SS「半透明な恋をした」

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198 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/03(火) 19:29:44.53 ID:e6a6AzVn0
 君のいない一週間を経て、僕はようやく真に理解した。
 
 僕の世界は何をとっても君に始まり、そして君に終わるのだと。
 君が隠れた世界は朝の来ない夜の世界に等しく、君のいない世界にはなんの価値もないのだと。
 
 だったら、もう生きる必要はないんじゃないかな、と単純に思ったのだ。
 
 傍から見ればそれはただの狭窄なのかもしれない。或いは気狂いの妄言と捉えるかもしれない。
 でも僕にはそれが全てだ。鈴音こそが生きる意味だ。
 なればこそ、僕は一度拾った命を投げ捨てよう。
 
 頭から行こうか、それとも足から行くべきか、まぁなんでもいいか。

 大きな深呼吸を終え、竦む身体を言い聞かせると、僕はゆっくりと右足を空中に繰り出した。
 
 たちまち身体は重力に引っ張られ、僕は遥か大地に真っ赤な花を咲かせた、かに思われた。
 
 ピタリと、前のめりになった身体が不自然に動きを止める。
 僕の左手はアンカーで固定されたみたいに、空中の一点できつく張り付いていた。と思ったら僕は瞬く間に崖上に引っ張り上げられた。
 
 その左腕には心地良い温もりを感じた。しかしそれは一瞬のことで、今度はその感触が抜け落ちそうになった。

 僕は反射的に空中に手を伸ばした。
 
 目には見えないが、そこには確かに細い手首があった。
 決して離さないよう強く空間を握り締めた僕は、掴んだ先に獰猛な笑み浮かべた。
199 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/03(火) 19:30:30.74 ID:e6a6AzVn0
 君のいない一週間を経て、僕はようやく真に理解した。
 
 僕の世界は何をとっても君に始まり、そして君に終わるのだと。
 君が隠れた世界は朝の来ない夜の世界に等しく、君のいない世界にはなんの価値もないのだと。
 
 だったら、もう生きる必要はないんじゃないかな、と単純に思ったのだ。
 
 傍から見ればそれはただの狭窄なのかもしれない。或いは気狂いの妄言と捉えるかもしれない。
 でも僕にはそれが全てだ。鈴音こそが生きる意味だ。
 なればこそ、僕は一度拾った命を投げ捨てよう。
 
 頭から行こうか、それとも足から行くべきか、まぁなんでもいいか。

 大きな深呼吸を終え、竦む身体を言い聞かせると、僕はゆっくりと右足を空中に繰り出した。
 
 たちまち身体は重力に引っ張られ、僕は遥か大地に真っ赤な花を咲かせた、かに思われた。
 
 ピタリと、前のめりになった身体が不自然に動きを止める。
 僕の左手はアンカーで固定されたみたいに、空中の一点できつく張り付いていた。と思ったら僕は瞬く間に崖上に引っ張り上げられた。
 
 その左腕には心地良い温もりを感じた。しかしそれは一瞬のことで、今度はその感触が抜け落ちそうになった。

 僕は反射的に空中に手を伸ばした。
 
 目には見えないが、そこには確かに細い手首があった。
 決して離さないよう強く空間を握り締めた僕は、掴んだ先に獰猛な笑み浮かべた。
200 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/03(火) 19:34:10.84 ID:e6a6AzVn0
 「見つけた」

 その短い言葉にはどんな喜びにも勝るほどの興奮が色濃く表れていて、僕は確信めいた眼差しで空間の一点を見つめていた。

 賭けに勝ったという自信があった。
 高らかな勝利宣言が辺りに染み渡ると、それから長い間、夏の声が静謐を代弁した。

 僕は掴んだ手を必死に握り締めて、辛抱強くその時を待った。
 手のうちに汗が滲み始めた頃、とうとうその時がやって来た。

 「…ずるいなぁ、千風くんは」

 山の端に日の出を見たようだった。
 その魔法の粒子が拡散したかのような余りに美しい登場に、僕は思わず言葉を失った。
 何処か参った調子の鈴を転がすような澄声が響いて、君は観念したようにゆっくりと僕の目に見える形で現われた。
 
 何にも汚れないような真っ白な肌、目尻に流れる長いまつ毛、艶やかな黒の髪、容姿端麗な顔立ち。
 ひとたび彼女を認知すると、ありとあらゆる感情が身体中に一挙に押し寄せ、やがて間欠泉のように飽和した。
 一週間ぶりに君を目に焼き付けた僕は、もう我慢ならなかった。
201 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/03(火) 19:37:30.08 ID:e6a6AzVn0
 「鈴音!!」

 僕は無我夢中になって君の名前を叫んでいた。
 鈴音は困ったような笑顔を崩さないでいた。
 
 一瞬でも目を離せば、君はまた何処かに行ってしまいそうな気がした。
 僕は雪崩れ込むように君との間隔を狭め、気が付くと、彼女の鼓動が僕の胸に響いていた。

 僕は今、鈴音を強く抱き締めている。
 それを自覚した時にはもう遅く、溢れ出る衝動が止まることはなかった。

 「お願いだから、もう勝手に居なくならないでくれ。僕は鈴音といる時間が何よりも大切で、鈴音と一緒に居られないと頭がおかしくなりそうで…だからっ…頼むから、僕の隣に居てくれ…」

 力の限り君を抱き締め、僕は心から零れ落ちる感情を精査することもなくだだ流しにした。
 そこには取り繕うべき体裁もなく、透き通るほどに純粋な祈りが伝わっていた。
 
 鈴音は困惑したように僕の腕の中で固まっていた。
 その間、僕は声を上ずらせて同じような意味の言葉を繰り返していた。

 やがて君は苦しそうな微笑みを作った。
 我に返った僕が抱擁を解こうとすると、君は僕の背中にそっと腕を回した。

 僕の言葉に何一つ答えてくれないことはどうしようもなく悲しかったし、君が僕に応えて優しく包んでくれたことは痛いほどに嬉しかった。
202 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/03(火) 19:39:56.25 ID:e6a6AzVn0
 「ほんとに清水の舞台から飛び降りようとするなんて…無茶が過ぎるよ」

 僕の背中をぎゅっと抱き締めた彼女は耳元で囁いた。
 
 「鈴音が止めてくれるって、分かっていた。だからやったんだ」

 僕は少しだけ腕に力を加えた。
 
 「止めなかったら、どうするつもりだったの?」
 
 鈴音は優しい声でまた呟いた。

 「どうもしない。それで終わりだ」と僕は呆気なく言った。

 「もう二度としちゃ駄目だからね」と彼女は僕を諫めるように言った。
 
 「めっ!」という擬音が聞こえそうな勢いで僕の胸を小突き、君はそっと僕の身体から離れた。
 そんな鈴音は怒りながら笑っているようだった。
 
 また君が居なくなったらどうしようかと気が気でなかった僕は、瞬きしても姿を消さない君に一安心した。
 「うん、約束する」と大人しく返事をすると、君は満足げに頷いた。
 
 思えばこの時、僕は初めて鈴音に黒星を叩きつけたのだろう。
 とは言え、今はそんなことはどうだって良かった。勝ち負けなどに拘る以前の問題として、もう充分過ぎるほどに僕は満たされていたのだ。
 
 遅れて僕は自分のしでかしたことを脳裏に巡らせ、自覚できるぐらいに顔中が火照った。
 それを見た鈴音は小さな笑い声を洩らした。

 そして「さて」とでも言いたげに両手を合わせた。
203 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/03(火) 19:42:31.80 ID:e6a6AzVn0
 「ね、千風くん」「明日、朝からまたいつもの場所に来て欲しいんだけど…良いかな?」

 彼女は遠慮気味にそう言った。
 
 「構わない」と僕は即応した。

 すると鈴音は「もしかしたら、また居なくなっちゃってるかもだよ?」と悪戯めいた素振りで言った。
 
 「なら、もう一度同じことをするだけだぞ?」

 僕は強気な言葉を返した。

 「意地悪だなぁ。こっちは気が気じゃないのに」鈴音はしてやられたみたいにため息をついた。
 
 それから僕たちは大樹の下まで戻り、その日のお別れを告げようとした。
 
 去り際に、「朝一番だな?」と僕はもう一度彼女に確認を取った。
 
 鈴音は「うん、ちゃんと全部話すから」と何気なく言った。
 
 僕は思わず目を見開いて立ち止まった。

 「もう日が暮れちゃうよ。だからまた明日、ね?」と鈴音は言い聞かせるように僕に手を振る。

 背を押される形でその場を後にした僕は、その言葉に並々ならぬ予感を抱いていた。
204 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/04(水) 14:50:23.69 ID:YMX0ehJt0
 ♦♦♦

 
 久しぶりに鈴音の姿を見られたこと、君と話せたこと、感極まってつい彼女を抱き締めてしまったこと。
 それから、色々と口走ってしまったこと、彼女にも抱き締められてしまったこと。
 
