白雪千夜「アリババと四十人の盗賊?」

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185 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 02:18:17.72 ID:tRJaplXx0
「さて、アリババには何の美徳もないものだと、私は考えていました。森に盗賊がやって来たと知るやロバを見捨てて木へ隠れる。盗賊が立ち去れば宝をくすねる。魔法の洞窟で合言葉を忘れた為に殺されてしまった兄カシムの、その四つ裂きの遺体を持ち帰る羽目になりながら、ついでにまた宝を盗んでいくことも忘れない。カシムの死因を隠蔽しなければ盗賊たちに見つかることを予見したまでは聡明ではありますが、肝心の方法はモルジアナ任せな上、いざ危機が迫った段では無能といってもいい程だ。しっかり顔を見た筈の盗賊の頭領を二度までも家に上げてしまうどころか、危険を察知し頭領を倒したモルジアナを、そんな事情に気付かず叱り飛ばすのですからね。《わたしたち一家にわざわいをもたらすつもりなのか》とかなんとか。よりイスラム調だという平凡社のものでは、ひどく罵りさえするのです。けっこう汚い言葉でしたよ。

 よくもまあ、題に名前を出せたものだ。『烈女之名誉(れつじょのほまれ)』といいましたか、最初の邦訳につけられた題はモルジアナを取り上げていたようですが、なかなか懸命な改変だったのではないかな」
186 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 02:18:44.15 ID:tRJaplXx0
「ですが、そこで思い直しました。『アリババと四十人の盗賊』…… 一見して立派なものではない、努力をしているふうでも、さしたる活躍を見せさえもしない彼、アリババの名を冠するからには、この話はやはり彼の美徳を、そして対称的に盗賊たちの悪徳を語るものなのでは、と。これは『モルジアナの戦い』ではない。『魔法の宝窟』でも『開けゴマ』でもない。『アリババと、女奴隷に殺された四十人の盗賊』なのです。この題が意味するのは、アリババと盗賊、善と悪、成功と失敗、美徳による隆盛と悪徳による滅亡の、その対比…… なのでは、と。

 ガランがそれらを見出し題にしたのだとも、初めて聞いた時からこうだったのだとも、言い切れませんが、――彼は『ガラン版 千一夜物語』の一巻、『告知文』でこう書いています。《この物語集から美徳や悪徳をめぐる心得をひきだそうとするひとびとは、ほかの物語からは決して得られない実りを手にすることができるでしょう》」
187 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 02:19:11.87 ID:tRJaplXx0
「その文に続けて始まる枠物語=Aシェヘラザードが『アリババ』を含め、千夜一夜の物語を語るきっかけになった話では、彼女の父である宰相がこう述べています。《危ういくわだての行きつく果てを見抜けない者は不幸になると言う》…… 
 このことが、『アリババ』にも通じる教訓なのではないでしょうか」
188 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 02:19:52.49 ID:tRJaplXx0
「……過去に囚われない≠ニいうことだと思いました。あるいは未来へ歩むこと≠…… 未来を忘れない=Bそれがアリババの美徳なのだと。

 ロバを見捨てたのも、宝をくすねたのも、そして兄の死について、悼んだり驚いたりするばかりではなかったのも、アリババの精神の未来志向ゆえだ。それこそが、この物語の提唱する美徳≠ネのではないでしょうか。だからこそ、彼は富を手にしたし、命も守られた。それぞれの行動は、それによってもたらされる直接的な利益自体よりも、この物語独特の法則、見えざるものによる肯定、恩寵を呼ぶことでアリババを助けているのです。未来を忘れなかった=A危ういくわだての行きつく果てを見抜いた≠ゥら、富を得、命を救われた」
189 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 02:21:20.25 ID:tRJaplXx0
「そしてその逆、過去に囚われる≠ニいうことが…… その為に見抜けない≠ニいうことが、この物語の悪徳、裁かれるべき罪であり、《大きすぎる災厄》を引き起こす《ささいなきっかけ》なのですよ。

 より言うのなら、名誉≠ナす。プライド、自尊心…… 傷付けられた過去の名誉≠フ感情に拘泥し、それを回復することに囚われた者が、『アリババ』の世界では破滅するのです」
190 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 02:21:47.05 ID:tRJaplXx0
「アリババの兄カシムは、裕福な妻をもらったところから始め、街でも指折りの大商人として働いていました。貧乏な妻をもらったアリババとは比べものにならなかった。それが、升に残った一枚から推理したことで、アリババが大量の金貨を手にしたのだと知った時、彼は《どうしようもないほどの嫉妬にかられ》るのです。

 カシムはアリババを問い詰め、魔法の洞窟のこと、その入り口を開く呪文を聞き出し、宝を持ち出しに行きます。そして最期には、魔法の呪文、《開けゴマ》のことを忘れてしまった為、洞窟に閉じ込められ、帰って来た盗賊たちに殺されてしまいます。

 カシムは欲深いたちでした。しかし、その為に身を滅ぼしたのではありません。強欲には罰が下るという教訓話ならば、宝を載せすぎたあまり、牛が動かなくなったところへ盗賊がやって来る≠ニいったような最期の方が自然です。が、実際のところは、彼は洞窟を開く時には覚えていた呪文を、洞窟の中で忘れてしまった為に閉じ込められるのです。欲深いのが悪かったにしては、かえって奇妙な最期じゃないですか。そもそも、強欲なのはアリババも同じですよ。兄の亡骸を目の当たりにした直後でさえ、財宝に手を出すのですからね」

