神谷奈緒「アルファヴィル」

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48 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2018/08/12(日) 10:13:16.77 ID:f0hWHOAvo

本社から出た時にはしくじったと思ったものですが、最寄りから三つめの駅で座ることができたのでほっと一息をつきます。帰宅ラッシュがなんぼのモンじゃい、と。
ここからしばらくは座ったままになるので、心と体と頭の余裕ができるわけです。
となればやっぱり気になってしまうのは今日の麗さんとのやりとりのことでして。
時間をあけて振り返ってみると、どうも腑に落ちないところがちらほらと出てきます。

あの人、自分のことをふつうの人間だと言ってたんですよね。
どこがふつうなんでしょうか。
人間の個体としての能力も高いですし、トレーナーとしての能力だって社外から声がぽんぽんかかるほど優れたものだと聞いています。
それに比べて私は、ということになるとなんだか不思議なロジックが生まれます。
たしかに私はアイドルなので、そういう意味ではふつうではないのだと思います。
でも能力云々の話を加味すると、アルバイトをしないと生活も難しい感じの毎日です。
ふつうよりもむしろ……といった感じですが、どちらがと問われればふつうなのは私じゃないですか。
そんな私の姿を通して、そして麗さんみたいな人が奇妙な自省をする。おかしくないですか。

何をもってふつうなんでしょう。何をもって特別なんでしょう。
……わかってます。ぜんぶ駄々です。ひとつのふつうとひとつの特別なんかで人と人との区別を簡単につけることなんてできません。
それに境目も曖昧で、もしかしたら線を引くことさえできないのかもしれません。

でも本当にひとつだけわからないことがあります。
どうして麗さんの自省を理解することと私がアイドルでなくなることが同義なんでしょうか。
たとえば自分が育てた生徒が活躍したとしたら、それが喜ばしいのは自然なことのように思えます。
でも麗さんはそれを不埒だとさえ言いました。
そう考える理由がわからないからどうやってもゴールにたどり着くことができません。
同じことを何度も何度も、同じところで止まるのに考えてしまいます。
結局降りる駅までずっと考え通しで、電車なので目の前の人の乗り降りは何度かあったはずですけど、私はちっともそれに気付けませんでした。

49 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2018/08/12(日) 10:13:43.47 ID:f0hWHOAvo



「一週間くらい思ってたけど、やっぱり奈緒ちゃんちょっと印象変わったっす」

隣を向くと沙紀がいる。
夏休み明けにも席替えをしたんだけど、予想通りというかなんというか、私と沙紀は離れなかった。せいぜい位置関係が変わっただけだ。

「なんだよいきなり。あれだろ、久しぶりに会ったからそう思うってだけだろ?」

「いや、アタシの感性がそれは違うって叫んでるんすよ、何かがたしかに変わったぞ、って」

言ってることはなかなかシリアスに取れそうでもあるけど、実際には頬が思いっきり潰れるくらい机に頬杖をついているのとジト目のせいで日常会話の枠を出ない。
あたしも夏の間にみっちりレッスンを積んだから成長という意味で変わったとは思うんだけど、そこを認めるとなるとそれをノーヒントで嗅ぎつけるこいつの鋭さはいったいどうなってるんだっていう気持ちにもなる。
とはいえ自分の知らない自分っていう考え方があるのだ、ということを知ったあたしが沙紀の目にはどう映っているのかが気になってしまうのは仕方のないことで。

「じゃあ沙紀の感性はなんて言ってるんだよ」

「えーっと、なんかきゅっと締まって、存在感が増した、みたいな?」

「ヤセたってんならそれはうれしいけど存在感は違うだろ、あたしなんてメガネの地味子だぞ」

「メガネ? あ、それかもっす。なんか似合わなくなったっていうか、余計というか」

最後のほうの言葉はしだいにごにょごにょしていってなんだか要領を得ない。
ずーっと似合わないメガネをつけてたとでも言いたいか。オシャレアイテムってわけでもないから別にいいけどさ。
というかこの言い方だとどう聞いても肉体的な意味だけにとどまらないよな。
やっぱりあたしの知らないあたしがこいつの中にもあるんだろうか。

気が付けば沙紀は顔を近づけたり離したりと確かめるようにあたしを観察している。
まるで鑑定人が骨董を見るみたいに気難しそうに眉根を寄せたりしている。
そんなんでなにかがわかるなんて沙紀自身も思っちゃいないんだろうけど。
その証拠によく聞いてみると、うむむ、なんて唸っているのが聞こえてくる。

「彼氏でもできたり?」

「あのな、できたところで人間そうそう変わらないだろ」

「えー? オトコできて変わるオンナなんてよく聞くハナシっすけどね」

「だとしても前提として彼氏ができてないんだからしょうがないじゃん、それ」

「でもなんかそれ系の変化な気がするんすよね、前の奈緒ちゃんと比べて」

あたしをからかう時のいたずらっぽい笑いもない。
ということは沙紀が本当にそう考えているということだ。なんたってこいつは表情をごまかしてからかうような、そういうこずるい真似はしないから。

けどそれにしたって見た感じの印象が変わったように見えるってのはマジなんだろうか。
沙紀とは違ういつものグループでも言われてないし、あたし自身も鏡で毎日見てはいるけどそう思ったことは一度もない。
毎日見てれば逆にわからないよと言われれば納得はするけど、でもそういうことならあたしの変化は微妙な変化に違いない。むしろ違いがわかる沙紀がすごいと思う。本当に外に出てこない変化があるならな。

「そういう沙紀は浮いた話はないのかよ」

「はっはっは、ないない。いまは別に彼氏が欲しいとも思わないっす」

「なんだよけっこうモテそうなくせに」

「バレンタインチョコならたくさんもらったっすよ」

「そっちかい!」

50 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2018/08/12(日) 10:14:17.51 ID:f0hWHOAvo

こ、これがアイドルの肉体……!
冗談みたいなリアクションは別にして、たしかにある時期からあの地獄のレッスンですら意識が遠くなりかけることがなくなったとは言っても。
こんなにもあたしの体ってのは動くもんだったのか。
今日の体育が終わって初めて気が付いた。
一学期までは体育の授業なんてどう凌ぐかを考えることのほうが多かったってのに。
体組成が根本的に変わってしまったんだ。
急に足が速くなったっとか力が強くなったとかそういうことじゃない。
長く、イメージ通りにあたしの体が動くんだ。
週六で叩き上げたボディはめちゃめちゃよく言うことを聞く。
しかもトレーニング歴の浅さを考えればまだまだ成長するんじゃないかって自分でも思ってしまう。
そのへん精神性は本物のアイドルとは遠いんだろうけど。

フレデリカのライブを思い出す。
あいつは舞台の上では疲れなんて言葉をこっちの頭に掠めさせさえしなかった。
あの雨の日のレッスンルームみたいな根拠がたしかにあったんだ。
つまりあたしの体にも根拠が作られ始めてる。
歌もボイトレも体力づくりも真面目に取り組んできた成果ってことだ。
たしかに驚きの変化だけど、なんとなく怖くもある。

帰りのホームルームの担任の話をちっとも聞かずにそんなことばかり考える。
まあ真面目に話聞いてるヤツはほとんどいないし、大事な話があればちょっと聞いてくれとかそういう一言もあるし。
窓の外の空は綺麗に青く澄んでる。
説明は難しいけど、たしかに真夏とは色が違うんだよな。
あ、鳥。
51 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2018/08/12(日) 10:14:44.03 ID:f0hWHOAvo

ガタガタと椅子を引く音がする。
ホームルームの話が終わったんだろうな。

「ヘイヘイ奈緒ちゃん奈緒ちゃん」

「へいへい、なんだよ沙紀」

「もう、ノリ悪いっすねぇ」

笑いながら言ってる限り文句には聞こえないぞ。

「で、どうしたんだよ。今日おもしろいテレビでもやるのか?」

「さっすが奈緒ちゃん、微妙に鋭い!」

「なあそれ褒めてないよな」

あたしの言葉を無視して沙紀は椅子を寄せてきた。
いっしょにスマホを覗けるくらいの距離だ。
実際に沙紀の手にはスマホがあるし、そういうことなんだろう。

「今度346プロが特番やるらしいっすよ、ゴールデンで」

「特番? なんの?」

「えっと、ほらこれっす。新人アイドルの合同ライブだとか。録画みたいだけど」

……は?
沙紀のスマホから目が離せない。
そのくせ内容は頭に入ってこない。
こんなことあたしは聞いてない。こんな偶然があっていいのか。
大人の世界の話だ、詳しいことなんてわからないけど、それでもテレビ番組が簡単なものじゃないことくらいはわかる。
とくにスケジュールどうこうの話は特別そうだろうと思う。
意外とそうじゃないのかもしれないけど。

「おーい奈緒ちゃーん、どうしたんすかー?」

「えっ、あっ、なんでもないよ、よく読んでただけ」

「なんだかんだで奈緒ちゃんってテレビっ子っすよね、ってそういや宮本フレデリカファンだとか前に言ってたような気が」

テレビはまあ、よく観るよ。
人を本気で楽しませようとして作られたものは面白いと思う。
その流れで言うならフレデリカに惹かれるのも自然なわけだ。ある意味。
今はそれどころじゃなくなってるけどな。もう直接の関係性の中にあるんだよ。
さらに言えば他の部署の友達も増えたぞ。
トレーナーさんを名前で呼べるようにも、ってこれは違うか。
とはいえそんなことを話すわけにもいかなくて、ごまかすように笑って後頭部に手をやるくらいしかできなくなる。

「なるほど、つまりこの番組で新しい原石を探そうっていう魂胆」

「ええい人を指さしちゃいけませんって親に習わなかったのか」

「おおっと、これは失敬」

大げさに人差し指を隠して沙紀はおちゃらけてみせる。
ま、おちゃらけるってのならあたしがそっちに引っ張り込んだんだけど。
というかちょっと待て、こいつの言い方だとアイドルオタクみたいな認識になってないかあたし。

とりあえずあたしがこの話を聞いてないのは本当で。
だけど沙紀のスマホを見る限りテレビ放送はもう決まったことで間違いなさそうだ。
だからまずはプロデューサーさんに確かめておきたい。
必要かどうかで言えばそうじゃないけどな、もう確定しているんだろうから。
それはそれとして、これちょっと変じゃないか。

「なあ沙紀、なんでわざわざ新人で特番なんか組むんだろうな。視聴率のこと考えるなら人気のある人集めたほうが良さそうなもんだけど」

「なんかそのこともどっかに書いてあったっす。ただ新しいスターの可能性を世間に知ってもらいたいから踏み切った、みたいな感じのこと。文面はぜんぜん違うけど」

「ずいぶん思い切った感じがするな、そんなに観る人いるのか?」

「けっこういると思うっすよ。346っていったら有名だし、そもそもキー局のゴールデンなんつったらって感じっす。もし視聴率の考え方がそのまま国民の数に当てはまるなら、仮に10%を叩いたとして一千万人が観る計算っすからね」

沙紀の話を聞いてみるとなんだかえらいことのように思えてくる。
視聴率と実際にテレビ観てる人の関係がどんな感じになってるのかは知らないけど。いやたぶん違うんだろうけど。
でもそこを除けばこいつの言ってることは事実なんだと思う。
そしてあたしがその事実のなかに含まれているのも動かせない。
何度も自問してきたけど。そのたびになんとなくでごまかしてきたけど。
どうやって信じればいいんだよ、あたしがテレビの向こうに行く、だって?

52 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2018/08/12(日) 10:15:11.23 ID:f0hWHOAvo



車のCMが終わって番組が始まります。
新人ライブと銘打ってはいますけど、進行はきちんと経験を積んだアイドルが担当します。
今回は十時愛梨ちゃんがそのポジションを担っているみたいですね。
進行の他にもタイムキーパー的な役割もありますから実はかなり重要な位置です。
外から思われている以上にライブというものは厳密に進行していくものですからね。
当然ながら能力の高いアイドルは人気もありますから、集客に関わる側面も持っています。
もちろんキャラクター的な向き不向きはありますけど、新人ライブの司会進行を務めるのは346プロではひとつの到達点とさえ言われています。
いつかは私もああやってライブを回してみたいものです。

新聞のテレビ欄を見ると、二時間の枠が取られていることがわかります。
けれどそれでも時間は足りません。根本的に出演者の数が多いんです。
残念ですけどそこは編集の手が入ってしまって、カットされている子もわりにいるはずです。
MCの進行、あいさつ、歌、捌け、と一組をきちんと放送するにはすくなくともこれだけのステップが必要になりますから。
あるいは捌けくらいならカットするのかもしれませんけど、それでもちょっとした差にしかならないと思います。
もし全部観たいと思うなら生のライブに参加するのがイチバンですよね。空気感とか迫力とかも合わせてそれだけの価値があるというのが私の実感です。
……このライブに関しては予定が合わなくて行けなかったのが残念です。

ほこほこと湯気を立てる湯呑の置いてあるちゃぶ台に頬杖ををつきます。
私も関わっている側の人間ですけど、そういう人間が抱くような緊張はとくにありません。
新人あるいはまだそれほど知名度がないアイドルとはいえ、ステージに上がる以上は一定レベルのパフォーマンスは保証されているとわかっていますから。
別の言い方をすれば麗さんたちのレッスンを乗り越えてあそこに立っているんだから心配する必要なんてない、っていうことになります。

愛梨ちゃんが期待させるように観客を煽って、そうして一組めをコールします。
世にはどころか出演してる本人たちですら知らないんでしょうけど、あの出演順はきっと社内の部署ごとの政治力の結果なんでしょうね。
トップバッターなんていやでも目につきますし、すごい争いがあったに違いありません。
面白くもなんともない話ですけど、そういう世界でもあることは否定できません。
前にプロデューサーさんに聞かされたんですけど、どうして私にそんな話をしたんでしょうね。
テレビの向こうで照明が瞬いて、軽快なリズムの前奏が始まります。

どのユニットも弾けんばかりの笑顔で観客に、テレビを通して私たちに向かって手を振ります。
それがあまりにも精一杯で、思わず私も手を振りそうになってしまいます。
あそこからアイドルとしてのすべてが始まるんですから気合の入りようが違います。
きっと特番として地上波放送されることも手伝ってるんでしょう。
いいなあ。
自己紹介をして、自分を知ってもらって、好きになってもらって。
これはたしかに夢ですよ。

