【アイマス】滄の惨劇

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52 : ◆e85MZF7Uug [sage saga]:2019/06/26(水) 22:10:35.81 ID:UYoQ+4H80
「そうだよ。春香ちゃんは何も悪くないよ」

「あはは、ありがと、2人とも……ちょっと自信なくしかけてたかも……」

取り繕うに春香が答える。

「どーすんの? ピヨちゃん、ここにいないけど」

「小鳥さんのは省略してもいいんじゃないかしら。だいたい想像はつくし……」

「いや、読んでくれ。もしかしたら何か手がかりがつかめるかもしれない」

プロデューサーは終始真剣な表情だった。

「”あなたはしばしば淫らなことを考え、心の中で仲間を穢すことが何度もあった。

仕事を怠け、責任から逃れる愚かな振る舞いは三番目の罪だ”……といったところでしょうか」

内容のわりに貴音が滔々と読み上げたために妙な空気が流れてしまう。

「あらあら……」

困惑した様子のあずさが目を向けた先では、律子が怒りとも呆れともつかない顔をしている。

「ねえねえ、律っちゃん。ミダラって何のこと? 女王様?」

「それはアミダラ。知ってて訊いてるでしょ?」

「いやいや、亜美にはよく分かりませんな〜」

3人に対する告発が笑い飛ばせる程度の内容だと分かり、場にはいくらか和やかな雰囲気が戻ってきていた。

この分では残りも大した内容ではないだろう、と貴音に先を促す声があがる。

だが彼女の視線は告発文と響との間を何度も往復した。

「これは……本当によろしいのでしょうか……?」

逡巡の声は全員に聞こえていた。

「おーい、たかねー? 早く自分のも読んでほしいぞ。だいたい想像ついてるし」

「え、ええ……そうですね……」

貴音は喉元に指先をあてがい、深呼吸した。

「”あなたは兄を馬鹿にし、我が儘で故郷を離れ、連絡をしないために……家族を心配させ……”」

彼女はそこで言葉を切った。

「お姫ちん……?」

「”心配させ……父親の……死を、嘆き悲しむこともしない……家族を顧みず、受けた恩を忘れるのは四番目の罪だ”、と……」

再び空気が変わる。

「なん――?」

千早が弾かれたように響の横顔を見た。

響は俯いたまま視線を彷徨わせている。
53 : ◆e85MZF7Uug [sage saga]:2019/06/26(水) 22:16:36.63 ID:UYoQ+4H80
「ちょ、ちょっと……それって……?」

律子は何か言おうとしたが言葉が続かない。

誰もが口を閉ざしていた。

まるで時間が止まったように身動きひとつとれないでいる。

数秒が経ち、誰かが椅子にもたれる音がした。

「な、な〜んだ! あっははは、そういう意味だったのか〜!」

突然、響が腹を抱えて笑い出した。

「”不帰”って書いてあるから自分、島に帰らないことかと思ったぞ」

「響…………」

大仰に笑う彼女を、真は憐れむような目で見た。

反対に春香やあずさなどは彼女から目を逸らした。

「貴音っ!」

大声を出したのは美希だった。

「なんで読んだの!? そんなこと書いてるって知ってたらミキだったら読まなかったの!」

非難がましい視線に貴音は反駁しない。

「ヒドすぎるよ! 何もこんな――」

「いいんだ!」

「――ひび、き?」

「教えてくれって言ったのは自分なんだ。貴音を責めるのは筋違いだぞ」

「でも……ッ!」

「それに自分、こんなの気にしてないから。父さんが亡くなったのは自分が小さい頃の話だし。

ただ、急に父さんのことが出てきてビックリしたっていうか……」

困ったように笑って響は手を叩いた。

「もう! みんな、そんな顔しないでよ! 自分はほんとに平気だぞ!?」

そう言われても調子を取り戻す者はいない。

憐憫の視線が響に注がれる。

再び陰鬱な沈黙が場を支配しかけた時、

「次はボクだよね! 貴音、お願い!」

凛とした表情で彼女が言った。

「え…………?」

「早くボクのを読んでよ!」

真の目はまっすぐに貴音を見据えている。

わずかに動く唇は、空気を振動させずに”早く!”と促していた。

一瞬、救われたような顔つきになった彼女は勧めに従って告発文を読み換えた。
54 : ◆e85MZF7Uug [sage saga]:2019/06/26(水) 22:21:55.81 ID:UYoQ+4H80
「”あなたは現実を理解せず、自分の理想との食い違いに抵抗し、しかも父親の求めることに逆らった。

親の恩に報いる気持ちを知らず、感謝を忘れた親不孝は五番目の罪だ”、とあります」

「………………」

「ま、納得ね。私も前からそれは罪深いって思ってたのよね〜」

伊織が心底からバカにしたように言ったため、

「な……言ったな!? ボクだって毎日がんばってるんだぞ!」

真が顔を赤くして言い返した。

「真クンは女の子のハートを奪うから、立派なセットウ罪なの。これってそういうことでしょ?」

「み、美希までそんなこと言うなんてヒドイよ……」

彼女の落ち込みようが滑稽だったためか、プロデューサーまでもが笑った。

だが千早だけはにこりともせず、何かを考えているような響を見つめている。

「女の子らしくなりたい、って思うのは間違ってるのかなあ……」

「そ、そんなことないよ! 真ちゃんは今のままでも充分カッコイイよ?」

「だからボクはかわいい女の子になりたいんだって……」

「あ、ああ! ごめんね、真ちゃん……落ち込まないで……!」

先ほどとの落差に加え、伊織たちが茶化したことでいくらか明るさが戻ってくる。

「なんか言いがかりっていうかイジワルだよね」

「そう、ね……四条さん、お願いします」

「”あなたは歌を重視して他のことを軽く考え、その強いこだわりのために和を乱すことが度々あった。

協力することを妨害し、我を通して皆の心をばらばらにするのは六番目の罪だ”とあります」

これも想像していたとおりね、と律子が呟く。

「そんなことないです! 私、千早さんの歌、大好きです! それに皆、ばらばらになったりなんかしません!」

真っ先に反発したのはやよいだ。

「そうだよ。千早ちゃんにはファンがたくさんいるんだし、そんなのが罪だなんて――」

「っていうか、これ……内容だけなら律子、さんと被ってるの」

「ひょっとしてもうネタ切れなんじゃないのー?」

さして辛辣とは思えない、と彼女たちは口々に言った。
55 : ◆e85MZF7Uug [sage saga]:2019/06/26(水) 22:27:07.55 ID:UYoQ+4H80
「千早ちゃん……?」

「え、ええ、ごめんなさい。そうね、罪と言えるほどのことじゃないかもしれないわ。でも――」

春香の訝るような視線を避けるように、

「見方によっては……罪なのかもしれないわ…………」

彼女は誰にも聞こえない声で呟いた。

「これは戒めのつもりなのか……?」

プロデューサーの疑問に全員の視線が集まる。

「今までのを聞いていると、それぞれこういう部分があるから直した方がいい、と言っているようにも聞こえないか?」

たしかに、と何人かが頷いた。

だが律子がそれに異を唱える。

「それは好意的に解釈しすぎじゃないですか? そのつもりならこんな言葉を選ばなくてもいいじゃないですか。

それに”裁き”だの”血を以て償え”だの、どう考えても親切心の欠片もありませんよ」

「あ、ああ……たしかにそうだな……すまん、貴音、続けてくれ」

「はい、次は私ですね……」

貴音は目を閉じ、小さく息を吐いた。

「”あなたは自分に関することを何もかも隠し、そのために不信を招き、ときに仲間も騙した。

他人の心を弄び、惑わし、思うままにのさばる悪い態度は七番目の罪である”」

あちこちでため息が漏れる。

が、それは悲憤ではなく主に納得によるものである。

「お姫ちん、ナゾだらけだもんね」

「宇宙人説もあるくらいだし」

これに対しての異論は特に出なかった。

今までの中で一番正鵠を射ている告発だという声もあがったが、

「ひっかかるわね」

律子は”同朋”の文字を睨みながら言った。

「仲間を騙した、ってどうしてこれを書いた人が知っているのかしら?」

「どゆこと?」

「貴音が謎が多いのはいいとして、仲間を騙したかどうかなんて誰にも分からないじゃない。本人以外は――」

律子がそう言ったことで何人かが貴音に目を向ける。

「私が自分の事柄について隠していることを、”欺く”という言葉で表現しているのかもしれませんね」

だが当の本人は涼しい顔をして返した。

「これも本当っぽいけど、誰にでも書けそうな内容だね。貴音、気にしないで次いくの」

「え、ええ……次はやよいですね」

「はい、お願いします!」

やよいはぐっと両手を握りしめた。

「”あなたは守るべき家族との会話をあまりせず、何を思い何を考えているかを知ろうとしない。

弟や妹を軽く見て、自分だけが願いを叶えようとする勝手な振る舞いは八番目の罪である”と述べられてい――」

「そんなことないぞ」

言い終わるより先に響が口を挟む。
56 : ◆e85MZF7Uug [sage saga]:2019/06/26(水) 22:30:58.93 ID:UYoQ+4H80
「やよいは家族想いだし、仕事も家のこともちゃんとこなしてるからな。こんなのデタラメだ」

「響さん…………!」

「そうね、これを書いた奴の目はとんだ節穴だわ」

伊織もそれに同調したことで、やよいは目を潤ませている。

「ツンツンしながらも、やよいっちを気遣う健気ないおりんなのであった」

「ちょっと! ヘンなこと言ってんじゃないわよ!」

「まあまあ、そう怒りなさんな。ホントのことなんだから」

亜美と真美に代わる代わる揶揄され、伊織は顔を真っ赤にした。

「ああ、でも2人の言うとおりだ。やよい、こんなこと気にしなくていいぞ」

プロデューサーも後押しするが、彼女の表情は暗い。

「でも弟たちの面倒、長介に任せっきりにしてる時もありますし……」

「それは仕事を頑張ってる証拠じゃないか。弟さんたちもきっと分かってくれるさ」

「そう、だといいんですけど……」

これも大した内容ではない、ということで大方の意見は一致している。

罪というほどのことではなく、家族で話し合えばそれで解決する問題だから深刻に考える必要はない。

律子がそう言ったことで貴音は次の告発文を読み換えた。

「”あなたは自分が臆病で気が弱いことを知りながら、それをなかなか克服しようとせず逃げてばかりだった。

自立しようとせず自分の力で歩むことを怠ける小さな姿勢は九番目の罪である”ということですが……」

彼女は呆れたようにため息をついて、

「これを書いた者は大きな思い違いをしているようですね」

優しい目で雪歩を見た。

「先ほど、雪歩は勇気を出してこの告発文の内容を知りたいと言いました。これでも臆病と言えるでしょうか?」

「四条さん……でも私……小さいってことは、貧相でちんちくりんで臆病なのは本当だから……!」

雪歩は既に泣きそうな顔をしている。

その手を真がとった。

「大丈夫だよ、雪歩は臆病なんかじゃない。ちょっと怖がりなだけだよ」

「まこちん、フォローになってないよ?」

「そう? とにかく! 雪歩は本当は強くて根性があるってことだよ。だから――」

「………………?」

「とりあえずそのスコップはしまおうよ……ここに穴掘っちゃったら弁償できないでしょ?」

言われてスコップを脇に置く。

「やけに大きな荷物だと思ったら、こんなもの持ち込んでたのね」

「うう……やっぱり穴掘って埋まってますぅ!」

再びスコップを手にしかけた雪歩を総出で止めにかかる。

未然に阻止できたため、食堂の床に穴が開くことはなかった。
57 : ◆e85MZF7Uug [sage saga]:2019/06/26(水) 22:36:11.27 ID:UYoQ+4H80
「大勇は怯なるが如し、と言います。雪歩が勇敢であることはここにいる皆が知っていることです。このような戯言を聞き入れてはなりません」

「は、はい! あの、四条さん……ありがとうございます」

先ほどと違い、ほんのわずか自信を覗かせる雪歩の表情に貴音は小さく頷く。

が、その表情はすぐに険しくなり、

「さて、これはどうしたものでしょうか……」

再び告発文に目を戻す。

「次は……亜美ですよね?」

春香の問いに彼女は返事をしなかった。

「いいよ、お姫ちん。亜美たち、何を言われても大丈夫だから」

それまでおどけていた2人は真顔で言う。

「よろしいのですか?」

「だって今までのやつ全部、罪でも何でもなかったじゃん。どうせまたイジワルなこと書いてるんでしょ?」

「そう、ですね。全て言いがかりのようなものです」

「だったらいいじゃん。早く終わらせちゃおうよ!」

急かす亜美に対し貴音はしばらく黙っていたが、やがて呼吸を整えるように息を吐いてから、

「”あなたは双子を気にかけず、自分さえ良ければよいという気持ちで高みにのぼることを一番に考えて振り返らない。

共に歩むことをせず、共に手を取り合うことをしない卑しさは十番目の罪である”とあります」

亜美や真美に分かるよう、特に言葉を平易にして読み換えた。

「亜美、そんなこと思ってない!」

顔を曇らせた律子はあずさに何事かを耳打ちした。

「ほんと、言いがかりもいいとこだわ!」

伊織がテーブルを叩いて怒鳴る。

それに驚いた雪歩が身を縮こまらせた。

「これは竜宮小町のことを言っているのよね?」

「そうだろうけど、律子が気にすることじゃないわ。趣味の悪いイタズラよ」

今にも告発文を破り捨てそうな伊織をあずさが制した。

「私たちの気持ちはこんな言葉じゃ引き裂けないわ。そうでしょう、亜美ちゃん?」

「亜美、ほんとにこんなこと思ってないよ? みんなでがんばってみんなでアイドル続けたいもん」

「ええ、分かっているわ」

あずさは微笑し、亜美の頭を撫でた。

「お姫ちん、真美のも読んで。だいたい分かるから」

「………………」

真美の突き刺すような視線に貴音は求めに応えた。
58 : ◆e85MZF7Uug [sage saga]:2019/06/26(水) 22:39:38.29 ID:UYoQ+4H80
「”あなたは双子の活躍を祝わず、むしろ焼きもちをやき、恨む気持ちを抱いた。

家族から優れた者が生まれたことを喜ばず、悔しがる卑しい様は十一番目の罪である”と――」

訳しながら彼女は亜美と真美の様子を窺った。

2人はほとんど同じ反応をしている。

「これを書いた人は――」

呟いたのは春香だ。

「私たちを仲違いさせたいのかな?」

「仲違い?」

「こんな意地悪なことばかり書いて、揉めさせたいのかなって……」

「その意図は今は測りかねます」

貴音はそう言葉を置いたうえで、

「しかし無暗に恐れる必要はありません――そうでしょう?」

真美に視線を送った。

彼女はしばらく困ったように俯いていたが、やがて顔を上げて、

「うん。だって亜美も真美もこんなこと考えてないもん。ウソばっかりだよ!」

通る声で断言した。

「そうね、私も同感よ」

律子が前に出た。

「春香が言うように私たちを掻き乱したいだけなのかもしれないわ。こんなワケの分からない文章で――」

「ええ、ですからこのような”作業”は早々に終わらせましょう」

貴音はちらりと美希を見た。

「”あなたは才能に恵まれていることに溺れ、怠けた毎日を送ってきた。

自分を磨くことを忘れ、遊びに耽ってばかりいるのは十二番目の罪である”と書いてありますね」

言われた本人は呑気にあくびをしている。

「あんた、言われてるわよ……?」

まるで気にしていない様子の彼女に伊織が呆れたように言う。

だが彼女は眠そうな目で告発文を眺め、

「ミキのこと、褒めてくれてるの。だから気にしてないよ」

微笑して言った。

「う〜ん、これに関しては戒めね……」

「でもいつも寝てるけど、決める時はビシッと決めるから美希はすごいと思うぞ?」

「その、いつも寝てるのが問題だ、って言ってんのよ」

響がフォローするも、伊織がすかさず反駁した。

「しかしこれも個人の問題であって、罪という表現は大袈裟すぎる気がするな」

腕を組んで唸るプロデューサーの目つきは険しい。
59 : ◆e85MZF7Uug [sage saga]:2019/06/26(水) 22:47:17.97 ID:UYoQ+4H80
「それに……ちょっと気になることも……」

彼がそう口にしかけた時、伊織が一番に視線を向けた。

「どうかしたんですか?」

やよいが心配そうに見上げる。

「ああ、いや……貴音、続けてくれ」

「………………」

彼女は何か言いたそうに口唇をわずかに動かした。

だが結局、何も言わずに次の告発を読み換えた。

「”あなたは年長者としての自覚を持たず、さまようことを繰り返し、その悪い癖を直そうとしない。

あちこちを歩くばかりで他人の手をわずらわせる愚かさは十三番目の罪である”、とあります」

あずさは微苦笑した。

「困ったわね……治そうと努力はしているんだけど……」

その表情は柔和そのもので、他の誰とも違う穏やかな顔つきだ。

「迷子になるだけで罪なら、小さい子はみんな犯罪者ってことになるよね」

真の言葉に春香が頷く。

「もはや告発文になるように無理やり理由を探しているようにも思えるわ」

律子が憤然とした様子で言う。

内容がバカバカしすぎる、というのが大半の意見だ。

美希同様、さして深刻に受け止めていない様子のあずさに、

「”あずささんは”そのままでいいですよ。そんな風に思ったことは一度もありませんから」

律子が宥めるように言った。

「なんかミキに当てつけてるようなカンジがするの……」

拗ねたような口調の彼女に、

「よく分かったわね」

と律子が意地悪く言った。

「我那覇さん……」

多くが告発文に注目している中、そのやや後ろにいた千早が小声で響を呼んだ。

「ん? どうかしたの?」

彼女はすぐに振り向いたがその声量がやや大きく、近くにいた春香や雪歩がそれに気付いて視線を向ける。

「いえ、ごめんなさい、何でもないわ……」

千早は取り繕うように笑んで俯いた。

「さて、次がいよいよ最後ですね」

食堂に集まってから30分ちかくが経過していた。

「私は何となく分かってるわよ。さっさとやってちょうだい」

「”あなたはうぬぼれが強く威張ってばかりで、他人を見下し、思い上がった態度を隠そうともしない。

へりくだる気持ちを捨てた、ふふ……人としてあってはならない頑固で融通が利かないのは十四番目の罪”と――」

「ちょっと!? なんで笑うのよ!?」

「まんま伊織のことじゃないか」

真が囃し立てる。
60 : ◆e85MZF7Uug [sage saga]:2019/06/26(水) 22:53:56.06 ID:UYoQ+4H80
「これは弁解の余地はないわね……」

「律子まで!? あんたねえ、自分がプロデュースするユニットのリーダーが貶されてるのよ? そこは否定するべきでしょ!」

伊織は顔を真っ赤にして反駁した。

そんな彼女を宥めるように、

「誤解を招いたことはお詫びします。決して伊織を貶めるために笑ったわけではありません」

貴音は静かな口調で言う。

「他もですが、あまりに表面的にしか見ていないものばかりで、それが可笑しくてつい噴き出してしまったのです」

「………………?」

「人には皆、欠点があります。しかし誰にもその欠点を補って余りある美点があります。

この告発はほんの僅かな瑕疵を誇張し、罪悪に仕立て上げようとする悪意ある駄文に他なりません」

凛然とした語勢と態度は誰に対して向けたものでもなかった。

だがそれが場の空気を変えたのは確かだった。

「よく分からないですけど貴音さんの言うとおりだと思います!」

やよいが真っ先に賛同した。

「駄文って言われてるわよ?」

伊織がプロデューサーに言った。

「おいおい、まだ俺のこと疑ってるのか?」

「だってあんたの名前だけ挙がってないじゃない」

「ちょっと伊織、やめなよ。プロデューサーがこんなの書くワケないじゃないか」

見かねた真が割って入った。

「じゃあ誰が書いたっていうのよ?」

「それは……ボクにも分からないよ。あ、そういえばプロデューサー、さっき何か言いかけてませんでした?」

「あ、ああ……! ちょっと、な」

告発文を見上げていた律子がそのやりとりを聞いて彼に向き直った。

「何か気になることでもあるんですか?」

「まあ、これを書いた奴のことだけどな……」

「…………?」

「引っかかってたんだよ。内容もそうだが、なぜ俺のことだけ何も書かれてないのか――」

「だからそれはあんたが書いたから――」

最後まで言わずに伊織は言葉を切った。

「書いた奴は俺のことをあまり知らないんじゃないかと思ってな」

「どういうことですか?」

「どれもちょっと調べれば分かるようなことだ。例えば千早が歌にこだわってるとか、貴音に秘密が多いとか。

事務所の公式ホームページのプロフィールやブログの記事、ファンのブログなんかから拾い集めればこれくらいは書けると思う」

「たしかに……」

春香が納得したように頷いたが、すぐに弾かれたように顔を上げて疑問をぶつけた。
61 : ◆e85MZF7Uug [sage saga]:2019/06/26(水) 23:08:36.89 ID:UYoQ+4H80
「でも美希の普段の様子とかは分からないんじゃないですか?」

「いや、ライブDVDの特典映像で事務所の日常風景を撮ったものがいくつかあったハズだ。

それにツイッターやブログをやっている者もいるだろう? そういう情報からそれらしく告発文に仕立てたとも――」

「つまりいろんな情報を集めて、もっともらしく作ったってことですか?」

「そういうことだ。それなら俺の名前が出てこないのも納得がいく。皆は当然アイドルとして露出が多いが、

俺はプロデューサーだ。調べようにも告発文にできるだけの情報が見つからなかったんじゃないか?」

なるほど、とあちこちで納得する声があがる。

「頷けますね。思い返せばあずささんがよく迷子になることをインタビューで話したような気もしますし、

竜宮小町結成後の記事で私が常に厳しい態度で臨んでいると書かれたこともありましたし……」

「こじつけや言いがかりに近いのも、それが理由でしょうか?」

千早が怒ったような口調で訊く。

「俺はそう思う。表現をぼかせば誰にでも書けそうなことだ。難しい言葉を遣ってるのも、読む側にいろいろと

解釈する余地を与えて、さも当たっているように思わせる魂胆かもしれない。占いなんかでも使う手だ」

「あの、あの……プロデューサー……」

「どうした、雪歩?」

「プロデューサーの言うとおりだとしたら……知らない人がここにいるってことになりませんか……?」

全員の目が彼に集まる。

その視線の多くは批難がましく、伊織に至っては終始懐疑的な眼差しである。

「まさか!? ……いや、そうなるのか……?」

「はあ……興醒めね……」

伊織が皆に聞こえるようにため息をついた。

「サプライズのつもりでしょうけど、もっと巧くやりなさいよ。穴だらけじゃない」

「俺じゃないって言ってるだろ? それより雪歩が言ったように、この館に誰かいるのか……?」

「なんだか気味の悪い話ですね、それ……」

春香が身震いした。

ぱん、と手を叩く音が鳴り響き、全員の目がそちらに向けられる。

「はい、もうおしまい! 私は部屋に戻るわよ」

伊織だった。

こんなつまらない寸劇に付き合いきれない、と捨て台詞を吐いて彼女は食堂を出て行った。

「あ〜、あれは一番に犠牲になるパターンだね」

「いおりん、お約束すぎるよ〜」

亜美たちが言うと、

「伊織ちゃんじゃないですけど、私たちもそろそろ休みませんか? もう遅いですし……」

あずさがおずおずと切り出す。

食堂の時計は23時17分を指している。

穏やかな口調がそうさせたか、彼女たちが告発文に向けていた注意は一気に散漫になる。
62 : ◆e85MZF7Uug [sage saga]:2019/06/26(水) 23:15:51.27 ID:UYoQ+4H80
「ミキも言おうと思ってたの……あふぅ……」

テーブルに突っ伏した美希が大きな欠伸をした。

「ちょっと、こんなところで寝たら風邪ひいちゃうよ!」

「なら真クンに部屋まで運んでほしいの」

「なに言ってるんだよ。ほら、起きて!」

もはや緊張感や陰鬱なムードはなく、大半がこの問題に飽き始めている。

「私も眠くなってきたかも……」

「無理しなくていいのよ。朝からたくさん遊んで疲れたものね」

目をこすりながら呟くやよいに、あずさが年長者らしく気遣う。

「プロデューサーさん、やよいちゃんを部屋まで送りますね。私もそのまま自室に――」

「え、あずささん……? でも……」

「あ、私も一緒に行きます! 同じ方向ですから」

戸惑うプロデューサーを横目に雪歩が口を挟んだ。

「そ、そうか、それなら安心だ。大丈夫とは思うが念のため、ちゃんと部屋の鍵をかけておくんだぞ」

「は、はい!」

「ほら、美希もこんなところで寝ちゃダメだよ!」

春香に引っ張り起こされた美希は彼女にしな垂れかかった。

「ミキはここでいいの……」

「もう、美希ってば! プロデューサーさん、私も美希を連れて部屋に戻りますね。ちゃんと鍵もかけさせますから」

あずさ、雪歩、やよい、春香、美希の順に食堂を出ていくのを見送り、

「な〜んか白けちゃったね。もうちっと何かあると思ったのに」

「しょうがないから亜美たちも寝よっか? 良い子はもう寝る時間だし」

「ってワケで真美たちも部屋に戻るであります!」

左右対称の敬礼をして2人も食堂を飛び出して行った。

こうなると騒がしかった場も途端に静まりかえり、自然と残った者たちの口数も少なくなる。

「じゃあ、私もそろそろ――おやすみなさい」

愛想なく言い置いて千早は廊下に出ると、ドアのすぐ近くで一瞬立ち止まり肩越しに振り返った。

中ではプロデューサーと律子が何事かひそひそと話をしていた。

貴音は魅入られたように告発文を見上げ、真は腕組みをして難しい顔をしていた。

「………………」

響の姿は既にそこにはなかった。

目を閉じ、呼吸を整えてから千早は階段を登って自分の部屋へ向かった。
63 : ◆e85MZF7Uug [sage saga]:2019/06/26(水) 23:20:12.20 ID:UYoQ+4H80
「取り敢えず、この件は明日またゆっくり考えませんか? 時間も時間ですし」

埒が明かないことに若干イラついた口調で律子が言う。

「そうだな……2人も今日はもう休んだほうがいい。いろいろあって疲れただろ?」

「ええ、そうですね……」

貴音は微笑して返した。

視線は告発文に向けたままだ。

「じゃあ俺たちも部屋に行くから」

律子を伴い、プロデューサーも食堂を後にする。

「ボクたちも戻ろうよ」

23時25分。

真が背伸びをして言った。

「先ほどはありがとうございました」

この少女の声は抑揚がなく平素はそれが高貴さの裏打ちになっているが、今ではその静かな迫力はない。

むしろ弱々しく、自分が取るに足らないと決めつけていた存在にさえ縋ろうとする儚さが覗く。

「真が先を促してくれたおかげで響を追い詰めずにすみました。感謝します」

消え入りそうな声で言うと、彼女は深々と頭を下げた。

「やめてよ。別にそんなつもりで言ったワケじゃ――」

「いいえ、皆の注意を響から逸らす意図があったこと、私には分かりましたよ」

貴音が微笑むと、真は恥ずかしそうに頬を掻いた。

「見てられなかったからさ……お父さんが亡くなったっていうのに、晒し者にされてるみたいで……」

「その想いは響にも伝わっているでしょう。それにしても告発とは……穏やかではありませんね」

「これ、誰が作ったんだろう?」

「私には分かりかねますが、人の手によるものである以上、いずれ明らかになるでしょう。ただ――」

「…………?」

「それを望むか否か、です。性質の悪い悪戯、として取り合わないこともできますから」

「ボクはなんだかスッキリしないな。こんな引っかき回すようなことして、文句のひとつでも言ってやりたいくらいだよ」

「真らしいですね」

貴音は微苦笑した。

「ボクたちのことをこれだけ知ってるのも気持ち悪いし。誰が書いたのかくらいは知りたいよ」

腕を組み不快感を露わにした真だったが、すぐに告発文から目を逸らした。

「それにさっき雪歩が言ってたこと。知らない誰かがこの館にいるかもしれない、なんて本当にそうなら大問題だよ」

「おそらく誰も真面目に受け止めてはいないのでしょう。こういうのは――さぷらいず、というのでしょうか?

