渋谷凛「愛は夢の中に」

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302 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/07/31(金) 22:53:55.88 ID:/6nApN/no
ちらりと外を眺めても、車窓は住宅街の中をぐねぐねと抜ける一般的な都市近郊のもので、バイクからの景色とはまるで違う。

しかも快特と云う割には末端地帯は各駅に停車するので、その度に多くの乗客が乗り込んでくる。

凛はそれまでの夢心地から一気に現実世界へと引き戻されたように思えた。

寝てしまおうかとも思ったが、電車が思い切りスピードを出し急加減速をするせいでとてつもない爆音と揺れに見舞われ続けていて、到底眠れる状態ではない。

隣のご婦人は物凄い胆力をしているものだと凛は舌を巻いた。
303 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/07/31(金) 22:54:47.23 ID:/6nApN/no
ものの15分もすれば立ち客がだいぶ溢れ、すぐそばにはサラリーマンやママ友であろう人たちが立ってスマホをいじったりおしゃべりに興じたりしている。

気づかれないようにと帽子を目深に被り、隣人と同様に身体を小さくして目を瞑った。

視界の情報がシャットアウトされ、途端に先ほど触れられた頬の感触が甦る。

バイクで走っている間はずっと風が当たっていたはずなのに、栗栖の手は熱かった。男の人はみな体温が高いのだろうか。

手足の先の冷えと日々格闘している自分には羨ましい限りだと、心の中で嘆息する。
304 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/07/31(金) 22:55:41.00 ID:/6nApN/no
あの暖かさが頬から流し込まれた時、身体が動かなくなった。

離されないよう包帯でぐるぐる巻きにしていたいほど心地よくて、何も考えられなくなった。

今にしてみれば、あの温もりは悪魔的だったとさえ思える。

電話での中断がなければ、もう戻ってこられないところまで拉致されていたに違いない。

けれど……悪魔でもいい。蕩けさせてほしい。あの電話が怨めしい。

いやいや、自分はアイドルで、向こうもアイドルだ。色恋沙汰なんて赦される身ではない。もう一人の凛が脳内で諫める。

そんなことは判っているのだ。だからこそ未遂で終わってほっとしたのだ。

見くびらないで、と凛は頭の中で自分に吐き捨てた。
305 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/07/31(金) 22:56:12.83 ID:/6nApN/no
ただ――もし次回同じことが起きれば、アイドルの矜持だけで我慢できるかどうかは……正直に云って自信がない。

「ううん、違う……」

自信がないどころの話ではない。まず以て抗えないだろう。

甘い毒が全身に染み渡っていくのを、快感と共に享受することしか、きっと。

どうすればよいのだろう。

乃木公園で同様の自問をした際とは明らかに悩みの度合いが深くなっている。

いつしか電車は地下鉄に直通し、目を瞑らなくても周りは黒の世界と化していた。
306 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/07/31(金) 22:58:08.22 ID:/6nApN/no

大門駅で乗り換えて、麻布十番に戻ってきたのは15時を過ぎた頃だった。

三浦半島にいた時よりも明らかに汚れて重い空気を掻き分け、凛は喘ぐようにCGプロのエントランスを抜ける。

「あれっ? 凛。どうしたん、今日はオフじゃねえの」

やや遠くで聞き慣れた声がしたので振り返ると、つかさが凛を認めて寄ってきた。

「アタシは旭から帰ってきたところでさ」と笑うが、どうにも様子の芳しくない相棒の様子に気づく。

「……ひとまず第一課戻るか!」

ニヤリとした笑みを維持しつつ凛の肩を寄せて歩き出す。

しかし手の力は表情とはちぐはぐにとても柔らかかった。
307 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/07/31(金) 22:59:22.57 ID:/6nApN/no
「――で? 何か悩みか?」

エレベーターの扉が閉まるまで待ってから、操作盤の方を向いたままつかさが問うた。

笑みを剥がしたシリアスな顔が、鏡面のように磨かれたパネルへと映る。

「うん、まぁ……そこまで大層なものじゃないけどね」

「嘘が下手。もうちょっと捻れよ、見るからに重大インシデントの顔してる」

「えー……本当に?」

「マジもマジ、大マジよ」

凛はそれ以上答えられず、エレベーターを降りると廊下には二人の足音だけが響く。

ユニットの相棒には伝えた方がよいのか、ユニットの相棒だからこそ不確実な相談事はしない方が好ましいのか。
308 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/07/31(金) 23:00:40.76 ID:/6nApN/no
延々と答えを出せずに進んでいると、先を歩くつかさが「これからアイツとミーティングの予定だったけど」と前置きをして、第一課のドアの前で振り向いた。

「この時間、譲るよ。アイツにはドキュメントをSlackで送るようにだけ言伝を頼むわ」

「え?」

「相談、しに来たんだろ?」

Pのデスクの方向を指差してウインクを投げてくる。

「もし気分転換になるなら、アタシはこれからダンスの自主トレすっから、終わったら来ていいよ?」

「うん、ありがと。そうだね、もしかしたら後で顔を出すかも」

互いに軽く手を挙げて別れる。凛は、意を決してドアを開けた。
309 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/07/31(金) 23:01:51.83 ID:/6nApN/no
タイミングよく人が出払っている静けさの中で、OAフロアの上を歩く微かな足音が、凛自身の耳には奇妙なほど大きく聞こえる気がした。

「あれっ? 凛。どうした、今日は久しぶりの完全オフだったのに」

Pが凛に気づいて、つかさと同じように疑問を寄越してきた。

担当プロデューサーとアイドル同士、長く一緒にいると似てくるのかもしれない。

「うん。ちょっと相談したいことがあって」

「天下の凛がそんなこと云ってくるなんて珍しいな」

相好を崩すPにつかさから託された伝言をこなしつつ、周りを見て、改めて誰もいないことを確認する。

何気ない行動でも、人払いが必要な内容であることをPは察知した。

おそらく、CGプロ始まって以来の、極めて難しい舵取りが必要になる未来を凛は予告するのだろう、と。
310 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/07/31(金) 23:02:37.35 ID:/6nApN/no
凛は隣のデスクから事務椅子をごろごろと転がしてPの前に据え、「どんな風に云えばいいのか難しいんだけどさ」と腰を下ろした。

一旦眼を瞑って、息を吐く。

「ちょっと自分の手に余ることがあって」

瞼を上げると、Pの視線が強くしっかりと凛の虹彩を射抜いていた。

静かに次の言葉を待っている。変に二の句を促したり、或いは不要な相槌を打ったりしないところが、凛は好きだった。
311 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/07/31(金) 23:04:14.84 ID:/6nApN/no
「……知多栗栖さんのこと」

ようやく一言を絞り出して、再度逡巡する。

「本気で……好きになり始めちゃってる。自惚れでなければ――多分、向こうも」

一句ずつ、ゆっくりと、打ち明けた。

双方無言の刻が過ぎてゆくがPの視線は変わらない。

きっと怒られるのだろう。

そう思って凛は眼を少し伏せた。
312 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/07/31(金) 23:05:20.43 ID:/6nApN/no
「……知ってるよ」

何か云わなければ、と凛が紡ごうとしたところで、先に口を開いたのはPだった。

「え?」

「知ってるよ」

まさかの返答だった。驚きに目を見開いて視線を上げると、寂しそうな笑顔でもう一度「知ってる」と静かに云う。

色々と事情を聴取するでもないただの一言。

凛は、Pが全てを知っていたのだと、最初から最後までお見通しだったのだと悟った。
313 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/07/31(金) 23:06:16.78 ID:/6nApN/no
――プロデューサーは全部知っていて、その上で私を放っておいたんだ。

ただ箱庭の中で生かされているだけだった。

以前、私が目の前のこの異性に淡い思いを抱いた時分には、アイドルが大事だ、全国民の彼女でいろって激怒しながら阻止したくせに。

なるほど、つまり当事者でさえなければ、プロデューサーから見た私はその程度の存在なのか。
314 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/07/31(金) 23:06:53.42 ID:/6nApN/no
凛は、自らの心にピシッと小さく、しかし鋭い音で割れ目が入った音を自覚した。

