このスレッドは950レスを超えています。そろそろ次スレを建てないと書き込みができなくなりますよ。

新田美波「わたしの弟が、亜人……?」

Check このエントリーをはてなブックマークに追加 Tweet

2 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/01/03(火) 00:03:12.31 ID:5kzXp0UHO
1.あの外国の人はいないんだ



「おまえはのべつ死を口にしていて、しかし死なない」−−フランツ・カフカ [創作ノート]



その生物は死なない……

その生物は亜人と呼ばれている

その生物はーー


−−七月二十二日・埼玉県・永井家

永井圭が玄関の扉を開けると、玄関に母親のものではない女性ものの靴が一足、ていねいに並べられ、つま先を圭の方に向けていた。

圭はその靴を見た。見て、靴があること以上のことは思わず、自分もスニーカーを脱いで、靴箱にいれた。

真夏の日差しは、夕方近くになっても弱まらず、白い光線から放射された熱が、学校から帰ってくるあいだに圭の身体からすっかり水分をぬきとってしまっていた。太陽が西に傾き、輝く線の角度が水平に近づいていっても、紅色とオレンジ色が入り混じった、夕暮時にふさわしい色彩に空は染まらず、住宅街の無機質な並びに熱を浴びせつづけていた。蜃気楼が生まれそうなくらい暑い。なのに、住宅街の輪郭はあいかわらず固まったままだった。圭は喉を渇きを我慢しつつ、リビングを抜け、キッチンにむかった。

リビングのソファには、やはり姉が腰掛けていた。姉といっても、血のつながりは半分だけだったが、今更そんなことを気にするでもなく、圭は姉の後ろを通り過ぎた。姉はキッチンへ向かう弟を追って首を回し、その背中に向けて声をかけた。


美波「おかえり、圭」

永井「姉さん、今日は早かったんだ」


圭は手に持ったガラスのコップに水が満たされるのを見つめながら、美波にこたえた。浄水器から出てくる水をコップの四分の三程まで注ぎ、口をつける。美波は圭がコップの水を飲み干すまで待ってから返事をした。


美波「今日はオフだから。夕飯もこっちで食べてくつもり」

永井「母さんは買い物?」

美波「うん。もうすぐ帰ってくるんじゃないかな」

永井「そう」


圭は飲み終えたコップを流しに置くと、ふたたび姉の後ろを通り過ぎ、二階にある自分の部屋に向かおうとした。圭がリビングのドアを開け、廊下を通り、階段の一段目に足をかけようとしたとき、おなじようにドアを抜けた美波が、追いかけるようにして圭に声をかけた。

3 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/01/03(火) 00:04:25.47 ID:5kzXp0UHO

美波「あ、待って、圭」

永井「なに?」

美波「これ……今度発売されるCDのサンプルなんだけど」


美波は一枚のCDを差し出した。白い隊服に身を包んだ美波を先頭にして、同様の隊服を着たほかのアイドルたちと並んで、それぞれどこか別の方向を指差している。彼女たちの背後には光が差し込む巨大な扉があって、そこからは光とともに吹き込んでくる風があり、その風が美波たちの髪や服を翻している。そのような光景がCDのジャケットに印刷されていた。


美波「慧理ちゃんにはもう渡したの。圭にも聴いてほしくって」

永井「あの外国の人はいないんだ」

美波「これはラブライカとは別のユニットだから」

永井「ふうん」


圭の興味はCDを裏返したあたりで尽きた。


永井「あとで聴いておくよ」


それだけ言うと、圭は二階へ上っていって消えてしまった。弟との会話は、これが平均的な長さだった。ここ一年でかわされた会話では、これより長い会話も、短い会話も、美波の記憶にはほとんどなかった。弟の背中を見送りながら、美波は取り残されたような気持ちになった。

4 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/01/03(火) 00:05:53.27 ID:5kzXp0UHO

約二〇年前、美波が生まれてまもない頃、彼女を産んだ母親は病院内でなんらかの感染症に罹り死亡した。なぜそんなことになったのか、いま現在になっても美波は詳しい事情を知らない。母親が自分を抱きしめたのかどうかすら、美波が知ることはなかった。

分かっているのは、それが父の勤めていた病院での出来ごとだということだけだった。父は失意のどん底に落ちた。そこから這い上がることもできず、生後間もない美波をつれ、生まれ故郷である広島から離れた。友人の紹介で次の勤め先である病院はすぐに見つかった。その病院は東京にあり、職員用の託児所もあった。だが、託児所といっても、そこは多忙を極める外科医にとって、いつまでも幼い娘を預けられる場所ではなかった。どうしても深夜まで働かなければならないときは、子育ての経験がある友人の家庭に美波を預けることもあった。それは、父と娘双方に大きなストレスをもたらした。

しかし、その問題はやがて解決することになる。美波が生まれてから二年が過ぎようとしていた頃、暦上では秋に入ったが、気温や湿度も、公園や街路に植えられた樹の葉っぱも、その緑色をした葉に当たる太陽の光も、その葉が歩道に落とす影の濃さも、まだ夏の風情を残しているときのことだ。秋雨前線の到来もまだ先で、快晴の日々が続いていた。 父親と同じ病院のER勤務の女性医師が、すべての事情を知り、またそれをすべて受け入れて、美波の父親と結婚することを決意した。そして、またたくまに休職を決めてしまうと、家庭で美波を育て上げることまで決断してしまった。同僚たちは、この彼女の突然の思い切った決断に、当然驚きを隠せなかった。合理性に固まった性格で、内部の感傷性をまったく吐露しない彼女が、いったいどのような理由でこの新しい同僚とその幼い娘に同情し、人生を共有することを決めたのか? 結局のところ、それは本人と美波の父親しか知らない事実となった。

5 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/01/03(火) 00:07:29.98 ID:5kzXp0UHO

かれら夫婦が離婚したのは、美波に弟ができて九年が経ったときのことだった。臓器売買。ある患者の生命を救うために、違法な手段で切り取られた臓器を購入すること。

裁判では父親に執行猶予付きの有罪判決がくだされた。腎臓の購入をブローカーに持ちかけられ、それを承諾したものの、実際の売買が未遂であったこと、医師としてドナーの発見に奔走し、すべての取りうる手段や可能性に当たっていたこと、患者の状態を鑑みるに移植を早期に行わなければ重篤な状態におちいり、生命の危機に瀕するだろうことが病院から提供されたデータから明らかであったことなどから、医師としての職務を遂行しようとする思いが強過ぎたあまりの犯行であることは明白だと弁護士は強弁した。

執行猶予の判断材料には、過去、美波の母親が彼の勤める病院で亡くなったという事実も考慮に加えられていた。その出来事によって、彼がこうむった打撃が、法の枠組みを越えてさえ患者の生命を救うという思いを生んだのだと、弁護士は裁判長に向かって訴えたそうだ。

過去の精神的打撃のことを裁判長から尋ねられたときーーと、美波は想像したことがあるーー父はきっと何の罪で裁かれているのかよくわからなくなっていのたでないだろうか? もしかしたら、妻を亡くしてしまったことが罪に問われているのだろうか、と不安に苛まれた瞬間もあったはずだ。いまにして思えば、父が医師の仕事に打ち込んでいたのは、わかりやすいくらいの代償行動だった。妻を喪った悲しみが、いつしか罪悪感に変質し、その感情をモチベーションにして救えなかった人の代わりに患者を救おうとする。そのような深層にひそむ動機を暴かれてしまったことは、父にとって罰を受けることよりつらいことだったのかもしれない。

6 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/01/03(火) 00:08:59.46 ID:5kzXp0UHO

結局、父親は職も家庭も失い、広島に戻ることになった。そして、誰にとっても予想外なことだったのだが、美波も父親といっしょに生まれ故郷に戻った。母親はもちろん、美波を引き取るつもりだったし、父親の方もそのことに異論はなかっただろう。

そのような事態の推移に対して、強くはっきりと反抗したのが美波だった。そのとき美波はまだ十一歳だったが、今振り返ってみても、あれほど強硬な態度をとったことはなかったし、おそらくこれからもないだろう。あれは、人生で一度きりの決定的な意思表示の瞬間だった。美波の父親は本来なら、妻が死んだ時点で残りの人生を健全に過ごすことはできないくらい心に打撃を受けていた。そうならなかったのは、ひとえに産まれたばかりの娘の存在があったからだ。だから、今回もわたしがいっしょにいてやらねばならないのだ。


美波「わたしはパパといっしょに暮らす」


そう宣言した美波を、義理の母親である律はただ黙って目を細めてじっと見つめていた。しばらく沈黙が続き、律がやっと口を開いたとき、美波が耳にしたのは、彼女の考えがいかに幼稚で情動的なものかを合理立てて批判する義母の説明だった。それは説得ではなく、否定だった。もちろん、反対はされるとは思っていた。自分はただの子供でしかないし、親の庇護下になければ生活などしていけない。そして執行猶予が付いたとはいえ、罪を犯した父親よりも義母の方が子供の育てるのにふさわしいのは明らかだった。当時の美波からしてもその事実は否定しようがない。

7 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/01/03(火) 00:10:14.25 ID:5kzXp0UHO



美波「ほんとうのお母さんじゃないくせに」


美波の口から突然そんな言葉が飛び出した。人を傷つける言葉を口にしたのはそれがはじめてだった。義母がどんな顔をしているのか眼に映るまえに、美波は椅子を倒し、父親が制止するのも無視して二階にある自分の部屋へ逃げ込んでいた。心臓が逸っていたのは、階段を駆け上がったせいばかりではなかった。

あんなことを言うつもりはなかった。美波は誰に言うでもなく、心のなかで自分に向かって言い訳をした。

義母の律は、世間一般的にみれば優しい母親ではなかったが、愛情がないわけでなかった。合理的で厳しくはあったが、それは、母親として、という形容が前につく類いのものだった。だから、ちゃんと説明さえすれば娘である自分の気持ちもわかってくれるはず、と美波は思ったのだ。夫婦のことはわからないけれど、家族のことは十一歳の子供なりにわかっているつもりだった。だが、うまくいかなかった。子供の論理と大人の論理は、それぞれ別の機能で働いていて、そしてよくあることだが、違いがあることを忘れたまま互いに論理をすり合わせようとする。そういうとき、たいていの場合は互いに相手を思いやっていたりする。だがその結果生まれるのは、相互不信だけだ。

美波は床に座って、ベッドの端に頭を沈み込ませていた。左腕をベッドに置き、その上に右腕を交差させる。瞼を閉じた両目を上になったほうの腕で押さえ込む。左右の手はそれぞれ反対側の肘をつかんでいて、かなり力を込めていたのでつかんだところが白っぽくなっていた。

8 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/01/03(火) 00:11:09.53 ID:5kzXp0UHO

これでなにもかも終わった、と美波は思った。人生は続いていくけれど、それはこれまでの十一年間と連続したものではない。凧は糸が途切れ、地面に落ちてしまった。糸の短くなった凧をもう一度空にあげるには、よほど良い風が吹くのを待つか、自分から糸を結びなおさなければならない。前者を選べば、待っているあいだの時間を周囲の人びとをよそに、ひとりで膝を抱えて耐えなければならない。後者の場合は、凧をふたたび風に乗せても、糸が途切れたという事実はずっと残る。

ベッドの上には窓があった。その窓は閉められていたが、そこから通りを行く子供たちの声が聞こえてきた。近くの公園で遊んでいた子供たちが、それぞれの家に帰っていく時間だった。太陽は西に傾きはじめ、だんだんと水平に近づいていく陽光の線が、これから空の下の方を赤色に染め上げていく。空の上の方はといえば、対照的に濃い藍色から闇に染まっていくだろう。

圭と慧理子も、家の近くの公園にいるはずだった。ふたりはそこで話し合いが終わるのを待っている。両親と姉のあいだに漂う不穏な空気を察して、圭は落ち着かない様子で不安がる慧理子を外に連れ出したのだった。もしかしたら、圭の友達である海斗もそこにいるのかもしれなかった。

9 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/01/03(火) 00:12:24.20 ID:5kzXp0UHO


律「美波」


ドアの向こうから、義母の声が聞こえてきた。


律「ドアを開ける必要はないわ。そのまま聞いてちょうだい」


美波は顔だけ上げ、義母の言うとおりにした。


律「あなたはお父さんに似てるわね。極めて情動的」


その言葉の意図が美波にはよくわからなかった。普段なら言われてうれしいはずの言葉だが、いまのこの家の雰囲気のなかでは皮肉の調子がまとわりついていてもしかたのない言葉だった。


律「瞳の色や髪質といった形質的な面でもそうね。あなたのお母さんの写真を見たことがあるけれど、ほんとあなたにそっくり。それはつまり、わたしは生物学的な意味で、あなたの母親ではないということの証明なのだけれど」


先ほどの発言を根拠づけるかのような言葉に、美波は被告人のような気分になった。事実に基づいた証拠を提示され、行為の責任を取らされようとしている。美波の否定を律はいままさに肯定しようとしていた。美波にはそう思えた。


律「でもそれは、生物学的に、という限定的ないち条件にすぎないわ。あなたのお父さんとの結婚を決めたとき、わたしは同時にあなたの母親になることも決めたのだけど、それは決して結婚による副次的な決定ではなかった。言ってる意味がわかる?」


事件に対して誤った見方をする警部にその間違いを逐一指摘する探偵のように、律は美波に自分が持つ前提を理解させようとした。


律「わたしは倫理的にあなたの母親であろうとし、そして今では本能的にもそうだと断言できる。あなたがどう思っていようがね」

10 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/01/03(火) 00:13:56.74 ID:5kzXp0UHO

律と美波は、しばらく互いに沈黙していた。ふたたびドア越しの声が聞こえたとき、あたりは薄暗くなっていた。夕暮れと夜とのあいだの時間。宵よりはちょっと明るい。光の状態は、標高の高い山の空気がそうであるように薄くなっていた。山の高いところのように家のなかが静まりかえっていた。律の声はさっきより低い位置から聞こえてきた。律は廊下に座って、美波と同じ目線から話を続けようとしていることがわかった。


律「美波、お父さんが刑務所に入らなかったからといって、それは罪を犯さなかったからというわけじゃない。違法な手段で臓器を購入しようとしたことは事実なの。だから、医師の仕事をやめざるをえなかった」