だとすれば低劣極まりないこと。私たちの中にかようなことをする者がいると思いたくはありませんね」

「なんて考えてても仕方ないか。さ、ボクたちもそろそろ寝ようか。考えても分からないし」

2人は食堂を出てそれぞれの部屋に向かった。

エントランスを通り、廊下を右に折れたところで貴音は雪歩とすれ違った。

「おや、どうかしましたか?」

声をかけられた雪歩はビクリと体を震わせ、

「あの、何でもないです……おやすみなさい、四条さん……」

恥ずかしそうにそう返して小走りに去っていった。

64 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2019/06/27(木) 01:05:51.98 ID:3sgfpEVQo
熊本弁に比べりゃ大して難解でもないな
65 : ◆e85MZF7Uug [sage saga]:2019/06/27(木) 21:39:29.36 ID:t17wTiGS0







―― 2日目 ――



 9時18分。

喉に手をやり、いつもどおりに発声できていることを確かめた千早はそっと食堂のドアを開けた。

「おはよう」

先に来ていた響が抑揚のない声で言った。

「あ、我那覇さん、おはよう……早いのね」

千早は取り繕うように言った。

「そんなことないぞ、ほら」

暖炉脇の時計を指差す。

「もうこんな時間だったのね」

「昨日はいろいろあったし疲れてたのかもね」

2人は自然と並んで告発文を見上げていた。

しばらくして、

「ねえ、我那覇さん――」

千早が憚るように切り出す。

「気分を悪くしたらごめんなさい。その、お父さんのことは本当なの……?」

言葉はすぐには返ってこなかった。

何か考えるような素振りをしてから響は、

「本当だぞ。自分が小さい時にね。だから顔も声も憶えてないんだ」

話題には似つかわしくない明るい声で言った。

「ごめんなさい……」

「別にいいってば。いないのが当たり前みたいなものだったから、寂しいとかそんな気持ちもほとんどないし」

「それでも……!」

千早は弾かれたように響の手を握った。

「千早……?」

彼女の真剣な眼差しに響はたじろいだ。

これは歌に真摯に取り組んでいるときの表情だ。

たかだか数分の準備運動代わりのボイスレッスンにさえ手を抜かない、鋭い目つきである。
66 : ◆e85MZF7Uug [sage saga]:2019/06/27(木) 21:42:03.76 ID:t17wTiGS0
「私にも――弟がいたの」

「弟……?」

「ええ、でも事故で亡くなったわ。ずっと前に――それが元で両親も離婚したの」

千早はそっと手を離した。

背を向け、椅子の背もたれに指を乗せる。

「なんで……そんな話をするんだ?」

反対に響は真っ直ぐに彼女を見据えた。

常に視野に全身を捉え、一挙一動を見逃さないようにした。

「――分からない」

ずいぶん長いこと間を置いて、彼女は背を向けたまま答える。

「ただ何となく、フェアじゃないと思ったから……」

「それって……」

「別に同じ痛みを持つ者同士、なんて言うつもりはないわ。ただ我那覇さんには言っておかなきゃいけないような気がして――」

響からは苦悶の表情を浮かべている彼女の顔は見えない。

「そのこと、他に知ってる人はいるの?」

「いいえ、誰にも。進んでするような話じゃないから」

「じゃあ自分たちだけの秘密だな」

響にしては珍しく控えめに笑った。

「誰にも言っちゃダメだぞ? 特に……春香には」

「……どうして?」

ずっと背を向けていた千早が驚いたように振り返った。

「えっと……春香と一番仲がいいでしょ? だから心配させちゃうかもって」

「………………」

「………………」

「ふふ、優しいわね、我那覇さんは」

「だ、ダメか……?」

「そんなことないわ。我那覇さんらしいと思ったのよ」

「むむ、なんかちょっとバカにされてる気がする……」

「ごめんなさい、そんなつもりじゃ――」

弁解しながら千早は暖炉に目をやった。
67 : ◆e85MZF7Uug [sage saga]:2019/06/27(木) 21:44:16.32 ID:t17wTiGS0
「同じ質問を私もしてもいいかしら?」

「なんだっけ?」

「その、お父さんのこと……知っている人はいるの?」

「どうだったかな……言ったような気もするし……あ、いや、やっぱり言ってないぞ――多分……」

響は腕を組んで唸った。

「そう、よね……わざわざ言うようなことじゃないものね。それなら――」

誰が書いたのか、と彼女は呟いた。

「気にしてないって言ったけど、気持ち悪いよね、これ」

「ええ」

「書いてることもだし、誰が書いたのかも……」

響が顔を顰めた時、外の廊下から数人分の足音が近づいてきた。

「おはようございまーっす!」

やよい、貴音、春香の3人だった。

「はいさい、やよい! やよいは元気いっぱいだな!」

「昨日はいつもより寝るのがちょっと遅かったですけど、疲れはしっかりとれました!」

「千早ちゃんに響ちゃん、おはよう。2人ともここにいたんだ」

「おはようございます。皆、談話室に集まっていますよ」

5人はそれぞれに挨拶を交わす。

が、ふとした瞬間に告発文を見てはばつ悪そうに視線を逸らした。

「そうなの? 自分が降りてきた時はまだ誰もいなかったのに」

「響ちゃん、何時ごろに起きたの?」

「9時前だったと思う。寝坊した! って思って慌てて降りてきたのに誰もいないからさ」

「あ、私も! 昨日ははしゃいじゃったから疲れたのかも」

「転び疲れた、の間違いじゃないのか〜?」

「もう、ひどいよ、響ちゃん!」

合宿はあくまで名目だったため、この島での工程は特に定めていない。

つまり起床時間も食事の時間も全てが曖昧になっている。

さらにいえば調理や配膳等の担当も明確に決めていたワケではないので、ここでの生活は各人の自由になっていた。

「朝食にはずいぶん遅くなってしまいましたが一度、談話室に集まりませんか?」

貴音の提案で5人は談話室に向かう。

「あら、寝坊助のお出ましね。美希でさえもう起きてるっていうのに」

ほぼ全員が揃っていた。

一番に嫌味を言ったのは伊織だ。

「そんなことないぞ。自分が降りてきた時にはまだ誰も起きてなかったんだからな! 伊織こそ――」

つまらないことで響が張り合おうとする。
68 : ◆e85MZF7Uug [sage saga]:2019/06/27(木) 21:48:28.16 ID:t17wTiGS0
さらに畳み掛けようとしたところでプロデューサーの姿を認めた彼女は、

「あ、プロデューサー。あのね、昨日の話なんだけど……」

もじもじと恥ずかしそうに切り出した。

「どうした?」

「あの後、よく探したらね……鍵、あったんだ。ポーチの底に穴が開いてて、隙間から奥に入り込んでたみたい」

「そうか、見つかってよかったな」

「だから借りてた鍵、返してくるね!」

恥ずかしさをごまかすように響は管理人室に走って行った。

「朝から騒がしいなあ」

呆れたように言いながらも真は笑っていた。

「そんなことよりお腹空いたの。もうとっくに朝ご飯の時間、過ぎてるよ」

「たしかに……」

ほぼ全員が時計を見やる。

とりあえず食事の準備をしよう、と春香が立ち上がった。

「パンと簡単なサラダくらいになるけど、それでもいいかな?」

「私も手伝います。春香さんひとりじゃ大変ですよ」

「じゃあ私は食器の準備をします」

やよいと雪歩が倣い、3人は食堂に消えた。

それと入れ替わるように律子が談話室に駆け込んできた。

「す、すみません! 私としたことがこんな時間まで……!」

肩で息をする彼女は服はやや乱れていて、髪もきちんと留められていない。

「ほほ〜……寝坊とはよいご身分になりましたなあ〜……」

「遅刻したからにはそれなりの罰を受けてもらわねばなりませんなァ」

ここぞとばかりに亜美と真美がにじり寄る。

「これで美希のことは言えなくなるわね」

伊織もそれに乗って意地悪な笑みを浮かべた。

「目覚ましはちゃんとかけたハズなのよ。なのにいつの間にか止めちゃってたみたいで……」

「俺たちだって変わらないさ。皆、さっき集まったばかりだし」

「え、そうなんですか? って、ちょっとあんたたち! まるで私が遅刻したみたいに――」

「寝坊は寝坊なの。ミキより遅く起きるなんて、ちょっと問題だと思うな」

「く……美希にまで言われるなんて……!」

普段、厳格な彼女が犯した失態に場は湧いた。

非を鳴らそうとする声と宥める声とが重なり、昨夜の陰鬱な雰囲気とは打って変わって和やかな空気を形成する。

すっかり赤面して反駁する律子はさながら道化役だった。
69 : ◆e85MZF7Uug [sage saga]:2019/06/27(木) 21:50:46.28 ID:t17wTiGS0
「あれ? あずささんはまだ寝てるんですか?」

批判の矛先を躱すように律子が言う。

先ほど厨房に向かった3人を除けばあずさだけがいない。

「さっき声をかけたけど出てこなかったから、まだ寝てるんじゃない?」

伊織の口調はいつものように突き放した感じだったが、表情はわずかに翳っている。

「あれ、あずさは?」

「何度呼んでも返事がないんだよー。ずっとドア叩いてたんだけど手が痛くなったから戻って来ちゃった」

落ち込んだ様子で亜美は美希の隣に座った。

「悪い予感がしますね」

「お姫ちん、悪い予感って……?」

「昨日は雨に当たりましたから、もしかしたら体調を崩してしまったのかもしれません」

「それじゃ大変じゃない!」

律子が勢い込んで言った。

「ああ、そうだとしたらマズいな。俺が様子を見てくるよ」

「そうは言っても鍵はどうするんですか?」

千早が訝しげに訊く。

「この際だから仕方ない。スペアキーを使わせてもらおう。無理に起こすのも悪い」

プロデューサーは管理人室に走った。

「ねえ、律っちゃん。お薬とかあるの?」

「念のために持って来てあるわ。湿布や消毒液なんかも揃えてあるわよ」

鍵を持ってプロデューサーが戻ってきた。

「待ってください、私も行きます」

「私も行くわ」

「私も……」

律子が立ち上がり、伊織、千早がそれに続く。

「様子を見てくるだけだぞ? そんな何人もで行かなくても――」

「あんたってホント、デリカシーがないわね。女子の部屋に飛び込むつもり?」

伊織が憮然として言った。

「あずさに何かあったら大変だから、私たちが行くって言ってんのよ」

「お、おい!? なんてこと言うんだよ!? そりゃたしかにあずささんは魅力的だし、たまに風に乗って甘い……」

言いかけて彼は言葉を切った。

「ハニー、エッチなの……」

「見損ないましたよ、プロデューサー……」

冷たい視線が突き刺さる。

「今のは言い間違いだ! ……いや、言い間違いっていうのはあずささんに失礼だけど……と、とにかく!

俺たちで様子を見てくるから、皆は先に食堂に行って食べててくれ!」
70 : ◆e85MZF7Uug [sage saga]:2019/06/27(木) 21:59:09.67 ID:t17wTiGS0
残された貴音たちは互いに視線を交換する。

「先に、って言われてもボクたちだけ食べるワケにはいかないよね?」

「仕方ありません。ひとまず食堂に参りましょう。春香たちにもこのことを伝えておくべきでしょう」

4人は一丸となって食堂に向かった。

「あ、ちょうどできたところだよ!」

配膳をしていた春香が言った。

時間も限られていたとあって、パンにサラダと紅茶というシンプルな品書きである。

だが量はそれなりにあり、空腹を満たすには充分だった。

「あれ、響も手伝ってたの?」

厨房からグラスをトレイに乗せて出てきた彼女に、真が声をかけた。

「うん、鍵を戻す時に食堂の前を通ったら、雪歩がテーブル拭いてるのが見えたからね。他のみんなは?」

「そのことなのですが――」

貴音が経緯を説明する。

「それは心配です……」

まだあずさが体調不良と分かったわけではないが、やよいは不安そうな顔をした。

彼らもすぐにやって来るだろうということで、彼女たちは適当に席についた。

「共演してみたい人? キラキラさせてくれる人だったら誰でもいいの。あと、寝てても文句言わない人」

「でもあのALGEBRAってグループとは一緒にやってみたいかも。パフォーマンスがすごくてさ」

「自分、メンバーのMMさんと勝負したことあるぞ。敗けちゃったけど最後に、”認めよう、きみの力を”ってサインもらったんだ」

「私は各地の郷土料理を食し、その魅力を多くの方々に伝える仕事ができればよいですね」

「お姫ちん、それってただ食べたいだけじゃないのー?」

アイドルだけあって話題はイベントやテレビ番組が中心となる。

そこそこに話が盛り上がりかけた時、ドタドタと廊下を走る音が聞こえ、食堂のドアが乱暴に開かれた。

「ち、千早ちゃん!? どうしたの、そんなに慌てて!? それに顔色も……」

縁にしがみつき、肩で息をしながら千早は、

「たいへん……大変なの……! あずささんが…………!!」

掠れた声でそう叫んだ。




71 : ◆e85MZF7Uug [sage saga]:2019/06/27(木) 22:03:40.43 ID:t17wTiGS0
 ふらつく足取りの千早を支えながら春香たちが2階に上がると、

「ああ、亜美……あずさが……あずさが……!」

伊織が今にも倒れそうな顔で駆け寄ってきた。

「あずさお姉ちゃんがどうしたの……?」

大変だ、としか聞いていない亜美は怪訝な顔をした。

鉄錆のような臭いがあたりに立ち込めている。

「あれ、何なんだ……?」

響が半開きになったドアを指差した。

左上から右下にかけて、赤いペンキのようなものが塗られている。

ドア全体に斜線を引いているように見えた。

「一体なにが……?」

春香が近づこうとする千早がその肩を掴んで制した。

だが亜美はその脇をすり抜けるようにして半開きになっているドアをゆっくりと開く。

「………………ッ!?」

同時に彼女の動きはぴたりと止まった。

まるで足を何重にも縫いつけられたみたいに進むことも退くこともできなかった。

その様子に訝しみながら真美が室内を覗き込む。

あずさはベッドの上に仰向けになっていた。

腹部から溢れ出た赤黒い液体がシーツを染め上げ、周囲の床に黒く変色した池を作っている。

乾き、べたついた水溜まりの中に同じ色に染まったナイフが落ちていた。

ナイトテーブルには電気スタンドとこの部屋の鍵が置いてある。

「何度呼んでも返事が、なかったから……開けたんだ……そしたら、こんな…………!」

プロデューサーはドアの前で蹲っていた。

誰もまだ部屋の中には入っていなかった。

「あ、あずささん!?」

遅れてやって来た春香たちも、その惨状を目の当たりにする。

「あ、ああ……っ!」

美希と響の後ろからそっと中を覗き込んだ雪歩は両手で口を覆った。

滑稽なほど震える彼女を真が抱きしめるようにして押さえる。

「これは面妖な…………」

ただひとり、貴音だけは表情を崩していない。

室内の様子を見てその場に立ち尽くす者、反射的に目を逸らした者、魅入られたようにベッドを見つめている者。

反応はそれぞれだったが誰も中に入ろうとはしなかった。

「退きなさい!」

そんな彼女たちを掻き分けるように伊織が飛び込む。
72 : ◆e85MZF7Uug [sage saga]:2019/06/27(木) 22:07:51.38 ID:t17wTiGS0
「待って!」

すんでのところで律子が制止した。

「乱暴なことしちゃ駄目よ! 後で捜査する時に問題になるわ!」

「捜査って!? どうしてあずさが死んだみたいに言ってんのよ!」

「見て分からないの!? どう考えたって――死んでるじゃないッ!!」

「信じない……信じないわよ、そんなこと! 今すぐに手当てすれば助かるかもしれないじゃないの!」

焦る伊織とそれを食い止めようとする律子は激しく言い争った。

その時、部屋の外から喘ぐような声が漏れ聞こえ、2人はハッとなって振り返った。

「どうして……どうしてケンカしてるんですか……!? どうして……あずささんの前で……!!」

やよいだった。

彼女の位置からは黒く変色したベッドシーツが見える。

「違うのよ、やよい! これはね……」

弁明しようとした律子を遮り、美希がやよいの視界を塞ぐようにドアの前に立った。

「やよい、下に行こ!」

そう言って腕を掴む。

「見ちゃダメなの! ミキも見たくないの!」

彼女は振り返りもせずにやよいを引っ張って階段を駆け下りた。

廊下にいた者たちは呆然と2人を見送ったが、しばらくして、

「…………ッ! わ、私も降りる! 誰か一緒についてきて!」

春香が慌ててその後を追った。

その声に導かれるようにして千早と真が続いた。

「どうして……!? ねえ、どうしてよ…………!!」

室内では伊織が拝むようにして慟哭していた。

「あず、さ……お……姉ちゃん…………」

それは亜美も同じだった。

彼女は泣き叫ぶことはせず、ベッドの傍に立ってただそれを見下ろしていた。

それから数分、室内も廊下も歔欷(きょき)の声が絶えることはなかった。




73 : ◆e85MZF7Uug [sage saga]:2019/06/27(木) 22:10:16.85 ID:t17wTiGS0
 9時57分。

一同は談話室に集まった。

食堂にはこれから食べるハズだった朝食が並べられたままだが、誰もそれには触れない。

沈黙の中、柱時計の音だけが響く。

「何の冗談よ、これ」

それを苛立たしげに破ったのは伊織だ。

「どうしてあずさがあんなことになってんのよ!!」

彼女は虚空に向かって叫んだ。

もちろん誰も答えない。

皆、ただ俯いているばかりだった。

「うぅ…………」

プロデューサーは嘔吐(えず)いて咄嗟に顔を背けた。

「だ、大丈夫ですか?」

「ああ、平気だ……ちょっと、思い出してしまってな……」

何人かは自然と天井を見上げていた。

「ま、まさかドッキリ、なんて……言わないよね……?」

響が不自然な笑みを浮かべて言ったが誰も反応しない。

「ごめん…………」

場は再び沈黙に包まれてしまう。

「これから……どうするんですか……?」

雪歩の問いはもはや囁きに近い。

「どうする、って言ったってボクたちにはどうしようもないよ。こういうことは警察に――」

真が言い切る前に春香が立ち上がっていた。

「そ、そうだよ! 警察! 警察に通報しなきゃ!!」

「あ、ああ、そうだな!」

我に返ったようにプロデューサーと律子がポケットをまさぐって携帯を取り出した。

「そんな…………」

が、その勢いはすぐに萎えていく。

圏外だった。

通話ボタンを押してみても、



”電波状態のよいところでかけなおしてください”



のメッセージが出るだけだ。

「私のも圏外だ」

「こっちも」

各々、自分の携帯電話を取り出して通報を試みるも結果は同じだ。
74 : ◆e85MZF7Uug [sage saga]:2019/06/27(木) 22:15:52.34 ID:t17wTiGS0
「あれ、雪歩は?」

真の携帯電話を覗き込んでいた雪歩に、春香は訝しげに問う。

「わ、私のは部屋に置いてきちゃって……」

彼女は申し訳なさそうに俯いた。

「落ち着いて聞いてちょうだい」

いつの間にか談話室の入り口に立っていた律子が言う。

「エントランスにある電話機もコードを切られてたわ。それも相当念入りにね」

この館にある電話機はエントランスにある一台だけのため、外部への連絡手段は断たれたことになる。

「もしかして、あずささんを殺害した人が……?」

という千早の疑問に伊織は不愉快そうに顔を顰めた。

「迎えの船は明後日にならないと来ないんですよね……?」

春香が訊くとプロデューサーは力なく頷いた。

「船頭さんには連絡できないんですか?」

「電話が通じればすぐにでも来てくれるよう頼めるんだけど……」

「だからその電話が通じないんでしょ!?」

伊織がヒステリックに叫んだ。

あまりの剣幕にやよいは怯えたように体を震わせた。

「律子を責めてもしょうがないだろ。それより自分たち、これからのことを考えないと――」

「分かってるわよ!」

「とにかく落ち着こう。なんとか外と連絡がとれないか考えてみる。俺が――!」

プロデューサーは言葉を切り、入り口を凝視した。

「兄ちゃん……?」

彼は一点を見つめたまま身動きひとつしない。

「……どしたの?」

「い、いま……廊下の向こうに人が――」

「ええッ!?」

「い、いや! 俺の見間違いかもしれない! ハッキリと見たワケじゃないんだ……」

彼が言うには、談話室正面の廊下をエントランス方向に走る人影が見えたらしい。

春香たちは互いに顔を見合わせた。

誰もが額に汗を浮かべている。

「駆け抜けたっていうか、小走りみたいな感じだった」

「小走り……たしかに私たち、誰も足音を聞いてませんよね」

「だよね。走り抜けたんだったら相当大きな音がするハズだもん」

「もしかして……その誰かがあずささんを……?」

雪歩が小さく声をあげた。
75 : ◆e85MZF7Uug [sage saga]:2019/06/27(木) 22:19:12.91 ID:t17wTiGS0
「ボクたち以外に誰かいるってこと……?」

「こ、恐いこと言わないでよ!」

春香がかぶりを振った。

「――追いかけよう」

震える声で真が言った。

「や、やめようよ、真ちゃん……危ないよ……!」

「でもこのままじゃ何も変わらないよ。それにあのヘンな文章を書いたのもそいつかもしれないじゃないか」

「だとしても危険だわ。あずささんをこ……殺した相手ならなおさら……」

律子はぎこちない手つきで何度も眼鏡をかけなおす。

「じ、自分も追いかけたほうがいいと思う」

「あなたまで何を言いだすのよ?」

「放っておいてどこかに隠れられたらどうするんだ? 殺人犯がうろうろしてるなんて恐すぎるぞ!

だけど今のうちに自分たちで捕まえちゃえば安心でしょ!?」

「プ、プロデューサー、どうします?」

律子はすっかり冷静さを失っているように見えた。

竜宮小町をまとめあげる気概は鳴りを潜め、決断を彼に委ねる。

「2人の言うことも分かる。でも相手は人を殺した奴かもしれないんだ。危険すぎる」

「だからその人殺しを放っておくほうがよっぽど危険じゃないか! 追いかけて危ないのは今だけでしょ!?

でも放っておいたらもっと危ないことになるかもしれないじゃないか!」

その後も響はしきりに追跡することの必要性を説いた。

何者かがいるなら捜しだし、捕まえるなり閉じ込めるなりしておかなければ自分たちも安心できない。

警察に通報できない現状、凶悪犯を野放しにはできないというのが彼女の論だ。

この主張に真、伊織、美希、貴音も賛同した。

「分かった。なら俺も行く。他はここに残っていてくれ」

根拠はなかったが6人もいれば大丈夫だろう、ということで彼らは一塊になって廊下に出た。

人影が走り去ったとされる方向はエントランスに階段、食堂などがある棟だ。

いざ犯人と対峙した時、最も頼りになるという理由で真と響が先頭に立つ。

「まさか空手がこんなところで役に立つなんてね」

「自分も琉球空手やってたからな。相手が武器を持ってても平気だぞ」

館の構造はシンプルで回り込むような場所もないから、突き当たりまで調査すれば必ず犯人に辿り着く。
76 : ◆e85MZF7Uug [sage saga]:2019/06/27(木) 22:26:04.00 ID:t17wTiGS0
――ハズだった。

「なんで……?」

食堂、厨房、管理人室、美希の部屋、真の部屋と順番に調べたが目的の人物は見つからなかった。

道中、隠れられるような場所はほとんどない。

彼らは念のために食堂のテーブルの下や厨房の調理器具置き場も確認したが、やはり何もなかった。

「いずこへか消えた、とでもいうのでしょうか?」

突き当たりの壁を凝視して貴音が呟く。

「1階じゃなくて2階に行ったかもしれないよ」

「あんた、本当にこっちの方向で合ってるんでしょうね?」

「間違いない、と思う。見間違いじゃなければな」

「どこに行ったかも気になるけど、そもそもどこから来たんだろう?」

「考えてる暇なんてないわ。このまま2階も探すわよ!」

一同は2階に上がり、西側から順番に調べ回った。

だが怪しい人物はどこにもいなかった。

「おいおい、俺の見間違いなのか……?」

プロデューサーは頭を押さえた。

「でも見たんでしょ?」

「あ、ああ……」

「とりあえず律子たちのところに戻らない? ここで固まってても仕方ないし」

談話室では律子たちが不安げに彼らが戻って来るのを待っていた。

「どうでした? ……って聞かなくても分かりますね」

「ああ、どこにもいなかったよ。やっぱり俺の見間違いだったのかもしれない」

「見間違いなんかじゃないと思う。絶対どこかにいるハズだぞ!」

落ち込むプロデューサーに響が掴みかからん勢いで言う。

「あの告発文を書いたのも、あずささんを……殺したのも……そいつに決まってる!」

伊織は少し離れたところに立って、力説する響を見ている。

その目つきは普段よりも鋭かった。

一同は何者かが潜りこんでいるという前提で今後の対応について話し合った。

突き詰めればその何者かを探し出すのか、それとも安全を最優先にするか、ということになる。

積極的に意見を出す者もいれば、気味悪がって旗幟を曖昧にする者もいる。

そんな中で、人影を見失ったのは館の外に逃げたからではないか、と貴音が言った。

常に平静を保ち、見識が高い彼女の仮説とあってその言い分にはほとんどが頷いた。

そこで再び捜索を徹底すべきではないかという声があがる。

何者かが館内にいないからといって安心していいのか?

島のどこかにいるとしても放置しておいてよいのか?

また戻って来るのでは……?

