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新田美波「わたしの弟が、亜人……?」

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102 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/03/24(金) 21:55:24.76 ID:NJ9NkxEDO

佐藤の場合はどうなのだろう? 圭も監視カメラを破壊したり、人間の失踪に関わったりするようになるのだろうか? それとも佐藤はやっぱり亜人の味方で、圭に畳の上に蒲団を敷いた居心地の良い寝床を用意してくれるのだろうか(圭が安心できる部屋の風景のイメージが和風だったのは、おそらく研究施設に和室がないだろうと美波が想像していたからだった)?

いや、でもやっぱり、正直に言ってしまおう。わたしは不安を感じていたのだ。あの人の微笑みは穏やかでやわらかかった。ぎこちないところは少しもなくて、頬が上がると目尻の皺がいっしょになっていままさに線が描かれているかのように曲線が深くなった。でもあの表情は内面の感情から起こされたものではなかった。それはどこまでも顔筋の作用に還元できた。あの人は笑顔を操作していた。佐藤さんの笑顔は、空欄のある数式に正しい答えを書き込むことを思わせた。そうすれば、わたしから圭のことを聞き出せるから。なんでこんなことを考えているのだろう? 考えることと不安を感じることは頭の別々のはたらきで、考えてみると不安という感情には根拠がないとわかってくる。違和感だけでは、佐藤さんがほんとうはどんな人なのか判断できない。そう、わたしは佐藤さんのことが、全然わからない……

美波はこれ以上このわからなさに留まって、自分なりの答えを出すことはできなかった。映像が記録しているとおり、美波は亜人管理委員会の方針に則った。美波が思考を働かせた可能性やわからなさは、どちら側の選択がおわったあとでも消えてなくなったわけではなく依然としてこの世に存在していて、空気のように見えなくてもなんらかのかたちを持ってあらわれてくるのを待っていた。美波だってその可能性やわからなさを放棄したわけではなかったが、会見を見る多くの人間にとってそんなことは関係なく、こちら側にいる人間として発信されたメッセージを、主にかわいそうだねとかるく同情しながら安心して受け取った。

シンデレラプロジェクトのメンバーたちは、安心したとはいえなかった。
103 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/03/24(金) 21:56:45.40 ID:NJ9NkxEDO


李衣菜「美波さん……大丈夫かな?」

みく「そんなの……」


前川みくの言葉はそこまでだった。

プロジェクトルームは明るかった。窓から差し込んでくる陽の光が最も強烈になる時間帯だったし、天井のライトは白く人間の眼にやさしく受容し易い光線を部屋の中のあらゆる場所に届いていたから、部屋に暗いところはいっさいなかった。テレビはつけっぱなしになっていたが、彼女たちはもうテレビに視線を向けていなかった。彼女たちは、床や膝やスカートの模様やそのうえに置かれている手ーーもっと正確にいえば指の第二関節のあたりーーなどにぼんやりと霧消する感覚をともなって眼を向いていた。

失語症患者のリハビリが行われているかのような雰囲気のなかで、緒方智絵里が不意に、自分でもわからない理由で顔を上げた。見えたものといえば、石像のように固まっている自分たちの姿だった。どうしようもなくなり、智絵里も石像に戻っていった。
104 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/03/24(金) 21:58:56.87 ID:NJ9NkxEDO

部屋の中には千川ちひろと今西部長もいた。二人は立ったままで彼女を視野に収めるくらいのことはしていたが、それは眼の位置がそうさせているだけのことであってそこに見守るという大人らしい態度は希薄だった。亜人について、大人も子供もほとんどなにもわかっていなかったからだ。わかっていないということを自覚する以前の無関心さは、この部屋いるすべての人間が共有していた。

プロジェクトルーム入り口のドアが開いた。プロデューサーが会見場から帰ってきた。プロデューサーは無言状態が重くのしかかる部屋の様子を見て一瞬止まった。慎重にドアを閉め、部屋の中央、テレビのあるところまで歩いていく。プロデューサーは視線がまず歩いている自分に向けられ、それから後方の無人の空間に流れていくのを感じながら部屋を横切った。断りをいれてからテレビの電源を切り、 部屋のなかを見渡す。アイドルたちは、喉に言葉が詰まっているかのように自分を見ている。部長とちひろは聴く姿勢を整えていた。


みりあ「美波ちゃんは?」


メンバー最年少の赤城みりあが訊いた。


武内P「新田さんは亜人管理委員会の方といっしょに病院に向かいました。妹さんの聴取に同席されるそうです」


プロデューサーは視線をみりあから全体へと戻し、他に質問がないかと数秒のあいだ待ってみた。質問はなかった。彼女たちはプロデューサーの言葉を待っていた。
105 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/03/24(金) 22:00:31.19 ID:NJ9NkxEDO

武内P「今回発生した事態に対して、プロダクションから対応に関する指示がありましたので、皆さんに説明致します。すでに会見で発表された内容と重複する点もありますが、どうか訊いてください。まず新田さんに関してですが、事態が沈静化するまで活動はすべて休止となります。予定されていたライブやイベントはすべてキャンセルとなり、活動再開時期も不明です。これまで発売されたCDや写真集などは今まで通りで、予定されているアインフェリアの楽曲も発売時期は少し遅れますが、こちらも発売中止にはなりません。
続いて皆さんのスケジュールですが、多少の調整はありますが基本的に予定されていた通りに進めていくと考えてください。調整後のスケジュールは可能な限り早く皆さんにお伝えします。不明な点があれば、私か千川さんに質問してください。それとしばらくのあいだ、送迎はすべてプロダクションの人間が行うことになります。アポイントの無い記者との接触を避けるための措置でして、息苦しさはあるかもしれませんがどうかご了承ください。
最後に新田さんの女子寮への入居の件を説明します。現在の状況を鑑みるに彼女のプライバシーを保護するには、このような措置を取るのが最も良いと判断されました。実際に入居されるのは四日後になります。また、現在寮生活をされている方に新田さんについてなにかお願いすることもあるかもしれません。このような状況の只中で皆さんに負担をかけるようなことをお頼みするのは申し訳ないのですが……」

みく「負担とかそんなこと言わないで!」


前川みくが立ち上がり、叫んだ。


みく「美波ちゃんは仲間なんだから、助けるのは当然でしょ!?」

智絵里「でも、なにができるのかな……?」


智絵里がぽつりと声をこぼした。思いがけず心に浮かんだ自問が外に転がり落ちたみたいな言い方だった。
106 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/03/24(金) 22:02:48.61 ID:NJ9NkxEDO

かな子「智絵里ちゃん……?」

智絵里「あっ……ごめんなさい……」


智絵里のほんとうの失言は、この謝罪の言葉の方だった。彼女たちは今回の事態に対する自分たちの位置がこのひと言で明瞭に把握できたからだ。事態の中心は美波ではなくて美波の弟で、亜人であることからその反響が社会全体まで広がっている。亜人の発見とその亜人が新田美波の弟であるという事実は水平の水面にどぱん、どぱんと立て続けに大きな勢いで石を投げ込んだようなもので、続けざまに発生した波紋はたがいに相乗して疲れを知らない波と化し、水面の面積を広げるのかと思えるほどサァーっと進む。

そういった状況において、シンデレラプロジェクトのメンバーたちの位置は微妙なものだった。彼女たちは中心からひとつ隔てられていて、水の下に潜り込むとか、とにかく回避に専念してしまえば波に攫われてることもなさそうだった。未成年の個人や少人数の集団が、社会的な問題に巻き込まれている人物とどうコミットするか、というよりコミットが可能なのか、李衣菜がおずおずと意見を出した。


李衣菜「やっぱりさ、余計なことはしないほうがいいんじゃない?」

みく「美波ちゃんのことが心配じゃないの!?」


みくは驚きながら、李衣菜に声で詰め寄った。


李衣菜「心配に決まってるじゃん!!」


李衣菜は叫んで反論した。


李衣菜「でも、わたし、美波さんになんて言えばいいえのか全然わからない。弟が亜人で、日本中から追われてるんだよ? わたしは亜人のことなんてなにも知らない、美波さんがどんな気持ちでいるのかもわからない」

みく「だからそれは、心配で不安でしかたなくて……」

李衣菜「そんな言葉で気持ちがわかるの?」


李衣菜の問いに、答えることは誰もできなかった。
107 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/03/24(金) 22:04:34.33 ID:NJ9NkxEDO

卯月「美波ちゃんの弟さん、どうなっちゃうでしょう?」


どうすればいいのかわからない気持ちのまま、島村卯月が不安げに言った。


凛「国の研究施設で暮らすっていわれてるけど……」

みりあ「研究?」

莉嘉「研究って、美波ちゃんの弟を? どんなことするの?」


年少メンバーの二人が発した疑問には不気味なものに対するおぼろげな怖いという感情が漂っていた。十年前の田中のときの報道の過熱化のことは全然憶えてない二人だったけれども(それは他のメンバーも同様だったが)、昨日からの騒ぎで二人は死なない生物が死なないことを確かめるための方法を想像することができた。とはいっても、それは言葉の上の意味だけに留まるもので、具体的なあれこれがイメージとして浮かぶまでにはいかなかった。


未央「だ、大丈夫だって! みなみんは政府の人と話をして会見に出るって決めたんだし」

きらり「そうだにぃ、きっと痛いことはしないにぃ」

みりあ「注射も?」

蘭子「注射……!」
108 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/03/24(金) 22:08:47.89 ID:NJ9NkxEDO

こういうことは度々起こる。思考を一定の方向に進めていると、道を外れ溝に落ちるかのように思考は別の事柄に入り込む。でもそれが解決の糸口となったり思考を別の発展的な方向に導くかといえばそうことはなく、落ち込んでしまったことでそこから集中し直して態勢を立て直すと、前後方向に進んでいたときの限られた視界が運動にともなうブレが消えたことで風景を横方向、というか上下左右、眼球の丸みが光を受容できる範囲いっぱいまで視界が広がりそれまで見えていなかったことが見えるようになる。

アナスタシアは停止したままだった。アナスタシアの表情は垂れかかる銀髪に隠れて見えなかった。無言で固まっている姿は、まるで凍らせた水だった。唇も視線も固まったままで、ペットボトルに入れてあった水が凍らせたことによって体積が増えて飲み口から出てこれないように、アナスタシアは外界に内面を放っていなかった。どんな感情や考えが内面に渦巻いているのか外から伺い知ることできなかったし、それとも心の中は氷の張った湖面のようになっていて渦巻くことすら不可能なのかすら確認のしようがなかった。陽射しはどんどん強くなっていくなか、アナスタシアに向かって降り注ぐ光は当たるというより通り過ぎているといった感じで、このまま光を浴び続ければ、氷のように溶けてなくなってしまうように思えたが、アナスタシアは消去されていくのを受け入れているようにも見えた。


武内P「皆さんが混乱される気持ちはよくわかります。私たち三人も、今回の事態に対して十分な理解もないまま、ただ目の前の対応に追われているのが現状です」


プロデューサーは沈黙の中に自分の声を浸透させるように話し始めた。沈黙をうち破るためではなく、沈黙の層を厚くしなにかのきっかけになればと願っているというふうな話し方だった(その「なにか」がなんなのかは彼自身にもわからなかったけれども)。
109 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/03/24(金) 22:12:53.86 ID:NJ9NkxEDO

武内P「現在美城プロダクションでは、事態への対応に部署の内外を問わずにあたっている状況ですが、混乱を収める目処は立っていません。私や千川さんや部長のように個人的感情を伴って行動する者も、そうでない者も終わりの見えない作業に疲労しています。しかし、それは組織に属する者の義務であり、新田さんの力になることが私たちの責任であるのです。
今回のこの事態に対して、皆さんにはいかなる責任も義務もありません。皆さんはまだ未成年で、亜人が世界で初めて発見された十七年前といえば、皆さんはまだ生まれていなかった方がほとんどでしょう。なのに、このようなことに直面せざるをえなくなった。その不安や不条理に戸惑ったままでいるのは大変なことです。私たちもそうなのですから。
私は皆さんに、自分の心を見つめ直してくださいとしか言えません。私たちはあなたたち一人ひとりのあらゆる決断を全力で支持します。あなたたちがしたいと思っていることの中には、現状では困難なこともあるかもしれません。もしそのときは私や千川さんや部長、あるいは他の信頼できる方でも構いません、話してみてください。もしよければ困難なことは、私たちにまるごと託してくれてもかまいません。私はこの混乱の中にあなたたちまでが孤立し、飲み込まれたままなのはつらいのです」


杏「やるよ」


双葉杏が手を挙げていった。


杏「杏は仕事はキライだけど、これは仕事じゃないからね」
110 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/03/24(金) 22:14:21.17 ID:NJ9NkxEDO

智絵里「わ、わたしも……!」


緒方智絵里がおずおずと、しかし他の誰よりもはやく杏に続いた。それがきっかけとなって次々に同意が波のように広がった。李衣菜は躊躇っていた。声や手があがる部屋のなかで、半分開いた手が宙吊りになったみたいに身体の前にあった。


李衣菜「プロデューサー……わたしは……」

武内P「多田さん、あなたのおっしゃったことはまぎれもない事実でした。あなたは勇気を出して避けて通ることのできない事実をおっしゃった。そのおかげで、私は皆さんにちゃんと話すことができたのです」


李衣菜の表情が変わった。内側から押されるように唇が前に出て、鼻が持ち上がり眼が細まった。李衣菜は唇を噛み、震えをおさえてから言った。


李衣菜「わたしも、美波さんの助けになりたい」


プロデューサーはうなずくと、視線を李衣菜からアナスタシアに移した。アナスタシアはまだ最初の姿勢のままでいたが、眼のなかの光の色が変わっていた。
111 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/03/24(金) 22:17:47.24 ID:NJ9NkxEDO