義母の説明は、あいかわらす温度を感じさせない冷静な口調だった。だが、美波には律の声が身近になったような気がした。


律「起こしてしまったことはなかったことにならないわ。これからのお父さんの生活には今回のことが必ずついて回る。順調に、問題なく過ごせているようにみえても、それは必ずどこかで顔を出して物事を破綻させる。そのお父さんといっしょに暮らすということは、あなたの生活にもそれがあてはまるということよ。思わぬ場面であなたの人生に打撃を与えるようなことが起こる確率があがるということなの」

律「あなたはそんな人生を選び取ろうとしている。親なら絶対に選ばせたくない選択肢を、お父さんがかわいそうだからという理由だけで」

律「かわいそうと思ってるだけでは人は救えない。誰かを大切するということは、その人のために行動し実現することではじめて成立するのよ。美波、厳しことを言うようだけれど、子供が実現できることなんてたかが知れてるわ」

11 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/01/03(火) 00:15:14.46 ID:5kzXp0UHO

美波はドアを開けた。義母は両膝を立てて座り、そこに肘を置いていた。背中を壁につけた姿勢のまま、美波と視線を合わせた。


美波「おかあさん」


美波は義母から目線を逸らさなかった。


美波「ごめんなさい」

律「何について?」

美波「さっき、ひどいことを言ったことについて」

律「他には?」


律の眼の光は鋭いままだった。美波は怯まなかった。


美波「わたしは、やっぱりパパといっしょにいようと思う」

律「そう」


律は尻を上げ、美波のまえに立った。


律「とりあえず晩ごはんにしましょう」

美波「うん。手伝う」

12 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/01/03(火) 00:16:49.27 ID:5kzXp0UHO

美波が律と共に食事の準備をしていると、父親が圭と慧理子を連れて帰ってきた。美波は作業の合間に、キッチンから三人の様子を伺ってみた。ぎこちなさを見せるものの、隣りあってソファに腰掛け夕食の匂いを堪能している父と妹。弟はそんな二人から離れたところにいて、背中を向け窓の外に目を向けている。

美波は、弟はいったいなにを見ているのだろうと不思議に思い、同じ場所に視線を向けた。窓の外には何も無かった。圭は食卓につくまで背中を向け暗闇だけが広がっている外の世界をじっと見つめていた。手元が照らされたキッチンから弟のいる場所を見ると、そこだけ光と闇の境界がなくなっているように思えた。弟はまるで洪水みたいにに押し寄せてくる暗闇をその身で受け止めながら、黒く染まる空間を肺が裂けるまで飲み込もうとしているかのようだった。

少しして夕食の準備が整った。父や慧理子、それに圭も灯りに包まれた食卓についた。五人で食卓を囲んだ。かちゃかちゃと食器の鳴る音がするだけで、会話はほとんどない。それが家族全員での最後の食事になった。

13 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/01/03(火) 00:18:18.36 ID:5kzXp0UHO

結局、美波は父といっしょに広島に帰ることとなった。父親は民間の海洋研究所の臨時職員として再就職が叶い、それはまたしても同研究所に勤める彼の友人のおかげであったのだが、同時に彼の過去の行いのおかげでもあった。以前、日本外科学会の学会誌に掲載されたヒトデの体細胞を用いた移植組織の拒絶反応にも関わる体細胞免疫の研究発表をその友人と共同で執筆したのだ。そのことをきっかけに生まれた交流のおかげで、美波の父親は故郷の海の近くで海水や砂浜に生息する生物の研究に時間を費やすことになった。娘ふたりとの生活は、贅沢をしなければなんとかやっていける。

普通の生活水準こそ取り戻せたものの、そうなるまでには当然多少の時間がかかったし、その時間は美波に「優秀であること」の重要性を認識させることになった。高い技能を持ち、人との繋がりを強く多く持てば、なにかあったときにも助けてくれる人たちがいる。それが「優秀であること」の教訓だった。それは父親を見ることで感じたことであったし、義母からの言葉から受け継いだことでもあった。

学校の成績は常に上位をキープした。スポーツも心地よく種類をこなし、委員会や生徒会などにも参加した。柔和な表情と、人付き合いの良い性格もさいわいして、友人は多かった。大学進学後は多くの資格試験に挑戦し、そのほとんどに合格した。昔の友人との交流はいまでも途絶えず、新しくできた仲間との絆を強く感じる日々を美波は送っている。上京してからは、家族と会う機会も当然多くなった。義母や妹との会話も増え、特に妹は姉としてだけでなく、アイドルとしての美波も誇らしく思っている。

弟は違った。

14 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/01/03(火) 00:19:31.34 ID:5kzXp0UHO

現在の美波が、あのとき、キッチンから覗いた九歳の弟の背中を脳裏に浮かべると、その像は頭のなかでふたつの詩のあいだに置かれている。そのふたつの詩は、どちらもウィリアム・ブレイクのもので、同じ美城プロダクションに所属しているアイドル鷺沢文香から借りた『対訳 ブレイク詩集』によって知ったのだった。美波が文香からこの詩集を借り受けたのは、冬のライブが終わった後のことで、文香と同プロジェクトに参加しているアイドル速水奏が最近観た興味深い映画のことを話題にしたことがきっかけだった。その映画とは、ジム・ジャームッシュが監督したモノクロ西部劇『デッドマン』のことで、主人公の会計士ウィリアム・ブレイクをジョニー・デップが演じている。デップが扮する主人公の会計士の名前が詩人ブレイクと同じ名前であることからわかるように、この映画はブレイクと彼の詩が主題になっている。

こんなシーンがある。会計士ブレイクは、賞金が懸けられた自分の首を追ってきた保安官に向かって引き金を引く。「ぼくの詩を知ってる?」という台詞を吐き、銃弾が保安官の胸の真ん中に黒い穴をあける。白黒の映像だから、流れる血も黒い。

同様のことが美波にも起きる。『対訳 ブレイク詩集』のなかのふたつの詩が、まるで銃弾のように作用し、美波の内に黒いちいさな穴をあける、ということが。

15 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/01/03(火) 00:20:48.52 ID:5kzXp0UHO

美波の虚を衝いた二篇の詩はーーというより、詩に撃たれたことによって虚が生まれたともいうべきかーー映画のなかには引用されていない。

詩集『無垢と経験の歌』のなか、『無垢の歌』と『経験の歌』にそれぞれ収めれているその詩の題は、「失われた少年」と「一人の失われた少年」といい、前者には定冠詞が、後者には不定冠詞がついている。

『無垢と経験の歌』は、一七九四年に出版された。一七八九年に『無垢の歌』が出版されていて、その五年後に出版されたこの詩集は、『経験の歌』との合本の形をとっている。この詩集は、「人間の魂の相反するふたつの状態を示す」という副題を持ち、生まれながらの汚れのない魂の状態としての「無垢」と、その「無垢」を阻害する場としての「経験」ーー制度としての法律・戒律・慣習などが「経験」の場に存在するーーが、副題の通り、対立する概念として置かれている。

『無垢の歌』の「少年」は、夜の露が身体を濡らす冷たい暗闇のなか、父親を求めてこう訴える。


《父さん、父さん、どこに行くの。
ああ、そんなに早く歩かないで。/父さん、話して、この小さなぼくに何か話して、/そうしないと迷子になっちゃうよ》


『無垢の歌』の八番目に収録されている「失われた少年」は、次の「見つかった少年」と連作になっていて、そこでは、狐火に誑かされ沼地を泣きながら彷徨っていた少年の前に、父親の形象をした神が現れ、母親の元に連れていく。『無垢の歌』の内にある少年は、はなればなれになった家族とふたたび出会い、そしてその時点で神に対する信仰も獲得している(と、美波は解釈しているが、宗教理念や当時のイギリスの状況、さらにいえばネオ・プラトニズムなど、あきらかに背景知識が足りないうえでの解釈なので、あまり自信がない)。

16 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/01/03(火) 00:21:57.06 ID:5kzXp0UHO

一方、『経験の歌』で詠まれる、不定冠詞のついた少年は、このような「無垢」の状態にある少年とは対照的に、自立した性格を見せ、父親に挑発的な態度と言葉をぶつける。


《自分を愛するように他を愛する者はいませんし、そのように他を敬う者もいません。/また思想が自分よりも偉大な思想を知ることはできません。/父さん、どうしてぼくは自分以上にあなたを/また兄弟のだれかを愛することができるでしょうか。/ぼくはあなたを愛しています、戸口でパン屑を拾っている小鳥を愛するくらいには》


このふたつの詩にそれぞれ登場する少年が同一人物なのかどうか、『対訳 ブレイク詩集』を読んだ限りではわからない。しかし美波には、『無垢の歌』の父親の消失を嘆くしかなかった少年が、『経験の歌』の父親や家族といった制度に挑発的な態度を示す少年に時間をかけて変わっていったとしか思えなかった。

17 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/01/03(火) 00:23:17.41 ID:5kzXp0UHO

圭は九歳のとき、医者になると宣言した。当時六歳だった美波と圭の妹慧理子は、命に別状はないものの、治療法の無いめずらしい病気に罹っていて、検査、入院、退院を繰り返していた。慧理子はいまでもそのサイクルのなかで生活している。病院の白いシーツがかかったベッドの上で、入院生活用の使い古しが現れてるTシャツを着た妹が、うれしそうに自分の歌を聴いている姿を見ると、美波はよろこびのあとにかなしさを味わう。ステージから見る光景を知っているだけに、この病室のなかで反響するだけで、妹を外に連れ出す力のない自分の歌にかなしさを覚え、それをどうしよもない自分の無力さをかなしむ。

だから、美波は弟に期待していた。

圭の宣言を義母からの手紙で知らされたとき、弟の優秀さを当然ながら知っていた美波は、圭が父親とおなじ道に歩むのは自然なことだし、父親の事件に打撃を受けたろうに(いや、受けたからこそ)、父親が中断せざるをえなかった役目をーー当然ながら、父親も慧理子の病気の治療法を探していたーー受け継ぐ意志を圭が示したことに、誇らしさと安心した気持ちをもった。

病気それ自体が患者に引き起こす身体の苦痛、病気を取り除けないことに対する患者の家族の心の苦痛。美波の父親は、このふたつの苦痛を癒す優れた治し手だった。圭もまた、そのような人物になれる、と美波は思っていた。

18 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/01/03(火) 00:24:20.94 ID:5kzXp0UHO


慧理子「兄さんは、そんな人なんかじゃない」


妹がそんな言葉を口にしたのは、冬に開催された一大ライブ「シンデレラの舞踏会」が成功に終わってから数週間後、美波がお見舞いに来た病室でのことだった。

空に積み重なった雲がその青黒い腹を見せながら、太陽の下半分を隠す、強い肌寒さを感じさせる日だった。灰色をした冬の翳りが病室に侵入してきて、電動ファンヒーターの熱した赤い部分が翳りによってその赤さを濃くしている。

慧理子は床に置かれたヒーターの放熱をくつ下越しの足で感じながら、ベットに腰掛けていた。ひざとひざをくっつけて、身体を美波の正面に向け、ライブの話をするよう姉にせがんだ。

美波はすこし躊躇したが、期待に満ちた目を向ける妹は裏切れない。話していくうちに、美波は、自分の口調に熱が帯びていくのがわかった。あの日の光景は、まるで記憶が結晶になったかのようにくっきりと細部まで覚えている。煌めき、歓声、歌、仲間たち。あの日の記憶を形作っているあらゆる要素は、熟達の宝石職人によってカットが施されたダイヤモンドのファセットのようなもので、どんなことを語ってもその輝きの美しさを余すところなく伝えられる。


慧理子「いいなあ。わたしもいつか姉さんのライブに行ってみたい」

美波「行けるわよ」

慧理子「病気が治ればね」

19 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/01/03(火) 00:25:56.49 ID:5kzXp0UHO

ちいさな諦めが、慧理子の顔に乾いた微笑みをつくった。


美波「大丈夫だよ。まだ時間はかかるけど、圭がきっと病気を治してくれるから」


自分が直接妹のためにできることがないのをもどかしく思いながら、それをおくびにも出さず、ただ自分が確信していることを口にして、美波は慧理子を慰めようとした。

姉の言葉をきいた慧理子は、一瞬で不快とわかる表情に顔を歪め、そしてさきの言葉を吐いた。兄のことを耳にした途端、まるで兄の存在そのものが美波の大切にしている思い出を台無ししまったかのように、忌々しさを現しながら慧理子はベットに戻った。


美波「どうしちゃったの、慧理ちゃん」


美波は、慰めがこんなふうに作用するとは思ってもみず、戸惑いが押し寄せるなか、なんとか妹に尋ねた。


慧理子「信じらんない。あの人、姉さんにもそんな態度なの?」

美波「あの人って……ダメよ、慧理子、兄さんのことそうなふうに言ったら。圭は……」

慧理子「そんなの自分のためよ」

20 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/01/03(火) 00:27:15.71 ID:5kzXp0UHO

慧理子は美波が続ける言葉を予想し、吐き捨てるように遮った。美波が言葉を失うなか、慧理子は言葉を継いだ。


慧理子「兄さんが医者になろうとしてるいるのは、自分の評価のためよ。それだけなの」

美波「そんなわけないじゃない。圭は必死であなたの病気を治そうとしてるんだよ?」

慧理子「見せかけよ。兄さんの本質は合理的でどこまでも冷たい。そういう人なの、兄さんは」


美波は絶句した。病弱だと思っていた妹が、こんなのにも強い嫌悪を放つとは思ってもいなかった。それも、実の兄に対する嫌悪を。


慧理子「信じられないなら、カイさんのことを聞いてみて。そうしたらわかるから」

美波「海斗くん?」


美波も海斗のことは知っていた。圭の子どもの頃の友達で、慧理子ともよく遊んでいた。美波も何度かいっしょに遊んだことがある。活発な男の子で、教室では人気者なのだろうと思わせる少年だった。

21 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/01/03(火) 00:28:10.70 ID:5kzXp0UHO

