傘を忘れた金曜日には.

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409 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/12/19(水) 23:32:57.12 ID:nK2TqkE+o

 店内に戻ってテーブルにつき、ブレンドを口に含む。
 
 怜はなんだかけだるげな様子で俺のことを見た。

「どうした?」

「いや、なんだか不思議な感じがしてね」

「不思議?」

「ん。そういえば、隼、ぼくに隠していたことがあるだろう」

「何の話?」

「瀬尾さんのこと。ほら、ちどりにそっくりだって」

「ああ……」

 俺は少しだけ考えて、頷いた。

「詳しい話を聞いてなかった。おととい、ここに誰が来たって?」

「大野くんと、市川さん。それから、ましろ先輩って人」

「……不思議な並びだな」

 真中は来なかったのか、と俺は思った。

「隼の様子が変だっていうのと、瀬尾さんがいなくなったっていうので、話し合いをしてたんだって」

「話し合い」

「それで、スワンプマンの話が出たんだそうだ」

「……それ、ちどりも聞いたのか?」

 怜は首を横に振った。

410 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/12/19(水) 23:33:43.49 ID:nK2TqkE+o

「ぼくが聞いた」

「そもそも、怜はなんでこっちに来てた?」

「違うよ。ちどりから連絡があったんだ。隼の様子がおかしいっていうので、何か知ってる人に心当たりはないかって聞かれたらしい。
 それでぼくに連絡が来て、まあ、ぼくの方も暇だったからこっちに来た。そうしたらそういう話になったってわけだ」

「……なるほどな」

 ……スワンプマン。
 たしかに、ましろ先輩に電話でその単語を出した記憶はある。
 それでも、なんというか、不思議な気がする。

 それで、ちどりと瀬尾のことにまで辿り着いたんだろうか? 経過が見えないから魔法みたいな気分にもなる。

「……怜は、どう思う?」

「なにが?」

「スワンプマンのことだよ」

「ぼくは……そうだな」

 彼女はちらりと、カウンターのむこうから疑わしそうな視線をこちらにむけているちどりに視線をやる。

「ぼくにはよくわからない、というのが本音かもしれないね」

「……」

「そういうことがあるのかもしれないし、ないのかもしれない。本当なのかもしれないし、嘘なのかもしれない。
 でも、ぼくが思うことっていうのはそんなに多くなくて、結局問題なのは……そうだな。
 たとえば、隼やちどりがなにかに悩んでいたとして、ぼくがそれに気付けなかったとしたら、それはぼくにとっては悲しいことだよな、ってことくらい」

「……」

「ぼくはきみたちを友達だと思っているからね」

411 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/12/19(水) 23:34:33.15 ID:nK2TqkE+o

「友達、ね」

「不満?」

「いや……」

 どう言ったものかな、と悩む。
 不思議なものだ。

 あんなにもざわついていた葉擦れの音が聞こえないというだけで、気持ちまですっきりしたような気がする。

「なあ怜、俺はおまえに嫉妬してたんだよ」

 怜は、唖然とした顔をする。

「……嫉妬? ぼくに? 隼が?」

 それから笑った。

「なんで隼がぼくに嫉妬なんてするの?」

「なんでもできたから」

「……」

「なんでも俺より上手くできた。それが羨ましかったんだ」

「……そうかな」

 どこか寂しそうに、怜は笑う。俺はそんな彼女の表情を、新鮮な気持ちで眺めている。

「ぼくは隼が羨ましかったよ」

「……俺を?」

「隼の周りにはいつも人がいたから。それに……ちどりだって」

「ちどり?」

「うん。ぼくらは、よく三人で遊んだけど、ちどりと隼の間には、ぼくが立ち入れない壁みたいなものがあった気がするよ」

「……それは逆じゃないか? 俺は、怜とちどりをそんなふうに思ってた」

「……ふむ?」

「ふたりといると、自分が混ぜてもらってるみたいな気分になったよ」

412 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/12/19(水) 23:35:09.03 ID:nK2TqkE+o

 怜は何か思いついたような顔をして、ちどりに声をかけた。
 ちどりはとたとたと歩み寄ってきて、「なんですか?」と訊ねてくる。

「ね、ちどり。ぼくと隼とちどりのなかで、いちばん仲の良い二人組って、どの組み合わせだと思う?」

 ちどりは柔らかく首をかしげて、本当に不思議そうな顔をした。

「隼ちゃんと怜ちゃんじゃないんですか?」

「……ふむ」と怜が言う。

「なるほど」と俺も思った。

「違うんですか?」

「逆に、どうしてそう思う?」

「だって、わたしにはわからない難しい話とかしてましたし、ふたりでいろいろ調べ物したりしてましたし。
 こないだだって、コンビニにアイスを買いに行って、しばらく戻ってきませんでしたし」

「……」

「なるほどね」と怜は言う。

 なるほどな、と俺ももう一度思った。

「ええと、それで、この質問には何の意味が?」

「いや」と怜が言った。

「やっぱりぼくらはずいぶんと仲がいいみたいだね」

 そう言って、怜は俺を見て困り顔で笑った。
 俺も思わず笑ってしまった。


413 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/12/19(水) 23:35:40.87 ID:nK2TqkE+o




 翌日の午前中、俺はひとり街へと出かけた。

 本屋にむかい、確かめるように適当な本を手にとってみる。そしてページをめくってみる。
 そうしないといけなかった。

 手にとったのは『伝奇集』だった。

『長大な作品を物するのは、数分間で語りつくせる着想を五百ページにわたって展開するのは、労のみ多くて功少ない狂気の沙汰である。
 よりましな方法は、それらの書物がすでに存在すると見せかけて、要約や注釈を差しだすことだ。』

『八岐の園』のプロローグに、ボルヘスはそう書いている。

 内容は問題ではない。

“読める”のだ。
 頭に入ってくる。

 これは一時的な状態なのかもしれない。

 けれど今は……読める。

 なるほどな、と俺は思う。



414 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/12/19(水) 23:36:09.47 ID:nK2TqkE+o




 本屋で吉野弘の詩集を買い、近くの公園へとわけもなく歩いた。
 それはとてもいい天気だった。もう、梅雨は終わってしまったのだろうか。

 梅雨が終われば夏が来る。

 目が潰れるくらいに眩しい季節が来る。

 公園の入り口の自動販売機でお茶を買って、歩きながら飲んだ。
 それから広場の、木陰のベンチに腰をおろし、そこで本を開く。

 空からは木漏れ日が降ってくる。

 もう悲鳴のようなあのざわめきは聞こえない。

 ここにはもう“ここ”しかない。

 俺はぺらぺらとページをめくる。

 順番にではなく、ひっかかりを求めるみたいに、ぱらぱらと。


415 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/12/19(水) 23:36:36.92 ID:nK2TqkE+o





「海は 空に溶け入りたいという望みを
 水平線で かろうじて自制していた。
 神への思慕を打ち切った恥多い人の
 心の水位もこれに似ている。
 なにげなく見れば、
 空と海とは連続した一枚の青い紙で、
 水平線は紙の折り目にすぎないのだが。」

416 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/12/19(水) 23:37:09.13 ID:nK2TqkE+o





 詩は、よくわからない。
 正しい読み方がわからない。でも好きだった。

 なんとなく読むのが。
 
 印象派の絵を眺めるような、そんな漠然とした居心地のよさが。

 たとえばモネの描く緑や水面が、
 ピサロの描く雪景色が、
 ルノワールの描く女性が、
 むずかしいことなんてなにひとつわからないのに、そのなかに行ってみたいと思うくらいに。 

 本当に、わからないのに。

 それでいいんだろうか
 それでいいのかもしれない。

 それさえも間違いかもしれないけれど……。

417 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/12/19(水) 23:37:35.90 ID:nK2TqkE+o



 ふと読んでいた本に影が落ち、顔をあげるとそこに彼女が立っていた。

「……やあ」と俺は言う。

「うん」と彼女は言う。

「買い物?」と俺は聞く。

「さんぽ」と彼女は答えた。

「となり、いいですか?」

「へんな敬語」

「へんなひとに言われたくない」

 そう言って、彼女はなにかをこらえるみたいな顔をした。

「座れよ」と俺は言った。

「少し話がしたかったところなんだ」

「……」

 真中は、春までのような、感情の読めない起伏の少ない表情のまま頷いた。

418 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/12/19(水) 23:38:18.74 ID:nK2TqkE+o
つづく
419 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2018/12/20(木) 00:27:03.39 ID:P2iiLMiE0
おつです
420 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2018/12/20(木) 00:46:40.57 ID:v729SFtZ0
おつです
隼とちどりと怜の関係いいなあ
421 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2018/12/20(木) 07:28:45.00 ID:Ijo+PVWD0
おつです
422 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2018/12/28(金) 02:12:53.27 ID:oWshdQT+O
今年はもう打ち止めかなぁ、年末だし仕方ないか
待ってます
423 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/01/02(水) 01:49:41.77 ID:1oDoDyiEo

「……話したかったの?」と真中は言った。
 
 ベンチに隣り合って座っているのに、これまででいちばん、彼女との間に距離があるように感じる。
 どうしてだろう。それもよくわからない。

「ああ」と俺は頷いた。

「せんぱいがわたしと?」

「そう」

 真中は、自然とこぼれたというような柔らかな笑みを浮かべた。

「そっか」

 俺たちが座っているベンチに木漏れ日がさしている。
 子どものはしゃぐ声が聞こえる。そんな風景の一部に、俺達はなっている。

 木の葉が風にゆすられて、爽やかな葉音を立てた。
 木漏れ日が形を変える。

「……少し、考えてたの」と真中は言った。

「なにを?」

「これまでのこと」

424 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/01/02(水) 01:50:12.70 ID:1oDoDyiEo

