速水奏「誰にでも優しいプロデューサーさん」

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26 : ◆z4l4K/HkZ2 :2017/09/09(土) 01:06:29.40 ID:UExX3PfR0




「38度か……思ったより熱が出てるな……」




体温計の数字を確認して溜め息が出る。

ベッドから身体を起こすが、とんでもなく怠い。

ここ最近は奏たちのLIVE前という事もあって休みなしだった。

単純に仕事量が多いのもあるが、やはり自身の力量不足もあるだろう。

最近は特に担当アイドル達の人気が上がって、様々な仕事が入ってくるようになった。

それを捌ききれずに労働時間が長くなっていた。
27 : ◆z4l4K/HkZ2 :2017/09/09(土) 01:08:22.58 ID:UExX3PfR0

彼女たちがアイドルとして成長し、自信を付けていくのに対して、自分は実力不足を実感する。

しかしそのせいでアイドル達の足を引っ張るわけにはいかないから、自然と休みを削る恰好となった。

その結果がこのザマである。

だが、休むわけにはいかない。

無造作に仕舞っていた風邪薬を栄養ドリンクで流し込み、マスクを付け、事務所に向かった。
28 : ◆z4l4K/HkZ2 :2017/09/09(土) 01:10:18.68 ID:UExX3PfR0

「もう、連絡を入れて頂ければ良かったのに……今日はもう帰って休んでください」

事務所に着くなり、帰宅命令だ。

目の前の事務員、千川ちひろさんは、心配そうな顔で俺を見ていた。

「確かに最近プロデューサーさんは業務が立て込んでましたよね……私がフォローできておらず、ごめんなさい」


頭を下げるちひろさんにこちらが申し訳なくなる。

「何を言ってるんですか、ちひろさんだって大変な量の仕事を抱えてるじゃないですか。仕事が遅い自分のせいです」
29 : ◆z4l4K/HkZ2 :2017/09/09(土) 01:12:20.17 ID:UExX3PfR0
俺の言葉にちひろさんは一瞬呆れたような表情を浮かべたが、すぐに心配そうな顔に戻った。

「……とにかく今日はもう帰ってください。今日の業務は私に任せて、早く治してくださった方が、皆助かりますから」



今来た道をそのまま戻り、自宅に帰ってきた。

ちひろさんや、アイドル達には申し訳ない。

だが、この家と事務所への往復だけでもより一層身体が気怠くなったのを感じる。

この状態で仕事を強行していればもっと皆に迷惑を掛けていただろう。
30 : ◆z4l4K/HkZ2 :2017/09/09(土) 01:15:37.78 ID:UExX3PfR0
「……」

マンションの階段を上る足がとてつもなく重い。

いつから自分の身体はこんなにヤワになったのか。

それとも風邪をひいてる時はこんなものだったか。

やっとの思いで自分の部屋のドアまで辿り着いた。

覚束ない手つきで鍵を開け、玄関を跨ぐ。


ああ、やっとベッドに――――

その瞬間、まるで何かに憑りつかれたかのように、いや、あるいは憑き物が取れたかのように足腰から崩れ落ち、意識は混濁へと落ちて行った。
31 : ◆z4l4K/HkZ2 :2017/09/09(土) 01:17:24.08 ID:UExX3PfR0
「――――……」

どのくらい眠っていたのだろうか。

ベッドの上で目を覚ます。

少しはマシになった気はするが、依然として頭は重い。



「……?」

そもそも自分は家に帰り着いた時、ベッドに倒れただろうか。

思い出せない。

それに、台所の方から何か匂いがする。

フラフラと立ち上がり、台所の方へと向かう。
32 : ◆z4l4K/HkZ2 :2017/09/09(土) 01:19:37.17 ID:UExX3PfR0


「……あら。目が覚めたのね。良かったわ」

「……奏?」



そこには良く見知ったアイドルの姿があった。


「あと少し待ってて頂戴?もう出来るから」

唐突な出来事に理解が追い付かない。

何故ここに奏が?
33 : ◆z4l4K/HkZ2 :2017/09/09(土) 01:21:36.50 ID:UExX3PfR0



「病人に食べさせる料理っておかゆくらいしか思いつかなかったのよね。まあ塩味くらいは付いてるから食べられるとは思うけど」

そんなことを言いながら居間の小さなテーブルの前に座っている俺におかゆの入った鍋を持ってくる奏。


「……ありがとう、けど奏、どうして……」

「え?ええ、大丈夫よプロデューサーさん。あまり普段料理はやらないけど……得意な方だとは思うから」

「いや、そうじゃない。なんでここに……」
34 : ◆z4l4K/HkZ2 :2017/09/09(土) 01:24:51.40 ID:UExX3PfR0
「経緯の方の話かしら。それなら貴方が食べながらでも話せるわ」

