神谷奈緒「アルファヴィル」

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1 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2018/08/12(日) 09:45:34.43 ID:f0hWHOAvo


・長いです

・設定の改変があります

・書きためてあります


よろしく

SSWiki : http://ss.vip2ch.com/jmp/1534034733
2 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2018/08/12(日) 09:46:14.58 ID:f0hWHOAvo




現実と非現実の境目なんてものがほんとうにあるなら、アタシはあの日がそれなんだと思うな。


.
3 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2018/08/12(日) 09:46:42.25 ID:f0hWHOAvo



何やら資料をわんさと持たされて、気もそぞろに夕暮れの帰り道を歩いている。
いったい何の資料か。

アイドル。

正確にはアイドルへの勧誘のための資料だ。
簡単にまとめるなら、さっき街で会った人にこの資料を通してと誘われたということだ。
声をかけられた時にはもちろん冗談だと思った。
だってそれはあまりにもいきなりすぎて、そんな勧誘をそのまま呑み込むほどあたしの胆は据わっていなかったから。
でもそれはすぐに冗談で片付けきれない事態にまで立ち至ってしまった。
たとえば芸能事務所の真偽なんてスマホで調べれば一発でわかってしまう。
つまり、その結果として真のほうに転んでしまったわけで。

今日のオレンジ色の街並みは昼間と比べると本当に非現実的で、あたしの心を乱しにかかる。
それがどの色であれ統一された色合いというものは、すくなくともあたしにとってはどこか不自然な印象を残す。あくまで印象程度のものだけど。
指先が痺れている。
足元がふわふわしてる感じがする。
胸の奥が前向きに疼いて、すると今度は脳の奥が冷静になれと脈を打つ。
視線はどこにも落ち着かなくて、考えなんてちっともまとまらない。
帰りの曲がり道を四回も間違えたとなれば、冷静じゃないことくらいさすがに自分でも気が付く。

4 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2018/08/12(日) 09:47:08.87 ID:f0hWHOAvo

神谷奈緒。十七歳。高校生。おとめ座だ。
特徴はなし。まあ目立たないほうだと思う。
趣味はあまり日の目を浴びない感じのもの。
そんなあたしがアイドルとしての魅力を有しているか。
ノー、だと思う。
そもそも女としてのとか女子高生としての魅力だってアヤシイものだ。

けれど、そこに憧れみたいなものがないわけじゃなくて。

だって夢みたいじゃないか。
やっぱりそれは、特別だと思うから。
そしてあたしは、特別じゃないから。
綺麗な衣装を着て、華やかな舞台で、全部の視線をあたしに集める。
そんなのはぜんぜん現実的じゃなくて、なのに “でも” が離れなくて。

いろいろ放り投げて、単純になってみたいかと聞かれたらたぶんあたしは頷くと思う。
でもダメだろう。
本当にいろんなものがあたしの単純な憧れを引き留める。
羞恥心、功名心、虚栄心、恐怖心。
ほかにも名前さえ知らないたくさんの心がぐちゃぐちゃに重なってあたしを動けなくする。
どう考えたってあたしはただの女子高生で、そしてただの女子高生は決して特別じゃない。

だからこれはひとつのいい思い出ということにしようとあたしは決めた。
いつか、どこかの未来で、こんな野暮ったい眼鏡をかけているあたしがアイドルにならないかって誘われたこともあるんだ、なんて。
めちゃめちゃ面白い話のタネになるじゃないか。
そうだ、これはあたしの人生の中のひとつの奇跡。
何かを見つめるときにはいつも目を細めるあたしの例外的事態。
父さんも母さんもきっと笑ってくれるだろう。
だからこの話はここで終わり。
明日になればいつもの毎日に戻るんだ。

靴を並べてリビングに行って、ソファに座ってる父さんと母さんに資料を見せてそれで終わろう。
こんなことがあったんだ、まいっちゃうよな、あはは。
それでおしまい。あとは動画でも観てれば忘れるさ。

5 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2018/08/12(日) 09:47:39.23 ID:f0hWHOAvo

がたん、と電車が揺れて、ぼーっとしてた意識が帰ってくる。弾みでずれた眼鏡の位置を直す。
気が付けば目的の駅はもう近い。

あの後すぐに父さんは、これから行く芸能事務所に電話を入れて見学の予約を取り付けた。
あたしにできたのは見学には一人で行くことをなんとかして父さんに認めさせることだけで、見学に行くこと自体はどうやっても避けられなかった。
あれが一週間前だとはとても思えない。つい昨日のことのようにさえ思える。
そんなことがあったからか、今週はほとんどのことが手につかなかったような気がする。
家に帰ってしばらく経ってからスマホを見て、そこではじめて友達から連絡をもらってたのに気付くこともけっこうあった。
なかには心配してくれているような内容もあったりした。
ただ、悪いけど誰にも本当のことは言えなかった。

そこはアイドル事務所、なんていう言葉から想像するような建物とはまるで違っている。
綺麗で、大きくて、なんというかすごそうなビルだ。
頭の悪そうな言い方しかできてないけど、建物の正しい褒め方なんてあたしは知らないし。
ただ、もちろん資料でもホームページでも事前に見てはいたから、見た目の綺麗さに対して初めて見る驚きみたいなものはない。
けれど大きさというものは直に見る以上に正確に把握する術なんてなくて。
あたしはしばらく口をあんぐりと開けて眺めていることしかできなかった。

右を見て左を向いて変な笑いがこぼれる。
こういう建物があることはもちろん知っていたけど、自分の目的地になるとは思っていなかったから。
ここはどこかと聞かれたらエントランスと答えるのがいちばんしっくりくるんだろう。少なくとも玄関とか入口なんて呼び方は似合わない。
目の前にある長いエスカレーターがあたしを威圧してるようにさえ思える。
一階に受付が見当たらないことを考えると、きっとこのエスカレーターの先にあるんだろう。
一階にはカフェやらなにやらがいくつも店を構えている。
大企業、おそるべし。

エスカレーターを上がって程なく受付を見つけることができてあたしは安堵のため息をつく。
受付カウンターへ行ってあの日もらった名刺といっしょに名前を告げると、係のお姉さんがどこかに電話をかける。仕草は洗練されたもののように見える。
電話口でのちょっとしたやり取りを経てお姉さんがくれたのは落ち着いた笑顔と入館証みたいなもので、それはなんだかこの建物にあたしが受け入れられたみたいだった。
担当の人が来るからすこしだけここで待っててほしいという言葉も同じ印象をあたしに残す。

どこからその担当の人が来るかわからないこともあって受付から少しだけ離れたところで目を細めながら周りを見渡していると、仕事のできそうな人がそこらを行き来している。今日は日曜だってのに大変だよな。
辺りを見ててひとつ気にかかるのが、同じフロアにエレベーターホールが三つもあるのは普通なんだろうかってこと。どうでもいいと言えばどうでもいいんだけどさ。
あたしは会社のビルに詳しくなんてないからわからないけど、まあきっと普通のことじゃないんだろうな。
そんなことを考えていると、あたしがこんなところにいる原因になった人の姿が目に入った。

「やあ神谷さん、今日はよく来てくれた。ようこそようこそ」

「つっても見学だけだからな、父さんが予約みたいなことしちゃったから」

「いや、それくらい慎重なほうが正しいと思うよ、そう簡単な世界じゃない」

手振りをつけながら担当の人は人の好さそうな笑顔を浮かべた。
はきはきとしたしゃべり方をする人だ。

「で、見学って何を見るんだ? あたしさっぱりわからないんだけど」

「うちの施設ってことになるのかな、それなりに貴重だと思うよ」

6 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2018/08/12(日) 09:48:09.93 ID:f0hWHOAvo

行かなければよかった。
行ったせいであたしの心が揺れている。
もしただ施設を見せてもらっただけならここまで揺れはしなかったと思う。
だけどどうしようもないじゃないか。
本物のトレーニングを間近で見せられてしまったら。
あんなに熱のこもった舞台の裏を見せられてしまったら。
そのうえそれぞれの施設にいたプロたちに声までかけてもらったら、あたしなんかは舞い上がってしまうに決まっているじゃないか。

ああやって、キラキラしたいって、思ってしまうじゃないか。

無理をしてでも悪いところ探しをしなければあたしはこのまま呑み込まれてしまう。
ええと、なにか。
そうだ、気が付いたら夕方になっているくらいに時間を奪われた。
……ダメだ、難癖にもやっちゃいけないラインみたいなものはある。
それはただ単に楽しくて時間が経つのを忘れてるだけだ。
他に。他に何か。
あの宮本フレデリカには会えなかった、とか?
いやいやこれダメだろ、通う理由になるとしか思えない。
あたしの常識的で弱い心が、たったひとつの夢に圧し潰される。

言葉だけ見ればひょっとすると悪いことには見えないかもしれない。
でもこれはあたしを待っていたはずのふつうの人生を捨てることとそれほど意味は変わらない。
あたしにとってアイドルになることというのは “努力の許されている身投げ” を選ぶことと同義のようなものだ。
人から見れば不思議な言い方にしか聞こえないだろうけど、頭に浮かんだものはしょうがない。
だって、輝きたいからって誰もが輝けるわけじゃない。
そこにはきっとあたしの力が及ばない領域みたいなものがあるはずで。
けれど輝きたいってあたし自身が思ってるのにはもうウソはつけなくて。
ひょっとして、あたしはもうダメなのか?
考えれば考えるだけそっちに傾いていくだけなのか?

最寄りの駅を過ぎてから我に返って額に手をやる。
ついでにちいさくため息もセットだ。
電車を降り損ねるなんて気持ちの大部分を持ってかれていることの証拠だろう。
そうなればもう結論は出てる。
どれだけあっちこっち迷ったところでゴールは決まりだ。
父さんと母さんの反応を考えても必要なものはあたしの覚悟ひとつだけ。
まさかあたしの人生のこのタイミングでそんなものを要求されることになるとはなあ。

7 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2018/08/12(日) 09:48:37.06 ID:f0hWHOAvo

「うむ、見たところ体力は普通の女子高生といったあたりだろう。しばらくは体力メニュー中心だな」

先日見学に来た場所、いっそもう事務所と呼んでしまおう、にまた来た理由は他にない。
父さんと母さんに挑戦してみると話をして、そして今度は自分で事務所に電話をかけた。
書類だなんだとあれこれ細かい話は別にして、あたしが初めて顔を出す日が決まった。
とはいっても学校の部活なんかみたいに全員で顔合わせ、なんてことはしないらしい。
つまるところ最初に行ったのはジャージに着替えてのレッスンルームだったわけで。
そしてそこにいたトレーナーさんと顔合わせをして今に至る。

見学の時にも見せてもらったレッスンルームは相変わらず広くて、そういう立場じゃないのはわかってるけど感心するようなため息が出てしまう。
これってホントにルームって呼べる範囲の広さなんだろうか。
そんなのもちろん見学の時から気になってたから広さの理由は尋ねてある。複数人どころか複数のユニットが同時に練習をすることがよくあるから、ということらしい。
それとステージレベルでの動きを確認するのにはできる限り広いほうがわかりやすいのは自然だろう、とも言っていた。
そんな部屋がいくつかあるのだという。
納得するところではあるけど、現実感が一気に薄れていったのをよく覚えている。
芸能事務所を思い浮かべろと言われれば最初にイメージする人もそれなりにいるだろうところはお金のかけ方がさすがに違う。
あたしはこれからこんなところで自分を磨いていくことになるのか。
人間は慣れるものだと聞いたことがあるけど、あたしはこの環境に本当に慣れるんだろうか。
そんな自分の姿が想像できないのは当然じゃないか?
あたしはふつうの女子高生なんだから。

「ああ、そうそう。体力メニュー中心とは言っても基礎的な部分は他のも鍛えていくからな」

心配しなくていいぞ、とトレーナーさんがいい笑顔を浮かべながらこっちを見ている。
別にあたしはそんなことを心配しちゃいないんだけど。
激しい運動だと事前にプロデューサーさんから聞かされていたけど、これはマジなやつかもしれない。
眼鏡じゃなくてコンタクトレンズにしてきて正解だったなんて思いたくはないんだけどな。

8 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2018/08/12(日) 09:49:06.43 ID:f0hWHOAvo



ボリュームのある髪を後ろにまとめたきれいなスタイルをした娘が床に這いつくばってます。
意識が飛ぶまではいってませんが、その四歩か五歩くらい手前までは来てそうです。
呼吸は荒い段階は過ぎたみたいですけど、それでもある程度は深い呼吸をしています。
タオルも取りに行けないほど消耗してますからシャツなり床なりが大変なことになってますね。
トレーナーさんが誰もいないところに視線を留めてちいさく頷いています。
何かしらの考えをまとめているんでしょう。
気の毒にと思わないこともないですけど、それ以上に。
ええ、あ、いえ、懐かしいとは言いませんとも。
私はここへ来たとき何日連続でぶっ倒れてましたっけ。
……ところでこの娘はいったいどちらさまなのでしょう?

状況としてはとても奇妙なものですが、見たこともない可愛い娘がこんなふうに倒れているのがすごく珍しいというわけでもないのがこの業界の不思議なところというか。
が、どうしてでしょう。今日に限っては頭の片隅に別の違和感が残りました。
なにかこの娘におかしなところでもあるんでしょうか。すぐには思い当たらないのが気持ち悪いです。

視線を倒れている娘からトレーナーさんのほうへ移すと、考え事は終わっているようでした。
その娘の上にバスタオルを放り投げたかと思えば荷物のあるほうへと向かいます。水でも取りに行くんでしょうか。
あれ、じっと観察してましたけどこれどう考えても介抱したほうがいいのでは。

もはやただ掛かってるだけと表現したほうが適切だったバスタオルを使って、まずは顔の汗を拭いてあげます。
見たことはなくてもやっぱりここにいるだけあってとても整った目鼻立ちをしています。肌も綺麗ですね。
髪はちょっとクセがある感じでしょうか。でもすごいふわふわしています。
よく見ると眉が顔立ちの中ではいちばん主張してますけど、でもそれが調和になっている感じがします。

すこし楽になったのか、小声でお礼の言葉が聞こえてきました。
きっと疲労で正常な判断は下せない状況かとは思いますが、お礼が言えるのは良いことです。
目の前の娘から見れば私はただの知らない人ですからね。根が礼儀正しいのかもしれません。
拭ったそばから汗が滲んできます。頑張ったんでしょう。
ないよりはあったほうがマシかということで、私のタオルを何枚か重ねて枕にしてあげます。
さすがにこんな状態で床に転がしておくわけにはいきませんからね。

9 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2018/08/12(日) 09:49:37.23 ID:f0hWHOAvo

寝ているとき特有の言葉になっていないうめき声みたいなものを伴って意識が帰ってきたみたいです。
十分も経たないくらいだと思いますが、まあ不思議な時間でした。
うっかり眠ってしまったのか気絶したのかはわかりません。前者だとは思いますけど。
目を覚ますと彼女は俊敏な動作で私から離れて行きました。
顔を覗き込んでいたわけではないのでおでこ同士でごっつんこなんてことにはなりません。

「うわぁ!? えっ、え、誰!?」

悲しくもありますが当然の反応ですよね。
すごく疲れて意識を手放して、それで目を覚ましてみれば見たことのない顔が近くにあるわけですから。
図式としては看病みたいなかたちになるんでしょうか。

きっと動揺しているでしょうし、不安にさせないように笑顔でペットボトルの水を勧めます。
まあまあまずは、なんて水を飲ませるときにふつう言いませんよね。いま言いましたけど。
ちなみにトレーナーさんは水を置いたっきり他のアイドルの指導に向かってしまいました。
私だから任せた、みたいなことを言ってはいましたけど個人的にはそれに対して言いたいことがあるんですけど。

焦って飲んでむせちゃったのを落ち着かせてあげます。
声もガラガラでしたし、喉も渇いていたんでしょうね。

呼吸も整ってきたところで、安部菜々です、と自己紹介をします。
彼女からすれば気になって仕方がなかったはずですから。
テンパっていたのか肝が据わっているのか、名前も知らない私の言うことをここまでよく聞いてくれたと思います。

「とりあえず、自分の名前は思い出せますか?」

「え、あ、神谷奈緒、です」

「ここにいる理由は思い出せますか?」

「んーと、あれ、…………あ、今日からレッスンってことで来ました」

とくにマズい意識状態ではなさそうでひと安心ですね。
しばらくは話を聞きがてら状態が落ち着くのを待つことにしましょう。

「……え? 誰?」

10 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2018/08/12(日) 09:50:12.35 ID:f0hWHOAvo

自分のレッスンを終えてルームB-02に向かいます。
せっかくだから奈緒ちゃんも誘おうかと思ったんですがダメでした。
まさかまだデビューが決まっていない候補生だったなんて。
いちおう機密事項もあるのでデビューが決まらないと入れない場所はけっこうあります。
芸能界なんて特殊も特殊ですからね。
半ばアイドルたちのたまり場と化している執務室もそのひとつです。
それにしても、そんな候補生の段階で本社のレッスンルームに来た子なんてこれまでいましたっけ。