 その晩、僕は一日の出来事を心に刻むように反芻していた。
 明日の為に身体を休めなければならないというのに、頭も身体も高揚が収まらなかった。

 無理矢理目を閉ざして羊を数え、真夜になってようやく意識は手放された。
 それでも朝は自分でも驚くほどに素早く目を覚まし、時計が鳴る頃には布団を畳み終えていた。
 
 その日は気持ちが良いほどの快晴だった。
 窓際から覗く太陽は自室に深い陰影を落としていて、窓の向こうに見える雑木林からは物々しい蝉時雨が聞こえた。
 窓を開け放つと、夏の匂いが湿った風に運び込まれた。

 いかにも夏らしい夏だ、と思いながら僕は外へ繰り出した。
 
 農道の両端に広がる田んぼには、もう緑の絨毯は見えない。
 稲穂の先が仄かに黄金色を帯び始めていて、そこで青の斑点の美しいギンヤンマが小休憩を挟んでいた。
 行く小路では大きな向日葵が空高くを見上げており、山の緑に近づくにつれて人工と天然の比率が入れ替わっていった。

 やがて僕は自然のほら穴の如き青葉のはびこる森の入り口に吞み込まれ、透いた林冠から洩れる幾つもの光芒が僕を照らしては陰りを落とした。
205 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/04(水) 14:52:19.18 ID:YMX0ehJt0
 じわじわとその足取りが速まる。
 逸る気持ちを抑え切れない。

 辛抱堪らず、僕は慣れ親しんだ道なき道を跳ぶように進み始めた。
 ものの数十秒で緩い傾斜を登り終えると、遠くに一際背の高い大樹の頂点が伺えた。
 目的地はもうそこだったが、駆ける足が止まる様子はなかった。
 
 居るのか、居ないのか。鈴音は本当にあそこで待ってくれているのか。今度という今度ばかりは何も言わずに僕の前から去ってしまうのではないか。

 等々、次から次へと嫌なことばかりが頭の中に浮かんでは沈み、得も言われぬ焦りが身体中を駆り立てていた。
 
 昨日の彼女の言葉が信じられなかったわけではない。
 それでも、一抹の不安は瞬く間に膨らみ、破裂寸前にまで僕の胸いっぱいに広がった。
 
 ただ君の姿を一目でも見られたなら、この胸に巣食う風船も落ち着くのだ。
 僕は気の急くままに掩体のような木々を躱し、やっとのことで大樹の聳え立つ地へと駆け込んだ。
 
 途端、全身は鎖で絡め取られたように動かなくなった。
 その場からは空気がごっそりと抜き取られたみたいに、僕は息を吸うことさえままならず茫然と一点を見つめることになった。
206 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/04(水) 14:54:26.53 ID:YMX0ehJt0
 初め、僕は自らの眼球が捉えた光景を疑った。
 夢まぼろしの類を軽々と上回るほどに、この現こそが浮世離れしていたからだ。
 こんなにも胸に響く現実があるなど、僕には到底信じることが出来なかった。
 
 視界の中心で動く白はこれまで通り美しく、だがこれまでになく気高き品性を感じさせた。
 その後光が射して見えるいでたちに目を奪われる余り、僕はどうあがいても動き出すことが出来なかった。
 
 その時、僕の脳裏には今更ながらに提灯と釣り鐘が思い浮かべられた。
 すっぽんが月に近づけるはずがない理屈と同じで、僕という人間が君に近づくなどあってはならないことだと感じられた。
 僕の抱く薄汚い欲望で彼女を汚してはいけないのだと強く思わされた。
 
 並外れて高踏的な君を前に、僕は思わず怯んでしまった。
 じわじわと後退りをして、物理的にも精神的にも彼女から距離を取ろうとしてた。
 
 そんな僕をよそに、君はひらひらと手を振りながら近くて遠い距離を詰めた。そうして

 「おはよう、千風くん」

 と屈託のない声で僕の名前を呼んでくれた。
207 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/04(水) 14:56:26.83 ID:YMX0ehJt0
 たったそれだけのことで、僕の中に芽生えた心理的障壁は音を立てて崩れ去った。
 
 いつもと恰好が違うからなんだというのだ。鈴音は変わらず鈴音だ。
 だから僕もこれまで通りの僕でいればいい。それだけのことではないか。
 
 畏怖の念に似た感情さえ起こさせる鈴音から逃げ出そうとした寸前で、僕は正気を取り戻した。
 それは、君がいつも通りの声色で、僕と同じ言葉で語り掛けてくれたからこそなのだろう。
 
 僕は頭の中を切り替えるように一呼吸を置くと、微笑みを作って挨拶を返した。
 鈴音は確かめるように自身の身体のあちこちを眺めると、その場でふわりと一回転した。
 そして僕にでも分かるぐらいのあざとい笑顔を浮かべた。
 
 「どう、似合ってる?」

 何を隠そう、今日の鈴音は例のワンピース姿ではなかった。
 
 清流を思わせる淡い水色をした装束は彼女の華奢な身体つきに相応しく、その色合いは見事なまでに彼女の乳白色の肌に馴染んでいた。
 後頭部に添えられた藤色の髪飾りは、彼女の翡翠の髪差をこれ以上になく引き立ていた。 
 
 また、髪飾りで結われた髪が、今までの自然体とは違った美しさを体現していた。
 飾りに使われている花は本物のようで、芳しい香りが辺りに揺れていた。
 一年以上植物に関することを勉強してきた僕にでも、その花の正体には見当もつかなかった。
 
 改めて君の姿を見つめ直したうえで、僕は彼女の問い掛けに答える準備を整えた。
 それを素直に認めることは中々に悔しいし、それ以上に恥ずかしいことだったが、実際、非の打ちどころは何処にも見当たらなかった。
208 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/04(水) 14:58:25.77 ID:YMX0ehJt0
 「うん、凄く似合ってる」

 僕は大きく頷いた。

 「可愛い?」

 君は一歩踏み込んで僕を覗き込んだ。

 「うん、信じられないぐらいに可愛い」

 僕はまた頷いた。

 「見惚れちゃった?」
 
 段々と顔が綻びつつある君は更に訊ねた。

 「うん、今もまだ目が離せない」

 僕は馬鹿正直に答えた。
 
 遂に表情を抑えられなくなった君は、「えへへ」と照れくさそうに口元を綻ばせた。

 僕はそんな君にまた魅入っていた。
 
 「もっと前からこの格好でいれば良かったなー」と彼女はこっそりと呟く。
 その口惜しそうな言葉を前に、僕は連鎖的に昨日の言葉を思い出した。
 
 ──全部話すから。
 
 その内容が一体何を意味するのか、本音を言うと、僕はもうそんなことを知りたくはなかった。
 出来ることなら、耳を塞いで永遠にこの時間を続けたいと思っていた。
 彼女の服装から、僕は大体の顛末を推測してしまったのだ。
 
 その時の僕がどんな表情を浮かべたのかは、目の前に鏡があった訳じゃないから分からず終いだ。
 でも、鈴音は僕を見ると慰めるような表情を浮かべた。
209 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/04(水) 15:00:04.19 ID:YMX0ehJt0
 「千風くん」

 彼女は改まったように僕を呼んだ。
 僕は現実から目を逸らそうとしたが、彼女はそんな僕を逃がすまいと真っ直ぐに見つめた。
 
 長い躊躇いの末に、僕はとうとう返事をしてしまった。
 すると鈴音は何気なく僕の手を取り、

 「一から十まで全部話しちゃう前にさ、最後にちょっと散歩しよーよ!」

 と明るい調子で僕を引っ張った。

 僕はその手を離さないように強く握り、彼女の後について行った。
 
 鈴音は適当に森の中をそぞろ歩いては、「あんなこともあったね」「こんなこともあったね」とこれまでの日々を振り返るように僕に笑い掛けた。

 連れ回された僕は相槌を打ちながら、綱渡り状態の笑顔を保ち続けていた。
 彼女と散策すること自体は楽しかったが、この後のことを考えると心は何処までも重かった。
 
 僕が気乗りしていないことを察したのか、鈴音は途中で大樹まで戻って来た。既に太陽は頂点に昇っていた。

 「どうにも千風くんは、私の話が聞きたくてしょうがないみたいだね」

 彼女は僕と面と向かうと、堪え性のない子供を見るようにそう言った。

 「その逆だ」と僕は投げやりに言った。

 鈴音は意外そうに眼を丸め、「じゃあ」と言葉を繋いだ。

 「まずは、千風くんの推理でも聞いてみようかな。種明かしはその後ってことで」
210 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/04(水) 15:02:11.06 ID:YMX0ehJt0
 「推理?」