美波が上京してから、海斗の姿を見たことはなかった。彼のことはすっかり忘れていたくらいだ。妹が海斗の名前を口にした途端、美波のなかで子どもの頃の記憶が、鮮やかな輪郭をともなって蘇ってきた。記憶のなかの季節は夏で、圭と海斗が虫とりにいく様子を二階の自分の部屋から眺めていた。麦わら帽子をかぶり、虫とり用の網とカゴを持った海斗のあとを、弟がついていっている。風を呼び込もうと開けた窓から、笑いあいはしゃいでいるふたりの声が聞こえてきて、部屋に遊びに来ていた友達に呼び戻されるまで、ずっと聞き入っていたことが思い出された。

その海斗のことが、いまなぜか問題になっていた。

美波は、妹にいったいなにがあったのか問いただそうとした。慧理子はなにも応えなかった。妹は、せっかく姉と楽しく過ごせるひと時を、余計なことをしゃべって台無しにしてしまったことを後悔しているようだった。足にかけたシーンをギュッと握りしめて、気まずそうに沈黙している。美波も、それ以上なにも聞き出すことはできなかった。

22 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/01/03(火) 00:30:43.67 ID:5kzXp0UHO

病院から出ると、青黒い分厚い雲が太陽を完全に隠してしまっていた。集合した雲はひとつの生き物のようで、上空を吹き荒ぶ強風に運ばれる様子は、まるで空を蛇行する蛇のようだった。風の唸りは、鈍く光る蛇の運動によって引き起こされているかのようで、その振動が地上に降り注ぐと病院の窓を一つ残らず揺さぶった。ガタガタっとうるさい音が病院全体から響いている。明日の天気が不安になるような空模様だった。

埼玉の家に戻ってくると、玄関にスニーカーが爪先を揃えて扉の方に向け、置かれていた。美波がリビングへ行くと、まだマフラーを巻いたままの圭が、IHヒーターの上にヤカンを置き、コーヒーを淹れるために加熱をしているところだった。厚めのカーディガンの分だけ着膨れした学生服の袖から、寒さで青白くなった手のひらを出し、ヤカンからの放熱を受け止め、手のひらを温めている。


永井「姉さんも飲む?」


圭が沸騰したお湯でインスタントのコーヒーを淹れながら、美波に聞いた。美波がうなずくと、圭は戸棚からカップを出し、お湯を注いでもう一杯コーヒーを淹れた。美波が手渡されたコーヒーをゆっくり啜りながら圭を見やると、弟は片手でカップを持ち上げながら、もう片方の手で単語カードを器用にめくっていた。

23 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/01/03(火) 00:31:59.28 ID:5kzXp0UHO

ブラックのまま手渡されたコーヒーの味にいよいよ舌がうんざりしてきた美波はソファから立ち上がり、キッチンに砂糖とミルクを探しに行った。弟が座っているキッチンの椅子の背に、すでに首から解いたマフラーがかけられている。弟のカップのコーヒーは黒い液体のままだった。ぬるくなって湯気もたたない黒いコーヒーとは対照的に、圭の手のひらはカップの温度が移ったのか、しっとりとしたピンク色に染まっている。

単語カードを繰る音と、コーヒーをかき混ぜるスプーンがカップに当たるカチャカチャ音が交互に、そして十回に一回くらいの割合で同時に鳴った。カップの中身が乳白色で中和されきった。美波がカップから弟に視線をやると、手元の単語カードは残すところあと数枚というところだった。


美波「そういえば、海斗くんって最近どうしてるの?」


たったいま、記憶にのぼってきた事柄を無意識に口に出してしまったみたいに聞こえるよう気をつけながら、美波は圭に尋ねてみた。


永井「さあ。たまに見かけるけど」


圭は単語カードから視線をあげないまま、あっさり答えた。


美波「子どもの頃、よく遊んでたよね」

永井「今はもう、そんなことはしてない」

24 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/01/03(火) 00:33:25.26 ID:5kzXp0UHO

圭の二度目の返答を聞いた美波は、唐突に理解した。弟は、わたしの求めるものを求めていない。

圭はコーヒーを飲み終わると、カップを手に持ったままの美波の横に立ち、空になったカップを水で濯いだ。流しで水を切り、食器乾燥機に洗ったコーヒーカップを置くと、椅子にかけてあったマフラーと床のバッグを手に持ち、二階の部屋へと消えていった。

美波はひとり、溶けきらなかった砂糖が沈殿するカップに視線を落としながら、自らの思い違いにやっと気づいた。この八年間ーー年が明ければ九年になるーー、わたしたちがはなればなれになった八年という時間は、どうあっても取り戻しようがないのだということに、なぜいままで気づかなかったのか。

25 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/01/03(火) 00:34:39.52 ID:5kzXp0UHO

圭は姉のことを嫌っているわけでも、非難しているわけでもない。美波が圭と結び直したいと願っている関係性に、単に関心がないだけだった。弟は、家族の枠組は守られているのだから、なにも不満に思うことはない、とでも考えているようだった。呼びかけられれば、応える。それだけ。子どものころの思い出の品物がふたたび目の前に帰ってきたとして、それをなつかしむことはあっても、それをふたたび子どものころのように使うことはあるのだろうか。その品物が存在することだけに満足して、またどこか押入れにでもしまい、現在の生活に戻るのが、大方の人間のすることだろう。

弟は、現在の生活に過去の面影がなくても平気なのだ。

美波がブレイクの詩を知ったのは、このような出来事があった直後のことだった。「一人の失われた少年」の最初の八行、ーー少年が父親に向かって挑発するような言葉を突きつける部分ーーを初めて読んだとき、美波の手の動きも、目の動きもピタリと止まり、左側のページの英詩と右側の訳詩に釘付けになった。まるで魔術の力が作用したかのように美波は動けなくなり、弟の内面がすべてそこに記述されているようにしか思えなくなった。「経験」的な少年の言葉は、まるで「無垢」なる態度そのものへの反抗のようでもあり、ついさっきまで無根拠に抱いていた美波の家族再生の物語が、圭が幼少期の友情を否定したことで間接的に否定されたことでもあるかのようだった。

26 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/01/03(火) 00:36:05.15 ID:5kzXp0UHO

そんなふうに読めるのは、あまりにも個人的な事情に引きつけて詩を読んだせいだ。しばらくしてから美波はそのように思い直し、止まっていた手を動かして詩の続きを読んだ。また美波の手が止まった。ブレイクの詩によって動揺の次にもたらされたのは、恐怖だった。詩の後半で、先の言葉を側で聞いていた司祭が少年を引っ立て、両親の懇願もむなしく、涙に咽ぶ少年を火刑に処してしまう。


《そして少年を聖なる場所で焼き殺した、/そこは多くの者がこれまで焼き殺された場所。/両親が泣き叫んでもむだであった。/こんなことがアルビヨンの岸辺で今でも行われているのか。》


恐怖の感情は一瞬で落ち着いた。いくらなんでも、こんなことはありえない。さっき、個人的な事情に引き付け過ぎていると反省したばかりなのに、すぐこのような読解をしてしまうとは。

美波はブレイクの詩集を閉じ、年末から年始にかけてのスケジュールを確認することにした。スケジュール帳を開き日程を確認していくと、少年が火刑になったことへの予言的な恐怖は、吹きつける風が灰の粉を川へ掃いていくかのように、次第に消え去っていった。

恐怖は去っていった。だが美波の心の内には自分でも自覚できないほど微かに、澱のように沈殿する不安がこびりついていた。灰と化した少年の身体が火刑場となった広場の地面の溝を埋め、火刑場が廃れてもなおそこにこびりついているかのように、その不安はいまでも確実に彼女のなかに存在していた。

27 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/01/03(火) 00:37:11.72 ID:5kzXp0UHO

ーー七月二十三日・美城プロダクション・CPルーム

美波はソファに身を沈めて、深く息を吸い、気持ちを切り替えようとする。

美波の脳裡には、六ヶ月以上前に読んだブレイクの詩がまだこびりついていた。「無垢の歌」の少年と「経験の歌」の少年。はじめて詩を読んだ冬から春を経て、季節が夏に移行するあいだ、韻文が生み出す詩のイメージに美波の当時の記憶と想像が流入し、極めて個人的なイメージに変化していった。幼い少年のまえから去っていく父親の隣には連れそってゆく子どもがいる。年月が経ち、成長した子ども同士が再会すると、片方の子どもの愛情はパン屑を啄ばむ小鳥ときょうだい家族に区別をつけなくなっている。そんな子どもの存在は、司祭によって糾弾され火をもって消し去られる。火は子どもの肉体を食み、皮膚や筋肉や骨や細胞は黒い粒子と化して、狼煙のように空に昇ってゆく。

混在する赤と黒がおどろおどろしく踊り跳梁する悪夢のイメージは、まるでそれがほんとうの記憶であるかのようにたびたび美波の脳裡に浮上してきた。ブレイクの時代ならともかく、現代の日本で火刑などまずありえないというのに、この言い知れぬ不安はなんなのだろう、と美波は思った。いや不安というには、あまりにも生々しいリアリティがブレイクの詩から想起させられた。

28 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/01/03(火) 00:38:23.12 ID:5kzXp0UHO

記憶野と想像野にどっちつかずのまま架け橋のように横たわる火刑のイメージ。それはやがてもうひとつ変化を遂げた。黒く焦げた肉体が千切れて一部となり、その一部がまた千切れ、粒子の段階まで分解される。周囲に漂いはじめた粒子は、風もないのに運動を見せはじめ、洪水のように押し寄せてきては視界いっぱい黒に染め上げる。ここ一ヶ月、美波が夢を見るときはこのようなノンレム睡眠と見分けがつかない、深海のような暗黒の光景ばかりが夢に出てきた。なにも見えないのに、これは夢だとわかるのは奇妙だな、と美波は朝起きるたびに思った。

夢を見た日にアナスタシアと会うことになると、夢と彼女の対照に美波はそのたびごとに驚いた。透き通った結晶体のような容姿をしたこの少女はけっこう子どもっぽいところがあり、昨夜電話で話したときも美波とおしゃべりできるからという単純明快な理由を隠すこともなく、声を弾ませていた。リビングのテーブルに置きっ放しにしていたスマートフォンをさきに夕食を済ませ自分の部屋に戻ろうとする圭が持ち上げ、美波に手渡した。画面にははじめて見る番号が表示されていた。通話ボタンをタッチし、スマートフォンを耳にあてる。スピーカーから聞こえてきたのは親しい馴染みの声だった。


アナスタシア「こんばんは、ミナミ」

美波「アーニャちゃん。あ、そっか。スマホ、新しくするって言ってたね」

アナスタシア「ダー。前のは、スメールチ……お亡くなりになりましたから」


パタンという音がして、見ればリビングの扉が閉められていた。廊下を歩く音がして、弟が二階に行くのがわかった。

29 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/01/03(火) 00:39:41.55 ID:5kzXp0UHO

アナスタシア「ミナミ……?」

美波「ううん、なんでもない。新しいスマホはどう?」

アナスタシア「調子、いいです。ミナミの声、よく聞こえるから」


まっすぐ情を向けてくるアナスタシアの声に、美波は微笑みを浮かべる。他愛ない会話をしばらく続けていると、美波は気持ちが浮遊していくのを感じた。

冷えているが寒くはない冬の日、風は起こらず、控えめであるだけに心地良い鈍い陽光を浴びていると、周囲の空気がもっと気持ちの良い場所があるよとでもいうふうに身体を持ち上げ上空のところまで運んでくれる。地上の風景は色や形で家々や工場や公園や森や海などを見分けられるが、浮上にしたがいそれも難しくなっていく。地上のものの輪郭はだんだゆとぼやけ、色彩も薄くなっていき透明に近づいていく。上空での鳥類は地面や木に止まっているときとは異なる、大気によく浸透する声を使って会話していた。上空では雲がソファに、太陽の光がブランケットになっている。

リビングのソファに腰を下ろしていた美波は、気づかぬうちに足を伸ばし、楽な姿勢をとっていた。

30 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/01/03(火) 00:41:13.07 ID:5kzXp0UHO

アナスタシア「ミナミ、気持ち……落ちつきました?」


まるで美波の様子が見えているかのようにアナスタシアは言った。


美波「そんなに疲れた声してた?」

アナスタシア「アー……というより、オビスポクォニー……悩んでる、と感じました」

美波「ほんとに?」

アナスタシア「ダー。悩みごと、ありますか、ミナミ?」

美波「えっーと……」


美波は黙ってしまった。黒黒とした不吉なイメージは映像として確固としているものの、それをどう言葉に置き換えればいいのか、さらに不安を感じてるといっても、その原因はほとんど杞憂に等しい予感でしかないのだ。美波が言葉に詰まっていると、アナスタシアがさきに口を開いた


アナスタシア「いまじゃなくてもいいですよ?」

美波「アーニャちゃん?」

アナスタシア「話したいときに、話したいひとに、話してください」

美波「……」

アナスタシア「わたしならいつでも大丈夫です。いまでも、いいです」

美波「ふふっ。さっき、いまじゃなくてもいいって言ったのに」

アナスタシア「いつでも、とも言いました。わたしは、いつだってミナミの助けに、なりたいですから」

美波「……ありがとう、アーニャちゃん」

31 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/01/03(火) 00:42:17.63 ID:5kzXp0UHO

電話を終え、美波は夢についてひとり考え込んだ。精神分析に頼らなくても原因は、弟を中心にした家族の現在にあるのは明らかだった。もはや、過去は取り戻せないのだということを認めるべきなのだろう。弟ほど極端でなくても、わたし自身、過去の出来事から優秀であろうとし、それを実践してきたのだから。わたしたち家族は、すでに離散してしまったのだ。その過去を都合良く忘れ、むかしの家族を理想化し、その再現を試みることほどむなしい行いもないだろう。

過去は牢屋のように堅固としているかと思えば、煙みたいにかたちがなくなったりもする。資料が残っているような歴史的な過去の出来事についてならまだいい。それならやりようはある。だが記憶だけが頼りの、個人的な思い出の場合はそうはいかない。思い出はひどく気まぐれで、子どもが裏切ったときみたいに手酷い痛手を与えることもしばしばだ。

