SS「半透明な恋をした」

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148 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/02(月) 18:19:46.01 ID:c3Z23hjh0


 春真っ盛りなこの時期、冬の間がら空きに見えた田んぼは藤紫一色に染め上げられる。
 小風に乗せられた春の匂いに釣られて、モンシロチョウやミツバチがそこから忙しなく蜜を運び去っていく。
 
 もちろん、人様は明るい花々が一面に咲き誇る様を楽しんだり、或いは虫たちの為だけに蓮華草を咲かせているわけではない。
 いわゆる緑肥として農家が育てているのだ。
 
 厳しい寒さを乗り越え、活力を取り戻し始めた自然を眺めながら、僕は草木の萌えつつある山に歩み入った。
 どこかで音痴な鶯が鳴き声の練習をしていて、耳元ではてんとう虫が羽音を立てて飛んでいった。足元ではたんぽぽが力強く咲いていて、少し視点を上げれば、散り始めた山桜や梅、昨日鈴音と蜜を吸ったツツジなんかも伺えた。
 
 山は白、黄、赤、緑、桃色と華やかに飾られ、視覚も聴覚も癒される季節となった。
 と言ってみたものの、僕の心を一番傍で溶かしてくれているのは年がら年中一緒にいる君なのだが。
149 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/02(月) 18:22:00.59 ID:c3Z23hjh0
 シンボルツリーに近づけば、その下で鈴音が待ってくれていた。
 おはようの挨拶もほどほどに、僕らは穏やかな春の日を楽しみに向かった。

 何をするかはその日によってまちまちだ。
 春の山菜を収穫したり、カラスノエンドウで草笛を吹いてみたり、或いはいつものように御伽噺を読むこともあった。
 
 今日も似たような、でも毎日違っている時間を過ごして、その最中ふと僕は彼女に訊ねた。

 「鈴音って、かなり花に詳しいだろ?」

 シロツメクサとたんぽぽを重ね合わせ、少し豪華な冠を作り上げようとしていた彼女は得意げに言った。

 「うん、千風くんよりは詳しい自信があるかな」

 その表情はなかなかに憎たらしい笑顔だったが、より博識であるのは彼女の方だということは、悔しいことに事実だ。
 いつか見返してやるぞと思う一方で、でもそれは一体いつになるのだろうかとも思いながら僕は本題を切り出した。

 「じゃあさ、尊敬して…お世話になった人に贈る花って何が良いと思う?」

 要するに、僕が二日後に図書館に赴くことに決めた理由は、斎藤さんに日頃の感謝を込めた花を贈ろうと企てたからである。
 僕は尊敬という単語を発しようとして、しかしそれは気に食わず言葉を変えた。
 それを並列と捉えた鈴音は、「尊敬しててお世話になった人かぁ。そうだね〜」と思案顔で唸った。
150 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/02(月) 18:24:34.61 ID:c3Z23hjh0
 「いや、尊敬はあんまり出来ないかもだけど」と僕が苦笑いで訂正を入れておくと、彼女は思い出したように、「因みに誰に贈るつもりなの?」と手先を器用に動かしながら僕の方を見た。
 
 僕は斎藤さんとの日々を思い返し、そのくだらない時間に小さな笑みを零していた。ありありと脳裏を巡る記憶の要約を、流水のように切れ目なく伝えた。

 「えっと…図書館で働いてるお姉さんだな。僕がここに持ってくる御伽噺とか、勉強のための植物図鑑とか、その人がよく一緒に選んでくれてたんだ。まぁちょっとお節介が過ぎるところがあって、たまに呆れるような時もあるけどさ、総合的には良い人で──」

 そう言えばこんなこともあったな。あぁ、あんなこともあったか。といった具合に僕はついつい回想に夢中になってしまった。
 
 それを無表情で眺めていた君は、途中で「ふぅん」と面白くなさそうに相槌を打った。
 そして機械的な声のトーンで、「そんなに熱心に語れるぐらい大事なら、自分で選んだ方が良いんじゃない」と素っ気なく言い切ってしまった。
 
 鈴音は再び視線を手元へ向ける。
 彼女の急な変わりように驚いた僕は、「え?だから鈴音の力を借りたいと思ったんだけど」と純粋に言葉を返した。
151 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/02(月) 18:28:14.32 ID:c3Z23hjh0
 しかし、それっきり彼女は知らんぷりであった。
 黙々と冠を完成させると、それを頭の上に乗っけて立ち上がり、自己満足的にくるりと回った。

 いつもならその後、「どう?」とかこれまた返答に困ることを微笑みながら聞いてきそうなものなのだが、何か怒らせてしまったのだろうか。鈴音はそれからもそげない態度を保ち続けた。
 
 それはその日に限らず、その次の日までも続いた。一応話し掛ければ返事はしてくれるし、いつもの場所で待っててくれてるし、そこまで怒り心頭と言うわけではないのだろうが、それではこの有様はどう説明すればいいのか。
 
 一晩経って、知らない身内話で盛り上がられたらそりゃあ不愉快だったか、と反省した僕は彼女に謝ったのだが、「別にいいよ」と答えた鈴音はやはり冷たい反応のままであった。
 
 いつもは笑顔で溢れている君が少々つれない反応を示す。
 たったそれだけのことで僕の心は酷く攪乱され、まるで季節が逆戻りしたかのような心地に陥った。
 
 一つの問題を解決しようとした結果、僕は鈴音の斜めなご機嫌を持ち上げることと、斎藤さんへの贈る花選ぶこととの二つの問題を抱える羽目となった。
152 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/02(月) 18:54:13.52 ID:c3Z23hjh0


 何故だか心労が倍以上になって、無駄に疲弊した状態で僕はその日を迎えた。
 結局、鈴音の力を借りられなかった僕は薄い知識で一本の花を選び出した。
 一応、花を贈るのはサプライズの予定だ。それが見えないよう大き目のバッグを携え、僕は図書館に到着した。
 
 初めて斎藤さんと会話を交わしたあの日と違って、今日は気持ちの良い日光が館内を照らし出していた。
 僕が受付へ近づこうとすると、先にこちらの姿を認めた彼女が歩み寄って来た。
 そのままいつもの場所へ移動し、また変わらず彼女は幾冊かの本を取り出した。

 「この四つが、最後に少年にお勧めしとく本かな」

 斎藤さんの簡潔かつ興味を引かせるような説明を聞いた後に、僕はうちの二冊を借り出すことに決めた。
 彼女に貸し出し許可を貰って、流れで出口まで見送ってもらったところで、僕はふと足を止めた。

 「斎藤さん」と僕が意を決して呼べば、「ん?」と彼女は軽く相槌を打った。
 
 僕はゆっくりとバッグから花を取り出し、頭を下げてそれを差し出した。
 
 「今日まで僕に良くしてくれて、本当にありがとうございました」
153 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/02(月) 18:56:28.24 ID:c3Z23hjh0
 短い言葉だったが、僕なりに伝えるべきことは言葉に出来たはずだ。
 言ってみると少し恥ずかしい気分になった。が、それは向こうも同じだったらしい。

 「おー、カーネーションかぁ…ありがとうね、少年」

 斎藤さんは人差し指で頬を掻きながら、僕の手にある白いカーネーションを受け取ってくれた。
 彼女が照れ臭そうな様子を見せるのは初めてのことで、僕は思わず毒気を抜かれていた。
 しかしそれも一瞬のことで、一口息を吸うと、彼女はいつもの調子に戻った。

 「因みに言っとくと、誰かに花を贈るときは色に気を付けないとだよ?少年がくれた白は『感謝』って意味だけど、例えばオレンジ色だったら『あなたを愛します』になるからね」

 へぇ、カーネーションって色ごとに別の意味を持つのか。今後誰かに花束を贈ることがあれば気を付けることにしよう。
 あぁ、そう言えば、鈴音には蔦葉天竺葵を渡そうとしたっけ。あの時は花屋のおっちゃんに選んでもらったからな。もしかしたら、それがまずい花言葉で鈴音は受け取ってくれなかったのかもしれない、か。
 
 彼女の助言に耳を傾けながら、僕はそんなことをぼんやりと考えていた。
 そして同時に思い出す。かつて僕が激突した難題を、斎藤さんはいとも簡単に乗り越えさせてくれたことを。
 
 原因不明で悪化した鈴音の機嫌を元に戻すこと。
 僕にはなかなかどうして難しいことだけど、彼女ならどうにかする方策を思い付けるのではないだろうか。
 
 もうとっくにお姉さんを頼れる人だと認識していた僕は、自然と言葉を発していた。
154 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/02(月) 18:59:16.93 ID:c3Z23hjh0
 「あの、斎藤さん。最後に一つ聞いていいですか」

 「うん、なに?」

 「実は…」

 相談に乗る素振りを見せた斎藤さんに対して、僕は余すことなく事の詳細を伝えた。
 僕の頭を悩ませていることを知った彼女は、例のニマニマとした笑顔を作った。

 「ほぉ〜。私に贈る花が何が良いか聞いたら、口利いてくれなくなっちゃいましたと」

 こくりと首肯すると、彼女は面白おかしそうにケロッと言った。

 「それは嫉妬って気持ちよ。いやー、その子に嫉妬させるなんて、少年も中々のやり手だねぇ〜」

 「は?んなわけ──」

 予想外にもほどがある答えを前に、僕は敬語を取っ払ってその可能性を否定しようとした。
 そうであって欲しいと願う気持ちと、そんなことがあるはずがないだろうと冷静な気持ちが拮抗し、心の中は酷く雑然としていた。
 
 しかし、僕の反論を躱すようにひらひらと手を振った斎藤さんは、「ま、何はともあれちゃんと誤解は解いてあげないとね?それじゃ、またいつか」と言い残して、たちまちその場を去ってしまった。
 それはまるで嵐を見ているようであった。
 
 最後まで、「少年」呼びは変わらなかったな。

 彼女の後姿を眺めた僕は、それを妙にしみじみと思った。
155 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/02(月) 19:03:15.79 ID:c3Z23hjh0


 そういう訳で、問題解決に至らないどころか余計な妄言さえ突っ込むことになった僕の頭の中は、既に機能不全にまで追い込まれていた。
 
 痛む頭を抱えて、それでもシンボルツリーに向かってしまうのは、どうしようもなく僕が彼女に会いたがっているからなのだろう。
 思考が無意味な空転を繰り返していると、僕はいつの間にか大樹に辿り着いてしまっていた。
 
 ふと俯いた視線を戻す。すると、春の日差し、映える緑、大樹の下で座り込む君の姿、そして、彼女の伸ばした右手の先で休むアオスジアゲハ、といった形で羅列的に脳内に情報が飛び込んできた。

 それは僕に美術展のメインを飾る一枚絵を思わせた。
 その神秘的な空間に魅入っていると、奇跡の絵画に命が宿った。
 
 君が僕を視認し、「あ…」と小さな声をあげる。
 
 その振動のせいか、蝶はひらひらと何処かへ舞っていった。
 芸術的一場面を壊してしまった罪悪感ゆえに、僕は何も言葉を放てなかった。
 
 鈴音も長らく間を置いてから、目交ぜで隣に来るよう僕を促した。
 僕はいそいそと一線を画した大樹の方へ寄り、腰を下ろした。
 
 それからは何も言わずに、僕らはお互いに僅かながら身体を近づけた。
 でもたったそれだけのことで、「ごめん」とか「私こそごめん」とか「いいよ」の言葉は不必要だと思えた。
156 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/02(月) 19:07:00.02 ID:c3Z23hjh0
 程なくして、鈴音は僕の目を見て何気なく言い出した。

 「ね、覚えてる?少し前に話したエロスとプシュケーのこと」

 「あぁ、覚えてる」僕が二つも前の季節のことを思い返していると、彼女はつい昨日のことを思い出すように続けた。

 「あれはさ、やっぱり私が間違ってると思うの。千風くんの方が正しいんだよ、きっと」

 覚えている、とは答えたものの、僕が思い出せたのは『愛と疑い』の話をしたことぐらいで、それ以上のことは詳細に検索できなかった。
 
 だが、幸いにも話の本筋はそこだったらしい。あんなにもきっぱり割れていた意見を、鈴音は今更僕の方に譲ると言ったわけだ。
 しかし、幾ら思い出せど僕の解釈は作品に似合わない独り善がりなものだったと言わざるを得なかった。
 
 だから、「そうか?鈴音の解釈の方が物語に合致してたと思うけど」と僕は言葉を返すことにした。

 すると、「じゃあ、あの二人は嘘をついてたってことだよ」と彼女はあっさり言い返し、それから物語の何もかもを無に帰すように笑い飛ばした。
 
 そして「よいしょ」ともう少し僕の方へとにじり寄り、君は優しく穏やかな表情で囁いた。
157 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/02(月) 19:08:26.39 ID:c3Z23hjh0
 「真実を見つけ出した千風くんには、私からの特別にご褒美があります」

 その女神めいた微笑みは、あっけなく僕の心を捉えていた。
 
 鈴音はそのままこちらに手を伸ばす。
 凝り固まった頭上にこそばゆい感覚が生じたところで、僕は彼女にわしゃわしゃと頭を撫でられていることを認識した。
 
 与えられる柔らかな手のひらは寝起きの布団みたいに心地良くて、その人一人に浴びせるには強烈過ぎる笑顔はどこまでも僕の胸を震わせた。
 それでも以前の僕であれば、鈴音から伝わる無邪気な愛情を受け取ることを恐れ、小動物のようにその場から飛び跳ねたことだろう。
 
 だけどどうやら僕は、とっくに飼い慣らされてしまったようだ。
 
 すっかり素直になった心模様に苦笑いを零しながらも、僕は身じろぎさえすることなく目を閉ざし、君にされるがままとなった。
 
 脳髄にその心地良さを染み込ませるかのように、君は暫くの間、僕に慈愛の賜物を授けていた。
158 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/02(月) 21:56:33.40 ID:c3Z23hjh0
 ♦♦♦


 あれからしばらくすると、日を追うごとに気温は快適な状態へと保たれるようになり、一方湿り気は右肩上がりで上昇していった。
 田起こしと田植えを経て、蓮華草畑だった田んぼもすっかりよく見る姿に戻ってしまった。
 四月いっぱいは踏ん張るように花を付けていた桜も、後の五月雨にあえなく撃沈してしまった。
 
 地へ落ち土に汚れた桜の花弁は、もう誰にも見向きされない。

 「どうして?私たちの美しさは変わっていないはずなのに」

 彼女たちは声なき声で彼らに訴える。しかし、その微かな声と視線でさえもが雨音と陰鬱な空に掻き消され、悲鳴を上げる間もなく彼女らは靴底で磨り潰されていく。
 そこには、人の価値観は残酷だということが良く現れていた。
 だから僕はこの時期、少しだけ気分が下がるのだと思う。
 
 地面に張り付いた薄桃色の花弁を拾い上げ、これまで頑張ってくれてありがとう、と念じるように感謝を伝える。
 もう苦しい思いをしなくてもいいように、彼女らを人の歩かない路肩へと安置しておいた。

 それは、見頃を一瞬で終える花々に対する傲慢や憐憫のようなものなのかもしれないし、あるいは鈴音との日々を介して、草木を思いやる心でも芽生えたのかもしれない。
159 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/02(月) 21:59:17.61 ID:c3Z23hjh0
 今日は梅雨の時期にしては珍しい晴れ間の見える日だった。
 屈んだ姿勢から立ち上がると、僕はいつも通りにあの場所を目指していった。
 
 久々に合羽を着ることなく、僕は右手に一冊の本を抱えていた。
 当然ながら、この本は僕一人で選んだものだ。もう斎藤さんのお勧めというわけではない。

 最初こそ何かが足りないように思えた日々も、徐々に日常へと溶け込んでいった。やがて僕は、入場から退場まで一言も発さない図書館生活に適応してしまった。
 時々それを寂しく思うことはあるが、虚しいことにも、彼女が僕の生活に与えた影響は微々たるものでしかなかったのだろう。
 
 雨露の薄膜に包まれた草木を手でかき分けていくと、僕はすぐに彼女を見つけた。
 そこからはいつもの流れだ。 
 
 「待ってたよ〜」と鈴音は大きく手を振りながら笑顔を輝かせる。

 「待たせてごめん」と僕は軽く謝りながら大樹の傍へと向かう。

 まずは持ち寄った本を見せてやって、仲良く黙読したうえでお互いに感想を交わした。やはり鈴音の講評は的を得ていた。
160 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/02(月) 22:02:56.24 ID:c3Z23hjh0
 次は適当な場所まで移動して、恒例の駆けっこをした。
 もちろん僕の敗北だ。

 それから、今日は草花遊びでオオバコ相撲もした。
 こっちも全戦全敗だ。
 因みにオオバコ相撲というのは、それぞれがオオバコの茎を絡め、それを引っ張り合うことで相手の茎をへし折るゲームだとでも言えばいいだろうか。

 彼女は力の使い方まで実に巧妙であった。
 柔よく剛を制するし、剛よく柔を断つということなのだろう。僕が強く引っ張れば力を緩め、こちらが引けば力を加えた。

 僕の茎ばかりが千切れ、その度に彼女は小馬鹿にするような笑顔で、「千風くんは下手だなぁ〜」と煽りを入れてくるのだ。
 僕は躍起になって彼女に打ち勝とうとして、しかしその全てが空回りであった。でもそれが楽しかった。
 
 そうこうしているうちに、段々と太陽が沈んでゆく。
 そろそろお別れの時間が僕らを迎えに来ていた。
 
 冬と比べれば大分と日が伸びたとは思う。それでも、心はまだまだ遊び足りないと叫んでいるし、鈴音も夕陽を見ると名残惜しそうな表情を匂わせた。
 そんな彼女を見る度に、僕は口惜しい気持ちで山を後にするのだ。
 