191 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 02:23:03.79 ID:tRJaplXx0
「ガラン版ではしっかり覚えていましたが、平凡社のヴァルシー写本の訳では、アリババも魔法の呪文を忘れてしまっています。救いを求めて神への信仰告白を唱えると、たちまち頭がすっきりして思い出すのですね。

 このあたり、対照的なようではありませんか。こちらの版だと、呪文など忘れてしまうのが当然で、神への祈りによってかろうじて取り戻されるものなのです。
 翻るならば原型といえるガラン版では、魔法の言葉は覚えているのが当然で、見えざるものの裁きによって忘れ去られてしまうもの、というところでしょう。

 そして、そうして裁かれたカシムの罪は、強欲ではない。むしろ、傲慢さや嫉妬心の方です。
 カシムの悪徳は、アリババの兄として、彼よりも裕福でなければ我慢がならなかったことです。未来の為、自分が裕福になる為よりもむしろ、弟よりも多くの財産を持つ兄でいる為に、過去の優位、自尊心を取り戻す為に洞窟へ赴いたことです。自分が上、弟が下。そういう過去に囚われた。過去の名誉に囚われた。

 だから、魔法の言葉を奪われた……」
192 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 02:23:42.30 ID:tRJaplXx0
「盗賊たちは言うにも及ばない。奪われた宝に固執した。そして、これもまた自尊心です。盗賊たちはこの物語中、宝を集め、増やす事は考えていても、自分たちの欲の為に使う場面そのものは描かれていません。彼らにとって洞窟の金銀財宝は資産価値よりも、《先祖代々》《剣を手に勇士として》集めて来た、勇気や男気の証明、あるいは団としての絆、自負や誇りとしての意味を強く持ったのです。彼らは奪われた誇りの為にアリババを追い、踏みにじられた名誉≠取り戻す為に、彼への攻撃を試みた。

 だけれど、危ういくわだての行きつく果てを見抜けないものは、不幸になるのです」
193 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 02:24:09.06 ID:tRJaplXx0
「あらくれものの一人は尖兵として街へ出て、ムスタファ老の証言からアリババの家を突き止めます。しかし、近所に似た門を構えた家々があり見分けのつきにくい中、目的の家の門に襲撃の目印を付けて帰還した、それだけだったのがまずかった。印が消えてしまう可能性を見抜けなかったのですね。あるいは、モルジアナの知恵を。

 木を隠すなら森の中ですか、周囲の家々にも同じものを書き込むという彼女の工作によって、印という差異、情報は失われました。盗賊たちは街へ潜入しますが、結局アリババの家は分からずじまいです。仲間たちに無駄足を運ばせ、無闇な危険に晒したということで、尖兵役は取り決め通り処刑を宣告され、これを潔く受け入れます。

 次いで、もう一人の盗賊が同じ失敗を犯します。印の色を変えてみても、モルジアナには通用しないのでした」
194 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 02:24:38.16 ID:tRJaplXx0
「単なる怒り、処罰感情に任せて、ではありません。盗賊団としてやっていくために、仲間を破滅させかねない過ちを犯した者を許しておくわけにいかないのです。過ちを犯した方も、それを甘んじて受け入れないわけにいきませんでした。それは《男気》だとか《勇気》…… いわば、名誉の為に」
195 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 02:25:06.76 ID:tRJaplXx0
「そうやって二人の仲間を失ったところで、今度は頭領が街へ出向き、結局家の様子をよく見て覚えるという力技で、モルジアナに欺かれることなくアリババの所在を突き止めます。

 十九頭のラバに二つずつ、計三十八の袋を背負わせ、その内一つに油を、残りに三十七人の仲間たちを。そうして油商人に成り済ました頭領は、アリババ邸の扉を叩き、一晩の宿を請うのです。

 愚かなりや、あるいは鷹揚、ですけれど。命を狙われる身である事は重々承知の筈が、しかしアリババは客人の求めを快諾します。
 頭領は招き入れられ、まんまと三十七人の部下を侵入させた。中庭に袋の彼らを待たせ、頭領自身はアリババの歓待を受けます。そうして夜中、街が寝静まるのを見計って号令を掛け、誰にも邪魔を受けず、仇敵を散々にやっつけてしまう腹づもりだったのです。しかし……」
196 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 02:25:32.55 ID:tRJaplXx0
「アリババの美徳は未来志向だと言いましたが、気前のよさもまた、ここでは功を奏したのかもしれません。

 未来志向は、森で顔を見、声を聞いた筈の頭領のことを――ともすれば、自分が命を狙われる身である事さえも――すっかり忘れ、突然訪ねて来た客人を招き入れた事。断っていたら、安全で時間を掛けられる方法を諦めさせ、正面からの攻撃を強行されてしまったかもしれません。

 気前のよさは、にせの油商人を心からもてなし、中庭で休もうとしていた彼に、強く客間を勧めた事。そうして頭領が部下たちと分かれて休んでいなければ、モルジアナがすることも阻まれていたでしょうからね」
197 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 02:26:02.04 ID:tRJaplXx0
「これも神の救いでしょう、たまたま油が切れたので、後で代金を払えばいいやという大らかさは主人譲りか、同じ奴隷アブダッラーの助言を受け、モルジアナは中庭へ拝借しに向かいます。