53 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2018/08/12(日) 10:16:02.50 ID:f0hWHOAvo

ステージの上で歌って踊るアイドルのみんなを見ているといろんな感想が湧いてきます。
この子たちの次の曲を聴いてみたいとか、もっと時間をとって話すのを見てみたいとか。
気が付けばお茶を飲みながらテレビを見ているただの安部菜々に戻っています。
テレビを見ている人たちも多かれ少なかれ同じようなことを思うのでしょう。
あの子たちはすでに一度は選ばれている段階にあるんですから、好みの違いはあっても全員が魅力を備えているんです。
かわいいなんて標準装備。
…………なんだか自分が嫌な人間になってしまいそうでげんなりします。

夢を体現する時間は夢のように早く過ぎ去っていきます。
ついさっきお茶を淹れたばかりだと思っていたのにもうそろそろ番組もおしまいです。
つまり奈緒ちゃんの出番です。
プロデューサーさんに教えてもらえたのは、奈緒ちゃんが最後に出てくることと一人で舞台に立つことだけ。
それ以外は本当にひとつも教えてもらえませんでした。

最後のひとつ前のユニットが歌い終えて、手を振りながらステージを下りて行きます。
愛梨ちゃんがそこで客席にもうひとつ拍手を要求して、場内は盛り上がっています。
そうして示し合わせたように拍手が止んで、愛梨ちゃんがしゃべるタイミングがやってきました。

『それでは、これから今日の大トリを飾ってくれる子の登場で〜す! あったか〜く、迎えてあげてくださいね!』
54 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2018/08/12(日) 10:16:30.63 ID:f0hWHOAvo

あれ。
愛梨ちゃんが奈緒ちゃんの紹介をしていません。
これまでは出てくる前にユニットの名前と簡単な紹介を入れていたのに。
彼女の積んでいる経験から考えれば、ここでしくじるなんてことはありえません。
よく聞いてみると会場をざわめきが満たしています。
どういうことでしょうか。
私と同じところに気が付いたんでしょうか。
愛梨ちゃんの表情は変わらず笑顔で、ミスをしたようには見えません。取り繕うようなこともありません。
どうぞ、と大きく一声あって愛梨ちゃんが下がります。
まさかこんなヘンテコなものが秘密の作戦ってことなんですか?
そうでもないとこの特番そのものが奈緒ちゃんのために用意された秘密の作戦になっちゃいますけど。
いくらなんでもそこまでやるわけが……。

まだ止まないざわめきの中で、スポットライトが舞台の中央に当たります。
周りはまっくらです。たったひとつだけ明るい場所がぽっかりと浮かぶように光っています。
白い脚がすっと光の空間に突然割って入りました。水を打ったように音が消えます。
次いで裾を引きずるもう片方の脚。
右の膝下から斜めに裾がカットされているせいで左脚は完全にドレスの内側です。
裾の角度は急なもので、肌を晒している右脚でさえ露出と呼ぶには遠いものだと思うのですが、なぜだか不思議な色気があることを否定できません。
ドレスの色はほとんど白に近いくらいの薄い藤色で、シルエットも含めてそれは明らかに新人アイドルが選ぶ衣装とは思えません。
変な言い方ですけど、厚手の綺麗なカーテンを胸に巻いたら左右非対称なのにもかかわらず奇跡的にも美しい調和を実現してしまったといった趣があります。
誉め言葉として赤点なのはわかってるんですけど、意図的なものではなくて偶発的な美のような印象を受けるんです。
そしてその印象を私の言葉で表現するなら、それがいちばん近いのだから仕方がありません。

ふと気が付くといつの間にか奈緒ちゃんは、圧し潰されそうな暗闇の中のたったひとつのスポットライトに立っています。
下ろした髪は主張の強くない衣装とうまく調和して、綺麗という印象を残します。
ふわふわとしたくせ毛がすこし幻想的です。
……ちょっと待ってください。
テレビの画面を見ていたはずなのに、衣装まで意識していたのに、どうして上半身に目がいくのがワンテンポ遅れたんでしょう。
カメラワークに特別なところがなかったのは断言できます。
だってスポットライトの大きさに変化なんてなかったんですから。

奈緒ちゃんは光の真ん中に立って、前を見据えています。
衣擦れの音さえ聞こえそうなほどの静かな空間に、緊張感が走ります。
私はその場にいないのに?
それどころかこれは生中継じゃないはずなのに?
もうざわめきなんて名残さえもありません。
会場の意識がすべてひとりの少女に向かっていることがはっきりとわかります。
奈緒ちゃんが、いえお客さんからすれば名前も知らない誰かが、異質な存在感を放っていることを誰もが理解しているんだとしか思えません。

奈緒ちゃんはにこりともしません。
緊張を解こうとするように両手をスタンドマイクにかけて、そして目を閉じて深呼吸をします。
ゆっくり目を開けて。

『神谷奈緒』

一言名前を告げるとピアノを軸としたイントロが流れ始めました。
聞いたことのない曲です。
いやまあそれは当然なんですけど。
水晶みたいにすきとおった音が私の鼓膜を震わせます。
ちょっと細めの歌声が滑るようにメロディーラインに乗って、テレビの向こうの空間を満たしていくのがわかります。
変に力が入っているわけではないからこそ芯が一本通っていて。
もちろん歌姫と呼ばれるような実力派とは並べられませんけど。でも、それでもまっすぐに伸びるその歌声に不意にもっていかれそうになってしまいます。
ダンスはありません。わずかに前傾になってスタンドマイクに手をかけているだけです。
ただの立ち姿にぴんと一本のまっすぐな線が見えます。
方針とはこのことでしたか。
ステージは相変わらずスポットライトがひとつだけ当たっているだけで、そのことが他に余計なものはなにもいらないと主張しているように見えてきます。
変化を挙げるならカメラワークくらいで、とはいえそれもシンプルなものばかりです。
じっさい私はそんな舞台をテレビで見ていてちっとも飽きません。

四分かそこらの奈緒ちゃんの時間は強烈なものでした。
曲が終わって奈緒ちゃんが一礼して舞台を降りて、そのあとしばらく無音の時間がありました。
テレビなのに、です。まず放送事故です。
それでもその部分が編集されずに、まばらな拍手から大喝采につながるまでを放映した理由が私にもわかる気がします。
もう誰も立っていないスポットライトに向かって惜しみない拍手を送る様は奇妙なものですが、私もその場にいたならそうしてたと思います。
説明のつかないなにかがそこにあったんですから。

55 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2018/08/12(日) 10:16:57.89 ID:f0hWHOAvo

そういえばさっきの曲はなんていう名前なんでしょう。
思い出してみれば曲名も作詞も作曲もなんにもテレビに出ていなかったような。
そこは契約が絡むので外しちゃいけないところだと思うんですけど。
まさか奈緒ちゃんが作詞作曲をしてるとは思えませんし。

となればそこは文明の利器。
パソコンがあればちょちょいと調べられます。
番組として放映したわけですから情報は解禁になってなきゃおかしいですよね。
とりあえずうちの事務所の名鑑から奈緒ちゃんのところに行くのが確実な気がします。

さっそく検索バーに346と打ち込んでページに飛びます。
イメージよりはるかにシンプルな造りと評される画面が表示されるかと思いきや、なかなか画面が切り替わりません。
画面の矢印がくるくる回るアレになったまんまでそれっきりです。
えっ、もしかして壊れました?
ちょっとちょっと勘弁してくださいよ、買ってからまだそんなには経ってないのに。
ネットだけダメなんでしょうか、これ調べないとまずいのでは。

あれ? 他のページにはつながるのに346だけダメみたいです。
つまり私のパソコンはとくに問題ないということで。
じゃあ346のホームページだけ壊れてるとかそういうことなんでしょうか。
それはそれでまずくないですか。私個人の範疇ではないですけど。

はぁとちゃん。
はぁとちゃんのパソコンも同じ状況ならたぶんそういうことになりますよね。
違うならまたいろいろ考えないとなりませんけど、それはまあ後にしましょう。

「あ、はぁとちゃんですか? ナナです。いま大丈夫ですか? ごめんなさいこんな時間に」

「ありがとうございます。ええ、変な話なんですけど、いまはぁとちゃんパソコン点けてます?」

「えっ、その通りですけどどうして」

「はぁとちゃんもですか!? あの、これって……」

「あ、電話かけたんですか、……プロデューサーさん大笑いしてたんですか……」

「いけませんよはぁとちゃん、そんな、狂ってるなんて言っちゃ」

そりゃアクセス過多でそれ自体が話題につながれば願ったり叶ったりでしょうけど。
けれどこんなにテレビの影響って大きいんですね、ってちょっと待ってください。おかしいです。
毎日いろんな時間にうちのアイドルがテレビに出てますけどこんな事態は聞いたことないです。
ましてやさっきまで流れてたのは新人アイドルのライブです。
失礼ですけどさすがに普段からテレビで活躍してる子たちと新人の子たちとでは実力に差があるのははっきりしたところです。
逆なんですよ。
新人でアクセス過多なんか起きるはずがないんです。
なにか特別なことでもない限りは。
特別なこと。

落ち着いて考えてみましょう。
短い時間にホームページにアクセスが集中したということは、そこへ行けば知りたい何かがきっとあると多くの人が考えたということだと思います。
まあ、状況から見てそれはアイドルに決まってますよね。
録画とはいえ今日はたくさんの子たちが出演してましたから、なるほど調べる対象は多いです。
現に私も奈緒ちゃんのことを調べようとして引っかかったわけですし。
やっぱり中には奈緒ちゃんのことを調べようとした人もいたんでしょうか。
テレビの前の視聴者さんからすれば謎だらけのアイドルですもんね。
でも、特別なことは思い当たりません。
たしかに愛梨ちゃんが名前を言わなかったり大トリでソロを取るとかは異例ではありましたけど、だからってホームページが落ちますかって話です。
奈緒ちゃんをその特別に当てはめるのは難しいですよね。

でもはぁとちゃん、プロデューサーさんは笑ってたって言ってました。
どんなものかにもよりますが、ホームページが落ちて笑うような事態にそれほど種類があるとは思えません。
つまり秘密の作戦がうまくいった結果なのだと思います。こんなの推理とも言えませんけど。
するとぐるっと回って奈緒ちゃんが特別だってことに落ち着くしかありません。
結局、私の感覚がおかしいのでしょうか。
奈緒ちゃんの持つ魔翌力とやらについてもつかめないままですし。

いつの間にかテレビには全然違う番組が流れています。
まあ、なんにも音がないのもさみしいので普段からけっこうつけっぱなしですけど。
湯呑どころか急須に入ってたお茶まで冷めきっています。

ため息が不意にこぼれます。
嘘をつきました。イヤになります。

56 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2018/08/12(日) 10:17:25.07 ID:f0hWHOAvo



「で、今日はどうするんだ?」

「うーん、どうしよっか」

「考えてないのかよ!?」

「あはは、うそうそ。今日はね、アタシの好きなところに行く予定だよー♪」

フレデリカの好きなところ、ね。
ふーむ、服でも見に行くのかな。
たとえばあたしが想像したこともないようなオシャレショップとか。
芸能界でも群を抜いているらしいこいつのファッションセンスを間近で見られるんだったらそれは相当楽しそうだ。
あたしには手の出ない値段の服ばっかりかもしれないけどな。

乗った電車が向かう方面は別にさらに都心というわけでもないらしい。
隠れお気に入りショップみたいなものなのかな。
隣に立つフレデリカは気分が良さそうで、なんだかあたしの気分も明るくなってくる。
ウィッグまでしてしっかりお忍びっぽい変装じみたカッコだけど、それでもやっぱり目立ってると思う。
美人って目立つんだよな。どうしたって。

窓の向こうに流れていく景色を見ながらくだらないことをしゃべる。
よくもまあ話題が次から次へと見つかるもんだ。
どうでもいいこととはいえ途切れることなくしゃべるのなんてあたしにはとても真似できない。
言い方を変えればフレデリカのおかげで変な無言の時間が来ることはなかったってことだ。

「さあさあ奈緒ちゃんここだよ、降りよ?」

予想もしてなかった駅だ。
知らない以外の感想が出てこない。そもそもあたしは千葉県民だし。
名前はこれまでの人生で聞いたことくらいはあるけど、それ以上の知識は何もない。

駅から出てもとくべつ何かが見当たるってわけでもない。
比較対象が都心だったからそれはしょうがないけど、まあ、ぱっとはしないな。
フレデリカのお気に入りショップがあるぞ、っていうイメージもわかない。
というよりも駅前バスロータリーでこういう風景はどちらかといえば……。

「今度はバスだよ、れっつごー♪」

なぜか拳を突き上げたまんまじっと見つめてくるもんだから、あたしもフレデリカにならって仕方なく拳を上げる。なんかすっごい恥ずかしい。
なんなんだこいつのこの強制力。

停車場まで行って案内板を見てみればやっぱりな、といった感想が湧く。
この駅で降りるまではそんな可能性なんてちっとも考えなかったんだけどな。
はたして意外という言葉をここで使っていいものか。

57 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2018/08/12(日) 10:17:51.59 ID:f0hWHOAvo

「なんつーかさ、フレデリカって水族館好きだったんだな」

「えへへ、ちっちゃなころからパパとママとよく来てたんだ。とっても落ち着くんだよ」

「まさかのセリフが出てきたな、あたしの人生でフレデリカから落ち着くなんて単語を聞くとは思わなかったぞ」

「えー? フレちゃんショックー、巷では落ち着きガールなんて言われてる気もするのにー」

「その巷ってどこだよ」

「どこだろうね?」

好きな場所っていうのは本当なんだろうな。
いつでも楽しそうだけど、今日はそれよりもちょっと楽しそうだ。
バスの中でも機嫌が良さそうだったし。
それにあたしも実はわくわくしてる。
まあ、フレデリカといて感情をごまかす必要はとくにないしな。
バスから降りたときには、おぉ、とかこぼしちゃったくらいだ。

考えてみれば水族館なんてしばらく来た記憶がない。
小学校のときの遠足とか、家族で行ったのも一度くらいだったような気がする。
正直どっちが最後の水族館だったかも覚えてない。
言われてみればいつの間にか縁遠いものになってたっていうそんな感じ。
もうほとんど印象の世界だ。
……えっと、イルカショーとか?
ああいうのってできるところ限られてるんだっけ?