 彼女は視線を上の方へとさまよわせた。何かを見ようとしたというよりは、ただなんとなくそうしてしまったみたいに。
 その姿が不思議と頼りなく、消え入りそうに見える。

「ね、せんぱい」

 と、彼女は不意に、俺の方を向いて、口を開く。

「あのね、ましろ先輩に会ったよ」

「……うん」

「知ってた?」

「いや……」

 どこか不自然なやりとりだと思う。
 どうしてなのかはわからないけれど、自分が真中の前で今までどんなふうに振る舞っていたのか、わからなくなってしまった。

「綺麗な人だった」

「……そうか」

「せんぱいだって、そうわかってるくせに」

「……」

 べつに、そんなこと、あえて考えちゃいない。
 今までずっとそうだった。

「周りに美人が多いから、麻痺しちゃってるの?」

「自分のこと美人とか言うか?」

「……わたしじゃなくて。幼馴染の人とか」

「あ、ああ。そっちか」

「……あの。せんぱい、わたしのこと美人だと思ってるの?」

「……」

 返事はしないでおくことにした。

425 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/01/02(水) 01:51:11.05 ID:1oDoDyiEo

 毒気を抜かれたみたいな複雑そうな顔で、真中は自分の喉のあたりを指先で撫でた。

「……ま、いいや」

 そう言って、彼女はもう一度俺と目を合わせた。

「それでね、考えてたの」

「……なにを」

 さっきから、表面をなぞるみたいにそう言うけれど、内容についてはいつまでも踏み込もうとしない。
 よほど言いにくいことなのか、それとも自分でもうまく言葉にできないのか。

 やがて、覚悟を決めたみたいに息をすっと吸い込んだ。
 それは本当にさりげなくて、きっと他の人には、そんな変化だってわからないのかもしれない。

 ひょっとしたら、でもそんなふうに見えただけなのかもしれない。
 いくら長い時間一緒に過ごしたからと言って、そうやって何かを感じ取れるほど、俺は真中のことを知っているだろうか。

「わたし、せんぱいにつきまとうの、もう、やめようと思うんだ」

 そして、やっぱり俺は、真中のことなんて、なんにも分かっちゃいなかった。

426 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/01/02(水) 01:51:36.78 ID:1oDoDyiEo

「……つきまとう、って」

「うん。……ほら、せんぱいが言ってたとおり、あの嘘は、もう意味がないものだし」

 そうだ。俺は言った。散々、何度も言ってきた。
 付き合ってるふりなんてもう必要ない。

「でも、もうあれは……」

「そうだね。あれはもう、関係ないけど、でも、なんだかね、わかっちゃったんだ」

「なにが」

「なにが、とか、なにを、とか、そればっかり」

「主語がなかったら、わからない」

「……ん、それもそう」

 そう言ってるのに、真中の言葉は途切れ途切れで要領を得ない。
 ただ落ち着かない気持ちだけが高ぶっていく。

427 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/01/02(水) 01:52:02.69 ID:1oDoDyiEo


「……でも、だって、せんぱいは、わたしを好きにならないわけだし」

「……」

「勘違いしないでね、気を引きたいわけじゃなくて。うん、なんていったらいいか、わかんないんだけど……」

 言葉を探るみたいに、口を動かす真中。
 でもそれは、今何かを考えているというより、自分のなかで決まっている言葉を、言語化しようともがいているみたいだった。 
 それさえも、そう見えるだけかもしれない。

「考えちゃったんだ。わたしはせんぱいのことを好きだと思うし、好きだって何回も言ってたけど、本当にそうなのかな」

「……」

「せんぱいだって、そう思ってたんじゃない?」

 否定は、できない。俺は、ずっとそう疑っていた。
 
「考えてみたら、不思議だよね。せんぱい、わたしたちの関係がはじまったとき、わたしがなんて言ったか、覚えてる?」

「……ああ」

「せんぱいは、わたしのことを好きにならない。"だから"、わたしは先輩に、付き合ってるふりをしてほしいって頼んだんだよね」

「……」

 あのとき真中は、自分が周囲から向けられる好意の渦に苦しめられていた。
 だからこそ、"自分を好きにならない相手"の存在が心地よかった。

 そして実際、俺は決して真中を好きにならなかった。少なくとも、好きになろうとしなかった。

428 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/01/02(水) 01:52:30.96 ID:1oDoDyiEo


「考えてみたら、わたしはせんぱいのことを好きだったのかな?」

「……」

「ずっと考えてたの。わたしは、せんぱいのことを好きになれるほど、せんぱいのことを知ってたのかな、って」

「……なんだよそれ」

「……うん。わかりにくいかも」

 そう言って真中は顔を俯ける。真中が何かを考えているのか、それとも考えていないのかすら、今はわからない。

「せんぱいがわたしを好きにならないからこそ、わたしはせんぱいと一緒にいられた。
 せんぱいは、わたしがせんぱいに何も求めないからこそ、一緒にいてくれた。結局、わたしたちの関係って、そういうものだよね」

「……」

「だからわたしはせんぱいに深く踏み込まなかったし、せんぱいもわたしに踏み入らなかった。
 そういう関係で好きとか、好きじゃないとか、なんだか嘘くさいなって思ったら、もしかしてって思うことがあったの」

「……なんだよ、それは」

「つまりね」と真中はことさらなんでもないような調子で言う。

「わたしは、単に、"近くにいるのにわたしを好きにならない相手"というのが新鮮だっただけなんじゃないかって」

 そうだ。俺もそう思っていた。
 そう思っていたのに、胸の内側がやけに重たくなるのはどうしてだ?

「つまりわたしは……せんぱいのことなんて、ちっとも見てなくて、単に、自分のことを考えてただけなんじゃないか、って」

 そういう彼女の表情でさえ、今の俺にはよくわからない。
 何の表情もないように見えてしまう。



429 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/01/02(水) 01:54:15.78 ID:1oDoDyiEo

「だからね、せんぱい、終わりにしようよ」と真中は言う。

「嘘も、演技も、偽りも、もう全部おしまいにして、本当の場所に帰ろう。
 だってもう、せんぱいは……ひとりじゃない。わたしも、今はもう、たぶん、平気だと思うから。
 そもそもが嘘から始まったことなんだから、あれは嘘だったんだって、そういうことにしよう?」

「……真中」

「青葉先輩は帰ってきたんでしょう? だったらもう、ちょうどいいタイミングだと思うの」

「どうして、瀬尾がそこで出てくるんだよ」

「だって、せんぱいは、青葉先輩のことが好きでしょう?」

 思わず、言葉を失った。

「わたしには、そう見えたけど」

「……」

 ぐつぐつと、煮えたぎるように感情が胸の内側で熱を持つ。
 それなのに、今はそれがうまく言葉になってくれない。

 これはなんだろう。
 唇が何かを言おうとして震えるのに、吐き出す息は音にさえならない。

 これは、歯痒さか、それとも、悔しさか?

430 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/01/02(水) 01:57:43.18 ID:1oDoDyiEo

「瀬尾のことは、いい。関係ない」

「……」

「ひとつ、聞かせろ。真中は、それでいいのか」

 彼女は、なんでもないことのように、不思議そうに首を傾げた。

「だって、わたしが言い出してるんだよ?」

「……そうか」

「だから、普通の、ただの先輩後輩になろうよ。中学が一緒で、部活が一緒で、顔見知りで……ほんの少しあれこれあった、それだけの関係」

「……なんだよ、それ」

「だめかな?」

 そんなふうに、当たり前みたいに笑われて、なんでもないみたいに言われて、いったい俺に、どんな返事ができるというんだろう。

 どうしてだとか、そんなことを言える筋合いですらない。
 いったい、具体的に何が変わるのかさえ、わからない。

 それなのになにか、自分はやっぱりどこかで間違えたんだと、
 あるいは、間違い続けていたんだと、そう言われたような気がした。

431 : ◆1t9LRTPWKRYF [saga]:2019/01/02(水) 01:59:06.02 ID:1oDoDyiEo
つづく
432 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2019/01/02(水) 02:37:52.14 ID:JAEubWDdo
おつおつ
433 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2019/01/02(水) 22:35:06.21 ID:SXaIGIZZ0
おつです
434 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/01/03(木) 23:49:43.06 ID:JsmTQrnOo




「ごしんぱいおかけしました」

 と瀬尾が言った。

 翌週の月曜、文芸部の部室には部員全員と、ちせがいた。

「まったくだ」と大野がいい、「本当に帰ってきたんだね」と市川が言う。
 
 そんなやりとりを聞きながら、俺はぼんやりとあの絵を眺める。

 空と海とグランドピアノは、変わらずにそこにある。
 みんな、もうそれに注意を払っていない。

 俺は諦めて、視線を絵から外す。
 ふと、真中と目が合ったのに、すぐに逸らされてしまう。

 いや、俺が逸らしたのが先だったかもしれない。

 少し考えてから、どちらでもいいか、と思った。

 俺はひとり立ち上がり、荷物を持った。

「三枝くん、帰るの?」

「……あ、ああ」

 瀬尾に呼び止められて、思わず戸惑った。
 どうしてだろう。べつに変なところなんてないのに。
 呼び方のせいだろうか。

435 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/01/03(木) 23:50:15.18 ID:JsmTQrnOo