 そこで、頭領がやって来たと勘違いし、袋の盗賊がモルジアナに声を掛けました。彼女は驚きますが、咄嗟の機転で頭領を装い、盗賊を待機させておきます。

 彼らが顔を出せなかったのは作戦の瑕疵でしたね。袋は中身がバレないよう、息の出来る程度に締めておき、頭領から小石を投げつけるという合図があれば、ナイフで内から切り裂き、飛び出す計画だったのです。一度出るとなれば隠れ蓑を台無しにするしかない以上、いざ襲撃という折までは外の様子を確認することも出来なかった。だからモルジアナに騙され、三十七人の盗賊が身動きの取れないままで主人を狙っているという情報を、一方的に与えることになった。

 アリババを騙す為に、一つの袋だけ本当に油を入れておいたのも、仇になりました。これをモルジアナに利用されてしまいます。釜煎りならぬ、袋煎りですね」
198 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 02:26:34.39 ID:tRJaplXx0
「しかし、モルジアナは骨を折ったでしょう。大勢の盗賊たちを、袋に小石が当たる以上の異変に気付かせないまま始末しなければならなかったんですから。長刀で首を、というならともかく、熱した油を注ぐというやり方では、いくらか悲鳴を上げられてしまいそうですが。

 トリックのオンパレードともいわれるロジカルな筋書きにおいて、しかしガランはこの油攻撃のあたりを詳述していません。聞かされなかったのか、考えつかなかったのか、あるいは彼がいう所の《礼儀に反する》内容だったので記載を避けたのか。

 ……ひとつ考えてみたのですが、モルジアナは再び頭領を真似たのではないでしょうか。《見つかりそうだ、一度隠すぞ》とでも囁いて、盗賊の入った袋を力一杯に締めてしまうのです。《誤魔化しの為だ》と言い添えて、ラバの糞を滑り込ませるなどしてやれば、なお結構です。中の者が酸素の欠乏に、また臭いに我慢ならなくなるのを見計らって、《もういいぞ》と袋を開けてやれば……

 彼らは溺れたように、袋の出口に、とりもなおさずモルジアナに向けて大口を開けたでしょう――ただし新鮮な空気ではなく、ぐつぐつの油を飲む為に。真っ先に喉を潰せると思います」
199 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 02:27:03.54 ID:tRJaplXx0
「襲いに来たつもりが、手痛い反撃を受け、盗賊団は壊滅しました。しかし、被害が甚大すぎましたね。やり方の効率が悪かったのです。ややこしい侵入法を選んで、三十八人全員で乗り込んだりするから、かえって足元を掬われた。

 アリババ邸は分かったのだから、正面から襲いかかり疾く住民を皆殺し、あわよくばその前にちょっと拷問しておいて、盗まれた宝を探し出してしまったら、憲兵がやってくる前に魔法の洞窟へずらかればよかった。実際、二人の案内役が失敗を犯すまでは、彼らは殆どそういう風にするつもりだった筈です。それまでの二回は油商人を装うような綿密な計画など練らず、まず街へ向かうのですからね。

 事情が変わったのはきっと、二人の失敗があったから。ただの強盗では済まされなくなったから。アリババの前に三十八人で姿を見せる必要が生まれたから。何となれば、盗賊団としてやっていく為に。結束の為に。名誉の為に。

 アリババ――つまり、モルジアナ――の警戒を侮ってはいけないと悟ったのもあったでしょうが、それよりも、いえ、だからこそ、知らしめてやらなければならなかったのです。宝を奪われた。仲間を失った。やられたらやりかえさなくてはならなかった。三十八人でアリババを囲んで、じっくりと知らしめてやらなければならなかった。彼が何をしたのかを、何を奪ったのかを。相手にしたものの脅威を、盗賊団の権威と力量を。

 その尊厳への固執が、彼らに破滅を呼んだ」
200 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 02:27:35.31 ID:tRJaplXx0
「三十七の五右衛門風呂にペルシアの盗賊たちを処してしまうと、モルジアナは息を潜め、頭領の様子を伺います。温情や詰めの甘さからではありません。アリババが山で会ったらしい四十という人数から、まだ仲間が潜んでいる可能性を考慮し、差し引きの二人も誘き出し、一味を完全に一網打尽とする算段だったのです。

 結果的には、そこで頭領を始末してしまってもよかったのですね。全ての仲間を失い、たった一人で生き残ったことを察した頭領は、命からがらアリババ邸を逃げ出します」
201 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 02:28:03.93 ID:tRJaplXx0
「モルジアナは主人に盗賊たちの亡骸を見せつけ、自分がどれだけ働いたのかを示しました。アリババは感謝し、彼女を奴隷の身分から解放します。

 といっても当時の文化からして、解放されたらさようなら、とはならないのですね。解放されれば、社会身分上は自由人と同じく扱われるようになりますが、そのまま主人の元で解放奴隷として奉公を続ける場合も多かった。モルジアナもまた、台所を受け持つ料理人としてアリババの元に残ります」
202 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 02:28:38.99 ID:tRJaplXx0
「一方、頭領は独り生き残り、部下たちの無念を想って悲嘆にくれます。後継ぎを決めて宝を託すことにすると、アリババの命を奪うことをかたく誓い、今度は洞窟の財宝を利用して商いを始めます。そして、これはたまたまだったのですが、アリババの息子と知り合った。彼が仇敵の息子であるのを知ると計画の為、ますます懇意になるのです。やがて思惑通り、アリババの家に招待を受ける日がやって来た。