そんなことを考えながら肩をぐるぐると回します。
アイドルになる前と比べたらもちろん体力はつきましたけど疲れを感じなくなるわけじゃありません。
重い足を引きずってのろのろと移動します。
救いといえばこの棟に入れる社員さんが少ないことでしょうか。
こんな姿をところ構わず見せるわけにはいきませんからね。

今くらいの時間だとプロデューサーさんはだいたい社内にいないことが多いんですよね。
いたらいたで話したいこともありますけど、いないならいないで別にやっておきたいこともあります。
とはいえアイドルの子は誰がいるかわかりません。
部署ひとつあたりにはそんなに数は多くないんですけど、うちの部署は休みでも遊びに来たりする子が多数派なので。
アイドルが女の子でいられる最後の場所というのもあるんだと思います。
なんだかんだと私も自然に誰がいるかな、なんて期待を持ちながらドアを開けました。

まず目を引いたのは黄色に近いと言い切ってもいいくらいの金髪。
ショートのアシンメトリーにぴったりと合っています。いま私の位置から見ると横顔なので正面に回らないと髪型はわかりませんけどね。
そして顔の小ささに似合わない大きさの目。それなのに品を失わないのが反則です。
瞳の色はオリーブグリーン。マスカラなんてなくてもバッシバシに長い睫毛。
鼻が小ぶりでかわいいのがちょっとした日本人的要素でこれまたずるいです。
ただソファにもたれて膝の上の雑誌に目を落としているだけの姿なんですけど、華を感じてしまうのがうらやましいというか悔しいというか。
……これ以上は控えましょう。止まらなくなりそうです。
というか直に見たのちょっと久しぶりな気がしますね。

「おはようございまーす」

「あ、おっはよう! もう夕方だよ! ナナちゃんったらもー、お寝坊さんだね♪」

座ったままで、綺麗な顔だけこっちに向けて、満面の笑顔でフレデリカちゃんが挨拶を返してくれます。
さっきまでレッスンしていた身に迷いなくボケをふっかけてくるあたり調子は良さそうです。
ちなみに私は毎朝六時前には起きている程度には朝は強いほうです。お寝坊さんではありません。

「ところでナナちゃんはこれからレッスン? 大変だねー」

「ホワイトボードの予定見てください……。今日はもうナナ疲れました……」

「ごめんねナナちゃん、フレちゃんの通ってた高校ウサミン語の授業なかったから」

「……う、ウサミン星の公用語は日本語ですよ?」

厳しいところをつっつくのはやめてほしいところです。

「あれ、ナナちゃんナナちゃん」

「はい、どうしたんですか?」

「鉱山にでも行ってきた?」

「……へ? コウザン? ……ナナ、山には登ってませんけど」

そっか、と素直に納得して彼女は視線をまた雑誌に戻しました。
今度はゴキゲンな鼻歌まで聞こえてきます。
なんだかこっちまでハッピーになれる、弾むようなものでした。

……なんだか不思議な質問でしたけど、どういうことだったんでしょうか。
もしかしてそう見えるほど疲れが顔に出ちゃってたとか。
私自身としては疲れた表情だけはしないようにしてたつもりですけど。
それにしてもコウザンってなにかの比喩表現だったんでしょうか、高山? 鉱山?

フレデリカちゃんはあまりに自由奔放なので会話の飛び方が本当にすごいです。
でもどうしてでしょうね、それも魅力のひとつというか、フレデリカちゃんだからこそプラスに変わるというか。
そんな、たぶん答えの出ないことを頭の隅で考えながら、くつくつと笑っている事務の方に挨拶に向かいます。
さてさて、荷物はソファの上でも問題なさそうですかね。

11 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2018/08/12(日) 09:52:53.70 ID:f0hWHOAvo

奈緒ちゃんを介抱した日からしばらくが経ちました。
さすがにもう起き上がれないようなことはないみたいですが、シャワールームまで行くのはまだまだ大変そうといった具合です。
練習の甲斐あってかダンスのステップも目に見えて良くなったように私は思います。
トレーナーさん的目線から言えばまだまだみたいですけど。

いまルームB-02にはプロデューサーさんとはぁとちゃんと私がいます。
部屋の中はパソコンのキーボードの音と布の擦れる音、あと雑誌をめくる音だけの静かな空間です。
プロデューサーさんがお仕事、はぁとちゃんはソファに座って自前の衣装を縫っています。
私はどちらの邪魔もしないようにカバンに入れてあったファッション雑誌を読んでいます。
ちなみに二人とも話しかけても手が止まらないすごい能力の持ち主ですが、そうと知っていても作業中の人に話しかけるのに私は気後れしちゃいます。
季節感が混乱してしまいそうな雑誌の品々を見ていると、プロデューサーさんが呻きに近いような声を出しました。
驚いて目を向けると伸びをしているプロデューサーさんの姿がありました。
きっと作業がひと段落ついたんですね。

「くあぁ……、ってなんだ、心に菜々じゃないか」

「おいおいはぁともナナ先輩も二時間くらいここにいるんだぞ☆」

「悪い、集中してて気づかなかった」

「集中し過ぎだろ、っつかはぁとって呼べよはぁとって。字面はスウィーティーでも音読みはそんなことないんだからな?」

なんだかやり取りに安心してしまいます。
私たちの部署はプロデューサーさんとアイドルたちとの距離感がこういう具合なので。
きちんとラインを決めるっていうのもプロっぽくてちょっと憧れますけどね。
それでも軽口を叩いていくなかで生まれたものもあるくらいなので、うちはこれでオッケーです。

12 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2018/08/12(日) 09:53:21.95 ID:f0hWHOAvo

「おいプロデューサー、ちょっと聞きたいことがあるんだけど」

「ん、なんだ?」

「いやそんな真剣な話じゃなくて」

はぁとちゃんはそう言うと、手元の衣装をソファの空いたスペースに掛けました。
その衣装にはマンガチックで小さめな天使の羽が背中についているのでそっちが上を向いています。

「ここのところだいぶキツそうな仕事量に見えるけど、なんかあんの?」

「フレデリカのアリーナLIVEの大詰め、三か月後のやつ」

ああなるほど、と納得したように頷いてはぁとちゃんは話を続けようと体をすこし前に傾けます。
位置取り的に私も話に参加していると思われるのですが、はぁとちゃんがどういう話をしようとしているのかがわからないので私は口を閉じて成り行きを見守ります。

「しばらくフレデリ子見てないのもその関係かぁ、ちょっぴり悔しいぞ☆」

「別にスタジオ借りて練習始めたのもあるし、あとまあ他にもいろいろとあってな」

「なんだよそれ、ウチでやればいいんじゃね?」

「麗さんや聖さんだけじゃなくて外のトレーナーさんの意見も聞いてるんだよ」

「ウチでもトップのあの二人だけじゃないってどれだけ豪華なんだよ☆ 若干怖ぇけど」

なるほど話題の方向はフレデリカちゃんで確定のようです。
ところでこのあいだ私が会えたのはなかなかの珍しいケースだったということでしょうか。
そういえばフレデリカちゃんのことなら私もちょっと小耳に挟んだことがあります。聞いてみましょうか。

「あの、もしかしてフレデリカちゃんってアナスタシアちゃんとユニット組んだりする予定があるんですか?」

プロデューサーさんがわずかに目を大きくします。
はたして大当たりなのか寝耳に水なのか、どっちなんでしょうか。
表情だけで相手の感情がわかる、なんて人がいたりしますが私にはとても判断つきません。

「俺は聞いてないけど、どっから聞いたの」

「いえ、最近フレデリカちゃんと仲良さそうにしてるのよく見るって聞くことが多くて……」

「単純に話が合うってだけじゃないッスかナナ先輩。どっちも海外系っちゃ海外系だし」

「でもナナ的にはちょっと想像しにくいものがありますね、真逆のタイプに見えますし」

別に反論というわけでもありませんが、雑談みたいなものでしたから。
はぁとちゃんは、まあそれは自分も思ってましたけど、なんておちゃらけてます。

アナスタシアちゃんはうちの部署ではありませんけど、社としては看板レベルの大スターです。
強烈な透明感の持ち主で、ロケーションと機材次第では現実感を置き去りにしてしまいます。
私の知る普段の彼女はどちらかといえば物静かですけど、まったくしゃべらないということもありません。
とても頭の回転が速いことも含めて、同性の私でも参ってしまいそうになります。

「フレデリカとアナスタシアさんならそんなに真逆ってわけでもないと思うぞ」

「ええ? どう見ても太陽と月レベルで違うだろあの二人」

「そりゃまあ表面はだいぶ違うけどな」

プロデューサーさんは背もたれに体を預けて言葉を続けます。

「ああ見えてフレデリカも大事なところではきちっと一歩引いて物事を見られるし考えられるの知ってるだろ」

「知ってるんですけど言われないと出てきませんね、あはは……」

ごめんなさいフレデリカちゃん。いつものイメージが強すぎます。

「にしてもその二人だとどんな話になんの?」

「そんなもん俺も知らないよ」

フレデリカちゃんの好きなファッションの話題になるんでしょうか。
それともアナスタシアちゃんが好きな星の話になるんでしょうか。
なんにせよ私には入り込めない世界のような気がします。

13 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2018/08/12(日) 09:54:23.40 ID:f0hWHOAvo


二時間目が終わる。
全身がバッキバキなせいでノートをとるのにも一苦労だ。
字はいつも以上に汚い。下線なんてまっすぐに引けない。
それ以前に授業として考えるとノートをとるのに集中しすぎて話をほとんど聞けていない。
授業の合間のこの休憩時間でどうにか筋肉痛を和らげる方法はないかといろいろ試してみたけど、どうやらすぐに取れるものじゃないらしい。
立ったり座ったりするのもしんどいからいい加減どうにかしたいんだけど。

「ひょあぁあっ!?」

いきなり背中がぞくぞくして変な声を上げてしまう。しかも大声だ。恥ずかしい。

「えっ、いやちょっと効果ありすぎじゃないっすか」

後ろからいたずらが成功したどころかむしろちょっと引いたような声がする。
今の席順でこういうことをするのはコイツしかいないから犯人ははじめからわかっていたけど、その反応はひどくないか。
あたしは声のしたほうにすぐさま振り向く。名前も知らない筋肉がぴしりと痛む。
そいつはあたしの背中に這わせた人差し指を立てたまま目をぱちくりさせている。

そういうリアクションを取られているとなると単純に怒るのも難しくなる。
けらけら笑ってくれていたら対応がラクなのに。

「うぅ、やめろよ沙紀、あたしが背中弱いの知ってんだろ!」

「にしても弱すぎないっすか」

「夏服なんだからしょうがないんだよ!」

よその高校はどうだか知らないけど、うちの高校はブレザーを着て来ないからってガミガミ言われることはない。
何なら真冬にワイシャツ一枚で来たって怒られないくらいだ。別の意味で心配はされるけど。
というか去年も罰ゲームで男子がそういうのをやってるのを見た。
だから、っていうのは違う気がするけど、五月も半ばを過ぎると大抵の生徒はワイシャツにカーディガンとかワイシャツだけで登校するようになる。
あたしはワイシャツ派。だから防御力は低い。
もしかしたら背中が敏感なのかもしれないけど、それは考えないことにする。

さすがにあたしの反応が大きかったのに罪悪感を覚えたのか、沙紀は手を合わせて謝る。
中性的で整った顔立ちにいたずらっぽく片目をつぶってみせた姿はなかなか反則だと思う。
だけど近いうちにやり返してやろうとあたしは決めた。
沙紀だってカーディガンを腰に巻いてはいるけど夏服なのに違いはないんだからな。

「つーか奈緒ちゃんここんとこ大丈夫なんすか? ことあるごとに筋肉痛って言ってるし学校終わったらすぐ帰っちゃうし」

「んー、大丈夫かどうかは正直あやしいよ。習い事みたいなの始めたからな」

「習い事」

「そ。けっこう身体使うやつなんだ」

嘘はついてない。
でもアイドルになるなんて口が裂けても言えない。
似合わないと今でも思ってるし、実感みたいなものはまだ湧いてないから。
それに笑われるかもしれないし。

ふうん、とすこし何かに考えを巡らせたあとで沙紀はにっこりと笑顔を見せた。
なんというか、少年みたいな笑顔だ。にかっ、っていう擬音が似合う。

「こう言うのはあれだけど、似合わないっすね」

「……自覚はあるっての」

あたしがどんな顔をしてたのか、沙紀が慌てたように言葉を重ねてくる。

「違う違う、奈緒ちゃん運動得意でーすってキャラじゃないでしょ、そういうことそういうこと」

そうか。沙紀の知ってる情報だとそれだけしか導けないのか。
あたしの頭の中にはアイドルになるっていう前提があるから考え方に違いが出るのは当然なんだ。
いろいろ誤魔化すにはこういう部分にも気を配らないといけないということだ。なるほど。

「なんにしても熱中できることができたんならそれはいいことっすね」

「熱中? どーなんだろ、してんのかな」

「してんじゃないっすか? キツいのに続けてるみたいだし」

なるほどそうかもしれない。
そもそも考えてもみなかったことだけど、言われてみればそういうことになりそうだ。
でも認めるのはどうも照れくさいから、わかんないや、なんて笑ってごまかす。

「楽しく続くといいっすね」

「あたしもそうならいいと思うけど、始めたばっかりだからまだなんともなあ」

言っている途中でチャイムが鳴って三時間目が始まった。
たぶん沙紀には後半部分は聞き取れてないと思う。
14 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2018/08/12(日) 09:54:51.36 ID:f0hWHOAvo

ホームルームを終えて、がたぴし軋む体を引きずって下駄箱を目指す。
あたしの学校での交友関係は広くはないから、ちょろっと挨拶をすればそれで済む。
あるいはたまたま目が合ったクラスメイトに手を振るとかせいぜいそんなもの。
日によっては無言で帰ることもさして珍しくはないくらいだ。

レッスンを受け始める前はどれだけ軽快に歩けていたかがもう思い出せない。
廊下は長いし、階段は降りるときこそダメージが大きいんだ。
教室とか廊下に残ってしゃべってる生徒の声に包まれてるせいで、なんだか間違った場所に来てしまったかのような気分になる。
あたしは早くここを脱出してレッスンルームに行かなきゃならない。
だいぶ意識の部分は変化したよな、とふと思う。

やっとこ上履きからローファーに履き替えて昇降口から出ようとすると、肩をぽんと叩かれた。
そっちを向いてみると沙紀がいつもの笑顔で左手を上げている。
あんまりないこと、というか初めてじゃないだろうか。
端的に言ってあたしと沙紀は属しているグループが違う。
そして少なくとも沙紀のグループの面々とあたしはそれほど親しくない。
その逆も然り。
沙紀とあたしが例外なのはずっと席が近いからで、席替えをしてもなぜか離れたことがないのだ。
高校だの中学だのでグループが違うっていうのは大きいことで、そうなれば一緒に帰るなんていうことはほとんどあり得ないことだとあたしは思っている。お昼だって一緒に食べたことないし。
そんな中で沙紀がひとりであたしの後ろに立っていたのはずいぶん奇妙なことと言えそうだ。

「あれ、沙紀じゃん。どうしたんだよ」

「今日ちょっと早く帰る用事があって。で、下駄箱来たら奈緒ちゃんがいたってだけっす」

普段は席に着いてるからあまり意識しないけど、隣に立って歩いてみると沙紀は女子にしては背が高めだ。
振舞いから考えると意外に姿勢もきれいだし、なんと出るとこも出てる。
まあ細かいことは気にしないしゆるいところもあるから完璧超人ってわけじゃないんだけど、こう、人目を引く要素をいくつも持っている。
あらためて考えるとずるくないか、こいつ。

「ていうか奈緒ちゃん大荷物っすねえ、何入ってるんすかそれ」

「ん、ああ、着替えだよ。身体使う習い事だって言ったろ?」

「なるほど直接行く感じなんすか、駅からはどっち方面?」

「上りのほうなんだ。家に帰るんだったら下りなんだけど」

「じゃあ駅でお別れっすね」

あたしと沙紀は仲良くしてるわりにはお互いのことを話そうとも知ろうともしない変な間柄だ。
世間話とちょっとしたふざけ合いしかしたことがない。
すごくクールな関係にも見えるけど、ラクで居心地がいい。
こいつと話しているとなんだかちょっと体が軽くなるような感じがする。
駅に続く道の先の方で子供たちがオレンジジュースがどうのと騒いでいるのが聞こえる。

高校の最寄りの駅は改札を通ってからすぐ二股に分かれて上りと下りのホームが向かい合うタイプのもので、朝の通学ラッシュの時間帯はうちの生徒でちょっと壮観なくらいに混み合う。
その改札を抜けたところでちらっと沙紀に顔を向けると、ちょうど同じタイミングで沙紀もこっちを見た。
じゃあ習い事がんばって、と手を振る沙紀にあたしも手を振って応える。
頑張ろうか、そう思う。

15 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2018/08/12(日) 09:55:20.04 ID:f0hWHOAvo