だから美波はいま、CPルームのソファに背を預けながら、空気のなかに黒い絵具を溶かしたかのようなあのおそろしいイメージを取り払うことから始めようとする。構図の取り方に失敗した風景画の下書きを画家が投げ捨てるように、黒一色のイメージを美波は打ち消そうと努力した。イーゼルに乗せられた真新しい白いキャンバスに新たな像を描こうとするが、筆が触れる前に染みのようにキャンバスが黒に染まっていく。何度か同じ試みを頭のなかで繰り返す。結局、それはすべて失敗におわる。試みの最後には、いつも黒が染み出してくる。割れた地面から溢れる毒を含んだ地下水のように。

32 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/01/03(火) 00:43:32.60 ID:5kzXp0UHO

徒労をおぼえた美波が、逃避的に考えを別のことにむけたときーー自分自身のすこしさきの未来、七月二十七日。美波の二十歳の誕生日のことーー部屋のなかに三人の少女が入ってきた。レッスン終わりのニュージェネレーションズだった。


凛「お疲れさま。美波もレッスン終わり?」


先頭にいた凛が美波に声をかけた。


美波「うん。もうすぐCD発売初日のイベントがあるから」

卯月「アインフェリアですよね。とってもカッコいい曲でした」

未央「それにその日はみなみんの誕生日だしね。お祝いごとがふたつもあるなんて、ほんとおめでとうだよっ」

美波「ありがとう、未央ちゃん」

未央「プロデューサーがここをパーティーに使ってもいいって言ってたし、美嘉ねえたちも顔を出すって」

凛「手巻き寿司パーティーはアーニャがやりたいって言ってたよね」

33 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/01/03(火) 00:44:51.05 ID:5kzXp0UHO

美波「でも、なんだか大げさじゃない?」

卯月「そんなことないですよ! 美波ちゃんはシンデレラプロジェクトのリーダーなんですから」

凛「二十歳の誕生日なんだし、大げさなくらいがちょうどいいんじゃない?」

未央「そうそう。わたしたちみんな、みなみんのことお祝いしたいんだよ」

美波「みんな……ありがとう。その気持ちだけでも、すごくうれしい」

未央「本番はもうちょい先だよ、みなみん?」


未央がそう言うと、凛と卯月が軽く笑った。美波もつられて笑顔になった。

夕暮れが近づき、太陽から放たれる光線がだんだん水平になってくると、部屋のなかは眩しさに包まれた。視界は鮮明すぎて逆にものが見えづらくなり、ブラインドを下ろし光量を調節しなければならない。電気を点け、部屋がちょうどいい明るさを取り戻すと、蛍光灯に照らされた時計が夕方のニュースが放送される時間帯を示していた。凛が明日の天気予報を見ようとテレビをつけた。

そのとき美波のスマートフォンが鳴った。着信はプロデューサーからだった。美波が席を外し通話ボタンを押すと、特徴的な低い声が聞こえてきた。

34 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/01/03(火) 00:45:55.56 ID:5kzXp0UHO


武内P「新田さん、いまどちらに?」


いつもと変わらない丁寧なしゃべり方。だが、美波にはその口調に抑制されたものがあると感じた。落ち着きを意識的に課したような口調。声の速度もいつもよりわずかに速いような気がする。


美波「いまですか? CPルームにいますけど」

武内P「新田さん、あなたに至急連絡しなければならないことがあります。すぐそちらに向かうので、待機していてください」


電話の向こうのプロデューサーは言いながら立ち上がったのか、電話口からガタンという音が聞こえてきた。声の抑制もさっきよりすこし綻んだのがわかった。


美波「それは構わないてますけど……連絡しなければならないことってなんですか?」

武内P「それは……電話では話かねますので、直接お伝えします。とにかくすぐ向かいますので……」

卯月「み、美波ちゃん!」

35 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/01/03(火) 00:49:41.70 ID:5kzXp0UHO

大声に振り向くと、慌てた様子の卯月がドアの近くに立っていた。開いたドアからは部屋のなかにいる凛と未央が見える。ふたりともテレビと美波のどちらに視線を向ければいいか、本気で迷っているようだった。卯月は美波を呼んだものの、それからさきに続ける言葉を見失っていた。

美波が不審に思っていると、部屋のテレビからアナウンサーのものとおぼしき声が聞こえてきた。臨時ニュースのようで、原稿を読み上げる音声はまだそこに書かれた文章に馴染みきっていない。さっきのプロデューサーの話し方と似てる、そう思いながら美波はドアを通った。背後から卯月の、あ、あのーー、という躊躇いが滲んだ声が聞こえてきたが、美波は足を止めなかった。テレビは国内三例目の亜人発見のニュースを伝えていた。三例目の亜人は高校生で、下校中にトラックに轢かれ死亡したが生き返ったところを大勢の人間に目撃されていた。亜人の名前は永井圭といった。


美波「……え?」


まだ通話中のスマートフォンからプロデューサーの声がもれていた。美波はスマートフォンを持った手をだらんとさせながら、テレビの液晶画面に見入っていた。同時に飛び込んできた画面のテロップやアナウンサーの声は、ーー亜人・永井圭の姉は美城プロダクション所属のアイドル、新田美波さんとの情報もあり……ーーもう美波のなかから消えていた。美波は立ち尽くしたまま、テレビに弟が映っているのはなにかの間違いではないかと思った。だがそこに映し出されていたのは、まぎれもなく美波の弟、永井圭の顔だった。

美波の弟は死んで、そして生き返った。死なない生物、亜人としてーー。

36 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/01/03(火) 00:57:02.48 ID:5kzXp0UHO
今日はここまで。設定を説明するために地の文が多くなってしまいました。次からはもうすこし読みやすくするよう心がけます。
そういえば新田さんと永井の妹慧理子の声ってどちらも洲崎綾さんなんですね。書きながら気がつきました。

ブレイクの詩は岩波文庫から出てる松島正一編『対訳ブレイク詩集』から引用しました。
37 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2017/01/03(火) 01:47:34.92 ID:itwWq4Syo
なんだこれすげぇ おまえさん本職かい
38 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2017/01/03(火) 01:47:37.42 ID:42Rcb4rD0
乙、面白そう
39 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2017/01/03(火) 04:38:58.55 ID:AUKuv2Ol0
おつ、亜人ぐらしの人か

デレアニ側からは亜人1人だけなのか。ちょっと物足りない気もするけど期待
40 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2017/01/03(火) 08:29:53.49 ID:0JFSSC/6O
凄く期待できる始まり方
41 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2017/01/03(火) 09:38:23.34 ID:3evUl1zL0
改行しなくても読みやすいって
ものすごい文章力だと思うの
42 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2017/01/03(火) 12:52:26.62 ID:CikglAQSo
乙。
読みやすいけど横に長いかなとは思った
43 : ◆8zklXZsAwY [sage]:2017/01/03(火) 18:43:16.75 ID:5kzXp0UHO
コメントありがとうございます。ほんとに励みになります。

>>42
スマホからの打ち込みですのでパソコンからだと見づらいのかもしれません。うちにパソコンがないもので…。スミマセン…。
44 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2017/01/04(水) 13:04:37.49 ID:c+lazJ93o
乙乙
毎度読ませる文章
45 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2017/01/22(日) 22:57:56.29 ID:uWL6ZvZ50
マダカナ
46 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/01/28(土) 22:29:22.32 ID:8ENUCYV1O

2.いちばん辛いのは永井圭のほうだろう


「あいつは全囚人の中でいちばん向う見ずな、いちばん命知らずな男だよ」とMは言った。「どんなことでもやりかねない男なんだ。ひょいと気まぐれを起こしたら、どんな障害があっても立ちどまることを知らない。ふとその気になったら、あなただって殺しますよ、あっさりね、鶏でもひねるみたいに。眉一つうごかすでもないし、悪いことしたなんてこれっぽっちも思いやしませんよ。頭がすこしへんじゃないか、と思うほどですよ」ーードストエフスキー『死の家の記録』


ーー七月二十三日、二二時三十二分・美城プロダクション前

美城プロダクションの前にはもう大勢の報道陣が詰めかけていた。道路一面に中継車が並び、報道各社のリポーター、テレビカメラマン、ブームポールを持つ音声担当、照明担当らが、西洋的な城の門構えを思わせる装飾が施された建物を背景に、それぞれが良いと思うアングルを確保しようと陣取っている。

美城プロダクションは伝統ある大手芸能プロダクションにふさわしく都内の一等地に建てられいて、この区画は多くの企業ビルが連なる区画なので夜になっても明るい。今夜の照明はいつもより濃く、道路の隅々まで照らし出していた。カメラが映像をちゃんと中継できるよう、バッテリーライトが道路のアスファルトに黄色い光を投げかけていたからだ。

テレビ局の報道陣が陣取った以外の場所では、一眼レフカメラを首から下げたカメラマンや記者たちは群れをつくっていた。出版社に所属しているものもいればフリーランスの活動者もいたが、その区別はむずかしい。
47 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/01/28(土) 22:30:58.14 ID:8ENUCYV1O

テレビリポーターや記者たちの活動がもっとも活発になったのは永井圭が協力者とともに警察から逃亡したという情報がもたらされた午後八時過ぎのことだった。記者たちはプロダクションに出入りする人間すべてに詰め寄り、マイクやICレコーダーを突きつけ内容などなんでもいいからとにかくしゃべってくれとうるさくせっついていた。増員された警察官によって記者たちの動きが抑えられたのはついさっきのことで、現場の整理を指示していた刑事は、記者たちが地面から生えてきた有象無象にみえて仕方がなかった。

ーー放っておいたらどんどんつけあがる奴らだ。まったく。奴らをみてると報道とタレコミの違いがわからなくなってくる。奴らがほんとにアスファルトでできてたらよかったのに。それなら躊躇ってものは必要なくなる!ーー

警官が防波堤の役目を果たしはじめたころ、社員たちはようやく帰宅できるようになった。なかには強引に記者たちの群れをかき分けて帰っていく者もいたが、たいていはエントランスで様子をうかがっていたり、部署にもどり効率悪く残業したりしていた。

48 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/01/28(土) 22:32:33.50 ID:8ENUCYV1O

レッスンや撮影などでプロダクション内に残っていたアイドルたちもこの騒ぎのせいで帰るに帰れなくなっていた。当然ながらマスコミはアイドルたちのコメントを貰おうと躍起になり、社内に侵入しようとするものまで出てくる始末だった。先頭を走る記者ひとりに対して五人の警官が後を追う。追いかけっこは、さながら鳥の群れの移動のようだった。

こういった騒ぎが本格的になる前に、アイドルたち、とくに未成年者は優先して専務よって帰宅が指示された。ビル駐車場に送迎用のワゴン車が集結し、帰宅の方向をおなじくするアイドルたちが手当たりしだいに車にのせられていく。警備員や制服警官たちが仕事に躍起になるなか、送迎車が連結した列車のように一列になって駐車場から出ていく。何往復かの送迎のあと、最後にのこったアイドルを送り出したのは最初のワゴン車が出発してから数時間後のことだった。そのあいだ、記者たちの動きをとめるのにプロダクションの社員までもが投入された。
49 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/01/28(土) 22:33:52.88 ID:8ENUCYV1O

車列に群がろうとする記者たちを押さえつけるのに全力を使いきった警備員や警官たちが疲労で肩を重くしていると、黒いセダンが入れ替わるようにプロダクションの駐車場にすべりこんできた。まるでさっきまでの喧騒など存在しなかったかのような運転のしかただった。その公用車はビル入口近くの駐車スペースにとまった。車から降りてきたのは、若いスーツ姿の女性とテンプルの部分がV字型の眼鏡をかけ、黒い革の手袋をした三十代前半と思しき男性で、男性の方は案内しようと呼びかけてきた巡査部長に姓が濁らないことを指摘し、巡査部長を謝罪させた。男が眼鏡の位置を直したとき、駐車場の明かりが反射してなめらかな表面をした革手袋が鋭く光った。

三人は巡査二名が警備している社員通用口を抜け本社ビルにすすみ、エレベーターに乗り込んだ。エレベーターが上昇するあいだ、巡査部長はすでに聴取した内容を眼鏡の男におおまかに説明した。眼鏡の男は大量のミントタブレットを口に入れながら、巡査部長の話を聞いていた。亜人捕獲に関する有益な情報はなく、男は話を聞きながら、亜人研究のサンプルになりうる幼少期の性格、態度、振る舞いなどを聞き出すことと、亜人発覚直後の親族の反応を観察することを目的にしようといまからおこなう聴取のプランを立てた。
50 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/01/28(土) 22:35:09.37 ID:8ENUCYV1O

エレベーターが目的の階に到着すると、二人は巡査部長の案内によってCPルームの前までやって来た。ドアの両側にはまたもや二名の巡査が待機していた。敬礼する二名を気にもとめず、眼鏡の男とあとにつづく女性は部屋にはいった。

部屋のなかには三人の男女がいた。三人ともスーツ姿で、このプロダクションの社員らしい。目つきが鋭い背の高い男がいちばん若く、眼鏡の男よりすこし年下にみえた。その男は顔を伏せて表情に影を作り、刺すような視線をだれに向けるでもなく沈黙している。陰鬱さがよく似合う男だった。もうひとりの男性社員は老齢で、腰にはまだあらわれていないものの背中の丸みが年齢による筋力の衰えを物語っていた。この初老の社員も若い社員とおなじく暗い表情をしているのが横顔からでもうかがえた。

かれらに対面する位置で腕を組んでいる女性は二人の男性社員の中間にあたる年齢だったが、初老の男より高い地位にいることが眼鏡の男には一目でわかった。役員クラスの地位なのだろう。命令する側特有の有無を言わせぬ雰囲気が女性からは漂っていた。いまの彼女はその雰囲気を意識的に態度にあらわしーー言葉でもあらわしたのだろうーー目の前の二人をまるで押し寄せてくる波のようにみずからの意思決定に従わせようとしている。
51 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/01/28(土) 22:36:40.39 ID:8ENUCYV1O

部屋にはいってきた眼鏡の男と女性役員の目が合った。女性役員のほうが眼鏡の男よりはやく進み出て、自分とあとの二名の紹介をする。


美城「美城プロダクション専務の美城と申します。弊社部長の今西、新田美波参加プロジェクトのプロデューサーも同席しております。失礼ですが、厚生労働省から派遣された方でよろしかったでしょうか?」