 ここまでは上手くいっている。神の同情的な手配といってもいいかもしれない。さすがに酷くやられすぎましたからね。
 それに彼は、洞窟でこう独白している。《二度と宝を盗まれないと安心出来たら、そのときは、後つぎを決めて宝を託そう。そうなれば、後につづく者たちが宝を守り増やしていくだろう》。……未来志向、といえるでしょう。復讐よりも、過去の名誉を回復するよりも、未来の為、後続の為に頭領としての最後の仕事を決意した。この時、彼は美徳を手にしていたのです。だから、再びアリババの家に潜入することが許された」
203 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 02:29:13.57 ID:tRJaplXx0
「しかし、そこは悪役でした。結局は悪徳が、過去への拘りが、彼を滅ぼすのですね。彼にはこの仕事を、復讐でなくすることは出来なかった。

 塩、です。ギリシャなどでもそうでしたが、ここでは塩は歓待や友情の象徴であり、共食したものとは争えないのだそうで。《仇と一緒に塩は食べない》のです。

 頭領は、アリババが敵である事を忘れられなかった。単に始末すべき、害虫のようなこそ泥とは思えなかった。仲間を失ってボロボロになっても、名誉ある剣士として戦わずにはいられなかった。だから彼の家に招待を受けた時も、料理から塩を抜いてくれるように頼んでしまったのです。

 モルジアナはそれを奇妙に感じ、客の商人がかつて主人を襲いにやってきた盗賊であることを見抜いた。一通りもてなすと、食後の楽しみに、本職顔負けの踊りを披露する。そして隙を見て、短刀で頭領を刺してしまいました。

 頭領は三十七人の部下たちと共に埋められ、こうして盗賊団は、最後の一人に至るまで完全に滅びきったのです」
204 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 02:29:45.79 ID:tRJaplXx0
「アリババは、自分に出来る充分な感謝として、モルジアナを義理の娘、息子の嫁として迎え、厳粛かつ盛大な宴で祝います。それから暫くは近寄りませんでしたが、二人生き残っていると思われた盗賊たちに動きが見られないので、魔法の洞窟に向かってみます。洞窟に誰も立ち寄っていないのを確かめると、いよいよ財宝は全てアリババのものとなったのが分かりました。

 そして彼は息子に洞窟の存在と魔法の呪文を授け、一族は末永く栄えたのです。

 これが、未来志向のアリババと過去志向の盗賊たちの対比、美徳と悪徳、隆盛と滅亡の物語です」
205 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 02:30:13.18 ID:tRJaplXx0
「さて。なんだか、余計な屁理屈をこねたかも。要はモルジアナの話が出来れば十分だったのですが。

 幸せなのか、と思うのです。というのも最後、結婚の祝宴ですが、私が参加する演劇ではこの四行のシーンを膨らませ、《私は幸せでございます》と言う事になっている。こんなことを言わせて、いえ、言ってしまっていいものなのか。

 確かに、敵は倒しました。今の主人には奴隷の身分を解放され、正式に家族として迎え入れてもらった。しかもその家は多くの財宝を所有する、末永く栄えていく名家です。この上ない名誉であったでしょう。

 ですがカシムを、元の主人を奪われた事実は変わりません。彼女は己の力不足を嘆かなかったのか? 主人に尽くす者としての名誉を傷つけられた、叶わないながらそれを回復したいとは? そうして仇を討ったところで戻らぬ主人を想い、《復讐などしても虚しいだけ》とは感じなかったのか? それとも、やってしまえばすっきりしたので幸せになれたのでしょうか?

 私には分かりませんでした。思索の始端が自分のこころなのでは、次の足場も探し難い。
 だから、美徳と悪徳に照らしたのです。これも自分の考えだとしても、方法論ならば頼み得る」
206 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 02:30:58.13 ID:tRJaplXx0
「モルジアナがめざましい働きを見せ、実質的に物語を牽引しながらも主人公たり得なかったのは、何故でしょう? 彼女が奴隷だからでしょうか? イスラムの文化では、同じイスラム教徒は奴隷に出来ないようですが、すなわちモルジアナは敬虔な神のしもべでないのだから、題に引くのは相応しくないと?

 この命題は、ガラン版ひとつにおいても『ヌールッディーン・アリーとペルシアの美姫の話』という反例から偽であると分かります。イスラムの文化において、少なくともその教義において、奴隷は蔑まれる存在ではありませんし、物語の主役であればその名は打ち出されるものなのです。

 やはり、これは美徳の問題ではないかと。『アリババと、女奴隷に殺された四十人の盗賊』は、最も優れた美徳を持つ者と、対置して悪徳を持つ者を題にとっているのです。モルジアナは誰から見ても素晴らしい才女でしたが、この物語においては、美徳という点でアリババに譲るのです。

 モルジアナはアリババほど未来志向ではなかったのだと思います。主人であるカシムの命を奪われた時、心の何処かに復讐を誓った。その悪徳が災禍の萌芽となって、彼女をあのババ・ムスタファと引き合わせた」
207 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 02:31:35.51 ID:tRJaplXx0
「アリババは、魔法の洞窟からカシムのバラバラにされた遺体を持ち帰ると、彼の死因を隠蔽する必要がある事をモルジアナに告げます。もちろん、事実が噂になれば、すぐ盗賊に自分の存在を突き止められてしまいますからね。

 モルジアナは知恵を絞り、数日をかけて主人が病に伏せっているという噂を流すと、次いで朝早く、一番に店を開ける靴屋へ向かいます。年老いた店主に金貨を握らせ、目隠しを施し、何処に行くのか分からないよう連れ出すと、カシムの亡骸を縫わせるのです。そうして形を整えて誤魔化し、病気で亡くなった事にして、イスラム教のやり方でその遺骸を清めると、葬儀を行いました。計画は思ったように立ち行き、もう足も付かなくなったものと思われました。

