SS「半透明な恋をした」

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47 : ◆jkwYf2kqc. [sage saga]:2022/12/27(火) 23:16:35.48 ID:ik+D4jwf0
 つい一週間ほど前、長きに渡った長期休暇には終止符が打たれてしまった。世界は未だ異常な高温で包まれているし、蝉たちが鳴り止んだわけでもない。それでも季節に一つの節目がやって来たことは明らかで、今や陽が沈むと秋虫が騒ぎ立て始めている。そうなると当然、名目上猛暑の危険性ゆえに与えられるお休みも打ち切りということだ。
 そんなこんなで二学期の日常に吞まれつつある僕は、以来山に向かうことはめっきり減った、という訳ではない。僕は学校が終わればいつもの場所に飛んで行ったし、やっぱり鈴音も僕より一足先に大樹の傍で待っていてくれた。これまでと比べると遊ぶ時間が限られてはいたが、僕らは相変わらず山中で落ち合っていた。
 学校に通うようになって一つ疑問に思ったのが、ここでは彼女の姿形が一切見えないことだった。あんまり露骨に探すのもみっともない気がした。だからそれとなく学校内を見渡しているだけだが、どの学年にも鈴音らしき人物は見当たらなかった。
 まぁ恐らく、彼女は隣町のお嬢様学校にでも通っているのだろう。実際、この辺りに住んでいる子供たちには少なからずそういう奴らもいた。それに、こんな辺鄙の学校ではあれ程の知識を手にすることは不可能に近い話だとも思えた。
48 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2022/12/27(火) 23:18:20.75 ID:NWK+yZjS0
いやあ、これは読むのきついわ
高尚な文章書きたいって衝動が丸見えのわりに語彙力が貧しくて陳腐極まりない
それと、情景にしろ心情にしろ全て描写する必要はないから削ってくれ
無駄な情報が多すぎて読み続けるのが苦痛だ
そもそも、まともに推敲してないだろ
読み手のことを考えられないならチラシの裏に留めておくべきだ
どんなに良い結末が待っていたとしても
読まれなかったら存在しないのと同じだぞ
49 : ◆jkwYf2kqc. [sage saga]:2022/12/27(火) 23:20:14.30 ID:ik+D4jwf0
 教室に到着して程なくすると、まずは担任の主導する朝学活が始まった。それが終わると退屈な一時間目の国語が始まって、次は図工の時間で…という風にして、学校での一日が過ぎ去っていく。
 しかし僕が真面目に授業に取り組んでいるのかと言われると、それは体裁だけのことだ。ノートと教科書を開いて鉛筆を握っているが、頭の中は放課後のことにしか意識が向いていなかった。
 給食を食べ終えると昼休みが訪れた。僕は当たり前のように鞄から図書館で借りてきた本を一冊取り出して、自然に関する造詣を深めようとした。

 「千風。今日こそサッカーしに行こうぜ!」

 すんでのところで横槍が入って、僕は声の主を見やった。夏休み中遊び回っていたのだろう。僕と同じかそれ以上に日に焼けている日向が、いつものメンバーを代表して声を掛けてくれていた。
 しかし僕はと言えば、変わらぬ一点張りだ。

 「ごめん。今日は本読みたいから、また今度な」

 昨日まではこれで引き下がっていたのだが、今日の日向はまだ諦めないらしい。彼は眉を寄せて言った。

 「お前、そういう奴じゃなかっただろ?」

 「読書も悪くないもんだって気づいたんだよ」

 合気道のような受け流しで言葉を返すと、ぞろぞろと彼の後に続いた数人の友人が顔を顰めた。

 「夏休みの時も全然遊びに来なかったしさ、最近付き合い悪いんじゃねーの?」

 そう言われてしまっては、こちらとしても立つ瀬がなかった。確かに僕は夏休み中、日向達をほったらかしにして鈴音との時間を過ごしていたのだから。
 少しばかり居心地の良くない雰囲気を感じ取った。返す言葉を失った僕は、今日ぐらいはみんなとサッカーするか、と状況を好転させるために席から立ち上がろうとした。
 だがそのタイミングで、電撃的に一つ良い考えが思い浮かんだ。僕は席から立ち上がる前に、日向達にこう言ったのだ。
50 : ◆jkwYf2kqc. [sage]:2022/12/27(火) 23:26:55.56 ID:NWK+yZjS0
それとその酉は割れてるから変えた方が良いぞ
51 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2022/12/27(火) 23:48:59.74 ID:ik+D4jwf0
 「なぁ、良かったら今日の放課後、久しぶりに山で遊ばないか?」

 僕からの突然の提案に、日向達は怪訝そうな表情を浮かべていた。しかし最後には「分かった。じゃあ放課後な」と返事をした。それを機に僕が手元の本を開ける仕草を取ってやると、彼らはため息をついて校庭へ向かって行った。彼らを横目に見送った僕は今日の放課後がますます楽しみになりながら、本の内容に集中し始めたのだ。
 この時の僕が思い付いたアイデアが、僕自身の交友関係の安寧という点において大変優れたものであったことは間違いなかったのだと思う。
 ただ、一つだけ見落としがあった。それは、自分にとって良い考えというものは、その大抵が他人にとっては都合の悪いものだということだろう。
52 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2022/12/28(水) 00:02:04.77 ID:FBcg8E2q0
 ♦♦♦


 六つ目の授業が終わり、事務的な帰りの会が切り上げられると、ちょうど開放のチャイムが学校中を包み込んだ。学生のオアシスたる放課後に辿り着いた皆は、伸び伸びとした様子で下校を始めている。僕はその中で一際早く正門を潜り抜け、荷物を置きに家へと向かった。   
 そのまま勢いで日向達との集合地点に向かったものだから、僕は一番乗りに集合場所の空き地に到着していた。遅れて彼らもやって来て、僕は勇み足を向けて彼らを先導した。

 「山ってそっちじゃないだろ?」と日向は僕を引き留めたが、「いや、こっちにもっといい場所があるんだ」と僕は彼の制止に構わず歩みを進めていった。

 そう、僕が思い付いた良案というのは、鈴音と日向達を友達にしてしまおう、というものだった。
 というのも、彼女と彼らが仲良くなってくれた暁には、僕は日向達との時間も大切にできるし、鈴音は僕以外の山で遊べる友達を作れるわけだし、日向達も鈴音という新たな仲間を見つけられることになるわけだ。一石二鳥どころか三鳥ではないか。
 このアイデアにはなんの欠点も見当たらないし、無理矢理にでもつっかえるところを捻り出すとすると、僕と鈴音だけの時間が失われてしまうことだろうか。
 しかしそれも、僕にとっては些末な問題でしかなかった。寧ろこのまま友人に彼女のことを知らせずに、僕と鈴音だけの関係を維持することの方が問題だとすら思えた。
 考えてもみてくれ。鈴音の培った見聞は僕以外の人間にも披露すべきものでしかないだろう?それを僕一人が取って隠してしまうことなど、どうして許されようか。
 つまりは僕は鈴音と過ごす日々の中で、彼女に対して友愛を抱いたことはもちろんだが、そこには敬愛のような感情さえ芽生えていた。その結果として、彼女が日向達にどのような心象を抱こうとも一向に構わなかったわけだ。
53 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2022/12/28(水) 00:06:04.16 ID:FBcg8E2q0
 「実はさ、夏休みに仲良くなった子がいるんだ」

 不思議といつもより長く思える距離を進みながら、僕は日向達に鈴音のことを語り始めた。植物とか昆虫とか、山の知識に関しては右に出る者がいないのだとか、なんと自分よりも素早く斜面を登れるのだとか、僕は彼女の魅力を自分のことのように自慢げに話していたのだと思う。
 やっとのことで緩やかな坂道の頂上に辿り着くと、前方にはシンボルツリーが聳え立っていた。普段通り僕は大樹の元へ歩み寄ろうとして、ふと違和感を覚えた。

 「…鈴音?」

 妙な引っ掛かりの原因を突き止めるよう、僕は試しに彼女の名を呟いた。
 すると、僕の掛け声に気が付いた鈴音が、いつも通りに樹の裏側から笑顔で姿を見せてくれた。という普段の流れが生じない。
 この場には物静かなそよ風が吹き通しているのみで、首を振って辺りを見回してみても、白いワンピースに身を包んだ彼女の華奢な姿は影も形もなかった。
 その事実を前に、僕はなんとなく釈然としなかった理由を発見した。居ない。鈴音がいないのだ。
 初めての事態に若干の焦りを募らせつつも、「おい、鈴音。何処に居るんだよ?」と僕はまるでそこにいるはずの誰かに手を伸ばすようにして何度か声掛けをしてみた。
 しかし、僕の呼び声に彼女が反応することはなかった。
54 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2022/12/28(水) 00:08:19.53 ID:FBcg8E2q0
 「…おかしいな。ごめん、みんな──」

 まぁ、鈴音だってここに来れない日もあるか。今日は少し都合が悪かったか。そうやって彼女の不在に納得しようとしていたその時、誰かがぽつりと呟いた。

 「なんだよ。鈴音ちゃんなんていねーじゃねーか」

 「いや、今日はまだ来てないって言うか──」

 余程鈴音に会えることを期待していたのか、少々棘生えた言葉が空気を裂いた。僕は今日はタイミングが悪かったことを説明しようとするも、便乗するようにまた誰かが言った。

 「千風。鈴音ちゃんに振られたんじゃねーの?」

 「はぁ?ちが──」

 斜め上の方向から小馬鹿にするような言葉が飛んできて、僕は慌てて弁解を図ろうとした。だが重ねるように、次から次へと幾つもの嘲笑の混じった声が響き渡った。

 「あーあ、可哀想になぁ」
 「女の尻なんか追い掛けて、ダセーの」
 「そもそも鈴音ちゃんの話だって嘘なんじゃないのか?俺はそんな子学校でも見たことないしさぁー?」
 「そうかもな。本の読み過ぎで頭おかしくなったんだろうなぁー」

 そこでようやく理解した。その尖った言葉のどれもが、間違いなく僕に向けられた誹りであることを。
 最近一緒に遊べていないことが、日向達よりも読書を優先したことがそんなに気に喰わなかったのだろうか。それからも彼らは僕を散々に冷やかし、気の済むまでせせら笑った後に、勝手にその場を去って行った。
55 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2022/12/28(水) 00:13:25.37 ID:FBcg8E2q0
 取り残された僕は曰く言い難い表情で突っ立っていた。彼らの放った誹謗中傷の一つ一つを頭の中で噛み砕いては、沸々とした感情を煮やしていたのだ。
 今日はこれ以上この場に居ても意味がない。取り敢えず家に帰るか。
 不愉快が積もり積もって目に映るもの全てが厭わしく思えてしまう前に、僕はその場から踵を返そうとした。
 だが、神経質になっていた僕の耳は、不自然に小石の転がる僅かな音を聞き逃さなかった。
 反射的に振り返れば、大樹の裏からこっそりと顔を出している鈴音と視線が合った。数秒その状態が続くと、彼女は気まずそうに表にやって来た。

