もしもし、そこの加蓮さん。

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2 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2020/04/25(土) 19:14:22.50 ID:63FTC/uF0

御伽噺の主人公こと北条加蓮ちゃんのSSです


http://i.imgur.com/BN4lYgx.jpg
http://i.imgur.com/Red2Prh.jpg

過去作とか
神崎蘭子「大好きっ!!」 ( http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1472300122/ )
北条加蓮「正座」 ( http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1409924975 )
モバP「加蓮、ちょっと今いいか?」 ( http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1557581366 )


以前頒布した本の内容へ加筆修正を施したものです
若干の宗教的な要素を含みます
3 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/04/25(土) 19:22:28.26 ID:63FTC/uF0


 【T】パステルクリーム


クリーム色の中を行き交う、薄いブルーとピンク。
それが彼女――北条加蓮の世界でした。


少し前までは入院する度に眉をひそめていた、
つんと鼻を突くような薬品の混じり合った匂いも、
いつからかすっかりと慣れてしまいました。

同室の患者達の家族がお見舞いに来たり、看護師の巡回だったりを除けば、
病室というのはなかなか静かなもので。
加蓮はこの居場所を、彼女の家族が慮る程には嫌っていません。

いえ。むしろ、小学校の同級生の中には、
悪戯ばかり繰り返す男子や、口さが無く噂を騙り続ける女子も混じっていましたから、
気分によっては病室の方が落ち着ける日まであったくらいです。
ベッドの上でいいこにしている限りは、同室の患者達も、看護師さんも、
もちろん家族も優しくしてくれます。
4 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/04/25(土) 19:30:18.30 ID:63FTC/uF0

第一、加蓮はひとり遊びの奥深さをよく心得ていたのです。

入院の度にカードを買い直すのも大変だからと、
サイドテーブルには持ち込みを認めてもらった携帯型テレビがイヤホン付きで置いてあります。
作り付けのキャビネットの中には、ローティーン向けのファッション雑誌に、
母から譲ってもらったヘアブラシ。
お小遣いを貯めてようやく買えた、小学生が使うにしては驚くほど上等なネイル用品一式。

それから――大量の本。


今日の加蓮は爪をお手入れしたい気分のようでした。
エタノールを吸わせたガーゼでささくれや甘皮を取り除いた後、
一本ずつ丁寧にヤスリで爪を整えていきます。

何せ時間ならたっぷりと有りますから、それはもう丁寧な仕事そのものです。
再び爪を綺麗に拭き上げ、ベースコートをぺたり、ぺたり。


さて、ここからが本番です。
一つ深呼吸をして、縁取りを意識しながらカラーを。
しっかりと、しかし素早く真っ直ぐに。

右手の親指まで全て塗り終えたら、最後の仕上げのトップコート。
ちょっときらきらし過ぎかな、と加蓮自身思ったりしないでもない、薄いラメ入りのものです。

再び丁寧な仕事を繰り返して、小さなネイリストは鼻を鳴らします。
まだしばらく乾燥させなければいけませんが、ひとまずの完成を誇るように、
彼女は両手をまっすぐ前へ伸ばしました。
5 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/04/25(土) 19:40:24.85 ID:63FTC/uF0

白く小さな両手を彩る、ミントグリーンの指先。
病室を包むパステルクリームの壁紙に、十本の宝物はとても映えていて。


 「うん。よくできた」


彼女の満足気な呟きに、相槌を打つ人は居ませんでした。
6 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/04/25(土) 19:47:14.12 ID:63FTC/uF0

 ◇ ◇ ◆


 『じゃあ、自己紹介から』

 『ひゃいっ』

 『うーん緊張の塊だねぇ』


日高舞が表舞台から姿を消して、五年と少し。

いっときは冷凍庫の隅っこみたいに冷え切っていたアイドル業界も、
ようやく春の兆しが見え始めた頃でした。
長い長い冬の時代を経て、丹念な手入れを怠らなかった土から、
幾つもの輝きが芽吹こうとしていた、新緑の季節。

小さな画面の中でマイクを手に並び立つ三人の少女達は、
たぶん実際の背丈以上に小さく見えてしまいます。
繋いだイヤホンの具合を確かめ直し、加蓮は携帯テレビのボリュームをほんの少し上げました。
7 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/04/25(土) 20:33:52.61 ID:63FTC/uF0

夕食から消灯までの時間、世間一般で呼ぶ所のゴールデンタイムを、
加蓮は日課のテレビ鑑賞に充てていました。
昼下がりに流れる、どこかの国の誰かが出演する何かの映画もそれはそれで好きでしたが、
やはりこの時間の番組の方が多少なりとも華やかです。

今夜視聴するのも毎週お馴染みの音楽番組。
時たまアイドルが出演する度に、加蓮はボリュームのツマミをほんの少しだけ捻るのでした。


 『いってみましょう。曲紹介を』

 『はいっ! 聴いてください。私達のデビューシングル――』

少女達が位置に付くとスタジオの照明が絞られます。
続けて鮮やかな色彩のライトがこれでもかと浴びせられて、ポップなメロディが流れ出しました。
実に健康的な、長い手脚をいっぱいに振り回して、少女達は唄います。

加蓮はふと、陽も落ちてすっかりと暮れた窓の外を眺め、
そこに映っていたベッドの上の自分を目にし、首を振ってから小さな画面へと視線を戻しました。
8 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/04/25(土) 20:47:07.14 ID:63FTC/uF0

 『――ありがとうございましたっ!』

三人が声を揃えてお辞儀をします。
上げた額に流れる汗が鮮烈な照明に輝いて、加蓮はびくりと身体を震わせました。
司会者から振られる話に、肩で息を繰り返しながら辿々しく相槌を打つ姿が、
加蓮には何だか急に底知れぬもののように感じられたのです。


出番を終えた少女達がスタジオの中央を譲るのを見届けて、
加蓮は携帯テレビの電源をかちりと切りました。
その瞬間に賑やかな音は途絶え、ちょうど吹いていった秋風が窓ガラスをかたかたと鳴らします。

そこに映っているだろう姿を見たくなくて、加蓮は頭から布団を被りました。
ふわり膨らんだ空間から空気が抜けていって、やがて布団が心地良くのし掛かってきます。


いいな。


そう呟こうとして、実際に口は動いて、けれど言葉にはなりませんでした。
9 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/04/25(土) 20:55:55.16 ID:63FTC/uF0

 ◇ ◇ ◆


 「どうして身体、弱いのかな」


零れ落ちたような言葉に、両親は動きを止めました。
これまで問われる事の無かった、
おそらくは娘自身の優しさでずっと押し込められていた痛みに、
父も母も今、向き合わなければなりませんでした。

 「俺のせいだよ」

すぐに父がそう言って、母は何か言いたげな瞳を彼に向けるだけしか出来ませんでした。
はっとしたように加蓮は短く息を吐き、何度も首を振りました。

 「嘘だよ」


二人は、何も言えません。


 「お父さんも、お母さんも、悪くないもん。悪く、ないよ」

両親は顔を見合わせてから、少しだけ困ったように、笑いました。
10 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/04/25(土) 21:03:53.58 ID:63FTC/uF0

加蓮は今よりもずっと小さな昔から、負けず嫌いで、頑固な所がありました。
道端でごてんと転んでも痛くないと嘯いて、
涙をぼろぼろと零しながらしゃくり上げるような子供だったのです。
一度決めたら、加蓮は譲りませんでした。


負い目と、親としての立場と、尊重と、ある種の残酷さと、それから優しさと。
幾つもの感情が二人の中で混ざり合い。


母は、きっと伝えるべきではない言葉を選んでしまいました。



 「――神様の悪戯、かもしれないわね」

11 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/04/25(土) 21:11:25.20 ID:63FTC/uF0

 「…………かみさま」


テンノカミサマの言う通り。


加蓮の脳裏で、ある種の決まり文句が踊ります。
咀嚼するように加蓮がもう一度、カミサマ、と呟きました。

 「……ふぅん」

少し首を傾げてから、差し入れのフィナンシェをもふり。
満足気に顔を綻ばせる娘を見て、二人はようやく肩の力を抜きました。


ですが加蓮は、やはり負けず嫌いでした。
12 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/04/25(土) 21:22:04.98 ID:63FTC/uF0

何度目かの退院を果たすと、加蓮は足繁く図書館へと通うようになりました。
以前から読書に費やす時間は多かった彼女ですが、今回はそれに輪を掛けて。
学校のお勉強よりもよっぽど熱が入っています。


要するに、その神様って奴をやっつけてやればいいんだ。


出発点となるその発想から既に彼女らしさの塊でした。
うっすらとではありますが、孫子の兵法をも学んでいた加蓮は、
まず神様の弱点について調べてやる事にしたのです。


小学生とって、いえ、そもそも大人にとっても、
『神』の概念を理解するのは決して容易ではありません。

しかしそこは日頃より書に慣れ親しんできた彼女の事。
図書館で棚を引っ繰り返し始めたその日の内に、
神とは宗教なる概念に根ざす存在である事実を突き止めてしまいます。

尻尾を踏んづけてしまえばもう彼女のもの。
続け様に彼女は三大宗教―
―合わせて四十億人以上の信徒を数える、キリスト教、イスラーム教、ヒンドゥー教―
―の存在を知りました。
そして、それぞれの宗教には教典と呼ばれる教科書があるらしいという情報も。
13 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/04/25(土) 21:37:53.80 ID:63FTC/uF0

ここからは一筋縄ではいきません。
バイブルもコーランもヴェーダも、
原典に近付こうとすればするほど、その解釈は困難になってゆきます。

幾ら何でも原典を読み下すのは無理がありますから、
大人向けに分かりやすく抽出された解説書を読んではみたものの、
やはり小学生の加蓮に完全な理解は出来ませんでした。


それでも彼女は神様に一泡吹かせてやる為に、
塩の柱になってしまった女性の話や、
私財を擲つ行為の尊さ、
生まれ変わったとて拭いきれぬ業。
それらを一つ一つ丁寧に読み解き続けたのです。