「バイト?」

「そう」

「そっか。あ、そうだ。わたしもバイト先に顔出さないと……」

 そう言って、彼女もまた立ち上がった。
 慌てて大野が口を挟む。

「もう行くのか。詳しい話、全然聞いてないんだけど」

「んー。ごめん、また今度ね」

「……ま、いいよ。とりあえず、ほんとに無事みたいだし」

 それから大野は、ちらりと俺の方を見た。

「……なに?」

「いや……慌ただしいと思ってな」

「そうかな」

「ああ」

 それ以上大野は何も言わなかった。

「じゃあ、悪いんだけど、今日のところはまた明日ね」

 瀬尾のそんな言葉を横に聞きながら、俺も部室をあとにした。

436 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/01/03(木) 23:50:49.40 ID:JsmTQrnOo



「なんか、変だね」

 部室を出て少し歩いたところで、瀬尾にそう声をかけられた。

「なにが?」

「三枝くん。なにかあった?」

「……どうかな」

「それに、みんなちょっと変」

「いろいろあったんだよ」

「ふうん?」

「原因のひとつがピンとこない顔をするな」

 そう言って頭を軽く叩いてやると、「いたっ」と瀬尾は声をあげた。

「女の子をたたくな」

「うるさい」

「……やっぱり変だよ、三枝くん」

 三枝くんと、そう呼ばれるのはやっぱり落ち着かない。

「なにがあったの?」

「……さあ。よくわからん」

「なにかはあったんだね」

「それをうまく説明できたらと思うんだが……」

 残念ながら、俺の頭はそんなによろしくない。

437 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/01/03(木) 23:51:17.38 ID:JsmTQrnOo

「ま、そういう人じゃないと文芸部になんて入らないか」

「……そうか?」

「言葉はいつも思考に遅れをとってるから」と瀬尾は言う。

「ある意味、そのときどきにいつでもふさわしい言葉を使えるような人って、文章を書くのには向かないんだよ」

「なんで?」

「文章の萌芽は、『言いたかったのにうまく言えなかった言葉』なんだって」

「ふうん。誰が言ってたの?」

「『薄明』に書いてあった」

「へえ」

「平成四年夏季号、編集後記だったかな」

「よく覚えてるな」

「好きだったんだ、わたし」

 そんな話を、俺は瀬尾と初めてしたような気さえした。


438 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/01/03(木) 23:51:45.47 ID:JsmTQrnOo


「瀬尾はさ」

「ん?」

「なんで文芸部に入ったの?」

「……そんなに意外?」

 言うか言わないか迷って、結局、俺は言った。

「ちどりは入らなかった」

 瀬尾はほんのすこしだけ息を呑んだ。そんな気がした。

「なんとなくね」

「なんとなく?」

「そう。三枝くんは?」

「……俺は」

「うん」

「べつにいいだろ、俺の話は」

「ま、いいんだけどね」

 本当にどっちでもよさそうに、瀬尾は階段を降り始める。


439 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/01/03(木) 23:52:24.28 ID:JsmTQrnOo

「でも、ほんとに何があったの?」

「……」

「バイトって、嘘でしょ」

「嘘じゃない」

「それが嘘。言ったでしょ。わたしに嘘が通用すると思わないことですよ」

「……かなわないな」

「ん。観念して白状なさい」

 やけにニコニコ笑ってる。何がそんなに楽しいんだろう。
 よかった、とも思う。

 でも、なんなんだろう。
 この感覚はなんなんだろう。

「……ね、なんかあったんでしょ。ゆずちゃんと」

「なんで真中なんだよ」

「ふたりとも様子が変だから」

 俺はひとつ息をついて、返事をした。

「たしかに、ないことはないが」

「わたしに言うことじゃない、って?」

 俺は無言でうなずいた。

440 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/01/03(木) 23:52:53.36 ID:JsmTQrnOo


「なにそれ。寂しい」

「……勝手に寂しがってろ」

「ええー。三枝くん、なんか変だよ」

「変じゃないよ」

「……前と、ぜんぜん違う」

「前って?」

「いつだろ。……部員集めする前とか」

「……」

「……ごめん、なんか、イライラさせてる?」

「違うよ。ちょっと考えてるだけ」

 踊り場の窓から中庭の様子が見えた。

 思わず、立ち止まって、それを眺めてしまう。

 俺は何をやってるんだろう。
 俺は何を考えているんだろう。

 いや、分かってる。

 こういうことなんだ。

 考えないようにしていたこと、頭の中で、言葉というかたちを取る前に押し留めていたもの、それが、噴き出すみたいに線を結ぶ。

"あらゆるものが、弾性を持っている"のだ。

441 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/01/03(木) 23:53:23.65 ID:JsmTQrnOo

 
「三枝くん……?」

「ああ、うん」

 返事をしながら、俺は、自分の視界が二重にブレてなんていないことをたしかめる。
 耳をすませて、葉擦れの音なんて聞こえないことをたしかめる。
 
 どうしてだ?

 瀬尾は帰ってきた。景色はもう二重なんかじゃない。もうひとりの俺は弔われた。
 初夏の風が窓のむこうで緑を揺すっている。

 あんなにも、純佳にも教えられたのに。
 それなのに、いま、どうして俺は……。

「三枝くん!」

 と、手をつかまれて、ハッとする。

「どしたのさ、いったい」

「……」

「ほんとに、どうしたの?」

「……なあ、瀬尾」

「ん」

「俺、しばらく、部室にいかなくてもいいかな」

「え……? どうして?」

「どうしてってこともないけど……」

「……やっぱ、ゆずちゃんと、なにかあった?」

442 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/01/03(木) 23:53:51.12 ID:JsmTQrnOo

「……振られたんだよ」と俺は言う。

「それだけ」

「それだけ、って……ほんとに?」

「ああ」

「そ、か。えと……」

「……」

「え、ほんとに……?」

「ほんとだよ」

「そんなばかな」

「なんでおまえが驚くんだよ」

「いや、だって、え、ほんとに?」

「ほんと」

 目が、おかしいのだろうか。
 前よりちゃんと、視界ははっきりしているはずなのに、夢の中にいるみたいにふわふわしている。

 よくわからない。

443 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/01/03(木) 23:54:22.58 ID:JsmTQrnOo

 どうして俺はここに立っているんだ?
 ここ数日の記憶が判然としない。
 
 俺は本当に目覚めているのか?

 実は俺は目をさましてなんかいなくて、これはただの長い夢じゃないのか、
 本当は俺はいまも、あの森をさまよっているんじゃなかったのか。

 あの森を、さまよっているだけの、はずだったんじゃないのか。

 けれど、その感傷は、

 ──人は暗闇に何かを期待するものなんだよ。

 ──暗闇にこそ何か欠けている真実があると信じたい。

 きっと、単なる現実逃避なのだ。
 俺はそう思いたいだけだ。

 本当は俺は、あの森を出たくなんてなかったのだ。

 あの音が聞こえてさえいれば、俺は、自分の問題をすべてあの森のせいにできていたのに。

444 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/01/03(木) 23:54:49.85 ID:JsmTQrnOo

「どうして、部活に出ないなんていうの?」

「……」

「それも、ゆずちゃんのせい?」

 そうだ、と答えそうになった自分を、かろうじてのところで、諌める。
 そうじゃない。

 そういうことではない。

 いま、ここで真中のせいにすることは、
 すべてを森のせいにしていたことと、なにも変わらない。

「違う」

「じゃあ、なんで?」

「なんででもいいだろ。個人的な理由だ」

 瀬尾は、むっとした顔になる。

「わたしが個人的にいなくなったときは、追いかけてきたくせに!」

「……」

 返す言葉もない。

「わたし、ゆずちゃんと話してみる」

「なにを」

「三枝くんのこと、ゆずちゃんが振るなんて信じられない」

「あのな、瀬尾」

「そんなのおかしい」

445 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/01/03(木) 23:55:19.41 ID:JsmTQrnOo

「瀬尾、あのさ」

「……なに」

「それって、余計な介入なんじゃないか?」

「……え?」

「俺と真中の間に、縁みたいなものがあるとする。それがか細くて、今に切れてしまいそうなものだとする。
 でも、それを繋ぎ止めるべきだとか、繋ぎ止めないべきだとか、おまえは判断する立場にあるのか?」

「……」

「それは、おまえの恣意で判断していいことなのか?」

「それは……」

 瀬尾は押し黙る。

 無理もない。

 これは、瀬尾がいつか言っていたことだ。

「でも、わたしは……」

「悪いけど、俺も少し混乱してるみたいだ」

「……わたしは」

 なおも何か言いたげに、瀬尾は俯いた。
 べつに、こんな顔をさせたいわけじゃなかった。

 本当は、いまは、真中のことばかり気にしているわけじゃない。
 どうして俺は、こんなときでさえ、自分のことしか考えられないんだろう。

 ただ、なんとなく、本当になんとなく、重なっていない風景は、葉擦れの音の聞こえない景色は、どうしてか、俺を失望させている。

 そう思わないようにしていたけれど、考えないようにしていたけれど、そうなのだ。
 
 ふと、純佳に会いたくなった。

446 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/01/03(木) 23:56:03.65 ID:JsmTQrnOo
つづく
447 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2019/01/04(金) 00:04:35.93 ID:+lyINA2l0
おつです
448 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2019/01/04(金) 00:05:39.70 ID:fZ62aTZVo
おつです
449 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/01/08(火) 00:41:18.33 ID:3ljhep99o