 「…居たのか?」

 その数秒間、僕は頭で何を考えていただろうか。短く、いつもより少し低い声で、僕は慎重に尋ねた。少し間があって、鈴音は「…うん」と小さく頷いた。

 「…居たなら、なんで出てきてくれなかったんだよ」

 あの時ここに居たことを肯定されてしまえば、僕はそう聞かずにはいられなかった。
 彼女の返すであろう言葉を幾通りも推測した。例えそれが納得できないものであったとしても出来るだけ穏便でいられるよう、ある程度の耐性を整えたうえで僕は鈴音の答えを待った。
 しかし彼女が取った行動は、僕の準備を大きく上回るものであった。鈴音はいつも通りにへらと笑い、何事もなかったかのようにその口を動かそうとしたのだ。

 「今日はさ、あっちの方に行ってみよっか──」

 「なんでって聞いてんだよ!!」
56 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2022/12/28(水) 00:16:16.04 ID:FBcg8E2q0
 怒鳴りつけるように暴力的な声が、僕自身を中心として周囲に波紋した。
 彼女のふざけた表情を見た瞬間、目の前が真っ赤に染まったような気がしたのだ。
 僕が猛る感情のままに叫んでやると、鈴音は突然の大声に怯えたように身体を固くさせた。
 皆がいる前で鈴音が出てきてくれなかったこと。僕の呼び掛けを無視したこと。そして何よりも、こっちの気持ちも考えずにへらへらと笑ったこと。
 その何から何までが不快でならなかった。鈴音の常套手段であるお茶濁しが、この瞬間には悪手でしかなかった。
 せめて真っ当な理由を説明してくれれば、僕も怒りを腹に沈めようと思っていた。でも鈴音はそれを誤魔化そうとした。それはまさしく火に油を注ぐようで、僕の中で煮えたぎる狂った炎を増々駆り立てた。
 怒気に吞まれて視野が急激に狭まっていた僕は、もう鈴音が日向達と結託して僕を陥れようとしたのだとか、そんな飛躍の過ぎる狭窄にまで陥ってしまっていた。
 急所を突かれたからだろう。静寂が辺りを切り裂く中で、鈴音は何も言えず仕舞いであった。僕は燃え上がる怒りのままに、続けて言葉で殴りつけた。
57 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2022/12/28(水) 00:18:11.51 ID:FBcg8E2q0
 「どうして理由を教えてくれないんだよ!!あれか?僕が笑い者にされてる姿を見て楽しかったのか!?」

 「ち、ちがっ──」

 「あぁ、それはそれは面白かったんだろうなぁ!?こっちは酷い目に遭ったって言うのにな!!」

 僕が吐き捨てるように罵倒の言葉を繰り返そうとも、彼女はやはり口を結び続けていた。
 いや、実際の鈴音は必死になって何か言葉を探していたのだと思う。でも憤怒に囚われ暴走機関となった僕に掛けるべき言葉を見つけられず、ひたすらに困り果てていただけなのだろう。
 一度燃え上がった炎はそう簡単には鎮火しない。これが良くないことだということは心の何処かでは分かっていた。それでも心と頭が一致せず、頭の片隅で急ブレーキを踏みこもうとも、僕は怒りの燃料となる薪を燃やし尽くすことでしか平静を取り戻すという手段以外が選べなかった。
 
 「僕がどんな気持ちなったかも想像出来なかったのか!?」「この人でなし!!」

 そうして、僕が更なる罵詈雑言を放った瞬間だった。あれほどの激昂が瞬く間に冷めてしまったのは。
58 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2022/12/28(水) 00:21:30.68 ID:FBcg8E2q0
 これまで一切微動だにしなかった鈴音が、突如として大きく瞳孔を震わせた。
 途端、心には僕の燃やした炎がちっぽけに思えるほどの大滝が降り注いだ。
 何か不味いことを言ってしまった。鈴音の反応を見て直感的にその事実に辿り着いた僕は、半ば強制的に冷静さを取り戻していた。さっきまではあれほど饒舌に啖呵を切っていたというのに、今度はまるっきり言葉を失ってしまった。
 小さな瓶に淀んだ空気を詰め込んだみたいに、居心地の悪い雰囲気がその場を支配していた。
 時の流れが嫌に遅く感じる。何かに衝撃を受けている鈴音から目が離せない。
 
 僕を見ているようで何処か別の場所を見ていた彼女はとうとう我に返った。僕の視線が向けられていることに気が付くと、いつも通りの笑顔を浮かべようとして、でもその笑みは何処かぎこちなかった。
 
 胸に杭を打ち込まれたようであった。哀愁漂う笑顔を前にして、僕は息が詰まるほどに苦しくて仕方がなかった。
 鈴音は悲しそうに笑いながら、「ごめんね」と小さく呟いた。
 その時僕が返すべき言葉は何千通りとあったはずなのに、僕は口を動かすどころか、喉を震わすことさえ叶わなかった。
 そんな僕を一瞥した彼女は、逃げ去るように向こうへ駆けてしまった。
 
 今度こそ一人その場に取り残された僕は、茫然自失のままに直立し続けた。
 肌を撫でた秋風が、孤独の冷たさを際立たせていた。
59 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2022/12/29(木) 19:37:11.46 ID:SXxF06Gi0
 ♦♦♦


 七日に二度訪れる休日。安息日一歩手前であるその週末は、風の強い日であった。
 青い空に浮かぶうろこ雲は左から右へと忙しく流れ去っていく。太陽だけがその位置取りを変えることなく、薄雲をすり抜けて輝きを放っていた。
 
 それは絵に描いたような気持ちの良い秋晴れだ。
 しかし、それとは真逆の気怠げなリズムが、アスファルトを物憂げに鳴らしている。一歩進む度にため息が聞こえてきそうなほどに、その足取りは異常に重々しかった。まるで彼の周りだけが酷く重力の影響を受けているようだ。
 
 その少年こそが、今の僕だ。
 
 こんなにも良く晴れた日だというのに、僕は山に向かっていない。その事実が頭に圧し掛かり、一層憂鬱な気分を味わわされる。頭上に見える太陽を恨めしく思いながら、僕は本来辿っていたであろう目的地とは別の方へと向かっていた。
 
 鈴音と遊ばなくなって、一体どれぐらいの日々が過ぎただろうか。
 少なくとも、ここ一カ月近くは彼女の姿を見ていない気がする。
 鈴音と会わないうちに世界は随分と涼しくなって、山はあちこちで赤黄色へと模様替えをしていた。
60 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2022/12/29(木) 19:40:16.52 ID:SXxF06Gi0
 季節に合わせて姿を変えていく遠くの山々を眺めていると、「秋になったらさ、紅葉狩りなんかもしよーね!」とその時が待ち遠しそうに話してくれた鈴音を、そして「あぁ、楽しみだな」と軽く頷いた僕を思い出してしまう。約束破りな自分が嫌いになりそうだ。
 
 だがその美しい記憶を塗り潰すように、次いで苦しげに笑ったあの日の鈴音の姿が脳裏に蘇る。
 とっくに胸の中心にまで食い込んでいた杭は、今日も背中から飛び出す勢いで何度も打ち付けられた。
 胃に詰まった苦い空気を無理矢理吐き出し、僕は胸を穿つ痛みを堪えた。
 その記憶こそが、何から何まで自分が悪かったことをいつ何時でも思い知らせてくれる。今度こそ僕は自分が大嫌いになる。
 
 思い出すのは三週間ほど前、鈴音を傷付けたあの日のことだ。
 日向達に取るに足らないプライドを踏みにじられ、下らない苛立ちを覚えた僕は、あろうことか彼女に八つ当たりしてしまった。その瞬間に燃え上がった怒りのエネルギーは確かにすさまじかったが、この手の感情というものは長続きはしない。
 鈴音が走り去ったその時には、既に僅かながら燻る火種にも冷水を掛けられていたし、家に帰って一晩寝てしまえば、翌日にはすっかり別の感情だけが胸を覆い隠していた。
 
 怒りの次に訪れる感情など、後悔以外の何物でもないだろう。
 翌日からの僕はと言えば、あの日の選択全てを恨み、やり直したいと願い、だがその場で足踏みを続けていた。
 だからこそ、こうして鈴音と会わない日々が続いて、今も山に向かおうとしない僕がここに居るのだ。
61 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2022/12/29(木) 19:43:35.87 ID:SXxF06Gi0
 そして今日もまた、僕は彼女の元に行けなかった。今度こそ隠さずため息を吐き出してから、僕は図書館に入ろうとした。

 「少年、最近元気ないねー」

 ドアノブに手を掛けたところで、見知った声が僕を引き留めた。入り口から離れて後ろを振り返り、一応その姿を確認してから返事をした。

 「…斎藤さん。こんにちは」

 これから勤務時間なのだろう。まだ首元からネームプレートを垂らしているわけではなかったが、ここ数カ月の付き合いで声の主があのお節介が過ぎる司書さんであることはすぐに分かった。
 
 斎藤さんは「こんにちはー」と適当な挨拶を返すと、こちらが本題であると言わんばかりに身を乗り出した。

 「で、どうして少年はそんなに落ち込んでるのかな?しかもここ数週間も」

 「別に、落ち込んでなんかないですよ」

 僕の顔を覗き込むようにして尋ねる彼女に対して、僕は適当な言葉でやり過ごすという選択肢を選んだ。
 斎藤さんは呆れた様子で首を振った。

 「ほらほら、すぐそうやって君は誤魔化すよねー。お姉さんに話してみなさいよ。自分で抱えてたって解決しないものは、誰かに話すのが一番なんだから。あ、これ経験則ね」

 「…」
62 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2022/12/29(木) 19:46:06.96 ID:SXxF06Gi0
 自分の悪癖を見抜かれて、尚且つそれらしいことを年上の人に言われてしまえば、話してみる価値があるように思えた。
 実際のところ、僕一人で色々考えた結果が、約一カ月も鈴音に会えていないという事実なのだから。
 
 僕は恥も外聞もかなぐり捨てて、極力言葉を選びながらあの日のことを簡潔に説明した。
 そのなんとも情けない話に耳を傾けたお姉さんは、一通り僕が話し終えると言った。

 「ふ〜ん…なるほど…。つまり少年は、その子と仲直りしたいってこと?」

 縦に首を小さく振ると、彼女はケロッとした様子で答えを出した。

 「だったら早いとこ『ごめんなさい』って言えばいいだけじゃん」

 「…それが出来たら苦労しないんですよ」

 その一見近道に見える答えを前に、僕は落胆しながら言葉を返した。その失望は果たして彼女の案に向けられた物なのか、それとも僕自身に向けられた物なのかは火を見るより明らかである。
 
 そうだ。僕だってとっくに気が付いているのだ。彼是一カ月も悩んでいることなんていうものは、実は簡単に解決出来るものだということぐらい。
 斎藤さんの言う通り、僕が今すぐに山に向かって、それでもし鈴音が居てくれたらその場で全力で謝って、また仲良くして欲しいと言えばそれで済む話なのだ。
 
 でも僕にとってそれはいばらの道であった。
 
 もし鈴音が僕を赦してくれなかったら?もう絶交だと言われたら?そもそも、二度とあそこに来てくれなかったら?

