346プロの奇怪な夏

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63 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/08/19(月) 16:52:44.58 ID:4nkCagHl0

 5、蜃◯◯



「晴れて良かったですね〜。絶好の海日和ですっ!」

「だな。まぁ流石に此処まで暑くならなくても良かったんだが」

 点滅するイルミネーションの様なキラキラが、水平線をどこまでも覆っていた。
 揺れる白と青のコントラストが目まぐるしく色を交代させる。
 カモメの鳴き声、暑い日差し、遠くからは子供達の楽しそうな声。
 潮風に揺れる黒い髪は、とても綺麗で。

 八月十五日、木曜日。

 俺と鷹富士さんは、なんとなく海へと来ていた。
 盆休み(と言っても殆ど取れなかったが)を利用して、電車を乗り継ぎえっちらおっちら。
 昨日の夜までは多少雨が降っていたが、朝の時点では快晴になってくれて何よりである。
 鷹富士さんの運の良さのおかげなのだとしたら、少しくらい拝んでおいた方が良いだろうか。

 強いて言うなら、ここまで暑くならないでくれると助かったのだが。

「見て下さいプロデューサー、なーんにもありませんっ!」

「そうだな、うん、何もない」

 そこそこ遠くまで旅行に来ているからだ。
 目の前に広がる砂浜と、その境界線を広げたり退げたりする波と、海。
 左右と後ろにはひたすらに堤防と草原。
 大自然に囲まれて、人が作ったものは殆ど視界に入らない。

 何もないが、そこにはあった。

「水着、持って来れば良かったですね〜」

「悪いな、突然誘っちゃって」

「見たかったですか? 私の水着姿」

「もちろん」

「素直で大変よろしいと思います」

 むふーっ、っと満足げに胸を張る鷹富士さん。
 二つの富士山が揺れ、非常に目の保養……毒である。
 白いワンピースに麦わら帽子なんていう、まるで無邪気な田舎の子供の様な格好をしている鷹富士さんは、それでもとても綺麗だった。
 可愛らしさと綺麗さが合わさり最強に見える。

 海を眺めて楽しそうな鷹富士さんを見れただけで、この暑い中来て良かったと思える。
 此方のそんな想いは、果たして彼女に伝わってしまっているのかどうか。

「あ、でも。やっぱりデートのお誘いはもう少し早めにお願いしますね〜?」

「あー悪い。準備とかもあるよな」

「あれ? あらあらあらあら? デートなのは否定しないんですかっ?」

 揶揄う様に、まるで悪戯っ子みたいなニマニマ笑いを浮かべる鷹富士さん。

「残念だったな、俺はもちろんデートのつもりで誘ったんだよ」

「む……照れてくれない」

「寧ろ鷹富士さんの方が照れてる様に見えるけど」

「日差しのせいですー、気のせいですー」

 つんっ、っと海の方を向いてしまった。
 反撃されて困るならしなければ良いのに。

「……これ、俺が悪いのか?」

「悪いです、ぜーんぶプロデューサーのせいですから」

「じゃあごめん」

「何が悪かったか分かってますか?」

 分からない。
 束の間の沈黙の後、鷹富士さんは鬼の首を取ったようかの様な顔で饒舌になった。

「はい出ました『自分は悪いと思ってないけど相手の機嫌が悪そうだし謝っておこう俺は大人だから』的思考。女性ウケ良くないですよ〜それ」

「なんで俺が怒られてんだ」
64 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/08/19(月) 16:53:10.85 ID:4nkCagHl0


 しばらく歩いた先で見つけた海の家でかき氷を買い、頭をキーンってさせて。
 岩場で蟹を見つけ、蟹ってなかなかおっかない漢字してるし、漢字だけ見たら海辺の生物だとは思えないよな、なんて話をして。
 何故か俺だけ海水を掛けられて。
 砂浜で丸ばつゲームをやって。

「……これ、泳いでたら絶対体力尽きてました……」

「年甲斐もなくはしゃいでしまった……」

 二人して、波打ち際から少し離れた木陰に腰を下ろした。

 そろそろお昼過ぎ、一番暑い時間帯。
 太陽が都会に居る時以上に大きく、絶好調に地球を照らす。
 風もそんなに強くない為、かいた汗が心地悪いままだ。
 鷹富士さんの服が透けてないと良いのだが。

「……視線がスケベですよー」

「心配してただけだ」

 残念ながらその心配は杞憂に終わってしまったが。
 いや残念ではないが。

「……水着、やっぱり持ってくれば良かったな」

「泳ぎたかったんですか?」

「鷹富士さんの水着が見たかった」

「わー正直者のスケベ」

 ケラケラと笑いながら、鷹富士さんは揶揄って来た。
 良いんだ、今日はオフだし多少自分に素直になると決めている。

 それから。
 急に此方に向き直った鷹富士さんが、少し目を逸らしながら呟いた。

「……他に誰も居ませんから。もっと自分に素直になっても良いんですよ?」

 金色の瞳が揺れる。
 風に靡いた黒い髪が、揺れる。
 そのせいだろう。
 少し格好付けよう、なんて俺の思いすらも揺れてしまった。

「……じゃあ、座った時からずっと言おうと思ってた事を言うぞ」

「……はい」

 鷹富士さんが、目を瞑る。
 何かを期待する様に。
 何かをねだる様に。
 何かを乞う様に。

「……かき氷のせいでめちゃくちゃお腹痛い」

 俺の顔に砂をトッピングされた。

65 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/08/19(月) 16:53:50.46 ID:4nkCagHl0


「……ふぅ……」

 腹痛が収まった。
 いやぁ良かった、近くにコンビニあって。
 コンビニ偉大、びば24時間営業。
 誕生日プレゼントにはコンビニが欲しい。

「……さて……」

 鷹富士さんの元へと戻りながら、俺は告げる言葉を考えた。
 どうやって機嫌を直して貰おう。
 明らかにキスをねだっていたし、俺もまぁ、そんな気分でもあったのではあるが。
 それ以上にお腹痛くてそれどころではなかったのだ。

 かき氷なんて二度と食べない。
 この夏で、果たしていくつ誓いが増えた事だろう。

「ま、普通に戻るか」

 ああ、本当に水着持って来て貰えば良かった。
 今日なら、ここなら、彼女の水着姿を一人占め出来たのに。

「あっ、プロデューサー!!」

 向こうで、鷹富士さんが大きく腕を振っていた。
 何処までも続く綺麗な海と、遮るものなく広がる空を背景に。
 白いワンピースを風にはためかせ、片手で麦わら帽子を抑えて。
 まるでキャンバスに描かれた様な、この夏そのものみたいな景色で。

 それで、もう十分だった。
 この夏が最も充実しているのは、絶対に俺だという自信があった。

「凄かったですっ! 船が! ふわぁぁぁって!」

「凄いな、何を言っているのかさっぱり分からない」

 なんだか分からないが、凄い事があったらしい。
 船がふわぁぁぁ、か。
 成る程。
 彼女の言葉を脳内で反芻させてみたが、何も分からなかった。

「……ごほんっ、ええっとですね」

「はい」

「船が浮いてました」

「はあ」

「ふわぁぁぁって」

「……はぁ」

「しかも上下逆に」

「……凄いな」

「……さては私、信じて貰えてない?」

「そうなるな」
66 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/08/19(月) 16:54:16.11 ID:4nkCagHl0


 だって、状況がさっぱり分からないのだから。
 船が上下逆に浮いてた?
 そんな訳あるか。
 船が浮くのならそれはもう映画の世界だし、上下逆は設計ミスだろそれ。

 とは言えここ数日で心霊現象に連続で遭遇している為、その様な現象についても少しは考えてみる。
 さっぱりだった、助けてくれ文香。
 事務所内は『件』の絵が描かれている(まだ清掃会社が来ていない)為、事務所の中で良くない事は起こらなくなっているが、外ともなるとその効果があるのかは分からない。
 もしなかなかにヤバイ現象だった場合、早くこの暑い海から離れた方が……

 ……海?

「……不味いぞ鷹富士さん、それは間違いなく幽霊船だ」

「ですよね! どうします? 文香ちゃんに相談してみますか?」

 信じて貰えた事を喜ぶ反面、少し焦りも見せる鷹富士さん。
 自身が幻覚を見たりするなんて思っていなかったのだろう。

「いや、もうダメだ。見てしまった人物はどうあがいても不幸になる
タイプのやつだ」

「私が幸運勝負で負けると思いますか?」

「なんで張り合うんだよ」

「プロデューサーさえ居れば、私はそれだけで幸せですから」

 嬉しいけれど、大変申し訳なくなる。
 なんてったって、全部俺の出まかせなのだから。

「……それで、プロデューサー。結局私が見たのって何だったと思いますか?」

 ……ばれてら。
 それもそうだ、突然饒舌になって、けれど焦る様子も見せていないのだから。
 それに彼女だって、きっと分かっているのだろう。
 『自分が大変な目にあいそうな時、プロデューサーはもっと焦るし必死になる』と。

「……それは……では、そうですね……」

「文香ちゃんの真似全然似てないです」

「うっす、まぁ文香ほど上手く説明出来る気はしないが……」

67 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/08/19(月) 16:54:42.51 ID:4nkCagHl0



 『蜃気楼』だな、聞いた事くらいはあるだろ?

 密度の異なる大気の中で光が屈折して、数キロ先にある実際の風景が浮かんだり逆さまに見える自然現象が『蜃気楼』だ。
 蜃が気を吐いて楼閣を描くと考えられたとこから蜃気楼と呼ばれるように……

 ……オチを最初に言うもんじゃないな、もう説明聞く気ないだろ鷹富士さん。
 まぁ科学的に起こる自然現象ではあるんだが。
 もう少し説明させてくれ、折角だから。
 文香の知識をついつい話したくなる気持ちが今よく理解出来た。
 
 通常、大気は地面から高くなるにつれて100メートルにつき、約0.5〜0.6℃の割合で温度が下がる。
 だが、それとは逆の現象がが起こっている時、『蜃気楼』が起こるんだ。
 つまり、地面・海面付近の大気の温度が一番低くて、上方に向かってゆくにつれて大気の温度が上昇していく場合だな。
 もっと分かり易く言えば、空気の層が上暖下冷の温度構造の時だ。

 空気の場合、温度が低い程空気の密度が高く、温度が高い程空気の密度が低い。
 そして光は、より密度の高い方へと進路を変えてる。
 だから光が通常とは違う曲がり方をするんだ。
 そして、が曲がるって事は、景色が曲がるって事だ。

 この場合は上に凸の弧を描いて進む事になる。
 え、要するに?
 景色が浮かんで、しかも変な形で見えるって思ってくれ。
 待って、もう少しだけ説明続けさせてくれ。

 『蜃気楼』の像は元の物体の上に現れる。
 空気が上暖冷の層である時は、物体から出た光は上に凸の弧を描いて観察者の目に入ってくるからだ。
 人間の目には、光が入射してきた方向に像が見える様になっている。
 その結果として、『蜃気楼』の像は元の物体の姿を伸ばしたり、縮めたり、浮き上がらせたり、上方倒立像に見えるんだ。

 そして『蜃気楼』は地面の方が温度が低くて、大気の方が暑いと発生する。

 昨夜雨が降ってただろ。
 だから海水はかなり……とは言っても人が泳げるくらいではあるが、温度が下がってるんだ。
 そして陽が出て、空気は温まる。
 風が少なくて、空気の層が混ざり合う事も少ない。
 
 だから、『蜃気楼』が起きた。

 以上が、鷹富士さんが見たものが『蜃気楼』だと俺が判断した理由だ。
 あ、やばい。
 こういう説明って割と癖になるな。
 文香の気持ちが……他の女の名前を出すな?