 瀬尾は先に帰ってしまって、ひとりになった。
 バイトだと嘘を言って抜けてきたのに、すぐに学校を離れる気にはなれない。

 自分が何かに操られているような気にさえなる。
 あるいはずっとそうだったかもしれない。

 何気なく中庭へと歩いていく。
 そういえばここは、文芸部の部室の窓から見えるんだったっけ。
 
 春、この中庭に、俺は真中を見つけたのだ。
 
 東校舎を仰ぎ見る。ここからでは、どこかどの部室なのか、わからない。
 真中はどうして俺を見つけられたんだろう。
 
 こんなたくさんの窓の中から、どうして俺に手を振れたんだろう。
 
「なにしてるんですか」

 と、不意に声をかけられて、振り向くとコマツナが立っていた。

「ぼんやりしてる」

「部活はサボりですか?」

「……そもそも、部誌作ってる期間以外は自由参加なんだよ」

「ふうん」

 コマツナは興味なさげにゆらゆら揺れて、俺の方へと近付いてきた。

450 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/01/08(火) 00:41:48.21 ID:3ljhep99o


「なんでひとりなんですか?」

「べつに珍しくもないだろう」

「ふむ」

 何か言いたげに、コマツナは俺の顔をじっと見てくる。俺は負けじと視線を返す。

「……そんなに見ないでください」

「おまえが先に見たんだ」

「失礼しました」

 こほんとひとつ咳払いをすると、彼女は落ち着かなさそうに制服の襟のあたりに触れる。

「ひとつ聞きたかったんですけど、柚子と何かありましたか?」

「ん」

 俺は少しだけ考えて、

「まあ」

 と答えた。

「あったんですか」

「そうだね」

「ふうん。……先輩、こないだとなんか雰囲気違います?」

「気のせいだろう」

「ん、そう言われるとそうかもしれないですね」

 物分りがいいのは美徳だろう。
451 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/01/08(火) 00:42:21.67 ID:3ljhep99o

「柚子、こないだ、クラスの男子に告白されてたんですよ」
 
「……ふむ?」

「反応薄くないですか?」

「まあ……」

 俺がどうこう言う立場でもない。

 真中は、普通にしていれば、普通にしているだけで、やたらとモテる。
 そんなのは、俺だって知っていることだ。

 ひょっとしたら、そいつと付き合うことになったから、俺との関係を清算したかったのかもしれない。
 あるいは、他の誰かかもしれない。ない話ではない。

「どうも思わないんですか?」

「どうもって?」

「どうもって、って……」

 呆れ顔をされて、少しだけ落ち着かなくなる。
 俺はそんなに変なことを言ってるんだろうか。

「……先輩、もしかして、かなり落ち込んでます?」

「そう見えた?」

「いや、見える見えないで判断すると、よくわかんないです。そんなに話したことないし。でも、ちょっとそんな気がしただけです」

「勘がいいのはいいことだ」と俺が褒めると、コマツナはわざとらしく「てれてれ」と自分の頭をなでた。
 こいつもこいつでこんな奴だったか?

452 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/01/08(火) 00:43:02.25 ID:3ljhep99o

「慰めてあげましょうか?」

「遠慮しとこう」

「じゃ、お説教してあげましょうか?」

「なんで急にそうなるんだ」

「いきますよ」

 否応無しか。

「いいですか、先輩」

 こほん、と、また咳払いをする。癖なんだろうか。

「先輩、柚子を泣かせたら許しませんよ」

「……」

 まっすぐに、こちらを見ている。射るような眼差し。
 俺はそれを、なんとなく、受ける。巻藁にでもなったような気持ちで。

「どうして、俺が真中を泣かせたりする?」

「知りません。柚子が勝手に泣いてるのかもしれません」

「泣いてたのか?」

「わかりません」

「……」

「勘です」

「勘じゃあ仕方ない」

「はぐらかさないでください」

「勘で言われて、はぐらかすもなにもないだろう」

「それは、そうですけど」

 なおも納得がいかないみたいに、コマツナは歯がゆそうな表情をした。

453 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/01/08(火) 00:43:41.36 ID:3ljhep99o

「泣かせるなというなら、真中の彼氏にでもいえばいいだろう」

「彼氏? 柚子、彼氏いるんですか?」

「……告白されてたんじゃないの?」

「振ってましたよ」

「そうかい」

「ほっとしました?」

「どうかな」

 むしろ心配なくらいだ。
 
「……先輩と柚子の関係、やっぱり変ですね」

「変っちゃ変かもしれないが」

「柚子、ぜんぜん教えてくれないから。先輩、柚子と、何があったんですか?」

「真中が言わないなら、俺が言うことでもないだろう」

「でも……」

 でも、と、俺も同時に思った。
 べつに、話したってかまわないだろう。真中から言い出したことなのだ。

 そう思って、俺は先週末の出来事を、コマツナに話した。

454 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/01/08(火) 00:44:09.82 ID:3ljhep99o

 話しながら俺は、あのベンチで読んだ詩集の一節を思い浮かべる。

『海は 空に溶け入りたいという望みを
 水平線で かろうじて自制していた』

 部室に飾られていたあの絵。
 海と空とグランドピアノ。あんなにも、溶け合うように滲んでいる海と空は、けれど、水平線ではっきりと隔てられていた。
 そのことを、今不意に思い出す。

 あの絵が、どうして途方もない祈りのように思えたのか、今の俺にはわかる気がしたけれど、
 それをうまく言葉にすることが、どうしてもできそうにない。

 話を聞き終えてから、コマツナはよくわからない顔をした。
 怒っているような、悲しんでいるような、哀れんでいるような、その全部のような顔だ。

「柚子が、言ったんですか」

「そういうことになる」

 コマツナは、少しだけうつむいたあと、すぐに顔を上げた。

「先輩は、それでいいんですか」

「……俺の気持ちなんて、関係ないだろ?」

「どうしてですか」

「どうしてって……」

「先輩は、柚子と、どうなりたかったんですか?」

 俺は、答えられなかった。 

455 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/01/08(火) 00:45:34.59 ID:3ljhep99o



 答えに窮した俺を、コマツナは置き去りにした。
 用事があるとかないとか言って。それが本当かどうかはわからない。信じても俺に害はない。

 スマートフォンが不意に震えた。ましろ先輩からのメッセージだ。
 内容はこうだった。

「きみはスワンプマン?」

 どうだろうな、と俺は思う。

「わかりません」

「なるほど」とましろ先輩からの返信が来た。それで何がわかるというんだろう。

 彼女はメッセージを続けた。

「とにかくみんな無事でよかったですね」

 たしかにな、と俺は思う。

「そうですね」

「ところで、さくらは元気ですか?」

 ふと、そこで俺の思考が止まった。

「……さくら」

 今の今まで、まったく気にしていなかったけれど……最後にさくらを見たのは、いつだっただろう。

 記憶が、判然としない。
 俺は、あいつと、何かを約束していなかっただろうか。

 どうしてそれを、今、思い出せないんだろう。

 さくらは、どうして今、ここにいないんだ?


456 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/01/08(火) 00:47:00.06 ID:3ljhep99o
つづく
457 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2019/01/08(火) 02:48:14.96 ID:q+1o4bKfo
おつです
458 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2019/01/08(火) 07:30:24.12 ID:iSa7qqJN0
おつです
459 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2019/01/08(火) 23:33:25.34 ID:0y7S6zkZ0
おつです
460 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/01/09(水) 01:41:15.86 ID:dHsWKpbxo



 学校を出て、俺は『トレーン』へと向かった。
 
 家に帰る気にはなれなかった。何か、それがよくないことのように思えた。

 下校途中、俺は何度も自分の視界を確認した。並木道やアスファルトが当たり前に見えることを確認した。
 それはたしかにそれだけで、今までのすべてをかき消すくらいの重みをもって現実として存在している。

 途中で、不意に、携帯が鳴った。大野からの電話だ。

「……どうした?」

「ああ」と大野はため息のような声を漏らした。

「真中の様子がおかしいようだけど」

「どうして俺に電話するんだよ」

「どうせおまえ絡みだろう」

「……どいつもこいつも」

「なにがあった?」

「振られたんだよ」

 俺はいいかげん慣れてきた。

「振られた?」

「もともと偽装の関係だったから、もういいだろうって」

「……それで?」

「それでって、なんだよ」

「おまえはなんて答えたんだ?」

461 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/01/09(水) 01:41:53.73 ID:dHsWKpbxo

「べつに、なにも」

「……おまえ、それで納得してるのか?」

「……さあ」

 はぐらかしたわけではない。自分でもよくわからなかったのだ。

 けれど、なんとなく、気付いていることもある。
 大野は、ふと黙り込んだ。

「どうした?」

「実は先週まで、おまえを不審に思ってた」

「不審に?」

「スワンプマン。……真中や、市川や、ましろ先輩。みんなで、おまえの様子がおかしいって話をしてたんだ」

「ふむ」

「俺にはどうにもピンと来ないけど、みんなには心当たりがあるらしくてな」

「……白々しいな。おまえもちどりに会いに行ったんだろう」

「まあな。でも、結局俺は、そういうことを考えるのにはとことん向いてないらしい。確かめようもないしな」

「……」

「そのうえで、一個、言わせてもらう。勝手なことをな」

「なんだよ」

「おまえ、真中とどうなりたかったんだよ」

「……」

462 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/01/09(水) 01:42:21.79 ID:dHsWKpbxo