無性に哀しくなって、そして腹が立ってきた。

「……やっぱり何でもない。御免、忘れて」

凛は目を閉じてやおら強く云い放ち、会話を打ち切って席を立った。
315 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/07/31(金) 23:07:40.44 ID:/6nApN/no
会社を出て、身を炙る憤りに任せながらスマートフォンの画面を叩くように文字を打ち込む。

――終わったら連絡して。

相手は、自らを必要としてくれる彼。

いつもと様子の違うメッセージに、栗栖は何かを感じ取ったのだろう。休憩の合間にすぐ折り返しを掛けてきた。

『もしもし、凛? どうした?』

やや心配そうに訊ねてくる声に、凛はすっと息を大きく吸う。

「栗栖。全部、私の全部をあげる。だから私を満たして」
316 : ◆SHIBURINzgLf [sage !蒼_res]:2020/07/31(金) 23:08:56.92 ID:/6nApN/no

今日はここまで
317 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/01(土) 23:37:22.88 ID:BuAwdmqeo

・・・・・・

眼下で白や赤の光の列が連なって、それぞれが一本の糸のようになっている。

遠くへ向かう方の車線は、テールランプの流れがまるで血液みたいだと思った。

地上21階のこの部屋は、窓側の壁一面が足元から天井までガラス張りで、カーテン以外に遮るものがなにもない。

さりとてこれほどの高さともなれば怖さは逆に感じなかった。

人間が最も恐怖する高さは10〜20メートルあたりなのだそうで、地上80メートルのここなら、感想は「高いなあ」で済む。

夜の暗い時間帯なら猶のことだ。
318 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/01(土) 23:38:12.16 ID:BuAwdmqeo
外からの人工光で、窓際にシルエットが浮かぶ。

女性的な曲線のプロポーションがはっきりとした魅力を纏っている。

凝視しなくとも、放たれる艶めかしさは圧倒的で、シルクのように滑らかなこそばゆさを与えるのだった。

ぼうっと夜景を眺める凛の肩に、そっと手が添えられた。

左横に立つ人物を見遣ると、一緒に眼下へ視線を送っている。
319 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/01(土) 23:39:28.81 ID:BuAwdmqeo
「不思議だね」

凛がつと呟くと、「ん?」と云う目線で続きを問うてきた。もう一度外を眺める。

「直接は見えないけど、今こうやって私の視界に入るエリアだけでも100万を下らない数の人間がいるんだよ」

地上を照らしている明かりの許には、それぞれの人の営みが広がっているはずだ。

もっと視点の標高を上げて日本なら1億2000万、更には世界全体では75億。

「そんなおびただしい数の人類から見れば、私一人程度なんて、どれほど矮小な存在だろう」
320 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/01(土) 23:40:18.30 ID:BuAwdmqeo
隣の肩に頭を預け、がっしりした腰に腕を回しながら、凛は自嘲のような息を大きく吐いた。

上目遣いで顔を覗き込む。向こうも凛の顔を見下ろす。

「こんなちっぽけな私を求めてくれるのは、栗栖だけだよ」

凛はカーテンを右手で閉じて、その流れで栗栖と正対し、両腕を肩に回す。

「広い世界を見るのは終わり。今は貴方と私、二人だけの場所。田嶋さんの電話で途切れた続き、して」

「いいんだな?」

栗栖が凛の目を覗き込んで、最後の確認とばかりに尋ねた。

「うん……いいよ」

頷くと、栗栖がそっと、凛の後頭部に手を添えた。それを合図に、凛は目を閉じる。
321 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/01(土) 23:42:42.12 ID:BuAwdmqeo
ここは方舟。海辺の時のような環境音は何も聞こえない。

聞こえるのはそれぞれの息遣いだけ。

ゆっくりと、柔らかい唇が触れ合う。ついばむように、軽く、優しく。

数度感触を確かめたのち、強く押し付け合った。

一糸纏わぬ凛の背中を栗栖の掌が撫でる。

肩甲骨に沿って指を這わせると、くすぐったい快感がじわり滲み出て、凛は微かに身をよじった。口づけをしたまま、悩ましい息声が漏れ出る。

その緩んだ瞬間を栗栖は逃さなかった。

舌が唇を掻き分け侵入し、不意のことに凛は身体を固くする。

意思を持った別の生物のように口内を蹂躙されるうち、凛もやられっ放しで済ませるものかと、舌を動かして反撃に出た。
322 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/01(土) 23:43:12.58 ID:BuAwdmqeo
柔らかいような、硬いような。弾力で押し返してくるような、抱擁で吸収するような。

絡みつく舌同士の相反する感触が連続的に変化し、そのどれもが脳へダイレクトに快感物質を注ぎ込み続ける。

酸素を求める息継ぎと、艶めかしく湿った水音だけが漆黒の世界に響く。

やがて空気の薄さに耐えられなくなって唇を離す。凛の瞳は潤んでいる。

「キスって、こんなに気持ちいいんだね……」

少し放心した風の蕩けた表情で、初めての口づけの、大人の味を反芻して凛は云った。
323 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/01(土) 23:43:44.87 ID:BuAwdmqeo
立ったまま、どちらからともなく抱擁を重ねる。幻ではない、実体がここにあるのだと確かめるために、強く。

「凛。君が欲しい」

「うん、私も。抱いて――栗栖」

お互いの耳元で囁き合い、凛はのりの利いたシーツにゆっくりと坐らせられる。

白い布とそれに生じる皺が、赤みの強い彼女の柔肌と婀娜たるコントラストを描いた。
324 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/01(土) 23:44:41.53 ID:BuAwdmqeo
栗栖が全身を愛おしそうにじっくり視るので、凛は胸部を隠して顔を逸らした。

「少し、恥ずかしい」

「隠さなくていい。綺麗だ」

女の象徴を秘匿せむと組まれた腕をゆっくり解きほぐし、汗ばみながらも摩擦なく滑る肌を掌が撫でると、甘美な刺激に凛は身体を反応させた。

「私……初めてだから、優しくして……」

いよいよ散らすのだと現実味が強く膨れ上がるにつれ、羞恥心から栗栖に背を向けた。

頭部だけ少し見返らせて、か細い声と横目の視線で乞う。
325 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/01(土) 23:45:38.29 ID:BuAwdmqeo
15歳からアイドル一筋だった身にとり、女の一番大切なものを誰にも許すことなくこの歳まで維持してきたのは、一種の勲章だった。

しかし、それも今宵終わりを迎える。

栗栖に触られた部分が熱が帯びるのを、凛はマジックのようだと思った。

身体の中から熱くさせられ、蜜が自らの意思とは無関係に溢れ出てくるのは、神秘としか思えないのだ。

何らかの魔法を掛けられてこのようになっているのだと。

欲しい。この人が欲しい。

いつしか凛は、遺伝子に刻まれた未知の欲求を抱いていることに気づいた。

覆い被さる男を濡れた瞳で見つめると、呼びかけに応じた先端が、ゆっくり一つに溶け合ってゆく。
326 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/01(土) 23:46:20.87 ID:BuAwdmqeo
凛は、悦びに打ち震えた。

その嬌声は高く、通りのよい張りと弾力に満ちていた。

声自身が、凛の柔肌と同じ肉感を持っていて、繋がり合った部分と共に快楽物質をお互いの脳へ注ぎ込む。

男の情動を燃え上がらせるその呪文が栗栖を衝き動かし、巡り巡って凛自身を狂わせる。

喘ぐのを抑えむと思えど、快感を求める本能が理性を拒絶するのだ。

唇を重ね、塞いでも、艶やかな声は漏れ出ることを止められない。

頂戴、もっと。欲しい、満たして欲しいの。

昂ぶりのスパイラル。お互いが上へ上へと昇り詰める。

二人は、二人だけの雲の上で何度も躍ねた。

たとえ一度達しようとも、果つる底なき熱が再び双方を焦がし合っては、へとへとに痙攣すらできなくなるまで休みなくずっと続いた。
327 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/01(土) 23:47:39.24 ID:BuAwdmqeo