 ……すみません。
 
68 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/08/19(月) 16:55:09.61 ID:4nkCagHl0


「……つまり、プロデューサーは分かってた上で私を揶揄ってたって事で良いですか?」

「……そうなるな」

「言うべき事は?」

「すみません」

 変な事をするものではなかった。
 分かってたのならさっさと言うべきだったのかもしれない。
 しかし、焦ってる鷹富士さんとかも見てみたかったと言う俺の思いも理解して頂きたい。
 はい、すみません。

「はぁ……まあ良いでしょう。それに……」

「それに……?」

「……私に何かあった時は、プロデューサーが守ってくれますよね?」

「勿論、約束する」

 俺は即答した。

 例え何があっても、どんな事になっても。
 どんなに見苦しい事をしても、誰かを頼ってでも。
 本人に拒絶されても。
 周りから、何と言われても。

 絶対に、鷹富士さんを守る。

「なら良いです。あ、それとなんですけど」

 イタズラっ子の様に。
 鷹富士さんは、微笑んだ。

「私が見たの、ボロボロの海賊船みたいなのだったんですけど……」

「俺の説明間違ってたかもしれない。まずいな取り敢えず文香に」

「嘘でーす」

「…………」

 やり返された。

 今日はお互い、まるで子供の様だった。

69 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/08/19(月) 16:55:53.83 ID:4nkCagHl0


 6、◯◯◯◯ー◯ー




「…………成る程、分かりました」

「おねげーします、文香おねーさん」

「はい……!」

「……ふ、文香ちゃん…………よね?」

 ……私とした事が、柄にもなく立ち上がってまで返事をしてしまいました。
 ちひろさん、変なものを見る様な目を向けないで頂けると助かります。
 仕方のない事ではないでしょうか?
 仁奈さんに「おねーさん」などと呼ばれてしまえば、正気を保てる者など、おそらく世界の何処を探しても見つからないでしょう。

 外国人に日本語は通じない?
 なんと愚かな……ご存知ないのですか?
 可愛さは世界を超えるのです。

 ……ごほんっ。

 それは、八月十六日の金曜日。
 私が事務所で、本のページを捲っているところでした。
 親愛なる我が妹……同僚である市原仁奈さんから、相談事を持ち掛けられたのです。
 姉……同僚として、張り切らざるを得ません。

 女子寮の周りでよく男性を見かけると噂が出ている。
 その男性は、時折アイドルに話し掛ける。
 男性が去った後、他のアイドルが尋ねても、何を話していたのか答えてくれない。
 けれどそのアイドルは、とても悲しそうな表情をしていたそうです。

 また、女子寮のアイドルに電話が掛かってきた後、とても不安そうな表情をする。
 けれど、何があったのか尋ねても答えてくれない。
 そんな事が、何件か続いているそうです。

 ……心霊現象、では無いのでしょう。
 少なくとも、悪影響のあるモノでは無い筈です。
 もしそうなのであれば、とうに小梅さんが動いて解決している筈ですから。
 小梅さんが動いていないのであれば、それは『よくないモノ』では無いか、人間かと言う事になります。

 原因が人間であるのなら、正直私の出る幕ではありません。
 不審者の可能性もありますし、警察や寮監に相談するべきです。
 それが為されていない。
 それはつまり、話し掛けられた人の知り合いか、それとも口止めをされているか。

 話した後に、不安そうにしている、悲しそうにしている。
 これは、直接その人物に話を聞いてみる他なさそうです。
 一応不審者の線も考えて、プロデューサーさんに相談してみるべきでしょうか。
 いっその事、あの人が全て動いて下さると助かるのですが……

 窓の外には、昨日よりも大きな太陽が、我が物顔で空を埋め尽くしています。
 お盆を過ぎた八月は、未だその気温を人が快適に活動出来る程度にまで下ろしては下さらなそうです。
 暑さも寒さも彼岸までとは言いますが、それはまだ一ヶ月も先の事。
 いっそ今が旧暦であれば、この夏がまだまだ続くのだと憂う事も無かったのに。

 ワンコール、ツーコール。

 それからすぐに、彼の声が聞こえました。

『ん、もしもし文香か?』

「はい……少し、お聞きしたい事が……」

70 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/08/19(月) 16:56:19.71 ID:4nkCagHl0



 結論から言うと、断られてしまいました。
 本日は買い物で寮から離れた所に居る為、動けるのは明日からだ、と。
 非常に残念です、全て押し付け……お願いしようと思っていたのですが。
 仕方なしに私は、響子さんに連絡をかけました。

 意地でも、この部屋から出ずに解決してみせます。

『あ、はいもしもし! 文香さんですか?』

「はい……少々よろしいでしょうか?」

『あ、ちょっと待って下さい……美穂ちゃん! それまだ作ってる途中ですから! ……ごほんっ、失礼しました。それで?』

 昼食でも作っているのでしょうか?
 響子さんの作る料理は非常に美味しいと耳に挟んだ事がありますし、いずれ一度は……

「……噂について、お聞きしたい事があります」

『……不審者とか、変な電話とかの事ですか?』

 どうやら当たりの様です。

 不審者と断定している。
 変な電話と言っている。
 自分は噂しか聞いた事がない。
 けれど、それを最初に発してしまう。

 どうやら彼女は、何かを知っている様です。
 十中八九、彼女にもそれは起きていたのでしょう。
 その上で、何かを此方に気付かせまいと……いえ、少し違いますね。
 思考の誘導を行おうと、誤魔化そうとしている様です。

「ふむ……どなたが被害に遭われたのかは、ご存知でしょうか?」

『分かりません……』

 嘘を吐く。
 これはおそらく、誰かを庇うための嘘でしょう。
 自身は話したく無く、けれど他の人も話したく無いであろう事を分かっている。

 言ってはいけない事なのか、言えない様になっているのか。
 それは無さそうです。
 それなら、小梅さんが動いている筈ですから。
 そうなると……

 これは……

「……分かりました。お昼時でお忙しいところ、失礼致しました」

『いえいえ。捜査、頑張って下さいっ!』

 そう言って、通話を切りました。
 その直後、私はふと、疑問に思いました。

 ……響子さんが昼食を用意するのが当たり前だなんて、寮のシステムは一体どうなっているのでしょう?

71 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/08/19(月) 16:56:46.07 ID:4nkCagHl0

「……はい。その件です」

『ええっと……わたしも、よく分かりませんけど……』

 次に連絡を取ったのは、美穂さんです。
 彼女が女子寮に居る事と、忙しくは無い事は先ほどの通話から分かっていましたから。
 けれど反応は、響子さんの時と同じ様なものでした。
 大方彼女の状況も、響子と似た様なものなのでしょう。

 次に私は、みくさんに連絡を取りました。

『それは秘密にゃ! みくは秘密を守れる良い女なのにゃ!』

 それは、割と既に守れていない様な気がします。

『アー……ナイショ、です』

 アナスタシアさんにはナイショにされてしまいました。

『うふふ、ふふふふ…………うぅぅ……うぅぅぅう…………』

 まゆさんは泣いていました。
 辛い思いをしたのでしょう。

 この時点で、大方の予想はついていました。

 それぞれ、反応が異なる事から。
 けれど、秘密にしようとしている事から。
 よくよく考えなくても、分かる事でした。
 それは身にしみて、よく分かっている事でしたから。

 最後に。

 確信に変える為、もう一度だけ私は電話を掛けました。

72 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/08/19(月) 16:57:14.95 ID:4nkCagHl0


『はいっ、島村卯月ですっ!』

「おはようございます、卯月さん」

『頑張ります!』

 ……何をでしょうか?

 寮に噂が広がっている。
 だからこの件(怪異の『くだん』ではありません)は、寮にのみ起こっている事だと思っていましたが。
 そもそも、その考え方が間違いだったのです。
 起こっていたのは寮の周りではなく、彼の周りなのですから。

 そして、もう一つ。
 怯えている、不安そうな反応をしたアイドルは……

 ……カマをかけてみるとしましょう。

「……私も、相談されました……」

『あ……文香さんもですか。何をオススメしましたか?』

 予想と違った場合、それで気付かれてしまいますから。
 出来る限り、当たり障りの無い……

「……私なら、栞が嬉しい、と……そう伝えました……」

『文香さんらしいですね。私は、何にも思いつかなかったですけど……あ、でもきっと何を貰っても嬉しいと思います、って伝えました!』

「ふふ、それもまた卯月さんらしいですね……」

 大体、当たりの様です。
 では、次に……

「……少し、不安そうですね……どの様に相談されたのですか……?」

『ええっと、「普段お世話になってるから何かプレゼントしたいけど、どんなものなら嬉しいか分からないから相談に乗ってくれ』でしたけど……それで、その……』

「……………はい……」

『……きっと、好きな人に贈るものだと思うんです。私だって女の子ですから、声で分かります。でも…………』

 占いの結果を信じやすいのも、また女の子らしいと思います。
 卯月さんと響子さんはまだしも、美穂さんはそれがホンモノだと言う事を思い知っていますから。

「……ありがとうございます。失礼致しました」

『いえ、大丈夫です! 私こそ、変な話しちゃってすみません』

 通話を切ります。

 さて、まずは……
 ……そうですね。

 おそらく呑気に買い物でもしてるであろう犯人に、不満をぶつけるくらいは許されるでしょう。


73 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/08/19(月) 16:57:48.20 ID:4nkCagHl0



「朴念仁」

『開口一番それは酷くないか?』

 言いたくもなります。
 プロデューサーさんのデリカシーの無さのせいで、私の読書の時間が縮まってしまったのですから。
 けれどそのおかげで、仁奈さんが話し掛けてきてくれたと考えると……
 ……これは、破滅的思考になりそうなのでやめておきましょう。

「……プロデューサーさん、現在寮で不審者扱いされているのはご存知ですか……?」

『え、辛い』

「貴方が『内緒にしといてくれ』などと頼むせいです」

 全く……いえ、その考えが分からなくはありませんが。
 相談された側の気持ちも、もう少しは考えるべきでしょう。

『だって恥ずかしいだろ。プレゼントも一人で選べないなんて』

「沢山の年下の女の子に相談するのは恥ずかしくない、と?」

『そうなんだけどさ……』

 非常に、なんともあっけない話です。
 あっけないと言うか、みっともないと言うか。

 事の顛末は非常に簡単なものです。

 プロデューサーさんが、鷹富士さんへ何かプレゼントをしようとして。
 けれど、女性が何を貰えば嬉しいのか分からなくて。
 年頃の女の子であるアイドルの皆に、通話で、あるいは帰宅のついでに寮前を通って相談していた。
 けれど恥ずかしいし本人にバレると困るから、内緒にしておいて貰った、と。

 ……本当に、こんな事で時間を取られただなんて……

 一番最初にプロデューサーさんに電話を掛けた時点で気付くべきでした。
 アイドル一番、アイドル大好き人間であるプロデューサーさんが、寮で何かが起きているのに私用を優先させる筈がありません。
 どんな用事があったとしても放っぽって、すぐさま寮に駆け付けていた筈です。
 つまりプロデューサーさんは、それが大した出来事ではないと知っていた、寧ろ恥ずかしいから知らんぷりを通そうとした、と。

「まゆさん、唸っていましたが」

『……好きな人に贈る、なんて言ってないんだがな』

「お年頃の女性に、それがバレないとでもお思いですか……?」

 そうでなくとも、まゆさんは自分以外へのプレゼントの相談なんて泣き叫びたかったでしょうが。

「…………それで……」

 これは、単純な好奇心です。
 ただ、私が知りたかっただけ。

「……何を、贈るつもりなのですか?」

 何となく、気になったのです。
 沢山のアイドルからアドバイスを受けたプロデューサーさんが、プレゼントに何を選んだのか。
 余程の朴念仁で、デリカシーが無くて、女心なんて言う言葉から最も遠い様な人物です。
 おそらく、物凄く残念な物に違いありません。

『指輪だ』

「……………………」

 何も言わずに、私は通話を切りました。
 
74 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/08/19(月) 16:58:17.45 ID:4nkCagHl0