 僕はついつい状況を忘れて素の調子で尋ね返した。

 「そそ。私と一緒に過ごす中で、千風くんはどう考えたのかなー、って」

 彼女は遊び感覚のように軽い調子で催促した。
 
 僕は口を固く結んだ。
 その暗黙の了解を言葉にしてしまっては、君が終点に運ばれてしまうだろうから。
 
 押し黙る僕に対して、鈴音はジッと僕の目を見て我慢強く待ち続けるという選択を選んだ。
 
 きっと、彼女は知っていたのだろう。そうして君に見つめられてしまえば、僕はいつか口を開くことを。
 
 そして彼女の狙い通り、鉛のように重い口が動く時が来た。
 僕は断腸の思いで喉を震わせ、君との答え合わせをしてしまった。

 「鈴音は……幽霊、なのか?」

 
 本来、君は人の目には映らぬ存在だ。
 ずっと昔に彼女の正体を探ろうとした時に、僕はほとんどその答えに辿り着いていた。

 加えて、今日の君は死装束を思わせる姿で現れた。
 かつては君が幽霊などではないと思い込もうとした時期もあったが、ここまで色々な証拠を見せられては、それも無理な話だった。
 
 その言葉を最後に、僕の世界は音が失われたみたいに静まり返った。
 鈴音はきょとんとこちらを眺めていた。
 僕は祈るような気持ちで両目を瞑り、君の答えを待った。
 
 数拍の間があった後に、何処からともなく愉快そうな声が聞こえてきた。
 面食らった僕が目を開けると、そこにはお腹を抱えて苦しそうに笑う君がいた。僕は呆然と抱腹絶倒の君を眺めていた。
 
 暫くして、ひーひー言いながら笑みを抑えた君は、

 「私はお化けじゃないよ〜。残念でした〜」

 と両肘を軽く曲げ、それっぽく手の甲をこちらにだらんと向けた。
 
 鈴音の言葉によって、僕の世界はひっくり返った。
211 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/04(水) 15:03:51.35 ID:YMX0ehJt0
 「参考までに、どうして私が幽霊だと思ったのか聞かせてよ」

 おかしそうに微笑む君にそう言われて、僕は困惑したままに推論の基となった情報を伝えた。

 「だって、びっくりするぐらい肌が白いし、髪とかも伸びてなさそうだし、いつも白いワンピース着てたし…今日なんて、死装束そっくりの服着てるじゃないか」

 彼女は首を傾げ、続いて反証するように帯近くに手を添えた。

 「なるほどー。でも、私の装束は左前じゃないよ?」

 「あっ」と僕は小声をあげた。
 鈴音の言う通り、確かに彼女の水色な装束はきちんと右前であったのだ。

 「千風くんは抜けてるね〜」と、のんびりとした君の声が聞こえた。
 それから鈴音は目を上向けると、如何にもな物語を口述した。
 
 「他人の温もりを求めた幽霊は、ある日少年と出会いました。彼女は彼と日々を過ごすうちに温かな気持ちを知り、最後は成仏しましたとさ。なんてね」
 
 それが実現しなくて本当に良かった、と僕は仮初の安堵に身を置いた。
 
 「まぁ確かに君達からしたら、私は幽霊みたいなものなのかもしれないけどさ」

 君は付け加えるように小さく言った。
 
 僕が生まれたその時、或いは生まれるずっと以前から、宿命は用意周到に手ぐすねを引いていたのだろう。
 だから直前になって僕が暴れ出そうとしたって、もう身体中は運命の糸で雁字搦めになっていた。
 だとしても、僕は醜く足掻くことをやめようとはしなかった。

212 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/04(水) 15:05:23.39 ID:YMX0ehJt0
 「だったら…鈴音は幽霊なんかじゃないんだったら、もう何処にも行かないで──」

 本当は、分かっていた。昨日に君が何も言ってくれなかったあの時から。
 
 だから今から君が言うことは、単に遥か昔から既定されていた未来が訪れたということ以上の意味はなのだと思う。
 であるからこそ、僕は無理くりにでも彼女の次なる言葉を掻き消してしまいたかったのだ。
 
 「私はね」

 鈴音の鶴の一声は、僕の逃避発言をいとも簡単に霧散させた。

 今日も明日もこれからも、君と笑い合って過ごす穏やかな毎日。
 そんな脳裏に描いた淡い日々さえもが露と消えたその時、彼女は静かに止めを刺した。

 「帰らなきゃいけないの」

 続きの言葉は、もう出てこなかった。
 僕はやりきれない気持ちでいっぱいだった。
 
 「…何処に」と僕は自分でも驚くほどに無機質な声で尋ねた。
 すると鈴音は視線を上向け、遠い天上を指差した。

 「高天原」

 鈴音の澄み切った一言が響いた時、僕はぽかんと君の指の向いた何処までも青い大空を眺めていた。
 何から何まで僕の想像していた顛末は間違いだらけで、頭が追い付いてこなかった。
 
 やや間を置いてから、頭はその聞き覚えのあるような無いような言葉を奥から取り出す作業に移った。
 その単語はすぐに見つかった。と同時に落雷が落ちたような衝撃が身体中を走る。
 僕は数度口をもごつかせ、弾けるように本当の答え合わせをしようとした。

 「…は?た、高天原…?」「…ってことは、もしかして──」
213 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/04(水) 15:07:02.71 ID:YMX0ehJt0
 しかし僕がその全てを言葉にしてしまう前に、鈴音は神秘めいた微笑みを僕にぶつけた。
 僕はその神々しさにあっさりとやられた。
 それ以上二の句は継げず、魅惑の微笑に頭をぼんやりとさせていた。

 「ん、そう言うことだよ。これまで黙っててごめんね」

 君は済まなそうに謝ると、おずおずと僕の手を取った。
  
 それから「でも、もう少しだけ、あと少しだけで良いから、私に付き合って欲しい」と僕を優しく引いて、大樹の幹にもたれ座った。
 
 そのか弱い導きは簡単に振り解けただろうけれど、僕は誘われるままに鈴音の隣に腰を下ろした。
 
 長い沈黙が流れた。
 大樹にしがみ付いたアブラゼミが、僕らの近くで翅を鳴らしていた。

 一頻り自分の居場所を示し終えると、彼は颯爽と別の木に飛び移っていく。
 そうして夏の音が遠ざかったところで、君はぽつぽつと話し出した。

 「…本当はね、千風くんとはお祭りの日にお別れするつもりだったの」「そうすれば、私の正体を君に知られなくて済むから」
 
 「知っちゃ不味かったのか?」

 僕は彼女に正体を隠す義務のようなものがあるのかと思った。

 「ううん」

 僕の予想に反して、鈴音は首を横に振って続けた。
214 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/04(水) 15:08:14.40 ID:YMX0ehJt0
 「…私は…怖かった。もし私が人間じゃないって知ったら、君はもう一緒に居てくれないんじゃないかな、って。気味悪がったり、煙たがられたりするんじゃないかなって思うと、どうしても言い出せなかった。私と君は姿形も扱う言葉も変わらないけど、決定的に異質な存在であることは確かだから。寧ろ下手に同じ部分があるからこそ、その絶対的な差異が破滅的なんだろうなって思ってた。君たちが異人種を差別してきた過去と同じように」

 一呼吸挟むように、彼女は嘆声を洩らした。
 
 「そんな憂苦の小片が胸を渦巻いて、私はそれに耐えられなくて、遂には君から逃げ出した。私は君といる時間が好きだったからこそ、君がこれまで通りに私を見てくれなくなる可能性に怯えた。…君を傷付けてまで自己保身に走った私は、きっとこれ以上になく醜いんだろうね」

 「そんなことない」

 いつになく弱々しい表情を見せた鈴音を見て、僕は堪らずその形に口を動かそうとした。
 でもその一歩前に君は軽く頷き、握る手のひらに力を加えた。

 「うん、分かってるよ。君はこんなにも近くで私を見つめていてくれたのにね。一度は見ない振りまでしてくれて、それからも君は何度となく教えてくれたのね。…私は最後の最後まで、君を信じ抜くことが出来なかった」
215 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/04(水) 15:10:11.07 ID:YMX0ehJt0
 「ごめんね」と自罰的な含みを込めた表情で君は言った。
 
 鈴音は本来語る必要のない自分の負の側面をも包み隠さず話した。
 だから反射的に、今度は僕の番だと思った。

 「ううん、謝る必要はない。…実をいうと、僕だってついさっき、君の前から逃げ出そうとしたんだ」

 鈴音が真に恐れたことは、一歩違えば踏み込んでしまいそうなぐらいにすぐ近くにある結末だった。
 そのような趣旨の言葉を受け取った君は目を大きく見開いた。
 
 僕は用水路のへどろを掘り起こすように、醜悪な自分を曝け出した。

 「今日の鈴音は、恰好も相俟って物凄く超然としてたから、その時僕は思ったんだ。僕なんかが君の傍に居ていいのかな、って。君の近くにいるべきは僕みたく恥ずかしいほどに卑小な人間じゃなくて、もっと相応しい存在がいるんだろうなって」