「なあ、フレデリカのイチオシみたいなのってあるのか?」

「奈緒ちゃんにはまだ早い! 次の誕生日が来たら教えてあげよう!」

「R-18かよ! ここ水族館だろ!?」

受付のお姉さんに楽しんできてくださいねと送り出されて、ゲートをくぐれば別世界。
砂場に磁石を投げ込んで砂鉄がぶわっとくっつくみたいに、あたしの記憶の底から水族館の匂いだけが浮かび上がってくる。
まだ水槽のガラスさえ見えない位置にいるのに、ガラスの向こうに水が満ちていることが実感として理解できる。
そうだ、それでここは外と明るさがぜんぜん違うんだ。
今日は雨が降ってるけど、でもそれともまた別の作られた暗さがあって。
そんな不思議空間を魚が泳いでるんだ。

最初の広いスペースに出ると壁一面が水槽で、そこをいろんな魚が所狭しと泳いでる。
もちろん広間の各所にも点々と水槽が置かれてる。小さいとはいっても人の家にあるようなサイズじゃあない。
個人的な感覚だけど、こういう場所にやっぱり現実感はないよ。
だって息をしながら水中探索してるようなものじゃないか。
まあ、ところどころにある解説みたいなやつを読んでると一気に現実に引き戻されるけどな。
しかし一口に魚といっても変なかたちをしたやつが多いこと。
解説の写真で見たやつをついつい本当に泳いでるのか探しちゃう。
視線を動かしてたら不意にフレデリカが目に入って、めちゃくちゃニコニコしながらあたしを見てた。
なんだよ、水族館が好きなんだったらもっと魚見てろっつーの。

「あ、ねえねえ奈緒ちゃん、変なかたちの魚だね!」

「おー、ほんとだ。あれ、でもさっきどっかの解説で見たなあれ」

「どんな名前なのかな、ヘンナオデコザカナとかかな?」

「見た目の印象に従いすぎだろ……」

やばい。楽しい。
こいつと一緒だと魚見るだけなのにこんなに面白いのか。
これどう見てもあたしハシャいでる。フレデリカもそうだけどさ。
べつにうるさくしてなくてもテンション上がってるのがよくわかる。
絶対口には出さないけど、たぶんこいつとあたしは人間としての相性がいいんだろう。
似てるところなんてひとつもないし共通の趣味みたいなものもないけど、それでもなぜかガチッとハマっちゃった感じのやつだ。

同じ部屋でうろうろしながらガラスにべったりくっついたり解説を真面目に読んだりする。
周りには家族連れとかカップルとかあたしたちみたいに友達と来たみたいな、思いつく限りの組み合わせの人たちがいてそれぞれ楽しんでる。
でも照明が暗めだから全然顔は見えない。
それこそあたしたちが海の底の魚になった気分だ。
種類の多さも環境も、気ままに周りに気を配らないところも。
なんか、暗いところって落ち着くんだよな。
小さいころに用事もなく押し入れに隠れたこともあったな。

次の部屋に行くための廊下は壁の途中から天井までがまるくガラス張りで、今度は海底を散歩してるんじゃないかと誤解しそうになる。
水族館にでも来ない限りはエイとかサメとかを下から眺めるなんて機会はそう多くないだろうからな。
海外でシュノーケリングとかをやるんならまた話は変わってくるんだろうけど。
周りの人たちも年齢関係なしに感嘆の声が漏れている。
日常生活にない別世界は、やっぱり人を惹きつけるってことなんだろう。
ふたりして天井を泳ぐいろんな魚を間抜け面を晒して見上げる。口なんて半開きだ。これがアイドル。冗談みたい。

58 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2018/08/12(日) 10:18:18.67 ID:f0hWHOAvo

「あ! ねえねえ奈緒ちゃんこっちだよ!」

突然に腕を引っ張られて、よろけながらもなんとかあたしはついていく。
部屋の名前が書いてあるのがちらっと見えた気がしたけど、文字としては読めなくて。
うきうきであたしを連れて行くフレデリカは前しか向いていない。
きっとここがこいつのオススメの場所なんだ。
引っ張られたせいで目線が下にいって、ふと足元が一気に暗くなったことに気付く。
さっきまでの暗さとはまた違う。ほとんど明かりのない夜の暗さだ。

フレデリカが足を止めて、あたしもやっと止まる。
顔を上げると暗い空間の中に光の柱が何本もまっすぐに突き刺さっている。
水色の柱の中をふわふわと浮かぶ半透明のものを見て、ここが水族館だったとやっと思い出す。
クラゲか。
よく見れば円筒型の水槽のほかにも、壁に埋め込まれた水槽が点在している。
さっきと違うのは一面がそうなっているわけじゃないってところだ。
変な言い方かもしれないけど、埋め込み型テレビみたいな感じ。
ここは深海系の部屋らしく、出入り口はひとつしかない。
見たい人は来るけれど、興味がないとか好きじゃない人は来なくてもいいようになっている。
たしかに深海のはグロテスクなやつも多いしな。
とはいえ繊細な生物でもあるらしく、そこらに “フラッシュをたかないでください” と注意書きがある。
そりゃこいつらの世界には光なんて縁遠いものだもんなあ。
……クラゲもダメなんだな、フラッシュ。目みたいなものでもあんのかね。

59 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2018/08/12(日) 10:18:58.05 ID:f0hWHOAvo

円筒型の水槽だけが目に入るようにしてじっと見つめていると、距離感とか高低の感覚とかが失われてくるような気がしてくる。
ぶわっと膨らんで、絞って上に行く。
このまま上がって天井にぶつかるのかなと思っていると決してそんなこともない。
いつの間にかクラゲは水中を下がってきている。
なんにも動かず、ただ沈んでいる。
そして思い出したように浮かぶ。いやこれ泳いでるのか?
なんとなく目が離せない。
世界にあたしとコイツだけしかいないかのような、変な錯覚を起こしそうになる。

「ふふ♪」

「……なんだよ」

「アタシが好きなものは奈緒ちゃんも好きになるなって思ってたから、フレちゃん大正解〜♪」

にっこり、って擬音がぴたりとはまるような顔をしてフレデリカがこっちを見ている。
あれだけじっと眺めてたら好きになったと思われるのも仕方ないか。別にそれがイヤってわけでもないしな。
この、妙な飽きない感じはたしかに悪くない。

「ね、けっこう癒し系でしょ?」

「うん、なんかぼーっと見てられる」

「あっちに座れるところもあるんだよ!」

そう言って楽しそうに先導するフレデリカの後ろを、周りに目を奪われながらあたしはゆっくりと歩いていく。
背もたれのないスツールソファをいくつかくっつけたスペースがそこにはあって、ちょうど具合のいいことに今は誰も座っていない。
行儀悪くどさりと座る。ソファに後ろ手をついて正面の円筒を軽く見上げるような姿勢を作る。
眺めは不思議なもので、黒い天井に明るい水色の柱が突き刺さっている。
特殊なガラスの向こうはあたしたちのいるところとは共通点を探すのが難しいほど条件が違っているらしい。
水圧とかそういうのを考えると、そもそも人はそのかたちを保てないとか。

そういえばさっき海底を散歩している気分みたいなことを思ったけど、それならここは深海の底になるんだな。
余計に手の届かないはずの場所。
ある種の怖さがあるといえばあるけど、同時に気になるのも否定できないというか。
こういうのも怖いもの見たさになるのかな。
クラゲを眺めてるだけでこんなことを考えるなんて、もしかしてあたし詩人とか?
……くっだらね。
60 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2018/08/12(日) 10:19:25.12 ID:f0hWHOAvo

「それにしてもさ、フレデリカってクラゲ好きだったんだな。プロフにも書いてなかったろ」

「フレちゃんには秘密がいっぱいだからね、好きなものなら他にもたくさんあるのだ!」

「へえ、たとえば?」

「んー、石鹸とか?」

「すっげえ意外、って思ったけどひょっとして香水は使わないタイプなのか?」

「持ってるけどそんなには使わないよ」

なるほど、いい匂いの原因は石鹸だったのか。
会うたび感じの違う香りだったからたくさん香水持ってるのかと思ってたけど納得だな。

「ね、ここ出たらどうしよっか、カラオケ行っちゃう?」

「歌ったの昨日なんだから勘弁してくれよ」

クラゲを見ながら隣り合ってぼんやりと言葉を投げ合う。
BGMさえない空間のはずなのに声は響かない。きっと壁が音を吸い込む造りになってるんだろう。
深海にも音はないのかな。

「デートの定番だと思うんだけどな〜」

「これデートだったのか」

「二人でお出かけだし、それでいいんじゃない?」

二人で出かけることをそう呼ぶなら、まあその通りか。
そうだな、といかにも興味なさそうに返す。
そうでもしないとフレデリカはどんどん話を広げるからな。
変な方向に進みそうな話題はさっさと切っておくに限る。

「ところで奈緒ちゃん、初めてのステージは楽しかった?」

「んー……、よくわからん。あんま覚えてないんだよな」

「ワオ、それは大変、記憶喪失だね! フレちゃんのことは覚えてる?」

「あたしは今まで誰と会話してたんだよ……」

「あ、そうだね、それじゃあ記憶はオッケー、バッチリ、最高潮だね♪」

「気が付いたら歌い終わってて、家帰って寝て起きてここにいる感じなんだよ。楽しい楽しくないも、成功も失敗もわからない。実感がまだなくってさ」

「大丈夫、奈緒ちゃんならきっと成功したはずだよ。お仕事で見てないけど」

「なんでそんなの言い切れるんだよぅ、あたしだってけっこう不安だったりするんだぞ」

「だって、奈緒ちゃんだもん」

「なんだそりゃ」

「ほんとほんと、大丈夫だよ。奈緒ちゃんはこれからもたっくさん成功するよ、安心安全のフレちゃん印だよ」

「なんだそりゃ、うまく行かなかったらどうすんだよ」

「じゃあその時はー、……フレちゃんが責任取ってあげる♪」

「えぇ……、具体的にはどうすんだよ」

「どうしよっか?」

「何も考えてないのかよっ」

もういちど円筒に目をやると、やっぱりクラゲは変わらずにふわふわしている。
あたしのことなんてお構いなしだ。当然だけど。

たぶんフレデリカなりに気を遣ってくれたんだろう。
デビュー直後の一日を家でぼんやり過ごすより、連れ出してもらって本当によかった。
こういう丁寧な心配りは素直にうれしいよ。
だって今日は言われるまで気が付かなかったにしても、別の日に一人で意識しちゃってたら大変なことになってたかもしれない。
たとえばテレビの放送日はその現象のデッドラインだったんだろう。
たぶんフレデリカはわかってたんじゃないかな、すぐに話題に上げるようなこともなかったし。
自分でも気づいてなかった不安感というか、煮え切らなかったものが晴れている。
なくなってからその存在を認識するってのも変な気分だ。

ただやっぱりアイドルになったって実感はまだ湧かない。
ステージ上でのことをあんまり覚えてないから。
これまでのことが全部夢でウソでした、って言われてもまだ信じられるんじゃないかと思う。
……まあ、レッスンで変化した身体とか技術のことは置いておくとして。

61 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2018/08/12(日) 10:19:51.07 ID:f0hWHOAvo

あれは誰だったんだろう。
あんなのはあたしじゃない。
金曜の夜、テレビの向こうの “神谷奈緒” が歌い終わった瞬間にあたしは電源を消した。
それはすっかりそのまま向こう側の人間だった。
そんな映像を眺めていたのは野暮ったい眼鏡をかけた部屋着のあたし。髪型も違う。
誰だってそんなものをイコールで結べるわけがない。
だからあれはあたしじゃないと結論づけることが可能になる。

意外なことに現実を受け入れられなくなるとかそういう事態は起きていない。
あたしの頭がはじき出したのは奇妙な結論だ。
土日と同じようなことを何度もぐるぐる考え続けたけどゴールは変わらなかった。
もしかしたら逃避のひとつのかたちなのかもしれない。
そんなものが自分でわかれば苦労はしないんだろうけど。
たとえばスカウトを受けた日みたいなふわふわした感じはない。
なにせ学校に行く途中で電車を乗り過ごしてはいないし、曲がり角はぜんぶ正解してるからな。
ただそれが何を示しているのかあたし自身にはわからない。
時計を見るとホームルームが始まるまで意外と余裕がないみたいだ。
遅刻をしていいことがあるわけもないから、ひとつ息をついて走り出す。

62 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2018/08/12(日) 10:20:18.49 ID:f0hWHOAvo

階段を上りきってチャイムが鳴っていなかったのを確認して思い切り歩を緩める。
もう安心だ。今すぐ予鈴が鳴っても楽勝で席につける。
周囲も似たような感じで、いつもの学校の朝の風景だ。
開けっぱなしの引き戸をくぐって教室に入る。
適当に目が合ったやつとあいさつを交わす。
たいていのクラスメイトは友達と話をしてて、残りはまあいろいろだ。
ほら、誰もあたしとアレを結び付けてなんていない。
なにせあたしはとくに目立ちもしないメガネの地味子だからな。

席に座る前にどうしたって目に入る沙紀がぐでっと机に突っ伏してる。
たしかに朝に強い印象はないけど、夜更かしでもしたのかね。
とは言ってもコイツは自由なやつだからこんなんでも日常の範囲から飛び出してるわけじゃない。

「よう沙紀、調子でも悪いのか」

沙紀の動作はのっそりしている。こりゃホントに調子よくないのかもしれないな。
机にべったり張り付いてた顔がこっちを向くとマンガみたいなジト目があたしを迎える。
あたしはたったいま来たばっかりで何もしていない。そんな目をされるような覚えはないぞ。
顔だけ動かした沙紀と立ったまんまのあたしが見つめ合って五秒。
よく見るとジト目というよりは、疑わしげに何かを確かめているような感じもする。
悪いがあたしの顔をじっと見たところでなんの証拠も出てこないぞ。いたずらなんてしてないんだから。

やっと体を起こした沙紀は返事もないままなにかの考えを振り払うように頭を振る。
ホントによくわからん。
チャイムが鳴っていたけど先生はまだ来ていないから沙紀のほうを向いて座る。
今度は難しい問題を目の前にしたみたいに眉根が寄っている。
こういう表情もあったんだな、失礼だけど想像したこともなかったぞ。

「奈緒ちゃん」

「なんだよ」

「…………今日、サボんないっすか」

「はァ?」

おまえは何を言ってんだ。
こんなこと沙紀から言われたのは初めてだ。
というかそれ以前にサボりのお誘いなんかこれまでの人生でもらったこともない。
付け加えるなら沙紀とあたしはそんな関係性じゃなかったはずだろ。
あとそういうお誘いをするのにその表情は違うんじゃないか。

あたしの頭の中を当然の疑問が埋め尽くす。
なんでこんなことを急に言い出したんだ?