とは言え、小学生は小学生。集中力が続く時間にも限度があります。
コラムとして紹介されていたハノイの塔のスケールに目を回すと、
インド風俗の解説書を閉じ、今度は勉強机の上に山と積んでいた文庫本をめくりました。

以前から折を見ては読み耽っていた星新一の作品群。
手に取ったのはその中でも評価の高い一冊、『ようこそ地球さん』でした。
14 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/04/25(土) 21:47:35.73 ID:63FTC/uF0

読書慣れさえしていれば幼い子供にも親しめる星新一の書を、加蓮もまた楽しんでいました。
彼の作品にはとにかく博士や泥棒や天使や悪魔や宇宙人や未来人などなどが登場するので有名ですが、
今回は神様と天使達の出番でした。

 「っふ、ふふ……」

天使などという清らかな響きとは裏腹に、
彼らは過酷な競争社会へと放り込まれてしまったようです。


せっせと魂を天へ導くため、
殺し屋を見繕ったり、
夢の中で効果の見込まれぬコマーシャルを打ったり、
はたまた住宅街を営業マンのごとく巡回したり。

おおよそ一般の天使像とはかけ離れた彼ら彼女らに、加蓮も思わず失笑を零してしまいます。


短い物語でしたから、読了までには五分と掛かりませんでした。
最後に再び登場した神様の二枚舌に鼻を鳴らし、加蓮は閉じた本を山の上に積み戻します。
学習椅子を背で軋ませつつ、踏んづけられた猫みたいな声を出しながら大きく伸びをして、
それからぱたりと机に顔を伏せました。
緩やかに横へ向けた視線の先には、宗教や民俗学の本が山と積まれていて。
15 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/04/25(土) 21:55:16.16 ID:63FTC/uF0

加蓮は聡い娘でしたから、もうとっくに分かってはいたのです。
ただの少女である加蓮に神へ挑む術など無く、弱点がどうこうの話なんかではないのだと。
生来の負けず嫌いが顔を出して、結論を先に先に延ばしていただけなのだと。

細い溜息を吐き、加蓮はようやく負けを認めました。
そして同時に、一つの結論を良く晴れた青空へと放り投げてやったのです。


神様というのは、実にイケ好かない奴だと。
16 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2020/04/25(土) 21:58:24.00 ID:63FTC/uF0
続きはまた明日の夜に
17 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/04/26(日) 21:44:40.91 ID:DTyxDqAB0

 【U】クランク・イン


夕礼を終えたその瞬間に教室内の騒音は最高潮へと達しました。
椅子を勢い良く引く音と友人を呼ぶ声と鞄を引っ掴む音が重なり合い、
無秩序な自由が教室を満たしていきます。

 「かれーん」



 「んー?」

 「カラオケ行かない? ごっちとナベさんもいっしょー」

 「んー……ん……今日はいいや。なんかノらないんでパス」

 「うぃ。あそこのハニトーおいしいのに」

 「ポテトはしなっしなだけどね」

 「やっぱそこかい……あ、もう来たごめん。いてくる」

 「いてらー。また誘って」

駆けてゆく友人の背にひらひらと手を振り、
加蓮はしばらく携帯電話をいじっていました。


室内から人の波が消え、
残るのがどこからか持って来た将棋盤を囲む三人の男子生徒だけになった頃にようやく、
加蓮はよっこらしょと腰を上げます。
18 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/04/26(日) 22:01:13.11 ID:DTyxDqAB0

 ◇ ◇ ◆


実際、加蓮は上手くやっていました。


高校に入って一ヶ月と少し。
ゴールデンウィークを終え、級友達がそれぞれのコミュニティを築きつつある中、
加蓮もまた馬の合う友を得て、ようやく人心地の付いた頃。

幸いにしてと言うべきか、クラス内に中学校の同級生―
―つまり、加蓮のこれまでについて知る者―
―は居ません。

最も、彼女はそういう学校をわざわざ選んで受験したのですが。


ひとつ、級友達に彼女の印象を尋ねたとしましょう。

多くは口を揃えて「けっこーノリの良いやつ」と答えるでしょうし、
何人かの女子は「よく体育サボってるやつ」と答えるでしょうし、
ほとんどの男子は「付き合いたい」という本音をそっと胸の内へ隠すに違いありません。

加蓮は、加蓮自らの努力によって、今の居場所を手に入れたのです。
19 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/04/26(日) 22:07:41.07 ID:DTyxDqAB0

今日の彼女は何だか薄ぼんやりとしていて、
いつもなら校門を出て十秒後には耳へ差し込んでいるイヤホンを取り出す様子もありません。
しばらく駅へ向かって歩いた所でようやくその存在を思い出すと、
鞄の中に手を突っ込んで、それから小さく溜息をつきました。

 「……よし」

こんな気分の日は映画に限ります。
以前に何かの記念で貰った割引券の期限を確かめてみれば、
ちょうど本日、この日限りでした。

これはもう観るしかないなと頷き、彼女の足取りは少しだけ軽やかさを取り戻しました。
駅へ向けていたつま先をくるり九十度曲げ、手慣れた様子で渋谷の街を抜けていきます。

薄汚れた裏通りの坂道を何度か曲がり、辿り着いたのはコンクリートの塊。
打ちっぱなしとはこの建物の為にある言葉だと称賛したくなるような、
いっそ潔いほど無骨な外観を誇るミニシアターでした。


加蓮に映画の好き嫌いはありません。
魔法ファンタジーだって、ミステリアニメだって、SFアクションだって観ます。
ただ、彼女にとって、
劇場まで足を運び鑑賞する『映画』は少しだけ違う意味合いを持っていました。

 「学生一枚。割引で」
20 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/04/26(日) 22:24:16.57 ID:DTyxDqAB0

気まぐれで足を運んだに過ぎませんが、到着したのは上映開始時刻の十五分前。
なかなか良いタイミングじゃん、と少し気分を良くした加蓮は、
カフェで買ういつものアイスコーヒーをSサイズからMサイズに代えて、
ふかふかの青い椅子にぽんと腰掛けました。
まだ映画も始まってすらいないのに、思わず上機嫌な吐息まで漏れてしまいます。


映画は加蓮お気に入りの娯楽であり、またリラクゼーションでもありました。
読書も映画も空想への没入を楽しむという点では似通っていますが、
最大の違いは能動的であるか否か。

自身の指で頁を手繰り、何かあれば栞を挟む事も可能な読書。
椅子に座ればブザーと共に問答無用で流し込まれる映画。

ある意味で一方的とも言える体験が、加蓮はときどき無性に恋しくなってしまうのです。


映画は加蓮に自由を与えてくれました。
だって上映中は、自分が主人公になる必要も、ヒロインになる必要もありませんから。
それらはスクリーンに映る役者達が肩代わりしてくれますし、
自分はただただ、傍観者であればよいのです。
21 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/04/26(日) 22:35:03.58 ID:DTyxDqAB0

まばらな客は誰も加蓮の事など見ていませんでした。
大手のシネコンであればどうしたって紛れ込んでしまう無粋な客も、
夕暮れ前のミニシアターにまでは忍び込んで来られません。
心地良い孤独がアイスコーヒーを少し美味しくしてくれます。

開始時刻の三分前になり、
ぐんと絞られた照明が北条加蓮を何処かの誰かに限り無く近付けてくれます。
三分の一くらいしか減らせなかったアイスコーヒーを肘掛けのホルダーに収めると、
彼女は入れっぱなしだった携帯電話の電源を切りました。


さぁ、今日の映画はどんなのだろう。


映画を観ようと思い立ってからこのミニシアターに到着するまで、
どんな作品が上映中なのか、彼女は調べてなどいませんでした。
チケット売り場の前に立ち、二つあるスクリーンのどちらにしようか十数秒だけ逡巡して。
それで何となく選んだ方に、今こうして座っているという訳です。

映画好きが聞いたら呆れ返ってしまうような選び方かもしれません。
でもこれは、あくまで彼女のリラクゼーションですから。


注意喚起の映像が途切れ、絞られていた照明も完全に落ちました。
加蓮は背筋を少しだけ正して、流れ始めたフィルムに意識を傾け始めます。

今日の映画はどうやらサスペンスの様子。
悪くない、と心の中でだけ呟いて、
加蓮はゆっくりと暗闇に意識を溶かし込んでゆきました。
22 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/04/26(日) 22:46:20.28 ID:DTyxDqAB0

 ◇ ◇ ◆

もう百二十分も経ったのか。

思わず腕時計を確認してしまいそうなくらい良質な、息詰まるサスペンスでした。
エンドロールの一行目が浮き上がってきて、加蓮は知らず肩に入っていた力を抜きました。
そしていつものように目を閉じ、密やかな物音や会話に耳を澄ませます。


映画を観る人は二種類に分けられます。
即ち、エンドロールを見届けるか、否か。

彼女は後者でした。
いえ、目は閉じていますから、見届けてはいないのかもしれませんが、ともかく。

エンドロールの流れるこの時間は加蓮のお気に入りでした。
日常に帰るまでのほんの刹那。
名も顔も知れぬ同好の士に語らずとも別れを告げ、
ゆっくりと北条加蓮を取り戻していく時間が。

薄く目を開けるとエグゼクティブプロデューサーの文字が踊っていて、
どうやらあと数十秒で幕切れのようです。
23 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/04/26(日) 22:57:53.07 ID:DTyxDqAB0


 「……分からん」


加蓮の椅子から右へ二、三席ほど離れているでしょうか。
若い男性の声が呻くように零れ落ち、加蓮の耳朶を微かに震わせました。

 「あら、何が?」

 「最後。主人公の友達、何で泣いてたんだ? 泣く場面じゃないだろ」

 「居眠りしてた?」

 「いや」

 「中盤でシャワールーム、入ってたでしょ」

 「入ってたけど……あ、あれか。ひょっとして――」

続けてもう一人、若い女性の呟きが重なるように漏れ聞こえてきます。
少し芝居掛かった匂いのする、けれどもひどく耳触りの良い声音でした。
何とは無しに視線を向けた瞬間、橙色の照明が再び灯されて。


男性の肩越しに、少女と目が合いました。
24 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/04/26(日) 23:07:06.40 ID:DTyxDqAB0

余裕を湛えつつも確かな意思の宿る瞳に、
決して明るくはない照明を妖しく照らし返す唇。
ブレザーさえ着ていなければ舞台女優だと名乗っても通用してしまいそうな、
実に線の整った顔立ちです。

数秒、そのまま視線をぶつけ合い、
金の瞳が瞬いた途端、加蓮は立ち上がってしまいました。


 「……ねぇ、プロデューサーさん――」


椅子の下から掴み出した通学鞄を肩に掛ける余裕すら無いまま、出口へ向けて踵を返します。
ばくん、ばくんと胸がうるさくて堪らなくて、
運動なんてしていない筈なのに、気付けば息は上がっていて。


まだ中身の残っていたアイスコーヒーをゴミ箱の中へ叩き付けてミニシアターを飛び出すと、
ちょうど街灯たちも目覚め始めるところでした。
熱を持った脚はまだ止まる気配も無く、そのまま一ブロック、二ブロック。
風俗街を抜け出してようやく、加蓮はその場にへたり込みました。
25 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/04/26(日) 23:23:44.57 ID:DTyxDqAB0

 「は、ぁっ……はぁ、っ……」

頭が冷えてきたところで、
なぜ自分が逃げ出してしまったのか、加蓮には分かりませんでした。

気まずかったから?
眩し過ぎたから?
急過ぎたから?
みじめになったから?