明後日まで凌げるのか……?
77 : ◆e85MZF7Uug [sage saga]:2019/06/27(木) 22:29:27.34 ID:t17wTiGS0
正体を突き止めるべきだとする強硬派と、固く戸締りをして身を守るべきだとする穏健派に分かれ議論が繰り返される。

結局、双方の意見を尊重して捜索が行われることとなった。

一度だけ総出で捜索し、仮に発見できなかったとしても追加の捜索は行わず、その後は館内で犯人に備えるというものである。

徹底的に突き止めたいという真や響は不満そうだったが、安全を考えて最後には同意した。

「じゃあグループを3つに分けて、それぞれの範囲を調べる――で、いいわね?」

一貫して穏健派だった律子は明らかに不服そうな顔で言った。



プロデューサー、真、亜美、やよいのAグループ。

春香、千早、真美、響のBグループ。

雪歩、伊織、律子、美希、貴音のCグループ。



各々の性格や体格等を考慮して、以上のように分かれることになった。

何者かは既に館の外にいる可能性が高いとの理由から、Aグループは館近辺、Bグループは島の中央部と沿岸の中間辺りを、

Cグループは島の外周をそれぞれ捜索することに決まった。

念のために武器になるものを持っておいたほうがいいとプロデューサーが提案したため、厨房や物置から使えそうなものを集める。

厨房には包丁も数本あるが鋭利なものは却って危険だということで、擂粉木やモップの柄等がそれぞれの手に行き渡った。

「なんか頼りないね……大丈夫かな?……」

亜美が卵焼き器をしげしげと見つめながら言った。

子どもでも片手で扱えるが、力いっぱい殴れば衝撃はかなりのものだ。

「仕方ないよ。刃物は危ないし」

そう言う真は何も持っていない。

「大丈夫かな……鉄砲とか持ってたらどうしよう……?」

「そんなものを持っていたら、あずささんを殺害する時にナイフを使ったりしないわよ」

心配そうな春香を宥める律子はまだ不機嫌そうだった。
78 : ◆e85MZF7Uug [sage saga]:2019/06/27(木) 22:33:41.63 ID:t17wTiGS0
「どうでしょう。私たちに気付かれぬよう、敢えて銃火器の類を使わなかったのかもしれません」

「だ、だったらこんなフライパン持ってても何の役にも立たないじゃん!?」

亜美はすっかり怯えた様子で顔を卵焼き器で隠した。

「あ、それいいな! 亜美、そうやってたら鉄砲の弾も防げるんじゃないか?」

「こんな薄っぺらいのなんてすぐに穴開いちゃうよ! ひびきんこそ、どうすんの?」

「自分は弾なんて全部避けてやるさ!」

「デラックスみたいに?」

「あれは結局、足に当たるからなあ。それとデラックスじゃなくてマトリックスだぞ?」

「あんたたち、ちょっとは緊張感持ちなさいよ……」

律子はさらにイラついた口調で割り込んだ。

「じゃ、じゃあ遭遇してもあまり刺激しないように……大丈夫、とは思うけどくれぐれも気をつけてくれ」

そう言うプロデューサーの声が一番震えていた。

何者かを捕まえるに越したことはないが、下手に刺激して逆襲に出られたら危険だ。

彼はその点を再三言い含めた。

「1時間後に談話室に集合だ。いいな?」

携帯電話が使えない状態での行動となるため、3グループは互いに連絡をとれない。

そのためしっかりと約束を交わし、普段の仕事以上に時間厳守を徹底しなければならなかった。

「それじゃあ行くわよ」

伊織が4人を率いて館を出た。

Cグループのリーダーは律子のハズだったが、実質的には早くも伊織がその役を担っている。

「わ、私たちも……!」

Bグループは春香がリーダーを務めるがこれは心許ない。

最後に館を出たAグループはプロデューサーが主軸となる。




79 : ◆e85MZF7Uug [sage saga]:2019/06/30(日) 21:57:27.09 ID:dw861vzd0
 10時22分。

「水瀬さんたちはもう海まで出たかしら?」

草を掻き分けながら千早が呟いた。

「着いてるんじゃないかな? 真っ直ぐ歩けば5分くらいの距離だし」

Bグループは館を中心に半径300メートルほどの範囲を捜索する。

昨日、突然の豪雨をもたらした雨雲は既に消え去り、広闊たる青空が広がっている。

4人は落ち着きなく辺りを窺った。

時おり風が吹いて草が揺れると、彼女たちは反射的にそちらの方を見やる。

犯人はどこに潜んでいるか分からないのだ。

小さな物音ひとつにさえ、春香たちは全神経を集中させた。

「あっ!?」

響が声をあげた。

「な、なに!?」

振り向いた春香はあやうく転びそうになった。

それぞれ手にした武器をしっかり握りしめ、身を固くする。

「ご、ごめん……見間違いだったみたい……」

響が指差した先では背の高い草が風に揺れていた。

「ちょ……ひびきん! 心臓に悪いって!」

真美はその場に座り込んだ。

「だからごめんって。でもこんな場所にいたら、動く物が全部怪しく見えるぞ……」

「それはそうかもしれないけど……」

春香が非難がましい目を向ける。

その後も山狩りよろしく少人数での捜索が続く。

しかし林立する高木と風に靡く草花以外には特に何も見当たらない。

そうして10分ほど館を中心に円を描くように歩いている時、

「どうしたの、千早ちゃん? さっきからずっと何か考え込んでるみたいだけど?」

その様子を気にした春香が声をかけた。

「ええ、ちょっと気になることがあるっていうか……」

ハッキリとはしないが引っ掛かるものを感じる、と彼女は言う。

このBグループの行動範囲ではたまたま草木が視界を遮る場合を除けば、彼女たちは常に館の全体が見える距離にいる。

千早はしばしば顔を上げては館を見つめ、その度に首をかしげている。

「やっぱり……」

館の真後ろまで来た時、彼女の足はぴたりと止まった。

「どったの? 千早お姉ちゃん」

響と前を歩いていた真美が振り返る。
80 : ◆e85MZF7Uug [sage saga]:2019/06/30(日) 21:59:40.19 ID:dw861vzd0
「あれを見て」

千早が指差したのは館の上の部分だ。

3人は背伸びしたり、体を左右に動かしたりして観察するが特におかしな点はない。

「煙突がないわ」

館は遠目から見ると横に長い箱のようになっていて、鋭角のないのっぺりとした屋根になっている。

4人がいる場所は島の中でも比較的高い位置にあり、屋根をほぼ水平に見ることができた。

確かに彼女の言うように煙突の類はない。

しかしそれがどうしたというのか、という響に、

「確かめたいことがあるの……いいかしら?」

千早は凛とした表情で言った。

「ん…………?」

その時、2階の窓を見ていた響が声を漏らした。

「どうしたの?」

それに気付いた春香が声をかけるが、

「な、なんでもない。なんでもないぞ。うん……」

彼女はぎこちない笑みを浮かべるばかりだった。




81 : ◆e85MZF7Uug [sage saga]:2019/06/30(日) 22:06:14.36 ID:dw861vzd0
 5人はまず桟橋に向かい、そこから時計回りに島を一周することにした。

この島はそう広くはないが、さすがに1時間では回りきれない。

そこで人が隠れられそうな要所を優先し、見通しの良いところをショートカットすることになる。

ただし平坦な道ばかりではないから、進むには慎重さを要する場所もある。

「昨日はここで遊んでたのよね……」

桟橋を背に浜を歩きながら律子が呟いた。

ビーチバレーのために描いたコートは昨日の雨がすっかり洗い流してしまっている。

一帯は白い砂がなだらかな起伏を形成し、空の青さとも相俟って南の島と呼ぶに相応しい景勝だ。

しばらく歩くと岩肌が露出した段差が伸びており、それを越えた途端に木々が犇めいていて枝葉が空を覆い隠す。

この辺りから左手は急斜面になるため、伊織たちは少しだけ歩くペースを落とした。

「何者かが潜んでいるやもしれません。呉々もご注意を」

Cグループの中心は伊織だが、先頭に立っているのは貴音だ。

そのすぐ後ろ、彼女の背中に張り付くように懸命についていく雪歩。

さらに伊織、美希、律子と続き、5人は周囲を油断なく窺いながら森の中を進む。

「何もないね……」

美希が安心したような口調で言った。

森をしばらく行くと今度は上り坂が続く。

大して急ではないが昨日の雨で泥濘(ぬかる)んでいる場所が多く、滑らないように姿勢を低くして登る。

「きゃっ!」

坂を登りきったところで雪歩が泥に足をとられた。

バランスを崩し、転げ落ちそうになるのを傍にいた美希が腕を掴んで引っ張り上げた。

「…………!?」

一瞬、美希の表情が引き攣る。

「び、びっくりした……ありがとう、美希ちゃん……」

「ケガしてない?」

「うん、大丈夫……」

雪歩は照れ笑いを浮かべた。

「あんたたち、大丈夫なの?」

最後尾にいた律子が見上げた。

「だ、大丈夫です!」

「まったく、これだから反対だったのよ……」

強硬派の意見も取り入れたことに彼女はまだ不服のようだった。

その後、全員が坂を登り終える。

「……雪歩、手、冷たいね」

美希がぼそりと言った。
82 : ◆e85MZF7Uug [sage saga]:2019/06/30(日) 22:10:48.89 ID:dw861vzd0
「え? そ、そうかな……?」

「うん、さっき掴んだ時、すごく冷たかったの。ミキ、びっくりしちゃった」

「うぅ、ごめんね……」

「謝ることないよ。手、つなぐ?」

「え……?」

「そしたら少しは温かいの」

そう言って彼女は雪歩の手をとった。

左手に海を見ながらさらに進むと、周辺の草花の丈が少しずつ低くなっていく。

徐々に遠くまで見通せるようになると、前方の木々の隙間にひときわ強い光が差し込んでいる。

鬱蒼とした森林の終わりだった。

「こっちはこんなふうになってるのね……」

一気に降り注ぐ陽光に伊織は手をかざした。

先は緩やかな登りになっていて、凹凸も少ないために歩くには支障はない。

だが硬い土が数十メートルほど前方に続いているだけで、その先は切り取られたようにどこにもつながっていない。

「あまり前に行くと危険ですよ」

伊織について歩きながら貴音は周囲を見渡した。

いつの間にか伊織が先頭に立って歩いていた。

この高所からは、海が少しだけ遠くに見える。

端まで行くとそこは崖になっていて、見下ろせば寄せる波が岩礁にぶつかって真白な飛沫をあげている。

壁面は弓形に削り取られているため降りるのは不可能だ。

腹這いになって身を乗り出しても、大きくカーブを描いた断崖のおかげで真下の様子は分からなかった。

「ちょうど桟橋の反対側あたりかしらね」

海を正面にしたときの太陽の方向から、律子はそう推測した。

「この下はどうなってるのかしら?」

直接降りて調べられないことに伊織はイライラした様子で言った。

「洞窟になってて宝物とか隠されてるかもしれないよ?」

「そんなの映画の中だけでしょ?」

美希が惚けた調子で言ったので彼女は呆れたように返した。

「船でもあったら入って調べられるのに、残念なの」

「船があったらとっくにこの島を出てるわよ」

崖下を憎々しげに睥睨してから伊織は天を仰いだ。

「こんなところに犯人が隠れられるワケないわ。行くわよ、あずさを殺した奴を絶対に見つけてやるんだから」

彼女が早足で歩き出したため、4人は慌ててその後を追った。




83 : ◆e85MZF7Uug [sage saga]:2019/06/30(日) 22:12:36.39 ID:dw861vzd0
「なんか、こうして見ると気味悪いね……」

館を出るなり亜美が振り返って言った。

木製の玄関扉は年季が入っていると言えば聞こえは良いが、それゆえの木目や染みが不気味な模様を描いている。

特にドアノブあたりの模様は濃淡のせいで髑髏のように見えた。

「みんな、離れるなよ」

モップの柄を両手にしっかり握り、及び腰で先頭を歩くのはプロデューサーだ。

最初、真がその役を引き受けようとしたが、万が一のことがあってはいけないからと彼が下がらせた。

「頼むから何も出てくれるなよ……」

歩みは遅い。

館近辺の捜索のため、遠出するCグループより楽そうだが、彼らの行動範囲には死角も多い。

館の角、茂み、丘陵の向こう側……。

見回せば犯人が身を潜められそうな場所はどこにでもあった。

「やっぱり止めたほうがよかったな――」

「プロデューサーは最後まで反対してましたもんね」

ぐっと拳を握りしめて真が言う。

「当たり前だろ。大事なアイドルをみすみす危険な目に遭わせるようなこと、賛成できるワケないじゃないか」

「でも犯人を捕まえないで野放しにするのも、それはそれで危険じゃないですか」

「それは、まあ……」

彼は数歩おきに振り返った。

亜美もやよいも一定以上の間隔をあけずにしっかりついて来ている。

「悔しいですよ。あずささんを殺した犯人……ボクは絶対に許せません」

「それは俺も皆も同じだ。正直、犯人を見つけたら冷静でいられる自信がない」

彼は蒼い顔をして言った。

「頼もしいですね、プロデューサー」

真は引き攣った笑顔を浮かべた。

館の壁伝いに歩いていた4人は、ちょうどあずさの部屋の真下まで来た。

「どうやって入ったんだ……?」

窓を見上げてプロデューサーは呟いた。

「登っていったんじゃないですか?」

「足場もないのにか? それに窓には鍵がかかってるぞ」

彼の言うように窓は施錠されている。

「後で誰かが閉めたとか……?」

「いや、俺も律子も確かめた。俺たちがあずささんの部屋に入った時、間違いなく鍵がかかってた」

「じゃ、じゃあ中からってことに……なりませんか?」

真は身震いした。

そのとおりなら殺人犯と一夜を過ごした可能性が出てくる。
84 : ◆e85MZF7Uug [sage saga]:2019/06/30(日) 22:18:03.36 ID:dw861vzd0
「あ、あの、プロデューサー……それに真さんも……」

やや離れたところからやよいが小声で言った。

「そういう話は……やめてほしいかな、って…………」

彼女は今にも泣き出しそうな亜美の肩を抱いている。

「す、すまん……」

プロデューサーは慌てて腰を屈め、目の高さを亜美に合わせた。

そして震える両腕を挟むように掴み、落ち着かせる。

「悪かった。そんなつもりじゃなかったんだ。ただ……大事なことだったから……」

考えておかなければならなかった、と彼は言う。

「ボクも、ごめん。早く犯人を見つけたい、って気持ちばかり焦って……」

真は憎々しげにあずさの部屋を見上げた。

しっかりと鍵をかけられた窓には、外から見る限りでは犯人が出入りしたような跡はない。

昨日の降雨によってできた小さなシミも、他の部屋のものと大差はない。

「分かってる……亜美だって、このままじゃイヤだもん……」

「亜美……?」

「恐いけど……でも犯人を見つけたいっていうのは亜美も同じだよ。多分、いおりんも――」

その時、背後の茂みからガサガサと音がした。

4人が咄嗟に振り向く。

「だ、誰だっ!?」

立場上、プロデューサーが前に出るが腰は完全に引けている。

「2人とも離れてて」

やよいたちに小声で言い、真も彼の横に立つ。

「か、隠れても無駄だぞ! こ、こっちは分かってるんだからなっ!」

モップの柄を握りしめながら、彼はゆっくりと……後退りし始めた。

腰の高さほどある草が揺れ、その隙間から人が飛び出して。

「わあああぁぁぁっっ!」

彼は自分の足に躓いて尻もちをついた。

武器だけはしっかりと握っていて、あたり構わず振り回している。

「プロデューサー、私たちですよ、私たち」

春香が少し拗ねたような顔で言う。

「驚きすぎだぞ……」

響が呆れたように言うと、その後ろで千早が申し訳なさそうに微苦笑した。

「春香さんたち、どうしたんですか? まだ30分以上もありますよ?」

館を出てから20分ほどしか経っていない。

予定では1時間後に談話室に集まることになっている。

「千早お姉ちゃんが気になることがあるって言うから戻ってきたんだよ」

それが何かをまだ聞いていない真美も分からない顔をしている。

「も、戻って来るにしても分かりやすいところから来てくれよ……心臓が止まるかと思った……」

プロデューサーは尻もちをついたまま抗議した。

「で、何なんだ? その気になることっていうのは?」

「それは――」
85 : ◆e85MZF7Uug [sage saga]:2019/06/30(日) 22:24:48.10 ID:dw861vzd0










Aグループ、Bグループが合併したことで彼女たちの表情にはいくらか余裕がある。

人数が多いほど死角は減り、また犯人が手を出しにくい状況を作り出せる。

千早を先頭に彼女たちは食堂にやって来た。

朝食はそのままテーブルに残されている。

「紅茶、冷めちゃってます……」

やよいが残念そうに言った。

当然、誰も口をつけていない。

「ほんとだ! 足場があるよ!」

暖炉を覗き込んで亜美が叫ぶ。

「やっぱり……」

千早が告発文を見ないようにして呟く。

気になること、というのはこの食堂でもひときわ目を引く暖炉のことだった。

「引っかかっていたの。改めて外から見たらどこにも煙突がなかったから――。本来の暖炉ではなくてただの装飾なら、どこかに繋がっているのかと思って……」

亜美は携帯電話のライトで中を照らした。

手前の壁に等間隔で互い違いに突起があり、それはずっと上まで続いている。

数十センチ張り出した突起は足をかけて登るには充分だった。

「こんなものがあったのか……」

亜美と交代に中を覗き込んだプロデューサーはため息をついた。

足場は手前の壁にしかないため、暖炉に顔を近づけただけでは見つけられない。

中まで入り、振り返って見上げなければまずその存在には気づかない。

「もしかしてここから……?」

春香の言葉に何人かが頷く。

彼女の考えは何者かがこの足場を使ってここに隠れたか、あるいは足場がどこかに続いていて2階に逃げ込んだ、というものだ。

プロデューサーが目撃したという人影が消えたのもこれで説明がつく。

「登っていったらどこに辿り着くのかな?」

響が首をかしげた。

「真上は多目的室だったわね」

千早が顎に手を当てて言った。

「登って確かめてみようよ」

言うなり響は暖炉に顔を突っ込んだ。

「ちょ、ちょっと待ってよ!」

真が慌てて響の手を掴んだ。
86 : ◆e85MZF7Uug [sage saga]:2019/06/30(日) 22:25:33.46 ID:dw861vzd0
「なんで止めるんだ? 犯人の居場所が分かるかもしれないじゃないか」

「だからだよ! 独りで行くなんて危ないよ。先で犯人が待ち伏せしてるかもしれないだろ」

「あ、そっか……」

苦笑いを浮かべながら響が引き返す。

千早はそのやりとりを鋭い目つきで見ていた。

「よし、なら俺が先に多目的室で待っていよう。亜美、真美、やよいもついて来てくれ」

「分かりました」

「ボクは行かなくていいんですか?」

「俺たちが2階に行っている間、ここを守ってくれ。心配するな。さっきはカッコ悪いところを見せたが、俺も男だ。2階で何か起きても対処するさ」

暖炉を登るのは5分後、と決めて彼らは食堂を出て行った。

「それにしても千早、こんなのによく気が付いたな」

響は言いながら何度も頷いた。

「プロデューサーが見た人影がどこにもいなかった、っていうのが気になってたの。階段を使ってないなら……ここをよく調べてないのを思い出して……あれがあるから……」

千早は告発文をちらりと見た。

しかしすぐに視線を戻し、

「我那覇さんも気付いてたんじゃないの? 暖炉に何かあるかもしれないって」

真顔でそう問うた。

「え、そうなの!?」

驚いて声をあげたのは春香だ。

「そんなことないぞ。こんなの、思いつきもしなかったし……なんでそう思うんだ?」

恥じるような、拗ねるような口調で返す。

「いえ、なんとなく……いつもカンペキだって言ってるから、気付いてるのかと思って」

千早は申し訳なさそうに言った。

「そろそろ5分経つけど……響ちゃん、本当に大丈夫?」

「ちょっと登って見てくるだけだぞ? 多分、多目的室に続いてるんだろうし、上にはプロデューサーたちもいるし平気さ」

「我那覇さん、私が行くわ。見つけたのは私だし……」

と言う千早だったが、

「自分に行かせてくれ」

彼女は突き放すような口調で制した。

千早はそれ以上は何も言わず数歩下がり、一瞬だけ食堂の入り口に目を向けた。

「響、気をつけてね。何かあったら大声で叫んで。すぐに行くから」

「大袈裟だなあ、真は」
87 : ◆e85MZF7Uug [sage saga]:2019/06/30(日) 22:29:37.00 ID:dw861vzd0
大仰に笑い、響は身を屈めて暖炉の中に入った。

身軽さを活かして一段、一段と足場を登っていく。

中ほどまで来ると食堂の明かりが届かなくなり、手探りで足場を確保する必要がある。

響は携帯電話のライトを点けて銜(くわ)えた。

頼りないが今はこれが唯一の光源だ。

さらに何段か登ったところで天井部分に当たる。

響は首をかしげるようにしてライトを上に向ける。

行き止まりではなかった。

こげ茶色の板が蓋のように頭上を覆っているが、手が届くところに取っ手が付いている。

それを引っ張ってみる。

だがビクともしない。

反対に押し上げてみると、天井の一部が嫌な音を立てて持ち上がった。

その隙間からうっすら光が差し込んでくる。

「響さん!」

やよいが覗き込んでいた。

最後の突起に足をかけて縁を掴み、響は伸び上がるようにしてさらに取っ手を押し上げた。

「やっぱりここに繋がってたのか……」

やよいと亜美に引っ張り上げられた響は、辺りを見回して言った。

彼女が出てきたのは多目的室の中ほど。

この部屋は入って正面に長テーブルが”コ”の字形に置かれていたが、裏に回り込むと床下収納のような床の切れ目があった。

響はそこを押し開けて出てきたのだが、床自体には取っ手もなければ目立つ境い目もない。

「やよいっちが見つけたんだよ」

と言ったのは真美だ。

暖炉で繋がっているなら当然、多目的室からも降りる場所があるハズだとプロデューサーが言い、4人で探していたところ、やよいがこの床の切れ目に気が付いたという。

「これ、こっちからは開けられないんだよ」

亜美が床を指差して言った。

「俺が見た奴はここを通って2階に逃げたのか?」

「多分、そうだと思うぞ。ちょっと力がいるけど蓋は簡単に開くから」

やよいは隠し通路を覗き込んで身震いした。

中は真っ暗で1階部分には食堂の照明がわずかに差し込んでいるが、上からではずっと遠くに見える。

「だとしてまだ館のどこかにいるのか、それとも外に隠れ潜むような場所があるのか――」

プロデューサーはかぶりを振った。

「下で春香たちが待ってるから、このまま降りるよ」

「ああ、蓋を閉めたのを確認したら俺たちも食堂に戻る」

響は再び突起に足をかけ、来た道を引き返した。

半分ほど降りたところでプロデューサーがゆっくりと蓋を閉じる。

今度は携帯電話のライトを使わずに降りていく。

その時、下で椅子が倒れる音がした。
88 : ◆e85MZF7Uug [sage saga]:2019/06/30(日) 22:30:34.93 ID:dw861vzd0
「春香!?」

千早の叫び声と、激しく格闘するような音もする。

「な、なに…………!?」

響は足を止め、その姿勢のまま数秒待った。

下ではまだ春香たちが騒いでいる。

さらに数秒――。

音はまったく聞こえなくなった。

響は小さく息を吐き、ゆっくりと足場を降りていく。

「あ、戻ってきた」

額に汗を浮かべて春香が迎えた。

その後ろに険しい顔をしている真と、彼女と反対に動じていない様子の千早がいる。

「ね、ねえ、さっきの音、何だったの……? 千早、叫んでなかった……?」

埃を払いながら響は辺りを見回して言った。

椅子はきちんと整えられており、周囲には争った形跡はない。

「さっきのは――」

響を待っていた春香は暖炉の近くにゴキブリを見つけてしまい、慌てて飛び退いた拍子に椅子を倒してしまったという。

さらにそのゴキブリが今度は真の足元に向かって行き、彼女も走り回っていたという。

「ビックリさせないでよ! 犯人かと思って心臓が止まるかと思ったぞ!」

「ご、ごめんね、響ちゃん……それでどうだったの?」

「多目的室に繋がってた。でも床には取っ手も何もないから向こうからは開かないんだ」

暖炉の中の様子や多目的室の構造を簡単に説明する。

「じゃあ犯人はこれを使って……?」

真の呟きに千早が頷く。

「可能性はありそうね。それなら見失った理由も説明がつくわ」

言ってから彼女は暖炉を覗き込んだ。

「もしかして他にもこんな場所があるのかしら?」

その時、亜美と真美が戻ってきた。

「ひびきん、お疲れ……うわっ! 足のところ真っ黒じゃん!」

「埃っぽかったからな。足場も取っ手も汚れてたし」

「ちょっとあっち向いて」

響に背を向けさせ、亜美が服に着いた汚れを払った。

「ありがと。プロデューサーとやよいは?」

「すぐに来るよ。戸締りしてから降りるって言ってたから」

「えっ……!?」

千早が驚いたように真美を見た。

「どうしたの?」

「……いえ、何でもないわ」

真に訊かれ、彼女はかぶりを振った。

それからすぐにプロデューサー、やよいが戻ってきた。



89 : ◆e85MZF7Uug [sage saga]:2019/06/30(日) 22:34:06.98 ID:dw861vzd0
 11時20分。

Cグループも無事に館に到着し、談話室にて情報交換をする。

「私たちのほうは特には……足跡ひとつ見つけられませんでした」

まずは律子が捜索の結果を伝える。

昨日の雨の影響もあり、足場の悪い場所は避けつつ彼女たちは島を一周した。

しかし目に留まるものは何もなかった。

崖の下だけは確認できなかったが、人が降りられるような場所ではなく危険を冒してまで調べる必要はないだろう、と貴音が言った。

「まあ、犯人がいたとしても、5人でぞろぞろ歩いてたんだからいくらでも身は隠せたでしょうけどね」

伊織は拗ねたような口調で言った。

「プロデューサーはどうでした? 館の周辺に何かありましたか?」

「ああ、そのことだが……」

律子に水を向けられ、彼は隠し通路にまつわる経緯を説明した。

「あの暖炉が2階に続いてる……?」

それを聞いた律子は最初は信じられないと言ったが、発見のキッカケとなった千早や実際に登って確かめた響の言葉もあり、最終的には隠し通路はあるとの判断に至った。

「なんなら確かめてみるか?」

「……やめておきます。疑いようがないみたいですから」

「でもこれで犯人のことは分かったの。きっとこの館に詳しい人なの。そうでしょ?」

美希が勢い込んで言う。

それに押されたように、

「あ、ああ……そうなるな、うん」

プロデューサーはぎこちなく何度も頷いた。

「だけどそんな奴がウロウロしてるなんて不気味だな。構造に詳しいのならいくら探しても隠れられてしまうんじゃないか?」

彼の言葉に春香たちは頷いた。

「それじゃあ、もう探さないの?」

責めるような口調の響を、

「捜索は一度だけって約束したでしょ? それに相手はどんな奴か分からないんだから刺激しないほうがいいわ」

やんわりと律子が諭す。

だがこれをキッカケに今度は犯人ではなく、館の構造について詳しく調べるべきではないかという声があがる。

これに賛成する者たちは、構造を知ることでより安全になり身を守りやすくなるということと、

一度だけという約束はあくまで犯人捜索に対してのみだ、という点を根拠とした。

反対派は隠し通路の類が見つかったところで身を守る助けにはならないこと、

犯人を刺激し逆上させて却って危険を招くこと等を訴えた。

議論は紛糾したが、引率役でもあるプロデューサーと律子が強く反対したこともあり結局、探索は行わないと決まった。

「これでいいのよ。私たちは警察じゃないんだから」

律子が安心したように言った。

「それにこっちは複数、犯人がいたって手出しできないわ」

納得していない様子の伊織は、キッと彼女を睨みつけた。
90 : ◆e85MZF7Uug [sage saga]:2019/06/30(日) 22:35:11.80 ID:dw861vzd0
「あ、あの、お腹空きませんか?」

険悪なムードを破るように春香が立ち上がった。

談話室を取り巻く空気とはまるで正反対の、調子の外れた呼びかけに、

「朝から何も食べておりません。少しでも口にしておくべきかと」

貴音が一番に応え、誰からともなしに食事にしようということになった。

テーブル上に並べられていた朝食を片付け、春香ややよいが中心になって準備をする。

品書きは下げたものと殆ど変わらず、パンにサラダとベーコンエッグ、飲み物はコーヒーや紅茶が並ぶ。

「簡単なものしかできなかったけど……」

と申し訳なさそうに言う春香に、

「あんまり脂っこいものが出てきても食べられないだろうから、これくらいで丁度いいの」

美希が微笑むように言った。

全員、昨夜と同じ席についた。

食事中、喋る者はほとんどいなかった。

暖炉に正対して座っている雪歩や千早は、できるだけ壁――告発文を見ないようにした。

「やよいっち、食べないと力が出ないよ?」

春香と料理の大半を手掛けたやよいは、パンを半分ほど食べた以外は殆ど手をつけていなかった。

それは彼女だけではなく、程度の差はあれど大半に食欲は見られなかった。

サラダだけ食べる者、半分食べて残す者、飲み物を全く摂らない者もいる。

そんな中で貴音と響だけは時間をかけて全て食べ切っていた。

「あんまりお腹空いてないから……」

そう言って苦笑いを浮かべるやよいに、

「医食同源という言葉もあります。心情は察しますが、栄養を摂らねば心身を健康に保つことはできませんよ?」

貴音は食べるよう勧めた。

「そうですね……」

彼女はパンを少しちぎり、それからサラダを一口食べた。

しかしそこから先は手が動かない。

「や、やよいちゃん、無理しなくていいからね……? 食べられるだけ食べよう?」

隣に座っている雪歩がそっと彼女の背中をさすった。

「食べられるワケないわよ」

伊織が責めるように言う。

「あんなことがあったのよ? 食欲があるほうがおかしいわ」

その視線は貴音と響に注がれていたが、2人ともそれを無視した。
91 : ◆e85MZF7Uug [sage saga]:2019/06/30(日) 22:36:35.53 ID:dw861vzd0
「ねえ、律子。竜宮小町は……どうなるの? やっぱり解散ってことになるのかしら……」

「伊織……なにも今そんな話をしなくても――!」

「答えてちょうだい。プロデューサーとして、どうなのか」

「いおりん、やめようよ! 聞きたくないよ、そんなこと……!」

律子も亜美も制しようとするが、彼女は追及を止めようとしない。

そのため両者の間で小競り合いとなったが、やがて律子は意を決したように、

「――解散よ」

通る声で短く言った。

「律っちゃん……?」

「あずささん、伊織、亜美の3人が揃ってこその竜宮小町よ。1人でも欠ければ成立しない……それがプロデューサーとしての考えだけど……どう、伊織? この答えは不満かしら?」