 本当に、人生で最も無駄な時間だったと思います。
 これと言ったヤマもオチもなく、ただ電話をしただけの一日でした。
 これなら余程、ヤマもオチも無い小説を読んでいた方がマシだったと思える程に。
 ……いえ、多少の情報は集まったので良しとしましょう。

「文香おねーさんすげー! 探偵さんみてーです!」

「ふふふ……素敵な一日となりました」

 大まかに掻い摘んで、仁奈さんには事の顛末を話しました。
 少なくとも不安になる様な事ではない、と。
 仁奈さんは既に、ちひろさんと帰りました。
 親子みたいです、その家庭に姉など如何でしょうか。

 キーーーーーンッ

 空の端は、少しずつ色を赤へと変え始めていました。
 夕刻、世界がくるりと代わる時刻。
 その一端に、飛行機が映ります。
 青と赤の世界に、白い跡を残して。

「…………あぁ」

 そして、思い出しました。

『十八日に、東京へと戻ります。わたくしの戻る迄、寧静を保って頂きたくーー』

 明後日、正確な時刻は未だ伝えられていませんが、芳乃さんは東京へと帰省を終えて戻って来ます。
 それは勿論、あちらも把握しているでしょう。
 ですから、そうですね……
 有り得ない事は理解していますが、それでも。


 平和な夏が、まだまだ続きます様に
 

75 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/08/19(月) 16:59:12.44 ID:4nkCagHl0

 7、◯◯部屋



 もっと早くに考えるべきだった。

 何故小梅と志希が、言ってはあれだが、彼女達らしくもなく身体を張ったのか。
 何故彼女達が、そこまで『件』の絵に執着したのか。
 それは考える事を放棄して文香に押し付けていた俺の責任だし、彼女達を責める事は絶対に出来ない。
 けれど一つくらい言い訳させて貰えるのであれば、ヒントを残して欲しかった。

 ……いや、これもやはり俺の責任か。

 俺は『件』の予言を聞いていた。
 文香には聞き取れなかったと伝えたが、それは彼女を不安にさせない為の嘘だった。
 帰省中の文香に心配を掛けまいと、迷惑を掛けまいととっさに吐いた嘘だった。
 それももしかしたら、文香は気付いていたかもしれないが。

 この物語は、此処から始まる。
 いや、正確には過去から始まっていた。
 そうだな、過去から始まっていたが相応しい。
 それを俺が知るのは、もう少し未来の事にはなったが。

 夏。

 一年のうちで、もっとも陽の長い季節。
 一日が最も長い日に。
 一夏の経験に済ませるには重過ぎて、一生に比べればほんの一瞬の。
 そんな物語が終幕を迎えるキッカケは、一つの電話から始まった。

76 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/08/19(月) 16:59:45.32 ID:4nkCagHl0


『……プロデューサーさん、ですか……?』

「いや俺の携帯に電話かけて俺以外が出たらヤバイだろ」

 それは、八月十七日の事だった。

 蝉の鳴き声もクライマックスを迎える八月下旬に突入しようかと言う頃。
 蝉とバトンタッチして鈴虫とヒグラシが演奏会を始める時刻。
 『件』の件……少し伝わりづらいな。
 白坂小梅と一ノ瀬志希が事務所のエントランスに馬鹿でかい落書きを残してくれやがった日から数日が経って、その週末の土曜日。

 小梅から俺の携帯に連絡があった。
 夏休みの土曜日だと言うのに、一体何の用だろう。

『……最近……事務所で変な事、無い……ですか……?』

「無いな、お陰様で」

 多少の皮肉も篭るものだ。

 この数週間で人生で一度も経験しない様な心霊体験を何度もしてきたが、『件』の絵が描かれてから今日に至るまでは一度も起こっていなかった。
 それに関して、俺たちに先んじて手を打ってくれた事は感謝している。
 それはそれとして、あの落書きは許していない。
 もっと他にやりようがあっただろう、あれ何故か俺が怒られたんだぞ。

『……相談……したい事、あるから……この後、寮に来れますか……?』

 小梅からの相談。
 それが事務所を通してでは無いとなると、恐らくまあ、そう言う事だろう。
 彼女もまた、俺たちの知らぬ所でそう言った事件に巻き込まれていた筈だ。
 それを今まで一人で解決して来たとなると、今回俺に相談して来た事の重要さが分かる。

「分かった。直ぐに向かう」

『えっと……志希さん、そっちに向かってるから……』

「待て、なんで住所知ってる」

『……あの子が』

「あーあー聞きたくなーい!」

 インターフォンが鳴った。
 引っ越しを本気で検討した。

77 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/08/19(月) 17:00:14.81 ID:4nkCagHl0


「にゃー」

「会話をしてくれ」

 数分後、俺は志希と並んで歩いていた。
 一体どうして自宅の住所を知ったのだろう。
 いやいい、知りたくない。
 世の中には、知らない方が幸せな事だってある。

「と言うか、別に志希の案内無くても寮に辿り着けるぞ」

「異常ナーシ」

「頼むから会話を……」

 先程からずっと、志希はこの調子だ。
 一切俺と会話してくれない。
 それは単に面倒だからか、情報を渡したくないからか。
 ……面倒なだけだろうな。

 暑さと涼しさの入り混じる道路を、二人並んで歩く。
 最近この手(除霊とか心霊体験とか)をしていて迂闊になっていたが、これすっぱ抜かれたりしないだろうな。

「大丈夫なんじゃない? 最悪ちひろさんが何とかするでしょ」

「で、志希は未だに事務所で何かやってんのか?」

「うんにゃ、なーんにも? 徹夜してたちひろさんにうるさいって怒られちゃったから」

 ちひろさん、強いな。

 それからまた、会話が消えた。
 手持ち無沙汰で、何かしら話題が欲しくなる。
 ……いいや、違うな。
 何か話していないと不安になる、嫌な予感がしてしまうと言う方が正しかった。
 
「そう言えば志希。蜃気楼って分かるよな?」

「多少ならね。志希ちゃん専攻してた訳じゃないから説明出来る程は詳しくないケド」

「丁度こないだ鷹富士さんと海行った時、条件が整ったのか発生してさ。鷹富士さんが『幽霊船だ』って驚いてたんだよ」

「ん、へぇ〜。あの人ってそう言うの見えないと思ってた」

「心霊系には絶対化かされなさそうだけど、自然現象とか科学的な現象に対しては普通の人と変わらないのかもな」

「にしても蜃気楼ねぇ……ちゃんと船だって断定出来るくらいはっきりした形状で見えたなんて、かなり運が良かったんじゃない?」

 まぁ、鷹富士さんだし。
 運の良さに関しては、今更語る必要は無いだろう。
 それは志希も……それどころか、業界にいれば誰しも一度は耳にした筈だ。
 少なくとも俺は、彼女にジャンケンで勝った事が一度もない。

「とーちゃーく」

「冷房ガンガンに効いてる事を祈ってるよ」

 ようやく、女子寮に着いた。
 そこまで暑くないと思っていたが、足を止めた瞬間にどっと汗が噴き出す。
 着替えのシャツとか持って来るべきだったかもしれない。
 仁奈に『汗臭い』と言われたら立ち直れない自信がある。
78 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/08/19(月) 17:01:00.80 ID:4nkCagHl0


 寮に入る。

「っ!」

「ん? キミどしたの、突然蹲っ……あ、もしかして」

「いや、大丈夫だ。かき氷も食べてない」

「勃」

「辞めろ」

 腹が痛くなった訳じゃない。
 ただ、違和感があった。
 ……いや、違う。
 違和感が、完全に失くなっていた。

 人の家に訪れた時、特に何がある訳でもないのに居心地の悪さを感じた事はあるだろう。
 自分の家と匂いが違ったり、雰囲気が違ったり。
 神社に入った時、なんとなく空気が変わった様な感覚になったり。
 職場に着くと、少し気分が変わったり。

 それは以前、寮に訪れた時も同じだった。
 慣れたとは言え他人の住居、多少とは言え雰囲気が違う。
 おそらく以前は『コックリさん』の霊が残っていたり、小梅の言う『あの子』が居たからで。
 それこそ小梅の事だ、寮に良くないモノが取り憑かないよう、何かしら手を打っていたのだろう。

 そんな感覚が、一切失くなっていた。

 妙に慣れ親しんだ様な、俺を拒むモノが一切無い様な感覚。
 外と空気が一切変わっていない様な感覚。
 冷房が効いているにも関わらず、汗は一切ひいてくれない。
 それどころか目眩がしそうな程、逆に不安になる程、この場には違和感が無かった。

「小梅の部屋は……」

「……あ、不味いカモ」

 俺の質問に返す事無く、志希は走り出した。
 屋内だと言うのに全力疾走で、響子の注意すら跳ね除けて走る。
 それを、俺も追い掛ける。
 志希がここまでただならぬ様子だなんて、初めてだった。

 そして、廊下を曲がった先に、志希は居た。
 おそらく室内の窓から差し込んでいるであろう夕陽が、志希の顔を紅く染める。
 志希は扉を開けて、その先の光景を眺めて唖然としていた。
 一体、何が……

「……今必死に考えてるから待って」

「待つも何も、まず俺は小梅に会いに……」

「ーーーーから言ってるんでしょ……」

 志希の制止も無視して、俺は部屋を覗き込んだ。
 本来女性の部屋にノックも無しに上り込むなんて、マナー違反なんてレベルではない。
 けれど、それどころでは無かったから。
 着替え中で一発引っ叩かれる、なんてオチでも良かったから。
79 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/08/19(月) 17:03:06.79 ID:4nkCagHl0
「…………っっ!!」

 部屋の中に、小梅は居た。

 パソコンのディスプレイは黒く、けれど電源は付いていて。
 カーテンの開けられた窓から差し込む夕陽の色だけではない。
 近くにワインやケチャップは無い。
 噎せ返る程気持ち悪い『赤』が、部屋の壁を染め上げて。


 そんな部屋の中心に、小梅は倒れていた。


「小梅っ」

 何なんだよこれ……意味が分からなかった。
 ついさっきまで、俺と通話してたんだぞ。
 なのに、なんで……

 吐きそうになる。
 一体どれだけの事をすれば、壁一面を紅く染めるなんて事が出来るのか。
 急いで小梅に駆け寄る。
 止血が先か? こういう時って何をすれば

「触らないで。って言うか余計な事しないで。絶対助かるから」

「何を言ってるんだ! 早く救急車を…………」

 そこまで言って、ようやく俺は気付いた。
 女子寮は、不審者が容易に入り込める様な場所ではない。
 少なくともこれが猟奇殺人だとした場合、他に目撃者がいなければならない。
 それはつまり、尋常ならざる事態と言う事で。

 そう言う時に大切なのは、焦らず専門家等の知識を借りる事だ。
 正しい対処法でなければより悪化してしまう。
 俺は多少なりとも、というかここ数週間は『視える』様になっていた(なってしまった)が、今この部屋には小梅以外居ない。
 落ち着いて考えたり相談をする時間はありそうだった。

「……部屋の色。今何色に見える?」

「……真っ赤だ」

「…………不味いかも。割と本気でヤバいしもしかしたら小梅ちゃん助からない」

 焦るな、考えろ。
 死んでいないのであれば、まだ助かる。
 どんなに致命傷でも、助かる道はある。
 俺はそれを、身を以て…………何を言ってるんだ、俺は。

「ちなみに志希には何色に見えるんだ」

「真っ赤……なのかな。そんな気がする」

 この部屋の赤は、心霊現象だけではないらしい。
 彼女にも見えているという事は、視界に介入されているか。
 何かに化かされているか。
 それともただ単純に、赤色の何かが塗りたくられているか……