「……いや、たまにはいいんじゃないかと思って」

「もうホームルーム始まるぞ?」

「古典が始まる前なら脱走できると思うっす」

冗談でもないらしい。
なんでこんなにやる気まんまんなんだ。

「なんだよ、マジでなんかあったのか?」

「……あったというかありそうというか」

謎かけかなんかか。まったく意味はわからないけど。
でもとにかく事情はありそうだ。
コイツは自由人で間違いないが、だからって不真面目なわけじゃない。
沙紀が動こうとするならどこかに理由はあるんだろう。
ただ動く基準がちょっと人と違うだけだ。

とりあえず、わけはわからないけどあたしはこんな沙紀を放っておけるような人間の作りをしていない。
学校をサボるのに抵抗がないとは言えないけど、優先順位なんか考えるまでもない。
ノートは誰かに写させてもらえばいいし、心配なのはそれだけだ。出席日数を気にするほど休んじゃいないしな。

「わかったよ」

驚いたような顔がそこにある。
おまえはあたしをなんだと思ってんだ。

63 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2018/08/12(日) 10:21:09.33 ID:f0hWHOAvo

ジャンクジャンクしたおやつはたまに食べるとびっくりするほど体になじむ。
ハンバーガーにポテト。ドリンクは適当に。
思い出してみれば春からずっと離れてたんだな。
そういうチャンスがある放課後はみっちりレッスンが詰まっていたと言い換えることもできるけど。
休みの日は本当に休んでおかないと疲労でしんどかったし。
だから沙紀と食べているこれはマジで久しぶりで超美味く感じる。
現金な話だけど、これだけでサボった価値がちょっとあったかもと思ってしまう。

学校を出るまではまったく元気のなかった沙紀は校門を出ると一気に元に戻って、教室でイヤなことでもあったのかとさすがのあたしも勘ぐった。
普段から遊ぶような仲じゃないけど、さすがにそれは無視できない。
時間で言えば朝の九時を過ぎたばっかりで周りには誰もいなかったから、そこは何も気にすることなく聞けた。
その時の “何もないっすよ” は本当なのかな。あたしにはウソをついてるようには見えなかったけど。

その沙紀が今や完全にいつもどおりになっているのだから不思議なもんだ。
最近はすっかりご無沙汰だけど、遊ぶときにはこうやって都心まで出てくることもあったな。
ま、つまりここらはあたしの領域だったってわけ。
驚いたのは沙紀と遊んでも内容にそれほど差はないってことだ。
店を回っていろいろ見て。それだけ。
違うのは店のタイプだ。あたしが入ったことのないようなショップとか、アート系の店?とかはものすごく新鮮だった。
逆にあたしがよく行くような店は沙紀にとっては貴重な体験だったのかもな。
何も買わないのがミソだな、って女子ならたいていわかってるか。
今はもうすっかり落ち着いて、だらだら感想モードに入ってる。
64 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2018/08/12(日) 10:21:36.52 ID:f0hWHOAvo

「にしてもあれっすね」

「ん?」

「奈緒ちゃんと遊ぶの楽しいんだろうなとは思ってたんだけど、こんだけ楽しいとは思ってなかったっす」

「あたしも似たような感想だな、タイプが違っても楽しくやれるじゃんって感じ」

「これはもっと早くサボりのお誘いをかけるべきだったっすねー」

「おいあたしは一応真面目で通ってるんだぞ」

「真面目もいいけどたまには息も抜かなきゃ潰れちゃうっすよぅ」

ぷう、と頬を膨らませて反論をぶつけてくる。
言ってることは間違ってないんだろうけど、そこは性格とか考え方の違いか。
まあ真剣にやり合うような話でもないしテキトーに流れていく。女子高生の会話なんてこんなもんだ。

「あ、奈緒ちゃん、このあとどうするっすか?」

そう言われてスマホで時間を確認する。
学校だともう最後の授業が終わりそうな頃合いだ。
楽しいと時間が経つのが早く感じるよな。
沙紀はうきうきしてるし、あたしもこの時間が続けばいいと思う。
でも時間切れなんだよな。
もうあとちょっとで事務所に行く時間だ。
今いる場所は位置的に学校よりは近いからちょっと余裕はあるけど大差はない。
次にどこかに行くことになれば確実にアウトだろうからここまでだ。

「悪い、今日ほら、例の習い事があるんだ」

「えぇー、今日はアタシに付き合ってほしいっす」

「どうしたんだよ沙紀、もう今日はけっこう遊んだだろ」

「むしろ大事なのはここからなんすよ、そのためにガッコから引っ張りだしたんだから」

なんだか妙に食い下がるな。
コイツはこういうわがままを言うようなタイプじゃない。
そのはずなのにここでこれだ。
朝の変な状態も含めてやっぱりちょっとおかしい気がする。

「なんでだよ、ここからが大事って意味がわかんないぞ」

「一度くらいその習い事をサボってみてほしいっていうか……」

「……頭痛くなってきた」

どれだけ頭を働かせても話が通らない。通る気さえしてこない。
目的をそこに置く必要がどこにあるってんだ。
もっと遊びたいならまだわかる、っていうかこの場合はそれが普通だと思う。
そうじゃなくて“サボってみてほしい”?
あたしをサボらせてお前はいったい何を得るんだよ。

いつの間にか額にやっていた手をテーブルに戻して沙紀のほうを見る。
口元もなんだかおぼつかないし、視線は自信なさそうにテーブルの隅に落ちている。
情緒不安定かと言いたくなるけどそれは我慢しよう。
あたしは沙紀に対してなんて答えればいいんだ。
レッスンを休むつもりがないことはもう言ってあるってのに。
もしかして正解なんてない状況だったりするのかこれ。

どっちも口を開けない時間が続く。
別にケンカしてるわけでもないのに何なんだこの感じは。

「……ダメっすか?」

「ダメだ。習い事のほうはあたしがやるって決めたんだ」

「そっか、ダメかぁ」

65 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2018/08/12(日) 10:22:06.05 ID:f0hWHOAvo

都心の駅は学校の最寄り駅と違ってどこも人が多い。話をするにはだいぶ不向きだ。
沙紀はここから千葉に向かう電車に乗るし、あたしは事務所へ向かう電車に乗る。そもそも線が違うからホームで向かい合うことさえない。
だから駅の入り口辺りでもう今日はお別れだ。

……気まずい状態がまだ続いてるのが意味わからん。
学校でなら多少イタズラが過ぎてもすぐにちょっかいの出しあいに戻るからなぁ。
二人でいてこんな無言の時間が続くのなんて初めてじゃないか?
沙紀がしゃべらないとこんだけキツいとは思ってなかった。
意外とあたしは自分で思ってるよりも受け身タイプだったらしい。

合わせづらかった視線をどうにか合わせる。目も合わせずに挨拶はナシだろう。
沙紀は沙紀でまだ気まずそうな顔をしている。
変なことを言い始めたのはお前なんだからその表情は道理といえば道理だ。ただそれ以上にあたしにダメージが入る。理由はわからない。

「…………やっぱり、ダメ?」

「あんまりわがまま言うなよ、たまになら学校サボんの付き合ってもいいからさ」

「むぅ」

「沙紀はそっちだよな、悪いけどあたしこっちなんだ。じゃあな、楽しかったぜ」

「……うん、さよならっす」

66 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2018/08/12(日) 10:22:34.27 ID:f0hWHOAvo



ドアを開けると乃々ちゃんがフレデリカちゃんに捕まっています。それはもうがっしりと。
抜け出そうとはしてますけどどう頑張っても抜け出せそうには見えません。
乃々ちゃんとフレデリカちゃんでは体格がそもそも違いますし。
あまり必死っぽくは見えないのでじゃれ合いだとは思うんですけど。
というかこれどういう状況なんでしょうか。
見ただけでわかれば苦労はないんですけど、まあフレデリカちゃんが絡んでますから仕方ありません。

乃々ちゃん、助けを求める目はやめてください。
そんなものを向けられても私にできることはひとつもありません。
加えて言えばその目を続けられただけ助けられない罪悪感みたいなものが募るので。

「フレデリカちゃん、いったい何をしてるんですか」

「それはね、語るも涙、話すも涙の大長編物語なんだけど」

「誰も聞いてないじゃないですかぁ! ひとりでしゃべって泣かないでください!」

「わ、さすがナナちゃん、ツッコミ上手ぅ♪」

「とくにそれで売ってませんからね!?」

「え、即興でこんな掛け合いできるんですか……。トークの苦手なもりくぼに対するいぢめですか……」

乃々ちゃんの言っていることは私には聞こえません。
私はそういうアレじゃないです。目指しているのは歌って踊れる声優アイドルです。
というかこれたぶんフレデリカちゃんに振ったのが間違いでしたね。

「乃々ちゃんはフレデリカちゃんとどんなお話をしてたんですか?」

「あぅ、その……、奈緒さんがすごかったっていう……、昨日テレビで観たので……」

なるほど乃々ちゃんも観てたわけですか。それなら話題になるのもおかしくないですね。
乃々ちゃんは奈緒ちゃんにけっこう懐いてるみたいですし。
外から二人を見てると微笑ましいんですよね、なんかふわふわしてて。

ま、そこに奈緒ちゃん大好きと社内で公言してはばからないフレデリカちゃんですから話が盛り上がったんでしょう。
捕まる経緯はわかりませんけど。

67 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2018/08/12(日) 10:23:06.00 ID:f0hWHOAvo

それにしてもこのぶんだとだいたいの子があの特番を観てそうですね。
深く考えなくても自社の新人さんたちが出てるわけですから注目度が高いのは当然なのかもしれません。
こんな世界ですし、アンテナは常に張っておきませんと。

「乃々ちゃんはどんなところがすごいって思ったんですか?」

「そ、そもそもトリであんなに堂々としてた時点ですごすぎます……。もりくぼとは比べられません……」

「たしかにそうですね。奈緒ちゃんとっても落ち着いてたように思えます」

「それに、その、すごく綺麗だなって……、目が離せませんでした」

ほとんど同じ感想です。私も目が離せなかったんです。
ちゃぶ台もお茶もテレビそのものすらも消え去って、奈緒ちゃんだけが立ってたんです。
一晩経った今でもかなり鮮明にあの映像が思い出せます。細部までも。
自分でもどうなんだと思わなくもないですけど、事実として頭に残ってるのにそこにウソをつくわけにもいきません。

これは推測ですけど、きっと乃々ちゃんも同じなんだと思います。
だからこそここに戻ってきてまでお話をしてるんでしょう。
乃々ちゃんは今日ボーカルレッスンだったはずですからね。
ボーカルレッスンの後って意外としんどくて、ダンスレッスンとはまた違った疲労感なので、そうそう気楽にここに寄る気になれなかったりするんですよ。あくまで個人的な感想ですけど。
そんな中でB-02にいるってことは奈緒ちゃんのことをかなり話したかったんじゃないかなって思っちゃいます。
フレデリカちゃんに捕まってても話ができてるのでテンションも高めと考えてよさそうです。

「奈緒ちゃんはアルファヴィルだからね」
68 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2018/08/12(日) 10:23:33.84 ID:f0hWHOAvo

同意のためにうんうん頷くことしかできないところにフレデリカちゃんから声が飛んできます。
だからそれは当たり前のことなんだよ、というセリフが言外に明らか含まれた物言いは自信とかそういうものを飛び越えて、冬は寒いというようなことと同列に語られているようにしか聞こえません。
それがあまりにも自然に挟まれたので、疑問を持つタイミングが一瞬遅れます。
アルファヴィル?
これまでの人生で聞いたことのない言葉です。
フレデリカちゃんがたまたま知ってるフランス語とかでしょうか。

「アルファヴィル、って、たしか星の名前、でしたよね……?」

「わお、乃々ちゃんすごーい♪ よく知ってるね!」

「あ、その、たまに図書館で調べものとかするので……」

ほほう、星の名前なんですか。
乃々ちゃんもよく知ってましたね。ホントに。
星ということは……、なるほど、きっとアナスタシアちゃんが情報源ですね。
それにしてもフレデリカちゃんから星の名前だなんてかなり意外です。
まあ、話題になっているのは奈緒ちゃんなので別に星の話ってわけじゃありませんけどね。

星と奈緒ちゃん。
スターって言いたいんでしょうか。
いやいや、まだ奈緒ちゃんはデビューしたてです。
たしかに否定のしようもないほど衝撃的なものではありましたけど、それでも舞台に立った回数はたったの一度です。
スターなんていうのはさすがに早すぎると言わざるを得ません。
その辺りフレデリカちゃんが考えてないわけありませんし。

「そのアルファヴィルっていうのはどういう意味なんですか?」

「えっとねー、アルファヴィルはオットセイなんだよ!」

「は?」

「あ、菜々さん、たぶん一等星のことだと思います……」

「そうそうそれそれ♪ いちばん光る星なんだよ!」

一等星。聞き覚えありますね。
たしか恒星の等級で、フレデリカちゃんの言うようにいちばん光るランクでしたっけ。
もしフレデリカちゃんの言いたいことが私と一致しているなら。
奈緒ちゃんは一等星レベルの可能性を持っている、と?