 しかし、今日に限ってはまだ続きを繋げる術があった。
 僕が去ることを見越して、鈴音は小さく手を振ろうと腕を動かす。
 
 だがその動きを制止するように、僕は「なぁ」と言った。
 
 振る手を下げた彼女は疑問の相槌を打った。
 そこで僕は温めておいた計画を大公開した。
 計画の全貌を知った鈴音は、今からその時が待ち遠しいのか、一目でわかるくらいに気分を高揚させていた。

 「じゃあ、今日はこの後空いてるか?」

 それは確かめるまでもないことだったが、僕は形式的に確認を取った。

 「うん、もちろん!」

 君は二つ返事で了承した。
161 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/02(月) 22:06:01.92 ID:c3Z23hjh0

 
 夕陽が沈み切る前に我が家に戻り、夕ご飯を頂いてから僕は再び出発の準備を整えた。
 その頃には外も黒く染まり、せっかちな星々が夜空を訪れていた。

 基本的には自由にさせてくれている母さんも、流石に日が暮れてから出掛けることは咎めはした。
 だから隠さず目的を伝えると、「気を付けなさいよ」と母さんは懐中電灯を一本手渡してくれた。
 靴ひもを結びながらそれを受け取り、僕は夜の世界へと繰り出した。
 
 この時間帯に出歩くこと自体は初めてではない。いつもと違うのは、今は傍に誰も居ないということだ。
 我が家付近こそ薄明るい街灯が辛うじて闇を払っていたが、山に近づくにつれて、徐々にその僅かな光さえも失われてしまった。
 
 やがては農道と田んぼの境目があやふやになるほどの暗がりに包まれ、僕は懐中電灯の明かりを点けようと指をスイッチに掛けた。
 でもそのうちに暗順応が完了し、遂には宵の空を舞う蛾や飛び跳ねる蛙までもが捉えられるようになった。
 
 がしかし、それでも夜の森は別格だった。
 草木が昼間よりも一段と深い陰を落とし、生え重なる植物が足元を完全に覆い隠してしまう。
 緑の生長した林冠のせいで、そこには闇夜ともとれるような濃い暗闇が広がっていた。
162 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/02(月) 22:09:11.10 ID:c3Z23hjh0
 やむなく懐中電灯を光らせると、前方の一部分だけが良く伺えるようになった。
 しかし却ってその白い輝きが周囲の黒暗を引き立てているように思えた。

 今の自分は真っ暗闇に放り込まれているという事実が脳裏に強く刷り込まれ、無意識的に身体は強張った。
 更には嫌に山が静まり返っているものだから、もしや近くに何かが居るのでは、と正体不明の恐怖心までもが芽吹いてしまった。
 
 だが鈴音と落ち合う約束をした手前、ここでいそいそと逃げ出すことは許されない。
 いざという時はこの強烈な明かりで目潰ししてしまおう、などと馬鹿げたことを考えながら、僕は腰を引いて森を進んだ。
 
 通常の倍近く時間をかけていつもの場所に到着する。
 しかしそこに鈴音の姿は見えなかった。
 夜で見え辛いだけだろうか、と大樹に近寄り明かりを向けれど、やはりその姿は見当たらない。
 
 …おかしいな。彼女がいないことに疑問を覚えつつも、ひとまず大樹に身を預けるべく、僕は身体を振り向かせると

 「わっ!!」

 宵闇のせいで余計に青白く映る何かが、僕の両肩に軽く手を乗せた。
 瞬間、僕は腹の底から湧き上がるエネルギーを全放出した。

 それはまるで、熊に襲われ腰の抜けた登山者のように頼りない悲鳴だった。
 いや、それは比喩に留まらない。
 実際に僕は半分尻餅をついた状態で目を白黒させ、反射的に懐中電灯の明かりを声の方に向けていたのだから。

 明かりに照らし出された先には、くすくすと楽し気に笑う彼女がいた。
163 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/02(月) 22:13:05.62 ID:c3Z23hjh0
 「…びっくりしたじゃないか」

 数秒使ってそこにいるのが鈴音だと理解した途端に、僕は空いた口を閉ざし文句を垂れた。
 
 彼女は微塵もそう思っていない素振りで、「いやぁー、ごめんごめん。あんまり怯えて歩いてたから、つい」と謝罪の言葉を入り交えた。

 恥ずかしい所を見られてむっとした僕は、起き上がって鈴音のおでこを指で優しく弾いた。
 お灸をすえられた彼女は、壁に激突したひよこみたいな声をあげた。
 
 鈴音は恨めしそうに手でおでこを押さえる。
 そんな彼女を尻目に僕は足を進めようとして、ふと思い直すようにバッと見返った。
 
 急な挙動目にした彼女は、「どーしたの?」と言いたげに首を傾げた。

 僕はゆっくりと君の姿に注視し、それが慣れない環境の見せる幻覚ではないことを確かめたうえで言葉を発した。

 「鈴音、その服って…」

 僕が言い切ってしまう前に、彼女は自分の服装に視点を落とし、こちらの言わんとする言葉を繋いだ。
164 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/02(月) 22:16:13.89 ID:c3Z23hjh0
 「あー、これ?ほら、千風くんも最近は半袖着るようになったじゃん。だから私もそろそろ着ようかなーって」

 確か、昼間の彼女は長袖のままだったはずだ。感じた違和感の正体はこれだったのか。
 生じた疑問を解消しつつも、僕は半袖ワンピースな鈴音を今一度眺め、だがすぐにそれを直視出来なくなってしまった。
 
 長袖から半袖に変わったことで、彼女の細い二の腕や鎖骨は綺麗に露出してしまっていた。
 その官能的なまでの肌色は、長らく長袖というフィルターを介して彼女を見ていた僕にとって刺激の強過ぎるものだった。
 
 鈴音の身体はこんなにも流暢なラインを描いていただろうか。
 簡単な話、今の僕には素肌に対する耐性というものがまるっきり失われていたのである。

 だが鈴音はそんなことを露知らず、逸れた目線を追い掛けるように僕を覗き込み、「早く行こ?」と僕を急かした。
 
 何か甘い文句の一つでも言ってみたかったが、彼女の言う通り、僕らの目的は時間帯に大きく左右される。
 一度大きく息を吸い込み、暴走しつつある気持ちを片隅に追いやった。

 僕は色々を一旦放り投げて、彼女と共に慣れた道を進んだ。
165 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/02(月) 22:32:40.40 ID:c3Z23hjh0


 鈴音は猫みたく夜目が効くようで、鬱蒼たる森の中を滑るように突き進んだ。
 僕が慌てず慎重に足元に気を使っていると、彼女は時折その動きを止めて「早く早く」と僕を手招きした。
 
 それを数度繰り返していると、僕は君の後ろに追いついた。
 彼女は息を潜めるようにして藪に隠れている。僕も同じように身を屈め、懐中電灯のスイッチを切った。
 辺りは瞬く間に黒く染まり、草木をかき分ける音も踏みしめる音も消えてなくなった。代わりにケラの低音と流るる水音が僕らを包んだ。

 「いるかな?」

 鈴音は弾むような調子で言った。
 例え暗闇の中であろうとも、この先に待ち受ける光景を脳裏に浮かべ、胸を膨らませる彼女の表情は良く見えた。
 
 「いるといいな」
 
 期待の入り混じった声で答える僕もまた、声色通りにその心を躍らせていた。
 二人して頷き合わせると、僕らは余り大きな音を立てないようにゆっくりと藪の向こう側へ身体を出した。
 
 君の小さな歓声が上がった。
 それに遅れた僕も思わず息を吞み、その光景に吸い込まれた。
 
166 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/02(月) 22:33:57.73 ID:c3Z23hjh0
 中央の小川を囲むように、極小の光球が無数に浮かび上がっている。
 それはまるで翡翠が発光したような輝きで、ともすれば上流から宝石が溢れ出したようにも見えた。
 
 緑の光は無秩序に空中を舞っている。
 黒目を右へ左へ行ったり来たりさせて、僕は無限大にある光の玉の一つを目で追おうとした。
 だがその速さに振り切られ、やがて僕はその幻想的な光景を俯瞰することになった。
 
 一方、澱みなく目で輝きを追っていた君は、一度満足したように瞳を閉ざした。
 そして横目で僕に語り掛けると、恍惚とした表情で言った。

 「蛍って、こんなに綺麗なんだね」

 僕は軽く顎を引いて肯いた。

 「鈴音は見たことなかったのか?」

 「うん。知識の上では知ってたけど、実物を見るのは初めて」
167 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/02(月) 22:36:25.10 ID:c3Z23hjh0
 彼女は再び夜空に舞う蛍へ視線を向けた。
 今度の僕は壮観な美景に鈴音の姿を加え、いや、君の姿にこそ夜蛍のアクセントを加え、陶然と世界を眺めていた。
 
 暫くすると、藪から棒に鈴音は足を繰り出した。
 どうやら、一際大きく一閃する蛍を捕まえようとしているみたいだ。

 君はまるで夢遊のようにぼんやりと動き、その視線は蛍で夢中になってしまっていた。
 周りの見えていない彼女に気が付いた僕が、「鈴音、危ないぞ」と慌てて声をかけた時にはもう遅く、辺りに水面を叩く音が反響していた。
 鈴音が小川に突っ込んだのだ。
 
 振り返った彼女は、「あちゃー」とでも言わんばかりの苦笑いを浮かべていた。
 それから小川に沈んだ右足を岩瀬に掛け、濡れたサンダルを脱ぎ素足になると、改めて右足を浸けた。
 突拍子もない行動を前に僕が呆気に取られていると、彼女は続けて左足も突っ込んでしまった。

 「ちょっと冷たくて気持ちいいよ。千風くんも来なよ〜」と彼女は足湯に浸かるみたいに僕を誘った。

 特に断る理由もなく、僕は靴と靴下を脱いで彼女の隣にお邪魔した。
168 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/02(月) 22:39:26.10 ID:c3Z23hjh0
 その日は初夏を先取りしたような程よい暑さで、水温自体も悪くなかった。
 
 足元で爽やかな涼しさを感じながら、僕はパノラマとなった蛍を観賞しようとして、直後、「…えいっ!」と変に気合いの入った声が耳元に響いた。
 謎の発声を確かめようとした頃には、もう顔面にひやりとした感触をぶちかまされていた。

 「うわっ!」

 ぱしゃりと弾けるような音がして、続いてばしゃんと大量の水が水面に打ち付けられる音が響いた。
 驚愕の声が飛び出ると同時に瞼を閉ざす。すぐさま濡れた両目を擦って視界を確保する。大体何が起きたかを察した上で、僕はその目を開いた。
 
 まず、「えへへ」とこの上なく屈託のない笑顔が最初に飛び込んできた。
 その際限なく細められた両目を数秒見つめる。
 段々と不思議な心地に陥ったらしい彼女が、「どうしたの?」の形に口を動かそうとした瞬間、僕は両手の形を椀に構えた。

 「きゃっ!」

 その小顔に水を浴びせられた君は、実に女の子らしい悲鳴をあげた。
 柳髪からポタポタと水滴を落とす鈴音に向けて、僕はしたり顔を見せつけてやった。
 
 ぽかんと硬直していたのも束の間、すぐさま「やったな〜!」と心底楽しそうに彼女は応えた。
 同じように手を重ねて椀を作ると、透明に輝く水滴をこっちに浴びせてきた。
 
 そこからのことは言うに及ぶまい。

 僕らは童心の赴くままにはしゃぎ尽くし、水をかき分ける音と二人の騒ぎ声だけが、静寂の世界に調和していた。
169 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/02(月) 23:10:08.44 ID:c3Z23hjh0


 心行くまで水掛合を楽しんだ僕らは、やがて糸が切れたようにその動きを止めた。
 暗黙の了解で水を掬うことを終わりにして、二人して川辺の岩に座り込んだ。

 決して座り心地の良い場所ではないというのに、身体は吸い付いたようにピタリとその場に適合して、もう微塵も身体を動かしたくない気分だった。
 すっかり体力を枯渇させた僕らの間には、呼吸を整える息遣いが漂っていた。
 僕も鈴音もびしょ濡れで、木立に吹く風が少し肌寒く感じた。
 
 ここに来たのは随分と久し振りのことだ、と僕は何気なく思った。
 
 冬の寒さがやわらぎ、春の陽気が舞い込むにつれて、僕らは小川から足を遠のかせた。
 その理由は単純で、氷ともとれる冷たさを誇る川に手を濡らす口実がなくなったからである。
 
 手の感覚を麻痺させられない以上、いまや免罪符は廃版となってしまったわけだ。
 だから、今日の僕は彼女の決して冷たくない手に触れることは許されない。

 「千風くん」

 彼女は不意と僕の名前を呟いた。

 「なんだ?」と僕は静けさを壊さないような声量で返事をした。
 
 隣に座っていた鈴音はそっぽの方へ身体を向けた。
 僕はそれを横目で追い掛ける。
 君は軽く俯き、頬をうっすらと桜色に染めながら言っていた。
170 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/02(月) 23:13:07.87 ID:c3Z23hjh0
 「…背中、ちょっと貸して欲しいな」

 ちらりと垣間見える白のワンピースの下には、あちらこちらで雪のような肌色が透けて見えていた。
 さっきまでは気にならなかったそれを意識した瞬間、僕は全身に熱いものを覚えた。
 が、濡れた身体がすぐさまそれらを蒸発させてくれた。
 
 結果、その時の僕は彼女にふしだらな感情を抱くことはなかった。
 それどころか、その美しさの極致にあるかのような君の姿に目を奪われることさえ憚られた。まして欲情を抱くことなど不適切であるように思えた。
 
 僕は行動で応えた。
 彼女とは反対の方向へと身体を向け、背中合わせの状態を作り出した。

 程なくして、僅かながらに僕のものではない重みが加わった。
 誇張抜きで羽のように軽やかな背中だった。
 僕も同じ分だけ背中を預けて、いつしか元から二つが一つだったように僕は質量を感じなくなった。
 
 僕らを囲むように淡い光が飛び交っている。
 暗い水流がせせらぎ、柔らかな月影は水面で揺れている。
 
 お互いの呼吸が背を介して伝わり合う。
 僕らは言葉なく遠い夜空を眺めていた。

 ずっとこの時間が続けばいいな。

 僕は無意識に空へ願った。
171 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/03(火) 17:03:57.48 ID:e6a6AzVn0
 ♦♦♦

 
 あれから約一時間ほど、僕らは居酒屋に長居していた。
 日向との近況報告やらなんやらも終え、そろそろビール一本で粘るのが厳しくなってきたところで、お会計を済ませることにした。
 
 暖簾をくぐって外に繰り出すと、世界は茜色で溢れ返っていた。
 あらゆる建物には重厚な影が立ち、真っ赤な夕陽が建造物の空隙に覗いていた。
 僕らは商店街から住宅地までの遠い田舎通りをのんびりと歩き、やがて昔のようにとある分かれ道で手を振り合った。
 
 この辺りは右も左も棚田だらけだった。
 皐月に植えられた苗が大きく育ち、緑の絨毯を作り出している。
 いや、だんだん田と言うこともあって、絨毯階段と呼ぶ方が相応しいのかもしれない。
 
 登り坂の中腹へと向かって足を進めれば、水田の中からは耳を澄まさずとも蛙の鳴き声が響き返り、眼前を淡い青のシオカラトンボが飛び去っていった。
 後方から現れた少年少女が、目を輝かせてその後を追った。
 少年の方が勢いよく虫網を振り被ったが、蜻蛉は裕にそれを躱した。
 
 上手く逃げ仰せた蜻蛉は瞬く間にその場を離れ、二人は悔しそうにその後ろ姿を見つめていた。
 僕は足を止めて、何を見るでもなく二人を眺めていた。
 
 その二人に、ふといつかの面影が重なる。
172 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/03(火) 17:06:39.16 ID:e6a6AzVn0
 ♦♦♦

 
 長い雨もようやく降りやみ、徐々に太陽が威力を放つようになった。
 やがて世界は並外れた生気に踊らされ、草木は迸る勢いで成長していった。
 
 雨傘は日傘に持ち変えられ、誰もが窓を開けて団扇を携えるようになった頃、僕は年に一度の長い休みを手に入れた。
 春、冬と大きな休暇はあるものの、やはり夏休みは出来ることや活動時間の規模感が違うのだ。
 
 小学校生活最後の一学期終業式の日、僕は当然の如くこの休暇を鈴音との時間に費やすことに決めていた。
 というか、それ以上に有意義な時間の使い方があるとは考えられなかった。そうしなければ僕は最低の夏休みを過ごすだろうとさえ思っていた。
 
 そうして七月の終わり頃から、僕は日中のほとんどを彼女と過ごすようになった。
 なにも特別なことをしたわけじゃない。昨日とも今日とも判別が付かないようなありきたりな毎日だ。
 それでも、僕は日々が痛いほど楽しかったし、鈴音だって僕との時間には何度も笑顔を綻ばせてくれていた。
 
 しかし、その素晴らしい日次の中にも、一つ僕を困らせることがあった。
 丁度、僕が夏休みに突入した頃からのことである。それを具体的に指し示せば、鈴音がよく上の空を眺めるようになったことだ。
173 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/03(火) 17:08:28.01 ID:e6a6AzVn0
 ふとした時に彼女は何かを思慮するように黙りこくり、僕の声を右から左に聞き流すことが多々あった。
 僕に何かを言い出そうとして、でもその開きかけた口を閉じてしまうということを幾度となく繰り返したりもしていた。
 魅惑の笑みを零しながらも、何処か心ここにあらずであった。
 