===

カーテンの隙間から差し込む赤い陽光で、凛は微睡から現世に引き戻された。

半目のままゆっくり瞬くことしばし、寝返りを打って手を伸ばす。身体が、泥の中で溺れているかのように重い。

呻きながら、隣に臥している体躯を撫でて、存在を確かめた。

昨夜の交いが露と消える幻ではなかったことを確かめたかった。
328 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/01(土) 23:49:04.35 ID:BuAwdmqeo
陽光に照らされて、栗栖の栗色の髪が綺麗に染まっている。

幼少期に地毛のこの明るい色のせいでいじめられたから自らの髪があまり好きではないと、彼自身はかつて云ったことがあったが、傍で見る身からすれば美しくて好きだと思った。

「ん……起きなきゃ……」

今の状況が間違いなく現実であり夢ではないことを理解した凛は、うつ伏せの体勢から緩やかに身を起こした。

「痛ったた……」

最中はずっと脚を開け拡げたり四つん這いになったりしていたせいか、下肢の付け根や膝の皿が鈍痛を訴える。
329 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/01(土) 23:49:51.86 ID:BuAwdmqeo
下腹にはまだ異物が中に入ったままのような錯覚があるし、全身の肌は汗と体液が中途半端に乾き始めてベタベタした。

髪に触れると酷く絡まっていて、念入りなメンテナンスを要しそうだった。

一晩乱れただけでこうも容易く傷むのかと、初めてづくしの経験に新鮮な感覚を抱いた。

足を軽く引き摺って窓際へ寄り、カーテンを少し引く。

太陽は地平線から顔を出したばかりで、直視しても眩しさは然程でもない。

おどろおどろしいまでに血の色で朝焼けた空は、まるで自分の心を見透かし、映しているようだと思った。
330 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/01(土) 23:51:40.10 ID:BuAwdmqeo
意識の靄を取り去ろうと、バスルームへ入る。

鏡の中に佇む自分は、鎖骨や鳩尾、臀部に至るまで紅紫の痣が多数点在し、これらキスマークを見て改めてこの身が女になったことを実感した。

軽く目を瞑ると、つい数時間前までよがっていた自らの声が脳内に響き、腹の奥が疼いた。しばらくこの感覚は身体から抜けそうにない。

アルコールなど比較にならないほどに人を酔わせる劇薬。体内にLSDの工場が作られたようだ。

目を開けて床を見れば、今もまた、大腿から下が糸を引く洪水に塗れている。
331 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/01(土) 23:52:18.22 ID:BuAwdmqeo
『もう戻れないね』

何処―いずこ―からか声が聞こえた気がした。

慌てて顔を上げると、鏡の中に自分とよく似た裸の少女がいた。

自分が映っているのではなかった。

否、これは自分だ。15歳の凛が、23歳の凛を眺めているのだ。

身長や体型はほぼ変わらない。顔立ちだけが、仄かに幼さを感じさせる。
332 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/01(土) 23:52:55.07 ID:BuAwdmqeo
だが――その表情からは何を伝えたいのかは読み取れない。

褒めるでも誹るでもなかった。ただただ、淡々と一言だけ発したのだ。

「……そう、かもね。時間の針は戻せない。私は、もうそっちの私には戻れない」

独り言ち、かぶりを振って熱いシャワーの栓を捻った。

頭頂から手先足先へ向かって無垢な湯が流れてゆく。

蒸気が室内を満たし、鏡の中の少女は白闇へ埋もれ、やがて見えなくなった。

栗栖のマンションから第一女子寮へと戻る電車は、奇妙なほど空いていた。
333 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/01(土) 23:55:11.33 ID:BuAwdmqeo

・・・・・・

身体を許したとて、凛も栗栖もお互いに売れっ子だ。オフが重なるタイミングはそう都合よく頻繁には巡ってこない。

それでも、何とか予定を合わせて逢瀬を重ねたし、それが叶わなければツクヨミのレッスンがあった帰りに乃木公園で打ち合わせと云う体の邂逅で心を慰めた。

次第に凛は、乃木公園でも「口づけをして欲しい」と唇を差し出すようになった。

その都度、栗栖は困ったように笑って、丸めた台本で凛の頭をポンと叩く。むう、と凛がむくれるまでが1セットだった。
334 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/01(土) 23:55:38.64 ID:BuAwdmqeo
「ったく、ここでするわけにいかんでしょ」

「まあ、それは……判ってはいるけどさ。欲しいものは欲しいんだから仕方ないじゃない」

トップアイドルたる美しい女に「欲しい」とストレートで云われて嬉しくない男はいまいが、全てに於いて立場と云う人類の概念が恨めしい。

凛は自分自身で支離滅裂かつ重い面倒なことを云っているのは認識していた。

それでも、大脳新皮質とは別領域の、遺伝子に刻まれた“雌”が理性を押し退けるのだから困ったものだ。
335 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/01(土) 23:56:42.07 ID:BuAwdmqeo
無論、新皮質が活性化して理性が優勢となれば、元々理知的な彼女ゆえ自己嫌悪に陥る。

ついにPへ談判し、ツクヨミとのスムーズな連携と云う名目で第一女子寮を離れ、天王洲は京浜運河を臨むタワーマンションに居を移した。

Pは「わかった」とだけ頷いて、意外にも話を切り出した半月後には全て完了してしまう早さで処理が済んだ。

総務部への稟議なども必要だったろうに、と凛は驚いたが、元々寮へずっと入っていたのは防犯上の理由が大勢を占めていたので、街中のアパートと云うわけでもなくセキュリティのしっかりしたビルなら、さほど問題にはならなかった。

選定にあたっては、隣駅で交通至便となる文科放送やフジツボテレビからの、千川ちひろを通じた黒い便宜があったとも噂されるものの、真偽のほどは定かではない。
336 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/01(土) 23:58:56.21 ID:BuAwdmqeo
ともあれ、地下に駐車場が設けられていると云う住処は、栗栖の車で乃木坂スタジオを発ってそのまま誰とも顔を合わせずドアトゥドアを達せられる、媾曳―あいび―くにはおあつらえ向きの構造だった。

ここで忍び逢いをしないならば一体どこでするのかと云わむばかりに、凛は来訪をせがんだ。

運河の対岸が埠頭擁する純工業地帯であるのをよいことに、カーテンを開け放ち夜景を眺めながら窓際で立ったまま融け合うこともあった。

「トップアイドル渋谷凛の狂う姿を、下から誰かが双眼鏡で見ているかもな」

そう言葉で責められる度に、凛は身を捩りつつも眼球の奥で桃色の爆発を連続させ、白魚の如し細身の身体は躍ねながら仰け反った。

窓ガラスへ押し付け平面的に歪められた胸部が冷んやりと心地良く、却って接合部の熱さを際立たせることで昂ぶり燃え上がるのだ。

栗栖が多忙で中々来られない時には、逆に凛が栗栖宅へ顔を出すことも多く、余暇があれば食事を作ったりもした。

自分の料理を人に食べてもらうことがこんなにも幸福で喜ばしいのかと発見があった。
最近は、料理を得意とする第二課の五十嵐響子とつながりが出来て親しくなりつつある。
337 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/02(日) 00:00:02.20 ID:AHbf10HPo
栗栖と逢う度に、凛の身体には彼の印が積み重なってゆく。