プロデューサーさん、見学の時に案内してくれた人だ、が言っていたことが身に染みる。
簡単な世界じゃない。
あの時は緊張もあって軽く受け止めてたけど、あれはこの世界に棲んでいる人間の実感のこもった言葉だったんだ。

六週間と少し。それだけの時間が過ぎて、あたしはやっと壁に手をつくことなくシャワー室へたどり着けるようになった。
レッスンだなんて生ぬるい名前じゃ表現しきれないそれは、完全にあたしを壊しにきてた。
その期間のうちにあたしのアイドルに対する尊敬の念は明確に形成されていった。
そして初めて日常的に運動している人たちを尊敬した。
たとえば運動部の彼ら彼女らはほとんど毎日あんなことをやってるんだろ?
もちろんあたしは運動部には入ってなかったから、正確に運動部の運動量とは比較できないけど。

柔軟から始まって筋力トレーニング、ダンスの基礎ステップの反復。
これだけでもうあたしの真下には拭き取らなきゃならないほどの汗が落ちる。
もちろん休憩は入るし水分なんかも摂らせてもらえる。
でもそれだけじゃカバーしきれないほどの運動量があたしを待っている。
息はあがる。意識は遠くなる。
そのたびにトレーナーさんから声が飛んでくる。
絶対に意識を切るな、前を見ろ。
たぶんだけど、トレーナーさんはサディストなんだろう。

それが終われば場所を変えて今度は発声の練習。
腹式呼吸なんて合唱コンでやれって言われて適当に流した記憶しかない。
おなかを使って声を出すなんてはじめはイメージすら湧かなかった。
おまけに体力は筋トレとダンスのおかげで限界近い。
半ばヤケクソで取り組んでたせいで、こっちは成果が出るのに余計に時間がかかった。
たまには練習の順番変えてくれてもいいんじゃないかと思ってたけど、結局それは一度もなかった。

そういえば四週間が経ったころからたまにレッスンルームにプロデューサーさんとかの姿が見えるようになった憶えがある。
そのたびにトレーナーさんと何かの話をしてたけど、まあこれは当たり前か。
なんとなく気になったのは疲労のせいで自意識過剰になってるだけなんだろう。
勘違いついでに言うなら、同じところにレッスンを受けに来ている現役のアイドルとかにはずっとちらちら見られてたような気もする。
とはいえ今では同じ部屋で練習してる縁でみんなそれなりに仲良くなったから別に気にならないけどな。
レッスンルームの面子が一定なのは、あたしがここに来る時間が決まっているのもあるんだろう。
やっぱり未だに宮本フレデリカとは出会えていない。
スーパー過ぎてここには来ない、みたいな事情もあるんだろうか。
本当のことを言うとそんなことに気を回せる余裕はまったくなかったっていうのはナイショだ。

16 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2018/08/12(日) 09:56:32.74 ID:f0hWHOAvo



私がレッスンルームに着くと奈緒ちゃんが先に居るのがもう当たり前です。
違うのはストレッチを済ませているかどうかくらいで、いつも早くに来ていて感心しちゃいます。
奈緒ちゃんが来るまではわたしが一番手だったのももう過去の話です。
それがやる気の表れなのか、あるいは別のものなのか私にはわかりません。だからといって聞くつもりはありませんけどね。

気が付くとこっちに向けて手を振ってあいさつしてくれます。
私もいつもみたいに元気よく返します。
ストレッチが終わっていれば話しかけてくれますし、終わってなければその後で話をするのがいつもの感じですね。
しばらくするとみんながやってきて、それからトレーナーさんが来て。
そこから先は、まあ、スポ根ですよね。
今日もいつもの例と変わりなし。
奈緒ちゃんもストレッチをしています。
筋肉痛をほぐすには欠かせませんからね。
実際ここに入ってきたばかりで奈緒ちゃんには今がいちばん大変な時期だと思います。
わたしにも覚えがあります。懐かしがるほど昔のことじゃありませんけど。

それにしてもなかなか根性があるというか、音を上げませんよね。
自分のレッスンの合間にちょこちょこ目を向けると、ふらつきはしてもレッスン中に膝はつきません。
もちろん休憩に入れば勢いよく座り込んじゃいますけど。
それでも初日を除けば一度も倒れていないと聞きました。大したものだと思います。
だって週に六日はレッスンが入ってるそうじゃないですか。
デビュー前ってことと体力強化も兼ねてるとは言ったって誰にでもできるようなものじゃないのは簡単にわかります。
私にだってそんな厳しい時期の経験はありません。レッスンが入るのは週に二日か三日、多くて四日がせいぜいです。
17 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2018/08/12(日) 09:57:00.18 ID:f0hWHOAvo

「安部、おい安部、どうした?」

「へ?」

声のしたほうを向いてみるとトレーナーを務める麗さんが訝しげにこっちを見ています。
ちょっと物思いにふけっていたせいかと思いましたけど、室内をよく見てみれば今日レッスンを受けるメンバーはすでに全員そろっていました。
ちょっと、ってレベルじゃなかったみたいですね。
体調には何ら問題ないことを説明してウォーミングアップを始めます。
メニューとしてはジムでやるようなものとレベルは変わりません。私たちみたいな職業は体力勝負みたいなところもありますから。

アップが終わって今度は基礎的なステップの反復練習です。
体が覚えるまで動作を叩き込んで、体が覚えたら次は細かいところに気を配るように繰り返します。
もちろんそんなステップがひとつなわけがなくて、いくつも反復しなくちゃなりません。
基礎的とはいえ緩やかなものから激しいものまで揃っています。
わずかにでも気を抜けば麗さんから声が飛んできます。
なんでも個々人の到達レベルに合わせての指導を同時にできるのだとか。さすがプロです。どんな目をしてるんでしょう。
ちなみにステップの最中にはもちろん奈緒ちゃんが目に入るわけですが、前よりもっと動作が滑らかになったように思います。

そうした全体練習と筋トレが終わって、やっと個人練習に移ります。
とはいえこのレッスンルームはダンスレッスン以外の目的ではあまり使われません。
ほとんどの子がイヤホンをつけて課題曲を通しで踊ってみたり、タブレットやスマホで動作の確認をしています。
私ももちろんそうです。日によっては外に出て走ったりもしますけど。

不思議なのは奈緒ちゃんがずっと筋トレしていることでしょうか。
あれだけ基礎ステップで成長したんですから、個人としての課題曲をもらってもいいような気がします。
時期はわからないとはいえいずれはデビューが控えている身ですし。

「麗さん」

「ん、どうした?」

「あの、奈緒ちゃんのことなんですけど」

「神谷か、どこか気になるところでも見つけたか」

一目厳しい印象を受ける麗さんですけど、話のわからない人ではありません。
それだけ裏側から私たちを支えることに真剣というだけの話です。
そんな彼女が、ほう、と少し意外そうな表情を浮かべます。

「そろそろ個別の課題曲があってもよさそうにナナは思うんですけど」

「まあ、それは言うとおりだな。練習用の曲なら先人たちのおかげでたくさんあるわけだし」

「ですよね、そのほうが個人としても伸びますよ」

「それもそのとおりなんだが、神谷に関しては方針というものがあってな」

方針。
そういうものがあるなら横から口出しできるものではありませんよね。

「それより安部、今日ボーカルレッスンは第一グループだぞ。体力の配分には注意しろ」

「あ、はいっ」

ボーカルレッスンは私が力を入れているものになります。
方針といえばこれも方針と言えそうですね。
このレッスンはその性質上、スタジオでひとりずつ練習するのが基本です。代表的な例外はユニットを組んで練習する場合でしょうか。
会社的な説明をするならば、ボーカルレッスン用のスタジオがいくつかあって、それをかわりばんこに利用するのがうちのシステムです。
部署によってはダンスレッスンとボーカルレッスンの順番が前後することもあるみたいですが、うちはダンスのあとにボーカルというのがいつもの流れになっています。
個人としての順番は日によって違っていて、今日は私が第一グループだということです。
むろんトレーナーさんも何人もいます。実は麗さんの妹さんがボーカルレッスンのトレーナーさんを務めていたりもします。

歌はなんとなくで歌うなら楽しくて気分のいいものですが、本気で取り組むとなるとあまりにも繊細で技術的で見通しの立ちにくいものです。
大舞台でたくさんの人の心に残る歌い方なんて、ぱっとできるどころかどうやればいいのか思い浮かぶものですらありません。
でも必死でやるしかありません。
私たちの、アイドルのライブというものは総合的なものに違いありませんけど、でもその中心は歌なのだと私は思っていますから。
だから今日も全力で取り組みます。
満点の回答がわからないなら、地力を鍛え上げるだけの話です。だってそれは裏切りませんから。

18 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2018/08/12(日) 09:57:28.28 ID:f0hWHOAvo

「よし、今日はここまで」

パートナーを務めてくださるトレーナーさんの一声でボーカルレッスンは終わります。これに関してはどの子も一緒のはずです。
真剣に取り組むと決めてはいますけど、レッスン終わりにはやっぱり安堵と開放感の混じりあった気持ちが知らずに湧いてきます。
歌は日常生活では絶対に使わない筋肉を絞り上げるように使いますからね。
あごとか喉の筋肉痛ならまだイメージしやすいほうで、なにがキツいかっていうと呼吸器官にそういったものが残るんです。
もちろんそれはあくまで基礎体力みたいな話であって、音の取り方や表現のための歌い方なんかとはまた別領域です。
つまりボーカルレッスンも際限ない奥深さを持っているということです。時間がどれだけあったって足りるというものではありません。

日によってはそのまま居残り練習(これは次の時間の人と一緒に)や見学の指示が出たりもします。今日は違ったみたいですけどね。
あいさつをして荷物を持って、レッスンルームの扉を開けます。
ボーカルレッスン用の部屋が立ち並ぶ廊下には順番待ちの子たちが座るベンチがあって、順番が最後かあるいはよほどのことがない限りはそこに誰かが座っています。
私のいた部屋の第二グループはどうやら奈緒ちゃんだったらしく、部屋の前のベンチで何かのメモを見返しているようでした。

「お疲れ様です、奈緒ちゃん。次、空きましたよ」

「あ、菜々さんお疲れ。今日もキツかった?」

いたずらっぽく笑いかけてきます。
とりあえずどのレッスンもキツいのは共通理解なので、えへへ、と笑って返します。

「ところで奈緒ちゃんはいまどんな内容なんですか?」

「あー、基礎も基礎だってトレーナーさんは言ってる。実感としてもまだまだだよ」

居残り練習で奈緒ちゃんとぶつかったことがないので様子がどんなものだかはわかりません。
でもダンスレッスンの感じを思うとちょっと厳しめなのかもしれませんね。
でも奈緒ちゃんの表情には暗いものとか後ろ向きなところはなくて、きっと成長できていること自体を楽しんでいるんだろうことが読み取れます。
実に健康的な態度だと思います。

「じゃ菜々さん、またね」

手を振りながらレッスンルームに奈緒ちゃんは入っていきました。
さっきまで私がいたはずの部屋は超がつくほど徹底的に防音されていて、少なくとも人の声程度じゃなんにも漏れてはきません。ほとんど別世界です。
そんな空間に消えていったことを思うと、そうなる必要もないのにどうしてか寂しくなります。
変な感傷。
まあなんにせよ今日のぶんのレッスンはこれで終わりです。
B-02に行ってもいいし帰るのもアリです。
お買い物のことを考えるとやっぱり帰るのがベターですかね。

19 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2018/08/12(日) 09:57:56.81 ID:f0hWHOAvo



今は八月二十二日の午前四時。
目が冴えてしまってここからもう一度寝るのは難しそうだ。
だからといって何ができるってわけでもない。
こういうときはいろいろと思い出しちゃうもんだよな。

あたしの現実がすでに実際的に変わっていたかどうかはちょっと判断が難しい。
これまでと生活のスタイルが変わったのはたしかなことだったけど、あたし自身はまだテレビの向こうの存在になったわけじゃなかったから。
過渡期、とでも言えばいいんだろうか。
ただ、周囲の環境は明らかに変化していた。
初日にあたしの介抱をしてくれた菜々さん、その仲良しの心さん。
控えめどころか隙あらば逃げようとする乃々にユニットが忙しそうな柚。
その誰もがテレビの向こうの存在で、あたしはそこに含まれている。
まだ一般人のあたしに芸能人の友人がこれだけいるというのはなんとも不思議な話だ。
他にもみんなけっこう声かけてくれるしな。

そしてその不思議な話の世界の中で、あたしはさらにもうひとつ不思議な夢を見た。

ようやくボーカルレッスンにヤケクソでなく取り組めるようになったころのことだった。
むちゃくちゃな天気だった。雨も風も強くて、いっそサボりたくなるくらいに酷かった。
駅から社屋まではそれほど距離があるわけじゃないんだけど、それでもその短い距離で膝から下がけっこう濡れちゃったのをよく憶えてる。
もちろん普段もレッスン用の靴下は別に持ってきてるけど、その日は行きと帰りで靴下を替えなきゃならなかったからカバンには二足入ってた。
あたしはいつもより早く更衣室で着替えてレッスンルームの扉を開けた。
慣れきった動作に意識を割かれないのは当たり前のことで、あたしもその時はぼんやりしていた。
いつもみたいにレッスンルームは広くて、外が暗いせいでいつもと違ってちょっと眩しかった。
そんな中に、たったひとりでステップの練習をする人がいた。

あたしはそれを見た瞬間、扉のところから動くことも声をかけることもできなくて。
ただぼんやりとその姿を眺めることしかできなかった。
あたしの位置からはその人の顔は見えなかったけど、後ろ姿でさえ美しかった。

開け放した扉が仕組みにしたがって閉まる。
無粋な音が立って、あたしは失敗したことを悟った。
この空間で許される音は、シューズと床の立てる音と、短く切れる息遣いと、衣擦れの音だけだ。
あたしがそれを壊したのだからその後ろ姿がこちらを振り向くのは当然のことで、その表情は。

20 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2018/08/12(日) 09:59:23.27 ID:f0hWHOAvo

はじめきょとんとした顔が覗いたかと思うと、それはすぐにはじけるような笑顔に変わった。
まだ一歩さえ動けていなかったあたしの脳は止まったままで。
いや、たぶん正確には違っていたんだろう。
それが誰かなんて後ろ姿を見た瞬間にわかってはいたけど、それを意識のところまで持ってくるのを脳が拒否していたんだと思う。
意図せずあたしの口が憧れの名前をかたちづくった。

「み、宮本フレデリカ……」

「ワオ! はじめましてなのに名前を知ってもらえてるなんて、フレちゃんもしかして有名人!?」

はじけるような笑顔がちょっとだけいたずらっぽく変わって、テンション高く声をあげた。

気が付けばがちがちだったあたしの緊張はそこで一気にほぐれた。
なんたってテレビで楽しそうにはしゃぐ宮本フレデリカそのものがそこにいたんだから。
タオルを拾って汗を拭いながらこっちへ歩いてくるその動作のひとつひとつに目を奪われそうになったのも仕方ない。
さすがに日本のトップアイドルの一角だけあって、造り込まれたような外見はため息ものだ。
独りで練習してたってことはきっとメイクなんてしてないはずだ。目に映る顔立ちからはとても信じられないけど。
腰の位置が高くて脚が長い。顔が小さい。カラダに無駄なところがない。
見惚れているあいだに宮本フレデリカはあたしの目の前に来てて、なんだか甘い匂いがしたような気がした。

「それで、アタシの名前を知っててくれたあなたの名前はなんて言うの?」

覗き込むように顔を近づけてきたせいで、あたしはびっくりして後ろに下がろうとして、閉まってからけっこう時間の経ったドアに頭をぶつけた。
宮本フレデリカは、おもしろいねえ、なんて言いながらころころ笑っている。
ぶつけた衝撃で多少は冷静さを取り戻したあたしはとりあえず自分の名前を告げた。

「奈緒ちゃんだね! かわいい名前だ! うんうん、よろしくね奈緒ちゃん!」

突然に手を取られてぶんぶん振られた。

「これでアタシと奈緒ちゃんはお友達だね! 友達たくさんいいことだ!」

「へ!? なんかおかしくないか!? あ、いや、……ですか」

学校の友達を相手にするように接してしまいそうになる。
だってテレビに向かって丁寧な言葉遣いなんてしないだろ?
宮本フレデリカなんてそんな存在の最たるものの一人で、だから自然とフラットに話してしまいそうになったんだ。
それはまあ、親しみやすいキャラクタが影響してるのもあるかもしれないけど。
でも今は状況的にはそれは違う。
あたしはアイドルの候補生で、目の前にいるのはその道の大エースだ。
いくらなんでもノリに合わせてフランクに対応するわけにはいかないし、そんな度胸もなかった。

