべき何かが来なくて、驚いているようにも見える。
625 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/11/27(火) 14:33:04.58 ID:0XXjShCvo
「お腹は空いている?」
と僕は聞いた。食事は家で取ってきたけれど、もう結構な時間が経っている。
彼女は何か思い悩む風に俯いた。
魔女はそのやりとりを複雑そうに眺めている。
「……本当に、代わりができたから、どうでもよくなっちゃったとか?」
妙に不安そうな態度が少しおかしい。
「違うよ。違うけど、放っておくわけにはいかないんだ」
「……なぜ?」
「なぜだろう? でも本当のところ、僕はこんなことをするべきじゃないんだろうね」
「どうして?」
捨て猫に餌をやるようなものだからだ。最後まで責任を取れないなら、僕は彼女に何もするべきではない。
結局彼女はこの世界で暮らすことができない。彼女は元の世界に戻らなくてはならないのだ。
でも、そんなことを口に出す気にはなれない。幼いとはいえ言葉は分かっているのだから。
626 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/11/27(火) 14:33:43.70 ID:0XXjShCvo
手を少し握る。彼女は不思議そうに握り返してきた。
「この子はあの子とは違うから」
と僕は言ったけど、きっと魔女の質問の答えにはなっていなかっただろう。それは自分自身に言っただけの言葉だった。
僕には予感があった。きっとこの僕の行動が、誰かにとっての悲劇を呼ぶ原因になる。
でも僕には、彼女の手を握ることが、どうしても悪いことだとは思えないのだ。
魔女は疲れ切ったように溜め息をついた。
「分かった。ほんとにもう。仕方ないんだから」
呆れた調子のその声音は、なんだか楽しそうにも聞こえた。彼女がそんな声を出すのは意外だった。
「何食べる?」
「面倒だし、ハンバーガーでいいんじゃない?」
「……そこで手抜くかな」
そのような運びで、僕らはファーストフード店を目指すことになった。
627 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/11/27(火) 14:34:10.28 ID:0XXjShCvo
◇
◆
水滴の音で、わたしは目を覚ました。
目を覚ますと、それまでわたしと手を繋いでいた誰かはいなくなってしまっていた。
夢だったのだ。でも、手のひらにはかすかに、その感触が、体温が、残っているような気がする。
もちろん、そんなのはわたしの錯覚、妄想に過ぎない。現実には、わたしは誰とも手を繋いでいない。
頭がずきずきと痛む。何かが静かに体の中でうねっているような気がした。
何かがおかしい、とわたしは思う。身体を起こそうと手をつくと、床は冷たいコンクリートの感触がした。
ぽつり、とまた水滴の落ちる音。ぼやけた視界をどうにかするため瞼を擦りながら周囲を見る。
薄暗くて、ひどく肌寒い。
水の気配がする場所。
ここはどこだろう? わたしは、なぜこんな場所にいるんだろう。
628 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/11/27(火) 14:34:44.15 ID:0XXjShCvo
でも、その答えは……不思議と知っていた。
"魔法使い"の"魔法"が可能にする世界間移動、時間移動。
わたしはそれに"巻き込まれた"のだ。
情報がある種の経路をたどってわたしの頭の中に"流れ込んでいる"。
"彼女"もそれについて詳しいことは知らない。でも、そういうことがあり得るということは知っている。
そこまで考えて、わたしは不安に思う。魔法使いって何だろう? 彼女って誰だ?
わたしは……でも……この場所を"知っている"。
その記憶は、たぶん"流れ込んだ"ものではなく、わたし自身のものだ。
そういう漠然とした確信。
不意に、奥から聞こえる足音。
でも、わたしはその人のことを知っている。
……知っているのだ。
「おはよう」
と魔法使いは言った。
629 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/11/27(火) 14:35:44.45 ID:0XXjShCvo
つづく
なんだか間が空きがちになってますが、暇を見つけて書き進めていますのでご容赦ください。
630 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
(東京都)
[sage]:2012/11/27(火) 17:27:45.07 ID:TZRl31duo
乙
他と比べたらペースは早いぐらい
631 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[sage]:2012/11/27(火) 19:38:22.06 ID:qmirdvid0
視点と時間がコロコロ変わってもうわけ分からん
632 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/12/01(土) 05:02:14.26 ID:1M2++lwbo
◆
◇
「……誰もいない、な」
ケイくんの言葉通り、わたしが開けた扉の向こうには誰の姿もなかった。
わたしの不安は強まった。
ひとつ深呼吸をして落ち着こうと試みる。心臓は強く跳ねていたけれど、体調は元通りになっていた。
何が起こっているのか。でもそれを考えるのは無駄なのだ。たぶん。
「どういうことだよ、これ」
ケイくんは言ったけれど、そんなのわたしに分かるわけがなかった。
だから答えずに扉に背を向ける。
「おい?」
「わかんない」
「わかんないって……」
呆れたように溜め息をつくケイくん。彼の態度はまだのんきな方だった。わたしは苛立ちすら感じている。
率直に言って訳が分からない。
633 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/12/01(土) 05:02:46.99 ID:1M2++lwbo
わたしたちは階段を下りて扉に囲まれた部屋に戻る。緑色のドアをみつけた。これだ、と思う。
「……嫌なドアだな」
「何が?」
「緑色で、塀みたいな壁についてる」
「それが?」
「"塀についた扉"みたいだろ? ウェルズの短編」
「……」
わたしはよく知らなかったので聞き流した。
「でも、ここから行くしかないんだよ」
「本当に行かなきゃダメなのか? 今からでも、やめておいた方がいいんじゃないか」
ケイくんは急に消極的になった。彼にはこの緑色のドアがよっぽど不吉なものに見えるらしい。
634 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/12/01(土) 05:03:12.91 ID:1M2++lwbo
でも。
「もう手遅れなの。わたしは既にこの向こうに行ってしまっているから」
彼は分かったような分からないような顔で黙り込む。
わたしはなんだかうんざりした。
疲れているのだろうか? 自分自身が何を考えているのか、分からない。
「分かったよ」
と彼が頷いた。魔法使いは何をしているんだろう。
わたしは扉を開いた。
そしてくぐる。
何のためにだろう?
……それは考えるべきじゃない。
でも……。
どうなんだろう?
635 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/12/01(土) 05:03:49.22 ID:1M2++lwbo
◇
扉の向こうは、ショールームに繋がっていた。わたしは奇妙な感覚を受ける。
まるで鏡の世界に迷い込んだみたいだと思った。緑色のドアから緑色のドアを抜けると、さっきまでいたのと同じ場所に居る。
向いている方向が逆さになっただけだ。一瞬自分が本当にドアをくぐったのか分からなくなった。
わたしが振りかえると、ちょうどケイくんがドアから出てくるところだった。扉はひとりでに閉まってしまう。
「……」
これでわたしは、ケイくんをこちらに連れてくることに成功したのだろうか?
そのことが、どんな意味を持つのだろう。この世界に対して、わたしはどうすることができるんだ?
状況は一切好転していない。相変わらずわたしは何もできていない。
でも、今はひとりじゃない。そのことは少しだけ気分をマシにさせてくれた。本当に少しだけ。
わたしたちはさっきも昇った階段を昇り、さっきと同じ扉を開けた。物置になっているその部屋に、荷物を置いておく。
主にギター。ケイくんは盗まれる心配をしていたけれど、そんなことはありえない。
ここは既に異空間だ。魔法使いの魔法のその中に、このショールームは含まれている。
そうでもないかぎり、こんな異変が起こったりするものだろうか?
636 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/12/01(土) 05:04:20.64 ID:1M2++lwbo
わたしたちは建物を出て、国道沿いの道を歩いた。外に出て驚いた。夕方近い時間になっていたのだ。
わたしとケイくんが会ったのは、まだ夜中だった。
そしてそこからショールームに向かうまで、多少時間を食ったにせよ朝にはなっていない。
それが突然夕方になっていたのだ。
しかも。
叔父bはショールームにいなかったのだ。
思ってみれば、彼を連れ帰ろうとしたところで、わたしは妙な……魔法使いいわく、"ズレ"に巻き込まれた。
"ズレ"。
あのズレのあと、わたしはケイくんに会いにいくことにしたのだ。
その際、彼女は「目を瞑る」ようにわたしに指示した。
……それはたぶん、世界を移動させる合図なんだろう。
あるいは扉をくぐることが。
637 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/12/01(土) 05:04:49.83 ID:1M2++lwbo
事態は、おそらくは魔法使いの予想を上回って、錯綜している。
だが、仕方ない。
わたしはやるべきことやるしかない。
とにかく当初の予定通り、叔父bを探せばいいのだ。
彼を招いたことで、この世界に何かの変化を起こせるかもしれない。
彼を招いたのは……そういう期待を抱いたからだ。
彼を……この世界のお兄ちゃんに会わせれば。
ごく簡単に、変化をくわえることができる。
それは少し大雑把すぎる選択だったかもしれない。
わたしの頭の中には少女bの表情が残っている。
おそらくは。
お兄ちゃんだって、気付くはずなのだ。あの子をあんなふうにして尚、何もしようとしなかった自分の姿を見れば。
わたしにはお兄ちゃんが必要なのだと。
……それに応じてくれるかどうかはさておき。
638 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/12/01(土) 05:05:20.31 ID:1M2++lwbo
だからまず、叔父bに会わなくてはならない。
そして、上手にお兄ちゃんと引き合わせてみないと。
「……」
でも、たとえば、わたしが他人のふりをして、この世界のお兄ちゃんに会うことだって、できないわけじゃない。
そうして、何かの形でやんわりと変化をくわえることだってできた。
……要するに、わたしは恐れているのだ。
お兄ちゃんの中から未知の暗闇が出てくること。お兄ちゃんの中に理解不能の何かがあることを。
気付かないふりをする。
わたしは変化をくわえようと努力をしている。
そのはずだ。
でも、どこにいるんだろう?
ケイくんは黙々と歩くわたしにいくつかの質問をぶつけた。
639 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/12/01(土) 05:06:04.11 ID:1M2++lwbo
「ここ、どこ?」
「見覚えない?」
「あるけど……」
「そう」
「でも、ありえない」
「何が?」
「これは、ずっと前の景色じゃないか。僕たちが住んでいた街の」
それがあり得ないなんて言ったら、死んだ人間が目の前にいる方がよっぽどありえないと思うんだけど。
とはいえ、それを彼に言ったところで仕方ない。
「ま、そうだね」
わたしは頷いて話を終わらせた。
640 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/12/01(土) 05:07:09.98 ID:1M2++lwbo
「お前が俺に手伝わせたいことって、具体的には何をするんだ?」
わたしは答えようとして、でも答えが分からなかった。
わたしは自分でもよくわかっていないのだ。
そして、なんだか居心地の悪さを感じる。
どうしてだろう。さっきからずっと、理解不能の感覚に包まれている。
わたしの中にもうひとり自分がいて、そのわたしが、自分自身の行動や発言、思考にまで制限を掛けているように感じた。
「……分かった。答えなくていい。どこに向かうんだ?」
「公園」
とわたしは言う。でも変だった。どうして公園になんていくんだろう?
なんだろう、これは。
わたしの身に何が起こっているんだろう?
ひょっとして、事態はすでに破綻しているんじゃないだろうか?
641 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/12/01(土) 05:07:36.16 ID:1M2++lwbo
でもわたしの思考は疑問を取り合わず、足は付近の公園を目指した。
なぜかは分からない。
そして、そこには叔父bが居た。
ベンチに座っている。なぜだろう? ひどく疲れ切っているように見える。
今きたばかり、というふうには見えない。様子がひどく落ち着いている。
わたしが会ったときとは、衣服が違っているように見える、が、気のせいだろう。
彼に服を買いかえるような余裕があったとも思えない。
それともわたしは日時を誤解しているんだろうか。
今日は八月三日。それで間違いはないはずなのだが。
……念のため、あとで確認してみよう。
「疲れてる?」
わたしは彼に歩み寄って、そう訊ねてみた。何処で何をしていたのか、と問う気にはなれない。
というより。
「それはダメだ」と誰かに言われている気がした。
そういった感覚が多い。
642 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/12/01(土) 05:08:13.90 ID:1M2++lwbo
「少しね」
と彼は言う。
「……誰、この人?」
とケイくんが後ろから質問してきたが、ごまかす。
答えてもいいけれど、両方に同時に説明ができるほど器用じゃない。
……だったらさっきまでに、ケイくんに簡単に状況を説明すればよかったじゃないか。
なぜわたしの頭はこんなに混乱しているんだろう。
わたしはとっくに主導権を失っている。じゃあ、それを握っているのは誰なんだろう。
「いろいろ、言いたいこともあるだろうから、とにかく、順を追って説明しようと思って」
……既に叔父bは、この世界についての情報を、いくつか得ているように見える。
そうでなければこんなところでぼんやりはしていないだろう。
彼にとってこの街は、昔住んでいた街であり、しかもその過去の姿だ。
そこに放り投げられたのだから、もっと焦って、状況を見極めようとしてもおかしくない。
でも、彼は落ち着いている。既に魔法使いから説明を受けているんだろうか?
いや……彼女はいま、予定外の何かの処理に追われて忙しいのだと言っていた。
わたしが彼に会いにいくことは予定通りだったわけだから、まさか彼のことではないだろう。
では……いったい誰に説明を受けたりするんだろう。
そのことを訊ねるのも、なぜだろう、よくないことに思えた。
643 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/12/01(土) 05:08:51.18 ID:1M2++lwbo
彼はとにかく休みたいと言った。わたしは釈然としない気持ちを抱えつつも、頷く。
「とにかく移動しましょうか。屋根のあるところじゃないと、たしかに落ち着かないしね」
「……どこに?」
ケイくんが後ろから問い返す。でもどこでもよかった。
どこでもよかったので、まっさきに思い浮かんだファミレスに向かうことにした。
とりあえずの腹ごなしと相談事。適当な場所。
彼は寝床や食料のことを気にしていた。……既に状況を理解し、しかもなんとか状況を整えようとしている。
彼は今どこまで知っているんだろう?
「まぁ、なんとかなるよ」
そんなふうに答えたけれど、わたしは彼を連れてきたことに少し後悔を覚えずにはいられなかった。
見通しの甘さ。
それでもわたしはやるしかない。現状をどうにか転がしていくしかない。
644 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/12/01(土) 05:09:36.01 ID:1M2++lwbo
店に入ってすぐに注文をすると、叔父bはきょとんとした目でわたしを見た。食欲はないらしい。
彼の表情は、最初会ったときとは違う。
なんなんだろう? 不自然だ。
「まずは、いくつかの説明、ね。その前に――」
それでもわたしは、自分なりに説明するしかない。
とにかく、彼にこの世界のことを説明するべきだろう。
その前に、わたしはケイくんに買い物を頼むことにした。
わたしとケイくんだけだったら、正直言えば……魔法使いの控室に向かえばいい。
上手く入れるかは分からないが、それができなくてもショールームまではいける。
それならば、あの物置で休めないこともないのだ。わたしはそう考えていた。
だが……彼。叔父bをあそこに招いてしまうと、こちらの行動に制限が掛かってしまう。
他の場所を探す方がいいだろう。そういう意味で、買い物は必須だった。
わたしは必要だと思われるものを書き連ねたメモを彼にわたし、買い物を頼んだ。
少し嫌そうな顔をしたけれど、この状況では、彼はわたしを頼るしかないのだ。だから従うしかない。
それがなくても手伝うと約束してくれたのだし。
645 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/12/01(土) 05:10:03.33 ID:1M2++lwbo
彼が店を出てすぐに雨がぽつぽつと振り始めた。
わたしは少し申し訳ない気分になったけど、それよりも目の前の人のことが気になった。
「薬局、すぐそこだから、そこに傘売ってると思うんだけど……」
そう言ったものの、わたしの頭から既にケイくんのことは消えていた。
そして、説明を始めようと試みる。
上手くいくかどうかは分からない。でも、ちゃんと分からせるつもりも、特にはなかった。
だってわたし自身よくわかっていないのだ。そして、分かってもらわなくても、わたしには何の問題もないのだ。
「どこから説明すればいいかな」
「……」
「どこから訊きたい?」
面倒だったので、わたしは相手の質問に答える形にしようと思った。
646 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/12/01(土) 05:11:22.32 ID:1M2++lwbo
「……この世界の"僕"は、この街に住んでるよね」
わたしは少しびっくりした。既に「あの世界」と「この世界」という区別がついているうえに、自分の存在すら認めている。
また、それが自分のものとは違う、パラレルワールドにおける自分だというところまで理解しているらしい。
「うん。そうだよ」
わたしは驚きつつ頷いた。
「それは、どうして?」
馬鹿らしい気持ちになる。どうしてって、引っ越す理由がないからに決まってるじゃないか。
彼は、彼の世界の姪と姉の死を原因に街を出る。
「分かってることを確認しなきゃ気が済まない性格、おんなじだね」
わたしは皮肉のつもりで言った。お兄ちゃんにもそういうところがあった。
何度もあった。中でも一番印象的だったのは……。
"お前は、僕のことを好きか?"
と、そういえばそんなことを言っていたっけ。
わたしが、小学校に入って……一年か、二年の頃だろうか?
わたしの言うまでもなく決まっていたのだけれど。
その記憶は脇においておいて、わたしは彼の質問に答えた。
「簡単でしょ? 理由がないからだよ」
「つまり、この世界では……」
「そう。そういうこと」
彼の世界では死んでしまった姪、=世界bにおけるわたしは死んでいない。
そのことをきくと、彼は愕然とした表情になった。わたしはなんだか息苦しさを感じる。
彼はしばらくの間黙っていた。雨は少しずつ強くなり始めている。
647 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/12/01(土) 05:12:36.32 ID:1M2++lwbo
「ところで、ひとつ聞いてもいい?」
沈黙に耐えられなくなって、わたしは口を開いた。
「ずっと気になってたんだけど、その荷物、なに?」
彼は脇においていた荷物を手でたしかめるように触る。
「タクトからもらった奴だ」
「タクト?」
知らない名前が出た、とわたしは思う。
少なくとも彼には、誰かと会って荷物を受け取るくらいの時間があったわけだ。……このズレはいったいなんなんだろう。
「昔、知り合いだった」
「ふうん。ひょっとして、大柄の人? よく吠える大きな黒い犬を飼ってる?」
「そう。いや、ここでも飼ってるのかどうかは分からないけど」
わたしはそういえばそんな人もいたなぁと思い返す。
子供の頃からお兄ちゃんと付き合いがあって、なんだかんだ高校を出てからも会っていたはずだ。
うまがあったのか、なんなのか。お兄ちゃんにも、そういう人がいるにはいた。
648 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/12/01(土) 05:13:09.14 ID:1M2++lwbo
「知ってるの?」
「あんまり。犬もその人も、怖かったし」
と答えてから、そういえば彼はわたしが"姪"であることを知らないのだと思った。
「そうなんだ」
少しひやひやしたけれど、彼は案外気にしていない態度を取った。そのこともわたしには少し意外だった。
かと思うと、思い直したように頭を振って、彼は口を開く。
「君はいったい誰なんだ?」
別に答える必要もないだろう。彼を一層混乱させるだけだ。
「だから、秘密」
649 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/12/01(土) 05:13:34.97 ID:1M2++lwbo
「じゃあ、どうして僕のことを呼んだんだ?」
「言わなかったっけ?」
……いや、言わなかったはずだ。手伝ってほしいことがある、というのと、納得がいかない、ってとこ以外。
「漠然とした話は聞いた。今訊きたいのは具体的なことだ」
「うーん」
どう説明するべきか、わたしは悩んだ。そして言葉を見繕う。
「ごく簡単に言うとね、わたしはある一人の女の子の未来を守りに来たわけ」
そう、そういうことだ。わたしは自分がやろうとしていることを再確認できた。
この世界の姪を守る。結果、お兄ちゃんも生き延びる。そのはずだ。
そうでないかもしれないという可能性もある。でも、今は、考えない。
650 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/12/01(土) 05:14:24.91 ID:1M2++lwbo
「……女の子?」
「そう」
「未来を守る、ってどういう意味?」
「そのままの意味」
「まるで、君がどうにかしないとその子の未来が失われてしまうような言い方だ」
「その認識であってるよ」
「……いったいどんな理屈で、君はその子の未来を知っているんだ?」
もちろんわたしが未来から来たから。なんていえない。わたしは愛想笑いでごまかした。
彼にはあまり情報を漏らすべきではない、と感じる。
651 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/12/01(土) 05:15:11.12 ID:1M2++lwbo
「秘密。ねえ、それより、気にならないの?」
「なにが?」
「生きているあの子のこと」
「……別に」
話題を変える意味でも発した疑問に、彼はそっけなく答える。
気にならないわけではない、ように見える。
でも、やはりそこまで気になる、というふうにはみえない。
彼は、やはり、"姪"にあまり関心を払っていなかったのだろう。
まあそもそも、この世界の“姪”は彼の世界の“姪”とは別人なのだけど。
「もうひとつ、訊きたいことがあるんだけど」
と彼は言った。これもまた、話題を変えたがっているふうに見えた。
652 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/12/01(土) 05:15:55.22 ID:1M2++lwbo
「なに?」
「君は僕をパラレルワールドに連れてきたわけだけど、どうしてこんなことができるんだ?」
"知るわけない"とわたしは思ったけれど、でもそう答えたところで彼が納得するわけもない。
「……現にできてるんだし、あんまり関係ないよね? わたしもよく知らない。気付いたらできただけ」
やはり、彼は魔法使いとは会っていないらしい。
じゃあ、どうやって彼はこの世界の構造を知ったんだろう?
それとも自力で考えたんだろうか? それは考えにくい。
彼は考え込んでしまった。わたしはなんだかうんざりした気持ちになる。
彼と話しているとそういう気分になる。
そして皮肉を言いたくなった。
653 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/12/01(土) 05:16:33.09 ID:1M2++lwbo
「……わたしがあなたをここに連れてきた理由だけどね」
わたしは少しだけ嘘をついた。
「必要だったからだよ、あなたみたいな要素が。つまりね、あなたみたいに怠惰なあなたが」
「……どういう意味?」
「端的に言うとね、わたしが守りたい女の子っていうのは、あなたの世界じゃ死んじゃったあの子のことなの」
彼にとってこの言葉は毒になるのだろうか。
「つまり、あなたの姪のことね」
654 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/12/01(土) 05:16:59.60 ID:1M2++lwbo
そしてわたしは、一応、大雑把にやろうとしていることを伝えてみる。
その結果彼がどう思うのか、わたしには分からない。
「怠惰なあなたを、この世界のあなたに見せるの。自分のことしか考えずに、ただぼんやりと過ごしたあなたをね」
……でも、そんなのが本当にうまくいくんだろうか。
「そうして怠惰だったあなたが招いた結果をこの世界に彼に見せる。そして、彼自身が決して無力ではないことを教えてあげたいの」
「……つまり、僕のせいで彼女は死んだ、と言いたいのかな?」
「別に。ただ、この世界のあなたに、"あなたが彼女のことを考えたから、彼女はこっちでは死んでない"と言いたいだけ」
「おんなじことじゃない? 僕が彼女のことを考えずにいたから、彼女は死んだって意味だろう?」
「違う。たしかに似ているように聞こえるかもしれないけど、少なくともあなたのせいで死んだわけじゃない」
そう、彼のせいで死んだんじゃない。彼は何もしなかっただけ。
「ただ、あなたが彼女のことをもう少し考えていれば、回避できるかもしれない未来だった、と言っただけ」
655 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/12/01(土) 05:17:52.83 ID:1M2++lwbo
彼は暗い顔をして俯く。わたしは少しだけ申し訳ない気持ちにもなった。
でもよくわからない。わたしは彼をどうしたいんだろう。
「現にこの世界のあなたは、彼女の死を既に回避しているしね。本当に些細なことだったけど、あなたがしなかったこと」
本当に些細なことの連続なのだ、おそらくは。
そうした些細なことの連続を怠った結果、"姪"は死ぬのだ。
「……」
「あなたが悪いんじゃなくて、こっちのあなたが偶然できただけよ。そんなに気にしなくていい」
「――ちょっと黙ってくれないか?」
これ以上は何も言わない方がいいだろう。わたしは口をとざした。
なぜわたしは、彼の心境を刺激するような発言をしてしまったんだろう。
でも、なんとなく、彼のことは気に入らない。なんだか知らないけど。
656 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/12/01(土) 05:18:47.66 ID:1M2++lwbo
また起こった沈黙にうんざりする。しばらくして、ふたたび彼は口を開いた。
「……また、彼女の未来が失われようとしている?」
「そう。でも、今度はもっと馬鹿らしい理由。彼女自身の問題。結構先のことなんだけどね。数年後ってところ」
嘘はついていない。隠し事はしているけれど。
「でも、たぶん、このあたりが問題なんだと思うから。具体的にいうと、八月六日の花火大会」
言ってからわたしは不安に思う。“花火大会”? わたしはそんなこと考えもしなかった。
やはり何かが、わたしの内側に流れ込んでいる。……いったい何が?