 それは八月頭の日のことだった。
 今日の鈴音は一段と落ち着かない様子だ。
 
 もう目の前のことにも手が付かないようで、浮かべる笑顔までもが乾いてしまっていた。
 それはそれで超然的な美しさを感じられて良かったのだが、ここまで来ると本人でない僕までもが彼女を気掛かりに思うようになった。
 
 両者の気がそぞろとなった状態で臨んだ笹船づくりは酷いもので、笹船は小川に流したところですぐ水流に揉まれてしまった。
 形を崩しゆく二葉の笹船を呆然と眺める。僕は鈴音が落ち着かない理由に、彼女は僕には分からない何事かにばかり気が向いていた。
174 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/03(火) 17:10:30.96 ID:e6a6AzVn0
 白日だけが徒に動き続け、今や空の切れ目が赤みを帯びつつあった。
 長いような短いような日中が幕を閉ざす。結局、僕はその訳を見つけられずに、鈴音は今日も言い出せずに、お互いが手を振ろうとしていた。
 
 大樹の片影に佇む彼女に背を向け、夕焼けの赤光を顔いっぱいに浴びる。
 軽く半身を振り向かせ、「またな」と僕が君に言おうとした時だった。

 「ね、ねぇ。千風くん」

 声が裏返ったように上下に揺れた声調で、鈴音は控えめに呼び掛けた。
 僕が目で問い掛けると、彼女は大きく息を吸って吐き出し、小さな咳払いをしたうえで言った。

 「今日、このあと大丈夫かな?」

 その時君が浮かべた笑みは、今日初めての温かみを感じるものだった。
 僕は僅かに返事に迷ったが、それでも結局は首肯した。

 「じゃあ、ここで待ってるね」と言った彼女は、つっかえが一つ取れたように大袈裟に胸を撫で下ろしていた。
175 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/03(火) 17:13:23.20 ID:e6a6AzVn0

 
 家に帰って軽く夕食を済ませると、僕は鈴音の元へと急ぐ前に固定電話に手を掛けた。
 数回単調な音を繰り返してから受話器を取った日向に対して、急用ができたから僕抜きで行ってくれ、と簡潔に事を伝えた。
 
 実はこのあと彼らと予定があったのだが、鈴音との時間と彼らとの約束を天秤に掛ければ、どちらに傾くかは一目瞭然のことであった。
 日向達には悪いとは思うが、僕にとって鈴音と居られる時間というものは、諸々を後手に回しても構わないほどに優先度が高いのだ。
 
 以前外に繰り出した時とは違って、本日の宵は赤い残光が紺の空を薄明るく滲ませていた。
 加えて、夜の街を彷徨う人々が三々五々と大勢であった。
 
 ともするとその人数は昼間よりも多いのではないだろうか。
 彼ら彼女らは夏夜の暑さに浮かされたかのように、嬉々と一方向に足を進めていた。
 
 そんな中僕一人だけが、波に逆らうように皆と真逆の方角へと向かっていった。
 濃い闇が落ちた山の道なき道を往く。夜風に揺れるシンボルツリーが見えた。今日の鈴音は僕を脅かすことなく、分かりやすい場所で待ち惚けとなっていた。

 「ごめん、ちょっと遅くなった」と僕は軽く謝ると、「いいよいいよ」と鈴音は気さくに言った。

 そうして決まりきった会話を交えたところで、「それで、今日はどうしたんだ?」と僕は彼女に訊ねた。
176 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/03(火) 17:15:57.43 ID:e6a6AzVn0
 もう夜間に蝉が鳴き始めるぐらい、世界には気怠い暑さが立ち込めていた。小川に向かっても蛍は一切伺えないことだろう。
 沢蟹を追い掛けることは三日前にしたし、カブトムシを捕まえるなら早朝に集合すべきだ。
 
 そんなことが分からないほどに鈴音が無知であるはずがないし、となると、今日はどうして呼び出されたのか。

 僕は僕なりに色々と考えてみたが、それらしい理由は一つも見つからなかった。
 答えを要求された鈴音は、「えっとね」の間投詞を挟んでからぎこちなく言葉を紡いだ。

 「今から、お祭り行かない?」

 彼女は自分の口からそう述べた後になって、これで誘い方が合っていたのかを確かめるように同じ言葉を言い直した。
 彼女の言葉を受け取った僕の頭は、なるほどな、と得心が半分、そしてもう半分はこれまでの価値観がひっくり返るような驚きで覆われていた。

 「お祭り?」と僕が彼女の言葉を繰り返せば、「うん」と彼女は食い気味に頷き返した。

 「鈴音って、山の外に出られるのか?」

 僕にとって一番気になる点はそこだった。
 
 僕がさり気なく聞いてみると、「まーね、今日は特別だよ」と彼女はなんでもなさげに言った。
177 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/03(火) 17:18:14.86 ID:e6a6AzVn0
 ずっと前に探偵ごっこはやめたはずのだが、ここで脳内事務所に新たな事実が舞い込んできた。
 僕はこれまで鈴音を、この地に囚われた悲劇の地縛霊かそれに近しい存在だとばかり思っていた。
 
 しかし、どうやらこの説は今日で破綻してしまったようだ。
 であれば彼女は一体、いや、既に僕は事務所をたたんだ身だ。今更真実を明らかにしたところで、僕が得られるのは鈴音の悲しむ顔だけだろう。
 
 考えることを自ら放棄し、僕は取り敢えず山から出ようと踵を返した。

 彼女は呼び止めるように、「こっちから行った方が早いよ。ついて来て」と森の奥へ僕を連れて行った。
 
 暫く密林のように繁茂した草木を潜り抜けていくと、何処からともなく太鼓と笛の律動が流れ込んできた。
 楽音を辿るように斜面を下れば、そこに段々と人声の喧騒が加わるようになった。
 そして最後には、ぽつぽつと闇の中に浮かんだ暖色の灯りが木立の緑を朧気に照らすようになった。
 
 とうとう僕らが草木から顔を飛び出させると、そこはちょうど祭囃子の中心となっている広場だった。
 
 円形の広間のど真ん中には荘厳な櫓が聳え立っており、櫓の頂上を起点として四方八方に提灯が連なっている。
 その下では数え切れない人々が踊り明かし、或いは端の方で腰を下ろして小休憩を挟んでいた。

 黒夜に浮かぶ橙の灯りは妖々しくもあり、集った群衆が渦巻きのようにゆっくりと流れる様は百鬼夜行を思わせた。
 その場には、夏の暑さを一点に凝縮し、純粋な結晶として取り出したような荒々しい勢いが迸っていた。
178 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/03(火) 17:20:10.38 ID:e6a6AzVn0
 見ての通り、今日はこの街の一大イベントと言ってもよい祭りの日だった。
 この時ばかりは隣町からも人々が足を運ぶようで、それはそれは街が大賑わいするのである。本来であれば、僕は日向達とここに来るつもりだったのだ。
 
 鈴音は目に焼き付けるように辺りを見回すと、「人が沢山だね〜」とのんびりとした感想を述べた。

 ここに居ては巡る人波に攫われそうだったので、僕らは速やかに広場の外れに向かうことにした。
 
 外れとは言えど、行き交う人の量は多い。
 僕は往来する人々にぶつかりそうになりながら、たどたどしく足を進めていたというのに、彼女はまるで森の中を進むのと変わらない様子で、難なく大人子供の隙間を上手く通り抜けていた。
 
 そうして端の方に辿り着くと、そこで僕らは不意と立ち止まった。
 そう言えば、僕らはお祭りにやって来たものの、何をするかについては全く考えていなかったのだ。
 大きな瞬きをしていた鈴音と顔を見合わせ、僕らは微妙な笑みを浮かべ合った。
179 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/03(火) 17:22:45.16 ID:e6a6AzVn0
 「これからどうしようか」と僕が彼女に話し掛けようとしたところで、ふと、鈴音が僕ではなく僕の後ろに目を奪われていることに気が付いた。
 
 気になって首を向けると、そこには中学高学年か高校生ぐらいと思しき男女が並んで歩いていた。
 少年のようなあどけなさの残る男の子は鼠色の浴衣を身に纏っており、少し大人びたように見える女の子は半色の浴衣に空色の髪飾りを身に着けていた。

 浴衣の色合いもさることながら、下駄を慣らす音でさえ、その二人は綺麗に息を合わせていた。
 一方の身体で隠れた二人の合間からは、ちらちらと結ばれた手と手が揺れて見えた。
 
 ある程度の情報を抜き出すと、二人に意識を向けることを止めた僕に対して、鈴音はその後姿を見送るように延々と二人を眺めていた。
 
 僕はあの二人を見て何を考えただろうか。君はあの二人を見つめ何を思ったのだろうか。
 願わくば、鈴音と僕があの二人の上に重ね描いたものが同じであって欲しいと思った。

 そんな泡沫の祈りは宙に浮かんで弾け飛んだ、かに思えた直後、手のひらには僅かな温もりが伝えられた。
180 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/03(火) 17:24:20.06 ID:e6a6AzVn0
 何かの間違いだと思った。
 だからそれが僕の強烈な願望によって引き起こされた幻触ではないことを確かめようとして、しかし幻の温もりが壊れてしまう恐れ、僕は何度も何度も目を泳がせた。
 そのあとになってようやく、僕は己が右の手のひらに視線を落とした。
 
 その全てが現実であった。
 瞬間、爆発したように心臓が大きく跳ね、熱という熱が激流の如く血管を巡った。
 
 僕は言葉を失ったままに君を見やった。
 鈴音はつぶらな瞳で僕の目を捉えながら、口籠るように細々と言った。
 
 「嫌だったら、嫌って言って…」

 夢に夢を見た気分だった。
 
 頭がくらくらするほどにぼんやりとして、だが僕は慌ててふるふると首を横に振った。
 それから振り絞るようにして「…嫌じゃない」と横目に見る君に伝えた。
 
 すると君は気恥ずかしそうな笑みを零し、僕の手のひらを潰さないよう優しく力を加えた。
 絡まる手と手の心地良さに息が詰まりそうで、喘ぐように口を動かせば、湿った空気に綿菓子を感じた。
 
 甘い魔法に掛けられて、僕にもようやく夏が訪れたように思えた。
181 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/03(火) 17:25:48.50 ID:e6a6AzVn0
 ♦♦♦

 
 このまま何事もなく夏は春の背を追い掛け、秋が冬の寒さから逃げてきたのならば、この祭りの日こそが、僕の脳裏に他の何よりも鮮明に刻み込まれた君との記憶になったのだろう。
 
 しかし現実問題としては、この記憶が君との最もたる思い出にはならなかった。
 まずはこの直ぐ後の出来事が、僕の感情を激しく掻き乱すことになるからである。

182 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/03(火) 17:28:22.45 ID:e6a6AzVn0
 ♦♦♦
 

 君が僕の先を行き過ぎないよう、僕が君に遅れ過ぎないよう、お互いの歩調を確かめるようにすり合わせる。
 ただ前に足を動かすだけだというのに、二人で並んで歩くということは実に難しく、何処かこそばゆく、胸にハッカの爽やかな香りが広がるようになんとも新鮮なものであった。
 
 それでも、二人三脚みたいに掛け声で波長を合わせてみたりして、やがて二人の歩幅がピタリと寄り添うようになった。
 その一体感は饒舌につくしがたいもので、僕はこのまま地球の果てにまで君と歩いて行けそうだった。
 
 丁度その時、ゆるい熱風に混じって何処からともなく香ばしい匂いが流れ込んできた。
 ふと現実世界に戻って来ると、目に優しい提灯の灯りが掻き消されるほどに煩い輝きが目をぎらつかせた。
 僕らはほとんど同時に歩みを止め、瞳孔を調整するように一度瞬きを挟んだ。
 
 道の両端に並ぶ簡易テント、闇を寄せ付けない白い照明灯、商店街を思わせる力強い客引きの声。
 どうやら僕らは、知らず知らずに即席の屋台街に迷い込んだみたいだ。
 
 「どうする?広場まで戻るか?」

 僕が顔を向けて問うと、「ちょっと見て回ろうよ」と彼女は僕の手を引いて前に進み出した。
183 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/03(火) 17:30:17.32 ID:e6a6AzVn0
 道を歩けば油のはねる音や焦げた醤油の匂いが鼻孔を擽り、僕の腹の虫は暴動一歩手前に追い込まれた。
 鈴音は都会に旅行にやってきた観光客みたいに首を左右に振っては物珍しそうにその足を進めていた。

 しかし、突如その動きが止まる。
 今度は右にくる思われた顔がこちらを向かず、彼女は左の屋台に釘付けとなった。
 
 その屋台では、赤い果実が小さな花畑を作っていた。
 その丸々とした赤色は、明かりに照らされ光沢を放っている。
 
 僕らよりも幼い子供がその内の一本を受け取り、満足そうにその場を後にした。
 その子に分かりやすく羨望の目を向けていた鈴音を見て、僕は軽く吹き出してしまった。
 
 「りんご飴、気になるのか?」

 僕は笑い声を抑えられないまま訊ねてやると、君は小恥ずかしそうに頷いた。
 そんな鈴音を見た僕は胸に甘い痺れを覚えながら、年相応だな、という感想を訳もなく抱いた。
 
 僕は空いている左手でポケットを探り、この日の為に貯めていた虎の子を取り出した。
 鈍く光る五百円玉を彼女の前に掲げ、僕はニヤリと笑い掛ける。鈴音はきょとんとして僕を眺めていた。
184 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/03(火) 17:32:04.52 ID:e6a6AzVn0
 僕はそのまま彼女の手を引っ張り、屋台の前で「りんご飴二本ください」と言った。

 店番のおじさんは「お前一人で二本も食うのか?」と欲張りな人を見る目で僕を眺めていた。
 
 お釣りとりんご飴を二つ受け取る。
 店の前から立ち退き、一本を彼女に手渡す。

 鈴音はそれを遠慮がちに受け取り、僕がりんご飴を舐めるのを待ってから恐る恐る口を付けた。
 飴を舐めた途端に表情を輝かせた君を見て、僕は生まれて初めて誰かに奢ることの喜びを知った。
 
 そうして、僕らはりんご飴を齧りながらまたのんびりと歩き始めた。
 黙々と甘い飴と酸っぱい林檎を齧り、それが残り半分ほどになったところで、鈴音は棒に視線を固定させながらぽつりと言葉を零した。

 「何も聞かないんだね」

 今更、『何を』というのを聞くのは無粋だと思われた。
 その上、今晩は夏の魔法が僕を無敵にしてくれた気がした。

 だから僕は君の手のひらを少し強く握って、「前にも言ったろ?」「伝わる温もりが同じなら、僕はそれで充分なんだって」と言ってやった。
 
 鈴音は少しだけ強張った笑顔を作り、握る手の力を強めると「…千風くんは、強いね」と消えそうな声で言った。
185 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/03(火) 17:35:04.62 ID:e6a6AzVn0
 りんご飴が綺麗さっぱりに消えてしまった頃、中途半端に胃袋を刺激したせいか、腹の虫はとうとう内側から僕をぶん殴るようになった。
 折よく好ましい屋台を見つけ、僕はそこで焼きトウモロコシを購入した。もちろん二本分だ。

 「またくれるの?」

 彼女は意外そうに言った。

 僕は一芝居打とうと思って、「あぁ、『よぉ、坊主。可愛い嬢ちゃん連れてるんだな。一つオマケしてやるよ』って屋台のおじさんが言ってくれたんだ」とそれっぽい声真似をしてみた。
 
 すると鈴音は面白そうに目を細め、「千風くんの嘘つき」と楽し気に言った。
 
 僕は返すように、

 「嘘じゃないさ」

 と言ってみたところで、その続きの言葉を繰り出すことは叶わなかった。
 
 君は待ち焦がれるように期待の目を向けていた。
 
 でも、僕の喉はそれ以上動かなかった、動かせなかった。
 
 やがて鈴音はずっと昔からそうなることが分かっていたみたいに、一瞬間何かを諦めたような表情を過らせた。
 
 僅かな沈黙を経て、僕らは歩き出した。
186 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/03(火) 17:37:15.74 ID:e6a6AzVn0
 それからは、ひたすらトウモロコシを齧る時間が続いた。
 
 少なくとも、夏夜の狂熱に踊らされた僕は、まだ夏の魔法に包まれていたのだと思う。
 だがそれでも、その先を言葉にすることは憚られたのだ。
 
 だってそうだろう?その先の未来に挑んだが為に、この心地良い関係が崩れてしまうかもしれないのだから。

 臆病だったと言われればそれまでかもしれない。
 だけど、それは石橋を金槌で叩かねばならぬほどに僕にとって下らなくないことで、その意志決定は僕の全てを左右するほどのものだったのだ。
 
 先に断っておくと、これは後知恵でしかない。
 それは、全知的な視点から語られる当事者の心情を無視した意見であると承知した上の話だ。
 
 だが敢えて言わせてもらえば、紛れもなくこの瞬間こそ、僕は続きの言葉を伝えるべきだった。
 僕は夏の魔法に浮かされてうっかり口を滑らせなければならなかったのだ。
 それは決して遅れてはならぬことだった。
 
 でも結局のところ、僕はその場で足踏みしたまま一歩も前へと進もうとしなかった。
 現状維持の果てに待つものは永遠ではなく破滅だというのに、都合のよい面ばかりに縋り、そこから目を逸らしたのだ。
 石橋だって強く叩き続ければ、いつかは壊れてしまうというのに。
 