「んー、ダメダメ、奈緒ちゃん! 敬語なんて使っちゃダメだよー、南の島の大王もおんなじこと言ってたよ? 言ってなかったかもしれないけど」

「いや、でもそれは……」

「フレちゃんがいいって言ってるからオールオッケー! 友達なんだから、ね?」

「わか、ったよ、けどあたし割と口悪いタイプだからな」

「フランス人ハーフ、細かいコト、気にしナーイ!」

「なんで急にカタコトなんだよ! あとハーフ関係なくないか!?」

学校で友達と接するようにツッコミを入れるとフレデリカの笑顔が一段深まった。
あたしの場合は気質も関係していると思うけど、このスーパーアイドルの前ではたぶん誰でもツッコミに回ることになるんだろうと思う。
いや冷静に考えてみるとツッコミを強いるようなアイドルってなんなんだ、と思わなくもないけどな。
21 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2018/08/12(日) 09:59:49.81 ID:f0hWHOAvo

それからしばらくは質問攻めにあった。
あたしがどんな立場の人間かということから好きな三時のおやつまで。
それは友達になったとはいえこんなに聞くだろうかとちょっと疑問に思うほどだった。
単にフレデリカがそういうタイプってだけのことだったのかもしれない。
それとは別にフレデリカの言う “友達” がその場しのぎのものでないような気がしてうれしかったっていうのは本当のところだ。

「うーん、奈緒ちゃんのことたくさん教えてもらったからフレちゃんも自分のこと教えちゃおうかな♪」

「お、世間には知られてない秘密みたいなのがあるのか」

「実はねー、アタシの本名は宮本・フランソワ・フレデリカなのだ!」

「おお、ミドルネーム!」

「なんとこのことを知っているのは世界でも奈緒ちゃんひとりしかいない!」

「いやそれはさすがに嘘だろ!?」

「うん、嘘だよ」

「世界でも、はやりすぎだろ。いくらあたしでも騙されないぞ」

「そもそもミドルネームなんてないし♪」

「は?」

「だってアタシは宮本フレデリカで全部だよ?」

こういうのを悪気のかけらもなく言ってのけるのがずるいと思う。
自由すぎるし意味もわからないけど、なぜだか納得してしまう。
特別な人にだけ許される雰囲気みたいなものなんだろうか。

けれど、なんというか、ちょっと意外だった。
トップアイドルなんていうどう考えても特別な立場の人間が、こうやってなんでもないあたしを相手に笑ったり冗談を言ったりするものだとは思っていなかった。
どんなにすごくてもあたしと変わらないところがあると思うと、これまでよりもずっと身近に感じられた。
幻想を抱きすぎだろ、と言われたらそれはまあその通りなんだけど。

22 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2018/08/12(日) 10:00:17.39 ID:f0hWHOAvo

「ふむふむ、奈緒ちゃんはまだデビューの話はなんにも聞いてないんだね?」

「通い始めて三ヶ月も経ってないし、まだまだ努力が必要ってことなんだろうな」

「そっかぁ、……あ、フレちゃんちょっといいこと思いついちゃった」

「え、いきなりどうした」

「秘密〜♪ でも今日はこれまでにしてあるところに行ってきまーす、バイバ〜イ」

そう言うとフレデリカは軽やかにレッスンルームを出て行った。
落ち着きとかとはまったく無縁な感じはどうやら素のものらしい。
出来たばかりの友達がいなくなった部屋は途端に静まり返って、どこか現実じゃないみたいだった。
外は変わらず雨の降る暗い空で、対比されるようにあたしのいる空間は眩しくて。
たとえばドラマのワンシーンとかで使えそうだった。
……あたしには筋は思いつけないけど。

あたしが自分のヘンテコな想像を鼻で笑ったあたりで扉が開いた。
そういえばここはレッスンルームで、ここにいるべきトレーナーさんが今までいなかった。
代わりはフレデリカとのおしゃべりだ。
よくよく思い出してみれば雨と風が強いから早くここに着くようにして、そうしたらフレデリカがいたのだからなんとも奇妙で完璧なタイミングだったらしい。
トレーナーさんはすっかり準備を終えているあたしを見て満足そうに頷いた。

あたしはふと気になってトレーナーさんに聞いてみることにした。
たしかにレッスンは厳しいけど別に話ができないわけじゃないからな。

「なあトレーナーさん」

「ん? どうした」

「フレデリカって今日は何時から来てたんだ?」

それを聞くとトレーナーさんの目がすこしだけ大きくなった。

「ほう、宮本が」

「あれ、知らなかったんですか」

「ここはうち所属のアイドルなら自由に使えるからな、自主練習というところだろう」

「自主練って、そっか、フレデリカって大きいライブあったもんな」

ここだけの話、あたしも抽選に応募して見事に落選している。
競争率はむちゃくちゃなものだし、なにより高校生のあたしの懐事情には限界というものがある。
ある意味で言えばそれよりはるかに希少な体験をたった今してしまったわけだけど、そこに関しては残念な気持ちがないと言えば嘘になる。

「で、当の宮本は?」

「なんか思いついた、って言ってついさっき出てっちゃいましたけど」

フレデリカのいなくなった理由を教えるとトレーナーさんは目を外にやって考え込み始めた。
傍から見てると考え込むことの多い人だと思う。クセなのかもしれない。
いまだトレーニングを重ねているという鍛え抜かれた肉体に回転の速い頭を乗っけているから、この人はあたしから見れば超人のカテゴリに入る。

「ということは神谷、お前と話をしたということだな?」

「え、でも特別なことは何も話してないですよ」

不思議なことを確認されたものだと思っていると、トレーナーさんの頷く姿があたしの目に映った。
それはなにかに納得するといった頷き方じゃなくて、自分の中でなにかを並べ替えるみたいな感じのものだった。
そういうよくわからない動作を目の前にしてあたしの気分が良くなるはずもなかった。
どうせこの流れであたしが関わっていないなんてことはあり得ないんだろうし。

「そのうち君のところのプロデューサー殿からなにか連絡があるかもしれないな」

それだけ言うとトレーナーさんはいつものようにあたしに柔軟の指示を出した。

いまの話の流れでどうしてプロデューサーさんが出てくるのかはさっぱりわからなかった。
これまでだってたまにちょろっと様子を見に来るだけだったのに。
何をどうつなぎ合わせてその結論を導いたんだろうか。
……フレデリカがなにか関係してるっつってもなあ。

でもやっぱりあたしには理解できなくても成立してることはいくらでもあるみたいだった。

23 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2018/08/12(日) 10:00:47.43 ID:f0hWHOAvo

こなせるようになったとは言ってもダンスレッスンはやっぱりしんどい。内容が発展したのもある。
ボーカルレッスンは受け始めからずっと続いている発声と呼吸の仕方、普通にこれボイストレーニングだよな、の二本立てだった。
回数を重ねれば慣れてくるもので、自分でもちょっとは上達したかなと思う。
喉が開く感覚とか声を潰さずに飛ばす感覚とか、考えたことすらなかったイメージがあたしの中にも根を張った。
けどまだ歌を歌ったわけじゃないからどんな効果になってるのかは正直わからない。

レッスンが終わればそのまま帰るのがいつもの感じだから、あたしは今日もそれにならう。
私服で受けるボーカルレッスンは最初は不思議なものだったけど、慣れるとやっぱり気にならないんだよな。
荷物を持ってトレーナーさんにあいさつして廊下に出る。
すると見慣れたってほど顔を合わせたわけじゃないけど見慣れないってほど距離のあるわけでもない人が壁に背中を預けて立っていた。

「よう奈緒、レッスンは順調か?」

嘘だろ。今日の今日だぞ。
まさかの顔にあたしは驚きを隠せない。
きっと外から見れば動揺は簡単に見て取ることができただろう。

プロデューサーという立場の人がアイドル候補生の様子を見に来るってのは別におかしな話じゃない。
でもあたしをアイドルの世界に誘い込んだプロデューサーさんが今ここにいるのはおかしなことだとあたしには断言できる。
どうしてかって、今までは見に来るにしたって絶対にダンスレッスンの時に限ってたからだ。
なぜならダンスレッスンのあいだなら別に途中で入ってきても何の邪魔にもならないから。
一方で音やリズムが大事なボーカルレッスン中には (あたしはその限りではないけど) 途中で部屋に入ってきてしまうとどうしても邪魔になってしまう。

「じゅ、順調かどうかはトレーナーさんに聞いてくれよ、あたしが判断することじゃない」

「ん、元気はありそうだな」

いつの間にか初めて会った時とは違って話し方はくだけた感じのものになっている。
なんというか、敬語からタメ語ってんじゃなくて、よそよそしさが消えたっていうか。名前呼びになったし。

「で、だ。突然なんだけど、八月二十二日って空いてるか?」

「へ? あー、夏休みだし空いてるんじゃないかな、にしてもずいぶん先だけど」

も、もしかしてアレか、デビューってやつが近づいてきたのか?
いやいや待てあたし。それだとフレデリカがつながらない。
それにデビューなら話の切り出し方がたぶん違うはずだ。

「よし、じゃあその日は空けといてくれ」

「うん、そうするよ」

「あ、別の話になるけどデビューも決まったからな。デモテープも来週には届くそうだ」

「うんわかった、……うん!?」


その日の晩、あたしは微熱を出した。

24 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2018/08/12(日) 10:01:14.38 ID:f0hWHOAvo



「ナナちゃーん、ダメだよもう、いくら可愛いからって奈緒ちゃん独り占めにしちゃ」

ちょっと待ってください何のことですか。
忙しげな足音が聞こえるなと思いながら廊下を歩いていたらいきなり言いがかりな感じで声をかけられました。
ついでに後ろから抱き着かれました。

「えっ、奈緒ちゃんって、いや別にそんなことしてませんよ!?」

「フレちゃんはナナちゃんをそんな子に育てた覚えはありません!」

「えぇ……、ナナも育てられた覚えはないっていうかそもそも私のほうが歳う、……こほん」

咳ばらいをしていったん心を落ち着かせます。
あれ、フレデリカちゃんって奈緒ちゃんのこと知りませんでしたっけ。
だって私たちの部署のレッスンルームって一緒では、とそこまで考えてはっと合点がいきました。
そういえばここしばらくのフレデリカちゃんって外のスタジオでレッスンをしてるんでしたね。
なるほどそれじゃあここ最近来るようになった奈緒ちゃんのことを知らなかったはずです。
おや、でも知り合いじゃないはずなのにフレデリカちゃんから奈緒ちゃんの名前が出てくるってことは。

「ひょっとして奈緒ちゃんとどこかで知り合ったんですか?」

「うん! あれはこの間のねー、そう、雪の降りしきる晩のことだったんだ」

わざとらしく作り変えた演技っぽすぎる声は素直に嘘と言うよりも嘘っぽいものでした。

「フレデリカちゃん、いまは六月です。雪は降りませんよ」

「あれ、そうだっけ? じゃあ違うんだね」

とくに細かい情景が知りたいわけでもないんですが、こうやってあからさまにはぐらかされるのも困りものですね。
いつもこの調子だと何が本当のことなのかわからなくなっちゃいそうです。

よくよく顔を見てみるとなんだかうきうきを隠し切れないような表情をしています。
ははあ、さては奈緒ちゃんと相当ウマが合いましたかねこれは。
フレデリカちゃんが絡んでる時点でどんな化学反応が起きるかなんてわかりっこありません。
もしかしたら私たちがレッスンルームで見るいつもの奈緒ちゃんとは違った奈緒ちゃんだったのかもしれませんね。

「アタシ奈緒ちゃんともっと早くに知り合っておきたかったなー、ナナちゃんずるーい!」

「そんなこと言われてもここのところフレデリカちゃんいなかったじゃないですかぁ」

「でもアタシ、欲しいものは何を捨ててでも手に入れる主義だよ?」

「まるっきり論点変わってるうえにそんな悪役みたいな主義はじめて聞きましたよ……」

「あれ、ホント?」

それに私も知り合って二ヶ月とちょっとですし。
隣を歩くフレデリカちゃんは楽しそうに頭を悩ますフリをしています。

「というかフレデリカちゃんっていまレッスンで忙しいのでは?」

「今日は口紅の広告の撮影だったからそれはお休みだったんだ♪」

「ひぇっ、でっかいお仕事ですね」

「もうね、ルージュ、って感じのオトナなやつだったんだー、見て見て〜」

そう言ってフレデリカちゃんは肩から提げていたちいさなバッグからスマホを取り出しました。
手慣れた様子でロックを解いてすぐに目当てのアプリを起動しています。
トレードマークの鼻歌も聞こえてきました。いい出来だったんでしょうか。

「ほらこれっ!」

「わああっ、なんですかこれ!」

憎めないいわゆるドヤ顔とともに差し出された画像は海外のデスメタルバンドのボーカルのアップでした。
もしこれがフレデリカちゃんならもう特殊メイクの領域じゃないですか、骨格から違います。
ちなみに口紅はいちおう塗られてはいますが色はルージュどころか黒でした。

「あ、ごめんごめん間違えちゃった」

絶対わざとですよね?
だって自分とデスメタル間違えませんもん。
というかなんでそんな画像がスマホに入ってるんですか。
すこしも悪びれずに満足そうに画面を操作しているのに文句も言えないのは、これ別にナナ悪くないですよね?

25 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2018/08/12(日) 10:01:42.37 ID:f0hWHOAvo

……こんな表情もできるんですか。
すぐに出てきたいつもと違うメイクのフレデリカちゃんは目を疑うほどで、これがまだ未成年だなんて聞かされても信じられない人が大多数を占めるだろうと思うくらいに大人びて見えました。
ふつうにスマホで撮ったものなのに、背景がごちゃごちゃしたスタジオでなくたとえば白一色だったなら商用レベルじゃないかと疑うほど完成度の高い写真でした。
いえ、完成度にまで思考が及んでしまうほど美しいというのが本当は適切なんでしょう。
私は思わず息を呑んでじっとスマホを覗き込みます。
きれいだな、なんていう子どもみたいな感想だけを抱えたまま呼吸さえ忘れていたような気がします。

「もー、照れちゃうよナナちゃん」

「えっ、あっごめんなさい。でもこれホントすごい魅力的で……」

「うんうん言いたいことはフレちゃんよくわかる、なんかエロいよね」

「自分からそういうこと言っちゃうんですか!?」

まあ同意はしますしカメラが回ってるわけでもないので発言そのものを止めたりはしませんけど。

「というかこれ誰に撮ってもらったんですか? スタッフさん?」

「うん、休憩時間のときに撮ってもらったんだ」

「なんというか、こう、キメキメな顔してますね」

「それは仕方ないよー、だってアタシ宮本キメデリカだもん」

ああ、これですこれ。これがフレデリカちゃんですよ。
具体的な言葉で説明するのは無理なんですけど、こうなんですよ。
こういうのを個性と呼ぶのかもしれません。違うかもしれませんけど。

「あ、ねえねえナナちゃん、いくつか試供品もらったんだけどいる?」

「うれしいですけど、私さっきみたいなはっきりした色ってあまり似合わなくて……」

「大丈夫大丈夫、色もいくつかもらったからお気に入りも見つかると思うな♪」

「わ、いっぱいありますね、さすが広告塔」

「んふふ、じゃあ今度からはタワー宮本と名乗ろうか!」

「そんな弱そうなリングネームみたいな……」

私がそう返すとフレデリカちゃんはにっこりと笑顔を深めました。
これ仮に私が返すのへたっぴだったとしても、これでいいんだって勘違いしちゃいますよね。
まあ友人関係にそういったことを持ち出すのは野暮な話ではありますけど。
……ってフレデリカちゃんからもらったこれ、海外の有名ブランドのやつですね。えっ、ここと契約したんですか、すごっ。

26 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2018/08/12(日) 10:02:10.56 ID:f0hWHOAvo

ウサミン星へと続く電車は心地良いリズムで私の体を揺らします。
今日は運がよかったのか、けっこう早い段階で座ることができました。
いろんな人がいろんな目的を持ってどこかの駅へと向かうこの光景はよくよく見慣れたものです。
知名度なんてまだまだの私には変装の必要もありません。
髪だけ下ろしておしまいです。それだってほとんど自己満足みたいなもので、ふとため息が出そうになります。
いつか、電車に乗るのに大変な準備が要るような、そんな存在になりたいです。

今日フレデリカちゃんとお話をしてしまったせいでしょうか。
それとも以前はぁとちゃんと二人で愚痴を言い合ったのを不意に思い出してしまったからでしょうか。
どうにも未来のことがちらついて仕方がありません。

この世界は、着実に積み上げて成功を収めるというパターンのほうがむしろ稀です。
一気に、爆発的に、階段を何段も飛ばして、そうして一等星として輝く。
才能がそこらじゅうをうろついているような界隈で燦然と存在感を放つのなら、それこそ圧倒的なものがなければなりませんから。
私には、ナナにはそれがありません。

たしかにフレデリカちゃんと私では対象というか、ファン層が違います。
フレデリカちゃんはむしろ女性ファンのほうが多いくらいで、ナナのファンはコアな感じというか。
けれどそれだけでは説明がつかないことがあるのもれっきとした事実です。
それこそが何をもって実力と呼ぶのかさえわからないこの世界にしがみついている理由なのかもしれませんけど。