それらしい理由を頭の中に思い浮かぶまま並べ立ててみれば、
案外どれも正しいような気がしてきてしまいます。


――主人公みたいだったから?


ふと浮かんだ一言に、これまでの仮説は音も無く崩れ去っていきました。


あぁ、そうだ。彼女はきっと、主人公だったのだ。
26 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/04/26(日) 23:32:55.11 ID:DTyxDqAB0

何の根拠も無い決め付けに、
加蓮は自分でもびっくりしてしまうほど自然に、納得してしまうのでした。


彼女は主人公で、アタシはただの北条加蓮だから。
彼女の物語に、アタシが紛れ込んでもいい道理なんて無いんだ。


自分勝手なシナリオが、次々と積み上がってゆきます。

 「……帰ろ」

ようやく整ってきた息を確かめる、
ブロック塀を擦るようにして、加蓮はゆっくりと立ち上がりました。
微かに震えていた膝をぺちんと叩くと、
ちょうど傍を通りかかったビジネスマンが怪訝そうな視線を向けてきて、はっと目を逸らします。

肩の鞄を背負い直し、しばらく切っていた携帯電話の電源をオンにします。
友人から楽しげなカラオケ大会の写真が送られてきていました。


何か返信をしようと構えた指がそのまま固まってしまって、
加蓮は携帯電話をポケットにしまい込むのでした。
27 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/04/26(日) 23:50:42.92 ID:DTyxDqAB0

 ◇ ◇ ◆


ポテト全サイズ百五十円。


終業の挨拶とほぼ同時に携帯電話の画面上にポップアップしたその広告は、
稲妻と化して加蓮の脳天へ勢い良く突き刺さりました。

奇しくも帰りにポテろうかなとぼんやり考えていた矢先の出来事です。
もはや加蓮の歩みを止める事など誰にも叶いません。
友人からの言葉に自分でも何だかよく分かっていない生返事を投げ返しつつ、
机の中身を物凄く無造作に鞄へ放り込んでいきます。


加蓮はアイスとポテトと甘いココアを愛する女の子でした。
健康に悪い物ほど美味しい。彼女はそう信じて止みません。
女の子として最低限のラインを―
―この場合はもっぱらウェストラインを指しますが―
―守りつつも、楽しむ時はとことん楽しんでやろうと、
そう割り切れる女の子だったのです、彼女は。

もちろん、彼女は高校生になったばかりですから、
お小遣いにはどうしたって限りがあります。

ただ、最近は映画の方も何となくご無沙汰でしたし、
財布は夏の陽射しへ張り合うかのように熱を溜め込んでいます。


ポケットの中の小さなエンジンに釣られるかの如く。
上機嫌な加蓮の足取りは、
愚直なほどまっすぐにハンバーガーチェーン店へと吸い込まれてゆくのでした。
28 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/04/26(日) 23:57:14.38 ID:DTyxDqAB0

 「いらっしゃいませー」

 「ポテトのL……と……コーラのS一つ、で」

 「かしこまりました」

一瞬。
ほんの一瞬だけ、Lサイズを二つ頼んじゃおうかなと、些細な冒険心がぷくりと膨らみました。
もちろん、お母さんには「夕ごはん少なめでお願い」と事前のメールを送ってはあります。
心置き無くポテトを堪能するための一工夫です。

しかし、Lサイズ二つは加蓮にとっても未踏の領域。
探検隊に他のメンバーも名を連ねているならばともかくとして、
隊長ただ一人の現状では蛮勇でしかありません。


 「お待たせしましたー」

先ほど聞こえてきた電子音で期待はしていました。
予想は見事に的中し、ポテトは揚げたてホヤホヤのサックサクのようです。
これには加蓮もホクホクの表情を知らず浮かべてしまいます。


トレイを持ち上げて二階席へ上がろうとすると、
ビジネスマンらしきスーツ姿の男性が勢い良く店内に転がり込んで来ました。
29 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/04/27(月) 00:09:34.35 ID:Hmn4qVbR0

 「……い、いらっしゃいませー」

 「あ……え、っと……ポテト?」

 「サイズはどうされますか? 今なら全サイズ百五十円となっておりますが」

 「……あー……じゃあ、Lを二つ。あと……コーラの――」


肩で息を繰り返し、少し首を傾げながらながらそう注文する男性を横目に、
加蓮は結構な急階段を慎重に昇っていきます。


夕飯前の時間帯だというのに駅前のこの店は賑わっていて、
ほとんど満席状態でした。

ケチャップにも似た赤いネイル。
その指先で四本目の、カリカリに揚がった細長いポテトを口へ押し込みながら、
加蓮は窓際のカウンター席から通りをぼんやりと見下ろします。

特に数の多い制服姿とスーツ姿は春服と夏服がちょうど半々くらいで、
なるほどもうすぐ夏がやって来るのかと、
自宅のクローゼットのどこへ夏服を押し込んでおいたかを思い出そうとして。


 「あの、すみません。アイドルになりませんか」
30 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/04/27(月) 00:17:38.06 ID:Hmn4qVbR0

先程までは空席だった筈の椅子。
いつの間にか先ほどの男がそこへ座っていた事実に、加蓮はようやっと気が付きました。
それから聴覚情報の処理が始まって、ぎゅうっと胸が痛くなりました。

 「……あの、何ですか?」

 「アイドルになりませんか、と」

 「いえ、そうじゃなくて」

 「あ、はい」

 「…………何ですか?」

一息に紡げたのはそこまででした。
これ以上は声が震えてしまいそうで。
既に震えていたケチャップ色の指先を隠すように、コーラのカップを握りました。


有り得ない。
こんな夢物語みたいな。
御伽噺じゃあるまいし。


身体が真っ二つに分かれてしまったみたいでした。
熱に浮かされたかのように何事かを喚き立てる加蓮と、
膝を抱えながらそんな彼女へ冷めた視線を送るだけの加蓮と。
自分が一体何処に居るのか分からなくなり、彼女は黙り込んでしまいました。
31 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/04/27(月) 00:23:14.39 ID:Hmn4qVbR0

 「アイドルを探しているんです……あ、弊社だとシンデレラって呼んだりもするんですが」


御伽噺じゃ、あるまいし。


 「そういうの、こんな所でやる? 怪しいよ、すごく」

 「重々承知の上です。でも、ようやく見つけたんです」

ジャケットの内ポケットから銀のケースを取り出すと、
男性は一枚の名刺をカウンターの上に差し出しました。

 「一ヶ月、渋谷を捜し続けました」

 「顔の良い女の子を?」

 「映画好きの貴女を」

コーラのカップを握っていると、だんだんコーヒーの苦味が口の中に蘇ってくるようでした。
最近は何となく近寄ってすらいなかったミニシアター。
その発端となったあの日の苦味ごと、加蓮はお腹の中にコーラを流し込みました。
32 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/04/27(月) 00:33:08.43 ID:Hmn4qVbR0

 「……なんで知ってんの」

 「速水さんから聞いたんです」

 「ハヤミ?」

 「あぁ、ウチのアイドルです」

 「知らない」

 「映画館で顔を合わせたと聞きましたが」

そこまで聞いてようやく合点がいきました。
認識にはだいぶ齟齬があるようですが、
加蓮の脳裏にも恐らくは同じ顔が浮かび上がってきています。

 「背格好と、スカートの柄と、
  そのネイルくらいしか手がかりもありませんでしたから。今朝までほとんど諦めかけていまして」

 「……それだけで見つかる訳、無いでしょ」

 「でも、見つけましたよ」

何故か少し得意気な男へ多大な訝しみを籠めた視線を送りつつも、
実のところ、加蓮の内心は驚きに満ちていました。
33 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/04/27(月) 00:38:31.33 ID:Hmn4qVbR0

百万の人々が行き交う街、渋谷。
その中で女の子一人を見つけ出すというのはほとんど確率論の話になってしまいます。
たった一ヶ月やそこらで何とかなる類の話ではありません。

ですが男は、加蓮を見つけ出してみせました。

 「……ふぅん」


加蓮は運命とかいう言葉が大嫌いでした。
それ自体が何だか掌の上で踊らされているようで、とにかくイヤだったのです。

確率、確率論だと、加蓮は心の中で大量の賽をぶち撒けてやりました。

 「それで?」

 「え?」

 「アンタがアタシをアイドルにしてくれるの?」

忙しなく流れ続ける渋谷の街を眺めながら、ほとんど無くなりかけのコーラを啜ります。
賑やかなお店の中で、彼女の隣だけがぽっかりと空いたように静かでした。
ガラスに映る彼の表情は、街の眩しさに紛れてよく見えませんでした。
34 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/04/27(月) 00:45:29.29 ID:Hmn4qVbR0