挑むような視線に、伊織は何も答えなかった。

だが数秒が経ち、

「いいえ、満足よ」

彼女は少しだけ笑って言った。

険悪だったムードが俄かに和らぎ、何人かがため息をつく。

その後10分ほどかけて食事を終える。

結局、最後まで食べ切ったのは2人の他はプロデューサーだけだった。

「どうしたんですか……?」

後片付けをする段になり、各々が自分の仕事を探して動いている頃、告発文の前に立った貴音はじっとそれを見つめていた。

そこに声をかけた雪歩は怯えた様子で彼女の横顔を覗き込む。

「改めて読み返してみようと思いまして」

ほんの一瞬、雪歩を見やった彼女は再びそれを凝視した。

「雪歩、あなたは自分を臆病だと思いますか?」

「え……? ええ、っと……」

「無理に聞こうとは思いません」

「臆病……だと思います。男の人が苦手なのは治らないし、いつもみんなに助けてもらってばかりで……この前も――」

「……そうですか」

失敗談を延々と話し始めた彼女を貴音は制した。

「欺き、惑わすつもりはありませんが、私が自身に纏わる事柄について隠匿しているのは事実であり、自覚はあります。

そして雪歩もまた、この内容に心当たりがある……で、あれば――」

「…………?」

「この告発文は書いたのは私たち自身なのかもしれませんね」

雪歩は首をかしげた。

春香たちが食堂と厨房を往復する。

「ちがうと思います……」

ずいぶん間を置いてから雪歩が掠れたような声で言った。
92 : ◆e85MZF7Uug [sage saga]:2019/06/30(日) 22:40:25.91 ID:dw861vzd0
「それだと、響ちゃんや真美ちゃんも書いたことになってしまいます…………」

消え入りそうな、しかし堂々とした反駁だった。

2人は告発文の前に並び、互いに顔を見合わせた。

「今のあなたは臆病どころか、誰よりも強く、そして優しい心の持ち主のようですね」

先に目を逸らしたのは貴音だった。

「このような陋劣な告発文を見せつけて悦ぶ小人など、あなたの足元にも及ばぬでしょう」

そう言い、彼女は厨房に向かった。

「皆の手伝いをして参ります……」

雪歩はその背中をじっと見つめていた。

その時、厨房で大きな音がした。

「危ないから近づいちゃ駄目よ!」

律子が叫ぶと、傍にいた春香たちが後退る。

大皿が数枚、棚から落ちて割れてしまったのだ。

破片は広範囲に飛び散っており、細かな取りこぼしでも怪我をする恐れがあるということで入念に掃除をする。

集めた破片を二重にした袋に詰める等の作業に数分を要した。










93 : ◆e85MZF7Uug [sage saga]:2019/06/30(日) 22:42:00.38 ID:dw861vzd0
後片付けが終わり、談話室に集まった彼女たちの顔は青ざめた。

「ねえ、やよいは……?」

真の声は震えていた。

それぞれ、やる事がなくなると告発文のある食堂を避け、自然と談話室に集まっていた。

そうして全員が揃ったところに、やよいの姿だけがなかった。

「なんで気付かなかったんだっ!?」

弾かれたようにプロデューサーが立ち上がる。

「ま、待ってください! 私も行きます! あんたたちはここにいなさい!」

律子も立ち上がり、2人して食堂に走って行った。

「あ、ちょっと!? ここにいろって言われたじゃないか!」

亜美と真美が立ち上がり、談話室を出ようとしたところを真が制した。

「だってやよいっちが心配なんだもん!」

同時にそう言い、亜美たちも食堂に向かった。

「やよい!」

食堂に入るなりプロデューサーが呼んだ。

だが返事はない。

物音ひとつしない。

「厨房を見てみましょう!」

追いついた律子がテーブルを迂回して厨房に向かう。

「律っちゃん、亜美たちも一緒に行くよ」

遅れてきた2人も合流する。

調理台などの死角も多いため、律子たちは丁寧に見て回った。

だが、やよいの姿はなかった。

「あれ、なんかドアみたいなのがあるよ?」

奥の壁にある取っ手を見つけた真美が言った。

「あんなのあったっけ?」

「さあ、亜美たち、ここに入ったのはこれが初めてだもんね」

「なんだ? どうかしたのか?」

プロデューサーがやって来た。

「兄ちゃん、あそこ見て! なんかドアみたいなのがあるよ」

「ああ、あれは物置につながってるんだ。鍵がかかってるハズだぞ……ほら」

ノブを回して押したり引いたりするが、ドアはびくともしない。

試しにと真美も開けようとしたが結果は同じだった。

「それよりやよいは……? ここにもいないのか……?」

「ええ、隈なく探しはしましたが……一度、談話室に戻りますか?」

「そうしよう」

途中、エントランスの階段裏も確かめながら4人は談話室に戻ってきた。

「どうでした……って、その様子だと――」

見つからなかったみたいですね、と春香が言った。
94 : ◆e85MZF7Uug [sage saga]:2019/06/30(日) 22:43:43.06 ID:dw861vzd0
「ええ、食堂と厨房にはいなかった……あれ? 響たちはどうしたの?」

律子は人数を数えながら言った。

響と美希の姿がない。

「あんたたちが食堂に行った後、気になるから自分も探すって」

「どうして止めなかったの!?」

「止めたわよ! 私だって探しに行きたいくらいなんだからっ!」

「おいおい、バラバラになるのはまずいぞ! 2人だけか!?」

プロデューサーは額の汗を拭った。

「高槻さんの部屋を見てくるだけだ、って言ってました。だからすぐに戻って――」

「ねえ、みんな! ちょっと来て!」

千早が説明しかけたところに2人が走って戻ってきた。

「2人とも、なんで勝手に行動したんだ!? 危ないじゃないか!」

「そんなことより来てほしいの! 早くっ!」

プロデューサーの叱責を無視して美希も急かす。

怒るタイミングを失った彼は全員がついて来ているのを確認しながら、やよいの部屋に向かった。

「これ……?」

一番に声をあげたのは亜美だった。

「あずさお姉ちゃんの部屋のと同じだ……」

斜線のように真っ直ぐな赤い線が一本、ドアノブの高さあたりから右上がりに引かれている。

幅は3センチほどで所々がかすれており、小さな刷毛で乱暴に塗ったように見える。

「美希と来てみたら、こんな風になってて……呼んでみたけど返事もないし……」

「鍵は――」

律子はドアノブに手をかけ、

「――開けた?」

少し回したところで肩越しに振り返る。

「いや、開けてないぞ」

「ミキも触ってないよ」

2人は同時にかぶりを振った。

「どうかしましたか?」

貴音は少し離れたところに立っていた。

「鍵、かかってないみたいなのよ……」

律子はプロデューサーを見た。

彼は深く頷いた後、

「いや、俺が開ける」

覚悟を決めたようにドアに近づいた。

「やよい……?」

ノブを回す前に声をかける。

返事は――ない。

「……開けるぞ?」

ドアは何の抵抗もなく開く。

だが彼はすぐに閉めた。
95 : ◆e85MZF7Uug [sage saga]:2019/07/01(月) 21:25:41.25 ID:q2C3ZNUL0
「どうしたんですか……?」

蒼い顔で春香が問う。

彼はかぶりを振った。

「まさか…………!?」

「お前たちは談話室に戻れ。ここは――」

「そんなのウソだよッ!」

真美がプロデューサーを押しのけ、強引にドアを開けた。

「やめろ! 見るんじゃ――!」

力いっぱい開いたドアは壁にぶつかり、室内の様子が晒される。

やよいは部屋の中央にいた。

窓に向かってうつ伏せに倒れていた。

背中からは夥しい量の血液が流れた跡がある。

血液は両脇に広がり、カーペットを黒く染めている。

彼女のすぐ横には包丁と、穴の開いハンカチが落ちていた。

ハンカチは大量の血液を吸って元の色が分からないほどだった。

「やよいっち…………?」

真美が恐る恐るといった様子で踏み込む。

「駄目よ、真美」

律子が制する。

が、彼女はそれを無視してやよいに近づいた。

「や、やよい、ちゃん……!!」

廊下にいた雪歩は動かなくなった彼女を見て、小さく悲鳴をあげた。

その場に崩れ落ち、体を小刻みに震わせる。

真が雪歩の両肩を挟むように抱いた。

「やよい! やよいっ!!」

真美に続いて部屋に入った伊織は、拝むように蹲って何度も名前を呼び続ける。

声は虚しく室内に木霊するばかりだった。

「なんで……? ねえ、ヘンな冗談やめてよ……」

やよいに触れようとした真美の手を、律子が強く掴む。

「真美たちのこと、からかってるんでしょ? 真美たちがイタズラばっかりしてるから……?」

「………………」

「ねえ、ウソでした! って……言ってよ……ネタばらししてよ……!

あずさお姉ちゃん、そういうの得意なキャラじゃないんだよ!? やよいっちも知ってるでしょ!?」

「真美……そろそろ……」

律子はかぶりを振って言った。

彼女が振り返ると、いつの間にか千早と美希が入って来ていた。

「高槻さんまで……」

千早は拳を握りしめた。
96 : ◆e85MZF7Uug [sage saga]:2019/07/01(月) 21:28:23.88 ID:q2C3ZNUL0
「2人とも、真美と伊織を連れて外に出て」

「律子、さん……?」

「まだ受け容れられないのよ。しばらくして落ち着かせれば――」

「そんなの、ミキだって同じなの!」

叫んだ美希の目から涙が零れ落ちた。

「どうして律子は落ち着いてるの!? あずさもやよいも死んだのに、悲しくないの!?」

「美希、やめなさい」

千早がぐっと彼女の腕を掴んだ。

「悲しい…………?」

眼鏡をかけなおし、律子はキッと美希を睨みつけた。

「悲しいどころか恐いわよっ! 死んでるんじゃない! 殺されてるのっ! 恐いに決まってるでしょ!?」

「お、おい……!」

騒ぎを聞いてプロデューサーが入ってきた。

「だからって取り乱してどうなるの? 泣き喚いたら犯人が見つかるの? 違うでしょっ!?」

あまりの剣幕に伊織と真美も怯えたように彼女を見ていた。

「……冷静に……冷静にならなくちゃいけないの。でなきゃ次は私かもしれないし、あんたかもしれないのよ……?

悲しくないワケ……ないじゃない……。ずっと仕事してきた、765プロの仲間なのよ…………?」

最後は消えそうな声で言い、彼女は目を閉じた。

唇はわなわなと震え、頬には濡れた跡がある。

「全員、廊下に出るんだ」

プロデューサーはやよいに手を合わせた。

「早くっ!」

最後まで部屋に残っていたのは伊織だった。





 12時44分。

再び談話室に集まった彼女たちは、ほとんど言葉を発さなかった。

春香や響が話題を振っても、それに返事をするのは限られた者だけで会話らしい会話にはならない。

しばらくの沈黙の後、思い出したように雪歩が立ち上がった。

「どうした、雪歩?」

考え事をしていたらしいプロデューサーは衣擦れに気付いて顔を上げた。

「あの、その……エントランスのほうに……確かめようと思って……」

「何を?」

「犯人が、その、ここの造りに詳しいなら……しっかり戸締りしておいたほうがいいんじゃないでしょうか?」

玄関扉の施錠を確かめるべきだと彼女は言う。

おずおずと言う彼女に続き、

「そ、そうだね! 鍵をしっかりかけておけば……!」

大丈夫だ、と春香が同調した。
97 : ◆e85MZF7Uug [sage saga]:2019/07/01(月) 21:30:52.66 ID:q2C3ZNUL0
しかし他の者たちの反応は冷ややかだった。

何か言いたそうな彼女たちはしかし雪歩の顔色を窺って発言はしない。

その様子にイラついたように、

「言ってることは分かるけど、ハッキリ言って手遅れよ」

伊織が呆れた口調で言う。

「い、伊織、もうちょっと――」

「事実じゃないの」

言葉を選べ、と窘めようとした律子を先回りして制する。

談話室の天井を仰ぎ見、ため息をついた貴音は伊織を見つめた。

「あずさのことを考えてみなさいよ」

全員が目を伏せた。

「あずさは殺されたのよ? ドアの鍵もかかってた。窓にもね。分かる?」

伊織の勢いに威圧されたように雪歩は小さく震えながらかぶりを振る。

「あずさを殺した奴はとっくに館の中にいた、ってことよ。いつからか――なんて分からないわ。そいつは私たちに気付かれないように出入りしてる。しかも鍵のかかった部屋であっても、ね」

彼女の声は重く淀んでいたが、談話室の隅々にまで響いた。

「で、でも……!」

「…………?」

「あずささんが部屋に入れたのかもしれないよ! それなら鍵がかかっていたって――!」

青い顔で雪歩が反論する。

自ら犯人を招き入れたとすれば筋が通る、と彼女は言うが、

「ナイトテーブルに鍵が置いてあったじゃない。その状態でどうやって施錠してあの部屋を出るの? それに――」

伊織は恐ろしいほど冷たい口調で一蹴した。

「招き入れたとしたら……それがどういう意味か分かってるワケ?」

「伊織、もういいよ」

貴音が何か言いかけたが、それより先に真が口を開いた。

真は批難がましい目を伊織に向けている。

「と、とりあえず落ち着こう? ね? とにかく私たちが考えなきゃいけないのは――」

いかにして身を守るかだ、と春香は仲裁した。

だが伊織はちらりと響を見てから、腕を組んで鼻を鳴らした。

「みんな、本当は思ってるんでしょ? あずさややよいを殺した犯人はこの中にいるかもしれないって」

「ん……なんでそうなるんだ? あずささんが殺されたのは多分、自分たちが寝てる時じゃないか。誰にも――」

「なら全員ができるってことじゃない。寝静まった頃なら誰にも気づかれないんだから」

「殺人なんてそんな恐いこと、誰ができるっていうんだよ!? どんな理由があって……!!」

「さあ、そんなことは分からないわ。でも実際にあずさもやよいも殺されたのよ。これは立派な連続殺人じゃない」

「れん……いえ、連続殺人とまでは言いませんが、累卵の如き危うさであることは確かです。啀み合っている場合ではありません」

「るいらん? お姫ちん、それってどういう意味……?」
98 : ◆e85MZF7Uug [sage saga]:2019/07/01(月) 21:36:51.97 ID:q2C3ZNUL0
ここにいる誰かが犯人だと伊織が言ったことで、場は騒然となった。

特に響や真は強く反駁したが、雪歩や千早はどちらにも加勢せずに成り行きを静観している。

この状況を収拾するべきプロデューサーたちも、両者の語勢が激しいために口を挟みにくくなっている。

「それはないと思う」

不意に春香が険しい顔をして言った。

「伊織の言うとおりなら、プロデューサーが見た人影はどう説明するの? 何のために島中を調べたの?」

「それは……何かと見間違えたんじゃないの!? あんただってハッキリ見たワケじゃないんでしょ!?」

「え? あ、ああ……まあ、そうだな……」

唐突に話を振られ、彼は曖昧に頷いた。

「うぅ…………」

雪歩は膝の上に手を乗せて、ぎゅっと拳を握りしめた。

「わ、わたしが余計なこと言ったせいで…………」

小刻みに震えるその手に、美希が自分の手を重ねた。

「雪歩のせいじゃないの。みんな、分からないことだらけでイライラしてるの。きっと、でこちゃんもね」

そう言って彼女はぎこちない笑みを浮かべた。

2人の手は冷たかったが、重なった部分だけはわずかに熱を帯び始めている。

「ありがとう……美希ちゃん……」

雪歩がそっと囁いた時、

「――じゃあ響に訊くわ」

挑むような目で伊織が言った。

「な、なんだ……?」

「この中で一番泳ぎが得意なのはあんたよね。それとも真?」

「……まあ、泳ぎだけじゃなくてスポーツなら何でも――」

言い淀む響は援護を求めるような視線を真に向ける。

「ボクも自信はあるけど響には敵わないよ」

真はかぶりを振って伊織に先を促した。

「港からこの島まで泳いで来れる?」

「泳いで?」

響は腕を組んで目を閉じた。

「大体でいいわよ。できるかできないか」

「かなり難しいと思うぞ。多分ここまで50キロメートル以上あるだろうし、潮の流れが速いところもあったからな。

それにサメやクラゲがいることも考えたら独力ではまず無理だと思う。サポートがあればできるかも」

「あんたが無理なら普通の人は不可能ね」

「それが何の関係が――」

「貴音、私たちは島を一回りしてきたわよね。何か見つかったかしら?」

一瞬、刺すような視線を伊織に向けた彼女は、

「いいえ、何もありませんでした。舟の一艘さえ見つかりませんでしたね」

観念したようにため息まじりに答えた。
99 : ◆e85MZF7Uug [sage saga]:2019/07/01(月) 21:40:25.03 ID:q2C3ZNUL0
「いおりん、話が全然分かんないよ?」

亜美が不満げに言う。

「少なくとも律子と貴音は分かってるみたいよ」

彼女が挑むように言うと2人は俯いた。

「ボクたちにも分かるように説明してよ」

「泳いで来るのは無理。島には舟も見当たらない。だったら犯人はどうやってこの島に来たと思う?」

「…………?」

「犯人なんて最初からいないのよ。ここと港を往復したのは私たちが乗って来た船が1回きり。

船には私たちしか乗ってなかった。船頭がいた、なんてバカなこと言わないでよ?」

「ちょっと待ってよ。犯人は夜中に舟で来て、それから帰ったかもしれないじゃないか!」

どうだ、とばかりに真が勢い込む。

その横で雪歩は首を横に振った。

「真ちゃん、それ、違うよ……。やよいちゃんは島の捜索をした後に…………」

「雪歩の言うとおりよ。それに帰ったっていうんならあんた、この館を独りで歩き回れる?」

「それは…………」

「でもでも兄ちゃん、人影を見たって言ってたでしょ? あれは勘違いだった、ってこと?」

「他にも見た人がいるなら話は別よ。でもプロデューサーだけってことはそうだと思うわ」

プロデューサーは小さく息を吐いた。

「そう言われるとだんだん自信がなくなってくるな……見たと思ってたんだが……」

しばらく沈黙が続いた。

彼女たちは探るように互いに顔を見合わせてはばつ悪そうに視線を逸らす、を繰り返した。

そんな中でひとりだけ無表情のまま天井を見上げていた貴音が、

「徒(いたずら)に不安を煽るものではありませんよ」

戒めるようにそう言った。

「誤解の無いよう。私は伊織の考えを否定するつもりはありません。しかし私たちは苦楽を共にした同志です。その中に同志を手にかけるような者がいるとは思えません」

染み入るような声が談話室に静かに響く。

春香や雪歩は同調するように何度も頷いていたが、伊織と律子の表情は険しいままだった。

「……いいわ。私も熱くなり過ぎた。まだ決めつけるには早かったかもね。でも――」

伊織は納得していない様子で、

「やよいが倒れていた方向を考えなさい」

そう言い、腕を組んでそれ以上は何も言わなくなった。

律子はポケットから携帯電話を取り出す。

そして表示が圏外のままであるのを確かめると、ため息をついて項垂れた。

「どうにか外と連絡をとる方法はないのかな……?」

その様子を見ていた春香がぽつりと言った。

「近くを通りかかる船があれば、合図して知らせることはできるかもしれないが……」

島嶼ならまだしもこの辺りでは可能性は低い、とプロデューサーが言う。

「な、何にしても注意していれば大丈夫なハズだ。こうして皆で固まっていれば」

彼の声は震えていた。
100 : ◆e85MZF7Uug [sage saga]:2019/07/01(月) 22:31:35.67 ID:q2C3ZNUL0
「すまん……俺が連れてきたばかりにこんなことに……!」

「そんな!? プロデューサーの所為じゃないですよ!」

真が立ち上がった。

「悪いのはあずささんとやよいを……犯人じゃないですか! そんなこと言わないでください!」

「そ、そうですよ! 私たちのために連れてきてくれたんですから!」

真や春香が代わる代わるに擁護しても、彼の表情が晴れることはなかった。

「ありがとう。でもそうは言ってもな、引率者としての責任が――」

「それなら私も同じですよ」

律子が言葉を遮る。

「私だって社長の提案を受けたんです。でも――竜宮小町を守ることができなかった……」

普段の彼女からは想像もつかないほどの落魄ぶりだった。

眼鏡を外し、目元をそっと拭う。

「ああ、もう! みんな、しんみりしすぎだぞっ!?」

テーブルを叩いて響が勢いよく立ち上がった。

その音に雪歩がびくりと体を震わせる。

「プロデューサーも律子も、今は自分を責めたってしょうがないでしょ!? それよりあと2日、どうやって過ごすかを考えなきゃ!」

「響…………」

「もう一度、館や島を調べて犯人を探すのかとか、寝る時はどこかに集まったほうがいいのかとか……とにかく考えることはいっぱいあるじゃないか!」

その言葉に何人かの顔が明るくなる。

伊織は談話室の入り口に目をやった。

「ボクも響の言うことに賛成だよ。後ろ向きになってちゃダメだと思う」

「私も……我那覇さんの言うとおりだと思う。こんな状況なのだから、生き延びる方法を考えるべきだわ」

多くは賛同の声だったが、亜美と伊織は追従しなかった。

2人は何か言いかけたが居心地が悪そうに俯くばかりだった。

「そうだな、弱気になってちゃ駄目だ。考えよう、迎えの船が来るまでどう切り抜けるか――」

プロデューサーの声に少しだけ張りが戻っている。

これをキッカケに当面の方針が話し合われた。

実際には身を守るための約束事だ。

まずはできるだけエントランスや談話室、食堂等の広くて見通しのよい場所にいること。

これは死角から襲われる危険に備えてのことだ。

次に館の外には出ないこと。

館が丘の上にあるとはいえ草木が茂る場所もあり、全域を見通せないためだ。

加えて転倒等の事故を防ぐ意味もある。

そもそも外に出る意味もないから、これには全員が納得した。

さらに不審者、不審物等を発見した場合は近づかず、プロデューサーか律子に報告すること。

この点は亜美と真美が何度も念を押されていた。

これらの約束事の下に行動すれば大丈夫なハズだ、とプロデューサーは言った。
101 : ◆e85MZF7Uug [sage saga]:2019/07/01(月) 22:35:19.13 ID:q2C3ZNUL0
「夜はどうするんですか? やっぱり部屋で寝るんですか……?」

疑問調だが春香は実際にはこれを拒否している。

あずさ、やよいが部屋で殺害されているとあって、大半がこの件にアイデアを求めた。

「いくら鍵をかけてたって意味ないですよね?」

「2人ずつ部屋で寝るとか……」

「ここのベッド、シングルだよ?」

「そんなこと言ってる場合じゃないぞ。ちょっとくらい狭くてもいいじゃないか」

「何人いたって寝てる時に入って来たら同じなの」

就寝時の備えに関しては名案が出ず、意見が出てはその不備を指摘する言い争いになる。

「埒が明かないわ。夜をどうするかは後で考えましょう。その時になれば良い案が出るかもしれないし」

ここは律子が上手くまとめる。

しかしこれは先延ばしでしかない。

大方の方策が出尽くしたところで、場は再び沈黙に包まれる。

しばらくして立ち上がったのは、

「あの…………」

またしても雪歩だった。

「喉、渇きませんか? お茶でも淹れようかと……」

「まさか1人で行かないわよね?」

律子と伊織がほぼ同時に立ち上がる。

「ボクも行くよ。何かあったら大変だし」

都合、4人で厨房に向かう。

飲食するなら食堂に行くべきだが、誰もそう呼びかけはしない。

自然とお茶がこの談話室に運ばれてくるのを待つことになる。

「ねえ、貴音」

響が小声で呼ぶ。

「…………?」

「さっきの話……貴音も……その、思ってるの? この中に犯人がいるって――」

「………………」

美希は俯いたまま視線だけを2人に向けた。

「そうは思いたくはありません。しかし伊織の意見に頷ける部分があるのは確かです」

貴音はため息をついてから続けた。

「私たちでない何者かが犯人であれば、どのようにしてこの島に来たのか……それを明らかにできれば良いのですが…………」

「そんなの、簡単なの」

美希が呟く。
102 : ◆e85MZF7Uug [sage saga]:2019/07/01(月) 22:40:55.38 ID:q2C3ZNUL0
「きっと犯人はずっと前からこの島にいたんだよ。こんな大きな館なんだから何か月だって生活できるの」

それは無理があるわ、と千早が口を挟んだ。

「私たちがここに来ることなんて事務所の人以外には分からないことよ。それに動機がないもの」

「じゃあ千早さんはこの中に犯人がいるって思ってるの?」

「そうは……言ってないわ。私だってそんなふうに思いたくないから」

「それにハニーだって誰か見た、って言ってたの! そうでしょ、ハニー?」

「あ、ああ……正直、自信がなくなってきてるけどな……」

「ね、ねえ、やめようよ。こんな話したって気持ちが落ち込むだけだし……ね?」

どこで容喙しようかと迷っていたらしい春香が慌てた様子で言う。

その仲裁で一同は言葉が続かなくなった。

「………………」

「遅いね……」

真美がそう呟くとほぼ同時に雪歩たちが戻ってきた。

前を歩くのは真と伊織、その後ろにいる雪歩と律子がそれぞれ湯呑を乗せたトレイを持っている。

「大丈夫だった?」

という響の問いに、

「ええ、思ったとおり何もなかったわ」

伊織はぶっきらぼうに返す。

「…………? 何か自信でもあったのか?」

「固まって動いてたからボクたちに手出しできなかったんだよ。そういうことでしょ?」

代わりに答えた真が伊織に水を向ける。

彼女はこくん、と小さく頷いた。

雪歩たちが湯呑を順番に配る。

途端に室内にほうじ茶の香りが広がった。

「お団子でもあれば良かったんですけど……」

申し訳なさそうな彼女に、

「ううん、これで充分なの。雪歩、ありがと……」

力のない笑みを浮かべて美希が言った。

「ミキね、頭がヘンになりそうだったの……あずさもやよいも死んじゃって…………それなのにこの中に犯人がいるなんて話になって――」

「美希ちゃん…………」

「だけど雪歩のお茶のおかげで、ちょっとだけ元気が出たの。雪歩ってすごいね!」

「そ、そんなの、全然大したことないよぅ……私、これくらいしかできないから……」

「そんなことないぞ。自分も落ち着けたし。もっと胸を張るべきだぞ? こんなに美味しいお茶を淹れられるんだから」

「ふふ、ありがとう、美希ちゃん、響ちゃん」

2人に褒められ頬を赤くした雪歩は困ったように俯く。

「これからどうするんですか……?」

春香が不安そうに訊いた。
103 : ◆e85MZF7Uug [sage saga]:2019/07/01(月) 22:43:57.76 ID:q2C3ZNUL0
「名目は合宿だったからな。トレーニングしたい者もいるかも、と簡単なスケジュールも作ってはいたんだが……。

それどころじゃなくなったな……すまん、俺もどうすべきか分からないよ」

「することなんて決まってるの」

お茶を飲み干した美希が拗ねたような口調で言った。

「みんなで事務所に帰るの。ここにいるみんなで――」

彼女にしては珍しい、含みを持たせたような言い方だった。

「ああ、そうだな……そうだ、美希の言うとおりだ……」

プロデューサーは何度も頷くものの表情は固い。

「ねえ、ゲーム……しない?」

唐突にそう切り出したのは真美だ。

全員の目が彼女に集まったが、その視線の大半は批難がましいものだった。

「ゲームって……ゲームのこと?」

「うん…………」

律子の問いに頷いたのは亜美だ。

「あんたたち、本気なの――?」

今にも怒鳴りつけそうな顔で伊織が詰め寄る。

「不謹慎にも程があるわよ! どういう神経して――」

「だからだよ!」

「な、何よ…………?」

「ゲームでもしなきゃ空気、悪いじゃん……亜美、こんなのイヤだよ……」

「真美も……どうにかなっちゃいそう……」

泣きだしそうな2人の表情に、伊織は悔しそうに唇を噛んだ。

「いいね、やろっか」

「春香っ!?」

千早が驚いたように彼女を見た。

「たしかにこの状態がいつまでも続くのは苦しいし、それで気分が紛れるんだったら……どう、かな……?」

同意を求めるように春香は皆の顔を見た。

何人かが曖昧に頷く。

「精神の安定を保つために――ですか……良いかもしれませんね」

「わ、私も……!」

雪歩が慌てた様子で同調した。




104 : ◆e85MZF7Uug [sage saga]:2019/07/01(月) 22:46:34.24 ID:q2C3ZNUL0
 13時35分。

半数近くが同意したことで、昨夜のようにテーブル上にゲームに必要な道具がばら撒かれた。

将棋やリバーシ等もあったが、複数人で遊べる方がいいと春香が言ったこともあり、

誰でもルールを知っているという理由でトランプを使ったゲームをいくつかすることになった。

だが雰囲気はかなり異様だ。

テーブルを囲んでのババ抜きやポーカーは終始無言で、順番が回ってきた時だけ衣擦れの音がする程度だ。

響でさえ完璧なポーカーフェイスを保っている。

「………………」

伊織はゲームには加わらず、少し離れたところに座っている。

「でこちゃんはやらないの?」

手許のカードを眺めながら美希が言う。

彼女のななめ後ろにいる伊織は、

「そんな遊びしてる場合じゃないでしょ」

皮肉めいたため息をつく。

「よく耐えられるね。こんな状況なのに……」

「あんたこそ、よくゲームなんてできるわね。こんな状況なのに……」

この間にもゲームは黙々と進んでいる。

今はポーカーをやっているが、戦略や駆け引きは一切ない。

探りを入れるための会話もなく、静寂の中にカード交換が行われている。

「ちょっと行ってくるね」

「あ、じゃあ私も……」

時々、誰かがトイレに立つと、手待ちの誰かが入れ替わるというサイクルができていた。

今は真美が席を立ち、その後を雪歩が追いかけた恰好だ。

「ほら、伊織も」

空いた席をぽんぽんと叩いて春香が誘う。

それを無視していた伊織だったが、彼女がしつこく誘ってくるので渋々といった様子で席についた。

「こっちは何をやってるの?」

「ポーカーだよ」

さすがに12人で1セットのトランプを使うのは無理があるということで、ふたつのグループに分かれていた。

春香、美希を含めた5人はポーカーを、他の6人はババ抜きや七並べをしていた。

「ふうん。ま、そこまで言うならちょっとだけ――」

親は亜美が務めていた。

彼女の手捌きはかなりのもので、ヒンズーシャッフルとリフルシャッフルを巧みに混ぜてカードを配る。

「ちょっとこれ、ジョーカーが入ってるわよ?」

「いおりん、それ言っちゃダメじゃん」

「だってジョーカーが……」

「そういうルールなの。どんなカードにもできるんだよ」

美希の説明を交えながらゲームが進行する。

5回ほど遊んだところで雪歩と真美が戻ってきた。

伊織がソファの端に寄って2人を迎え入れる。
105 : ◆e85MZF7Uug [sage saga]:2019/07/01(月) 22:49:11.91 ID:q2C3ZNUL0
「あ、伊織ちゃんもやってるんだね」