ぼんやりと目の前に立っている人のTシャツを眺めます。
その人のTシャツには地面から芽が出ている図柄がプリントされていました。
いわゆる双子葉というやつで、たしか中学校で習った覚えがあります。
さて双子葉と単子葉で植物的にどんな特徴を備えるんでしたっけ。さっぱり思い出せません。
その図柄のかたちだけをじっと見ているとだんだん変な図形に見えてきました。疲れてるんでしょうね。

芽。
ふと頭の中に納得までの段階を済ませた考えが自然に場所を取っていることに気が付きました。
あの子はそれほど時間を置かずに、ちょっとしたきっかけで一気に大人になる。正しい色気というものを身につける。
今はまだ溌溂とした少女としての魅力が強いけれど、すぐにそれが変質していくに違いない。
そして誰もがあの子から目を離せなくなる。
さっきのあの画像はまさにまだ誰にも知られてない萌芽だ。
焦点の合っていない目のままで前を見つめていると、電車ががたんと揺れて一気に現実に引き戻されました。

フレデリカちゃんと同じ部署にいることはラッキーなんでしょうか、アンラッキーなんでしょうか。
仲良くなれたことは確実にラッキーなことだと思うんですけど。

27 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2018/08/12(日) 10:02:38.75 ID:f0hWHOAvo



デビューが決まったということで、これまで行けなかった場所に行けるようになった。
たとえば最初の日に菜々さんに誘われた、アイドルのみんなが集まってるっていう部屋。
こうやって言葉にするとなんだかとても現金で、素直に喜べないような感じもちょっとある。
お前はこれこれこうだから許すよ、お前はそうじゃないから許してあげない。
あたしは前者になったわけだけど、なんだか、うん。
いやまあ考えすぎなのはわかってる。

熱が下がって数日後、そんな経緯があった上でいまあたしは菜々さんに連れられてB-02に来ている。
前々から聞かされてはいたけど、みんなこういう部屋に集まってたんだな。
一般的な企業の事務室みたいなところがどんなのかは知らないけど、この部屋はたぶん綺麗だと断言してもいいものなんじゃないか。
なんというか、オシャレだ。オフィスっていう言い方がしっくりくる感じ。広いし。
心さんが黒革張りのソファにだらしなく身を預けているのを除けば、ってことだけど。
どうやら寝てるみたいだ。疲れてるのかもしれないな。

責任者であるプロデューサーさんがいないけれど、菜々さんから聞くところによれば珍しくないことらしく、よくただの談話スペースと化しているんだそうだ。
あたしもそれが当たり前になるのかと思うと不思議な感じがした。
というかすでにここに来ること自体を当たり前にしてもよくなっている状況を考えると、本当に属している世界が変わったんだという気がした。
だってここはアイドルが出入りするスペースなんだから。

隣の菜々さんが手で指すほうについていく。
あたしたちは心さんが寝てるところからはちょっと離れた位置のソファに座ることにした。
この部屋の使われ方の話がさっきあったってことは、これからすることも決まりだ。そんなに構えるようなことじゃないけど。
小声で話をするならまず大丈夫だろうし、そもそも心さんなら起きなさそうな気もするし。失礼かな?
まあ菜々さんもそう考えてるからここを選んだんだろうけど。

28 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2018/08/12(日) 10:03:06.66 ID:f0hWHOAvo

「というか奈緒ちゃん、メガネさんですね」

「あれ、あ、そっか。レッスンの時はいつもコンタクトだから」

「なんだか新鮮ですねえ」

「あたしとしちゃこっちが普段通りなんだけどな、学校もこれで通ってるし」

「じゃあ今日からはコンタクト持ちってことですか」

「そ。ダンスレッスンはメガネじゃ無理だけど、普段はできれば慣れた感じで過ごしたくてさ」

そっか。ここだとコンタクトのあたしが普通なのか。
あたしからするとそれこそ新鮮だよな。
学校だとむしろメガネじゃないあたしを見たことあるやつなんていないのに。

「まあまあ菜々さん、あたしの見た目なんてどうでもいいじゃんか」

「そうですか? ナナとしては気になるところなんですけど」

「いいの。それにしてもまだまだジメジメが続くよなぁ」

「七月に入っても梅雨明けはまだ先なんですよねぇ」

「わかる、梅雨と言えば六月、みたいに思ってたけど実際そんなこともないんだよな」

毎年やって来るこの時期に梅雨の話をしたことがない人なんていないだろう。
その意味であたしたちの会話はとんでもなくふつうのものだった。
フレデリカもふつうなら菜々さんもふつう。
単に目立つ職業ってだけで、人間的な面では特別じゃないってことをよくよく実感する。
そしてその実感を抱いたとき、なぜだろう、あたしはうれしかった。

「でも七月になると、夏のはじまりだな、って特別な気分になっちゃうのも本当なんですよねぇ」

「それもわかる。あたしもカレンダー見て今日から夏か、とか毎年思うよ」

「それにほら、私たちにとっては年二回の新しい仲間と出会う季節でもありますし」

「え、菜々さん、どういうこと?」

菜々さんはきょとんとしている。
ひょっとしてあたし何かハズしたのか?
まいったな、めちゃめちゃいたたまれない。
たまーにこういうのやらかしちゃうことあるんだよな。
苦笑いがゆっくりと口元に上がってくるのを意識すると、菜々さんの表情がもうひとつ変わった。
はっとなにかに気付いたような顔をしてるけど。

「も、もも、もしかしてですけど、奈緒ちゃんウチのオーディションの実施月って……」

「知らないよ、っていうかその言い方だと今月オーディションやるんだな」

菜々さんの表情がなにかに気付いたものから焦ったものに綺麗に移り変わっていく。
あたしの頭にはクエスチョンマークが飛び交っている。
どんなふうに頑張ってみても手元にある材料がつながらない。
オーディションをやる月を知らないことと菜々さんが焦る理由。
とっかかりが足りない中で考えていると今度は菜々さんの口がかたちを変えた。

「つっ、つまりそれっ、すすすスカウトされたってことですか!? プロデューサーさんに!?」

「スカウトってほどそれっぽくはなかったけど」

「で、でも、だって、オーディション受けてませんよね?」

嘘をつく理由はなかったからあたしは素直に肯いた。
それがそんなに大きなことだとはあたしには思えなかったからだ。
アイドルとスカウトなんて単語は関係ありそうにも聞こえるんだけど、実際は違うんだろうか。
でもその可能性もすこし考えるとなさそうだということに落ち着く。
だってそれだとあたしが特別ってことになりそうだから。

29 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2018/08/12(日) 10:03:33.41 ID:f0hWHOAvo

どうやって話を続けたものか見当がつかなかったあたしは菜々さんが話し出すのを待つ。というかそれ以外にできることがない。
菜々さんはさっきと変わらず、驚いたような焦ったような顔をしている。

「あのですね、いいですか?」

あたしがぼんやりと菜々さんが話すのを待っていたのが理解できてないふうに見えたのかな。
それはそれでいいか。ちょうど説明は聞きたかったところだし。
返事を返す代わりにあたしは菜々さんの目を覗き込んだ。

「端的に言っちゃえば、初めてスカウトされたのが奈緒ちゃんってことになるんです」

ほんの十数秒前に切り捨てたはずの可能性があたしの前で息をしていた。
もちろんまだいくつか種類を備えてはいる。
たとえばプロデューサーさんはこれまでスカウトすることが許されていなかったとか。
たとえばもともとスカウトなんてする主義じゃなかったのに、上司からの指示とかでそうせざるを得なくなったとか。

けれど、あたしはうまく言葉を返せなかった。
それどころか自分がどういう気持ちなのか名前をつけることさえできない。
わけがわからないという意味で言えば、いつかテレビで見た抽象画と同じだ。
菜々さんの瞳に興奮のようなものがちらついたような気がした。

「や、やめてくれよ菜々さん、あたしをふつうじゃないみたいに言うのは」

「いやいやよっぽどだと思いますよ? あのひと街に繰り出してはピンと来なかったとか自信が持てないとかずっと繰り返してたんですから」

話題そのものは真面目とはちょっとずれたものだったけど、菜々さんの話し方ががあまりにも真剣なものだったから、あたしはなんだかそれが面白く思えてしまって笑ってしまいそうになる。
それをこらえることで頭の中の混乱にひとつ落ち着きが訪れて。
そうして次に照れくささがやってきて、あたしの気持ちは突然そこから動けなくなる。

褒められる機会に恵まれていたわけでもないから褒められるのになんて慣れてるわけがない。
ましてや今はその相手がアイドルっていうある種の殿上人なわけで、こんな状況はあたしの理解をはるかに超えているのだ。
そんな事情が届いているはずもなく、菜々さんはプロデューサーさんがスカウトすることの特別さについて丁寧に説明してくれる。

すごく熱の入った話だったけど、あたしに納得できるわけがない。
だってそうじゃないか、他の誰か、たとえばフレデリカじゃなくてあたしなんだから。
どう見たって特別とは思えないふつうの女子高生だぞ。
だからあたしはプロデューサーさんの側に何らかの事情があったと推測せざるを得ない。
言い方は悪いかもしれないけど、菜々さんだって全部のことを知ってるわけじゃないはずだしな。

「いやいや、ナナ先輩の言ってることどれもホントだかんな☆」

「ええ? でもあたしにはしっくりこないっていうか、……って心さん!?」

「ん、どうした?」

起こしてしまうどころかいつの間にか肩に手まで回されていてあたしはびっくりした。
いったいどれほど動揺していたんだか。ため息をつきたくなる。本当についたりはしないけど。

「あ、あはは、起こしちゃいました?」

「あんだけ騒がれてスヤスヤ〜、ってほどモーロクしてねぇぞ☆」

そういえば一瞬テンションが上がったような。

「ご、ごめんなさい。初めは静かにしようと思ってたんだけど……」

「まぁいいよ気にすんな☆ んーなことでぐちぐち言うのはスウィーティーじゃねぇし」

それにしてもこの人の物理的な距離の詰め方はまるで意味がわからない。
今回に関してはあたしが混乱してたのはあるけど、それと人にぴったりくっつくのにためらいがないってのとはまた別の問題だと思う。
なによりすごいのがいつの間にかぴったりくっつかれてもちっともイヤな気がしないってことだ。
あたしの鼻を押しつけがましくない甘い匂いがくすぐる。

「それより奈緒坊、スカウトされたのは事実なんだろ?」

「そりゃそうだけどさ」

「じゃあもうそこは認めなきゃな」

「でもあたしそんな実感ないよ」

「うるせぇな☆ 自分じゃわかってない何かがあったからスカウトされたんだろ。もうこれ以上この話はどこにもいかねぇぞ☆」

そう言われてしまえばあたしに返せる言葉はもうない。
あたしにできるのは視線を外して人差し指で頬を掻くことくらいだ。

けれど心さんに言われたことを振り返ってみると、それをあっさり受け入れている自分もいる。
さっき菜々さんに対して思ったことは自分に対しても返ってくるのだ。
あたしの知らないあたし。
とすれば、ふつうの女子高生じゃない神谷奈緒がプロデューサーさんの目には映ったってことなのか?
フレデリカやトレーナーさんにも?
ああ、これはたしかにもうどこにもいけない話だ。

30 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2018/08/12(日) 10:04:04.78 ID:f0hWHOAvo

充電器につながっているスマホはふつう目を覚ますような時間じゃないと告げている。
朝起きるときにはかならず引きずっている “もうすこし寝ていたい” という気持ちが、なぜか今だけは微塵も残っていない。
それどころか頭はすっきりと冴えているくらい。
意識が覚醒した瞬間から脳がフル回転で動くなんて感覚はむちゃくちゃ奇妙なものだ。他のものにたとえることのできない違和感だけがはっきりした頭に残る。

振り返って覗いてみた窓の向こうの午前三時の空はただまっくらで、暑いわけでも寒いわけでもない。
八月も後半に差し掛かった時期を考えればタオルケットなんてあってもなくてもどっちでもよさそうで、実際ベッドから落ちたところにあたしのタオルケットは丸まっている。
汗はとくにかいていないみたいで、肌は普段通りの手触りだ。
ところでこの時間を深夜と呼ぶのか早朝と呼ぶのかあたしは知らない。ただ外を見る限りは夜と呼ぶのが妥当のように思える。
十二時間後を対極の時間と考えるなら、たしかにいまはド深夜と呼ぶのが正しそうだ。

まっくら。でも空の色は完全に黒というわけじゃない。
コーラ飲みたいな。
は? なんでこの状況であたしは突然コーラを思い浮かべるんだ?
意味も理由もわからない。でも飲みたくなったのは本当だ。
……まあ、近くに自販機あるし。
まず人とは出会わないだろうけど、ぎりぎり人に見られても大丈夫な程度の服に着替えて財布を片手にこっそりと玄関のドアを開ける。
空気の感じが家の中と全然違う。昼と比べてもそうだ。
澄んでいて、ひんやりしていて、もう一つ言葉にできない何かの感覚がある。
当然どの家も明かりなんて点いてなくて、見渡せる範囲ぜんぶが寝静まっている。
あるのはマンションの廊下の明かりと一晩中点いてるような道端の電灯だけ。
駅のほうまで行けばもっともっと明るいんだろうなと思うと、どうしてだか空しくなった。

自販機を目指して夜の底を歩く。
サンダルとアスファルトがこすれてじゃりじゃりと音がたてる。
地面がすこしやわらかくなったような気さえする。
周囲に余計な音が無いからか、小銭を入れる音が響く。
文字通り本当に冷たい缶はしっかりとつかむのには五秒だって長すぎるくらいだ。
コーラが喉を通ってやっと現実感と実感が湧いてくる。
アルバイト、アルバイトと意識しないうちに口から言葉がこぼれ出る。一見ヤバい。
ただ今日のはちょっと特別なアルバイトで、午前三時に目が覚めてしまうほど気分が高翌揚するのも仕方がないと思えるほどの仕事なのだ。

説明のつかない時間。ほんとうなら寝ているべき時間。
でもあたしは起きていたい。もしかしたら外に出ようと考えた時点でそうするつもりだったのかもしれない。
自販機のすぐそばの駐車場の低いブロック塀が座るのにぴったりで、コーラを片手にあたしは座る。
なんにもない時間に、ただ暗い街並みを眺めているのはなんにもつながらない。
そもそも眺めるといったって高いところから見ているわけじゃない。
というか普段立っている目線の高さよりもむしろ下の位置から眺めている。
新しい発見なんて何もない。せいぜい人工の光ってこんなに強かったんだってわかったくらいだ。
ぼんやりして、頭に空白が生まれる。
するとその空白を埋めるように、とくに願ったわけでもない記憶がふんわりと浮かんできた。

あれはたしか小学校二年生のころのことだったと思う。
あたしは小学校の廊下にいて、もう帰るところだった。
外は寒いから厚く着込んでいて、教室から出たときになんとなく昇降口とは逆のほうを振り向いたんだ。
廊下の奥の方には同じ学年だけど名前を知らない別のクラスの男の子と女の子がいて、手とか顔とかはいろんな仕草が見られたんだけど、不思議なことに足は根をはったように動いていなかった。
やがて女の子が何かを男の子に渡した。そして突然、それまで動けなかったぶんを取り戻すように思いきり駆け出した。あたしがいるのとは別の方向に。
あたしには関わりのなかったバレンタインデー。
子供心にも、ああ自分とは遠いところにあるんだ、とぼんやり思ってた。
もし動こうとすれば、今でもあたしはバレンタインデーに近づくことができるんだろうか。

そういえばそんなこともあったなと思う。
けど、どうしてこんな記憶が急に蘇ってきたんだろう。
別に強烈に印象に残ってたわけじゃない。というか思い出したのは初めてだ。
あたしのまったく関わっていない記憶。
晩夏の午前三時にはそういう不思議な力があるんだろうか。
イヤな記憶なわけじゃないんだけど、頭に急に浮かんだ泡みたいなそれを振り払うためにもういちど周りを見渡してみる。
見える景色に変化はない。ただ暗いだけだ。
でもたしかに朝は近づいていた。

31 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2018/08/12(日) 10:04:31.50 ID:f0hWHOAvo

段ボール箱に入った商品を指定の場所まで運ぶ。
簡単に言ってしまえばあたしの仕事内容なんてそんなもので、とくに複雑なわけじゃなかった。
その代わりと言っていいのかはわからないけどその量はどう見たってとんでもないもので、そういった仕事の経験のないあたしがすんなり雇ってもらえるのも納得だった。
それがどうして早起きするほど特別かといえば、この仕事が誰のライブのためのものかに関係している。
フレデリカだ。
いわゆる物販のスペースには小さなものはシールから大きなものなんかデカいパネル?みたいなものまであって、フレデリカの人気の一端が窺える。
普段から連絡を取り合うようになったせいでスーパーアイドルだってことを忘れそうになるけど、こうして現場に来てみるとその事実をしっかりと思い出すことができる。
まさかスタッフ側として現場に関わることになるとはちっとも思ってなかったけど。