ふとテレビの向こうの奈緒ちゃんが頭を過ぎります。
周りはまったくの暗闇のなか、ぽつんと浮かぶスポットライトに一人だけで立つ姿。
真夜中みたいに静かな場所で全部の視線を集めていました。
むこう側からこちら側に届けられる歌声はあまりにもまっすぐで。

「だからね、奈緒ちゃんを見ちゃうのはどうしようもないんだよ」

言葉を引き継がれたような気がしてはっとしたのを気付かれないようにごまかします。
でもよくよく話の流れを思い出してみれば、フレデリカちゃんはたださっきの言葉に続けて話しただけです。
別に私の考えていたことを読み取っているわけでもなんでもありません。
アルファヴィルだから、一等星だから誰もが目を離せない。
いったい何の話をしてるんでしょう。現実の人間のことなんでしょうか。
だんだんわからなくなってきます。

「フレちゃんはてんびん座だからね、奈緒ちゃんには勝てないんだー」

あの、本当に何の話をしてるんですか。
わからない話を続けられるほど私は優秀にはできていません。

「あの、ところで当の奈緒ちゃんは?」

「えっとね、乃々ちゃんの次のボーカルレッスンだって!」

「あ、はい……。ドアのベンチのところで、ちょっとお話を……」

「どんなお話をしたんですか?」

「その……、奈緒さんは気合入れて頑張るって言ってたんですけど、なんか、すこし表情が変で……」

「表情が変?」
69 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2018/08/12(日) 10:24:21.99 ID:f0hWHOAvo



ダンスレッスンで意識が遠くなることはなくなったと言っても、キツいものはキツい。
なにせプログラムもいつまでも同じものってわけじゃないからな。
一つできるようになったかと思えば課題は見つかるし、それをトレーナーである麗さんが見逃すはずもない。立場的にも当然だ。
だからボーカルレッスンが始まる前のこの待ち時間は休憩時間として実に有効なのだ。
逆を言えばボーカルレッスンの順番が一番だとものすごくしんどい。
シャワーのことを考えると相当急がないとならないからだ。
もちろんシャワーを外すなんてあり得ない。女子としての尊厳は守らなきゃならない。

今日の一番手の犠牲者は乃々で、年齢問わずにビシビシいく辺りはプロフェッショナル感もある。
あたしは今日は二番手で、シャワーを済ませてクールダウンがてらに社内施設をうろついてきたばかりだ。
廊下のベンチはB-02とかのものに比べると味も素っ気もない。
壁によりかかるのは姿勢も行儀もいいとは言えないけど、疲労が残ってるから許してほしい。

相変わらず目の前の壁も扉も防音が行き届いているようで、ちっとも音は漏れてこない。
まあ、防音性能が低くても乃々だとあまり聞こえてきそうにないけどな。
時計を見るとあとちょっとで私の順番が来ることがわかる。
それまではのんびり待たせてもらおうか。

「なんだ神谷、お前いつもこんなに早くから待機してたのか」

かなりのハスキーボイスに名前を呼ばれてそっちを向くと意外な人がそこに立っている。
手にはペットボトルのスポーツドリンク。
この人以上にスポーツドリンクが似合う人はなかなか見つからないだろうと思う。

「あれ? 麗さん。今って他のところのレッスン入ってないんですか?」

「いや、レッスン自体は入っているが指示を出したところでな。ちょうど手持ち無沙汰なんだ」

そんな時間が存在したのか。
あるいはあたしたちの時にもあったのかもしれないけど、気付く余裕がなかっただけか。
言われてみればトレーナーさんとしての声が飛んでこない時間帯があったような気もする。
もちろん指示が出ている時間っていうのはあたしが必死な時間帯でもあるから記憶は輪をかけて曖昧だけど。

「もしかしてあたしを探してました? さっきの言い方的に」

「そうだな……、まあ見つかればいいか、程度だな」

「あっはっは、なんですかそれ」
70 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2018/08/12(日) 10:24:49.45 ID:f0hWHOAvo

もう半年近くの付き合いにもなると初めの印象とは違った面も見えてくる。
この人はレッスン中は本当に厳しいけど、そこを外れると案外と面白い人だ。
その落差のせいで余計に親しみを感じてるってのはあるかもしれないけど、それでも話してて楽しいのは間違いないし。
なんというか、誰が相手でもさわやかな距離感で接する人だからこっちとしても接しやすいというか。
学生時代とかはきっと人の中心にいたんだろうな。それも自然と。

麗さんがあたしの隣に腰かける。
近くに他の誰かがいるってわけでもないから麗さんもとくにあたしに目を向けることもない。
ペットボトルをあたしから見えない側の体の脇に置く。
ちくしょう、締まった腕がかっこいいぜ。

「なあ神谷、この立場で言うのもおかしいかとは思うんだが」

「どうしたんですか、そんなあらたまって」

「引き返さなくていいのか?」

レッスンの時ほど隙が無いわけじゃないけど、だからって冗談に聞こえるような声色じゃない。
和んだ雰囲気の時にはもっとくだけた話し方のできる人だ。それとは違う。
だからたぶんこれはその二つのあいだのトーンなんだろう。
そのグラデーションの中のどの位置にあるのかまではわからないけど。

「えっと、どういう……?」

「そのままだ。ああ、誤解のないように言っておくが私はお前をかなり評価しているからな」

「あの、余計に意味がわからないんですけど」

「一度なら思い出づくりで済むんだよ、まだな。ただそこから先はもう我々では手出しができん。つまり頃合いとしては今が最後のチャンスと言っている」

評価されているとまっすぐに言われても、それが浸透してこない。
とくに具体的な言葉は出てきていないけど、アイドルから降りるならっていう話だってことくらいはあたしにもわかる。
どうしてだろう。
間違いなく麗さんは善意の人だと思う。すくなくともあたしはそう信じている。
なのに麗さん自身が言ったトレーナーという立場のことを踏まえると、辞めることを提示するっていうのにはおかしななにかを感じざるを得ない。
選択肢を見せてくれていると考えれば変な話でもないんだろうけど、本当にそれだけか?

麗さんの顔は前を向いたままであたしから見えるのは横顔だけ。
目はいつものように鋭い。
あたしはろくに返す言葉を見つけられない。

「ぷ、プロデューサーさんとか」

「違う。まずはお前の考えなんだよ、神谷。続けたいなら喜んでアシストしよう、我々が高みに連れて行ってやる。でもな、無理をしてまで続ける必要はないというのが私の持論なんだ。もしそうであればという話だが」

わからない。そしてわからないことを考えるのは相当疲れる。
あたしはどうやら評価されているらしくて、麗さんはあたしたちを鍛える立場の人で、でも辞めるなら今だと言っていて。
あたしの貧弱な脳みそだとそこに正当性のあるつながりは見つけられない。
じゃあどうするか。聞くしかない。わからないんだから。

「ど、どうして麗さんがそんなこと……」

「心配だというのがある。オーディションを通らずにスカウトで引っ張られてきたからな、お前は。そのぶん自発的な意志がなければこの先は酷だろうと思ったからだ」

「え、あ……」

「それにお前はまだ高校生だ。最悪でも自分の未来について考える権利くらいは保証されていなければダメだろう。それが道理というものだ」

あたしの未来。
そんなことさっぱり考えてなかった。
目の前にやってくることをこなしていくのに必死で、その先になにが待ってるかなんて頭をかすめたことさえない。

あれ、でも今日あたしは沙紀の誘いを断ってここにいるはずで。
違うのか? もしかして選んでいないのか?
あたしがここにいる理由。
頭痛がする。

「まあ、まだ時間はそれなりにある。ゆっくり考えてみるといい。それと」

麗さんが一呼吸置いて言葉を区切る。

「どちらにせよ決めたならまず私に話せ。プロデューサー殿は立場から言ってお前を手放す選択肢は採れないからな」

71 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2018/08/12(日) 10:25:47.22 ID:f0hWHOAvo

麗さんが立ち去った廊下はそれまでよりいっそう静かで、別の場所に来てしまったかと錯覚してしまいそうになる。
その環境も手伝って、あたしの頭は思考することをやめようとしない。こんな心持ちで考えなんかまとまるはずがないのに。
自分が何を考えているのかすらわからなくなる。
時計の秒針が意識を手放しかけていたことを定期的に教えてくれる。
どうしよう、フレデリカに相談でもしてみるか。
いや、あいつも今はレッスン直後なわけだしさすがに控えるべきだよな。

ぶんぶん首を振って頭に生まれた形を成さないものをなんとか追い払う。
外から見たら見事に不審者だ。社内だから通報されるようなことにはならないだろうけど。
いつの間にか足元に落としていた視線を前に持ってくると、ピタリのタイミングでレッスンルームのドアが開く。

「あ、奈緒さん、ど、どうも……」

「乃々。……あ、そうか、レッスン終わったのか」

「えっ、じゃあ奈緒さんは何を待たれていたんですか……」

あたしの顔は大丈夫か。いつも通りにできてるか。
前に乃々には顔の筋肉が動かなかったせいで怖い思いをさせちゃったからな。
全力で謝り倒して、乃々にもうやめてくれと泣きながら懇願されたことを思い出す。
その場にたまたま居合わせた心さんに説教を食らったことも忘れちゃいけない。
一方的に何かを伝えるっていうのはだいたいの場合よろしくないと教えてもらった。コミュニケーション自体がそもそも自分以外を含めて成立するんだから当然といえば当然なんだけど。
まあ今回は目を合わせた瞬間に怯えた表情をされてはいないからセーフだろ。

「ああいやいや違うよ、乃々が終わるのを待ってもいたけどちょっと考え事もしてて」

「奈緒さんが何を考えていたのか、もりくぼちょっと気になります」

「え、あー、なんというか、…………未来?」

ウソをつかずに誤魔化せって言われたって。
そのためにギャグっぽく見せようと変なポーズとセットでキメたあたしのとっさの判断はアホなのか。そうかもしれない。いや高確率でそれだわ。
もう、なんというか恥ずかしくて走って逃げたいけどそういうわけにもいかない。
恥ずかしさを堪えてるせいで顔に血が上っていくのが自分でもよくわかる。
ちょっと固まったままあたしを見てる乃々の視線が辛くなってきたから、何も言わずにポーズだけ変える。これが何かの解決になっているかなんて考えちゃダメだ。

「んふっ、なんか今日の奈緒さん妙なキレがあるともりくぼは思います」

ちいさな口から漏れ出た空気があたしを救ってくれる。
笑ってもらえるってこんなに幸せなことだったんだな、ってこんなところで理解したくなかったけど。
ええい、話題転換だ話題転換。
72 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2018/08/12(日) 10:26:14.38 ID:f0hWHOAvo

「それで乃々は今日は何のレッスンだったんだ?」

「ゆ、ユニット曲でのソロパートの練習ですけど……、これはやはり私には無理なのでは……」

「ん? そんなことないだろ。任されるってことは理由があるってことなんだから」

「うぅ……、そんなアグレッシブな応援されても困るんですけど……」

目をそらして手をもじもじさせてる乃々の様子は反則的に可愛い。
こんなの誰だって構いたくなるって。
これだけ可愛くて自信がないなんてどういうことだと言いたくなるけど、この一貫した弱気のスタイルが乃々の最大の魅力なんだから世界は因果なものだ。

この状態の乃々を一人で、しかも間近で眺められるのは一種の特権だよな。
アイドルになってよかった、とまで言ってしまうのはさすがに歪みすぎな意見だと思うけど。
まあなんというか、素敵なおまけくらいには考えていいんじゃないか。

「なあ乃々、アイドルをやるのは楽しいか?」

ふと口をついてこんな言葉が出てきてしまう。
先輩を相手に聞くことじゃないよな。

「う、そ、その質問はもりくぼにとってはずるい質問なんですけど……」

「あれ、そんなにだった?」

「私は、め、目立つのはイヤですけど、みなさんと頑張るのはイヤじゃないというか……」

なんだよこいつかわいいなあ。ついつい目を細めて乃々を見てしまう。
乃々にも頑張れる理由があるんだ。
いつも逃げようとはするけど全力じゃないわけだよ。

乃々は答えを持っている。

冷や汗が、頬を伝う。
どうして?
いま間違いなく何かがあたしの頭を通り過ぎたからだ。
どうして?
目の前にいる乃々を通して何かを見たからだ。乃々とは関係のない何かを。
そこまでわかっているのにあたしにはその何かのはっきりした姿を掴むことができない。

そしてそれは確実に楽しくない部類のものごとだ。

あまりに突然の出来事にも関わらず、あたしの脳はぴたりとその判断を下す。
不思議なことに混乱はない。
いや違う。混乱はしている。その判断を下すことだけ妙にすんなりとできただけだ。
他のことに関しては頭の中はぐちゃぐちゃだ。
理由も前兆もなく唐突に感覚だけが、考えというものが存在できない領域だけが怖い思いをしたんだから。

顔は。
顔は大丈夫か。
絶対に乃々だけは怖がらせるような顔はしちゃいけない。二度とだ。
笑え。微笑みでもニヤニヤでもなんでもいい。
作り上げろ。幸い乃々はまだ視線を逸らしてもじもじしてる。
ここで表情くらい作れないでなにがアイドルだ。

「うぅぅ……、も、もりくぼはもう耐えきれないのでお部屋に戻らせてもらうんですけど……。あ、な、奈緒さんはレッスン頑張ってください……」

去り際に乃々がちらっとあたしに視線を投げる。
いつからかあいさつの時だけは目を合わせてくれるようになったんだよな。

「ああ、気合入れて頑張るよ」

「…………?」

乃々が小首をかしげる。
返し方がよくわからないから、あたしはとりあえず手を振って重たいドアを開ける。
ひょっとしてあたし、また失敗した?