「春香に誘われて仕方なく、ね」

すげなく答え、彼女は顔を上げた。

何人かは談話室を離れており今、ここにいるのは9人だけだった。

「………………」

「………………」

「…………響の番ですよ?」

一方、こちらのグループはババ抜きをやっていた。

カードを使ったゲームはあまり詳しくない、という貴音に配慮してルールが簡単なゲームにしている。

「え……あ、うん……」

呼ばれた彼女は慌ててカードを引こうとする。

だが、

「ちょっと、響。ボクから引いてどうするのさ? 貴音から引かなきゃ」

手を伸ばした彼女を真が制する。

「え、そうだっけ……?」

「さっき千早が抜けたから順番が変わったでしょ」

「ああ、うん」

「……響? 顔色が優れないようですが、何か気がかりなことでも……?」

「べ、別に何でもないぞ……!?」

響が大仰に手を振る。

「さっきからちょっとヘンだよ? 大丈夫?」

心配そうに顔を覗きこむ2人に、平気だと彼女は返した。

そこに千早が戻ってくる。

「あれ、ひとり? 律子は?」

同じグループでゲームをしていた真が問うた。

この数分前、千早と律子は手洗いに行くと言い置き、談話室を出ていた。

「先に戻るように言われたわ。単独行動は……と思ったけれど、すぐ横の手洗いを使っていたから大丈夫だと思って」

そう言って千早は談話室を見回した。

「先に……? 何故でしょう?」

「さ、さあ……戻るように、としか言われませんでしたから」

「理由は訊ねなかったのですか?」

貴音が挑むような目で千早を見た。

「ええ……そこまで気が回らなかったので……」

千早は咄嗟に視線を逸らす。

「そういえばプロデューサーも、出て行ってからけっこう経ってるぞ?」

間に割って入るように響が言った。
106 : ◆e85MZF7Uug [sage saga]:2019/07/01(月) 22:54:17.59 ID:q2C3ZNUL0
「そりゃ男の人だもん。トイレだって同じ場所を使うワケにはいかないだろうし、いろいろ時間がかかるだろうし」

「なんで男の人だと時間がかかるんだ?」

「ええっ……?」

響の追及に真が困ったように視線を彷徨わせる。

「ほ、ほら! もしかしたら船頭さんと連絡をとろうとしてくれてるのかもしれないよ! 無線機とかで――」

と慌てた様子で真が返した時だった。

「プロデューサーっ!!」

館中に響き渡る悲鳴に春香たちは一斉に顔を上げた。

「い、今の……律子、さん……だよね?」

「何かあったんだ!」

真が叫ぶと皆、弾かれたように立ち上がり談話室を飛び出す。

「さっきの声――」

「あっちから聞こえたよ!」

亜美がホールの向こうを指差した。

はぐれないように一丸となって西棟に走る。

管理人室のドアが開いていた。

「律子!?」

真っ先に飛び込んだのは千早だ。

「来ちゃ駄目よっ!!」

彼女が足を踏み入れるかどうかのタイミングで律子が制した。

「一体なにが……!?」

遅れてやって来た響たちが千早のすぐ脇に立って室内を覗き込む。

プロデューサーがうつ伏せに倒れていた。

首には細いロープが巻きついている。

「プロデューサー……?」

ふらつく足取りで入ろうとした響を千早が押し留める。

律子は彼の傍らに崩れ落ちるように跪き、手首に触れて脈を確かめた。

「………………」

彼女の顔はみるみる青ざめていく。

次いで頸動脈も確認した律子は、肩越しに振り返ると首を横に振った。

「そんな……まさか……!」

倒れそうになった千早を押しのけるように美希が踏み込む。

「ハニーッッ!!」

「駄目ッ! 美希! 部屋を出なさい!!」

律子は素早く立ち上がると、ぶつかるようにして美希を部屋の外に出した。

「貴音、美希をお願い! 皆、絶対に部屋に入らないで!」

叫びながら彼女もゆっくりとプロデューサーから離れた。

彼の右手は何かを掴むように突き出されている。
107 : ◆e85MZF7Uug [sage saga]:2019/07/01(月) 22:57:20.64 ID:q2C3ZNUL0
「ね、ねえ……? なに……何があったんですか……?」

雪歩が今にも泣きそうな顔で問う。

「ハニーが……! ハニーが…………!!」

貴音に両肩を掴まれながら、美希が泣き叫ぶ。

「落ち着くのです! 美希、落ち着きなさい! 取り乱してはなりません!!」

「だって……だってハニーが……ッ!!」

「分かっています! しかし今は泣いている時ではありません! 気を確かに持ちなさい!」

「じゃあいつ泣けばいいの!? なんで貴音はいつも平気でいられるの!?」

「………………」

「悲しくないんでしょ!? あずさの時もやよいの時もそうだったもん! だからそうやって――」

パン! と乾いた音がして、美希がよろけた。

驚いた様子で顔を上げた彼女の前にいたのは響だった。

「悲しくないワケないだろ……」

「ひびき…………?」

「こんな……こんなことになって、悲しいに決まってるじゃないか! だってもう会えないんだぞ!?

おしゃべりだって、一緒にレッスンだってできない! 歌うことも……ライブも、もう二度とできないんだ!」

響は拳を握りしめた。

「そのうえプロデューサーまで殺されて……普通でいられるワケがないじゃないか!」

「………………」

「貴音は……ずっと我慢してるんだ。自分たちが冷静じゃないから、その分、貴音が冷静でいてくれるんだ。

悲しいのは――寂しいのはみんな一緒だぞ……泣きたいのは……貴音だって同じなんだ…………」

「………………」

美希はその場に崩れ落ちた。

涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔を袖で拭い、

「そんなこと、分かってるのっ!!」

彼女は何度も何度も床を叩いた。

「分かってるけど、どうしようもないの! だってミキ、何もできないんだもん! 分からないんだもん!!」

貴音がその肩にそっと手を置く。
108 : ◆e85MZF7Uug [sage saga]:2019/07/01(月) 23:04:33.01 ID:q2C3ZNUL0
その様子をやや離れたところから見ていた春香は管理人室に向きなおり、

「ウソ、ですよね…………?」

呟きながらゆっくりと歩を進めていく。

「プロデューサーさん……?」

それに気付いた真が彼女に近づいた。

美希の慟哭が廊下中に響く。

それに負けじとばかりに、

「プロデューサーさんっ!!」

喉が潰れてしまいそうなほどの悲鳴をあげた春香は管理人室に飛び込もうとして――。

「ダメだよ! 入っちゃダメだって言われたじゃないか!!」

真に腕を掴まれて外に引きずり出される。

「約束したじゃないですか! 一緒に頑張ろうって!! トップアイドルを目指そうって……!!」

声を限りに叫ぶ。

しかしそれに答える者はいない。

「どうして……どうしてこんなことになるんですか!? ねえ、プロデューサーさん……!!」

律子に視線を向けられた真は小さく頷き、

「春香、落ち着いて……。部屋に……ううん、談話室に戻ろうよ……」

宥められた春香は幼児がいやいやをするように首を左右に振った。

「皆、聞いてちょうだい」

律子が床の一点を凝視しながら言った。

「今後はこの部屋はもちろん、あずささんとやよいの部屋に入るのは禁止よ」

「律っちゃん、それって……」

「警察が捜査する時に困るでしょ」

言いたくないことを言うように彼女は唇を噛む。

「談話室に、行くわよ。貴音、真……美希と春香を頼むわね」

そう言い律子はゆっくりとドアを閉めた。

ドアの下半分には赤い線が引かれてあった。




109 : ◆e85MZF7Uug [sage saga]:2019/07/02(火) 21:38:29.30 ID:qVSsup/m0
 14時21分。

再び全員が談話室に集まる。

律子は拝むように組んだ両手に額を押し付け、ぶるぶると震えている。

「………………」

貴音はようやく泣き止んだ美希の背中を、彼女の呼吸に合わせて何度もさすっている。

誰の表情も暗い。

ここに戻ってきて10分が経過しているが、まだ言葉は交わされていない。

秒針の音だけが鳴り渡るこの空間で。

それからさらに数分が経ったとき、

「――そろそろ話していただくことはできませんか?」

消えそうな声で問うたのは貴音だ。

全員の視線が貴音に集まったが、彼女が律子を見ていることに気付き、今度はそちらを注視する。

「千早に先に戻るようにと言い置き、別行動をしていたあなたはプロデューサーの部屋にいた……。

これでは皆に疑念を抱かれても弁明は難しいのではありませんか?」

「………………」

「私は何らかの事情があったと推察します。貴女が嫌疑をかけられるを良しとするならば別ですが……。

皆の憂患を取り除くには明らかにすべきかと思います。ですが懸念があるのでしたら無理強いは致しません」

物静かな彼女の口調と表情には挑むような雰囲気があった。

律子は長いこと黙っていたが、やがて観念したように顔を上げ、

「躊躇いは……あるわ――」

潤んだ瞳で貴音を見つめた。

「……では、その真実は律子の中に――」

「だけど、そうね……いつまでも黙っていられることでもない。ええ、きちんと話すわ……」

律子は深呼吸を数度繰り返してから、自分に注がれる視線にひとつひとつ答えるように室内を見回し、

「プロデューサーに呼ばれていたの」

小さく、しかしハッキリとした口調で説明した。

「亜美たちがゲームで気を紛らそうと言いだす少し前に、プロデューサーに声をかけられたのよ。”あとで独りで俺の部屋に来てくれ”って」

「理由は聞いたのね?」

伊織の問いに彼女は頷く。

「”犯人に心当たりがある”って言われたわ。”ただハッキリそうだと分かったワケじゃないし、曖昧な状態で他の子たちに聞かせるのもまずい。だからまずは律子にだけ話したい”って」

律子は目頭を押さえた。

「きっとプロデューサーは、私の考えを聞きたかったんだと思う。意見が一致すれば確信に至るし、そうでなかったら考え直す――そうするつもりだったのかも」

今となっては分からない、と彼女は唸った。

「ねえ、聞かれたらまずいってことはつまり――」

恐る恐る響が切り出す。

「やっぱり犯人は自分たちの中にいるってこと……?」

「分からないわ。そうかもしれないし……もしかしたら私たちが知っている誰か、なのかも――」

「そもそも聞かれてまずいこと、って何なのよ?」

腕を組んだ伊織はイラついた口調で言った。
110 : ◆e85MZF7Uug [sage saga]:2019/07/02(火) 21:43:01.87 ID:qVSsup/m0
「あの……プロデューサーが見た人影のことも解決してないんじゃ…………」

囁くような雪歩の声はほとんど聞きとれない。

だが近くにいた貴音はそれを受けて、

「プロデューサーが見たという何者かが犯人であり、その人物は私たちにとって既知である、と――」

そういう可能性もあるのではないか、と彼女は言う。

「亜美たち全員が知ってる人? それなら社長とピヨちゃんくらいじゃないの?」

「あとはテレビ局の人とか、撮影の人とか? 意外と多いね……」

「自分たち、いろんな仕事してるから絞り込むのは難しいんじゃないか?」

「……ちょっと気になることがあるんだけど」

そう言ったのは真だ。

何人かの視線が彼女に集まる。

「律子だけ来てくれ、ってことはその時はプロデューサーも独りだったってことだよね?

それっていつからなのかな? 犯人が館内にいるかもしれないのに、どうしてそんなことができたんだろう……?」

「たしかに真の言うとおりだわ。考えてみれば不用心だもの。だって実際――」

途中まで言って千早は言葉を呑んだ。

「ボクたちとトランプをしてたよね。あの時はたしか――」

「始まって20分くらいで席を立ったわよ」

怒ったような口調で伊織が言った。

「憶えてるの?」

「私はゲームはしてなかったからね。誰かさんに強引に誘われるまでは」

当てこすられた春香は愛想笑いを浮かべた。

だがそれも一瞬のことで、次にはもう悲痛な面持ちに戻っている。

「最後に律子と千早がこの部屋を出るまでに、全員が一度は談話室を離れたわ」

「水瀬さん……? それってどういう……」

「事実を言っただけよ」

伊織は余所を向いた。

「そのプロデューサーさんが殺された、っていうことは……」

春香が震える声で言った。

「犯人は自分の正体に気付かれたと思ってプロデューサーさんを殺したんだよね……?」

「口封じに、ということ?」

怪訝な顔の千早に春香は軽く頷いた。

「もしかしたらプロデューサーは心当たりどころか、核心に近づいていたのかもしれないわね……」

残念そうに律子が呟く。

「その手がかりも失ってしまったわ……」

再び、沈黙。

誰もが探り合うような視線を交わす中、

「いい加減やめたら? ヘタな演技なんて」

低く、呵譴(かけん)するような声で伊織が言う。

彼女は誰とも目を合わせていなかったので、誰に対して言ったのかと春香たちは互いの顔を見やった。

「分かってるでしょ? 私はあんたに言ってるのよ――」
111 : ◆e85MZF7Uug [sage saga]:2019/07/02(火) 21:48:53.72 ID:qVSsup/m0
彼女は唇を僅かも動かすことなく、

「――響」

恨むような声で言う。

春香たちは驚いたように2人を交互に見やった。

「伊織!? いきなり何を言い出すんだよ!?」

刺すような視線を向けて真が怒鳴る。

当人は自分が名指しされたことにも気付いていないようにキョトンとしていたが、やがて顔を赤くして、

「ど、どういう意味だよ!? 自分が何の演技をしてるっていうんだ!!」

掴みかからんばかりの勢いで反駁した。

「それが演技だって言ってんのよ」

対照的に伊織の口調に抑揚はない。

「確信が持てなかったけど、アイツが殺されてハッキリしたわ」

激昂を誘うようなさらに冷たい声で詰め寄る。

響は咄嗟に一歩退いた。

「――そう思う理由があるのね?」

そう問う律子は疑うような目で響をちらりと見やった。

「律っちゃん……?」

「聞かせてちょうだい、伊織。それほど自信を持っているんだから当然、納得できる理由なんでしょう?」

訝るような亜美を無視して律子は先を促した。

「あずさは何時、どこで殺された?」

「ねえ、律っちゃん……」

「…………? 昨夜から今朝にかけて、よね? 場所はあずささんの部屋で……」

「そうよ。私もそうだけど昨日はずいぶんと遊んだから、きっと皆、疲れて寝てたハズよ。当然、目撃者もいないわ。言い換えれば全員にチャンスがあった、ってことなの」

淡々と述べる伊織とそれに乗る律子に、

「水瀬さん、どうしてそんな話をする必要があるの? それに律子も――」

我慢できない、といった様子で千早が口を挟む。

言葉にこそしないものの、雪歩や春香もそれに同調した。

必要なことだからよ、と彼女は短く返したうえで、

「だけどこれも分かってることだけど、あずさの部屋には鍵がかかってたわ。しかも鍵はナイトテーブルにあった。

そうよね、千早? あんたも一緒にいたんだから間違いないでしょ?」

意趣返しとばかりに問い返す。

「え、ええ……たしかに、そうね」

これは事実だ。

「この館のドアはオートロックじゃない、古いタイプの鍵よね。なら問題はどうやって施錠したか……」

持論に確信を持っているような強気の表情で伊織は言を紡ぐ。

「夜中から明け方にかけて部屋に忍び込んであずさを殺し、部屋を出て鍵をかける――あの状態でそれができるのは響とアイツしかいないのよ」

口調には迷いも躊躇いも一切ない。

事情を何もしらない部外者がここにいたら、彼女の言い分を鵜呑みにしても不思議でないほどの雰囲気ができていた。

「スペアキーを持っているから……そういうことね?」

律子がはっと思い出したように呟く。
112 : ◆e85MZF7Uug [sage saga]:2019/07/02(火) 21:51:22.72 ID:qVSsup/m0
「たしかにあの時、プロデューサーはスペアキーを使ってたわ。あずささんの部屋には鍵がかかってたから」

「だったら自分は無実じゃないか! 伊織の言ってることは矛盾してるぞ!」

「矛盾なんてしてないわよ。あんただってスペアキーを使おうと思えば簡単にできるんだから」

伊織がぐっと前に出た。

だが響は今度は退かない。

「あんた、部屋の鍵を失くしたって騒いでたじゃない。その時、どうしたか覚えてるわよね」

「プロデューサーに言って、代わりの鍵をもらったんだ。それが何の問題があるんだ?」

「”もらった”んじゃないでしょ?」

「…………?」

「あっ…………!!」

雪歩が声を出し、咄嗟に口を手で塞いだ。

「どうしたの、雪歩?」

「う、うん……伊織ちゃんの言ってること、ちょっと分かって……」

詰め寄るような真に彼女は怯えた顔つきで返す。

「響はね、管理人室にスペアキーを取りに行ったのよ。ひとりでね」

”ひとり”という言葉を強調する。

響は天井を仰いでため息をついた。

「その時の様子は誰も見てないのよ。どういうことか分かるでしょ?」

伊織は律子に向かって言った。

「管理人室に行った響は自分の部屋じゃなくて、あずささんの部屋の鍵を持ち出した、って言いたいのよね?」

「ええ」

分かってるじゃない、と彼女は長い髪を掻きあげた。

「伊織がこんなにバカだとは思わなかったぞ……」

呆れたような、憐れむような表情で呟く。

その白地(あからさま)な態度に伊織はキッと響を睨みつけた。

「どういう意味かしら?」

「鍵を失くしたんだぞ? あずささんの部屋の鍵を持ち出したんだったら結局、自分の部屋に入れないじゃないか」

「バカはどっちよ。自分の部屋の鍵も一緒に持ち出せば済む話じゃない」

その程度の反論は想定していた、と言わんばかりの伊織はたじろぎもしない。

「それは……どうかしら?」

ここで律子が疑問をぶつけた。

「鍵の管理はプロデューサーと私の役目よ。キーボックスからあずささんの部屋の鍵が無くなっていたら私に相談したハズよ。

実際、鍵の数については私たちも特に注意していたもの」

これには伊織もすぐには反駁しなかった。

響はやや責めるような表情――いつもの得意気な――で彼女を見ている。

「ねえ、伊織。よく考えてよ。響ちゃんがあんなことするワケないよ。分かってるでしょ?」

沈黙を埋めるように春香が言うと、

「そうだよ! どんな理由があって響があずささんたちを……あんな目に遭わせなくちゃいけないのさ!?」

今とばかりに真が加勢する。
113 : ◆e85MZF7Uug [sage saga]:2019/07/02(火) 21:57:02.83 ID:qVSsup/m0
伊織はしばらく黙っていたが、小さく息を吐くと、

「安心してるように見えるわよ?」

厭らしい笑みを浮かべて言った。

「いい加減に――!」

真が伊織の腕を掴んだ。

「鍵を失くした、っていうのがそもそもウソだったら?」

その手を払いのけ、彼女は言う。

「なん――?」

視線を彷徨わせた真は勢いを挫かれ、伊織からそっと離れた。

「響が本当に鍵を失くしたかどうかなんて、誰にも分からないことよ。海で落とした振りをしたんじゃない?」

「だから! あずささんの部屋の鍵を持ち出したら、プロデューサーが気付くじゃないか! さっき律子も言ってたでしょ!?」

「プロデューサーは気付かなかったのよ」

「話にならないぞ……伊織の言ってることはさっきからムチャクチャだ」

「キーボックスからはたしかに響の部屋の鍵が無くなっていた。でもそれがあずさの部屋のものだとしたら、どう?」

挑戦的な視線に一同は固唾を呑んだ。

成り行きを静観していた貴音は静かに目を閉じた。

「……? 意味が分からないね……?」

亜美と真美は互いの顔を見た。

「この館の鍵、タグと鍵が簡単に取り外せるじゃない」

伊織はポケットから鍵を取り出し、リングチェーンをひねってタグと鍵を分離させた。

「誰でもいいわ……そうね、亜美。あんたの部屋の鍵、ちょっと貸して。すぐに返すから」

「え? うん、いいけど……どうすんの?」

伊織は亜美から鍵を受けとり、タグを外した。

そのタグを自分の部屋の鍵に取り付ける。

「すり替え……?」

千早が呟く。

それをしっかり聞いていた伊織は満足そうに頷いた。

「そう、あずさの部屋の鍵と響の部屋の鍵、こうやってタグを入れ替えれば分からなくなるわ。普通、鍵を見分けるときは繋がってるタグで確かめるものね。つまりこういうことよ」

亜美はまだキョトンとしている。

「仮に、”タグがあずさの部屋のもので鍵本体は響の部屋のものをカギA”として、その逆に”タグが響の部屋で鍵があずさの部屋のものをカギB”とするわ」

伊織はふたつの鍵を振りながら言った。

「昨日、スペアキーを取りに行った響は、まずキーボックスの中にある自分の部屋とあずさの部屋の鍵でカギAとカギBを作った。

そしてカギBを持ち出して、カギAを元々あずさの部屋の鍵があった場所に戻したのよ」

「んん? たったそれだけ?」

耳を傾けていた亜美は首を傾げた。

「そうよ、たったそれだけであずさの部屋の鍵を手に入れられるのよ。しかもプロデューサーや律子にもバレないようにね」

「なんかややこしいんだけど……」

春香が呟いた。
114 : ◆e85MZF7Uug [sage saga]:2019/07/02(火) 22:00:23.30 ID:qVSsup/m0
「キーボックスの中は見た目には響の部屋のものだけがなくなってる状態よ。でも実際は違う。

あずさの部屋の鍵がある場所にはカギA……つまり”あずさの部屋のタグがついた、響の部屋の鍵”が残ることになる」

「ああ…………」

説明を聞いて春香は曖昧に頷いた。

「これなら見た目には分からないし、鍵自体の数にも問題はない。だって響の部屋の鍵だけがなくなっているように見えるもの。

もし鍵の管理を徹底していてタグと鍵が一致するかどうかまで確認するとしたら、全ての鍵を持ち出して全てのドアを開閉しなきゃならない。

ねえ、律子? あんたさっき鍵の管理をしてるって言ってたけど、いちいちタグと鍵が一致しているかまでは――」

「ええ、そんなところまで確認してないわ。実際、過不足はなかったから。もし数が合わなかったとしても……そうね、伊織の言うようにタグを見て足りない鍵を判断していたわ」

律子はかぶりを振った。

それからゆっくりと顔を上げ、響を見る。

その目つきは明らかに疑念を含んだものだった。

「我那覇さん…………」

「………………」

「言うまでもないけど今朝、響が鍵が見つかったからってスペアキーを返しに行ったでしょ。その時に入れ替えたタグを戻したのよ。

だからプロデューサーはスペアキーで何の問題もなくあずさの部屋を開錠できた……違うかしら?」

響は俯き、悔しそうに唇を噛んでいる。

「おかしいと思ったのよ。あんたが慌てて鍵を返しに行く様子がなにか焦ってるように見えたからね。

入れ替えたタグを戻し損ねたら、あずさの部屋に入ろうとした時にタグと鍵が合わないことがバレるもの。

そうなったら誰もいない状態でキーボックスを開けたあんたが真っ先に疑われる」

「………………」

「タグを戻すのを急いだのは、近いうちにスペアキーを使ってあずさの部屋に入る状況になると分かってたから。

つまり……あずさに起きた”異変”を知っていた、ということよ!」

これでも言い逃れができるか――彼女の目はそう言っていた。

反対にその視線を躱すように、響は俯いたまま姿勢を崩さない。

「――伊織」

目を閉じて聞いていた貴音が呟くように呼ぶ。

「プロデューサーが見たという何者かについては、如何に説明するのですか?」

「そ、そうだよ! 私たち、それで島を捜索したじゃない! 結局は見つからなかったけど……」

「残念ながら勘違いだった、ってことになるわね」

伊織は拗ねたように言った。

「アイツが見たって言っただけよ。私たちは誰もその人影を見ていないわよね? 足音すら聞いてないのよ?

こんな状況だもの、何かを人と見間違えたとしても不思議じゃないわ」

彼自身もその可能性を考えていただろうが、捜索が始まってしまったことや、

内部に犯人がいると思いたくないという心理から言うに言えなくなってしまったのだ、というのが彼女の弁である。

「捜索はした。船も見つからなかった。泳いで本島と往復するのは不可能――これは響自身が言ったことよ。

そしてプロデューサーが殺された……だったら考えられることはひとつしかないじゃない」

今まで私が言ってきたことを振り返って考えればいい、と彼女は言った。

「高槻さんとプロデューサーも……その、我那覇さんが手にかけた、と言うの?」

恐る恐る千早が問う。
115 : ◆e85MZF7Uug [sage saga]:2019/07/02(火) 22:08:30.66 ID:qVSsup/m0
「それは…………」

伊織は一瞬、口ごもったあと、

「そうだと、思うわ……」

これまでの饒舌ぶりから一転して迷いを見せた。

「思い出したくないけど、やよいは窓に向かってうつ伏せに倒れてた。背中を刺されてね。それもあって外部の人間が犯人じゃないと思ってたのよ」

「……どういうこと?」

掠れた声で訊く真美は今にも泣きそうな顔をしている。

「部屋にいて誰かが入って来たら普通、入り口のほうを見るでしょ。もしそれが見ず知らずの人間だったら?

何をされるかも分からない状況で背中なんか向けられるワケがないわ。逃げるにしても背を向けないように後ずさるハズよ」

「言われてみれば……」

「逃げ道があるなら走って逃げるでしょうけど、入り口の反対側には壁と窓しかないもの。

私なら相手に背を向けるより、手近にあるものを投げつけながら思いっきり叫ぶでしょうね」

あっ、と春香が声をあげた。

「そういえば私たち、やよいの声を聞いてない……」

同意を求めるように彼女が振り返れば、何人かが無言のままに頷く。

「私もハッキリとは見なかったけど、部屋の中は荒れてなかったと思う。つまり抵抗した跡がないのよ。

だから犯人はやよいが知っている人物――それも相手に背中を向けられる程度に信用してる人ってことよ」

つまりここにいる誰かだ――と彼女は言った。

殆ど淀みのない、しかも辻褄の合う推理は聞く者を納得させるには充分な説得力があった。

――数秒。

誰も何も言わない。

響でさえ抗弁しなかった。

「――伊織の言ってることは何となく分かったよ」

真の口調はこの状況でも凛然としていた。

「でもボクは違うと思う。響が言い返さないならボクが代わりに言うよ」

「何を? あんたが何を言うって? さっきの話に間違いがあるって言いたいワケ?」

伊織は腰に手を当て、挑戦的な視線を叩きつけた。

「おかしいじゃないか。プロデューサーは犯人に心当たりがあったんだろ?