“それ”を隠すように、彼女の衣装は露出を減らしていった。

『年齢相応の落ち着きを演出することで更なるステージアップを――』

芸能メディアなどは、凛が少しずつ変化してゆくのを新境地開拓だと称賛する。

概して保守的な芸能界だが、アイドルについては異端とも云える。変化・挑戦や新しい試みには好意的だし、リベラルなセクションなのだ。

CGプロが方便を突き通すには好都合だった。
338 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/02(日) 00:00:40.79 ID:AHbf10HPo
「皮肉なものだね」

テレビ出演を控える楽屋で凛の新曲リリースとファッションを特集した雑誌を読む本人が、複雑な笑みを添えて独り言つ。

ハイネックのノースリーブながら、七分袖にデザインされたメッシュのアウターを羽織り、腕先は肘丈の手袋で覆われている。
下半身もスラックスを使うことで、スタイリッシュながら肌は見えない。

今夜の生番組では、一般視聴者へ向けてテレビカメラを通した新しい魅力を引っ提げてのトップアイドルが普段通りに映るだろう。

その服の下に男の痕がいくつも刻み付けられているとも知らずに。

それでも、欺瞞でも虚構でもいいから『国民全員のための女―トップアイドル―』を演じ切るのが今の凛に与えられた役目であり責務。

ゆっくり、ゆっくり堕ちてゆく。
339 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/02(日) 00:01:12.94 ID:AHbf10HPo
不思議と、変質してゆく自分へ寂寥とした感情は抱かなかった。

きっと鏡の中にいたあの自分が、代わりに滂沱の泪で私の分まで涸らせたのだろう。

そう思いを馳せるうち、ノックが3回鳴る。

「渋谷さんお待たせしました、まもなくOAです」

「はい、向かいます」

番組のアシスタントディレクターが控室へ顔を出す瞬間までには、凛の表情は、しっかりとアイドルになっていた。
340 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/02(日) 00:02:09.13 ID:AHbf10HPo

ステージではUKでの最新トレンドを貪欲に取り入れたサウンドが放たれた。

ドラムステップと呼ばれる日本では聞き慣れないジャンルで、音作りも歌唱もダンスも手を抜かない、歌姫の貫録を電波に乗せる。

音の拡がりが豊潤なシンセパッド、引き締まった重低音、どこか遠くの世界を思わせるシーケンスフレーズ。

落ち着いた出で立ちとは正反対の激しい振り付けと玲瓏なステップが魅せるコントラスト。

ツクヨミやベキリでの活動とは別の、久しぶりに見せた凛のソロは待望されていて、リリースするや否やたちまちに席巻し紅白当確とまで云われるほどだった。

往年の古参ファンの一握りが、凛の瞳に翳が差しているような印象があると呟いても、SNSと云う電子の海の奔流に押し流され、誰も顧みなかった。
341 : ◆SHIBURINzgLf [sage !蒼_res]:2020/08/02(日) 00:02:43.81 ID:AHbf10HPo

今日はここまで
342 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2020/08/02(日) 05:51:27.19 ID:REBq6RqDO
いよいよヤバくなりましたね

あと、どれぐらいまで堕ちます?
343 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2020/08/02(日) 21:21:47.99 ID:AHbf10HPo
>>342
それは今後のお楽しみということでwwww
344 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/02(日) 21:22:36.89 ID:AHbf10HPo

・・・・・・

秋の番組改編シーズンは特番等が目白押しで、春と正月の次に忙しい時期だ。

凛や栗栖とて例外ではなく、ツアーだったりフェスだったりの本業も重なって中々逢えない日が続いている。

お互いの状況は理解しているのに、凛は寂しさのあまり「仕事の付き合いを早く切り上げて逢いに来て」と連絡してしまうこともしばしばあった。

その度に返される栗栖からの謝罪の電話で、正気に戻って「ごめん」と詫びるが、下腹の空虚な旱魃―かんばつ―は恵みの白雨を渇望して請いの叫びを上げ続ける。

自らの中の女々しさを呪っても、それで止められたら苦労はしない。

この感情をパージするためなら悪魔と契約してもよいとさえ思えた。
345 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/02(日) 21:23:29.67 ID:AHbf10HPo

その日は23時過ぎに凛は帰宅した。

手持無沙汰にテレビを点けると、大雪山の色づきが見事だとバラエティニュースが流れてくる。

ガラスの壁から眼下に広がる東京ベイエリアを眺めても、こちらは紅葉のコの字も見える気配はない。

「そう云えば少しは過ごしやすい気温になってはきたかな」

きっとそれも一瞬で、すぐに今度は寒い寒いと地球の気象に文句を垂れる日がくるのだろう。

こんな日和のうちにバルコニーで栗栖とゆっくり夜風に当たれればいいのに。
346 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/02(日) 21:24:06.87 ID:AHbf10HPo
凛は半ば諦めを抱きながら発話ボタンを押した。

呼び出し音が響く。
3回、4回、5回……今は出られないのかと観念して切ろうと思ったところで、7回目の音が途中で終わった。

『もしもし』

抑揚と声量を抑えた調子で栗栖が出た。後ろからはゴーゴーと騒音が聞こえてくる。

問えば、岐阜でのロケを終え、最終の新幹線で帰京している途中だと云う。なるほど、デッキへ出るまでに少々時間を要したわけだ。
347 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/02(日) 21:25:29.36 ID:AHbf10HPo
少しだけ会話に間が空く。相変わらずの騒音だけが耳を犯す。

『凛?』

「逢いたい」

ただその一言。凛はその4文字に全ての想いを乗せて送り込んだ。

また会話に間が空いた。今度は、栗栖が色々と思考を回している。

『……ああ。品川で俺だけ降りて向かう。タクシーじゃ運ちゃんにバレるかな。歩いて向かうから少し時間かかる。
そろそろ新横浜だから……日付が変わる頃に着けると思う』

「うん、ありがとう」

今日も逢えないかもしれない、そう不安に押し潰されそうだった凛の心は、一転、月光草の咲く丘のように静かに煌めいた。
348 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/02(日) 21:26:01.72 ID:AHbf10HPo
「ねえ、好きだよ」

『俺もだ』

恒例となった締めの言葉で通話を終え、ダイニングの椅子に座る。

改めて伝えるまでもない台詞を紡いでも、栗栖は律儀に応える。

面倒な女心にきちんと付き合ってくれることが凛は嬉しかった。

急に視界の彩度が上がったような気がした。

否、正確に云えば電話をするまでの彩度が、精神に連動してセピアのように低かったのだろう。窓から見える遠くの高層ビルに赤色灯が点滅している。
349 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/02(日) 21:27:06.93 ID:AHbf10HPo
新横浜に着いたかな。

新横浜を出たかな。

多摩川を渡っている頃かな。

栗栖の位置を勝手に予測しては、折に触れスマートフォンのロック画面に表示される時計を見るのだが、ちっとも針は進んでいなかった。

心が焦れる。1分1秒がこれほどまでに長く感じたことはかつてない。
350 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/02(日) 21:28:23.22 ID:AHbf10HPo
遂には、居ても立ってもいられず、終電車のぞみ64号の時刻を調べて、到着する頃合を見計らってマンション前の海岸通りまで出迎えに向かった。

東京モノレールの軌道と首都高速羽田線に挟まれながらも、幅員を広く確保された歩道のガードレールに腰掛けて待つと、信号を渡ってくる栗栖を視認する。

深夜ゆえの人影の少なさですぐに分かったが、例え人通りが多かったとしても凛は栗栖を見つけられただろう。

腕に飛びつきたい衝動に駆られつつも、はしたない女になるものかと、すんでのところで押し込んだ。

二人並んで、エントランスへと入ってゆく。
351 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/02(日) 21:28:58.69 ID:AHbf10HPo
居住階のエレベーターホールを抜け、ようやく到着しましたるは今夜の二人の愛の巣。