「おまえはどうなりたかったんだよ。どうしたかったんだよ、真中を」

「なんだよ、急に。……俺が、真中がどうとか、言ったかよ」

「どうせ、無傷でもないだろ。見てりゃわかる。おまえは真中が好きだっただろう」

「……なんで、おまえがそんなことを言うんだよ」

「違うな」と大野は言った。

「おまえが言ったんだ。問題は、おまえがそのまま、真中とのわだかまりをそのままにしていたいのかどうかってことだろ」

「……」

 ああ、そうだ。
 これは──俺が、大野に言った言葉だ。

「おまえが、そこに苛立ちを覚えるなら、おまえがすることなんて決まってるだろ」

「……」

 俺は、真中を、
 どうしたいと、思っていたんだろう。

463 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/01/09(水) 01:43:00.76 ID:dHsWKpbxo

 深く関わり合ったら、傷を負いそうで、でも、突き放すこともできなくて。
 好きにならない、好きになれない、好きになってはいない、そんなふうに考えて。

 でもそれは、もしかしたら、
『俺が真中を好きになったら、真中は俺から興味を失うんじゃないか』と、
 そんなふうに考えていたからじゃないんだろうか。

「泣いてたんだぜ」と大野は言った。

「……嘘だよ」と俺は言う。

「本当だ」

 ……大野が言うなら、本当なのかもしれない。
 でも、真中は、そうは言っていなかった。

 ……本当に、そうだろうか。

「本当におまえは……嫌味なくらいに、いいやつだな」

 負け惜しみみたいにそう言うと、大野が電話の向こうで不服げに溜息をついたのがわかった。

「少し待ってろ。全部片付けてくるから」

「……全部?」

「……まだ予言が半分なんだ」

 それだけ言って、俺は電話を切った。

464 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/01/09(水) 01:43:28.01 ID:dHsWKpbxo





『トレーン』の看板も、外装も、扉も、ドアベルの音も、すべて、ちゃんと、見えているし、聞こえている。

 店の中に入ると、マスターがひとりでカウンターの向こうに立ってグラスを拭いていた。

「やあ」とマスターは言う。

「こんにちは」と俺も返事をする。

「なんだか久々だね?」

「けっこう頻繁に来てますよ」と俺は言った。

「マスターが出てこないんじゃないですか」

「うん。そうかもしれない」

 面と向かって話をするのは、ひょっとしたら久しぶりだったかもしれない。

465 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/01/09(水) 01:44:17.77 ID:dHsWKpbxo

「コーヒーかい?」

「はい。ブレンドを……」

「かしこまりました」とマスターは笑う。

 その笑顔がなんだか懐かしい。
 ……懐かしい?

 そういうのとも、いま、少し違うような気がした。
 既視感がある? ……いや、そんなもの、あって当たり前か。

 ……今は、そんなことはどうでもいいか。

 思わずため息をつくと、カウンターのむこうでマスターがくすりと笑った。

「何か落ち込んでるようだね」

「ええ」

「ちどりがいないのがショック?」

「まさか」

 というのも失礼な話だが、ちどりは関係がない。

「そう」

 あっさりと笑って、マスターは体を翻した。

「ちどりは今日はいないよ。友達と勉強会だって」

「はあ……そうですか。珍しい」

466 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/01/09(水) 01:44:50.52 ID:dHsWKpbxo

「うん。たしかに珍しい。そうだね」

 そういって、マスターはしばらく引っ込んだ。俺はひとり、店の壁に貼られた絵を眺める。

 二枚の絵。
 タイトルはなんだったっけ?

 わからなくなったときは、絵の内容を見ればわかる。そういう絵だったはずだ。

 一枚は、霧に包まれる夜の街を、もう一枚は、靄の立ち込める早朝の湖畔を。

 しばらく、ふたつの絵を交互に眺めていると、また不思議な感覚に襲われる。
 絵のなかに広がる景色。それが現実のどこかというよりは、その絵の中に奥行きを持って存在しているように思える。

「はい、おまたせ」

 しばらくして、マスターがコーヒーを差し出してくれる。

「絵を見てたの?」

「ええ、まあ……。この絵、マスターが描いたんですよね」

「うん。ずいぶん前だね」

「……『朝靄』と『夜霧』でしたっけ」

「そうだよ。よく覚えてるね」

「たしか、もう一枚あるんでしたよね」

「うん。そう」

「……誰も知らない三枚目」

「そう」

 くすりと、マスターは笑う。
 笑い方がすこしちどりに似ている。

467 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/01/09(水) 01:45:20.20 ID:dHsWKpbxo

「どうして隠してるんですか?」

「隠してるわけじゃない。ここで見せる理由がないだけだよ」

「あの二枚には、見せる理由があるんですか?」

「そういえば、ないね」
 
 ないんかい。

「まあ、思い出のようなものだよ」

「思い出ですか」

「飾りでもしておかないと、すぐに忘れてしまう」

「そういうものですか」

「そういうものだよ」

「つまりこれは……忘れないためなんですか?」

「そういうことになるね」

 ふうん。

「……じゃあ、もう一枚は?」

「それも、忘れないためかな」

「……」

 俺は、これを訊ねるべきではないのかもしれない。

468 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/01/09(水) 01:45:50.82 ID:dHsWKpbxo

「霧と靄のむこうに、かすかに人影みたいなものが見えますね」

「ふむ。そう見えるかい?」

「意図は、わかりませんが、そう見えます」

 曖昧に滲んだ景色のなかに、影が見える。
 いるかいないかも不確かな人影。ひょっとしたらそれは気のせいかもしれない。

 人影はいつも、何かに隠されて曖昧に濁されている。滲んで、見えなくなっている。

 人と人との距離もそれに似ているのかもしれない。
 手を伸ばして、触れようとすれば消えていく。

 けっしてつかめない。砂のようにこぼれていく。

 ずっと繰り返されている。
 はじめからずっと。

 桜の森の満開の下で、消えていく女の姿。
 どれだけ歩き回っても、影ひとつとらえられない森の中。
 滲むような靄と霧のなかで、そこにいるように見える人影。

 いるのに触れられない。求めても現れない。見えるのにつかまえられない。

 他者は不確かだ。
 不確かで、おそろしい。

 もし、この二枚の絵に、もう一枚、姉妹や兄弟のような絵があるのだとしたら、
 それはもしかして、

「逆光」

「え……?」

「いえ、なんとなくですけど。もし俺がこの絵の作者で、誰にも見せない三枚目があるとしたら、そういう名前をつけます」

「……ふうん。そのこころは?」

469 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/01/09(水) 01:46:39.71 ID:dHsWKpbxo

「『夜霧』と『朝靄』。夜と朝で二枚。もし三枚目があるなら、昼だな、というのが一点」

「単純だね」

「はい。それから、両方とも、景色は靄と霧に隠れて見えませんから」

「なるほど、『逆光』。おもしろいね」

「ハズレでしたか?」

「そうだね。残念ながら」

「惜しいですか?」

「『夜霧』と『朝靄』に関しては、いいところを掴んでいるし、発想としては近い。
 でも、もう一枚は、このふたつとはちょっと違う。だからここには飾ってないんだ」

「……一緒に飾ってはいけない、ってことですか?」

「そうだね。答えが透けて見えてしまうから」

「突然ですけど、マスターって、高校のとき、どんな部活に入ってたんですか?」

「部活? なんで急に?」

「最近、部活でいろいろあったので」

「ああ、なるほどね」

 親しみやすい笑みを浮かべて、マスターはカウンターに手をついた。

「僕は文芸部だったよ」

「俺と同じですね」

「うん。そうなるね」

470 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/01/09(水) 01:47:06.34 ID:dHsWKpbxo

「てっきり、美術部かなにかに入ってたんだと思いました。絵が上手いから」

「手慰みだよ。あれこれ手をつけて、結局どれも身につかなかったな」

「文章もですか?」

 マスターは一瞬、ぴくりと頬を動かした。

「そうだね」

「三枚目の絵」

「うん?」

「『逆光』じゃないなら、『白日』ってところですか?」

 マスターは驚いた顔をしてから、くすりと笑った。

「うん。それで正解だよ」

「靄のむこう、霧のむこうに何があるかをさらすから、『白日』。役割がまったく違うから、並べたら意味がない」

「……そういうことだね」

 マスターは照れくさそうに笑った。

「聞いたことありませんでしたけど……マスターって、どこの高校に通ってたんですか?」

「……」

 怪訝げに眉をひそめられる。どうしてそんな話になるのか、と思っているのかもしれない。

471 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/01/09(水) 01:47:35.91 ID:dHsWKpbxo

「三枚目、どこに飾ってるんですか?」

「……僕は、どこかに飾ってるって言ったっけ?」

「いえ。見せる意味がないとは言ってましたけど、でも、この二枚にもないと言ってたので。それに、忘れないため、とも言ってましたから。
 だとすると、飾っているのかなと思っただけです。そうだとしたら、その三枚目には、特有の役割があるのかな、と」