アナスタシアがプロデューサーと話したのは一同が解散した後のことで、彼のデスクがある個室でプロデューサーが面談の時間を設けようとする前にアナスタシアの方から部屋にやってきた


アナスタシア「プロデューサー、捕まった亜人は……ミナミはもう弟と会えないのですか?」


アナスタシアはドアを閉じてすぐ、ドアの側に立ったまま、単刀直入に訊いた。


武内P「……現行の法律では、たとえ親族でも政府が管理する亜人に面会することはできません」


プロデューサーは躊躇いながらも事実を伝えた。アナスタシアは頭を下げ両手を握りしめた。固まった拳が身体の左右に浮いたままアナスタシアは耐えるようにして少しのあいだその場に立ちっぱなしでいたが、プロデューサーが声をかける前にアナスタシアは部屋から出て行った。その動作は勢いがあって決然としていた。プロデューサーはしばらくのあいだ、アナスタシアの質問と動作について考えていた。ドアを開け部屋から出て行くアナスタシアを思い出すと、その動きの記憶には、不安定さの印象が加えられていることに気づいた。ドアを通り抜けるときの運動の軌跡に、黒いざらついた輪郭が不気味な分身のように重なっている。プロデューサーは得体の知れない思いをしながら、もしかしたら自分は、美波以上にアナスタシアを心配しているのかもしれないと思い始めていた。
112 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/03/24(金) 22:21:18.27 ID:NJ9NkxEDO

ーー榎総合病院


慧理子はいらいらしていた。


慧理子「さっきの刑事が帰ったと思ったら、また? 協力者なんて、わたし知らない!」


慧理子は病院のベットの上で身体を起こしていて、すぐに隣には美波が椅子に座って身体ごと慧理子に向けている。美波は妹の表情を心配そうにうかがっていた。そこからすこし離れた位置には下村が座っていて、慧理子の視界の縁側に収まっていた。役人らしい、平静な表情をしている。病室から廊下へとつづく入り口の扉の左右には二名の警官がかなり前から立ったままで、いまも慧理子を見張っていた。


美波「慧理ちゃん、落ち着いて。病院なんだよ?」


美波は妹にやさしく話しかけたが、こうかはないようだった。


下村「私は亜人管理委員会の者で警察ではありません。あくまで亜人の研究・管理が目的で……」

慧理子「わけわかんない!」


慧理子は下村の説明を最後まで聞かなかった。


下村「私はあなたに永井圭の私生活について伺いたいだけなのです」

慧理子「なんでわたしがこんなめんどくさい目に……」


慧理子は言葉尻をちいさくしながらぶつくさつぶやいた。
113 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/03/24(金) 22:22:35.50 ID:NJ9NkxEDO

下村「それは、あなたが永井圭の妹だからです。慧理子さん」


誰に向けられたわけでもない慧理子のつぶやきを下村は聞き取っていた。聴取の理由をはっきりと突きつけられた慧理子はばつが悪そうに押し黙った。美波は唇を結ぶ慧理子にすこし顔を寄せて語りかけた。


美波「すこし話をすればすぐにすむから、ね?」

下村「療養中のところ、申し訳ないとは……」

慧理子「キモイ」


自分をなだめようとする美波や下村へというよりは、兄との記憶に向かって、慧理子ははき捨てるように嫌悪をぶつけた。


慧理子「自分を人間だとカンチガイしてたやつが、家族にいたなんて……キモすぎる」

美波「慧理子!!」


さっき妹にした注意も忘れ、美波は怒鳴った。


美波「自分がなにを言ってるのかわかってるの?」


刺すような厳しい視線が慧理子に向けられた。慧理子は姉の激昂に一瞬びくっと身体を震わせながらも、言い返すことをやめなかった。


慧理子「姉さんだって兄さんのせいで大変な目にあってるじゃない!」

美波「それとこれとは……」

慧理子「ほんとに!? このせいでアイドルを続けられなくなってもほんとにそう思う?」


美波は言葉を続けることができなかったが、慧理子に向ける視線だけは維持していた。自分でもそれはするべきでないとわかっていたが視線を下ろすことができない。慧理子も黙りこみ、シーツの上に置かれる自分の手を見つめている。職務としてここにいる警官たちも当然口を挟めない。病室は気まずい沈黙の場所になっていた。
114 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/03/24(金) 22:23:57.49 ID:NJ9NkxEDO

会見が終わり、下村とともに車で病院へ向かっているあいだ、美波のスマートフォンに義母からの着信がはいった。美波は画面の表示を見ると、すぐに通話ボタンをタッチしスマートフォンを耳にあてた。


律『会見見たわよ。なかなか様になってたわね』


義母の声音はいつも通り平静そのものだった。美波は呆れたような安心したような気持ちで義母に聞いてみた。


美波「圭は来ると思う?」

律『おそらく逃亡を続けるでしょうね』


律はきっぱりと言い切った。


律『騒ぎが収まるまでは身を隠すのが最も安全だと考えるだろうし、私と同様、政府を信用していないから』


信頼しているだけに義母の答えに美波は不安になった(でも、あわてふためくというようなことはなかった)。


美波「信用してないの? お母さんのところにも亜人管理委員会の人が来たんでしょ?」

律『亜人の希少価値と十年前の田中のときの騒ぎから考えたら、私たちに嘘をつく価値は充分過ぎるほどあるわ』


美波は胸がつかれたように悲しくなった。喉に痛みに似た感情が込み上げてくるのを感じなら、美波は義母に尋ねた。


美波「わたしのしたことは間違ってたの?」

律『そんなことはわからないわよ』


と、律は言った。
115 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/03/24(金) 22:25:27.77 ID:NJ9NkxEDO

律『そもそも私が政府が信用ならないと考える理由も、証拠というほど確固したものではないから。あなたは亜人管理委員会の言いなりなったわけじゃなくて、自分で考えて行動したんでしょう?』


美波はすこし迷ってから「うん」、と答えた。


律『だったらいまのままでいなさい。自信を持てとも後悔するなともいえないけど、あなたはいまも圭のためを思って行動してる。それだけはしっかり憶えておきなさい』


美波はひとつ鼻をすすりひと呼吸おいてから、ちいさくささやくようにまた「うん」と言った。病院に向かう車に揺られながら、美波は窓に目をやった。街路樹の葉の光があたっている部分の照り返しと陽射しによってできた影の部分が、明暗をはっきりしながら窓に映っては後方に流れていった。目に映る光景にシャーっという音が重なる。耳にあてたスマートフォンから聞こえてきたその音は、おそらくカーテンレールが引かれる音で、美波は窓の外に視線を向ける義母を思い浮かべながら、「やっぱり、いっぱいいる?」と尋ねた。「ええ」という律の声が電話口から聞こえた。美波はなんとなく義母がうなずきながら「ええ」言ったのだと感じた。


美波「いま慧理ちゃんのところにむかってるんだけど、体調は大丈夫なの?」


美波がこの質問をしたとき、車が見覚えのある道に入った。窓から景色を見ると、はっきりと言語化されない日常化した馴染みの感覚が美波のなかに起こった。


律『今朝病院に電話して聞いたけど、いつもと変わりないそうよ』

美波「圭のこと、なにかいってた?」

律『いいえ』
116 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/03/24(金) 22:28:56.65 ID:NJ9NkxEDO

赤信号になり、車は信号待ちに入った。反対車線では病院前のバス停からバスが出発するところだった。


律『慧理子のこと、頼むわね。今日はそっちに行けそうにないから』

美波「でも……」

律『あれでも、ほんとは兄さんのことを心配してるのよ』


律がそう言ったとき、車は病院に到着した。バス停のベンチには乗り遅れたのか、男がひとり腰を下ろしていた。車を降りるまで美波は義母と電話をしていたが、それ以上たいした話はできなかった。病院のロビーを抜け、エレベーターに乗り、廊下を歩いているあいだ、美波はどうしたら妹の意固地を解きほぐすことができるのだろうと考えていた。いまではこの考えが可能性から不可能性に傾き、美波の心に影を作っていた。美波はうつむき、そのせいで視線は弱まったが、沈黙の重さも増していった。病室の誰もが口をあげられないなか、下村がぽつりと言葉を発した。


下村「……私は、親族が亜人だった人を知っています。私に、その人の苦しみを推し量ることなど到底できません。ですが私は、その人やあなたたちのような人をこれ以上増やしたくはないのです。だから亜人のことをもっと詳しく解明したいのです」


美波は頭を上げ下村を見た。慧理子も頭は動かさなかったが、瞳は下村のほうへ向いていた。下村の言葉にはせつない実感が滲んでいて、言ってることに嘘はないように美波には思えた。


下村「どう生まれるのか、完全に不死なのか、本当に人間でないのか……どんなささいなことでも結構です。なにか人と違ったことなどありませんでしたか?」
117 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/03/24(金) 22:29:56.35 ID:NJ9NkxEDO

慧理子は眼を下村から自分の手に戻した。さっきの感情の昂りの潮がまだ引ききっていないのか、慧理子の手の甲はうすいピンク色をしていた。その手の上をなにかが通り過ぎる感触がして、慧理子は窓の方を見た。レースカーテンが風に持ち上げられ、ふわふわ揺れていた。いちどカーテンは元の位置まで戻ったが、ふたたび風で浮き上がった。窓からの差し込んでくる光量が増え、壁やシーツの白さがより目立つようになった。慧理子の手がまたなでられた。やさしさを示すような感触で、シーツを握る指がすこしゆるむ。 今度は慧理子は両眼で下村を見た。


慧理子「……ほんとにどーでもいいよーな、話ならあるけど……それをいったら帰ってくれる?」

下村「はい」

慧理子「むかし、飼い犬が死んだとき、おかしなことを言ってたのが印象に残ってる……」
118 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/03/24(金) 22:31:47.21 ID:NJ9NkxEDO

それは両親が離婚し、圭と慧理子が美波とはなればなれになって暮らすようになった直後の思い出だった。寂しさをまぎらわすため飼い始めた飼い犬が動かなくなり、そしてすぐに死んでしまった。横たわる子犬を前に泣きじゃくる慧理子に圭はお墓をつくってあげようと言った。シャベルと飼い犬の亡骸が入ったダンボールを抱え、二人は河沿いの土手道を歩いた。夕暮れどきで、自転車をこいで下校する学生たちと何人もすれ違った。しばらくすると野球グラウンドが見えてきた。圭よりすこし年上の小学校高学年か中学生くらいの少年たちが草野球にもなってない気楽なプレーを楽しんでいる。

二人は野球グラウンドがある反対側の河岸まで降りて、川面が反射する光が眼に届くところまでやって来た。そこは雑草もあまり生えていない乾燥した地面があるところだった。圭がシャベルを地面に刺した。ざくざくという土を掘り返す音に混じって、野球少年たちの笑い声があたりに響いた。

飼い犬の墓ができあがっても、慧理子の眼から涙は溢れ続けた。手のひらや手首をつかって涙をぬぐい、眼の周りに引き延ばしてはまたぬぐう。圭はシャベルを手に持ち、慧理子の横に立ったままだった。抽象的な概念について考えてるというふうに黙っていると、圭はふと背後の気配に振り返った。
119 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/03/24(金) 22:33:22.12 ID:NJ9NkxEDO

永井「慧理、にげて……」


兄の声につられ、慧理子も涙をぬぐうのを一旦やめ、振り返った。


永井「幽霊が、来る」


慧理子の眼には兄のちいさな背中が映るのほとんどで、ほかに見えるものといえば、天頂の部分が藍色とのグラデーションになりかけているオレンジ色の夕焼け空と黒い腹を地上に晒しているいくつかの雲ばかりだった。
わけがわからずにいる慧理子をよそに、圭は視線をなにもない空間から自分の左腕へと移した。そして運動の軌跡を目で追うようにふたたび視線を前方の空間に戻すとこう言った。


永井「いや……出てる……?」
120 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/03/24(金) 22:34:45.97 ID:NJ9NkxEDO

話を聞いた下村は咄嗟に身を乗り出し、問い詰めるようにして慧理子に聞いた。


下村「永井圭が黒い幽霊を見たといったんですね!?」

慧理子「は? 黒かは知らないけど」


下村はゆっくりと椅子に腰を戻した。さっき立ち上がった勢いで椅子はがたんと音を立てて動いたが、元の位置からそれほど動いていなかったので、下村は無事に尻を椅子に落ち着けることができた。下村はそれからゆっくりうなだれた。


下村 (口が……スベった……)


美波「あの、下村さん?」


下村 (あとで戸崎さんに怒られるかも……)


下村は自分でも顔が赤くなっているのがわかるくらい恥じ入っていたので、美波の声に反応することはできなかった。うつむいたままの下村に美波は戸惑ったし、慧理子もおとなっぽくないいまの下村にすこし呆れていた。気がぬけた慧理子は現在の状況につきあう気になれなくて、兄とよく遊んでいた時期のことをふたたび思い出していた。


慧理子「あ……まさか、協力者って」


慧理子は突如、兄に協力する人物に思い当たりがあることに気がついた。


慧理子「あの、もしかしたら……」
121 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/03/24(金) 22:35:56.04 ID:NJ9NkxEDO

今度は慧理子が身を乗り出して下村に話しかけた。妹の突発的な行動に美波もつられて下村のほうを見る。顔をあげた下村は返事をするかわりにひとつ咳き込んだあと、身体の内側からのぼってきた血を口いっぱい分吐いた。飛沫がシーツや美波のスカートにかかり、赤い染みをつくった。


慧理子「え?」


下村は激痛に喘ぐ声を口から漏らしながら、頭を下げた。下村の身体を貫いていたのは鳥類の三前趾足に似た三本の大きな爪だった。太めの枝くらいあるその爪は、下村の背中から腹部を貫通していた。下村が苦痛に塗れた呼吸をするたびに爪と傷口の隙間から血液が染み出した。