そう言うと奏は粥をスプーンで掬い、ふーふー、と息を吹きかけ、俺の口の前に差し出す。


「はい、プロデューサーさん。あーん、よ」

「い、いやいやいや、自分で食べられる」

身体の気怠さから来る熱とはまた違った熱を顔に感じ、慌ててスプーンを受け取ろうとする。

「ふふ、照れてるのかしら?でもプロデューサーさん、こんな機会は滅多にないのだから、素直に甘えてた方が後悔が無いわよ」
35 : ◆z4l4K/HkZ2 :2017/09/09(土) 01:27:19.20 ID:UExX3PfR0

「……」

悩んだ挙句おずおずと口を開ける。

「……あー」

「ふふ、素直ね。そういう所素敵だと思うわよプロデューサーさん。はい、あーん……あっ」

そのままスプーンの粥は俺の口に……入る直前、翻り、奏の口に入っていった。

「……ん、味付けは大丈夫ね。ああ、ごめんなさいプロデューサーさん。そういえばまだ味見して無かったわ。そんなものを病人の貴方に食べさせる訳にはいかないもの、ね?」

「……」
36 : ◆z4l4K/HkZ2 :2017/09/09(土) 01:29:49.77 ID:UExX3PfR0
奏から聞いた経緯はこうだった。

俺が事務所から帰ったあと、ちひろさんから俺の病欠を聞いた奏は今日はたまたま仕事が入ってなかったので、レッスン後、俺の見舞いに俺の家に訪れた。

何度インターホンを押しても反応が無かったので不審に思い、ドアノブを捻ってみると、玄関で俺が倒れていた。

救急車を呼ぼうかとも思ったがとりあえず俺が眠っているだけだと確認出来たので隣人の力を借り、俺をベッドまで運び、看病してくれていたとのことだった。


「もしそのまま目を覚まさなかったらどうしようかと思ったけど、目を覚ましてくれて良かったわ。おかゆも食べられたようだし、ひとまずは大丈夫そうね」
37 : ◆z4l4K/HkZ2 :2017/09/09(土) 01:32:16.79 ID:UExX3PfR0
経緯を聞いてますます申し訳ない気持ちになった。

「ごめんな奏、仕事に穴を空けてしまった上にこんな面倒までかけてしまって……本当に言葉が見つからない」

「別に良いわよ。私が好きでやったことなんだから」

そこで俺はふと部屋を見渡し、気付く。

かなり散らかっていたはずだが、部屋は綺麗に片付いていた。


「部屋の掃除までさせてしまったんだな。本当にすまない、必ずこの埋め合わせはするから」


そう言うと奏は一瞬微妙な表情をした。
38 : ◆z4l4K/HkZ2 :2017/09/09(土) 01:34:29.57 ID:UExX3PfR0
「……ねぇ、プロデューサーさん」

「ん?」

「……いえ、やっぱりなんでもないわ。どう?プロデューサーさん、他にも必要な物があれば買ってくるけど」

「いや、十分すぎるよ。本当にありがとう。明日は必ず仕事に戻って見せるから」

「……そう。じゃあ私はもう帰るわ。また事務所でね」

「ああ。帰ったらしっかりうがいするんだぞ。俺の風邪が奏に伝染ってたりしたら最悪だからな」

「ええ。……ねえ、プロデューサーさん。貴方が最後に観た映画は?」
39 : ◆z4l4K/HkZ2 :2017/09/09(土) 01:37:19.46 ID:UExX3PfR0
「え?」

いきなりの予想だにしない質問に動揺する。

最後に観た映画?