「絵に役割なんてあるものかな」

「少なくとも作者がそれを籠めることはできるでしょうね」

 そうかもしれないね、とマスターは曖昧に笑った。

「ところで、この店の名前なんですけど、どうして『トレーン』なんですか?」

「うん?」

「……」

「どうやら、何か話したいことがあるみたいだね」


472 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/01/09(水) 01:48:04.35 ID:dHsWKpbxo


 俺は何を聞こうとしているんだろう。

「今日、放課後、部室を出たあと、少し知り合いと話をして、帰ろうとしました。
 でも、その途中でふと思うところがあって、図書室に引き返したんです。『伝奇集』を見るために」

「『伝奇集』」

「ご存知ですか?」

「ボルヘスは昔から好きなんだ」

「店の名前に使うくらいですもんね」

「気付いたかい? 何度も読み返したよ。それで?」

「メモが挟んでありました」

「……メモ?」

「これです」

 制服のポケットから、メモ用紙を取り出して、俺は彼に差し出した。
 彼はそれをちらりと見て、ふむ、と目を細めた。

473 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/01/09(水) 01:48:38.69 ID:dHsWKpbxo


 俺は、メモの内容を読み上げた。

「『よげんをはたして、あのこをむかえにいって』」

「なにかの暗号かい?」

「……いえ、まだ何枚かあります」

 取り出して、それを広げる。合計で、三枚あった。

「『あなたのなかのかれとごういつをはたして』」

「……なんだか、よくわからないな。誰かのいたずらじゃないのかい?」

「……最後の一枚です」

 どうして俺はこんなことをしているんだろう。
 これをたしかめて、どうなるんだろう。

 暗闇の中になにかがあると、そう思うのは、現実逃避だ。
 そう言ったのは誰だったっけ?

「『さくらはでみうるごすのべつのえのなか かれは』」

「……これは」

 この店の名前は『トレーン』。
 瀬尾がむこうにいたとき、連絡に使った本は、ボルヘスの『伝奇集』。
 マスターが何度も読み返した本だという。

474 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/01/09(水) 01:49:34.97 ID:dHsWKpbxo

 文芸部室の壁には、一枚の絵が飾られている。

 誰がいつ、その絵を描いたのか、それがいつから飾られているのか、知るものは今の文芸部にはいない。
 俺たちの先輩も、そのまた先輩も、それがいつから飾られているのかすら知らなかった。

 佐久間茂のスワンプマン──ストローマンは、自らを『デミウルゴスの子』と呼んだ。
 メモには、『でみうるごすのべつのえ』とある。

 デミウルゴスとは誰か? 
 それがもし、実際の佐久間茂のことを指しているとしたら、その人物は今、どこで何をしているのか。

『でみうるごすのえ』という言葉を素直に受け取れば、瀬尾が入り込んだあの絵を描いたのは、佐久間茂だということになる。
 そして、『べつのえ』ということは、佐久間茂は『他にも絵を描いている』。

『トレーン』、『伝奇集』。
『ちどり』と『瀬尾』。
『佐久間茂』。『デミウルゴスの子』。
『本物』と『偽物』。
『空と海とグランドピアノ』。
『夜霧』と『朝靄』。『三枚目の絵』。
『白日』。

 ボルヘスの『伝奇集』に収められた『八岐の園』という短編集の一篇に、『トレーン、ウクバール、オルビス・テルティウス』というものがある。
『トレーン』というのは、作中に登場する架空の地名のことだ。

 何らかの集団によって極めて緻密に捏造された『架空の土地』が、やがて現実の歴史を『修正』し、その価値観を覆すに至るまでの短い物語。

『夜霧』と『朝靄』。そして『白日』。
 霧と靄が、人影を滲ませる。けれどもし、その霧と靄が晴れたとき、その人影は本当にそこにあるんだろうか。
『白日』は、その疑問の答えになるのかもしれない。

 陽の光が鮮やかに晴れ渡り、すべてが白日のもとにさらされたとき、そこには誰もいないのだ。

475 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/01/09(水) 01:50:04.13 ID:dHsWKpbxo

「これは直接関係ないんですけど……マスターって、入婿なんですか?」

「……突然だね。違うよ」

「じゃあ、ご両親が離婚か何かされたとか?」

「……」

「もし違うなら、笑ってくれてかまわないんですけど……」

 俺は、ほとんど妄想に近い点と点をつないで、無理矢理に理屈をこじつけているのかもしれない。
 でも、無視できない何かがそこにあるような気がした。
 
「三枚目の絵は、俺の高校の文芸部室にあるんじゃないですか?」

 もし、違ったとしても、笑ってもらえればいい。
 それでも俺は、さくらを探さなきゃいけない。 
 デミウルゴスの別の絵を探さなきゃいけない。

 そして、少なくとも彼は、まだ笑っていない。

 結局、何かを取り戻したところで、俺は俺で、いまのまま、何もかもが弾性をもっていて、すぐにだめになってしまうのかもしれない。
 変われない、何も求められない自分を見つけるだけなのかもしれない。

 でも、本当にそうなのか? 俺にそう語ったのは、誰だった?

 ──佐久間茂だ。

 俺はずっと、彼が決めたルールのなかにいた。
 
「マスター、『薄明』の佐久間茂は、あなたですか?」

 彼は、ほんの少し怪訝げに目を細めたあと、どこか満足そうな顔で微笑んだ。

476 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/01/09(水) 01:50:33.89 ID:dHsWKpbxo
つづく
477 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2019/01/09(水) 02:26:56.65 ID:HH/IKhQ0o
めっちゃ面白い
おつおつ
478 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2019/01/09(水) 07:13:39.98 ID:1MkIx8INO
さらに面白くなってきたな
乙です
479 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2019/01/09(水) 08:26:41.69 ID:0BjF+piuO
おつ。
おーっと、こんなところにモブだと思った佐久間茂が出てくるなんて
480 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2019/01/09(水) 23:16:56.41 ID:ysM/2/Yp0
おつです
481 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/01/11(金) 00:44:53.20 ID:5tslsyVEo



「僕には、世の中がおそろしい」

 マスターは不意に、そんなことを言った。

「砂を噛むような思いで生きてきたよ、ずっとね」

 煙るような霧の中でで、マスターの体の輪郭は、かすかな光に覆われているようだった。
 まるで彼のすべてが、内側から滲み出して、徐々に大気と混じり合っていくように、俺には見えた。

「笑うかい?」

 彼はそう言って、いつものような落ち着いた顔で、俺を見た。
 なんでもないような顔で。

「赤の他人なら……うまく笑えたかもしれないですけどね」

 いいながら、俺は、彼の背後に広がる景色を見る。

 霧の粒のひとつひとつに点描のように滲む月明かり。
 版画のように影で塗りつぶされた高い建物。
 濡れた石造りの街路を照らすほのかなガス灯の光。
 
 どこかから聞こえる衣服の擦れる音、誰かの息遣いや咳払い。

 けれど視線をそちらに向けても、そこには誰も居ない。

『夜霧』のなかを、俺と彼はふたりで歩いている。

482 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/01/11(金) 00:45:19.66 ID:5tslsyVEo

「子供の頃から学校が嫌いでね」

「……意外ですね。マスターは……」

「マスター、じゃなくていい」

「……茂さんは、なんでもそつなくこなしてきたように見えるから」

「きみもそういうふうに見えるよ」

 そう言った彼の表情もまた、宵闇にまぎれて、よく掴めない。

 絵の中の人物みたいだった。

「昔からそうだったんだ。行ってしまえば、別に苦ではない。でも、行くのがどうしてもいやだった。
 週末がいつも待ち遠しかったよ。それだけを心の頼りにして、一週間をやり過ごして、でも、ふと気付いたんだ。
 平日をやり過ごして、休日を楽しみにして、でも、休日が終われば、また一週間が始まる」

「……」

「それがいつまで続くんだろう、って。それって、いつまでも終わらないじゃないか」

 靴音が夜の街に響く。向かう先も分からずに、俺は彼の少し後ろをついていく。
 迷子にでもなったみたいな気分だ。

483 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/01/11(金) 00:45:54.08 ID:5tslsyVEo

「……でも、今まで、生きてきたじゃないですか」

「そう、砂を噛むような思いでね」

「……」

「とても、他人には信じられないような話かもしれないけど、僕には自分らしい自分というものがないんだ」

「……どういう意味ですか?」

「よく言うだろう。好きな食べ物とか、好きな映画とか、女の子の好みでもいい。音楽や、小説でもいい。
 好きな遊び、好きな色、好きな街、好きな建物、好きな雰囲気、好きな植物……」

「……」

「僕には、自分の好きなものっていうのが、わからないんだ」

「……」

「自分が何をしたいのかも、よくわからなかった。そんな人間が、どうやってここまで生き延びてきたと思う?」

 俺が何かを答えるまでもなく、彼は勝手に続きを話した。

「誰かが望んでるとおりに振る舞うんだよ。そうすると、何も考えずに済む。
 考えてみれば僕は、自分で何かを選択することなんてほとんどなかった。“おまえはこうだろう”と誰かに決められていた。
 それで、べつに他にしたいことがあるわけでもないから、それに従い続けていたんだ」

484 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/01/11(金) 00:46:25.33 ID:5tslsyVEo