 結果、僕は僕の選択に大きな悔いを残すこととなる。
187 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/03(火) 17:45:39.87 ID:e6a6AzVn0


 焦げた醤油の辛みとコーンのほんのりとした甘さが絶妙だった焼きトウモロコシを食べ終えると、僕らはゴミを捨て、屋台街を抜けて行った。
 近くの縁石に腰を下ろし、遠くから祭りの喧騒をぼんやりと眺める。
 空高くに三日月が昇ると、店仕舞いを始める屋台がちらほら現れた。

 「一旦戻るか?」

 僕が立ち上がる素振りを見せると、鈴音は僕を引き留めるように握る手に力を込めた。

 「んーん。もう少しだけこのままでいよーよ」

 君は甘えた声で僕の身体にもたれ掛かる。それを肩で受け止めた僕は、もうしばらく月の淡い光を眺めることにした。
 
 屋台の半数が照明を落とし、夜の帳が密度を増した頃、「そろそろ帰ろっか」と鈴音は徐に身体を起こした。
 
 自然な動作で僕の手が解かれる。
 温もりが零れ落ち、何かが足りない感覚が手の内を漂った。
 
 鈴音は近くの茂みから森へ向かおうとした。

 「いつもの場所まで送ってくよ」と僕は君の後をついていくべく動き出そうとした。

 「別にいいよ、そこまでしてくれなくても」

 彼女は微笑みながら僕を制止した。
 
 しかしそこで退く僕ではない。「いや、夜は危ないからさ」と取ってつけた理由で言葉を返そうとすると、彼女はそれを遮るように口を動かした。
188 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/03(火) 17:47:56.41 ID:e6a6AzVn0
 「ね、千風くん」「もう一つだけ、わがまま言っても良いかな?」

 君の我儘ならなんだって聞いてやりたかった。僕は軽く頷き、鈴音の気ままなおねだりを待った。
 
 彼女は逡巡するように、何度もその口を開こうとしては閉じることを繰り返した。
 そんな君の表情は決して良いものとは言えなかった。諦念か憂慮か、それとも別の何かか、僕には判別できないものだった。
 
 だがある時、僕は直感的に理解した。

 何かがおかしい、と。
 
 そう思った次の瞬間、頭の中でけたたましい警告音が鳴り響いた。
 その先を言わせてはいけない、と少し先の未来を見たかのような心が訴えかけてくる。
 僕は何かしらの行動を起こそうとして、しかしその前に、長い躊躇いを乗り越えた彼女は言葉にしてしまった。

 「もう、あそこには来ないで欲しいの」
189 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/03(火) 17:49:53.55 ID:e6a6AzVn0
 大地が抜け落ちたような感覚に襲われた。
 一瞬、僕は彼女に何を言われたのかを理解出来なかった。
 
 自分にも君にも問い掛けるように、僕は言葉にならぬ問い掛けを口から零れ落とした。
 君は儚げな微笑みを浮かべていた。
 
 もう一度頭の片隅でその言葉を読み解く。訳が分からないのか分かりたくないのか、「どういう意味だよ?」と僕は引き攣った笑顔を浮かべた。
 その言葉をもう一度耳にすると言うことは、それすなわち僕の胸に大きな杭をもう一本打ち付けると言うこと他ならなかったが、だとしても訊ねずにはいられなかった。
 
 鈴音は押し殺すように瞼を閉ざすと、きわめて無表情に冷たい声を発した。

 「だから…こうやって一緒に遊ぶのは、今日で最後にしよって」

 今度は胸がすり潰れるような痛みに襲われた。
 僕は膝から崩れそうになって、しかし醜態を晒さないよう虚勢を張り、愕然とその場に突っ立った。

 表情の抜け落ちた、或いは、どうして?の四文字で埋め尽くされた僕を見た彼女は、冷徹だった表情をいたたまれないものに歪ませた。
 胸に込み上げるものを必死に抑えつけるように、君は震える声調で短く言い残した。


 「さようなら、千風くん」
190 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/03(火) 17:53:51.04 ID:e6a6AzVn0
 醒めない悪夢を見ている気分だった。
 後頭部を鈍器で殴りつけられ、その衝撃で魂が飛び出たかのように、自分の身体は自分のものじゃないみたいに微動だにしなかった。
 
 視線を背けて去り行こうとした鈴音は、しかし言い忘れたように振り返ると、「…今日まで一緒にいてくれて、ありがとうね」「本当に、楽しかった」と僕の目を見てぽつぽつと呟いた。
 僕は彼女の目なんて見ていられなかった。

 「…お、おい!」「待てよ鈴音!」

 君の後姿が茂みに消えそうになって、ようやく僕は僕を取り戻した。
 逃げるように森の中へ進んだ鈴音を追い掛けるべく慌てて走り出す。
 
 がしかし、これまでに一度も彼女に敵わなかった僕が追い付けるはずもなかった。
 それぐらい分かっていた。それでもいま彼女を引き止めないといけない気がした。
 
 僕は暗黒に目を凝らしてひたすら君の姿を探し、愚直に森を駆け続けようとした。
 数秒と経たないうちに鈴音の残した言葉で身体中が苦しくなって、つま先に引っ掛かりを覚えた。  
 
 途端に身体ががくんと下がって、いくら藻掻けど身体はそれ以上前に進めなくなった。
 
 いつの間にか、僕は地面に突っ伏していた。
 膝下からヒリヒリとした痛みが押し寄せる。穴の開いた胸には無情な突風が流れ込み、痛みを刻み込むようにズタズタと肉を切り裂いていく。
 ぼうっとした頭で目を凝らそうとも、もう君の白の名残りさえ見当たらなかった。
 
 空を見上げども、慰めの月明かりは届かない。
 何もかもが受け入れたくなかった。そんな僕の心情にはお構いなしに、許容限界を超える感情が殺到する。
 終いには身体中が一つの感情に支配されて、暗がりの森が滲んだ。
 
 吹き抜けるぬるい風は、僕から夏の魔法を呆気なく取り上げた。
191 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/03(火) 19:10:07.20 ID:e6a6AzVn0
 ♦♦♦

 
 昨晩、僕はどのようにして家に帰り風呂に入り布団に潜ったのかはよく覚えていない。
 それでも気が付くと太陽が昇り、僕は寝床でいつもと変わらない一日を迎えていた。
 
 頭は泥が詰まったみたいに重く、胸は妙に風通しが良かった。
 何度も朝の日課を違えながら、事務的に朝食を済ませ、慣習的に朝顔に水をやり、機械的に宿題に取り掛かった。
 
 淡々と午前の日々を消化し終え、太陽が天辺に昇ると、僕は訳もなく靴ひもを結んでいた。
 家を飛び出し向かう先は、やっぱり山の方だった。
 
 一晩経って否応なしに頭の方は整理が付いていたが、とは言え心の方はまだ諦めが付いていなかった。
 
 「あれは嘘だよ〜」「千風くんが慌てる姿、見たくなっちゃったから」

 なんてことを言いながら、意地悪い笑顔で僕を迎えてくれる君が居る可能性だってあるのだ。
 いや、あるに違いない。そうでなくてはならない。
 
 そうやって都合の良い君の像を乱立させて、昨日確かに見聞きした事実の輪郭を不明瞭にしてしまう。
 すくすくと育ちつつある青い稲を無関心に眺めつつも、ひたすらにこれまでと変わらない道筋を往く。
 雑木林をかき分け、緩い斜面を登り、僕はシンボルツリーに辿り着いた。
192 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/03(火) 19:13:24.12 ID:e6a6AzVn0
 「…鈴音?」

 その情けないほどに頼りない声が、他でもない自分の喉から振り絞られたものだと気が付いた時、僕はさほど驚くことはなかった。
 
 彼女の名を呼ぼうとも、君は大樹の裏からひょいと顔を見せることもなければ、後ろから僕を脅かしてくれることもない。
 僕の縋り声は蝉の暴音に吞まれ、夏の静寂が周囲をたたえていた。
 
 身体の内側から軋み音が聞こえた。
 でもそれらの感情を検分することは後回しにしてしまって、僕は手当たり次第に鈴音を探し始めた。
 
 この一年の間、君と一緒に過ごした場所の一つ一つを見て回らなければ、彼女が居ないことを決定付けることはできないのだから。
 もちろん、そんなことないと解っていたけれど。
 
 急斜面、小川、竹林、紅葉が綺麗だった場所、二人でオナモミを投げ合った所…闇雲に山の中を駆け巡って、しかし、居ない、居ない、居ない。
 
 頭の中に広げた地図にバツ印が増えるにつれて、僕は息が上がるほどに走力を振り切れさせた。
 満足に呼吸が出来なくなってもなおその足を止めようとはしなかった。
 今は盲目的に動き続けなければ、やがて僕は窒息してしまう気さえしたのだ。
 
 そのうちに日暮れ時がやって来た。僕は生まれたての小鹿みたいに足を震わせながらシンボルツリーのところまで戻って来て、そのまま崩れるように大樹の下に座り込んだ。
 
 一日中走り回ったのに、終ぞ彼女の姿を見つけることは叶わなかった。
 でも大丈夫。まだ大丈夫。残りの三割に君がいるかもしれないから。きっといるから。
 
 段々と心に余裕がなくなっていることを他人事のように自覚しながら、僕は手を振って山を下りた。
 
 そうして、終わった後の世界の一日目に区切りをつけた。
193 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/03(火) 19:16:40.86 ID:e6a6AzVn0
 二日目。

 今度は朝から山にやって来た。
 昨日酷使した筋肉が悲鳴を上げているが、それを無視して森の中を彷徨った。
 午前中のうちに記憶に残る場所は全て回ってしまい、遂に僕は現実を受け入れざるを得なくなった。
 
 鈴音は何処にも居ない。僕は鈴音に拒絶された。もう彼女は僕の前に現れてくれない。
 
 途端に、これまで良くも悪くも靄で覆われていた心が真っ白に染まった。
 もうこれ以上は何も考えたくなかったし、何もしたくなかった。
 僕は覚束ない足取りで山を後にし、自室に籠ってひたすら惰眠を貪った。
 
 三日目。

 僕は午後何時かに目を覚ました。文字盤はよく見えなかった。
 ぐっすり眠ったのに布団から這い出す気力の一滴も得られず、僕は一日のほとんどを仰向けになって過ごした。
 夏の奏でる音の全てが浅く聞こえ、何を食べても味を薄く感じ、目にはあらゆるものが暗く映った。
 
 いまは一秒でも早く日々が過ぎ去って欲しかった。
 君のいない一日は驚くほどに長かった。

 四日目。

 僕はひたすら机に向かった。
 ただ茫然と日々を過ごしても脳裏に君が過るというのなら、僕はいっそのこと他の何かに夢中になろうとした。
 
 でも、意識して考えないようにすればするほど、煙みたいに君との記憶が全身に纏わりついた。
 その度に皮膚が抉り取られるような心地を味わい、世界の彩度は一段と下がっていった。
 
 最近、視界が歪むことが多くなった気がする。
194 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/03(火) 19:19:36.11 ID:e6a6AzVn0
 五日目。

 全て無かったことにしよう、と僕は思った。
 もうこんなに辛い思いをするぐらいなら、いっそ全部忘れてしまえばいいんだと自暴自棄になった。
 
 もちろん、記憶を喪失出来るわけではない。僕はその日、久々に日向達と遊び明かした。
 全力で自転車を漕ぎ、プールに行って泳ぎ倒し、帰り道には大きなかき氷も食べた。
 
 その日、僕は存分に話したし、喉が枯れるほどに笑ったし、ぶっ倒れるぐらいに全力で身体を動かした。
 この上なく素晴らしい一日だ。暮れ方の空の下で彼らと自転車を押し歩いている時、僕は本当にそう思っていた。
 
 家に帰ってご飯を食べて、熱い湯船に浸かって気怠い身体に鞭打って布団に入ったところで、ふと凄まじい虚無感に襲われた。
 
 夢から醒めた夢を見たようだった。当然、彼らとの時間が楽しくなかったわけじゃない。
 少なくとも、頭の中は今日一日を最良の日だと思っているようだった。
 
 だけど心は全く満足していなかった。
 胸の内にはやるせなさだけが募った。

 六日目。

 僕は性懲りもなく山に向かった。
 当然の如く君は居なかった。

 行く当てもなく森の放浪者となった僕は、時々無意識のうちに、「なぁ、鈴音。どこに隠れたんだよ」「頼むから、出て来てくれよ」などと冀うように呟いていた。
 
 凡そ正気だとは思えなかった。
 いや、もうとっくに頭はどうかしていたのだろう。
 それぐらい僕にとって彼女の存在は精神的支柱だったのだ。

 夕方頃になってふらふらと大樹にまで戻って来ると、僕はなんとなくその場にへたり込んだ。
 あるのは絶望だけだった。
 膝を抱えて顔を埋める影法師が伸びていた。
 ヒグラシの他にも一匹泣き虫が、自分の居場所を叫ぶように鳴いていた。
 
 星々が微かに輝き始めた頃、ぐちゃぐちゃの僕はのろのろと立ち上がった。
 夜空に浮かぶ星彩は、そのどれも薄汚く見えた。
 
 それから、僕は死んだように眠った。
195 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/03(火) 19:21:45.57 ID:e6a6AzVn0
 七日目。

 目を覚ますと日が傾いていた。
 でも一日を無駄にしたとは思わなかった。それどころか、僕は一日が早く終わることに後ろ向きな喜びさえ感じていた。
 
 望んだとおりにすぐに夜の時間が来ると、しかし僕は上手く寝付けなかった。
 仕方なく布団から這い出て、窓辺から詰まらない夜空を漠然と眺めた。
 
 そうして長い間頬杖をついていると、ゆくりなく思った。僕は何をしているのだろう、と。
 
 その晩、僕はようやく真剣になった。

 鈴音が姿を見せなくなった理由、僕に足りなかったもの、別れ際の彼女の様子、そしてこの一週間のこと。
 思いつく限りについて一つ一つを取り上げては時間を掛けてじっくりと分析し、起きてしまったことの原因を究明することに努めた。

 もう二度と、同じ過ちを繰り返さないように。
 でも、その過ちをやり直したいたった一人の君はもういないんだ。こんなことをしてなんの意味があるって言うんだ。
 
 そんな風に、夜中の妙に冴えた頭は余計なことまで抱え込んだ。
 結果、僕が個別的に物事の検証を終えた頃には、窓枠に映る四角形の空が白み始めていた。

 そしてそれらを繋ぎ合わせる前に、僕はゆっくりと意識を失った。

196 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/03(火) 19:24:46.26 ID:e6a6AzVn0
 そしてまた今日がやって来た。
 
 僕は独りでに午後五時に目覚め、突っ伏した机の上で身体を伸ばした。
 一度睡眠を挟んだ頭は気持ちいいほどにすっきりしていて、僕は天啓のように一つの答えを導き出していた。

 寝癖を直すことも空いた腹を満たすこともなく、歯を磨いて乾いた口にコップの水を流し込むと、僕は寝間着姿とサンダルの格好で静かに玄関から出て行った。
 
 それから、ちょっとした散歩にでも行く調子で山の中に入った。
 暫くするとシンボルツリーにまで到着し、やっぱり鈴音は姿を現さなかった。

 「鈴音、居るなら出て来てくれよ。そろそろかくれんぼにも飽きてきたんだ」

 僕はのんびりとした調子で彼女に問い掛けた。
 その声色には、ここ最近のみっともない僕を微塵も感じさせない。
 だからその変わりように驚いて彼女は姿を現してしまった、ということを微かに期待してみたのだが、やはりそう上手くはいかないようだ。
 
 まるで君がそこにいるかのようなその口調は、一見すると、とうとう僕が狂気に吞まれたかのように見える。
 しかし、そこには揺るぎない確信があった。
 
 その証拠に、僕の感覚は今この瞬間も強く訴えている。誰かに見られている、と。
197 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/03(火) 19:27:25.67 ID:e6a6AzVn0
 この奇妙な感覚は、思い返せばこの一週間山を訪れる度に僕に付き纏っていた。
 昨晩そのことについてよく考え、僕はある結論を得たのだ。
 
 それすなわち、鈴音はずっと僕の近くに居るのだと。
 
 まず彼女はあの日、もう来ないで欲しい、と僕に言った。
 しかし、自分が来ないとは言っていなかった。
 
 そしてそもそもの話、彼女は他の人には見えない半透明な存在なのだ。
 だから何かの拍子に僕も皆と同じようになってもおかしくはない。

 要するに、彼女は形而上となって今も僕を見ている。そう言うことだ。
 
 であれば、後はどうやって彼女に姿を現させるか。問題はそれだけだ。そこでとある作戦を実行するという訳である。
 
 そこには論理的思考など皆無だった。それでも、僕にとってはそれが唯一の真実であるように思えたのだ。
 
 僕はシンボルツリーの先を進み、やがて見覚えのある崖地の手前までやって来た。
 注意深く地面の切っ先にまで足を進める。あの時のことは不思議と上手く思い出せないが、どうやら身体は覚えているというやつらしい。
 身を乗り出して遠い地面に視線を落とすと、身体のあちこちで嫌な脂汗が伝った。

 僕は一呼吸挟み、自己暗示を塗り重ねた。
198 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/03(火) 19:29:44.53 ID:e6a6AzVn0
 君のいない一週間を経て、僕はようやく真に理解した。
 