もし響が犯人でプロデューサーがそれに気付いてたんなら、みすみす殺されるハズがないじゃないか」

「それは…………」

伊織は顔を顰めたが、

「見当が外れたってこともあるでしょ。別の誰かだと踏んでたのよ。だから響には油断したのよ」

これでどうだ、とばかりに鼻を鳴らす。

「それでもいいよ。でも伊織の言うとおりなら響がプロデューサーをその……殺す理由がないだろ」

「理由ならあるじゃない。春香も言ってたでしょ。アイツは犯人の手がかりを掴んでたのよ。

結果的にそれが見当違いだったとしても、響が自分が犯人だとバレたかもしれないと思えば当然、口を封じるわよね。

タイミングが良すぎるじゃないの。律子が手がかりを聞く前に殺されるなんて……これ以外にどんな理由があるのか教えてほしいわね!」

苛立ちながらも冷静を装っていた伊織は、言を重ねるにつれて口調が荒々しくなってくる。

真は怒鳴りかけたが拳を握りしめ、深呼吸すると静かにこう言った。

「今のこの状況が、響が犯人じゃないって思う理由だよ」
116 : ◆e85MZF7Uug [sage saga]:2019/07/02(火) 22:12:07.37 ID:qVSsup/m0
彼女らしくない意味深長な物言いに、春香たちは訝るように2人を見守る。

「さっき言ってたじゃないか。あずささんを殺せるのは響かプロデューサーのどっちかだ、って」

「ええ、それが何だっていうのよ?」

「鍵をすり替えてまであずささんを殺したんだとしたら当然、ボクたちに疑われないようにするハズだよ。

もしかしたら伊織みたいにスペアキーのことに気付く人が出てくるかもしれない。

タグの入れ替えを思いつくくらいなんだ。自分とプロデューサーが疑われることだって考えてるに決まってる」

「………………」

「そんな状況でプロデューサーを殺してしまったら、消去法で自分が犯人だって宣言してるようなものじゃないか。

現に伊織だってプロデューサーが殺されたから、響が犯人だって言い切ってるんだろ?」

「………………」

「もしボクが響で犯人だったら、少なくともプロデューサーだけは絶対に殺さないよ。

というかスペアキーを管理してるって理由でみんながプロデューサーを疑うように仕向けると思う」

「――そう思われることを逆手にとって、敢えてアイツを殺したとも考えられるでしょ?

今のあんたみたいに弁護をしてくれる人がいたら好都合じゃないの。だったら――」

視線を真からそのまま響に移して、

「今のこの状況が、響が犯人だと思う理由よ」

伊織は無表情に切り返した。

「なんだよ、それ……なんで響が……」

「知らないわよ。本人に聞けば? 私はあずさが――」

「さっきからうるさいの!!」

突然の叫び声は言い争いを続ける2人と、嫌疑をかけられている者、成り行きを見守っている者たちの注意を引くには充分すぎた。

泰然としていた貴音でさえも、まるで覚醒したように声の主に目を瞠っている。

「なんでそこまでして響を犯人にしたいの!? 響に何の恨みがあるの!?」

美希の感情を乗せた悲鳴は裏返り、泣き声と殆ど区別がつかないほどだった。

実際、彼女は涙を流してはいない。

しかしまぶたは腫れ、赤くなった目が伊織をしっかりと捉えている。

「わ、私は別に響を犯人にしたいワケじゃ、ないわよ……ただ、そうとしか考えられないってだけで――」

あまりの剣幕に伊織は怯んだ。

「それが決めつけてる、って言ってるの! さっきからでこちゃんの言ってること、全然理由になってない!」

「な、なによ……」

「響が犯人だったらツジツマが合うっていうだけで、証拠がひとつも出てきてないの!

証拠もないのにテキトーなこと言って響を犯人扱いしないでよ!」

「しょ、証拠ならあるじゃない! あずさの部屋の鍵が……」

「それも伊織が言ってるだけでしょ!? みんなが納得できる証拠があるなら出して!!」

「………………」
117 : ◆e85MZF7Uug [sage saga]:2019/07/02(火) 22:14:54.46 ID:qVSsup/m0
談話室を取り巻く空気は一変した。

伊織の推理は筋が通っていたが、美希の言うように証拠がなかった。

そのため頷きはしたものの、誰ひとり響が犯人であるという考えに同意する者はいなかった。

「響を見てよ。あずさもやよいもハニーも殺したんだったら、血くらい付いてなきゃおかしいの」

反論に窮して沈黙することすら許さないように彼女はさらに迫った。

「ミキ、ちゃんと憶えてるもん。昨日お風呂に入ってから響の服はずっと同じなの」

「それは…………」

「信用できないなら写真でも見ればいいと思うな! 千早さん、撮ってるでしょ!?」

「え、ええ、そうね……たしか昨夜、全員で撮ったものがあったハズだけど……」

不意に呼ばれ狼狽したような千早は確かめるように頷く。

「………………」

何度目かの沈黙である。

今度は伊織と美希が睨み合い、火花を散らしている。

毅然と反論していた真も、美希の気迫に押されたように一歩退いた位置にいた。

「まさか、あんたにここまで言われるとは思わなかったわ」

諦めと呆れと、少し怒気を含んだ表情で伊織が言った。

美希たちに背を向け、天井を仰いでため息をつき、

「……少し、頭を冷やしてくるわ」

誰とも顔を合わせずに談話室を出て行った。

それを茫然と見送った律子は、

「あ! 駄目よ、伊織! ひとりじゃ危険だわ!」

亜美を伴い慌ててその後を追った。

残された者たちはしばらく黙ったままだった。

「響への疑いは晴れた、って思っていいんだよね……?」

憚るように真が言った。

何人かが示し合わせたように頷く中、

「最初から響は犯人じゃないって、みんな分かってることなの」

そう断言する美希には逡巡が見られなかった。

美希が心配そうに響の顔を覗きこむ。

彼女はひどく憔悴しているように見えた。

「響…………?」

「あ、うん……真、美希……さっきは、ありがと…………」

取り繕うように微苦笑する彼女は額にうっすらと汗をかいている。

「大丈夫? …………って、そんなワケないよね……何か飲み物でも持ってこようか?」

「い、いや、いいんだ! 喉、渇いてないし」

慌てて真を引きとめた響は、まだ何かに怯えているように視線を彷徨わせていた。

「少し体を休めたほうが良いかと。さあ――」

貴音がソファを勧めると、響は素直にそれに従う。

もともとそう大きくない体躯をさらに縮こまらせるように、彼女は自分の両腕を抱くようにして腰をおろした。

すぐ横に腰かけた雪歩が響の額に浮かんだ汗を拭う。
118 : ◆e85MZF7Uug [sage saga]:2019/07/02(火) 22:28:51.29 ID:qVSsup/m0
「それにしても、伊織があそこまで言うなんて……」

呟く春香の表情は少しだけ怒っていた。

「ひびきん、本当に大丈夫?」

「うん…………」

「ごめんね。真美もいおりんの言ってることは違うって思ってたけど、ちゃんと言えなかったんだ」

迫力に押されて口を挟む機会を逸してしまったと彼女は詫びた。

「気にしなくていいぞ。真美まで疑われるかもしれないからな……」

それでいいと響は力なく笑ったが、それでは済まないと語勢荒く言ったのは真だった。

「いくらなんでも酷すぎるよ。根拠もなく響を悪者にしたんだよ? それなのに謝りもしないで――!」

「………………」

「響もなんで言い返さなかったの?  あのままじゃ伊織に言われっぱなしだったよ」

「ああ、それは……」

「それとも、もしかして言い返せない理由があるとか? それならそれで――」

「ま、真ちゃん……落ち着いて。そんなに急かしちゃダメだよ……」

響は観念したようにため息をついた。

「自分はほんとにやってないんだ。だけどやってないって証拠もないから反論しようがないんだ」

「やってない証拠って……そんなこと言ったらボクたちだって同じだよ。千早だって貴音だって、みんなそうなるじゃないか」

「だからだよ!」

響は力なく怒鳴った。

「自分が犯人じゃないって決まったら、じゃあ誰があずささんたちを殺したんだってことになっちゃうでしょ?

そんなの、自分……イヤなんだ。この中に犯人がいて、それが誰か暴いたりするのなんて――」

「成程、つまり響は皆が徒(いたずら)に猜疑心を抱かぬよう、敢えて強く反駁しなかったのですね?」

「さいぎ……? うん、そんな感じかな……」

響は笑ったが、その目はどこをも見ていなかった。

「貴女は優しいですね。この状況にあってなお目配りを利かせるとは――」

「それは違うって思うな」

妙に凛とした口調に、春香は驚いたように美希を見た。

「みんなが疑われないように黙ってるなんて、そんなの優しさでも何でもない。ちっとも嬉しくないの」

「………………」

「響が一方的に悪者にされて、もっとちゃんとちがうって言えばいいのに何も言わないからミキ、すごく苦しかったんだよ?

人殺しなんてこの中にはいないの。だからみんな堂々としてればいいの。雪歩もそう思うでしょ?」

そう言って彼女は振り向いて同意を求める。

雪歩は困ったように俯くだけだった。
119 : ◆e85MZF7Uug [sage saga]:2019/07/02(火) 22:31:49.03 ID:qVSsup/m0
「響は犯人にされてもいいの? やってもないのに、やったことにされるんだよ?」

「………………」

「伊織だけじゃないの。犯人の正体が分からないから、みんな不安になってる。早く正体を知りたいって思ってるってことなの。

そんな時にウソでも認めちゃったら、みんなから本当に犯人だと思われちゃうんだよ?」

「そうなの、かな……?」

「そうに決まってるの。だって響が犯人ってことにしておけば気が楽になるんだもん。きっと伊織もそうなの。

きっと本当は誰でも良かったんだよ。たまたま響がテキトーな理由をつけて犯人にされただけなの」

「そんなの私、我慢できないよ」

春香が前のめりになって言った。

「ごめん……私も……伊織の言ってることに説得力があると思ったから何も言えなくて……真と美希がハッキリ否定してるのを聞いて、こんなの間違ってるって気付いた――」

項垂れ、彼女の前で擁護できなかったことを詫びる。

「そっか……やっぱりちゃんと否定したほうがよかったのかな。今さらだけど……」

「響なりの考えがあってのこと。しかし美希の言い分も分かります。どちらが正しいとは言えないことかもしれませんね」

貴音は微笑した。

その目元は少しだけ寂しそうに見える。

「美希、真……ありがとね。みんなも……ごめん……」

「ちょっと、ひびきん。そこは謝るところじゃないっしょ」

呆れたように言う真美につられるように響は笑った。

「それと美希……さっきは叩いたりしてごめんね? けっこう強く叩いたから痛かったでしょ?」

「あ……そういえば……」

美希は思い出したように手を打って、

「すっっっごく痛かったの! 痛くてミキ、もうアイドルできないの。責任とってもらうからね?」

ぐいっと詰め寄った。

「うえぇっ!? そ、そんなにきつくしてないぞ!? で、でも叩いたのは事実だし……!」

「冗談に決まってるの。痛いのはほんとだけど」

「うぅ〜……やっぱり痛かったよね? ごめんな……」

「いーの、気にしてないよ。っていうかあの時、叩かれなかったら貴音にもっとヒドイこと言ってたかも知れないの……」

響を揶揄って笑っていた美希は、ふと申し訳なさそうな顔で貴音を見上げた。

「ええ、美希の辛辣で心無い言葉の数々、胸に刺さりました。あまりのしょっくに立ち直れそうにありません……」

貴音はふらりと壁にもたれかかった。

「貴音はウソつきなの……」

「おや、響のようにはいきませんか?」

「でもヒドイこと言っちゃったのは本当のことだから、そのことはごめんなさい……」

「ふふ、お気になさらずに。本意でないことは承知していますよ」

口調こそ柔らかに言う貴音は、しかし目だけは笑っていなかった。

「はあ…………」

深く陰鬱なため息が聞こえ、春香たちが振り返ると律子が戻ってきていた。
120 : ◆e85MZF7Uug [sage saga]:2019/07/02(火) 22:33:58.12 ID:qVSsup/m0
「響、大丈夫? かなり強く言われてたけど……」

「うん、もう平気だぞ」

「そう……ごめんなさい。無理やりにでもあの子の言葉を遮るべきだったんだけど……」

プロデューサーという立場から考えると、踏み切れなかったと彼女は言う。

「あずささんが殺されて……そのうえ私が竜宮小町は解散だなんて言ったものだから、相当ショックだったみたい」

「それは……」

「普段はしっかりしてるように見えるけど、あの子だってまだ15歳の女の子よ。

こんなことになって取り乱しそうになるのを何とか抑えてるんだと思うわ――」

伊織を責めないでやってくれ、と律子は遠回しに告げた。

「もしかしたら水瀬さんは、我那覇さんを責めることで精神の安定を図っていたのかもしれないわね」

「そうかもしれないけど……」

真はまだ納得がいっていない様子だ。

「ところで律子、2人はどうしたのですか?」

「食堂にいるわ。伊織も少し落ち着いてきたし、はやく響に謝ろうと思って戻って来たのよ」

「自分、そんなに気にしてないのに」

「あの、私……伊織ちゃんたちのこと、見てきます!」

雪歩は誰の反応も待たずに談話室を飛び出していった。

「真美も行くよ!」

すぐ後に真美が続く。

その背中を見送った貴音がぼそりと呟いた。

「彼女はずいぶんと強くなりましたね……」

しかしそれは誰にも聞こえなかった。

それから10分ほどして亜美と真美が戻ってきた。

「律っちゃんたちが心配するだろうから先に戻りなさいって」

「雪歩と伊織は?」

「まだお話してるよ。ゆきぴょんが説得してるみたいな感じだったけど……」

「2人だけで大丈夫なのかなあ……」

「今のいおりんなら犯人くらいやっつけちゃいそうだけど」

しばらくして伊織たちが談話室に戻ってきた。

不満そうな彼女を守るように前を歩いていた雪歩は、響と目が合うと気まずそうに目を逸らした。

「――悪かったわよ」

謝罪の言葉にしてはあまりに打切棒(ぶっきらぼう)で誠意に欠け過ぎている。

実際、彼女は余所を向いているし、怫然とした表情は変わっていない。

「たしかに真や美希の言うとおりだわ。確たる証拠もなしに犯人扱いしたのは早とちりだった」

あくまで”早とちり”であることを強調する伊織。

「でもだからって疑いが晴れたワケじゃない。響が絶対に犯人じゃない、っていう証拠が出てくるまではね」

そう言って挑戦的な視線を全員に向けた。

「まだそんなこと言って……!」

詰め寄ろうとする真を響が制する。
121 : ◆e85MZF7Uug [sage saga]:2019/07/02(火) 22:38:50.75 ID:qVSsup/m0
「いいんだ、真。自分はやってない。これ以上、言うことなんてないぞ」

今度は彼女は退かない。

冷たく突き刺さるような視線を叩きつける今の響は、ステージの上の彼女――ダンスで多くの観客を魅了するクールな――そのものだった。

「なんなら今からずっと自分を監視すればいいさ」

「しないわよ、そんな”無駄”なこと」

蔑むように言ってから伊織はちらりと雪歩を見やる。

視線に気付いた雪歩は何かに耐えるように俯いた。

「でこちゃん、悪いと思ってるならちゃんと謝ったほうがいいと思うな」

目も合わさずに美希が言うと、伊織は小さくため息を吐いた。

「悪かった、って言ったじゃない」

「そんなの、謝ったことにならないの」

「響の潔白が証明されたら土下座でも何でもしてやるわ」

それきり彼女は何も言わなくなった。

「みんな、落ち着いて。今は仲間割れしてる場合じゃないよ」

春香が仲を取り持つように口を挟むも、それで空気が変わるわけではなかった。

談話室には全員集まっているが、それぞれのいる位置や距離からいくつかのグループができている。

顕著なのは寄り添うようにしている亜美と真美、肩が触れ合うほどに接近している雪歩と真だ。

伊織や響、貴音は特に誰とも密着しようとせず、部屋全体を見渡せる位置にいた。

「ちょっといい?」

沈黙を打ち破るように律子が言った。

「皆、こんなことになって相当なストレスが溜まってると思うわ。外との連絡も取れないし、迎えは明後日まで来ない。

正直……この館に留まってること自体、精神的につらい人もいると思う」

という自分自身も何とか平静を保つように努めている、と彼女は言った。

「そんな状況でこうして全員で同じ部屋にずっといる――というのもあまり神経に良くないんじゃないかって考えてるの」

室内がざわつく。

「まさか自分の部屋で過ごせ、なんて言わないわよね?」

一番に噛みついたのは伊織だ。

「そんなワケないじゃない。私はただ、今のこの状態が精神衛生上、良くないかもって言ってるのよ」

「どうして、ですか?」

雪歩がぎゅっと拳を握って問う。

「考えてたの。プロデューサーが言ってた”心当たり”とか、伊織の推理とか……どれもハッキリしたことじゃないけど……。

でも……ごめんなさい……私もこの中に犯人がいない、って言い切れる自信がないのよ…………」

尻すぼみに言ってから、誤解しないでほしいと彼女は慌てて付け加えた。

「響が、って言ってるワケじゃないわ。ただ、これまでの出来事を総合すると……どちらの可能性もあるってだけで……。

せめてプロデューサーが見たっていう何者かを一度でいいから、私たちがハッキリ目撃できればいいんだけど……」

「律子は――」

声の調子を確かめるように、千早が胸のあたりで拳を握る。
122 : ◆e85MZF7Uug [sage saga]:2019/07/02(火) 22:58:30.16 ID:qVSsup/m0
「私たちの中に犯人がいないとは言い切れない、と言ったけど……それは状況的な証拠を指してのことなの?」

「……どういう意味?」

「律子の言い方だと、私たちを殺人を犯せるような人だと見ている、ということになるわ」

「………………」

苦悶の表情で雪歩が俯いた。

しばらく黙っていた律子は眼鏡をかけなおすために手をあげた。

が、その指がテンプルに触れることはなかった。

「――そういうことになるわね」

静かに答え、そっと手をおろす。

「仕方ないじゃない。もしプロデューサーの見た人影が勘違いだとしたら、伊織の言うように島には私たちしかいないのよ?

その状況で人が殺されたなら、この中の誰かが……としか考えられないじゃない」

「そうだとしても! ボクたちの中に犯人がいるワケないじゃないか。これまでずっと一緒に仕事してきたのに……!」

「分かってる! あんたの言うとおりよ! だけどそれは情で考えるからそうなるの! 現実を見なくちゃいけないのよ。

思い込みや感情を持ち出すべきじゃない。もっと……もっと冷静に、現実的に考えなきゃ…………」

「………………」

「そうは言っても私だって765プロの人間よ。信じたい気持ちのほうがずっと強いわ。それを…………。

それを不審者だか物の怪だかに振り回されたくない。私だって本当は喚き散らしたいくらいよ」

それを聞いた貴音の表情が変わった。

「不審者? 物の怪……?」

「物の怪ってヨーカイのことだよね?」

亜美が訊ねると、春香が小さく頷いた。

「ひとつ、確認しておきたいことがあります」

「何かしら?」

「この島に着いた時、船頭の岩倉殿と何やら話をしていたようですが、その表情に峻厳さを感じ取りました。

羽を伸ばすために来たにしては――座視できないような何事かがあったのではありませんか?」

何人かが怪訝な顔つきで律子を見た。

特に千早は疑念というよりも、刺すような目つきから敵意をさえ感じさせた。

「こうなったからには……それも話すつもりでいたわ」

よく見てるわね、と言ってから彼女は岩倉から聞いた内容を打ち明けた。

港付近で動物の不審死が相次いでいること。

影や光る蛇等を目撃したという証言が多数あり、その騒ぎに乗じて霊媒師の類が集まって来たこと。

それらは港のみであり、ここを含めた島嶼では確認されていないことなど。

「気味悪いぞ、それ……」

響は顔を顰めた。
123 : ◆e85MZF7Uug [sage saga]:2019/07/02(火) 23:04:02.76 ID:qVSsup/m0
「ちょっと、律子。他に何か隠してないでしょうね?」

「な、ないわよ!」

「どうだか…………」

伊織は呆れたように大袈裟にため息をついた。

「私とプロデューサーだけで留めておこうと思ってたのよ。水を差したくないし、私たちとは無関係だと思ってたから。

正直、プロデューサーが人影を見たと言った時は件の怪奇現象かと疑ったわ」

「でも犠牲になったのは動物だけで……人間がその、殺されたりはしてないんですよね……?」

雪歩が震える声で訊くと、律子は曖昧に頷いた。

「……でも人間も動物だぞ」

ぼそりと言う響に、雪歩は小さく悲鳴をあげた。

「も、物の怪とは……穏やかではありませんね……」

「どしたの、お姫ちん? 顔が白いよ?」

「白いのは元々じゃん」

「いえ、大丈夫です。荒唐無稽な話に些か驚いてしまっただけのこと……」

控えめに髪を掻き揚げ、上ずった声調を元に戻す。

だがその優雅な所作は、小刻みに震えている手の所為で隠していた瑕疵が露わになってしまう。

「バカバカしくて話にならないわ」

伊織は終始、嘲弄するような態度で律子の話を聞いていた。

「どこの妖怪があんな告発文を書いて、刃物やロープで人を殺すのよ? あずさに至っては施錠までしてるのよ?」

「たしかに……」

「人間に決まってるでしょ。仮にその噂が本当だとしても、ここで起きてることとは無関係だわ」

「でももし本当にその幽霊か何かがこの島にいたらどうするんだよ?」

語調は強く、しかし真の声は震えている。

「どうしようもないでしょ。こっちは生身の人間なんだから」

くだらない、と伊織は取り合わなかった。

「それよりどうするの? みんなでまとまっていないほうがいい、っていう律子の話――」

自分は反対だ、という意見を添えて響が問うた。

「安全だとは思うけれど、不用意に疑い合ったり啀み合ったりするのは避けるべきだと思う」

とは千早の弁だ。

「それだと……分かれて行動するっていうのはどうなんだろう……」

春香は不安げな顔で呟いた。
124 : ◆e85MZF7Uug [sage saga]:2019/07/02(火) 23:07:28.19 ID:qVSsup/m0
「別々に行動することで、お互いに疑い合ったりしないかな……」

「なんでそう思うの?」

「だって2つのグループに分かれたとしても、他のグループのことは見えないんだよ?

もし何かあったら……あの時どこにいたとか何をしてたか、とか……そんなふうになるんじゃないかな……?」

「全員がバラバラになるならともかく、複数人で固まっていれば大きな問題にはならないと思う。

誰かが不審な行動をとったとしても誰かが見てるワケだし……あ! 今のは仮に、の話よ?」

取り繕うように言い、律子は両手を振った。

「ミキはどっちでもいいよ。この中に犯人はいないって思うから」

さらりと述べた彼女の意見には、多くが複雑な表情を浮かべて返した。

「あのね、美希……そんな簡単な話じゃないのよ。私たちは両方の可能性を――」

「だって理由がないの。あずさややよいやハニーを殺す理由が誰にあるの? 何のために殺すの? 何の得があるの?」

「得とかそんなことじゃ……」

「怪しいっていうならミキたち全員が犯人になるよ? だったら全員が一緒にいても分かれても同じことなの」

突き放すような口調は平素の星井美希からは想像もつかないほど冷然としていた。

この何も考えていないような発言が春香たちに熟考を促す。

つまりこの状態を維持して全員が同じ場所で過ごすか、いくつかのグループを作って分かれるか、だ。

この館はそれなりの広さだが構造は複雑ではないし、大勢が集まれる場所は限られている。

談話室、食堂、2階の多目的室に遊戯室。

見通しの良さならばエントランスも候補に入る。

また階段を上がってすぐの空間――エントランスの真上――にも小卓や椅子が置かれているため、ここで過ごすこともできる。

島の捜索の是非を問うたように、この後の行動についても大いに言い合いになった。

分かれるメリットがない、と主張するのは春香や真、響が中心となる。

これまでのアイドルとしての歩み方、事務所内でのスタンスを象徴するように、彼女たちは和や戮力を押し出した。

手を取り合うことの大切さ、信じ合うことの尊さ、和合して困難を乗り越える必要性を説く。

こんな時だからこそ疑念を捨てて心をひとつにするべきだ――春香たちはそう訴えた。

しかしこれに賛同しない者たちもいる。

外部の人間が島に来る方法が存在せず、したがい犯人はこの中にいる誰かだという姿勢を相変わらず貫く伊織だが、

亜美と真美もハッキリと言葉にはしないもののその考えに靡いているかのような態度を示している。

貴音は旗幟を明らかにせず、グループで分かれた場合には均衡を保つため少数グループに加わる旨の発言をした。

この議論に言うべきことは言った、と美希が傍観する立場をとる。

律子は貴音の態度を評価しつつも、彼女の”均衡”という言葉を言い換えて、この膠着状態を変えたいと再度提案した。

そして――。



125 : ◆e85MZF7Uug [sage saga]:2019/07/03(水) 22:10:46.47 ID:piDPP0Z90
 15時35分。

やや狭かった談話室は、その広さや設備に対してちょうどよい人数を擁することになった。

空間も広くとれ、余裕も出てきたハズだが、春香たちはため息ばかりついている。

「こんなことになるなんて思わなかったよ……」

普段は恬淡快濶な真の声に怨嗟の色が混じる。

”充分な”話し合いの結果、彼女たちはふたつのグループに分かれて行動することになった。

春香、千早、真、雪歩、美希、響の6人はそのまま談話室に残った。

伊織、律子、亜美、真美、貴音の5人は同じ階にまとまらないほうがいいとの理由で、2階へと上がっていった。

皮肉にもそれぞれの顔ぶれは、律子の提案に賛成した者と反対した者とに分かれた。

「仕方ないわ。疑い合いながら不本意に全員が集まるくらいなら、ある程度納得できる分かれ方をしたほうが――」

2階に上がる際、律子は”少しの間だけだから、気分を変えるためだけよ”と言い残した。

「ボクは納得できるワケじゃないけど……千早は冷静だね」

「仲間割れなんて犯人が一番望んでることだわ。私は妥協点としてはいいと思ってる」

「仲間…………」

響がぼそりと呟いた。

「どうしたの、響ちゃん?」

「簡単に壊れちゃうんだな、と思ってさ……」

春香は目を逸らした。

彼女の呟きは現状を的確に表したものだった。

離れていても、心はひとつであることを意識して仕事をしてきた彼女たちにとり、この状況は劇的な変化だ。

自分たちがこれまで信じてきたこと、築いてきたものを根底から否定するも同然だった。

「そんなこと……ないと思うよ……」

蚊の鳴くような声で雪歩が言う。

口唇は僅かに動いており、何か言いたいのを我慢しているように見える。

「伊織ちゃんだって、本当は私たちのことを疑いたくないと思う」

その言葉に全員が彼女を見た。

「そりゃ、ね……伊織はハッキリものを言うタイプだし。だからって本心じゃないってことも分かってるけどさ」

呆れたように真が言う。

「それでも不安を煽るようなことを言うのはよくないよ。こんな時こそ信じ合わなくちゃいけないのに」

そう言って春香を見やる。

視線に気付いた春香は深く頷いた。

「犯人を捕まえれば済む話なの。そしたら、でこちゃんだって自分が間違ってた、って気付くと思うな」

「そんな簡単にはいかないよ。相手は人を……殺すような人だよ? 危ないよ」

春香が微苦笑して言ったが、美希は退かなかった。

「野放しにしてるほうが危ないと思うよ? 犯人が捕まれば部屋でゆっくり寝られるし」

「それはそうかもしれないけど……」

「自分は――」

響は天井を仰いだ。
126 : ◆e85MZF7Uug [sage saga]:2019/07/03(水) 22:14:28.13 ID:piDPP0Z90
「犯人捜しなんてしなくていいって思ってる。っていうかしないほうがいい」