 その諸々の不確定要素に一度目を向けてしまうと、臆病な僕はその行動を選べなかった。
63 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2022/12/29(木) 19:50:20.22 ID:SXxF06Gi0
 「やらない後悔よりやる後悔。謝られて嫌な気分する人なんていない。さ、レッツアポロジャイズ!」

 僕の重い腰を無理矢理押し上げるようにして、斎藤さんは軽い調子で僕を鼓舞しようとしてくれた。
 だがいつまで経っても思い迷って椅子から退こうとしない僕を前にして、彼女は珍しく真剣な表情を作った。

 「…あのさ、その子に嫌なことしちゃって、それで会えなくなっても、少年はこうやって植物のこと知ろうとしてるわけでしょ?ってことはさ、少なくとも少年は、まだその子と仲良くしたいって思ってるんだよね?」

 お姉さんに核心を突かれて、僕ははっと気が付かされた。
 彼女が言ったことは、何もかもがその通りであった。鈴音を傷付けて一緒に遊べなくなった今、それでも僕がなんとなく図書館に足を運び、自然に関する知識を追い求め続けた理由なんて、それ以外に有り得ないではないか。
 僕が素直に頷くと、お姉さんは諭すように続けた。

 「じゃあ、やっぱり早く仲直りした方が良いよ。ここで頑張んなきゃ一生このままだよ?少年はそれで良いの?」

 もう二度と鈴音とは遊べない。僕は彼女と笑い合うことが出来ない。
 そんな光景がふと脳裏に浮かび上がった。一瞬の沈黙の後に、僕はお姉さんに決意表明をした。

 「…分かりました。ちゃんと謝りに行きます」
64 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2022/12/29(木) 19:53:25.55 ID:SXxF06Gi0
 「えらい!良くぞそう言った少年!折角ならさ、お花屋さんで手向けの花用意してあげれば?植物好きの子なら絶対喜んでくれると思うよ!」

 親指を立てて叱咤激励してくれるお姉さんの良さげな案を採用することにした僕は、すぐさま下準備を始めることに決めた。
 思い立ったが吉日というやつだ。本を借りるのはまたの機会にすることにして、まずは自宅へと舞い戻ろうと思った。
 
 僕が駆け足でその場を去ろうとすると、「頑張りなさいよ、少年」と斎藤さんは手を振ってくれた。

 振り返った僕は元気よくお礼の言葉を述べ、急いで踵を返した。
 
 この一カ月の間、僕の心身を蝕んでいた暗澹は、爽やかな秋空に吸い込まれていった。
65 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2022/12/29(木) 21:24:31.70 ID:SXxF06Gi0
 間もなく家に帰ってきた僕は、手を洗うこともなく二階の自室へ駆け込み、机の上にあった銀の缶を迷うことなくひっくり返した。
 その小さな貯金箱に入っていたなけなしのお小遣いを握り締めると、その足で花屋へと急行した。そこで仲直りに相応しい花を一つ購入した。
 
 心も身体も、今すぐに鈴音の元へと駆けていくつもりだった。
 しかし、その頃にはもう世界は赤焼けに包まれていた。
 今日は時間がないことを悟った僕は、明日こそは、と意気込みながら帰路を辿った。気持ちの逸る自分を落ち着けられず、その夜は上手く寝付けなかった。
 
 翌日、僕が重い瞼を擦って目を覚ますと、まずは肌寒さが皮膚を襲った。その時点で、限りなく嫌な予感がしていた。続いて耳が痛くなるほどの轟音を聞き取り、僕は寝床から飛び起きた。
 慌てて身を乗り出した窓の外には、深い曇天に包まれた街並みが広がっていた。
 幾層にも重なった暗雲からは大粒の雨が激しく降り注ぐばかりでなく、ごうごうとおどろしい音を立てながら横風を吹き荒れさせている。外に見える木々が暗がりの中で横に揺られたと思ったら、自宅が軋み音を立てて悲鳴を上げた。
66 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2022/12/29(木) 21:29:09.09 ID:SXxF06Gi0
 これは山に向かえるような日ではない。鈴音に謝りに行くのはまた明日にしようか。
 
 最悪の気象状況を前に、僕はすぐさま合理的な判断を下した。
 
 が、そこでふと立ち止まる。僕は脳裏に過らせてしまったのだ。
 
 この一カ月もの間、心の中で何かしらの言い訳を重ねてはごめんなさいが出来なかったような愚者が行動を先送りにしたのならば、果たしてそれは実現されるのだろうか、と。
 
 自分のことは自分が一番解っている。答えは自明の理であった。
 明日の僕に託すことを数十回と繰り返してきたのが今日の僕だ。こうしてまた都合の良い理由に縋り付いていては、きっと明日の僕は今日の僕になって、また実現不能な明日の僕を思い描くのだろう。
 
 僕はいつまでこんなことを続けるつもりなんだ。もうそんなことを繰り返している暇はないぞ。せっかく花も買ったんだ。花弁が落ちないうちに渡した方が、鈴音がもう一度屈託のない笑顔を零してくれる可能性だって高くなるに決まっている。だから今日に行け。今すぐ山に向かえ。
 
 言い聞かせるように自分を駆り立てた僕は、直ちに朝の準備に取り掛かった。
 もし母さんが家に居たなら、強風と大雨の中外へ繰り出そうとする僕を引き留めたことだろう。
 だが運が良かったのか悪かったのか、今日の母さんは朝早くから仕事に出ていた。
 作り置きのおにぎりで朝食を済ませ、手早く合羽を身に付け仲直りの印を携えると、僕は意を決して玄関を出た。
67 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2022/12/29(木) 21:35:23.54 ID:SXxF06Gi0
 正面から吹き乱れるあからしま風が、合羽に覆われている頭をいとも簡単に露出させた。
 風に呷られ身体を浮かされないよう、姿勢を低くして一歩ずつ足を進める。単なる住宅路を歩いているだけだというのに、自転車で向かい風に突っ込む以上に体力を消耗させられた。
 
 豪雨に身体を晒しながら田圃のあぜ道に辿り着くも、ここに来るまでに傘どころか人一人として見ることはなかった。
 どんよりと暗い空も相俟って、さながらゴーストタウンにやって来たかのようだった。
 
 用水路の水流が荒くうねっている横を突き進んでいくと、やっとのことで森の入り口が伺えた。薄暗い木々の住処に立ち入れば、気休め程度には雨風がましになった。
 
 それでも時間が経過するごとに暴風が狂風に、豪雨が一段と凄まじく大地を叩き付け、僕は徐々に疲労を蓄積させていった。
 季節のせいもあって冷雨が身体を打ち付けていたことや、風に吹き飛ばされないよう木々の枝にしがみ付いたりしたことも影響していたのだとは思う。
 髪はシャワーを浴びたようにびしょ濡れになって、身体はもう芯まで冷え切っていた。加えて指先の感覚が分からなくなり始めた。
68 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2022/12/29(木) 21:37:25.47 ID:SXxF06Gi0
 軽く息を切らしながら、僕は現在地点を確かめるよう周囲を見渡す。
 目的のシンボルツリーに向かうには、ここからどう動けば良いのかを再確認したわけだ。
 
 しかし、僕はその場から一歩も足を動かすことができなかった。
 最近この辺を歩いていなかったからだろう。季節が転じて森の様子も変化したのか、僕にはここが何処なのかいまいち判然としなかった。
 
 だがこの場で立ち止まり続ける訳にもいかない。身体を動かすことをやめてしまえば、気温と雨風にやられた身体が震えてしまう。
 僕は感覚に頼って前進を再開した。
 
 糸のように細かい雨が周囲に霧を作り出していた。日光の代わりに雨粒が注ぎ込まれる薄暗い木々の密集地帯は、一転して僕に陰鬱な印象を与えた。
69 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2022/12/29(木) 21:41:23.19 ID:SXxF06Gi0
 こんな状況で山に迷い込んだというのに、不思議と恐怖心は芽生えなかった。
 
 今の僕には目指す場所と目的があるからこそ、余計なことに頭を使わなくて良かったからなのかもしれない。いや寧ろ、今さら後ろを振り返っても深い森を出られる気がしなくて、無理にでも他のことから目を逸らしていたとも言えるだろう。

 一旦孤独と恐怖を認識してしまえば、もう正常な判断を下せる気がしなかったのだ。
 とは言え、引き返すという道を選べなかった時点で、まともな思考が出来ていたどうかは怪しいものだろうが。

 絶え間なく降り落ちる雨水は、次第に合羽の隙間から内側へと染み込んでいった。
 靴の中までもが冷水で浸食され、身体から熱量という熱量が奪われていく。徐々に震え出した身体は、やがて小刻みに揺れ始めた。雨に打たれて身体が重くなり、唇が色を失いつつあった。
 
 それでも前へ前へと突き進み続け、だがシンボルツリーの蜃気楼さえ浮かんでこない。
 見覚えのある山道を歩いているはずなのに、暴雨の世界では映るもの何もかもが違って見えた。
 
 激しい雨水に穿たれた斜面には、所々で古い石段のようなものが露出していた。
 嵐で幹を傾かせている木々の中で、頑強にも真っすぐ伸び続ける大樹が一本視界の端で捉えられた。ようやく着いたのかと思って右手に視線を移すと、それは途中でポッキリと折れてしまっている禿げた木の円柱だった。
70 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2022/12/29(木) 21:46:37.14 ID:SXxF06Gi0
 感覚的にはもう目の前に大樹が見えるはずなのに、一向にその姿は伺えない。いつまで経っても同じ場所を歩き続けているような気がしてならなかったが、僕は低回するように右往左往するしかなかった。