 僕の世界は何をとっても君に始まり、そして君に終わるのだと。
 君が隠れた世界は朝の来ない夜の世界に等しく、君のいない世界にはなんの価値もないのだと。
 
 だったら、もう生きる必要はないんじゃないかな、と単純に思ったのだ。
 
 傍から見ればそれはただの狭窄なのかもしれない。或いは気狂いの妄言と捉えるかもしれない。
 でも僕にはそれが全てだ。鈴音こそが生きる意味だ。
 なればこそ、僕は一度拾った命を投げ捨てよう。
 
 頭から行こうか、それとも足から行くべきか、まぁなんでもいいか。

 大きな深呼吸を終え、竦む身体を言い聞かせると、僕はゆっくりと右足を空中に繰り出した。
 
 たちまち身体は重力に引っ張られ、僕は遥か大地に真っ赤な花を咲かせた、かに思われた。
 
 ピタリと、前のめりになった身体が不自然に動きを止める。
 僕の左手はアンカーで固定されたみたいに、空中の一点できつく張り付いていた。と思ったら僕は瞬く間に崖上に引っ張り上げられた。
 
 その左腕には心地良い温もりを感じた。しかしそれは一瞬のことで、今度はその感触が抜け落ちそうになった。

 僕は反射的に空中に手を伸ばした。
 
 目には見えないが、そこには確かに細い手首があった。
 決して離さないよう強く空間を握り締めた僕は、掴んだ先に獰猛な笑み浮かべた。
199 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/03(火) 19:30:30.74 ID:e6a6AzVn0
 君のいない一週間を経て、僕はようやく真に理解した。
 
 僕の世界は何をとっても君に始まり、そして君に終わるのだと。
 君が隠れた世界は朝の来ない夜の世界に等しく、君のいない世界にはなんの価値もないのだと。
 
 だったら、もう生きる必要はないんじゃないかな、と単純に思ったのだ。
 
 傍から見ればそれはただの狭窄なのかもしれない。或いは気狂いの妄言と捉えるかもしれない。
 でも僕にはそれが全てだ。鈴音こそが生きる意味だ。
 なればこそ、僕は一度拾った命を投げ捨てよう。
 
 頭から行こうか、それとも足から行くべきか、まぁなんでもいいか。

 大きな深呼吸を終え、竦む身体を言い聞かせると、僕はゆっくりと右足を空中に繰り出した。
 
 たちまち身体は重力に引っ張られ、僕は遥か大地に真っ赤な花を咲かせた、かに思われた。
 
 ピタリと、前のめりになった身体が不自然に動きを止める。
 僕の左手はアンカーで固定されたみたいに、空中の一点できつく張り付いていた。と思ったら僕は瞬く間に崖上に引っ張り上げられた。
 
 その左腕には心地良い温もりを感じた。しかしそれは一瞬のことで、今度はその感触が抜け落ちそうになった。

 僕は反射的に空中に手を伸ばした。
 
 目には見えないが、そこには確かに細い手首があった。
 決して離さないよう強く空間を握り締めた僕は、掴んだ先に獰猛な笑み浮かべた。
200 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/03(火) 19:34:10.84 ID:e6a6AzVn0
 「見つけた」

 その短い言葉にはどんな喜びにも勝るほどの興奮が色濃く表れていて、僕は確信めいた眼差しで空間の一点を見つめていた。

 賭けに勝ったという自信があった。
 高らかな勝利宣言が辺りに染み渡ると、それから長い間、夏の声が静謐を代弁した。

 僕は掴んだ手を必死に握り締めて、辛抱強くその時を待った。
 手のうちに汗が滲み始めた頃、とうとうその時がやって来た。

 「…ずるいなぁ、千風くんは」

 山の端に日の出を見たようだった。
 その魔法の粒子が拡散したかのような余りに美しい登場に、僕は思わず言葉を失った。
 何処か参った調子の鈴を転がすような澄声が響いて、君は観念したようにゆっくりと僕の目に見える形で現われた。
 
 何にも汚れないような真っ白な肌、目尻に流れる長いまつ毛、艶やかな黒の髪、容姿端麗な顔立ち。
 ひとたび彼女を認知すると、ありとあらゆる感情が身体中に一挙に押し寄せ、やがて間欠泉のように飽和した。
 一週間ぶりに君を目に焼き付けた僕は、もう我慢ならなかった。
201 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/03(火) 19:37:30.08 ID:e6a6AzVn0
 「鈴音!!」

 僕は無我夢中になって君の名前を叫んでいた。
 鈴音は困ったような笑顔を崩さないでいた。
 
 一瞬でも目を離せば、君はまた何処かに行ってしまいそうな気がした。
 僕は雪崩れ込むように君との間隔を狭め、気が付くと、彼女の鼓動が僕の胸に響いていた。

 僕は今、鈴音を強く抱き締めている。
 それを自覚した時にはもう遅く、溢れ出る衝動が止まることはなかった。

 「お願いだから、もう勝手に居なくならないでくれ。僕は鈴音といる時間が何よりも大切で、鈴音と一緒に居られないと頭がおかしくなりそうで…だからっ…頼むから、僕の隣に居てくれ…」

 力の限り君を抱き締め、僕は心から零れ落ちる感情を精査することもなくだだ流しにした。
 そこには取り繕うべき体裁もなく、透き通るほどに純粋な祈りが伝わっていた。
 
 鈴音は困惑したように僕の腕の中で固まっていた。
 その間、僕は声を上ずらせて同じような意味の言葉を繰り返していた。

 やがて君は苦しそうな微笑みを作った。
 我に返った僕が抱擁を解こうとすると、君は僕の背中にそっと腕を回した。

 僕の言葉に何一つ答えてくれないことはどうしようもなく悲しかったし、君が僕に応えて優しく包んでくれたことは痛いほどに嬉しかった。
202 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/03(火) 19:39:56.25 ID:e6a6AzVn0
 「ほんとに清水の舞台から飛び降りようとするなんて…無茶が過ぎるよ」

 僕の背中をぎゅっと抱き締めた彼女は耳元で囁いた。
 
 「鈴音が止めてくれるって、分かっていた。だからやったんだ」

 僕は少しだけ腕に力を加えた。
 
 「止めなかったら、どうするつもりだったの?」
 
 鈴音は優しい声でまた呟いた。

 「どうもしない。それで終わりだ」と僕は呆気なく言った。

 「もう二度としちゃ駄目だからね」と彼女は僕を諫めるように言った。
 
 「めっ!」という擬音が聞こえそうな勢いで僕の胸を小突き、君はそっと僕の身体から離れた。
 そんな鈴音は怒りながら笑っているようだった。
 
 また君が居なくなったらどうしようかと気が気でなかった僕は、瞬きしても姿を消さない君に一安心した。
 「うん、約束する」と大人しく返事をすると、君は満足げに頷いた。
 
 思えばこの時、僕は初めて鈴音に黒星を叩きつけたのだろう。
 とは言え、今はそんなことはどうだって良かった。勝ち負けなどに拘る以前の問題として、もう充分過ぎるほどに僕は満たされていたのだ。
 
 遅れて僕は自分のしでかしたことを脳裏に巡らせ、自覚できるぐらいに顔中が火照った。
 それを見た鈴音は小さな笑い声を洩らした。

 そして「さて」とでも言いたげに両手を合わせた。
203 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/03(火) 19:42:31.80 ID:e6a6AzVn0
 「ね、千風くん」「明日、朝からまたいつもの場所に来て欲しいんだけど…良いかな?」

 彼女は遠慮気味にそう言った。
 
 「構わない」と僕は即応した。

 すると鈴音は「もしかしたら、また居なくなっちゃってるかもだよ?」と悪戯めいた素振りで言った。
 
 「なら、もう一度同じことをするだけだぞ?」

 僕は強気な言葉を返した。

 「意地悪だなぁ。こっちは気が気じゃないのに」鈴音はしてやられたみたいにため息をついた。
 
 それから僕たちは大樹の下まで戻り、その日のお別れを告げようとした。
 
 去り際に、「朝一番だな?」と僕はもう一度彼女に確認を取った。
 
 鈴音は「うん、ちゃんと全部話すから」と何気なく言った。
 
 僕は思わず目を見開いて立ち止まった。

 「もう日が暮れちゃうよ。だからまた明日、ね?」と鈴音は言い聞かせるように僕に手を振る。

 背を押される形でその場を後にした僕は、その言葉に並々ならぬ予感を抱いていた。
204 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/04(水) 14:50:23.69 ID:YMX0ehJt0
 ♦♦♦

 
 久しぶりに鈴音の姿を見られたこと、君と話せたこと、感極まってつい彼女を抱き締めてしまったこと。
 それから、色々と口走ってしまったこと、彼女にも抱き締められてしまったこと。
 
 その晩、僕は一日の出来事を心に刻むように反芻していた。
 明日の為に身体を休めなければならないというのに、頭も身体も高揚が収まらなかった。

 無理矢理目を閉ざして羊を数え、真夜になってようやく意識は手放された。
 それでも朝は自分でも驚くほどに素早く目を覚まし、時計が鳴る頃には布団を畳み終えていた。
 
 その日は気持ちが良いほどの快晴だった。
 窓際から覗く太陽は自室に深い陰影を落としていて、窓の向こうに見える雑木林からは物々しい蝉時雨が聞こえた。
 窓を開け放つと、夏の匂いが湿った風に運び込まれた。

 いかにも夏らしい夏だ、と思いながら僕は外へ繰り出した。
 
 農道の両端に広がる田んぼには、もう緑の絨毯は見えない。
 稲穂の先が仄かに黄金色を帯び始めていて、そこで青の斑点の美しいギンヤンマが小休憩を挟んでいた。
 行く小路では大きな向日葵が空高くを見上げており、山の緑に近づくにつれて人工と天然の比率が入れ替わっていった。

 やがて僕は自然のほら穴の如き青葉のはびこる森の入り口に吞み込まれ、透いた林冠から洩れる幾つもの光芒が僕を照らしては陰りを落とした。
205 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/04(水) 14:52:19.18 ID:YMX0ehJt0
 じわじわとその足取りが速まる。
 逸る気持ちを抑え切れない。

 辛抱堪らず、僕は慣れ親しんだ道なき道を跳ぶように進み始めた。
 ものの数十秒で緩い傾斜を登り終えると、遠くに一際背の高い大樹の頂点が伺えた。
 目的地はもうそこだったが、駆ける足が止まる様子はなかった。
 
 居るのか、居ないのか。鈴音は本当にあそこで待ってくれているのか。今度という今度ばかりは何も言わずに僕の前から去ってしまうのではないか。

 等々、次から次へと嫌なことばかりが頭の中に浮かんでは沈み、得も言われぬ焦りが身体中を駆り立てていた。
 
 昨日の彼女の言葉が信じられなかったわけではない。
 それでも、一抹の不安は瞬く間に膨らみ、破裂寸前にまで僕の胸いっぱいに広がった。
 
 ただ君の姿を一目でも見られたなら、この胸に巣食う風船も落ち着くのだ。
 僕は気の急くままに掩体のような木々を躱し、やっとのことで大樹の聳え立つ地へと駆け込んだ。
 
 途端、全身は鎖で絡め取られたように動かなくなった。
 その場からは空気がごっそりと抜き取られたみたいに、僕は息を吸うことさえままならず茫然と一点を見つめることになった。
206 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/04(水) 14:54:26.53 ID:YMX0ehJt0
 初め、僕は自らの眼球が捉えた光景を疑った。
 夢まぼろしの類を軽々と上回るほどに、この現こそが浮世離れしていたからだ。
 こんなにも胸に響く現実があるなど、僕には到底信じることが出来なかった。
 
 視界の中心で動く白はこれまで通り美しく、だがこれまでになく気高き品性を感じさせた。
 その後光が射して見えるいでたちに目を奪われる余り、僕はどうあがいても動き出すことが出来なかった。
 
 その時、僕の脳裏には今更ながらに提灯と釣り鐘が思い浮かべられた。
 すっぽんが月に近づけるはずがない理屈と同じで、僕という人間が君に近づくなどあってはならないことだと感じられた。
 僕の抱く薄汚い欲望で彼女を汚してはいけないのだと強く思わされた。
 
 並外れて高踏的な君を前に、僕は思わず怯んでしまった。
 じわじわと後退りをして、物理的にも精神的にも彼女から距離を取ろうとしてた。
 
 そんな僕をよそに、君はひらひらと手を振りながら近くて遠い距離を詰めた。そうして

 「おはよう、千風くん」

 と屈託のない声で僕の名前を呼んでくれた。
207 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/04(水) 14:56:26.83 ID:YMX0ehJt0
 たったそれだけのことで、僕の中に芽生えた心理的障壁は音を立てて崩れ去った。
 
 いつもと恰好が違うからなんだというのだ。鈴音は変わらず鈴音だ。
 だから僕もこれまで通りの僕でいればいい。それだけのことではないか。
 
 畏怖の念に似た感情さえ起こさせる鈴音から逃げ出そうとした寸前で、僕は正気を取り戻した。
 それは、君がいつも通りの声色で、僕と同じ言葉で語り掛けてくれたからこそなのだろう。
 
 僕は頭の中を切り替えるように一呼吸を置くと、微笑みを作って挨拶を返した。
 鈴音は確かめるように自身の身体のあちこちを眺めると、その場でふわりと一回転した。
 そして僕にでも分かるぐらいのあざとい笑顔を浮かべた。
 
 「どう、似合ってる?」

 何を隠そう、今日の鈴音は例のワンピース姿ではなかった。
 
 清流を思わせる淡い水色をした装束は彼女の華奢な身体つきに相応しく、その色合いは見事なまでに彼女の乳白色の肌に馴染んでいた。
 後頭部に添えられた藤色の髪飾りは、彼女の翡翠の髪差をこれ以上になく引き立ていた。 
 
 また、髪飾りで結われた髪が、今までの自然体とは違った美しさを体現していた。
 飾りに使われている花は本物のようで、芳しい香りが辺りに揺れていた。
 一年以上植物に関することを勉強してきた僕にでも、その花の正体には見当もつかなかった。
 
 改めて君の姿を見つめ直したうえで、僕は彼女の問い掛けに答える準備を整えた。
 それを素直に認めることは中々に悔しいし、それ以上に恥ずかしいことだったが、実際、非の打ちどころは何処にも見当たらなかった。
208 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/04(水) 14:58:25.77 ID:YMX0ehJt0
 「うん、凄く似合ってる」

 僕は大きく頷いた。

 「可愛い?」

 君は一歩踏み込んで僕を覗き込んだ。

 「うん、信じられないぐらいに可愛い」

 僕はまた頷いた。

 「見惚れちゃった?」
 
 段々と顔が綻びつつある君は更に訊ねた。

 「うん、今もまだ目が離せない」

 僕は馬鹿正直に答えた。
 
 遂に表情を抑えられなくなった君は、「えへへ」と照れくさそうに口元を綻ばせた。

 僕はそんな君にまた魅入っていた。
 
 「もっと前からこの格好でいれば良かったなー」と彼女はこっそりと呟く。
 その口惜しそうな言葉を前に、僕は連鎖的に昨日の言葉を思い出した。
 
 ──全部話すから。
 
 その内容が一体何を意味するのか、本音を言うと、僕はもうそんなことを知りたくはなかった。
 出来ることなら、耳を塞いで永遠にこの時間を続けたいと思っていた。
 彼女の服装から、僕は大体の顛末を推測してしまったのだ。
 
 その時の僕がどんな表情を浮かべたのかは、目の前に鏡があった訳じゃないから分からず終いだ。
 でも、鈴音は僕を見ると慰めるような表情を浮かべた。
209 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/04(水) 15:00:04.19 ID:YMX0ehJt0
 「千風くん」

 彼女は改まったように僕を呼んだ。
 僕は現実から目を逸らそうとしたが、彼女はそんな僕を逃がすまいと真っ直ぐに見つめた。
 
 長い躊躇いの末に、僕はとうとう返事をしてしまった。
 すると鈴音は何気なく僕の手を取り、

 「一から十まで全部話しちゃう前にさ、最後にちょっと散歩しよーよ!」

 と明るい調子で僕を引っ張った。

 僕はその手を離さないように強く握り、彼女の後について行った。
 
 鈴音は適当に森の中をそぞろ歩いては、「あんなこともあったね」「こんなこともあったね」とこれまでの日々を振り返るように僕に笑い掛けた。

 連れ回された僕は相槌を打ちながら、綱渡り状態の笑顔を保ち続けていた。
 彼女と散策すること自体は楽しかったが、この後のことを考えると心は何処までも重かった。
 
 僕が気乗りしていないことを察したのか、鈴音は途中で大樹まで戻って来た。既に太陽は頂点に昇っていた。

 「どうにも千風くんは、私の話が聞きたくてしょうがないみたいだね」

 彼女は僕と面と向かうと、堪え性のない子供を見るようにそう言った。

 「その逆だ」と僕は投げやりに言った。

 鈴音は意外そうに眼を丸め、「じゃあ」と言葉を繋いだ。

 「まずは、千風くんの推理でも聞いてみようかな。種明かしはその後ってことで」
210 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/04(水) 15:02:11.06 ID:YMX0ehJt0
 「推理?」