「どうして……?」

問うたのは雪歩だ。

「だって刺激しちゃうかもしれないでしょ? 犯人の立場で考えたら追いかけられないほうがいいハズだし。

プロデューサーが口封じのために殺されたんだとしたら、なおさら静かにしてるほうがいいんじゃないか?」

「でも犯人を見つけられたら響の濡れ衣だって晴れるの。疑い合わなくて済むんだよ?」

美希の口調は怒気を含んでいるような、優しく諭すような、複雑な声質を帯びていた。

「美希はやっぱり犯人をハッキリさせたいのか?」

「当然なの。あずさとやよいと、それにハニーまで殺したんだよ? ミキは絶対に許せない……。

もし目の前にいたら……ミキも犯人と同じようにするかもしれない…………!」

その形相はとてもアイドルと言えるものではなかった。

鋭く、射抜くような双眸は照明を浴びてぎらりと光り、獣を想起させる獰猛さは隠れもしない。

その悪鬼羅刹のような表情を見て響は、

「やっぱり、そう、だよね…………」

諦念したような顔をして呟き、壁の時計を見た。

15時51分。

外の陽射しは強いが、談話室に射し込む陽光は徐々に少なくなり、場所によっては薄暗い。

「喉、渇いちゃった」

先ほどの忿怒を含んだ口調はどこへ行ったか、まるで寝起きのような声で美希が言った。

「あ、それなら何か淹れてくるね。何がいいかな?」

と、その声を待っていたように雪歩が立ち上がったが、

「いや、いいよ! 自分が行くから。雪歩はさっきもお茶淹れてくれたでしょ?」

制するように響が言い、美希の手をとった。

「ほら、美希も行こうよ」

「えぇ〜、メンドクサイの……せっかく雪歩が淹れてくれるって言うんだから、ここで待ってる」

「喉が渇いてるのは美希でしょ。それにちょっとは動いたほうが気分転換にもなるぞ」

渋々ながらも立ち上がった彼女は生あくびをした。

「私も行こうか?」

「ううん、大丈夫。真、何かあったら頼むぞ」

腰を上げた春香を留め、談話室にいる3人を真に任せる。

「こっちは4人いるから大丈夫だけど、響たちのほうが心配だよ」

「心配ないさ。だって自分――」

「カンペキだから」

美希が意地悪そうな笑顔で言った。

「うがー! それ、自分の台詞だぞ」

大仰に腕を振って抗議する響。

そのやりとりに春香たちは微苦笑した。

「みんなの分も淹れてくるよ。何でもいいよね?」

全員が頷いたのを確かめ、美希を伴って厨房に向かう。
127 : ◆e85MZF7Uug [sage saga]:2019/07/03(水) 22:17:15.94 ID:piDPP0Z90
エントランスまで来たところで美希の足がぴたりと止まった。

「なんか、ヘンなカンジだね……」

「何が?」

「昨日、ここに来たばかりなの。まだ1日しか経ってないのに……」

そのたった1日で起こったことが信じられない、と彼女は零した。

豪奢な内装に驚き、誰もがここでの滞在に期待に胸を躍らせたのも過去のこと。

陰惨な出来事が続き、この重厚なワインレッドのカーペットさえ、犠牲者の血でできた色のように見える。

その呟きには何も返さず、響は無言のまま階段を見上げた。

緩やかなカーブを描く階(きざはし)は左右対称で、一般家屋よりも階高がずっと高く、2階の様子はよく見えない。

「あ……っ!」

不意に響が声をあげた。

「どうしたの!?」

「う、うん……いま、ちょっと思ったんだけど」

響は2階を見上げたまま言った。

「あずささんの部屋って、やよいの部屋の真上だよね。何か意味があるのかな、って思って」

「意味……?」

「それに、プロデューサーのいた管理人室はやよいの部屋の向かいだし……これって偶然なのかな」

「あんまり関係なさそうなの」

美希は真顔で言った後、

「それにやよいの部屋の向かいはハニーじゃなくてミキの部屋なの」

別段気にも留めていないふうに補足した。

「あ、そっか……」

響は恥ずかしそうに頭を掻いた。

「………………」

美希はそんな彼女を横目で見ると食堂へ足を向けた。

テーブルの上は綺麗に片付いている。

しかしクロスを見ると各々の食べ方や作法の違いが分かる。

たとえば亜美と真美が座っていた場所は、スープかサラダのドレッシングを零したらしい染みがある。

反対に貴音や伊織のいた場所には染みひとつ、汚れひとつない。

雪歩のいた場所も汚れはなかったが、垂れ下がったクロスの一部に何度も爪で引っ掻いたような解(ほつ)れがあった。

美希はぼんやりとテーブルと告発文を眺めている。

響は脇目も振らずに厨房に入ると、何カ所かの収納スペースの中を覗き見た。

「雪歩はどれでお湯を沸かしたのかな?」

「こっちの大きなお鍋だと思うよ。これだけ伏せてあるの」

美希が響の後ろに立って言う。

「あ、ほんとだ」

鍋をコンロに置いて点火する。
128 : ◆e85MZF7Uug [sage saga]:2019/07/03(水) 22:19:51.47 ID:piDPP0Z90
「ついでに何か簡単なものでも作ろうか……ねえ、美希、何か食べたいものある?」

「おにぎり、かな。あ、でもあんまり食欲ないかも……」

「ご飯を丸めてるだけだしね。あ、そういえばアイスクリームがあったっけ……」

冷蔵庫を漁り始めた響に背を向け、美希はまた食堂に戻ってきた。

大きく掲げられた告発文は、食堂のどこにいても目立つ。

「ハニーのウソつき……」

それを眺め、彼女は消え入りそうな声で呼ぶ。

「キラキラできるって、もっともっと輝かせてくれるって約束したのに……」

呟きを聞いているのは、それを発している本人だけだった。

彼女はぼんやりと告発文を眺めながら、そっとテーブルに手を置いた。

そこはあずさが座っていたところだった。

「ミキは、信じないの……ハニーが死んじゃったなんて……だって……ミキは、ね……? これから……」

ぎゅっと目を閉じ、小さく握った拳を胸の辺りに押し当てて――。

「…………ッ!?」

次の瞬間、彼女は何かに驚いたようにパッと顔を上げた。

そして今度は眺めるのではなく、告発文を凝視した。




129 : ◆e85MZF7Uug [sage saga]:2019/07/03(水) 22:38:28.26 ID:piDPP0Z90
「どうかしたの?」

一番に雪歩を気遣うのはいつも真だった。

彼女は2人が去って行ったほうを何度も見ては、その度に大息している。

「あ、何でもないよ……」

そう言って取り繕うような笑みを浮かべる。

「隠さなくてもいいよ。2人が心配なんでしょ? ボクだって同じだよ」

真はそう言うが表情にはどこか後ろめたさを感じさせる暗さがある。

「真ちゃんこそ大丈夫? 元気がないみたいだけど……」

こんな状況で元気があるほうがおかしいが、彼女の問いはこの場には相応しかった。

千早はソファに座って項垂れ、何事かを考えている様子である。

が、その目は垂らした前髪で隠しながら雪歩と真を交互に見やっている。

「うん……まあ、ね……」

「…………?」

「考えてたんだ。伊織の言ってたこと……」

「まさか真まで響ちゃんが犯人だ、なんて言わないよね?」

やりとりを見ていた春香が口を挟み、真は慌てて否定した。

「ち、ちがうよ! さっきも言ったじゃないか! 響は犯人じゃないって」

大仰にかぶりを振った後、彼女は握った拳をわずかに震わせた。

「そうじゃなくて、さ。響が犯人だ、って伊織が言い切った時……ボク…………」

真は沈痛な面持ちで何か言いかけたが、それはドタドタと廊下を走ってくる音に遮られた。

談話室までわずかな距離だというのに、フルマラソンを走り終えたように肩で息をしながら、

「美希は!? こっち来てない!?」

血相を変えて飛び込んできたのは響だ。

「我那覇さん……!? どういうこと……!?」

「いなくなったんだ! 後ろにいると思ってたのに、声かけても返事がなかったから……でも食欲がないからって……!」

「落ち着いて、我那覇さん。何があったのか、落ち着いて説明して」

呼吸を整え、小さく頷いた彼女は経緯を話した。

「お湯を沸かしてる時に、お昼はあんなことがあってみんな、ちゃんと食べてないだろうって思って……。

それで何か簡単なものを作ろうとしたんだ。美希は最初、おにぎりがいいって言ったけど食欲がないって言うから、

デザートとかなら食べれるかもって冷蔵庫の中を探してたんだ」

「その時、美希は厨房にいたのね?」

「うん。背中越しだけど返事は聞こえてたから。それで冷蔵庫の奥の方にアイスクリームを見つけたんだけど、

いま出したら溶けるからお茶を淹れてからにしようと思ったんだ。だから扉を閉めて振り向いたら――」

「いなくなっていた、ということなのね……?」

適度に相槌を打ちつつ先を促す彼女は、普段の人を寄せ付けない雰囲気に反して、相手から聞き出す能力を垣間見せた。

経緯を聞いていた雪歩は困ったように視線を彷徨わせている。
130 : ◆e85MZF7Uug [sage saga]:2019/07/03(水) 22:44:01.69 ID:piDPP0Z90
「時間にして1分もなかった、と思う。自分、美希はずっと厨房にいると思ってたんだ。どこかに行く理由なんてないし」

「とにかく美希を探そう!」

今にも飛び出さん勢いで真が言う。

「こんな状況でひとりで行動するなんてありえないよ! 早く探さなきゃ!」

「わ、私も……!」

キッカケを待っていたように雪歩が後に続く。

「ボクたちは食堂を見てくるよ!」

「じゃあ私たちは2階に上がって律子たちに声をかけてくるわ!」

千早は春香を伴って談話室を出ようとした。

「響ちゃん…………?」

動く素振りを見せない響に春香が声をかけた。

「一緒に行こう? 何か言われても私たちが証人になるから」

「あ、ああ、うん……ねえ、春香……」

「どうしたの?」

「気を悪くしたらごめん。そんなつもりじゃないんだけどね――」

そう前置きしてから、

「みんな、ずっとここにいたんだよね……?」

おずおずと、しかし明らかに懐疑的な口調で響は問う。

「………………」

「………………」

春香は何も言わず、千早に目配せした。

「ええ、いたわ」

抑揚なく答える彼女には、その口調と同じく表情がなかった。

「それより急がないと」

春香が言うと今度は響も2人に続いて伊織たちの元へ向かった。










131 : ◆e85MZF7Uug [sage saga]:2019/07/03(水) 22:52:03.31 ID:piDPP0Z90
彼女たちは階段を上がってすぐのスペース――エントランスの真上――にいた。

誰かの部屋に集まろうかとの意見もあったが、さすがに5人は狭いということでここに落ち着いたのだった。

ため息ばかりが聞こえる。

無意識に出たらしいかすかなものもあれば、明らかに当てつけがましい深いため息も混じる。

「なんであんなこと言ったのよ?」

痺れを切らしたように律子が言った。

咎めるような視線は伊織に注がれている。

「事実だからよ。慰めみたいなこと言ってもしょうがないじゃない」

「そうかもしれないけど……響が犯人だなんて証拠はどこにもないのよ?」

律子はかぶりを振った。

「たしかにあんたの言うことには説得力があったし実際、私もそうかもしれないって考えたわ。

でも美希が反論したように、筋は通っていても裏付けがない。証拠がないのよ。

そういうのは推理じゃなくて憶測。決めつけてかかるのは良くないわ。まあ、あんたのことだから――」

「………………?」

「――この膠着した状態を何とかしたい、っていう気持ちもあったんだろうけど」

伊織は拗ねたように余所を向いた。

だがその動作によって今度は亜美と目が合う。

「ひびきんは犯人じゃないよ」

自信なさそうに、しかしハッキリと聞き取れるように彼女は言う。

「だってひびきん、そんなウソつけるタイプじゃないっしょ……? すぐ顔に出ちゃうんだから……。

あずさお姉ちゃんたちをころ……して、さ……それで平気でいられるワケないよ――」

すぐ傍で真美が同意するように頷いた。

グループに分かれてからも亜美と真美は片時も離れない。

「あんたはどう思うのよ?」

2人を無視するように伊織は貴音に問うた。

「……現状では何を言っても推測の域を出ません。もちろん心情ではこの中に犯人がいると思いたくはありませんが。

しかし多分に郢書燕説があるとはいえ、伊織の言い分にも頷けるところはあります」

彼女はすぐには答えなかった。

「郢書燕説は余計よ」

「不可解な行動をしている者が何名かいます。殆どは些末な事でしょうが……機を逸して聞きそびれてしまいました」

律子が俯き加減に視線だけを貴音に向けた。

「不可解な行動って……?」

伊織が怪訝そうに問いかけたところ、

「なんか下がザワザワしてる」

亜美と真美が階段の手すりから身を乗り出して言った。

「何事かが起こったのかもしれません」

険しい表情の貴音はゆっくりと腰を上げ、亜美たちの背後に立った。
132 : ◆e85MZF7Uug [sage saga]:2019/07/03(水) 22:58:49.66 ID:piDPP0Z90
「何事かって……?」

「良くないこと……でしょうか」

そう呟いた時、勢いよく階段を駆け上がってきたのは春香たちだ。

「手短に説明していただけますか?」

まるでこうなると分かっていたように、彼女は極めて冷静に――響に問うた。

伊織がやや離れたところから彼女たちを見ている。

響に代わって春香が状況を説明する。

「美希、が…………?」

不思議そうに問う律子の顔は強張っている。

「亜美たち、ずっとここにいたけどミキミキは来なかったよ」

彼女たちのいる場所は両側の階段を俯瞰できる位置にある。

誰かが上ってきたらすぐに分かるハズで、美希の姿は見ていないと亜美たちが証言した。

ならばまだ1階にいるに違いないと伊織たちともども階段を下りていく。

その時、念のために多目的室を見てくると言って貴音と律子は引き返した。

春香たちが降りるとエントランスには真と雪歩がいた。

「どこにもいないんだ! 部屋にもいない。浴場や食堂も見たけど……」

見つからなかったという真が額にうっすらと汗を浮かべている後ろで、雪歩は壁に手をついて肩で息をしている。

「一体どこに……あっ!」

俯き加減だった千早は不意に顔を上げて響に向き直った。

「ねえ、我那覇さん。美希の声は聞いた?」

「……声? ううん、そういえば聞いてない……」

「ということは誰かに襲われたり、連れ去られたりしたワケじゃない――」

「自らの意思で姿を消した――ということになりますね」

貴音の双眸は千早を一見し、それから真、雪歩を捉えた。

「とにかく探すわよ! 1階にいるハズだから――」

律子が手早く2つのグループに分け、春香たちは西棟と東棟をそれぞれ捜索した。










133 : ◆e85MZF7Uug [sage saga]:2019/07/03(水) 23:12:03.41 ID:piDPP0Z90
美希は見つかった。

彼女は厨房の奥にあった。

壁のすぐ傍で居眠りをしているみたいに横たわっていた。

「み、き…………?」

最初に見つけたのは春香だった。

千早と響の3人で食堂を探し、続いて厨房を見回っていた時に作業台の向こうの異変に気付いたのである。

その時にあげた悲鳴によって、各所を捜索していた律子たちが何事かと集まってきている。

「……私の仕事よ」

近づこうとした響を押し留め、律子が美希の元に跪く。

そして脈や呼吸を確かめ、彼女の死を告げた。

「なんで……?」

亜美が頽(くずお)れる。

傍にいた真美が支えようとしたが、彼女にもその力はなかったようだ。

「どうして美希が…………?」

蹌踉(よろ)めいた伊織は咄嗟に近くにあった作業台に手をついた。

呼吸は荒く、小刻みに揺れる眸子はどこにも定まっていない。

「ねえ……」

真の後ろに隠れるようにして立っていた雪歩が、足音を立てずに伊織に近づいた。

「なんで、伊織ちゃん……美希ちゃんが……」

おどおどと怯えたような雪歩は、疑うような目で伊織を見た。

「分からない……ありえないわ。こんな……美希が殺されるなんて……」

「じゃあ、伊織ちゃんの言ってたことは――」

「………………」

彼女はもう何も答えず、ひどく落魄したようにため息を繰り返すばかりだった。

「――分かってるわね?」

振り返った律子が談話室に集まるように言う。

「美希を――このままにしておくの?」

響が言った。

彼女が倒れているのは調理場から見える位置だ。

作業台はもちろん流し台の前に立ったとしても必然、美希の姿が視界に入ることになる。

律子は首肯した。
134 : ◆e85MZF7Uug [sage saga]:2019/07/03(水) 23:15:00.42 ID:piDPP0Z90
「もう……いいんじゃないか……?」

「どういうこと?」

「警察の捜査の邪魔にならないように、ってことでしょ? でも、もう充分じゃないか。

今さら美希を移しても、あずささん、やよいの……体だけでも捜査できるでしょ?」

「………………」

「ここにこのままなんて……可愛そう過ぎるぞ……せめて部屋のベッドに運んでも――」

「なんで移動させたがるの?」

律子は低い声で問うた。

「まさか……このままにしておくと都合が悪い……なんてことはないわよね……?」

「それは違うよ」

真が口を挟んだ。

「ボクと雪歩で一度、ここは見たんだ。その時には美希はいなかった。律子がどう思ってるかは分からないけど。

響を疑ってるなら……春香より先にボクたちが見つけてるハズだよ」

「そうなの?」

律子は雪歩に問うた。

彼女は少ししてから頷いた。

「そのことは知ってたの?」

今度は春香に訊く。

彼女はかぶりを振った。

しばらく黙っていた律子は目頭を押さえ、呼吸を整えた。

「ごめんなさい……響を疑ったワケじゃないわ……ただ、あまりにいろんな事が起こりすぎて――。

正直に言って頭がおかしくなりそうなのよ……!」

そう吐き出す彼女は美希から目を背けるように調理台にもたれかかった。

「私も響の考えに賛成です」

これまであまり自己主張してこなかった貴音が、通る声で言う。

「亡骸を置き去りにするのは、美希の死から目を逸らし、彼女の存在を無下にするも同然ではありませんか。

誄(しのびごと)のひとつも添えずに立ち去るなど……到底できません」

彼女はこれまでの犠牲者の中で美希だけが、固く冷たい床に放置されている様は見るに忍びないと訴える。

せめて部屋に移すことはできないか、と響の望みを後押しした。

「こういうのは……どうですか……?」

意を決したように進み出たのは千早だ。
135 : ◆e85MZF7Uug [sage saga]:2019/07/03(水) 23:17:33.01 ID:piDPP0Z90
「律子は警察の捜査に支障が出るから動かすべきじゃない、ということでしょう?

それなら、その……この状況を写真で記録しておけばいいんじゃないかしら……」

「写真…………?」

「ええ、私も我那覇さんや四条さんと同じ、美希をここに置き……置き去りにはしたくない。

できれば部屋のベッドに……美希が……いつも仮眠していた、みたいに…………」

最後のほうは声が出ていなかった。

涙を拭う所作で彼女は言葉を中断し、律子の答えを待つ。

ずいぶん長いこと考えてから、

「――分かったわ。充分な記録をとってから、部屋に移しましょう」

彼女は観念したように許可を出した。

5分ほどして、春香に付き添われて部屋に置いてあったカメラを取って戻ってきた千早は律子に指示を仰ぐ。

どれだけあれば捜査に有用かは律子にも分からず、彼女が言ったのはあらゆる角度から数枚ずつ……ということだった。

「………………」

”充分な記録”のために収めた写真は、周囲の状況や厨房の全容も併せて50枚以上に及んだ。

震える手でシャッターを切る度に、千早は無意識に止めていた呼吸を再開して息を吸い込む。

特に美希の顔を撮る際には手の震えが止まらず、作業を貴音に押し付ける有様だった。

「これは……酷というものでしょう……しかし……」

カメラの使い方を教わった貴音は跪き、美希と見つめ合った。

「これも貴女を部屋に運ぶため……少し、だけ……辛抱してください…………」

美希の目はカッと見開かれていた。

まるで何かに驚いたように、怯えているように、輝きを失った双眸が中空を凝視していた。

貴音と美希は数十センチの距離で視線を交えたが、まばたきをしたのは一人だけだった。

指紋が付着しないよう調理用手袋をはめ、志願した響、千早、貴音で亡骸を静かに抱き上げる。

律子を先頭に、ゆっくりと部屋まで運んでいく様は宛ら葬列のようだ。

「美希…………」

それを見送りながら、春香は落涙を堪えた。

そのすぐ横には呆然と立ち尽くす伊織と、そんな彼女を疑うように見つめている雪歩がいる。

亜美と真美は誰からも等しく距離をとるように厨房の入り口付近に立ち、ひそひそと何事かを囁き合っていた。

「あの時、ボクが付いて行っていれば……!」

惨事を防げたかもしれない、と真は拳を壁に叩きつけた。




136 : ◆e85MZF7Uug [sage saga]:2019/07/04(木) 21:19:12.39 ID:S3MTwkYE0
 16時18分。

談話室には全員が集まったが、その人数は今や10名となった。

その顔つきも大半は、律子が呼びかけたから仕方なくここにいるといった様子である。

特に亜美と真美は彼女の声を無視して2階に上がりかけたところを、貴音が制したほどである。

そしてこの中で最も沈淪している少女――我那覇響は誰とも目を合わさないようにずっと俯いたままだった。

しかも表情もひどく怯えたもので、姿勢だけを見れば雪歩と区別がつかない。

「これから、どうするの……?」

真のその呟きに響は滑稽なほど体をビクつかせた。

誰も答えない。

この場をまとめる立場にある律子でさえ、言葉を発しない。

どうするべきか、についてはいくつかの選択肢があるものの、究極的にはひとつに絞られる。



”如何にして生き延びるか”



誰もがこれを考えているような深刻な顔つきである。

「分かったことがひとつ――」

眼鏡の奥で律子の双眸は小刻みに揺れている。

「……偶然じゃなかったんだわ」

「何の話?」

恐る恐る真美が訊く。

「最初にあずささんが殺されたこと、よ」

「…………?」

「どこかでは思ってたの。犯人は相手を決めてたんだろうって。そう思い込んでた……。

きっとあずささんとやよいを手にかけるのが目的だった。プロデューサーは運悪く犯人に近づいただけだって」

「律っちゃん……?」

「でも違う! ハッキリ分かったわ! 私たち全員を殺すつもりなのよ!」

「律子!?」

真が剣幕に一瞬怯む。

「そう考えるしかないのよ! 何者かが入り込んでるのかもしれない。この中の誰かかもしれない。

だけどそいつはきっと……ううん、私たち全員を殺す気なのよ」

「あ、あの……その、あまり”殺す”って……言わないでくださぃ…………!」

雪歩が青白い顔で言ったが、その声はあまりにか細く当人には聞こえていない。

「バ、バラバラにならなければ大丈夫じゃないかな! 何か理由がある時もみんなで――」

「そういう状況じゃないのよ」

取り繕うように声を張った春香に、伊織は冷水を浴びせるように言った。

「”一緒にいる”ってことは、犯人と四六時中行動するってことよ? あと2日……できる?」

「伊織はまだ響ちゃんが犯人だって考えてるの?」

春香の問いかけに雪歩が訝るような目で伊織を見た。

「断定はしないわよ。でも可能性はゼロじゃない」

響は大仰にため息をついた。
137 : ◆e85MZF7Uug [sage saga]:2019/07/04(木) 21:25:37.55 ID:S3MTwkYE0
「やっぱり疑われるよね…………」

「我那覇さんではないと思うけど……?」

落ち着いた口調で千早が容喙する。

「我那覇さんを一番庇っていたのは美希や真よ。美希を手にかけるハズがないわ。

それに状況からいっても……真っ先に自分が疑われると分かっている状況で犯行に及ぶとは思えないもの」

「怪しすぎてかえって響が犯人とは思えない、ってことだよね?」

「ええ、誰かが我那覇さんに罪を着せるためにやったとしか思えないわ」

真がタイミングよく口を挟んだことで千早はやや語勢を強めた。

「誰か、って……誰よ……?」

伊織が呟いた時だった。

「誰でもいいよッ!」

突然、真美がヒステリックに叫んだ。

耳を劈くほどの大声に一同が真美を見る。

だがその視線はすぐに横にいる亜美に注がれることになった。

「帰りたい……もう帰りたいよぉ……!」

亜美がとうとう泣き出してしまった。

滂沱として溢れる涙は拭っても拭っても流れてくる。

それを宥めている真美の目元もじわりと濡れている。

「もうイヤだよ! 誰が犯人とか、どうでもいい! 真美たち、もう帰りたい!!」

「亜美…………」

律子がそっとその肩に触れようとしたが、彼女は乱暴に手を払いのけた。

「犯人とか考えたくない! でも……あずさお姉ちゃんたちを死なせた人がいるんなら正直に言ってよ!」

「落ち着いて、ねえ……2人とも……!」

「お迎えが来るまで我慢してればいいんでしょ!? だったら真美たち、ずっと部屋にいるかんね!!

そしたら大丈夫でしょ!? 亜美と一緒にいるからッ!!」

誰にともなく怒鳴りつけた真美は亜美の手を引いて談話室を飛び出した。

「待ちなさい!」

止めようと身を乗り出した律子だったが、真美の腕を掴むために伸ばした手は空を握りしめた。

「真美ッ!!」

鬼軍曹という表現が可愛く思えるほどの形相で仁王立ちになった彼女は、2人の背中に向かって、

「鍵をかけておきなさい!」

レッスン時でさえ聞いたことのないような声を張り上げて言った。

「律子、いいの……?」

追いかけなくていいのか、と真が問うた。

「錯乱してるわ。あの状態じゃ引き留めても逆効果よ。それよりしっかり戸締りさせたほうがいいわ」

それに2人いるから大丈夫だろう、と彼女は小さく頷きながら返した。

昨日まで賑やかだった談話室は人数が半分ほどに減ったこともあり、陰鬱な雰囲気を漂わせている。

ここにいること自体が目的であるかのように、彼女たちはソファに腰かけ、あるいは壁に凭(もた)れて沈黙を過ごす。
138 : ◆e85MZF7Uug [sage saga]:2019/07/04(木) 21:32:16.64 ID:S3MTwkYE0
しばらくして時機を見たように貴音が呼びかけた。

「質問してもよろしいですか、雪歩? この際ですから明らかにしておきたいのです」

唐突に、何の前触れもなく名指しされた雪歩はビクリと体を震わせ、驚いたように彼女を見た。

「は、はい…………?」

「昨夜、あの告発文を見た後、私たちはそれぞれの部屋に戻りました。その折、私は雪歩とすれ違いました。

しばらく見送っていましたが、貴女は手洗いではなく談話室の方へ向かいましたね。その理由は――」

誰が聞いても納得できるものか、と貴音は問う。

「たしか貴女はあずさと共にやよいを部屋へ送りましたね。雪歩の部屋は1階東側の突き当たり。

その隣が私で、さらにその隣がやよいの部屋です。彼女を送り届けた後だとすれば、追い抜くことはあってもすれ違うハズがないのです」

全員の視線が雪歩に集まった。

「付け加えるなら私はあずさとはすれ違っていません。となれば雪歩だけがやよいの部屋に長居をしていたか、或いは自分の部屋に戻ったのでは?