「……『あの子』はどうしたんだよ。小梅がいつも言ってたの。あれって小梅の身を守ってくれる様な奴じゃなかったのか?!」

 まさか、『あの子』がこんな事を?
 いや、有り得ない。
 小梅はそう言った『良くないモノ』に対して、ヘマを踏む様な奴じゃない。

「…………居なくなってる」

「は…………?」

「消されたっぽい……ん、違う。血は多分一人分だけど匂いしないし、これ小梅ちゃん傷無いから…………」

 ずかずかと、志希は小梅に近付いた。
 そのまま小梅の手首を触り、瞼を触り、息を確認する。

「……うん、問題無さそう。ごめんねプロデューサー、不安煽る様な事言っちゃって」

「……大丈夫なのか?」

「大丈夫。外傷は一切無いから、単純に意識を飛ばされてるだけ」

 冷静さを保っているのも、もう限界だった。
 膝から崩れ落ちて、何度も過呼吸気味に空気を吸い込む。
 ……良かった……何も、なくて……

「…………うん、ほんと。助けてくれてありがと」

 志希はぽつりと、それだけ呟いた。
80 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/08/19(月) 17:04:54.93 ID:4nkCagHl0
「…………どうするんだ、これから」

「一旦事務所に向かう。あそこなら大丈夫な筈だから」

 響子に『小梅が倒れた。熱中症かもしれないから、しばらくして意識が戻らなかったら病院に連れて行ってくれ』と頼んで、俺たちは寮を後にした。

 正直なところ、不安は無かった。
 志希が大丈夫だと言うのなら、小梅は問題ないのだろう。
 彼女があの状態になってしまったと言うのは、相当強力な『良くないモノ』が原因である事は分かっている。
 それでも文香の知識と鷹富士さんの力さえあればなんとかなる、と。

 そう、思っていた。

 走ったせいで汗をかきながらも、俺たちは事務所へと辿り着いた。
 涼しい空気で一気に体温を下げられ、少し肌寒く感じる。
 けれど、ロビーに描かれた『件』の絵を見て安心した。
 取り敢えず事務所内に居れば、悪い事は何も起こらない筈だ。

「文香ちゃん、図書室に居るよね?」

「その筈だ」

 彼女は今日の午後、仕事は無かった筈だ。
 午前中はレッスンだったから、そのまま図書室に居座っているだろう。

 エレベーターの待ち時間は、やけに長く感じた。
 何時もだったら直ぐに来ていた気がするが……焦っている時ほど、長く感じるものなのだろう。
 ようやく来たエレベーターで、彼女が居るであろうフロアに向かう。
 その間、会話は一切無かった。

 無機質な音が、やけに不安を掻き立てる。
 今になって、不安が襲い掛かって来た。
 鷹富士さんは大丈夫だろうか。
 彼女は今日、事務所に来ていない筈だ。

 ウィィィィン

 エレベーターのドアが開く。
 それが開ききるが早いか、俺は廊下へと飛び出した。
 ええと、図書室はこの廊下の突き当たりに……ん?

「……どうしたんだ、志希」

 小走りに向かう途中、志希が着いて来ていない事に気付く。
 彼女は未だ、エレベーターに乗ったままだった。

「……ねぇキミ、なんで降りたの?」

「え? だって図書室に向かってるんだろ?」

「うん。もう二個上のフロアな筈だけど」

 何を言っているんだ、志希は。
 そう思いながら、エレベーターの傍に表示されたフロアの表示を見る。

「…………本当だ。んなバカな、俺は確かに……っ!」

「あっ、不味い」

 ……ようやく、理解した。
 俺は間違い無く、視覚に介入されている。
 『間違ったモノ』を見させられている。
 うっかりで違うフロアに降りる事はあろうが、それだったら降りた瞬間に気付く。
 
「事務所内じゃ悪いモノは入って来ないんじゃ無かったのかよ!」

「あたしに言われても困るし! キミ、あたしの声は聞こえてるよね?!」

「あぁ!」

「聴覚チェック! デルタ関数のフーリエ変換は?!」

「分かんねぇ!」

「おっけ、本人の知らない知識は幻聴にならない筈だし大丈夫!」

 成る程、そういう事か。
 もし聴覚にまで介入されていた場合、幻聴にされていた筈だ。
 けれど本人の脳に作用して幻聴を聞かせる場合、幻聴として聞こえてくるのは『俺自身が知っている事』だけだ。
 知らない言葉(けれど多分実在する事くらいは知っている)を聞いたという事は、それはつまり幻聴では無いと判断出来る。
 耳まではまだやられていない、と。

 ナニが起きているのかは分からないが、ソレは五感全てをコントロールする程の力は無いらしい。
 志希が正常な視界を保っている事からも、俺一人を騙すのが限界らしい。
 ……いや、違うな。
 もしかしたら、『そう思わせる為』にまだ視界しか化かしていない可能性もある事は考慮しておこう。
81 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/08/19(月) 17:05:21.65 ID:4nkCagHl0

「視覚からの情報は信じないで。あたしはまだ化かされてないから、あたしの声を信じて」

「分かった。どうする?」

「手遅れになる前に文香ちゃんに電話!」

 聞くが早いか、俺は文香に通話を掛けた。
 一応、掛けた先の番号を志希に見て貰って正しい事を確認する。

「もしもし文香?! マズイ! 事務所内にもナニがが来てる!」

『……そう、ですか……小梅さんは?』

「…………それも話す。今事務所に居るか?!」

『はい……正確な場所はお伝え出来ませんが、事務所内には居ます。相談事があるのなら、このままお願いします……』

 正確な場所が伝えられない、だ?
 いや、気になるが今はそれどころではない。
 エレベーターで一階へと向かいながら、通話を続ける。
 文香に会えず、事務所内が安全ではないと分かった時点で、此処に留まる理由は無いからだ。

 俺が小梅に呼び出された事。
 志希が迎えに来た事。
 寮に行って、俺が見た光景。
 今日起きた事の全てを、俺は伝えた。

『……そうですか、小梅さんが……』

「ああ……志希は大丈夫だって言ってたが……」

『おそらく、大丈夫なのでしょう……そうですね、余り時間が無いので手短にお話しします』

 それから文香は、いつもより少し早口に説明をしてくれた。

82 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/08/19(月) 17:05:50.42 ID:4nkCagHl0

 それは『赤い部屋』です。

 プロデューサーさんも、一度は耳にした事があるのてはないでしょうか。
 もしかしたら、ご自身で一度は体験した事があるかもしれませんね。
 ……いえ、江戸川乱歩のミステリー小説の方ではなく……
 ネット上の、都市伝説の様なものです。

 流行り出したのは90年代終盤〜00年代序盤、所謂フラッシュ全盛期に作られたホラー系のお話しです。

 『あなたは/好きですか?』 と、そう表示されるポップアップ広告が存在するという噂を聞いたとある人物のお話です。
 ポップアップ広告の中には、サイトに入る度に繰り返し表示されるしつこい物も存在します。
 それら広告は×ボタンをクリックして消してしまえばいいだけの話ですが、『赤い部屋』という広告だけは絶対に消してはいけないと言われていました。
 そのポップアップ広告は神出鬼没であり、その人物は興味本位から、友人と手分けしてそのポップアップ広告を探すことにしたのです。

 『赤い部屋』の出現しそうなサイトを巡る彼は、ついにその広告に辿り着きました。
 『あなたは/好きですか?』と、それだけが表示された広告です。
 勇敢な彼はその広告の×ボタンを押してポップアップ広告を消してゆくも、けれど全く同じ広告が出てくるだけでした。
 『消したら死ぬ、というか消せない』というオチだと思い込んだ彼は、バカバカしくなり何度もポップアップを消してしまいます。

 すると次第に、
 『あなたは /好きですか?』
 『あなたは /好きですか?』
 『あなたは赤/好きですか?』
 と、ポップアップにはいっていた斜め線がズレ始め、文字が現れだしたのです。

 彼がそれに気付いたと同時、ポップアップは勝手に消えては現れてを繰り返しました。
 焦った彼は急いで止めようとしましたが、止め方が分かりません。
 そして少しずつ、文字も増えてゆきます。

 『あなたは赤い/好きですか?』

 『あなたは赤い部/好きですか?』

 『あなたは赤い部屋/好きですか?』

 そして、とうとう……

 『あなたは赤い部屋が/好きですか?』

 不意に画面が切り替わり、そこには大量の人名が映し出されます。
 その最後には、一緒にこの広告を探していた友人の名前も記されていました。
 嫌な予感、動かない身体。
 背後には謎の気配。

 そして……

 翌日、某学校の同じクラス内で2人の自殺者が出ました。
 自身の頸動脈を切断し、部屋を自分の血で真っ赤に染めながら……

 と、その様なお話です。
 
 小梅さんの部屋が真っ赤だった。
 パソコンの電源は付いていた。
 彼女はそう言ったお話を好んで調べる人物だった。
 ……はい、非常に不安定な理由です。

 ……と、言うよりも……

 ……現在において、ブラウザにはポップアップブロック機能が標準搭載されています。
 ポップアップブロックのシステムが無かった時代に作られた作品なので、悲しい哉今では、その演出は若干無意味なものとなってしまっています。

 ……はい。

 今は、そう思っていて下さい。
 全てが終わり次第、きちんと説明しますので。
 ……『あの子』ですか……?
 おそらく、既に在ないと思います。

 元から死んでいるとか、そういう話ではなく。
 『赤い部屋』を使ったのであれば、必ず一人はやられています。
 『あの子』と呼ばれる人物は、小梅さんの事を護った様です。
 ええ、ですから……

 もう、在ないのです。

83 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/08/19(月) 17:06:20.70 ID:4nkCagHl0

『すみません……そろそろ、用事がありますので……』

「あぁ、悪かった。ところで文香は……」

 ぴっ、っと。
 通話が切られた。
 切るのが早すぎる。
 もう少し書きたい事があったのだが。

「……志希、取り敢えず鷹富士さんに会いに」

 事務所から出ようとした、その直前。
 志希は、何かに気付いたかの様にはっと目を見開いた。

「……文香ちゃん、何処に居るって?」

「……分からなかった。けどまぁ事務所内には居るらしい……」

「へぇ、本当に?」

 そう返した所で、志希が俺のスマホの画面を指差している事に気付いた。
 何かを、伝えようとしている。

「文香ちゃん、何処に居るの?」

「いや、だから分からなかっ……」

 真っ暗になったスマホの画面を指差して。
 けれど、質問を何度も繰り返す。
 狂った様に、何度も何度も。
 それは、とても不気味だった。

 ……いや、待てよ。
 トンネルの一件以降、俺は通話終了時のバイブレーションを設定している。
 けれど、今スマホは振動していなかった。
 そして、志希は未だにスマホの画面を指差している。

 既に、聴覚まで騙されていた。

「おい、志希!」

 果たして俺は、きちんと彼女の名前を呼べていたのだろうか。
 彼女がなんと返事していたのか。
 それすら、分からない。

 一気に不安になった。

 見ているものも聞いている事も嘘なのなら、一体何を信じて動けば良いんだ。
 目の前に居る志希がホンモノかどうかも、今となっては分からない。

 焦った様に志希が俺の手を取る。
 そう見えた、実際にされたかどうかは分からない。
 感覚は、一切しなかった。
 もう、何も分からなかった。
84 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/08/19(月) 17:06:50.74 ID:4nkCagHl0


『もし五感全てに介入出来る様な奴に出逢ったら、どうすれば良いんだ?』

 かつて俺が、文香にそう尋ねた事を思い出した。

『……どうしようも無いと思います』
『ですから……』
『……考えない方が、良いと思います』

 あの時、文香が言っていた通りだった。
 無駄なんだ、考えたって。
 考えるには外からの情報が必要不可欠で。
 その全てが、偽物の可能性があるのだから。

 俺はアテもなく走り回った。
 兎に角、何か確実なものが欲しかった。
 なんでも良かった。
 確かなものが欲しかった。

 目の前に道は本物なのだろうか。
 後ろにある事務所は本物なのだろうか。
 隣に立つ志希は本物なのだろうか。
 広がる夕方の空は、本物なのだろうか。

 ひぐらしと鈴虫の鳴き声は本物なのだろうか。
 蒸し暑い夏の夜風の感覚は本物なのだろうか。
 シャツの洗剤と汗の匂いは本物なのだろうか。
 不安で噛んだ口の血の味は本物なのだろうか。

 この夏は。
 果たして、本物なのだろうか。

 小梅も、志希も、文香も。
 もう彼女達は頼れない。
 誰か、誰でも良いから。
 誰か、俺を……
85 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/08/19(月) 17:08:13.28 ID:4nkCagHl0

「大丈夫ですか、プロデューサー」

 声がした。
 五月蝿かった夏の夕方に、それでも彼女の声だけは確かに聞こえた。
 まるで、世界の音という音全てが消えてしまったかの様に。
 彼女の声だけは、間違いなく俺へと届いた。

「……鷹富士さん」

「はい、私です」

 目の前に、鷹富士さんが立っていた。
 夕暮れを背に、彼女は居た。
 いつも通りの笑顔で、けれど少し困った様に。
 それだけは何故か、本物だと分かった。

「……助けてくれ」

「ふふっ。はい、勿論です」

「……ありがとう」

 鷹富士さんのそんな言葉。
 それだけで、俺は安心出来た。
 彼女さえ居てくれるのなら、それで安心だ。
 彼女さえ居てくれるのなら、俺はそれで……

「……私も、貴方さえいれば大丈夫です。だから、プロデューサー」

 彼女も。
 困った様に、微笑んで。

「……助けて下さい」

「……あぁ、俺は……」

 愛しているから。
 とても、大切な恋人だから。
 だから何があっても、貴女の事を。
 鷹富士さんの事を……

 ……恋人?
 ……恋人だった?