73 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2018/08/12(日) 10:26:49.13 ID:f0hWHOAvo



「プロデューサーさんが忙しくなるって言ってた理由、本当でしたね」

素直に敬服します。
もちろん程度にずれくらいはあったんだろうと思いますけど、デビュー前から奈緒ちゃんを忙しくなる根拠に挙げていたってことはそれなりに確信があってのことに違いありません。
すくなくとも私が同じ立場だったとしてもそんなこと言えないだろうと思います。

新人アイドルによるアクセス過多でのホームページ接続不良なんて現代では騒ぎのタネもいいところです。
あれから数日経っても各所で奈緒ちゃんの話は途切れていません。
世間ではどちらかといえばネットでの話題になるほうが多いみたいですけど。
もちろん社内でも話題になり通しです。
本人がいるところではぴたりと話が止むっていうのが奇妙ですけど逆にリアルっていうか。

「ん? 奈緒のことか?」

「はい。けっこう前にプロデューサーさんとナナでそんなお話したんですよ」

「いや覚えてはいるんだが、忙しいことに関する話となるとほとんど毎日してるようなもんだろ? ピンポイントでそれかどうかは自信がなくてな」

言い訳がましく聞こえますが事実でもあるんでしょうね。
基本的にプロデューサーさんは人と話をすることで仕事を成立させる方ですから。
売り込むための資料や企画計画もろもろを作成したりももちろんしていますけど、それはあくまでも補助的なものだと言っていた記憶があります。
話すということに基軸を置いているとはそういうことで、そうなればそのぶん話の内容の質も量も増していくのは当然です。
そこに普段のなんでもない会話を加えると考えると、返しにピンポイントで奈緒ちゃんの名前が出てくるだけ本当に覚えていてくれたことの証拠になると思います。

「別に気にしたりはしませんよ、日常会話ですし」

「助かるよ」

背もたれに思い切りもたれかかるプロデューサーさんの姿は、B-02のルームデザインとはさすがにそれほどマッチしたものとは言えません。
失礼といえばそうなんですけど、この部屋だと比較対象がアイドルになってしまうので。
……ここ、アイドル事務所なんですよね。

「それで、これから奈緒ちゃんってどうなるんですか」

「大きいのは年末のスーパーライブ。いちおう枠だけは取れてる」

「えっ」

自分のくちびるが小さく震えるのがわかります。
どうしてこんな些細なことに気付けるんでしょう。
きっと冷静じゃなくなっているからなんでしょうね。
だから手近なわかることだけに反応する。
中学生くらいのころに自分にこういう癖があるってことに気付きました。
落ち着きましょう。まずは確認できることから。
74 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2018/08/12(日) 10:27:15.15 ID:f0hWHOAvo

スーパーライブ。うちのいちばん大きいイベント。
346プロは規模の大きい会社ですが、それでも三年前にやっと会場を押さえることが叶ったそうです。
その大きな会場を埋められるセットリストを組むことはずっと前から可能だったのに、です。
始まる前からそんなだったんですから、今ではびっくりするほど競争倍率が高いんです。
それでもファンの方は誰も諦めないほどのステージ。
そして。

そして。

たしかにデビューの年にスーパーライブまで駆け上がった前例はあります。
ありますけどそれは階段を何段も飛ばして駆け上がる才、能に、しか…………。

自分のことが嫌いになりそうです。
気付いてたんじゃないですか。
どうして見えないふりをしてたんでしょう。
奈緒ちゃんがテレビに映ったあの時からわかっていたのに。

……あらためて振り返ってみれば条件は整っていたんですね。
異例づくめのデビューだけじゃなくて直後に発生した事態。
それ以前に社内での扱いや評判がまるで違っていたじゃないですか。
スカウト、方針、ウワサ、フレデリカちゃんの評価。
どうして気付けなかったのかと自問したくなるくらいに揃っているじゃないですか。

「さすがに出演順は選べなかったがな。たぶん前半のどこか落ち着いた辺りだろう」

「プロデューサーさんの目から見て、やっぱり奈緒ちゃんはすごいですか」

プロデューサーさんは軽く笑いながら答えます。
その言葉の中にどれだけの意味が込められているのでしょう。
きっと思うところが私とは違うはずです。

「わかってるだろ。奈緒は特別なんだよ」

「なんとなくは言いたいことわかりますけどね」

「言い方は悪いかもしれないが、アイドルって枠組みで見れば見た目が飛び抜けてるわけじゃない。歌だって奈緒より上手いのはいるし、ダンスに至っては舞台で見せてすらいない」

「でも?」

「そう。でもあいつが脳裏に焼き付いて離れない」

まさに。
気が付けば目を奪われていて、そのことに違和感を抱けない。
かちりとなにかのスイッチが入って世界の境目がゆるむというか。
実際テレビは録画だったわけですし。
それなのに手を伸ばしてしまいそうになる瞬間があの四分のあいだに何度もあって。

「それはこの世界にあって本当に特別な才能なんだ、原理とかはよくわからん。でもそれは間違いなく存在するんだよ」

75 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2018/08/12(日) 10:27:41.91 ID:f0hWHOAvo



麗さんの言葉が頭を過る。
あたしがアイドルをやりたいのかどうか。
どうだ、と言われて困っているのはあまりステージでの記憶がないからだ。
観客の顔とか声とかそういうものは残っていない。
会場の規模もどんなもんだったか。
というか共演した人もまるで覚えてない。楽屋だか控室だかは二つしかなかったはずなんだけどな。
ド緊張の末になんとかやれることだけをやったっていうのが本当のところなんだろう。自分のことなのに推測っぽく言うしかないのが情けない。

逆に辞めたいのかと問われても困る。
辞めるだけの理由もとくに挙げられないから。
一言にしてしまえば宙ぶらりん。ただどっちでもいいってほど関心がないわけじゃない。
うーむ、あたしには意志ってもんが存在しないんだろうか。

ただ、傾き加減ならかろうじて判断はつくと思っている。
たぶん続けるほうにあたしは傾いてるはずだ。
なぜって沙紀とサボった日の最後にあたしはレッスンを選んだから。
でもレッスンを受けることが日常化しすぎて惰性でその選択をしたんじゃないか、と言われてしまうとあたしにはうまく反論の言葉が見つけられなくなる。
そうかもしれないからだ。
だからあたしは悩んでいる。
もっと根源的な部分でアイドルであることを選ぶかというのを判断するべきなんだろう。
そこにはきっと人生が関わっているだろうから。
当然ながらまだ二十年も生きてないようなあたしに人生について考えろなんて言われても実感が湧くわけがない。
けれどこれは要するにふつうに戻る最後の機会ってことなんだろうな。

キーはたぶん沙紀と一緒にサボった日のことにあるんだと思う。
どうしてあの日レッスンはサボらないって前提に立っていたのか。
ここを考える必要がある。
沙紀に話を聞く必要があるかとなるとそこは微妙だけどまあいいや、聞くとして。
さくっと終わる話じゃなさそうだから放課後かな。あいつに用事がないといいけど。
そういえば今日はまた席替えの日だっけ。月イチ。もう夏休み明けてひと月経つのか。

76 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2018/08/12(日) 10:28:09.67 ID:f0hWHOAvo

沙紀と席が離れた。
あれだけ何度も何度も席替えをしても離れなくてなかばそれが当たり前だとさえ思っていたのに、それは崩れてみると意外なほど簡単に新しい現実に取って代わられる。
驚いたことに近くには沙紀どころか普段のグループさえいない。
別にあたしは話してないとダメなタイプじゃないから構わないといえば構わないけど、それでも拍子抜けというかがっかり感のようなものはある。

「よう、沙紀。ついに席離れちまったな」

「驚いたっす。奈緒ちゃんが遠くに行っちゃったなって」

「同じ教室で遠いも何もない気もするけどな」

「ちょっかいが出せないならそれは遠いって言っていいと思うんすよね」

いつものいたずら顔で笑いかけてくる。
まあ背筋を指ですーっとやられたり脇腹を突かれたりしなくなるのは利点と言えるのかもしれないけど、逆に言えばこれまでずっとそういう生活だったんだな。
なんだろう、引っ越しとかってこういう感覚なんだろうか。
さすがに規模が違うか。

あたしは窓側の席で、沙紀は廊下側の席。
イメージで言えば窓側は太陽の光が差し込んで眩しいって感じだけど、うちの学校は逆だ。
午後はむしろ廊下の窓から光が差し込む。教室の窓は日陰になる。
もちろん廊下と教室のあいだには壁があるわけで、光はそこで遮られる。
日によってはものすごい鋭角に廊下から引き戸のところを抜けてまさに光が差し込むみたいなこともあるけどな。
かわいそうなことに沙紀はちょうどその鋭角な光が当たる場所を引き当てている。

さて、聞こうと決めたはいいけどあたしは何を聞けばいいんだ?
そもそもコイツはあたしがアイドルだってことを知らない。
そんな沙紀にアイドルを続けるべきかなんて聞くのは支離滅裂もいいところだ。
このあいだのレッスン前に別れた時のこともできれば聞きたくない。
じゃあなんだ、いつもの実にならない会話から鍵を見つけろってことか。
気が進まない。
でもまあ、やるしかないんだろうな。

「お前の “近い” の範囲せまくないか」

「いやいや手の届く距離なんだからおかしくないと思うっす」

「それじゃあ昇降口なんて世界の果てみたいなもんだな」

「人と場所を比べるのは違くないすか」

「あー、言われりゃまあそうか。でもなんかマトモな意見でびっくりだ」

「奈緒ちゃんアタシのことなんだと思ってるんすか」

「ゆるゆるの自由人」

「それたぶん誉め言葉じゃないっすよね」

ははは、と笑ってごまかす。
そもそも自由人という言葉には褒める要素がなかなか入らないぞ、沙紀。

でも不思議なもんだな。
比べてみるとうちの部署の連中とはぜんぜん違ってるのにどっちも心地良さが成立してる。
あいつらはあたしのことを知りたがるし、あたしも知りたくてけっこう聞いたし。
反対に沙紀は基本的には深く干渉しようとはしない。

理由みたいなものなら両方とも見当はつけられる。
B-02はしっかりと仲がいいんだ。それこそ肌が触れ合うくらいに。もちろん比喩だけど。
いわばあったかい居心地の良さがある。
沙紀の場合は別だ。こいつとの付き合いはすっきりしてる。
お互いがお互いのことに詳しくはないけど、まさにちょうど手が届くぐらいの距離感だから。

考えてみるとどっちも別におかしいところはないよな。
待てよ、ダメだこれ。
アイドルを辞める理由にも続ける理由にもつながらない。
どうしてあの時レッスンをサボるっていう選択肢自体がなかったんだろう。

「……けど、うん。寂しくなるっすね」

「なんだよ、話ならこうやってできるだろ?」

「いやまあそうなんすけど、なんかこう、わかるっすよね?」

わかるよ、たぶん、なんとなく。
不確定なものばっかりできちんとした言葉にはならないけど。
沙紀の感覚とあたしのそれが完全に合致してるかもわからない。
でもこの言い方はそういうことだろう。
きっと沙紀にも感じるところがあるんだ。
あたしだけじゃないんだ。

77 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2018/08/12(日) 10:28:45.45 ID:f0hWHOAvo



「お、ナナ先輩、モーニン☆」

私のほうに体を向けて座っていたはぁとちゃんが顔を上げます。
膝の上には雑誌、たぶんファッション誌、があります。
それにしてもはぁとちゃんって背高いですよね。私からすると完全に見上げるかたちです。
ん、いや、これおかしいですよ。
なんで座ってるはぁとちゃんを見上げるんですか。

なんだか物事の順番が前後している気がします。
ずきずきと頭が痛みます。うまく考えられません。
はぁとちゃんの表情は人前に出ているときのものではなく、個人的で素のものです。
なんでまた突然こんな表情のはぁとちゃんに出くわすのでしょう。
突然?
人の顔が突然出てくるのはおかしいのでは。
頭はまだ痛みます。痛みが邪魔で、よくわかりません。

「先輩、調子のほうはどうです?」

「調子、ですか。頭が痛いです」

「レッスンルームでぶっ倒れてたんですよ」

なるほどぶっ倒、……えっ。

「いったい何時からやってたんスか、はぁとが見つけたの9時だったんだぞ☆」

レッスンルーム……。
朝早く。
倒れるほどの……?

あ。

音さえ聞こえるくらいに頭にかかっていた靄が一気に晴れていきます。
そうだ、私は昨日の夜。

「時間まではわかんないスけど、理由はまあ想像つきますよ。自分もそうですし」

脳の回路がいきなりクリアになって情報が堰を切って流れ出します。
普段だって処理しきれないような情報量を相手に目を覚ましたばかりの私が対応できるわけがありません。
優しく語りかけるはぁとちゃんを目の前にして、私はあうあうと言葉にならない音声だけを口から零します。
理由。そうです。あるんです。
78 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2018/08/12(日) 10:29:13.47 ID:f0hWHOAvo

「見たんですよね? 奈緒坊の動画」

「……はい」

あの衝撃の特番からたった十日。
346の公式アカウントから新人ライブの動画が投稿されたとき、SNSでは大騒ぎになりました。
そこにはテレビに映れなかった子たちのぶんも投稿されていたので、コアなファンは狂喜していたようです。
形態としては途中でフェードアウトするように編集をしたショートバージョンが、ユニットごとにひとつずつ投稿されていました。
ですがそのことが持つ意味はまったく違うように思えました。すくなくとも私には。
あの奈緒ちゃんのライブが、短縮されたものとはいえ何度でも観られるようになったんだと。

テレビに映れなかった子たちの救済という側面もあるとは思います。
競争原理の中にあるとはいっても、そういう不公平が内側に不満を生んでしまえば社としていい結果にはつながりませんし。
実際に動画で初めて姿を見せた子たちも遜色なく輝いていました。
でも私がその日ずっとリピートしていたのは奈緒ちゃんの動画です。
初めのうちはそのまま観て、次は目を閉じて歌だけ聴いて、そして音を消してただただ奈緒ちゃんの姿だけを見つめました。
かちり。
パソコンから離れられない。
ようやくお布団を敷けたのは午前一時をまわるころでした。

でも予想通り寝付けませんでした。
テレビで観たときには気付けなかった箇所がいくつも見えてきます。
動きそのものは大きくないのに、瞳が、くちびるが、指先が、何もかもが訴えてきます。
目を閉じてもそれが浮かぶんです。どうして寝ていられますか。

あんなものをよくよく見せられて、どうしてナナが普段通りの生活を送ろうと思えますか。

「……7時前にはもう始めてました」

「いくらこの部屋は24時間使えるっつってもナナ先輩そりゃ……」

「やっぱり、無茶でしたかね」

どう扱えばいいのかわからない感情は笑いと一緒になって言葉になります。
はぁとちゃんがため息をついて自分の頭をがしがしと掻きます。
ちょっとずるい言い方だったのかもしれません。
けれどどのみちはぁとちゃんは私に強く言うことはできないはずです。
だって理由は同じだって言ったんですから。
はぁとちゃんだってアイドルなんですから。