 この期に及んで言い訳をしている自分に、しかもその原因を鈴音に押し付けようとしている自分に甚だ嫌気が差して、僕は自嘲的に哂った。
 
 「…いや、理由なんてどうだっていいか。事実として、僕は君から距離を取ろうとした。僕は君との間に大きな隔たりを築き上げようとしたんだ。結局のところ、僕は君の怯えた通りに愚図だった」
216 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/04(水) 15:11:04.15 ID:YMX0ehJt0
 僕の浅ましい部分を知った鈴音は、距離を取るでも軽蔑するでもなく、「そんなことないよ」と優しい言葉を掛けようとしてくれていた。
 
 そしてだからこそ、僕はさっきの君と同じように、彼女がそう言い出す前に手のひらを強く握った。

 「うん、分かってる。でも、途端に自信の無くなった僕を連れ戻してくれたのは、他でもない鈴音なんだ。単純すぎて驚くかもしれないけど、鈴音がいつも通りの笑顔でおはようって言ってくれたから、僕は君に伝え続けたことの意味を思い出せたんだ。だからある意味で鈴音の憂慮は正しくて、そして最後の最後に僕が変わらないでいられたのは、紛れもなく鈴音のお陰なんだ」

 「ありがとう」と僕は情けない笑顔で独白を締め括った。
 
 多分、浅はかな自分に一言二言文句を言われることはあれども、よもや感謝を伝えられるとは思っていなかったのだろう。
 お礼の言葉に目を丸めた鈴音は、しばらく何かを言いたげに表情を動かしていた。

 でも結局は「どーいたしまして」と微笑んだ。
217 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/04(水) 15:12:31.37 ID:YMX0ehJt0
 「少し、聞きたいことがあるんだ」

 確かめ合うようにお互いの痛いところを舐め合った後に、僕は一つ問い掛けることにした。彼女は目配せで応えた。

 「どうして、僕にだけは鈴音が見えるんだ?鈴音が見えるように計らってくれたのか?」

 なぜ周りには見えない君が視認できているのか。一番気になったのはこれだった。

 別にこれまでの僕は、寺社に行けば幽霊や君のような高尚な存在が捉えられたわけじゃないし、それが不思議でならなかったのだ。
 もちろん、僕がただの人だと思っていただけで、実はその彼らが不可視の存在だという可能性も大いにあるのだろうが。
 
 僕はそれなりに腑に落ちる解答を欲していた。
 対して彼女は共感するように大きく頷いた。

 「それ、私にも分かんないんだ。私はてっきり、千風くんが珍しい属性の人だと思ってたんだけど」

 鈴音は尋ね返すようにそう言った。
 
 「いや、違うと思う。少なくとも、これまでにそんな経験はなかった」

 全てが彼女の仕業でなかったことに驚きながらも、僕はそう言葉を返した。
218 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/04(水) 15:14:10.64 ID:YMX0ehJt0
 「そうなんだ。まぁどうだっていっか。だからね、初めて千風くんに出会った日、私はすごくびっくりしたんだよ?『え?私のこと見えてるの?』って」

 鈴音は在りし日を懐かしむように言った。
 
 結構気になっていたことを一蹴されて、僕はちょっと気に食わなかった。
 だから仕返しでもするつもりで「あぁ、あれはこっちも驚いたよ。こんなに綺麗な子が森の中に居たからさ」とわざとらしく言ってやったのだ。
 
 時間がズレたみたいな刹那の間を置いて、「ふーん」ともの言いたげな目が僕に向けられた。
 君はまんざらでもなさそうな様子で「まだ私にそういうこと言うんだ。って、君にはそんなの関係ないんだったね」と自己完結した。
 
 それから、可視化してしまいそうなほどに深いため息が聞こえた。

 「…あーあ、もっと私に勇気があればなぁ…千風くんだって必要以上に傷付かなかったのに」と誰に言うでもなく、彼女は青い空に視線を移しながら後悔を言葉にした。
 
 その瞬間、僕は無意識に強く言葉を返していた。

 「それは違う」
219 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/04(水) 15:15:35.96 ID:YMX0ehJt0
 言葉に合わせて僕が彼女の腕を引っ張ると、鈴音は驚いたようにこちらを向いた。
 
 いつか失くした夏の魔法の断片をかき集める。足りない分は今の自分を奮い立たせる。
 心に薪をくべ、燃え上がった炎の熱さに堪らず言葉を飛び出させるようにして、僕は君に言わなきゃいけなかったこと、言うべきだったこと、そして何よりも僕自身が言いたかったこと伝えようとした。

 「一歩踏み出そうとしなかったのは、僕の方だ。僕だって、鈴音との心地良い時間を失いたくなくて、ずっと曖昧なままでいたから。絶対的な安全圏から君を小突いては何度も反応を確かめて、その癖境界線を越えようとはしなくて、そんな風に、僕は臆病だったんだ」

 意外にも言葉は流れるように繰り出された。
 その度に段々と自分の頬が熱くなっているのを実感した。

 最初はぽかんとしていた鈴音も、何かを察したように身を強張らせていた。
 
 「…でも、この一週間君に会えなくて、僕はこれまでの自分がどれだけ愚かだったかを思い知った。もう僕はそんな自分から逃げたくない。現状維持の自堕落に溺れたくない。だから、言わせてくれ」

 心臓が痛いほどに胸を叩いている。
 視界がぼやけるぐらいに頭の中は燃え上がっていて、指先にまでどくどくと血液の鼓動が伝わっていた。
 
 心なしか、君の頬は熱を帯びているように見えた。
 それは夢か誠か幻か。だがなんにせよ僕の行動は変わらなかったろう。

 その言葉を繰り出す寸前、僕の喉元は焼き焦げたかのような灼熱に包まれていた。
220 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/04(水) 15:17:17.51 ID:YMX0ehJt0
 「僕は……僕は、鈴音のことが──」

 顔全体に広がった熱を一点に集中させ、口から火を噴くように思いの丈を叫ぼうとしたその時、君の空いている手がさっと動いた。
 その小さな人差し指は僕の顔の前に持って来られて、そっと僕の唇に添えられた。
 
 途端、顔中真っ赤な僕の体温がその人差し指に吸い込まれ、代わりにひんやりとした風を吹き込まれるような錯覚が生じた。
 不思議と冷静さを取り戻してしまった僕は、もう思いの限りを伝えることが出来なくなってしまった。
 
 熱に浮かされていない目で見る君は、それでも頬を桜色に染めていた。
 君は今し方の出来事を深く味わうように瞳を閉ざした。
 そして長い時間を掛けてゆっくりと瞼を上げると、堪らなく嬉しそうに

 「それ以上は、駄目だよ。私も君も、後戻り出来なくなるから」と言ってから、何処までも無念そうに

 「言ったでしょ。私は帰らなきゃいけないって」と嘆息をついた。

 「どうしても、帰らなきゃいけないのか?」

 僕は縋るように問い掛けた。
 
 「うん。…ほんとは、私もずっと千風くんと一緒に居たい。でも、人の子が学校に行くみたいに、私達にも学ぶべきことがあるの」

 君はかすかに頬を綻ばせた。
 
 『ずっと一緒に居たい』その一言だけで僕の胸は馬鹿みたいに高鳴った。

 直後、頭から冷や水をぶちまけられた。
221 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/04(水) 15:19:09.98 ID:YMX0ehJt0
 「それにどれぐらいの歳月が掛かるかは分からない。もしかしたらすぐに終わるかもしれないけど…或いは、君が生きているうちはこっちに来られないかもしれない。それぐらい、難しい事なの」

 そこで僕は初めて理解した。僕と君とでは、時間の流れ方が違うことを。
 ここにきてようやく、僕は二人の間にある絶壁を思い知ったのだ。
 
 恐らくそれをずっと前から分かっていたであろう君は、唖然としている僕をなんとも言えない表情で眺めていた。
 放心する僕に向けて、ズキズキと張り裂けそうな胸を抑えるように、彼女は細い声を振り絞った。

 「だから…今日で、私のことは忘れて。千風くんには千風くんの人生があるんだから、君はまた新しい幸せを見つけて。短い命を、君なりに精一杯楽しんで」

 その際に鈴音が浮かべた笑顔は、これまでになく綺麗な作りものだった。
 ともすれば心の底からの笑顔だと勘違いしてしまいそうな程に、それは完成された微笑みだった。
 
 でもその微笑みの後ろでは、そうじゃないんだよと必死に叫ぶ君が薄っすらと見えた。
 繋ぐ君の手は小刻みに震えていて、そこから空いた右手で僕に伸ばそうとしている君の姿がありありと浮かんだ。
 彼女の笑顔が苦しみのやせ我慢だということには簡単に気が付けた。
 
 その時、僕は大きな決断を下した。
 鈴音になんと言われようとも元より僕はそのつもりだったが、今一度決意を表明しようと思った。
 
 瞼を閉ざして深呼吸を挟んだ僕は、君の瞳を真っすぐに見つめ、堂々と強固な意志を言葉にした。
222 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/04(水) 15:22:24.99 ID:YMX0ehJt0
 「待ってる」