フレデリカのライブという大前提はあったにせよ、荷運びという仕事そのものも思っていた以上に楽しいものだった。
お揃いのスタッフTシャツを着てライブの準備を整えていくのは文化祭のスケールを大きくしたような感じで、あたしみたいな素人もその一体感の中に入れてもらえてるような気がした。
フレデリカがあのとき敬語を使わないでほしいと言ってた気持ちもわかる気がする。タメ口というか雑な扱いだと距離が近いような感じがあるのだ。
ちょっと違うか、敬語を使われてると遠慮みたいなものを不意に感じることがあると言ったほうが近いかもしれない。
ほとんど決まった場所の往復しかしなかったけど、あたしのアルバイトはそんなこんなで順調だった。

荷物を運んでしまうとあたしの仕事はすっかりなくなった。
本当なら品数の確認とか別の仕事があるんだけど、そこは素人が入ったら逆に時間がかかっちゃうからあたしは関わっていない。
だからあたしは暇を出されるかたちで舞台裏をうろつく許可をもらっていた。
なんと文字通りステージの裏側まで回っていいとのことだった。
そうは言ってもちょっと疲れていたあたしの足はまずアリーナの外へと向かう。本番前の休憩みたいのものだ。
まさに夏空っていう感じの抜群の晴れ方だけど、天気予報によるとどうやら日が傾いたころから天気は下り坂らしい。現時点での空を見ているとなかなか信じがたいものがある。
ステージの設営どうこうはあたしがアリーナに着いたときには終わっていたから、きっと昨日の段階で、あるいはもっと早くに済んでいたんだと思う。
誰がそこに立つのかを考えればそれもそうかと頷ける。何かを仕込んでいるだろうことは簡単に想像がつくからだ。

礼儀というか常識というかなにかそういったものが働いて、あたしは舞台には上がることなく顔を覗かせるかたちでその空間を見渡す。
たぶん全体を通した大掛かりなリハーサルは昨日とかの段階で済んでるだろうし、観客が入るのにはまだ時間が早すぎる。
だから会場にはほとんど明かりが点いてなかった。
映画の上映中みたいに足元だけがぽつんぽつんと淡く光っている。
もちろん設営の用事ができればその限りではないんだろうけど、とにかく今は暗かった。
ついでに言えば涼しいどころかちょっと寒いくらいだ。
荷運びをしているときには汗を拭くのに必要だったスポーツタオルの役割が変わるくらいに。

( まるで深海みたいだ )

別に深海に対して強い関心を持っているわけじゃないけど。
けれど何かが合致してしまったんだろう。そういうことは珍しいことじゃない。
光が無いせいで余計に距離感のつかめない天井も、あたしとは根本的に違うスケールで広い空間に点在するよく見えないデコボコとした座席や柵や階段も、全部がそれを想起させた。
足元の小さな光でさえそのある種の幻想的なイメージを手伝っていた。

場内はここに観客が詰めかけるのだと言われてもなかなか信じられないくらいにがらんとしている。
今はフレデリカとは正反対にあるようなそんな静かで暗い舞台のはずなのに、でもあいつがそこに立てば綺麗に映えるだろうことは疑えなかった。
どうしてと問われても答えられないことが多すぎて自分でもすこし不安になってくる。
それとも誰でもこんなふうにわからないことに囲まれて生活してるんだろうか。
まさか聞いてみるわけにもいかないけど。

32 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2018/08/12(日) 10:05:07.70 ID:f0hWHOAvo



会場に来ているお客さんがとくべつ静かにしているわけじゃありません。
ざわめきどころか近いものなら会話の内容だって聞き取れます。
でも場内の高い天井から沈黙に似たすこし重みのある空気がゆっくりと下りてきます。
これはライブイベント特有のものなんでしょうか。私にはわかりません。
あるいは大きな会場であることが条件なのかもしれません。
後ろを振り返ると、中学校で習った反比例の正の値のように客席が上段まで弧を描いているように見えます。
男性だってたくさんいますけど、やっぱり他の子のライブに比べて女性の数が多いですね。
ファッションモデルとして活躍していることが大きいんだと思います。他にも特別な何かがあるのかもしれませんけど。

始まるまでまだ優に三十分はあるはずなのに、空いてる席を探すのはもう無理といった入り具合です。
もしかして本当に埋まりきっていたりするんでしょうか。
もちろん物販とかのことを考えたらまずありえないとは思いますけど、でも私がそう考えてしまうくらいにはこの広い会場は混み合っています。
息を吐き終わってからため息をこぼしていたことに初めて気が付きました。
急いで口を覆いましたけど、そのこと自体もなんだかすごく恥ずかしくて。
とりあえず二本買っておいたペットボトルの片方にそそくさと口をつけました。

33 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2018/08/12(日) 10:05:34.66 ID:f0hWHOAvo

突然、暗くなりました。
それまで普通の室内の明るさだったはずの景色が一変します。
まるで太陽が一瞬で沈んでしまったように。
直後は落差のせいでなんにも見えなかった周囲が、時間をかけてゆっくりかたちを取り戻していきます。
それでも暗いことに変わりはないので、かたちを見分けるのがやっとです。
不意に視線を上に持っていくと、ギリギリまで絞ったライトがその場でだけ光っていました。
まるで星の瞬く夜空のようです。

もうじき始まるんだ。
光のなくなったあのステージに一番星が上がるんだ。
周囲のざわめきもはっきりとひそやかなものに変わります。
みんなの気持ちの向きが統一されていくのがわかります。
だって、私たちはたった一人のアイドルを見に来たんですから。
この待っている時間が待ち遠しくて仕方がありません。
でも、愛おしくもあります。

完全に明かりが落ちて、時間がぴたりと止まります。
もう誰も口を開いてはいません。
全員の視線が前へ向いていることが、姿なんて見えなくたって感じ取れます。
きっと十五秒くらい経ちました。
みんなの中で何かが高まっていきます。
私だって例外じゃありません。
何度も何度もライブは見に来ましたけど、この感覚はいつだって決まって湧き起こってきます。
三十秒は経ったはずです。
いえ、もしかしたらその五倍くらい経っているのかもしれません。
もうみんなの高まりが限界近くまで来ています。
破裂してしまいそうなほどの空気が張りつめて、息が詰まりそうになります。

「みんなー、お待たせボンジュールー♪」

マイクを通して少し滲んだ声が、場内に反響して浸透していきます。
続いてステージ脇、向かって右側にスポットライトが当たります。
目を凝らせば階段があるのが見て取れます。あそこから上がってくるんでしょう。
フレデリカちゃんの一曲目、もうお決まりと言ってもいいほどの前奏が始まります。
曲調はポップなんですけど、でもどうしてか私は涙ぐんでしまう、そんなナンバー。
最初の一音、そこから包み込むように場内を満たしていく音の奔流。
まだ姿は見えません。
特別なアレンジでもしない限りはそんなに前奏は長くないはずなんですけど……。
もう歌が始まっちゃいます。アクシデント? まさか。

歌が始まる、と思ったらスポットライトが同じタイミングでステージ中央に切り替わりました。
フレデリカちゃんは何食わぬ顔、というか楽しそうにステップを踏みながら歌っています。
ああなるほど、そういう仕込みですか。
ちょうどそれに思い当たった辺りで “ねえ、どこを見てたの?” という歌詞が耳に届きました。
やかましいわ、とツッコみたくもなりますがそれは野暮というものです。
どうして、って思い思いの色のサイリウムが一斉に揺れ始めて、幻想的な光景が浮かび上がるから。
穂の光る夜の草原の先で、かたちを持った憧れが手を振っています。

引力と呼ぶべきでしょうか。
視線はどうしても彼女のもとへ向けざるを得なくなります。
もちろん周囲が暗いなかでの明るいステージですからそれは自然ですけど、きっとそれ以上に。

一生懸命にコールを入れます。
そうしないと口を開けたままぼんやりと時間が流れてしまいそうな気がするから。
夢の時間の熱狂は曲目が変わっても衰えることなく、むしろ一体感を増して高まっていきます。
曲目と曲目のあいだのマイクパフォーマンスも、曲中に要求する煽りも、ミュージックビデオでは見られないキレキレのダンスも、本気の歌声も、全部がフレデリカちゃん以上のものでありながらしっかりとフレデリカちゃんでした。

“らしさ” という意味では三曲めのAサビ終わりに舞台の両脇からスモークが勢いよく噴き出て、その片方からフレデリカちゃんがもうひとり出てきたのが印象に残っています。
しかも出てきたのがそっくりさんじゃなくて本物だったっていうのが、また。
後で本人に聞くと、歌は舞台の裏で本当に歌っていたそうです。
距離があったとはいえ、会場の盛り上がりを考えれば誰もそっくりさんだったなんて疑ってはいなかったはずです。よくもまあそんな似た人を探し出しましたよね。メイクの魔法でしょうか?
実際に本物と見比べると違いがわかるんですけど、似てたんですよ、これ本当です。
というか影武者さんのほうも最後までダブルフレデリカとして舞台に立ち続けていたのも驚きです。

ん? ああなるほど、私たちと一緒にレッスンできないわけです。秘中の秘なわけですから。
このかわいらしいイタズラに会場は精一杯の声で応えていました。
まるで全力で声を上げる口実を見つけたみたいに。
熱狂。
ほとんど音の中にいるようだったあの感覚はほかに喩えようがありません。
流れる汗のことなんてちっとも気にならなくて、どこで息をしていたのか思い出せないくらいに気持ちよくて。
振り上げた腕はとても自分のものだと思えませんでした。

いま思い返してみれば事前に買っておいた飲み物を途中で飲むチャンスもあったはずなんですけど、あの最中にはちらりとも頭に浮かびませんでしたね。あらん限りの声で叫び通してました。
おかげで翌日どころか三日ほど喉にダメージが残りました。
お仕事を考えるとやっちゃいけないんですけどね。
アンコールも含めて満足以上の言葉が出て来ないほどに楽しい時間でした。
夢そのもの、憧れそのもの。
夜の空の下で、光る草原に囲まれて。
心の底から楽しそうに歌って踊ってしゃべる彼女の姿は、やっぱり一番星でした。

34 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2018/08/12(日) 10:06:02.62 ID:f0hWHOAvo



いまあたしに起きている現象はほんとうに現実のものなんだろうか。
ついさっき、それこそ二分とか三分くらい前までステージの中央に立っていたフレデリカに、あたしは抱きしめられている。
あたしは何もしていない。スタッフゾーンから舞台袖に引っ込んできただけだ。というかそもそもここに来ることだって教えてないんだけど。
だというのにフレデリカはステージから下りてくるなりあたしを見つけて駆け寄ってきて。
そしてあたしに何度もありがとうと呟いている。
なんだか状況がうまく掴めていないから、この細身の体に手を回していいものなのかもわからない。

「……ああ、お疲れさま」

あたしに言えるのはこれだけだ。

「……うん」

衣装も肌もぐしょぐしょで、あたしだってさっきまで汗まみれだったしそんなことはどうでもいいんだけど、フレデリカは本当に疲れているように見えた。
呼吸ももう落ち着いてきてるし、あたしにかかる体重もさっきほどじゃない。
でもときおり腕が震えているのを見ると、間違いなく大変だったんだろうと思う。
ライブ中、あたしから見えたフレデリカは客席を見据えた横顔だけ。
だけど見ていた時はそんな風には見えなかったんだけどな。
いや、それどころか正直に言えばカッコよくさえあった。
ずーっと動きっぱなしで、それでもちっとも疲れた素振りなんて見せずに笑顔を振りまいてさ。
ステージに立っていたもうひとりには悪いけど、ほとんど記憶に残らないくらいフレデリカが凄かった。
どれくらい凄かったかって、スタッフゾーンで見てて歓声を上げないように自分を抑えなきゃならなかったくらいだ。

だからいまここでフレデリカに理由を尋ねるわけにはいかない。
あたしにだってそれくらいの常識は備わっている。
まあ、フレデリカの状態を考えたら、受け止めてやるくらいは当然か。
ぽんぽんと右手で背中を軽く叩いてやる。
よく頑張ったな、なんてどんな立場かわかったもんじゃないセリフも一緒だ。

「奈緒ちゃんのおかげでね、奈緒ちゃんのおかげでね、ふふ、わかったことがあるんだー♪」

「なんだよ、ライブに集中してたんじゃないのか」

「それはそれ、これはこれー♪」

「で、あたしのおかげでわかったことってなんだ?」

「ヒ・ミ・ツ☆」

「…………わかったから挨拶してくるなり着替えるなりさっさとしてこい、話はあとで聞いてやるから」

バカみたいな投げキッスをしてから歩いていくフレデリカの足取りは確かなものだった。
あたしとのやり取りが休憩になったのかもしれないし、あるいは初めから疲れた演技をしてたのかもしれない。
ただあれだけ歌って踊ってを続けてやってたんだから疲れがまったくないってことはないだろう。
そういうときには誰かに甘えたくなるのも自然と言えばそんな気もする。
その相手があたしっていうのは微妙に疑問といえば疑問にはなる。
回答としては今日に至るまでにそれなりに仲良くなったから、とかだろうか。
初めて出会って以降はそれほど顔を合わせる機会は多くなかったけど、そこはそれLINEとかで連絡とれるからな。
ある意味で言えば親しみのある顔がステージを下りたところにあったわけだし、そう考えればまあ納得か。
こういうのはあたしは正直ちょっと照れくさいんだけど、フレデリカのやつは平気なんだろうか、なんだろうな。
ところでさっき話をあとで聞くって言った手前、これからフレデリカの用事が終わるのを待つわけだけど、あたしはどこで待てばいいんだ?

35 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2018/08/12(日) 10:06:30.84 ID:f0hWHOAvo

ここしばらくあたしの理解を超える事態がいくつか続いているけど、今回のはその中でもトップクラスに衝撃的だった。
アイドルデビューそのものはいい。あたしが決めたことでもある。
それが九月半ばなのもまあいい。心の準備をするだけの時間はもらったと思う。
そのイベントが割とデカいところに新人を集めて一曲ずつ歌わせるっていうものなのは、ちょっと派手だけどさすがは大手ってことにしておこう。
でも、だ。

「乃々ぉー、おかしいとは思わないかー?」

「あの、でもどうして奈緒さんは部屋に入ってくるなりもりくぼの隣に飛び込んでこられたのでしょうか……」

だってしょうがないだろ、ちょうどいいところに乃々がソファに座ってたんだから。

「あのな、ついさっきな、デビューイベントの話の詳しいところ聞いたんだけどな」

「ひいぃ、奈緒さんがもりくぼの話をまるで聞いてくれません……」

世の中には腑に落ちないコミュニケーションというものが存在するんだよ、乃々。
近くにいるとやっぱり乃々もいい匂いがする。
そんなことより部屋に人がいてよかった。誰かに聞いてもらわなきゃ落ち着かない類の話だ。
乃々もあたしからすれば先輩になるわけだしな。
というか怯えるにしても “ひいぃ” はひどくないか。

「そこで大トリ任されちゃってさ」

「……え?」

「だよな!? おかしいよな!?」

「え、そ、そうじゃないんですけど……」

思っていた反応と違う。
あたしはそこで同意とかそういうのが欲しかったんだぞ。
心の中で不合理な文句を言うのにわずかに遅れて息が詰まりそうになる。

乃々はちっとも悪くなくて、ただ巻き込まれただけだ。
ただそれにしても乃々のこの反応はどういうことだろう。何に対しての “そうじゃない” なんだろう。

怯えているとはいえ隣から逃げ出さない乃々を見ると、あたしにもそれなりに慣れてくれたことが実感できる。
ちなみにフレデリカとか心さんとかが当たり前のようにやっている接触を伴うコミュニケーションはとても真似できない。乃々ですら逃げないあの技術はヤバい。
本当に捕まえておきたいわけじゃないし、自由を奪わないようにある程度の気は遣う。
目の前にある乃々の顔はいつも通りあたしのほうを向いてはいないけど、かと言って自分が変なことを言ったというような様子も見られない。

「なあ乃々、なにが “そうじゃない” んだ?」

「あ、あの……、その、奈緒さんが大トリなのはおかしなことじゃないって思うってことなんですけど……」

「えぇ? あたしなんてそんな器じゃないだろ?」

「さ、さすがにもう、それは通らないんじゃないですかって、わ、私は、その……」

何を言ってるんだ?
普段からはとても信じられない乃々の強い言葉に、あたしの一気に喉が渇いていく。
もう熱は引いたはずなのに。
出入り口のない立方体の部屋にひとり取り残されたような錯覚を起こしそうになる。ここはB-02のソファの上だぞ?
あたしは乃々の言葉の意味するところもその意図も理解ができなくて、つっかえながら尋ねる。

「えっ、え、乃々、それはどうしてだ? 何か理由があるのか?」

「な、奈緒さんって、その、レッスン見た限りなんですけど、そ、ソロ取られますよね……?」

ソロ。そう言われてあたしは曖昧に頷く。
ダンスレッスンもボーカルレッスンもずっと一人でやってきたから、それは当然だ。
変なところがあるようには思えない。
むしろこれから誰かと合わせるぞ、なんて言われたら苦労しそうな気さえする。
36 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2018/08/12(日) 10:06:57.70 ID:f0hWHOAvo

乃々のほうを見ると、とくにこれ以上言うことはない、みたいな表情でじっとしている。
あたしと乃々のあいだに齟齬が生まれてる。
もう乃々は結論に達した、あるいはそれに達するに十分な言葉は交わしたと認識していて、その一方であたしは与えられた言葉がどう組み合わさるのかがわからない状態だ。
ちらちらとあたしの顔を見る乃々が視界の端に入ったけど、疑問を抱えたままのあたしは視線を上のほうに泳がせていた。
やがて乃々がおずおずと口を開いた。あたしがずっと目を泳がせていたからだと思う。

「は、初ステージで、そ、ソロでやる人なんて私は聞いたことないんですけど……」

「……えっ?」

「その、普通はユニットとかで経験を積むものだと、もりくぼは思っていました」

あたしは二の句が継げない。
表情に気を回せない。もしかして口が開いたままか?