 そこからの騒動は、まさに神懸かり的な悪運か、落とし穴だといってもいい」
208 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 02:32:08.64 ID:tRJaplXx0
「念には念を入れていたのです。朝一番、誰にも見られぬように連れ出し、目隠しをし、口止めをした。家に送り返した時には、後を付けられないよう暫く見張った。年老いた靴屋からアリババの家が割れる心配のないように。

 ところがこのお調子者のババ・ムスタファは、変装した盗賊が街へやって来ると、死体を縫った仕事について喋ってしまいます。それをやった家までは目隠しをしていたので教えられないと断るも、もう一度目隠しをすることで、なんと、歩いた道を再現してしまうのです。しかも三回同じことを、全て正確に。もはや必然的に、ムスタファ老によって、盗賊たちはアリババを襲う足掛かりを得た。

 もちろんモルジアナにとっても、誰にとっても予想出来ない事でしょう。一方はゴマ≠フ一言をすっかり忘れてしまう物語で、他方は目隠しをされて一度、せいぜい一往復歩いただけの道を、完全に記憶してしまうなどというのは。

 話としてもつまらないぐらいでしょう。モルジアナの念入りな工作をつぶさに描いて、読者の期待を煽るようにしながら、それを破るのがミスだとか、より裏をかく計略なのではなく、単なる超人的な記憶力だった、なんて。ロナルド・ノックスがミステリーに《中国人を登場させてはならない》としたのは、まったく、こういうわけだったからだ。
 この不運が巡り合わせだというなら、あまりに神懸かり……  筋書き懸かり、でしょう。平凡社のものに、それこそ《神慮の致すところ》とあるように。これは、モルジアナが抱いた悪徳によって導かれた結果なのではないかと思うのです」
209 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 02:32:52.92 ID:tRJaplXx0
「先程、カシムが悪徳によって魔法の言葉を奪われた、としました。ヴァルシー写本のアリババが信仰で言葉を取り戻した事に照らして、これは美徳によって見えざるものの肯定を、悪徳によって否定を受ける物語なのだ、と。ムスタファ老にも同じことが行われたのではないでしょうか。

 ムスタファ老は少なくとも、並外れた記憶力の持ち主として物語に登場したわけではありません。ですから、元々それを持っていたわけではなく、悪徳を持った者へ下る裁きの為に、経路≠ノついてのみ盤石の記憶を与えられた、と考えることも可能です。それが彼の奇跡のような記憶力の正体だったと。

 カシムが嫉妬の為に、盗賊たちが誇りの為に、総じて傷付けられた名誉への固執という悪徳の為に滅んだように、この筋書きにおいて、悪因が悪果をもたらすならば、悪果は悪因がもたらすものと前提するならば、そしてこの物語の悪因≠ニは悪徳を抱くこと≠セとするならば、ムスタファ老が盗賊を導くという悪果は、アリババやモルジアナの側で、誰かが悪徳を抱いたという悪因が導いたものだといえるでしょう。そしてアリババは一貫して美徳の象徴であり、彼が考えを変えるような場面はこの物語にはありません。

 だから、彼女には悪徳があった。美しい奴隷モルジアナは、主人を奪われ、名誉に、誇りにかけて復讐を望んだのです」
210 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 02:33:20.41 ID:tRJaplXx0
「それと明示する描写はないところからの、こういう仮説形成になりましたが、モルジアナは復讐心を抱いたのですよ。だから本来、滅ぶ側の存在だったのです。

 ですが、最後には打ち勝った。

 モルジアナはどこかで美徳、未来志向を手に入れたのだといえる筈です。悪徳を、過去の名誉を、復讐を振り切って、未来の為に戦ったのだと。その為に見えざるものの恵みを、筋書きの肯定を享受したのだと。なにぶん結局、彼女は滅ばずに済んだ。魔法の言葉を奪われることも、盗賊たちの策謀を破れず倒されるということもなかったのですから。

 ……どこで、手に入れたのか」
211 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 02:33:48.76 ID:tRJaplXx0
「前に、邦画を見ました。アイドルの仕事の幅を見ようという事で、男性アイドルではありましたが、その主演の映画。で、国会議員の葬儀を行うシーンがありました。けっこう豪華な式場で、参列者も大勢なのですが、中には大袈裟に、一定の節や旋律のようなものを付けながら、嘆き悲しんで葬儀を、…… まあ、盛り上げる、ような。そういう役割をこなす人々が居たのです。記憶に残りました、偉い人だと葬儀はああいうものになるのか、と。泣き女、というやつですね。

 『アリババ』にも、これが登場します。カシムの葬儀です。モルジアナもカシムの妻も、悲痛な声を上げ、髪をかきむしる。それから、別の女たちも駆けつけ、遺族と共に泣き叫び、悲しみの声であたりを満たす。そういう《しきたりなのです》。平凡社のものでは、同じシーンに注釈が付けられています。駆けつけたという女性たちについて、彼女らが《ナーイハート、泣き女》である、と。《ナーイハ》が泣き女を意味し、《ナーイハート》は複数形になります。