戸崎「はい。私は亜人管理委員会の戸崎と申します。こちらは秘書の下村です」


戸崎の発音は姓が濁らないことをことさら強調していた。

同席していた部長の今西とプロデューサーの表情はともに険しかったが、戸崎と会話する美城専務は淡々と今後の対応について話を進めていた。


美城「新田美波はあちらの応接室にいます。このあとすぐに聴取を開始されますか?」

戸崎「ええ。彼女の聴取はできれば私たちだけで行いたいのですが、構いませんか?」


プロデューサーの表情に懸念の色が浮び、身体が前に傾いた。美城専務は彼が迂闊に発言するまえに話を続けていた。

52 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/01/28(土) 22:37:54.97 ID:8ENUCYV1O

美城「もちろんです。よろしければ聴取が終わった後、今後の対応について助言を頂くことは可能でしょうか? なにしろこのような事態は弊社にとっても初めてなので」

戸崎「どのような対応をお考えで?」

美城「弊社は芸能プロダクションです。マスコミの前に晒さられるのは、まず弊社所属のアイドルたちになるでしょう。そのほとんどが未成年者であり、今回の事態の重大性について十分な理解があるとは言えません。彼女たちの不用意な発言が弊社のイメージを損なうおそれもあるでしょう。そこで、弊社としましては早い段階で社の内外に対して事態への対応姿勢をアピールしたいのです」

戸崎「その具体的な方法は? 記者会見などを行うのですか?」

美城「ええ。すでに明後日の正午に会見が行われるようセッティングし、マスコミ各社へも通達済みです。多くの人間が会見を見ることになるでしょう。弊社の人間がその場に現れるとなればなおさら」


戸崎は美城が何を言いたいのか理解した。これは亜人管理委員会にとってもメリットのある話だった。もし記者会見の場に永井圭の姉が現れれば、多くの人間がそれを見ることになるだろう。正午に中継され、夕方のニュースで放送され、翌日にもまた流される新田美波の映像。隠しきれない沈痛を顔に浮かべながら、気丈に弟の安否を気遣う姿。

協力者がいるとはいえ、日本中がその行方を捜索している孤立状態の亜人にとって、肉親の訴えはどれほど効果的だろうか。内容によっては自ら出頭することも考えるかもしれない。二人の利害は一致した。

53 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/01/28(土) 22:41:03.21 ID:8ENUCYV1O

戸崎「わかりました。では聴取のあと、簡単にですが助言いたしましょう」

美城「ありがとうございます。では、聴取が終わった後、社の者に会議室まで案内させます」


プロデューサーはすれ違うとき、何かを言いたげに戸崎にむかって顔を向けた。戸崎の仕事に弱々しい思いやりは必要なかったから彼はそれを無視し、美波が待機している応接室へとはいっていった。

まず戸崎の目に入ったのはシックな黒のマガジンラックだった。芸能情報誌やテレビマガジンが各種取り揃えて並べてあり、そのなかの多くがこのプロダクションに所属しているアイドルたちなのだろう。誰もかれもが笑顔だった。中央部に美城プロダクションのエンブレムが輝くマガジンラックの隣には、観葉植物が鮮やかな緑色をしていて、空調が葉をかるく揺すっている。大きな葉を持つ植物は黒で統一されている調度品と好ましい対照を示していた。

戸崎はすぐに視線をおとし、永井圭の姉がソファに一人、消えかけているような儚さで座っているのを認めた。戸崎が美波のまえに腰をおろす。美波は目を伏せたまま戸崎に顔を合わせず、あわせた膝のうえで重ねるようにして置いてある拳にぼんやり虚無的に視線を落としていた。握りしめた拳の指の先だけが赤く、それ以外の関節は白くなっていた。

54 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/01/28(土) 22:42:25.62 ID:8ENUCYV1O

美波の様子は弟の安否を心配する気持ちはあったが、自分にはそれだけしかないことも理解しているといったふうだった。苦しみによって意志を挫かれた人間の様子にふさわしく、美波もなにも求めていなかった。求めても求めても、なにも得ることはできないと美波はこの数時間で知り尽くしてしまっていた。


戸崎「新田美波さんですね?」

美波「はい……」


美波はかろうじて戸崎の質問に応えることができた。


戸崎「厚生労働省から派遣されました亜人管理委員会の戸崎です。あなたの弟、永井圭についていくつか質問したいことがあります」


美波がさっと顔をあげた。眼に消えかけていた光がふたたび宿り、涙に潤んでいるようにもみえた。もしかしたら、という思いが美波のなかに引き起こされたが、それは亜人管理委員会という戸崎の肩書きのためだった。

亜人となった人間がどんな扱いを受けるかを、聴取をしにやってきた警察官はだれひとりはっきりと答えることはできなかった。

55 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/01/28(土) 22:44:00.12 ID:8ENUCYV1O

隔離と管理。聴取の合間合間に美波が弟が見つかった後のことについて、答えに詰まる警官たちにくい下がって聞くことができたのは、かれらが口ごもりながら言ったこの二語だけだった。亜人と発覚した者は国の施設に収容され、研究協力が求められる。それ以上のことを警官たちはけっして口にしなかった。

美波は喚きたくなった。そんなことはだれもが知ってることじゃない。わたしが知りたいのは“わたしたちのその後”のことであって、あなたたちがどうするかではないのだ、と。家族が追い立てられ、追い詰められようとしているのに、あなたたちはわたしに協力を要請してくる。何の保証もないまま。もし弟を捕らえた人間がいたら、あなたたちはその人に懸賞金を支払うというのか?……

巡査部長は聴取がこうなってほしくないと思っていた方向に進み始めていると感じた。動揺や困惑がもっと表にあらわれていると思われていた亜人の関係者は、興奮を抑えつけながらしだいにそれを敵対感情に変えようとしていた。そういう反応自体はたいしてめずらしくない。警察がやってくるということは、警察が取り扱う領域に多かれ少なかれ取り込まれてしまうことなのだ。だから、それにたいして動揺するのは当然で、あとは信じないという気持ちを泣くか怒るかどちらの態度であらわすかの違いしかない。そして関係者たちの感情的な反応が時間が経つにつれ落ち着いていくのもよくあることだった。警察が頼りにするのは複数の目撃証言や証拠であり、家族や親しいものたちは思い出しか味方になってくれるものがないのだから……


56 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/01/28(土) 22:45:22.93 ID:8ENUCYV1O

専門家の意見が一般のそれと相違するのはよくあることで、意見の正当性にではなく相違があることそれ自体に文句がつけられるのも同じくらいの頻度で存在する。そのため専門家はそういった文句の受け流し方や対処の仕方を多少なりとも身につけていたりするのだが、今回の場合、警察は専門家とはいえなかった。なぜなら、亜人が発生したのは十年ぶりの出来事なのだから。

深刻な病状の患者に事実を伝えるのは経験を積んだ医師ではなくてはならないのに、その役目を不条理にも警官が任されてしまった。美波が問いかけてくるたびに、巡査部長はそんなふうに思わざるをえなかった。

やがて美波も目のまえの警官に訴えかけるのは無駄なことだと気がついた。かれらも何も知らないのだ。命令を受け仕事をしに来ただけのいち公務員に過ぎないかれらは、保証も確約もできない。できるのは捕獲すること、それだけだった。

57 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/01/28(土) 22:46:33.43 ID:8ENUCYV1O

美波「あの、でも、刑事さんにはもう話をしたんですけれど」


美波は多少警戒しながら言った。眼にもどってきた光に失望を与えたくなかったし、そうなった瞬間の暗闇を戸崎に見られたくなかった。


戸崎「それはわかってます。ですが、亜人に関する一切はわれわれ亜人管理委員会に決定権があります。現在、警察によっておこなわれている永井圭の捜索、そしてその身柄の保護もわれわれの進言によるものとお考えください」


美波はふと助けを求めるかのように視線を部屋にさまよわせた。部屋の中に美波を助けてくれる人間はだれもいなかった。戸崎は話をつづけた。


戸崎「あなたの弟はすでに県外に逃亡したものとみています。そこでまずあなたにお聞きしたいのは、永井圭と行動をともにしている協力者についてです。どなたか心当たりのある人物は?」

美波「協力者、ですか」

戸崎「高校のクラスメイトの所在はすでに確認済です。ほかに弟さんと親しい人物はいませんでしたか? たとえば、子どもの頃によく遊んでいた人物などは?」

58 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/01/28(土) 22:48:06.65 ID:8ENUCYV1O

美波は既視感のある問いかけにたいして、さきほど巡査部長から質問をされたときとおなじように記憶を探ってみた。二回目の質問だったせいか、海斗のことがより鮮明に頭に浮かんできた。そして妹の病室を訪れた陰鬱な冬の日のことが連想され、かれではないのだろうという否定的な思いがいっそう強くなった。


美波「いえ、やっぱり心当たりはありません」

戸崎「そうですか」


美波は尋ねられたことに答えられないこと、協力者の正体に思いあたりがないことに自責を感じていた。それは戸崎や警察に協力したいからではなく、弟の行方にまったく見当がつかないことに対する愕然とした思いのせいだった。

圭が亜人だと発覚したあと、弟についてのあらゆる質問が美波に投げかけられた。 ーー普段の生活態度は? 最近変わったと思うことは? 夜中に出かけたりは? 問題を起こしたことは? あるいは最近なにかに悩んでいたりとか? 離婚についてどう感じていたと思いますか? 家族関係は? あなたとの関係は良好でしたか? 母親とは? 妹とは? 友人関係は? 協力者にほんとうに心当たりはないのですか? どんな場所に潜伏すると思います? これまでに亜人だと示す兆候はありましたか? 亜人だったと、ほんとうに気づいていなかったんですか?……

59 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/01/28(土) 22:49:59.89 ID:8ENUCYV1O

記憶を総ざらいにして巡査部長や戸崎からの質問の答えを導き出そうとしたのは、彼らの関心、永井圭は現在どこにいて、これからどうするのかという疑問の答えを美波自身がなによりも欲していたからだった。記憶の細部が見えるように画像や映像のかたちで蘇らせ、脳内でズームやスロー再生などの処理を施し情報を得ようとする。思い出をキャビネットのようにひっくり返し、瑣末な会話の切れ端から弟がどんなことに興味があり、どこで遊んでいたかだれと楽しさを共有していたのかを探り当てようと必死になる。その結果わかったのは、そこにはーー美波の記憶、思い出にはーー答えが存在しないということだった。

壁にかかっている時計の針の音が驚くほど大きく部屋に響いた。時刻はすでに二十三時を過ぎていて、白く光る天井の灯りに照らされている美波の身体が事態の発生時点から現在進行で緊張と疲労を積み重ねていた。そのせいで眼のまわりの皮膚が張り、痛みを訴えていた。このままでは眠るというより意識が切断されるということになりかねない状態だったが、美波にそれを感じ取れるだけの余裕はなく、この危機をどのように脱するかという問題に全神経を集中した。問題は内面的なものだけにとどまらなかった。姉である自分から弟についてたいした情報が得られないことが悟られてしまったら、戸崎は形式的な質問だけ行って聴取を早々と切り上げてしまうだろう。そうなってしまえば、弟がいたとう事実そのものが、朝の目覚めが夢を奪うようにきえていってしまう気がした。

美波は審判されるのが恐ろしかった。他人に審判されるのを恐れているのは、なかば自分自身を審判してしまっているからだった。

60 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/01/28(土) 22:51:07.83 ID:8ENUCYV1O

美波「あの、亜人管理委員会とはどんな組織なんでしょうか? 警察の方に聞いてもよくわからなくて」


美波は不安の種類を個人的なものから一般的なものにみせようと努めながら質問した。その成果があるのかどうかを判断するには、美波はまだ混乱のなかに居すぎていた。


戸崎「当然の疑問でしょうね」


戸崎は手袋をした手で眼鏡の位置を整えた。眼鏡が上に動いたとき、レンズの下半分のところが光を受け、反射した白い輝きが美波にむかって飛んできた。


戸崎「われわれが亜人の管理、研究を目的とした団体であることはもう理解されていると思います。活動内容は亜人関連法案に基づき規定されており、研究者や一部の政府関係者をのぞき、その内容は原則非公開となっています。たとえ亜人の親族であろうとも、面会や手紙のやり取り等はほぼ許可されないと考えてください」


言葉が刃のはたらきをして美波の心臓に突き破った。息の仕方を忘れてしまったかのように美波は口を開けたが、求めているのは別のものだった。

61 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/01/28(土) 22:52:28.25 ID:8ENUCYV1O

戸崎「これは亜人の安全の守るための措置です。十七年前にアフリカで初めて亜人が発見されて以降、世界各地でも発見されるようになった亜人に対して各国政府はその対応を早急に決定しなければなりませんでした。あらゆる分野において重大な研究価値を持つ亜人を違法な売買目的で捕獲しようとする、いわゆる“亜人狩り”が横行するようになったからです。これは亜人の発見率が高いアフリカや中東などの紛争地域にかぎらず、先進国においても報告されている事態なのです。それを専門とする職業的な密猟者や他国の工作員が亜人捕獲のために活動を開始していると考慮しなければなりません。ご自分が国家レベルの案件に関わっていることをどうかご理解していただきたい」

美波「懸賞金のことはどうなっているんですか? ニュースを見るたびに、その話が毎回といっていいほど出てくるんですよ?」


官僚的な語り口で事実を羅列する戸崎の話法は威圧することを目的としたいて、それは確かに効果をはたしていた。実際、美波は戸崎のしゃべり方や話す内容にかなりのところ怯んでいた。だが怯みっぱなしでいるわけにはいかなかった。このまま押しつぶされるようなことがあっては従えられてしまうと美波は漠然と信じていた。おそらくこれが、弟に起きたことについて関与できる最後のチャンスなのだ。故に、とにかくなんであれ問いを発しつづけなければならない。


戸崎「それはよくある誤解です。政府は一般市民による亜人捕獲を推奨したことは過去一度もありません」


戸崎はすこしの焦りもなくすぐに訂正の言葉を繋げた。

62 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/01/28(土) 22:53:44.15 ID:8ENUCYV1O

美波「でも、ニュースでは……」

戸崎「公的報奨金の支給はいっさいありません。亜人は犯罪者ではありませんから」


圭が亜人だとわかったとき、美波のなかに混乱と戸惑いの渦が起こった。その感情の渦には憤りも含まれていた。弟はふたたび命を吹き込まれた。なのに一体なぜ、わたしはそのことを喜べない状況にいなければならないのか。美波はさっきの戸崎の言葉によって、奥底に沈んでいた自身の憤りに気づき唇を噛んだ。