86 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/08/19(月) 17:08:40.05 ID:4nkCagHl0

「……………………」

 指が熱くなった。
 気の所為だったのかもしれない。
 それでも俺は、自分の指へと目を向けた。
 熱を発する、右手の薬指に。

 指輪が、はめられていた。

 右手薬指の指輪の意味くらい、分かっている。
 それ用にと先日購入したのも覚えている。
 けれどこの指輪は、その時購入した指輪とは少し違っていて。
 そもそも何より俺は、まだその指輪を渡していない。

 そして。
 俺が渡す相手は、鷹富士さんで。
 彼女が着けていないのであれば、俺が着けているのはおかしい。
 俺が着けているのであれば、彼女の指も着けられている筈で。

「……どうかしたんですか?」

 そう首を傾げる鷹富士さんの、右手の薬指には。
 何も、着いていなかった。

「…………なぁ、鷹富士さん」

「……名前で、呼んで下さい」

「助けて、って言ってたよな。俺はどうすれば良いんだ?」

「名前で呼んでくれれば、それで良いんです」

「……そっか」

 なんとなく、分かっていた。

 きっととっくに、終わってたんだ。
 ずっと、過去から目を逸らし続けていただけだ。
 目の前の現実を受け入れたくなかったから。
 目の前にいる彼女に、縋っていただけだ。

「…………ごめんな、茄子」

「…………私こそ、ごめんなさい」

 風が吹いた。

 目の前が、真っ白になった。

87 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/08/19(月) 17:09:19.28 ID:4nkCagHl0

 8、◯◯◯さん



 真っ白に染まってゆく視界。
 それと同時に薄れゆく意識の中で、俺は俺を見ていた。

 夏の、とある一日だった。

 七月七日の日曜日、七夕の日。
 コンクリートの道路を揺らす陽炎が、その日の暑さを物語っている。
 沢山の人が行き交う駅前で、けれど自分の姿だけはハッキリ見えて。
 喧しい筈のその夏は、音が一切聞こえなかった。

 やがて駅前に一人立つ俺へと、誰かが声を掛けた。
 満面の笑顔で、彼女は俺へと話し掛ける。
 俺もまた彼女の到着に喜び、浮かれたように挨拶を返している。
 音は無くても、全て分かった。

 これは、あの日の光景なのだ、と。

 場面は変わる。
 二人は並んで、見ていて不安になるくらい近い距離で、ウィンドウショッピングをしている。
 馬鹿みたいに笑いあって、揶揄いあって。
 彼女が値札を指差して、俺は頭を抱えて。

 服屋では試着室から彼女が出てくる度に、俺はマヌケな表情をする。
 彼女が揶揄う。
 多分俺は、恥ずかしさを堪えてきちんと褒めていたのだろう。
 少し赤く染まった彼女の表情が、とても綺麗だった。

 喫茶店で涼みながらお茶をして。
 再びデパートで色々と眺めて。
 次第に、二人は自然と腕を組んで。
 七夕のイベントで、短冊を書いたりして。

 彼女と腕を組む俺は、何度も鞄の中身を確認していた。
 そこに忍ばせた物を、俺は良く知っている。
 何度も何度も悩んで、他のアイドルの子に相談に乗ってもらって。
 ようやく渡す決意をした、ペアリングだ。

 空は少しずつ赤くなる。
 七月七日が終わる。
 ……いいや、違う。
 全てが、終わる。

 再び、場面が変わった。

 俺と彼女が、夕暮れの小道を歩いていた。
 とても、幸せそうだった。
 いや、実際に幸せだった。
 人生で最も幸せな時間だったと言っても、全く以って過言ではない。

 二人が立ち止まる。
 俺が鞄の中に手を入れた。
 急げ、と叫びそうになった。
 俺は、その後に起こる事を知っていたから。

 太陽は傾く。
 二人分の影が背を伸ばす。
 そんな、二つの影に。
 もう一つの影が、近付いて行った。

 やめてくれ。

 悲鳴を上げた。
 けれど、声にならなかった。
 何も聞こえてこなかった。
 音のない過去の世界に、俺の思いが届く事は無かった。

 包丁を持った人が居た。
 そいつは、一歩づつ。
 幸せの頂点にいる俺達へと、近付いて行った。
 焦る俺の心臓の鼓動は、音にならずとも苛つく程に五月蝿くて。

 そして……

88 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/08/19(月) 17:09:47.91 ID:4nkCagHl0


 場面が、変わった。

 蝉の鳴き声だけが、音になった。
 音じゃなかったかもしれない。
 俺の記憶に、脳に、心に。
 深く鋭く、刻み付けられていただけだ。

 彼女は、綺麗だった。
 いつも笑顔でい続けた彼女は、その時すらも綺麗だと思えてしまった。
 俺は、彼女の手を握り締める。
 祈る様に、縋る様に。

 彼女の目が、再び開く事は無い。
 けれど、俺は諦められなかった。
 彼女の心臓が、再び音を鳴らす日は来ない。
 それでも、俺は受け入れられなかった。

 蝉が鳴く。
 俺もきっと、泣いていた。
 赤く染まった世界は、終わる。
 俺の世界は、ここで止まる。

 最後に、キラリと。
 二人が重ねた指から、光が溢れた。

『……そなた……』

 声が、した。
 今の俺には聞こえる。
 あの時の俺には、聞こえていなかった。
 二人を照らす夕焼けは、一人の少女に遮られた。

『……そなた……夢から、醒めるのでしてー……!』

 俺の視界は、再び白く塗り潰された。

89 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/08/19(月) 17:10:39.53 ID:4nkCagHl0


 
 目を開く。

 俺は、コンクリートの上に立ち竦んで居た。
 次第に意識が、少しずつはっきりする。
 空は暗く、既に夜が訪れている事が分かった。
 蝉の声は、もう聞こえて来なかった。

「……ふうー……どうにか、間に合ったのでしてー」

「……芳乃か。帰省から戻るのは明日って聞いてたが……久し振りだな、元気してたか?」

「そなたと言う人は、全く……わたくしは、見ての通りピンピンしてぱーぺき? なのでしてー」

 その言葉は、おそらくもう通じない。
 寧ろ十六歳の少女が知っている事が驚きだ。

 依田芳乃、十六歳。
 和服姿に身を包む、鹿児島出身のアイドル。
 趣味兼特技は悩み事解決、石ころ集め、失せ物探し。
 浮世離れした、どこか不思議な少女だった。
 
 七月の上旬から帰省と言って地元に戻り、ほぼ何の連絡も寄越して来なかった為とても心配していた。
 彼女自身に何かが起きているんじゃないか、という心配ではない。
 そこいらの怪異や心霊現象程度なら、彼女は一人でどうにでも出来るだろう。
 単純に『俺、嫌われたんじゃないか』と言う心配だった。

「……志希さん志希さんー、あの人はまだ近くにおりましてー?」

「んにゃ、居ないっぽい。匂いは全然しないし。まぁ今のあの人がどのくらいの力あるのか分かんないから保証は出来ないケド」

「ふむー……でしたら……」

 事務所に戻るのだろうか。
 いや、事務所はもう安全地帯では無い。
 今から戻る意味は、余りないだろう。
 文香との合流も、別の場所の方が良い。

 ……そう言えば、鷹富士さんはどうなった?
 彼女は一体何処に居る?

「……そなたには、これ以上辛い想いをして欲しくなくー……」

「だから、あたしたちだけで何とかしようとしてたんだけどねー」

「『名前』を呼んでしまった以上、彼女はより彼女に近付いているのでしてー」

 何を言っているのかは、何となく分かっている。
 分かっている、は少し違うか。
 理解しようとして来なかっただけだ。
 分からないフリをしていただけだ。

90 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/08/19(月) 17:11:21.13 ID:4nkCagHl0


「……そなた、運転は出来まして?」

「出来るっちゃ出来るが……」

 車はあのトンネルの一件から、ずっと事務所に置きっぱなしだ。
 乗って帰るのが怖かったから。
 だが、今から何処へ向かうと言うのだろう。

「……空港へ向かって欲しいのでしてー」

 空港、か。
 果たして俺は、何処へ向かわされるのだろう。

「それから先ずは、駅前の喫茶店で寛いでいる文香さんを連行しなければー」

 ……文香、あいつ事務所に居なかったのかよ。

 三人並んで、事務所の駐車場に向かう。
 先程までと違って、もう不安は余り感じなかった。
 芳乃もまた、『良くないモノ』に対して非常に強力な力を有している、気がする。
 実際のところ、彼女の素性や本領は分かっていないのだが。

「むむー……この一帯は、むむむー……」

 途中、事務所の反対側にある工事現場を見て、芳乃は顔をしかめていた。
 かつて、公園や民家が沢山あった場所。
 今では防音のシートで囲まれて、中を覗く事は出来なくなっている。
 狸が、生活する事が出来なくなった場所だ。

「……此処は余り、良い空気とは言い難くー……」

「何か、良くないモノが溜まってるのか?」

「はいー……事務所に『件』が描かれていなければ、非常に危うい状況だったかとー。これは、わたくしが清めてさしあげなければー……」
 
 となると、あの絵は無駄では無かった訳だ。
 今回の件では機能しなかったし、何より俺が怒られた訳だが。

 ……怒られた訳だが、おいこっち向けケミスト失踪者。


91 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/08/19(月) 17:11:49.86 ID:4nkCagHl0


「はぁ……正直、もう疲れ果てて居るのですが……」

「悪いな、もう少しだけ付き合ってくれ」

 車で駅前に向かい、喫茶店で本を読んでいた文香を後部座席へと押し込んだ。
 話によると、文香は空港まで芳乃を迎えに行っていたらしい。
 状況は切迫しており、話す時間が惜しいから。
 それと、事務所は恐らく安全地帯ではないから、と。

 助手席に座る芳乃は、じっと前方を見つめていた。
 何かが起きた時、直ぐ気付いて対処出来る様に。
 俺としてやはり運転なんて気が気では無いのだが、連れて行けと言われたのであればするしかない。
 これはきっと、俺のせいで、俺のためなのだから。

「……『件』については、既にお伝えしましたが……その副産物は、覚えていますか?」

「絵姿が厄除招福の護符になるって話だったよな」

 『件』の伝承については、ある程度覚えていた。
 先程も、多少話に上がったところだ。

「だねー、だからあたし達が必死に見つけようとしてたワケだし」

「今回機能しなかったけどな」

「いえー、厄除け自体は常に機能しておりましてー。問題は其方ではなくー」

「……はい。後半の、『招福』の方にあります」

 招福。
 運を開き、福を呼び込む事。
 それに、一体何の問題があると言うのか。
 残念ながら、俺には検討も……

「……彼女に対しては、何の意味も為さないと言う意味でしてー」

「それどころか、彼女に力を蓄えさせてしまった次第です」

 ……そう、か。
 そう言う事か。

「彼女の本質の半分は、『幸運の塊そのもの』に近いところがありー」

「悪意は無く、厄を振り撒く事も無く、唯幸運のみによって形を保っていましたから」

「それ先に教えてよ。あたし達無駄足……じゃないのか。一芝居打って匂いでマーキングも出来たし」

 そう言えば、志希は匂いで何かを判断しようとしていた。
 匂い……心霊現象に匂い?