ええと、なんだったか。

そもそも最後にDVDを借りたのはいつだったか……。



「……良いの、プロデューサーさん。この質問は特に意味は無いの。風邪引いてるのに混乱させてごめんなさい」


「あ、ああ、そうか」

奏の意図がわからない。

俺の記憶力チェックだろうか。
40 : ◆z4l4K/HkZ2 :2017/09/09(土) 01:39:11.81 ID:UExX3PfR0


「……じゃあねプロデューサーさん。あまり、無理をしないで。辛い時は辛いで、良いんだから」

「奏……」

去っていく奏の後ろ姿を、ぼうっと見送った。

去り際の彼女の悲しそうな表情が、どうにも引っかかったが、俺はそれ以上深くは考えられなかった。
41 : ◆z4l4K/HkZ2 :2017/09/09(土) 01:42:28.69 ID:UExX3PfR0



ステージで舞い、歌うアイドル達。

その様子はとても激しく、優しく、美しい。

ついに迎えたLIVE本番。

奏たちのステージはこの上ない盛り上がりを見せていた。

しかしその華やかな舞台の裏には彼女たちの血の滲むような研鑽がある事を知っている。

そしてその研鑽の上に自分の今の立場と生活が成り立っている。

彼女たちには感謝しかない。
42 : ◆z4l4K/HkZ2 :2017/09/09(土) 01:45:58.29 ID:UExX3PfR0

「はぁ、はぁ……プロデューサーさん、どうだったかしら、私のLIVEは」


今まさに舞台から降りてきた奏が息を切りながら感想を求めている。


「最高だったよ。お客さんも皆盛り上がっていた」

タオルとドリンクを手渡しながら、事実を述べた。

「ふふ、ありがと。……レッスンの成果を出せたってところかしら」

汗に濡れた髪をタオルで拭きながらストローを咥える彼女の雰囲気は、とても女子高生のそれではない。



「ああ、本当に奏は凄いな。頭が上がらない。奏をはじめとして、皆のおかげで俺は事務所でやっていけてるんだ」
43 : ◆z4l4K/HkZ2 :2017/09/09(土) 01:48:41.18 ID:UExX3PfR0

「……そんな事は無いわよ。私たちはお互いあってのものでしょ」

「いやいや、奏たちの実力なら、誰がプロデューサーをやってもきっと成功してるよ。俺は本当に幸運だった」

「……ちょっと、プロデューサーさん」

「城ヶ崎美嘉さん、本番5分前でーす」


奏が何か言いかけたが、スタッフの声が舞台裏に響く。
44 : ◆z4l4K/HkZ2 :2017/09/09(土) 01:50:58.71 ID:UExX3PfR0

「次、美嘉の出番だな。奏、良いライブだった。ありがとうな」


美嘉に声を掛けるために移動しようとする俺の手を奏が握った。

「奏……?」

「プロデューサーさん。このLIVEが終わったら、時間作ってくれない?」

「え……?今日じゃないとダメか?時間も遅くなると思うけど」

「待つわ。お願い」

奏の眼には、もの言わせぬ圧があった。

「……わかった」
45 : ◆z4l4K/HkZ2 :2017/09/09(土) 01:54:35.66 ID:UExX3PfR0
LIVEは大成功だった。

アイドル達に労いの声を掛けて回る。

「美嘉、ありがとう。最高だったよ」

「へっへー、どうよ〜?楽勝楽勝〜!プロデューサーもありがとうね!」


「周子、お疲れ。本当によくやってくれたな、ありがとう」

「ふふ……あたしも最高に気持ちよかったよ。プロデューサーさんも、ありがとね」

46 : ◆z4l4K/HkZ2 :2017/09/09(土) 01:56:59.87 ID:UExX3PfR0
その後、各所にLIVEの成功を報告する。

「いやあ、良くやってくれた!君ならきっと成功させてくれると思っていたよ、私は!」

部長も上機嫌だ。

何よりだと思う。

まだまだ時間が掛かりそうだと思い、奏には後日話を聞くから帰って休むようにメールを打った。




その後全ての撤収作業を終え、事務所に着いた時間は0時を過ぎていた。
47 : ◆z4l4K/HkZ2 :2017/09/09(土) 02:00:18.04 ID:UExX3PfR0

「テッペン超えちゃったか……だけど、報告書作らなきゃな……」

LIVEは終わったが、まだ自分の仕事は終わっていない。

眠気覚ましのコーヒーを買おうと自販機に立ち寄る。


そこには、奏の姿があった。



「プロデューサーさん、お疲れさま」
48 : ◆z4l4K/HkZ2 :2017/09/09(土) 02:02:02.70 ID:UExX3PfR0


「奏……!帰るようにメール送っといたはずだろう……なんで……ほら、車で送るから、帰ろう。親御さんも心配してるぞ、きっと」

「……そう、かしら。でもどうしても話、聞いてほしかったから」

「……車の中で聞くよ。とにかく、早く帰ろう」

「……わかった。じゃあお願いするわね、プロデューサーさん」
49 : ◆z4l4K/HkZ2 :2017/09/09(土) 02:04:48.03 ID:UExX3PfR0