戸崎はその様子を観察していた。家族が亜人だった人間が表す感情のパターンを知識として記憶していたが、見るのははじめてだった。戸崎は美波が肩に力を入れ、指を強く握り、怒りに眉を寄せ唇を噛むのを見て、いまから言う言葉とその後の対処を決定した。


戸崎「もちろん、われわれも現状がベストであるとは考えていません。亜人本人の安全を最優先にした結果、プライバシーや人権に抵触する部分もでてきたのはまぎれもない事実なのですから。われわれとしても今回のようにある側面だけが誇張して取り沙汰され報道されるのは不本意なことなのです。亜人の保護管理というわれわれの活動に支障をきたしかねない」

美波「じゃあ、どうしてそう公表しないんですか?」

戸崎「公表はしているのです。ただ、だれもこの問題を知ろうとしていない」

63 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/01/28(土) 22:56:24.52 ID:8ENUCYV1O

空調が咳き込んだような音を出した。戸崎はその音を耳障りに思ったのかいったん言葉を切り、首をすこし傾け天井を見上げた。美波は戸崎が話を再開するのを待った。必死に。意識を耳に集中しているのに、時計の針の音や空調がごうごう鳴る音はどういうわけか聞こえなかった。


戸崎「厚生労働省のホームページにも記載されていることですが、一般人はおろかマスメディアの人間もこのことをほとんど知らない。公的機関による情報公開の限界を感じますよ」


その後の聴取は型通りに進んだ。聴取の最後に、戸崎は弟が亜人だったことについてどう思っているか率直な質問をした。美波はそれには答えず、すこしの沈黙を挟んでから言った。


美波「家族でも会えないのは、あくまで現状ではということなんですよね?」


戸崎は、もちろん、とだけ言い残して応接室から出ていった。聴取がおわったあと、美波は戸崎の言ったことの意味をじっくりと時間をかけて考えてみた。多くを望めない状況だということをあらためて思い知らされた。諦めなければならないことはあまりに多かった。人生がおおきく変わる出来事で、良くない方向にハンドルが切られている。すでに。美波の意志とは関係ないところで。

だが自分のやるべきことも見つかった気がした。それを考えるために必要な力を身体から絞りだそうと努力してみたが、疲労を積み込み過ぎた身体はそれを拒否した。

瞼が自然に落ちて、連鎖するように上半身が前のめりになり頭が膝の上にゆっくり沈んでいった。美波は意識が消える瞬間の暗闇を見た。ーーああ、またあの夢ーーそれだけが最後の残り火のように思い浮かび消えた。まるで死んだように美波は眠りに入っていった。

64 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/01/28(土) 22:58:43.00 ID:8ENUCYV1O

専務室の見事なくらい磨かれた床は光を受けて白く光り輝いていた。天井の明かりが部屋を満遍なく照らし出し、一目で高級品とわかる黒のビジネスデスクやパソコンモニターの反射しているところが白い斑点のようになっている。美城専務がページを繰っているホッチキス留めされた会議用の資料も例外ではなかった。さらさらした紙の上に黒くはっきりした文字が濃く印刷されている。

資料には亜人関連法案の概要と、それにもとづいた対応策の提案、事態解決までプロダクションがとる措置の指示などが書かれていた。ネットからひろった新聞記事をプリントアウトしたものもある。

記事は亜人の家族や友人知人に対するインタビューを集めたもので、オーストラリアの白血病で息子を亡くした母親、中国の交通事故で弟に死なれた兄、イギリスの暴動に巻き込まれ父親を失ったティーンエイジャーの娘、アメリカのコンビニエンスストアを営む夫を目の前で強盗に殺された妻、シエラレオネの同じ部隊の戦友の脳みそが顔にかかった元少年兵など、インタビュイーは国も年代も性別も様々だった。かれらの共通点はふたつ。愛する家族や友人を喪ってはいなかったという点、もうひとつは家族や友人を奪われたという点だった。

プロデューサーがデスクに座る専務に歩み寄って言った。ひかえめな一歩のせいで身体の大きさに比してわずかに頭部の影がデスクにかかった程度だったので、プロデューサーが口を開くまで専務はなんの反応も示さなかった。


武内P「専務、やはり私は新田さんを会見に出させるのは反対です」

美城「きみの意見は聞いていない」

武内P「聞いてください」

65 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/01/28(土) 23:00:26.38 ID:8ENUCYV1O

視線も向けず、にべもない態度の美城専務に、プロデューサーは食いさがった。


武内P「わが社の今後の対応についてならこの資料だけでも十分説明できます。会見場に新田さんが登場してもいたずらに騒ぎがおおきくなるだけかもしれません。マスコミはそのことだけを報道し、わが社の方針がむしろ伝わらないおそれもあります」


専務はぴくりとも動かなかった。それでもプロデューサーの言っていることをちゃんと耳で受け止めていたのが目を細めたことからわかった。しかし、専務がプロデューサーからの具申を聞いていたのは、検討するためではなく反対するためといった様子だった。美城専務はフラットな声で話をはじめた。


美城「むろんそのリスクも承知している。だが問題はアイドル部門だけにとどまらない。プロダクション全体の業務が見直しをしなければならない状況だ。それだけではない。永井圭が新田美波の弟だと報道されてから、株価にも影響が出始めている。講じれる対応策は講じなければならない。永井圭が早急に保護されること、それが事態収拾のためには必須だ。それは理解しているだろう?」

武内P「しかし……!」

美城「そもそもきみにこの件に関する決定権はない。きみも美城の社員ならば上からの命令には従ってもらおう」

66 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/01/28(土) 23:02:06.07 ID:8ENUCYV1O

議論の余地はなかった。プロデューサーをこの部屋に呼んだのは議論するためでも意見を聞くためでもなく、命令するためだった。プロデューサーは美波が所属するプロジェクトの責任者であったからここに呼ばれたにすぎなかった。

専務室にはプロデューサーの直接の上司である今西部長もいた。彼は苦悩が痛覚を刺激しているような面持ちで沈黙を守っていた。今西には美城に言うことが理解できたし、プロデューサー言うことも理解できた。理解だけにとどまっていることが彼に痛みをもたらしていた。

プロデューサーは祈るような声で言った。


武内P「新田さんはいまもっとも辛い立場にいるんです。どうか……」

美城「きみは妙なことを言うな」


美城専務はそこではじめて資料から目線をあげ、プロデューサーを見た。


美城「いちばん辛いのは永井圭のほうだろう」

67 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/01/28(土) 23:03:39.37 ID:8ENUCYV1O

そのひとことがプロデューサーの動きを完全にとめた。雷に打たれたという表現がぴったりくる有様だった。美城専務はそんなプロデューサーの様子を気にもとめず言葉をつづけた。


美城「それに、新田美波本人が会見に出たいと言ったらきみはどうするつもりなんだ? 今回の事態に対する私の対処は美城プロダクションの専務取締役としてのものだ。私にはプロダクションに所属する従業員やアイドル、株主たちに対する責任がある。私はそれを放棄するつもりはない。新田美波にしても、アイドルとして活動を続けるのならなんらかの声明を求められるだろう。彼女にとっては家族の問題なのだから、どうしたってついて回ってくる。それくらいの自覚はあるはずだ。たいしてきみはどうなんだ? さっきの言葉は一従業員としての提言か? それとも、個人的な感傷による発言なのか?」


ドアをノックする音がした。断りを入れ部屋に入ってきた社員が聴取が終わったことを伝えた。戸崎たちを会議室に案内したという報告を聞いた美城専務は席をたち、凍りついたように固まっているプロデューサーの横を通りすぎた。


美城「会議が終わったら、新田美波に会って話を聞くことだ。きみの仕事はまずそこからだ」


プロデューサーが振り返ったとき、専務はもう姿を消していた。彼の目に入ったのは、なにも言わず閉じたままになっているマホガニー製の黒いドアばかりだった。

68 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/01/28(土) 23:04:57.67 ID:8ENUCYV1O

駐車場ではコンクリート柱が陰鬱そうに光を吸収し、不吉な緑色に染まっていた。目に見えるほどの大きさの粒子が降り注いでいるかのようなざらついた雰囲気の空間のなかに戸崎たちが乗ってきた公用車はあった。駐車されているセダンはおとなしく動きをとめたまま、黒い車体のつややかさをアピールしていた。

会議が終了し、駐車場まで戻ってきた戸崎はこの光景に微かな違和感を覚えた。間違い探しをしているかのような感覚。類似した二枚の絵を並べて、ほんのわずかに異なる点を挙げる。どことはいえないがたしかに異なるところが駐車場の風景にはあった。

とはいえ、人間の認識の曖昧さをあげつらって遊ぶゲームに戸崎は興味がなかったし、そもそもゲームをする暇がなかった。戸崎はセダンの助手席に乗り込んだ。運転席についた下村が戸崎に聞いた。


下村「次は埼玉の永井宅ですね」

戸崎「ああ。運転を頼む」


下村はシリンダーに差し込んだイグニッションキーを回し、エンジンを点火した。エンジンの唸り声がして、かすかな振動が椅子から伝わった。


下村「懸賞金のこと、説明してよかったんですか?」


セダンを出発させるまえに、下村は気になっていたことを戸崎にたずねた。

69 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/01/28(土) 23:07:23.90 ID:8ENUCYV1O

戸崎「かまわん。懸賞金の噂は亜人の目撃情報を集めるのに役立つからいままで訂正してこなかっただけだ。彼女が記者会見で情報を呼びかけるというなら、懸賞金より効率的に集まるだろう」


戸崎は素っ気なくこたえ、下村に視線をむけた。


戸崎「新田美波の携帯はすでに傍受しているな?」

下村「はい。すでに警察が準備を整えています。永井圭から連絡があれば、すぐに位置を割り出せます」

戸崎「そうか。それと、新田美波を亜人擁護思想者のリストに加えておけ」

下村「彼女は、ただ弟の心配をしてるだけでは?」

戸崎「新田美波は亜人擁護思想者だ。二度も言わせるな」

下村「……はい」

戸崎「余計な感傷は捨てることだ。きみは私と契約を結んだ。その完遂だけを考え行動しろ。それがきみのためだ」

下村「わかりました」

戸崎「目的を達成したければ、感情を封じ行動を目的にあわせて最適化せねばならない。良心や善意だけでの行動はときとして歪んだ結果を招く」

70 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/01/28(土) 23:09:33.31 ID:8ENUCYV1O

戸崎が例にあげたのは、スーダンで活動する奴隷反対を使命のに掲げるとあるNGOのことだった。かれらは第二次スーダン内戦以降悪化する国内情勢のなか、暴虐をふるう民兵たちによって誘拐され、虐待され、奴隷として売り払われる人びとを救うために行動を開始した。

人間の尊厳と権利を守るためにかれらが最大の力をいれおこなったことは、奴隷の買取だった。不幸にして奴隷に身をやつした人びとを自由へと解放するのに、かれらは金で解決するならと、すすんで誘拐者や奴隷商人に金銭を支払った。役にたちそうにない奴隷でも、いやだからこそ、善意のかれらは金を支払うことをためらわなかった。そして買い取られた奴隷たちは自由になった。NGOの人びとの善意は満たされた。奴隷商人たちはあらたな上客ができたことをよろこんだ。需要があれば供給がある。システムに無理解な善意あるいは良心はこういうことを引き起こす。


戸崎「われわれ公人は国民全体の利益、最大多数の最大幸福を追求するため、感情に流されることのない冷静な判断が必要とされる。少数を切り捨てることがあったとしても、それを実行できる人間でなくてはならない」


下村は戸崎の話を聞いていたが、肯定の返事をしない口実にするため車の運転に集中した。下村の意識はフロントガラスに一瞬だけ映ったかと思うともう上に飛んでいく車道の灯りとヘッドライトに照らされた車体の下を流れていく道路から、さっき戸崎が自分に言い聞かせたことにむかっていた。

戸崎さんはああ言ったけれど、と下村は考えた。功利を定めるのに、良心や善意といった利他的感情はけっして無力というわけではないのではないか。現代における社会では相互互助が目指されている。建前にすぎないと笑うのは簡単だが、すべての人間が笑い飛ばせば、それは誰ひとり笑う者のいない最悪のジョークになってしまう。利他的感情は万能とはいえなくとも、それらはある種の基準となりうるはず。わたしがそれらを押さえ込む場面を想像するのはむずかしいが、そうしなければ仕事はできない……

71 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/01/28(土) 23:10:56.51 ID:8ENUCYV1O

セダンは県境を越え、永井の家がある埼玉県へと入っていった。都心からはなれ、明かりもビルもかなり減っていたが、それでもまだ高速道路を走る車の数はまばらに存在し、セダンが車両を追い越したり、反対車線の車のヘッドライトがフロントガラスから飛び込んできたりした。

後方に流れていく車や光を眼鏡のレンズ越しに眺めながら、戸崎は駐車場での違和感に突然思いあたった。駐車場からビルへの通用口を警備する警官二名が不在だったのだ。

運転席の下村はハンドルを握りながらじっと前を向いて、いささか横道にそれた考えにふけっていた。それはある種の仮定だった。良心や善意のない人間がもしいるとすれば、と下村は思ってみた。そのひと、いったいはどんなことをするのだろう、と。

72 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/01/28(土) 23:13:16.72 ID:8ENUCYV1O

美波は決断を下していた。すくなくとも、プロデューサーにはそう見えた。

じっと呼吸をこらえ海の底にでもとどまっているかのように、美波は応接室の革貼りのソファに、背中を丸めながら前を見て座っていた。頭の働かせるのに視線が役にたつと思っているのか、美波は正面にある誰もいないソファを凝視している。