 「もちろん」

 「でもアタシ、特訓とか練習とか、下積みとか努力とか気合とか根性とか、
  なんかそーゆーキャラじゃないんだよね。体力無いし。それでもいい?」

言い終わってから、少し一気に喋り過ぎたかもしれないと軽い後悔が襲ってきます。
そのまま十秒経ち、二十秒経って、加蓮は耐え切れずに視線だけを彼へと向けました。

彼は、目を丸くしていました。

 「…………何?」

 「あ、その……えっと」

少しだけ言い淀むようにしてから。


 「イヤだとは、言わないんですね」


何の含みも無く返された呟きに、加蓮の頬は燃え上がるように熱くなりました。
辛うじて怜悧さを保っていた筈の思考は粉々に砕けて、
叫び出さなかったのがほとんど奇跡のような火照り具合でした。
35 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/04/27(月) 00:50:42.19 ID:Hmn4qVbR0

イヤなんかじゃありません。イヤな筈などありません。

時には消灯後に被った布団の中で画面越しに眺める事さえあった、アイドル。
なってみないかと問われた所で、首を横に振れる訳がありませんでした。

ただ、余りに突然過ぎたものですから、
果たしてどうしたらよいものか、決めあぐねているだけなのです。

 「……悪い?」

 「悪くなんかありませんよ」

絞り出すような一言に、彼は屈託無く笑ってみせました。

 「でも」


 「でも?」

 「キャラじゃなくっても、体力が無くても。特訓も練習も、
  下積みも努力も気合も根性も、全部ぜんぶ、こなしてもらいます」

今度は正面から視線をぶつけ合いました。
厨房の奥からポテトの揚がったタイミングを知らせる電子音が何度か響きます。


 「北条加蓮」


カウンターに置かれっぱなしだった名刺を指先で掬い上げました。


 「忘れられないアイドルになるよ」
36 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/04/27(月) 00:55:07.48 ID:Hmn4qVbR0

無料の営業スマイルを浮かべていた彼が、にやりと笑みを浮かべ直しました。

 「よろしく。俺は……ま、その名刺の通りだよ」

 「プロデューサー……って、何?」

 「だいたい全部やる人」

 「嘘だー」

 「いやマジで全部やらされるんだよこの業界。おかしいよ」

 「いや知らないよ」

呆れたような笑みを浮かべ、加蓮は紙かごの中を指先で探ります。
ポテトは全部すっかり冷めて、しなしなになっていました。

 「……」

 「あれ、冷めてる。でもこれはこれで旨いよな」
37 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/04/27(月) 00:59:09.35 ID:Hmn4qVbR0

気にした様子も無く一かご目を空にした彼を見て、
加蓮は自身の分をそっと彼のトレイに載せました。

 「食べないのか?」

 「もういい」

 「じゃあ貰うけど」

 「隊員ゲット」



 「タイ……何?」

 「なーんにも」

38 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2020/04/27(月) 07:14:20.19 ID:PatGvfWco
久しぶりか
39 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2020/04/28(火) 21:22:22.66 ID:kH44I3Ym0
うん って書こうとしたら割と最近投下してたのに気づいた

藤原肇もデートはしたい
http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1580022794/
40 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/04/28(火) 21:23:17.19 ID:kH44I3Ym0

【V】イグニッション


 「しんだ」

 「生きてるってば」

 「へもぁ」

 「人間の言葉で話しなって」


各種レッスンを開始してから三ヶ月。
当初はトレーナー達も思わず天を仰いだ有様から随分と成長を遂げ、
ダンスレッスン後には物言わぬ液体生物と化していた加蓮は、
今や立派に言語らしき声を呻き出せるまでになっていました。


鏡張りの壁を利用し、ずり、ずりと、
若干ホラーテイストを漂わせながら上半身を壁へとくっつける事に成功した所で、
そっとボトルが差し出されます。

 「あはは。でも、最初の頃に比べたら見違えるみたいです」

 「んくっ……んむっ……っは、生き返るぅ……」

 「加蓮の場合、なんか冗談に聞こえないんだよねー……」

卯月は汗を拭いながら、美嘉は涼し気な顔で、それぞれ笑ってみせます。
少し滲んだ視界に映る二人へ、まだだ、と加蓮は胸中で呟きました。
41 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/04/28(火) 21:59:41.67 ID:kH44I3Ym0

アイドル、即ち偶像とは、究極的には『個』。
過日行われた総選挙に代表されるように、この事務所はアイドル同士の激しい競争を是としています。

しかし、ソロレッスンばかり繰り返していては事務所全体としての水準が上がる筈もありません。
他アイドルの強みを自らの武器として身につけさせるため、
基本的なレッスンはグループ単位で行われる事となっています。

事務所創設時からのメンバーである島村卯月。
モデル出身という持ち味を活かす城ヶ崎美嘉。
そして期待の新入り液体生物である北条加蓮。

年の頃も近いこの三人は、こうしてレッスンを共にする機会も多くありました。


驚くべき事に、加蓮はある程度のレッスンを重ねていた二人へ負けじと喰らいついていました。
お陰で一コマ終わる頃には見事に床へとへばりついている加蓮ですが、
そんな彼女を突っつき回しながら無駄話に花を咲かせるのも、
いつの間にやら恒例行事と化して久しくなります。

 「二人はさー」

 「んー?」

 「どしてアイドルになったの?」

ストレッチなのか単にゴロゴロしているだけなのか判断に困る体勢の加蓮に問われ、
卯月と美嘉は顔を見合わせました。
42 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/04/28(火) 22:12:17.69 ID:kH44I3Ym0

 「んーと、私の場合は……昔から、唄ったり、
  踊ったりするのが好きで。それを続けてる内に、ココへ来ちゃいました」

 「おー」

 「アタシは、何だろ……
  元々ちょっと興味あったんだけど、情熱的に口説かれちゃって、みたいな?」

何それ、と加蓮は言いかけ、直前で口を縫い合わせました。
うっすらと藪が見えたのです。
唐突に口を真一文字にした加蓮へ、二人が視線を向けました。


さてどう答えたものだろうと考え込んでしまいます。
昔から唄い踊ったりしていた訳でも無ければ、
情熱的に口説かれてもいないような気がします。

ころ、ころと二回転がって、
シェイクされた頭がぴったりの言葉を選び出してくれました。


 「お腹ペコペコだった所にぼた餅が落ちてきたんで、パクッといったの」

 「何それ」


言われました。
43 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/04/28(火) 22:25:04.53 ID:kH44I3Ym0

ちょっと悔しいな、と美嘉の脚を揉むフリをしながらくすぐっていると、
待っていた迎えがようやく到着したようです。

 「お疲れ様です、皆さん。帰るよ加蓮」

 「あ、棚だ」

 「棚……?」

卯月が吹き出しました。

口元を抑えながらぷるぷると震える彼女と、
明後日の方を向きながら口笛を奏でる加蓮と、
やめてやめ加蓮やめ、とのたうち回る美嘉を、彼は首を傾げながら見比べるのでした。
44 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/04/28(火) 23:20:55.79 ID:kH44I3Ym0

 ◇ ◇ ◆

特にダンスレッスンを終えた直後など、
加蓮はその辺りの浜に打ち上げられたクラゲと大差ありません。
自宅へ辿り着くどころか事務所へ顔を出す事すら到底叶わぬ夢でしょう。

ですから、どんどん床と同化してゆく加蓮を剥がして車の後部座席へ放り込むのは、
プロデューサーの大変重要な役目でした。
自立しない人間ひとりを運ぶのは途轍も無い重労働ですが、
どうして彼女がこうなってしまうのかをきちんと理解している以上、彼も文句は零しません。

 「お疲れ」

 「ひぇゆー」

 「人間の言葉で喋ってくれると助かる」

 「はいはい」

 「そのワガママ言う俺に付き合ってやるよ感も要らない」

 「はーい」

後部座席でだらりと横になりながら、加蓮は緩く右手を振りました。
本日の予定は全て消化済みだったので、彼女の自宅まで束の間のお気楽ドライブが始まります。
45 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/04/28(火) 23:38:07.14 ID:kH44I3Ym0

 「頑張ってるな、加蓮」

 「でしょ? もっと褒めてもいいんだよ」

 「えらいえらい」

 「えらいは一回」

 「はーい」

二人が黙り込みました。
プロデューサーが今のはちょっと気持ち悪かったなと呟くまで十秒。
加蓮がうん、ちょっとアレだったねと同意するまでもう十秒を要しました。

 「アニバーサリーライブまで一ヶ月切ったしね。初陣に泥を塗りたくはないし」

 「……前から思ってたんだけどさ、加蓮」

 「ん?」

 「言葉選びが微妙に古くさいような」

 「シツレイな」
46 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/04/28(火) 23:54:16.58 ID:kH44I3Ym0

加蓮の言葉通り、三週間後まで迫ったアニバーサリーライブ。
昨年十一月末の開設から一周年を祝した、事務所総力戦の様相を呈しつつある一大企画です。

過去最大となる一万人規模のホールを抑え、
現在事務所に所属している百名近くのアイドルが―
―もちろん、加蓮を含め―
―全員参加する予定であり、コケれば事務所はめでたく瓦解するでしょう。


アイドルとして、ライブに参加する。


御伽噺の夢物語が、今は携帯電話のスケジュール帳に刻まれています。
初ライブがこれ程の規模となるアイドルもあまり居ませんが、
加蓮は臆してなどいませんでした。

むしろ、もう少し早くスカウトされていればソロ曲のお披露目だって叶ったかもしれないのにと、
捕れなかった狸の皮算用までしている始末です。
それに、加蓮にはもう一つ、ライブで果たしたい目的がありました。

 「ところでさ」
47 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/04/29(水) 00:15:32.19 ID:SPkljqcV0