 そうこうしているうちに暗雲の立ち込める空は一層の悪天候に見舞われた。
 ときおり鼓膜を破壊するような白の嘶きが不気味に辺りを照らすようになり、雨音の中には帰れ帰れと世界が僕を拒む声が聞こえた気がした。
 
 だとしても、僕は撤退の二文字を選ぶことは出来なかった。最早何かに導かれるようにして、ひたすらに突き進み続けることを選択した。
 
 下風に足元を掬われないよう大地を踏みしめる。森の遥か先に視点を固定させ、シンボルツリーを探し求め続ける。少しずつ少しずつ、だが確実に一歩前進を繰り返す。
 霧のような豪雨で視界不良の中、僕は懸命に視線を左右へと動かし、遠くを眺めていた。
 
 結論から言えば、それがいけなかったのだろう。
 
 一際強い逆風が吹き込み、僕は押し返されないよう両足で踏ん張った。幾ばくか風が弱くなったところで、右足を大きく前に出した。それから右足に力を込めて、今度は左足を蹴り上げるように前へ持ってくる。
 
 その幾度も繰り返した作業に不意の異変が生じた。
71 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2022/12/29(木) 21:52:37.73 ID:SXxF06Gi0
 どれだけ右足に重心を寄せても、どういう訳か大地の感覚が掴めなかった。
 おかしいな、と何気なく視線を下に向けたところで、目には衝撃的な光景が飛び込んできた。
 
 僕の右足は宙に浮かんでいた。大地が続くと思われていたその場所には、地滑りが起きたような空間が広がっていたのだ。
 
 全身の毛穴という毛穴が広がるように、背筋にはゾッと悪寒が走った。あっと気が付き身体を引っ込めようとするも、もう全てが手遅れだった。既に身体は前のめりになってしまっていた。
 
 死に物狂いで崖上へと手を伸ばす。微かに片指が崖先に届いた。
 が、その程度で全体重を支えられる訳もなく崖先の突起から左手が剥がれ落ちた。重苦しい重力は僕を掴んで離さなかった。
 
 今度こそ宙に投げ出されて、僕は元居た場所を見上げる形で仰向けになった。
 
 頭の中は真っ白だった。情けない悲鳴を上げることすらできずに、僕は崖地から身を投げる嵌めになったのだ。
 受け身を取ることもままならない。自分の身に起きたことを脳が上手く処理できなくて、僕は身を藻掻かせることさえ忘れていた。
 
 放心状態で自由落下に身を任せていると、突然、背中を突き破るような衝撃が身体中を貫いた。それは金属バットで脛を叩き割られたように凄まじい威力だった。
 視界が暗転と明転をせわしなく繰り返す。そのまま二転、三転と跳ねるように崖地とぶつかり合いながら、やがて僕は投げ捨てられたように崖下に倒れ込んだ。
72 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2022/12/29(木) 21:56:38.86 ID:SXxF06Gi0
 長い間、辺りは静まり返っていた。
 
 僕はうつ伏せの状態で地にへたり込み、体中の機能が停止したかのように肉体はピクリとも動かなかった。音という音を掻き消すような大雨に打ちのめされ、身体は増々冷えていった。
 そのせいか、興奮状態で麻痺していた感覚も元に戻り始め、段々と身体の至る所に鈍い衝撃や鋭い激痛が襲い来た。
 
 掛け値無しに、それは顔面が渦を巻いて歪むほどに酷い苦しみだった。言葉にならない呻き声が喉奥から漏れ出し、余りの辛さに無意識に身を捩れば、それが無理に動かした身体の痛みを増長させた。僕は悪循環の中で獣のような呻き声を上げていた。
 
 だけど、その状態がしばらく続いてしまうと、次第に身体に起こった異常事態がどうでも良くなっていった。
 熱を帯びた傷口に死神の吐息が纏わりつく。呼吸が遠のくように深くなっていく。なんだか身体がやけに軽いというか、まるで空に浮かんでいるような心地良い気分だとさえ思えた。
73 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2022/12/29(木) 21:59:33.92 ID:SXxF06Gi0
 ぼんやりと霞む視界の先には、薄暗い緑が映え広がっていた。突然片目が鮮やかな赤に覆われて、でもそれを拭う力さえ僕は振り絞れなかった。
 
 朦朧とする身体に反して、意識は異常なほどに鋭敏であった。
 だから、今の僕の身体に何が起きて、これがどういう状況なのかはなんとなく理解出来てしまった。
 
 まぁ、誰かを傷付けるような人間にはお似合いの末路だろう、と僕はこの理不尽を不思議と受け入れてしまう。
 色々とやり残したことはあるけれど、一番に思い浮かぶのはやっぱり、鈴音と仲直り出来ず仕舞いになってしまうことだろうか。でもこの結果は因果応報なのだから、致し方がないことだ。それに、あれから一カ月も経ったのだから、きっと鈴音は僕のことなんて忘れて日常に戻っていることだろう。
 
 このまま誰も居ない場所で、雨粒と共に大地に染み込んでしまえばいい。

 僕は投げやりな気持ちで自ら全身の力を抜き、自然な流れで重い瞼をゆっくりと閉ざした。
74 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2022/12/29(木) 22:02:57.54 ID:SXxF06Gi0
 胸の奥で大事に抱え込んだもの全てを手放そうとして、その時、何かが駆け寄って来るような音が聞こえた気がした。
 
 なんだろう、と思って瞼を薄く持ち上げると、二重にも三重にも重なった輪郭の覚束ない君の姿が見えた。

 「なんで…なんでこんな嵐の中…」

 そんな君は今にも泣き出してしまいそうな程に表情を歪ませていて、繰り出した言葉は酷く取り乱したように震えていた。
 
 君が動揺するなんてらしくないな、とひとごとのように思いつつも、結局僕は最後まで君を笑顔にしてやれないんだな、とどう足掻いても僕は僕が大嫌いになった。
 
 きっと、目の前にいる君は幻なのだろう。僕の未練が形となって現れただけなのだろう。
 だとしても、もう身体は動かないけれど、心は君に伝えたがっていた。ちゃんと言葉にしておかないと死んでも死にきれないように思えた。
 だから僕は残る力を振り絞って、微かに唇を震わせたのだ。

 「……ごめん、鈴音…嫌なこと、たくさん、言って…」

 「……ずっと…ずっと謝れ、なかったけど……僕はやっぱり、鈴音と一緒に居たくて…うん、許してくれないかもしれないけど、ごめん…」

 僕はちゃんと伝えきれただろうか。徐々に鈴音の姿が霞んで、突然真っ暗が訪れた。それは黒よりも深くて、行方の見えない深淵であった。
 たぶん僕は、これからずっとこの場所に縛り付けられるのだろうな、と思った。
 
 そんな中、身体は何か温かいものに包まれた感覚があった。
 想像していたものよりもずっと気持ちの良い余韻を残しながら、僕はとうとう残る意識を手放した。
75 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2022/12/29(木) 22:28:49.88 ID:SXxF06Gi0
 

 初めに僕を促したのは、腹の底に響くような恐ろし気な拍子でもなければ、数多の業を煮詰めた暗赤色の光線でもなかった。
 何処からか間延びした小鳥の囀りが飛んできて、ゆったりとした光が閉じた目に注ぎ込まれている。そんな呑気な環境だった。
 
 地獄行きのはずの僕が、何かの手違いで天国に迷い込んでしまったのだろうか。
 目を閉ざしたまま、僕はそんな疑問を抱いていた。
 
 頭は何か柔らかいものに乗せられていて、僕はもう身体を一歩も動かしたくない気分だった。
 動かせるけど動かさないで、ずっとこの心地良さに浸っていたいような、そんな感じだ。
 
 なんてことを考えて気が付いた。今の僕には、『動かせなかった筈の身体が動かせるようになっている』という事実に。
 
 信じられない事態に目を見開くと、「あっ」と可憐な声がすぐ近くで響いた。
 視界の遥か先には透き通るような青空と白い雲が浮かんでいて、その少し手前には青々とした大樹がそよ風に揺られていた。そこには天地がひっくり返ったように穏やかな天候が何処までも広がっていたのだ。
76 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2022/12/29(木) 22:33:02.46 ID:SXxF06Gi0
 がしかし、そんなことはどうでも良かった。
 空、樹と遠くから順番に焦点を当てて、最後に一番手前に映るものへ視線を移す。
 丸い瞳に反射する僕は間抜けな表情で瞬きを繰り返していて、そんな僕を見つめる君は面白そうに桜色の唇を引いていた。

 「おはよう、千風くん」

 屈託のない笑顔で挨拶を交わされ、僕は未だ狐につままれたままであった。
 一度身体を起そうとすると、僕のおでこに彼女の人差し指が添えられた。僕はそのまま頭を押し返されて、結局彼女の膝の上から起き上がることは許されなかった。

 「えっと、これは一体どういう状況なんだ…?」

 ようやく頭が追い付いてきたところで、僕は彼女を見上げながらそう訊ねた。

 君は一度僕から目を逸らし、遠くを眺めて考える素振りを見せた。すぐに視線を戻すと、彼女は微笑みながら「さぁ〜?」といつもの調子で言った。
 
 君の大きな両目が余すことなく僕を捉えていて、僕もまた君で視界の大部分を覆っている。
 こうして君の笑顔を至近距離で眺めていると、なんだか妙にむずかゆい心地に陥った。自然と僕の視界はその他の部分に移動してしまった。
77 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2022/12/29(木) 22:39:31.22 ID:SXxF06Gi0
 このままで居ると、彼女から発せられる見えない何かが胸奥に溶け込んでくる気がした。だから僕は転がるように彼女の元から脱出したのだ。

 そうして実際に身体を動かして気が付いた。上半身に纏わりついているナイロンのボロ切れが、合羽の無惨ななれ果てであることに。

 数秒合羽を凝視して、再び僕は考え込んだ。果たしてどこからどこまでが現実で、どの部分が夢であったのだろうか、と。
 
 少なくとも合羽を着ている以上、僕は無謀にもあの大嵐を突っ切って山にやって来たことまでは確信を持てる。
 がしかし、その後のことには些か自信がなかった。濃霧に包まれたようにそれ以降の記憶が曖昧で、引き出せる記憶の断片のどれもが非現実的でしかなかったからだ。
 