「おかえりなさい」

ドアを閉じ鍵を掛けた栗栖へ、先に靴を脱いだ凛が微笑みを向けた。「いらっしゃい」ではなく「おかえり」。

「ああ、ただいま」

「逢いたかった」

栗栖の下足を揃えるもそこそこに、待ち切れなかったとすぐ抱擁した。

胸板に顔を埋め、上を向いては唇を強く押し付け重ね合う。

砂漠のオアシスに辿り着けた凛は、それまでの渇きを癒すべく、たっぷり5分はキスを貪り合った。
352 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/02(日) 21:29:47.86 ID:AHbf10HPo
ようやく落ち着いて、リビングのソファへ腰を据える。

「忙しいのに来てくれてありがとう。本当に嬉しいんだ」

「問題ない、俺も逢いたかったから」

栗栖は優しく語り掛けた。

きっと長距離の移動で疲れているはずなのだが、それを表に出さないのは男のプライドだろうか。
353 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/02(日) 21:30:35.73 ID:AHbf10HPo
「これ、ロケのお土産。当日のうちに渡せてよかった」

と云って、栗栖は凛に桐箱を差し出した。蓋を開けると、刀匠の銘が刻まれた刃体が上品な輝きを放つ。

「わ、すごく綺麗……」

「関の包丁。国内どころか世界でも最高級レベルのものらしいぞ」

岐阜の関は刀で有名だ。イギリスのシェフィールド、ドイツのゾーリンゲンと共に世界三大刃物産地と呼ばれる。

凛はその美しさに息を呑んだ。宝石や貴金属とはまた別種の、機能美や造形美。包丁自身が「えへん」と胸を張っているようだ。
354 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/02(日) 21:31:12.47 ID:AHbf10HPo
ロケで忙しかったろうに、わざわざ時間を割いて凛のための土産を物色した事実がとてつもなく嬉しかった。

「ありがとう……これを使って、腕によりをかけて料理をもっと作るよ」

そう決意を新たにする瞳の輝きに栗栖は深く頷く。

「岐阜って普段全然ピンとこない地味っぷりだけど、いざ行ってみると案外面白いもんだな」

台所で包丁を収納した凛が、栗栖の感想を聞いてカウンター越しに「テレビやラジオでは到底OAできない暴言だね」と指摘するので、栗栖は両手を降参の如くそっと掲げて「これは失敬」と二人笑い合う。

この安寧、この平穏。久しぶりの感覚だった。
355 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/02(日) 21:34:26.19 ID:AHbf10HPo
どちらからともなく再び唇を求め、1日の汗を流さむと二人一緒に入ったバスルームで1度交接してから、シャワー上がりのビールをバルコニーの夜風に当たりながら味わう。

「今日はこれをしたくて連絡したんだ」とドイツ製の独特な形状の瓶を掲げて凛は破顔した。

すっきりとした強い苦味のビールが合う時期はもうそろそろ終わる。

じきに、室内で甘い小麦ビールやホットワインを傾けるようになるのだろう。冬が来る前に、栗栖と二人だけの夜風に当たっておきたかった。

「……急な誘いに応えてくれてありがとう」

大事な宝物を慈しむかの声音に、栗栖は柔らかに相好を崩して顎を引いた。

凛の美しい横顔を海からの風が撫で、長い髪が揺れている。
356 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/02(日) 21:35:31.31 ID:AHbf10HPo
「さ、お風呂上りにずっと外の風を当てるわけにもいかないよね。戻ろうか、栗栖」

満足気にゆっくり踵を返そうとすると、不意に後ろから包まれた。

「風で冷やされる以上の熱を発生させればいいだろ?」と耳元で囁かれながら、バスローブの衿先から右掌が侵入してくる。

「あ、ちょっと……あっ……」

柔らかな丘を揉みしだかれると、凛の身体はたちまち熱を帯びた。

頭部だけ振り向いて口づけを交わす。

唇とその向こうにある舌先、双丘の先端、そして絹のように滑らかなうなじ。この3箇所が凛のスイッチだ。

全てを同時に刺激されて、それだけで凛は軽く果てた。こうなったら、あとはもう止まらない。

間もなく、交合によって湿った皮膚を打つ規則的な音と艶やかな喘ぎが謌い出す。
357 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/02(日) 21:36:17.90 ID:AHbf10HPo
「ねえ、好き?」

……好きだよ。

「私のこと愛してる?」

……愛してる。

凛は、まぐわいの最中に自らの問いが肯定されると、それらがどんなに短い間隔であってもその都度仰け反り、全身を震わせ悩ましい嬌声と共に達した。

脳内麻薬に犯され、肉体も精神も快楽に飛んだ。
358 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/02(日) 21:36:47.93 ID:AHbf10HPo
湿った肌に貼り付いた自らの髪を乱暴に撥ね除けて、もっと、と求める。

「私の全てをあげる。だから、あなたの全てを頂戴!」

自らの何もかもを差し出したい。全てを捧げたい。

その感情の奥に、独占欲が潜んでいることを凛は知らなかった。

久方振りの情事は、逢えなかった分を取り返すかのように、場所を変え体位を変え攻守を変え、朝まで一睡もせず何度も営み続けられた。

家の至る所に、二人の体液で形成される染みが増えてゆく。

もはや栗栖以外の人間を招き入れることは難しい。

更に、更に堕ちてゆく。もう、凛には止められない。
359 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/02(日) 21:37:42.93 ID:AHbf10HPo

・・・・・・

セキュリティ対策と云うものは、効果の見極めが非常に難しい分野だと指摘されている。

対策が正常に効果を発揮している間は、何もトラブルが起きないからだ。

存在しないものに対して観測することはできない。

人間は、ゼロの概念を思考することはできても、ゼロを見ることは不可能なのだ。

観測できる状態とは即ち、正常に効果を発揮しておらず、綻びが生じ問題が顕在そして手遅れとなったことを示す。

保険と云う言葉に置き換えれば誰もが重要性を認識するのだが、それは金を払えば単純に済む話だからであって、こと行動を要する対策を常に施し続けるのは、人間には難しいのだろう。

転ばぬ先の杖。あまねく諺は先人の苦労の残滓と云うわけだ。
360 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/02(日) 21:39:42.53 ID:AHbf10HPo




硝子ドール
https://www.youtube.com/watch?v=zdZAZq3msFU



361 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/02(日) 21:40:12.92 ID:AHbf10HPo

ラジオのスピーカーから重々しいゴシックメタルの楽曲が流れている。

――声を聞かせて 姿を見せて わたしを逃がして
――ねえ、鍵が壊れた 鳥籠の中ひとり ずっと

伴奏の暴力的な荒さとは裏腹に、透明感ある女の子のボーカルが硝子をモチーフとして歌い、異質のコントラストを彩る人気曲だ。

そのアイドルは年次としては凛の一年後輩で、他社ではあるが資本的には親戚とも云える養成校―スターライト学園―出身の“吸血鬼”だそうだ。

『設定』と云う野暮な言葉はさておき、表向きはそのように云われている。蘭子がシンパシーを感じているらしい。
362 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/02(日) 21:41:22.53 ID:AHbf10HPo
第一課、Pデスク近傍にあるソファは、会社始まって以来史上最大の暗いオーラが漂っていた。重いBGMに引っ張られたわけではない。

「もう、最悪」

凛は組んだ両手へ額を載せるように俯き、深い溜息を吐き出した。

ガラステーブルの上に、週刊誌のゲラ刷りが置かれている。
363 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/02(日) 21:42:35.92 ID:AHbf10HPo
――『トップアイドル同士の熱愛発覚か! 深夜の邂逅とお泊り会』

下品なまでに太いゴシック体で書かれた題字と、その下には深夜の海岸通りの歩道を二人並んでマンションへ消えてゆくさまを記録した、隠し撮りであろう白黒写真が見開きで載っている。

その解像度は非常に高く、バードウォッチングのように超望遠でスッパ抜いたものではなさそうだった。

どうやって撮ったのかと訝しめば、南隣が新聞社の敷地だったことを思い出す。

スポーツ紙はたとえスクープであっても芸能事務所に照会後でなければ載せない紳士的な取り扱いをするものだ。

しかし、だからと云って大衆週刊誌を刊行する同業他社とのパイプがないわけでは当然あるまい。
364 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/02(日) 21:43:35.90 ID:AHbf10HPo
迂闊であった。あのとき栗栖に一刻も早く逢いたいがため完全に失念していた。