下村「く、あ゛あ゛あ゛」


下村の身体が突然持ち上がって宙に浮き、天井近くで停止した。蛍光灯の光が近すぎて眼が痛い。下村は、ぶるぶる震える手で苦しみながら三本ある爪のうちの左右にある二本に手をかけた。首を背後、つまり床に向かって回し、自分を襲っているものの正体を見た。


下村「てめえ……!」


下村を持ち上げていたのは、眼も鼻も耳もない人間のような黒い幽霊だった。後頭部まで裂けた口に鋸のようなギザギザした歯が並んでいる。黒い幽霊の口が笑ったように歪んだ。幽霊は腕を振り下ろし、下村を床に投げつけるようにして爪を引き抜いた。落下する下村の身体は床にぶつからず、上半身が慧理子のベットに引っかかった。
122 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/03/24(金) 22:37:23.20 ID:NJ9NkxEDO


慧理子「きゃ、あああ、あ!」


痙攣の回数が増え、光のない黒い瞳孔が拡大する様子を慧理子が見てしまう前に美波は妹にむかって飛びついて腕を回した。腕を交差させて慧理子を胸元できつく抱きしめると、ヘルメットのように背中を丸め、慧理子の視界を覆った。

病室入口の扉の右側にいた警官の身体が縦に割れたかと思うと、次の瞬間には三本の横線を入られていた。同僚の肉体が六つの肉の塊になって床に落ちる音も聞かないうちに、残ったもうひとりの警官はようやく自分に迫ってくる黒い幽霊が見えた。彼はその幽霊が殺戮を引き起こしたと理解する時間もなく壁に磔にされて死んだ。後趾にあたる短い爪が、胸の下と頭頂部に突き刺さっていた。

美波は慧理子の連続した浅い呼吸を胸に感じながら、塊が床に落ちる音を聞いた。音がした瞬間から部屋の中に漂う血の臭いがさらに濃くなり、美波は吐き気を抑えるため頬の内側を血が出ても噛み続けた。過呼吸気味の口の動きにあわせて歯がかちかち鳴り、呼気に恐怖が混じった。美波は勇気を振り絞り顔をあげた。窓にかかるレースカーテンが風に浮き光が差し込んできた。窓から外の景色が見えた。

背後で床に飛び散った液体を踏むぴちゃり、という音がしたとき、美波は本能的に窓へ走った。左腕を慧理子の右肩から太腿の下にまわし、妹を抱き上げとにかくこの部屋から脱出しようとする。

上半身をあげた瞬間、美波の側頭部が打たれた。美波は壁に向かって跳ね飛び、壁に額をぶつけると、身体が壁に沿ってずるずる滑り落ちていった。気絶した美波が床に落ちたとき、美波の頭がかくんと傾いてベットの影に隠れた。
123 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/03/24(金) 22:39:07.64 ID:NJ9NkxEDO


慧理子「姉さん!!」


シーツの上で身を起こした慧理子は、四つん這いの格好で美波まで駆け寄ろうとした。ベットが軋んだ音を立てた。シーツに人間の足のような窪みができるのを見た慧理子は、視界が開け、同時に自分がいる空間の状況をよく見ることになった。白地の壁や床に赤い血が飛び散っている光景と嗅覚を苛む臭いを、慧理子は一気に受け止めることになった。

慧理子は気を失い、頭をベット横のサイドテーブルに落とした。黒い幽霊はしゃがみ込み、傷をつけないように慧理子の頬をかるく撫でた。
124 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/03/24(金) 22:41:11.20 ID:NJ9NkxEDO

IBM『怖がらなくてよかったのに。佐藤さんから永井の家族は殺すなって命令されたからな』


黒い幽霊は床に倒れる美波を一瞥して言った。


IBM『よくやるよ、この姉ちゃん。ここは四階だってのによ』


黒い幽霊を使用した殺戮は思った以上に簡単で圧倒的だった。黒い幽霊の口角が上がり、はっきりと歪んだ笑みが浮んだ。田中は亜人管理委員会の女と警官二人を殺したことに大きく満足していた。国のために奉仕している職種の人間は、それだけで殺す理由を埋め尽くすのに充分だった。

病院前のベンチに座り眼を両手の手のひらで覆いながら、田中はまた笑った。黒い幽霊を操作していたときの興奮はすでに落ち着いていたが、それと同時に反比例で達成感が田中の心を満たし始めた。田中はこの気持ちをより完璧なものにしようと、達成した仕事の結果を見るため幽霊の首を巡らして部屋のなかを見渡した。
125 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/03/24(金) 22:42:00.29 ID:NJ9NkxEDO

田中「……どういうことだあ?」


女がひとり、起き上がっていた。腹部にあいた傷口からは血の代わりに黒い幽霊と同じ色をした粒子が湧き出ていて、粒子が傷口に渦巻き纏わりつくと、損傷箇所が肉と皮膚で覆われ修復されていく。女が頭を上げると、その眼に光が射した。女はベットに立つ黒い幽霊を睨みつけながらこう言った。


下村「あなたは、そこをどくべきだ」
126 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/03/24(金) 22:44:19.21 ID:NJ9NkxEDO
今日はここまで。

ほんとは19日の日曜日に更新するつもりでしたが、更新する分のテキストを全消ししてしまい今日になっちゃいました。
127 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/04/08(土) 21:16:17.97 ID:4YLo7u+WO

IBM『人間ぶってやがった……わけか……』


曲げていた膝を伸ばし、ベットの上に立ち上がった黒い幽霊は復活した下村を見下ろしていた。下村は視線を幽霊から外さないまま腕を後ろに回し、穴の開いたスーツのジャケットの袖から腕を抜いた。右手首から袖からするっと抜けると重みが偏り、スーツはブランコのように弧を描いたが、下村は床に落ちる直前に左手首をくっと振って、足で踏みつけないようにスーツを壁の方に投げた。赤く汚れた腹部があらわになった。


IBM『知ってるか? 亜人は大きな肉片を核に散らばった肉片を集め再生する。だが、遠くに行き過ぎた肉片は回収されず新しく作られる。もしそれが、頭だったら?』


下村の動作を見ていた幽霊は、ゆらゆらしながら身体の向きを調節した。幽霊の身体は窓から射し込む逆光を隠したが、黒さは変わらなかった。
シーツとマットレスを間に挟んで、ベットの上と下に、慧理子と美波の姉妹がどちらも窓のある壁の方を向いて倒れていた。
128 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/04/08(土) 21:17:03.08 ID:4YLo7u+WO


IBM『ゾッとするだろ! おい!!』


黒い幽霊は右腕を脅迫するように素早く振りかぶった。斜め上から下村の首めがけて振り下ろされ、断頭を目論んだ爪の攻撃は、黒い手によって受け止められていた。手は左手で、下村の左肩の隣にあるその手は、下村の身体から放出された黒い物質で構成されていた。その物質は空気の中は水の中とでもいうように大気に染み込んでいったかと思うと、だんだんと人のかたちを形成していった。


IBM『なんだよ……てめえもかよ』


ほぼ直角二等辺三角形的な頭部をした幽霊が、田中の幽霊の腕を掴み相対し頂角を突きつけ睨み合った。正三角形的な牙を持つ田中の幽霊は手首を掴んでいた下村の幽霊の手を振り払い、ベット脇まで跳び退いて距離をとった。足裏についた血がスタンプみたいに床についた。
129 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/04/08(土) 21:18:05.82 ID:4YLo7u+WO


田中 (どおすんだあ、この場合……これ同士の戦い方は教わってねえぞ)


田中は予想外の事態に眼を手のひらで覆ったまま思考を進めた。


田中 (だがコレの精神的な何かは頭にある。現におれの視野はアレの頭部とリンクしてる……となると、攻めるべきは頭か?)


黒い幽霊を発現した下村も、次の行動に出れないでいた。


下村 (クロちゃんをだすのはいつぶりだろうなあ……いや、そんなことより、アレをどうやったら撃退できるの? そもそも撃退自体可能なのか……人の形をしている以上狙うべきは……)


幽霊を持つ者同士が同じ思考の筋道を辿っていると、部屋の位置関係のせいで、下村はベットの上下に分かれて寝ている姉妹に気づいた。ふたりとも気を失っているので動いていなかったが、吹き入ってくる風に髪が震え動いてた。ふたりに気を取られた一瞬の隙に、田中は幽霊の腕を振った。長く鋭い爪が横から飛来し、下村の幽霊の首を素早く切り落とした。


下村「!?」

田中 (は……?)

130 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/04/08(土) 21:19:43.54 ID:4YLo7u+WO

三角形をした頭部は床に落ちなかった。切り離され、重みで後ろに落ちていくその直前で頭部は空中で静止し、首の断面から磁力のような引っ張り合う力が発生しているのか、元の位置まで戻った。


下村 (……っ、なんでもやってるみるしかないか……!)


万全になった幽霊は指をかるく閉めて拳を作った。左手の指は伸ばして身体の前に構え、右拳を胸によせ攻撃に備える。次の瞬間、田中の幽霊が突進してきた。引いていた腕を下村の幽霊の頭部めがけて、三叉の槍のように突き出した。田中の黒い幽霊の腕は長く鞭のようによくしなり、それが威力を生み出していたが、このときばかりは鞭ではなく三つの黒い点にしか見えなかった。まるで三発連続で撃ち放たれた狙撃のようだった。下村の幽霊はその動作に俊敏に対応し、爪の刺突を構えていた左手で捌くと、いなされた勢いで身体が開いた田中の幽霊の前に自分の身体を入れた。田中はすぐさま黒い幽霊に二撃目を命令するが、腰を回すだけで右拳を突き出せる下村の幽霊の方が速かった。ぎゅっと指を締め石のように拳を固める。体重移動は完了していて、回転力の加わった右ストレートが勢いよく打たれた。田中の幽霊の左顔面にまともにぶつかり、パンチの当たった箇所が剥がれたように失われた。


IBM『な……に……!?』
131 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/04/08(土) 21:20:42.80 ID:4YLo7u+WO

リンクしていた視界の半分が消えたが、異変はそれだけではなかった。


田中 (なんだ……? 再生しねーじゃーか……!?)


剥がれた顔面から黒い粒子が溢れては空中に散っていく。


田中 (視野の伝達が、悪く……意識が……散る……粉砕……!?)


田中は離していた左の手のひらを異変を探しているとでもいうように見たあと、ふたたび目にあてた。こうすると、ふつうは黒い幽霊の視野とリンクした光景が見えるのだが、視野の左側は黒い覆いが掛けられたかのように失われたままで、徐々にその範囲を広げていった。田中は追撃に焦燥しながら、残った視野で下村の幽霊をなんとかその範囲の中に収めようとする。すると、田中は下村の幽霊にも異変が起きていることに気がついた。


田中 (!……いや)
132 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/04/08(土) 21:22:31.58 ID:4YLo7u+WO

下村の幽霊の右手の手首から先も同様になくなっていて、そこから物質の崩壊が観察できた。


下村 (相殺……!? なら、打撃が……有効……!?)

IBM『!』

強い踏み込みのあとに、強烈な左フックを繰り出す。頭部から粒子の拡散が止まらない田中の黒い幽霊は、命令の伝達機能が不全になっていたせいで反応が鈍く、拳を避けることができなかった。口を開けなんとか牙を剥いたが、拳が通り抜けるほどの開口は見せず、まともにフックとぶつかる。爆発したかのように粒子が弾け、飛び散って、散り散りになり、黒い幽霊の頭部が粉砕した。
133 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/04/08(土) 21:23:17.19 ID:4YLo7u+WO

田中「あら? 途切れた!」


病院前のベンチに座っていた田中が叫んだ。目の覆いを外し、拳を握ってベンチを殴りつける。田中のいらだちに反応する者は周囲に誰もおらず、蝉が鳴き喚くほかには目の前の道路を二三台、車が通り過ぎていくだけだった。しばらくして、いらだたしさをおさめたあと、田中は下唇を指で引っ張りながら考え込み、さきほどの戦闘について振り返った。


田中 「やはり頭が弱点だったか……考えは間違ってなかったが……切っても意味なし、打撃による粉砕か……」


田中が考え込んでいるあいだ、歩道に植えられている街路樹の緑の葉っぱがそよと吹き抜ける風に、さわさわと涼しげな音をたてながら揺れた。歩道にかかる光と影のモザイク模様も葉っぱの動きにあわせてちらちらしていた。ちらちらした影の動きは風とともに止まり、そのころには田中の気持ちは切り替わっており、歯のあいだから息を洩らすように笑っていた。


田中「勉強になったぜ」
134 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/04/08(土) 21:24:40.63 ID:4YLo7u+WO

病室で、自律を失った田中の幽霊を見下ろしながら、下村が息をついた。


下村「ふぅ……」


幽霊の身体は頭部が失われたことによって、崩壊は加速度的に進行し、もう腰のところまでしか残っていない。下村は消滅していく幽霊から、床に散らばっている警官の断片に目をやった。真っ赤になった床の上で、途切れた血管から血がすべて流れ出した断片は、肉本来のピンクに近い色をさらけ出していた。意外なことにその色は、赤い床の上でかなり目立っていた。


下村 (事後処理に特別班を呼ばなくては……でも戸崎さんがいなかったのは幸い)

下村「それに、あの娘たちも守れた」
135 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/04/08(土) 21:26:01.79 ID:4YLo7u+WO

下村は視線を前方に戻した。ベットの上に窪みが見えた。その窪みの上にいたはずの慧理子はいなかった。


下村「! くっ、そ……!」


下村は爪が手のひらに食い込むほど、強く拳を握り締めた。


下村 (あいつは、オトリ……)

下村「もうひとりいたのか……!」


窓にかかっていたレースカーテンは窓の端のところまで引かれて束になって集まっていた。遮るのものがなくなった陽射しが窓からまともに入り込んできた。そこから見える風景は病院に到着したときと同様何の変哲もなく、遠くに青みがかかった山が見えるくらいの風景からもたらされるものといえば、暑気と蝉の声だけだった。
136 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/04/08(土) 21:26:51.69 ID:4YLo7u+WO