 でも今は記憶を探ること以上に、為さなければならないことがあった。僕が苦労して森を突き進み、ここにやって来た理由を果たさねばならないのだ。
 夢の中で予行練習をしたお陰なのか、一カ月も言葉に出来なかったこの気持ちは驚くほどにすんなりと喉から繰り出された。

 「…鈴音。その、この前は酷いこと言って、ごめん。ずっと謝りたいと思ってた」

 大樹の下で横座りしていた君は足を解すようにゆったりと立ち上がると、人懐っこい笑顔で呆気なくこう言った。

 「いいよー、そんなことぐらい。全然気にしてないもん」
78 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2022/12/29(木) 22:43:16.68 ID:SXxF06Gi0
 誇張でも捏造でもなんでもなくて、本当になんとも思ってなさそうに思える鈴音を前に、「じゃあ、仲直りってことで良いのか?」と僕は念押しするように確かめた。

 君は間を置くこともなく「うん!これからも一緒にいよーね!」と快活な様子で応えた。
 
 時間が掛かり過ぎたとも言えるが、これでようやく鈴音とのひび割れた関係を修復できたのだろう。ホッと胸を撫で下ろしたのも束の間、僕はもう一つやらねばならぬことを思い出した。
 
 確か、雨風にやられないようシャツの胸ポケットに仕舞っておいたはずだ。僕はレインコートの中に手を伸ばして、鈴音の為に用意していた贈り物を取り出したつもりだった。
 
 しかし僕の手に握られていたものは、昨日購入した可憐な花ではなかった。やけに軽いそれの正体は、千切れた茎の部分だけであったのだ。
 山を彷徨っているうちに花の上半分を失ってしまったのだろうか。僕は呆然と己の手の内を眺めていた。
 一方鈴音は僕の取り出した茎をジッと見つめていた。

 「蔦葉天竺葵」

 「え?」

 突として鈴音が呪文のような早口言葉を呟き、僕は素の調子で聞き返した。
 彼女は意を汲み取ったように、今度はゆっくりとその口を動かした。

 「つたばてんじくあおい。その花の名前だよ?知らなかったの?」

 「うん。花屋のおじさんに選んでもらったから」

 あの美しい花にそんな複雑な名前が付いているとは想像も出来なかった。

 「茎だけでも花の種類が分かるなんて流石だな」と僕は感心して褒め称えた。

 「そんなことないよー」と彼女は満更じゃなさそうな返事をした。
79 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2022/12/29(木) 22:47:07.90 ID:SXxF06Gi0
 「天竺って言うと、あの西遊記の?」

 「そうそう。三蔵法師や孫悟空なんかが出てくるお話だよ。あれすごいよね〜」

 なんだかんだ一カ月以上も植物に関する見聞を広げてきたはずなのだが、この花に関連した内容はさっぱりであった。なので花名に関連した単語から会話を繋げてみると、これは当たりを引いたらしい。彼女は嬉々と僕の話に応じた。
 
 鈴音はこの手の話も好きなのか、と頭の中で彼女の趣向を把握しつつも、仲直りの証という意味で、僕は緑の茎だけとなった花を差し出した。
 暫しそれを眺めていた彼女は、明るい笑顔を振りまきながら言った。

 「ん〜…私、今は受け取りたくない気分かなぁ〜」

 予想外であった。
 いや確かに、花の魅力の大部分を占めているであろう花弁が失われている以上、贈り物としての価値もまた消失したと言っても過言ではないのかもしれない。だが鈴音も形としては受け取ってくれるだろうと、断られるとまでは夢にも思っていなかったのだ。
 
 何が衝撃的だったのかが自分でもよく分からないまま、僕は棒立ち状態を強要された。
 彼女は心配そうに一歩こちらに近づき、首を軽く傾げた。
80 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2022/12/29(木) 22:49:46.08 ID:SXxF06Gi0
 「…どうしたの?もしかして、まだどこか痛かったりする?」

 「…いや、ただ、ちょっと胸が」

 そんなにも不安そうに眺められては、僕も取り繕うことができなかった。隠すべき本音を少し洩らしてしまうと、鈴音はもう一歩こちらに寄ってきた。

 「胸?」

 「あぁ。一応、この花を買うためにお小遣い叩いたからさ、ちょっとばかしショックというか──」

 その小さな指で胸元を指差され、僕はおどけた調子で強がりの鍍金を張ろうとした、瞬間だった。僕の身体が引力に攫われ、時の流れが感じられなくなったのは。
 
 突然僕の身体はぎゅっと柔らかい肌に包み込まれて、背中には温かい君の手のひらを感じ取った。真っ白な首元に艶のある黒髪が目と鼻の先にあって、君の優しい香りが鼻孔いっぱいに広がった。ほとんど理解が及んでいない状態で、耳裏に君の声が響いた。
81 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2022/12/29(木) 22:54:56.43 ID:SXxF06Gi0
 「えっとね、それは分かってるよ。仲直りは仲直り。でも、なんて言うのかな。上手く言葉に出来ないんだ」

 すぐ側で耳に残るような囁きが伝わって、途端に僕の胸は強く締め付けられた。
 それは鈴音を傷付けてしまった時に味わった壊滅的なものではなく、きゅうと痺れるような感覚であった。
 
 周りからは酸素が根こそぎ奪われたみたいで、だけど君のしゃぼん玉みたいな匂いだけがその場に溢れ返っている。
 酷く甘い息苦しさを覚えながら、僕は君という透明なベールに覆われていた。
 
 「どう?もう胸は痛くない?」

 滑らかな声が肉体を突き抜け、危うく魂が掴まれそうになる。徐々に全身の中へ何かが浸透していくのを肌で感じ取り、いつしかその正体不明の存在が、僕自身の形を余さず変えてしまうような不安心を覚えさせられた。
 
 ここには長居してはいけない、といつもの如く頭の中は危険信号を発していた。そしてこれまでもそうしてきたように、僕はその場から脱するべきであった。
 
 でも君に包まれていると、伝播する温もりと共にだんだんとそんな淡い不安の色さえもが塗り替えられていった。
 そのうちに僕は、もうこの甘美なる芳香に逆らう気も起きなくなってしまった。鈴音に言葉を返すこともなく身体を脱力させ、鼻孔を蕩かしながらただただ抱擁され続けていた。
 
 心の隅の方でまずいと思っているうちに、手足の先からじわじわと不思議な心地がせり上がっていった。
 やがてそれは溢れるほどの勢いで頭と心の中枢にまで行き届いた。
 
 その瞬間、一秒を引き延ばして十秒を作り出す世界が訪れた。
 音も匂いも、周囲の景色さえも覚束ない。だけど君の姿だけは鮮明に捉えられた。瞬きを忘れて魅入る先では、鈴音が眩しくて見ていられないほどの煌めく笑顔を零していた。
 君から目が離せなくなった僕は、息継ぎすることすら出来ずに、ひたすら君という海に溺れていった。
 
 
 握り締めていたはずの折れ花は、いつしか大地に音を奏でた。
82 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2022/12/29(木) 23:29:53.54 ID:SXxF06Gi0
 ♦♦♦


 何度思い返そうとも、その日、僕の世界には大革命が生じ、君があらゆる物事の中心になったことに疑いはない。
 鈴音が右だと指差せばそこが右となり、彼女が夜だと唱えれば空は黒く染まって、天に丸い月が昇るようになったのだ。
 僕のすることなすこと全てに彼女の存在が関連付けられるようになったし、僕の生きる世界は君がいて初めて成り立つものになった。
 
 つまるところ、当時僕が築き上げようとした要塞はあっさりと陥落してしまったというわけだ。
 
 気だるげなブレーキ音と共に、列車が大きく左右に揺れ動いた。
 どうやら目的地に着いたらしい。回想を一時中断し、僕は列車が停止するのを待った。
 いつも通り、終点で降りるのは僕だけのようだ。足音を響かせながら廃れたプラットフォームを通り抜け、無人の改札窓口に切符を捨て置いた。
 
 古臭い駅を出て、はたと足を止める。降り注ぐ日差しを遮るように手をかざし、頭上を仰ぐ。
 そこには青天井の大空が広がっていた。白雲は上下に大きくたなびき、その中で自己主張の激しい太陽が輝いている。
 強烈な陽光によって、剥き出しの皮膚は焼きつくような痛みを覚える。微かな風が立ったと思えば、籠った熱気が身体を包み込んだ。懐かしい炎天下の匂いだ。
 
 閑古鳥さえ寄り付かない駅前を歩み、近くのバス停の時刻表を確認する。どうやら十分ほど前に先発が行ってしまったようで、今からだと三十分待ちらしい。
 
 まぁ、待つことには随分と慣れてしまった。それぐらいは許容範囲だ。
 
 気長に次のバスを待つことにした僕は、ゆったりと錆びたベンチに腰を下ろした。
 何処からか締まりのない蝉の声が聞こえていた。夏らしい夏に放り込まれたせいか、頭の中では風鈴の調べがちらついてやまない。その爽やかな音に導かれるように、僕はまた頭を空っぽにするのだ。
 
 在りし日の追憶は続く。
83 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2022/12/30(金) 21:40:23.70 ID:3+1GuYNt0
 ♦♦♦


 あの日を契機として、僕らは再び時を共にするようになった。
 一年でも数少ない快適な気候の中、どんぐり拾いに繰り出す日もあれば、遠目に鹿の親子を見守る日もあった。秋風に揺られ、赤く燃える葉や黄に輝く葉が舞い散る森を駆け回る日もあったし、約束通り、幾色にも染まった帳の世界に見惚れる日もあった。
 それは季節に似合った穏やかな日々だった。
 
 そうこう毎日を過ごしていくうちに、木々の隙間を縫うような木枯らしが吹き抜けるようになった。
 首を垂れる黄金の稲穂は綺麗さっぱり刈り取られ、美しかったあぜ道には殺風景な土色だけが広がるようになった。
 色彩に富んだ紅葉樹も、山香ばしを除いてすっかり葉を落としてしまった。
 
 二度目の季節の移ろいを前にして、馴染みの図書館から借り出した蔵書を片手に、僕は今日も今日とて山に入り浸っている。
 こちらもすっかり慣れた道になってしまっていて、僕はすぐにシンボルツリーに辿り着いた。
 
 周囲の木々が剝げ始めたからこそ、常緑樹であるシンボルツリーは一層の存在感を放っている。近くには赤黄色の落ち葉や既に褐色化した枯れ葉が散り積もっており、その下には地面に張り付いたナズナの緑が見え隠れしていた。
 三色に彩られた大地はさながら錦の絨毯のようであった。
 