 その短い言葉を前に、君は大きく瞳を揺らがせ、言葉なき動揺にかき乱されていた。
 
 僕は僕の人生が最良のものとなるように、君に向けて赤裸々に語った。

 「僕はずっと、鈴音を待ってる。例えもう二度と会えないんだとしても、僕は君が戻って来るのを待ってる。だから『忘れて』なんて言わないでくれ。僕は絶対に忘れない。鈴音のことを忘れたくなることなんてないだろうけど、もしそんな時が来ても決して忘れられないほどに鈴音は僕の中心になってるから。だから僕は待ち続ける、この命の限り」

 長らく、鈴音は困惑一色にその顔を染め上げていた。
 
 どうしてそんなことを言ってしまったのか?自分の言っていることの意味が分かっているのか?とでも言いたげに君は僕を見つめていた。

 僕は目を逸らすことなく、鈴音の瞳を見据え続けた。
 
 僕の頑固な意志が折れることがないことを理解したのだろう。
 ある瞬間を境にして、鈴音はこの上なく満たされたような表情を浮かべた。

 「…そっか…そっかぁ…」

 噛み締めるように同じ言葉が繰り返される。
 君は何度も何度も頷き、満足げに顔を綻ばせる。

 徐々に溢れそうになったものを嚙み殺すように歯を食い縛ろうとして、でも結局は抑え切れなかったみたいだ。
 僕を見つめる君はたちまち表情を歪ませた。
 
 もう隠し切れないほどに喉を震わせながら、細々と続けた。

 「…あぁ…私って…本当に、幸せ者なんだろうね…」
 
 こんなにも感情が直に伝わる声色を僕は聞いたことがなかった。
 君が僕と同じ気持ちでいてくれていることをひしと実感できて、胸の奥は燃えるように熱かった。
 
 鈴音は胸に抱えるものが決壊してしまう前に、すとんと僕の胸に顔を預けた。
 やがて僕の胸にはじわじわと温かな湿り気が広がっていった。

 君が力の限り僕の背を絞めつけている間、僕は君の背を優しく撫で続けた。
223 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/04(水) 15:28:04.67 ID:YMX0ehJt0
 
 
 感情の高ぶりが収まり、彼女がそっと胸元から離れた後、僕らは何も言わないでいた。
 太陽は西に進んで半分ほどの位置にあった。
 
 沈黙を破るように僕は君の名前を呼んだ。
 まだ目元に赤みが残っている鈴音は相槌を打った。

 「鈴音って、本当はなんて名前なんだ?」

 今でこそ僕の頭は、鈴音と言えば君で、君と言えば鈴音だと疑うことなく信じ切っているが、そう言えば、君は自分から名乗ったわけではないことをふと思い出した。
 
 気になると言えば気になるし、今やどうでも良いことと言えばどうでもよかったのだが、僕は試しに訊ねてみることにした。
 鈴音は思案するように空へ視線をやると、微笑みながらこちらに目線を戻した。
 
 「んー…千風くんの前では、私はただの鈴音で居たいっていう答えじゃ駄目かな?」

 それは彼女お得意のはぐらかすような答えだったが、僕らにはそれが良いと思えた。

 「分かった。これからも鈴音は鈴音だ」と僕がそれに納得を示すと、君はゆっくりと立ち上がった。
 
 「散歩の続き、行こ?」
 
 僕は差し出された君の手を取り、ゆっくりと歩き始めた。
 初めに辿り着いたのは、僕が飛び降りに選んだ断崖絶壁だった。
224 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/04(水) 15:29:35.59 ID:YMX0ehJt0
 「やっぱりあれは、鈴音が助けてくれたのか?」

 君の正体が明らかとなった今、あの覚束ない記憶が現実であったことに対してさしたる違和感はなかった。
 
 「そうだよ。あの時の千風くん、とんでもなく馬鹿だったなぁ」

 鈴音は懐かしむように肯いた。

 それから言い添えるように、「でも、すっごくかっこ良かったよ」と言ってくれた。

 その言葉に僕の胸は熱く燃えていた。

 「あの時の言葉、何気に私が一番気にしてたことだから、結構堪えたんだよ?」
 
 初めて僕がここから転び落ちてしまった日を思い出したのか、君はわざとらしく傷付いた素振りで僕に言った。
 
 「あれは本当にごめん」

 全て自分の所為だったから、僕には誠実に謝ることしか出来なかった。

 鈴音は僕の髪をわしゃわしゃとしながら、「いーよ。許してあげる」と微笑んだ。

 君に頭を撫でられると、すっかり僕の心は弛緩するようになってしまった。
225 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/04(水) 15:31:44.78 ID:YMX0ehJt0
 「ここ最近の千風くんは、驚くほどにぼろぼろで情けなかったね」

 「思い出さないでくれ、恥ずかしい」

 「それは無理かな〜。千風くんとの思い出は、しっかりと胸に刻んでおくから」

 視野狭窄状態に陥った不安定な僕を、やっぱり君は傍で見つめていてくれたのだろう。
 あんな自分を知られたなんて、羞恥心が湧いて出て仕方がないけれど、まぁ僕のことを覚えていてくれるならそれでいいか。
 相好を崩す君を見ているとそう思えた。
 
 それからも僕らはのんびりと歩を進めながら、時折ぽつぽつと意味のない言葉を交わした。
 
 山の中を一周回ったように大樹の傍に戻って来る。
 あんなに深い青に染まっていた大空は、いつの間にか朱色と黄金色に移り変わっていた。
 
 淡い日暮れ時は、終わりの時を強く想起させた。

 なんとなく分かっていたけれど、僕は尋ねた。

 「鈴音はいつまでこっちに居られるんだ」
 
 君は僕が何を聞くか分かってたみたいに、阿吽の呼吸で答えた。

 「夕日が沈むまで」
 
 僕は唇を強く噛んだ。
 
 「そんな顔しないの」と僕を見かねたように君は言う。
 
 僕は自分を誤魔化すのに必死で何も言えなかった。
226 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/04(水) 15:33:38.74 ID:YMX0ehJt0
 「そんなに私が居なくなるのが寂しいの?」

 鈴音は何処か嬉しそうに、悲しそうに尋ねた。

 「うん」と僕は素直に首を縦に振った。

 「千風くんと会えなくなって、私が寂しくないと思う?」

 鈴音は挑戦的に笑って見せた。

 「…ううん」と僕は大人しく首を横に振った。

 「だよね。でも、最後までそんな顔してたら、お別れが湿っぽく感じるでしょ?だから笑顔だよ、笑顔」
 
 正直な僕に満足したように、彼女はにっこりと満面の笑みを浮かべた。
 僕も君の笑い方を真似しようとして、でも浮かべられたのは笑顔じゃない笑顔だった。
 君の笑みは困ったものに移り変わった。
 
 鈴音は思い付いたように声を洩らすと、「付いて来て」とまた僕を引っ張った。
 彼女に引かれ少し歩いた先では、いつぞやのギャップ地帯が僕らを待ち望んでいた。
 
 その中心で透明感のある斜陽を浴びている若木は、以前よりもいくらか大きく育っていた。
 鈴音は確かめるように樹皮を撫でる。
 あの大樹と比べると幹はまだまだ細いが、横風にあおられ倒木してしまうような危うさは感じられなかった。
227 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/04(水) 15:35:56.91 ID:YMX0ehJt0
 彼女は少々踵を浮かせ、なんとか手の届く枝の一本に触れた。
 そして握っている僕の手を同じ場所に添えさせると、極々真剣な眼差しで「この枝を折って欲しいの」と唐突に言った。
 
 促されるままに枝を握った僕は、しかしそれを行動に移すことが出来なかった。
 こんなに立派に成長している木を破壊することに、正当な事由を見つけられなかったのだ。

 躊躇う僕に勇気を与えるように、「思いっ切りやっていいよ」と君は囁いた。
 僕は鈴音がどうにもこうにも僕に枝を折らせたいらしいことを悟った。
 
 腹を括った僕は枝を強く握り絞め、そのまま全力で腕を真下に振り下ろした。
 木の枝は破壊行動に弾性で抗うことさえなく、メキッと嫌な音を鳴らして折れてしまった。
 
 瞬間、鈴音が小さく苦痛を喘いだ。
 慌てて隣を見やれば、青ざめた君が辛そうに左腕を抑えていた。
 
 僕は気が気でなくなった。
 狼狽したままに何度も君の名前を呼ぶと、彼女は冷や汗のようなものを流しながら「ん…大丈夫だよ」と弱々しく答えた。
 
 その時、僕はもう一歩進んだ彼女の正体に気が付いた。
 答え合わせのために口を動かそうとすると、「それは秘密だよ〜」と君の曖昧な返答が先回りしていた。
 
 先程の痛みはもう感じないようで、鈴音はすっかりいつもの調子に戻っていた。
 僕は一生分の安堵を得た気分だった。
228 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/04(水) 15:38:17.23 ID:YMX0ehJt0
 「その枝、ちょっと貸してくれる?」と鈴音は言った。