でも、そのあたりに問題があるのだ。何かがあったのだ、あの日。漠然とそう感じる。
「あの日が、きっと問題なのよ。……でも、誰かが悪いわけじゃない」
わたしがそう言ったきり、今度は本当の沈黙が下りた。
窓の外は薄暗い。もう夜がそこまで来ている。
時間が経つとケイくんが戻ってきた。食事を終えてから、わたしたちはファミレスを出る。
雨はひどくなっていた。
657 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/12/01(土) 05:19:16.76 ID:1M2++lwbo
◇
すぐに行動するには遅い時間になっていたし、すべては翌日に持ち越すことにした。
寝床は、町はずれの小さな無人駅の駅舎にさだめた。
本来ならば魔法使いに支援を頼みたいところだったけれど、彼にあまりこちらの手の内をさらしたくない。
ついでにいえば、電話はまだ繋がらないだろうという気がしたのだ。
無人駅とはいえ利用者は朝早くからいるので、わざわざ駅舎の鍵の開け閉めなんてしていられない。
だから開きっぱなしになっている駅もあるのだ。無人駅の場合は。
まぁこれは以前どこかで聞いた話(友達もいないのに変な話だけど)。
ここは偶然そうなっているだけかもしれない。
ケイくんの買ってきた荷物で状況を整えて、ベンチで休めるようにする。
わたしたちはそこで休んだ。わたしはすぐに眠りに落ちた。
でも、何かを見逃しているような落ち着かない感覚はずっとあった。それは夢の中ですらあった。
わたしはたぶん何かを見逃している。いったい何を?
もしかして、わたしが知らないところで何かが動いているのか?
"いったい何が?"
658 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/12/01(土) 05:19:42.87 ID:1M2++lwbo
つづく
659 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
(東京都)
[sage]:2012/12/01(土) 08:00:25.94 ID:NPzGczBIo
明け方から乙
660 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/12/03(月) 13:56:34.47 ID:v7ebsIP3o
◇
夜中の三時過ぎに目を覚ました。
無人駅の駅舎はじんわりと暑い。外に抜け出す。夜の闇が広がっていた。
少し前まで広がっていた霧にとって代わるみたいに。
いや……あの霧は数年後のこの街のものか。
ひんやりとした夜の空気の中に、自分の気配を溶け込ませるみたいに歩いてみた。
空は少しずつ青く染まり始める。月は仄かに影を浮かべている。
胸の内側で何かが広がっている。たぶんわけのわからないもの。説明のつけようがない不安。
でもこれは別にこの状況だからじゃない。
いや、むしろ……状況。死んで以降のわたしの境遇は、わたしの精神に何ら影響を与えていないという気がした。
この不安は、わたしが生きていた頃、ずっと抱えていたもの。それをここまで引きずり込んでしまっただけなのかもしれない。
あるいは、どこかの誰かから流れ込んできたものなのか。そうだとすれば、それは誰なのか。
でもその区別をなくせば、わたしはわたしが誰なのかを問わなければならなくなる。だからその考えを捨ててしまおう。
661 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/12/03(月) 13:57:10.09 ID:v7ebsIP3o
わたしは空を見上げている。ずっと見上げている。夜空は変わりなく夜空だった。
暗闇はどうしようと暗闇だった。幾度見ても暗闇のままだった。どうしようもなかった。そこに置き去りにされているだけだった。
何がわたしを不安にさせていたんだろう?
時間の流れ、とわたしは思った。
ふと振り返ると、うしろにはケイくんが立っていた。
「どうした」
と彼は訊ねた。でも答えることは難しい。その答えはわたしにも分からなかった。
「不安なの」
とわたしは言った。ケイくんは「嘘をつけ」という顔をした。わたしたちの間には信頼が足りない。
「何が、不安なんだ?」
「わからない。ケイくんは不安じゃないの?」
「……だから、何が」
「何もかもが、だよ」
662 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/12/03(月) 13:57:53.44 ID:v7ebsIP3o
「不安だから、死ぬのか」
とケイくんは言った。それはあたりだ、とわたしは思った。
「なんなんだろう。なんでこんなに不安なんだろう」
自分の指先がかすかに震えていることに気付いた。
わたしは本当は、何かを忘れているんじゃないだろうか。
死んだとき、何かを忘れてしまって、それを誤解したままこの場にいるんじゃないか。
そうでなければ……そうだ、そもそも……あんな白昼夢程度で、死のうとするんだろうか?
分からない。どうすればいい?
ケイくんは何も言わずに黙っている。暗闇がわたしの肩にのしかかる。
静かな夏の月。
わたしはお兄ちゃんなしじゃ生きられない。
そんなの無理だ。
だからわたしは死んだ。
663 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/12/03(月) 13:58:24.47 ID:v7ebsIP3o
……いや、違う。順序が逆だ。わたしが死んだから、お兄ちゃんは死んだのだ。
……そうだったっけ? でも、どうしてわたしが死んだからって、お兄ちゃんまで死んでしまうんだろう。
順番が、狂っている。
なぜ、こんなに記憶が混乱しているんだろう?
わたしは死ぬ前の自分のことを思い出そうとしてみる。一度反芻したように。でもあまりうまくいかない。
わたしは死ぬ前後のことをよく覚えていない。わたしが最後にお兄ちゃんに会ったのはいつだったっけ?
お兄ちゃんの態度が冷たくなった。お兄ちゃんが一人暮らしを始めた。それで不安になった。
……わたしは、お兄ちゃんの態度の原因を問い詰めようとはしなかったのだろうか。
しなかったはずだ。そんな記憶はない。でも、わたしがわたしなら、まず問い詰めたのではないだろうか。
「なぜ?」と。
でも、そう訊ねた記憶すらない。
わたしは――。
664 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/12/03(月) 13:58:54.67 ID:v7ebsIP3o
「なあ」
とケイくんが不意に声をあげた。
「大丈夫か」
わたしは咄嗟に反応できない。考え事に夢中になっていたせいもある。
思考を中断されて、わたしの頭は這い上るべき蜘蛛の糸がちぎれてしまったみたいに混乱する。更なる混乱。
混乱に重なる混乱。そこに意味はあるのだろうか? だって前提からして混乱しているのだ。
重なる混乱は結局、前提である混乱に内包されている。前提が混乱している以上、混乱しようがしまいが変わらない。
わたしはよく分からない考えごとに頭を支配され始めている。
「大丈夫」
答えてから、深呼吸をして、黙った。何も言いたくなかった。空を見上げる。
月のとなり、ひときわ強い光を放つ星があった。そんなものがあっていいのか。
「俺も不安だよ」
とってつけたみたいな声で、ケイくんは言った。でも、その声には嘘は含まれていない。たぶん。
だって彼はそんな嘘をつく人じゃない。
「何をすればいいのか、どこにいけばいいのか、分からないんだ」
わたしは黙って彼の話の続きを待った。
でもそこに続きはなかった。不安には原因もなくて、解決もない。
やはりそれも、ただそこに転がっているだけのものだった。
665 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/12/03(月) 13:59:21.66 ID:v7ebsIP3o
「どこに行きたいの?」
「分からない」
「何をしたいの?」
「分からない」
「じゃあ、どうして生きてるの?」
わたしたちはぼんやりと空を見上げる。
夏の夜空。吸い込まれそうな暗闇。
「でも……あそこはもう嫌なんだ」
金を貯める、と彼は言っていた。そしてさっさとあの家を出るんだと。
あの家にいるといつも目にぎらついた色のサングラスを掛けられてるような気分になる。
腹の底をなにかの蓋で押し付けられてるみたいな気分になるんだと。
だからあそこを離れたいんだと。
666 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/12/03(月) 13:59:49.08 ID:v7ebsIP3o
「離れて、どうするの?」
「……分からない」
でも、いやだ。そのあとのことは、分からない。
ああそうか。
わたしとおんなじなのだ。
「でも、こんなのはおかしいんだ。そうだろう?」
「なにが?」
「"そのあと"のことなんて、何も分からない。そんなの当たり前じゃないのか?」
彼の言葉は自分を説得しているように聞こえた。それはたぶん正解。だから、責められているように感じるのは気のせいだ。
「僕たちはどうにかしてやりたいようにやるんだ。ベクトルが嫌いだろうが好きだろうがどっちでもいいんだ。
そのあとどうなるかなんて、分からない。必死にやったって無理かもしれない。手抜きしたって成功するかもしれない。
でも、分からなくても、望む以上はやってみるしかない。やらないわけにはいかない。
だったら、あとのことなんて気にしたって仕方ないだろ? そうしたいんだから」
667 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/12/03(月) 14:00:16.96 ID:v7ebsIP3o
「それはちょっと無責任だと思うけどね。
"そのあと"のことが誰かの生活に影響を及ぼすかも知れない。
悪い結果が目に見えてても、やりたければやるしかないって思うの?」
「じゃあ、悪い結果になるかもしれないって思ったら、やらないのか?
でも、やらないで、"そのあと"はどうする?
その他に何か望むものでもあるのか? 守るものでもあるのか?」
「でもそれは……」
「他人に遠慮して自分を封じ込めるのは、本末転倒だと僕は思う」
「だからって、最低限守るべきラインってものがあるんだよ」
「だからって、それを守るために自分を犠牲にするくらいなら、死んだ方がマシだろう」
いや、と彼は自分の言葉に首を振って。
「それは死んでるのと同じなんだよ。僕はそれを生きているとは呼ばない」
「その比喩的な表現が、何かの象徴的な伏線だったらいいのにね」
「……何の話?」
668 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/12/03(月) 14:01:05.06 ID:v7ebsIP3o
もちろんそんなことはありえない。
現実にわたしは死んでいる。現実的な意味で死んでいる。比喩的な意味でどうであれ。
それだけは魔法使いに確認するまでもなく間違いない。
生々しい死の感触がわたしの記憶に残っている。その感触は言葉にすることはできない。
とても冷たかった。
言葉に出来るのはかろうじてそれだけだ。
「でも、どこにもいけないんだよ」
とわたしは言ってみた。
ケイくんは顔をしかめる。
「どこにも行けないよ、わたしたちは。ここでどうにかやっていくしかない。大丈夫じゃなくてもまともじゃなくても。そうでしょ?」
どこにも行けない。ここに居るしかない。
669 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/12/03(月) 14:01:30.73 ID:v7ebsIP3o
「だってわたしたちは自分の意思で選んだわけじゃない。自分の意思と現実の流れの摺合せの中でここにたどり着いただけなんだから。
それは結果的なものであって意思的なものじゃない。
目的的なものじゃない。クラゲみたいに流されて、流れの中でぼんやり方向を決めて泳ごうとしてるだけ。
でもわたしたちはクラゲじゃない。クラゲじゃないからいつだって苦しい。いつだって悲しい」
段々と自分が何を言っているのか分からなくなってきた。
でも、この混乱は決してもたらされたものではない。わたしが考えて、考えた末の混乱なのだ。
そこには何かの思考の足跡のようなものが残されているはずだ。
何をどう考えたのかはもう思い出せないけれど、わたしはたしかにそう感じたのだ。
「僕は」
と彼は言う。
「それでもここじゃないどこかに行きたい」
わたしたちはそれから長い時間ずっと黙っていた。星の気配が消えて月が薄く消え始めた。
暗闇が消える。そして太陽が現れるのだ。あの残虐で不条理な光。無神経で八つ当たりじみた光。
わたしは遠くの空に昇る赤い光をじっと眺めた。風が吹いて近くの木々が葉を揺らした。青々とした夏の緑。
わたしたちは今数年前の夏の日にいるのだ。そしてそこで一心に何かを求めている。
670 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/12/03(月) 14:02:00.62 ID:v7ebsIP3o
「どうしようもないよ」
と、太陽が角度を変え始めた頃にわたしは言った。
「なぜそんなことが言える?」
「でも、そうなんだよ。決まってるんだよ。逃げられない。どこまで行ったっておんなじだよ」
そうなんだ、とわたしは思った。なぜわたしの目的意識がぶれているのか、納得がいった。
要するにわたしは最初からあきらめているのだ。
本当のところ自分の死をどうこうしようという気持ちなんてない。
お兄ちゃんの死だって、本心ではどうでもいいのだ。
それなのに魔女の言葉に乗ったのは、単に、わたしがわたし自身を、お兄ちゃんの死を看過するような人間だと思いたくなかっただけだ。
わたしは自分の中の自己像を守るためにここに来たにすぎない。
結局何も変えられないことをあらかじめ知っている。
だからわたしはここにきて何もする気が起きないのだ。
自棄になったようにさまざまなものを放り込んでいるのだ。
(猫に鍵盤の上をでたらめに歩かせ、ベートーベンの運命が鳴ることを期待するようなものだ)
少しすると、叔父bが目をさましてわたしたちのところにやってきた。
わたしは彼に簡単に声を掛けた。
「まだ寝ててよかったのに」
時間というものが流れなければいい。
「どうせどこにも行けないんだから」
671 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/12/03(月) 14:02:26.79 ID:v7ebsIP3o
◇
それでもわたしは、何もかもすべてをどうでもいいと思っているわけではない。
あくまでも、誰かの幸福くらいな願っていたい。
そうありたい。結局は自己像の問題だ。
「どこにも居場所なんてないんだ」
と彼は言った。彼も彼で、面倒な人だった。わたしも人のことは言えない。
「ねえ、わたしはあなたのことを利用しているけど、でもね、あなたの不幸を願ってるわけじゃないんだよ」
わたしはちょっと呆れて言った。
「何の話?」
「わたしにだって説明できないけど、できないけど、巻き込んで悪いなって気持ちも、少しはあるの」
空を見る。雨が降ればいい、とわたしは思った。
「あなたを見ることで、こっちの世界のあなたは、何かを得ることができるかもしれない」
それは本当に「かもしれない」。かなり消極的な期待。行動とは違う。
「反対にあなただって、何かを得ることができるかもしれないと思う。そうであってほしいと思う」
「……得る?」
672 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/12/03(月) 14:03:02.17 ID:v7ebsIP3o
それは少しだけ嘘で、少しだけ本当。
わたしは他人の幸福なんてどうでもいい。わたしはわたしと関わった人に幸せでいてほしい。
「手遅れだよ。僕はもう終わってしまっている人間だし、僕の世界はもう終わってるんだ。ここにきてそれがはっきりした」
「本当に?」
とわたしは言った。
「本当に、手遅れなの?」
「どういう意味?」
彼は怪訝そうな顔で問い返してくる。
わたしはその態度をむしろ不審に思う。
「あなたは本当に終わってしまっているの?」
だって彼は、まだ生きているじゃないか。
673 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/12/03(月) 14:03:40.06 ID:v7ebsIP3o
つづく
674 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[sage]:2012/12/03(月) 20:18:45.76 ID:iWRlOpzIO
乙
675 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/12/06(木) 14:06:46.59 ID:yWTuIqKIo
◇
わたしたちは静かに街を歩いた。先頭に立っているのはわたしだった。
わたしは自分でどこを目指しているのかが分からない。
どこかをめざさなくてはならないのだけれど、それが分からないのだ。
なんだか頭がぼんやりする。
疲れたな、とわたしは思う。いいかげん腹を決めるべきなのだろう。
そうだ。
いまさらためらうこともない。
「あ」
「なに?」
「お風呂入りたい」
「……」
思いつきを口にすると、ケイくんが溜め息をついた。
676 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/12/06(木) 14:07:13.62 ID:yWTuIqKIo
昔よく来たんだよなぁ、この銭湯。
お湯につかりながらぼーっとしていると、体の疲れがすーっと取れて行った。
うーん、ずっとこのままでいたい。
わたしは人ひとりいない浴場で長い溜め息を吐いた。
「ぷはー、いきかえるー」(死人ジョーク)
魔法使いのところにきてから、ずっとシャワーだけだったし。
それも水。
わたしはタオルを頭に乗せて体をうーんと伸ばした。
湯気で奪われる視界。熱が心地よい。
「さて、と」
わたしは溜め息をつく。
「どーしよっかなー」
677 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/12/06(木) 14:08:10.24 ID:yWTuIqKIo
なげやりに言葉を吐く。なんかもうどうでもよくなってきた。どうでもよくないんだけど。
だいたい、魔法使いが丸投げしすぎなのだ。
めんどくさい。
なんだかむずかしいことを考えすぎて頭が混乱してきた。
整理しようと思うけれど、ひさびさに入る大きなお風呂で頭がまわらない。
めんどくさいこととか全部なしにして、もうずっとお風呂につかっていたいなぁ。
でも、そういうわけにはいかない。……のだろうか?
別にその気になれば、ぜんぶ放り投げて一ヵ月寝て過ごしたってかまわない気もする。
わたしはいい加減腹を決めるべきなのだろう。どうするのかを決めないといけない。
「でもいまは考えなくていいや」
678 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/12/06(木) 14:08:49.40 ID:yWTuIqKIo
めんどくさい。
わたしはなんで死んだんだろう。どうせ入るなら川より銭湯に入ればよかったのだ。それなら死ななかった。きっと。
ばかみたい。
浴場にはわたし以外誰もいなかった。まだ早い時間だし、当たり前と言えば当たり前だけど。
たっぷり三十分ぼんやり体をお湯に浮かして、それからサウナに入ってまったり汗を流した。
体の感触がぼんやりしている。
「全人類に一日三十分のサウナ入室を命じたら、この世から戦争はなくなるかもしれないなぁ」
だってこんなに気持ちいいんだから、むずかしいことや嫌なことを考え続けるなんて困難にちがいない。
「ずっとこうしていたいなぁ」
「ずっとこうしてたら死んじゃうけどね」
「いやもう死んでるし」
と返事をしてから、誰かがいることに気付く。
わたしは顔をあげた。
679 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/12/06(木) 14:10:10.77 ID:yWTuIqKIo
「おはよう」
と"わたし"が言った。
「え?」
とわたしは訊きかえす。
女の子がいた。
見覚えのある顔だった。
というかわたしだった。
“わたし”は少し戸惑ったような顔で微笑む。
680 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/12/06(木) 14:10:36.60 ID:yWTuIqKIo
◇
「え、だれ……?」
「……うん」
うんじゃなくて。
"わたし"はちょっと考え込むような顔で俯いて、それからわたしと目を合わせてごまかすように笑った。
彼女はわたしの隣に座っている。同じような体型。……いや、彼女の方が痩せているか?
「……敵」
「え?」
「あ、いや……」
うん。何を言ってるんだろうわたしは。
681 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/12/06(木) 14:11:39.79 ID:yWTuIqKIo
「んーとね」
と"わたし"は少し子供っぽい口調で言った。
「ちょっと、うん。偶然?」
「え、なにが?」
「会うつもりは、べつになかったんだけどね」
“わたし”は取り繕うような微笑を崩さない。
「……誰なの? あなた」
わたしは真面目にきいたけれど、"わたし"は苦笑するだけだった。
「どの世界から来た『わたし』なの?」
「……えっと」
682 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/12/06(木) 14:12:07.26 ID:yWTuIqKIo
"わたし"は口籠る。
わたしは考える。
でも、そんなはずがないのだ。
あくまでもわたしの考えが正しければ、だけれど。
この世界は本来的には一本道だ、というのがわたしの推測の本筋だ。
そこに、魔法使いの力を借りて分岐させようとした人物が現れ、世界を世界aと世界bに分岐させた。
その考えでは、世界bが本流であり、世界a――この世界が生み出された分岐の世界。
わたしがいる世界、世界aは「二つ目の世界」。
仮にそうしたシステムでパラレルワールドが生み出されているとするなら、彼女のような人物は存在しえない。
世界はふたつしか"まだ"存在していないのだ。
だから、目の前にいる"わたし"は、存在しえない。
683 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/12/06(木) 14:13:02.12 ID:yWTuIqKIo
だって彼女の見た目は、わたしとほとんど同じだった。
でも、この年齢まで育つことができるのは世界aのわたしだけ。
世界bのわたしは、もっと幼い頃に死んでしまうのだ。
だから、ありえない。いや、もしくはわたしの考えが間違っているのか。
「……うーん」
「どうしたの?」
ずっと考え込んだわたしに向けて、"わたし"が訊ねた。
「よくわかんなくなってきた。サウナで難しいこと考えるの、むずかしい」
「そっか。うん。考えない方がいいよ、あんまり。わたしも、今はゆっくり休んでるだけだから」
「ふうん」
「うん」
それ以上、"わたし"は何も言わない。わたしにしては気弱だ。
684 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/12/06(木) 14:13:28.80 ID:yWTuIqKIo
「ひょっとしてあれかな。この状況は、自分の内面の思考が視覚的に表現されてるみたいな、映画的手法だとか」
実際にそんな手法があるのかどうかはしらない。
「――え?」
「……では、ない?」
「――さあ?」
なんとも頼りない。
「ま、いいや。そんなことは。だってサウナ、気持ちいいもんね」
「うん」
685 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/12/06(木) 14:13:55.13 ID:yWTuIqKIo
頷いただけで、"わたし"はそれ以上話を広げようとはしない。
なんなんだかよくわからない。
「じゃあ、わたしの内面ってことで。じゃあ、さ、ねえ、"わたし"」
"わたし"は首をかしげた。
「わたしは、どうすればいいと思う?」
わたしは大真面目に訊ねた。
答えは大真面目にシンプルだった。
「――さあ?」
「だよねえ」
わたしはまた溜め息をつく。
686 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/12/06(木) 14:14:33.31 ID:yWTuIqKIo
「サウナ、出ようか」
立ち上がって促す。バスタオルで体を隠しながら、"わたし"は立ち上がった。
「それ、なに?」
"わたし"はわたしの視線が自分の腕にあると気付くと、それをさっと隠した。
わたしは怪訝に思いながらも、サウナを出る。
汗を軽く流して、ふたたびお湯につかった。
「わたしね、どうすればいいんだろう」
わたしは“わたし”に訊ねた。
「どうすればいいのか分からない。どうすればいいの?」
687 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/12/06(木) 14:15:11.48 ID:yWTuIqKIo
「迷ってるんでしょう? 自分がすることに意味があるのか? それをしてもいいのか?」
そうでしょう、と“わたし”は言う。
「そうだよね。ふつうに考えたら、そんなことは“してはいけない”。まともじゃない。
だからあなたは迷ってるんでしょ? この期に及んで。
そんなことをしたところで何になるのかって醒めてる。
忘れたふりをしてる。あなただって何か、どうしても納得できないことがあってここに来たはずなのに」
そうじゃなければ、その姿のあなたがここにいるわけがない。
“わたし”は言った。
わたしは少し、ばつが悪い。
「あなたは……」
と“わたし”は言った。
688 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/12/06(木) 14:15:45.00 ID:yWTuIqKIo
「こんなことを言ったらなんだけど、ずるい」
それっきり“わたし”は黙っていた。わたしも自分で、そのことには気づいていた。
そうだ。
わたしはずるい。
結局、逃げたのだ。向かい合わなかった。
「でも、しかたないでしょ?」
とわたしは拗ねたような気分で言った。
「あーあ。お兄ちゃんと結婚したかったなあ」
冗談まじりにわたしは言った。
「――うん」
と“わたし”は大真面目に頷いた。
どうかしてる。
689 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/12/06(木) 14:16:11.52 ID:yWTuIqKIo
「でも、できないんだよね」
「うん」
「……事実婚でもよかったかな」
いや、別に法的には問題なかったはず……いやあるか? あるかもしれない。
「……その、相手の気持ちは?」
と“わたし”はちょっと様子をうかがうみたいな声で言った。
「いや、うん」
それが問題で、わたしは死んだわけなんだけど。
「うん」
とわたしはもう一度頷いた。
690 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/12/06(木) 14:16:59.44 ID:yWTuIqKIo
「でも、死んじゃったもんは仕方ない」
だから、仕方ない。
仕方ないのに、納得できなくて、こんなところまできた。
馬鹿げた冗談みたい。
「ねえ、もう一度生きたいって思う?」
“わたし”は言った。
わたしは少し考えた。でも、それはできない。
「うん」
とわたしは頷いた。でもね、それは無理なんだよ。どうやら無理らしいんだよ。
この世界をどんなふうに変えたってわたしはもう死んでいるんだ。
「そう」
と“わたし”は短く言った。それだけだった。
「それでも……」
とわたしは言った。“それでも”、どうなりたいんだろう。どうしたいんだろう。
691 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/12/06(木) 14:17:25.45 ID:yWTuIqKIo
つづく
692 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[sage]:2012/12/06(木) 16:20:57.91 ID:C+9rrftIO
乙
693 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[sage]:2012/12/06(木) 20:40:47.75 ID:vbsbawHZo
乙
ここまで来たら最期まで見届ける
694 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[sage]:2012/12/06(木) 21:39:55.96 ID:i1+2CaC+o
乙
死人ジョークワロタ
695 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/12/12(水) 15:38:26.96 ID:lrkQRkuKo
◇
浴場を出て着替えを済ませる。最後に"わたし"の姿を何度か探したのだけれど、結局見つからなかった。
まさか本当に自分の内面と対話してたわけじゃないだろうけど。
「うーん」
疑問にうなりながら鏡を見て、タオルで髪をぬぐう。
風呂は心の洗濯といいまして。
「まいっか」
我ながら軽い。
お風呂に入って自分と対話を済ませて、もう頭なんてからっぽでいい。
……ともいかない。これからどうするかだけでも決めておかないと。
とりあえず……服屋にでも向かおうか?