初めてを捧げたことで、心に隙が出来ていたのかもしれない。

不幸中の幸いを挙げれば、腕を組まなかったことだ。

凛の嘆息に「ああそれは正解だったな。腕を組んでたら完全に言い訳できない」とPは答えた。

この惨事に比して不気味なほど冷静だ。

「プロデューサー、随分落ち着いてるじゃない。こんなこと――いや、私の所為だけどさ、こんなことが起きてるのに」

「まあ……な」
365 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/02(日) 21:44:33.01 ID:AHbf10HPo
既にこのような事態を見越して、田嶋ひいてはジョニーズとも話し合いを済ませてあったのだ。

むしろ、確度の高い情報は、ツーリングデートをした日、凛がCGプロへ到着せぬうちに先方から齎―もたら―されていた。田嶋の地獄耳は凛のくしゃみを捉えていた。

詳しい内容は情報を下ろしてもらえないが、交際が露見した場合の口裏は、とっくのとうに合わせてあるようだった。

「……なんで、何も云わないの」

根回しを済ませていたことへのありがたさと、その反面、自分の知らないところで工作が済まされていたことに対する不快感を綯い交ぜにして凛は問うた。

今回のスキャンダルはCGプロ始まって以来の大損失を計上するほどのものになるはずだ。

だのに、後処理を淡々と進めるだけで譴責すらされないことが不思議で仕方なかった。
366 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/02(日) 21:45:41.76 ID:AHbf10HPo
Pは返答の言葉を濁す。

ジョニーズとの交渉内容を赤裸々には答えられないと云う守秘義務の事情もありつつ、凛にあまり心配をかけたくない気持ちが強かったからだ。

なにより、凛のこれまでの犠牲に成り立つ功労を考えれば、やりたいことをやりたいようにさせたのはPひいては会社の判断だった。

その決裁の末に起きたことに対しては、会社が結果責任を負うのは当然であり、凛個人に帰すべきものではないのだ。

ただ、これを云えば凛が必要以上に自責の念に駆られるのは間違いない。

結果、Pは上手く伝えることができずに言葉を濁すしか手立てがないわけだ。
367 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/02(日) 21:46:14.07 ID:AHbf10HPo
「……やっぱいいよ、忘れて」

Pが答えに詰まっているのを見かねて云った。

凛は凛とて、エスパーではない者にP側の事情を汲み取るのは難しい。

自分の利用価値が落ちているから事務的な処理で済まされているのだろうと、穿った見方をしてしまうのだ。

利用価値の衰退――つまり、凛が損失を発生させても屋台骨が揺るがないほどに、他アイドルによる強固な収益構造が築き上げられていると云うこと。

単純な費用対効果を計算しただけの、血の通わない処理で済ませて問題ないと判断されるほどにまで、自らの地位が相対的に低下しているのだと、そう感じてしまう。
368 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/02(日) 21:47:02.47 ID:AHbf10HPo
渋谷凛、第3代シンデレラガール。だが、それがどうした。

凛が戴冠して以来、もう既に幾人もの新たなシンデレラガールが誕生しているのだ。

特に、6代目としてその頂へと登り詰めた高垣楓はとてつもないバックボーンを持っている。

更には、200人ほど所属しているアイドル一人々々に強固なファンがついており、積み重なれば売上は相当な規模になる。

凛への依存度は、黎明期よりは確実に多少なりとも下がっていた。
369 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/02(日) 21:48:08.98 ID:AHbf10HPo
お荷物は、淡々とする他ないんだね。

凛は、今後の方針が書かれた書類を、色のない顔で見ながら嘆息した。

――もうやめにしたいのに 終わりが怖くて
――またくりかえすの

相変わらずスピーカーはゴシックメタルをかき鳴らしていた。
370 : ◆SHIBURINzgLf [sage !蒼_res]:2020/08/02(日) 21:48:48.74 ID:AHbf10HPo

今日はここまで
371 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/03(月) 23:32:17.74 ID:m1PjjjcXo



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麻布十番を走る環状3号は、文京区の一部区間には環三通りの名が残るものの、著名な環七や環八と違ってあまり語られることはない。

歴史に翻弄され大正時代の青写真からはだいぶ乖離したが、外苑東通りのバイパスとして平成期に整備された道だ。

その経緯ゆえ幅員は広めだし、歩道もしっかり確保されていることもあって日常そこまで交通は集中しない。

しかしその日は赤羽橋を超えて芝公園まで延々と続く渋滞の起点になっていた。

第1車線を様々な車両が占拠し、交通容量が圧倒的に不足したからだ。

その違法駐車の大半はマスコミの車で、狙いはもちろん、芸能プロダクションのビルだった。
372 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/03(月) 23:33:01.18 ID:m1PjjjcXo
件―くだん―の標的、CGプロ11階の大会議室には臨時会見場が設置され、壁際にはずらりと並んだテレビカメラ、発表席にはチンアナゴの群生にも引けを取らない本数のマイク、会場の様子を全国へ伝えむとする記者は廊下にまで溢れている。

社でレッスンの予定だったアイドルは課内待機、事務方はおろかトレーナー陣まで場内整理に駆り出されており、全社が上を下への大騒ぎだ。

特に第二課に多い気弱なアイドルは、未知の状況に恐怖感を抱く子もいた。

「友人として仲良くさせて頂いています」

中央側に座る凛の口から、はっきりとした口調で発言が続いている。

彼女は何の味付けもしない言葉を紡ぐが、その実、内心では釈明の言葉がとても悔しい。

無論そんな感情は赦されない。徹底的に抑えつけて、あえて淡々と発表をこなしてゆく。
373 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/03(月) 23:33:42.48 ID:m1PjjjcXo
「お騒がせしておりますこと、お詫び申し上げます」

おびただしい量のフラッシュが焚かれる。網膜が焼かれ失明してしまうのではと感じるほどだった。

耐え切れず瞼を閉じ目を伏せると、その瞬間を狙って更に倍量の光線が照射された。

ああ、こうやって意思とは無関係の絵面が作られていくのか。

凛は眩しさの向こう側にあるバッシングの世界を垣間見た気がした。

きっと今撮られた映像はワイドショーで延々と繰り返し放映され、紙面媒体の写真には彼女が交際を認めたようなミスリードを誘うキャプションが付されるに違いない。
374 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/03(月) 23:34:56.71 ID:m1PjjjcXo
一通りの定型文を述べ終えると、ここからが本番だ。

取材記者たちが、まず最初に社名を名乗ってから、鋭い質問を次々に投げてくる。

――写真を拝見した印象を率直に述べれば、実際にお付き合いをされているのではないですか?