 「ん?」

 「未だに会えないんだけど、速水さん。避けられてる?」

 「たまたまだと思うけど。アポ取ってみようか?」

 「別に、そこまではいいけどさ」

 「気になるの?」

 「ま、ね。色々と話してみたい事もあるし」


辿り着く先も知れぬ階段、その一歩目を踏み出させた主犯格。

加蓮の中で速水奏はそんな立ち位置に収まっていました。
あの日交わした視線の意味を、加蓮は未だ飲み込めずにいます。

 「そのうち捕まえる」

 「そうか」


考えるべき事は山積していました。
ライブに、中間考査に、ご贔屓メーカーの新作コスメ。

疲労の詰まった頭の隅へと追いやられていたそれらを引っ張り出しながら、
彼女は心地良い揺れに身を委ねるのでした。
48 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/04/29(水) 00:39:49.10 ID:SPkljqcV0

 ◇ ◇ ◆


 「……よし」

残心を切り上げ、スポーツウェアの裾で汗を拭うと、
三脚に据え付けたビデオカメラを操作する父の所へと戻ります。

既に陽も暮れ、街灯だけが頼りとなる公園でしたが、
父は今の時代に珍しいホームビデオ愛好家でしたから、
高精度のセンサーを積んだフラッグシップモデルは、
暗夜の闇の中でも愛娘の姿をバッチリと捉えていました。

 「ご希望通り、脇から角度を付けて撮ってあるよ」

 「ありがと。へぇ……けっこう印象違うなー」


レッスンも無く面倒な宿題も課されていない夜、
加蓮は自宅から三分ほど歩いた所にある公園で自主レッスンを重ねています。
こっそり家を抜け出そうとしたその初日にあっさりと露見し咎められてから、
父はこうして毎回ビデオカメラを携えて同行してくれるようになりました。
49 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/04/29(水) 00:50:51.05 ID:SPkljqcV0

拍子抜けする程すぐにアイドル活動を認めてくれた両親の事ですので、
初めから頼めば全面的にバックアップしてくれた事でしょう。
ただ、父もお仕事で疲れているでしょうから、
そんな時に更に負担を掛けるような真似は気が引けて。


なんて理屈はもちろん建前でした。
加蓮もやはり年頃の女の子ですから、幾ら良好な関係を築いているとはいえども、
親に隠れてやりたい事の一つや九つはありますし、
何より秘密の特訓という古式ゆかしい響きに、加蓮はずっとずっと憧れを懐き続けてきたのです。

もっとも、一人娘の親心がそれを許してくれる筈もありませんでしたが。

 「もう一回通す?」

 「んー……」

地べたに座って腿の外側広筋を伸ばしながら、加蓮は考えを巡らせました。

 「お父さんはさ」

 「うん?」

 「どうしてアイドル、やらせてくれるの?」
50 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/04/29(水) 01:05:07.97 ID:SPkljqcV0

今度は父が思案する番でした。
彼方を見つめながら口元に手をやる癖は、妻が身籠ったのを機に煙を断ってからも、
どうやら染み付いて剥がれないようです。

 「父親としては、本音を言うならやらせたくないよ」

 「だろうね」

 「ただ、親としての気持ちが勝った」

 「親の……?」

 「なぁ、加蓮。加蓮は、何かを調べ回って……いや。何かをずっと、探し続けてただろう」


あまりにびっくりしたものですから、
加蓮は筋肉を伸ばし過ぎてしまって、慌てて逆方向に力を逃しました。


親というのは実に不思議なもので、
本人すら知らないような答えを、いつの間にか懐にしまい込んでいたりするのです。

加蓮が見つめる前で、
かつてはキャスターを放り込んでいた胸ポケットから短い言葉を取り出して、
弄ぶように掌を揉み合わせました。

 「見つかるといいなって、思っただけさ」
51 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/04/29(水) 01:24:58.85 ID:SPkljqcV0

自分の全てを暴かれてしまったようで、加蓮の頭に血が昇ってきます。
訳も分からないまま込み上がってきた言葉をぶつけようとして、
声帯が震える直前でどうにか唇を引き結びました。

秋の夜風が汗に湿った肌を撫でていきます。
赤熱していた感情が冷水へ突っ込まれたみたいにすうっと冷えて、
それから父と視線をぶつけ合いました。

恐らくはこの夜が、娘ではなく、北条加蓮として父と向き合った初めての瞬間でした。


 「ライブ、来てよ」

 「ああ。もう有給取ったよ。当日と翌日で二日分」

 「はしゃぎ倒す気満々じゃん」

 「だって文字通りの晴れ舞台だし」


親というのは実に不思議なもので、時として本人以上に胸を弾ませたりもするのです。
張り切った様子でカメラをセットし直す父に、愛娘は小さく苦笑を零すしかありませんでした。
52 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/04/29(水) 01:51:37.98 ID:SPkljqcV0

 ◇ ◇ ◆


 「久しぶり」

 「……あら」


一夜城でした。

ステージ上に組まれたお城のセットも、
今は電源の繋がれていない大型モニターも、
ただ開演の刻を待ちながら眠りこけているかのようです。

ホールのそこかしこでは音響や照明担当のスタッフが忙しなく行き交っていて、
それが舞踏会の開幕を告げるカウントダウンのように感じられて。
きっとこうした業界に興味の無い誰かが紛れ込んだとしても、少しは心を踊らせるに違いありません。

メインステージの一段下、フロア席の最前列に当たる一角で、
加蓮は探し求めていた背中にようやく追いつきました。


 「逢いたかった。恋い焦がれてたわ」

 「ほんとにー?」

 「ええ。嘘は苦手なの」
53 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/04/29(水) 02:09:50.63 ID:SPkljqcV0

奏の悪戯っぽく崩した表情へ、加蓮は確かにアイドルを感じ取りました。
相も変わらず、薄暗闇の中でも舞台女優のように映える綺麗な顔が、
寝息を立てるお城を優しく見守っています。

 「加蓮、って呼んでも?」

 「かの字同士ご自由に、奏」



 「……?」

 「ん? 何?」

 「加蓮。あなた、変な娘ね」

 「えー……?」

二人が見守る前で次々とステージ照明が灯ってゆきます。
スタッフの掛け声に合わせて端から端まで順にチェックを終えると、
今度はスポットライトのテストが始まりました。
奏が視線を振り、形の良い唇をきゅっと曲げます。
54 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/04/29(水) 02:38:51.98 ID:SPkljqcV0

 「それで、何か私に言いたい事があるんじゃないかしら」

 「それそれ」

ぽん、と音を立てるように、加蓮がわざとらしく拳で掌を叩きます。

 「色々考えてきたんだよね。
  自己紹介とか、いちおー感謝とか、好きな映画ジャンル談義とか、アドレス教えてとか」

 「盛り沢山ね」

 「でも、多分さ、必ずしもそういうのは必要じゃないって思うんだ。アタシ達って」

小首を傾げて続きを促す彼女の所作。
ただそれだけでイヤになるほど決まっていて、けれど加蓮は臆しませんでした。
真っ直ぐに、奏の胸を指差します。


 「ライブで語るから」


余裕を湛えていた奏の眉が、半月を描くように丸みを帯びました。
55 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/04/29(水) 02:52:44.46 ID:SPkljqcV0

 「……どう? どうっ? 今のアタシ、すっごい格好良くなかった?」

不敵な笑みは見る間に得意気なそれへとすり替わっていました。
はしゃぐ加蓮を目の当たりにして小さく口を開けると、
奏は微笑みながら自身へと差し出された右手を取りました。


キスを一つ。


伸ばされた人差し指をフルートみたいに啄まれて、
加蓮は一瞬何が起こったのか把握しきれませんでした。
ようやく脳が事態を処理し終える頃にはもう、奏は踵を返していて。


 「――ええ。惚れちゃいそうなくらい」
56 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/04/29(水) 02:56:36.13 ID:SPkljqcV0

それだけ呟くと、彼女は何処かへと姿を消しました。
一方の加蓮はそのままの姿勢で十秒たっぷり固まって、
それからおそるおそる伸ばした指を確かめます。

まだ温度の残っているような気がしてならないそこには、メイクさんによるものではない、
恐らくは自前のルージュが薄く爪痕を刻み付けているのでした。

 「……変な娘」

加蓮が呟きました。


残念ながら、この事務所は変な娘たちが大半を占めていました。
57 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/04/29(水) 10:56:37.69 ID:SPkljqcV0

 ◇ ◇ ◆

これまで開催されてきたライブの一曲目は、
例外無く出演者全員参加の『お願い! シンデレラ』でした。

今回もその慣例に倣う事にはなりましたが、
今宵開催されるのは盛大な、盛大な舞踏会。
出演者全員を一度に踊らせるのは物理的限界により不可能です。


途中入れ替えを行うA案と、選抜メンバーに託すB案。

二つの案が検討された結果、B案が採用されたのは加蓮にとって僥倖でした。
センターである愛梨の脇を加蓮などライブ初出演組が固め、
両端の中堅アイドルが全体をサポート。
初陣にしては破格の待遇と言えるでしょう。


人数が人数ですから、加蓮がソロで唄えるのはただの一節だけ。
それでもソロパートを唄える事の意味を彼女は正しく理解していました。
僅か三秒足らずのアピールポイントを確保する為に、
プロデューサーが手を尽くしてくれただろう事も。
58 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/04/29(水) 12:00:41.76 ID:SPkljqcV0

 「五分前です。皆さん、衣装のチェックはしっかりと」

 『はいっ!』

 「良いお返事です。担当さん方、後は任せますよ」


ステージ袖に通じるドア。
その前の通路に集った選抜メンバー達が、それぞれの担当プロデューサーと最終チェックを行います。

今回のアニバーサリーライブの為に用意された新たな衣装、”スターリースカイ・ブライト”。
新たなる舞台へ立つ少女達を祝福するように輝くドレスです。


加蓮が前に立つと、彼は指先で宙をくるりと二度、かき回しました。
衣装を纏った加蓮がゆっくりと左右にターンを繰り返し、彼は小さく頷きました。

 「なんか上手い事言おうと思ったが、思い付かなかった」



 「それいま言う?」

 「ギリギリまで粘ったんだぞ」

力の入れ所を完全に間違えてるような気がして、加蓮は小さく鼻を鳴らしました。
59 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/04/29(水) 12:08:06.59 ID:SPkljqcV0