代えの服もないわけだし。
でも、わたしとケイくんに関しては、別に平気なのだ。魔法使いのサポートが受けられることになっている。
だから、服は汚れないし、汚れたとしてもすぐに戻るのだと言う。
「というより、体がばらばらに千切れたって五分経てば治るよ?」
と魔法使いは言っていた。これはケイくんは無理。わたしだけ。
つまり死んでいるから、これ以上死ねないってことだ。
でも、じゃあ、動けるのって矛盾してる。
そういうこじつけじみた辻褄あわせって、なんだかすごく居心地が悪い。
696 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/12/12(水) 15:38:58.79 ID:lrkQRkuKo
でも、ケイくんの場合は服が元に戻る。これは別の世界からあらわれた人間だから、らしい。
でも、叔父bだって世界bからきた人間だ。
彼の服が元通りにならないのは、単にこの世界に叔父の異世界同時間体(と魔法使いは呼んでた)が存在するから、らしい。
異世界同時間体、つまりお兄ちゃんのことだ。
よく分からないけど、
「異世界同時間体が存在する人物に対して魔術的に干渉してしまうと、異世界同時間体に対しても影響が出てしまう」
――らしい。
簡単に言うと、"人物a"という人物に対応する異世界同時間体="人物b"が存在するとする。
このとき、"人物a"対して魔術的干渉を行うと、"人物b"の方にもその影響が出てしまうのだという。
なんでも、魔術を人物に対して行使する際に、魔法使いはその人物固有の情報というものをそのよすがにするらしいのだが。
その情報というのがあまり抽象的でない、具体的ものらしい(名前、年齢、背格好、血液型、誕生日、など)。
異世界同時間体と、その人物の情報は大抵の場合一致するため(一致しないなら別人ってことでいいし)、
魔術を行使する際、人物aに魔術をかけると人物bにも魔術が掛かる。
結果――人物aと人物bの間に、魔術の行使者を媒体にして魔力的なパイプが出来る。
このパイプができあがってしまうと、その後、人物aと人物bの間に情報的な区別がなくなる。
697 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/12/12(水) 15:39:26.35 ID:lrkQRkuKo
具体的に言うと――人物aが知らないはずの、人物bが知っている情報を、人物aが知ってしまう、などの現象が起こる。
しかもその現象には結構幅があって、異世界同時間体=人物bの精神状況が抑うつ的だったりする場合なんかだと、
人物aもまた抑うつ的になる。また、人物aが楽しい気分のときは、人物bも楽しい気分になる。
同様に人物aが知っている知識や情報、人物aの思考などが、不意に人物bに流れ込むこともある。
すべてお互いに、そういうことになりうる。
その流入があまりに圧倒的な場合……昏倒したまま目を覚まさないこともある、とか。
また、魔法使いが多少手をくわえさえすれば、行き来しあう情報をある程度操作することも可能らしい。
居場所、とか。認識に大きなズレが生まれた場合、原因はおそらくそのあたりにあるんだろう。
ずいぶん世知辛くも大雑把なファンタジーだ。
698 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/12/12(水) 15:39:54.48 ID:lrkQRkuKo
……なんていう長々とした説明を、受けた。
……いつうけたっけ?
わたしは不審に思う。そんな説明うけたっけ?
そしてちょっと笑い出しそうになった。
おいおい、まさかさっきのあの子がわたしの異世界同時間体ってわけじゃないだろうな?
そしてひょっとして、わたしたちの間には既に魔法使いを媒体にした魔術的なパイプが出来上がっているのかもしれない
それを笑い飛ばそうとするには、わたしの頭はちょっと混乱しすぎていた。
魔法使いにとってのイレギュラー。
それっていったいなんだったんだろう?
699 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/12/12(水) 15:40:22.08 ID:lrkQRkuKo
◇
十時過ぎに服屋に向かう。
叔父bは最初は渋ったが、
「正直、汗くさいよ?」
というと仕方なさそうに頷いた。汚れた服のままは嫌だろうと思ったのだが、余計なお世話だっただろうか。
でも、実際に汗くささを感じたわけじゃない。お風呂には入ったわけだし。
というよりむしろ、不思議なくらいだった。
昨日は埃っぽい駅舎で眠ったわけで、それを考えれば、服はもう少し汚れていてもいいくらいだった。
そもそも、最初見た時と今とでは、服装が微妙に異なっている気がする。気のせいだろうか。
それはともかく、服を選ばなきゃ。
叔父bは服屋に入ると早々に安売りのコーナーに向かってTシャツとジーンズをつかんだ。
夏だし、昼間はたしかにそれでもいいだろう。実用的には。
700 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/12/12(水) 15:40:51.81 ID:lrkQRkuKo
「とはいえ……」
さすがに、なんかこう、許せない。
お兄ちゃんもそういう人だった。服なんて着れればいいやとでも言いたげ。
小学を卒業するころにはそういうことにも気づいて、お兄ちゃんの服はわたしが選ぶようになったっけ。
……任せておくとすぐ、安いって理由で変なものを買ってくるのだ。
「だめ。それだめ」
と叔父bが手に持ったシャツを戻す。
「なぜ?」
「なぜって」
なぜかといわれると、説明しにくいのだが、いやなのだ。
ケイくんが意外そうな目でこちらを見ている。
701 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/12/12(水) 15:41:18.89 ID:lrkQRkuKo
「とにかく、お金出すのはわたしなんだから」
「だから安いのを選んでるんだろう?」
「問題はそこじゃなくて、お金に見合った価値があるかどうかなの」
「服なんて着れればいいよ」
わたしは溜め息をついた。
「いいから。とにかくわたしが選ぶ」
叔父bもまた溜め息をついた。
702 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/12/12(水) 15:41:59.23 ID:lrkQRkuKo
結局服を選び終わったのは十一時を過ぎた頃だった。
叔父bが伊達眼鏡がほしいというので、彼が選んでいる間、わたしは一度店を出て自販機でジュースを買って飲んだ。
なんだか無駄に体力を使った気がする。
缶ジュースを飲みほして、ゴミ箱に捨てる。
ケイくんが現れた。
「まだ選んでるみたいだよ」
叔父bはまだ店の中にいるようだ。
「なんだか、意外だったな」
「意外? 何が?」
「お前が」
703 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/12/12(水) 15:42:47.23 ID:lrkQRkuKo
「わたし? わたしの何が?」
「見たこともないような顔をしている」
……心外だった。
「どんな?」
「普通の女の子みたいだ」
「……」
彼の認識では、わたしは普通の女の子ではなかったんだろうか。
704 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/12/12(水) 15:43:18.56 ID:lrkQRkuKo
◇
会計を終えて店を出る。叔父bは服を着替えた。着ていたものはビニール袋の中にまとめた。
うーん、とわたしは唸る。なんだかお腹が空いた。腕の中には叔父bの服が入れられたビニール袋。
仮に……もし仮にだが。
この服が汚れていなかったとしたら、どうだろう?
つまり、魔法使いの魔術の行使の対象であったとしたら。
そんなことを、本来なら魔法使いがするはずはない。
でも、魔法使いには、わたしに隠したままにしている目的があるような気がする。
不審なのだ。
たとえば、だ。
魔法使いがむしろ、何らかの目的で、お兄ちゃんと叔父bの間に魔力的パイプを作ろうとする、というのは考えられないだろうか?
それで何が変わるのか、というと、おそらく未来が変わる。
705 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/12/12(水) 15:43:47.86 ID:lrkQRkuKo
叔父bとお兄ちゃんの思考、経験、記憶はそれほど大きく異なっているからだ。
仮にそれがどちらかに流入すれば、行動にも変化が起こる。当たり前のように。
結果、未来は大幅に変化するだろう。
でも、そうだとすれば、別に服に魔術を掛けることもない。
もっと分かりにくい手段を選べばいいだけなのだ。それに今は根拠がない。
とはいえ。
汚れがあまりついていないのは気になった。
なんとなく、服に鼻先を近づけようとしてやめる。何をやろうとしているのだわたしは。
仮にこの服が汚れていないにしても、もともとあまり着ていないものだったのかもしれないし。
……いや、それはないか?
昨日は駅舎で夜を明かした。それでなくても、わたしたちは結構な距離を歩いている。
汗の匂いくらいはつくだろう。
706 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/12/12(水) 15:44:14.59 ID:lrkQRkuKo
うーん。
確認するだけなら……。
しかし、なんだかこれって変だ。そもそもお兄ちゃんと叔父bは別人なわけで、こんなことをするのは精神的浮気というか。
いや、浮気ってなんだ。ちょっと混乱している。
それにもし匂いがしたらどうするのだ。それはそれで嫌じゃないか?
うーん。でも、ひょっといてお兄ちゃんと同じ匂いがしたり……。
……待て。それで心が揺れたらまずい。別にお兄ちゃんの匂いをかぎたいわけではないはずだ。
第一、叔父bとお兄ちゃんは別の家で別の生活をしているわけで、だとするなら匂いだって異なるはずだ。
それを思えばがっかりというか安心というか、って、それは両方変だ。
「うう……」
混乱している。
「ええい、ままよ!」
と鼻先を服にうずめた。
「……」
匂いがしない。
疲弊しただけだった。
707 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/12/12(水) 15:44:56.01 ID:lrkQRkuKo
◇
お昼はラーメンを食べた。
あんまり同じ店に行くのも嫌だったので、ファミレスはやめておいた。
それにわたしがラーメンを食べたかった(これが大きい)。
わたしはさっきのこともあって叔父bと話すのが気まずい。
いや、わたしが勝手に勝手な行動をとっただけなんだけど。
ラーメンを食べ終えて、沈黙を振り払うために口を開いた。空回りばかりしている気がする。
「ね、そういえばさ、荷物、届けないといけないんじゃない? 昨日受け取ってたやつ」
「……ああ」
叔父bは、気乗りしないふうに返事をした。
「……届けようにも、僕が家に入るわけにはいかないよ」
「そこは、ほら、忍び込むとか」
708 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/12/12(水) 15:45:31.56 ID:lrkQRkuKo
わたしは自分が何故、こんな話を始めたのか分からなかった。
もしかしたら、銭湯で"わたし"と話したのも、無関係じゃないのかもしれない。
「……どっちにしろ、あなたは一度あの子に会っておくべきだと思う」
あの子、というか、この時間におけるわたしなのだけれど。
なぜそう思うのかは分からない。
でも、そう感じた。彼はわたしに会うべきなのだ。そこから何かヒントを得られるかもしれない。
その思考は、おそらくは"外側"からきたものだ。
「どうして?」
「なんでかは知らない。でも、なんかそういうの、ない?」
わたしは正直に言った。彼は溜め息をついて考え込む。
何かが変わりそうな気がするのだ。いまからだって、けっして手遅れじゃなく。
……わたしは死んでるんだけど。
709 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/12/12(水) 15:45:58.41 ID:lrkQRkuKo
◇
店を出ると、叔父bもケイくんもいなくなっていた。
「あれ?」
とわたしは思う。いったい何が起こったんだろう。
不審に思って周囲を見回す。でも、ふたりの姿はどこにもなかった。
いったいどこに行ったんだろう。
でも、辺りにはほとんど人がいない。見失うわけがない。
じゃあ、どうしてはぐれたりするんだろう。
……。
わたしはポケットからスマホを取り出した。魔法使いに電話を掛ける。
数度のコール音の後、電話がつながった。
「もしもし」
「もしもし?」
710 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/12/12(水) 15:46:40.69 ID:lrkQRkuKo
「今平気?」
「……うん。割と平気。どうしたの?」
彼女の声に、どこか空々しさが含まれているように感じるのは、わたしが彼女を疑っているからだろうか。
「ケイくんと、あの人、いなくなっちゃったんだけど」
「……あ、うん」
それは変な反応だった。何か、あらかじめそうなることを知っているような反応。
わたしの疑念は膨らむ。
「どうしたんだろう?」
「言ったでしょ。超常現象を起こすんだって」
「……え、これがそうなの?」
「うん」
711 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/12/12(水) 15:47:07.22 ID:lrkQRkuKo
巻き込まれた人間が超常現象を起こすのは、世界移動の際に行使された魔法使いの魔力が肉体に残留するからだという。
その魔力を、巻き込まれた人間は強い感情を持つことで行使できる。らしい。
「……じゃ、これはどういうこと。わたしの傍にいたくなくなったってこと?」
「さあ。ひとりになってゆっくり考えたかったんじゃない?」
……なんだそれは。
「叔父の方はともかく……ケイくんまでいなくなってるんだろう」
彼に、そんな強い感情を抱く理由があるんだろうか。
だって彼は、わたしの傍にいるためにこの世界にきたのに。
そうしてくれると言ったのに。
魔法使いは曖昧に言葉を濁した。
「さあ。彼もひとりになって考えたかったんじゃない?」
その声には、やはりどこかしら空々しい響きが含まれている。
712 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/12/12(水) 15:47:47.04 ID:lrkQRkuKo
「ねえ、今から会いにいってもいい?」
電話の向こうに沈黙が下りた。
わたしは後悔した。
「……なぜ?」
絞り出すように魔法使いは言う。
「なぜって……」
理由が、必要なのだろうか。たしかに忙しいとは言っていたけど……。
「わたしがいると、不都合でもあるの?」
彼女は電話越しに息をのんだ。わたしの心臓が強く鼓動する。
こんなことを言ってしまって、大丈夫なのだろうか。
「……いいよ。来ても」
と彼女は言った。
713 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/12/12(水) 15:48:29.55 ID:lrkQRkuKo
◇
三十分後、わたしはショールームにいた。相変わらずドアが並んでいる。
たくさんのドア。いくつものドア。でもそれらの大半はわたしには無意味だ。
わたしは緑色のドアを探す。
それはすぐに見つかった。魔法使いが意思的に開いている。
少し、後悔していた。
わたしは彼女のことを知ろうとするべきではなかったかもしれない。
でも、ここまで来てしまったのだから、仕方ない。
わたしはドアノブを回す。
そのときだった。
声が聞こえたのだ。誰かの声。その声には聴き覚えがある。
『切って』
『え?』
『いいから』
会話だ。わたしはびっくりして心臓が止まるかと思った。でもその会話は、ここでなされているのではない。
どこか遠くの方で、行われているのだ。
714 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/12/12(水) 15:49:03.85 ID:lrkQRkuKo
『どうして?』
男と女、二人の会話だ。
『意味なんてないよ』
と女の方が言った。
『でも、教えてあげなきゃ』
男の方が、怪訝そうな声を出す。
『何を?』
『わたしが……ここにいるって。そういうことが、起こってるんだって』
『……でも、こんなことをしたって意味がないだろう?』
『そうかもね』
『……なあ、お前、さっきから変だよ』
『いいから、その弦をさっさと切って!』
聞き覚えがある、どころじゃない。
この声は。
ケイくんとわたしの声。
でも、声だけじゃなかった。
もっと強い何かが、わたしの中に流れ込んできた。
それは感情だった。濁流のように強い感情。
715 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/12/12(水) 15:49:46.92 ID:lrkQRkuKo
何かを憎む、何かを求める、強い感情だった。そして、手に入らないことを悲しむ、強い感情だった。
それはあまりにしたたかにわたしの心をかき混ぜる。
強烈な感覚がわたしの肉体を支配した。
痛みとも違う。疼きとも違う。なんなのかよくわからない感覚。
でもそれが原因だった。
そこでわたしは意識を失ったのだ。
その間際、
「ごめんね」
と魔法使いが謝る声が聞こえた気がした。
716 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/12/12(水) 15:50:57.29 ID:lrkQRkuKo
◇
意識を失なっている間、夢を見ていた。
あるいはそれは夢ではないのかもしれない。
夢の中の"わたし"はケイくんと一緒に花火大会に向かった。なぜかは分からない。どちらも深刻そうな顔をしている。
「なあ、何をしにいくんだ?」
とケイくんが言う。"わたし"は答えない。ただ歩き続けている。その表情は暗い。足取りは重い。
「さあ?」
と夢の中の"わたし"は言った。
「何ができるんだろう」
ケイくんは気まずそうな顔をする。
「わたし、何をしにきたんだろ」
その言葉に、彼は溜め息をつく。
717 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/12/12(水) 15:51:23.89 ID:lrkQRkuKo
「そんなの、俺が知るわけない」
「そうだね」
夜道を歩いて、花火大会の会場につく。
"わたし"たちはそこで、お兄ちゃんと、その姪の姿を探した。
"わたし"は。
そこで、お兄ちゃんが、わたしの知らない女の人と話している姿を見た。
"わたし"は混乱する。なぜ混乱したのか、彼女には分からない。
でも"わたし"にはよく分かった。それはわたしの死の原因にもなったのだ。
わたしはお兄ちゃんがわたし以外の誰かと一緒にいることが恐ろしかった。
それが花火大会なんて特別なシチュエーションならばなおさら。
その感情が、夢の中の"わたし"に反映されたのだ。
そして"わたし"は。
……"わたし"は……。
718 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/12/12(水) 15:51:53.89 ID:lrkQRkuKo
◇
頭がずきずきと痛んだ。
意識を取り戻す。うすぼんやりとした視界が、徐々に鮮明になっていく。
控室。どうやら、控室にいるらしい。
体を起こすと、すぐ傍に魔法使いが座っていた。
「や、久々」
彼女は少し、疲れているように見える。
「……今日、何日?」
「八月六日の夜。って言ったら、怒る?」
「……八月、六日?」
その日は、何か、あっただろうか。何か大事なことがあった、という気もする。
でも、なんだか、頭が朦朧として、うまく考えられない。
「起きて早々悪いんだけどさ、今、お客さんが来てるんだ」
「……そのお客さん、わたしよりも大切?」
魔法使いは困ったような顔になった。でもわたしは怖かった。今、わたしはひとりぼっちなのだ。
719 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/12/12(水) 15:52:20.02 ID:lrkQRkuKo
「ケイくんはどこ?」
「……」
魔法使いは少しの沈黙のあと、
「ごめんね」
と言った。
彼女は彼の居場所を知っているのだ。
「なんだか、疲れたな」
とわたしは言った。
「眠っていてもいい?」
彼女は何も言わなかった。
ただ、憐れむような目でわたしを見た。そのことが一番悲しかった。
720 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/12/12(水) 15:53:40.35 ID:lrkQRkuKo
「ごめんね」
とふたたび魔法使いは言う。
「べつに蔑ろにしてるわけじゃない。でも、どうにかできるかもしれないの」
魔法使いは真剣な声音で言う。
「もちろんそれも、結局分岐をつくるってだけに過ぎない。でも、何かが変わりそうな気がするの」
そして彼女は微笑した。
「あなたのおかげ」
わたしには、その言葉の意味がつかめない。
「ありがとう」
そして彼女は、わたしの額に手をおいた。
「おやすみなさい」
意識が混濁する。
わたしは眠っていく。
置き去りにされていくのだ。
721 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[sage]:2012/12/12(水) 15:57:01.09 ID:lrkQRkuKo
つづく
187-3
612-3
640-1
664-12
717-1
俺 → 僕
またやってしまったのでついでに全て訂正
722 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[sage]:2012/12/12(水) 16:05:09.87 ID:IbV5b1IEo
乙
どういう風に読むのがわかりやすいんだろう
全容を把握するのは困難だ
723 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[sage]:2012/12/12(水) 16:10:22.25 ID:RaYxCh1IO
何かが進んでるようで進んでないような感覚だからか?
時系列が確認しにくい
724 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/12/18(火) 19:11:26.54 ID:h1CoNVIXo
◇
鈍い痛み。靄に包まれたように頭がはっきりしない。
深い霧の中に彷徨いこんだようだ。視界が黒く覆われている。身体が重くてうまく動かせない。
ひどく肌寒い。水の気配がしている。水流。流されていく。ぶつかっていく。
身体中を軋ませるような衝撃、ぎしりという骨がゆがむ音。わたしの身体。
酩酊するわたしという意識。放り投げられて置き去りにされた意識。中空にふわりと飛んで弾けるシャボン玉。
わたしは死んでしまったのだ。
けれど、尚もわたしは目を覚ます。わたしは目を瞑っているのだ、とわたしは思う。視界が黒いのはそのせいだ。
目を開ければ光は見える。
だからわたしは瞼を開く。
「……」
音がないことに、真っ先に気を取られた。耳鳴りのしそうな静寂。
わたしは控室に寝転がっていた。冷たいコンクリートの感触。指先に触れる、固くざらついた地面。
痛みに、額を押さえる。何かがちぎれるような痛みが頭の中で起こる。
何かが千切れていく。断線。わたしの時間。何もかもが判然としない。霧に覆い隠されてしまった。
生き延びている。
725 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/12/18(火) 19:11:55.54 ID:h1CoNVIXo
「……ねえ」
と声をあげた。たぶんあげたと思うのだけれど、それは音にならなかった。
この暗い場所に、その声は反響すらしなかった。ただ暗闇に吸い込まれていくだけだった。
誰もいないのだ。
誰もいない。
「ねえ!」
とわたしは喉を鳴らした。その音も、やっぱりどこにも向かわない。自分の耳にすら。
ぽつり、と水滴が落ちる音。耳がおかしくなったわけじゃないのだ。水滴は落ち続けている。ぽつりぽつり。
わたしは体を起こす。起こしてから、その冷たさに身震いした。
床が、水に浸されている。
水位があがっていく。
――悪趣味だ。
全身は重い。頭はうまく回らない。わたしは迷路のような控室を歩きはじめる。光は差し込まない。
726 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/12/18(火) 19:12:21.94 ID:h1CoNVIXo
水の気配。……どこに向かえばいいんだろう。いまはいつなんだろう?
わたしのポケットには例のスマートフォンが入っている。わたしはそれを取り出した。でも無駄だった。
日付も時刻も分かったけれど、その日付や時刻がどのような意味を持つのか分からない。
あのとき、一度目をさましたときに、魔法使いが言ったことが嘘じゃなければ、それよりも少しあとの日付。
……魔法使いはどこにいるんだろう。
わたしは……。
「わたしは……」
迷路のような控室。声は自分の身体よりもずっと早く、ずっと遠くにつくはずなのに。
わたしの声は今更誰の耳にも届かない。
727 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/12/18(火) 19:12:54.30 ID:h1CoNVIXo
そうなんだよ、とわたしは思った。ここが行き止まりなんだよ。
わたしの限界はここなんだ。でもそれはずっと前からそこにあったんだ。
水の中、溺れながら助けを求めたときからずっと、それは影のようにわたしに張り付いていた。
わたしは行き止まりの前で行ったり来たりを繰り返しているだけ。
その先はもうない。
「それでも」
とわたしは言う。声はどこにも響かなかった。
それでも、まだやめるわけにはいかない。
分かりきっている。
それでも、わたしには、"わたし"には、あるいは、そのどちらにも、そうする以外に手段がない。
728 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/12/18(火) 19:13:21.60 ID:h1CoNVIXo
魔法使いの姿は見つからない。控室の出口も見つからなかった。
わたしはこの状況について考える。閉じ込められているのだろうか? なぜ?
何のために? どうして? 心当たりがまったくない。
わたしが邪魔だから? 必要じゃなくなったから?
そうかもしれない。そうじゃないかもしれない。
わたしは魔法使いに電話を掛けようとして、やめた。
彼女は絶対に、本当のことを言わないだろう。そんな気がした。
……じゃあ、どうする?
わたしはあたりを見回す。明かりのない暗い通路。水滴の音。
水位は上がっていく。まるで砂時計に閉じ込められたみたいだ。
そう、砂時計。
段々と浸っていき、また時間が入れ替わる。逆さになる。
見える景色も何もかも。ぜんぶさかさまになる。
729 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/12/18(火) 19:13:49.45 ID:h1CoNVIXo
とりあえず、歩いてみる。でも何かを期待したわけじゃない。誰かと会うことを期待したわけじゃない。
会いたかったけれど。
でもわたしが探しているのは「出口」だ。
この迷路の出口を探している。
迷路の出口を探すには歩くしかない。歩いて得た情報を繋ぎ合わせ、取捨し、選択する。
やがて出口は見つかる。それが本当にあるのなら。
歩いていく間にも水位はどんどん上がっていく。わたしは出口を探している。
でも、どこに出ればいいんだろう?