 ですが、この泣き女≠ノは謎がある」
212 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 02:34:42.22 ID:tRJaplXx0
「イスラム教では、不幸に際し、その故人の為に泣き叫んで悲しむことを戒めています。
 人は神の定めた運命による死を迎えると、墓穴の中で終末の審判を待つ。死は来世への通過点なのです。そしてこの定命∞来世≠ニいうのが、ムスリムの信ずべき六つの条項、六信≠フ要素なのですね。

 死は神に与えられるものであり、また、完全なる終わりではない。だから、感情のままに涙を流すことをまでは戒められませんが、泣き叫び、髪を掻き毟ったりするやり方で強く悲しみを表現することは、神の定命=A来世≠ヨの不信仰だ、という事になるのです。

 イスラム教第二の聖典とされ、第一の『コーラン』の内容を具体的に注釈する役割を持つ伝承集、ハディース≠ナすが、イスラム教スンナ派にとって最も権威あるハディース『真正集』の『葬礼の書』でも、不幸に臨んで泣きわめいたり、叫んだりすることは禁じられています。預言者ムハンマドは、女性たちが泣き叫ぶのを《口に土を放り込》んで止めろ、とまで言います。預言者の伝えることには、《死者は家族がそのために嘆き悲しむことのゆえに罰を受ける》のです。

 つまり『アリババ』にあるような、不幸に際し、髪をかきむしり、泣き女を雇ったりして悲痛な声であたりに故人の死を知らせるようなやり方は、まったくイスラム的ではない筈なのです。このやり方、泣き女の慣習は、アラブ社会、エジプトやアラビア半島の、ただしイスラム以前のものでした」
213 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 02:35:08.75 ID:tRJaplXx0
「しかし、イスラムの教えに反する内容だからといって、このシーンがガランの誤解や完全な創作によって生まれたものだとはいえません。

 十世紀のムスリム、アル・ハマザーニーによるマカーマート≠ナはイラク、十一世紀のアル・ハリーリーのものではペルシャ、十九世紀の紀行文、ジェラール・ド・ネルヴァルの『東方紀行』によればエジプトと、イスラム圏各地の風俗を窺える記述に、泣き女を雇って悲しみを表す人々が登場するのです。立場や地域差もあるのでしょうが、実際、ムスリムの人々も不幸には泣き叫ぶものなのです。

 この背反には、きっと意味がある。

 伝承される預言者の教えとは裏腹に、市井の人は故人との別れを、思うさま泣き叫び、衣を裂き、髪を掻きむしって悲しんだ。きっとそれが、必要なことだったから。

 遺された者に、……モルジアナに、必要だったから」
214 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 02:35:44.72 ID:tRJaplXx0
「グリーフワーク≠ナす。死別という悲嘆に打ちのめされ、受け止め、向き合い、立ち直っていく、そのプロセス。

 悲しみに頬を打ち、大勢で声を上げることを、人々は本能的にさえ必要とした。そうやって、愛する者の死を明らかなものとして認め、受け入れることが必要だった。

 預言者ムハンマドのように強ければ、静かに涙を流し、あるいは長い間引きこもるというやり方で悲しみと向き合うことも出来たのでしょう。しかし、そうでない人々は、やはり嘆かずにいられなかった。泣き女に悲しみの誘いを受けることが、故人との別れを実感することや、やがて立ち直っていくことに大きな効果をもたらしたのです。

 そして、この受容の方法を『アリババ』の物語も必要とした」
215 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 02:36:16.14 ID:tRJaplXx0
「泣き叫んだのは《しきたりなのです》とありました。だから一読、モルジアナは悲しんだわけではないのか、との印象を受けました。あくまでアリババに頼まれた仕事、盗賊の追跡を振り切る作戦として、カシムの葬儀を取りなし、しきたりの為に泣いて見せたのか、と。

 ですが、やはりモルジアナは、心から泣き叫んだのではないでしょうか。内に抱えた悲嘆の発露として、主人との離別を受容するプロセスとして。

 深い悲しみに際し、しっかりと感情を表した。泣いて、喚いて、髪を掻き毟って、それでようやく、別れを乗り越える為に、踏み出すことが出来た。……時を、動かした」
216 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 02:36:44.69 ID:tRJaplXx0
「そして、今度はアリババを守ることに全てを捧げると誓った。未来へ向き直ったのです。彼女は悲しみを受け入れた。悲しみに抗うことを辞めたのです。そうやって美徳を手に入れた。主人を守れなかった自責、過去の名誉への拘りを乗り越えた。

 だから、モルジアナは盗賊たちに打ち勝ったのです。彼女は悲嘆を受け入れ、しっかり向き合った。だから、本当の名誉を手に入れた。

 この物語のハッピーエンドは、そういう仕掛けだったのです」
217 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 02:37:17.61 ID:tRJaplXx0
「冗長だったようですが、それが私の考えです。
 この物語では、過去の名誉という感情に拘ることは重い罪となる悪徳だった。カシムも盗賊も、その呪いに抗えなかった。
 モルジアナさえ囚われた。だけど、彼女は生き残った。きちんと泣いて、振り切ったから。
 
 だから、――

218 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 02:37:43.49 ID:tRJaplXx0
  
 だからモルジアナは、幸せだったと思います。幸せになっていいんです。
 
 だってこれは、きっと、自分が幸せになることを許す為の物語なんだから」
 
219 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 02:38:12.35 ID:tRJaplXx0
  