プロデューサーが応接室にはいってきたときも、美波は微動だにせず、なんの反応もみせないまま座り続けていた。


武内P「新田さん」


プロデューサーに呼びかけられたとき、美波ははた目でもわかるようにおおきく息を吸い彼のほうを向いた。


美波「……プロデューサーさん、記者会見について詳しく聞かせてくれますか?」


プロデューサーはすぐには口を開かなかった。彼は美波の正面にある来客用の黒いソファに腰をおろし顔をあげた。顔をあげたとき、プロデューサーの目は美波の視線とぶつかった。美波はさっきの言葉を言い終えるとすぐに顔の向きを戻し、プロデューサーの動きを目で追うことなくふたたびずっと正面を見続けていた。プロデューサーは、ふと腰をおろし息をついたとき、突然目の前にあった彫像が目に飛び込んできたかのような錯覚に陥った。ややあってから、彼が美波にたずねた。

73 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/01/28(土) 23:14:25.81 ID:8ENUCYV1O

武内P「出席されるおつもりですか?」

美波「はい。反対なんですか?」

武内P「いまこの段階では、リスクが大きいかと……」

美波「亜人管理委員会の戸崎さんに話を聞きました。圭はいま危険な状況にいることを。だから、いまじゃないとダメなんです」

武内P「私も同様のことは会議で聞きました。弟さんが無事に保護されるために正しい情報が報道されなければならないこともわかります。私が懸念しているのは、新田さんの登場によってそういった情報が正しく報道されるかどうかという点です」

74 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/01/28(土) 23:15:41.32 ID:8ENUCYV1O

美波は黙ったまま話を聞いていた。美波と対面するかたちでプロデューサーはソファに腰掛けていた。目の前の美波は顔をあげ、プロデューサーと視線を交えている。そこにあるのは綱引きのような緊張関係だった。美波はプロデューサーの協力を求めていたが、無条件になんでも受け入れることはできなかった。自分の意志が最大限に尊重されることが前提で、それが認められないなら別の人間に助けを求める意志があること彼女の眼は語っていた。美波の視線が鋭さと潤みを増すのを見てとりながら、プロデューサーは話を先にすすめた。


武内P「いちど拡散された情報は回収ができないどころか、恣意的な編集によって情報が歪められる恐れがあります。悪意をもってそう意図するわけではなく、ただ単に放送しやすくするためという理由でおこなわれた編集でもそういったことは起こりえるのです。すべてのメディアが内容にも配慮するという保証はありません。映像それ自体に重きを置いた加工がなされても、それは報道する側の自由なんです」

美波「なにもせずにこのまま黙っていることが得策だと言うんですか?」

武内P「戸崎氏がおっしゃったことなら、わが社の広報からでも伝えることは可能です。新田さんは、それでも会見にお出になられるとおっしゃるのですか?」


いっときの沈黙ができた。応接室は時計と空調と観葉植物の葉が壁にこすれる音に満たされた。すこししてふたたび美波が口を開いたとき、その声には切実な感情が滲みでていた。

75 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/01/28(土) 23:16:57.32 ID:8ENUCYV1O

美波「プロデューサーさんのおっしゃることはよくわかったつもりです。わたしの心配をしてくれていることも、いまの状況について冷静な意見をおっしゃてくれたこともわかっています。でも、わたしにとって、問題は圭がどう受け止めるかってことなんです。警察や政府の人たちが圭を追って、一般の人たちも大騒ぎしているとき、安全が保証されるから政府に保護されるべきだとニュースで報道されたとしても、それを信じるでしょうか?」

武内P「新田さんのおっしゃることなら信じてくれる、と?」

美波「……わかりません。でも、もしかしたら信じてくれるかもしれない」


美波は正直に自分の思ってることを言葉にした。そのことを実際の音声で聞いたとき、それほどショックを受けていない自分に気づいた。あいまいな希望だとわかっていても、なにかをしないではいられなかった。美波の言葉を聞いたプロデューサーはうつむいていた。ややあってから、プロデューサーが口を開いた。


武内P「政府に保護された亜人は、たとえ家族といえど面会はできないと聞いています。新田さんは、それでもかまわないのですか?」

美波「そのことも考えてみました。圭が安全な場所にいることが、わたしが最優先にすることなんです」


プロデューサーはまた沈黙した。だが、今度はうつむかなかった。

76 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/01/28(土) 23:18:15.03 ID:8ENUCYV1O

武内P「私は、あなたのプロデューサーとして意見を述べたにすぎません。あなたが私の意見を聞き、そのうえで会見に出ると決断されたのなら、私はあなたを全力でサポートします。それが私の仕事です」


美波は鼻を啜り、とめていた呼吸を再開したかのように息を吐いた。潤みに満ちた声で、ありがとうございます、と礼を述べた美波に、プロデューサーはこう応えた。


武内P「新田さんのプロデューサーですから」


プロデューサーの言葉は、美波の味方でいることを決断したと伝えていた。


武内P「会見で発表する声明ですが、できるだけ改編が難しいような文章を書かせましょう」


なんの前触れもなくドアが開いた。


「あ、いた」

77 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/01/28(土) 23:19:37.02 ID:8ENUCYV1O

応接室に姿を現したのはハンチング帽をかぶった初老の男だった。年齢は今西と同程度だったが、体躯を支えるしっかりとした筋肉がそなわっていて、一七三センチ程度の年齢からしてはかなりの背丈をしていた。帽子の下からは白髪がのぞいていて、半袖のシャツの裾をサスペンダー付きのズボンのなかに入れている。その男はナイフでいれた切れ目のような細い目をしていた。穏やかな表情をしているのに、目の奥がまったくうかがえない。


「あなたが新田美波さん? 永井圭くんのお姉さんの」

武内P「記者の方は立ち入り禁止です。すぐにお引き取りを」

「私は記者ではなく、永井君のことを心配する者です」

78 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/01/28(土) 23:21:34.41 ID:8ENUCYV1O

めずらしく威圧感を発し、おいかえそうとするプロデューサーを帽子の男はやんわりと制した。帽子の男は背をそらし視界を遮っているプロデューサーの身体をよけた。そして美波をみて、言った。


「私は亜人の市民権獲得をめざす団体の一員です。ここへは亜人の権利を守る活動の一環としてきました」

美波「厚労省のかたではないんですか?」

「ええ。亜人保護委員会という名称の民間団体です」

美波「それで、あの……」

「ああ! 申し遅れました」


帽子の男は一歩前に出て言った。応接室にはいってきたときから変わらず、部屋のなかでただひとりだけ、深刻さとは無縁の穏和な表情をうかべていた。


「私は佐藤と申します」


帽子の男はそのように名乗った。

79 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/01/28(土) 23:25:49.12 ID:8ENUCYV1O
今日はここまで。仕事が忙しかったり、書きためが消えたりして(そんなに量はなかったですが)、更新がだいぶ遅れてしまいました。もともと遅筆なので2週間に1回更新できればといいほうだと、どうか大目にみてください。

わりと余談なんですが、ベトナム戦争ではフェニックス作戦という秘密作戦が展開されてたそうで、内容をみるかぎり、佐藤さんは確実にこの作戦に従事してたなあ、と思います。
80 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2017/01/28(土) 23:43:25.31 ID:bkOHTD770
おつ

原作では妹が一時的に誘拐されてたけどこっちではどうなるか
あとデレマスsideの亜人が気になる
81 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2017/02/05(日) 00:59:21.78 ID:8FkjhZrYo
フェニックス計画はsogでも不良が回されたそうだし、team単位での精鋭で出来た集団故にチームと呼ばれてたのを考えると、司令部直轄の秘密コマンドだろうと思う。 そういうコマンドはあったと聞くし
82 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/02/12(日) 22:46:00.70 ID:nOJuozZtO

3.サービスにするのもいいかもね


完全に黒い物体ならばどんなに鋭敏な視覚でも捕えることができないし、見ることができない、と彼は主張した。

「透明。すべての光線を通過させる物体の状態もしくは性質」

ーージャック・ロンドン「影と光」


佐藤とのみ名乗った帽子の男が差し出した名刺にも、姓である佐藤の文字が明朝体で印刷されているだけで、下の名前はいっさいわからなかった。ほかには亜人保護委員会という団体名と事務局長という役職名あるのみで、玄関の表札をそのまま名刺に移し替えたかのようにシンプルでそっけなかった。

佐藤が名刺を渡すためシャツの胸ポケットから名刺入れを取り出そうと頭をさげたとき、ハンチング帽の庇の先が下を向いた。帽子を真上から見下ろしたかたちになるそのシルエットはどことなく爬虫類の頭部を連想させ、佐藤の顔の上にある穏和さと食い違う印象をあたえた。


武内P「佐藤さん、あなたが記者ではないということはわかりました」


プロデューサーは佐藤から渡された名刺を見て言った。


佐藤「それはよかった」

武内P「ですが、現在我が社は外部の方への応対まで手が回らない状況です。申しわけ有りませんが後日またアポを取ってからお越しいただけますか?」

佐藤「いや、私もそうすべきかと思ったんですがね」


佐藤はソファに腰をおろしていた。その表情はいつのまにか真剣なものに変わっていた。


佐藤「永井君が政府に捕まってしまうまえに、なんとか彼の安全を確保したいのですよ」

83 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/02/12(日) 22:47:59.19 ID:nOJuozZtO

美波「それはいったいどういうことなんですか?」


美波は押し込めていた感情に突き飛ばされたかのように身を乗り出し、佐藤の言葉にたいして過敏に反応した。佐藤が美波をほうをむいた。帽子の影が額にかかり、佐藤の細い眼は光があたっている部分と影とのちょうど境界線にあたるところにあった。


佐藤「政府は亜人を使って違法な人体実験をしてるということです」


と、佐藤は言った。


美波「まさか……そんなこと……」

佐藤「二〇〇五年に映像が流出し問題になった、米軍による敵軍捕虜の亜人に対する人体実験をおぼえておいでですか? 拷問のような非人道的行為です。あの映像流出を機に、ネット上では亜人研究に関する機密情報や内部告発が多く見られるようになりました。それでも各国政府は、政府が管理する亜人について、情報公開をいっさいしていません」

武内P「ちょっと待ってください。そのニュースなら私も知っていますが、あれは軍が独断でおこなったことでしょう? なぜ政府が亜人の人体実験をおこなっているということになるんです?」

佐藤「事実、おこなっているからですよ」


佐藤はプロデューサーの質問を断ち切るような答えを返し、話を続けた。

84 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/02/12(日) 22:50:07.94 ID:nOJuozZtO

佐藤「亜人が死んだ回数を測定する方法をご存知ですか? 亜人に痛みを与え、そのときの脳の反応を見ることでその亜人が何回死んだか予測することができるんです。亜人研究は、亜人であった者に苦痛を与えることが前提になっているのです」

美波「でも、亜人管理委員会の方は亜人狩りの危険から守るためだって……」

佐藤「その言葉に嘘はないでしょう。亜人の研究は大きな利益を生み出しますからね」


プロデューサーも美波も佐藤の話す内容に困惑するしかなかった。プロデューサーは話の内容よりも佐藤の行いについて、佐藤が見計らったかのようにここへやって来て、戸崎の嘘を暴くかのように話すことへの困惑のほうが大きかった。それが事実なのかどうかを判断するほどの材料がこちらにはなく、相手側もそのことを知っている。情報についての階級差がありすぎた。

佐藤の指を組んだ手が膝のあいだに浮いていた。帽子の男の声音はちょうどこの手のような静止状態をあらわしていた。事実とされる言葉の連なりが淡々と宙空に放り出される物体のように提示されると、それらはまるで静物のように動きを止め観察と検討を強いてくる。

佐藤はさらに言葉を重ねた。それは、耳を疑うような内容だった。


佐藤「私たちの願いはささやかなものです。だが重要でもある。それは平和です。普通の人々が享受しているささやかな平和をわれわれは欲しているのです」

85 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/02/12(日) 22:52:05.80 ID:nOJuozZtO

佐藤の顔つきは真剣そのものだった。“われわれ”という主語は、意識的に選択されたものだということがその顔からわかった。だが、その語が意味する範囲は、美波やプロデューサーにとって不確定で、同定しえないものを含んでいた。

“われわれ”。その“われわれ”のなかには、いったいだれが、どれほどの人数が、含まれているのだろうか。これまでの説明から、佐藤は亜人である永井圭を“われわれ”の一員としてむかえいれようとしていることは美波にも推測できた。問題は佐藤の言う“われわれ”のなかで、佐藤自身がどのような位置にいるのかという点だ。美波の目の前にいるこの帽子の男は市民団体の事務局長でしかないのか、あるいは……

もしこの人のいうことが真実で、そして圭とおなじ身体をしているのだとしたら、と美波は思った。この人のほうが圭の味方にふさわしいのかもしれない。ともすれば、わたしよりも。

美波のこころは佐藤のほうに傾きかけていた。軽挙を避けるべきだという考えはあったとしても、佐藤からふたたびはたらきかけがあればひかえめな一歩を踏み出してしまいそうな気持ちになっていた。

86 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/02/12(日) 22:56:31.03 ID:nOJuozZtO

美波「でも、わたしになにができるんでしょうか?」

佐藤「まずは永井君のことを聞かせてください。大丈夫。どんなにささいな行動でも、それが真剣なものなら、かならず変化のきっかけになりますよ」


佐藤の表情はドアが開きこの部屋に入ってきたときのような微笑みにもどっていた。美波はその変化をつぶさに見てとった。それは表情筋のはたらきだけに還元可能な、まるで笑顔の作り方を指導するかのような口角の上げ方だった。


武内P「変化とは?」


プロデューサーが思わず口をはさんだ。理由はわからないが、佐藤のいう変化が美波や彼女の弟が望んでいる類いのものだとは思えなかったからだ。そんなプロデューサーの考えを知ってかしらずか、佐藤の返答はいやにあっさりしていた。


佐藤「亜人にとって住み良い国になるということですよ」


そこでノックの音がした。ドアを開けて部屋にはいってきたのは事務員の千川ちひろだった。蛍光緑の上着がきらきらと光をはね返している。プロデューサーが立ち上がり、彼女に近づいた。ちひろは声をひそめて早口に喋っていた。緊急に伝えることが起きたようだ。

美波もそちらに目を向けていたが、横から聞こえきた息のぬける軽い音に首をまわした。佐藤だった。言いつけのせいでゲームを中断せざるをえないときのような残念そうな表情を一瞬だけ浮かべていた。

87 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/02/12(日) 22:57:57.18 ID:nOJuozZtO