わたしはもう、何も変えられなくたってかまわないような気がする。
扉を見つける。大きな扉。
大きな鉄扉。わたしはそれを押し開ける。
濡れた靴の感触が気持ち悪い。
扉の向こうを歩く。水位はどんどん上がっている。
……いや、違う。
わたしが沈んでいるんだ。
730 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/12/18(火) 19:14:47.04 ID:h1CoNVIXo
水の中。
波紋が浮き立つようにわたしの身体を絡め取る。
気付けばわたしは水の中にいる。でも、ちっとも苦しくない。
なぜならわたしにはエラがあるから。
そう、わたしはいま魚なのです。
水の中に絡め取られて、わたしは流れに乗ってすいすい泳ぐ。軽快に。無目的に。
ここは水槽の中。誰もわたしに触れられない。見ることはできるけれど。
だから反対に、硬化ガラスの向こう側の世界に、わたしは触れられない。見ることだけはできるけれど。
七色の鱗を光らせてすいすい泳ぐ。どこにだって行けそうな気がする。尾ひれをぶんぶん振って。
お兄ちゃんが、ガラスの向こうにいる。きっと向こうは、夜の水族館。あの人はこっちなんてちらりとも見ていない。
つらそうな顔をしている。
わたしはそこに行きたかった。
でも、このガラスが破れたら、水をなくしたわたしは死んでしまうかもしれない。
水にのまれたお兄ちゃんは死んでしまうかもしれない。
わたしは人間になりたい。
731 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/12/18(火) 19:15:52.18 ID:h1CoNVIXo
◇
目を覚ます。つまり今見ていたのは夢だった。でもどこからが夢なんだろう。
景色は相変わらず控室の中。日付はさっき、スマホで確かめた通り。
なら、途中から妙な幻覚でも見ていたんだろうか。
しっかりしろ。現実をしっかり見ろ。……どこからが現実なのか、わたしには見分けがつかないけど。
でも、その努力だけはしなくては。目を離してはいけない。
「ああ、起きたんだ」
と声がした。久々に誰かの声を聞いた気がした。
わたしは誰かに会いたかったはずなのに……この場に誰かが現れたことが嫌で嫌で仕方なかった。
わたしは声の主を仰ぎ見る。
ケイくんが扉を背に立っていた。
だからわたしは、彼の名前を呼ぼうと思ったんだけれど。
声を出す気になれなかった。
732 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/12/18(火) 19:16:37.94 ID:h1CoNVIXo
「どうした?」
と彼は訊ねる。わたしは仕方なく答えた。
「べつに……」
彼は少し戸惑ったような顔をしたけれど、すぐに気を取り直したようだった。
「それで、これからどうするんだ?」
「……どう、しようか」
わたしは頭が痛くて、うまく物事を考えられない。
彼が扉に向き直り、それをくぐったので、わたしもそれを追った。
出た先はショールームだった。時間は、分からない。夜だろうか? たぶん夜だ。
何かを、思い切りたたきつけて、壊してみたいような、気がしている。
733 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/12/18(火) 19:17:14.44 ID:h1CoNVIXo
◇
もういいじゃないか、とわたしは思う。別にもうどうだっていいじゃないか。
何をやったところで意味なんてないんだ。
わたしはもう終わっているんだから。何もかもどうだっていい。
「どうする?」
とケイくんが言った。
「どうしよう?」
どうしよう。
控室の、少し開けたスペース。そこには人影があった。
小さな人影。子供のような。「あの子」だろうか。
734 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/12/18(火) 19:17:41.20 ID:h1CoNVIXo
「――?」
でも違う。
あの子じゃない。
巻き込まれてここにやってきた彼女。
わたしが叔父bをこちらに連れてこようと思った理由。
……いや、連れてこようとした理由は別か? 会いに行こうとしただけだっけ。
どうだっただろう。
わたしの思考は曖昧で手遅れでやけっぱちだ。
でも、待って。あの子じゃないなら、世界bの姪でないのなら。
"違う"なら誰なの? この子は。
735 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/12/18(火) 19:18:10.31 ID:h1CoNVIXo
「……なに、これは」
とわたしは訊ねた。ケイくんは困惑している。
だってつまり、この子は。消去法として。ううん、もっと単純に、服装や身長からして。
わたしじゃないか。この世界の、この時間におけるわたし。"過去"のわたし。
「なぜこの子がここにいるの?」
「なぜって……」
彼の困惑は深まっていく。怯えた目でわたしがわたしを見る。
「お前が言ったんだよ、僕に。この子を連れてこなきゃいけないって。そうしないといけないって。
そして自分で連れてきたんだろ、この子を。……大丈夫か?」
「そんなの――」
まるで覚えがない。
言い知れない恐怖がわたしの背筋を撫でた。
これはいったい、なんなんだ?
736 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/12/18(火) 19:18:46.12 ID:h1CoNVIXo
◇
「それで?」
とお兄ちゃんは言った。我々はファーストフードショップの窓際の席に陣取って座っている。
昼間だと言うのに人が少ない。店員の動く音さえ聞こえない。ただ忙しない厨房の音だけが聞こえている。
気配だけが聞こえているのだ。
「そのあとは?」
世界aにおけるお兄ちゃん――要するに過去のお兄ちゃんと、わたしは向かい合って座っている。
わたしは何もかもを終わらせようと、彼のもとに過去のわたしを返そうとしたのだ。
けれどそのとき隣には、世界bの過去のわたしがいた。
だからわたしはの混乱は深まる。
「それから……」
とわたしは答えようとする。でも答えはうまく発せられない。
お兄ちゃんは言葉にしなかったけれど、既に、わたしが未来の姪の姿だと気付いているようだった。
「何があったのか、話してほしい」
そう言って、わたしがこちらに来ることになった事情、こちらに来て起こったことについて、彼は説明を求めた。
躊躇いはあったけれど……かといって、今となっては黙っていることも無意味だと感じられた。
737 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/12/18(火) 19:19:19.03 ID:h1CoNVIXo
要するにどこかの段階で――事態は破綻したのだ。
目の前に座るお兄ちゃんの隣には、ポテトを齧りながら窓の外を眺める姪bの姿がある。
「あのときわたしの前にいたのは、たしかに、その子じゃなく……」
「"この世界の姪"だった?」
わたしは頷く。
彼は考え込むように唸った。……なぜだろう。お兄ちゃんの姿を見ていると、ひどく落ち着かない気持ちになる。
"あのあと"。控室で目覚め、そこに"この世界の姪"の姿を見つけた後。
ケイくんは"わたしがさらってきた"と言った。
わたしはそんなものに覚えなんてなかった。
「わたしはそれから、ひどく混乱してしまって……」
「ああ」
とお兄ちゃんは平然と頷く。
……彼のこの余裕はなんなんだろう? 気味が悪いほどの。
立場が、逆転しているのだ。
738 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/12/18(火) 19:19:52.76 ID:h1CoNVIXo
姪bは静かにお兄ちゃんに視線をうつしながら、自分の分のシェイクのストローに口をつけた。
けれど中身は既に空だったらしく、彼女は少し残念そうにカップを置きなおした。
お兄ちゃんは自分の分のシェイクを彼女に差し出しながらもう一度促した。
「それで?」
姪bがストローに口をつける。彼女はわたしの視線に気づき、怯えたように目をそらす。もう片方の手でお兄ちゃんの服の裾を掴んだ。
わたしの頭痛は止まらない。
「それで……」
それから……。
「分からない。ケイくんに何かを怒鳴ったのは覚えてる。でも、あの子は結局、どこかにいってしまったの」
「どこか?」
「……分からない。たぶん魔法使いがどこかに移動させたんだと思うんだけど」
「なぜだろう?」
「分からない」
わたしはなんだか胸が苦しい。
739 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/12/18(火) 19:20:38.68 ID:h1CoNVIXo
「わたしはケイくんと話をした。何が起こっているのか。でも、彼の話とわたしの話は食い違っていて……」
そう、ひどく食い違っていた。わたしは自分の頭がおかしくなったのかと思った。
だってそれは本当に記憶にないことばかりで。でも状況は、記憶よりもケイくんが正しいと言っていたのだから。
「落ち着けよ、ってケイくんが言ったの。でも落ち着けば落ち着くほど、頭がおかしくなりそうだった。
冷静に考えれば考えるほど、怖くてたまらなかった。だから咄嗟に……」
「うん」
「ケイくんに、言っちゃったの」
「……なんて?」
「落ち着いたところでどうなるっていうの、って。"わたしは既に死んでいるんだよ"って」
「…………」
お兄ちゃんはそこで少しだけ表情をこわばらせた気がした。
「……ケイくんには、そのこと、言ってなかったから。ショックを受けてたみたいだった。どうしてかは、分からないけど」
「それは、ショックだろうね。彼の場合は」
お兄ちゃんは妙に納得した風な態度を取ったけれど、わたしにはよく分からない。
740 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/12/18(火) 19:21:06.82 ID:h1CoNVIXo
「だから怒りもする。――そのあとは?」
「ケイくんはショックで黙り込んじゃって、その子とわたしと彼は、物置でずっと何も言わずに黙ってた。
そこに世界bの――」
お兄ちゃんが、と言いかけて、いまさらのように、
「――あなたが現れた」
お兄ちゃんは溜め息をついた。どうも事態が混乱しているらしいな、というみたいに。
「なるほど」
そしてわたしは判然としない意識のまま彼らを思う様に罵り、窓の外に身を投げ出した。
そこで意識を失い、ふたたび目を覚ますと、なぜか真昼の川辺で倒れていた。
目を覚ましたときには意識が妙にすっきりしていて、いろいろな感情がぐるぐると頭を回っていた。
そして、お兄ちゃんに会いにいこうと思ったのだ。なぜかは知らない。きっと自棄になったのだと思う。
わたしは、そして、お兄ちゃんに出会い、いまここで話をしている。
741 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/12/18(火) 19:21:34.54 ID:h1CoNVIXo
「……ところで、君が控室で目を覚まして、あの子――姪aと会って、ケイくんと話をして、認識の食い違いを自覚した日」
お兄ちゃんは確認するような口調だった。
「その夜のことだけど、誰かに電話を掛けたりした?」
「……?」
その質問の意味が、わたしにはつかめなかった。
「してない、はず。記憶にある通りなら、だけど。魔法使いにも掛けていないはずだし」
わたしは念入りに記憶を確認したけれど、それはぶつ切りになっていて、あまり意味がある行為とは思えなかった。
「そう」
納得した様子でお兄ちゃんは頷く。
そして笑った。
「なんだか、いろいろとやっているようで、始まる前に終わった感じのする話だったね」
……。
まぁ、たしかに、目的に向けての行動を取るよりも先に、いろんなものに足を取られてスタート地点にたどり着けなかった感じの話だ。
話だけれど。お兄ちゃんに笑われるとなんだろう、この胸につかえる納得のいかない感じは。
742 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/12/18(火) 19:22:03.14 ID:h1CoNVIXo
そして彼は口を開く。
「世界bの僕は、"この世界の姪"に執着がありそうな感じだったかな?」
「……どうだろう。彼とは結局、はぐれてから一度しか会っていないから。でも」
でも、そうだ。野放しになった彼がふたたびあの物置に現れたのは、
『……"彼女"は?』
"この世界の姪"を探していたからに他ならない。
彼は、世界bの姪が迷い込んでいると、あの時点では知らなかったはずなのだから。
いや、どうだろう。わたしが知らないだけで……実は知っていたのか?
分からない。記憶が判然としない……。
「だとすると……やっぱりそれは異世界同時間体の魔力的パイプの影響、って奴かな」
お兄ちゃんはさらりと言った。
「つまり僕の姪に対する執着が、彼に流れ込んだって考えた方がしっくりくる」
……聞いているわたしとしては、なんとも微妙な話だ。
743 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/12/18(火) 19:22:29.60 ID:h1CoNVIXo
「『代わりがいるからどうでもよくなったのか?』と君は言ったけど」
わたしは自分が、ついさっき、本屋の前でその言葉を発したことを、既に忘れかけていた。
「そんなわけがない」
とお兄ちゃんは断言する。
わたしは答えに迷う。
「……でも、その魔力的なパイプってのはいつできたんだろう?」
彼はわたしの気持ちなんておかまいなしに自分の疑問を口にする。
本当にこの人は……変わらない。
「魔法使いの手違いで出来たというよりは、意図的につくられたという方がしっくりくる」
「なぜ?」
「魔法使いは明白に、途中から目的を変えてるからだよ。最初は君の目的で――」
具体的な目的が何なのかは告げていなかったし、わたしが何者なのかも自分からは言っていなかった。
でも、『死んでしまった』とか、『分岐』とか言ってしまったわけで、たぶん察しはついているのだろう。
「――途中から、明白に自分のために行動を取るようになった。これには"巻き込まれた誰か"が関係しているんだと思うけど」
あるいは、と彼は言葉を続ける。
「ひょっとしたら、途中で何かに気付いたとかね。だから、君のことをほったらかしにして、この世界に干渉し始めた。
その結果、魔力的なパイプを作る必要ができた。もしくは、魔力的なパイプができた結果、世界に干渉する理由ができた」
744 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/12/18(火) 19:23:39.27 ID:h1CoNVIXo
まぁ、それについては確認できないことだからおいておこう、と彼は言う。
何の話なのか分からない。わたしには見えていないものが、お兄ちゃんには見えているんだろうか。
彼は考え込むような表情になる。わたしは。
「もういいよ」
と言った。
「全部やめにしよう?」
自分でもその声が震えていることが分かった。
怯えている。でももう嫌だった。
「よく分からないことが起こったな、ってだけで、それ以上考えることなんてないよ。
もう全部終わりでいいでしょ? わたしはもう嫌だよ」
「いいわけがない」
「どうして?」
「誤解があるようだけど」
とお兄ちゃんは強い調子で言った。
745 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/12/18(火) 19:24:27.30 ID:h1CoNVIXo
「僕は別に君たちの目的だとか、魔法使いの目的だとか、事象を引き起こす具体的な手段なんかが知りたいわけじゃない。
僕が知りたいのは、僕の姪が、この世界における、この時間における僕の姪がどこにいるかなんだ。
そして、どうすれば、どこに行けば彼女をとりもどすことができるかどうかなんだ。
理屈に合っていようがいまいが関係ない。僕には、彼女をとりもどす以外の終わりなんていらない」
彼にしてみれば、そうなんだろう。
でも。
「それなら、どうしてわたしと話そうだなんて思ったの?」
わたしは問いかけずにはいられない。
「どうしてその子と一緒にいるの? その子に優しくしているの?」
なんだか無性に、悲しくて、とても苦しい。
「どうして態度がそっけなくなって、どうして女の人を家に連れてきて、どうして家を出て……」
それは彼に聞いても答えようのない質問だと分かっていたけれど。
積み重なった"どうして"が、喉からとめどなく溢れてしまう。
「どうして、いなくなるの?」
熟慮するように視線を落とし、彼は窓の外を眺めた。
姪bがわたしの顔色をうかがって、服の裾を離した。何かに納得したような、諦めたような顔だった。
"そういえば諦めていたんだっけ"という顔だった。
746 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/12/18(火) 19:25:12.91 ID:h1CoNVIXo
「後半の質問には、僕は一切答えられないけど、前半の質問には答えられる」
そしてお兄ちゃんは言った。
「君と話そうと思ったのは、僕の身に起こった今回の事態が、どうやら姪にも関係があるらしいからだ」
一言だった。
そのあとは黙ってしまった。
大真面目な顔をしたお兄ちゃんに、わたしはぽかんとする。
「そしてこの子と一緒にいるのは、この子があの子に似ているからだよ」
この人は。
なんというか。
あほなのか。
基準はそこなのか。
747 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/12/18(火) 19:25:43.09 ID:h1CoNVIXo
彼はひとつ咳払いをした。
「いや、待ってくれ。他にも一応理由はある」
「……一応聞くけど、どんな?」
「誤解だったとはいえ、僕はケイからこの子を引き受けたんだ。まさか街に放り出すような真似はできない」
わたしが黙っていると、
「そんなことをしたら、あの子に怒られるしね」
と付け加えた。
ひょっとしてわざと言ってるんだろうか。
「あとは、もうひとつある。これは個人的な信仰のようなものなんだけど」
「……それは?」
「僕が誰かのために祈ったら、誰かも僕のために祈ってくれるかもしれない」
748 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/12/18(火) 19:26:22.75 ID:h1CoNVIXo
◇
「とにかく」
わたしはなんだか気まずくなって少し大きめに声をあげた。
「もしあなたがこの世界の姪に会いたいってだけなら、話は簡単だよ。
魔法使いに会えばいい。彼女はたぶん、控室にいるから」
「ホントにいるのかな」
とお兄ちゃんは疑わしそうな声をあげた。
「たぶんだけど。……扉を開けてくれるかは分からない」
「……まあ、行くしかないんだろうね」
「わたしも、自分の身に起きたことの説明を、彼女から聞かないと」
「……そうだね」
お兄ちゃんはそこで神妙そうな表情になった。
「勝手に混乱して、勝手に自己完結して、勝手に飛び降りるのは、たぶん君の悪い癖だ。
これからはちゃんと状況を把握して、相手をちゃんと問い詰めてから、物事を判断するようにしたらいい」
……なんだ、この、無性に腹が立つ感じは。誰のせいだと思ってるんだ。
わたしは溜め息をついた。
749 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/12/18(火) 19:27:16.53 ID:h1CoNVIXo
つづく
750 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[sage]:2012/12/18(火) 19:47:17.14 ID:cqcEhLtIO
マジでキャラクター、時間軸、世界を一度整理して欲しい
aとかbとかもうわけワカメ
751 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[sage]:2012/12/20(木) 03:35:35.59 ID:yF9rVbg2o
自分もよくわかっていませんが、
兄が姪を幸せにできるかどうかのみに注目して楽しんでいます。
続き待ってます
乙
752 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/12/23(日) 15:11:48.53 ID:ox1jzL0Fo
◇
「ところで……」
ショールームに向かう途中、わたしはお兄ちゃんの背中に声を掛けた。
「あなたは、いったいどの程度状況を把握できているの?」
お兄ちゃんはわたしの質問に、少し不思議そうな顔をした。
けれどそれは一瞬のことで、彼は納得したように溜め息をつく。
「きみの正体くらいは」
とお兄ちゃんは言う。わたしは緊張すらしなかった。
さっきまでの話でも、わたしは自分の正体を決して洩らさなかった。
ただ、自殺した結果、魔法使いに力を借り、この世界にやってきて、未来に分岐を作る可能性を得た、と話しただけだ。
それでもお兄ちゃんには、他にもたくさんのヒントがあったのだろう。
あっさりと、わたしの正体を見抜いているわけだ。
「なんて言い方は悪趣味か?」
お兄ちゃんは笑いかけて、ためらうようにそれを押さえた。
753 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[sage]:2012/12/23(日) 15:12:26.63 ID:ox1jzL0Fo
「うん」
とわたしは頷いた。
「お兄ちゃん」
彼はその言葉に足を止め、後ろを歩くわたしを振り向いた。わたしは振り向いてなんてほしくなかった。
「会いたかったよ」
そうだ。会いたかったのだ。会いたかった。
本当は世界も未来も何もかも放り投げて、今ここにいるわたしだけを優先して、わたしはお兄ちゃんにもう一度会いたかった。
混乱していない頭で。疲れていない体で。汚れていない顔で。荒んでいない心で。
でもそれはできなかった。
「……だったらなぜ?」
とお兄ちゃんは言う。
わたしはきょとんとした。たぶん。そんな間抜けな顔をした。
754 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/12/23(日) 15:12:54.09 ID:ox1jzL0Fo
「なぜ僕に会いに来なかった?」
「……"なぜ"?」
どういう意味、と訊ね返しかけると、お兄ちゃんは真剣な表情で言った。
「最初の数日は、様子をうかがっていた。それは分かる。でも、別にそのあとは会いにきてもよかったはずだ」
そこで彼はわたしの目をじっと見た。
「なぜ会いに来なかったの?」
「……だって、それは」
――突然あらわれた『未来の姪』なんていう存在を、まともに受け入れるはずがないから。
……そう、だった。そのはずだ。
755 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/12/23(日) 15:13:23.00 ID:ox1jzL0Fo
「会いに行ったら、わたしの言うことを信じてくれた?」
「どうだろう。でもきみには、僕を信頼させる術があった」
「……術?」
「『もう一人の僕』は、明白な異常だ。明白な異常をきみが説明づけることができたら、僕はきみの話を少なからず信用したはずだ」
「……でも、それとこれとは話が別じゃない?」
わたしの反問にお兄ちゃんは黙った。
そして、昔のように短い溜め息をついた。
「きみの動きは変なんだ」
とお兄ちゃんは言う。わたしはなんだか落ち着かない気分になる。いったい何を言おうとしているんだろう。
「きみの話を信頼するなら、別世界の僕を連れてくる理由なんてないはずなんだ。
きみだって最初は言っていた。何かのヒントが得られるかもしれないと、話をしたいと思っただけだったと。
でもきみは『彼を連れてきた』。これはきみの意思なのか?」
「……変化を加えたかったから」
756 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/12/23(日) 15:13:59.12 ID:ox1jzL0Fo
「だから」
とお兄ちゃんは力強く言った。
「それなら何も、そんなことをしなくても、僕に会いに来たりすればいい。何らかの手段で僕にきみのことを信頼させるのは可能だったはずだ」
「たとえば?」
「たとえば、僕ときみにしか分かりえない、知りえない秘密がある」
「……?」
「きみは誰にも言わないと約束したし、僕も誰にも言ったことはない。そういう約束だ」
「……」
「その約束について、何か知っている?」
「……」
757 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/12/23(日) 15:14:25.64 ID:ox1jzL0Fo
"お前は、僕のことを好きか?"と、ずっと昔、お兄ちゃんは言ったのだ。
"お兄ちゃんのこと、好きだよ?"とわたしは答えた。
お兄ちゃんのそのときの顔はひどく真剣で、怖いくらいで、悲壮で、なんだか、抑え込んだような必死さを感じて。
だから不安だった。不安だったけど、答えた。
「"お前が僕のことを好きでいるかぎり――"」
とわたしは言った。お兄ちゃんは黙ってわたしの顔を見つめている。
「"――僕は絶対にお前の味方でいる"」
"母や父や姉がお前を見限っても、僕だけはお前の傍にいる"
その言葉は、わたしをとても不安がらせたけれど、同時にとても安心もさせた。
結局はわたしは祖父母の愛情も母の愛情も信頼しきれていなかったのだろう。
今になって思えば、お兄ちゃんのその言葉は、呪いめいてすら聞こえる。
けれど、わたしにとっては、そのときのわたしにも、今のわたしにさえ、その言葉は、本当に、救いと呼べるものだった。
「――証明はとても簡単だろ?」
わたしは今のやりとりに、言いようのない不安を感じたが、お兄ちゃんは話を続けた。気のせいなのだろうか。
758 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/12/23(日) 15:15:02.67 ID:ox1jzL0Fo
「きみはとにかく僕の目の前に現れさえすればよかった。僕はきみのことを疑ったかも知れない。
でも、もしきみが現れれば、僕はさっきと同じ質問をきみに投げかけた。
だから、結果的にきみの言葉を信じただろうと思う」
「そんなの……思いつかなかっただけだよ。信じてもらう手段を思いつかなかったから」
「――本当に?」
お兄ちゃんの表情は、とても真剣だ。なのに、どこか冷めている。
「違うんじゃないのか。信じてもらう手段を、考えもしなかったんだろ?」
「……どういう意味?」
「たとえば、"もうひとりの僕"を利用して、常軌を逸した状況を僕に信じさせる手段もあった。
さっきみたいに、僕たちしか知りえない情報を知っていると示唆することで、僕を信じさせる手段もあった。
他にもいくつか手段はあるはずなんだ。にもかかわらず、きみは思いつかなかった」
でも、と彼は続ける。
「手っ取り早いのは僕に会いに来ることなんだ。きみは本来なら、そこにもう少し執着していてもいい。
つまり、きみは本当は、僕に会いたくなかったんだ」
759 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/12/23(日) 15:15:30.53 ID:ox1jzL0Fo
その言葉に、
「違う!」
と思わず声が出た。
お兄ちゃんは息をのんで、「しくじった」という顔をする。わたしもまた、大声をだして「しくじった」という顔をしたかもしれない。
姪bが体をすくませている。手のひらは、お兄ちゃんが握っている。
「……言い方が悪かった」
わたしたちは少しの間黙った。午後の太陽が少しだけ勢いを弱めた。でも、アスファルトに蒸されて、世界は歪みそうな熱気に支配されている。
「僕が言いたいのは、そこにきみ以外の意思が関係しているのではないか、ということなんだ」
「……わたし以外の意思?」
「少し情報を整理しよう」
「整理?」
「そう」
と彼は頷く。
「僕たちの目の前には既にたくさんの情報がある。それらは脈絡なくちりばめられているし、出現のタイミングも状況もばらばらだ。
だからとても混沌としているし、説明が付けづらい。このままじゃ理解は難しい。
といって、これ以上の情報を求めたところで結果はよくならないだろう。
僕たちはとても混乱している。上手に考えることができない。
だから――必要なのは情報の収集よりも、むしろ整理なんだ」
760 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/12/23(日) 15:15:57.09 ID:ox1jzL0Fo
◇
「まずは、人物を整理しようか」
お兄ちゃんはポケットから手帳を取り出してメモページを一枚ちぎった。
「まず、僕だ」
“僕”
「僕はもともとこの世界に暮らしている。両親と、バツイチの姉と、姪と同居している。
とあるショールームで行われた催事の際、自分そっくりの“もうひとりの自分”を見つけた。
それ以来奇妙なことが起こり始めた。ギターの弦が切れていたり、姪がいなくなったり」
ところで、と彼は言う。
「きみは僕のギターの弦を切ったりしていないね?」
「……うん」
本当のところは分からない。でも、“わたしは切っていない”、と思う。
761 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/12/23(日) 15:16:23.79 ID:ox1jzL0Fo
「次に、“姪”」
“姪”
「“僕”と同居していた姪。歳の差は七つ違い。まだ子供だ。この子はいなくなって以来、僕の前に一度も姿を見せていない。
ところが、僕が姪を探している際、彼女の行方を知らせる電話があった」
「……え?」
そのことを、わたしは知らなかった。
「“魔女”の電話だ」
「……“魔女”?」
そういえば、お兄ちゃんは言っていたっけ。わたしと最初に、本屋の前で会ったとき。
『きみが、魔女?』
「少なくとも、僕らに関連するおかしな存在が、ここまでにふたりいる。一人目は“もうひとりの僕”」
“もうひとりの僕”
「催事の日にショールーム二階の窓から僕を見下ろして、花火大会の日に僕のもとに現れた。
パラレルワールドにおける僕自身を名乗っていた。
きみと彼の説明によれば、彼は“姪が死んだ世界”における“僕”だという。
彼はきみと行動を共にしたかと思えば、別々に行動し、突然動向がわからなくなったりした」
762 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/12/23(日) 15:17:30.58 ID:ox1jzL0Fo
お兄ちゃんが言う“もうひとりの僕”の世界では、わたしは子供のまま母に殺され、また、母も自殺している。
“もうひとりの僕”は決して“姪”の味方ではなかった。
「次に、“魔女”」
“魔女”
「……その人のことが、分からないんだけど、魔法使いとは違うの?」
「これについては、あとでまとめて説明する」
そもそも、どうしてその人は“姪”の居場所を知っていたんだろう?