 紅葉が最後の輝きを放っている世界で、巨木の大きな幹に寄りかかっている君は、僕の姿を見つけるや否や大きく手を振ってくれた。
 それだけで僅かに血の巡りが速まり、僕は飛ぶように彼女の傍に駆け寄った。
84 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2022/12/30(金) 21:43:42.39 ID:3+1GuYNt0
 「そう言えば、今回は千風くんの番だったよね」

 鈴音は思い出したようにそう言うと、その場に腰を下ろした。同じように僕も大樹に身を預け、足を台替わりにして本を用意した。

 「今日はなんのお話なの?」

 「これは司書さんにお勧めされたんだ本なんだけど…」

 僕の持ち寄った本が気になるのか、隣に座る鈴音はこちらに身体を傾けた。
 黒髪が僅かに揺れると、君の柔らかな匂いがこちらに流れ込んだ。そしてその度に僕の心臓は早鐘を打つのだ。
 
 言わずもがなではあるが、それは変化のほんの一部分に過ぎない。
 たとえばあれ以来、僕は長いあいだ君と瞳を合わせることが出来なくなった。一瞬間目が合う程度なら問題ないのだが、その状態が続くと胸の奥がこそばゆくて仕方がなくなるのだ。
 
 しかし、いつまでもそんな調子ではいられない。冷たい空気を熱の籠った身体に吸い込み、僕は平静を取り戻した。

 「今日はエロスとプシュケの話…ギリシャ神話だな」
85 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2022/12/30(金) 21:46:53.50 ID:3+1GuYNt0
 気を取り直して古臭い表紙を見せてやると、「あ〜、あの二人のことかー!」と彼女は得心したように声をあげた。
 
 「これも知ってるのか?」僕は驚き声で尋ね返した。

 「前も言ったでしょ?私は全部覚えてるって」鈴音は堂々と答えた。
 
 なんと本人が言うには、彼女は御伽噺の全てをその頭の中にインプットしているらしい。
 さてそれが真実かどうかは定かではないが、彼女が僕にその手の話を語るときは、確かに本を持って来ずに、自分の言葉で話し始めるのだ。
 
 鈴音の方が内容を把握しているなら、このように隣り合わせに座り、これからわざわざ二人で文章をなぞる必要もないのかもしれない。
 だけど、こうやって二人で息を合わせて黙読をすることは、仲直りを境とした僕らの日常の新たな一コマに加わっていた。
 
 鈴音がこういう御伽噺にも精通していることを知って以来、僕らはこうして大樹の下で並んで座っては、数日に一度はそれぞれの持ち寄ったお話を語らうようになった。
 僕が本に触れる習慣を身に付けられたのは、間違いなく隣で熱心に文字を追っている君のお陰なのだろう。
 差し詰め、僕にも読書の秋がやって来たとでも言えばよいだろうか。もっとも、もうそろそろ秋も終わりが近しいし、季節が変わろうともこの時間は続いていくのだろうが。
86 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2022/12/30(金) 21:49:39.74 ID:3+1GuYNt0
 「愛と疑いは一緒にいられない」

 最終頁を見届けると同時に、嘆息の混じった淡い声が聞こえた。ふと横に首を向けると、彼女は薄い青の秋空の先を眺めていた。

 「千風くんはさ、どう思うかな?」
 
 数拍の間を置いてから、鈴音は僕に問い掛けた。
 『愛と疑いは一緒にいられない』それはエロスとプシュケの物語の一節に出てくる格言のようなものだ。
 
 エロスとプシュケについて大雑把な説明をすると、プシュケと呼ばれる絶世の美女と、彼女を愛したエロスという神が、様々な苦難を乗り越え最後には幸せに至るという物語である。
 
 格言が出てくる場面に焦点を当てると、人間と神が結ばれるには、人は決して神の姿を見てはいけないというルールが存在していて、そのためエロスはプシュケに姿を見せないように生活していた。
 しかし、プシュケは夫であるエロスが人食いの怪物なのでは、という疑心を捨てられず、とうとうエロスの姿を目視してしまった。言いつけを守ってくれなかったプシュケに対して、エロスはその言葉を残し、去ってしまった。大体こんな感じだろう。
 
 内容を追っている間は気にも留めなかったが、なるほど、言われてみれば深い意味の籠った言葉なのかもしれない。
 僕はたっぷり熟考した末に、彼女を見やりながら答えを出した。

 「愛と疑いは共存できる。僕はそう思う」
87 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2022/12/30(金) 21:51:53.16 ID:3+1GuYNt0
 鈴音は目配せで続きを促した。言い切った僕は、なんだか先生に発表しているような緊張感で解答に理由を付した。

 「例えば、愛している人がいたとして、その人に一滴の疑いも向けないなんてことがあったら、それはもう盲目の愛情じゃないか?相手を疑う気持ちが芽生えて、それが胸中を渦巻いたとしても、相手を愛することは出来ると思うんだ。だから愛と疑いっていう気持ちは、必ずどっちか一つしか選べないものなんかじゃなくて…えっと…」

 「一方を立てると他方が立たないものじゃないってことだね」

 頭の中に思い浮かべるイメージを言語化しようとして、でも話しているうちにどんどんこんがらがって言葉を纏められなくなっていると、彼女はくすっと笑いながら上手い言い回しを与えてくれた。
 解答に三角を付けられた僕は、「はい、そうです」と畏まった返事をしてしまった。

 「鈴音はどう思ってるんだ?」

 「私はね、愛と疑いは一緒にいられないと思うよ」

 代わり番こに訊ね返せば、鈴音は僕と真逆の答えを呈示した。同じように視線を送ると、彼女はすらすらと言った。

 「だってさ、どれだけ愛してる人がいてもね、その人に疑いを抱かせるようなことをしたら、或いは疑心の念を抱かせたままにしていたら、きっと相手は愛してなんかいられなくなる。その人の愛は疑いに塗り潰され、そうでなくとも疑いが勝るだろうからさ。私にとって愛と疑いは相反するものだと思うの」
88 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2022/12/30(金) 21:54:26.08 ID:3+1GuYNt0
 鈴音は確固たる様子でキッパリとそう主張した。そこには水と油の如き僕と君との決定的な価値観の差異が現れているように思えた。
 
 愛情が別の形に歪められてしまう。
 彼女の語ったその言葉は、僕にとってはどこかもの寂しいものに思えた。それでも出来るだけ鈴音の思考回路に基づく為に僕が懸命に頭を捻らせていると、「それにね」と彼女は続けた。

 「『信じることは見ること』って言葉もその本には書かれてたでしょ?それってさ、信じることが前提になってるよね。疑っていたら信じれないのはもちろんだけど、そもそも愛と信頼は表裏一体だと思わない?」

 「それはそう思う。信じられなきゃ愛することは出来ない。…って、これじゃ鈴音の解釈の方が正しいってことなのか」

 信頼と愛は強固に繋がっている。彼女の問い掛けに対して、僕は迷うことなく同調した。
 そして思ったのだ。物語上では『愛と疑いは一緒にいられない』とエロスに言われてしまった当の本人であるプシュケこそが、最終的には『信じることは見ること』であると語るようになった。となると、回り回って疑いと愛もまた相容れないものなのではないだろうか、と。
 
 君の完璧な推論にはぐうの音も出ず、僕は両手を上げて降参した。

 「あ、別に言い負かしたかったわけじゃないよ。千風くんの考え方だって素敵だし、それぞれ思うことなんて千差万別なんだから」

 気を落とした僕を気に掛けてくれたのか、鈴音は僕の肩を持つように微笑んでくれた。
 ささやかな同情を噛み締めた僕は「読んでて一つ疑問に思ったんだけど」と話を続けた。
89 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2022/12/30(金) 21:58:14.62 ID:3+1GuYNt0
 「『信じることは見ること』じゃなくて、『見ることは信じること』じゃないのか?ことわざだってそうだろ?」

 『見ることは信じること』これは確か英語圏のことわざを日本語訳したもので、『百聞は一見に如かず』と同じような意味を持っているものだったはずだ。夏休みの国語の課題を真面目に取り組んだことが功を奏したのか、僕はそんな言葉を覚えていた。
 尋ねられた鈴音は、一つも躊躇うことなく言った。

 「ううん、信じることは見ることなんだよ」

 目線で続きを欲すると、彼女は流暢に言葉を並べ始めた。

 「信じることで…つまりそう在ると考えることで、信じた世界が見えるようになる。これはね、イエスの奇跡によって盲目が解かれた人の話なんだけど、見えない状態でもイエスを信じたことで本当に見えるようになったって言う──」

 「あっ、ごめん。ちょっと難しい話だったね」

 饒舌に語り尽くそうとしていた彼女はこちらを眺め、しまった、と言わんばかりの様子で口元を抑えた。次いで苦笑いを浮かべると、申し訳なさげにそう付け加えた。
 その難解過ぎる問答を前に、思わず放心していた僕に気が付いたのだ。
 
 最初こそ鈴音の言わんとすることを噛み砕こうと必死になっていた僕も、いつの間にか限界を迎え、相槌を打つことさえ忘れてしまっていた。
 鈴音の蓄えた知識が放出されることを妨げてしまった僕は、代わりに彼女を称賛するべく口を動かした。
90 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2022/12/30(金) 22:01:07.04 ID:3+1GuYNt0
 「いや、構わない。…ほんと、鈴音はなんでもかんでも知ってるんだな。いつも僕の方が与えられてばかりだ」

 僕は誇張なしの褒め言葉を贈ってやった。
 対する鈴音の反応は、僕の望んだものとは大きくかけ離れていた。
 間違いなくあの満面の笑みが見られると思っていたのに、実際の彼女はというと、微妙な思案顔を浮かべた。

 「んー、そんなことないんだけどなぁ」

 別に、鈴音を褒め上げるために自分のことを下げたわけではない。僕は紛れもない本心でそう言ったつもりだったのだ。
 だが彼女曰く、そういう訳でもないらしい。

 「じゃあさ、僕は鈴音に何を与えられてるんだ?」

 僕の口がその形に動こうとしたその手前で鈴音は立ち上がると、お望み通りの無垢な微笑みを浮かべてくれた。

 「さ、日が暮れる前に駆けっこしに行こうよ!」

 今日も一番欲していたものを拝めて、僕の心は充分に満足を示していた。
 完璧にその笑顔に持っていかれた僕は、二の句を継ぐことなく、駆け出した君を追い掛けるように大樹の下を発った。
 