「わ、私もすごく親切な方々と組ませてもらってますし……」

「ちょ、ちょっと待ってくれ、乃々。それはあたしが例外ってことか?」

「えっと、ユニットそのものがすごく人気が出たり、そ、そのユニットの中でずば抜けた印象を残したりしない限りはソロで活動なんて聞いたことないので、例外も例外だと思います……。うちの事務所は人数も多いですし……」

乃々がいつも以上に頑張って長い言葉で説明してくれているのに、どうしても意識が信じられないっていう考えから離れない。
むしろ乃々の正論があたしに大きな衝撃を残していく。
あたしは特別じゃないはずなのに。
それでも周囲の状況がそれを許そうとしない。
うまく回らない頭で考えようとすればするほど深みにはまっていく。
これまでの、プロデューサーさんから資料をもらってからの日々が、あたしの認めたくない証拠をどんどんと揃えていく。

一気に吐き気があたしを襲う。
これはなんだろう。
これはきっとあたしがふつうでいたかったことの理由だ。
そしてその願いに対する回答だ。
実体のない、ただのイメージ上の期待でさえあたしには重すぎる。
あたしに、規模も立場も何もかも比べられないけど、フレデリカと同じ土俵に立てっていうのか?
そんなものを背負えっていうのか?
皮膚の一枚内側を冷たい何かが駆け下りていく。
あの人たちはあたしの中にいったい何を見たんだ?

「あ、あのっ、な、奈緒さん、ひぅっ、ご、ごめんなさい……」

違うんだ。違うんだよ、乃々。
乃々はなんにも悪くない。
あたしは乃々を怯えさせたくなくて、笑いかけようと努力する。
でもあたしの表情筋は応えてくれなかった。
ぎちぎちと皮膚の下で震えるだけで、顔はこわばったままだ。
口もうまく開かない。
喉はからからで、かすれた声どころか咳にすらならない小さな音しか出て来ない。
気が付けば腕にも力が入らなくなっていて、これまでに見たことのない本気の怯えた表情をした乃々があたしから逃れて部屋から駆け出して行ってしまった。

最悪だ。

乃々がいなくなってスペースの空いたソファに倒れ込む。誰も受け止めてはくれない。
両手を顔に持ってきて隠す。
誰にもこんなもの見せられない。
自分のハートの弱さというかくすんだ部分が浮き彫りになる。
乃々に絡んだのも単純に逃げ場が欲しかっただけなんだって気付かされる。
こんなあたしが人前に立つ? とても正気とは思えない。
でも今さら逃げ出せるわけがないだろ、と理性が主張する。
大トリで、衣装も曲も作ってもらって、本番まであと二週間を切っている。
あたしには救いなんてものはないんじゃないかとすら思える。
涙は流れなかった。
きっと意味なんてないからだ。

……逃げようかな。
そんなことを考えていると、不意にドアの開く音がした。
体を起こして元気よくあいさつなんて、今はとてもできそうにない。
寝てるふりをしてやり過ごそう。

37 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2018/08/12(日) 10:07:26.15 ID:f0hWHOAvo



社内で、これは別の部署も含むという意味で、奈緒ちゃんの名前をよく聞くようになりました。
まだデビューすらしていないのに、これは異常と言ってもいいくらいです。
多くはまた聞きでのウワサ程度のものですが、それにだって出所というものが必要です。
私の推測するところではボーカルレッスンの時間が入れ違いの子が発信源なのではないかと思っています。
ウワサになる理由もいくつか想像がつきますけど、おそらく一番大きいのは徹底して秘密主義が貫かれていることでしょうね。
奈緒ちゃんのボーカルレッスンだけは、その前後のアイドルが部屋に残ることも早めに入ることも許されません。
それは同じ部署の私たちにも徹底されました。
どんなレッスンをしているのかを知っているのは本当にごく一部の人だけみたいです。
当然どんな曲をもらったのかも私たちは知りません。
だから実体のない “神谷奈緒はヤバい” というウワサだけが聞かれるようになったのだと思います。
……さすがにもうちょっと具体的な言葉があってもいいと思うんですけどね。

今日もB-02に向かう途中で知り合いの子に同じ話題を振られました。
まあたしかに奈緒ちゃんといっしょの部署ですから質問する相手は必然的に私とかはぁとちゃんとかになるのはわかるんですけどね。
B-02に入ってみると、プロデューサーさんがマグカップを片手に立っていました。
朝のこんな時間に机に向かってないなんてずいぶん珍しいですね。

「おはようございまーす」

「おう菜々、おはよう」

「お仕事のほうはちょっと落ち着いたんですか?」

「フレデリカのライブ前に比べれば、な。とはいえすぐに忙しくなるよ」

ありがたいことに、と、残念だけど、ってひとつの表情で同時に成り立つんですね。驚きです。
私たちにとって彼が忙しいっていうのはもちろんありがたいことなんですけど、やっぱり大変なのに違いはありませんよね。
それにしてもプロデューサーさんの言い方だと忙しくなるのが決まっているか、あるいはかなり高い確率でそうなるっていうふうに聞こえます。なにかあるんでしょうか。

「近いうちになにかありましたっけ?」

「奈緒がデビューする」

即答です。
奈緒ちゃんが耳目を集めることを露ほども疑っていないことがよくわかります。
彼女に期待したい気持ちは私も同じですが、とはいえデビューはみんなと変わらない新人イベントでのもののはずです。
そのイベントから抜け出せない子もふつうにいる中で、プロデューサーさんが忙しくなるレベルで注目を浴びるのはなかなか難しいのではと思わざるを得ません。
なにせ世間的に注目度バツグンのイベントというわけではありませんから。
そのうえで確信に近いものを持っているというのはどういうことでしょう。

「え、たしかに奈緒ちゃんかわいいですけど、それでもまだ初ステージですよ?」

「んー、秘密の作戦があってな」

「なんですかそれ」

こどもみたいな返しにちょびっと呆れながらこっちも返事をします。

「そう言うなよ、ただ奈緒じゃないと成立しないんだよな、これ」

「奈緒ちゃんじゃないと成立しない? どういうことです?」

「そこから先は秘密だ、でも菜々、お前はもう奈緒の魔翌力にやられてるよ」

魔翌力?
なんともヘンテコな言い回しですけど、どういう意味でしょう。
まあプロデューサーさんにスカウトされてきた時点で奈緒ちゃんが何かしらの特別さを備えているだろうことには納得しますけど、さすがにそれが何かまではわかりません。
そして私はその何かにやられている。
自覚症状はありません。
かわいいな、って思う程度ならそんなものうち所属のアイドル全員に対して思っています。
たまにプロデューサーさんの言ってることがよくわからなくなることがありますが、今回のこれもその系列の話なのかもしれません。

38 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2018/08/12(日) 10:07:53.55 ID:f0hWHOAvo

「あの、はぁとちゃん?」

「どうしたんスかナナ先輩、あ、さすがにエビフライはあげませんよ」

「そんなこと考えてもいませんよぅ」

ファミレスで出し抜けに話を切り出そうとしたらあさってのほうを向いた答えが返ってきました。
そんなに物欲しそうな顔でもしてたんでしょうか。
逆に一発で話題を当てられても怖いですけど。

はぁとちゃんはなんでもないように食事を続けながら視線だけは私に投げかけています。
とくに話を適当に聞き流すというつもりはないようです。
かと言って重く捉えているようには見えません。場所もファミレスですしね。
まあ実際、腰を据えて真面目に話す内容でもないかなと私も思いますし。

「奈緒ちゃんについてどう思います?」

「奈緒坊? どの観点っていうか、どうしてまた」

「アイドルとして、ですね。プロデューサーさんが気になることを言ってたんですよ」

「気になること、ねぇ……。つーか奈緒坊は今度やっとデビューっスよね?」

やっぱりはぁとちゃんも私と似たような疑問を抱いたみたいです。
そうなんですよね、とつぶやきつつ頷きます。

「じゃあアイドルとしても何もないんじゃないスか? 期待したいってのならわかりますけど」

言い終えるとはぁとちゃんは手に持っていたフォークをまた動かし始めました。
疑問の持ち方もいっしょなら導く結論まで私といっしょで、それは多くの人が私たちと似たような思考の流れをたどるだろうことにそれなりの説得力を持つ材料になるはずです。
そうです。正確に言うなら奈緒ちゃんはまだアイドルではありません。
それほど遠くない未来に解決されることとはいえ、実戦の場を踏んでいるかどうかは大きな差になります。
ステージでの立ち姿というものは、私たちの職業上なによりも重要なものになるからです。
けれどプロデューサーさんはそのことに見向きもせずに成功を確信していました。
ひっかからないわけがありません。でも正しい問い方もわかりません。

ペースが遅いせいかすこしぬるくなったグラタンを食べ終えると、はぁとちゃんがこちらをじっと見ているのに気付きました。
頬杖をついて、そのちょっとだけ傾いたほうに束ねた二房の髪がついていってます。
テーブルがすこし低いのか、肘をついている位置が前めになっています。
あまり意識されることは多くありませんが、実ははぁとちゃんって意外と背が高いんです。私が小さいっていうのもあるんですけどね。

「で、ナナ先輩はさっきの話どう考えてるんです?」

「わかりません。プロデューサーさんが奈緒ちゃんの魔翌力だなんだ言ってましたけど、根本的な部分でさっぱりなんですから」

「えぇ? それギャグとかじゃなくて?」

「少なくとも仕事に関しては冗談すら言いませんよね、あの人」

「魔翌力、……魔翌力ぅ? 奈緒坊に何かあるってのはわからなくもないッスけど、ねえ?」

「むしろわからなくもないって言えるはぁとちゃんにナナは感心してますけど」

大人げな、こほん、……こども染みた精神が顔を覗かせました。
どう見ても拗ねたように言葉を返しているようにしか見えません。
自分にはまったく見えないものをなんとなくでも他人が掴んでいると言われてしまうと、どうしてか頭の芯のほうがイヤがるんです。
意味もわからなければ向かう先もない嫉妬です。
あとで落ち着いて考えれば簡単にわかるんですけど、その場では急にそんな感情が頭に昇ってきてしまうんです。

「……まあでも、その魔翌力だかなんだかは抜きにして、自分は芸能界に向いてないと思いますよ、奈緒坊」

「在野に置いておくには魅力的すぎる気がしますけど」

「見た目の話じゃないですよ、性格っつーか気立ての話?」

「ナナはすごくいい子だと思いますね、相手に壁を作らせない親しみやすさというか」

「そいつは同意します。でもああいうのは背負いこみますよ、いい子だからこそ」

潰れないかが心配、と添えた一言は妙に重いものでした。
頬杖をついたまま視線を窓の外に投げてため息をひとつ。
はぁとちゃんは普段のキャラこそハジけたものですが、意図して落ち着いた雰囲気にすれば本物の美人の枠に収まります。あるいは意図しなくてもそうなのかもしれませんが。
たとえばこういう普段は表に出て来ない要素が、ふと滲み出てくるなんて話になれば魔翌力と言われても納得してしまうような気がします。
それは隠された特殊な誘蛾灯のように、特殊な感応器官を持った人たちを惹きつける。
実際にはぁとちゃんのファンには多様性というか、はぁとちゃんが見せる多面性のひとつひとつに魅せられている人が多いようです。

腕が震えだしそうな気がして、不自然にならないように左手で右腕をそっと押さえます。
はぁとちゃんが向けた視線を追って窓の外を見てみると、空はきれいな青色をしていました。

39 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2018/08/12(日) 10:08:21.21 ID:f0hWHOAvo



腕を枕にして背もたれのほうを向いて顔を見られないようにする。
外から見れば姿勢としてちょっと苦しいかもしれないけど、今のあたしにはこれくらいしか方法が思いつかない。
革張りのソファがぎゅむぎゅむと音を立てる。

「フンフンフフーン♪」

いつもの鼻歌だ。
こういうタイミングで来るならきっとフレデリカだろうと思ってた。
たぶんだけど、すぐにあたしのことを見つけるだろうし、見逃しもしないだろう。
本当にキツい。
せめて三十分後ならまだよかったのに。

「あ、奈緒ちゃんだ」

あたしからフレデリカを見ることはできないけどなんとなく雰囲気でわかる。
きっと顔を近づけるようにして覗き込んでいるんだろう。
今のあたしは見られて困るものがあるわけじゃなくて、単に顔を見られたくないだけだから体の向きを動かさないようにするだけだ。

正直、フレデリカには申し訳ないと思う。
いつもだったらこんな寝たふりなんてしないで楽しく話をしてたはずだ。
しかもその寝たふりの理由がフレデリカにちっとも関係のないあたしの落ち度によるものなのだから申し訳なさもマシマシだ。
ほんとうに自分が嫌になる。

「んー、でも寝てるの起こすのはよくないよね。それじゃあ……」

ぱちん、と留め具を外す音が聞こえて、フレデリカは自分のカバンを探り始める。
何かを取り出して、その何かをテーブルに置く音。がっちがちじゃないけどそれなりに硬質。
もうひとつ何かを取り出す。ぺらぺらとわかりやすい音がする。
フレデリカのイメージからすればそれはファッション誌のはずだけど。
かちゃかちゃ。軽い硬質のものが触れ合う。
ついで紙の上を細くて硬いものが踊る音がした。
フレデリカがノートに何かを書いている?
音だけの情報からはそんな推測が立つけど似合わないことこの上ない。
たとえば勉強なんていうのはフレデリカから最も縁遠い事柄のひとつのはずだ。
……いや実際フレデリカが普段は真面目に勉強してるかどうかは知らないけど。

そのまま聞いてた限りだと、書いては消し書いては消し、のような作業を繰り返しているらしい。
んん、と答えを探すような唸りがときおり聞こえる。
これもあたしのフレデリカ像にはそぐわない。
気になる。
うまく寝たふりから切り替えられれば確かめられるけど。
ソファの感触が妙に肌に主張してくる。
フレデリカが部屋に入ってくる前から眠気なんてちっとも感じていない。脳はずっとエンジン全開だ。
そもそもアイドルがやるもんだかわからないけど演技のレッスンなんて受けてないし、うまく起きたフリなんてあたしにできるのか?
でもこの状態をキープし続けるのもつらい。

40 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2018/08/12(日) 10:09:31.81 ID:f0hWHOAvo

そっと、じゃなくて目覚めのよかった時をイメージする。
急にぱっちりと目が覚めて、これから何をするかがはっきりわかっている感じの。

「お、フレデリカじゃん。いつ来たんだ?」

「あ、奈緒ちゃん、おはよ。んとねー、奈緒ちゃんが起きる前だよ」

「なんだそれ、ってあれ、いま何時だ?」

「そんなことより奈緒ちゃんヘンテコな向きで寝てたね、からだ痛くない?」

大丈夫だよ、と簡単に返す。そんなに長いあいだ同じ姿勢だったわけじゃないし、そもそも寝てすらいないし。
フレデリカはあたしとは別のソファの背もたれに体を預けて、それぞれの手に小ぶりのノートとペンを持っている。
見た感じで言えばメモ帳に何かを書きつけているような印象。だけど教科書みたいなものは見当たらない。
本当に勉強してたんだろうか。
ノートに落書きしてたとかのほうが説明がつきそうだ。

「どうしたんだよ、ノートなんて珍しいじゃんか」

「あ、これ? これはね、秘密のお仕事なんだ♪」

「なんだそれ」

「実はね、いまアタシ作詞してるの」

「作詞!? すごいな、そんなのもやるのか」

するとフレデリカがいたずらっぽく笑う。

「ホントは奈緒ちゃんが来た直後くらいにお願いされてたんだよ」

「っていうとけっこう時間経ってるんだな」

単純計算でもう四ヶ月は経ってる。季節がひとつ巡って、ちょっと余るくらいだ。
フレデリカは照れくさそうにペンの押すところでこりこりと頭の後ろを掻いた。
目をそらしているところを見ると本当に照れているのかもしれない。
だとするとあたしはむちゃくちゃ貴重なものを目にしていることになりそうだ。

「だってー、書きたいこと多すぎるんだもん。ぜんぶ書いてたらフレちゃん今ごろ小説家だよ」

「待て待て、あたし作詞のイロハなんてわかんないんだからな」

真面目な話、歌詞って何からどんなふうに書いてくんだろう。
これまで歌なんて何気なく聴いてたけど、立ち止まってみると謎ばっかりだ。
書きたいことを区切るんだろうか。膨らませるんだろうか。それともまとめきっちゃうんだろうか。
でもフレデリカの書きたいことが多すぎるっていう悩みはそこまで悪くないように思える。
それは何も思いつかないよりもはるかにマシなんじゃないのか。