「次に、きみと、ケイ」
“きみ”
「……きみは、僕たちが今いるこの世界の、数年後の未来から来た。そういう説明だったよね?」
そう、そこまでは説明した。
わたしはこの時間より数年後の未来からやってきた。
「その世界で、“何かの出来事”を理由に自殺したものの、“魔法使いの力”を借りてこの世界に“分岐”を作りに来た」
「……うん」
それであっている。
「“もうひとりの僕”と“ケイ”を、魔法使いの力を借りて連れてきたのは、きみだ。それで合ってるよね?」
「うん。それはわたし」
763 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/12/23(日) 15:18:06.01 ID:ox1jzL0Fo
「そして“ケイ”」
“ケイ”
「これはきみの友だちだ。だからきみとワンセットで扱って構わないだろ? 同じ世界の同じ時間から、この世界に来たわけだ」
「……うん。それで合ってる」
「さらに、“魔法使い”」
“魔法使い”
正体不明だけれど超常的な力を持っている女性。
わたしたちにも無関係ではないらしい。でも、詳細は分からない。
「それから……」
そこで彼はちらりと手のひらの先を見遣った。
「この子。まあ、仮に“少女”としておくか」
“少女”
厳密に言えばこの子は“もうひとりの僕”の世界における“わたし”=“もうひとりの姪”だ。
この子が“巻き込まれた”ことをヒントに、わたしは“もうひとりの僕”を呼びにいくことを思いついた。
764 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/12/23(日) 15:18:37.41 ID:ox1jzL0Fo
「人物は……このくらいかな、大雑把に言って」
“僕”
“姪”
“もうひとりの僕”
“魔女”
“きみ”
“ケイ”
“魔法使い”
“少女”(もうひとりの姪)
「このほかにも、魔法使いと誰かが話しているのを、きみは聞いたと言ったっけ?」
「うん。でも、それは幻聴かもしれないし……」
実際に、彼女が誰かと話している姿を見たわけではない。話し声はしたけれど、姿は見つけられなかったのだ。
「まあとにかく、それは保留でいいか。とりあえず、人物は八人だ」
お兄ちゃんはそして、少し考えるような顔になった。
765 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/12/23(日) 15:19:16.62 ID:ox1jzL0Fo
「“魔法使い”に関しては、とりあえず思考の隅においておこう。考えても仕方ないから」
「……うん」
わたしはなぜだか、お兄ちゃんの話を黙って聞く気になっていた。
「だから、僕らが整理すべき関係は七人のものだ。
そして単純に、この人物を世界、時間ごとに分けて考えてみようか」
お兄ちゃんは空を見上げて一度瞼を強く瞑って、それから長い息を吐いてふたたび話し始めた。
「まず、“この世界”の人間」
“この世界”。わたしが“世界a”とたとえた世界。
基準となる世界。
「基本となる時間は、今。僕は高校生で、姪は小学生の“今”だ」
それはわたしにとっては過去だったけれど、今は彼の邪魔をするべきではないだろう。
「この世界の住人は、七人の中では二人だけ。“僕”と“姪”だ」
よどみなく、お兄ちゃんは続ける。
766 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/12/23(日) 15:19:48.41 ID:ox1jzL0Fo
「次に、“もうひとりの僕”の世界。パラレルワールドの住人。
きみの話によると、“少女”は“もうひとりの僕”の世界における“姪”らしいから、この“もうひとつの世界”の住人もふたり。
“もうひとりの僕”と“少女=もうひとりの姪”だ」
“もうひとつの世界”。“世界b”。
わたしは“もうひとりの僕”と“もうひとりの姪”を“叔父b”、“少女b(あるいは姪b)”と呼んで記号づけた。
逆に“この世界”におけるお兄ちゃんを、“叔父a”、“この世界”における過去のわたしを“少女a(あるいは姪a)として記号づけた。
「そして、ケイときみは、“この世界”と地続きの未来から来たという」
“地続きの未来”。
お兄ちゃんがわたしに冷たく接するようになり、わたしが死んだ世界。
「つまり、この三つの世界の人物が、“この世界”に集合してさまよっているのが今までの状況だと言うわけ」
「……待って。でも、“魔女”は?」
「あとでまとめて話す」
その言い方に妙に苛立って、
「“あとで”はやめて」
というと、お兄ちゃんは少し悲しそうな顔になった。
「……うん」
767 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/12/23(日) 15:20:26.57 ID:ox1jzL0Fo
「そもそも、魔女って誰なの?」
「僕も分からなかった。最初は、きみが魔女なのかと思っていた」
「どういう意味?」
わたしのことを魔女と呼んでいた、という意味だろうか?
「つまりね、きみと魔女の行動は区別がつきにくいんだ。
でも、話を聞いたかぎり、きみと魔女は明確に別人として行動している」
「……区別がつきにくい?」
「僕のギターの弦を切ってはいない、けど、“弦を切って”という言葉が夢の中に出てきたって言ってたね」
「……うん」
『いいから、その弦をさっさと切って!』
夢の中で“わたし”は、ケイくんにそう怒鳴っていた。
768 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/12/23(日) 15:21:25.71 ID:ox1jzL0Fo
「銭湯で、自分の姿をした幻覚を見たとも言った」
「……うん」
わたしはなんだか不安になった。
お兄ちゃんは、いったい何を言おうとしているんだろう?
「それが……?」
お兄ちゃんは少しためらうような間を置いた。
「つまり、それが魔女なんだ」
わたしはまた混乱する。
「きみと同じような姿をした存在がいるんだ。つまり――」
お兄ちゃんは断言する。
「“魔女=もうひとりのきみ”、だ。異世界同時間体。この世界に、“未来のきみ”がふたりいる」
769 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[sage]:2012/12/23(日) 15:22:22.45 ID:ox1jzL0Fo
つづく
770 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[sage]:2012/12/23(日) 15:24:25.60 ID:0k/LllaYo
おお
話が急にすっきりした
あとは魔法使いか
そんなやついたっけ?
771 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[sage]:2012/12/23(日) 20:24:37.15 ID:a/Qt9qhqo
乙
ふむふむわかりやすいね
772 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[sage]:2012/12/25(火) 11:51:59.66 ID:qh/oe32co
いままでこんがらがってたのをまとめてくれてよかった!
もう終結も近いか
773 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/12/28(金) 13:50:38.26 ID:4woSyJNbo
◇
「……待って」
わたしの声に、お兄ちゃんは「どうぞ」と言いたげに頷く。
「でも、それはおかしいでしょ?」
「何が?」
彼は平然と首をかしげる。わたしの認識がおかしいのだろうか。
「だって、この世界に関わり合っているのは、三つの世界だけ、だったはず」
そうだ。
まずは、前提となるこの世界。
次に、姪……わたしが子供のうちに死んでしまった世界。
最後に、わたしがいた、この世界の未来。
まずこの世界に、"未来"の姪は存在できない。
そして、"姪"が死んでしまった世界。ここにも"未来"の姪は存在しえない。
そうなる前に、彼女は死んでしまうはずなのだから。
最後に、この世界の未来……そこにおける"未来"の姪は、すなわちわたしのことだ。
774 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/12/28(金) 13:51:12.20 ID:4woSyJNbo
「魔女が"未来の姪"だったとしたら、その人はいったいどの未来から来たの?」
「……疑問はもっともだけど、ややこしいながらも答えることはできる」
お兄ちゃんの態度はあくまでも穏やかだった。
わたしは彼の声に耳を澄ませる。
けれどわたしが期待したような説明は、彼の口からはなされなかった。
「でも、これに関しては、魔法使いと話しながら説明した方が早い。僕だって、詳しい理屈が分かってるわけじゃないから」
少しためらうような表情を見せて、お兄ちゃんは笑った。
「だから、今は一刻も早く魔法使いに会わないと」
「会って、どうするの?」
「あの子にもう一度会わないと」
それ以外には何もないというように、お兄ちゃんは言う。
「それにしても、僕の視点だけでは足りない情報が多すぎる」
「……」
わたしはお兄ちゃんよりもたくさんのものを見たはずなのに、お兄ちゃんほど盤上を見渡せていない。
彼はどこまで分かっているのだろう?
775 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/12/28(金) 13:51:50.81 ID:4woSyJNbo
◇
ショールームにたどり着く。
わたしたち三人は並んでその建物を見上げた。いまさらのようにその全容を眺めてみても、やはり何の変哲もない建物としか思えない。
お兄ちゃんが扉を開けた。足を最初に踏み込んだのもお兄ちゃんだった。手を繋いだまま、少女があとを追う。
わたしは最後に入って扉を閉めた。
ぎいと軋むような音を立ててドアが閉まると、屋内は異様な静寂に支配されていた。
正面に向かってお兄ちゃんは歩く。靴のかかとがかつかつという音を立てた。
その音はいやに響く。わたしは神経質になっているんだろうか。妙に不安にさせられた。
正面には例の緑色の扉があった。
まるですべての扉が、その扉の為に並べられた脇役みたいだった。
扉はどれも墓碑に似ていた。
音は死んでいた。たぶん色彩も死んでいるのだろう。生きている人間の気配がしない。
いや、死んでいるのは時間だろうか?
……わたしは何を考えているのだろう? 雰囲気にのまれているらしい。
けれどそれでも、彼女は、その扉の前に立っていた。
物言わず。
けれど視線はこちらに向けて。
「待ってた」
と、彼女はささやくように言った。
わたしは声を失う。
その姿はやはり、わたしにそっくりだったのだ。
776 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/12/28(金) 13:52:23.27 ID:4woSyJNbo
◇
「この場にこうして存在している以上、彼女はきみの幻覚なんかじゃ決してない。それは分かるよね?」
お兄ちゃんは"魔女"の挨拶に返事すらせず言った。
少し物静かな雰囲気の"魔女"は、その態度に少しだけ傷ついたように見えた。
本当のところは分からない。でもわたしはたしかにそう感じた。
そしてお兄ちゃんは言う。
「"初めまして"」
その言葉に、"魔女"の顔がゆがんだ。
「……性格、悪いなあ」
お兄ちゃんは"魔女"の態度をうかがうようにじっと見つめている。
魔女もそのことに気付いて、けれどことさら、自分を隠そうというふうでもなさそうだった。
今の会話から、お兄ちゃんは何かを炙りだそうとしたのだろうか?
したとしたら、それはいったいなんなんだ?
"初めまして"じゃないのなら。
777 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/12/28(金) 13:53:44.46 ID:4woSyJNbo
「魔法使いはいる?」
「……うん。でも、話はあとでもいいでしょう?」
"魔女"の様子は少しおかしかった。
澄んでいるようであり、澱んでいるようであり、明るいようであって、暗い。
いうならば、明るい暗さ、のようなもの、に彩られている。
「まずは――その子を、こちらに」
彼女は平然と言う。その子、とは誰のことだ? わたしは少し考え、その対象がひとりしかありえないことに気付く。
お兄ちゃんは繋いでいた手に力を込めたようだった。
「大丈夫。その子をこちらに引き渡してくれれば、全部説明する。あの子にだって会えるよ。だから」
だから、と呪いでも掛けるみたいに。
「その子をこっちに。それはその子に必要なことなの」
少女は"魔女"の態度に、ひどく怯えているようだった。
「悪いけど、それじゃ順番が違う」
お兄ちゃんは平然と、"魔女"の要求をつっぱねた。
"魔女"が歯噛みする。
778 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/12/28(金) 13:54:13.38 ID:4woSyJNbo
……何が起こっているんだろう?
折れたのは魔女だった。さしてこだわることもなさそうに、溜め息をつく。
「まあ、いいや。どうせ結果は変わらないし」
白々しい口調で、魔女は言う。
「どうだろうね」
とお兄ちゃんが笑うと、彼女は怪訝そうな顔を見せた。
「……どういう意味?」
「さあ。言ってみただけかもしれない。それより、魔法使いを呼んでもらえる?」
お兄ちゃんの言葉に、魔女は静かに傍らの扉を叩いた。返事があって、扉が開く。
参った、というふうに、魔法使いが出てきた。
「……彼女がそうなのかな」
と、お兄ちゃんはわたしに訊ねる。
779 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/12/28(金) 13:54:40.51 ID:4woSyJNbo
「うん」
わたしが頷くと、お兄ちゃんは変な顔をした。
「もっと怪しい感じのを想像してたんだけど……なんだかカジュアルだね」
その感想がこの場に似つかわしくないように思えて、わたしは苦笑した。
「や。ひさびさ」
魔法使いはわたしに手を振った。
わたしは応じない。
「……ま、そうね」
ちょっとさびしそうに、彼女は笑った。
780 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/12/28(金) 13:55:07.11 ID:4woSyJNbo
「さて」
と言ったのは"魔女"だった。
この場にいる人間は五人。
お兄ちゃんとわたし。それから、魔法使いと魔女。
そして、"もうひとりの姪"。
ケイくんと、"もうひとりのお兄ちゃん"はいない。
"この世界の姪"も。
「場も整ったみたいだし――」
宣戦布告するみたいに、どこか諦めの漂う声で、"魔女"は高らかに言う。
「――つじつま合わせを始めようか」
781 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/12/28(金) 13:55:35.12 ID:4woSyJNbo
◇
「……つじつま合わせ、ね」
お兄ちゃんが言う。
なんなんだろう。お兄ちゃんと、"魔女"だけが、別の場所で話をしているような気がする。
それとも、分かっていないのは、わたしだけなのか。
魔法使いもちゃんと、この場で起こっていることを把握しているのだろうか。
魔女は、扉の前で身をかがめ、何かを拾う。そしてそれをお兄ちゃんの足元に投げた。
いや、正確には、それは少女の目の前に落ちた。
「あげる」
と魔女はいう。
「それは必要なものだから」
彼女はじっと、お兄ちゃんと手を繋いだ少女の目を見つめているようだった。
妙に穏やかな、いつくしむような声音だった。その声にあてられたのか、少女は身をかがめようとする。
782 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/12/28(金) 13:56:01.06 ID:4woSyJNbo
「――待て」
と言ったのはお兄ちゃんだった。
その言葉はどちらに向けられていたんだろう。
魔女は怪訝な表情を深める。
「……なぜ止めたの?」
「……」
「――違う。ねえ、あなた、どこまで見えてるの?」
お兄ちゃんは答えなかった。
「まさかとは思うけど……」
「……」
「叔父さんの記憶、ぜんぶ見たの?」
783 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/12/28(金) 13:56:42.68 ID:4woSyJNbo
「え?」
と声をあげたのはわたしだけだった。
お兄ちゃんは、そんなのはぜんぜん不思議なことじゃない、といってるみたいに平然としている。
でも、彼女は言った。
……"叔父さん"?
「きみが呼ぶ"叔父さん"っていうのは、つまり」
魔女は隠そうとするでもなく答える。
「そう。花火大会の日にあなたが会った、もうひとりのあなた」
「彼は、"姪が死んだ世界"の住人だった」
「そう」
「だから、本当なら"きみ"はありえない」
「……」
そうだ。
"姪が死んだ世界"には、"もうひとりのお兄ちゃん"を叔父さんと呼ぶ、成長した"姪"は存在しえない。
“もうひとりの姪”はその前に死ぬんだから。
784 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/12/28(金) 13:57:09.48 ID:4woSyJNbo
でも、いる。……いや、わたしだって、死んだうえで、この場にいるんだけど、それとは関係がない。
だって彼女は、それ以前に"存在するはずがない"のだ。
でも、お兄ちゃんは言う。
「二周目なんだろ?」
それ以外ないというみたいに簡単に。
魔女の表情がかすかにこわばった気がした。
「どういうこと?」
わたしは言葉の意味がわからずに、お兄ちゃんに問いかける。
お兄ちゃんはこちらをわずかに振り向いて答えた。
「この世界は分岐してるんだよ」
「……うん。わたしが死ぬ世界と、死なない世界に、分岐してるんだよね?」
785 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/12/28(金) 13:57:45.26 ID:4woSyJNbo
「そう。それともうひとつ、分岐がある」
「……?」
「きみは子供の頃、このショールームに足を踏み込んだことがある?」
「え? ……ある、けど」
「うん。それじゃあ、このショールームで魔法使いやケイに軟禁された記憶は?」
「……」
……それは、ない。
「……忘れているだけかもしれないけど、ない、と思う」
「いや、体験していないはずだよ」
お兄ちゃんは確信を持っているようだった。
786 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/12/28(金) 13:59:42.39 ID:4woSyJNbo
「そうじゃないとつじつまが合わない。だってきみは、分岐をつくるためにこの時間にやってきたんだから」
「……あ」
そうだ。
わたしは分岐をつくるためにこの時間にやってきた。
この時間にわたしがやってくることが、あらかじめ起こっていたことだったとすれば、“分岐"は発生しない。
もしわたしが過去に魔法使いの魔法に巻き込まれていたなら、この世界の結果は変わりえない。
つまり魔法使いを信じるなら、この世界は“二度目”でなくてはおかしいのだ。
「世界は三つだけじゃない」
お兄ちゃんは言う。
"この世界"-今ここにある世界。
"姪が死んだ世界"-"もうひとりのお兄ちゃん"がいた世界。
"この世界の未来"-"きみ"と"ケイ"がいた世界。
これがわたしたちが前提にしていた世界の数。
でもまず最初に、“本来のこの世界”を配置しなければならないのだ。
つまり、“未来の姪=わたし”が川に身を投げる世界を。
そこに"魔法使い"の力を借りた"わたし"がやってくる。
巻き込まれた"魔女"や"もうひとりのお兄ちゃん"、"少女"がやってきた影響で。
この世界は"もう一度分岐している"。
787 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/12/28(金) 14:00:23.49 ID:4woSyJNbo
「僕たちがいる、いまここ、"この世界"は、二周目なんだ。一周目では、きみが現れず、きみは死んでしまう」
そして死んでしまった"わたし"は魔法使いの力を借りて、分岐をつくりに来る。
別の結果を生み出すために。そうして加わった変化。"二周目"。別の可能性。
……でも、そこまでは、"分岐"をしっかりと考えていれば、見逃していただけの、ごく当たり前の言い換えにすぎない。
「もともとふたつに分かれていた世界は、"きみが来た世界"と"きみが来なかった世界"に分岐する。
ここまでは、魔女の魔法に従った、ごく当たり前の結論だ。
問題はここからだ。
この"二周目"の世界には、"姪が死んだ世界"の人間がふたり巻き込まれているんだよ。
誰のことかは分かるよね?」
……"もうひとりのお兄ちゃん"と、この場にいる"もうひとりの姪"。
「"もうひとりの僕"に関しては、あまり考えなくてもいい。今考えるべきなのは――」
そこでお兄ちゃんは、手のひらの先を見遣った。
「――この子のことだ」
魔女が歯噛みする。
……この子が、なんだというんだろう。
788 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/12/28(金) 14:00:49.59 ID:4woSyJNbo
――いや、待て。
「魔法使いの魔法でこの世界に来た人間は、もしくは、巻き込まれた人間は、“戻らなきゃいけない”」
わたしはそう呟いて、魔法使いの顔をうかがう。彼女はいつもの調子で苦笑していた。
「……そ。それが自然だからね」
「……つまり、すべてが終わった後、この子は元の世界に戻るんだ」
本来ならば死ぬはずの世界へ。
「ところで、この子は本来なら、母親に殺されて死ぬ運命だったはずだ」
目の前で交わされる会話を、どんな思いで聞いてるのだろうか。
少女の顔はこちらからではよく見えない。
「“本来なら”。つまり、こんな騒動に巻き込まれず、順当に生きていれば」
ぞわり、と背筋が粟立った。
789 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/12/28(金) 14:01:24.49 ID:4woSyJNbo
「……ねえ、まさか、結果が変わるの?」
魔女が歪んだ表情を正し、長い溜め息を吐く。彼女はこう言っているように見えた。
“戸惑うことは何もない”。
“なにひとつ変わらない”。
「わたしがこの世界に来て、この子が巻き込まれて、その結果――」
「うん」
とお兄ちゃんは頷いた。
「推測だけど――この子は生き延びる。おそらくきみと同じくらいの歳まで」
彼の声は言葉の割に、確信がこもっているように聞こえる。
「そして、魔女としてこの場に現れるんだ」
790 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2012/12/28(金) 14:01:53.39 ID:4woSyJNbo
つづく
年内の更新はないかもしれません
よいお年を
791 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[sage]:2012/12/28(金) 15:53:40.76 ID:oouXnTvIO
なんという
792 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2013/01/01(火) 15:25:12.82 ID:7p1BbX+Yo
◇
◆
「ドアを開けて」
とその人は言った。だからわたしはドアを開けた。
「行くんだ」
わたしは振りかえってその人の顔を仰ぐ。表情はそれまでと同じような微笑みだった。
周りにはよく知らない人たちが居て、わたしは男物の財布を握らされていた。今となっては曖昧な記憶。
「大丈夫」と彼は言った。
「僕の言う通りにすれば、怖いことはもう起こらない。お祖母ちゃんのところに行くんだ。いいね?」
わたしは話をよく理解していなかったけれど、それでも頷いた。内心は不安でいっぱいだったし、心細かった。
当たり前のように、その人もわたしについてきてくれるものだと思っていた。
だから、ドアをくぐった先が、自分の家の自分の部屋だと気付くと、泣き出したいほど怖くなった。
傍には誰もいなかった。家の中はまったくの無人。わたし以外の人はいない。
母も父も不在だった。
793 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2013/01/01(火) 15:25:46.34 ID:7p1BbX+Yo
わたしは真っ暗な部屋の中を歩いた。夢でもみていたのかと思った。
でも、手を繋いでいた感触がたしかにあった。手のひらにぬくもりが残っている気がした。
それは、いまはない。
「……叔父さん?」
と、わたしは彼のことを呼んだ。彼のことを呼んだのはそれが初めてだった。
彼の顔は知っていた。母の弟。わたしにとっての叔父。その頃のわたしには、怖い人だと言う印象以外はなかったけれど。
その何日かの出来事のせいで、わたしはすっかり彼を頼っていた。
わたしは手を握ることの意味すらよく思い出せなかった。だから最初はひどく怖かった。強く腕を引かれて痛い思いをする気がした。
でもちがった。彼はわたしのことを引っ張らなかった。わたしのことをぶたなかった。
怖くなかった。
でも。
その人はいない。
だからわたしは彼に言われたからではなく。
彼に会いたいと思って祖母の家に向かおうと思った。
794 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2013/01/01(火) 15:26:44.57 ID:7p1BbX+Yo
◆
着の身着のまま家を飛び出して、おぼろげな記憶を頼りに道を歩いた。
夜中に子供ひとりで歩いていたせいか、何度か大人に声を掛けられたけれど、そのたびに返事もせずに逃げ出した。
不審に思っただろうが、保護しようとか企む善人がいなかったことに、わたしは少しほっとした。
時間も、日付も、記憶も、曖昧だった。もともとわたしはそうなのだ。
母と父と三人での暮らしが始まってから、わたしの認識は空疎で希薄だった。
どんな連続性も失われていた。
だから祖母の家に辿りつけたのは奇跡のようなものだったのかもしれない。
あるいは――“彼”と一緒に道を歩いた記憶があったからだろうか。
わたしがインターホンを鳴らすと玄関に出てきたのは祖母だった。
彼女はわたしを見て嬉しそうに顔をほころばせた後、母がいないことに気付いて不審そうな顔をした。
「お母さんは?」と訊ねられてわたしは俯く。それから少し考えて、首を横に振った。
祖母は不審がったが、とりあえずわたしを家に招いた。
祖母の家は暗かった。蛍光灯の光すらが暗く冷たかった。
そこではさまざまなものが深い場所に沈み込み、静かに停滞しているように見えた。
795 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2013/01/01(火) 15:27:18.44 ID:7p1BbX+Yo
わたしにはその景色が寒々しく見えたし、祖母の顔は青白く褪せて見えた。
祖母はわたしにホットミルクを作ってから、「お母さんに電話を掛けるから」と言った。
わたしは少しどきりとした。
電話台に向かおうとする祖母の服の裾を引っ張り、首をぶんぶんと振った。祖母は怪訝そうな顔をする。
何か説明をしなくては分かってもらえないと思いつつも、けれどわたしは何も言えなかった。
だからしかたなくわたしは、
「……叔父さんは?」
と問いかけたのだった。祖母はその言葉に少なからず驚いていたように見えた。
「二階の部屋にいるけど、どうして?」
叔父さんがいるのだ、とわたしは思った。
わたしは廊下に出て階段を探す。それはすぐに見つかった。後ろから祖母の止める声が聞こえた。
何か切羽詰まったような声だったけれど、わたしにはそんなことは気にならなかった。
重要なのは彼の手を探すことだった。もう一度彼に手を握ってもらい、頭を撫でてもらうことだった。
そうすることでわたしはこの状況をやり過ごすことができるのだと思った。
階段を昇る。扉は廊下に三つあった。ひとつ目は祖父母の部屋らしかった。二つ目はトイレだった。
三つ目、いちばん奥の角を曲がった先。わたしは扉を開けた。
たぶん開けるべきじゃなかった。
796 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2013/01/01(火) 15:27:48.33 ID:7p1BbX+Yo
◆
叔父さんは眠っているようだった。部屋の中は暗いし、なんだか鈍く澱んで見える。
ひどい息苦しさを感じた。
わたしはなんだか怖くなった。ここに来れば大丈夫なのだ。大丈夫だと、叔父さんが言ったのだ。
だからわたしは此処に来た。
わたしは少し怖かったけれど、部屋に足を踏み入れた。
床板が軋む。叔父さんが起きてしまう、とわたしは思ったけれど、それの何がいけないのかは分からなかった。
叔父さんは当たり前のように微笑んで、きっとまたわたしの手を握ってくれる。
わたしは彼にそうしてもらえないとどこか遠いところに弾き飛ばされてしまいそうな気がしている。
「叔父さん?」
とわたしは声を出した。まるで怯えているみたいな声だと自分で思った。
危機感が、あった。
でもかまわずベッドに近づく。叔父さんはたしかに眠っていた。わたしは彼に手を伸ばしかけて、けれどやめる。
触れていいのかどうか分からない。
わたしはここに来てよかったのだろうか?