 僕はついつい状況を忘れて素の調子で尋ね返した。

 「そそ。私と一緒に過ごす中で、千風くんはどう考えたのかなー、って」

 彼女は遊び感覚のように軽い調子で催促した。
 
 僕は口を固く結んだ。
 その暗黙の了解を言葉にしてしまっては、君が終点に運ばれてしまうだろうから。
 
 押し黙る僕に対して、鈴音はジッと僕の目を見て我慢強く待ち続けるという選択を選んだ。
 
 きっと、彼女は知っていたのだろう。そうして君に見つめられてしまえば、僕はいつか口を開くことを。
 
 そして彼女の狙い通り、鉛のように重い口が動く時が来た。
 僕は断腸の思いで喉を震わせ、君との答え合わせをしてしまった。

 「鈴音は……幽霊、なのか?」

 
 本来、君は人の目には映らぬ存在だ。
 ずっと昔に彼女の正体を探ろうとした時に、僕はほとんどその答えに辿り着いていた。

 加えて、今日の君は死装束を思わせる姿で現れた。
 かつては君が幽霊などではないと思い込もうとした時期もあったが、ここまで色々な証拠を見せられては、それも無理な話だった。
 
 その言葉を最後に、僕の世界は音が失われたみたいに静まり返った。
 鈴音はきょとんとこちらを眺めていた。
 僕は祈るような気持ちで両目を瞑り、君の答えを待った。
 
 数拍の間があった後に、何処からともなく愉快そうな声が聞こえてきた。
 面食らった僕が目を開けると、そこにはお腹を抱えて苦しそうに笑う君がいた。僕は呆然と抱腹絶倒の君を眺めていた。
 
 暫くして、ひーひー言いながら笑みを抑えた君は、

 「私はお化けじゃないよ〜。残念でした〜」

 と両肘を軽く曲げ、それっぽく手の甲をこちらにだらんと向けた。
 
 鈴音の言葉によって、僕の世界はひっくり返った。
211 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/04(水) 15:03:51.35 ID:YMX0ehJt0
 「参考までに、どうして私が幽霊だと思ったのか聞かせてよ」

 おかしそうに微笑む君にそう言われて、僕は困惑したままに推論の基となった情報を伝えた。

 「だって、びっくりするぐらい肌が白いし、髪とかも伸びてなさそうだし、いつも白いワンピース着てたし…今日なんて、死装束そっくりの服着てるじゃないか」

 彼女は首を傾げ、続いて反証するように帯近くに手を添えた。

 「なるほどー。でも、私の装束は左前じゃないよ?」

 「あっ」と僕は小声をあげた。
 鈴音の言う通り、確かに彼女の水色な装束はきちんと右前であったのだ。

 「千風くんは抜けてるね〜」と、のんびりとした君の声が聞こえた。
 それから鈴音は目を上向けると、如何にもな物語を口述した。
 
 「他人の温もりを求めた幽霊は、ある日少年と出会いました。彼女は彼と日々を過ごすうちに温かな気持ちを知り、最後は成仏しましたとさ。なんてね」
 
 それが実現しなくて本当に良かった、と僕は仮初の安堵に身を置いた。
 
 「まぁ確かに君達からしたら、私は幽霊みたいなものなのかもしれないけどさ」

 君は付け加えるように小さく言った。
 
 僕が生まれたその時、或いは生まれるずっと以前から、宿命は用意周到に手ぐすねを引いていたのだろう。
 だから直前になって僕が暴れ出そうとしたって、もう身体中は運命の糸で雁字搦めになっていた。
 だとしても、僕は醜く足掻くことをやめようとはしなかった。

212 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/04(水) 15:05:23.39 ID:YMX0ehJt0
 「だったら…鈴音は幽霊なんかじゃないんだったら、もう何処にも行かないで──」

 本当は、分かっていた。昨日に君が何も言ってくれなかったあの時から。
 
 だから今から君が言うことは、単に遥か昔から既定されていた未来が訪れたということ以上の意味はなのだと思う。
 であるからこそ、僕は無理くりにでも彼女の次なる言葉を掻き消してしまいたかったのだ。
 
 「私はね」

 鈴音の鶴の一声は、僕の逃避発言をいとも簡単に霧散させた。

 今日も明日もこれからも、君と笑い合って過ごす穏やかな毎日。
 そんな脳裏に描いた淡い日々さえもが露と消えたその時、彼女は静かに止めを刺した。

 「帰らなきゃいけないの」

 続きの言葉は、もう出てこなかった。
 僕はやりきれない気持ちでいっぱいだった。
 
 「…何処に」と僕は自分でも驚くほどに無機質な声で尋ねた。
 すると鈴音は視線を上向け、遠い天上を指差した。

 「高天原」

 鈴音の澄み切った一言が響いた時、僕はぽかんと君の指の向いた何処までも青い大空を眺めていた。
 何から何まで僕の想像していた顛末は間違いだらけで、頭が追い付いてこなかった。
 
 やや間を置いてから、頭はその聞き覚えのあるような無いような言葉を奥から取り出す作業に移った。
 その単語はすぐに見つかった。と同時に落雷が落ちたような衝撃が身体中を走る。
 僕は数度口をもごつかせ、弾けるように本当の答え合わせをしようとした。

 「…は?た、高天原…?」「…ってことは、もしかして──」
213 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/04(水) 15:07:02.71 ID:YMX0ehJt0
 しかし僕がその全てを言葉にしてしまう前に、鈴音は神秘めいた微笑みを僕にぶつけた。
 僕はその神々しさにあっさりとやられた。
 それ以上二の句は継げず、魅惑の微笑に頭をぼんやりとさせていた。

 「ん、そう言うことだよ。これまで黙っててごめんね」

 君は済まなそうに謝ると、おずおずと僕の手を取った。
  
 それから「でも、もう少しだけ、あと少しだけで良いから、私に付き合って欲しい」と僕を優しく引いて、大樹の幹にもたれ座った。
 
 そのか弱い導きは簡単に振り解けただろうけれど、僕は誘われるままに鈴音の隣に腰を下ろした。
 
 長い沈黙が流れた。
 大樹にしがみ付いたアブラゼミが、僕らの近くで翅を鳴らしていた。

 一頻り自分の居場所を示し終えると、彼は颯爽と別の木に飛び移っていく。
 そうして夏の音が遠ざかったところで、君はぽつぽつと話し出した。

 「…本当はね、千風くんとはお祭りの日にお別れするつもりだったの」「そうすれば、私の正体を君に知られなくて済むから」
 
 「知っちゃ不味かったのか?」

 僕は彼女に正体を隠す義務のようなものがあるのかと思った。

 「ううん」

 僕の予想に反して、鈴音は首を横に振って続けた。
214 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/04(水) 15:08:14.40 ID:YMX0ehJt0
 「…私は…怖かった。もし私が人間じゃないって知ったら、君はもう一緒に居てくれないんじゃないかな、って。気味悪がったり、煙たがられたりするんじゃないかなって思うと、どうしても言い出せなかった。私と君は姿形も扱う言葉も変わらないけど、決定的に異質な存在であることは確かだから。寧ろ下手に同じ部分があるからこそ、その絶対的な差異が破滅的なんだろうなって思ってた。君たちが異人種を差別してきた過去と同じように」

 一呼吸挟むように、彼女は嘆声を洩らした。
 
 「そんな憂苦の小片が胸を渦巻いて、私はそれに耐えられなくて、遂には君から逃げ出した。私は君といる時間が好きだったからこそ、君がこれまで通りに私を見てくれなくなる可能性に怯えた。…君を傷付けてまで自己保身に走った私は、きっとこれ以上になく醜いんだろうね」

 「そんなことない」

 いつになく弱々しい表情を見せた鈴音を見て、僕は堪らずその形に口を動かそうとした。
 でもその一歩前に君は軽く頷き、握る手のひらに力を加えた。

 「うん、分かってるよ。君はこんなにも近くで私を見つめていてくれたのにね。一度は見ない振りまでしてくれて、それからも君は何度となく教えてくれたのね。…私は最後の最後まで、君を信じ抜くことが出来なかった」
215 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/04(水) 15:10:11.07 ID:YMX0ehJt0
 「ごめんね」と自罰的な含みを込めた表情で君は言った。
 
 鈴音は本来語る必要のない自分の負の側面をも包み隠さず話した。
 だから反射的に、今度は僕の番だと思った。

 「ううん、謝る必要はない。…実をいうと、僕だってついさっき、君の前から逃げ出そうとしたんだ」

 鈴音が真に恐れたことは、一歩違えば踏み込んでしまいそうなぐらいにすぐ近くにある結末だった。
 そのような趣旨の言葉を受け取った君は目を大きく見開いた。
 
 僕は用水路のへどろを掘り起こすように、醜悪な自分を曝け出した。

 「今日の鈴音は、恰好も相俟って物凄く超然としてたから、その時僕は思ったんだ。僕なんかが君の傍に居ていいのかな、って。君の近くにいるべきは僕みたく恥ずかしいほどに卑小な人間じゃなくて、もっと相応しい存在がいるんだろうなって」

 この期に及んで言い訳をしている自分に、しかもその原因を鈴音に押し付けようとしている自分に甚だ嫌気が差して、僕は自嘲的に哂った。
 
 「…いや、理由なんてどうだっていいか。事実として、僕は君から距離を取ろうとした。僕は君との間に大きな隔たりを築き上げようとしたんだ。結局のところ、僕は君の怯えた通りに愚図だった」
216 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/04(水) 15:11:04.15 ID:YMX0ehJt0
 僕の浅ましい部分を知った鈴音は、距離を取るでも軽蔑するでもなく、「そんなことないよ」と優しい言葉を掛けようとしてくれていた。
 
 そしてだからこそ、僕はさっきの君と同じように、彼女がそう言い出す前に手のひらを強く握った。

 「うん、分かってる。でも、途端に自信の無くなった僕を連れ戻してくれたのは、他でもない鈴音なんだ。単純すぎて驚くかもしれないけど、鈴音がいつも通りの笑顔でおはようって言ってくれたから、僕は君に伝え続けたことの意味を思い出せたんだ。だからある意味で鈴音の憂慮は正しくて、そして最後の最後に僕が変わらないでいられたのは、紛れもなく鈴音のお陰なんだ」

 「ありがとう」と僕は情けない笑顔で独白を締め括った。
 
 多分、浅はかな自分に一言二言文句を言われることはあれども、よもや感謝を伝えられるとは思っていなかったのだろう。
 お礼の言葉に目を丸めた鈴音は、しばらく何かを言いたげに表情を動かしていた。

 でも結局は「どーいたしまして」と微笑んだ。
217 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/04(水) 15:12:31.37 ID:YMX0ehJt0
 「少し、聞きたいことがあるんだ」

 確かめ合うようにお互いの痛いところを舐め合った後に、僕は一つ問い掛けることにした。彼女は目配せで応えた。

 「どうして、僕にだけは鈴音が見えるんだ?鈴音が見えるように計らってくれたのか?」

 なぜ周りには見えない君が視認できているのか。一番気になったのはこれだった。

 別にこれまでの僕は、寺社に行けば幽霊や君のような高尚な存在が捉えられたわけじゃないし、それが不思議でならなかったのだ。
 もちろん、僕がただの人だと思っていただけで、実はその彼らが不可視の存在だという可能性も大いにあるのだろうが。
 
 僕はそれなりに腑に落ちる解答を欲していた。
 対して彼女は共感するように大きく頷いた。

 「それ、私にも分かんないんだ。私はてっきり、千風くんが珍しい属性の人だと思ってたんだけど」

 鈴音は尋ね返すようにそう言った。
 
 「いや、違うと思う。少なくとも、これまでにそんな経験はなかった」

 全てが彼女の仕業でなかったことに驚きながらも、僕はそう言葉を返した。
218 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/04(水) 15:14:10.64 ID:YMX0ehJt0
 「そうなんだ。まぁどうだっていっか。だからね、初めて千風くんに出会った日、私はすごくびっくりしたんだよ?『え?私のこと見えてるの?』って」

 鈴音は在りし日を懐かしむように言った。
 
 結構気になっていたことを一蹴されて、僕はちょっと気に食わなかった。
 だから仕返しでもするつもりで「あぁ、あれはこっちも驚いたよ。こんなに綺麗な子が森の中に居たからさ」とわざとらしく言ってやったのだ。
 
 時間がズレたみたいな刹那の間を置いて、「ふーん」ともの言いたげな目が僕に向けられた。
 君はまんざらでもなさそうな様子で「まだ私にそういうこと言うんだ。って、君にはそんなの関係ないんだったね」と自己完結した。
 
 それから、可視化してしまいそうなほどに深いため息が聞こえた。

 「…あーあ、もっと私に勇気があればなぁ…千風くんだって必要以上に傷付かなかったのに」と誰に言うでもなく、彼女は青い空に視線を移しながら後悔を言葉にした。
 
 その瞬間、僕は無意識に強く言葉を返していた。

 「それは違う」
219 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/04(水) 15:15:35.96 ID:YMX0ehJt0
 言葉に合わせて僕が彼女の腕を引っ張ると、鈴音は驚いたようにこちらを向いた。
 
 いつか失くした夏の魔法の断片をかき集める。足りない分は今の自分を奮い立たせる。
 心に薪をくべ、燃え上がった炎の熱さに堪らず言葉を飛び出させるようにして、僕は君に言わなきゃいけなかったこと、言うべきだったこと、そして何よりも僕自身が言いたかったこと伝えようとした。

 「一歩踏み出そうとしなかったのは、僕の方だ。僕だって、鈴音との心地良い時間を失いたくなくて、ずっと曖昧なままでいたから。絶対的な安全圏から君を小突いては何度も反応を確かめて、その癖境界線を越えようとはしなくて、そんな風に、僕は臆病だったんだ」

 意外にも言葉は流れるように繰り出された。
 その度に段々と自分の頬が熱くなっているのを実感した。

 最初はぽかんとしていた鈴音も、何かを察したように身を強張らせていた。
 
 「…でも、この一週間君に会えなくて、僕はこれまでの自分がどれだけ愚かだったかを思い知った。もう僕はそんな自分から逃げたくない。現状維持の自堕落に溺れたくない。だから、言わせてくれ」

 心臓が痛いほどに胸を叩いている。
 視界がぼやけるぐらいに頭の中は燃え上がっていて、指先にまでどくどくと血液の鼓動が伝わっていた。
 
 心なしか、君の頬は熱を帯びているように見えた。
 それは夢か誠か幻か。だがなんにせよ僕の行動は変わらなかったろう。

 その言葉を繰り出す寸前、僕の喉元は焼き焦げたかのような灼熱に包まれていた。
220 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/04(水) 15:17:17.51 ID:YMX0ehJt0
 「僕は……僕は、鈴音のことが──」

 顔全体に広がった熱を一点に集中させ、口から火を噴くように思いの丈を叫ぼうとしたその時、君の空いている手がさっと動いた。
 その小さな人差し指は僕の顔の前に持って来られて、そっと僕の唇に添えられた。
 
 途端、顔中真っ赤な僕の体温がその人差し指に吸い込まれ、代わりにひんやりとした風を吹き込まれるような錯覚が生じた。
 不思議と冷静さを取り戻してしまった僕は、もう思いの限りを伝えることが出来なくなってしまった。
 
 熱に浮かされていない目で見る君は、それでも頬を桜色に染めていた。
 君は今し方の出来事を深く味わうように瞳を閉ざした。
 そして長い時間を掛けてゆっくりと瞼を上げると、堪らなく嬉しそうに

 「それ以上は、駄目だよ。私も君も、後戻り出来なくなるから」と言ってから、何処までも無念そうに

 「言ったでしょ。私は帰らなきゃいけないって」と嘆息をついた。

 「どうしても、帰らなきゃいけないのか?」

 僕は縋るように問い掛けた。
 
 「うん。…ほんとは、私もずっと千風くんと一緒に居たい。でも、人の子が学校に行くみたいに、私達にも学ぶべきことがあるの」

 君はかすかに頬を綻ばせた。
 
 『ずっと一緒に居たい』その一言だけで僕の胸は馬鹿みたいに高鳴った。

 直後、頭から冷や水をぶちまけられた。
221 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/04(水) 15:19:09.98 ID:YMX0ehJt0
 「それにどれぐらいの歳月が掛かるかは分からない。もしかしたらすぐに終わるかもしれないけど…或いは、君が生きているうちはこっちに来られないかもしれない。それぐらい、難しい事なの」

 そこで僕は初めて理解した。僕と君とでは、時間の流れ方が違うことを。
 ここにきてようやく、僕は二人の間にある絶壁を思い知ったのだ。
 
 恐らくそれをずっと前から分かっていたであろう君は、唖然としている僕をなんとも言えない表情で眺めていた。
 放心する僕に向けて、ズキズキと張り裂けそうな胸を抑えるように、彼女は細い声を振り絞った。

 「だから…今日で、私のことは忘れて。千風くんには千風くんの人生があるんだから、君はまた新しい幸せを見つけて。短い命を、君なりに精一杯楽しんで」

 その際に鈴音が浮かべた笑顔は、これまでになく綺麗な作りものだった。
 ともすれば心の底からの笑顔だと勘違いしてしまいそうな程に、それは完成された微笑みだった。
 
 でもその微笑みの後ろでは、そうじゃないんだよと必死に叫ぶ君が薄っすらと見えた。
 繋ぐ君の手は小刻みに震えていて、そこから空いた右手で僕に伸ばそうとしている君の姿がありありと浮かんだ。
 彼女の笑顔が苦しみのやせ我慢だということには簡単に気が付けた。
 
 その時、僕は大きな決断を下した。
 鈴音になんと言われようとも元より僕はそのつもりだったが、今一度決意を表明しようと思った。
 
 瞼を閉ざして深呼吸を挟んだ僕は、君の瞳を真っすぐに見つめ、堂々と強固な意志を言葉にした。
222 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/04(水) 15:22:24.99 ID:YMX0ehJt0
 「待ってる」