「家で黙ってらんないほどのもんだったってことで納得しときます」

どこか不満そうな返事です。
仕方ありません。わかりますよ。
はぁとちゃんは頭が良くて優しいから、私にそう考えさせる状況に思い至ったんですよね。
自身でも驚いています。行動が矛盾ばっかりじゃないですか。
いえ、もしかしたら言い方が違うのかもしれません。
ずっと矛盾していたのではなくて、考えが変化したせいで矛盾になったというのが正しいのかもしれません。
でもどうしようもありませんよね、あくまで原因は奈緒ちゃんなんですから。

……そっか、魔翌力。
プロデューサーさん、たしかに奈緒ちゃんには魔翌力があります。
私がそれにやられていたのも間違いないと思います。
でも、本当の意味でのそれはプロデューサーさんには絶対にわかりませんよ。
人の目を惹く特別な才能のうしろに、もうひとつ隠れているんです。
参っちゃいますね。奈緒ちゃんにもフレデリカちゃんにも。

79 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2018/08/12(日) 10:29:44.45 ID:f0hWHOAvo

そういえば気にしてませんでしたけど、ここどこなんでしょう。
ベッドがあって、椅子があって、静かで。
仮眠室とかでしょうか。
あまり馴染みがない部屋っぽいので聞いた方が早そうです。

「聞いて驚け、救護室☆」

救護室。
ぶっ倒れてたんならそうですよね。運ばれるのは救護室ですよね。
倒れる前の記憶がさっぱり抜けているので、やっぱりどこか現実感はありません。
境目があやふやです。
救護室と聞いた途端に右ひじの辺りがじんじん痛み出します。ぶつけたんでしょうね。

「あの、運んでくれてありがとうございます」

「気にしないでいいスよ、誰かが倒れてたらフツーそうしますって」

ほら優しい。

「ところで私どれくらい気を失ってたんですか」

「えーっと、三十分も経ってない、かな」

意外と短かったみたいです。
考えてみれば寝て起きてもそのあいだの時間間隔ってわかりませんもんね。
体を起こそうとするとはぁとちゃんに目で制されます。
扱いは患者ってことですか。
わかりました。このままおとなしくしてますよ。

にしてもはぁとちゃん当たり前みたいな顔して座ってますけど、いつまでも付き合わせるのはなんだか申し訳ありませんね。
見方を変えれば自主練の時間を奪ってしまったようなものですし。
目も覚めたし頭も働き始めましたから、もう大丈夫だと思います。

「はぁとちゃん、もうレッスンルームに戻ってもいいんですよ」

「先輩、はぁとを人でなしにしようなんて人が悪いぞ☆ 仮にも倒れた人を置いてほいほい自主練に行けるわけないでしょうが」

撤回。私の頭はまだ全然機能していないみたいです。ちょっと考えればわかることを。
意識はクリアになっているんですけど、どうも思考回路とうまくリンクしていないようで。
なんというか、からっぽのカバンを抱えて荷運びをしているつもりになっているような、そんな気持ち悪さがあります。
さっきものすごく冴えたような気がしたんですけど、思い違いだったみたいですね。

「無理はダメだし過信もダメ☆ ナナ先輩、寝ていいッスよ。自分ここにいますから」

はぁとちゃんの穏やかな声を聞くとなんだか一気に眠くなってきました。
夢を見られるでしょうか。
さすがにここのベッドは寝心地バツグンというわけにはいきませんが、まあ気にするほどではありません。
目を閉じると意識がさぁっと遠ざかっていきます。
ここは不思議な空間ですね。
346プロそのものが夢といろんなかたちで接続している場所なのに、そのなかで眠るというのもなかなか奇妙なことのように思えます。
考えすぎだと言われれば否定はしませんけど。


80 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2018/08/12(日) 10:30:12.12 ID:f0hWHOAvo



外はしっかりした雨が降っている。
道路に水たまりができて、夜の街明かりが反射するくらいの降り方だ。
予報を聞くとそれなりに長く降るらしい。

スマホの通話履歴を呼び出してフレデリカをコールする。
あたしはあいつに電話をかけるときは先にSNSで確認を取ることにしている。
なんせ昼でも夜でも普通に仕事入ってたりするからな。看板レベルはさすがに違う。
呼び出し音が鳴り始め……、出やがった。

「びっくりした、出るの早すぎじゃねえか?」

『当ったり前川みくにゃんにゃん、だってフレちゃんスマホの前で正座して待ってたからね♪』

調子はよさそうだな。
そうじゃないフレデリカを見たことがないってのもあるけど。
それは抜きにしても本当に楽しそうに話すヤツだ。電話越しなのに表情が浮かんでくる。
つられてあたしも楽しくなってくる。
テキトー発言はこの際無視だろ。別にきちんとした会話でもないわけだし。

「正座はしなくていいわ、ていうかちょっと語呂いいなそれ」

『でしょでしょ? 流行らせようかなって思ってるんだ♪』

「ちゃんと本人に許可とれよー?」

『さっき道端の塀の上にいたからそのときオッケーもらったよ!』

「それ完全にどっかの猫だよな」

『あれ、違ったかな? でもきっと大丈夫だよ』

まあ前川さんなら許してくれるんじゃねえかな。
いろんな人から話は聞くけどマイナス方面の話は出てきたことないし。
それ以前にフレデリカが本気ならどう転んでも止めるのは無理だし、前川さんのほうもそれをわかってる可能性が高そうだ。
まあ、あたしがどうこう言う話じゃないか。

81 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2018/08/12(日) 10:30:56.67 ID:f0hWHOAvo

あたしたちはいつからかこうやって頻度高めに電話をするようになった。
別にこれについて話したい、っていう話題がいつもあるわけじゃないけどな。
今日もそんな感じだ。
もちろん毎日じゃあないけど週に一度ってこともない。そういう生活の一部。
思いつくままにしゃべるし、思いつくままに話をされるのだ。

「そういやさ、前やってたあの作詞ってどうなった?」

『ふっふっふ……、フレちゃんをなめちゃいけませんぜ旦那!』

「あたしいちおう女な?」

『あのね、いま大急ぎで曲つけてくれてるんだって』

「作詞自体は終わってるってことか、でもまたどうして大急ぎなんだろうな」

事務所のトップクラスともなると扱いが変わってくるもんなのかね。
いやたしかにあのフレデリカが詞を書いたってんならそれはあたしも気になる。
それに曲がついてフレデリカが歌うってんならなおさらだ。
そう考えるとこれはある意味ファンサービスと言えるのかもしれない。
こいつのファンは新鮮な驚きみたいなものをより強く求めてるフシがあるような気もするし。
だからこそ作曲を担当する人には頑張ってほしい。条件的にハードル超上がってるっぽいけど。

『スーパーライブでお披露目だから、それに間に合うようにするんだって』

おっと、あたしにとってはホットすぎる単語だぜ。
なぜって、あたしもそれ出るんだよ。
こないだ初めて聞かされたときはプロデューサーさんもなんでもないように話すもんだから聞き逃しそうになったけどな。

「はー、すげえタイミングで発表するもんだな。インパクトはすごそうだけどよ」

『そのまま年明けにアルバム出しちゃうんだってー、買ってね♪』

「宣伝はもっと大多数を相手にやってくれ」

『ノンノン、世間を相手にするならまず奈緒ちゃんから、って或阿呆の一生にも書いてあったよ』

「なんか学校の授業で聞いたことある気がするなそれ。ていうかそうだとしてフレデリカ、お前本とか読むのか……」

『ふふん、実は知性あふれるタイプだからね! 本の名前は友達から聞いただけだけど!』

「そのへん素直なのお前のいいところだよな」

『ワオ、奈緒ちゃんに褒められちゃった♪』

「はいはいいい子いい子」

スーパーライブが年末ってことは、そうだよな、そりゃ作曲は大急ぎなわけだ。
年明けまでにレコーディングまでを仕上げなきゃならないんだもんな。
あたしはまだもらった一曲しかないからそれをより磨いていくわけだけど、それと比べてみると大変さの違いがよくわかる。
新しい曲って前例がないからそれをモノにするまでけっこう時間がかかるんだよな、仮歌ってあくまで音を取るためのものでお手本じゃないから。
カラオケで歌うのとはさすがにちょっと違う。

「あー、曲が出来てないからまだ練習もできないのか」

『そうなのだ! フレちゃん練習の虫だからね、不安になっちゃう! かわいそう!』

「それで、どうなんだ? 曲のタイトルとか聞いてもいいのか?」

『いいよー、えっとね、“スピカを独り占め” っていうの』

「おお、なんか、こう、オシャレ感あるな……、まともだ……」

えへへ、とフレデリカが笑う。
そんな些細なものでさえ表情が鮮やかに浮かんでくる。
どれだけ表現力に富んだ声をしてるんだこいつは。
82 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2018/08/12(日) 10:31:26.59 ID:f0hWHOAvo

雨垂れの音に窓のほうへ顔を向けてみると、すこし雨が強まったらしい。
電話をしているとなぜか細かいところに気がいくようになる。なんでだろうな。

『あ、そういえば奈緒ちゃん、奈緒ちゃんは奈緒ちゃんの動画見た?』

「多い。あと動画ってライブのやつだろ? 見てないよ」

『えー、なんでー』

「あたしがあたしのライブ動画見てもどうしようもないだろ」

『それだけでサバンナの荒野に一輪の花が咲くよ!』

「そうやってウソをつかない」

『でも奈緒ちゃん、再生数とかすごいことになってるよ。フレちゃんも800万回くらい見たし』

「ああ聞こえない聞こえない、知らない知らない」

本当に動画を見てなくたってウワサはいろんなところから入ってくるんだよ。
特番が放送されたあの日から社内の、とくに廊下とかで声をかけられる回数も激増したしな。
ここ二週間くらい当たり前のように見かけたことのない先輩アイドルから応援してもらってあたしはすげえテンパった。
きちんと応対できてたか心配なくらいだ。
そんな状態だったから動画の再生数だの評判だのは逐一聞こえてきてたんだ。

それに折悪しくというか、スーパーライブ出演も決まったっていうのがあって。
外から見れば抜擢かもしれないけど、あたしから見りゃ意味不明な決定。
気が付けば特設サイトだのポスターだのに名前が載ってた。
とんとん拍子っつってもなぁ、実際にステップアップした感触が自分になければ宙に浮いてるのと変わらない。
落ちてるのか飛んでるのかの違いもわからないんだ。
応援が集まってるのはその部分なんだよ。あたしじゃないんだよ。
だから応援してもらってもテンパるしかなくなる。
前にも思ったことだけど、あたしじゃないあたしをまだ飼い慣らせていないんだ。
いずれそのもう片方のあたしに喰われちまうかもなあ、ってのはさすがに漫画の読み過ぎか。
それだけにこいつとのこういう時間は本当に救いになってる。
絶対に言ってやらないけどな。

83 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2018/08/12(日) 10:32:19.48 ID:f0hWHOAvo

「それじゃあ奈緒、見ておいで。俺はここで待ってるから」

「ん? プロデューサーさんは中入らないのか?」

「あー、ほら、ホール内特有の圧みたいなのあるだろ、あれ苦手なんだよ」

まあ、そんなもんか。
あたしがとくに嫌いじゃないってだけで、この違った空気がダメな人はけっこういるのかもしれない。
というかプロデューサーみたいな立場の人でホールの中が苦手って大丈夫なのか。
さすがに我慢がきかないってほどじゃないんだろうけどさ。

専用の通路、というよりは搬入口とかのほうが近い廊下を歩いていく。
もっと、こう、こつこつと靴音が響くような想像をしてたけど、ふつうに作業中の人たちが行き来してるせいでそんなに静かにはならない。
許可をもらっているとはいえ、仕事中の人が往復しまくってる忙しい通路を手ぶらで歩くのはなんだか落ち着かないなあ。
前にちらっとだけ設営の手伝いをしたからだろうけどさ。
ちなみに忙しいのは明後日に人気バンドのライブを控えているからなのだそうだ。
立つためのステージの仮組みは終わってて、あたしはこれからそこに上る。
プロデューサーさんに言われたからっていうのもあるけど、あたし自身そこに上っておきたかったっていうのも本当のところで。
なんたってこの前のステージのことはなんにも覚えてないから。
一度ステージから見える景色というものを確かめておかないと、と思ってたんだ。

本番では取り外される鉄の板と鉄パイプみたいなのだけでできた簡素な階段。
ここ以外の場所では人が走り回って怒鳴り合ってる。
場違いだよなあ、あたし。
ゴム底の靴が薄い鉄の板を踏んで、ほとんど音にさえならない振動があたしだけに届く。
そんな些細なことが気になるくらいに妙に集中が高まる。

広い。
アホみたいな感想しか出てこなかったことに気付いてため息をこぼす。
きっとバンドの人たちが必要とするスペースはあたしたちのステージよりも狭いんだろうけど、それでも広い。
あの日あたしはこんな場所に立っていたんだ。
その事実が信じられなくて、何度か仮組みのステージを強く踏んで確かめてみる。
別に何も確かめられなかったのは気にしちゃいけない。

足元から床に沿って視線を動かしていってちょっと驚いた。
階段を上がったのだから当然だけど、それでも思っていたより高い位置にあたしは立っている。
ケガなんかとは程遠いけど、飛び降りろとなったらちょっと躊躇する。
小学校の卒業式で上がった体育館のステージに近いかもしれない。
……なんというか、自分の小市民的発想に呆れてしまう。
まあ、フレデリカなり他のアイドルはこんなところでパフォーマンスをしてたんだな。

そういえばよく客席への煽りで「いちばん後ろまで見えてる」なんて聞くけど、本当に見えるんだろうか。
確認するチャンスは今くらいしかなさそうだ。どうせ本番はそんな余裕ないだろうし。
階段下とステージから視線を一気に上げると、視界が急に広がる。
くらっとした。

どうして今の今まで意識がいかなかったのかと思うほどに見渡せる空間がそこにはあった。
あたしより頭が低い位置にある一階席と、庇みたいになっていてステージから距離はあるけど全体を見ることができそうな二階席。
ホール内は作業中で明るいからその細部まで目が届く。
後ろのほうの座席もたしかに見えるには見えるけどかなり小さい。
いったい何人収容できるんだ? 数える気さえ起きてこない。
わかっているのはスーパーライブでは見渡す限りの座席が人で埋まるということだ。