797 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2013/01/01(火) 15:28:14.79 ID:7p1BbX+Yo
迷っている間に、後ろから足音がした。
「ダメ!」
と祖母が言った。その声で叔父さんは目をさました。
「……」
彼は上半身をゆらりと揺らして起き上がった。それから暗い部屋のなかで他人の気配がすることに気付いたようだった。
「……誰?」
と彼は言った。どこか暗い場所から滲み出てくるような声だった。どこかの地下室から聞こえるうめき声のような。
「出てけよ」
声は苛立ちを孕んでいた。
「さっさと出て行け!」
わたしはその声にすくみ上る。祖母が謝る声が聞こえて、わたしは誰かに手を引っ張られて部屋から飛び出した。
「叔父さんの部屋に勝手に入ったらダメ!」
と祖母が廊下でわたしを叱った。わたしは訳が分からなかった。
祖母はわたしに何かを言おうとしたが、それが何かの間違いだったというみたいに首を軽く振って、
「お風呂にでも入りましょう。ご飯は食べて行っていいから。あとで、お母さんにちゃんと連絡するのよ」
わたしはわけもわからず泣き出しそうだった。でも、もうこの場には“彼”はいないのだと漠然と感じ取った。
もうわたしの手を握ってくれたあの人はいないのだ。わたしはまたまったく孤独な場所に放り出されてしまったのだ。
798 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2013/01/01(火) 15:28:46.28 ID:7p1BbX+Yo
◆
祖母はわたしを風呂に入れようとしたが、わたしが動こうとしないので「一緒に入る?」と言った。
わたしは少し抵抗があったけれど、頷いた。祖母がわたしを持て余しているのがよくわかった。
わたしは例の財布を握ったままだったので、それをひそかに洗面所の影になる部分に隠した。
それは見られてはいけないのだとなんとなく思っていた。
そして祖母は、わたしを風呂に入れているとき、わたしの身体にいくつかの痣があることに気付いた。
服がひどく汚れていることにも気付いた。
体がひどくやせ細っていることにも気付いた。
祖母はそれがどういう状況なのかをすぐに悟ったようだった。
祖母はすぐに母に連絡をしたが、結局母が電話を掛け直してきたのは翌朝六時半のことだった。
母は祖母が入れた留守電のメッセージを聞くまで、娘が帰っていないことにすら気付かなかったみたいだった。
祖母は祖父と相談し、しばらくわたしを預かると母に伝えたようだった。母は猛反発したが祖母は聞き入れなかった。
「それって横暴でしょう? ねえ、家族だからって調子に乗らないで。出るところに出てもいいのよ?」
母はそう言ったという。祖母は泣きながら答えた。
「出るところに出て困るのはいったいどっちなのよ? いいからとにかく落ち着きなさい」
そしてわたしは祖父母の家で暮らすことになったけれど、そこには致命的な問題があった。
わたしは母から逃げ出したかったわけでも、祖父母と暮らしたかったわけでもない。
ただ、もう一度“叔父さん”に会いたいだけだった。そしてそれだけが叶わなかったのだ。
799 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[sage]:2013/01/01(火) 15:29:12.68 ID:7p1BbX+Yo
つづく
800 :
!ninja
:2013/01/02(水) 01:42:30.06 ID:1n4z+RKMo
乙ー
801 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[sage]:2013/01/02(水) 20:13:59.63 ID:OFyD54VWo
乙
802 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2013/01/04(金) 10:02:01.23 ID:AaYHklSco
◆
◇
お兄ちゃんは息をつく。それを見て魔女が小さく笑った。
その顔を見て、今度はお兄ちゃんが訊ねる。
「何か間違っていた?」
「ううん、別に」
「そう。じゃあ話を続けようか」
「――ちょっと待って」
魔女はお兄ちゃんの話を遮った。わたしはその一連の流れに戸惑う。
なぜお兄ちゃんは平然と話を続けようとできるのだろう? 魔女はそして、どうしてそれを遮ることができるのか?
「あなたはいったい、何が目的なの?」
今度はお兄ちゃんが表情を凍らせる番だった。
たしかに、彼の行動は明白におかしい。
"自分は姪をとりもどしたいだけだ"と言いながら、なぜわたしや彼女のことに関与するのだろう。
もし何かしら関わり合うにしても、それは姪をとりもどしてからでも遅くはないはずなのに。
でも、目的が分からないのは魔女だって同じだった。
もしこの場にいる少女の未来の姿が魔女だったとするなら、彼女は何のためにここに来たんだろう?
……いや、もしかしたら、そのふたつは関わり合っているんだろうか。
803 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2013/01/04(金) 10:02:33.43 ID:AaYHklSco
「僕は姪を取り戻したいだけだよ。僕には彼女が必要なんだ」
「……そうだったらなぜ、こんな話を続けているの?」
「つじつま合わせを始めようかと言ったのはきみの方だよ」
「それに付き合う義理があるの?」
お兄ちゃんは視線を逸らした。
「いい? わたしが求めることはひとつだけ。それを――」
と、魔女はさっき少女の足元に放り投げたものを指差す。それは男物の財布のように見えた。
「――その子に渡して。それは切符みたいなものだから」
お兄ちゃんは黙っている。
わたしには、何も分からない。
804 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2013/01/04(金) 10:03:03.62 ID:AaYHklSco
「わたしは別に話し合おうと言ったわけじゃない。ただ辻褄を合わせたいだけ」
お兄ちゃんは魔女の言葉を無視するように少女の足元に屈み、財布を拾って開いた。
魔女は黙ってその行為を見つめている。
やがてお兄ちゃんの指先がカードのようなものを掴んで取り出す。運転免許証に見える。
「僕の名前が書かれている」
「そう。それで?」
「きみはこの財布をいったいどこで手に入れた?」
「……言う必要はない」
「そう」
さしてこだわることもなさそうに、お兄ちゃんは免許証をしまいなおした。
「これをこの子が拾うとつじつまが合うんだろう? つまり、きみは過去、ここでこの財布を拾ったんだな?」
「……本当に、答えの分かりきった質問を、する人だね」
お兄ちゃんは溜め息をついて、魔女から視線を外し、魔法使いを見遣った。
805 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2013/01/04(金) 10:05:02.85 ID:AaYHklSco
「きみの目的こそ、いったいなんなんだ?」
とお兄ちゃんは訊ねた。
わたしはお兄ちゃんが何をしようとしているのかさっぱり分からなかった。
どうして話を続けようとするのだろう?
これ以上何を話そうとしているんだろう?
魔女はお兄ちゃんの質問に答えようとしなかった。
「きみはいったい何をしようとしているんだ?」
とお兄ちゃんは訊ねた。わたしにはその質問が奇妙なものに感じられた。
彼女は何も言わない。
なんだろう? この閉塞感は。どこにも行き場のないような感じ。すべてのどん詰まり。
わたしたちは今この場所にいる。そしてなぜだかどこにも行けないような気がしてきた。
いったい何がどうなってこんなふうになってしまったんだろう?
そもそも――この場所で何が起こっていたんだろう?
806 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2013/01/04(金) 10:05:33.83 ID:AaYHklSco
「僕の目的は本当にひとつだけなんだ」
お兄ちゃんははっきりとした口調で言うと、魔法使いの顔を見た。
「ねえ、きみの魔法はどんなふうに成立してるの?」
魔法使いは唐突に話を振られてきょとんとしたが、すぐに頭の中で整理を始めたようだった。
「んっとね、まずイケニエが居て、それを使ってドアを開くのよ」
「……イケニエ?」
……わたしが聞いたときと、だいぶ話が違うような気がするけど。
「大抵の場合、ドアが開くのはイケニエの願いなのよ」
「この場合だとイケニエっていうのは」
「その子だね」
と魔法使いはわたしを指差した。
807 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2013/01/04(金) 10:06:24.45 ID:AaYHklSco
「この魔法に巻き込まれた人間っていうのは、魔法から脱出するとき、分岐した"その先"にいけるんだけど、イケニエだけはそれができない」
「なぜ?」
「"なぜ?"」
と魔法使いは意外そうな顔になった。
「うーん。そういうルールだから? ま、詳しいところはわたしにも分かってないんだけど」
で、と魔法使いは話を続ける。
「そのイケニエの行動如何によって未来が変わるわけ。分岐ね」
「今回だと、この子が」
と今度はお兄ちゃんがわたしを示した。
「"もうひとりの僕"を連れてきたりしたから、分岐ができた?」
「そう。うん。たぶんね」
魔法使いはぽりぽりと頭を掻く。
「そのイケニエは、最初から最後まで、絶対に同一人物?」
「……」
その言葉に誰よりも先に反応したのは魔女だった。一瞬で彼女の顔が青ざめる。
魔法使いは苦笑していた。
808 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2013/01/04(金) 10:06:57.43 ID:AaYHklSco
「いや。でも、もともとこの世界にいた人間はイケニエになることはできない」
「つまり、イケニエになれるのは、この場にいる僕を除いた三人と」
それから、ケイ、もうひとりの僕。その五人だけか。お兄ちゃんは呟く。
「……でも、この魔法に巻き込まれたら、その世界に戻らなきゃいけないんだよね?」
「うん」
「だとしたら、結局"イケニエ"以外の人間も、別世界から来たら、元通りの未来に戻るんじゃないの?」
「うん。そうなんだけど……」
魔法使いはそこで気まずそうな顔になった。
「イケニエ以外は、ちょっとズレる。時間が」
わたしはなんだか落ち着かない気分になってくる。お兄ちゃんが言わんとしていることが分からない。
わたしは、なんとなくお兄ちゃんの顔を見るのが怖かった。
お兄ちゃんは男物の財布を拾い上げ、それを少女にわたした。魔女の表情が歪んだ気がする。
わたしはその様子をじっと眺めていた。
809 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2013/01/04(金) 10:07:23.40 ID:AaYHklSco
◇
そのあと起こったことを、わたしはよく覚えていない。
◇
810 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2013/01/04(金) 10:08:00.83 ID:AaYHklSco
わたしはふと目を覚ますとわたしの部屋にいた。"わたし"の部屋。
祖父母の家の中に存在する"わたし"の世界の"わたし"の時間の"わたし"の部屋。
時計の秒針が動く音が聞こえた。カチカチという音。窓から差すカーテン越しの朝の陽ざし。それは以前より柔らかに感じられる。
わたしの耳はたしかに音を捉えていたし、わたしの目はたしかに光を捉えてていた。
記憶が判然としない。何が起こったのか分からない。
でもたしかなのは、目覚める前、意識を失うまでわたしの中にあった何かが欠けてしまっていたことだった。
だからといって喪失感や欠乏感はなかった。むしろ今まで付きまとっていた余計なものが綺麗さっぱり消えたような気分だった。
わたしは目を覚ました。
記憶が連結しない。さまざまな認識が途切れている。わたしは目を覚ましてしまった。
何が起こってしまったのだろう? 彼らはどうなったのだろう? いったい何が起こったのだろう?
でも漠然とした感覚だけが胸の内側を支配していた。もう終わってしまったのだ。
分かる? 終わってしまったんだよ、全部。誰かがそう言った気がした。
でもこの部屋には他に誰もいないし、いまのわたしには誰の声も聞こえないはずなので、たぶんそれは自分の発した言葉だったんだろう。
811 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2013/01/04(金) 10:08:42.46 ID:AaYHklSco
わたしはベッドを這い出た。日めくりカレンダーは八月の上旬の日付を表している。
祖母が起きたわたしを見て「体調はよくなった?」と言った。わたしはぼんやりとした頭のまま頷いた。
何が起こったんだろう?
でもすべては終わってしまったこと、過ぎてしまったことだった。
わたしは生きていた。
不思議と。いや、不思議なことなんてないかもしれない。きっとすべてを理屈で説明することだってできる。
でもわたしはそれをしたくなかった。逃げかもしれない。でも怖かった。
祖母がスイカを切ってくれたので、わたしは縁側に寝転がって風鈴の音を聞きながらそれを食べた。
庭には一輪の向日葵が咲いていた。誰かに会いたくなったけれど、誰に会えばいいのか分からなくなった。
さまざまな混乱が見通せる場所に立つと、事態はあまりに混乱していることに気付いてしまう。
その混乱の中に一度だって巻き込まれてしまえば――巻き込まれているのだと気付けば――人は正常ではいられない。
わたしは何も願うべきではなかったのかもしれない。祈るべきではなかったのかもしれない。
812 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2013/01/04(金) 10:09:18.35 ID:AaYHklSco
わたしはとにかく生きている。そしてさっきまでの出来事は、きっと全部ただの夢でしかなかったのだろう。
そう思うことがおそらく幸福であるということなのだ。
説明が欠けているのだ。とわたしは思った。説明? でもどんな説明なら納得できるんだろう?
どんな真実なら納得できるんだろう? そもそも"本当"ってなんなんだろう?
わたしは瞼を閉じる。夏の日差しが瞼に覆われた視界を肌色に染めた。これは血の色なのだ。
血液は"わたし"に含まれているとわたしはごく当たり前のことを考えた。
わたしは記憶を反芻する。何もかもがわけの分からないまま滞っている。ケイくんはどこにいったんだろう?
もうひとりのお兄ちゃんは? お兄ちゃんは、魔女は、あの時間のわたしは、どうなったんだろう。
わたしはどうして肝心な記憶を失ってしまったんだろう?
でもそんなことはもうどうでもいいじゃないか、とわたしは思う。ぜんぶ終わってしまったんだ。
やり直すことなんてできないし、仮にやり直せたところでどうなるっていうんだろう?
もう全部放り投げて終わらせてしまえばいいのだ。誰かが勝手に、わたしに都合の良いように終わらせてくれたんだ。魔法みたいに。
わたしは生きている。生き返った。そう。生き返っている。死んだはずなのに。
813 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2013/01/04(金) 10:10:00.80 ID:AaYHklSco
死んだはずなのに、生きている。
そういうこともあるんだなぁとわたしは思った。死んだのはきっと夢だったのだ。
そのあとに起こったこともすべて夢だった。そう思わないと、理屈が成り立たない。
――。
「眠いの?」
と祖母が言った。そう。眠いんだ。眠っていたい。そして今は眠れる。
「寝ていてもいいよ」
祖母が柔らかく微笑んだ気がした。わたしはなんだか泣きたくなる。
ここでずっと寝転がっていればいいんだ。そうすれば全部上手くいく。きっと。
814 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2013/01/04(金) 10:10:43.26 ID:AaYHklSco
◇
◇
さて、と僕は思う。
魔法使いはこちらを興味深そうに眺めている。魔女の顔面は蒼白だった。
"彼女"は状況を把握できていないようだ。もうひとりの姪は、最初から何も分かっていないような顔をしている。
多くのことが説明され尽くしていない。僕はこの世界が二周目だと言ったが、より正確に言えばここは三周目以降のはずだ。
だがどうでもいい。
ここにいる三人の少女のうち、ひとりが「イケニエ」になれば他二人は未来を取り戻せるかもしれない。
もちろん新しい分岐として。
魔女の表情が苦しげになった。
僕は何かを言うべきなのかと思ったけれど何も浮かばなかった。
だからただ魔女の顔を見た。僕は彼女のために祈るべきなのだ。本来なら。
「ケイは?」
と僕は魔法使いに問いかけた。
「……さあ?」
彼女にも分からないことがあるのだろう。僕にはどうしようもなかった。
815 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2013/01/04(金) 10:11:12.36 ID:AaYHklSco
「僕は姪がそばにいれば、他のことはどうだっていい」
と僕は言った。これは魔女に向けた言葉だった。
「……あの子は、上にいるから」
魔女は階段を指差す。失望したか、軽蔑したか。彼女の眼はひどく褪めている。
僕は階段を昇る。魔法使いが背中に声を掛けていた。うるさいなぁと僕は思った。僕は急いでいる。
階段を昇ると扉が三つ並んでいた。僕にはその三つの扉が何かの象徴のように思える。
でもそんなのはただ感傷的なだけの錯覚だ。一番奥の扉は物置になってる。もうひとりの僕が見た記憶を僕はまだ持っている。
僕は扉を開く。その向こうに何かがあった。
何か。寝そべっている。そこに僕が探している人がいた。
いたけれど。
死んでいるように見えた。
816 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2013/01/04(金) 10:12:32.76 ID:AaYHklSco
彼女が声を発した。
「どうして?」
と彼女は言った。か細い、頼りない声だった。
僕が求めていた声だった。たぶんずっと。でも、その声が言おうとしていることも僕にはよく分かった。
僕は説明しようとしたけれど、何をどう言っても無駄だと思えた。結局同じことなのだ。
「わたし、お兄ちゃんのこと、好きだよ?」
声が言う。それは咎めているように聞こえた。でもそれはたぶん、僕の罪悪感がそう思わせているだけの錯覚。
「そう」
僕はことさらそっけなく返した。
「お兄ちゃん、でも、ねえ。わたしは……」
彼女の声は泣いているように聞こえた。たぶん僕が泣かせたのだ。
「そんなの、嫌だよ」
彼女は何もかもを理解しているようだった。何が起こっているのかを。
僕がもうひとりの僕の身に起こったことを把握できているように。
彼女にも大方の事情は呑み込めているんだろう。
817 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2013/01/04(金) 10:13:13.62 ID:AaYHklSco
僕は床に寝転がる彼女の傍に屈みこみ、その手を取った。
いやいやと首を振り、僕の顔を見ようとしない彼女に、僕はどうすることができるのだろうと考えた。
僕は、未来の僕が姪に素っ気なくなった理由が理解できる気がした。
でもそんなのは僕が言ったところでどうしようもないような話だ。
区別。
"イケニエ"を捧げれば未来の姪もふたたび生きることができる。
イケニエになれる人間は三人。
そのうちの一人を生き長らえさせるために"イケニエ"がほしいのだから、候補はふたり。
少女か魔女か。
けれど少女が一度帰らなければ、魔女としてこの世界にやってこない。
(おそらくそれは周回的意味合いでの"来ない"であって、おそらくこの世界に影響はないがそれもどうでもいい話だった)
消去法。
未来の姪を助けるためには別の姪を生贄にするしかない。
シンプルな結論。
818 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2013/01/04(金) 10:13:42.41 ID:AaYHklSco
「でも、そんなの嬉しくないよ」
姪は絞り出すように言った。掠れた声。
「誰も喜ばないよ」
「いいよ」
と僕は言った。
「でもあの人は、きっとお兄ちゃんに会いたくてここに来たんだよ?」
「そうだとしても僕のやることは変わらない」
「そんなお兄ちゃんは、いや」
「いいよ」
と僕は言った。
「かまわない。いやになってかまわない」
「お兄ちゃん」
と彼女は少し強い口調で言った。
819 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2013/01/04(金) 10:14:08.46 ID:AaYHklSco
「わたしは、こんな結果認めないよ。だから、このままだと、何度でも繰り返しちゃうよ。こんなのダメだよ」
「じゃあ、他にどうできるって言うんだ?」
姪は押し黙った。結局僕らは無力なのだ。具体的に世界に対して働き掛ける能力を失っている。
いつだってそうなのだ。僕らはただ起こったことを起こったままに受け入れる以外に手段を持たない。
起こったことを受け入れられずに結果を変えようとするとおかしなことになってしまう。
「でも、こんなのはダメだよ」
ダメなんだよ、と姪は言う。
「こんなのは、絶対に……」
そのまま泣きじゃくる姪を、僕は立ち上がらせた。背中を向けると、しっかりと体を寄せてくる。その身体を背負う。
雑多なガラクタの積まれた物置は未整理の頭の中みたいだった。扉を出る。迷わずに階段を下りた。
何も考えなかった。
階下に降りるとすべては終わっていた。誰もいなかった。だから僕には何が起こったのかは分からなかった。
ただ、すべてが終わったのだとぼんやり思った。分からないことをいくつか残して。
これでよかったわけじゃない。
でも他にどうしようもなかった。少なくとも僕には。
820 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2013/01/04(金) 10:14:40.26 ID:AaYHklSco
◇
本当なら他にも手段はあったかもしれない。
たとえば僕はこの段階で一度"魔女"をイケニエにする。
そしてのちにもう一度魔女の魔法を頼り、"僕"がこの世界にやってくる。そしてそのやってきた僕がイケニエになる。
すると魔女は自分の世界に帰ることができる。
でも分岐が増えるだけで結果が変わるわけじゃなかった。魔女の魔法はそもそも欠陥品なのだ。何も変わらない。
何度繰り返したって、ひとつの世界で起こったことはそのまま変わらない。揺るがない。
これ以上僕にできることなんて何もなかったし、そもそも僕は姪を取り戻したかっただけなのだ。
それ以外のことなんて、どうでもいいのだ。本来なら。
とにかくこのようにして一連の出来事は終わってしまった。
何もかも判然としない形で。
◇
821 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2013/01/04(金) 10:15:33.99 ID:AaYHklSco
つづく
822 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[sage]:2013/01/04(金) 12:42:16.82 ID:Uy/1LjO6o
乙
判然としないです
823 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[sage]:2013/01/05(土) 13:18:55.83 ID:DV3ihZ4Mo
乙
824 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2013/01/05(土) 15:01:29.39 ID:Y3rLkBTKo
◇
◆
わたしは、だから、彼が望んだとおり、"イケニエ"になって。
わたし以外の人間に未来を残した。
手を繋いでくれる人のいない世界は、おそろしいだけの世界は、生き延びたところで結局不要だった。
だからわたしは川に身を投げた。
あのとき拾った財布を持って。
すると不思議なことが起こった。
目をさましたとき、わたしは魔法使いの控室にいた。
そこで起こっていることを知り、もう一度あの人に会えることを期待した。
でもそれはできなかった。さまざまな事情から。
これはあとになって、まったくの見当違いをしていたと気付くことになるのだけれど。
でもまぁ、その話についてはいいだろう。
とにかくわたしはあの人に会いにいくことができなかった。
できなかったから、せめて、辻褄を合わせようとした。
過去の記憶を擦り合わせて、なんとか辻褄を合わせようと。
それは混乱していたし、入り組んでいたが、結果から逆算すれば不可能なことではなかった。
825 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2013/01/05(土) 15:02:30.61 ID:Y3rLkBTKo
そしてわたしは自分を"イケニエ"にすることを思いついた。
わたしがイケニエであることを引き受ければ、わたし以外の人間には未来が残る。
対してわたしには、未来が残ったところで、あの人と一緒にいられるわけではない。
わたしの世界にあの人はいないからだ。
これ以上ない綺麗な終わり方だと思った。
だからわたしは、巻き込まれたもうひとりの"あの人"を許すべきだと思った。
問題はひとつだけ。
自己犠牲によって完結するはずだったわたしの自己満足は。
"あの人"の最期の態度によってただ悲惨なだけのものになってしまった。
あの人が、わたしをイケニエにすることを選んだのなら。
それは自己犠牲ではなく、既にただの生贄だった。
わたしの死体は川の中で発見される。
緑色のドアの向こうで楽園を見たわたしは。
そのドアとよく似たドアのくぐって死ぬ。
死んだはずの他の人間たちに命を分けて。
826 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2013/01/05(土) 15:03:03.50 ID:Y3rLkBTKo
◆
◇
未来の姪はそのまま姪の未来と言い換えられる。
僕は姪の未来を死なせるわけにはいかなかった。
だから姪であって姪ではない人間。少なくとも僕にとっての姪でない人間に死を背負わせた。
そうすることで未来の姪の死を覆そうとした。少なくともそれが可能だと思ったし、そうするべきだと判断した。
僕はひとつのことのためだけに生きればよいのであって、それ以外のものはどれだけ酷似しようと不要だった。
ただ僕にとって厄介だったのは、現在の姪がすべてを知ってしまっていることだった。
それは今後何かの問題になって僕の前に立ちふさがるかもしれない。
でもそれはこれからの話であって、これまでの話ではない。
この夏の話はここで終わりだ。
整理つくされていない。説明されつくしていない。列挙されきっていない。
だが不足も特にない。いや、あるが、それは些末なことだった。
どれもこれも不要と言えば不要だった。
これでこの話は終わる。
魔女だけが死んだ。未来からやってきた僕の姪は自殺しなかったことになり生き延びる。
その先でどうなるのか僕には分からない。
彼女がやってきたことで、僕の世界は彼女のいる未来とは別の未来へ向かうことになったからだ。
僕はそのために魔女をイケニエにした。
未来の姪はふたたび生きる権利を得た。
だが――これで本当に良かったんだろうか?