「いえ、あくまでTITANさんとは友人です。
お互いそれぞれのアイドル活動がある中でツクヨミも進めなければなりませんので、様々な事情によりどうしても夜通しの合宿のようなことがしばしば発生いたします」
375 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/03(月) 23:35:31.96 ID:m1PjjjcXo
――種々のご事情があるとのことですが、さすがに深夜の邂逅でその釈明は苦しいのでは。
或いは業務の一環だとすれば、かつてのタコ部屋・奴隷労働より酷い人道に外れた生活を強制されているようにも受け取れますが。

「すでに交通網の営業が終了する時間だったとは云え、自宅での打ち合わせをするのは軽率だったと反省しております。
またこれは自主的な勉強会であり、事務所等から指示や強要を受けたものではありません」

――肩を寄せ合い非常に仲睦まじく歩いているように見受けられますが。

「写真には入っていませんが、この手前側に橋脚がいくつも並んでいて、それを避けるのにTITANさんの方へ寄った瞬間を切り取られたのだと思います。
繰り返しますが、友人として、音楽仲間として仲良くさせて頂いています」
376 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/03(月) 23:35:59.96 ID:m1PjjjcXo
演じることは慣れている。

感情にないことを云うのは慣れている。

それでも今この時だけは、意思を自由に表現してはいけない身を呪った。

ジョニーズは云うまでもなく超大手。このようなスキャンダルは簡単に赦されるものではない。

どんなに黒に近いグレーであろうとも、ただの友人関係だと、これは白なのだと強弁しなければならない。
377 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/03(月) 23:36:27.52 ID:m1PjjjcXo
充分知っている。

知っているけれど。

悔しいよ、悔しい。

何よりも、凛は自分の力ではどうにもならないことが悔しかった。

四六時中浴びせかけられるフラッシュの白さを、忘れるものかと目と心に焼き付けることだけが、今の凛にできる精一杯の反骨だった。
378 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/03(月) 23:38:09.22 ID:m1PjjjcXo

凛のマンションが、許可車以外に進入が許されない構造の地下駐車場であることは救いだった。

多くの一般人が住んでいる場所なのだ、開閉式のバーで区切られたところにまで入ってくる不届き者は流石にいない。

仮にいたとしても、臨時に雇った警備員が即座に摘み出してくれる事実は、家にいるときだけ少しの安寧を与えてくれることを意味していた。

会見以降、日頃の通常のアイドル活動でも、インタビュー等で、本来消費者へ伝えるべきことからかけ離れたスキャンダルについての話ばかり掘られ、無念さが募った。

結局、新曲に込められた想いだとか、ツクヨミの展開の狙いだとか、そう云ったアイドルの本質よりも逢瀬の追及が大事か。
379 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/03(月) 23:38:58.31 ID:m1PjjjcXo
悔しさの度に、凛はスマートフォンを叩く。

「今すぐ来て、お願い」

そして栗栖と身体を重ねた。

無論、この一連の負担は凛だけでなく彼にも押し寄せているはずだ。発覚以後、二人の行為はただの処理にも思えるような側面を度々見せた。

それでも、繋がるだけでよかった。

今の凛にとって、セックスとはマリファナやヘロインに等しい存在。

もはやドラッグなしでは生きてゆけない。
380 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/03(月) 23:40:07.61 ID:m1PjjjcXo

どんどん爛れてゆく二人の生活は、予想に反してそれほど大きな騒ぎにはならなかった。

最初のスキャンダルの教訓を得て、徹底的な対策を施したからだ。

観測できないことは、存在しないに等しい。

どんなにお互いの身体を貪り合ったとしても、尻尾を掴まれなければ、世間的には問題は存在しないことになるのだ。

ジョニーズとCGプロ、男性アイドルそして女性アイドルの巨頭同士が本気で組めば――更にはツクヨミを協賛している961や315など各社の力も使えば――メディア対策はそこまで難くない。

週刊誌を連鎖的に賑わすかと思えたスクープは、燃料供給が断たれてじきに下火になっていった。

紅白の話題が出る頃には、もはや紙面の空白埋めに使われるための、ただの噂レベルの小記事が散発する程度になった。
381 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/03(月) 23:41:48.45 ID:m1PjjjcXo
けれども、それで目出度し目出度し――とは問屋が卸さないのが現実だ。

一般大衆の感情に拠る行動原理は、燃料如何に左右されるものではない。

間違いなく嫌がらせは増えた。

「あの醜聞でよく今年も紅白出られるもんだよな、楓さんに譲ればいいのにさあ」

「きっとNHKのお偉いどものハートをガッチリと股で掴んで離さないんだろ」

「ツクヨミだってまだ共同リーダーとかいうポストに留まってんでしょ? 厚顔にも程があるよねー」

街中での会話に耳を傾ければ、尊厳など存在しないとでも云うかの如し下卑た笑いが響く。

芸能人に限らず、得てして公人の人権は大衆から顧みられないものとはいえ――

「こりゃ到底本人の耳には入れられねーな」と街をたまたま歩いていたつかさはコートを締めなおして雑踏へ溶け込んでゆく。
382 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/03(月) 23:42:43.52 ID:m1PjjjcXo
ネット上では酷さがより深刻だった。

凛のファン、栗栖のファン、CGプロ派とジョニーズ派との代理戦争の様相を呈しているのだ。

やれ凛が栗栖を誘った売女なのだの、やれストイックな凛を栗栖が誑かしてつまみ食いをしたのだの、事実無根かつ荒唐無稽なつばぜり合いが繰り広げられる。

無論それぞれの派閥も一枚岩ではないので、友軍攻撃もしょっちゅうのこと。

24時間ひっきりなしに誰かが誰かを罵っている。
383 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/03(月) 23:44:39.01 ID:m1PjjjcXo
幕引きを図り鎮静化させるには、凛と栗栖を引責辞任のような形で消すのが手っ取り早いのだろうが、そうすると今度はアイドル業界全体の問題になるのが頭痛の種だ。

表向きは二人の間には何もないことになっている。どのような理屈をつけて引責させると云うのか。

特にジョニーズにとって栗栖を消すことは即ちSATURNの崩壊につながる。

ただでさえ八馬口の件があったのだ、泣きっ面に蜂の選択は絶対にしないはずだ。

では凛だけに被せて引導を渡す? それもCGプロは到底承服しまい。

凛のソロ活動のみならず、ベキリだってそれなりの利益を生んでいるし、何よりもシンデレラガール経験者にそのような処分を下しては看板に致命的な傷がつく。
384 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/03(月) 23:46:23.48 ID:m1PjjjcXo
結局のところ、ここで退いたら、ツクヨミ含め日本芸能界のこれまでの奮闘全てが瓦解してしまう。

どんなに罵られようと誹られようと、退くことだけは許されなかった。

だと云うのに、業界内の人間ですら、目先のことしか見えていない無知蒙昧な輩は早期幕引きを図って浅はかな主張をするもので、一体誰が誰の味方なのか全くわからない状態だった。

目や耳に堰を立てるわけにもゆかず、誹謗中傷の嵐は、凛の心を、そして栗栖をも容赦なく踏み荒らす。

その度に、凛は栗栖を求めた。
385 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/03(月) 23:46:53.93 ID:m1PjjjcXo
栗栖から愛の言葉を囁かれるのは稀になったが、快楽を流し込んでくれさえすれば、精神の形態はどうでもよかった。

たとえ処理のための道具のように扱われても、彼に貪られている間だけは、何も考えずに済む。

ただ絶頂に身を委ねるだけでよい。

そのために、凛は何でもした。
386 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/03(月) 23:47:27.62 ID:m1PjjjcXo
栗栖の好みの女になろうと、私服の趣味やアクセサリのコーディネイトなど、身の設えを変えていった。

今まで以上に、身体の引き締めや美肌の維持、女としての魅力を磨くことに注力した。

副次的に、アイドルとしてのアピール力が増したのは強烈な皮肉だと云わざるを得ない。何もかも栗栖のためを思って採った行動に過ぎないのだ。

そして求められれば、どんなに変態的な行為にも応えた。

春を迎える頃には、いつしか、栗栖との融合は、倒錯的なものばかりになっていった。
387 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/03(月) 23:48:32.67 ID:m1PjjjcXo
この関係は、恋と呼んでよいのだろうか。

きっと、恋ではないのだろう。凛にとっても、そして栗栖にとっても。

栗栖にとっての凛は、今となっては性的欲求を満たすための、見た目のよい玩具に過ぎないのかもしれない。

翻って、凛にとっての栗栖とは?