病院のベットの上で目覚めるというのは美波にとって初めての体験で、天井の灯りをまともに見てしまった。眼が光線を受け止めた瞬間、反射的に瞼を閉じると左のこめかみに痛みが走った。かなりの疼痛で声を出すのも躊躇われた。美波はしばらく目を閉じたままにして、痛みが落ち着いてからゆっくり瞼を開けてみたが、眼に見える光景には見覚えがなく、視覚が機能していてもそれが認識に結びつかなかった。眼が覚めた瞬間、自分のいる場所に見覚えがまったくないと人はとてつもなく不安になり、危険とさえ思えてくる。美波もそうだった。視界が焦点を結び像を描く、白くのっぺりした天井とシルバーに光っているポールタイプのカーテンレールと薄いライトグリーンをしたカーテンの上部が見えて、病院の診療室めいてみえたが実際に診療室だった。

眩しくて眼を光から避けようと視線を下げると薄いライトグリーンで視野いっぱいになった。じゅわじゅわと浸透するように居残る痛みを揉みほぐしたかったが手を顔まで持ってくるのが億劫で、美波はしかめた表情を作るときみたいに顔の筋肉を動かしてその代わりにしようとした。
137 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/04/08(土) 21:27:47.10 ID:4YLo7u+WO


下村「あっ、すみません、だれか」


美波の表情の動きに気づいた下村は、首をまわしてカーテンの向こうに呼びかけたが、だれかがやってくる気配はなかった。下村がキョロキョロと医師か看護師を探しているあいだに、美波の意識は記憶と結びつき、爆発的な化学反応を起こしたみたいに横たわっていた身体が跳ね起こした。


美波「えりっ、慧理子は!?」


勢いよくベットから落ちそうになる美波を下村が受け止めた。肩を押さえてなだめながら美波をベットにもどす。


下村「落ち着いてください、妹さんは無事です」

美波「どこですッ?」
138 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/04/08(土) 21:28:31.52 ID:4YLo7u+WO

美波は妹の姿を求めて首を大きく動かした。カーテンの向こうを透視しようとするかのように目を強く細めている。


下村「山梨との県境のあたりで発見されました。救急車で近くの病院に搬送されて、いまは状態も安定しています」

美波「山梨……」


美波はほっとしてベットに倒れこんだ。そこへちょうど看護師がやってきて意識が回復した美波の状態を確認した。とくに問題はなく、額にちょっとした痣があるくらいで、その痛みも徐々に引いていった。


下村「慧理子さんは搬送先の病院で一日経過を観察したあと、こちらに移送されるそうです」

美波「よかった、ほんとに……」


安堵のため息が言葉になったかのようなひとりごとだった。
139 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/04/08(土) 21:29:23.82 ID:4YLo7u+WO

下村「新田さん、お体は大丈夫ですか?」


下村の確認に美波は頷いて答えようとした。ベットの隣に座っているだろう下村に目を向けてみると、下村は黒いスーツと白いシャツという格好ではなく、カジュアルで安っぽい半袖のチェックのシャツを着ていた。


美波「その服……」

下村「これは、その、汚れてしまったので……」


誤魔化そうとして誤魔化しきれてないしどろもどろの答えを聞きたかったわけではもちろんなかった。できれば記憶に頼らず遠回しな問いでほんとうのことを知りたかった。それが美波の無意識だった。


美波「怪我はなかったんですか?」

下村「私がですか?」
140 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/04/08(土) 21:30:21.06 ID:4YLo7u+WO

下村は不思議そうに美波に問い返してきた。その態度が自然なものか装われたものか、美波には判断できなかった。後者だと思うのだが、自信がない。病室で下村に起きたことは鮮明に記憶しているが、その鮮明さ故に間違った記憶ではないのかと不安になってくる。記憶のなかにいる死んだ下村と、いま美波の目の前にすわっている下村はその実在感において、ほとんど遜色がなかった。間違い探しをしているようなものだが、二つの光景は似ても似つかない。ただリアリティにおいて、記憶は現実と同じレベルの強度を持っていた。

診療時間を過ぎた院内は、静かで寂しげだった。ときおり通路に移動する看護師の足音が聞こえるくらいで、患者たちはおとなしく、医療機器は無機質な音を出している。時刻は午後五時半をまわり、病室での出来事から三時間が経過していた。


下村「今回の事件についてですが、亜人管理委員会の調査案件となりました」


気を取り直した下村は美波の状態が落ち着いたと判断したとき、つとめて事務的な口調で言った。
141 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/04/08(土) 21:31:25.58 ID:4YLo7u+WO

下村「事件に関するあらゆる情報に亜人管理法が適用され、マスコミ等第三者に口外することは禁止されます。もし口外すれば刑事罰の対象になる可能性も発生します」

美波「慧理子を誘拐した犯人は亜人だっていうんですか?」

下村「お答えすることはできません」

美波「あの佐藤という人がやったんですか?」


下村が驚いて眼を丸く見開いたのを美波は見逃さなかった。美波は黙ったまま視線を下村にぶつけた。睨み合いというには、下村の視線は同情的過ぎた。しばらくしてから下村は口を開き、静かに言った。


下村「亜人管理法に違反し情報を漏洩した場合、最悪だと懲役刑が科せられます。いいですか、事件のことは決して話さないでください」

美波「それは脅しですか?」

下村「忠告です」
142 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/04/08(土) 21:32:30.30 ID:4YLo7u+WO

美波は身体をベットの上に起こしたまま黙り切っていた。美波は下村の送迎の提案もすげなく断ると、さっきからシーツを強く掴んでいる自分の手に視線を落とした。


下村「では、あなたのプロデューサーに迎えに来るよう連絡します。いいですね?」


美波は返事をしなかった。下村はその場から立ち去り通話可能エリアまで移動してプロデューサーの名刺を取り出したとき、タイミングよく戸崎から着信がはいった。


戸崎『まだ病院にいるのか? 別種についての詳細な報告はどうした?』


戸崎の口調はきつく、美波に時間をかけて対応している下村の仕事に苛立っているようだった。
143 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/04/08(土) 21:33:15.33 ID:4YLo7u+WO

下村「いま、新田さんに今回の件に関して口外しないように忠告したのですが……」

戸崎『それはもうどうでもいい。早く合流しろ』

下村「なにか起きたんですか?」

戸崎『永井圭が捕獲された』


下村は思わず美波のいる部屋の方を見た。


戸崎『警察から受け取りが完了したらすぐに研究所まで移送し、実験を始める。きみも実験の様子を見学しろ』

下村「しかし、彼女をこのままにするのは……」
144 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/04/08(土) 21:34:49.97 ID:4YLo7u+WO

戸崎『私が何を言ったか聞いてなかったのか?』


戸崎の詰問に下村は屈した。


戸崎『早く来い。捕まった亜人がどうなるか、その眼でよく見ておけ』


通話が切れた。空は暗く、あたりは灰色に染まっている。病院内の照明は必要な箇所以外は消えていて、下村がいまいる場所も暗さが増しつつあった。下村は左手に名刺を持ったままでいることを思い出した。スマートフォンのキーパッドを表示し、名刺に書かれている番号を押した。耳にあてたスマートフォンから呼び出し音が鳴り続ける。煙草が無性に吸いたかった。通路を行く看護師が下村を見やった。下村は一瞬、注意されるかと思ったが看護師はすぐに前に向き直り、そのまま通り過ぎていった。
145 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/04/08(土) 21:35:21.72 ID:4YLo7u+WO
今日はここまで。
146 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2017/04/11(火) 00:14:45.01 ID:hkrJS7f6o
今回も良かった
147 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2017/04/13(木) 22:16:47.16 ID:CpHkdxOxO
読むだけで緊張してきた
148 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/04/23(日) 20:33:42.46 ID:5HbT9nK2O
4.待って、行かないで


死の残酷さは、臨終の現実的苦痛をもたらしながら、真の終りをもたらしてくれぬことにある。ーーフランツ・カフカ「八つ折り判ノート」

首の出来る所はただ一ヶ所ほかない
ーーギルバート・キース・チェスタトン「秘密の庭」


永井圭は山梨県で捕獲された。その足取りは誘拐された慧理子の携帯電話から捕捉された。誘拐以降、慧理子の携帯が一度だけ使用されたとき、基地局から通話先のエリアが特定され、そのエリアが永井圭の現在地と推測された。

戸崎はその地域のどこかで永井圭と帽子が接触し行動を共にするだろうと予測していたのだが、警察の捜索が開始される前に永井圭は勝沼分署の前で意識不明で倒れているところを発見拘束され、同日中に都内にある研究所に移送された。戸崎は帽子がなぜ永井圭をこちら側に差し出すような真似をしたのかその意図を掴みかねた。帽子と永井圭が接触したと思われる神社で神主の惨殺死体が発見されたのは、永井が研究所に向けて移送されてから数時間経った後のことだった。

研究所の前には当然ながら大勢の報道陣が詰め寄かけていたが、この集合にはもうひとつの極があって、美城プロダクションの前にも彼らのざわめきと光源が群れを成していた。弟の捕獲について新田美波から何らかのコメントをもらうことが彼らの関心であり目的でもあったのだが、その可能性がほとんどないことにプロダクション前にいる報道陣たちは薄々感づいていた。美波はプロダクション所有の女子寮にいて、この女子寮の所在地は外部の人間には当然ながら明らかにされていない。
149 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/04/23(日) 20:36:35.60 ID:5HbT9nK2O
美波はラウンジでテレビに見入っている。まわりには寮に住んでいる美波より少し年下の女の子たちがいて、ここにいてもいいのかそれとも立ち去るべきなのかわからないといったふうに少し距離を取っていた。いちばん近くにいるみくにしても、美波の視界に入らない位置に腰を下ろしている。

美波の視線はずーっと真っ直ぐ、テレビを貫くように向けられていて、まるで山頂から向こうの山頂の青く霞んだ景色の中にいる動くなにかを探し出そうとするかのように画面を凝視している。あるいは、念じることで遠く離れた場所に何かの力を作用させようとするかのように。

レポーターが永井圭が捕獲された状況を説明している。彼女の背景には研究所の白い外壁がぼんやりと浮かんでいて、スクリーンのように投げかけられた光の中に過る人々や機器や車の影を映している。ざわめきの波がレポーターの左方向ーー画面を見るものには右側ーーからやって来て、彼女のところまで到達したとき、レポーターは首をめぐらし振り返った。警察車輌に先導された黒塗りのワゴン車が群がる記者たちをゆっくりとだが、確実に無視の態度をあらわしながら走行してきた。研究所の警備員にとって、カメラのフラッシュはほんとうに厄介だった。次から次へとまるで失明を狙うかのように瞬く光を頭を下げて避けながら、押し寄せてくる人波を懸命に押し戻す。研究所のゲートが開き車が敷地内に入っていく。レポーターはその様子を説明しながら、あの車に永井圭が乗っているのでしょうか、とわかりきったことを口にする。
150 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/04/23(日) 20:37:20.88 ID:5HbT9nK2O
美波は画面を凝視したまま、自分自身の肉体を締め付けるかのように身体を強張らせた。期待というより願望していた光景とテレビからもたらされる映像はまるで違っていた。リモコンでチャンネルを変えると、別の放送局が別の角度で同じ中継映像を届けている。カメラはゲートのすぐ横から記者の群れを掻き分けて進むワゴン車を見下ろしている。カメラは赤いテールランプを追いかけてパンしたが、その映像はスタジオに返され見れなくなった。美波はまたチャンネルを変えた。まるで機械を演じているかのような動きだ。美波は作動する部分と固定した部分を身体で分割しながら、いまこの夜だけでなくその後何日も同じ動作を反復していた。
151 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/04/23(日) 20:39:40.17 ID:5HbT9nK2O
永井は意識を取り戻し眼は光を受容したが、視界は白一色に染まり何も見えなかった。眼に覆いをかけられているせいだった。瞼に触れる覆いの感触からそれが包帯であることがわかり、さらに全身に包帯がきつく巻かれていることがだんだんとわかってきた。腕に力を入れてみたが、すこし震えただけで上がらない。全身が手術台の上で固定されていた。永井がもがき身を捩るあいだ、自分の喉から出てくる音が声でなくなっていることに気がついた。喉はただの風穴になっていて、隙間風のような空気が漏れ出てくる音しか出さない。声帯が切り取られていたせいだった。


研究員1「トラック事故の現場に残された左腕のDNAと一致」

研究員2「間違いなく亜人だ」

研究員3「よし、始めよう」


仰向けに横たわる永井の上に研究員たちの声が降ってきた。そのうちの一人が永井の左側に回ると、手に持った機器のスイッチを入れた。きいぃぃんという恐怖を掻き立てる高音が痛みを伝えるように響いた。研究員はそれを永井の腕にあてた。皮膚と包帯が同時に裂け、筋肉が千切れた。手に持てるサイズの電動の丸のこだった。血が撒き散らされないように止血を施されていたが、それでも、血管を切断したときは火花のように赤い血が飛んだ。苦痛にもがく永井をまるで存在していないみたいに研究員は腕の切断を続行した。やがて、刃が骨にあたった。研究員は丸のこに体重を掛けて回転する刃を骨に食い込ませた。しばらくそのままの体勢で力を入れ続けていると、すとんと底が抜けたかのような感覚が研究員の手に伝わった。


研究員3「これ、岩崎さんに送っといて。再生前のと見比べるらしい」


152 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/04/23(日) 20:41:23.49 ID:5HbT9nK2O
切断した左腕を渡してから、研究員は丸のこを金切り鋏に持ち替えた。