全員がそれぞれの部屋に戻った時機を見計らって廊下に出たところ、私と鉢合わせになった――と」

「あ、あの、えっと…………」

注がれる視線の中、雪歩はきゅっと裾を摘まんだ。

羞恥に耐えるように、顔を赤くして。

「それ、本当なの?」

いっこうに答えようとしないため、それまで居辛そうにしていた響が訊いた。

「ええ、昨夜は気にも留めませんでしたが、今となっては知っておくべきかと」

貴音の目は訝るでもなく責めるでもなく、いつもの静謐さがそこにあるのみである。

しかしこの瑶林瓊樹も彼女の芯の強さに裏打ちされたものだ。

優雅さに負けないだけの毅然さをも秘めた四条貴音は、必要であれば誰もが躊躇する剔抉さえ厭わない。

「あ、あのさ、貴音……自分が言えたことじゃないけど、雪歩はそんなことしないと思うぞ……?」

「ええ、私もそう思っています。しかし行動に不審な点がある以上、可能な限り明らかにしなければ真相には辿り着けないでしょう」

言いよどむ雪歩に促すように、貴音は静かに言った。

「ねえ、雪歩。やっぱり恥ずかしがらないでちゃんと言おうよ? このままじゃ疑われるだけだよ」

真がそう言ったので、伊織は訝るような目で彼女を見た。

「その様子だとあんたは知ってるみたいね」

「あの、実は…………!」

疑念を含んだ伊織の言葉を遮るように、雪歩が進み出た。

「私……やよいちゃんを送った後、自分の部屋に戻ったんです。でもしばらくして、告発文を思い出して怖くなって……。

それで……真ちゃんの部屋に――」

ひとりで寝るのが怖くなり、真の部屋に駆け込んだことを恥ずかしそうに告白する。

「本当なのね?」

律子は真に訊いた。

「うん、本当だよ。昨夜、最後に食堂を出たのはボクと貴音だったんだ。部屋に戻ってすぐにノックされたからビックリしたよ。

あんなのを見た直後だったからつい身構えちゃったけど。あんまり雪歩が怖がってたから一緒に寝たんだ」

真が仔細に説明すると、雪歩は耳まで真っ赤になって俯いた。
139 : ◆e85MZF7Uug [sage saga]:2019/07/04(木) 21:43:12.93 ID:S3MTwkYE0
「なるほど……それでは2人は同衾したのですね」

「同衾、ってたいそうな表現ね……」

律子がぼそりと呟く。

「失礼いたしました。弁解にもなりませんが決して雪歩を疑っての質問ではありません。その点だけは――」

「は、はい……分かってます……」

珍しく落魄した様子の貴音に、雪歩がまだ顔を赤くしたまま答えた。

「どうきん……どう、きん…………?」

貴音の言葉を繰り返し呟きながら、千早は難しい顔をしていた。

「千早ちゃん、どうしたの?」

その表情に真っ先に気付いた春香が問いかける。

「ええ、ちょっと……犯人はあの告発文を書いた人と同一人物なのかと思って」

「どういうこと?」

訊いたのは律子だ。

「私たちを――殺害することが目的なら、あんな告発文を掲げる必要はないハズよ。それに館内に響いた声も。

そんな回りくどい方法を採る意味があるかしら? それに……犯人がひとりだけとは限らないわ」

「えっと……じゃあ2人ってこと……?」

「他にもあるわ。あずささんを殺害して密室状態にできた犯人が、どうしてその時に全員を殺さず、夜が明けてから再開したのか。

昨夜のうちに全員が殺害されてもおかしくない。時間が経てば私たちも警戒するようになるから、殺人も犯し難くなる。

そんなリスクを冒してまでする……その理由というか、目的は何なのかしら……?」

次々と疑問を浮かべながら、彼女は最後に貴音を見つめた。

「考えられるのは――」

伊織が腕組みをしながら言う。

「ゲーム感覚でやってるか、そうじゃなければ……」

「…………?」

「敢えて誰かを殺さずにおいて、恐怖を味わわせるため……かしら?」

春香たちの顔が青ざめた。

「告発文を予告だと考えれば、元々は――」

「ね、ねえ、伊織……誰かって誰なの……?」

震える声で問う真の歯の根が合わない。

「誰かなんて知らないわよ。私は犯人じゃないんだから」

「もしそうだとしたら……言い換えればその誰かは助かるんだよね……?」

「助かるって言っても、最後は犯人と2人きりになるんだぞ……? それって結局は――」

「か、仮にそうだとしても! 固まっていれば大丈夫だよ! 犯人は順番に狙ってるらしいから」

「らしい、って……そう思っただけよ。もしかしたらなりふり構わず襲ってくるかもしれないわ」

「なら、そっちのほうが好都合じゃないか。こっちは大勢いるんだ。返り討ちにできるよ」

「いえ、これまで残忍な手口で殺めてきた相手です。安易に考えるのは危険です」

口々に言い合う春香たちを、律子は止めなかった。

彼女はまるで誰の声も聞こえていないみたいに天井を見上げている。

やや興奮気味になった彼女たちを一歩引いた場所から宥めた貴音は、律子に向きなおって言った。
140 : ◆e85MZF7Uug [sage saga]:2019/07/04(木) 21:53:06.77 ID:S3MTwkYE0
「私が行きましょう」

「…………え?」

「2人とはいえ、まだ幼いと言ってよい年頃です。誰かが付いている必要があるでしょう」

「で、でも、今の亜美たちの様子じゃ誰も寄せ付けないんじゃないかしら……?」

「ふふ、ご心配なく。2人とは狎昵(こうじつ)の間柄なのです」

「あ、ちょっと待って」

談話室を出ていこうとする彼女を、律子が慌てて呼び止めた。

「まさか独りで行くつもりじゃないでしょうね」

はたと立ち止まった貴音は少し考える素振りを見せて、

「――そうですね。単独行動は慎むべきでした。では律子も共に参りますか?」

にこりと笑んだ直後、鋭い視線を律子に向けた。

「ええ、でもこっちも心配なのよね……」

彼女が目配せした先には伊織がいる。

その視線に気付いているのかいないのか、伊織は令嬢特有の淑やかさも翳んでしまうほどの険しい顔つきで周囲を探っている。

「ではこうしましょう」

翻って貴音は伊織に声をかけた。

「亜美と真美、2人だけでは心配です。説得して部屋に入れてくれるよう頼んでみませんか?」

「私たちが?」

伊織が訝るように言った。

「ええ、このような事情なれば無理もないことですが、亜美たちにはいつもの溌溂さがありません。

まだまだ幼い2人には受けた衝撃が大きすぎます。誰かが傍について庇護する必要があるでしょう」

突然の申し出に伊織はすぐには答えない。

ここに留まれば7人のグループに属することになり、申し出を受ければ4人のグループに属することになる。

損得で考えれば前者が有利と思われるが、

「そう、ね……2人を放っておくのは危険かもしれないわね」

彼女はしばらく考えた後、貴音の提案を受けることにした。

「あんたはどうするの?」

伊織は律子に問うた。

「本音は私も亜美たちの傍にいてあげたいんだけど――」

と言って彼女はちらりと貴音を見やる。

「そっちにはあんたと貴音がいるから大丈夫だと思う。こっちは私が見るわ」

プロデューサーがいない現状、まとめ役は自分しかいないと律子は言う。

「そう、分かったわ」

特に反対する理由もなく、2人は談話室を出ていく。

その時、貴音は振り返り、

「響、私は信じております。貴女に人を殺めるなど、できはしません」

先に出て行った伊織に当てつけるように通る声で言い残した。

響は何も答えず、困ったように俯くばかりだった。
141 : ◆e85MZF7Uug [sage saga]:2019/07/04(木) 21:56:26.87 ID:S3MTwkYE0
それからはまた暫くの沈黙が続いた。

亜美たちがいないため、ゲームをして過ごそう等と提案する者もなく、ただ時間だけが過ぎていく。

春香は居辛そうにソファの端に座ったまま、言葉を発しない。

千早は顎に手を当てたり、目頭を押さえたりして何事かを考えている様子だ。

響は辺りをキョロキョロと窺い、手を閉じたり開いたりして落ち着かない。

真は拳を握りしめながら険しい顔をしている。

そんな彼女にぴたりと寄り添うように雪歩は身を縮こまらせている。

律子は出入り口と全員の顔が見える位置に座っており、その視線をしばしば響に向けていた。

「ね、ねえ……」

こういう時、誰にともなく声をかけるのはいつも春香だ。

「いつまでもこうしてるワケにもいかないんじゃないかな……」

しかし声に張りはなく、尻すぼみになって最後のほうは殆ど聞き取れない。

「あちこち動き回るほうが危ないわよ?」

千早が言う。

「あ、そうじゃなくて……! 夕食のこととか、夜のこととか……」

春香は現状、気にしている事柄を挙げた。

まずは夕食。

1食くらいなら抜いても死にはしないが、迎えの船が来るのは明後日だ。

さすがにそれまで何も口にしないワケにもいかない。

しかし昼までは全員が食堂に集まったが現況、2つのグループに分かれてしまっている。

先ほどの様子から亜美たちは部屋を出てこないだろうから、食事をどうするべきかという問題が出てくる。

今ひとつ、彼女が不安だと言ったのは、夜の過ごし方についてだ。

つまり一夜を明かすのにそれぞれ部屋に戻るのか、ということである

起きている間は複数で互いを見張り合えたが、あずさの件を考えれば部屋で眠るのは正しいとは言えない。

「たしかに……でも部屋のベッドを移動させるワケにもいかないし……」

「ならたとえば3人ずつに分かれて――っていうのも不安、だよね」

誰も妙案が浮かばず鬱々としているところに、

「あのぅ……ここは、どうかな……?」

雪歩がおずおずと言った。

「大きなソファもたくさんあるし、部屋から掛布団と枕を持ち寄ればベッド代わりにならないかな?」

妙案というよりは消去法で最後に残った選択肢だ。

数人ずつで離れ離れになるより全員が同じ空間にいたほうがよい。

反対する者はいなかった。

寝具を持ち寄るのは寝る時になってから、ということで談話室は再び沈黙に――、

「実は気になってることがあるんだ……」

包まれる前に響が憚るように言った。

途端、律子が鋭い視線を向け、それに当てられた彼女は咄嗟に目を逸らした。
142 : ◆e85MZF7Uug [sage saga]:2019/07/04(木) 21:59:14.36 ID:S3MTwkYE0
「いや、まあ……いま言うようなことじゃないけど……」

「そこまで言われたら気になるじゃないか」

口調は刺々しかったが、真の言葉には臆さずに先を促す効果があった。

「その前にちょっと外に出て確かめたいんだ。独りで行くワケにはいかないから――」

誰か付いてきてほしい、と響は言う。

しかしすでに生存者が二分されている状況でさらに分かれて行動するのは危険だということで、全員で行動することになる。

彼女の言う”外”とは館から遠く離れた場所という意味ではなく、”エントランスの外”という意味だった。

時刻は17時を少し過ぎていたが、昨日とは打って変わっての好天であるため辺りはまだ明るかった。

「ほら、あれ」

響が東棟の一角を指差した。

「昼間、プロデューサーが見た人影を追いかけてあちこち捜索したでしょ?」

彼女が指し示しているのは2階の一番奥だ。

浴場のちょうど真上にあたり、物置になっているため見取り図では×印が付されている場所だ。

「その時にあそこの物置にも入ったんだけど、ヘンな感じだったんだ」

「そう? ボクは特に何も感じなかったけど……? 掃除道具とか棚があったくらいで」

この中で館内を捜索したのは響と真だけであり、春香たち4人はその間は談話室で待機していた。

響はかぶりを振った。

「――あの物置の窓はひとつしかなかったぞ」

等間隔で並んだ窓は棟の端まで続いている。

「それに物置だけちょっと狭く感じなかった?」

捜索に加わっていない春香たちには返事のしようがない。

「――そう言われてみると……でもいろんな物がめちゃくちゃに置いてあったからそう感じたのかも……」

難しい顔をして真が唸る。

「奥に何かあるかもしれない、ってことね?」

窓を見つめながら千早が言う。

「うん、そんな気がするんだ。暖炉のこともあるし――」

「あ、もしかしてあの時、様子がヘンだったのはそのことを考えてたからなの?」

春香に問われ、彼女は曖昧に頷いた。

「調べてみる?」

律子が誰にともなく問うと、雪歩以外は控えめに首肯した。

見るだけ見てみようということになり館に戻る。

「一応、貴音たちに声をかけておいたほうがいいわね」

という律子の提案で一行は4人の元に向かうことにした。

彼女たちは亜美の部屋に集まっていた。
143 : ◆e85MZF7Uug [sage saga]:2019/07/04(木) 22:08:41.58 ID:S3MTwkYE0
「ちょっといい? 私たち、これから物置を調べに行ってくるわ」

返事はない。

しばらくして、

「何のために?」

ドア越しに伊織が問う。

「気になることがあるの。何か見つけたらあんたたちにも伝えるわ。すぐに戻って来るから」

「分かったわ。何もなくても教えてちょうだい」

「ええ」

遊戯室を通り過ぎたその先。

東に向かって伸びる廊下の左右(南北)に物置がある。

響が言っているのは向かって左側、つまり北側にある大きな部屋のことだ。

「まさか犯人が隠れ潜んでる、なんてことはないでしょうね?」

律子が身震いすると、

「なら捕まえてしまえばいいじゃないか。そうすれば何も心配は無くなるんだし」

弱気な彼女を勇気づけるように真が言った。

「大丈夫かなぁ……」

雪歩はあからさまに一団と距離を置いていたが、離れすぎていることに気付いて慌てて春香の傍に駆け寄った。

「開けるよ」

言い出したのは自分だからと、響がドアを開けることになった。

そのすぐ後ろに真が控え、もし何者かが飛び出してきても対応できるように構える。

だがその備えは無駄に終わった。

中には誰もいない。
144 : ◆e85MZF7Uug [sage saga]:2019/07/04(木) 22:12:37.93 ID:S3MTwkYE0
「確かに狭いね……」

じめじめしていてカビ臭い室内には、掃除道具やロープ、工具箱等が雑然と置かれている。

「窓は……あのひとつだけだね」

春香が指差した窓は塵埃を被っていて、陽光をいくらか遮ってしまっている。

そのため物置内は薄暗く、そのうえ道具類が無秩序に散らばっていることもあっていくつかの死角ができていた。

「たしかに……たしかに響の言うとおりよ。窓の数が合わないわ」

手書きの見取り図と窓とを見比べながら律子が言う。

その口調はやや興奮していた。

「やっぱり! ここには何か秘密があるんだ!」

だが、それ以上に興奮していたのは響だ。

まるで宝物を見つけたみたいに、どうだと言わんばかりに声を張る。

「でも秘密ってどんな?」

「さあ、それは調べてみないと――」

言いかけて律子は部屋の奥に目を凝らした。

正面の壁に大きな棚が置かれている。

天井に届きそうなほど高いそれにはハンマーやペンチ等の工具、それらの取扱説明書、厚めの書籍が乱雑に収められていた。

律子は書籍のうちの一冊を手に取る。

『食用キノコと毒キノコの見分け方』というタイトルの古い本だ。

書名どおりキノコの特徴や安全性、調理法などが記されているが、キノコに関しては写真ではなくイラストのみだった。

「古そうな本だね」

横から覗きこんだ真が言う。

埃をかぶった本は表紙も中身も褪色していて、少し力をいれると簡単に破れてしまいそうだ。

「なんでこんなものが……?」

「他にもいっぱいあるぞ」

工具箱をブックエンド代わりにして、いくつか並べられた本を指差す響。



『心理学ーもうこれで騙されない』

『西洋建築に真鍮製の鍵は使うな』

『獣や毒虫の居る森を正しく歩く』

『長生不死の秘密は泰山にあった』

『サバイバル〜生き延びるために』

『哲学的な観点からの人の生と死』


145 : ◆e85MZF7Uug [sage saga]:2019/07/04(木) 22:16:30.76 ID:S3MTwkYE0
藍色や臙脂色の古めかしい表紙は、埃を被っているのもあって手触りが良くない。

中身も時代を感じさせる独特の書体で、活版印刷特有の字間や行の揺れが見て取れる。

本文にも今は使われていないような難解な表現も多く、真は最初の数ページを読みかけたところで本を閉じた。

「置いてある本は古書店で見かけるようなものばかりね」

他にも専門書の類が多く並んでいたが、千早は手に取って見ることはしなかった。

「これがどうかしたんですか?」

春香が訝しげに問う。

「ああ、そうだったわ。つい本に目をとられて……」

『易占入門〜筮竹の種類とその使い方〜』という本を元あった場所に置いた律子は手に付いた埃を払った。

「この棚が気になったのよ」

そう言って数歩退いて全体を見渡す。

この部屋に棚はこの1架しかない。

しかも角に置いてあるのではなく、壁の真ん中を隠すように佇んでいた。

「置き方が不自然な気もするわ」

千早が言った。

棚の両側には何も置かれていない。

「試してみる?」

律子に訊かれて響は首をかしげた。

その反応に手本を見せるように彼女は側面に回り、棚に両手をついた。

ようやく理解したらしい響も横に並んで棚を押し出す。

「ん……?」

重厚な見た目に反し、力を入れると棚は難なくスライドした。

「下にローラーみたいなものが付いてるのかしら?」

律子が底部を覗き込んだ時、

「それより見てよ!」

響がひときわ高い声をあげた。

棚の向こうに、もうひとつ部屋があった。

「ほんとに部屋があったんだ……」

春香は目を丸くしている。

「この入口、棚の幅よりも狭いわ。それに高さも――ちょっと横から覗き込んだくらいじゃ見つけられないわね」

律子が顎に手を当てて言った。

「すごいよ、響! よくこんなのに気がついたね!」

「ふふん、自分の洞察力があればこれくらい当然だぞ」

「せっかく喜んでるところ悪いけど、ガッカリさせるかもしれないわね」

律子が奥の部屋を見ながら言う。

響の発見は一同を驚かせ興奮させるものではあったが、事態を進展させるものではなかった。
146 : ◆e85MZF7Uug [sage saga]:2019/07/04(木) 22:21:05.38 ID:S3MTwkYE0
「何も、ない……?」

部屋を覗き込んで春香が呟いたとおり、隠し部屋には何もなかった。

目につくのは隅々に溜まる埃くらいのもので本の1冊、木片のひとつさえ落ちていない。

中の様子が分かるのはもちろん、窓から差し込む光のおかげだ。

「どうしてこんな造りにしたのかしら……?」

春香に続いて入ってきた千早は、床を何度か踏んだり四方の壁を叩いたりした。

しかし仕掛けらしいものは何もなかった。

「結局、ただ棚で塞がれていただけってこと?」

同じように隅々まで調べていた律子は落胆したように息を吐いた。

「暖炉は上の階につながる隠し通路だったから、ここは反対に下の階とつながってるんじゃないかな?」

「そう思ってボクもあちこち見て回ったけど、開けられそうな場所はないよ。床にヘンな隙間もないし」

「真なら思いっきりやれば踏み抜けるんじゃない?」

「それ、仕掛け関係ないよね? というか春香はボクをどんなふうに見てるのかな?」

真が不気味な笑顔を浮かべた。

その後、5人――雪歩は気味悪がって隠し部屋に入ってこなかった――はあちこちを調べた。

しかしどこにも異常は見当たらなかった。

「何もなさそうね……隠してあったのは気になるけどただの――」

憮然とした様子で言った律子は不自然に言葉を切り、目を細めて窓の外を眺めた。

「どうしたの?」

「え、ええ、あの木の陰……何か動いたような気がして――」

そう言って彼女は茂みを指差す。

「ど、どこ……!?」

離れた場所にいた響が駆け寄る。

「ほら、あの黒っぽい木が密集してる場所があるでしょ」

「う〜ん……」

身を乗り出すようにして凝視する。

「何もないぞ。鳥か何かと見間違えたんじゃないか?」

「……そうかもしれないわね」

観に行こうか、という声は誰からもあがらなかった。

ここにいても仕方がないと春香たちは部屋を出ることにした。

その際に棚の周辺を念入りに調べた千早が、埃の堆積具合から自分たちの前に棚を動かした者はいないだろうと言った。

「大発見だと思ったんだけどな……」

隠し部屋を振り返り、響は残念そうに呟いた。

「よく考えるとちょっと恐いよね……」

「この部屋のこと? どうして?」

千早の問いかけに響は頷く。

「だってほら、あの棚って後ろからは動かせないでしょ? 奥の部屋に閉じ込められたら出られないぞ」

「我那覇さんなら窓を蹴破って降りられるんじゃないかしら?」

「もう! そういうことじゃないぞ!」

「ふふ、ごめんなさい。でもたしかに――そうね。造った人はそういう情況を考えなかったのかしら?」

147 : ◆e85MZF7Uug [sage saga]:2019/07/07(日) 22:17:20.01 ID:eLWNEPPE0





 18時22分。

何か食べなければ心身が疲弊するばかりだ、という律子の言葉もあり一同は夕食をとる。

雪歩たちの声掛けもあって亜美たちも食堂に集まる。

彼女たちの部屋には持参したお菓子の類しかなく、腹を満たすほどの量がなかった。

「よく出てきてくれたわね」

4人の姿を見て律子はほっとため息をついた。

「一食くらい抜いても死にはしないけどね」

と言って伊織は冷ややかな視線を貴音に送る。

「それは誤解です。食事とは空腹を満たすためだけではありません。脳に栄養を送り、思慮を巡らせるためには――」

「まだ何も言ってないわよ……」

「まあ、何であれ降りてきてくれてよかったわ」

律子は亜美たちに聞こえないように2人に顔を近づけ、

「そうやってうまいこと連れ出してくれたんでしょ?」

主に貴音に向けて囁いた。

やはり料理する者、それ以外の用事をこなす者とで分担するが、彼女たちはまず5人ずつ分かれることにした。

料理が不得手な者も厨房に入ることになるが、人数に偏りがないようにするためには仕方がない。

「簡単なものでいいよね?」

春香が誰にともなく言う。

厨房にいるのは春香と雪歩、千早、響、貴音だ。

そもそもここへは遊びに来ているため食材は充分にある。

こだわればホテル並みの料理さえ振る舞えるほど冷蔵庫の中は豊富だが、誰も調理に時間をかけたがらない。

喉を通りやすいもの、ということでスープやサラダを中心に献立を考えることになる。

「ええ、そうね……」

千早たちは美希が倒れていた場所を見ないようにした。

厨房はそう広くはないが作業台や棚などで死角となる場所が多い。

5人は常に一定の距離を保つようにして調理にとりかかる。

中心となるのは春香と響だ。

他の3人は補助的な役割を担い、知識や技量をそう必要としない作業を引き受ける。

そのためしばしば春香たちの後ろに移動することもあった。

「亜美と真美の様子はどうですか?」

千早がレタスを千切りながら貴音に訊いた。

「今は少し落ち着いていますが、まだ安心はできません。些細な出来事を切欠に取り乱す恐れもあります」

「そうですか……ひどく混乱している様子でしたからね。部屋にはすぐに入れてもらえたんですか?」

「いえ、易々とはいきませんでした。伊織と利害を説いてどうにか信を得たのです」

響がトマトやキュウリを切っては後ろの調理台へと運ぶ。

それを受け取った貴音は人数分の器に丁寧に盛り付けた。
148 : ◆e85MZF7Uug [sage saga]:2019/07/07(日) 22:24:54.58 ID:eLWNEPPE0
「信……ということは四条さんや水瀬さんも疑われてたんですか?」

「そうなりましょう。正体不明の人影を皆が目撃しておれば疑心に囚われることもなかったでしょうが……。

今はあらゆる可能性を考慮すべき状況です。亜美や真美の考えも間違ってはおりません」

彼女は平然と話すが、反して憂いを湛えた表情はミステリアスな姫君と評しても差し支えない。

まるで国の滅亡を嘆くような顔つきは、いつもどおりの凛とした姿勢と相俟って全てを悟っているようにも見える。

「あの……四条さんはどう思ってるんですか……?」

お茶を淹れるためにお湯を沸かしていた雪歩がおずおずと切り出す。

「誰が殺めたか、ということですか?」

「は、はい……」

「私には分かりかねます。しかし私たちを欺き嘲弄し、剰(あまつさ)え疑念の種を蒔いた不埒な輩には違いありません」

彼女はやや口調を激しくした。

「何者であれ、これ以上の犠牲を増やさぬようにすべきです。迂闊な行動は災禍を招くでしょう。

プロデューサーも真実に近づいたために襲われたのかもしれません……」

湯がいた鶏肉を小さく切りながら、響は時おり肩越しに振り向いては彼女らのやりとりを聞いていた。

一方、食堂では珍しく伊織が率先してテーブルの掃除をしていた。

亜美と真美は居辛そうに食堂の端をうろうろしているが、それを横目で見ている律子は特に何も言わない。

「ボク、ちょっと思ったんだけど」

牡鹿のハンティングトロフィーを眺めながら、誰にともなく言う。

「ずっと食堂で見張ってれば犯人を見つけられるんじゃないかな?」

「どうしてよ?」

テーブルを拭きながら伊織。

「だって犯人だって何も食べないワケにはいかないだろ? ってことは食料調達にここに来るんじゃない?」

「無理ね」

「なんで?」

「明らかに計画的にやってるもの。それくらい考えてるわ。それに――」

伊織は厨房を一瞥して、

「仮に犯人に食料を調達する必要があるとしても、私たちの前で堂々と食べてるかもしれないわよ?」

不機嫌そうに言った。

「まだそんなこと言って――」

「”かもしれない”って言ったでしょ。断定してるワケじゃないわ」

ようやくテーブルを拭き終えた彼女は姿勢を起こし、そこで初めて真に向き直った。

「でもね、私が犯人だって可能性もあるわよ? こうやって周囲を惑わすようなことばかり言って撹乱して――」

「……伊織にあんなこと、できるハズないよ」

「………………」

「………………」

「当然よ。それくらいの気持ちでいなさいってこと。同じ事務所の人間だからって油断してたらどうなるか分からないわよ?」

真は何か言いかけたが、不愉快そうに顔を背けるだけだった。
149 : ◆e85MZF7Uug [sage saga]:2019/07/07(日) 22:30:19.85 ID:eLWNEPPE0
「ちょっとあんたたち」

それまで黙っていた律子が亜美たちから目を離さないようにして言った。

「そのへんにしておきなさい」

いつもは口うるさい彼女も言葉少なく窘める。

伊織はまだ何か言いたそうだったが、恨みがましく律子を睥睨するとため息をついて厨房に消えた。

「あの子も不安なのよ」

「分かってる」

同じく不服そうな真は、伊織が残していった布巾で手を拭った。














150 : ◆e85MZF7Uug [sage saga]:2019/07/07(日) 22:33:19.90 ID:eLWNEPPE0
 18時41分。

全員が揃っての夕食は10人いるとは思えないほど陰鬱な雰囲気だった。

誰も殆ど言葉を発さず、黙々と目の前のパンやサラダを口に運ぶ。

実際、健啖なのは貴音くらいのもので全員、程度の差はあれ器の中身はほとんど減っていない。

野菜を咀嚼する音、飲み物を飲む音だけが聞こえるこの空間で。

下品にスープを啜るような音がして、一同の視線がそちらに注がれる。

「――律子」

彼女は流涕していた。

眼鏡を置き、身を小さくして、目元を拭うこともしないで。

「ごめんなさい…………」

蚊の鳴くような声は誰にもハッキリと聞き取れた。

「どうして律子さんが謝るんですか……?」

それよりもさらに小さく、微風にさえ掻き消されてしまいそうな声で問う雪歩。

俯いた律子はそれには答えない。

何人かの視線がテーブルの上で交わる。

しかし言葉が交わされることはなかった。

「こんな島に皆を連れてこなければ……」

ずいぶん長い間を空け、律子が搾り出すように言う。

「そうよ。合宿なんてどこででもできたハズよ。施設を借りるとかいくらでも方法が――」

「――律子」

「どうせなら経費なんて度外視して旅行会社にでも頼むべきだったのよ、そうすれば――」

「律子」

鋭く、窘めるように貴音。

「過ぎたことを悔やむより、今は前を向くべきです」

「分かってる。分かってるわ。でも私に責任がないなんて思わない。中止にすることだってできたハズなのよ」

それから律子は何も言わなくなった。

春香でさえかける言葉が見つからなかったようで、どうにか場を明るくしようとする素振りは見せたものの、

結局は何もできず時だけが過ぎていった。
151 : ◆e85MZF7Uug [sage saga]:2019/07/07(日) 22:46:14.69 ID:eLWNEPPE0
「――ごちそうさま」

そんな当然の言葉も苦々しく発するように吐き出した亜美は、早くも立ち上がっていた。

その手は真美の腕をしっかりと掴んでいる。

「亜美たち、部屋にいるから」

「お待ちなさい」

凛然とした貴音の制止に、2人は歩を止めた。

「私も参りましょう」

「………………」

「それとも私を信用することはできませんか?」

「………………」

ずいぶん長いこと黙ったあと、

「いいよ」

諦めたように真美が応じた。

だったら私も、と伊織が立ち上がる。

「夜は……どうするの?」

春香が問う。

一部屋に4人で一夜を明かすのか、という意味だ。

「何とかなるわ。狭い部屋でもないし」

そう言い切る今の伊織には、床で寝ることさえ厭わない妙な気概がある。

「………………」

律子は亜美たちに付くべきかどうか迷っている素振りを見せた。

「こちらは私たちが見ます」

それに気付いた貴音が同行を制する。

「ええ、ええ、分かったわ……お願い……」

早く食堂を出たがっているらしい亜美たちは、話がまとまったと分かるとすぐに食器を片づけに行った。

ほどなくして戻ってきた4人は特に言葉をかけることもなく、無言のまま食堂を出て行った。

再び、沈黙。

真っ先に食べ終えた響は所在無げに視線を彷徨わせている。

彼女に遅れて食器を空にした真は千早のほうを見る。

「少しでも食べておいたほうがいいよ」

千早はサラダ以外にはほとんど手を付けていなかった。

「ええ、分かってはいるけど……」

食が進まない、と彼女は手にしたパンを口にすることなく器に戻した。




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