車中。

奏は助手席に座っている。

LIVEが終わってから、どうも奏の様子が気になる。


「……で、奏。話っていうのは?いや、もしもっと落ち着いて話したいってなら明日また事務所でも……」

「……いいえ、じゃあ、聞いてくれる?」


「……ああ」

今までにない彼女の様子に、若干身構えてしまう。
50 : ◆z4l4K/HkZ2 :2017/09/09(土) 02:06:27.90 ID:UExX3PfR0

「……前に私が貴方に言ったこと覚えてる?誰にでも優しいのは傷つきたくないから……って」

「……ああ」

いつかそんな事を言っていた。
悟った風な事を言う娘だな、と思った。

「それがどうかしたのか?」


「貴方の優しさもそうだと思ってた。傷つきたくない、繊細な心から来るものだって。でも、本当は真逆だった」
51 : ◆z4l4K/HkZ2 :2017/09/09(土) 02:09:06.78 ID:UExX3PfR0
「え?」

「ごめんなさい、プロデューサーさん。貴方の心がそんなになってしまってるなんて、私は気が付かなかった。だって、貴方は会った時から今まで、ずっと優しかったから」


何を言われてるのか理解できない。


「奏、どうしたんだ?何の話をしてるんだ」

「誰にでも優しいのは繊細だからじゃなくて、誰にも興味が無いからでしょ?いいえ、興味を失くしてしまった、の方が正しいのかしら」


信号が赤に変わる。

それに伴い俺もブレーキを掛ける。

奏の方を向く。
52 : ◆z4l4K/HkZ2 :2017/09/09(土) 02:11:27.30 ID:UExX3PfR0
「奏。一端落ち着いてくれ。俺が何か奏を傷つけるような事をしてしまっていたのか?そうだったら謝る。すまない。だけど、順に話してくれないと何で怒っているのかわからないよ」

「……別に怒ってるわけじゃないし、傷つけられてなんかもいないわよ。この前、プロデューサーさんが倒れた時。覚えてる?」

「当然だよ」

もしやあの時何か奏を不快にさせていたのか。

「あの時、貴方の部屋を少し片づけたの。けっこう散らかってた」
53 : ◆z4l4K/HkZ2 :2017/09/09(土) 02:14:44.91 ID:UExX3PfR0

「……ああ、その話か。その時は仕事が立て込んでたからな。掃除が出来てなかった。いや、本当に恥ずかしいところを見られたよ」

やっぱり汚い部屋を見られたのは不味かったか。

「一人暮らしの男の人の部屋なんて散らかってても別に驚きなんてないわ。問題はそこじゃないの」

「……」


違うらしい。


「貴方の部屋……掃除をして気付いたの。あの部屋には、余計な物が無さすぎる」

「……?」

どういうことだ。

なんの問題が?
54 : ◆z4l4K/HkZ2 :2017/09/09(土) 02:17:16.86 ID:UExX3PfR0

「散らかってるのは衣類や食べ物のゴミだけ。それを片付けると、本当に何も無い。本当に人が生活してたのかどうか不安になるくらい。まるで囚人の部屋のような。テレビのリモコンなんて、電池が切れてた。休みの日はDVD観てるって言ってたのに」

「……」

「それで思ったの。貴方は自分の生活に対して無頓着すぎる。無精なんて話じゃない。あそこには、意思を持った人間は、住んでなかった」

「……」


奏の双眸が俺をしっかりと見据える。

黄色がかった、他にはなかなか見ない瞳の色だ。

55 : ◆z4l4K/HkZ2 :2017/09/09(土) 02:21:38.59 ID:UExX3PfR0

「貴方は優しいけど、その優しさは何に対しても関心が無いからこそのもの。だから誰に対しても寛容になれるし、誰に何を言われても何も感じない。だって心の中ではどうでもいいって思ってるから」

「おい、奏……」

「今の貴方には好きな人も嫌いな人もいない。貴方の瞳に私の姿は映っているけれど、本当は何も映ってない。貴方の眼に物は映るけど、本当は何も視えてはいないのよ」

責めるような奏の口調に、思わずこちらも気色ばむ。

が、冷静に対応しなければならない。

「……確かに俺の部屋にはあんまり物が無いかもな。だけど、それだけで俺の事を……」

「知ってるわよ。そもそも貴方に時間を掛けなきゃ理解できないような『貴方』というモノがあるの?」

56 : ◆z4l4K/HkZ2 :2017/09/09(土) 02:23:20.11 ID:UExX3PfR0
「なに……」

馬鹿にするな、と言いかけて、止まる。

無いかもしれない。

好きな女性のタイプは?
趣味は?
休みの日は何をして過ごすの?
将来の夢は?