研究員3「今度は脳の活動を観察しながらだ」


研究員は今度は右側にまわった。右手の包帯を解くと鋏を開き、中指に刃をあて、研究員は脳波モニターに視線を向けた。


研究員3「痛みに対する反応の仕方で、これまでに何回死んだかをおおよそ予測できる」


研究員は鋏を閉じた。ぱちんと刃と刃が噛み合わさる音がして、永井の指が切り落とされる。研究員は慣れた手つきで剪定するかのように永井の指を落としていった。五本の指を落とす鋏の音はリズム良く、軽快とさえいって良いほどだった。切断のあいだ、永井の意識はずっとあった。


研究員3「数回程度しか死んでないな……次は」
153 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/04/23(日) 20:42:34.06 ID:5HbT9nK2O
背後からがりっという硬く耳障りな音がして振り向くと、手術室の中を見通せる見学室とのあいだに設置されたガラスに爪痕のような四本の線があった。このガラスは強化ガラスだった。ガラスの向こうにいる人物は影になっていて、そのうちの一人の腕が上がりスピーカーのスイッチを入れた。『どうした?』という声に研究員は聞き返した。


研究員3「いや……ガラスの傷、最初からありましたっけ?」


『ああ、最初からあったが?』


スピーカーの声はとぼけるような調子だった。


研究員3「そうですか。すみません」


研究員はとくに気にするでもなくふたたび実験に戻った。ガラスの向こうの見学室では亜人管理委員会のメンバー、もっとも高齢の岸博士を中心とする上位の研究員三名、自衛隊のコウマ陸佐、Nisei特機工業の石丸武雄、戸崎と下村も合わせて合計七人が見学室から永井圭の実験の様子を観察している。研究員たちが次々に感嘆の言葉を口にするなか、戸崎は冷ややかに眼を細めながら下村に聞いた。


戸崎「見えるか?」

154 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/04/23(日) 20:43:44.20 ID:5HbT9nK2O
下村の視線の向いている場所は、研究者や自分を計るかのように見つめる戸崎とは別のところだった。実験中の研究員たちの手前、だれもいないはずの空間に下村は眼を集中させている。


下村「……はい」

下村「います」


下村の眼には、黒い幽霊が映っていた。永井の幽霊の形状は下村や田中と違ってプレーンといっていいほど無個性で、頭部の形や手は人間のそれと良く似ていた。


岸「この傷……超音波か何かか?」

研究者1「違う。帽子襲撃現場には足跡のようなものが残されてたんだぞ。それはどう説明する」

コウマ陸佐「はっ、足の生えた幽霊でもいるってのか?」
155 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/04/23(日) 20:45:07.42 ID:5HbT9nK2O
もっと痛みを与えて観察しよう、という研究者の声がして、実際にスピーカーから指示を与えていた。黒い幽霊は何もかもに無関心な様子でぼおっと突っ立ったままで、ぼそぼそと呟きを発している。


戸崎「なぜだ……」


戸崎は滞りなく進む実験の様子に不満があるように言った。


戸崎「なぜ永井圭は、あの研究員達を攻撃しない……ガラスに傷を付けてから、あまり動きが無いように見えるが?」

下村「……もしかしたら自覚してないのかも」


下村はすこし考えこんだあと、戸崎を見上げて答えた。


戸崎「無自覚のほうが本能的に攻撃しそうな気がするが……」
156 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/04/23(日) 20:46:04.42 ID:5HbT9nK2O
下村「いま自覚してないとすると『幼少期からずっと』ということになります。長期間干渉しあわないまま過ごした結果、彼と黒い幽霊のリンクは、極めて不安定なのかもしれません……例えるなら、電波状況の悪いところで通話する感じでしょうか。ですから、いずれは彼らを攻撃する可能性が……」

戸崎「いまは?」

下村「え?」

戸崎「いまはどこで何をしている」

下村「いま、ですか……その……」


戸崎は口を閉ざし、冷たく沈黙したまま下村の答えを待った。下村はやがて遠慮がちに言った。


下村「戸崎さんを、見てます」


一瞬、戸崎の眼が丸くなり驚きを現した。首を少し後ろに引き、ガラスと眼の距離が離れた。
157 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/04/23(日) 20:47:19.12 ID:5HbT9nK2O

戸崎「……見てる……か……」


だがすぐに戸崎の視線は細く鋭いものに戻り、透明なガラスの向こうの戸崎には見えない幽霊に、忌々しいものを見つめるときのような侮蔑と憎しみに染まった眼を突きつけた。


戸崎「偉そうに」


戸崎はぼそりと呪詛の言葉を吐いた。


戸崎「お前らのおかげでどれだけ私の人生設計が崩れたか……わかってるのか……?」


下村は戸崎の言葉を視線を床に落としたまま聞こえないふりをしていた。そうすれば戸崎に見つからないとでもいうように頭を下げてじっとしていたが、儚い希望をあっさり無視して戸崎は下村に声をかけた。


戸崎「よく見ておけ、下村君」


下村の肩がびくっと震えた。
158 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/04/23(日) 20:48:28.22 ID:5HbT9nK2O
戸崎「きみがここでそうしていられるのは、私が秘密裏にかくまっているからにすぎない。しっかり働けよ。さもなくば……きみもああなる」


下村は頭を上げられなかった。じわじわと恐怖によって玉のような汗が滲んできた。実験室の音声がスピーカーから聞こえてくる。実験道具が出す高音と肉が掻き分けられる湿った音、低く響き渡る苦痛の音声が恐ろしいハーモニーを生んでいた。


戸崎「情け容赦無しだ」


戸崎は無感情な眼で永井を見据えながら言った。永井は左腕と右手の指が全て切断され、両脚に釘が打たれて赤い血の筋が包帯に染み込み手術台に落ちていた。顔に巻かれた包帯は涙や鼻水でべたべたになっていたが、永井自身の嗚咽や痙攣はピークを過ぎだんだんと間隔が広くなっていった。永井の腹部が割られている。開腹手術の真っ最中だった。永井の臓器は活動する様子を外部に晒しながら、灯りに照らされて健康的なピンク色に艶やかに光っていた。
159 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/04/23(日) 20:49:31.08 ID:5HbT9nK2O
研究者1「反応がにぶくなってきたな」

研究者2「リセットするか」


見学室の上級研究員がふたたびスピーカーを入れ、指示を出す。


『よし、一度殺して休憩にしよう』


研究員3「はい」

研究員1「ふう……トドメよろしく」

研究員2「お先」

研究員3「お疲れ様です」


残った研究員が先の尖った金属こてを頭の上まで持ち上げる。こての位置は永井の胸部の真上にあった。床や手術台の上に滴り落ちた永井の血はまるで火のように赤く、そこから黒い物質が煙のように立ち上り出していることに研究員は気がつかなかった。
160 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/04/23(日) 20:51:07.07 ID:5HbT9nK2O
下村「あっ」


下村がそれ以上反応を見せるのを戸崎は睨みつけることで抑えた。実験室内の黒い幽霊が永井の感情に感応したのか、研究員の背後へゆっくり近づいていく。研究員は狙いを正確に定めようとこてを持ち上げたまま動かない。黒い幽霊は研究員に近づきながら腕を上げ、手で鉤爪を作るように指を折り曲げた。下村は研究員が引き裂かれると思い、眼をつむった。瞼の裏の暗いスクリーンの中に慧理子の病室での出来事が今このときのようにありありとよみがえる。戸崎の眼は冷徹に前に向けられたままだ。

黒い幽霊が腕を振り抜いた。と同時に幽霊の身体の構成が根本から分解されたのかというように幽霊の節々が瞬時に崩壊し、研究員はそのあおりを食らったが傷ひとつ負うことはなかった。


研究員3「風?」


研究員が室内にも関わらず風が吹き付けてきた現象の原因を求めるように腰をまわして大きく振り返った。しばらくのあいだ部屋の中のあちこちに視線をやったが結局何が原因だったのかはわからない。もしかしたら気のせいだったのでは、と研究員は思い始めたとき、見学室からまたリセットの指示が来た。研究員は気を取り直し、永井の胸部に金属こてを真っ直ぐ突き落とした。
161 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/04/23(日) 20:52:16.95 ID:5HbT9nK2O
永井はふたたび意識を取り戻し眼は光を受容したが、視界は白一色に染まり何も見えなかった。眼に覆いをかけられているせいだった。瞼に触れる覆いが包帯であること、さらに全身に包帯がきつく巻かれていることを今度はあらかじめ知っていた。腕に力を入れてみたが、すこし震えただけで上がらない。全身が手術台の上で固定されていた。永井はもがくのやめこれから到来する苦痛に呼吸を荒くしていると、自分の喉から出てくる音がやはり声でなくなっていることに気がついた。喉はただの風穴になっていて、隙間風のような空気が漏れ出てくる音しか出さない。声帯が切り取られていたせいだった。


研究員1「よーし、後半戦いくぞー」


ふたたび研究員の声が上から降ってきた。


研究員3「上の命令はとにかく痛みを与えろだと」

研究員2「何の実験ですかね」

研究員1「さあな。おれらは従うだけだ」

研究員3「さてと……歯からいくぞ」


永井の喉から洩れる音は声とはいえないほど掠れてくもぐっていたが、それでも苦痛に苛まれている者が発する悲痛な音声であることは誰の耳にもあきらかだった。

実験室の使用を示す赤いランプはそれでもずっと灯り続け、掠れた空気の洩れる音も点灯と同じだけ鳴り続けていた。
162 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/04/23(日) 20:53:38.23 ID:5HbT9nK2O
十日後、雨がしつこく篠突いている中、今日も各報道局のレポーターがレインコートを羽織りカメラに向かって報道している。

この日はアメリカからオグラ・イクヤ博士が来日・視察のために研究所を訪れる日だった。生物物理学者であるオグラは九九年に渡米し、同地で亜人研究トップクラスの地位を得ていた。亜人研究は各国競争状態で、基本的に他国の亜人事情にはノータッチが原則なのだが、日米の一部の研究機関は協力関係を結んでおり、日本で新しい亜人が発見捕獲された場合オグラ博士が視察することになっている。

博士を乗せた車両が研究所のゲートを通り抜けるあいだ、レポーターたちはこれらの情報を説明していた。ゲート周辺は幾つもの光源が寄り集まり、ひとつの大きな光のドームを作っていた。そこでは雨筋が白い糸となり、垂直機織でもしているかのように上から下へと送られ続けている。ゲートのすぐ横には二メートル程の高さの植込みが光を遮る壁となっていて、黒い葉を雨で揺らしながら敷地の内と外を区切るフェンスを光から遠ざけていた。
163 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/04/23(日) 20:54:58.04 ID:5HbT9nK2O
雨滴はフェンスの網目に沿ってしとしとと植込みの向こうに広がる草の上に流れていて、それを目で確認するのは暗闇のせいでかなわない。唯一その様子を見て取ることができるのは敷地内を巡回する警備員がライトでフェンスを照らしたときだけだ。ライトは防水式LEDタイプのマグライトで直線的な黄色の光線を遠くまで延ばして草の上に落ちていた。光線の長さにつられるように、光が当たっている草の影も長く延びている。光線はフェンスの方向を照らしていたが、地面には網目模様の影はうつっていなかった。フェンスは四角く切り取られていて、そのすぐ横に首から顎、そして顔面にかけて深い裂傷を負った警備員が倒れていた。警備員の眼に雨が当たる。その眼は光を失ったまま、雨滴に無反応で瞼が壊れたガレージのように開いたままだった。


佐藤「絶好の反逆日和とはいかないなあ。雨の中じゃ黒い幽霊の操作はしにくくなる」


警備員の死体の横に田中の幽霊が立っていた。警備員の首を切り落とすはずだった黒い幽霊の右腕はすでに消滅していて、幽霊は片腕にもかかわらずなにか他に気になることでもあるかなようにブツブツ独り言を切れ目なく続けている。

佐藤はナイロン生地のボストンバッグを開けると中からこれから起こす出来事に必要なものをを取り出して、田中も佐藤といっしょにそれらの銃器を身につけていった。装備にまだ時間のかかる田中を佐藤はいつものように微笑みながら待っていた。
164 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/04/23(日) 20:57:06.02 ID:5HbT9nK2O
佐藤「田中君は作戦C、オグラ博士の誘拐担当! 私は作戦B、永井君の救出担当だ!」


オートマチックの拳銃を腿のホルスターとコンバットベストに収め、動作確認をしたショットガンを手に持った田中に向かって佐藤は言った。二人はズボンの裾を撫でる草むらから水たまりが光るアスファルトへと歩いていった。佐藤は躊躇いのない歩みで水たまりを平然と踏みしめたので、水跳ねの音が強い雨音の中でも耳に届いた。降りしきる雨はふたりのコンバットベストに染み込み、身体に引き寄せ持った銃器を黒く輝かせた。


佐藤「さて、どうすれば城を落とせるか」


二人が分岐するポイントまで到達したとき、出し抜けに佐藤が口を開いた。田中が視線をやると、佐藤は内部を透視するかのように研究所に視線を固定している。帽子の庇からは雨が粒となって尾を引きながら垂れ落ち、後ろでは吸い取りきれなかった雨粒から首を伝って佐藤のシャツの襟の中へ流れていた。
165 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/04/23(日) 20:59:35.23 ID:5HbT9nK2O
佐藤「単純! 敵の想定する火力を上回ればいいんだよ。いま私たちが持てる最大火力で、圧し潰す」


田中は自分達の重装備を見ながら、武器を調達したとき佐藤が言ったことを思い出していた。田中はトランクに積み込まれた銃器の量に、こんなリスクを冒してまでして永井圭を助ける価値があるんすか、と佐藤に尋ねた。永井圭を人間側に差し出したのは、佐藤が仕組んだことだった。人間への憎悪を育み、殺人へのハードルを下げさせたうえで恩を売り仲間にする。少なくとも田中はそのような目論見だと考えていた。佐藤はトランクを閉めながら田中の疑問に、ないよ、とあっさりした調子で答えた。