 
 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
 
 
 喉が渇いた。ミネラルウォーターでも買おう、と思う。もう日が暮れるようだ。付き合わせてしまったな、と文香を見遣れば、彼女はまだ耳を傾けているようだった。

 終わったことを告げようとして、文香が待っているものに気付く。自明のことなので、忘れていた。これで決まりとばかり、口を開く。
「劇の最後、ですね。《幸せです》と、言おうと思います。新たな答えなど必要なかった。ただ向き合わなければならなかっただけで」
220 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 02:40:11.95 ID:tRJaplXx0
 文香は安心したように目を細め、深く頷いた。耳に掛かった髪が滑り、落ちる。まるで絹だ。
 彼女はゆっくりと、囁く準備のように首を突き出し、しかし千夜の耳には程遠い空に、夢見心地の言葉を紡ぐ。

「私は…… 自分で言うのも、ですけれど…… はい、読書家、だと。
 ですが、どれだけの書を読み耽っても、今、千夜さんが仰ったような結論には、辿り着けなかったと思います。それは、千夜さんが見つけた、千夜さんだからこそ辿り着けた答え、だと。……とても愉しく、愛おしい物語でした。
 それで…… 私も、千夜さんが仰ることに、賛成です。
 モルジアナは、確かに幸福だったのだと、思います」

 振り返り、例の蒼い瞳を真っ直ぐに向けて来る。ちょっと見つめ返してはいられなかった。浮かんだ言葉を伝えようか伝えまいか、逡巡した。
「お嬢様のおかげなんです」
 つい、ベンチを掴む。手袋越しの、擦れるような肌ざわりが違和感を生んだ。鼻に息を吸い、ちょっと冷えてきたかな、と思う。
221 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 02:40:37.64 ID:tRJaplXx0
「昔、焼いたクッキーを落として割りました。それを見ていると、どうしてだか気味悪くなって、虚しくなりました。だけど、本当の気持ちは他にありました。……お嬢様が笑ってくれたんです。《増えたね》と。
 その時、私は許されました。悲しくなれました。
 私は悲しかったんです。頑張って焼いたクッキーを落としてしまって、悲しかったんです。
 私は愚かにも、自分の失敗に立ち向かおうとしていました。緊張しながら、折れたクッキーをじっと睨んでいたんです。それを、お嬢様が笑ってくれて、ようやく許されたんです。お嬢様のおかげでようやく、否認を奪われ、私は悲しい思いがある事と、向き合うことが出来たんです」 
222 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 02:41:21.01 ID:tRJaplXx0
 空気がしん、と澄み渡った。声は静かな世界に放りだされて、その跳ね返りもなく、なんだか独り言のようだと思った。隣に顔を向ければ、そうでない事が分かった。

 そこに居ますね、と眼で認めてくれていた。
 ここに居ますよ、と笑って返した。
223 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 02:41:49.12 ID:tRJaplXx0
Epilogue――
 
 一ノ瀬志希を捕まえた。志希が捕まってくれた、の方が正しいのだと思う。どっちであろうと構わない。眼目はこうだ、今までのらりくらりと躱されてきたが、
「ようやく話が出来そうですね」

 大勢のスタッフや出演者が行き交い、舞台裏の作業も騒々しく進められていく。最後のランスルーを終えたまま、紅に白に煌びやかな宝石や絹らしき深翠のローブを纏った志希が答える。

「あたしはいつでもウェルカムだけどにゃー?」
「どうだか。まずはこれです」

 真ん中で割られ、半月型となった金貨を見せた。
 志希に仕掛けられ都と共に解いた、蟻の暗号に示されたロッカー≠ヨ向かうと、そこには新たな暗号が用意されていた。それを解いたらまた次、と、幾つもの謎を乗り越えた先にあったのが、二つに割られた、金貨——を模した小道具、鉄のメッキ加工——だ。
224 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 02:42:22.43 ID:tRJaplXx0
「舞台のですね。くすねたのですか?」
「にゃはは」

 都の提案で、記念に二人で片割れずつ持っておくことにした。だが、そうするべきだったのか、志希の真意を今日まで聞きそびれていた。
「幾つもの暗号の先、貴女はこの金貨にどんな意味を込めたのですか」
「んん、…… それはキミが手にしたモノの象徴に過ぎないのだよん」
「……絆、とでも?」
「That’s right! 艱難辛苦を共に乗り越えた仲間との堅い、絆! それこそがひとつなぎの大秘宝だったのだ!
 ワオ、友情・努力・勝利!」
225 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 02:43:06.24 ID:tRJaplXx0
「特に意味はない、ということですね。そんな気はしていました。それで、もう一つ謎が解けたのですよ」
「ふむふむ。シンリの探究は断らないよん?」
「あの日、私のスマートフォンの電源が切られていました。おかげで頼子さんのメッセージに気付くのが遅れるところでした。志希さん、貴女がやったのですね。貴女なりの、失踪というやつの方法論を実践させる為に」
「ほうほう?」
「私に何らかの連絡が来る事は容易に見越せたでしょう。貴女はその連絡に、私が気持ちの切り替えをつけるまでは気付かないように仕組んだ」
「んー、そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。真相はそう、昨日のお晩のメニューが如く忘却の彼方なのだ」
「かつて嵐だった虹、ですか」
「あっ、エビチリだー♪」

「エビチリ?」
「バーガー」
「……昨日の御夕飯にエビチリハンバーガーを召し上がったか存じませんけれど。貴女が言ったのですよ、《イマ》は十二時に解ける魔法だと」
「うん」
「私は賛同しかねます」