827 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2013/01/05(土) 15:03:43.73 ID:Y3rLkBTKo
◇
◇
いくつか説明しなければならないことがある。
まず最初に、この手記が構造的にアンフェアであるということ。
それは手記が手記であるがゆえの卑怯さ、不公平さ。
つまり情報を信用するかどうかを、すべて読み手にゆだねた文章だという意味だ。
どこまでが本当でどこからが嘘か? それを判断するのも決定するのも僕ではない。
いずれにしても、この手記において重要なのは事実や出来事の信憑性ではなく、むしろ象徴性、意味性の方なのだ。
この手記は、あの奇妙の出来事について、"ケイ"と呼ばれた僕が、魔法使いの協力を得て記したものだ。
魔法使いは僕が思っていたよりも多くのことについて語ってくれた。
だから僕ではない人間の、僕が知りえなかった状況について、僕は比較的容易に記述することができた。
魔法使いは協力的だったし、また嘘をついているようでもなかった。
彼女自身の目的もごく早い段階で成功したものだから、どうでもよくなったのかもしれない。それだけに幕切れは悲惨だった。
この手記は整理されていない。また説明もされていない。けれど必要な情報は列挙されている。
だが、勘違いしてほしくない。
僕は別にこれを読んだ人物に、情報を整理し、自分なりの説明を付け加えてほしいと願っているわけではない。
これはあくまでも僕が僕の頭の中を整理するために書かれたものだ。その必要があった。
828 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2013/01/05(土) 15:04:13.26 ID:Y3rLkBTKo
その整理はなんのために必要だったのか?
“お兄ちゃん”と彼女が呼んだ人のために必要なのか?
“彼女”のために必要だったのか?
あるいは“もうひとりのお兄ちゃん”と呼ばれた人物?
それとも“魔女”?
“魔法使い”? あるいは、魔法使いと話していた“男”?
いずれも不要だ。
思うに、この手記の登場人物たちは常に“逃げている”。逃げ続けている。
遠回りをし、結論を避け、曖昧を好み、真実を覆い隠そうとしている。そして自分勝手な結論をつけて、自分勝手に悲しんでいる。
それが悪いわけではない。そういったことが必要な場合もある。
僕はむしろ明晰さを好むが、だからと言って僕はすべてを説明し尽くすことができない。
なぜなら僕は彼らではないし、そうである以上状況から動機を類推することはできてもそうだと断定することができないからだ。
この整理は僕の為に行われている。
設問はシンプルだ。
“僕はなぜ自ら魔法の生贄になり、魔女と彼女を本来の結末から追いやり、違う分岐に流し込もうと思ったのか?”
僕はその答えを探しているのだ。
829 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2013/01/05(土) 15:04:39.56 ID:Y3rLkBTKo
◇
魔法の生贄になるということについて注釈が必要だろう。
理不尽で不条理な魔法によって世界に分岐と結果を作り出した魔法使い。
けれど彼女が魔法を行使するためには“願い”をもった人間が必要だった。
その彼、あるいは彼女が“過去を変えたい”ないし別の分岐を作りたいと願うとき、魔法使いは魔法を発動させる。
そして分岐を作りだし、彼あるいは彼女は生贄としてもとの世界に戻る。
この構造は至ってシンプルだ。
AとBという少年がじゃんけんをする。
このとき一度Aは負けてしまうが、なんとか負けたという結果をなかったことにしたい。
そこに魔法使いが現れ、Aをじゃんけんをする前の世界に移動させる。
Aは負ける前の自分になんらかの形で変化を与え、じゃんけんで勝利させることが可能になる(かもしれない)。
もし結果を変えられたにせよ変えられなかったにせよ、Aは自分が“負けた”世界に戻らなくてはならない。
そして今回はその“A”こそが僕の友人である彼女だった。
厄介なことに魔法使いは“死ぬ直前の彼女”に魔法を使った。
(つまり厳密には彼女は死ぬ前だったのだが、彼女はそのことを知らなかった。また、どうせ虫の息ではあった)
つまりなんとか「じゃんけんに勝った未来」を彼女が作り出せたとしても、彼女は結局「死ぬ直前の世界」に戻らなければならなかった。
ここに抜け道があった。
830 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2013/01/05(土) 15:05:16.25 ID:Y3rLkBTKo
魔法使いの魔法には、「イケニエ」のルールがあった。
生贄は本来、願いを言って魔法を発動させた張本人の役目だ。だが、この魔法に“巻き込まれた人間”がいる場合はその限りではない。
“巻き込まれた人間”に、イケニエの役割を押し付けることができる。
そこに目をつけたのが“彼”だった。
彼の姪、の、未来の姿、である、僕の友人。そのまま放置すれば、彼女が未来で死んでしまうことに気付いた彼は、イケニエをささげることにした。
そこに都合よく存在したのが魔女だ。
魔女がなぜその場にいたのかという疑問に答えるのは容易だけれど、同時に困難なことでもある。
彼女は常に不安定で流動的な心理状態にあった。
どっちつかずなまま、自分で判断をくだせずにいた。
でもそもそも――魔法使いの言によれば――彼女は途中から、自分をイケニエにすることを思いついていたのだと言う。
自分が死ねば、自分にとって大事な“あの人”の“大事な人”の“未来の姿”が守れるかもしれない。
魔女はそう考えた。
彼女がそうまでして彼にこだわる理由が僕には分からなかったけれど、そこには僕の知らない何かが作用しているのかもしれない。
あるいはそんなことは一切なく、ただ自棄になったような気持ちだけがあったのかもしれない。
どちらでもいい話だ。憐れな魔女は“彼”に生贄になるように消極的に促された。彼女はそれを受け入れようとした。
そこに僕が現れた。
831 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2013/01/05(土) 15:05:43.25 ID:Y3rLkBTKo
魔法使いによると、魔女もまた、死ぬ直前だったところを“巻き込まれた”らしい。
つまり彼女が生贄になれば、未来の彼女は死なないが、魔女は死んだ。
“彼”もそのことには気付いているようだった。
だから彼は徹底しきっていなかった。
本当に“姪”を大事にするなら、少なくとも“姪”である魔女を蔑ろにするべきではなかった。
彼女のありとあらゆる未来、ありとあらゆる可能性、ありとあらゆる姿を肯定し、受け入れ、そして守らなければならなかった。
その時点で彼は敗北したのだ。
だがそれは仕方ないことでもある。
彼はもともとあの世界の住人だった。だから自らをイケニエにすることができない。消去法で魔女を選ばざるを得ない。
でも、“僕”を忘れていたのが、彼の敗因だ。
僕。ケイ。彼女のおまけ。未来からやってきた彼女の、友達。無関係の人間。
あの段階で、“もうひとりの彼”は既に元の世界に帰ってきた。イケニエ以外として。
だからあの時点でイケニエの候補は四人。
彼女。魔女。少女。そして僕。
832 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2013/01/05(土) 15:06:11.69 ID:Y3rLkBTKo
消去法。
僕以外はすべて“姪”なのだから。
彼は“僕”をイケニエにするべきだった。
彼がそれをしなかった理由は僕には分からない。単に忘れていたのか?
それとももっといい方法を考えていたのか? どちらにしても同じことだった。
彼は中途半端だった。
もし魔女をイケニエに捧げるなら、彼女を“姪ではない”ことにしなくてはならない。
それならば“少女”もまた姪ではない。“姪ではないのなら、優しくする理由はない”。
けれど彼は“少女”を“姪”か、それに近しいものとして扱った。
だから魔女は現れ、魔女が悲しむ結果になった。
姪はそれを見透かしただろう。
その結果どうなるのか、僕にはだいたい想像がつく。
(だから僕はこれを書いている)
833 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2013/01/05(土) 15:08:35.47 ID:Y3rLkBTKo
◇
「僕がイケニエになった場合――」
と僕は魔法使いに訊ねた。
「僕は死ぬ直前だったわけでもないから、死んだりはしない」
「うん」
魔法使いは頷く。でもね、と続けた。
「でもね、あの子は死んでしまう」
やっぱりな、と僕は思った。
彼女は死んでしまうのだ。
「本来なら死んでしまうあの子は、別の分岐に飛ばされて生き延びられる。
でもあなたは、あの子が死んでしまう本来の分岐に戻ってしまう。
つまりね、あの子がこれから行く世界で、あなたは生きているけれど、それは「あなた」ではない。
そして、「あなた」がこれから行く世界で、あの子は死んでいる」
そういう理屈なのだ。
834 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2013/01/05(土) 15:09:02.34 ID:Y3rLkBTKo
「あなたはあの子が好きだったんでしょう?」
「別に、そうでもない」
嘘だった。
でも、本当のことを言うよりは気が利いているように思える。
「ケイくん」
と魔法使いは僕を呼んだ。
呼んだ後、どう続ければいいのか分からないと言うみたいに視線をさまよわせた。
既に魔女も、彼女も、“イケニエ以外”として世界に戻った。少女もまた、財布を持って。
「ねえ、あの財布のことで、質問があるんだけど」
僕が言うと、魔法使いは少し姿勢を改めた気がした。
「あの財布……おかしいよね?」
「……」
835 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2013/01/05(土) 15:09:41.50 ID:Y3rLkBTKo
たとえば。
魔女=少女は、最初に財布を拾う。
つまり、少女としてあの世界にやってきたとき、帰る直前に財布を拾う。
そしてそれを魔女としてやってくるときまで、大事に持っていた。
それをあっさりと“もうひとりの彼”に渡す。
「魔女と少女の理屈について、どうしても納得のいかない部分がある。あの財布、彼女はどうやって手に入れたんだ?」
つまり。
あのとき、あの場所で行われたこと――僕はそれを見たわけではなかったけれど――を信用するなら。
少女は魔女から財布を受け取っている。それが少女が財布を手に入れた最初だ。
でも、そうだとすると、少女に財布をわたした魔女は、どうやって財布を手に入れたのだ?
魔女は少女なのだから、魔女から渡されたに決まっている。
じゃあ、最初の魔女は、どうやって財布を手に入れた?
「……」
「……難しい話、するなぁ」
魔法使いは顔をしかめた。
836 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2013/01/05(土) 15:10:07.70 ID:Y3rLkBTKo
「それ、大事な話?」
僕は頷くかどうかを迷って首をかしげた。
「……うーん、と、さ。art-school、Syrup 16g、people in the box」
それは魔女が“もうひとりの彼”と話す時に挙げた邦楽のバンド。
「これってさ、“もうひとりの彼”は知らないはずのバンドなんだよ」
「……」
「ついでにもうひとつ。“異世界同時間体”ってのとは別に、“異世界異時間体”ってのがいるとして。
――そいつとも、魔力的パイプは繋がり得る、って言ったらどうする?」
「財布の中には、免許証なんかもあったっていったっけ」
つまり、財布の出所は“異世界異時間体”でありうる、というわけだ。
だが、仮に“もうひとりの彼”と繋がり得る“異世界異時間体”などというものが存在するとするなら。
生贄の候補は、もうひとりいたということにはならないのか?
837 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2013/01/05(土) 15:10:34.66 ID:Y3rLkBTKo
それはおそらく、最後まで不鮮明だった魔女の思惑ともかかわりがあるのだろうが……。
僕はなんとなく考えるのが怖くなった。
「もう行くよ」
と僕は言った。それ以上話を聞くと、決意が鈍りそうだった。
「ごめんね」と魔法使いは謝った。
僕の恐怖はより一層増した。
でも僕は緑色の扉をくぐって元の世界に帰ることにした。
生贄になるのは簡単だった。単にそう意識すればいい。
それで終幕だった。
僕がこれから帰る世界で、彼女は既に死んでいる。
彼女の死はたしかな事実として逃れようもなく存在している。
それは揺るぎようがない。僕が引き受けた。でもそれは本来なら全員が全員なりに引き受けなければならないものだった。
結果は揺るがないことだ。それを妙な魔法に頼って忽せにするから――おかしなことになる。
僕は元の世界に戻るが、それは自己犠牲なんかじゃない。
それはごく当たり前のことなのだ。
838 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[sage]:2013/01/05(土) 15:11:35.62 ID:Y3rLkBTKo
820-3,5
魔女の → 魔法使いの
そろそろ終わるような気がしています
伝わらなかったらごめんなさい
839 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[sage]:2013/01/05(土) 15:58:08.61 ID:BgzFciBIO
つまり……どういうことだってばよ
840 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[sage]:2013/01/05(土) 22:32:07.18 ID:l/fz6TJzo
乙
>>312
あたりが異時間体なのかな
841 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2013/01/09(水) 13:09:46.02 ID:mi0scknjo
◇
起こったとされること、起こったであろうことを並べあげるのは困難だ。
僕はすべてを見たわけではないし、またすべてを把握しているわけでもない。
だから断定はできない。けれど推測することはできる。ある程度。
それが本当なのかどうかは分からないし、第一にそんなことは僕にとって重要ではない。
けれど、それがどんなに疑わしくても、順序立てて出来事を整理するためには、それを暫定的に信用する必要がある。
本当は、僕が思っているのとまったく違うことが起こっていたのかも知れない。
誰かが僕に嘘をついたかもしれないし、僕が何かを勘違いしているかもしれない。
ひょっとしたら僕のすべての記憶が改竄されたものでないとも言い切れない。
もちろん馬鹿らしいと鼻で笑うことは簡単だ。
可能性という言葉を無限定に使うことは混乱しかもたらさない。これも自明だ。
だが、僕は疑わしく思ったままに起こったことを整理する。
まずは、魔法使いから聞いた説明をそのまま記述しよう。
842 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2013/01/09(水) 13:10:12.42 ID:mi0scknjo
◇
魔法使いという女がいた。
いたということにしておこう。ひょっとしたらいなかったかもしれない。
だが、魔法使いという女がいたということにしておかなければ話が進まない。
だから仮に、魔法使いという女がいたということにする。あるいは男だったかもしれない。本当はどっちだっていい。
魔法使いは特定の人間の願いを叶えうる力を持っていた。その名の通り。
あるいは、特定の人間の願いを叶えうる力を便宜的に魔法使いと呼び、それに人物としての型を与えたとも言える。
解釈はどうだっていい。
とある男が、この魔法使いという女と出会った。
魔法使いはある理由から、この男の願いを叶えてやることにした。
それは超常的な力を持つもの特有の傲慢な憐憫からだったかもしれない。
あるいは男に一目ぼれでもしたがゆえに、叶えてやろうと思い立ったのかもしれない。
それともひょっとしたら、男の方が魔法使いに気に入られるような何かをした可能性もある。
状況はどうでもいい。
とにかく、魔法使いという女がとある男に出会った。
その男はとある願いを抱いていて、それを叶える力を魔法使いは持っていた。
そして魔法使いは、男の願いを叶えてやることにしたのだ。
それがまず最初に起こったこと。
843 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2013/01/09(水) 13:10:55.08 ID:mi0scknjo
男はごく平凡な人間だったという。
二十代の前半くらいの歳で、くたびれたスーツを着て、ありがちな煙草をくわえていた。
けれど、何か奇妙なところのある男だと、魔法使いは感じたらしい。
男は家族を失っていた。父母は健在だったが、姉とその夫である義兄、そして姉の娘、姪を亡くしていた。
だからどうというのではない。その死が、彼の生活に影を落としたというわけではない。
死の形が一風変わったものではあったので、当時は多少の不利益も被ったが、だが、それもそれだけの話だ。
男の願いはその死にまつわるものだった。
元より不仲だった姉と義兄について、男は語るべき言葉を持たないようだったと魔法使いは言った。
男が気に掛けたのは姉夫婦よりもむしろ、その娘の死についてだった。
交流があったわけでもなく、愛情を抱いていたわけでもない。面識だって多くはない。
そんな姪の死に、なぜ特別な感情を抱くことになったのか、男は自分自身で分かっていなかったという。
844 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2013/01/09(水) 13:11:35.21 ID:mi0scknjo
魔法使いはそのときになると、男の生い立ちをある程度(超常的な手段で)理解していたので、こう推測したらしい。
"両親の愛情を受けて爛漫に育った姉に対して、自分は父母に蔑ろにされていると感じながら育ったのだろう。
そして、父母の愛情を得られずに死んでしまった姪に自分を重ねているのだ"
(姪は姉夫婦にさまざまな形の虐待を受けた末、姉に殺された。姉夫婦は不仲であったという)
このいかにも三文ドラマの筋書きと言いたくなる魔法使いの推測が、果たして正しかったのか、それは分からない。
けれど男は姪の死に痛切に見えるほどの執着を持っていた。それは確かだと魔法使いは言った。
そのことに、どうしても納得できないと、男は言ったらしい。
ならば、と提案したのが魔法使いだった。
彼女の力は過去に干渉し、未来を捻じ曲げることを可能とした。
(そのルールについての魔法使いの説明は省略する。注釈は不要だろう)
845 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2013/01/09(水) 13:12:22.45 ID:mi0scknjo
男は魔法使いに力を借り、過去に戻った。
そして"納得のいかない結果"を変えようとした。
エラー、リトライ。
"姪の死"に納得がいかなかった彼は、けれど姪の死をすぐさまどうにかする術を思いつかなかった。
いっそ死の原因になる姉夫婦を殺してしまうことも考えた。
そうすれば自分の父母が姪を引き取るだろうし、その後の生活に特に問題は起こらないはずだ。
が、その際は過去の自分が姪に対して良くない感情を抱く懸念があった。
そうだとすると、ただ姉夫婦から逃がすだけでは足りない。
そこで男は、いっそ過去の自分の方を変えることにした。
846 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2013/01/09(水) 13:12:48.49 ID:mi0scknjo
男は過去の、それも子供の頃の自分に会いに行き、話をした。それから自分の財布を渡した。
なぜそんなことをしたのか?