最優先事項じゃあないんだよ、永井君の救出は。そのように言う佐藤に、田中は、やっぱりこの人はよく分からない、と正直な気持ちを起こした。


佐藤「小細工などいらない」


そう言う佐藤の声はあのときよりいくらか楽しそうだった。それについては田中も同様で、銃器の冷たい感触に密かに興奮していた。二人は別れ、田中はオグラ博士がいる地下の駐車場へ向かって歩いていった。佐藤も自分が担当する侵攻箇所まで歩き始めた。ストラップの付いたM4のグリップが右手で押さえられ、下を向いている。ストラップは左手にも握られていて、掌の中で折りたたまれ握られているそのストラップも火器に付けられたものだった。歩くたびに前後に揺れるその火器は、太い筒の形をした対戦車用の携帯火器だった。
166 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/04/23(日) 21:00:34.64 ID:5HbT9nK2O
研究所内を警備する警備員の数は永井が移送された日から通常の倍に増員されていて、警備室の監視モニターにはいたるところに配置され、警戒を強めている警備員が映っている。永井圭が亜人と発覚してから、研究施設と契約している警備会社は社員に麻酔銃の訓練を受けさせた。

麻酔銃の使用には銃砲所持許可が必要で、麻酔薬として麻薬に指定されているケタミンも使用するので麻薬取扱者の許可も同時に必要になってくる。現在の日本の法律では、麻酔銃を取り扱えるのは獣医師くらいしかいないのだが、亜人管理委員会を擁する厚生労働省はこの違法を黙認していた。

警備室の近くにはガラス張りの喫煙室が設けられていて、そこでは連日の出勤に疲労する四人の警備員が一時のリラックスを求めて煙草を吸っていた。四人の中でいちばん若い警備員は入ったばかりで、いきなりの特別出勤と違法行為にまだ折り合いがつけられないようだった。
167 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/04/23(日) 21:01:43.21 ID:5HbT9nK2O
警備室のモニター画面の一つがパッと明るくなった。研究所の東側の入口に設置されている人感センサーが反応し、ライトが灯ったためだった。そこには一人の男が黄色い色をした光の円の中心に立っていて、なにか筒状の物を肩に担いでいる姿が映っていた。警備室近く東入口の喫煙室でタバコを吸いながらたむろしていた四名の警備員は、雨の中にいる男の姿を正面から見た。男は帽子を被っていた。佐藤だった。

佐藤が肩に担いでいる無骨な筒はAT4と呼ばれるもので、直接の見覚えがなくても警備員たちはそれが携帯式の対戦車火器であることがわかった。発射音による空気の弾性波が津波のように轟き渡り、火器後方から塩水が噴き出すと成形炸薬弾が東入口で爆発した。火と金属片と衝撃波が警備員たちを襲った。黒い煙といっしょに吹き飛ばされたガラスが通路を満たし皮膚に突き刺さる、壁や床を這いまわる火が倒れて這いつくばって苦しんでいる警備員たちの背中や腹と床との隙間に流れ込み、オレンジ色をした火が流された赤い血と混じって強く発光した。火が彼らを苛む、皮膚と筋肉と血管を焼いて焦がす。
168 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/04/23(日) 21:03:20.57 ID:5HbT9nK2O
佐藤は無反動砲を濡れた地面に投げ捨てると、M4アサルトカービンを火の中へ向けてフルオートで撃ち始めた。銃声が警備員たちの絶叫を打ち消した。銃弾は熱せられた空気の中を飛び回った。残っていたガラスを割り、穿った壁に埋まって粉塵を飛ばし、天井のライトを吹き飛ばし、床を削り取って火の中に飛び込み、警備員の身体を貫通し、爆発で穴が空いた壁の向こうの警備室まで到達した。銃弾は様々な物体とぶつかり、物体の素材ごとに異なるあらゆる音が警備室周辺の空間に乱れ鳴っていた。

佐藤は銃弾をばら撒きながら前進した。狙いはつけず、通路の左の壁から右の壁まで線をなぞるようにして銃口を動かした。帽子に当たる水滴が、空から落ちてくるものから天井に備え付けてあるスプリンクラーによって散水されたものに変わった。ガラス片を踏むぎしゃりという音がした。爆風で吹き飛んだ警備員たちに銃弾は容赦無く降り注いいだ。四人の警備員のうち二名はもう事切れていて、身体に空いた穴の数が増えていってもまったく気にしてなかった。水に浸された床にタバコが数本浮いていて、そのすぐ側に皮膚の焦げた死にかけた警備員が蹲って身をよじらせていた。佐藤は歩きながらその男の頭に弾を撃ち込んだ。水と煙と火の中を抜けると、通路の奥で片腕が千切れた警備員が炸薬弾からも銃弾による大数の法則からも奇跡的に生き延びて壁に寄りかかって懸命に息を吸っていたので、佐藤はいちばん若いその男の胸部と頭部に二発一発と銃弾を叩き込んだ。廊下を左に折れて警備室に入っていく。部屋の中は廊下の状況ほど酷くなく、煙と熱が苦しいくらいで、熱気のほうはスプリンクラーが冷まそうとしていた。軽傷の警備員がモニターの向こうに話しかけている。佐藤はその男の頭部に照準を合わせた。銃を持ち上げたときの気配と音でその警備員は自分に狙いをつける佐藤を見ることになった。佐藤は眉間を撃ち抜かれた死体を跨いでモニターに顔を寄せると、画面の向こうにいる戸崎に向かって、やあ、と話しかけた。


佐藤「そこにいるのかな? トザキ君」

169 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/04/23(日) 21:04:33.76 ID:5HbT9nK2O
佐藤はさの音節を濁らせ、冗談でも言うみたいにわざと読みを間違えた。


佐藤「私がなぜここに来たかまだわかるまい。だが、今夜日本の亜人事情は大きく覆る」


佐藤の眼が薄く開いた。降り注ぐ水滴が白い条を何本も描くなか、佐藤の眼が刺すような光を放った。


佐藤「そう宣言させてもらうよ」


モニターが黒くなった。沈黙する画面を苦々しく見つめる戸崎に、コウマ陸佐が詰め寄った。
170 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/04/23(日) 21:05:39.59 ID:5HbT9nK2O
コウマ陸佐「戸崎、どう対応する! 永井圭は初日以降、別種の力を見せず究明はまったく進んでいなんだぞ!?」

戸崎「警備を大幅に増やしてます」


戸崎の表情は締め付けられたかのように動かなかった。


戸崎「麻酔銃が一発当たりさえすれば……何十人犠牲になろうと、眠らせさえすれば、我々の勝ちです」
171 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/04/23(日) 21:06:26.57 ID:5HbT9nK2O
コウマ陸佐「麻酔の有効性は認めるが、そこまでして殺害を回避したい理由は何だ?」


コウマ陸佐は多少落ち着いて尋ねた。


戸崎「強化ガラスなどで守られているわけではないこの部屋では、我々にまで危険が及ぶ可能性……」


戸崎は陸佐に顔を向けた。うって変わって、その表情は苦渋に滲んでいた。


戸崎「亜人の殺害は『中村慎也事件』……つまり最悪の事態の引き金になりかねないと考えられているからです!」
172 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/04/23(日) 21:07:21.02 ID:5HbT9nK2O
スプリンクラーはまだ水を撒き続けていた。研究所の三階、サンプルの保管室へと繋がる通路の前に、十五名の警備員がピストルタイプの麻酔銃を構えて侵入者を待ち構えていた。警備主任が、順番に撃てよ、過剰投与は結果的に殺害になりかねない、と荒っぽく声をあげる。主任は保管室の前、つまり最も後方にいた。前方にいる警備員たちの手が震えていた。さっきから、ぱん、ぱん、ぱん、と散発的に、ときには連続して発砲音が聞こえてきたからだ。その音はシャッターに阻まれてこもって聞こえたが、明らかに保管室に近づいていた。ごん、という金属を金属で思いっきり叩いたかのような音が響いた。前方の警備員たちの身体がびくっと跳ねて、一人が麻酔銃を手から落としそうになる。銃弾が分厚いシャッターに当たった音だった。それから少しの間、銃撃は止んで、スプリンクラーの散水音しか聞こえなくなった。片膝をついて麻酔銃を構える若い警備員が、必要以上に力を入れて麻酔銃を握り直す。防火シャッターは、一瞬震えたかと思うと、ゆっくりと左右に扉を開けてゆく。そこから見えるのは同僚たちの死体だ。皆、頭か胸を撃ち抜かれ、床に倒れている。床を浸す水は血の赤色を薄めて、警備員たちのいる通路に向けて洗い流そうとしている。シャッターすでに半分以上開いたが、侵入者の姿はまだ見えない。先頭にいる警備員は彼から見て右側のシャッターのすぐの横の床に近いところに、小さな黒い穴がぽつんとあるのに気がついた。その警備員は眉間を撃ち抜かれ、死んだ。


佐藤「いくよー」
173 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/04/23(日) 21:08:40.30 ID:5HbT9nK2O
佐藤はシャッターから身体を出し、バキン、 バキン、と空間が限られた場所なのにセミオートで一発ずつ発砲しながら通路を進んだ。佐藤は銃弾ひとつで警備員一人をきちんと殺す。発射された麻酔ダートを躱し、また引き金を引くと六人目が死んだ。

ハンドガードを持つ佐藤の左腕に麻酔ダートが突き刺さった。麻酔銃を撃った若い警備員が思わず、よし、と言ったとき、佐藤は腰からブッシュナイフを引き抜いて、左腕を切り落としてしまっていた。佐藤は素早い動作でブッシュナイフを拳銃に持ち替えると、切断面を晒している左腕を拳銃を持つ手の支えにして、その警備員の顔に三発叩き込む。警備主任も死んでしまった。佐藤と対峙することになった二人の警備員はパニックになり、当てずっぽうで麻酔銃を撃った。麻酔ダートは佐藤の右半身、脇の下と胸に刺さった。佐藤はまだ熱い銃口を首の下に押し当てた。皮膚が火傷を負った。

脳天から血が飛び散り、帽子が吹っ飛ぶ。佐藤は死んで、だらんと仰け反り崩折れる。身体が床につくまでの僅かな間に、黒い粒子が集合し無くなった腕を再生した。残された警備員たちはほんの一瞬、驚いただけだった。床に背中がついた瞬間、佐藤は上半身を跳ね起こし、残りを一気に始末した。佐藤が引き金を引いているあいだ、かれらの身体は揺さぶられ続け、まるでダンスを踊っているみたいだった。噴き出す血煙がスプリンクラーから撒かれた水に反射し、ピンク色にてらてら光っていた。

ア レ
佐藤「黒い幽霊いらずだね」
174 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/04/23(日) 21:11:11.90 ID:5HbT9nK2O
すみません。

>>173 のルビが大きくズレてしまいました。「アレ」のルビは黒い幽霊の上ということでお願いします。
175 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/04/23(日) 21:12:07.71 ID:5HbT9nK2O
佐藤は濡れた帽子を拾い上げ、被り直しながら言った。帽子に穴は開いていなかった。


佐藤「さて、永井君。お迎えだよ」


佐藤は保管室に入っていった。その部屋は殺風景で、遺体安置室そのものだった。佐藤は「003」と通し番号がふってある埋め込み式の金属製の寝台を引き出した。

永井は死体のように静まりかえって横たわっていたいたが、上下する胸の動きや微かな呼吸の音が確認できる。腕の静脈から注入されている麻酔のせいで眠っているだけだった。佐藤はブッシュナイフの柄を両手で持つと、刃先が永井に対して垂直になるように構えた。


佐藤「君はどう仕上がるかな?」


佐藤がナイフを突き下ろした。刃物は深々と突き刺さり、やわらかい喉元を貫通した。ナイフを前後に動かし傷口を切り開いてからずるりと刃を引き抜くと、血が噴き出すかわりに黒い粒子が放出され、再生が始まった。佐藤は永井の生き返りが完了するまえに顔に巻かれた包帯を剥ぎ取った。包帯を床に捨てると、ちょうど永井が眼を開けたところだった。

永井はゆっくりと身体を起こした。
176 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/04/23(日) 21:14:13.24 ID:5HbT9nK2O
佐藤「永井君わかるかい? 助けに来たんだ」

永井「どれくらい……僕はここに……」


永井はなかばぼうっとした意識で佐藤に尋ねた。


佐藤「そうだな、十日以上はいたのかな?」


頭の中で佐藤の答えが反響しているのか、永井は茫漠とした表情をしていた。


永井「それしか経ってないのか……」


永井の眼に涙が滲んだ。永井は瞳から滴が零れそうになるのをぐっとこらえ、佐藤に顔を向けて、佐藤さん、と呼びからけてから大変申し訳無さそうに言葉を続けた。


永井「お手数おかけしてすみません」

佐藤 (この仕上がりは……失敗だな)


佐藤はつまらなそうな無表情で永井の言葉を聞いていた。佐藤の手にはまだブッシュナイフの柄が握られたままだった。
177 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/04/23(日) 21:15:43.80 ID:5HbT9nK2O
フード付きの青いレインコートを頭からすっぽり被ったその人物が報道陣から離れた西側の林の中を慎重に歩いていると、草の上に引かれた黄色い真っ直ぐな光線が爪先にかかり、反射的に脚を引っ込めるのと同時に研究所の反対側から爆発音がした。

レインコートの人物は十日前から可能な限り研究所を訪れていた。はじめはうっかりして研究所を眺めるために周辺を徘徊してしまい、応援に駆けつけた報道局の人間か警備員に見つかってしまうこともあった。その場からすぐ離れれば問題は起きなかったが、自身の不用意さにひどく恥ずかしくなった。