 僕が差し出した枝を受け取ると、君は髪飾りの一部である真鍮色の小さな玉を手に取った。
 彼女が枝と玉をそれぞれの手の平に乗せると、それらが僅かに浮かび上がったように見えた。
 
 目を擦ってみたが錯覚ではない。確かにその二つは数センチほど宙に浮いていた。
 僕が愕然と鈴音を見やると、君は得意げな表情を作った。
 瞬間、眩い光が辺りを包んだ。
 
 その濃い輝きに僕は思わず目を閉ざした。
 光量が収まり、僕が目を再び開けると、彼女の手のひらには一つのあるものが乗せられていた。
 
 鈴音は笑顔を綻ばせながら完成品を僕に手渡した。

 「これからは私の代わりに、この風鈴が君の傍にいるから。寂しくなったら、この音色を聞いて欲しいな」

 受け取ったそれは、木製の風鈴だった。
 
 しかし、それはよく見る竹風鈴とは形状が大きく異なっている。
 鈴音が贈ってくれた風鈴は、木製なのにガラス風鈴と同じ形をしていた。

 これでは音が鳴らないだろうと思った僕が試しに揺らしてみると、舌が滑らかな木目にぶつかり、甲高い音を響かせた。
 その音は木の温かさがありつつも爽やかな響きが感じられるという、ガラス風鈴と竹風鈴の長所を組み合わせた至高のものであった。
 
 構造が理解出来ず、僕は不思議な心地に陥った。
 がすぐに、鈴音ならこれぐらい造作もないことか、と神秘的な現象を吞み込んだ。
229 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/04(水) 15:40:16.18 ID:YMX0ehJt0
 「大事にするよ」

 僕は頬を緩めて君にお礼を述べた。
 
 「千風くんからは沢山貰ったから、これでほんの少しだけお返し出来たかな?」と君はそれがさも事実かのように言うから、「いや、実際は僕の方が色々と貰ってばっかりだけどな」と僕が本当のことを言っておいた。
 
 「じゃあ、もうちょっとだけ貰ってもいい?」

 鈴音は僕の目を覗いてそう言った。
 そこに具体的な内容は明示されていなかったけれど、君が何を欲しているかはよく分かっていた。
 
 君から貰った風鈴をポケットに仕舞うと、僕は両手を広げ、覆い被さるように君の身体を抱き締めた。
 君はその温かさを確かめるように、ゆっくりとまさぐりながら僕の背中に手を回した。
 
 残された時間の大半を、僕らはそのようにして過ごした。

 「えへへ」と君の幸せそうな笑声が、いつまでも僕の耳元を擽っていた。
230 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/04(水) 17:16:55.08 ID:YMX0ehJt0
 
 
 あれからどれぐらい経っただろうか。
 僕達は何を言うでもなく抱擁を解き、肩を寄せてその場に座り込んだ。

 僕はまだまだ話したりなかったし、君も言いたいことが沢山あったろうけど、もう言葉は不要だと思えた。
 赤焼けの空を浸食するようにして徐々に薄い紫が染み込んでいく様子を、僕らは手を繋いでぼんやりと眺めていた。
 
 真っ赤な夕日は中々沈もうとしなかった。
 時間が経つのが異様に長く感じて、でも今はそれが心地良かった。
 まるで僕らのいる山が夕日を追い掛けているみたいで、永遠にこの時間が続くとさえ思えた。
 
 しかし、やはり恒久というものは存在しなかった。
 
 徐々に逢魔が時が近づく。とうとう夕刻が終わりを告げようとする。
 宵の始まりを意識した蝉たちは一度翅を休め、烏が数匹鳴き声を響かせながら巣に帰っていった。
 
 夜の夏虫が合唱を始めるまでの一瞬間、夏の山は澄み切った静穏に包まれる。
 音という音が消え失せたその時、君はふと思い出したような素振りで僕を見つめた。

 「いつかまた出会えたら、あの言葉の続き、聞かせてね」

 鈴音は頬を赤くしながら言った。

 「もちろん」と僕が大きく頷けば、君は嬉しそうに微笑んだ。
231 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/04(水) 17:20:07.62 ID:YMX0ehJt0
 僕らは徐に空を眺め、また静かな時間が二人を見守っていた。
 もうすぐに終わってしまう君との数分を味わうように、僕はぎゅっと君の手を握り締め続けた。
 
 それからややあって、最後の西日が消え入りそうになった。
 
 その時、「千風くん」と鈴音は落ち着いた声で僕を呼んだ。
 
 もう一度君に視線を向けようとすると、彼女はそれを制止するように天空を指差した。
 
 空は完全なる青紫に染まっていた。
 その中央によく目を凝らすと、一匹の白鷺が悠々と羽ばたいていた。
 まるで夜の闇を切り払うかのようなその純白に、僕は自然と目を奪われていた。
 
 それはほんの一瞬のことだった。

 思わず空を見つめた僕の右頬に、ふいと柔らかな感覚が重ねられた。
 動揺の余り、身体は石のように固まった。
 僅かながら横目に映った鈴音は、この上なく愛おしいものを眺めるように目を細めていた。
 
 瞬く間に僕の顔はのぼせ上がり、頬に君の熱が微かに伝わったところで、元から何もなかったかのように君の手のひらの感触が消滅した。
 
 隣へ視線を移すと、もうそこに鈴音の姿はなかった。
 代わりに辺りには玉響の輝きが浮かんでおり、その淡い残滓は綿毛のように空へと舞い上がって、やがては静かに消えてしまった。
 それらが見えなくなった後も、僕は天上を眺めて君を見送った。
 
 そのうちに薄暗い空では星々が光を放つようになり、夏虫が些か控えめに演奏を開始した。
 それでも僕は動き出すことなく、ひとり若木に背を預けて夜空を見上げていた。
 
 大切が抜け落ちた世界で、僕は飽くることなく、右頬に残った余韻を噛み締めていた。
232 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/04(水) 17:22:49.32 ID:YMX0ehJt0
 ♦♦♦


 ふと我に返ると、馬鹿みたいに煩い蝉の声が僕を出迎えた。
 
 眼前に広がる世界は相も変わらず色褪せている。
 朱色の残照が紺色に吞まれ、深海のように濃い空には幾つかの一番星が顔を出していた。

 それら全てが白けた光を放っているように見えてしまうのは、長い間楽園に身を浸したツケを払う時が来たからなのだろう。
 もう追想の旅は終わってしまったのだ。
 
 延々と続く坂道の中腹で立ち止まり、右手に見える古民家へ向き直る。
 よくある瓦葺の一戸建ては、正面玄関にも下屋を備え付けていた。

 木の縁で囲まれた窓は大きく開け放たれており、年季の入った漆喰壁はもう元の白色が見えないほどに濁っている。
 引き戸には鍵がかかっていることもなく、手を掛ければ音を立てて開いた。
 
 玄関口に立ち入いるとすぐに、家の奥の方から来客を迎える声が響いた。
 それは息を吹き込み過ぎた金管楽器を思わせる濁声で、床板を軋ませる音と嫌に相性が良かった。

 姿を現した声の主は、僕を認識した傍から外面用の笑顔を消し去り、素の調子で言った。
 
 「あら、千風。帰って来たの」
 
 「久しぶり、母さん」
233 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/04(水) 17:24:42.46 ID:YMX0ehJt0
 僕がそうして挨拶を交わすと、母さんは何事もなかったのように居間へ戻ろうとした。
 それを見かねた僕は、おどけた様子でこう言ってやった。
 
 「なんだよ、せっかく息子が帰って来たって言うのに、その素っ気ない態度は」
 
 振り返った母さんは、如何にも呆れたような表情で言葉を返した。
 
 「あんた、つい一カ月前にも帰って来たじゃない。そんなに頻繁に帰って来られたら、有難みって物も減るわよ」
 
 その至極まともな答えに、僕は大いに納得してしまった。
 
 「ほんと、憑りつかれたみたいに帰って来るんだから」
 
「実際、何かに憑依されてたりするかもな」

 売り言葉に買い言葉で僕がそう返せば、振り向いた母さんはジッとこちらを眺めた。
 まるで僕の奥に隠されたものを透視するかのように、数秒その状態は続いた。
 自分の顔に異変があるのではないかと思わされたところで、彼女は興味をなくしたように視線を戻した。
 
 僕は手を洗ってから台所へ向かったが、先程居酒屋で軽食を摂ったせいか、時間のわりに腹は空いていなかった。
 同じように居間に向かうと、母さんは熱心に画面を見つめていた。
 
 どうやら今は連続ドラマの放映時間だったらしい。
 その内容は在り来たりで、余命僅かの恋人が織りなす物語というようなものだった。

 涙を誘う話は嫌いではないが、あいにく僕の涙は最後の一滴まで涸れてしまった。
 テレビ画面を見つめるのも億劫で、手持ち無沙汰となった僕は何気なく外へと繰り出した。
234 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/04(水) 17:26:19.47 ID:YMX0ehJt0
 淡い満月を頭上に、あちらこちらで古民家の温かな明かりが漏れ出した薄暗い道を無心に行く。
 