 その短い言葉を前に、君は大きく瞳を揺らがせ、言葉なき動揺にかき乱されていた。
 
 僕は僕の人生が最良のものとなるように、君に向けて赤裸々に語った。

 「僕はずっと、鈴音を待ってる。例えもう二度と会えないんだとしても、僕は君が戻って来るのを待ってる。だから『忘れて』なんて言わないでくれ。僕は絶対に忘れない。鈴音のことを忘れたくなることなんてないだろうけど、もしそんな時が来ても決して忘れられないほどに鈴音は僕の中心になってるから。だから僕は待ち続ける、この命の限り」

 長らく、鈴音は困惑一色にその顔を染め上げていた。
 
 どうしてそんなことを言ってしまったのか?自分の言っていることの意味が分かっているのか?とでも言いたげに君は僕を見つめていた。

 僕は目を逸らすことなく、鈴音の瞳を見据え続けた。
 
 僕の頑固な意志が折れることがないことを理解したのだろう。
 ある瞬間を境にして、鈴音はこの上なく満たされたような表情を浮かべた。

 「…そっか…そっかぁ…」

 噛み締めるように同じ言葉が繰り返される。
 君は何度も何度も頷き、満足げに顔を綻ばせる。

 徐々に溢れそうになったものを嚙み殺すように歯を食い縛ろうとして、でも結局は抑え切れなかったみたいだ。
 僕を見つめる君はたちまち表情を歪ませた。
 
 もう隠し切れないほどに喉を震わせながら、細々と続けた。

 「…あぁ…私って…本当に、幸せ者なんだろうね…」
 
 こんなにも感情が直に伝わる声色を僕は聞いたことがなかった。
 君が僕と同じ気持ちでいてくれていることをひしと実感できて、胸の奥は燃えるように熱かった。
 
 鈴音は胸に抱えるものが決壊してしまう前に、すとんと僕の胸に顔を預けた。
 やがて僕の胸にはじわじわと温かな湿り気が広がっていった。

 君が力の限り僕の背を絞めつけている間、僕は君の背を優しく撫で続けた。
223 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/04(水) 15:28:04.67 ID:YMX0ehJt0
 
 
 感情の高ぶりが収まり、彼女がそっと胸元から離れた後、僕らは何も言わないでいた。
 太陽は西に進んで半分ほどの位置にあった。
 
 沈黙を破るように僕は君の名前を呼んだ。
 まだ目元に赤みが残っている鈴音は相槌を打った。

 「鈴音って、本当はなんて名前なんだ?」

 今でこそ僕の頭は、鈴音と言えば君で、君と言えば鈴音だと疑うことなく信じ切っているが、そう言えば、君は自分から名乗ったわけではないことをふと思い出した。
 
 気になると言えば気になるし、今やどうでも良いことと言えばどうでもよかったのだが、僕は試しに訊ねてみることにした。
 鈴音は思案するように空へ視線をやると、微笑みながらこちらに目線を戻した。
 
 「んー…千風くんの前では、私はただの鈴音で居たいっていう答えじゃ駄目かな?」

 それは彼女お得意のはぐらかすような答えだったが、僕らにはそれが良いと思えた。

 「分かった。これからも鈴音は鈴音だ」と僕がそれに納得を示すと、君はゆっくりと立ち上がった。
 
 「散歩の続き、行こ?」
 
 僕は差し出された君の手を取り、ゆっくりと歩き始めた。
 初めに辿り着いたのは、僕が飛び降りに選んだ断崖絶壁だった。
224 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/04(水) 15:29:35.59 ID:YMX0ehJt0
 「やっぱりあれは、鈴音が助けてくれたのか?」

 君の正体が明らかとなった今、あの覚束ない記憶が現実であったことに対してさしたる違和感はなかった。
 
 「そうだよ。あの時の千風くん、とんでもなく馬鹿だったなぁ」

 鈴音は懐かしむように肯いた。

 それから言い添えるように、「でも、すっごくかっこ良かったよ」と言ってくれた。

 その言葉に僕の胸は熱く燃えていた。

 「あの時の言葉、何気に私が一番気にしてたことだから、結構堪えたんだよ?」
 
 初めて僕がここから転び落ちてしまった日を思い出したのか、君はわざとらしく傷付いた素振りで僕に言った。
 
 「あれは本当にごめん」

 全て自分の所為だったから、僕には誠実に謝ることしか出来なかった。

 鈴音は僕の髪をわしゃわしゃとしながら、「いーよ。許してあげる」と微笑んだ。

 君に頭を撫でられると、すっかり僕の心は弛緩するようになってしまった。
225 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/04(水) 15:31:44.78 ID:YMX0ehJt0
 「ここ最近の千風くんは、驚くほどにぼろぼろで情けなかったね」

 「思い出さないでくれ、恥ずかしい」

 「それは無理かな〜。千風くんとの思い出は、しっかりと胸に刻んでおくから」

 視野狭窄状態に陥った不安定な僕を、やっぱり君は傍で見つめていてくれたのだろう。
 あんな自分を知られたなんて、羞恥心が湧いて出て仕方がないけれど、まぁ僕のことを覚えていてくれるならそれでいいか。
 相好を崩す君を見ているとそう思えた。
 
 それからも僕らはのんびりと歩を進めながら、時折ぽつぽつと意味のない言葉を交わした。
 
 山の中を一周回ったように大樹の傍に戻って来る。
 あんなに深い青に染まっていた大空は、いつの間にか朱色と黄金色に移り変わっていた。
 
 淡い日暮れ時は、終わりの時を強く想起させた。

 なんとなく分かっていたけれど、僕は尋ねた。

 「鈴音はいつまでこっちに居られるんだ」
 
 君は僕が何を聞くか分かってたみたいに、阿吽の呼吸で答えた。

 「夕日が沈むまで」
 
 僕は唇を強く噛んだ。
 
 「そんな顔しないの」と僕を見かねたように君は言う。
 
 僕は自分を誤魔化すのに必死で何も言えなかった。
226 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/04(水) 15:33:38.74 ID:YMX0ehJt0
 「そんなに私が居なくなるのが寂しいの?」

 鈴音は何処か嬉しそうに、悲しそうに尋ねた。

 「うん」と僕は素直に首を縦に振った。

 「千風くんと会えなくなって、私が寂しくないと思う?」

 鈴音は挑戦的に笑って見せた。

 「…ううん」と僕は大人しく首を横に振った。

 「だよね。でも、最後までそんな顔してたら、お別れが湿っぽく感じるでしょ?だから笑顔だよ、笑顔」
 
 正直な僕に満足したように、彼女はにっこりと満面の笑みを浮かべた。
 僕も君の笑い方を真似しようとして、でも浮かべられたのは笑顔じゃない笑顔だった。
 君の笑みは困ったものに移り変わった。
 
 鈴音は思い付いたように声を洩らすと、「付いて来て」とまた僕を引っ張った。
 彼女に引かれ少し歩いた先では、いつぞやのギャップ地帯が僕らを待ち望んでいた。
 
 その中心で透明感のある斜陽を浴びている若木は、以前よりもいくらか大きく育っていた。
 鈴音は確かめるように樹皮を撫でる。
 あの大樹と比べると幹はまだまだ細いが、横風にあおられ倒木してしまうような危うさは感じられなかった。
227 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/04(水) 15:35:56.91 ID:YMX0ehJt0
 彼女は少々踵を浮かせ、なんとか手の届く枝の一本に触れた。
 そして握っている僕の手を同じ場所に添えさせると、極々真剣な眼差しで「この枝を折って欲しいの」と唐突に言った。
 
 促されるままに枝を握った僕は、しかしそれを行動に移すことが出来なかった。
 こんなに立派に成長している木を破壊することに、正当な事由を見つけられなかったのだ。

 躊躇う僕に勇気を与えるように、「思いっ切りやっていいよ」と君は囁いた。
 僕は鈴音がどうにもこうにも僕に枝を折らせたいらしいことを悟った。
 
 腹を括った僕は枝を強く握り絞め、そのまま全力で腕を真下に振り下ろした。
 木の枝は破壊行動に弾性で抗うことさえなく、メキッと嫌な音を鳴らして折れてしまった。
 
 瞬間、鈴音が小さく苦痛を喘いだ。
 慌てて隣を見やれば、青ざめた君が辛そうに左腕を抑えていた。
 
 僕は気が気でなくなった。
 狼狽したままに何度も君の名前を呼ぶと、彼女は冷や汗のようなものを流しながら「ん…大丈夫だよ」と弱々しく答えた。
 
 その時、僕はもう一歩進んだ彼女の正体に気が付いた。
 答え合わせのために口を動かそうとすると、「それは秘密だよ〜」と君の曖昧な返答が先回りしていた。
 
 先程の痛みはもう感じないようで、鈴音はすっかりいつもの調子に戻っていた。
 僕は一生分の安堵を得た気分だった。
228 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/04(水) 15:38:17.23 ID:YMX0ehJt0
 「その枝、ちょっと貸してくれる?」と鈴音は言った。

 僕が差し出した枝を受け取ると、君は髪飾りの一部である真鍮色の小さな玉を手に取った。
 彼女が枝と玉をそれぞれの手の平に乗せると、それらが僅かに浮かび上がったように見えた。
 
 目を擦ってみたが錯覚ではない。確かにその二つは数センチほど宙に浮いていた。
 僕が愕然と鈴音を見やると、君は得意げな表情を作った。
 瞬間、眩い光が辺りを包んだ。
 
 その濃い輝きに僕は思わず目を閉ざした。
 光量が収まり、僕が目を再び開けると、彼女の手のひらには一つのあるものが乗せられていた。
 
 鈴音は笑顔を綻ばせながら完成品を僕に手渡した。

 「これからは私の代わりに、この風鈴が君の傍にいるから。寂しくなったら、この音色を聞いて欲しいな」

 受け取ったそれは、木製の風鈴だった。
 
 しかし、それはよく見る竹風鈴とは形状が大きく異なっている。
 鈴音が贈ってくれた風鈴は、木製なのにガラス風鈴と同じ形をしていた。

 これでは音が鳴らないだろうと思った僕が試しに揺らしてみると、舌が滑らかな木目にぶつかり、甲高い音を響かせた。
 その音は木の温かさがありつつも爽やかな響きが感じられるという、ガラス風鈴と竹風鈴の長所を組み合わせた至高のものであった。
 
 構造が理解出来ず、僕は不思議な心地に陥った。
 がすぐに、鈴音ならこれぐらい造作もないことか、と神秘的な現象を吞み込んだ。
229 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/04(水) 15:40:16.18 ID:YMX0ehJt0
 「大事にするよ」

 僕は頬を緩めて君にお礼を述べた。
 
 「千風くんからは沢山貰ったから、これでほんの少しだけお返し出来たかな?」と君はそれがさも事実かのように言うから、「いや、実際は僕の方が色々と貰ってばっかりだけどな」と僕が本当のことを言っておいた。
 
 「じゃあ、もうちょっとだけ貰ってもいい?」

 鈴音は僕の目を覗いてそう言った。
 そこに具体的な内容は明示されていなかったけれど、君が何を欲しているかはよく分かっていた。
 
 君から貰った風鈴をポケットに仕舞うと、僕は両手を広げ、覆い被さるように君の身体を抱き締めた。
 君はその温かさを確かめるように、ゆっくりとまさぐりながら僕の背中に手を回した。
 
 残された時間の大半を、僕らはそのようにして過ごした。

 「えへへ」と君の幸せそうな笑声が、いつまでも僕の耳元を擽っていた。
230 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/04(水) 17:16:55.08 ID:YMX0ehJt0
 
 
 あれからどれぐらい経っただろうか。
 僕達は何を言うでもなく抱擁を解き、肩を寄せてその場に座り込んだ。

 僕はまだまだ話したりなかったし、君も言いたいことが沢山あったろうけど、もう言葉は不要だと思えた。
 赤焼けの空を浸食するようにして徐々に薄い紫が染み込んでいく様子を、僕らは手を繋いでぼんやりと眺めていた。
 
 真っ赤な夕日は中々沈もうとしなかった。
 時間が経つのが異様に長く感じて、でも今はそれが心地良かった。
 まるで僕らのいる山が夕日を追い掛けているみたいで、永遠にこの時間が続くとさえ思えた。
 
 しかし、やはり恒久というものは存在しなかった。
 
 徐々に逢魔が時が近づく。とうとう夕刻が終わりを告げようとする。
 宵の始まりを意識した蝉たちは一度翅を休め、烏が数匹鳴き声を響かせながら巣に帰っていった。
 
 夜の夏虫が合唱を始めるまでの一瞬間、夏の山は澄み切った静穏に包まれる。
 音という音が消え失せたその時、君はふと思い出したような素振りで僕を見つめた。

 「いつかまた出会えたら、あの言葉の続き、聞かせてね」

 鈴音は頬を赤くしながら言った。

 「もちろん」と僕が大きく頷けば、君は嬉しそうに微笑んだ。
231 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/04(水) 17:20:07.62 ID:YMX0ehJt0
 僕らは徐に空を眺め、また静かな時間が二人を見守っていた。
 もうすぐに終わってしまう君との数分を味わうように、僕はぎゅっと君の手を握り締め続けた。
 
 それからややあって、最後の西日が消え入りそうになった。
 
 その時、「千風くん」と鈴音は落ち着いた声で僕を呼んだ。
 
 もう一度君に視線を向けようとすると、彼女はそれを制止するように天空を指差した。
 
 空は完全なる青紫に染まっていた。
 その中央によく目を凝らすと、一匹の白鷺が悠々と羽ばたいていた。
 まるで夜の闇を切り払うかのようなその純白に、僕は自然と目を奪われていた。
 
 それはほんの一瞬のことだった。

 思わず空を見つめた僕の右頬に、ふいと柔らかな感覚が重ねられた。
 動揺の余り、身体は石のように固まった。
 僅かながら横目に映った鈴音は、この上なく愛おしいものを眺めるように目を細めていた。
 
 瞬く間に僕の顔はのぼせ上がり、頬に君の熱が微かに伝わったところで、元から何もなかったかのように君の手のひらの感触が消滅した。
 
 隣へ視線を移すと、もうそこに鈴音の姿はなかった。
 代わりに辺りには玉響の輝きが浮かんでおり、その淡い残滓は綿毛のように空へと舞い上がって、やがては静かに消えてしまった。
 それらが見えなくなった後も、僕は天上を眺めて君を見送った。
 
 そのうちに薄暗い空では星々が光を放つようになり、夏虫が些か控えめに演奏を開始した。
 それでも僕は動き出すことなく、ひとり若木に背を預けて夜空を見上げていた。
 
 大切が抜け落ちた世界で、僕は飽くることなく、右頬に残った余韻を噛み締めていた。
232 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/04(水) 17:22:49.32 ID:YMX0ehJt0
 ♦♦♦


 ふと我に返ると、馬鹿みたいに煩い蝉の声が僕を出迎えた。
 
 眼前に広がる世界は相も変わらず色褪せている。
 朱色の残照が紺色に吞まれ、深海のように濃い空には幾つかの一番星が顔を出していた。

 それら全てが白けた光を放っているように見えてしまうのは、長い間楽園に身を浸したツケを払う時が来たからなのだろう。
 もう追想の旅は終わってしまったのだ。
 
 延々と続く坂道の中腹で立ち止まり、右手に見える古民家へ向き直る。
 よくある瓦葺の一戸建ては、正面玄関にも下屋を備え付けていた。

 木の縁で囲まれた窓は大きく開け放たれており、年季の入った漆喰壁はもう元の白色が見えないほどに濁っている。
 引き戸には鍵がかかっていることもなく、手を掛ければ音を立てて開いた。
 
 玄関口に立ち入いるとすぐに、家の奥の方から来客を迎える声が響いた。
 それは息を吹き込み過ぎた金管楽器を思わせる濁声で、床板を軋ませる音と嫌に相性が良かった。

 姿を現した声の主は、僕を認識した傍から外面用の笑顔を消し去り、素の調子で言った。
 
 「あら、千風。帰って来たの」
 
 「久しぶり、母さん」
233 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/04(水) 17:24:42.46 ID:YMX0ehJt0
 僕がそうして挨拶を交わすと、母さんは何事もなかったのように居間へ戻ろうとした。
 それを見かねた僕は、おどけた様子でこう言ってやった。
 
 「なんだよ、せっかく息子が帰って来たって言うのに、その素っ気ない態度は」
 
 振り返った母さんは、如何にも呆れたような表情で言葉を返した。
 
 「あんた、つい一カ月前にも帰って来たじゃない。そんなに頻繁に帰って来られたら、有難みって物も減るわよ」
 
 その至極まともな答えに、僕は大いに納得してしまった。
 
 「ほんと、憑りつかれたみたいに帰って来るんだから」
 
「実際、何かに憑依されてたりするかもな」

 売り言葉に買い言葉で僕がそう返せば、振り向いた母さんはジッとこちらを眺めた。
 まるで僕の奥に隠されたものを透視するかのように、数秒その状態は続いた。
 自分の顔に異変があるのではないかと思わされたところで、彼女は興味をなくしたように視線を戻した。
 
 僕は手を洗ってから台所へ向かったが、先程居酒屋で軽食を摂ったせいか、時間のわりに腹は空いていなかった。
 同じように居間に向かうと、母さんは熱心に画面を見つめていた。
 
 どうやら今は連続ドラマの放映時間だったらしい。
 その内容は在り来たりで、余命僅かの恋人が織りなす物語というようなものだった。

 涙を誘う話は嫌いではないが、あいにく僕の涙は最後の一滴まで涸れてしまった。
 テレビ画面を見つめるのも億劫で、手持ち無沙汰となった僕は何気なく外へと繰り出した。
234 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/04(水) 17:26:19.47 ID:YMX0ehJt0
 淡い満月を頭上に、あちらこちらで古民家の温かな明かりが漏れ出した薄暗い道を無心に行く。
 