「除霊用の香水作ってたなんて嘘八百。あの人が警戒して早目に手を打とうと香水に触るのと、キミに、彼女が触ったところを見てもらうのが目的だったから」

 なんとなく、答えが繋がってゆく。
 けれど、消えてゆく。
 分かってしまったら、終わってしまうから。
 それを知れば、きっと全てが壊れてしまうから。

 なんで、こんな事になってしまったのか。
 視界の端に何かがチラつく様に、答えは脳内に浮かび上がっては消える。
 きっと俺は、全てを分かっているから。
 目を合わせられない様に、そう脳が防衛本能を働かせていたから。

「……プロデューサーさん自身では、答え合わせは出来ないでしょう。ですから……」

 すう、っと。
 文香が、息を吸う。

「……事故にだけは気を付けて、聞いて下さい」

92 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/08/19(月) 17:12:39.90 ID:4nkCagHl0



 七月七日、日曜日。

 貴方にとっても、同じ事務所に勤める私たちにとっても、非常に衝撃的な事件が起こった日でした。

 身に覚えはあるでしょう。
 見た覚えもあるでしょう。
 目を逸らしたくもなるでしょう。
 ですが、続けさせて頂きます。

 とある恋人のうち片方が、傷害事件に巻き込まれ死亡しました。

 蝉の煩い、夕方の出来事です。

 女性の方はアイドル活動をしていた為、熱狂的なファンが幾人もおりました。
 彼女のプロデューサーをしていた男性は、本来いけない事だとは分かっていながらも、彼女と密かに交際を始めたそうです。
 事務所内の人間ですら、その事を知っている人は殆どいませんでした。
 あの男性の事ですから、恐らく世間にバレても自身で責任を取る覚悟はあったのでしょうけれど。

 彼は、彼女にプレゼントを渡そうとしました。
 ペアの、シルバーリングです。
 本気で二人は、お互いを愛していたのでしょう。
 七夕の夕刻、ロマンチックな一幕は……それだけでは、終わりませんでした。

 いえ、終わりました。
 終わりを迎える事になったのです。

 刃物を持った熱狂的なファンによって、二人は襲われました。
 結果、片方は命を落とします。
 犯人は既に逮捕されていますが、獄中で病気に……
 ……大丈夫です、その方は一命は取り留めたそうですから。

 男性は、悲しみました。
 大切な恋人を、自分のせいで失ってしまったのですから。
 目の前に広がる光景を、受け入れる事が出来ませんでした。
 彼女の生涯を、自分のせいで閉ざしてしまったのですから。

 そこで、終わったのです。
 そこで、終わる筈だったのです。

 彼は、受け入れませんでした。
 彼女の死を、拒絶しました。
 自らの幸せを失ってしまった事から、目を逸らしました。
 幸運な彼女が死ぬ筈が無いと、現実を受け入れませんでした。

 ……彼は、自分だけの彼女を、自分の中に作りました。
 笑顔で、元気で、幸せそうな彼女を。
 妄想と言う一言で表すには余りにも強い像を、自分で作り上げたのです。
 それ程、彼女への想いが強かったという証明ではありますが……

 それだけなら、何の問題もありませんでした。
 現実逃避に妄想を作り出す人なら、この世に幾らでもいます。
 対処法も、対処療法も確立しています。
 ですが、それだけに留まらなかった。

 そして、恐らく。
 そこへ、彼女の心を留まらせてしまった。

 ……それが魂なのか、彼女の残留思念だったのかは、最早分かりません。
 もしかしたらそれこそ、芳乃さんの言う『幸運そのもの』だったのかもしれません。
 兎に角、彼女はこの世に留まりました。
 彼にとっては、ですが。
93 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/08/19(月) 17:13:34.12 ID:4nkCagHl0

 何かが起きていると察知した芳乃さんは、急いでその場所へと赴きました。
 そして、全てを察しました。
 そこで、既に一人の命が失われている事。
 彼が、現実逃避に『何か』を作り出していた事。

 勿論、止めようとしたそうです。
 自身も辛い思いをしながらも、それでも『迷い人を導く』と言う役割を全うしようとしたそうです。
 彼女によく似た『何か』を、解放させようとしたそうです。
 彼の事を思って、だからこそ事実を受け入れて貰おうとしたそうです。

 ……はい、芳乃さんは失敗しました。
 
 彼の想いが、余りにも強過ぎた事。
 強力なペアリングによって、彼から切り離せなかった事。
 彼女が悪霊や『良くないモノ』の類ではなく、当時はまだ純粋な思念体だった為、芳乃さんの力が十全に振るえなかった事。
 彼女が、肉体と言う檻に囚われていた生前以上に、幸運だった事。

 どころか彼女は、自身と彼を切り離そうとする芳乃さんを許さなかった様です。
 彼の心を、勿論彼女視点からすればですが、二人の間を裂こうとする芳乃さんは看過出来ませんでした。
 ですから、芳乃さんは一旦実家へと退いた訳です。
 対処法が分からないまま彼女に立ち向かい続ければ、自身がどうなるか分かりませんでしたから。

 救急車に、彼女の肉体は運ばれました。
 けれど彼からすれば、どうでもいい事です。
 彼女の死は、無かった事にしたのですから。
 彼女は、側に居るのですから。

 ……それが、プロデューサーの身に。
 あの日、起きた事です。

 勿論事務所はてんやわんやでしたが、プロデューサーさんはまるで他人事の様に事後処理を進めていました。
 周りもプロデューサーさん心配しましたが、仕事に打ち込んでないとやっていられないのだろう、と気を使いました。
 だから、何事も無かったかの様に振る舞い続けたのです。
 彼に、これ以上苦しい思いをさせない為に。

 ……ご自身でも、おかしいと思いませんでしたか?
 七月七日以降、彼女の仕事を入れてない事に。
 私や志希さん、小梅さんは多少の事情は聞いていましたから、普通に会話に出しましたが。
 私たち以外と会話する時、プロデューサーさんは一度でも鷹富士さんの名前を出しましたか?

 違和感は覚えませんでしたか?
 彼女が、他の誰とも会話していない事に。
 プロデューサーさんが彼女と一緒に、響子さんや楓さんに会った時、彼女達はその存在に気付いていましたか?
 そして貴方もまた、その存在を隠そうとはしていませんでしたか?

 私たちには、彼女の姿は見えていないのです。
 聞こえないのです。
 貴方の口から、彼女が今何をしているか教えて貰う以外に。
 彼女の事は、一切分からないのです。

 志希さんのみ、匂いで分かりますが。
 本当に、断片的な情報と一切学んで来なかった分野の知識から、上手い事を考えたと思います。
 プロデューサーさんが、彼女が香水に触れたと認識する事が必要だったのです。
 彼女の身体は……と呼んで良いのかは分かりませんが、プロデューサーさんの認識によって作られていますから。

 プロデューサーさんがそう認識すれば、彼女に香水が付いた事になるのです。
 本人に気付かれれば終わりでしたが、上手く騙せた様ですね。
 思念体が果たして脳の電気的な信号なのかどうかも、結局のところ分かりませんが……
 兎に角、志希さんも志希さんで位置を特定するくらいの事は出来る様にと手を打っていた様で……

 そして、無意識のうちかもしれませんが。
 貴方は一度も、彼女の下の名前を呼ばなかった。
 恋人だと言うのに、ただの一度も、今日その時まで。
 分かってはいたのでしょう、頭のどこかで、彼女が彼女本人ではない、と。

94 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/08/19(月) 17:14:01.97 ID:4nkCagHl0


 ……彼女は、貴方の想像と彼女の幸運の塊です。
 肉体も実体もありません。
 私どころか、小梅さんにも見えないそうです。
 芳乃さんにも、そこに良い運気が溜まっている事しか分からないそうです。

 貴方の恋人ですら、ありません。

 私たちがプロデューサーさんに黙って動いていたのは、貴方が彼女の情報源になり得るからです。
 彼女自身がプロデューサーに依存せず動けるのは勿論ですが、それ以上に彼女は、貴方に触れるだけで貴方の情報を全て抜き取れるからです。
 ですから、私たちが全てを貴方に明かす訳にはいきませんでした。
 私は彼女に目を付けられていた様なので、嘘は一切吐かず、出来る限りの情報は開示していましたが……

 私と志希さん、小梅さんが完全に別行動を取っていたのは、その為です。
 私はただ、プロデューサーさんと事務所を守る事に徹しました。
 動くのは二人に任せて、私はプロデューサーさんと彼女側に着いて動く。
 ……実際、彼女がただ『居る』だけなら、それは別に構わないと考えていたのですが……

 ……はい。
 それは、多少の差異あれど私たちの総意でもありました。
 彼女が特に害を為さない存在なのであれば、それで良かったのです。
 ですが彼女は、貴方の側に居る為の手段を選ばなかった。

 貴方の側にいる為ならば何でも為す『良くないモノ』となっていた。

 ……彼女はやり過ぎました。
 犯人から運気を奪う事で厄を呼び、病気にさせて。
 『幻影電車』の件では、狸も病気で殺し。
 挙句の果てに、貴方と彼女を切り離そうと動く小梅さんにまで手を出しました。

 『あの子』が身代わりになっていなければ、小梅さんも命を落としていたでしょう。
 ですから、私たちも本格的に動かざるを得なくなったのです。
 彼女が本格的に動いた理由もまた、私たちが動いたからでしょうけれど……
 どの道明日には芳乃さんが戻って来てしまうと、彼女も知っていましたから。

 芳乃さんが明日帰って来ると騙した理由ですか?
 プロデューサーさんに伝えれば、彼女にも伝わるからです。
 勿論、私にも明日戻ると伝えられていました。
 私からウソを提示する訳にはいきませんから。

 ……彼女に、殺人をさせたくありません。
 それはきっと、貴方も同じ思いでしょう。
 勿論、彼女は貴方の恋人とは別人の、貴方が作り出した存在です。
 それでも、止めるべきです。

 そして、彼女も同じ筈です。
 そんな事はしたくない。
 ですが、せざるを得ない。

 彼女が『良くないモノ』に近付き始め、芳乃さんが戻った時点で手遅れに近いのですが。
 貴方が全てを知った時点で、彼女の目論見は瓦解しているも同然なのですが。

 私たちに消される前に、なんとしてでも。
 どうしても一人、殺さなければならない人がいるのです。


 何故なら、鷹富士さんの目的はーー


95 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/08/19(月) 17:14:54.58 ID:4nkCagHl0


 夜夜中、草木が眠るより少し前の時刻。

 夏とは思えない程に冷たい風が、肌を撫でる。
 この場所に、こんな風には来たくなかった。
 どの道いずれ、きちんと訪ねる予定ではあったが。
 こんな形で来る事になるなんて、思ってもいなかった。

「……そなたー、足がクタクタなのでしてー」

「おんぶしようか?」

「ぐぬぬ……子供扱いはやめるのでしてー」

 文香が用意してくれていた飛行機のチケットで。
 まだ運行していた電車とタクシーで。

 俺たちは、島根県のとあるお寺へと訪れていた。

「……文香にはおんぶに抱っこだな、本当に」

「そなたは子供なのでしてー?」

 文香におんぶされた記憶は無い。
 ……いや、実際ずっと文香に頼りっぱなしだった。
 心霊現象に巻き込まれる様になってから、俺と彼女だけでは対処法が分からず。
 文香に相談した時から、ずっと、文香に頼り続けていた。