あたしここにひとりで立つんだよな。
つまりこのむちゃくちゃな数の人の目が、全部あたしに集まるってことだよな。
心臓が強く跳ねる。
こんだけの数の席のすべてに人がいて、それが全部。
信じられない、と言ったところで始まらない。
とりあえずイメージしてみよう。満員御礼ってやつだ。

84 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2018/08/12(日) 10:33:09.48 ID:f0hWHOAvo

さっきよりもずっと、心臓が強く動いている。
それに合わせて胸がかたちを変えてるんじゃないかと思うくらいに。
呼吸が浅くなる。うまく息が吸えない。
頭痛がする。脳が荒縄で締められてるみたいだ。
汗が噴き出す。イヤな夢を見た朝のように。
どうして?
怖いからに決まってる。
こんな囲まれるようにして人から見られるなんて怖くないわけがないじゃないか。

デビューライブの記憶が残ってない理由が今ならわかる。
自衛だったんだ。あたしがその重みに潰されないように、あたし自身を守ったんだ。

たしかにアイドルという存在に憧れたことはあったかもしれない。
ただ現実としてその立場に立って、そのまま受け入れられるかってのは別の話だ。
フレデリカや他のアイドルたちはどうだか知らない。でもあたしは怖いのだ。
万単位の人間の視線を集めるんだぞ。まともじゃない。
心臓が痛い。
これを楽しめるのはそういう精神構造をしてるか図太い神経をしてるかのどっちかだ。
あたしはどっちでもない。
いや待てよ、アイドルって全員が本当にそうなのか?
脚が震え始める。
この先は意志がないと酷だ、と言った麗さんの優しい顔が浮かんでくる。
そういうことだったんだ。
あたしが持ってないのは、それだ。

こんなの誰にだってわかる。これは決定的な問いだ。
お前にはこの恐怖と戦えるだけの強い意志があるのか。
ないんだよ、あたしには。
流されるようにしてここまで来たんだから。
ずっとずっと絞るべきポイントを間違えてたんだ。
346のすべてはアイドルがアイドルとして生き残っていくために存在していたのに、あたしだけがそこを目がけてなかったんだ。
レッスンをこなすことであたしは何かが変わると思い続けていたんだから。
学ばなきゃいけなかったことをひとつも学んでない。
時間をかけなきゃ生まれるはずのないものを、強い意志をそんなにすぐに持てるわけもない。
無理だ。あたしはこのステージには上がれない。
85 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2018/08/12(日) 10:33:38.50 ID:f0hWHOAvo

これまであたしに向けられてきた言葉がとつぜん頭の中を巡って、声がこぼれそうになる。

『奈緒ちゃん、頑張ってくださいね!』

『ガツンと決めてこいよ☆』

『な、奈緒さんがすごすぎて遠くへ行ってしまいます……、応援はしますけど……』

『奈緒サンすっごーい! 頑張ってー!』

B-02でも。廊下でも。
座って。立ち止まって。すれ違いざまに。

『奈緒、期待してるよ』

『みんな奈緒ちゃんのステージを楽しみにしてると思います!』

『今度お祝いにクレープとか食べにいこ! ね♪』

『奈緒さん、すごいです……!』

『楽しんできてね、神谷さん』

『奈緒ちゃん、いっしょに頑張りましょう』

『ナオ、とても楽しみに、しています』

『奈緒ちゃんなら変なおっちゃんでもメロメロですね、うふふ♪』

『よくやるよね、奈緒ちゃんも。休んでないんじゃないの?』

『そうか神谷、うむ、できる限りのサポートはしよう』

こんなもの背負えるか。
こんなにも。
絶対にダメだ。
けれどポスターにも特設サイトにもあたしの名前は入ってしまっている。
目が眩む。
怖い。

どうすればいいんだよ。
あたしはここに立たなきゃいけないのか?
本当に立てるのか?
ぶち壊してしまうよ。
歌えないどころかステージに上がることさえできないんじゃないのか?

あたしはきっと、はじめからアイドルじゃなかった。
かと言って何も知らないメガネの地味子かと言えばそうでもなくなった。
ならあたしはいったい誰だ。
どちらでもないあたしの居場所はどこにある。
誰に聞けばいい。

作業スタッフの人たちがちらちらと心配そうにあたしを見る。
仮組みのステージの上で立ち尽くしているやつがいるなら無理もないよな。
大丈夫だよ、あたしはもうここを出て行くから。
心配しなくていい。歩けるから。

プロデューサーさんに送ってもらったあと、あたしはスマホのSNSアプリを起動した。

86 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2018/08/12(日) 10:34:36.90 ID:f0hWHOAvo



もうめっきり寒くなってきました。
秋がなかったねなんて毎年のように言いますが、今年も例に漏れません。
コートはもう必需品です。
あったかい飲み物がより美味しく感じます。

コーヒーを買いにコンビニへ行けば雑誌の棚に奈緒ちゃんの姿が目立ちます。
ハタチ前後を対象にしたファッション誌の表紙を飾っています。
なんというか、ほんとうにかわいいんです。
気取ったところがなくて親しみやすくて。すごい武器です。
コーヒーだけ買いに来たのに気付けば奈緒ちゃんの雑誌もレジを通してしまいます。

あのデビュー以来、奈緒ちゃんはライブを一度もやっていません。
テレビにもラジオにも出ません。動いてる奈緒ちゃんを見たくなったらあのライブ動画だけです。
いま奈緒ちゃんの仕事はファッション誌の撮影だけですね。
プロデューサーさんがそう決めたと私は聞いています。
ファッション誌一本とはいってもけっこう厳選しているそうで、相当な数のオファーを断ってるみたいです。

焦らす作戦。そんなところでしょう。
スーパーライブに出ることだけ発表しておいて、露出は写真だけ。
いかにもプロデューサーさんの考えそうなことです。
それに動画は見られるので、ここからどう変化したのかっていう成長の期待もしてしまいます。
もちろん奈緒ちゃんの惹きつける力が前提の荒技ですけどね。
どんな進化を遂げているのかは同じ部署の私でもやっぱり気になってしまうところです。
相変わらずボーカルレッスンは秘密にされっぱなしなので、余計に。

とはいえ奈緒ちゃん自身には秘密要素なんてありません。
B-02にはよく顔を出しますし、いつも通り仲良くお話もします。
ちょびっと落ち着いたというか控えめになったような気もしますが、高校生ですしいろんな経験を積んだ成果ってことなんでしょう。
ときおり上の空になることだってありますよ。

奈緒ちゃんがボーカルレッスンに向かって、私は部屋で一人で順番待ちです。
みんなの予定はホワイトボードにざっと書いてありますけど、そこはこの業界、予定通りにいかないことは当たり前のようにあります。
お仕事だととくにそうですね、早くなったり遅くなったり。
ちなみに予定ではフレデリカちゃんがそろそろ戻ってくる時間です。
個人的には一人で待つのは退屈なので誰かに来てほしいところです。
暖房があったかくって寝ちゃいそうになるんですよね。

87 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2018/08/12(日) 10:35:13.01 ID:f0hWHOAvo

「おはよー! ボンジュールー! あれ、どっちが正解だっけ?」

「意味はどっちも同じですよ」

「ワオ、菜々ちゃんすっごーい! ウサミン星ではフランス語が流行ってるんだね♪」

お見事、ぴったり。
ドアを勢いよく開けて入ってきたフレデリカちゃんはいつも通りに元気です。
とてもお仕事の後とは思えません。
いつもの鼻歌と一緒に空いてるソファへやって来ます。
荷物を端へ置いてフレデリカちゃんは背もたれへだらり。
やっぱり疲れはあるんですね。

でも最近のフレデリカちゃんは、こうなった後でよくこのB-02から出て行ってしまいます。
荷物は置いたままだったり持って行ったりと時によりますけど、何かあるんでしょうか。
アリーナのことを思い出すとなにか隠し事がありそうな気もしてしまいます。

「あの、フレデリカちゃん」

「どーしたの?」

「最近お仕事は大変ですか?」

「んー、タイとヘンのどっちかで言えば、タイのほうだよ!」

何を言ってるのか誰か訳してください。
わたしこういうノリにノータイムでついていけるほど人間ができてないんです。

「新曲のレコーディングはあるけどお仕事は普段と変わらないって感じかな〜」

前のくだり必要でしたか、それ。

「じゃあ近ごろよく部屋から出て行くのはやっぱりレッスンとかですか」

「んーん、違うよ」

「あれ、ちょっと意外ですね。ここにいたら奈緒ちゃんとも遊べるのに」

ほんとうに意外です。
いっしょにいる時はあれだけ楽しそうにちょっかいをかけてるのに。
奈緒ちゃんもなんだかんだまんざらでもなさそうな感じですし。

「むしろアタシは奈緒ちゃんのためにこの身を削って……、よよよ……」

「ちょっとよくわかりません」

「あのね、奈緒ちゃんにお願いをされたの。だから何よりも優先することにしたの」

「奈緒ちゃんのお願い、ですか」

「うん、一緒に駆け落ちするんだ♪」

あ、これ冗談ですね。
どこからでしょう。お仕事が普段と変わらない辺りからでしょうか。
もう奈緒ちゃんのお願いがあったかどうかさえかなりあやしいところです。
じゃあなんでウソをついたかとなると。
スーパーライブでの新曲発表を考えたら隠れてレッスンとかはありそうですよね。

「だからね、いろんな大事なことをみんなに聞いて回ってるの」

「駆け落ちに大事なことですか〜?」

半ばからかうような調子で問いかけます。
なかなかこんなチャンスはありませんからね。
私だってやる時はやるんです。

フレデリカちゃんは思い出すように頬に人差し指を当てて、目線だけを上に向けます。
それだけで写真集の表紙を飾れそうに決まっています。
自然な動作だけでこれだけ映える。あらためてむちゃくちゃな子ですよね。

「えっと、すごくわかりにくい銀行口座の変え方とか移動の方法とか」

「思ってたより本気ですね!?」

「うん。ちゃんとしたやり方があるんだって」

よくもまあこれだけすいすいと言葉が出てくるものです。
テキトーなのにトークが面白いアイドルの名は伊達じゃありません。

ふふ、といたずらっぽく笑うフレデリカちゃんの顔はなぜかすっきりして見えます。
いつもは楽しいを中心とした感情が押せ押せで迸っているのに、今の彼女のそれは、その場できちんと収まっているような感じです。
こう表現するのも妙なものですけど、フレデリカちゃんが初めて見せてくれた素の表情のように思えてしまいます。
88 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2018/08/12(日) 10:35:40.76 ID:f0hWHOAvo

あ、完成しちゃったんだ。
突然私の脳裏にそんな言葉が浮かびます。
これまで何度も見ないふりをしてきた自分の直感が、そう言っています。
フレデリカちゃんがどこまで冗談混じりのウソをついているかは知りません。
そんなことよりも私は理解できてしまった事実に驚愕します。
芽吹いたんだ。ひとつ花をつけたんだ。
すでに誰にもどうにもできない魅力を備えたこの少女が、もうひとつ殻を破ってしまう。

ぞっとします。
同じアイドルとしても、同じ女としても。
フレデリカちゃんと話している内容自体はいつものものと変わりないのに、私だけがひとり温度差を感じています。

いったい何がきっかけになったんでしょうか。
……考える必要なんてありませんよね。

89 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2018/08/12(日) 10:36:11.13 ID:f0hWHOAvo



小さな窓の外に空の底が白く広がっている。
あたしはそこから目を逸らして、視線だけをただ前に向ける。
耳鳴りは治まったけど気分の悪さはしばらく抜けていない。
浅く息をつく。
これがため息にカウントされるとしたら、もうあたしは数えきれないほどため息をついたことになる。

「どうしたの、奈緒ちゃん」

「ん、大丈夫かなってさ」

「心配ないよ、大丈夫だよ、奈緒ちゃんとアタシが一緒だもん、全部うまく行くよ」

「そうじゃないよ、わかってるだろ」

「へーきだって、みんなスゴい子だからオッケー♪ 今はちょっと混乱してるかもしれないけど」

「……大騒ぎだろうな」

「それでも奈緒ちゃんが無理するより全然いい、ってアタシは思うな」

「にしてもよ、何もお前まで」

「んもう、忘れちゃったの?」

「へ?」

「前に言ったよ、もしうまく行かなかったら責任取るよって」

「たしかに言われた覚えはあるけどそんな律儀に守んなくてもさ、まだあるんじゃないのか? フレデリカが何も捨てなくて済むようなやり方が」

「ノンノン、違うよ奈緒ちゃん。そう決めたのはアタシだから。だから気になんてしなくていいんだよ」

「……ありがと」

90 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2018/08/12(日) 10:36:44.52 ID:f0hWHOAvo



エアメールが届きました。
差出人の名前はありません。
満点の夜空に一際おおきく輝く星がひとつ目立つ絵葉書です。
ああ、なるほど。
もう物にあたる気になんかなれなくて、ちゃぶ台の上に無造作に放ります。

理解ができなくても。
悔しくても。
怒りたくても。
そしてそのすべてが叶わなくても。

それでも私は、この世界で生きていこうと思います。



.
91 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2018/08/12(日) 10:37:21.03 ID:f0hWHOAvo
おしまい
読んでくださった方はありがとうございました
92 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2018/08/12(日) 13:36:52.34 ID:WmwgKHeao
アルファヴィルって何だっけ、懐かしい響きだな、なんて思い出すのにしばらくかかってしまった
93 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2018/08/12(日) 17:08:29.81 ID:OVi8DjrOO
終盤で一気にバッドエンドに切り崩していくの精神衛生によくない
94 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2018/08/12(日) 17:28:00.64 ID:JOEMoXPdO
奈緒って眼鏡かけてる設定あったっけ?
95 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2018/08/13(月) 01:03:27.94 ID:79NyQYyD0
誰か1行で説明してくれ
96 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2018/08/14(火) 03:17:45.30 ID:1Uxf9Gek0
結構好きなんだけどなんて感想書いたらいいかわからない
97 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2018/08/17(金) 19:51:51.60 ID:TDWueX7Io
一週間かけてゆっくり読んだ
すごく惹き込まれた、よかった
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