 何処に向かうでもなく無計画に歩を進めていると、今日は妙にすれ違う人々が多いことに気が付かされた。
 往来する彼らはある一方向を目指しているようで、老若男女を問わずその表情は眩しいほどに明るかった。
 
 彼らと同じ場所に向かえば、詰まらない僕の世界も少しは面白く見えるだろうか。
 
 答えの分かり切った疑問を提唱しながら、それでも僕は人の波に乗って道を進んだ。
 そうして辿り着いた先には、光と音と人々の喧騒で溢れ返った祭りの会場があった。
 
 広場に到着するまでの長い通りの両脇には、かつてと同じように屋台が数店展開されている。
 僕はそれらを適当に見回し、三つ目の屋台でりんご飴を購入した。
 
 今の僕では、祭りに浮かされた人々の放つ暴力的な熱量に耐えられる気がしなかった。
 折よく見つけた縁石に腰を下ろし、茫然と退屈をしのぐことにした。
 
 行く人来る人は様々であった。
 屋台目当てでやって来た男子高校生達もいれば、子供を連れた三人家族もいたし、熟年の老夫婦だって祭りの会場を目指しているようだった。
 彼らに共通していたことは、やはり楽し気な笑顔を浮かべていたところだろうか。
235 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/04(水) 17:28:17.42 ID:YMX0ehJt0
 屋台の匂いが充満した場所に長居したせいか、段々と口が寂しくなってきた。
 徐にりんご飴の包みを取り外そうとしたところで、とある光景が視界の中に入り込む。

 僕の注意が向いた先には、一組の少年少女が歩いていた。
 
 少年の方は普段着で祭りにやってきたようだが、少女の方は浴衣で着飾って祭りにやってきたようだった。
 服装に差異こそあれど、二人の間に齟齬があるわけではないらしい。
 両者の手のひらはしっかりと繋がれていた。
 
 僕はその二人から目が離せなかった。
 二人の輪郭の上には、あり得るはずのない過去が次から次へと描写されていたからだ。

 それら全てが僕が思い描き続けてきた未来であることに疑いはなく、そしてだからこそ、少年少女が視界に入ってから出ていくまでの短い間、僕の胸はうじ虫に喰らい尽くされるような激しい痛みに苛まれた。
 僕は堪らず顔を歪めていた。
 
 僕は軽石みたいに穴だらけの胸を縫い合わせて、どうにか空虚を誤魔化しながら生きながらえているというのに、内側から這い出るどす黒い何かにとってはその縫い目までもが捕食の対象であった。
 耐え難い疼痛に悶え苦しむよう、僕は歯を食い縛って己の胸を握り潰した。
 
 そしてとうとう二人が見えなくなると、遂に僕は僕を抑えられなくなった。
 
236 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/04(水) 17:30:39.64 ID:YMX0ehJt0
 ──羨ましい。
 
 ふと、そのような意味を持った単語が頭の中に浮かび上がった。
 日常では水面下に隠しているその感情が一度でも浮上してしまえば、あとは芋づる式に悪感情が全身に纏わりついていった。
 
 妬ましい、嫉ましい、恨めしい。

 本当は僕だって僕だって僕だって、この上なく大切な君ともっともっと一緒に居たかったし色んなことをしたかったし下らない毎日を続けたかった。
 さっきの男子高校生たちみたいに馬鹿言い合ったり、家族連れみたいに幸せそうに歩いたり、老夫婦みたいに一心同体の時間を過ごしたかった。
 あの二人みたいに心地良い日々が続いていくはずだったんだ。それなのに、どうして僕たちは──。
 
 僕とその他の世界に引かれた境界線の温度差は凄まじく、その落差を意識すればするほど、激しい飢餓感だけが身体中を襲った。
 目の前には血の滴る肉がぶら下げられていた。
 飢えた心は遠い昔に味わった満足を求め、とうとう奥底に潜むけだものは己を縛り付ける鎖をぶち壊してしまった。
 
 …お前らの満ち足りた時間を根こそぎ奪い取ってでも、僕は彼女との豊かな日々を手にしたいんだ。

 寄越せ。僕に幸せを寄越せ。
 お前らの身体を引き裂いて臓物を捧げれば彼女は戻って来るだろうか。もしそうなら僕は今すぐにでも実行してやっていいんだぞ。
 
 あれっぽっちの時間では短すぎた。たかが一年程度を噛み締めるだけではもう我慢できないんだ。
 早く新しい思い出が欲しい。今すぐに欲しい。

 限界なんだ。平気な振りをしているけれど本当は心が苦しくて仕方がないんだ。
 そろそろ体裁ばかりの空元気さえもが保てなくなる気がするんだ。だから早く早く早く早く、もっともッとモッとモット──。
237 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/04(水) 17:33:19.14 ID:YMX0ehJt0
 目に映るもの全てが、憎むべき幸せであると思えた。
 
 この暗く淀んだ目で眺める世界を、内に巣食う穢れた心を、祭りを前に舞い上がる呑気な衆人にまき散らしてやりたかった。
 他人の幸福や喜びなんてものは僕の世界にとっては害でしかなく、寧ろ皆が僕と同じように日々に絶望し、映し出す世界は暗黒に包まれたものであるべきだと思えた。
 
 手始めに、僕は手に握られた赤い果実をこちら側に引き込むことにした。
 砂糖や果汁が地面に零れることに構わず、僕は一目散にそれに齧りついた。
 甘さや酸っぱさといった希望に満ち溢れた感情を一滴残らず吸い上げ、代わりに僕の心に詰まった薄汚さを吐き出すつもりだった。
 
 しかし、口いっぱいに広がったのは何処までも苦く渋い味わいだった。
 僕は反射的に顔を顰めた。
 
 毒林檎が幾ばくか冷静さを与えてくれた。
 その苦薬のような砂糖菓子を食べ終えると、大分と心の中は落ち着いた。

 空っぽになった僕はゴミを捨てて元来た道を引き返した。
238 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/04(水) 17:35:02.49 ID:YMX0ehJt0
 向かう先は実家ではなかった。
 夜の田圃に囲まれた農道を真っすぐに進み、なだらかな坂道を上ると、暗闇の立ち込めた森の入り口に辿り着いた。
 
 僕は夢の中を歩くようにして森の中へと足を進める。
 枝葉が服の裾を引き裂いたりもしたが、気にせず突き進み続けた。

 やがて見覚えのある大樹に辿り着くと、僕はそこで止まることなく更に森の奥へと向かった。
 そこからは木の根に引っ掛からないよう、慎重に足を繰り出して前へと進んだ。
 
 十分ほど前進し続けると、木々を配置し忘れたように不自然な空き地に辿り着いた。
 その中央に凛々しく根を下ろした若木は、月光を浴びて神々しく輝いている。
 その美しさだけは、冷め切った世界でも唯一確かなものだった。
 
 僕は徐に若木へと近づき、そっと樹皮を一撫でした。
 それから幹に背を預けるようにして座り込むと、宇宙のような空の高くに視線をやった。
239 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/04(水) 17:37:30.97 ID:YMX0ehJt0
 あの日以来、鈴音が姿を現すことは二度となかった。
 
 中学、高校、大学を卒業するまでをこの街で暮らした僕は、毎日欠かさずこの場を訪れたが、ついぞ君が戻ってくることはなかった。
 就職は都心に決まって、それ以来はこうして時間を見つけてはこの場所に帰ってきているが、やっぱり今日も君は居なかった。
 
 数年前の僕なら、その度にどうしようもなく胸が詰まるような感覚を覚え、頬に涙を伝わせていた気がする。
 十数年前のことが思い出せるのに数年前のことが思い出せないのは、単に思いを馳せるべき記憶がそこに存在しないからだ。

 今となっては零れるべき涙さえもが涸れてしまった。
 悲しいことだが、空虚に慣れてしまったのだろう。
 どんな悲壮感に教われようとも、心は余り動かなくなってきた。
 
 最近になって、僕は時々思うようになった。

 もしかしたら、本当は最初から君は居なかったんじゃないかな、と。
 君という存在は、十歳前後の子供によくみられるイマジナリーフレンドの一種だったのではないだろうか、と。
 
 記憶と呼ばれるものは酷く曖昧だ。
 何せ人は、昔日を思い起こす度にそれを都合の良い形に歪めてしまう生き物なのだから。

 しかも記憶を歪曲、若しくは捏造したという事実にさえ気が付くことが出来ないところが余計に質が悪い。
 それを考慮すると、君は元から居なかったという可能性も充分にあり得るのだろう。
240 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/04(水) 17:39:10.38 ID:YMX0ehJt0
 でも、実際のところはそんなはずがないのだ。