佐藤「なにか問題が起きたみたいですね」


ちひろはそこで美波のまえに座っている帽子の男が見知らぬ人物であることに気づいたようだった。すこしだけばつの悪い顔をすると、すぐに表情をもどして言った。


ちひろ「申し訳ありません、慌ただしいところをお見せしてしまって……」

佐藤「いえいえ、アポもなしに来たのはこちらのほうですから」


そう言うと佐藤は腕時計に目を落とし、ソファから立ちあがった。


佐藤「ではそろそろ失礼します」


美波はあっけにとられた。佐藤の表情から波でさらわれたかのように真剣さが消えていた。目当ての品物が店に置いてなかったときにみせる足取りで部屋を横切り、あっという間にドアの前まできた。

かろうじてプロデューサーが去ってゆくのを思いとどまらせようと、佐藤の背中に声をかけようとした。つぎの瞬間、佐藤は首をめぐらし部屋のなかにいる三人を視界におさめながらふたたび口角をあげた。


佐藤「そうそう。政府による亜人虐待の証拠ですが、近いうちにお見せできると思いますよ」


佐藤は帽子のつばを持ち上げると、応接室から去っていった。残された三人はそれぞれ種類のちがう困惑を胸に浮かべていた。そのなかでもとくに美波は、なにかに見捨てられたような気持ちに陥っていた。感情そのものが錨になったみたいに、美波はソファに座ったまま、身動きがとれないでいた。

88 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/02/12(日) 23:00:04.80 ID:nOJuozZtO

プロダクションからすこし離れたところに位置しているコインパーキングは、病気にかかったみたいな緑色をした街灯に照らされていた。光は、その駐車場に停めてある一台のワンボックスカーの運転席に座っている男の額にもあたっていた。オールバックにした黒髪が艶やかに緑の光線を反射している。男の眼つきは凶暴そのもので、解放されてからずっと眼に映る人間すべてにナイフを一突きしたくてたまらないようだったが、いまは眠気が瞼になっているみたいに眼を閉じかけていた。

男はなんとか瞼を押し上げ、腕時計を見て時刻を確認した。夜の十二時を過ぎていた。男は腕時計に視線を落としたまま腕を上げ、デジタルの標示盤を囲みを目の下に押し当て、眠気を追い出そうとした。できるだけ眠りたくはなかった。眠れば、記憶が夢のもとになって蘇ってくる。男の人生の三分の一ほどを占める十年という時間は、苦痛の記憶だった。男の脳はこれまで何度も潰されたり、切り取られたり、撃ち抜かれたり、破壊されてきたが、それでも苦痛の記憶はひとつも欠落することはなかった。

男は半分ほど飲み干した缶コーヒーに口をつけた。砂糖とミルクもないブラックコーヒーだったが、しばらくすると眠気との戦いには役に立たないことがわかった。


佐藤「おまたせ、田中君」


車のドアが開いた音がした。声のしたほうを向くと、帽子の男が助手席に乗り込んでいた。田中の眼がぱっちりと開いた。

89 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/02/12(日) 23:01:27.37 ID:nOJuozZtO

田中「すいません、ちょっとうとうとしてました」

佐藤「いいよ。もう夜も遅いからね」


田中はハンドルに両手を置き、腕を伸ばした。筋肉が伸長し、関節がぽきぽきと音をたてた。そして今度は車の時計を見た。さっき腕時計で確認した時刻から十分程度過ぎたくらいだった。


田中「けっこう早かったすね」

佐藤「残念ながら時間切れでね。思ったりよりはやく気づかれちゃったよ」

田中「それじゃ話は聞けなかったんすか?」

佐藤「うん」


佐藤はこともなげに言った。


田中「佐藤さんなら、ふつうに忍び込むくらいできたんじゃないですか?」

佐藤「それじゃあ、おもしろくないじゃない」


田中はため息をついた。

90 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/02/12(日) 23:02:43.68 ID:nOJuozZtO

田中「まあでも、どうせたいした話は聞けなかったと思いますよ。姉っていっても、長い間離れて暮らしてたらしいですし」

佐藤「え? そうなの?」

田中「知らなかったんすか……」

佐藤「なるほど、それで名字が違ったのか」


佐藤の態度にさすがの田中もすこし呆れた様子だった。


田中「それで次はどうします?」

佐藤「永井君には妹さんもいたよね」

田中「はい」

佐藤「じゃ、日が昇ったら妹さんのところに向かおう。今日のことできっと警備もすこし厳重になってるかもしれなけど、田中君に任せていいかな?」

田中「問題無いです」

佐藤「今日、私がやったようにすればいいから」

91 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/02/12(日) 23:04:50.29 ID:nOJuozZtO

佐藤は首をくいっとかるく動かし、トランクのほうを示した。そこには大型のクーラーボックスが二つあった。バックドアからみて右側の奥に横向きにして並べて置かれている。市販されているものでは最大容量のもので、押し込めることができるのなら人間くらいならはいりそうな箱だった。クーラーボックスの蓋はぴったり閉じられていた。蓋の周りには灰色のダクトテープが何重にも巻かれていて、箱の中身いっぱいに液体が詰まっていたとしてもそれが漏れ出る心配はなさそうだった。


佐藤「操作のコツはもう掴んだかい?」

田中「はい。任せてください」


そう言うと、田中はさっきの佐藤よりも大きく首をめぐらし、クーラーボックスに顔を向けた。


田中「でも、あれどうするんですか?」

佐藤「適当に処分してもいいけど、サービスにするのもいいかもね」


田中はよくわからないといった様子で、佐藤の顔を見やった。


佐藤「いろいろ入用になるだろうし、使える臓器は猫沢さんにあげちゃおう」


佐藤は柔和に微笑みながら言った。 そして、ワンボックスカーが駐車場から出発した。発進するときの揺れで、トランクのクーラーボックスがガタンと音をたてた。だが、佐藤も田中も、クーラーボックスの中にいるものは決して生き返らないことを知っていた。ワンボックスカーは街灯に一瞬だけ照らされた。光が車体のうえをなめらかにすべっていく。だがそれもわずかなあいでのことで、二人の亜人を乗せた車は闇になかに消え、すぐに見えなくなった。

92 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/02/12(日) 23:09:48.61 ID:nOJuozZtO
章の途中ですが、今日はここまで。

デレマスの曲で佐藤さんにぴったりのやつがあるかなぁと考えた結果、「絶対特権主張しますっ!」が歌詞の内容的にすごい合うと思いました。
93 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2017/02/13(月) 11:14:47.08 ID:Fd/hLyVE0
94 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/02/14(火) 21:59:37.04 ID:16nzUkT/O
>>88 の文章が一部抜けてたので訂正


プロダクションからすこし離れたところに位置しているコインパーキングは、病気にかかったみたいな緑色をした街灯に照らされていた。光は、その駐車場に停めてある一台のワンボックスカーの運転席に座っている男の額にもあたっていた。オールバックにした黒髪が艶やかに緑の光線を反射している。男の眼つきは凶暴そのもので、解放されてからずっと眼に映る人間すべてにナイフを一突きしたくてたまらないようだったが、いまは眠気が瞼になっているみたいに眼を閉じかけていた。

男はなんとか瞼を押し上げ、腕時計を見て時刻を確認した。夜の十二時を過ぎていた。男は腕時計に視線を落としたまま腕を上げ、デジタルの標示盤を囲みを目の下に押し当て、眠気を追い出そうとした。できるだけ眠りたくはなかった。眠れば、記憶が夢のもとになって蘇ってくる。男の人生の三分の一ほどを占める十年という時間は、苦痛の記憶だった。男の脳はこれまで何度も潰されたり、切り取られたり、撃ち抜かれたり、破壊されてきたが、それでも苦痛の記憶はひとつも欠落することはなかった。心理学者ウィリアム・ニーダーラントの指摘するところでは、犠牲者は凄まじいエネルギーでわが身が嘗めたことを記憶から締めだそうとするが、たいていの場合それに成功しない。

男は半分ほど飲み干した缶コーヒーに口をつけた。砂糖とミルクもないブラックコーヒーだったが、しばらくすると眠気との戦いには役に立たないことがわかった。


佐藤「おまたせ、田中君」


車のドアが開いた音がした。声のしたほうを向くと、帽子の男が助手席に乗り込んでいた。田中の眼がぱっちりと開いた。

95 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2017/02/17(金) 18:32:34.92 ID:e5tbNLGVo
期待
96 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2017/03/02(木) 15:45:32.45 ID:vL93/uH+o
期待
97 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/03/04(土) 23:29:21.45 ID:ULzdASnMO
更新遅くて申し訳有りません。いま頑張って続きを書いてます。

今日はとても驚いたことがあったのでそれだけお伝えします。たまたまYouTubeで見てたこのサイレント映画→(https://youtu.be/BVSFlSxNvLg /D・W・グリフィス『見えざる敵』An Unseen Enemy/1912)に、佐藤がフォージ安全社長の甲斐を殺害した方法そっくりそのままのシーンがありました。壁の穴からリボルバーが出てくるだけでなく、ドロシー・ギッシュの顔に銃口が向くシーンまであるんですよね。

オマージュか、偶然の一致かは分かりませんが。
98 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/03/04(土) 23:35:04.88 ID:ULzdASnMO
日本語字幕付きの動画があったので貼っておきます。
https://youtu.be/ITk2FkRdbcA
99 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/03/24(金) 21:50:54.52 ID:NJ9NkxEDO
専務のセリフで明後日の会見とありましたが、明日の会見の間違いでした。脳内訂正お願いします。


七月二十四日午後二時三十八分


テレビの液晶画面に美波の姿がふたたび映る。プロジェクトルームには美波をのぞくすべてのメンバーがいて、正午頃に行われた会見の様子を何度も繰り返し流している番組を無言のまま迷ったように見つめている。横長の画面のなかで美波は装飾のない白いブラウスに身を包み、昨夜戸崎から受けた説明を記者たちにむかって淡々と語っていた。この映像の意味はつまり、美波は亜人管理委員会の側についたということだった。

戸崎たちが去った直後にあらわれ、自身を亜人だとほのめかしながら、かれらの欺瞞と亜人管理の実態を暴露しに来た佐藤に心情的に傾きながらも、美波が会見で亜人管理委員会側の論調をなぞったのは、あのとき帽子の男がプロダクションビル内にいたと証明できるものが佐藤を直接目にした三人、美波とプロデューサーと千川ちひろ以外には誰もいなかったからだった。

佐藤が美波たちの前に姿を見せた時刻を前後して、駐車場からビル内への通用口を警備する二名の警官が突如として姿を消していた。その二名の消息は現在も杳として知れないままで、何が起きたのかを記録しているはずの駐車場に設置されていた複数の監視カメラはすべて破壊されていた。
100 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/03/24(金) 21:52:08.03 ID:NJ9NkxEDO

昨日事情聴取にやって来た巡査部長が早朝から、美波たちがプロダクションに着くより先に待機していた。巡査部長は口を苦々しくきつく一文字に結び、顔の筋肉のこわばりが唇に続く筋を頬に作っていた。巡査部長の唇は鮮やかな桜のように血色の良い色をしていたが、こわばりのせいで見えなくなっていた。事件を説明した巡査部長は美波たちに気になる点や怪しい人物を見なかったか質問した。プロデューサーが真っ先に事実を報告した。佐藤が現れたとおぼしき時刻、美波とプロデューサーにむけて語った会話の内容、ちひろが異変を報告しにきた途端に会談の途中にかかわらす切り上げ去っていったこと、これらを簡潔に事実とそうでない部分を峻別しながら質問に答えた。巡査部長はちひろと美波にも同様の質問をした。ちひろはプロデューサーが言ったことに間違いはないと答えた。美波は答えるのにすこし迷っていたが、事実を曲げるようなことは言わなかった。

話を聞いた巡査部長は、帽子の男の正体を亜人狩りを生業とする密猟者の一味ではないかと推測し、プロデューサーらに警戒をより厳重にするよう忠告し去っていった。プロデューサーとちひろも巡査部長の推測、すくなくとも帽子の男は危険人物と見なすべきだという意見に賛成だった。美波も、状況証拠が匂わせる容疑の濃さを認めざるを得なかったし、実際プロデューサーやちひろにほぼ同意していた。しかし、美波にはもうひとつの可能性を検討する必要があった。佐藤が事実を語っていたという可能性。佐藤は亜人で、亜人管理委員会は亜人の虐待を行っていて、世間はそのことに無関心だという可能性のことだ。
101 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/03/24(金) 21:53:11.77 ID:NJ9NkxEDO

この可能性は、佐藤が警官の失踪に関係があるという推測と矛盾しない。むしろ、上記の理由がそのまま動機となり得た。その場合、弟を佐藤に預けるのは安全といえるのだろうか。ある意味では、安全といえるのかもしれない。だがその安全とは、確保するために身分を偽ることや、ことによったら人を殺す必要性がある類いのものだ。社会的弱者が権利を拡大するのに、暴力が主張を訴える手段として選択されるのはどんな社会においても為されてきた。それはテロリズムとは別の文脈で検討されなければならない(しかし、家族がその運動に参加するとなると話は違ってくる)。

極端なこといえば、亜人管理委員会か佐藤のどちらかを選択することは、社会か周縁か、どちら側の味方になるのかを表明することだった。亜人管理委員会を選べば、弟は実験体にされる。佐藤が語ったような生体実験の事実がなかったとしても、亜人は貴重な生物であることにかわりはないから、呼吸や心拍音ですら研究のために計測され記録されるだろう。亜人と発覚した者は、研究対象されることによってはじめて社会の内側に存在することを許される。
1014.51 KB Speed:0.3   VIP Service SS速報VIP 更新 専用ブラウザ 検索 全部 前100 次100 最新50 続きを読む
名前: E-mail(省略可)

256ビットSSL暗号化送信っぽいです 最大6000バイト 最大85行
画像アップロードに対応中!(http://fsmから始まるひらめアップローダからの画像URLがサムネイルで表示されるようになります)


スポンサードリンク


Check このエントリーをはてなブックマークに追加 Tweet

荒巻@中の人 ★ VIP(Powered By VIP Service) read.cgi ver 2013/10/12 prev 2011/01/08 (Base By http://www.toshinari.net/ @Thanks!)
respop.js ver 01.0.4.0 2010/02/10 (by fla@Thanks!)