 「ともかく」

 「はいはい」

 「一段目だ。転んだって膝を擦り剥くぐらいで済む」

 「二分前です。舞踏会、楽しんできてくださいね」

ちひろが丁寧にドアを開きました。


 「駆け上がれ」


真っ直ぐに突き出された握り拳を、加蓮はじっと見つめます。
順にドアへ吸い込まれていくみんなを横目で見送ると、加蓮は突き出された拳にパーを返して。


呆気に取られる彼へ軽く手を振りながら、加蓮はドアの向こうへ踏み出しました。
60 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2020/04/29(水) 14:34:10.82 ID:SPkljqcV0

 ◇ ◇ ◆


暗い。


ドア一枚を隔てると、
あれだけ明るかった通路の照明が嘘のように沈んだ空間が待ち構えていました。
僅かに使われている照明も、辛うじて足元や手元を照らすためのものだけです。

次いで、空調でも吹き飛ばせない熱気が肌を撫で、
暑くて堪らない筈なのに、加蓮は身体を震わせてしまいます。


 「楽しみましょう」

誰かが呟くと同時、かちり、と時計の音が聞こえました。
十回続き、二十回続き、三十回目が刻まれた瞬間、メロディが流れ始めます。


何百回と聴いた旋律を、また身体へと馴染ませるように。


ヘッドセットの位置を確かめて、長く長く息を吸いました。
61 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/04/29(水) 14:44:55.30 ID:SPkljqcV0


 『――お願い! シンデレラ』

 『夢は夢で終われない』

 『動き始めてる――』



 『――輝く日の為に!』

62 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2020/04/29(水) 14:48:45.16 ID:SPkljqcV0


 『お願い!シンデレラ』
 http://www.youtube.com/watch?v=gMYXKtE9Kwg
63 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/04/29(水) 14:50:01.26 ID:SPkljqcV0

踏み出した脚があんまりにも軽過ぎたものですから、
加蓮は思わず笑い出してしまいました。

お腹の奥から声を響かせ、
袖から飛び出した勢いのままに手を振り。


そして、一面に広がる三色の海を目の当たりにしたのです。


加蓮は一度も海を泳いだ経験がありませんでした。
安全なプールでぱちゃぱちゃと戯れるのが関の山で、
時たま連れて行ってもらう旅行先で目にする大海原にも、
何だか人の手には余るような途方も無さを感じてしまって、
泳いでみたいという衝動が湧いてきません。


でも、初めて目にする輝きの海には、いっそ溺れてしまいたいとさえ思いました。
64 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/04/29(水) 15:57:45.32 ID:SPkljqcV0

 『エヴリデイ、どんなときもキュートハート、持ってたい』


手も脚もしっかり伸びています。
表情は自然に笑みが浮かんでしまいます。
振り付けだって練習通りのバッチリ満点です。

でも加蓮は、自分がいま何をしているのか、よく分かりませんでした。
みんなが一節ずつ唄い上げる度、胸の鼓動が一段と早鐘を打って。


 『お願い! シンデレラ――』


あぁ。
わざわざ鐘を打つなんて、シンデレラらしくもない。


胸の内の呟きへ、加蓮はその上から手を当てました。


 「――夢は夢で終われない!」
65 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/04/29(水) 16:12:37.59 ID:SPkljqcV0

 ◇ ◇ ◆

愛梨のMCが一段落すると、トップバッターを務める茜を残し、
他のメンバーはステージの左右へとハケてゆきます。
お姫様のようにみんなお揃いで裾をつまむと、客席から小さく笑いが漏れました。

短い階段を降り、全員が客席から見えなくなると、みんなは手を叩き合いました。
決して大きな音が鳴らないように。

 「フフン! 滑り出しはまずまず順調といったところでしょう!」

 「やー、ソロ歌詞飛びそうやったわ。一言だけなのにねぇ?」

 「あっはは★ 大成功だし結果オーライ、オーライっ!
  あ、加蓮も初ステージおつ……加蓮?」


階段を降りてからも彼女の浮ついた足取りは止まりません。

荒い息のままとことこと歩き続けて、
いつの間にか目の前に迫っていたドアを押し開け、眩い廊下の照明に目を細め、
手元のクリップボードに何かを書き付けていたプロデューサーを確認すると、
壁に背を投げ、ずるずるとその場にへたり込みました。
66 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/04/29(水) 16:36:21.07 ID:SPkljqcV0

 「すいません、インカム調子悪かったみたいで。
  何かありましたかね? あぁ、了解です。もう大丈夫です」

涙が涸れ、汗も退き、後は暴れる横隔膜が落ち着くのを待つだけになりました。
膝を抱え込む加蓮の横で、彼は立て掛けておいたクリップボードを再び手に取って、
やっぱり何もしませんでした。

 「加蓮」



 「……ん」

 「キライなものが多いって、前に言ってたよな」

 「ま、ね」

 「昔の自分がキライだったか?」

いざ尋ねられると、果たしてどうなんだろうか、と加蓮は考え込んでしまいます。
67 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2020/04/29(水) 16:39:01.63 ID:SPkljqcV0
>>66
ミス
68 :>>65から続き [saga]:2020/04/29(水) 16:40:31.23 ID:SPkljqcV0

 「っ! 加蓮っ!」

 「……ぅ……ぁ、ひぐ…………っ」

駆け寄り、肩を揺すろうとした彼の動きが止まります。


加蓮は泣いていました。
今まで堰き止めていた分を一息で吐き出すみたいに、
涙と汗でメイクを台無しにしていました。
白い肌を真っ赤に染め上げながら、年端もゆかぬ子供のように。

苛立ちでも悔しさでもなく、歓喜に涙を流す経験は、
彼女の十六年の生で初めての事でした。


傍で膝をついていた彼は、インカムマイクを外すと加蓮の隣へと座り込みます。
そして、何もしませんでした。

いつだってアイドルの傍に居られるのは、担当プロデューサーの特権でした。
69 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/04/29(水) 16:43:11.57 ID:SPkljqcV0

 「すいません、インカム調子悪かったみたいで。
  何かありましたかね? あぁ、了解です。もう大丈夫です」

涙が涸れ、汗も退き、後は暴れる横隔膜が落ち着くのを待つだけになりました。
膝を抱え込む加蓮の横で、彼は立て掛けておいたクリップボードを再び手に取って、
やっぱり何もしませんでした。

 「加蓮」



 「……ん」

 「キライなものが多いって、前に言ってたよな」

 「ま、ね」

 「昔の自分がキライだったか?」

いざ尋ねられると、果たしてどうなんだろうか、と加蓮は考え込んでしまいます。
70 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/04/29(水) 16:58:44.61 ID:SPkljqcV0

昔の自分はいつもパジャマを着ていて、
だいたい食欲が無くて、ほとんどじっとしてばかりいました。

でも、ネイルを練習してくれて、髪をアレンジしてくれて、
本を読んでくれて、テレビを見てくれていたのです。
決して悪い事ばかりではありませんでした。

 「ううん」

 「なら、今の自分は?」


しばらく考え込んでから、伏せていた顔を久しぶりに上げました。

試しに隣を見てみればそこにはプロデューサーが居て、
耳を澄ませば歓声が聞こえて、衣装のスカートはふんわりしています。

どうしてか口が動かなかったので、首を左右に振りました。

 「充分。自分を認められる奴は、強いよ」

 「……そ」
71 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/04/29(水) 17:47:42.24 ID:SPkljqcV0

 「……どう?」

 「え?」

 「今の俺、めっちゃ格好良い感じの事言えてなかったか?」

びしりと親指を立て、アイドルだったらファンに怒られそうなくらい決まりきっていないウィンク。
目の前にいたアイドルは口を丸く開けると、
怒る気力も絞り出せないまま、徐々に肩を震わせます。


横隔膜は、まだ暴れ足りないようでした。


 「うん。すっごく良い感じに馬鹿だった」

 「馬……おま、言うに事欠いて」

 「まーまー。馬鹿同士仲良くやろーよ。ね?」

 「……何が?」


今度こそ、正真正銘の大笑いで、馬鹿笑いでした。
ばしばしと肩を叩かれ、彼に出来るのは訝しむような視線を返すだけ。
72 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/04/29(水) 18:11:26.00 ID:SPkljqcV0

訳も分からぬまま加蓮の抱腹に付き合ってやると、
彼女のツボもようやく満足してくれたようです。

 「はー……ふふっ……ね、プロデューサー」

 「はいはい」

 「ライブ、楽しいね」

 「ああ。馬鹿みたいに楽しいだろ?」

 「根に持っちゃって」

不貞くされたような彼に、加蓮は三度笑みを零しました。

 「アイドルのライブって、こんな感じなんだね」



 「……ん? 加蓮、ちょっと待て」

 「へ?」

 「一応訊くけど、アイドルのライブに来た事はあるんだよな」

 「そりゃそうでしょ。デビューライブなんだから」

 「いやそうじゃなくて……今まで、誰かのライブに、ファンとして、一般参加した事が」

 「無いけど」
73 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/04/29(水) 18:24:34.93 ID:SPkljqcV0

今度はプロデューサーが口を丸くする番でした。
腕時計の文字盤を数秒だけ睨み付け、加蓮の手を引いて立ち上がらせます。

 「確かに馬鹿だった! 観た事あると思い込んでた!」

 「ちょ……ちょっと? プロデューサー?」

 「行くぞ! 次の出番までまだある」

 「行くって、何処に?」

 「ライブを観るんだ」

ポケットから彼女の分のIDカードを取り出し、加蓮へと放りました。
事態を把握できないまま関係者席へ急ごうとし、慌てて呼び止められます。

 「加蓮、『そっち』じゃない! 『こっち』だ!」

 「え? だって、向こうは」

困惑する彼女の手を捕まえて、プロデューサーは長い廊下を走り出しました。
ピンヒールを履いたままの加蓮をこれでもかと急かし、
そのまま階段を駆け上がって、スタッフ用の通用口へと辿り着きます。
74 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/04/29(水) 19:09:28.69 ID:SPkljqcV0