 ようやく、目的のお寺が見えて来た。

 そのまま本堂を素通りし、傍の墓所へ向かう。

 目眩がする。
 けれど、目を見開いた。
 心臓が五月蝿く、息がつまりそうになる。
 けれど、何故か夜風は心地良い程だった。
 
 ざっ、ざっ

 石畳の道を歩く。
 墓石に囲まれた夜を、進む。
 俺が目を逸らし続けて来たせいで、こうなってしまったのだとしたら。
 もう今更、退く訳にはいかない。
96 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/08/19(月) 17:15:28.31 ID:4nkCagHl0



「……こんばんは、プロデューサー」

「……おはようございますだぞ、茄子」

「そなた……!」

 芳乃には、きっと見えてはいないんだろう。
 元はと言えば、俺の現実逃避の妄想なのだから。
 だから、俺が茄子を名前で呼ぶのを止められなかった。
 彼女が、より一層確実に存在してしまうから。

 ……もう、良いんだ。
 彼女の名前を呼ぶ程に、彼女の存在が確立してゆくのだとしても。
 確かコックリさんの時、文香が言っていたな。
 『名前を付ける』という事によって、ソレが今以上にこの世界で存在を持ってしまう、と。

 終わらせ方なら、もう分かっている。
 例え彼女の存在がどれだけ確実なものになっても、繫ぎ止める物を捨てれば良い。
 皆んな最初は、俺にそれをさせない為に頑張ってくれてたんだろう。

 茄子は、とある墓の前に腰掛けていた。
 まるで、恋人を待つかの様に。
 デートの待ち合わせの時間まで、恋人に想いを馳せる様に。
 困った様な表情で、けれど茄子は微笑んだ。

「……全部、聞いちゃいましたか?」

「あぁ、文香が話してくれた」

「むむ〜、恋人の前で他の女の子の名前を出すなんてダメダメです」

「……すまん、悪かったな」

 全部じゃない。

 芳乃も、志希も、小梅も。
 多分、知らなかったんだと思う。
 文香だけは、きっと分かっていただろう。
 それでも、それだけは、隠そうとした。

 俺の心が揺らいでしまうから、と。
 俺が、茄子を諦められなくなってしまう、と。
 やっぱり全部、俺のせいだったんだ。
 茄子が、こうなってしまったのも。

「……じゃあ、プロデューサー」

「ああ」

 茄子は、言葉を続けた。
 まるで、悪い事は言っていないかの様に。
 一切悪びれずに。
 恋人に、プレゼントをねだる様に。

「ごめんなさい、死んで下さい」

 勿論、答えは決まっていた。

97 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/08/19(月) 17:15:59.00 ID:4nkCagHl0


 彼女の目的は、『自身の蘇生』です。

 ……夢物語だ、と笑い飛ばすなら、それで構いません。
 ええ、はい。
 本来であれば、そんな事は不可能です。
 彼女が、この世に再び生を受ける事は出来ません。

 ですが、彼女はプロデューサーさんに作られた存在です。

 プロデューサーさんの生命を、『命の枠』を、彼女が奪う事は可能なのです。
 それこそ『憑依』や『降霊』に近い形で、貴方の命を貰おうとするでしょう。

 そして、プロデューサーさんと彼女の立場は逆転します。
 彼女が『生者』として、プロデューサーさんが『死者』として、この世に留まる事になるのです。
 彼女が『生者』としてこの世に存在する限り、私たちにはもう手出しは出来ませんから。
 やってはいけない事をしたとは言え、だからと言って私たちが生きる彼女を殺す事も、彼女と貴方の魂を反転させる事も出来ません。

 正直、彼女に憑く形となったプロデューサーさんの魂を、私たちがなんとか出来るとは思えません。
 彼女は問答無用で、不運(私たち)を跳ね除ける。
 貴方が祓われる事が無い様に、決して私たちに手出しさせないでしょう。
 もしかしたら、更にそこからプロデューサーさんを蘇らせ様としてしまうかもしれません……

 ……いいえ、違いますね。

 最悪な話、彼女は貴方を殺せさえすれば良いのです。
 そうすれば、彼女は貴方から離れる事はない。

 ……貴方と、ずっと側にいる為です。

 彼女の目的は、最初からずっと、それだけです。
 貴方と共に添い遂げる、何をしても、他の何を殺してでも。
 それが例え死者であっても、魂だけの存在であっても。
 例え、貴方を殺しても。

 貴方は最初から、分かっている筈です。

 それが、貴方に作られた『彼女』の理由なのですから。

98 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/08/19(月) 17:16:45.11 ID:4nkCagHl0



「……悪いな、出来ない」

「なんでですか〜?」

「恋人を人殺しになんてさせたくないに決まってんだろ」

「……だめ?」

「だめ」

 まるで喫茶店での恋人同士の、なんて事無い会話の様に。
 他愛のない、雑談の様に。
 ……大切な恋人が、恋人だった事すら忘れていたくせに。
 今更、俺は何を考えているんだろう。

 彼女のせいで事務所が滅びると言う事は、『件』の予言で分かっていた。
 もう、目を逸らせない。
 俺と茄子が大切にしてきた346プロを、失う訳にはいかない。
 俺の為にも、茄子の為にも。
 
「助けてくれるって言ったじゃないですか」

「助けるよ、ちゃんと。今度はもう、引き留めたりしない」

「ふふ……正直、断られるとは思ってました。だから何も知らないうちにぱぱーって済ませちゃおうと思ったんですけど……」

 だから今日、本格的に俺を弱らせに来たのだろう。
 俺の周囲の人間に厄を振り巻いて、俺自身の五感を騙して。
 心を弱らせれば、直接手を出せる。
 それが出来ない今、本人に直接承諾して貰うしかないのだ。

「……でも、きっと……」

 それに、と。

 俺は、続けた。

「……あの時も、きっと俺は助けた筈だ」

 空気が、止まった。
 茄子の表情が凍り付いた。
 芳乃が息を飲む音が聞こえた。
 遠くからは、蝉の鳴き声が聞こえた様な気がする。

「……だって俺は、お前にペアリングを渡せていない。自分ではめた覚えも無い。だから、お前は指輪を着けてないんだ」

 ああ、分かってたんだ。
 彼女が俺の生んだ妄想なのだとしたら、彼女は俺の知らない格好は出来ない。
 だから、指輪を着けていない。
 じゃあ、どうして。

 俺は、渡せなかった指輪を着けているんだ?
99 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/08/19(月) 17:17:23.25 ID:4nkCagHl0



「…………そこまで分かった上で断られるなんて、ショックです」

「…………ごめん、本当に……」

 だから彼女は、事ある事に俺から指輪を求めたのだろう。
 より一層、『鷹富士茄子』に近付く為に。

 それでも俺は、死ぬ訳にはいかないんだ。
 茄子を人殺しにしたくない、と言う理由もある。
 けれど、それ以上に。
 どうしても、絶対に。

 茄子に助けて貰った命を、失う訳にはいかなかった。

「……あの時の貴方は、本当に格好良くて、ヒーローみたいで……本っ当に、バカでした……」

「……だろうな」

 バカだと思う。
 けれど、約束は絶対に破れなかったから。
 だからきっと、どんなに焦っていても。
 茄子を、守ろうとしたんだろう。

「私、運は良いんです。だからきっと、襲われても大丈夫だと思ってました」

「包丁だぞ、刺されるとメチャクチャ痛いんだぞ」

「それでも、です。私は幸運だから、きっと守ってくれる、って……」

「……守ったぞ、ちゃんと」

「……はい。幸運なのは、私だけでした……だから、貴方は…………私を守ろうとして…………」

 あの時刺されたのは、俺の方だった。
 あの時死ぬ筈だったのは、俺の方だ。

「……失いたく無かったんです。私の幸せは、貴方と居る事なのに……なのに! 貴方が死んじゃうなんて……そんなの……!」

 致命傷だったのだろう。
 俺の意識は、記憶は、刺される直前で途切れている。
 けれど、茄子だけは守った。
 ……守れた、筈だった。

「……だから……私は、貴方を……」

 きっと逆の立場で、俺に同じ事が出来たのなら。
 多分俺も、そうしていたかもしれない。

 だから俺は、指輪をしていたんだ。
 茄子が最期に、俺にはめたから。
 だから茄子は、最期のあの時、指輪をしていたんだ。
 決して、離れない様に。

「……祈ったんです。私の大切な人がいなくなりませんように。私の命なんていらないから、この人の命だけは助かりますように、って……」

 それが、叶ってしまった。
 運が良いから、なんてレベルでは無い。
 けれど茄子の祈りは、奇跡を起こした。
 自分の命と引き換えに、という形で。

 人身御供と言う文化は、世界に古くからある。
 人間にとって最も重要と考えられる人身を供物として捧げる事は、神への最上級の奉仕だと考えられている。
 きっとこの世界にも、神はいるのだろう。
 様々な体験をしてきた今、それを疑う事もない。

 だが、対価は必要だった。
 神の奇跡は起こった。
 奇跡の代償は、彼女の命で。
 祈りは、届いてしまった。
100 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/08/19(月) 17:18:00.34 ID:4nkCagHl0

「……もしかしたら、また生き返れるかもしれませんよ? 私ほら、とっても幸運ですから」

「……ダメだ」

 隣に立つ芳乃が、『いけません』と目で語って来た。
 聴こえていなくても、分かるのだろう。
 俺がどんな風に唆されているのか。
 俺自身が、どんな都合の良い夢を見ているのか。

 分かってる。
 二度目はない。
 都合の良い事だって分かってる。
 それでもだ。

 茄子の為なら命を張れた。
 かける事だって出来る。
 けれど、捧げる事だけは出来ない。
 死に掛けの人を助けるのと、死んだ人を蘇らせるのでは、話が違うのだ。

「……助けて下さい」

「……ああ。俺は茄子を助けるよ。茄子に助けて貰った命も、絶対に」

「……離れたくないんです……」

「…………ごめん……」

「……もっと、一緒に過ごしたくありませんか?」

「……楽しかったよ、この夏」

 色々あったし、危険な事もあったけど。
 一緒に過ごせて、俺は幸せだった。
101 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/08/19(月) 17:18:34.69 ID:4nkCagHl0


 一歩。
 また一歩。

 俺は、茄子の座る墓へと近付いた。
 この距離になれば、文字が読めてしまう。
 墓石に掘られた名前が、読めてしまう。
 月明かりに照らされて、はっきりと、目に映った。

『鷹富士 茄子』

 涙で視界が滲む。
 ようやく理解が追い付いたとは言え、心の方はついては来なかった。
 膝から崩れ落ちそうになる。
 目を逸らしていた現実が、一気に襲い掛かって来た。

「……ほら、やっぱり辛いんじゃないですか」

「……ダメだ、茄子」

 今、俺の心は完全に弱り切っているだろう。
 やろうと思えば、また五感を騙せたかもしれない。
 けれど、してこなかった。
 それは芳乃が近くに居るから出来なかったのか、それとも彼女自身にはもうそんな意思が無かったのか。

「……ねえ、芳乃ちゃん」

「…………迷える人を導くのが……依田の、役目でして……」

「貴方は、私と一緒に居たくありませんか……? ずっと一緒に……私と……」

 耳は塞がなかった。
 目を逸らさなかった。
 全部、俺は受け止めた。
 受け止め切れなかった分は、目から零れ落ちた。
102 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/08/19(月) 17:19:25.82 ID:4nkCagHl0