 見える世界が丸ごと変わって以来、僕は事ある毎に、君の一挙一動に振り回され続けていた。君の横顔に見惚れ、微笑みに脳を蕩けさせ、その声で名前を呼ばれれば心臓が大きく脈打った。
 そんな風に、僕は目の前に浮上した初めての感情にばかり没頭していたのだ。
 
 だからこそ、僕は最も注意を払わなければならないことに意識を向けられなかった。
 
 それをあえて言葉にするのならば、『愛と疑い』に関する僕と鈴音の価値観は、確かに食い違っているように見えたかもしれない。
 だけどもっと注意すべきことだったのは、僕らは『愛と疑い』に対するアプローチの方向性こそが、全くの真逆であったということだろう。
91 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2022/12/30(金) 22:26:06.24 ID:3+1GuYNt0
 ♦♦♦


 あれから更に月日は流れ、朝は布団から出られない時期がやって来た。
 窓には結露が生じ、空気は身を裂くように冷え込むようになった。多くの人はこの季節を、灯油ストーブで暖かくなった家の中で、更には炬燵に引き籠って過ごすべきものとして捉えているだろう。
 
 しかし僕はそうせず、当然ながら山へと足を運んでいた。
 僕は彼女と一緒に居られるだけで、その心に一足も二足も気の早い春が訪れるのだから。
 
 現状、僕の気持ちは三つ巴と呼ぶに相応しい状態だった。かつての僕が抱いた君に対する心の内は、友愛と敬愛、そして親愛の三強であって、心はそれ以外が立場を主張する隙間のないほどに三色で塗りたくられていた。
 
 だがあの一件を切っ掛けに、新たに四色目が頭角を現した。
 それが友愛と親愛のどちらが塗り替えてしまったのかは定かではないが、心が甘く踊るような気持ちが台頭したことは確かだ。
 今はまだそれぞれが均衡しているが、いつかその前線が破壊され、たったの一色に染まる日も近いのかもしれない。
 
 詰まる所、綻びが修復されたその日、解けた糸は別の形に結ばれてしまったのだ。
 もちろん、僕にとってはそれは天地が入れ替わるような大事件だったけれど、悲しいことにも鈴音にとっては何一つとして変化はなかったのだろうが。
92 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2022/12/30(金) 22:29:45.16 ID:3+1GuYNt0
 もしあんなことさえ起きなければ、僕はこうはならなかっただろうか。
 いや、彼女の傍に居続ければ、遅かれ早かれ似たような気持ちを抱かされていたのだろうな。
 
 以前は混じり気のない友情が先行していたからこそ、僕は君本人ではなく、彼女の持つ才気にばかり気を取られていた。
 しかし今となっては鈴音にこそ心惹かれ、好奇心を駆り立てられていることは言うまでもない。君のたわいない一言一句、そして何気ない身振り手振りの一つ一つに、今日も僕の世界は大きく揺さぶられている。
 
 こうして僕が自らの感情を再確認しているのは、そうすることで胸に抱くこの想いを身に深く染みさせ、より強固なものへと発展させること以上の意味があった。
 近頃僕の頭を悩ませているものが、この感情と大きく関係しているように思われたからだ。
 
 と言うのも、これはそうして彼女自身に意識を向けるようになって以来の話だ。
 いつからか僕は、鈴音に対して幾つかの不可思議な点を見つけ出していた。それは普通は見落としてしまいそうな極々細かな点であったが、それでも僕がそれらに気が付いてしまったのは、やはり鈴音に夢中になった僕の心境の変化ゆえなのだろう。

 であれば、件の七不思議とは一体なんなのか。
93 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2022/12/30(金) 22:33:00.29 ID:3+1GuYNt0
 「千風くーん?もう疲れちゃったの?」

 毎晩のように思い浮かべる疑問のあれこれを整理していると、数メートル先で枯れすすきをかき分ける鈴音が大きな声で呼び掛けてきた。
 
 「ちょっと考え事してただけだ。僕が歩き回るぐらいで疲れるわけないだろ?」

 僕が息巻いた言葉で応えると、彼女はペースを上げて森を突き進み始めた。
 僕の強がりを試すつもりなのだろうか。まぁ自分としても、最近は以前に増して虚勢を張りがちな傾向にあることは自覚しているのだけれど。
 
 話を戻そう。
 別に七つも見つけられたわけではないが、一つ目。まずは薄の群生地で藻掻く僕の姿に着目して欲しい。次いで一足早く抜け出した鈴音に目を向けてくれ。
 夏の過剰な熱線を浴びた僕はすっかり小麦色に焼けてしまったというのに、一方同じく時を過ごした彼女は、出会った時と変わらず透き通る乳白色のままである。視認出来ない純白のドレスでも纏っているのだろうか。
94 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2022/12/30(金) 22:35:45.13 ID:3+1GuYNt0
 次に二つ目、兎みたいに木々の茂る斜面を登り詰めていく彼女を、僕は大きく遅れて後ろから眺めることにしよう。
 
 こうして派手に動き回ろうとも汗を掻かない季節になって、僕も少しばかり髪を伸ばすようになった。
 対して彼女の滑らかな黒髪は、今日も鏡のように美しく木漏れ日を反射させているが、これまた夏の頃から一ミリも髪が伸びたように見えない。加えて、毛先までもが依然として綺麗に纏まっているのだ。
 
 とは言え、言ってしまえば上記の二つは前菜や副菜のようなものであり、主菜はこれから語る最後の一つこそである。
 何せこの二つは、それを実際に行うのが現実的であるかどうかは別として、何かしらの形で辻褄が合わないこともないのだ。
 
 例えば前者は、鈴音が毎日肌の手入れを行って日焼け止めを絶やさず塗ったとか、元々日焼けしにくい体質だとでも言えばいいし、後者に関しても、鈴音が毎晩髪型を維持する努力をしたとか、或いは家族に気の利く美容師がいるとでも言えばいいだろう。
 
 がしかし、最後の一つばかりは筋の通る理由を見つけられなかった。
95 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2022/12/30(金) 22:39:40.74 ID:3+1GuYNt0
 「おー、段々速くなってきてるね〜」

 軽々と斜面を登り切った彼女は、余裕綽々の表情でこちらを眺めていた。それに大分と遅れてゴールに辿り着いた僕は、両膝に手を置いて白い息を切らした。

 「鈴音は、相変わらず速過ぎる、だろ…」

 あれから数カ月経とうとも、どうにも彼女には敵わないらしい。僕もそれなりに成長したとは思うのだが、鈴音にはまだまだ余力が残っているように思えた。
 息の乱れた僕が愚痴をこぼすと、鈴音は一層のしたり顔になった。それからはいつも通り、僕が息を整えるまでの間、暫し僕らは勾配の急な斜面の下を眺めているのだ。
 
 一見、こんなことは僕の発見した不可思議とは無関係にも思えるかもしれない。
 がしかし、よく注意して欲しい。空気が涼しくなり、更には底冷えに差し掛かっているのに合わせて、半袖で過ごしていた僕も長袖を、そして今はパーカーまで羽織っている。
 
 こうして身体を動かして初めて手足がじんわりと熱を取り戻し、身体が温かくなるような季節になった。
 例えば御伽噺を読んでいる時なんかは身体を動かすわけでもない。当たり前のことだが、半袖などでは震えが止まらず読書どころの話ではないだろう。そんなことをした翌日には体調を崩して痛い目を見るだけだ。
 それだけに、僕には解せなかった。

 最後に三つ目、僕が季節に合わせて厚手をするようになったというのに、鈴音は相も変わらず薄手のワンピースを身に着けていた。それも、夏ごろから色も形も変わらないものを、だ。
96 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2022/12/30(金) 22:42:55.13 ID:3+1GuYNt0
 この寒さの中、平気で素肌を晒していられるなんておかしくはないだろうか。現に今の彼女は何食わぬ顔で、白いワンピースを一枚だけ纏っていた。
 
 尚も僕を理解不能に追い込んだのが、そんな恰好をしていたら寒くて凍えてしまうはずなのに、君は一切白い息を吐き出さないことだった。
 呼気が湯気のようになってしまうのは、体内と外部の温度差によるものだと理科の授業で習った覚えがある。
 となると、鈴音の身体はこの冷気と変わりない…はずがない。だって、あの時触れた鈴音の身体には、確かな温もりが宿っていたのだから。
 
 であれば何故なのか。これ以上は堂々巡りだった。僕程度の頭脳では到底解き明かせない謎がそこにあった。
 
 しかし一旦意識してしまえば、それを端に追いやり消滅させることは難しかった。
 鈴音のことを考えれば必ずと言っていいほどにそのことが脳裏を過った。家に居ようと学校に行こうと君と遊んでいようと、悶々と晴れない靄が僕に纏わりつき、彼女に対する疑念は日を追うごとに雲の如く膨らんでいった。
 その上、これまでの僕は余りに鈴音のことを知らなかった。
 
 だからこそ、貪欲にも僕はもっと君を知りたいと願うようになっていたのだろう、自らを制御できないほどに。
97 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2022/12/30(金) 22:45:59.53 ID:3+1GuYNt0
 「なぁ、鈴音」

 好奇心という名の欲心に抗えなかった僕は、とうとう話を切り出してしまった。
 鈴音がこちらに顔を向けた。「ちょっと聞きたいんだけどさ」僕は間を置くことなく続けた。

 「鈴音は寒くないのか?こんな季節に半袖なんか着てて」

 募った疑念をようやく言葉に出来て、僕の心のもやもやは些かすっきりした。
 問い掛けられた鈴音は、きょとんと豆鉄砲を喰らったような表情を浮かべていた。
 
 しかし、その唖然としていた顔にも次第に雲が立ち込めていくではないか。
 やがて彼女は落ち着かない様子で自身の身体を見回すようになった。終いには僕を上目に見やり、その表情を憂わしげなものに変えた。
 
 「…おかしいかな?」

 いつもと違って不安げな調子で尋ねられては、徒に疑問を解消した僕こそが悪者であるように思えた。
 やってはいけないことをしてしまっただろうか。自信なさげにワンピースの裾を掴む鈴音を前に、僕は久々にそんな心地に陥った。

 「いや、おかしいとかそういう訳じゃなくて…その、寒くないなら構わないんだ。鈴音が風邪ひいたら心配だしな」

 「…そっか。でも大丈夫だよ、私は風邪なんてひかないから」
98 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2022/12/30(金) 22:49:43.09 ID:3+1GuYNt0
 彼女を安心させるよう、僕は努めて言葉を選んだ。そのお陰か、ようやく鈴音の表情にも微笑みが戻った。
 が、納得いかない部分もあるらしい。彼女は暫し小さな声で何事かを呟いていた。
 僕はそんな彼女をぼんやりと眺めながら、頭はまた別なことに作用していた。
 
 少なくとも今の問答を通して、分かったことが二つある。
 
 一つは、鈴音が冬の寒さを意にも介していないこと。
 そしてもう一つが、気温云々以前の問題として、『彼女はこの季節に半袖で居ることが異常であることを認識していないこと』だろう。
 
 率直に言って、こんなことが有り得るのだろうか?鈴音の体感覚は通常とは違っているとか、そういうことなのだろうか?
 