それは分からない。
でも、彼が、過去の自分に財布を渡したこと。これはたしかだった。
この財布については、少し話が面倒になるので、後回しにしよう。
男の言葉がどういう影響を与えたのか、過去は変わり、別の未来が生まれた。
男は本来の自分の未来、つまり姪と姉夫婦が死んだ世界に戻った。
そのあとのことは魔法使いでさえ知らないと言う。
847 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2013/01/09(水) 13:13:29.24 ID:mi0scknjo
男が生んだ新しい未来の先で、姉夫婦は離婚することになり、姪は姉が引き取ることになった。
姉はそのまま姪とともに父母の家に居着いた。そして、過去の男は姪とともに成長していく。
本来は、姪に対して無関心だった男は、姪を溺愛することになる。
どのような変化の結果かは分からない。
そうすることで何かを取り戻そうとしたのか、あるいは取り戻せることを期待したのか。
もちろん、仮に何かを取り戻そうとしていたのだとしたら、それは代償行為でしかなく。
そうである以上、何かを覆せるわけもなかったのだけれど。
エラー、リトライ。
本来の男の思惑通り、男は姪を大事にして、ふたりはゆっくりと成長していった。
けれど、不思議なことに、男はある一定の時期から、姪と距離を置くようになる。
848 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2013/01/09(水) 13:14:06.81 ID:mi0scknjo
推測を並べるのは簡単だ。
さまざまな理由が考えられる。
たとえば、近親であるにも関わらず、姪に対して異性としての愛情を抱くようになった場合。
あるいは、姪と自分の間に血の繋がりがないことを知ってしまい、そのことに動揺してしまった場合。
もっと単純に、姪の世話を焼くのが面倒になったという場合。
どれもやはり、三文ドラマの脚本じみている。
他にも要因があるかもしれない。
彼は姪の前にある女を恋人として連れてきたという話もあるし、学生時代のバイト先でトラブルが起こったという情報もある。
いずれにせよ、確実な判断をくだすことはできない。
でも、どれにしたって救えない。
849 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2013/01/09(水) 13:14:36.50 ID:mi0scknjo
彼が何かの理由で距離を取った結果、姪は自殺することになる。
これは彼自身が、自分自身を侮りすぎた結果だろう。
母は言わずもがな、祖父母でさえ、姪に対して満足に愛情を与えられたとは言い難かった。
もちろん彼らは彼らなりの愛情を姪に与えたつもりでいただろう。ひょっとすれば、母親でさえ。
でも彼女が重視したのは、自分の世話を焼く叔父の存在だった。それ以外は優先度の低いものとなっていたのだ。
それは既に依存に近い。叔父自身、そのような形になるのは不本意だっただろう。
あるいはそのような状態を危惧したからこそ、彼は姪と距離を置こうと考えたのかもしれなかった。
そうだとすると、皮肉な結果だったと言えるか。
エラー、リトライ。
850 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2013/01/09(水) 13:15:14.45 ID:mi0scknjo
死んでしまった姪のもとになぜ魔法使いが現れたのか。
彼女はけっして死神や悪魔ではない。ごく一般的な、超常的な力を有する、一個の人間に過ぎない。
魔性を人と呼べるならば。
その人間に過ぎない魔法使いが、なぜ成長した姪の死後、彼女のもとに現れたのか。
(このとき、姪は厳密には死んでいなかったらしいけれど)
それは、彼女が出会った、いちばん最初の男……。
魔法を利用して世界を分岐させた男に頼まれたからだと魔法使いは言った。
もしも、自分のやりかたでうまくいかなかったなら。
お前が俺に協力しろ、と。
魔法使いは乗り気ではなかったが、約束をした以上はと、彼らふたりを見守っていたらしい。
851 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2013/01/09(水) 13:15:41.39 ID:mi0scknjo
だが魔法使いは、もともと新しい分岐を成立させる気などなかったのだという。
要するに彼女は、客観的な立場であったからこそ、新しい分岐を作り出すことの不毛さに気付いていた。
(のちに自らも、まんまと不毛さに飲み込まれてしまうわけだが)
だからこそ姪に対してもろくな説明をせず、ただ過去に放り投げた。
放り投げた時間だって適当だった。死んだ彼女の歳と、叔父の歳が、だいたい重なるくらいの時間。
適当に。
でも、魔法使いにとって、その後に起こることはほとんど予想外の連続だった。
まず、僕を含む三人の人間が、魔法使いの魔法に巻き込まれる。
ふたりは姪の意思によって。もうひとりは偶然にも。
僕を除くふたりのうち、ひとりは、"本来の叔父"の過去。
これが魔法使いに混乱をもたらしたもっとも大きな理由だったという。
魔法使いはこの"本来の叔父"に並々ならぬ執着を持っていた。
852 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2013/01/09(水) 13:16:10.34 ID:mi0scknjo
理由は分からない。
彼を巻き込むことに、当初は忌避感を抱いていた魔法使いだったが、やがてとある可能性に気付く。
"この彼に、この世界で何かを与えることができれば、彼の未来にも何かの希望ができるかもしれない"
たぶんそんなところだったはずだ。
"本来の叔父"の境遇を僕は知らないが、それを魔法使いは変えられるかもしれないと思ったのだ。
それまでにその行為の不毛さを客観視していた自分を棚に上げて。
そしてもうひとりは、"本来の叔父"が居た世界の、幼い姪。
"本来の世界の叔父"が作り上げた"二つ目の世界"。
"二つ目の世界の未来の姪"が生み出した"三つ目の世界"の分岐。
そこではありとあらゆる抽象的な願望や抑圧が形となって現れた。
人々の感覚はある種のパイプによって無作為に共有された。
彼は彼の前にあらわれ、少女は姿を消し、少女が姿を現し、彼女は現れて消えた。
事態は結局一旦の収束を見せる。
おそらくはそうだったはずだ。
853 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2013/01/09(水) 13:17:45.92 ID:mi0scknjo
その後、その"三つ目の世界"がどのような展開を迎えたのかは分からない。
あるいはその世界では、男は姪を死なせることなく、平穏に、幸せに暮らすことができたのかもしれない。
この"三つ目の世界"において、"本来の世界"からやってきた姪は、財布を拾う。
この財布は"三つ目の世界の叔父"が落としたものだったのだろう。
(舞台が同じなので分かりにくいが、"三つ目の世界の叔父"は"二つ目の世界の叔父の過去"とほとんど同一だ)
そしてこの財布は同時に、"本来の叔父"が持っていたものと同一であると考えられる。
(のちに明らかになるが、このあたりには奇妙な齟齬が存在している)
"本来の世界の叔父"が"二つ目の世界の叔父"に渡した財布。
これは"二つ目の世界"では何ら意味を持たなかった。
だが、"二つ目の世界の姪"が、過去に戻ることで成立させた"三つ目の世界"において、初めて意味を持つ。
"本来の世界の叔父"が"二つ目の世界の叔父"に渡した財布は、
"二つ目の世界"の過去から分岐した"三つ目の世界の叔父"を経由して、"本来の姪"の手に渡る。
854 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2013/01/09(水) 13:19:00.96 ID:mi0scknjo
ところで、この"二つ目の世界"において、"二つ目の世界の姪"は一度姿を消す。
それを引き起こしたのは"二つ目の世界の姪"だった。あくまでも最初は。
財布と記憶を持ち帰った"本来の姪"は、"本来の世界"の"本来の未来"から逸脱してしまった。
つまり、虐待死を回避したのだ。
だとするなら彼女こそが時間航空者であり、一輪の花のかわりに男物の財布を持ち帰ったと言えるかもしれない。
けれど彼女にとっては、"三つ目の世界"は"塀についた扉"の向こうの世界でもあった。
"三つ目の世界"で、"三つ目の世界の叔父"が彼女にどのようなことをしたのかはさだかではない。
けれどおそらく、彼女にとってそこは楽園だったのだろう。
彼女は怖いものだらけの"本来の世界"に帰りたくなんてなかった。
彼女はたしかに、"本来の世界"における自分の死を回避した。
つまり、"四つ目の世界"にたどり着いた。
けれど、彼女にとっては、それは一度目の、一度きりの自分の人生でしかない。
"三つ目の世界の叔父"の言い付けに従い祖父母の家に保護された彼女。
でも、その彼女が出会った"四つ目の世界"の叔父は、本質的に"本来の叔父"と同一だ。
"姪に対して無関心なひとりの男"にすぎない。
855 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2013/01/09(水) 13:19:28.40 ID:mi0scknjo
自分に優しくしてくれた(であろう)唯一の人物とよく似た顔の彼を、彼女はどう思っただろう?
とりあえずは生き延びたものの、彼女にとって"四つ目の世界"は決して喜ばしいものではなかっただろう。
そして彼女は死のうと考えた。
世界に価値あるものはなかった。
彼女にとって喜ばしいものは、すべて、塀についた扉の向こう側にしかなかった。
そのドアは閉ざされていた。
だから死んだ。
最期に川に身を投げるとき、例の男物の財布を持っていたのは、ある意味では象徴的だと言える。
この財布は、"本来の世界"の男が所持し、"二つ目の世界"の叔父に手渡され、
その焼き直しである"三つ目の世界"で少女が拾い、"四つ目の世界"に持ち帰った。
ある意味で、この財布は他のどんな人物よりもよく、世界のすべてを見渡していた。
長らく魔法の影響にさらされたその財布に、魔力が残留したんだろうと魔法使いは言った。
「つまり、それがある種のマジックアイテム……というか、鍵、みたいなものになって、
彼女は自分が望む世界にふたたびやってくることができた、というわけ」
エラー、リトライ。
856 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2013/01/09(水) 13:20:08.91 ID:mi0scknjo
話は至って単純だ。
"A"という世界がある。それは"A"という世界なりの結末を一度辿る。
その結果に納得のいかなかった人物が、"A"の過去に変化を加えた。
結果、"A"は本来の結末とは別に、"B"という展開を手に入れる。
"B"も"B"なりの結末にたどり着く。その結末に納得のいかない人物は"B"の過去に手をくわえた。
"C"という世界ができる。その"C"という世界に"A"の人間があらわれる。
"C"を目の当たりにしたその人物が"A"に帰ると同時に、"A"は"A"とは別の"D"になる。
"D"は"D"なりの結末を見せるが、"C"を目の当たりにして"D"に行きついた人物は、再び"C"に行きたいと願う。
そしてそれが叶う。だが、その人物が現れた途端、"C"は"C"とも少し違う"E"になった。
僕らがいたのは"E"だ。
エラー、リトライ。
そのあと、それぞれの世界で何が起こるのか、僕には分からない。
とにかく、これで十分に整理はできたはずだ。
推測があっているのかどうかはともかくとして、だが。
857 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2013/01/09(水) 13:20:50.73 ID:mi0scknjo
つづく
858 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[sage]:2013/01/09(水) 15:08:07.05 ID:2nLhpZbIO
ふむ
859 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[sage]:2013/01/09(水) 21:26:14.34 ID:BN8CiUoio
ほう
860 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[sage]:2013/01/11(金) 01:42:11.69 ID:ih/MtYG9o
ほむ
861 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2013/01/14(月) 13:53:18.02 ID:b6vBdGKEo
◇
"E"において起こったこと。僕はこれを把握しきれていない。
いくつかの矛盾、いくつかの混乱が、全体の把握を困難にしている。
けれど僕が考えるべきなのはそんな部分ではない。
たとえば、魔女は、なぜ過去の自分に財布を渡そうとしたのか? その行為を"つじつま合わせ"と呼んだのか?
彼女の叔父は、なぜ姪を取り戻すだけでは気が済まず、ふたりの未来における姪に明白な優先順位をつけたのか?
そして僕は、なぜ彼女たちの代わりに自らを生贄にしたのか。
そうした理由に関してはひとまず脇に置き、まずは生贄となった僕が見た"その先"について説明する。
その説明はひどく入り組んでいるかもしれない。でもそれは僕のせいじゃない。
862 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2013/01/14(月) 13:53:44.06 ID:b6vBdGKEo
◇
僕が今いる世界は"D"。つまり、彼女が死んだの世界。
"D"の彼女は"E"に向かい、生贄となった僕の代わりに"巻き込まれた"人間になった。
その結果、新しい分岐を手に入れただろうと思う。それがどのような形のものかは分からない。
つまり"D"にいた彼女は"E"を生み出した結果、"D"ではなく"F"という世界を手に入れたのだ。
おそらく"F"においては彼女は生き延びており、同時に、"この僕"とは違う、僕、"F"におけるケイも存在している。
そのケイはもちろん、僕のように別世界にいった記憶なんて持ち合わせていない。ごく普通の夏休みを過ごしたはずだ。
その世界で彼女が死なないということは、おそらく叔父の後追い自殺も発生しない。
叔父の自殺に関しては他の要因もありうるという話もあるが、これは彼女も知っていることだ。
おそらく彼女は、叔父に会いにいくことができるだろう。そうでなければならない。
863 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2013/01/14(月) 13:54:10.51 ID:b6vBdGKEo
◇
ところで、分岐はこれで終わるのだろうか? もちろん終わらない。
まず、"巻き込まれた方の叔父"、言い換えれば"本来の叔父"。
いつのまにか"E"からいなくなってしまった彼は、本来なら"A"とまったく同じ未来を辿るはずだった。
そのはずが、この世界にやってきてしまった。巻き込まれた時点で彼は本来の叔父とは別の生き方をすることになる。
つまり、彼が帰った世界は本来の"A"ではなく、これもまた新たな世界である"G"となる。
その先で彼がどのように生きるのかは分からない。
いったいどのような形があり得るのかも分からない。彼が戻ったところで、時間は揺るがない。
彼の姪も姉も死んでしまっているのだ。おそらくはだが。
だが、彼に関してはどうでもいいとも言える。少なくとも僕はあまり興味を感じない。
864 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2013/01/14(月) 13:54:36.67 ID:b6vBdGKEo
◇
まだいくつか新しい分岐がある。今度の魔法は、巻き込んだ数が多すぎたのだ。
次は、少女。もうひとりの姪。
叔父はあの子を"魔女としてこの場所にやってくる"といったけれど、それは正確じゃない。
彼女はあの段階では、魔女としてあの場に現れるとは限らなかった。
既に現れていた魔女とあの少女は、既に別の分岐の住人であり、世界は別に繰り返されているわけではなかったからだ。
だからあの少女が本来の世界に帰り、生き延びたとしても、その結果どうなるかは誰にも分からない。
"A"から"C"に現れた彼女は"D"に帰り、そこから魔女として"E"を作ったが、
今度現れた彼女は"A"から"E"に巻き込まれた。"C"と"E"には魔女の在不在に違いがある。
つまりもっと些細な部分で、世界は食い違っているはずなのだ。そうである以上、あの少女は必ずしも魔女になるとは限らない。
ましてや、今回のあの少女は、はたしてちゃんと叔父になついていただろうか? 叔父はあの子に優しくしていただろうか?
そして魔女になるとは限らないということは、彼女が母親に殺されずに済むとも限らないということだ。
そのあたりは気がかりではある。
◇
865 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2013/01/14(月) 13:55:04.96 ID:b6vBdGKEo
次は"魔女"。本来なら生贄になるはずだった彼女。
少女の未来の姿。"A"において死に、"C"において巻き込まれ、"D"に帰り、"E"を生み出した少女。
彼女は生贄として、"D"における自らの死(推測だが)を背負うことになったはずだった。
そこに僕が割り込んだ。だから彼女は"D"には帰らず、新しい"H"にたどり着く。
僕はこうなって初めて思うが、僕がしたことは正しかったんだろうか。
僕が生贄になることで魔女は新しい世界へと向かった。
でも、その世界は彼女にとって救いになりえるのだろうか?
そもそも彼女の行動には謎が多い。
"本来の叔父"、の過去。つまり"もうひとりの叔父"という人物を励まし、彼を帰したのは魔女だったと魔法使いは言った。
魔女はなぜ、彼を励ましたりしたんだろう?
彼女はおそらく、世界の成り立ちを完全には把握していなかったのではないだろうか。
つまり、"C"と"E"が同一の世界であり、自分はそれを別の立場から覗いているにすぎないと誤解したのではないか。
866 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2013/01/14(月) 13:55:33.18 ID:b6vBdGKEo
あの少女に財布を渡さなければ、"D"から生き延びた自分が"E"を作ることができず、矛盾が発生すると思った。
そうした矛盾を彼女なりに解消しようとした結果だったのかもしれない。
だとするなら、彼はなぜもうひとりの叔父を励ましたのか。
それは分からないけれど、彼女にとってそれは何かの儀式のようなものだったのかもしれない。
彼女はひょっとしたら消えたがっていたんじゃないか。
本当は自ら生贄になって、自分の選択を受け入れるつもりだったのではないか。
そのつもりで、自らに対して無関心だった叔父を許し、励ましたのではないか。そんなことを思う。
僕には、どうとも言えない。
僕は最後、自分が生贄になる前に、彼女と少し言葉を交わした。どんなことを言ったのかは思い出せない。
打ちひしがれたような彼女の後姿。僕はその背中にたしかに声を掛けたのだ。
祈るような気持ちで。
それはきっと彼女にとってなんの救いにもならないのだろうけど。
叔父はなぜ、彼女を生贄にしようとしたのだろう。
それに関しては分からないけれど、きっと生き延びてもどうしようもないと思ったからかもしれない。
彼女が欲しがった物はすべて、手が届かない場所にあった。だからといって、それを判断するのは彼ではないと、僕は思うのだけれど。
でも、今思えば、たしかに分からなくはないのだ。
あんな悲しそうな顔をされたら。
誰がそんな相手に、もう一度苦しめと言えるんだろう?
(僕はそう言ったのかもしれない)
867 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2013/01/14(月) 13:56:08.12 ID:b6vBdGKEo
◇
最後に、僕が今いる世界、"D"は、つまり彼女が死んだ世界で、同時に叔父も死ぬ世界だ。
原因はぼやけている。何が起こったのかは分からない。そして僕には何が起こったのかも分からない。
過去が揺るがないことは確定的だ。つまり僕は僕として、この結果、現在を受け止めるしかない。
僕はごく当たり前に生きている。
戻ってきて見ると、世界は様々な意味で変わっていた。
いつも散歩していた公園に居着いていた猫がいなくなった。
僕のたったひとりの友だちは死んでしまった。
たしかに持っていたギターは、彼女と一緒に世界のどこかに忘れてきてしまった。
これが本当に僕が暮らしていた世界なんだろうかと疑問に思う。僕は本当は、別の世界に来てしまったんじゃないか、と。
でもどちらにしても同じだった。彼女はいないし、猫もいないし、ギターもない。
でも、あのギター。たしかに、背負っていたはずなのに、どこに行ってしまったんだろう。
まあ、それに関してはどうでもよかった。
僕はとにかく彼女のいない世界に居続けなければならない。それはたしかだった。
結果は結果として受け止めなければならない。
868 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2013/01/14(月) 13:56:34.21 ID:b6vBdGKEo
そのはずなのに、僕はいまだに一連の出来事が夢だったのではないかと考えている。考えたがっている。
もしくは、疑っているのかもしれない。
たとえば僕は、彼女の死を知ったあと、世界が複数にわたって分岐しているという妄想を抱き、
それを実際にあったことのように錯覚しているのかもしれない。
あるいは自覚的に、そうした嘘をついているのかもしれない。
あるいは今見ている現実すらも何かの夢なのかもしれない。
可能性という言葉は難しい。
僕はしばらくの間、彼女が死んだなんて嘘だろうと思っていた。何かの悪い夢だと。
でもいなくなってしまったのだ。本当にいなくなってしまった。
彼女の死体は見つかった。ニュースにもなった。
一年が経って、僕はこれを書いている。
彼女が死んで、いったい何かが変わったんだろうか?
きっと何も変わらない。
僕たちはそういう場所に生きているのだ。
869 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2013/01/14(月) 13:57:02.22 ID:b6vBdGKEo
◇
一連の出来事についての手記はこれで終わる。
書き損ねていることは特にないと思う。本来的に理解は不要だ。
そもそもの話として――こんな話を信頼する人間がいるものだろうか?
それに関してはどうでもいいのかもしれない。必要だったのは整理だった。僕にとっての。
でも、これで十分だろうか。僕は何かを説明し損ねてはいないだろうか?
不十分かもしれない。説明しきれていない部分はある。でもそれはどうしようもない。
僕から見える範囲では、ここまでが精一杯の理解なのだ。
870 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2013/01/14(月) 13:57:54.76 ID:b6vBdGKEo
◇
ここですべて終わらせてしまおうと思ったが、推測をひとつ加える。
まず、財布に関してのことだ。
"財布"。
いくつか存在する、男物の財布のことだ。
まず、"叔父"が"本来の叔父"の未来の姿から受け取った、男物の財布。
この中には免許証やカードなどの類は入っていなかった。
次に"もうひとりの叔父"が"魔女"から受け取った財布。つまり、"少女"が拾った財布。
少なくとも"魔女"が"もうひとりの叔父"に渡した財布には、免許証などのカード類が入っていた。
そして、"もうひとりの叔父"が持つ男物の財布は、その財布と同じものだった。
財布はこの段階で三つある。
僕は、"叔父"が"本来の叔父"から受け取った財布を"少女"が拾ったのだと思っていた。
少なくともそれがマジックアイテムとして活用されたはずだと。
だが、だとするとカード類、免許証の類はいったい何処から出てきたのだろう?
要するに財布はもうひとつあり、どこかのタイミングで入れ替わりが発生したのではないか?
このカード類は、多くのものに数年後の日付が記されていたのだという。つまり僕たちがいる時間の年号が。
けれど、"未来の叔父"は、僕の想定にはひとりしか存在していない。
そしてその叔父がよこした財布には、"免許証や保険証の類は入っていなかった"。
ひょっとしたら、と僕は考える。世界は僕が思っている以上に入り組んでいたのかもしれない。
少なくとも、もうひとり、どの世界の未来からかは知らないが、あのどこかの世界に、もう一度、"未来の叔父"が紛れ込んでいたのだ。
そして財布を少女に残した。それがどういう意味を持つのか、僕には分からない。
分からないが、その事実ははなんだかひどく、僕を怖がらせる。なぜだろう?
871 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2013/01/14(月) 13:58:20.54 ID:b6vBdGKEo
◇
これは携帯電話についての話ということになる。
僕も、叔父も、魔法使いも、誰も、彼女のことは救えなかった。
"僕の世界の彼女は現に死んでしまっている"。
僕は既にそのことを知っていた。あの日、彼女が窓から飛び降りた夜、そのことを聞かされたのだ。
僕たちは結局まったく見当違いの場所に行って見当違いの喜劇を繰り返し、結果的に余計な悲劇を増やしてきただけだ。
この手記の目的は起こったことを整理し、僕が魔女と彼女の代わりに生贄になった理由を探すためだった。
僕はその理由をいまになって思い知っている。
つまり僕は、この世界の彼女を救えないから、"代わりに"彼女たちを救いたかっただけなのだ。
僕がしていることもまた代償行為に過ぎなかった。誰にも文句を言えないほどの。
僕はそれが分かったからこそ悲しい。だとすれば僕は彼女のためにいったい何ができたんだろう?
僕もまた、あのもうひとりの叔父のように、彼女に対して無関心であった男のひとりでしかなかったのではないか?
872 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2013/01/14(月) 13:58:49.29 ID:b6vBdGKEo
彼女の死をどうすれば回避できたのか。彼女の為に何ができたのか。
要するにその示唆こそが彼女の携帯電話にはあった。
彼女は誰かと繋がるべきだった。誰でもいいから誰かと繋がるべきだった。
そうすることで誰かが彼女の為に祈ってくれるかもしれなかった。
僕が、彼女のために祈るべきだったのかもしれない。それはお節介かもしれないし余計なお世話かも知れなかった。
まったく無意味で見当違いなことかもしれなかった。彼女はそんなことを望んでいなかったかもしれない。
もしかしたら、とそれでも僕は考えてしまう。
でも、それを願うわけにはいかなかった。魔法使いはきっと、僕のもとにも訪れるだろうという気がする。
何度繰り返したところで、それは代償行為でしかない。この世界の彼女は蘇らない。
何もかも無意味なのだ。
僕はこれを終わらせなければならない。繰り返してはいけないのだ。
これ以上、悲しむ"僕"や"彼女"を増やさないためにも。
873 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2013/01/14(月) 13:59:56.06 ID:b6vBdGKEo
◇
それぞれの世界のその後を僕は知らない。
僕はただ、今になって、彼らや彼女たちのことを考えて祈り始めている。
何もかも分かったときには何もかも手遅れになっている。なってみないと実感できない言葉だ。
あの男と、あの姪は、今も一緒に暮らしているだろうか。どちらかが寂しい思いをしていないだろうか。
もうひとりの男は、ちゃんとやれているだろうか。何度も繰り返そうとはしていないだろうか。
少女は、ちゃんと成長できるだろうか? 魔女は、何か新しいものを見つけられるだろうか?
彼女は、叔父に会えたのだろうか。
会って話し合えただろうか。寂しがってはいないだろうか。
必要以上に悩んではいないだろうか。ちゃんと思ったことを伝えられているだろうか。
塞ぎこんではいないだろうか。自分に嘘をついてはいないだろうか。無理をしていないだろうか。
その世界の僕はうまくやっているだろうか。
その世界の僕は、彼女のために何かをしているのだろうか。
それを考えるととても不安になる。
874 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2013/01/14(月) 14:00:31.17 ID:b6vBdGKEo
◇
この手記を書き終えたいま、僕はものすごい徒労感に苛まれている。想定通りだ。
思ったよりも話は入り組んでいた。何もかもよくわからなかった。
結局みんながどうなったのか、僕は知らない。
知っているのは彼女が死んだということだけ。きっと僕にとって事実と呼べるのもそのことだけだった。
本当はこれを書き終えたら死んでしまおうと思っていた。
でも、それもなんだか馬鹿らしい。結局僕はここにいるしかない。
僕はさまざまなものを失って、特に得るものはなかった。
新しい友達もまだしばらくできそうにない。
僕は彼女に死なないでほしかった。
生きていてほしかった。それをあのときの彼女に伝えることができたら、と、今も「もし」がよぎる。
それはたぶん、死ぬまで消え去ってくれないような気がする。
彼と彼女についての話はこれで終わりにする。
僕の目的は既に達成された。
875 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2013/01/14(月) 14:00:57.83 ID:b6vBdGKEo
でも、ひょっとしたら、世界はまだ、どこかで繰り返されているのかもしれない。
たとえば、本来生贄になったはずの、あの魔女。彼女は自分の世界に納得するだろうか?
分からない。そのとき、魔法使いはどうするだろう?
僕にはどうしようもないことだ。僕はやはり、この世界に生きていくしかない。巻き込まれるわけにもいかない。
それでもなんだが、僕がかかわった人々が、何かの代償としてですらなく、幸せであってほしい。
そう思うのは自己陶酔みたいなものなのかもしれない。
この手記を書くべきではなかったと、僕はいまさらのように思っている。
でも、それだって手遅れなことだ。
僕たちは手遅れなことを手遅れなことだと受け入れていくしかない。
手遅れなことを、手遅れじゃないことのために活かしていくしかない。
誰も彼女のかわりにはならない。
なんだかひどく疲れた。もうしばらく、文章を書いたりしたくない。
今は午前三時。虫の鳴き声が聞こえる。
これからコーヒーでも飲んで、本でも読んで、それから風呂につかって、眠ってしまおうと思う。
それから二度とこの手記を開くことはないだろう。
いまはただ、ゆっくりと眠りたい。
876 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[saga]:2013/01/14(月) 14:01:32.53 ID:b6vBdGKEo
おしまい
877 :
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[sage]:2013/01/14(月) 14:16:32.61 ID:OuigSDE6o
乙
読みごたえはあったけど、色々よく分からない点が多いな
整理してもしきれないわ
それを意図してなのか、意図せずなのか分からんが
878 :
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[sage]:2013/01/14(月) 16:43:48.96 ID:GEZukFGwo
乙
姪と叔父が幸せなら良いんだが
879 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします
[sage]:2013/01/14(月) 21:57:56.87 ID:kG9R9714o
おお乙
自分でメモ帳でまとめてみたら流れが分かって凝ってるなぁと思った
ケイくん…
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