「そう?」
「ええ」
「にゃはは、あたしフラれちゃった?」
「ええ」
「その割りには熱っぽい眼差し…… 本気を試すのにまず一回断るタイプだな?」
「は?」
「All right♪ ミワクの足し割り≠楽しもー♪」
「それは駆け引き=A…… いや、もうご自由に……」
「千夜さん、届きましたよ」
226 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 02:43:58.95 ID:tRJaplXx0
 そこへ頼子がやって来た。手には千夜が着る紅と金のショール。笑んでそのまま、着せてくれた。
「本番には間に合いましたね」
 腕を通しながら、頷く。時間を掛けただけはあるというところか、仕上がりがいい。志希が見て、言う。
「んん? にゃはは、イイカンジ」
「それは、似合うということですか?」
「ふふ、お似合いですよ」
「それとも――」
「はいみんな、集合〜」

 演出家の声が掛かり、一同円になる。
 所狭しと歪な形に、もう見知った顔がずらりと並ぶ。こうして眺めていると、本当に人というのは様々だ。アイドルや役者であれば尚更か。
「さあ、頑張っていきましょうね!」
 隣で都が言った。半月の金貨は首からぶら下がっている。
「大まかなことは、まあさっきのリハで言っちゃったよね。じゃあ今日からの本番、頑張ってこうぜ。あ、これも二回目か。
 で…… じゃあ組んで、何か一声掛けてもらおっか。主役の安斎さん!」
「はい!」
227 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 02:44:30.15 ID:tRJaplXx0
「にゃは、決めちゃえ〜」
「お願いしますね、都ちゃん」
「ぶちかましたれェあうるさいですか」
「それでは、ええと…… よし!」

 少し悩み、閃いた、とばかりに眼を輝かせ、気合たっぷりの様子で息を吸い込む。さあいざ、――というところで、都は目を点にして、何かに気を取られる様子を見せた。

 訝しげに鼻を動かしながら、千夜の方へ顔を寄せる。
「おや? くんくん……」
228 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 02:45:05.95 ID:tRJaplXx0
 
 
「メロンの香りがしますね!」
「お好きでしょう?」
 

――“Meet Me On The Roof”
 
 
おしまい!
229 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/02(水) 02:46:44.50 ID:tRJaplXx0
出典まとめるの忘れてました! あとで!
230 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2020/12/02(水) 10:08:15.65 ID:sNyDelXH0
大作乙でした!
読み応え抜群で楽しかったです
231 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/03(木) 01:10:10.63 ID:yZ8aBbn90
>>230

ご感想ありがとうございます!
楽しんで頂けたという事で、うれしいです!
232 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/03(木) 01:11:12.37 ID:yZ8aBbn90
主な出典:

前嶋信次訳(1985)『アラビアンナイト 別巻』平凡社.
ロバート・アーウィン(1998)『必携アラビアン・ナイト―物語の迷宮へ』(西尾哲夫訳)平凡社.
西尾哲夫(2007)『アラビアンナイト―文明のはざまに生まれた物語』岩波書店.
西尾哲夫(2011)『世界史の中のアラビアンナイト』NHKブックス.
西尾哲夫訳(2019-2020)『ガラン版 千一夜物語(1-6)』岩波書店.
矢島文夫(2015)『アラビアン・ナイト99の謎』株式会社PHP研究所.
牧野信也訳(2001)『ハディースU―イスラーム伝承集成』中央公論新社.
アル・ハリーリー(2008)『マカ―マート―中世アラブの語り物(1)』(堀内勝訳)平凡社.

西尾哲夫(2010-10-01)『アラビアンナイト:ファンタジーの源流を探る
第5回:アリババと四十人の盗賊(pdf)』
国立民族学博物館学術情報リポジトリ(みんぱくリポジトリ).
ttps://minpaku.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=
repository_view_main_item_detail&item_id=321&item_no=1&page_id=13&block_id=21

日本グリーフケア協会(閲覧:2020-12-2)『グリーフケアとは』
ttps://www.grief-care.org/about/

日本アハマディア・ムスリム協会(2015-05-03)『葬式(イスラーム方式)』
ttps://www.ahmadiyya-islam.org/jp/%E8%AB%96%E8%AA%AC/%E8%
91%AC%E5%BC%8F%EF%BC%88%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%83%
A9%E3%83%BC%E3%83%A0%E6%96%B9%E5%BC%8F%EF%BC%89/

西山由紀 (2001-11-1) 『『東方旅行記』における旅の空間と祝祭 (pdf)』現代社会文化研究.
ttps://dl.ndl.go.jp/view/download/digidepo_3498643_po_22NsymY.pdf?contentNo=1&alternativeNo=

堀内勝(2014-03-14)『<原典翻訳>アル・ハマザーニー著『マカ―マート』(3):第36話-第51話・「終わり」に代えて』
京都大学学術情報リポジトリ(KURENAI).
ttps://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/185812/1/I.A.S_007_369.pdf

ほか
233 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2020/12/03(木) 01:13:49.62 ID:yZ8aBbn90
以上で書き込み終わります。読んでくださった方、ありがとうございます!
234 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [age]:2020/12/03(木) 22:26:35.69 ID:YnfZoXnVO
加藤純一(うんこちゃん) Youtubelive

プログラマー衛門制作
視聴者参加型フリーゲーム

『Undertale/アンダーテール』
パロディ作品

『加藤純一物語(加藤純一Tale)』
配信:後編

『視聴者が600時間かけて作りし
加藤純一TALEをやる。最終回』
(21:32〜放送開始)

https://youtu.be/QURXI6muEtY
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