他人から掛けられる問いかけに対して、自分が胸を張って答えられる回答が、無い。

自分の事を聞かれても、答えられる自分が無い。


俺には、自分が無い。
57 : ◆z4l4K/HkZ2 :2017/09/09(土) 02:25:46.09 ID:UExX3PfR0

いや、自分という意識はある。

そしてその自分の意識の中には当然奏たちの存在はある。

だが、その人たちに確固とした人格はあるか?

無い。

むしろ、世界には『自分』しかいない。

そこに本当の意味での他人の姿は無い。

どれだけ辺りを見渡しても、あるのは『自分』だけだ。



なのに、その『自分』の中ですら驚くほどに空虚だ。
58 : ◆z4l4K/HkZ2 :2017/09/09(土) 02:28:02.23 ID:UExX3PfR0

感情が無いわけではない。

喜びもあるし、怒りも悲しみもある。

だがそれは、どこか表面上だけのものだ。

心の芯から発露したものではない。



「貴方は優しくて、人当たりが良くて、円滑な人間関係を築く事が出来る。でもそれは貴方が生きていき易くするために最適化された性格であって、本質じゃない。そして、本当の貴方は、からっぽ」
59 : ◆z4l4K/HkZ2 :2017/09/09(土) 02:30:03.16 ID:UExX3PfR0
休みの日は嬉しい。
だが何をするでもない。

友人はいる。
だが親友はいない。

恋人は出来る。
だが長続きしない。

人は自分の内面を覗きたがった。

そしてその一端を見て、皆離れて行った。

そこに何も無かったから。

いつしか、人と深く関わろうとはしなくなった。

近付かれれば近付かれるほど、人が離れていくと知ったから。
60 : ◆z4l4K/HkZ2 :2017/09/09(土) 02:32:21.64 ID:UExX3PfR0
別に病んでいる訳ではない。

死にたい訳ではない。

ただ、どうでもいいだけだ。

喜びも悲しみも。

どちらにしたって、大して影響がないだけだ。



「……ッ」

「随分と驚いたような顔をするのね。けれど、本当は気付いていたんでしょう?だから、その驚いた顔もただの演技で、心の底ではどうでもいいことだと思ってる」

61 : ◆z4l4K/HkZ2 :2017/09/09(土) 02:34:13.47 ID:UExX3PfR0
そうなのかもしれない。

いや、事実そうなのだろう。

現に今指摘を受けた事柄に対して、特に感想はない。

そうなんだな、と思った。

それ以上でもそれ以下でもない。



「……奏、君の言う通りなのかもしれない。俺は無感動で自分の無い木偶のような人間なのだろう」

「……」

奏が眉を顰める。
62 : ◆z4l4K/HkZ2 :2017/09/09(土) 02:36:58.99 ID:UExX3PfR0

「だけどさ、大人は皆そうなんだよ」

いや、皆は言い過ぎたかな、と付け加える。


「奏はまるで病気のように大袈裟に言うけどさ、社会に出て、色んな事があって心が摩耗して……それでも日々を過ごしてれば、色んな感動は薄れていくもんなんだ」

それは、何も自分だけに限った話じゃない。

「……そりゃあ虚無感の程度の差はあるだろうさ。だからそれに耐えられない人が転職したり、結婚したり、悪けりゃ自殺したりもするんだろうけどさ」


「……」

63 : ◆z4l4K/HkZ2 :2017/09/09(土) 02:39:11.79 ID:UExX3PfR0
「でも、大人なら大なり小なり空虚を抱えてる。それを感じさせず、エネルギッシュに生きていける人こそが『選ばれた人』で、成功する人間なんだろう」

だから、自分はおかしくない。

自分のように、「己」が薄い人間は世の中にたくさんいる。

そんな自分は多数派だ、という無根拠な自信があった。

「まあ奏みたいに多感な時分の子には俺みたいな人間はさぞかし退屈に映ると思うよ。俺だって奏くらいの歳の頃はそうだったと思うさ。あんなつまんない大人に絶対なりたくないって」