次の日からはもっと思いきった行動を選択した。研究所の中に黒い幽霊を忍び込ませたのだ。黒い幽霊は人間には見えないし、撮影機器にも映らない悪さをするにはうってつけの存在だった。とはいえ、そのうってつけのためにその人物は後ろめたさに悩んだ。父親との約束を破り自ら一線を踏み越えてしまったことへの罪悪感から、黒い幽霊の操作に躊躇いが生じ、研究所の一階部分を見て回るのにも数日かかった。一階の捜索では、美波の弟を見つけることはできなかった。
178 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/04/23(日) 21:16:46.95 ID:5HbT9nK2O
五日目になって、二階の探索にかかろうとしたとき、通路の奥に若い女性の後ろ姿を幽霊を通して見た。研究所の中で唯一の女性だったので、わずかにスーツを着たその女性の背中に意識が向いた。ミディアムの外ハネの黒髪が揺れたかと思うと、下村は首の後ろを指で触れられたかのようにばっと振り向き、それとまったく同じタイミングで幽霊の派遣者は幽霊の身体を壁に隠した。理由の分からない焦燥に急き立てられ、黒い幽霊をもっと見つかりにくいところに隠さなければならないという思いが全身に広がった。

黒い幽霊をとっさに跳躍させると、幽霊は通路の角の壁に静かに着地した。音を出さないように素早く動かしながら、階段まで戻る。階段に足を置かず手摺を掴んでぶら下がると、直線に一度折れ曲がった階段の隙間に身体を通しまた音もなく着地する。顔を上げると、ファイルが詰まったダンボールを抱えた研究所のスタッフと眼があった。スタッフは脚を上げ腿でダンボールを支えながら右側にある資料室のドアを開けると部屋の中に入っていった。
179 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/04/23(日) 21:21:21.34 ID:5HbT9nK2O
膝を曲げたままの姿勢で固まっている黒い幽霊の頭部が崩壊を示しはじめた。拡散する黒い粒子が空気の中へ消えていく。消滅までやり過ごそうとまだ閉まりきっていないドアを抜けまっすぐ突き当たりまで進み、三列に並ぶスチールラックの上に、ラックが揺れないよう慎重に幽霊を乗せた。ラックの上からスタッフが背に貼られた通し番号順にファイルを整理している様子が見えた。

閉まっていたはずのドアが風に揺れるカーテンのように静かに開いた。三角形の頭部を持った黒い幽霊が部屋の中に入ってきた。下村の幽霊は浮き上がったように身体を持ち上げ、資料室を見渡そうとした。派遣者はラックの上にいた幽霊の身体を回転させ、床に落とした。着地音を吸収するように両手両足が床に張り着いたまま、幽霊は動かなくなった。着地の瞬間には、頭部がもう完全に消滅していたからだ。

下村の幽霊はラックから下りると、今度は部屋のなかを歩き出した。首を動かし、ラックの間に頂角を向ける。幽霊とのリンクが途切れた派遣者はただ祈ることしかできなかった。下村の幽霊が頭部の無い幽霊がいる奥のラックの方へ進むと、ファイル整理を終えたスタッフと対面し、一歩後退ることになった。スタッフはそのまま真っ直ぐ幽霊の方に歩いてきた。下村はさらに後退し幽霊の背中をラックにつけてやり過ごすと、スタッフが出て行ってから資料室の捜索を再開した。何かの存在の痕跡は、跡形もなく消えていた。
180 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/04/23(日) 21:24:19.36 ID:5HbT9nK2O
それから五日間、黒い幽霊が研究所内を歩くことは無かった。

二度目の失敗は一度目のときより遥かにこたえたが、しばらくすると希望的な観測が派遣者の中に生まれていた。あの亜人の女の人が美波と話をした政府の人といっしょにいるのなら、美波の弟だって外に出られるのかもしれない。いまはまだきっといろいろな検査をしているときだから、すぐではないにしてもその可能性がある以上、それを確認して見届けなければ。でも、黒い幽霊も送り込めないのにどうやって?

レインコートが雨を弾く音を聞きながら、その人物は光線が放たれてる場所を見ていた。ライトは地面に直線に走ったまま動かない。その光は目印のように固定され、誰かを導くのを待っているかのようだった。光線と爆発音がレインコートの人物の頭の中で明滅と反響を続けていた。

レインコートの人物は右側から回り込むように光線の根元へ近づいていった。フェンスに身体を付けながら腰を落として草を踏みながら進んでいくと、ライトがフェンスが四角く切り取られている部分を照らしていることに気がついた。レインコートの人物は唾を飲み込み、フェンスの穴を一気に通過しようと決めた。
181 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/04/23(日) 21:28:00.70 ID:5HbT9nK2O
切断されたフェンスをくぐり抜けたとき、地面にうつ伏せている警備員の眼を見た。警備員の眼は虚ろで死体の眼をしていた。顎から眼の下のあたりまで深い傷が刻まれていて、それが致命傷なのだとすぐに理解できた。恐怖がレインコートの人物を刺し貫いた。冷たい恐ろしさが骨格の代わりになってしまったかのようにその場から動けなくなり、喉が閉まり呼吸するのも苦しくつらい。剥き出しになった死を目の当たりにするのは、これが初めてだった。

ふたたび研究所内からさっきの爆発音と同種の音が響いてきた。その音が鳴り続けているあいだ、誰があの建物の中で死んでいる。レインコートの人物は苦しみながらなんとか口を開け、必死になって息を吐き出した。渇きを癒すために水を喉に流し込むかのように空気を大量に吸い込むと、息を止め一気に駆け出す。燻りと灰と焦げ臭さが残る東入口に彼女がたどり着いたとき、銃声はすでに止み、冷たくなった静寂が研究所をすでに満たしはじめていた。
182 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/04/23(日) 21:30:09.14 ID:5HbT9nK2O
今日はここまで。やっと『シンデレラガールズ』側の亜人を登場させることができました。

それと、亜人実写版の慧理子役の人、浜辺美波さんという方なんですね。アニメ版の慧理子と美波の中の人が同じなのはそんなに珍しくもないんですが、今回の偶然の一致にはさすがに声が出ました。
183 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/05/16(火) 20:08:42.60 ID:AMJLL1TVO

緑色の照明に照らされた駐車場にショットガンで撃たれた四人の死体が転がっている。ダブルオーバックの鹿撃ち弾に撃たれ頭部か胸部が大きく欠けた死体は、警備員とオグラ・イクヤの護衛で、護衛のふたりはアメリカ人だった。


田中「銃ってなあ……結構疲れんだなあ……」


ひと息ついた田中は、とりあえず佐藤のアドバイス通りにできたことに安心した。


佐藤「きみはまるでミシシッピだねえ」


田中が銃の訓練をはじめたとき、銃弾が飛んでいった場所を見ながら佐藤がいった。銃弾は的から右に二メートルほど逸れ、細長い濃い緑色の葉を茂らせた夾竹桃の木の枝をひとつ吹き飛ばすと、背後にあるノウゼンカズラの茂みの中へ消えていった。弾倉が空になるとあざやかなピンクや白やオレンジ色の花びらたちが、木陰がかかった黒い地面を彩っていた。


田中「生まれは川沿いの病院っすけど」


田中は拳銃を握った両手を下げ、銃弾のそれ具合に気まずくなりながらいった。


佐藤「ますますミシシッピだね」


その名称が州や川のものではなく、映画の登場人物のあだ名であることはあとから知った。佐藤は田中に、まずはショットガンの練習からはじめようにアドバイスした。


佐藤「大丈夫。ジェームズ・カーンものちにウィーバースタンスを身につけるから」


どうやらそれは励ましの言葉であるみたいだった。肩にあたる銃床は硬く重かった。
184 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/05/16(火) 20:09:51.51 ID:AMJLL1TVO

田中は息を落ち着かせ、はじめてのときのようにショットガンのフォアグリップをスライドさせ、空薬莢を排出し、薬室に次弾を装填した。弾薬を使い過ぎた気がしつつも、田中はオグラ・イクヤを乗せた黒いワゴンの側面に近づいていった。


田中「出て来い」


田中はショットガンを構え、車のドアを開けた。車内は無人だった。


田中「あら?」


田中は振り返り、駐車場を見渡した。四角いコンクリートの柱が立ち並ぶほか、四つの死体が転がっている。緑色の光の中、生きているのは田中ひとりだけだった。


田中 (失敗……)


田中は首を押さえながら頭をさげた。おおきくため息をつくと、ショットガンを手持ち無沙汰にしながら、やることがなくなってしまった時間をどうするか頭を悩ませた。


ーー
ーー
ーー

185 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/05/16(火) 20:11:28.30 ID:AMJLL1TVO

コウマ陸佐「不死身とか……それ以前の話だ。この亜人は何者だ!」


佐藤が警備員を突破し、永井圭が保管されている部屋に悠々と入っていく様子をモニターで見ていたコウマ陸佐は、苦渋に表情を歪めながら叫ばずにはいられなかった。


研究者1「なぜ別種の力を使わなかった?」

研究者2「そう見えなかっただけじゃないのか?」


「見えなかったもなにも、アレははなから見ることができない」


その声は水を踏むぴちゃんという音とともに、ドアのほうから聞こえてきた。


「まったく、なんでこんなに騒がしい」


部屋の入り口近くに立っているその男は口にタバコを咥えていた。中年で短いボサボサの髪、ジャケットの下は安っぽいTシャツ、ジーンズは色落ちしていた。男の背後には、金髪を短く刈り上げたアングロ・サクソン系のボディガードがいてサングラスをかけている。


オグラ「このオグラ・イクヤ様が来日したってのに」

186 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/05/16(火) 20:13:48.93 ID:AMJLL1TVO

戸崎「すみません……緊急事態でして」


戸崎はタイミングの悪さに悪態をつきたい気分だった。


コウマ陸佐「待て博士、さっきはなから見れないとか言ってたた。どういうことだ?」

オグラ「んんっ? あぁ?」


オグラはタバコの煙を肺いっぱいに吸い、受動喫煙を推奨するかのように、部屋中に行き渡るようタバコの害を撒き散らすと逆に聞き返した。


オグラ「きみたちはIBMの話をしてたんじゃないのか?」

岸「アイ・ビー・エム?」

研究者2「別種の力のことを合衆国の研究者はそう呼ぶんだ」

オグラ「IBMは人の目に見えないくせに人の形をしているクールな奴なんだ」

研究者1「またバカなことを……」


研究者たちは久しぶりに聞かされるオグラの突拍子の無い物言いにあきれ返った。


コウマ陸佐「じゃあ別種の力とは……霊的な何かだというのか!?」

オグラ「陸佐……“バカ”かね? 君は」


両手の人差し指と中指を二回チョンチョンと動かし、ダブルクォーテーションを意味するジェスチャーをしながらオグラはいった。


オグラ「IBMは物質だよ」


ーー
ーー
ーー

187 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/05/16(火) 20:16:37.80 ID:AMJLL1TVO

赤く濡れた通路に二十体以上の死体が倒れていた。仰向けの死体に、うつ伏せて四肢を投げ出している死体、普段なら曲げないであろう限界まで関節が曲がり奇妙なオブジェのように壁に寄りかかっている死体、張りつめて伸びた脚のあいだに背中を丸め頭を垂れ、額を床にぴったりつけている死体など、さまざまな姿勢の死体が廊下の前後どちらにも続いていて、冷たくなった身体の下にあるぬめった血溜まりの周縁部は水に溶け、形状をあいまいにしていた。

血溜まりは天井の灯りを反射して白く輝いていたり、反対に光を吸い込んでいるように黒く見えるものもあり、赤、黒、白の色彩はそれぞれコントラストを作っていて、それ以外の光がちらちらと散っているところは小川のようだった。二人が歩くと踏まれた箇所に波紋が広がり、濡れた通路の床はほんとうにせせらいでいるように見えた。

佐藤は銃を水平に構えたまま移動し、開いたドアがみると部屋の中を確認した。無人であることを見てとると、銃口を斜め下に下げて通路を眺める永井の背中に向かって声をかけた。


佐藤「気になるかい?」

永井「え? 別に」


永井はさしたる動揺もあらわさず、振り返って佐藤に答えた。

188 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/05/16(火) 20:17:56.02 ID:AMJLL1TVO

189 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/05/16(火) 20:19:27.21 ID:AMJLL1TVO
>>188は投稿ミスです


永井「ココを守るのがこの人達の仕事でしょうし、もう死んじゃってますしね」


永井はあらためて通路を見やった。その視線はただの小川を眺めるときのように思考や感情のはたらきのない視線だった。


永井「そんなことより、こんなところ絶対脱出したいので、よろしくお願いします」


そう言う永井はあからさまに態度を変え、生体実験に恐れをなしているといった表情をしながら佐藤に頼んだ。


佐藤「じゃあ急ごう」


永井を先導するかたちで研究所内を、パシャパシャと水音を鳴らして進みながら、佐藤は神社で交わしたやり取りのことを考えていた。


佐藤 (初めて話したときに感じた違和感を思い出した。妹の心配をしているが、どこか嘘くさい感じ……亜人になったからとかじゃない。もっと根本的にこの子はおかしい。この仕上がりは失敗と言ったが、もう少し様子を……)


通路の左側から、がたんと物音がした。そこには備品室のドアがあり、物音はそこから聞こえてきた。佐藤は左手を拳を作った状態で上げ、後方の永井に向かって停止のサインを送った。
190 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/05/16(火) 20:22:01.58 ID:AMJLL1TVO

永井「待ち伏せ?」

佐藤「確認する必要があるね」


佐藤がドアを開ける。備品室の中には三人の研究員がいて、手術用ガウンを着たまま、怯えた様子で両手を挙げ、降伏のポーズを示していた。


研究員3「撃つな……われわれ三人は警備員じゃない……」


マスクをした研究員の声は震え、くもぐって聞こえた。永井は研究員たちの怯える様子に安心し、ほっと息を吐き、佐藤に話しかけた。


永井「先を急ぎ……」


佐藤は引き金を引いた。銃弾は佐藤から見て左側にいた研究員の頭部を貫通した。隣にいたマスクの研究員が発砲音がした瞬間、身体を震わせ、身を伏せるように瞼を閉じた。


永井「あ」

191 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/05/16(火) 20:23:32.70 ID:AMJLL1TVO