あれ、と思う。
全然書けない、みたいなそぶりをしてた割にはフレデリカの手はしっかり動いてたような。

「なあフレデリカ、四ヶ月前に依頼が来たってホントなのか?」

「ん? ホントだよ?」

「手元の調子見てるとまだ終わってないってのが信じられないんだけど」

「それはそうだよ、こないだやっとわかったんだもん」

「なんだよ、なんかあったのか」

「あー、奈緒ちゃんひっどいんだー、フレちゃんはアリーナのことよく覚えてるんだけどなー」

あれかよ。
秘密とか言ってたからすっかり頭から消えてた。
それにしても言いたいことはわかるけど、納得できるかっていうと話は別だ。
あの圧巻のステージを終えて、そこを降りてあたしがいてどうしてそうなるんだよ。
どこに歌詞の書き方が関わる要素があるんだ。
いやライブ中に秘法にたどり着いたとかならわかるんだけど。
でもフレデリカの言い方だと確実にあたしが絡んでるし。
41 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2018/08/12(日) 10:09:59.83 ID:f0hWHOAvo

わかりやすくぶーぶー言ってる顔ですら魅力的で、同じ女としては腹立たしい。
……テレビの向こうにいたときからかわいいと思ってはいたけど、こいつここまでかわいかったっけ。
フレデリカにあたしの視線が吸い込まれる。
これまではあのオリーブグリーンの瞳に。
いまはすぼめた唇に。
ごくりと喉がなる。
別にそうしちゃいけないって状況じゃないのに、不意にあたしは視線を逸らす。

……あたしは何を考えてるんだ。
乃々を悲しませたばっかりだぞ。
だから顔を見られたくないと思って寝たふりまでしてたのに。

「あ、そうだ。そういえばフレちゃんのど渇いたからレモネード作ろうと思ってたんだけど、奈緒ちゃんも飲む?」

「えっ、あ、うん、飲むよ」

話の脈絡のなさにあたしはもう慣れ切ってしまっていて、とくに不思議には思わない。
何気なく視線で追ってみるとまだまだ夏っぽい薄着にちょっと羽織ったフレデリカ、たしかにちょっとエアコン利きすぎかもな、が流し台のほうに歩いていく。
そんなに目立たないはずなのにちょっと驚くほど似合うローヒールがこつこつと音を立てる。
何でもない動作ですら絵になるよな。これがアイドル、いやトップアイドルか。
でも意外というかちょっと待て、あいつレモネードなんて作れんの?

姿が見えなくなって、でもゴキゲンな鼻歌が聞こえてくる。
戸棚をやたらめったら開ける音が聞こえないってことはどうやら物の在りかがわかってるらしい。
疑って悪かったよ。
氷を入れる軽い音が響いて涼しい感じがする。
できあがり、なんてうれしそうな声まで聞こえてきた。

42 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2018/08/12(日) 10:10:27.11 ID:f0hWHOAvo

「は〜い、宮本家特製レモネードだよ〜♪」

「なんだそれ、ってなんかシュワシュワしてないか?」

へえ、宮本家特製ってのは炭酸入りのことを言ってるんだな。
というかここの冷蔵庫って炭酸水まであるのか、あたしは開けたことないからよく知らないけどすげーな。
氷のせいで汗をかいたグラスを持って口へと運ぶ。
かすかに立ち昇るレモンの香りがイイ感じだ。さて、お味は……。

「レモンスカッシュだこれ!」

「急にどしたの奈緒ちゃん」

「いやいやレモネードだと思って飲んだらレモンスカッシュだったもんだからつい」

「いいリアクションだったねぇ。これがフランス流レモネードだよ、奈緒ちゃん」

フレデリカにしてはソフトというか感じが違うような気がするけど、たぶんいつものイタズラなんだろう。
こいつのせいでフランスとかパリって場所に対しては警戒心を持つようになったからな、あたし。

あ、ちょっと苦い。レモンピールっぽい。
意外と炭酸要素を抜けば本当にレモネードなのかもしれない。
このほんのりとした苦みが爽やかさを際立たせてる感じは炭酸水も一役買ってる気がする。
これがフランス流レモネードかどうかは別にして、宮本家特製なのとフレデリカが作り慣れてるのはウソじゃなさそうだ。

「そんなにおいしかった? おかわりいる?」

気が付けば全然溶けてない氷がグラスの中でからから音を立てている。
……いや、そんなにハマったわけじゃないし。
欲しがるようにグラスと顔を傾けて停止しているのが恥ずかしい。
でももうすこし飲みたいのは本当で、あたしはフレデリカに向かって頷く。

「しょーがないなぁ♪」

あたしからグラスを受け取ってフレデリカがもう一度立ち上がる。
テーブルにはあたしのとは違ってまだほとんど減ってないレモネードとノートとペン。
グラスはすりガラスみたいに見える細かい水滴をびっしりつけている。
なんだかそういうふうに意図して作られた光景に見える。インテリアの雑誌の一ページみたいな。
まあ今日は雑誌の一ページと呼ぶには天気が悪いからあれだけど、もし晴れたらおしゃれなフロアに大きい窓から入る光の具合もあいまって、ちょっと現実感が薄く見えるんだろうな。
……なんで自分がこんなところにいるんだかわからなくなりそうだ。

目は開いてたけど何も見てないような感じの中に、かたん、と現実的な音が割り込んできて。
あたらしく作ってもらったレモネードが置いてある。
フレデリカはいつものように楽しそうな表情で、またノートとペンを手にしている。
あたしが意識を現実に持ってくるとフレデリカは目だけをちらっと動かして、楽しそうなものとはまた違う微笑みを浮かべた。

歌詞云々は置いといて、なにかのきっかけがあのアリーナだったっていうならそれはきっとマジだ。
少なくともあたしはそう思う。
アリーナ以来で直接顔を合わせるのは今日が初めてだけど、明らかにこいつの中で何かが変化してる。
振る舞いとか見た目とかそういう部分は変わってない。
けど、なにか、色調とでも言えばいいのか、構成要素が違ってる気がする。
ただフレデリカじゃなくなったわけじゃなくて、よりフレデリカになったっていうか。
自分の持ってる表現力の足りなさにうんざりする。

あたしはのんびりレモネードを飲んで、フレデリカはペンを走らせている。
ううん、まあ、これでいいか。
何に対してなのかすらよくわからないけど。

乃々に後できちんと謝ろう。
どうしてひとりで頭を抱えてたんだ、先に謝るのが筋じゃないか。
それが当たり前だよな。
それに比べたらデビューの話がなんだってんだ。
あたしってずいぶん酷い人間だったんだな。

……宮本家特製レモネードのおかげ?
まさか。

43 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2018/08/12(日) 10:10:45.46 ID:oH20m31cO
【決講】風花「副作用には気をつけて下さいね!…シモッチって何かしら?」
http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1530920009/
【決講】茜「不屈の魂、夢ではありません!」
http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1531525117/
【決講】摩美々「まみみのホーム・アローン、始まるよー」
http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1533339190/
【決講】のり子「青コーナー、キィィングティィレッスルゥゥゥ!」
http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1533946743/
44 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2018/08/12(日) 10:10:56.11 ID:f0hWHOAvo



今日はアイドルではなく声優のお仕事でした。
とはいえ私に取ることのできる声優としての仕事はまだまだ小さいものです。名前もないとか、あっても苗字だけみたいなキャラクターばかりです。
アイドルとしても声優としてもキャリアを積んでいませんから当然なんですけど。
もちろんどんな役柄であっても愛着はありますよ。それは私の夢のかたちと相似形を成しているんですから。
それでも大きな役への憧れはまた別です。
私の目指すところは歌って踊れる声優アイドルなので、それはもうどうしようもないんです。
他のアイドルの皆さんとはちょっと仕事の毛色が違ってしまいますけど。
抜群に売れてしまえば例外的にそういう仕事が舞い込むこともあるかもしれませんが、さすがにそういうのとは比べられません。
なんたって中心点が違いますからね。

いまは電車に揺られています。空はまだ明るい色をしています。
時間帯もあって車内は空いています。このあいだのフレデリカちゃんのライブと比べたらとんでもない差です。
比べる対象として間違っているっていうのはわかってるんですけどね。どうしても、凄かったですから。
向かっているのは346の本社です。
私はまだアイドルのお仕事一本で生活していけるような段階にありません。
なので、お仕事もレッスンもないような時にはアルバイトをしないと生計が立てられないんです。
もう事務所にも本社にも頭が上がりません。
社に併設されてるカフェでアルバイトをさせてもらえているというのは本当にありがたいお話です。
ほとんど見つからないはずの時間に融通のきくアルバイトを都合してもらえるなんて、ふつうに考えたらあり得ませんからね。

とはいえ今日の目的はアルバイトではありません。
いわゆる自主レッスンというやつです。
不定期とはいえライブに出演させてもらってますから、自分を磨けるときには磨いておきたいと考えるのは自然なことだと思います。
まあボーカルレッスンのスタジオが空いていることはまずないので、基本はダンスのレッスンルームになるんですけどね。
ボーカル系を鍛えたいときはヒトカラなんかに行ったりもします。
……ただただ気分が良くなって帰ることもしばしばあったりもしますが。

45 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2018/08/12(日) 10:11:23.40 ID:f0hWHOAvo

レッスンルームの扉を開けると薄められた体育館の匂いがします。
本物の体育館と違うのはビルの高層階にあることと、外に面した壁面がガラス張りなのでとんでもなく眺めがいいことです。それに今日は天気もいいですし。
タオルとかそういうレッスンに必要なもの以外はロッカーに預けてあるので、持ち物はどこか端に寄せておけば邪魔にもならないでしょう。
適当な置き場はないかな、と広い室内を眺めてみるとなぜかトレーナーさんが窓よりのところにぽつんと立っていました。
とてもきれいな立ち姿で外を眺めているように見えます。向きの関係で正確にはどうだかわかりませんけど。

「麗さん?」

びくっと跳ねるように麗さんがこちらを向きます。
信じられません。少なくとも私たちの前では一度も油断してる姿なんて見せたことはないはずです。
それが私が声をかけるまで部屋に入ってきたことにすら気が付いていないなんて。
ただ表情はいつもの落ち着いたものでしたけど。

「ああ、安部か。自主練か?」

「はいっ。でもそんなにバチバチにやるつもりはありませんけどね」

「皮肉を利かせたつもりか? 生憎こういう仕事なんでな、それくらいじゃぴくりともしないぞ」

にやりと不敵な笑みを浮かべます。
そもそも私にそんな意図はありません。本当です。
でもなんというか、レッスンの時とは違って覇気というか圧力のようなものを感じません。
……麗さんにオフモードって存在してたんですね。
いつだって厳しくて正当な人だと思い込んでました。

振り向いた顔をよくよく見てみると、目にはどこかぼんやりとした穏やかな光が灯っています。
いつもの眼光と比べるとなんだか繊細過ぎて、かんたんに壊れてしまいそうな気さえします。
日中に麗さんとレッスンルームで話だけするというのも奇妙な感じです。

「ところでどうしてこんなところに? この時間って空きでしたよね」

「ん、そうだな、どう言ったものか……、いや、単に好きなんだろうな、ここが」

「いちばん馴染み深いってことですか?」

「たしかにそうでもあるが別だよ。もっと個人的な理由だ」

個人的な理由。
トレーナーさんの職分としてではない理由ということです。
ひとりの人間としての麗さんなんて、失礼ですけど考えたこともありませんでした。

46 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2018/08/12(日) 10:12:22.17 ID:f0hWHOAvo

私はこうして麗さんと会うのは初めてですけど、こういうことはよくあるんでしょうか。
レッスンルームそのものはいくつかあるのでここじゃない部屋にいたことはあるのかもしれません。
あるいは私が自主練しに来たときにたまたま鉢合わせすることがなかったのかもしれません。

「よくこうやってひとりで外を見られるんですか?」

「それほど多くはないと思う。というか条件が揃うことが珍しいと言ったほうが正確か」

麗さんが社内にいるのに出番がなくて、かつレッスンルームが空いてるっていうのが最低限の条件だと考えると、なるほどそれは珍しいですよね。
それにプラスアルファでさらに条件がつくのかもしれないですし。

やさしい目をした麗さんはあまり視線を合わせてくれません。
ばっちり合ったのは最初に振り向いたときくらいで、あとはちょびっとだけ視線をずらしています。
私の鼻や口、もしくは後ろの壁とか。

「麗さんもこうやってぼんやりすることがあるんですね」

「ばかもの。私だってふつうの人間だ。物思いにふけることくらいあるさ」

「ちなみにどんな内容だったんですか」

諦めたような目と小さなため息がセットになって麗さんの表情を崩します。

「安部、お前にとってアイドルとは何だ」

質問を投げたつもりが逆に質問が返ってきます。
いえ、相手が相手ですからこの過程が必要だってことくらいはわかっているんですけどね。
それにしても頭の良い人の話の組み立てはよくわかりません。
47 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2018/08/12(日) 10:12:49.78 ID:f0hWHOAvo

「夢です。それだけで何度だって立ち上がれるくらいの」

「実にお前らしい回答だ。たしかにアイドルは夢と呼ぶのにふさわしい目標のひとつだろう。仮にお前が主観的な意味で言ったのだとしても、それは一般的な意味でも通用する」

外はきれいな青空で、太陽の光がガラス張りの壁の縁を斜めに切り取っています。
そのせいでレッスンルームも一本の目に見えない線で明るい部分と暗い部分で区切られています。
いつもなら気にも留めないような塵が、明るい部分でゆらゆらと舞っているのが目に入ります。
レッスンの時はどたばたしているのが静かになると、いろんなものが違って見えるんですね。

「それなんだよ、安部。私がぼーっと考えていたのは」

「夢、ですか?」

「アイドルという夢について、だ」

どんどん麗さんの人間味が増してきて、これまで以上に親近感が湧いてきます。
まさかこの人から夢なんていう単語が出てくるなんて。
どこか、無意識のうちに私は本当に麗さんを非人間的な存在だと思い込んでいたみたいです。どこまでも失礼な話ですよね。でも接している限り完璧という印象を残す人に対してそういうイメージを抱いてしまうのは仕方がないのでは、と思わないでもないですけど。

また麗さんが視線を外してひとりで二度三度と頷きます。
どうやら考えごとをするときのクセのようなものらしいんですが、対面でそれをやられると、なんというか、一方的に閉じこもられてしまったような気がしてしまいます。
とはいえ実際には時間にちょっとの差はあってもすぐに戻ってきてくれるので、そんなに気にすることもないと思うんですけどね。

「……考えてみれば私はお前たちをある意味不埒な目で見ているのかもしれないな」

「麗さんってばえっちな目で私たちを……」

「ばかもの。お前たちも私も女だろうに。それにある意味と言ったろう。人前に出ない私の代わりにお前たちがステージに立つのを見て、そうやって私は満足感を得ているのかもしれないという話だ」

冗談が驚くほどまっすぐに返されて、私は苦笑いを浮かべざるを得ません。
けれど頭の中はすぐに麗さんの話した内容に取って代わられました。
私には麗さんの言っている意味がうまく掴めません。
少なくとも私やはぁとちゃんは指導してくれるトレーナーの方々に感謝の気持ちを抱いています。
だってたったひとりで練習を積んでいたとしたら潰れますよ、そんなの。
私たちは手助けをしてもらって、その代わりに満足感をもしちょっとでも返せているのだとしたら、それはとてもうれしいことのように私には思えます。
不埒だなんて発想はとても出てきません。

表情を元に戻して首を傾げていると、麗さんは今度は薄く笑いました。

「いいんだ安部、お前だけには私の言ったことを理解できるようになってほしくない」

「えっ、どういうことですか」

「理解してしまうということがお前がアイドルでなくなることと同じ意味だからだよ」

「すいません、麗さんの言っている意味がちっともわかりません」

それでいい、と麗さんは一段階だけ笑みを深めました。
この人ほんとうは人前に立っても十分以上にやっていけるんじゃないでしょうか。

それにしても何が何だかさっぱりです。
論理の飛躍があるようにしか思えません。
本当に私と麗さんの会話は初めから一貫してたんでしょうか。いや、してるはずなんですけど。
たとえばこれが私じゃなくてはぁとちゃんなら理解できるんでしょうか。
私だけには?

「さて、それじゃあ私はそろそろ外すとするよ。バチバチにやるつもりはないんだろう?」

私が何かを返す前に麗さんはそう言ってさっさと部屋を出て行きます。
急にがらんとした空間に放り出されたような感じがして、ちょっと不安になります。
時間なんて全然経ってないはずなんですけど、妙に自分の感覚とずれがあるように思えます。
もともと自主レッスンをしに来たのでこの状態が自然なはずです。はずなんですけど。
……とりあえずウォーミングアップ始めましょうか。

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