「……」
64 : ◆z4l4K/HkZ2 :2017/09/09(土) 02:41:35.55 ID:UExX3PfR0
「だからさ」

俺は、悲しむような、笑ったような顔をしてみせた。


「だから奏は、俺らみたいな大人にならないで、ずっと人を惹きつける奏でいてくれよな」




気付けば車は奏の自宅前に着いていた。

これでこの話は終わりだ。

そう思って奏の顔を見る。
65 : ◆z4l4K/HkZ2 :2017/09/09(土) 02:44:11.33 ID:UExX3PfR0

「奏……」


奏の表情は怒ってるような、悲しんでるような、そして空虚なような。

その顔は、初めて奏に会った時の顔に……そう、会った時の。



「……違う」

「え?」


「例え世の中の大人たちがそうなのであったとしても、貴方がそうであって良い理由にはならない」
66 : ◆z4l4K/HkZ2 :2017/09/09(土) 02:46:37.58 ID:UExX3PfR0
今度は今にも泣き出しそうな顔。

今まで奏の泣き顔なんて見たことがないからわからないが。


「あの時、どうしようもない気持ちだった私を救ってくれたのは間違いなく貴方だった。あの時の貴方の瞳には間違いなく私が映っていた」


―――あんまり綺麗にありのままの私が映ってるものだから、私が恥ずかしいくらいに。


何か意を決したように俺の瞳を覗きこむ奏。

「だから、もう一度その瞳に私を映して欲しい。今度は恥ずかしくなんかない」

67 : ◆z4l4K/HkZ2 :2017/09/09(土) 02:49:39.91 ID:UExX3PfR0
「おい、奏……」

情けない狼狽えた声が出る。

しかし、この狼狽が本心か表面だけのものかは、もう俺にもわからなかった。


「ねえ、視てプロデューサーさん。私、こんなに綺麗になったのよ。それは貴方のおかげ。他の誰でもない、プロデューサーさんのおかげなの」

「無力感……軋轢……もしあなたの心が色んな事ですり減ってしまってそうなってるんだとしたら、私はそれを取り戻してあげたい」

「だから、自分の事をどうでもいいなんて思わないで。居ても居なくても変わらない存在だなんて思わないで」



「かな――――」



奏の唇が俺の唇と重なる。
68 : ◆z4l4K/HkZ2 :2017/09/09(土) 02:52:19.38 ID:UExX3PfR0


数秒その状態が続き、顔を離したのは俺の方からだった。




「――――――、ばか、お前、何てことを……こんな……」

「……許されない?そうね。私もそう思うよ」



そう言って奏は車のドアを開けた。


「……これで貴方の心に少しでも色を取り戻せればって思ったの。じゃあね、プロデューサーさん。また明日事務所でね……て言っても日付はもう今日だけど」


車から離れていく奏。
69 : ◆z4l4K/HkZ2 :2017/09/09(土) 02:54:24.76 ID:UExX3PfR0

何か言葉を掛けなければならないと思うが、言葉が出てこない。

それはしばらく心を働かせてなかった故なのか。

もう俺には、何もわからない。



そんな時、奏がくるりと振り返った。

顔には柔らかな笑みを湛えて。


「今のキスね、初めてだったの」

「あ……」

情けない声を出す。


「……なんてね」



奏は自宅に消えていった。
70 : ◆z4l4K/HkZ2 :2017/09/09(土) 02:56:26.96 ID:UExX3PfR0



その後、奏はこの話題を出す事は二度と無かった。

そして、俺の生き方は変わらなかった。

やがて俺は別のアイドルの担当になり、奏と顔を合わす事も少なくなった。


新しいアイドル達からの評判は前と変わらない。



「良い人」、「優しい人」だ。
71 : ◆z4l4K/HkZ2 :2017/09/09(土) 02:59:30.99 ID:UExX3PfR0



何かが変わりそうで、何も変わらなかったあの夜。



だけど、この胸の奥には何かムズムズするものを感じている。



それは嘗ては持っていたような懐かしい気もするし、

全く感じたことがないような不気味な異物感にも感じる。


そう、それはまるで。
そう、まるで……



終わり
72 : ◆z4l4K/HkZ2 :2017/09/09(土) 03:00:34.73 ID:UExX3PfR0
以上で終わりです。

読んで下さった方有難うございました。
73 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2017/09/09(土) 06:30:40.54 ID:8uzkg3GNO
幸せにはなれんかったんやな

おつ
74 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2017/09/09(土) 11:09:45.19 ID:S1RpOBLTO
こういう話すこ
良いもん読ませてもらった
75 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2017/09/09(土) 18:13:38.80 ID:9Tm3fQg/O


そういう人間ってなかなか変われるものじゃないだろうしねぇ
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