 何処に向かうでもなく無計画に歩を進めていると、今日は妙にすれ違う人々が多いことに気が付かされた。
 往来する彼らはある一方向を目指しているようで、老若男女を問わずその表情は眩しいほどに明るかった。
 
 彼らと同じ場所に向かえば、詰まらない僕の世界も少しは面白く見えるだろうか。
 
 答えの分かり切った疑問を提唱しながら、それでも僕は人の波に乗って道を進んだ。
 そうして辿り着いた先には、光と音と人々の喧騒で溢れ返った祭りの会場があった。
 
 広場に到着するまでの長い通りの両脇には、かつてと同じように屋台が数店展開されている。
 僕はそれらを適当に見回し、三つ目の屋台でりんご飴を購入した。
 
 今の僕では、祭りに浮かされた人々の放つ暴力的な熱量に耐えられる気がしなかった。
 折よく見つけた縁石に腰を下ろし、茫然と退屈をしのぐことにした。
 
 行く人来る人は様々であった。
 屋台目当てでやって来た男子高校生達もいれば、子供を連れた三人家族もいたし、熟年の老夫婦だって祭りの会場を目指しているようだった。
 彼らに共通していたことは、やはり楽し気な笑顔を浮かべていたところだろうか。
235 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/04(水) 17:28:17.42 ID:YMX0ehJt0
 屋台の匂いが充満した場所に長居したせいか、段々と口が寂しくなってきた。
 徐にりんご飴の包みを取り外そうとしたところで、とある光景が視界の中に入り込む。

 僕の注意が向いた先には、一組の少年少女が歩いていた。
 
 少年の方は普段着で祭りにやってきたようだが、少女の方は浴衣で着飾って祭りにやってきたようだった。
 服装に差異こそあれど、二人の間に齟齬があるわけではないらしい。
 両者の手のひらはしっかりと繋がれていた。
 
 僕はその二人から目が離せなかった。
 二人の輪郭の上には、あり得るはずのない過去が次から次へと描写されていたからだ。

 それら全てが僕が思い描き続けてきた未来であることに疑いはなく、そしてだからこそ、少年少女が視界に入ってから出ていくまでの短い間、僕の胸はうじ虫に喰らい尽くされるような激しい痛みに苛まれた。
 僕は堪らず顔を歪めていた。
 
 僕は軽石みたいに穴だらけの胸を縫い合わせて、どうにか空虚を誤魔化しながら生きながらえているというのに、内側から這い出るどす黒い何かにとってはその縫い目までもが捕食の対象であった。
 耐え難い疼痛に悶え苦しむよう、僕は歯を食い縛って己の胸を握り潰した。
 
 そしてとうとう二人が見えなくなると、遂に僕は僕を抑えられなくなった。
 
236 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/04(水) 17:30:39.64 ID:YMX0ehJt0
 ──羨ましい。
 
 ふと、そのような意味を持った単語が頭の中に浮かび上がった。
 日常では水面下に隠しているその感情が一度でも浮上してしまえば、あとは芋づる式に悪感情が全身に纏わりついていった。
 
 妬ましい、嫉ましい、恨めしい。

 本当は僕だって僕だって僕だって、この上なく大切な君ともっともっと一緒に居たかったし色んなことをしたかったし下らない毎日を続けたかった。
 さっきの男子高校生たちみたいに馬鹿言い合ったり、家族連れみたいに幸せそうに歩いたり、老夫婦みたいに一心同体の時間を過ごしたかった。
 あの二人みたいに心地良い日々が続いていくはずだったんだ。それなのに、どうして僕たちは──。
 
 僕とその他の世界に引かれた境界線の温度差は凄まじく、その落差を意識すればするほど、激しい飢餓感だけが身体中を襲った。
 目の前には血の滴る肉がぶら下げられていた。
 飢えた心は遠い昔に味わった満足を求め、とうとう奥底に潜むけだものは己を縛り付ける鎖をぶち壊してしまった。
 
 …お前らの満ち足りた時間を根こそぎ奪い取ってでも、僕は彼女との豊かな日々を手にしたいんだ。

 寄越せ。僕に幸せを寄越せ。
 お前らの身体を引き裂いて臓物を捧げれば彼女は戻って来るだろうか。もしそうなら僕は今すぐにでも実行してやっていいんだぞ。
 
 あれっぽっちの時間では短すぎた。たかが一年程度を噛み締めるだけではもう我慢できないんだ。
 早く新しい思い出が欲しい。今すぐに欲しい。

 限界なんだ。平気な振りをしているけれど本当は心が苦しくて仕方がないんだ。
 そろそろ体裁ばかりの空元気さえもが保てなくなる気がするんだ。だから早く早く早く早く、もっともッとモッとモット──。
237 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/04(水) 17:33:19.14 ID:YMX0ehJt0
 目に映るもの全てが、憎むべき幸せであると思えた。
 
 この暗く淀んだ目で眺める世界を、内に巣食う穢れた心を、祭りを前に舞い上がる呑気な衆人にまき散らしてやりたかった。
 他人の幸福や喜びなんてものは僕の世界にとっては害でしかなく、寧ろ皆が僕と同じように日々に絶望し、映し出す世界は暗黒に包まれたものであるべきだと思えた。
 
 手始めに、僕は手に握られた赤い果実をこちら側に引き込むことにした。
 砂糖や果汁が地面に零れることに構わず、僕は一目散にそれに齧りついた。
 甘さや酸っぱさといった希望に満ち溢れた感情を一滴残らず吸い上げ、代わりに僕の心に詰まった薄汚さを吐き出すつもりだった。
 
 しかし、口いっぱいに広がったのは何処までも苦く渋い味わいだった。
 僕は反射的に顔を顰めた。
 
 毒林檎が幾ばくか冷静さを与えてくれた。
 その苦薬のような砂糖菓子を食べ終えると、大分と心の中は落ち着いた。

 空っぽになった僕はゴミを捨てて元来た道を引き返した。
238 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/04(水) 17:35:02.49 ID:YMX0ehJt0
 向かう先は実家ではなかった。
 夜の田圃に囲まれた農道を真っすぐに進み、なだらかな坂道を上ると、暗闇の立ち込めた森の入り口に辿り着いた。
 
 僕は夢の中を歩くようにして森の中へと足を進める。
 枝葉が服の裾を引き裂いたりもしたが、気にせず突き進み続けた。

 やがて見覚えのある大樹に辿り着くと、僕はそこで止まることなく更に森の奥へと向かった。
 そこからは木の根に引っ掛からないよう、慎重に足を繰り出して前へと進んだ。
 
 十分ほど前進し続けると、木々を配置し忘れたように不自然な空き地に辿り着いた。
 その中央に凛々しく根を下ろした若木は、月光を浴びて神々しく輝いている。
 その美しさだけは、冷め切った世界でも唯一確かなものだった。
 
 僕は徐に若木へと近づき、そっと樹皮を一撫でした。
 それから幹に背を預けるようにして座り込むと、宇宙のような空の高くに視線をやった。
239 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/04(水) 17:37:30.97 ID:YMX0ehJt0
 あの日以来、鈴音が姿を現すことは二度となかった。
 
 中学、高校、大学を卒業するまでをこの街で暮らした僕は、毎日欠かさずこの場を訪れたが、ついぞ君が戻ってくることはなかった。
 就職は都心に決まって、それ以来はこうして時間を見つけてはこの場所に帰ってきているが、やっぱり今日も君は居なかった。
 
 数年前の僕なら、その度にどうしようもなく胸が詰まるような感覚を覚え、頬に涙を伝わせていた気がする。
 十数年前のことが思い出せるのに数年前のことが思い出せないのは、単に思いを馳せるべき記憶がそこに存在しないからだ。

 今となっては零れるべき涙さえもが涸れてしまった。
 悲しいことだが、空虚に慣れてしまったのだろう。
 どんな悲壮感に教われようとも、心は余り動かなくなってきた。
 
 最近になって、僕は時々思うようになった。

 もしかしたら、本当は最初から君は居なかったんじゃないかな、と。
 君という存在は、十歳前後の子供によくみられるイマジナリーフレンドの一種だったのではないだろうか、と。
 
 記憶と呼ばれるものは酷く曖昧だ。
 何せ人は、昔日を思い起こす度にそれを都合の良い形に歪めてしまう生き物なのだから。

 しかも記憶を歪曲、若しくは捏造したという事実にさえ気が付くことが出来ないところが余計に質が悪い。
 それを考慮すると、君は元から居なかったという可能性も充分にあり得るのだろう。
240 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/04(水) 17:39:10.38 ID:YMX0ehJt0
 でも、実際のところはそんなはずがないのだ。

 君という存在を疑いつつある惨めな自分に向けて反駁するように、僕はポケットからそれを取り出した。
 
 鈴音は確かにここに居た。
 その裏付けとなるたった一つの形あるものが、君がくれたこの風鈴だった。
 何しろ君の奇跡で創り上げられたこの風鈴は、どんな技術でも生み出せない代物なのだ。
 
 その上、かつて僕がへし折った枝は、若木本体がすくすく成長しようとも、あの日を心に刻むように今もその傷跡を残していた。
 君もあの日々を忘れないでいてくれているのだろうか。
 そうだとしたら、僕の世界は少しだけ救われる気がするな。
 
 僕は満月に掲げるように手を伸ばし、月明かりを受け取った風鈴を小さく揺らした。
 辺りには慰めの音が聞こえた。
 
 もう君を十年以上も待ち続けて、分からず屋な僕もそろそろ理解するようになった。
 恐らく君は、僕が生きている内には戻って来ないだろうことを。
 
 そもそも僕らは時間の流れ方が違うのだろうし、元よりそれはどうしようもないことだ。
 今頃になってその理不尽を恨むつもりはない。
 これからも健気にこの場を訪れようとも、最後の最後まで僕が君を出迎える日は訪れないのだ。
 
 だとしても、僕は君を待つことをやめはしないのだと思う。

 だって、これほどに歳月が経とうとも、人生の花と呼ばれる学生時代を人並みに過ごそうとも、僕の心は一度も他に揺れることがなかったのだから。
 寧ろ月日を重ねるごとに、この想いは密度を増していったのだから。
241 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/04(水) 17:41:05.74 ID:YMX0ehJt0
 きっと、思い描くいつかの時は、この胸が震えるほどに素晴らしいのだろう。
 だから、訪れることのないであろういつかの時の為に、僕はいずれは身を滅ぼすことになる痛みを大事に抱えていたいと思う。
 
 君に会えないことは寂しくて悲しくて辛くて虚しくて、そんな現実が嫌になってかつての日々に逃げ込んだ挙句さっきみたいに少し錯乱してしまうことはあるけれど、それら含めて僕は堪らなく君が愛おしいんだ。
 
 この全身を引き裂くような苦痛は、同時に君を想い続ける僕そのものの象徴だ。
 
 この幸せな呪いこそが、何よりも僕が君を愛している証明なのだ。
 
 そうして君の傍で幸福の呪縛を確かめることで、中核の失われた世界に意味を見出し、僕はなんとか今日を生き延びていく。
 
 君からすれば勝手に色々を抱え込んでいる僕は、もしかせずとも傍迷惑なのだと思う。
 あんなに魅力的な君のことだから、今頃は僕なんかよりももっと素晴らしい相手を見つけているのかもしれない。
 たぶん僕のことなんて忘れて、健やかな時間を過ごしていることだろう。
 
 それを思うと少しだけ胸が痛いけれど、まぁいいんだ。
 
 結局のところ、僕の世界はあくまでも君の世界の存在が大前提なのだから。
 
 吐き出す行方のない恋慕に浸り、小さな嘆息を洩らす。
 天上に浮かぶ丸い月の光を眺めていると、だんだんと頭がぼんやりしていった。

 今頃になって酔いが回ったのだろうか。

 淡い月が重ねって見えるようになった頃、僕の瞼は薄く閉ざされた。
242 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/04(水) 17:43:48.89 ID:YMX0ehJt0


 懐かしい匂いだった。
 
 ふと意識を引き戻したのは、瞼の裏に注がれる柔らかな日差しでもなければ、まだ暖かい程度の気温でも朝蝉のさざめきでもなかった。
 鼻孔を擽るしゃぼん玉みたいに落ち着く香りが、眠りに落ちた意識をよび起こしていた。

 頭は何か柔らかいものに乗せられていた。
 
 幹にもたれ掛っていたはずが、僕はいつの間にか仰向けで寝転がっていた。
 背中は大地の硬い感触を受け取っているが、頭の部分だけは程よい弾力を感じ取っていた。
 
 千年の眠りから目覚めたような、心地の良い覚醒だった。

 寝ぼけた僕は何も考えずに頭を上げようとして、しかし、その動きは直前で遮られた。
 
 額がそっと押し返され、僕は起き上がることを許されなかった。
 何が起こったのかを把握しようとして、直後、すぐ近くで鈴を転がすような音が聞こえた。
 
 己の聴覚がその澄清を捉えた瞬間、生死を彷徨う人間が息を吹き返したように心臓が大きく上下し、同時に頭の中は深い混乱に包まれた。
 現状が上手く呑み込めず、気が動転したどころの話ではなかった。
243 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/04(水) 17:45:14.39 ID:YMX0ehJt0
 しかし、僕は冷静さを欠かなかった。
 
 これまでにも同じような夢は何度となく繰り返してきたのだ。
 そしてその幸福な夢から醒める度に、悪夢のような現実が僕に馬乗りになって、心の生傷を錆びたナイフで抉り取ってきたのだから。
 
 そう何度も同じ過ちを繰り返すつもりはない。
 僕は手負いの野良猫のように用心深く意識を集中させ、辺りの情報を探ろうとした。
 
 伝わる五感は何もかもが余りに現実的であった。
 だからこそなお一層、僕は目を覚ますのが恐ろしかった。
 瞼を上げた途端に幻が拡散してしまうぐらいなら、もう少しぐらいこの世界に甘えていたかったのだ。
 
けれども、心はもう待ち切れなかった。

 心臓が自分のものではないようにどくどくと脈打ち、遂には身体が心に追いついてしまった。
 とうとう僕は、何かを探し求めるように右の手のひらを伸ばした。
 
 恐る恐る伸ばした右手は、大きな期待に反して予想通りに空を切った。

 一瞬、息が詰まるような心地を覚えたのちに、僕は隠すことなく大きなため息を吐き出した。
 胸には深い落胆と僅かな諦念だけが漂っていた。
244 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/04(水) 17:47:31.06 ID:YMX0ehJt0
 微かな希望の光は消え失せ、世界にはやはり夜明けが来ないままであった。
 自嘲的な笑みを零すことさえままならず、僕は右手を大地に落とそうとしたところで、何の前触れもなく右手は待ち焦がれた温もりに包まれた。
 
 頭はいま起きたことが良く理解出来ていなかったし、一方ではひしと理解しているようだった。

 半信半疑のままで手のひらに力を加えてみると、確かに右手がぎゅっと握り返された。
 また鈴の音が耳元を擽ってくれた。
 
 感じる五感を疑うことが出来なくなったその瞬間、胸の奥底には潤いが取り戻され、閉ざされた瞼の奥からはらりと何かが零れ落ちた。

 溢れたそれは、心が満たされたからこそであった。
 枯れた大地に命の水滴が波紋し、かつての豊かな緑が生え広がるように、僕の世界は夜明けの向こう側に辿り着いたのだ。
 
 いつかの時が訪れれば、際限なく言葉を繰り出すと思われた喉はきつく締めあげられていた。
 僕は長らく発声に至らず、そのあいだ、右頬には柔らかな手のひらがあてがわれていた。
 僕の目尻から絶えず溢れ出すものを、細い指がやさしくやさしく拭ってくれていた。
245 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/04(水) 17:49:26.32 ID:YMX0ehJt0
 そのうちに僕は、今すぐに飛び起きて両目を大きく開け、この胸に募った狂おしいほどの感情を一滴残さず伝えたいという強烈な衝動に駆られた。

 顔をぐちゃぐちゃにして噎び泣きながらも、君を絞め殺してしまうぐらいに強く抱き締め、これまでの毎日がどれほどに寂しくて苦しいものだったのかを、たぶん君もだろうけれど、僕はその何十倍も辛かったんだってことを知って欲しくてたまらなくなった。
 
 だけど、結局僕はそうはしなかった。

 なに、単純なことだ。僕の世界は一から十まで君が中心なのだから、僕のことは全て二の次で構わないというだけの話だ。

 それに、いつかの時が訪れた暁には、僕が一番最初に君にしてやることはもう決まっていたから。
 
 やっとその時が来たのだと思うと、自然と口元には微笑みの形が作られていた。
 瞼を薄く持ち上げ、滲む視界に乱反射を映し出す。
 その万華鏡のような世界には、求め続けた大切がピタリと当てはまっていた。
 
 右頬を撫でるその手に自らの手を重ね合わせ、大きく息を吸い込む。
 次に息を吐き出すその瞬間、きっと僕たちの世界は最高のものとなるのだろう。
 
 
 幾星霜の慕情を込めて、僕は約束の言葉を昇華させた。
246 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/04(水) 17:55:26.09 ID:YMX0ehJt0
 SS「半透明な恋をした」完結

 以上です。

 いい経験をさせてもらいました。
 最後まで読んでくださった方が居ましたら、お付き合いいただきありがとうございました。

 
247 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2023/01/14(土) 22:29:08.02 ID:QcWGsVnso
久々に読みごたえのある長編SSでした。
積み重ねの描写でじわじわきました。
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