分厚いドアを開いた途端に大音量が鼓膜を打ちました。
同時に始まった前奏は加蓮にとっても、かなり耳馴染みのあるメロディで。

機材席のスタッフに頭を下げつつ、彼は加蓮を手招きします。
衣装のままやって来た加蓮へ、近くのお客さん達が驚きに目を剥きました。
プロデューサーはそんな彼らに大げさなジェスチャーを返し、
始まるぞ、と告げます。


そのジェスチャーも、慌てて前を向く彼ら彼女らも、加蓮の視界には入っていませんでした。


 『――憧れてた場所を、ただ遠くから見ていた』


ステージの中央に、アイドルが立っていました。
75 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/04/29(水) 19:12:39.92 ID:SPkljqcV0


 『S(mile)ING!』
 http://www.youtube.com/watch?v=SKhIL0QyJI8
76 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/04/29(水) 19:28:26.12 ID:SPkljqcV0

サイドポニーを揺らし、ふわふわのスカートを翻して。
両手でマイクを握りながら、こちらを見ていました。


錯覚です。
目立つ衣装を着ているとは言え、
薄暗い客席、その後列部に立つ一人を見つけ出すなど出来る訳がありません。
そんな事は数十分前まであの場所に立っていた彼女自身が一番よく理解しています。

けれど、何故だかそう思えてしまうばかりだったのです。


 『スポットライトに』 『Dive!』


周りが一斉にピンクの光を掲げ、加蓮はびくりと身体を震わせました。
興奮と熱気の入り混じった歓声。
一拍遅れてから、コールだ、と気付きました。

気付いたところでどうしようもありませんでした。
続くコールをおろおろと手を泳がせながら見送って、
こうなったらいっそ別に手筒でもいいかと思い切った時、手元が仄かに明るくなりました。
差し出されたピンクのサイリウムに隣を向けば、
彼は自身の分をひらひらと振りつつ、加蓮の掌にそれを握らせてきます。
77 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/04/29(水) 19:40:44.40 ID:SPkljqcV0

業務中に何を持ち歩いてるんだとか、
ひょっとして三色とも持ってたりしないだろうなとか、
色々と言ってやりたい事はありました。

それらをぐっと堪え、受け取ったコンサートライトを思いの限り振り上げて。


 「Go!」『もうくじけない!』


卯月は輝いていました。
同時に、彼女をキラキラさせる為の、
この舞台の一部になれた事が、何となく誇らしくも感じられたのです。


それからは会場のうねりへ任せるようにピンクの輝きを振り上げて、
一番では控え目だった声も、二番の途中からは随分と様になっていました。
78 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/04/29(水) 19:46:08.58 ID:SPkljqcV0

唄い終えた卯月に喝采が降り注ぎます。

コンサートライトを振りつつ大きな拍手をするのは難しいなと思いながら、
まぁいいかと気にせずライトのグリップをべちべちと叩いている途中でした。
水を差すように彼が加蓮の肩を叩き、
先ほど入ってきたばかりのスタッフ用通用口を掲げた親指で指し示します。

それまでとは打って変わったような蒼の光で照らし出されるステージに後ろ髪を思い切り引かれつつ、
彼女は渋々ながら頷きました。


再び分厚いドアを潜ると、体の芯まで揺らすかのような熱は姿を消し、
静けさが鼓膜を痛めつけます。

 「もう終わり?」

 「この後、城ヶ崎さんのバックダンスあるだろ」

 「そりゃ……そうだけどさ」

 「楽しんでもらえたようで何より。さて……どうだ? 連れ出した意味、分かったか?」

気付けば握りっぱなしだったコンサートライトを見つめました。
グリップ側を彼へと差し出し、頷きます。
79 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/04/29(水) 20:47:44.70 ID:SPkljqcV0

 「推しを見つけろって事でしょ」

 「全然違う」

 「冗談だって」

控室へと踵を返し、加蓮はおどけてみせました。

 「卯月、すっごいちっちゃかった」

 「ああ」

 「でも、アイドルだったね」

 「……そこまで感じ取れたなら、もう言う事は無いさ」

小さなライブハウスならともかく、
今夜のような規模の会場ともなれば、必然アイドルとの距離は遠くなります。

事実、ステージ上の卯月を見て、加蓮はその小ささにひどく驚きました。
広大なホールと、その空間を満たす一万の観客達と、ゴテゴテと組み上げられた舞台装置。
彼女とそれらを見比べてしまうと、
圧し潰されてしまいそうなくらいに小さく見えてしまったのです。
80 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/04/29(水) 21:01:22.90 ID:SPkljqcV0

けれど、そんなのは最初だけでした。

卯月が手を振る度、卯月が跳ねる度、卯月が笑みを浮かべる度、
彼女の存在感はどんどんと膨らんでいって、
会場を支配しているのはすっかり彼女になっていました。

それが錯覚だったのか魔法だったのか、
まだ胸に渦を巻いている熱が邪魔して、加蓮は答えが出せません。


 「プロデューサー」

 「ん」

 「アタシの曲、早めにお願いね?」

 「ああ。俺も頑張らなくちゃな」


二人はしばらく歩幅を合わせて、微かに響く歓声に耳を澄ませていました。
81 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/04/29(水) 21:17:43.94 ID:SPkljqcV0

 ◇ ◇ ◆

 「……ごめん。一箇所トチった」

 「そなの? んー、後で録画観たら分かるかな」

 「ほんと、ごめん」

 「いいって! 初ライブなんだし、ちょっとしたミスなんてかわいいもんでしょ」

 「でも……」

実際、大したミスではありませんでした。
直後にカバーだって出来ていましたし、その後のダンスにも響いてはいません。

ただ、最初の一歩目があまりに上手く行き過ぎたものですから、
必要以上に気に病んでしまうのも致し方無い事でしたが。


 「あー、もうっ! き・り・か・え!
  ほら。後はフィナーレだけなんだし、ゆっくりみんなのライブ観てなって★」

 「美嘉……あの、ありがと」

 「わ。加蓮がアタシにきちんとお礼言うなんて初じゃない?」

 「シツレイな」

 「へへ。そっちのカオのがいーよ★ アタシはもう一曲演るからさ、ちゃーんと観ててよね?」
82 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/04/29(水) 21:30:06.13 ID:SPkljqcV0

そのまま次の準備へ向かおうとして、美嘉はぴたりと立ち止まります。

 「そだ。担当さんが終わったら来てくれって言ってたよ」

 「どこに?」

 「あり? 言えば分かるって話だったけど」

 「……ふぅん」

 「っと、時間ヤバ。お先っ!」

美嘉の背中を見送ると、加蓮はステージ袖から再び通路へと舞い戻ります。


彼の居そうな場所は、何となく分かっていました。
83 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/04/29(水) 21:37:22.74 ID:SPkljqcV0


 「お疲れ」

 「仕事しなくていいの?」

 「俺のとりあえずの分は終わり。何なら他の手伝いだってしたさ」


関係者席に居たのは彼だけではありませんでした。
何組かのアイドルとプロデューサー達が、
セットリストを確認したり、演出について検討を重ねたり、
ただ単純にはしゃぎ合ったりしています。

ちょうど一曲終えた所だったようで、
ステージ上のフレデリカが客席に向かってキスを飛ばしていました。
黄色い声を上げるファン達を見下ろし、
みんな自分に飛んで来たと思っちゃうんだろうなと、加蓮は何度か深く頷くのでした。

 「加蓮」

 「なに?」

 「もう、こっちが『こっち』だからな」

事も無げに呟いて、彼は加蓮を見つめました。
じっと彼を見つめ返し、またこくりと頷きます。
84 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/04/29(水) 21:53:07.73 ID:SPkljqcV0

 「ほら。ここ、ここ。よく見ておいた方がいい」

 「えーと、フレデリカの次は……誰だっけ」

 「すぐ分かる。あの娘は――凄いよ」

言い終わらない内に、ステージを煌々と照らし付けていた照明が極限まで絞られました。
かつん、かつんと、わざとらしい程に緩やかな足音が暗闇の中に響いて、止まります。

ようやく次のナンバーを思い出し、加蓮はそのまま転げ落ちていきそうな勢いで手すりを掴むと、
乗り出すようにしてステージへと視線を注ぎました。


響き出したのは、ともすれば場違いなサウンド。
これまで続いてきたポップスを午睡の夢に変えてしまう、目の醒めるような電子音。
幾筋もの照明が悶えるかの如く明滅し、
主犯格のシルエットを乱雑に切り取っては撒き散らします。

あちこちで揺れていた光は息絶え、
不意に凪いだ海は沈黙を守り、雑音が消えました。


それから照明が正気を取り戻し、慌ててステージを照らし出す中。
85 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/04/29(水) 21:54:57.84 ID:SPkljqcV0


 『One, Two, X, X』


速水奏は、微笑を浮かべていました。
86 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2020/04/29(水) 21:56:00.36 ID:SPkljqcV0


 『Hotel Moonside』
 http://www.youtube.com/watch?v=kU5ii7DAyxU
87 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2020/04/29(水) 21:58:20.48 ID:SPkljqcV0
また明日更新します
88 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/04/30(木) 19:45:05.11 ID:QqIdgo5i0

 【W】アグノスティク


千万の人々が暮らす首都とは言え、
流石に松の内ともなれば幾分かは落ち着いています。
ここ代々木公園もどうやら例外ではないようで、
すれ違う人の数も、以前訪れた時の記憶と比べれば随分少ないように感じました。


敷地に足を踏み入れてから五分ほど経ったところで、
ようやくお目当ての姿を見つけます。

サボリーマンでした。
平日午後の陽気を浴びながらスーツ姿で携帯電話を弄る彼を見て、
加蓮はそう断じました。


どうやらまだこちらに気付いていない様子に、
加蓮はサボリーマンだねと声を掛けようかどうかちょっとだけ迷って、
やっぱり言ってやる事に決めます。

 「サボリーマンだね」

 「ひどい」
89 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/04/30(木) 20:10:35.84 ID:QqIdgo5i0