凛は行為が終わった後の痙攣の余韻に浸りながら、脳のどこかは不思議と冷静で、二人の痴態を天井から第三者のように見下ろしていた。

栗栖と云う存在は、悔しさを交合で紛らわせるための道具だろうか。

決して間違いではないだろうが、正解でもない気がする。
388 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/03(月) 23:48:59.73 ID:m1PjjjcXo
確かに、まぐわうことで得られる快楽が色々と忘れさせてくれるのは事実だ。

だが、その行為と栗栖の存在はイコールではない。

では、寂しさを埋めてもらうためのパテだろうか。それも違う。

おそらく――必要とされるだけでよいのだ。

「私は……」

隣で後処理をすることもなく寝息を立てている栗栖を横目に見遣る。

――彼が私を必要としてくれるならば、何でもいい。

「……もっと、この人の望んだ通りの女にならないと」

そして凛も意識を手放した。
389 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/03(月) 23:49:46.13 ID:m1PjjjcXo

・・・・・・

「なあ、凛。そろそろヤバいんじゃねえの?」

間もなく初夏になろうかという時分。

相変わらず栗栖との慰み合いを続けていたが、いよいよ身体への無理が顕在化しているようだった。

ベキリでの仕事を終えた凛に、楽屋で心配そうに訊ねてきたつかさの言である。
390 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/03(月) 23:50:36.53 ID:m1PjjjcXo
この日はベキリの新曲のプロモーションを兼ねた、バラエティへの出演だった。

新曲披露のステージはそれなりの出来で完了できたが、さほど激しくないフェミニンなダンスの曲であるにも拘わらず、パフォーマンス直後でもけろりとしたつかさに対し、凛は肩で大きく呼吸をしていた。

更には、司会者からの醜聞に関わる多少意地悪な話題の振りをされた瞬間、対応をとちってしまった。

頭が真っ白になって、正直どんな受け答えをしたのか凛本人は詳しく覚えていない。

つかさは社長業のみならずトークバトルと云うショープログラムで鍛えた喋りのテクニックがあるから、大事になっていないと云うことは、幸いにも彼女の働きで事なきを得たのだろう。
391 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/03(月) 23:51:38.98 ID:m1PjjjcXo
「うーん、ごめん。なるべく色々と気にしないようには……してるつもりなんだけどね」

やっちゃった、と凛は首を竦めて苦笑した。

「ありがとう、つかさのおかげで助かったよ」

「ま、いいってことよ。あんま無理すんなよ?」

長居をせずに上がろう、となったところで、病気を疑うほど痩せた番組ADが「お疲れ様でした」と顔を出す。

やや含みのある表情をしているのが、つかさは気に食わなかった。
392 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/03(月) 23:53:20.11 ID:m1PjjjcXo
どうしても一言云いたくて口をつく。

「なあアシさんよ、センシティブなことはアドリブじゃなくて台本―ホン―に載せてからにしてくんねーかな。さすがにあのフリは社から抗議モノじゃねえ?」

その実、意地悪な質問は司会者のアドリブに見せかけて、スタッフは全員知っていたような印象があった。

つかさの言葉は柳に風で、ADは「いやあやっぱり視聴者を楽しませないといけませんし、ライブ感は重要ですからねえ」と嘯―うそぶ―く。

「あのな、アタシらは芸人じゃねえっつうの!」
393 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/03(月) 23:54:01.62 ID:m1PjjjcXo
ADの、まるで神経を逆撫でするような仕種につかさは沸き上がり、その剣幕にガリが怯むのを見かねた凛が「つかさ、いいよ。いいから」と制止した。

「でもよ!」

「いいんだよ。今はアイドルもバラエティスキルが要求される時代ってこと。今度未央にレクチャーして貰うからさ」

本田未央は凛と同期の第三課で、パッションの代表頭と云える。

その芸人も舌を巻くバラエティスキルは、今やお茶の間になくてはならない人材と云って過言ではない。
394 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/03(月) 23:54:36.61 ID:m1PjjjcXo
ぽんぽんとつかさの肩を叩いて、目を閉じながらADに軽く会釈する。

「体調が思わしくなく、お見苦しいところを失礼しました。次はトークを頑張りますので」

「え、ええ……こちらこそ……またよろしくお願いします」

凛のアンニュイな対応に、ADは鳩が豆鉄砲を食ったようで、牙を抜かれて去っていった。

静寂が楽屋を支配する。

「……つかさ、私のためにありがとうね。厭な思いさせちゃって、ごめん」

「おいおい何を水くさいこと云ってんだよ、パートナーだろ? とにかく、きちんと休養を欠かさないようにしねーとな、頼むぜ?」

「うん……ごめんね」

凛は、全く関係のないはずのつかさにまで影響が及んでいることに気づいて、どうすればよいのか、考えあぐねていた。
395 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/03(月) 23:55:49.85 ID:m1PjjjcXo

===

気づけば凛は、世界が異星人に侵略されシェイクされているのではないかと云う感覚を受けた。

エイリアンの攻撃で燃え上がる炎が肺を焼き、満足に呼吸することができない。

かと思えば今度は海の中に放り込まれて頭を押さえつけられる。まるでヤクザの水責めのよう。

昭和時代の映画か何かの中に入り込んだのだろうか。
396 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/03(月) 23:56:37.00 ID:m1PjjjcXo
いや、これは紛れもなく現実だ。

その証拠に、この世は全てスムージー。

シェイクが止まれば、ドロリとろけて喉に絡むようなジュースの出来上がりだ。

なのに不思議にも、謹製のスムージーは冷たくないのだ。むしろ熱ささえも感じる。

どんなテクノロジーで作っているのだろうかと不思議に思う。
397 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/03(月) 23:57:58.49 ID:m1PjjjcXo
「――ッ!?」

凛は意識が突然覚醒した。

景色は見慣れた自室で安堵する。

しかし苦しい、身体が動かない。

何故なのかと必死に目を動かせば、頭が両手でがっしりとホールドされている。

口に意識を向ければ、中の方まで栗栖が刺さっている。
398 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/03(月) 23:58:46.43 ID:m1PjjjcXo
ああ、息ができないのはこの所為か。

凛はまるで他人事のように納得した。

脳味噌をぐわんぐわんと前後に揺すられ、そのうち喉の最奥で栗栖が果てる。

激しい脈動と共に大量の残滓が流し込まれ、その勢いに、飲み込めない分は鼻腔へ逆流した。

凛自身も目の奥が白か或いは桃色にスパークし、全身を不随意に痙攣させた。すでに嘔吐中枢は麻痺している。
399 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/03(月) 23:59:16.27 ID:m1PjjjcXo
頭の拘束が解かれ、ぷはっと口から抜いて後ろへ倒れ込んだ。

全身が引き攣って脳味噌の指示を聞こうとしない。酸素を求める胸の動きに気道が震え、ヒュウヒュウと喘息患者のような音を発している。

散々な身体の状態に反して、意識は明瞭だった。

効果覿面だね、これ。

凛は部屋の隅で燻っている煙を見つめた。
400 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/04(火) 00:00:39.23 ID:uYG6pbKDo

「栗栖、逢いたい」

収録から帰ってきた凛が3回リダイヤルして、ようやく出た栗栖に開口一番云った。

「ごめん、今夜は別件が――」

「私を優先してくれないの? 私は栗栖から呼び出されれば、全部投げ打って逢いに行くよ? 栗栖は違うの? 私は栗栖に何でもしてあげる。何度でもイかせてあげるから、絶対来て」

凛はそう云って、返事を待たずに電話を切った。否、正確に云えば、それ以上はまともに会話できないであろうと思って切ったのだ。
401 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/04(火) 00:01:17.33 ID:uYG6pbKDo
電話が一方的に切れた栗栖は、じっとスマホの画面を見た。昨今、凛の精神が自己防衛を試みているのか、束縛が強くなった気はしていた。

だが今回のような有無を云わさぬ要求をするのは、様子が違った。

仕方なく、栗栖は隣にいる人物に詫びてから、凛のマンションへと車を走らせる。

ベルを鳴らすも、反応がない。ふぅ、と一息吐いて、合鍵でエントランスと部屋の扉を開ける。

「凛、来たよ」

反応がなかった。

いつもなら飼い主を待ちわびていた犬のように玄関へ飛び出してくるのに。
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