 靴音が響く。

「学校でも、家でも、なんでもね。相手の仕草や表情を見れば、相手がどんなふうに僕に振る舞ってほしいかはだいたい分かった。
 状況に合わせて、適当に振る舞うだけだ。そうしておけば角も立たない。幸い僕は、器用な方だったらしい。
 相手が何を自分にもとめているのかをその場その場で感じ取ることなんて、ほとんど無意識でやっていた。
 そう気付いたのは、ずいぶんあとで、当時は自分がそうしていたことになんて、気付いてもいなかったけど」

 気付かないというのが、厄介なところなんだ、と彼は言う。
 僕は自分がそんなことをしていたなんて、全然気付いちゃいなかった。
 ときどき、違和感を持つことはあったけどね。

 僕は平気で嘘をつけた。そして、その嘘を、自分で信じ込むことができたんだ。
 たとえば誰かがある映画を褒めているとして、僕がその映画を観たとする。
 すると、その人とほとんど同じ感想を持つんだ。

 あるいは、誰かがある音楽をけなしていたとする。すると僕は、その音楽をたしかによくないものだと感じた。
 そして、別の誰かとその音楽の話になったとき、その誰かがその音楽を褒めていたら、僕は一緒になってその音楽を褒めることができた。

 適当に口先だけで合わせるんじゃない、本当にその場で“そう思うこと”ができたんだ。

「そういうことをしていると、自分がうすっぺらな書き割りで、風景がすべて平坦で、他人がみんな霧に包まれたみたいに不可解なものに思えたよ」

 人と会ったり話しをしたりしたあと、ひどく疲れを覚える種類の人間だと気付いたのは、もっと前だった。
 もっとも、こんな話、特別珍しくもない、誰だって、大なり小なりやっていることなんだろうと思う。

 でもね、問題はそこじゃないんだ。

「ある人は、僕が何かを演じているんだと言った。別の人は、僕はいつも本心を隠していると言った。
 でも、違うんだ。僕は演じてるわけじゃない。その場その場で本当にそう思っているし、隠すほどの本心なんて僕にはないんだよ。
 他人が何かを言う。そうかもしれない、と僕は思う。別の誰かが、正反対のことを言う。ああ、それもそうだな、と僕は思う」

 つまり僕は、からっぽなんだ。
 建前はあっても本音がない、そういう生き物だったんだよ。

485 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/01/11(金) 00:47:03.98 ID:5tslsyVEo

「そういうふうに過ごしていると、ときどき、自分を眺めている自分を見つけることがある。
 僕の背後の少し上空から、僕を見下ろしている僕を見つける。そんなことが続くと、ある瞬間に、僕の意識は、僕を見下ろしている僕の方へと移っていった。
 これはたとえ話じゃなく、本当にそういうことがあったんだよ。……まあ、誰も信じちゃくれなかったけど」

 そういうことなんだ、と彼は言う。

「みんながみんな、周囲にある程度、適応して生きている。でも僕は、“本当はこうだ”という自分すらない。
 頼まれごとはたいてい引き受けた。大人受けはよかったし、同級生にも嫌われるようなことはなかったな。
 むしろ、誰かを嫌う側に回ることの方が多かった気がする。なにせ、みんなが誰かを貶めるとき、僕も一緒に貶めていたからね。
 誰かに合わせるというのは、風見鶏のように振る舞うことじゃない。より大きな流れのようなものを見つけて、それに乗ることなんだ。
 だから僕はきっと、“より同調すべき誰か”の視点に、常に合わせていたんだと思う。だからこそそういうことができたんだ」

 でも、ふとした瞬間に気付くんだ。
 ひとりになったときにね。

「僕は本当に、これが好きなんだろうか? 僕は本当に、この人が嫌いなんだろうか?
 そうなったとき、特にそんなことはないんじゃないか、というのが、決まった僕の結論だった。
 そうすると、普段の自分の言動や、感情さえもが、疑わしく思えてくる。そして、ついに結論が出た。
 僕は、周囲に、ただ、合わせていただけだったんだよ」

486 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/01/11(金) 00:47:42.43 ID:5tslsyVEo

 やがて、夜の街路は、果てに行き着く。

 煉瓦造りの高い壁、その合間に、大きな門扉が現れる。 
 その先の風景は、暗闇の中で、ぼやけてはっきりとしない。

「結局のところ、僕がそんなふうに振る舞っていることになんて、誰も気付かなかった。
 なにせ、僕自身も、僕が誰かに合わせているなんて自覚がなかったんだから、当然だ。
 友達もいたし、恋人もいた。趣味だって、あったように思えた。好きなものだって、あったように思えた。
 でも、それは……本当のところ、誰かに言われて、そうしていただけだという気がする。
 おまえはこうだろうと誰かに言われたことを、僕はそのまま、ずっと、こなしていたような気がする」

 門の前で立ち止まり、彼は後ろを振り返った。
 つられて俺も振り返る。
 
 そこにはただ、人の気配だけがざわつく、霧に包まれた夜の街があるだけだった。

「結局のところ」、と彼は言う。

「何が偽物で何が本物かなんて、誰も分かってないんだ。僕自身でさえもね」

 そう言ってしまうと、彼はその綺麗な手のひらで、門を押した。
 扉は、悲鳴のような軋みをあげて、押し開かれていく。

 その先は、森へと続いている。


487 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/01/11(金) 00:48:56.35 ID:5tslsyVEo
つづく
488 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2019/01/11(金) 01:10:40.68 ID:RORJjY7fo
おつおつ
すごくおもしろい、わくわくする
489 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2019/01/11(金) 08:51:49.95 ID:hzO7roliO
乙です。
えーと、マスターのスワンプマンはまだ向こうにいるんだったよね。
あら?青葉はマスターの娘なのか。
いろいろこんがらがってきた
490 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2019/01/11(金) 12:02:25.32 ID:1MttAkyBO
おつです
491 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2019/01/11(金) 18:54:57.18 ID:6IwafWwjO
追い付いた
気付くのが随分遅くなってしまったけど、また読めて嬉しい
492 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2019/01/12(土) 01:17:02.02 ID:VSAQVLpi0
おつです
493 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/01/15(火) 00:35:30.17 ID:tcCjf0HSo


 自分の意見がない。
 相手が何をしたいかを常に想像し、自分が何をしたいかをあまり検討しない。

 他人に合わせること。
 誰もが、程度はあれど、していることだ。

 けれどそれが"過剰"であれば……。

 たとえば食事を選ぶときに基準になるのは、相手が何を食べたいか、だけで、自分が食べたいものはない。
 少なくとも、なにもないと自分では思っている。

 自分と他人の境界線が曖昧で、他人から簡単に影響を受ける。
 自分自身の好みや、目標や、生活態度でさえ。

「他人に合わせること」に困難を感じる人種とは反対に、「他人に合わせすぎるが故に自分がわからない」。

"過剰同調性"と、そういうふうに言われることがある。

 空気を読む、という言葉がある。
 空気を読めない、という困難がある。

 そして、あまりに敏感に空気を読むあまり、相手の感情を掴み取ってしまうあまり、その相手に配慮し、自分の思うとおりに振る舞えない、ということもある。
 そのように振る舞っていると、やがて、"自分の思うとおり"というものが、どこかに隠されてしまう。

 結果的に、無自覚に、常態的に他人の顔色を窺い続けてしまい、強い疲労を感じる。
 自分自身は抑圧され、"ふるまい"だけが残される。
 
 HSP──ハイリー・センシティブ・パーソン。

 知られていないだけで、五人に一人が、そう呼ばれる傾向を持つとも言われている。
 それは"遺伝的性質"であり、生来的な傾向だとも言う。

  
494 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/01/15(火) 00:36:21.74 ID:tcCjf0HSo


「いつも、死ぬことばかり考えていたよ」

 彼は、そう言って話を続けた。
 草茂る森の合間を、縫うように道が続いている。

「でも、死にたい自分が本当なのかもわからなかった。死にたいのではなくて、"こんな人間は死ぬべきだ"という、誰かの考えに合わせているような気もした。
 なにもかもが僕にはよくわからなくて、曖昧模糊としていたんだ」

 暗い森に風が吹き抜け、耳によく馴染んだ葉擦れの音が空間を泳いでいく。

「どこにも自分の居場所なんてないように思えた。自分が誰にも必要とされていないんだと思った。
 僕はからっぽで、なにもない。なにかに対する憎しみだけが強くなって、でも、自分が何をそんなに烈しく憎んでいるのかも分からなかった」

 わかるかな、と彼は俺を振り返った。どうだろうな、と俺は思った。

「だから僕はこの国を造ったんだよ」

「……"造った"」

「まあ、順番が違うかもしれない。もともと僕はこの国をイメージしていて……それを、成立させようと思った」

「……」

「理解できないって顔してるね」

「……イメージするまでは、分かりますけど」

「架空の人間を作り上げようとしたことはない?」

「……どういう意味ですか?」

「ひとりの人間を想像するんだ。具体的に。性別や、体格や、髪型、顔つき、性格や趣味、服の好みや、小物のセンスに至るまで。
 詳細であれば詳細であるほどいい。そして、"その人物がどんな部屋で生活するかを想像する"。
 そして、ひとつの部屋を用意する。それから家具を用意するんだ」