永井は首を動かさず、横たわる死体と声も上げられないほど恐怖している二人の研究員を横目でちらと一瞥してから、佐藤にたずねた。


永井「殺すんですか?」

佐藤「万全を期す」


マスクの研究員はもう目を開けていた。顔からは玉のような汗が流れ出していた。佐藤はホロサイト越しにこちらを見ていて、さっき同僚が撃ち抜かれたのと同じところが狙われていると感じた。眉間のあたりがやたらと熱い気がする。研究員の視線が、自分を眺めている永井のと交わった。同情も困惑もない、透明なものを見ているような眼をしていた。

研究員はそこですべてを諦めた。仕方の無いことなんだ、と彼は自分に言い聞かせた。おれが上の命令に従ったのも仕方の無いことなんだし、その結果、おれが殺されるのも仕方の無いことなんだ。研究員は自分が殺されることを受け入れるというよりは、自分が殺されることを永井が認めているということを受け入れる、とでもいうようにそっと瞼を閉じた。永井はその様子をじっと見つめていた。
192 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/05/16(火) 20:25:10.94 ID:AMJLL1TVO

引き金にかかる佐藤の指に力が入る。引き金が引き絞られてから銃弾が発射されるまでの時間は瞬間的で、僅かな秒数でしかない。その一秒にも満たないあいだに、永井は反射的に動いていた。銃身を掴み、ありったけの力で下のほうに抑え込む。銃弾は薬莢よりはやく落ち、床に弾痕を残した。


佐藤「永井君?」


佐藤は銃身を持ち上げようとしたが、永井がさらに力を入れて抑え続けているので、カービン銃はわずかに上下に揺れる程度の動きしかみせなかった。綱引きのような引っ張り合いをしながら、永井が恐る恐るといった調子で言った。


永井「いえ、あの、助けていただいてる身分で大変言いにくいんですが、無抵抗ですし、殺さなくてもいいんじゃあ……」

佐藤「麻酔銃を隠してるかも」

永井「あ! 目を潰すとか、腕を折るとかはどうです?」


永井は、まるで停滞している会議を進展させる良いアイデアを思いついたかのように、声の調子を弾ませながら言った。

193 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/05/16(火) 20:27:36.90 ID:AMJLL1TVO


佐藤 (永井君、やはり君は……)


佐藤の手がカービン銃から離れた。左手でストラップを外すと、脚を踏ん張り、重心を後ろにして銃身を押さえつけていた永井は、後方へと倒れていった。ストラップを外した佐藤の右手は瞬時にレッグホルスターに伸び、そこに収められていた拳銃を引き抜いていた。


佐藤 (失敗だったよ)


拳銃を握った右手が上げられ、ふたたびマスクの研究員に銃口が向けられる。佐藤に照準を合わせるつもりはなく、拳銃が研究員の頭部のあたりまで持ち上がれば、適当に引き金を引いて銃弾を数発浴びせようとしていた。

永井の眼は、佐藤の右腕が上げられていく運動の軌跡を分割して捉えていて、一つ一つの固定された画像は、映画のように画面が次々に移り変わることによって現実の運動を再現しているというふうに映った。

腕の上昇と身体の落下が、それぞれの結果に行き着く前に、部屋の中に銃声が轟き渡った。
194 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/05/16(火) 20:29:41.17 ID:AMJLL1TVO

銃撃の音は研究員の鼓膜だけでなく、その皮膚にまで雪崩のように押し寄せてきて、激しい震えを与えた。肌を打ち続ける轟音に、マスクの研究員は、自分が撃たれてしまったのかと思った。瞼の裏が熱く、血潮が脈打っているのがうるさかった。

鼓動と脈拍の喚きがいつまでも止まないことに気づいた研究員は、恐る恐る、眼を開けてみた。細い白煙の一筋が眼にはいった。煙は、M4カービンの銃口から昇っていた。永井は尻もちをついた状態で、ドアに背をつけている佐藤に銃を向けており、永井の周囲にはたくさんの空薬莢がまだ熱を持ったまま転がっていた。

備品室の入口周辺のドアと壁が銃弾に穿たれていて、その中心に背をつけて立っている佐藤の身体にも、ドアや壁と同様に多くの弾痕が刻まれていた。佐藤はちいさく咳き込むように血を吐いて、ぼそぼそ言った。


佐藤「私を……撃ったな……」


佐藤の声は血で濁っていた。血に浸されたコンバットベストに空いた穴はくっきりと黒かった。ベストの上から腹部の銃創を手で押さえる様子は、手のひらに血を染み込ませて、皮膚の色を赤色に染めあげようとしているように見えた。
195 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/05/16(火) 20:31:53.00 ID:AMJLL1TVO

永井「ごめんなさい、とっさに」

佐藤「永井」


自分自身の行動に戸惑いを隠せない様子の永井が、手のひらをみせて謝罪ともごまかしともつかない言葉を口にしたとき、死にかけている人間が発するものとは思えないほど、輪郭のはっきりした殺意が佐藤の口から放たれた。


佐藤「君も、ブチ殺してやる」


佐藤は笑顔だった。血塗れの口が開き、僅かに残った歯の白い部分が灯りを照り返し、凶暴そうに光っている。狼が獲物の咽喉部を喰いちぎるときはきっと、このように牙を見せるのだろうと思わせる佐藤の笑顔は、永井にまっすぐ向けられていた。


永井 (ああ……いまさら気づいた)


背中がズルズルとドアを滑り落ち、脚が力なく床に伸びる様子を見ながら、永井はようやく佐藤の一端を理解した。


永井 (この人、『静かに暮らすのがモットー』なんて、ウソだ)


佐藤の頭ががくんと落ちた。帽子の上部がかすかに揺れるのが見えたが、すぐに動かなくなり、息が止まったかのように部屋のなかは、しんと静かになった。


永井 (ていうかそんなことより……脱出が、困難に……)


佐藤が事切れる瞬間を目撃した永井は、みずからの行動が現在進行で状況を悪くしていることにいやな汗をかかずにいられなかった。

196 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/05/16(火) 20:33:47.75 ID:AMJLL1TVO

研究員2「なあ、麻酔銃ないか!? いまのうち! 二発!」

研究員3「え?」


マスクの研究員が同僚の言葉に十分に反応できないでいると、佐藤の身体から黒い粒子が噴き上がり始めた。黒い粒子は、赤く歪な銃創を覆い隠したかと思うと、損傷箇所を修復し傷口を閉じていった。修復が完了すると、佐藤は瞼を開けた。


佐藤「どこに隠れた?」


佐藤は立ち上がり、備品室に並べられているメタルラックの列を見渡した。一列につき六台のラックが並べられていて、永井たち三人は、三列あるうちの中央、いちばん奥に配置されている六台目と五台目のラックのあいだに身を隠していた。


永井 (武器もない。ルートもわからない。どうやって脱出するか……)


永井が荒い音が出ないようにゆっくり呼吸を整えながら考え込んでいると、隣にいる前髪を鶏冠のようにあげた研究員が愚痴をこぼすのがきこえた。


研究員2「まさか亜人と隠れることになるとはなあ」

研究員3「よせ、かばってくれたんだぞ」

研究員2「ふざけんな。そもそもコイツがアイツを呼び寄せたんだ」

永井「えーっ。脱出をふいにしたのに」

197 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/05/16(火) 20:35:36.36 ID:AMJLL1TVO

研究員2「おまえのせいで何人死んだと思ってんだ!」


声を押し殺しつつ、研究員は永井に責任を押し付けようとした。永井は通路にあった死体の数をざっと思い出しながら、「僕が殺したわけじゃないしなあ」とどうでもよさそうにつぶやいた。永井は小さな黒い眼で隣の研究員を見据えた。瞳の黒さには、どこか冷酷な感じを与えるものがあった。


永井「だいいち、アンタらが僕にしたことを忘れたわけじゃないからな」

研究員2「ぜってえ解剖台に戻してやる」

永井「いやだ。死んでも戻りたくない」


永井は立てた膝のうえに顎を置いて前を見ながら言った。永井は視線の先にある空間を見ているというより、さっき研究員が放った“解剖台”という語が連想させる仮定ーーふたたび仰向けの固定姿勢で痛みが与えられるという仮定ーーが、映像として空間に投影されているというような眼で、恐怖をじんわりと汗をかくように感じながらいった。


永井「そういうアンタらも死なずに外へ避難したいはず。目的は一緒。ギブアンドテイクだ。僕が囮になってアンタらココから出す、アンタらは安全に外まで行けるルートを僕に示す」

研究員3「いいのか? 囮なんて……」

永井「死なないですし」

研究員3「それはちが……」

研究員2「よせよ! やる気になってんだから!」


マスクの研究員が言いかけた内容をその同僚が遮ったことを永井が怪訝に思っていると、復活した佐藤が聞き取りやすい響きを持った声で永井に呼びかけてきた。


佐藤「永井君、聞いてるかな?」

198 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/05/16(火) 20:37:16.81 ID:AMJLL1TVO

佐藤は入口のドアの近くに立ったままで、首をめぐらし、どこかのラックの裏に隠れているであろう永井に向かって話しかけた。


佐藤「死なない安心感が、あらゆる判断を安易にさせているんだろう。私が殺すといったのは比喩ではない」

佐藤「亜人は死ぬんだ」


さっきマスクの研究員の言葉を遮った男がいまいましげに舌打ちをした。永井は佐藤がいった安易という語に対して言い訳でもするみたいに、漠然としたなにか、自分だけでなく、自分の周りに漂う、空気のように境界線を同定できないあいまいな対象が終わりを迎える瞬間について思いを馳せた。“宇宙の終わり”という言葉が、具体性を欠いた明滅的なイメージしか喚起しないのと同じように、“終わり”についての永井の実感もほとんど湧いてくることはなかった。

佐藤は部屋の奥にむかって足を踏み出し、話を先に続けた。


佐藤「死をどう定義するかにもよるが……亜人は『遠くに行き過ぎた身体に部位は回収されず新しく作られる。もしそれが頭だったら?』」


佐藤は歩きながら腰に差したブッシュナイフの柄を掴んだ。ナイフが引き抜かれていくとき、刃がナイロン製のシースと擦れた。擦過音は一秒にも満たず音自体も微かだったが、それは残響となり、部屋の奥に進む足音と亜人の死について説明する声に重なると、擦過音は通低音と化し、声の底にこびりついた。

199 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/05/16(火) 20:38:51.88 ID:AMJLL1TVO

佐藤「私はいまから、必ずきみを断頭する」

佐藤「そしてその頭を拾い上げ、すこし離れたところで、新しい頭が作られてしまうさまを、絶命するまで観察させる」

佐藤「さて、新しくできたきみの頭は、脳は、心は、今のきみなのか?……否だ。きみはこっち。ココでおしまい」


佐藤の声がだんだんと永井のほうに近づいてゆき、それとともに音節の明瞭さも増していった。永井の脳は声を聞きながら、佐藤の説明する死についてのイメージを自動装置のように描き出していった。切断され宙に浮く自分の頭部、髪を掴まれ頭皮が引っ張られる感覚、しばらく続く眼球の運動、首の無い死体、切断面から立ち昇る黒い粒子、死と再生、そして“終わり”。永遠に。“こっち”にいる永井は、宇宙に先んじて“終わり”を迎え、宇宙が終わるまで“終わり”続ける。切断、持続、接続、永遠、無縁、という語句が永井の頭に浮かんだ。

佐藤はさっき死ぬまえに見せた凶暴な笑みをふたたび顔に浮かべ、はっきりと明確な意志を感じさせる一歩をさらに踏み出し、締めの言葉で断頭宣言を終えた。


佐藤「私を殺したことを、死ぬほど後悔させてやる」

200 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/05/16(火) 20:44:39.00 ID:AMJLL1TVO

永井は急に息苦しくなった。実在感を獲得した恐怖の感情は窒息器のように作用し、永井の呼吸を阻害した。自分自身のいやおうのない消滅を避けられず、情け容赦の無い事象が存在の根を切断していこうとするのに、抵抗の努力はすべて敗北する。無力感が巨大で物質的なものに思え、精神でなく肉体までも破壊していくように感じる。佐藤の足音がさらに近づく音を聞くと、毛穴が開き、身体から水分といっしょに空気まで抜け出ていくような脱力に襲われた。


研究員3「永井圭、君」


マスクの研究員が永井にゆっくり呼びかけた。永井は研究員のほうを向いた。


研究員3「やめてかまわないよ」


研究員の同僚が驚いているのを尻目に、永井は首をもとの位置に戻した。それから歯を噛み締め、顎をあげながら静かに口を開いた。


永井「やめない」

永井「アンタを、外に出す。そうするべきだ……たぶん」

201 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/05/16(火) 20:46:17.22 ID:AMJLL1TVO

佐藤が三列目のラックのあいだを探し終えたとき、中央五列目と六列目のあいだから三本の指がのぞいているのを見つけた。佐藤はラックの側面に左手を添え、床に座っているであろう永井の首めがけてナイフの刃を振り下ろそうと、右腕をあげた。

ラックの陰に残っていたのは、切断された三本の指だけだった。


佐藤「え?」


ラックの上にいた永井が佐藤めがけて静かに落ちてきた。左手に金属こてを握りしめ、親指と人差し指が残された右の手のひらを握りにあてている。


永井 (狙いは首のうしろ。脊椎。うまくいけば殺さず、全神経を断てる)


ふたりの身体が重なり合った。ぶつかったときの衝撃が互いの身体ににぶく響きわたり、刃物はふたりを繋ぎとめるみたいに、一方の身体を貫いた。


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