隣を譲られるまま、加蓮はベンチに腰を下ろしました。

 「めっちゃ歩いたよ」

 「広いからなぁ」

 「待ち合わせ場所に向いてなくない? ここ。寒いし」

 「ここ来てから正直向いてないと思った」

携帯電話をポケットへしまうと、彼は傍らの鞄を漁ります。
取り出した封筒の紐を丁寧に解きながら柔らかい陽光に目を細めました。

 「ただ、これは個人的な意見なんだけど」

 「うん」

 「めでたい事はさ、会議室の中より、こういう……外とか、
  お店とかで伝えた方が嬉しくないか? あと大安だし、今日」


めでたい事。


その一言に、ばっと顔を上げました。
封筒の中からはピンク色の小さな音楽プレーヤーが現れて、
それを見た瞬間、加蓮はほとんど叫び出しそうになりました。


 「おめでとう、加蓮。ソロデビューだ」
90 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/04/30(木) 20:24:55.06 ID:QqIdgo5i0

胸の内で幾つもの、幾つもの言葉が激しく渦を巻き、
なかなか喉から出て来てくれません。
ただ何度も握られる拳に、プロデューサーは笑いました。

目にも留まらぬ速さでひったくられたプレーヤーのイヤホンを、
目にも留まらぬ速さでぐちゃぐちゃに絡ませた加蓮に、
プロデューサーはもう一度笑いました。


はやくはやくはやく、と加蓮に肩を揺さぶられつつ、
だんだん上半身ごと強めに揺らされながら解いてやると、
彼はイヤホンを加蓮の耳にそっと差し込みました。


手渡されたプレーヤーの電源ボタンをかちりと押し、液晶へ表示された一行。
たった一行の文字列が、彼女の視線を釘付けにしてしまいました。
91 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/04/30(木) 20:29:26.32 ID:QqIdgo5i0



 薄荷 -ハッカ- (北条加蓮)

92 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/04/30(木) 20:31:15.75 ID:QqIdgo5i0

 「……薄荷」

 「ああ。加蓮の曲だ」

ほとんど無意識だった呟き。
彼が何か言ってくれているのは分かりましたが、加蓮の耳には届いていませんでした。

もちろん差し込んだイヤホンのせいではありません。
タイトルの後、括弧書きで添えられた『北条加蓮』の名を、
何かと照らし合わせるように見つめ続けるのに忙しかったのです。

 「……聴いても、いい?」

 「はは。イヤでも何度だって聴くんだぞ」

 「イヤじゃないっ!!!」


彼も、叫んだ本人もびっくりしてしまうくらい大きな声でした。
反射的に口元を手で覆うと、吐息が白い霧になって消えてゆき、
加蓮は浮かび上がってきたそれをゆっくりと押し戻します。
93 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/04/30(木) 20:37:35.10 ID:QqIdgo5i0

 「イヤじゃ、ないよ」

 「……そう、だよな。軽率過ぎた。すまない、加蓮」

 「……アタシこそ、ごめん。よく、分かんないけど……叫んじゃって」

何度か深呼吸を繰り返す内に、
耳元へ纏わり付いていたノイズは剥がれ落ちていきました。

世界の音がくっきりと聞こえるようになると、加蓮は視線だけで彼に問い掛けます。
彼が頷いて、加蓮も頷き返して、再生ボタンをタップしました。


小さく流れ始めたピアノソロ。
加蓮が少し驚いてから目を閉じ、仮歌に耳を澄ませる様子を、
彼は隣で見守っていました。
94 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/04/30(木) 20:56:42.12 ID:QqIdgo5i0


 『薄荷 -ハッカ-』
 http://www.youtube.com/watch?v=X2QhlXiV9kA
95 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/04/30(木) 21:00:54.34 ID:QqIdgo5i0

満ち足りた五分三十秒が再びのピアノソロで締め括られました。
イヤホンを外すと冷たい風が頬を撫で、そういえば今は冬だったっけと遅れて思い出しました。

 「プロデューサー」

問い掛けるような彼の視線に、視線で答えてやります。

 「ぜんっぜん分かってない」



 「…………え、な」

幾つか予想していた加蓮の反応。
そのどれとも異なる鋭い切っ先を突きつけられ、彼は固まりました。

 「ぜんぜんアイドルポップっぽくないし、可愛らしく唄える曲でもないし、
  かと言って元気いっぱいなリズムとも違うし、そうかと思えば格好良さに振った曲調でもないし」

 「え、ちょ、かれ、え?」

矢継ぎ早に捲し立てる加蓮に、彼は困惑を隠せません。
しどろもどろで言葉を探す彼を、鋭く視線で射抜き――加蓮は、表情を緩めました。


 「でも、アタシの曲なんだね。すっごく、良い歌」
96 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/04/30(木) 21:06:04.98 ID:QqIdgo5i0

雛鳥でも暖めてあげるかのように、
小さな音楽プレーヤーを両手でそっと包み込んで。
一旦緩めた箍は締め直す事も叶わず、
柔らかな笑みはいっそ、春の雪解けのように。


釣られるように彼の表情も柔らかさを取り戻しました。
へへ、と笑みが零れて、止まりませんでした。

へへへへへ、と照れ笑いに似た何かを浮かべる彼を見て、
加蓮はちょっと気持ち悪いな、と思いました。
伝えようかどうかちょっとだけ迷って、今度は伝えずにおこうと決めました。


北条加蓮、気遣いの人です。


 「アタシのだよ。返さないからね」

 「……いや、それは困るな」

 「えー?」

 「ファンに返してもらわないと」
97 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/04/30(木) 21:14:48.17 ID:QqIdgo5i0

むっ、と、加蓮がおとがいに指を添えて唸りました。
そのままむむむと唸ったかと思うと、指を三本、伸ばします。

 「三倍返しするから」

 「オーケー。交渉成立だ」

 「何の話だっけこれ」

 「めでたい話第一弾。こっから第二弾」

 「えんっ」


対抗するように伸ばされた二本の指に意表を突かれ、
加蓮は変な声を上げてしまいました。
頬を染めてまた口元を抑える彼女の姿に、プロデューサーは肩を震わせました。

 「ユニットを組んでもらう。それも、二つ」

 「……おおー、二つも」

 「加蓮の頑張り、ちゃんとみんな見てるって事さ」
98 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/04/30(木) 21:23:58.23 ID:QqIdgo5i0

彼の言葉通り、アニバーサリーライブ後の加蓮は以前にも増して熱が入っています。
ポテトだったらからりと揚がるくらいです。
所属当初は液体生物と化していたダンスレッスンも、
最近は何とかヒトの形を保ったまま終える事が出来るまで成長を遂げました。

プロデューサーが封筒から企画書を取り出して加蓮に見せました。
社外秘の但し書きが添えられた表紙をめくれば、
そこに刻まれていたのはユニット名らしき横文字と、デザインされた図形。

 「トライアド……プライマス?」

 「お。惜しい、トライアドプリムス、だ。英語読みなら加蓮の言う通りだけどな」

 「三つの……プリマドンナのプリマで……三つの、一番?」

プロデューサーが目を丸くしました。

 「驚いたな。ラテン語とイタリア語が分かるのか」

 「プロデューサー、アタシを物凄いお馬鹿さんだとか思ってない?」

 「いや、そんな事無いけど……なんか歳下に負けるのって悔しいじゃん」


能ある鷹を気取るつもりも無いようですが、加蓮は教養のある娘でした。
幼い時分から読み、聞き、蓄えてきた知識を有機的に結合し、
一つの情報として纏め上げる行為を苦も無くやってのけます。

今回知識を引っ張り出してきたのは散々引っかき回した神話聖書の棚でしたから、
敢えて言及する気もありませんでしたが。
99 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/04/30(木) 21:33:16.91 ID:QqIdgo5i0

 「単語レベルだよ。聞き齧りの付け焼き刃。で?」

 「正解だよ。俺の意図はそれだけど」

 「それ?」

言いながら指差された先を見れば、三色の三角形。


 「並び立つ、三つの頂点」


すこんと、つむじを叩かれたような気がしました。

 「……プロデューサーが通したの? これ」

 「発案は別。ユニット名とロゴは俺」

 「良いセンスしてるじゃん」

 「もっと褒めていいぞ」

 「メンバーは?」

 「もっと褒めてもいいんだぞ」

 「メンバーは?」

 「渋谷さんと神谷さん……後で顔合わせするから……」

得意気な表情を秒で凹ませ、彼は力無く呟きました。
100 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/04/30(木) 21:42:34.23 ID:QqIdgo5i0

 「ふぅん」

企画書をめくりつつ、同時に頭の中の加蓮ちゃん大辞典もめくってやります。
どちらも覚えのある名前でした。


渋谷凛は事務所を代表するアイドルの一人です。

創設期から在籍しているアイドルで、確かソロデビューも一番手のいわゆる顔役。
何度か一緒にお仕事をした覚えがありますが、
名は体を表すと言わんばかりの、凛とした佇まいが印象的な娘でした。


神谷奈緒のページにはまだ情報があまり書き込まれていませんでした。

確か、加蓮と同時期に加入したアイドル。
一度、何かのついでに二、三、話をした記憶がありますが、
とにかく彼女のもふもふとした髪質が際立ち過ぎていて、
会話中もずっともふもふしてみたいなぁ、等と考えていたため、
肝心の何を話していたのかまではさっぱり覚えていません。
101 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2020/04/30(木) 21:46:16.87 ID:QqIdgo5i0

 「神谷さんも今頃ソロデビューの曲を貰ってる筈だよ」

 「あ、そうなんだ」

 「次の定例ライブで加蓮のソロと神谷さんのソロ、
  もちろん渋谷さんのソロと、それからユニット曲をお披露目だ」

 「最高。敏腕。男前」

 「もっと褒めていいぞ」

 「ちょっと褒め過ぎた」

 「加蓮?」

 「二つ目のユニットは?」

 「モノクロームリリィ……」

力無く封筒を漁り、やるせなく書類を手渡してくれます。
クールに受け取ってやって、同じように表紙をめくり、加蓮は固まりました。
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