「……私は……私はっ! 貴方と、っ! ずっと一緒に居たいだけなんです……! ねえ、貴方は! 私の事を……!」

 水鉢の近くに置かれたそれに、俺は手を伸ばした。

 それが全ての始まりだと、皆分かっていた。
 それで全てが終わるのだと、俺は分かってしまっていた。
 それは、俺が渡せなかったもの。
 俺と茄子を繋ぎとめているもの。

 俺が……茄子の事を……

「……愛してるよ、ずっと」

 自分の指からも、同じ物を抜き取った。
 シルバーのペアリングを二つ、芳乃に渡す。

「頼む、芳乃」

「……はいー……っ!」

「私は! 貴方と……イヤです! ねえ、助けて下さい! 守って下さい! 私は…………!!」

「愛してるよ、茄子……っ」

 溢れる涙は三人分。
 夏の夜に、跡を残す。

「貴方の事がーー」

 芳乃が、両手を閉じた。

 ただ、それだけで。

 俺の夏の、現実逃避の逃避行は、終わりを告げた。

103 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/08/19(月) 17:20:01.70 ID:4nkCagHl0


 9、夏




「プロデューサーさん、最近元気になりましたよね」

「そうか? 自分では分からないが……」

「うーん……憑き物が落ちた、みたいな表情です」

 どんな表情なのだろう。
 自分では分からないが、痩せたとかそういうのだろうか。

「……どうだ美穂、俺カッコいいだろう」

「うわぁ……」

 あんまりな反応である。
 バカな事などするのものでは無かった。

 いつも通りの日常だった。
 ありふれた現実だった。
 ぽかりと空いた穴は、未だに埋まらないけれど。
 きっと、沢山の幸せで埋めてゆけるだろう。

 八月二十四日、土曜日。
 あの日から約一週間。

 夏は、まだまだ続いていた。
 
104 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/08/19(月) 17:20:28.31 ID:4nkCagHl0



 全てを終えた八月十八日。

 身も心も疲れ果てていた俺は、どうやらそのまま墓地で眠りに落ちたらしい。
 翌日起きれば、寺に寝かせて貰っていた。
 芳乃が上手く話してくれたらしく、住職さんと和やかにお茶を飲んでいたのは覚えている。
 それから既に用意されていた券で(文香が用意してくれていたらしい)飛行機に乗り。

 東京に戻った直後、俺は疲れ果てて空港で再び寝た。
 連続で三回も飛行機に乗って疲れた芳乃も寝ていたらしい。
 起きたら文香がステキな笑顔で笑っていた。
 図書券をプレゼントしたら普通の笑顔になった。

 『厄が、呼び込まれやすかったのです』とは帰りの車内での文香の談。

 それは、俺がずっと気になっていた事だった。
 俺は346プロダクションに勤めてそこそこ長いが、こんなにも沢山の心霊現象に遭遇した夏は初めてだった。

 それは、俺が作り出した『彼女』の性質に起因していた。
 彼女は半分は俺の妄想だったが、もう半分は芳乃曰く『幸運そのもの』だ。
 そして周りからすれば、空白でもある。
 そこには、何もない。

 砂浜に掘った穴に海水が流れ込んで溜まる様に、『彼女』が通った跡には厄が流れ込み易かったらしい。
 周りの幸運を自然とその身に溜め込み、運や福が無くなった空白に厄が流れ込む。
 だから、こんなにも沢山の心霊現象に遭遇したのだ、と。
 普段であれば小梅や芳乃が何とかしていたが、この夏に限って芳乃は東京に居なかった為、俺たちにお鉢が回って来ていたのだ。

 俺の疑問を見透かした様に、文香は話してくれた。
 本当に、この夏は文香にお世話になりっぱなしだった。
 七月の半ば辺りからその様な体験をして、一番知識がありそうな文香に相談した時からずっとこうだ。
 彼女もまた、俺と『彼女』を監視する為近くに置いておくのに丁度良かったのだろうが。

 まぁ、つまり。
 今後はもう、こんな不思議な体験を俺がする機会は無いのだろう。

 事務所前に溜まった厄は、全て芳乃が祓ってくれた。
 これでもう、事務所にデカデカと描かれた『件』の絵も必要無いのだ。
 やっと消せる、もうこれ以上専務に頭を下げなくて良いんだ。
 とても嬉しい、高垣さんと飲みに行こう。

 事務所に戻ると、小梅が迎えてくれた。
 既に体調も良くなった様で、『あの子』の残滓が何処かに残ってないか探しに行くらしい。
 志希はまた研究室(事務所内の部屋)に篭りっきりらしい。
 今度こそちゃんと除霊出来る香水を作るとかなんとか。

 皆んな、既に日常に戻っていた。

 例年通りの夏に、戻っていた。
 だから俺も、そろそろ戻ろうと思う。
 目を逸らし続けていた現実に。
 誰にも秘密にしていた(何故か文香にバレてたけど)恋人は、もういないんだという現実に。

 それと……

「プロデューサーさん、たっくさん書類溜まってますからね?」

 目の前に積まれた、沢山の白い紙という現実に。

105 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/08/19(月) 17:20:56.22 ID:4nkCagHl0


「そう言えばプロデューサーさん。こんな事、聞いて良いか分からないんですけど……」

「どうした?」

 背中をぼきぼきと鳴らしながら伸びをする俺に、美穂は質問を投げかけて来た。
 申し訳無さそうに、けれど興味は津々と言った様に。

「……茄子さんの事、好きだったんですか?」

 噎せそうになった。
 おかしいな、誰にもばれて無いと思っていたんだが。
 もしかしたら、その後の反応で察した人もいたのかもしれない。
 茄子の葬式、思いっきり俺と同じ指輪付けてただろうし。

「ええっと、その……わたし達、こないだコックリさんやったって言ったじゃないですか」

「そうだな。結局、どんな事を教えて貰おうとしたんだ?」

 美穂だけは、あの『コックリさん』がホンモノだったと言う事を知っていた。
 降霊された者が彼女達の求めた『コックリさん』なのかどうか自体は定かではないが。

「……プロデューサーさんの好きな人は誰ですかー! って……」

「学生かよ」

「学生ですっ!」

 そうだった。

 自分基準で話すものではない。
 もし俺が学生の時に『コックリさん』が流行していても、多分尋ねたのはそう言う系統のものだっただろう。

「そしたら……『た、か、ふ、じ』って……」

 あぁ、成る程。
 それは果たして、『コックリさん』がホンモノだったのか。
 それとも又は、『彼女』がイタズラして自分の名前を示したのか。

「……『たかふじ』って名前の人なら、日本にいくらでも居るだろ」

「……誤魔化すんですねー、へー……ふぅーーん……」

 どうやらお気に召さない反応だった様だ。

「……あれ? プロデューサーさん、指輪着けてませんでしたっけ?」

「外したよ。いつまでも過去に縋ってられないだろ」

 嘘である。
 正直毎晩デスクに置いた指輪を見て泣いている次第である。

「……もしかしてチャンスある……?」

 突然上機嫌になった。
 女心は秋の空より分からない。
 今は夏だが。

「……夏、今年はまだ暑いなぁ」

「熱い夏にしちゃいましょうっ! 午後ってお休みだったりしませんかっ?」

「あー悪い、旅行行ってくる」

「旅のお供に!」

「結構です」

106 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/08/19(月) 17:21:24.20 ID:4nkCagHl0


 お昼が過ぎる前、俺は再び島根に戻って来た。

 正直午前中から参加させて頂きたかったのだが、どうしても仕事で外せなかった。
 納骨自体は既に済まされているとか。
 その辺は地域や家系によって異なると言う事は、文香から聞いていた。
 そもそも家族の方は、俺と茄子の関係なんて……知ってるか、ペアリングで知られてるわ。

 本当に、数々の非礼を詫びなれければ。
 本来であれば真っ先に、挨拶に伺うべきだった。
 門前払いされたら、それは仕方ない。
 誠心誠意謝罪して、非礼を詫びさせて欲しい。

 七月七日から、七週間。

 今日は茄子の、四十九日だった。

107 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/08/19(月) 17:22:05.96 ID:4nkCagHl0


 蝉の鳴き声が煩くて、夏の日差しが眩しくて。
 纏わり付く様な暑さの中、俺はまた、此処へ来た。
 あの夜とは違って、全てはっきりと見えて。
 これからきっと、何度も訪れるだろう。
 
 大切な恋人の墓。
 俺を守ってくれた人が眠る場所。
 大切な恋人を演じてくれた『彼女』の、最期の思い出。
 俺が殺した『彼女』が消えた場所。

 周りからしたら、非常に危険なものだったかもしれないが。
 俺からしたら、『彼女』はこの夏、俺を守り続けてくれた。
 俺の大切な恋人は、死後も俺を守り続けてくれた。
 だから、もう一度。

「……ありがとう、茄子」

 名前を呼ぶ。
 大切な恋人の名前を。

「……ありがとう、茄子」

 名前を呼ぶ。
 鷹富士さんの、名前を。

 水鉢の近くには、既に指輪が置かれていた。
 あの後芳乃が、置いて行ってくれたのだろう。

 ……はてさて、困った。
 正直、壊された物だと思っていた。

 鞄の中には、もう一組のペアリングが入っていた。
 八月に入ってからもう一度、彼女にプレゼントしようと思い購入したものだ。
 これ、置く訳にはいかないよな。
 ……茄子なら許してくれそうだな、いやでも家族の方に怒られるわ。

 親御さんは、俺を受け入れてくれた。
 それどころか、優しい言葉を掛けてくれた程だ。
 あの人達を悲しませる様な事はしたくない。
 墓に異なる指輪が二つ置いてあったら間違いなく大問題だ。

 仕方がないので、住職さんに供養してもらう事にした。
 それが良いだろう。
 渡す相手がいないのであれば、持っていても仕方ないし。
 置く場所が無いのであれば、そうして貰うのが一番だ。

 そう思って、鞄に手を伸ばす。

「ん……」

 開けた箱には、指輪が一つしか入っていなかった。

「……せめて俺から渡させてくれよ」

 今回もまた、結局渡せなかった。
 自分の不甲斐なさに呆れる次第だ。
 けれど、なんとなく。
 自分から取っていく方が、彼女らしい気がした。

 ……さて、帰ろう。

 今度こそ、俺は日常に戻る。
 いつも通りの夏に戻る、奇怪な夏は終わる。
 心霊体験にも化け狸にも心霊スポットにも地方伝承にも。
 海デートにもプレゼント探しにも不審者にもネットのフラッシュにも。

 恋人にも縁の無い生活に、戻るとしよう。

108 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/08/19(月) 17:22:34.80 ID:4nkCagHl0




 ーーとした筈だった。

『はぁ……貴方と言う人は……』

「電波繋がってる? これ幻聴だったりしないか? 信じるぞ? 信じるからな?!」

 電車に乗って、空港へと向かっていた筈だった。
 途中で寝落ちして、気付けば見た事も聞いた事も無い駅に辿り着いていた。
 辺りは既に暗く、何も見えない。
 人の気配もしないし、音も聞こえない。

 焦った俺は、迷わず文香に電話した。
 繋がらなかったら不安に押しつぶされていたと思う。

『……迂闊に動かないで下さい。今、近くに見えるものは……?』

「駅名が書いてあるな……きさ……らぎ……汚くて上手く読めん」

『あぁ……成る程。芳乃さん、島根に旅行に行きたくありませんか……? いえ、先日行ったばかりと言うのは重々承知で……』


 俺がいつも通りの夏に戻れるのは、もう暫く先の事になりそうだった。




 終


109 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/08/19(月) 17:23:00.77 ID:4nkCagHl0

以上です
お付き合い、ありがとうございました
110 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2019/08/19(月) 21:23:08.76 ID:Wg17wsuA0
おつおつ
111 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2019/08/20(火) 18:32:19.09 ID:2AvWq6NJ0


去年加蓮のお話も書いてなかった?
やめてよね、毎年毎年涙腺爆発させるの…
112 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2019/08/21(水) 00:31:53.43 ID:l9eTFUx+o
久しぶりに名作にあえた
茄子…過去作も教えてほしい
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