「……」

「その人物の好みの机、たとえば学生だったら、学生机があるかもしれない。制服が部屋のどこかに掛けてあるかもしれない。
 年齢によって、絨毯やベッドシーツ、枕のカバーなんかの趣味も違う。カーテンなんかもそうだね。
 本棚にはどんな本があって、CDがあって、どんな映画を見るんだろう。
 人によっては、たとえば、脱ぎちらした服がそのままにしてあるかもしれないね。そんなふうに……
 居もしない人間が、いまさっきまでそこにいたかのような、そういう部屋を作りたいと思ったことはない?
 ちょうどボルヘスの短編みたいにね」

「……何を言ってるのか、よくわからないです」


495 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/01/15(火) 00:36:50.33 ID:tcCjf0HSo

「僕がしたのはそういうことだよ。"あたかもその場所が存在しているかのように振る舞う"。
 そこから持ち帰ったものや、そこで起きたことを"捏造する"。
 どうやったと思う?」

「……」

「『薄明』を使ったんだよ。僕が高校生だった頃、文芸部の部員は二十人ほど居た。でも、僕以外の全員が、幽霊部員だったよ」

「……え?」

 それは、おかしい。
『薄明』には……佐久間茂の他にも、

「……」

「最初にしたのは、架空の文芸部を作り上げることだった。
 どんな人間がいるのかを最初に決め、どんな人間がどんな文章を書くかを決めた。
 原稿を出さないような部員のことも、詳細に設定した。最終的には、『盗作を行った部員』がいたかのような展開まで作り上げた」

「……」

「気付いたかな、きみは。読んだんだろう、あれを」

「……どうして、そんなことしたんですか?」

「どうしてかと言われると、どうだろう。それが僕にとってとても楽しい遊びだったからだよ」

 影絵のような森を歩きながら、その声に耳を傾けていると、徐々に現実感が失われていく。
 この感覚が、嫌に懐かしい。
496 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/01/15(火) 00:38:01.28 ID:tcCjf0HSo

「意味がないと言えば、意味がない。でも当時の僕はそれを心の支えにするくらいには、他に何もなかった」

 俺には想像することしかできない。
 それなのに、どうしてもイメージできない。
 
 目の前のこの人が、そんなことをしていたなんてことが。
 そういうものなのかもしれない。

「僕は『薄明』それ自体に物語を付け加えることにした。今にして思えば、誰も気付かないだろうけどね」

「物語……?」

「部誌に参加しているメンバー……つまり、僕が作り上げた架空の部員たちの周辺に、奇妙なことが起きている。
 そういう物語だよ」

「……」

「そこまでは気付かなかったかい?」

「ええ」

「まあ、そうなんだろうな。結局のところ……誰もそんなに注意深く、誰かの作ったものを見たりはしない」

「……」

「ああ、べつに、がっかりしてるわけじゃない。そういうものだと、割り切ってるし……もともと、そんな気はしてたからね。
 でも、問題はそこじゃない。問題は、それが『起きた』ってことだ」

 彼の進む道は、やがていくつかに分かれていく。
 そのうちのひとつを、彼は迷うでもなく選んだ。

497 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/01/15(火) 00:38:28.31 ID:tcCjf0HSo


「僕は『薄明』を一年間、ひとりで作り上げた。そして、そのなかに物語を作った」

「どんな……物語ですか?」

「……そうだね」

 と、彼は短く笑って、

「それについては、自分で確かめてみるのがいいかもしれない」

 そして、彼の行く道はやがて森を抜ける。

 こんなにも、
 こんなにもあっけない、短い森だっただろうか?

 それとも、この森は、俺が囚われていたあの場所とは、違うのだろうか。

「結局のところ」と彼は言う。

「この歳になってこんなことを言うのも面映いけれど……結局、人はみんなひとりぼっちなんだと思う」

 俺のからだは森を抜け、空の色はもう闇ではなく、静かな藍色へと移り変わりつつある。
 声はすぐそばから聞こえる。

498 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/01/15(火) 00:38:55.16 ID:tcCjf0HSo

 木立の隙間に、大きな大きな水たまりが見える。

 湖が、広がっている。一歩進むごとに、日が昇っていく。
 湖面を覆う朝靄が、そのむこうを隠している。

 この人に、そんなことを、言ってほしくなかった。

 こんな人にまで、そんなふうに言われたら、これから先、なにを求めて生きればいいのかわからなくなる。

 そこまで生きて、辿り着く結論が、そんなことでしかないなら。

「僕は、みんなのことが好きだよ。愛してるって言ってもいいと思う。
 ちどりや……そう、きみのこともね。でも、ときどき全部がどうでもよくなる。そんな夜を、何度もやり過ごしてきた」

 後ろ姿だけが、振り向きもせずに進んでいく。
 
「でも……ひょっとしたら、僕も年を取りすぎたのかもしれないね」

 やがて、道は曲がっていく。湖畔に、小さな小屋が立っている。
 その脇を抜けて、彼はまだ進んでいく。
 湖に近付いていく。

「ずっと、靄がかかったみたいに、世界のことも、他人のことも、よくわからなかった。
 今にして思えば、そこにはたいしたものは隠されていなかったのかもしれない。
 本当のことは、まだ、わからない。人は結局、孤独なのかもしれない。
 でも、いまは……それでもかまわないような気がする」

 小屋の裏手に道は伸びている。その先に、古びた桟橋がある。

 小さなボートが繋がれている。
 揺れてはいない。
 
 波すらも、ない。

 凍りついているのだと、そのとき気付いた。

 不意に、湖のむこうに視線を走らせたとき、そのむこうに、何も見えないことに気付く。
 靄に隠れているのではない。
 なにもないのだ。

499 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/01/15(火) 00:39:21.02 ID:tcCjf0HSo


 あるのは水平線。
 空と海。
 
 視線をあげると、突然に、空が晴れ渡っている。
 夜が、ガラスのように砕けて消えた。そんな気さえした。

 遠く向こうに"何か"が見える。
 それがなにかは、分からない。

「結局、人はある意味ではずっと孤独で、安らぎなんて求めるだけ無駄なものかもしれない。
 あるいは、そんなもの、求めちゃいけないのかもしれない。人生に安らぎを求めると、不思議と、反対に苦しんでいくことになるから。
 でも、それを受け入れてしまうと……ふと、安らげたりする。本当に不思議なことに」

「……」

「見えるかな」

「……なにが、ですか」

「きみが探してるものは、このむこうにあると思うよ」

「……」

「友達がいるんだろう?」

500 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/01/15(火) 00:40:31.64 ID:tcCjf0HSo

「……俺には、わからないです」

「……なにが?」

「どうして、こんな世界ができあがったのか、この世界が、結局なんなのか。ぜんぜん、わからないままです」

 ふむ、と彼は息を漏らす。

「それはまあ、どうでもいいことだよ」

「……どうでもいい、ですか」

「迷惑をかけて悪いとは思う。きっと、きみにも、もしかしたら、ちどりや、他の子たちにもそうかもしれない」

「……ちどりのこと」

「ん?」

「気付いてたんですか?」

「……どういう意味?」

「……いえ」

 気付いていなかったのだろうか。
 佐久間茂。ストローマンは、気付いていた。

 言わないほうが、きっといいのだろう。

501 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/01/15(火) 00:40:59.02 ID:tcCjf0HSo


「……茂さんは、どうするんですか」

「帰るよ、僕は。……ここにはもう、用事はないから」

「本当にないんですか」

「うん。……見つかるといいね、友達」

「……」

 何を言えばいいんだ?

「……茂さん」

「……ん」

「本当に、人は孤独なんでしょうか?」

「……さあ?」

 靄に隠れた湖。 
 霧に紛れた街。
 見果てぬ水平線。
 葉擦れの音が響く森。
 鏡の中の国。
 人気のない場所。

 ここはどこか薄暗くて、ひとりぼっちの国みたいだ。

502 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/01/15(火) 00:41:25.77 ID:tcCjf0HSo

「たとえば、人と人との距離が……海と空みたいなものだったとしたら、結局、繋がりあえないかもしれないね」

 そう言って彼は、湖の……あるいは海の向こうを指さした。

 今は、凍てついて、静かに広がっている。

「もしかしたら、水平線のむこうで、つながることもあるかもしれない」

「……」

「きみが、たしかめるといいよ」

 そう言って、彼は俺の方を見た。その視線が、少しだけ、背後にブレる。

「……」

 なにかに驚いたように、彼の表情が止まる。
 振り返らなくても、そこに誰が立っているのか分かった気がした。

 けれど俺は、振り返らなかった。

「……じゃあ、俺は行きます」

 そう言って、茂さんの横を俺は通り過ぎた。
 振り返らずに、俺は、凍てついた湖の上を歩いていく。

 結局のところ、彼のことは、今の俺には関係のないことなのだ。
 どうして、ここに来たんだろう。

 でも、この先にきっと、さくらがいるような気がした。

 この凍りついた湖の先に、彼女がいる。
 彼女を見つけなきゃいけない。

503 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/01/15(火) 00:41:57.23 ID:tcCjf0HSo
つづく
504 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2019/01/15(火) 01:29:02.75 ID:ifCcFmSeo

展開すごい
505 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2019/01/15(火) 07:17:03.90 ID:UL+zOH7xO
おつです
506 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2019/01/15(火) 07:49:42.47 ID:3IJzyfDwO
乙!
507 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2019/01/16(水) 00:59:37.82 ID:HkAggy5d0
おつです
508 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2019/01/21(月) 00:56:08.98 ID:Gk1k2fMuO
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