 君という存在を疑いつつある惨めな自分に向けて反駁するように、僕はポケットからそれを取り出した。
 
 鈴音は確かにここに居た。
 その裏付けとなるたった一つの形あるものが、君がくれたこの風鈴だった。
 何しろ君の奇跡で創り上げられたこの風鈴は、どんな技術でも生み出せない代物なのだ。
 
 その上、かつて僕がへし折った枝は、若木本体がすくすく成長しようとも、あの日を心に刻むように今もその傷跡を残していた。
 君もあの日々を忘れないでいてくれているのだろうか。
 そうだとしたら、僕の世界は少しだけ救われる気がするな。
 
 僕は満月に掲げるように手を伸ばし、月明かりを受け取った風鈴を小さく揺らした。
 辺りには慰めの音が聞こえた。
 
 もう君を十年以上も待ち続けて、分からず屋な僕もそろそろ理解するようになった。
 恐らく君は、僕が生きている内には戻って来ないだろうことを。
 
 そもそも僕らは時間の流れ方が違うのだろうし、元よりそれはどうしようもないことだ。
 今頃になってその理不尽を恨むつもりはない。
 これからも健気にこの場を訪れようとも、最後の最後まで僕が君を出迎える日は訪れないのだ。
 
 だとしても、僕は君を待つことをやめはしないのだと思う。

 だって、これほどに歳月が経とうとも、人生の花と呼ばれる学生時代を人並みに過ごそうとも、僕の心は一度も他に揺れることがなかったのだから。
 寧ろ月日を重ねるごとに、この想いは密度を増していったのだから。
241 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/04(水) 17:41:05.74 ID:YMX0ehJt0
 きっと、思い描くいつかの時は、この胸が震えるほどに素晴らしいのだろう。
 だから、訪れることのないであろういつかの時の為に、僕はいずれは身を滅ぼすことになる痛みを大事に抱えていたいと思う。
 
 君に会えないことは寂しくて悲しくて辛くて虚しくて、そんな現実が嫌になってかつての日々に逃げ込んだ挙句さっきみたいに少し錯乱してしまうことはあるけれど、それら含めて僕は堪らなく君が愛おしいんだ。
 
 この全身を引き裂くような苦痛は、同時に君を想い続ける僕そのものの象徴だ。
 
 この幸せな呪いこそが、何よりも僕が君を愛している証明なのだ。
 
 そうして君の傍で幸福の呪縛を確かめることで、中核の失われた世界に意味を見出し、僕はなんとか今日を生き延びていく。
 
 君からすれば勝手に色々を抱え込んでいる僕は、もしかせずとも傍迷惑なのだと思う。
 あんなに魅力的な君のことだから、今頃は僕なんかよりももっと素晴らしい相手を見つけているのかもしれない。
 たぶん僕のことなんて忘れて、健やかな時間を過ごしていることだろう。
 
 それを思うと少しだけ胸が痛いけれど、まぁいいんだ。
 
 結局のところ、僕の世界はあくまでも君の世界の存在が大前提なのだから。
 
 吐き出す行方のない恋慕に浸り、小さな嘆息を洩らす。
 天上に浮かぶ丸い月の光を眺めていると、だんだんと頭がぼんやりしていった。

 今頃になって酔いが回ったのだろうか。

 淡い月が重ねって見えるようになった頃、僕の瞼は薄く閉ざされた。
242 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/04(水) 17:43:48.89 ID:YMX0ehJt0


 懐かしい匂いだった。
 
 ふと意識を引き戻したのは、瞼の裏に注がれる柔らかな日差しでもなければ、まだ暖かい程度の気温でも朝蝉のさざめきでもなかった。
 鼻孔を擽るしゃぼん玉みたいに落ち着く香りが、眠りに落ちた意識をよび起こしていた。

 頭は何か柔らかいものに乗せられていた。
 
 幹にもたれ掛っていたはずが、僕はいつの間にか仰向けで寝転がっていた。
 背中は大地の硬い感触を受け取っているが、頭の部分だけは程よい弾力を感じ取っていた。
 
 千年の眠りから目覚めたような、心地の良い覚醒だった。

 寝ぼけた僕は何も考えずに頭を上げようとして、しかし、その動きは直前で遮られた。
 
 額がそっと押し返され、僕は起き上がることを許されなかった。
 何が起こったのかを把握しようとして、直後、すぐ近くで鈴を転がすような音が聞こえた。
 
 己の聴覚がその澄清を捉えた瞬間、生死を彷徨う人間が息を吹き返したように心臓が大きく上下し、同時に頭の中は深い混乱に包まれた。
 現状が上手く呑み込めず、気が動転したどころの話ではなかった。
243 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/04(水) 17:45:14.39 ID:YMX0ehJt0
 しかし、僕は冷静さを欠かなかった。
 
 これまでにも同じような夢は何度となく繰り返してきたのだ。
 そしてその幸福な夢から醒める度に、悪夢のような現実が僕に馬乗りになって、心の生傷を錆びたナイフで抉り取ってきたのだから。
 
 そう何度も同じ過ちを繰り返すつもりはない。
 僕は手負いの野良猫のように用心深く意識を集中させ、辺りの情報を探ろうとした。
 
 伝わる五感は何もかもが余りに現実的であった。
 だからこそなお一層、僕は目を覚ますのが恐ろしかった。
 瞼を上げた途端に幻が拡散してしまうぐらいなら、もう少しぐらいこの世界に甘えていたかったのだ。
 
けれども、心はもう待ち切れなかった。

 心臓が自分のものではないようにどくどくと脈打ち、遂には身体が心に追いついてしまった。
 とうとう僕は、何かを探し求めるように右の手のひらを伸ばした。
 
 恐る恐る伸ばした右手は、大きな期待に反して予想通りに空を切った。

 一瞬、息が詰まるような心地を覚えたのちに、僕は隠すことなく大きなため息を吐き出した。
 胸には深い落胆と僅かな諦念だけが漂っていた。
244 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/04(水) 17:47:31.06 ID:YMX0ehJt0
 微かな希望の光は消え失せ、世界にはやはり夜明けが来ないままであった。
 自嘲的な笑みを零すことさえままならず、僕は右手を大地に落とそうとしたところで、何の前触れもなく右手は待ち焦がれた温もりに包まれた。
 
 頭はいま起きたことが良く理解出来ていなかったし、一方ではひしと理解しているようだった。

 半信半疑のままで手のひらに力を加えてみると、確かに右手がぎゅっと握り返された。
 また鈴の音が耳元を擽ってくれた。
 
 感じる五感を疑うことが出来なくなったその瞬間、胸の奥底には潤いが取り戻され、閉ざされた瞼の奥からはらりと何かが零れ落ちた。

 溢れたそれは、心が満たされたからこそであった。
 枯れた大地に命の水滴が波紋し、かつての豊かな緑が生え広がるように、僕の世界は夜明けの向こう側に辿り着いたのだ。
 
 いつかの時が訪れれば、際限なく言葉を繰り出すと思われた喉はきつく締めあげられていた。
 僕は長らく発声に至らず、そのあいだ、右頬には柔らかな手のひらがあてがわれていた。
 僕の目尻から絶えず溢れ出すものを、細い指がやさしくやさしく拭ってくれていた。
245 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/04(水) 17:49:26.32 ID:YMX0ehJt0
 そのうちに僕は、今すぐに飛び起きて両目を大きく開け、この胸に募った狂おしいほどの感情を一滴残さず伝えたいという強烈な衝動に駆られた。

 顔をぐちゃぐちゃにして噎び泣きながらも、君を絞め殺してしまうぐらいに強く抱き締め、これまでの毎日がどれほどに寂しくて苦しいものだったのかを、たぶん君もだろうけれど、僕はその何十倍も辛かったんだってことを知って欲しくてたまらなくなった。
 
 だけど、結局僕はそうはしなかった。

 なに、単純なことだ。僕の世界は一から十まで君が中心なのだから、僕のことは全て二の次で構わないというだけの話だ。

 それに、いつかの時が訪れた暁には、僕が一番最初に君にしてやることはもう決まっていたから。
 
 やっとその時が来たのだと思うと、自然と口元には微笑みの形が作られていた。
 瞼を薄く持ち上げ、滲む視界に乱反射を映し出す。
 その万華鏡のような世界には、求め続けた大切がピタリと当てはまっていた。
 
 右頬を撫でるその手に自らの手を重ね合わせ、大きく息を吸い込む。
 次に息を吐き出すその瞬間、きっと僕たちの世界は最高のものとなるのだろう。
 
 
 幾星霜の慕情を込めて、僕は約束の言葉を昇華させた。
246 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/04(水) 17:55:26.09 ID:YMX0ehJt0
 SS「半透明な恋をした」完結

 以上です。

 いい経験をさせてもらいました。
 最後まで読んでくださった方が居ましたら、お付き合いいただきありがとうございました。

 
247 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2023/01/14(土) 22:29:08.02 ID:QcWGsVnso
久々に読みごたえのある長編SSでした。
積み重ねの描写でじわじわきました。
ありがとうございます!
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