 疑問を解消出来たと思ったら、また新たな疑問がふわふわと頭に憑りついた。手で払いのけようとも霧が晴れることはなく、僕はどんどんと濃霧に呑み込まれていく。
 謎が謎を呼ぶ。上手くジグソーパズルを解いたつもりが、盤面からピースがそこから根こそぎ抜け落ちたようだった。
 
 それでも僕は性懲りもなく、ばらばらになったピースをはめ直そうと両手を動かし始める。かき集めた情報の断片を繋ぎ合わせることで、鈴音の全てを丸裸に出来るように。
99 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2022/12/30(金) 22:55:35.69 ID:3+1GuYNt0
 しかして以降の僕は、鈴音の不可解な点を見つけ出してはその原因を突き止めようとした。
 だがそれは、僕は探偵にでもなった気分だったとか、そんな自分に有頂天になっていたとかでは断じてない。
 僕はただ純粋に、彼女をより深く知り、もっと強く理解したかったのだ。

 それ故、この日のように鈴音の表情を曇らせることのないよう、それからの僕は疑問を頭の中で解消しようとするに留めた。
 僕にとっての優先順位を履き違えることはなかったのだ。
 
 と言っても、僕が不可思議を解き明かそうとしたことに変わりはない。
 秘密を暴くということには、得られるリターンが未知数である一方で、強大なリスクが付き物であることには留意しなければならない。それは分の悪い賭けに挑んでいると言っても構わないだろう。

 公然であろうと内密であろうと、秘密が秘密でなくなったその時、何かが破綻してしまう。暗黙の了解がいい例だ。
 そこまで分かっておきながら、僕は彼女の不可思議について考えることをやめはしなかった。

 恋は人を盲目にするとはよく言うが、実際はそればかりではない。
 恋とは、自分本位の自己中心的な思考回路へと至らせる破滅的な病でもある。
 そして過ぎた好奇心が滅ぼすのは猫でも人間でもなく、目には見えぬが大切なものなのだ。
100 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2022/12/30(金) 23:17:14.35 ID:3+1GuYNt0
 ♦♦♦


 その次の日は、生憎の雨天であった。
 朝から糸雨が絶え間なく降り注ぎ、昼間だというのに空気は冷え切っていた。
 土に汚れた運動靴が濡れた地面に茶色い足跡を残しては、雨粒が手早くそれを掻き消していく。僕は雨と鼬ごっこを繰り返しながら、霧雨に見舞われた曇り空の下を歩いていた。傘を差すことはなく、代わりに黒いポンチョをぽすりと被っていた。
 
 であれば、その足は毎度の如く図書館へと向いていたのか。
 はたと動きを止めた先には、雨粒を纏い艶やかな緑たちが待ち構えていた。
 なんの躊躇もなく濡れた草木をかき分け、やがて僕は目的の場所に辿り着いた。と同時に、太い幹の裏から彼女が顔を覗かせた。

 「おはよう。鈴音」

 「ん、おはよー。千風くん」

 実際にはもう午後三時を回っていたが、今日鈴音と会うのはこれが初めだ。だからこの挨拶にも何の問題もないだろう。
 そうして定型的な言葉を交わしてから、僕は鈴音の待つ大樹へと向かった。
 
 君との距離あと五メートルというところになって、彼女は突如「待って」と僕を立ち止まらせた。

 「どうしたんだ?」

 「えっとねー」

 鈴音は微笑みを浮かべながら言葉を濁した。彼女が何かを企んでいるのは一目瞭然だった。僅かな間を置いてから、鈴音は調子の良い掛け声と共にこちらに躍り出た。
101 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2022/12/30(金) 23:20:30.67 ID:3+1GuYNt0
 「じゃーん!どうかな〜?」

 裾を掴んでそれらしい姿勢を取った彼女は、この薄暗い天気に似合わないぐらいにいつもに増して陽気な様子であった。
 
 そんな鈴音を目にして、僕はただただ不思議でならなかった。
 だって、彼女はいつもと変わらず下駄っぽいサンダルに白いワンピースを纏って、鏡のような黒髪とその魅惑の頬笑を──。
 
 と、そこで気が付く。星のように僕の両目を惹き付ける微笑みから目を逸らし、まず彼女の足に着目した。
 山を駆け巡っているうちにいつかポッキリ折れてしまうのではないかと、見ている方がヒヤヒヤするほどに細い線を描いた乳白色の脚が、今日は幾ばくか見え辛くなっている。
 
 更に彼女の上体に視線を移してみれば、いよいよその変化は明らかになった。
 いつもは余すことなく外界に晒されていた華奢な腕が、今やすっかり白い生地に覆われてしまっているではないか。

 「長袖にしたのか?」

 再び彼女の顔を見やって問い掛けると、「うん、そうだよ!」と二つ返事が返された。

 やはり鈴音も来たる冬の寒さには耐えられず、半袖は止めにしたということだろうか。いやしかし、結局あの生地の薄さではどんぐりの背比べといったところだろう。となると、何故長袖を着るようになったのだろうか。
 
 などと考えていると、鈴音は妙な咳払いを挟んでから、耳打ちするみたいな小声を発した。
102 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2022/12/30(金) 23:22:42.78 ID:3+1GuYNt0
 「それで、千風くん的には、どう?」

 「どうって…」

 君の曖昧な言葉に対して、僕は幾通りかの答えを思い浮かべた。
 鈴音は何かを待ち望むように何度か僕の目を見てはそっぽを向いた。
 そのいかにも褒めて欲しそうな君の様子を前に、自ずと頬は緩んでいた。微笑みを浮かべた僕は、どうとでもとれるその言葉を贈った。

 「すごく、似合ってると思う。やっぱり鈴音には白が一番なんだろうなって思わされるぐらい」

 決してお世辞ではない。それは鈴音を良い気分にさせつつも、僕の気持ちのごく一部を入り交えた嘘偽りのない本音だった。
 それでも胸に抱く感情は悟られたくなくて、それが表に出ないよう僕は努めて真顔で言ってのけた。

 賛辞を受け取った君は、「そっかそっかぁー」と何気ない素振りで即応した。
 
 程なくして、僕らは隣り合わせに大樹に寄りかかった。
 お互いに言葉を発することはなく、霧雨が葉を叩く音に暫し耳を澄ませた。そこには悪くない沈黙が漂っていた。
 
 だから時折、「えへへ…」と照れくさそうな笑声が隣から聞こえたのは、抗えず横目を向ければ、そこに気恥ずかしそうな君が居たのは、全て僕の気のせいなのだろう。
103 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2022/12/30(金) 23:29:11.31 ID:3+1GuYNt0
 

 暫時雨止みを待ってはみたが、今日のバケツはまだまだ空っぽにならないらしい。
 僕らはその場から一歩も動き出せないまま、静謐に身を任せていた。
 
 どうして僕は雨の日だというのにここに来たのか。それは単純なことで、嵐の日に鈴音が僕と同じように山を訪れていたから他ならない。
 以前の僕はてっきり、鈴音は雨天時には足を運んでいないものだと思い込んでいたのだが、あの日、実際はそうでないことを理解したのだ。
 
 そういうわけで、僕はあれから天気に関わらずここにやって来ている。
 もちろん、雨の日に出来ることは少ない。こうして大樹の下で雨宿りすることが関の山だろう。あとはぽつぽつと僕が日常の話題を持ち出しては、彼女が優しく相槌を打ってくれるぐらいだった。
 
 遠い雲から零れ落ちた無数の雨粒は、大樹が命一杯広げた葉を容赦なく打ち付けていた。真上の方では雨が葉を叩く乾いた音が無数に響き渡り、正面では枝から滴り落ちる雫が深い水溜まりを作っていた。それは鹿威しみたく一定間隔で耳障りのいい水音を奏でていた。
 
 僕はこの時間にある種の心地良さを見出していた。
 普段は快活に笑い、活動的に動き回っている僕らが、この時ばかりは人が変わったように静かな時間を過ごす。その緩急が良かったとでも言えばいいのだろうか。鈴音と共に雨音へ耳を傾け、のんびりと時の流れを感じるこの瞬間は嫌いじゃなかった。
 いつしか雨が降ると妙に荒ぶるようになった心音も、何故だか君と共にいれば唸りを潜めるのだ。

 まぁ、少し前までは雨模様が嫌いだった癖に、今となっては雨天をも快晴と同列に扱うようになっている自分の手のひら返しには呆れてしまうのだが。
104 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2022/12/30(金) 23:33:04.22 ID:3+1GuYNt0
 結局、その日は日暮れまでに雨足が弱まることも止まることもなく、僕らは長閑けな一日を終えた。
 まだ鈴音との時間を終わらせたくないと思う反面、また明日には素晴らしい時間が訪れることを訳もなく期待する。
 そうやってなんとか名残惜しい気持ちに区切りをつけて、僕は重い腰を上げるのだ。

 「あっ、そうだった」

 僕らが別れを交わそうとしたその時、鈴音は言い忘れていたように両手を叩いた。

 「明日はさ、千風くんは山に来ちゃ駄目だからね」彼女は別れ際にその言葉を付け加えた。
 
 一瞬の間を置いてから「…?鈴音も来ないのか?」と僕はたいそう疑問気に尋ね返した。
 
 僕らは明確に遊ぶ時間帯を決めず、野良猫みたいに気ままな調子でここに集まっている。だからこそ、来るなと言われるのは初めてのことであり、それは同時に意外な発言でもあったのだ。

 僕の問い掛けに対して、鈴音はさらっと「うん、まぁそんな感じ」と答えた。
105 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2022/12/30(金) 23:38:54.28 ID:3+1GuYNt0
 厚い雨雲のせいもあって、帰り道はもう薄闇に包まれていた。

 僕が慎重に足を進めようとすると、「ちゃんと足元に気を付けてね」と彼女は何処か不安そうに言った。

 「ん、じゃあ、またな」と僕が言葉で応じれば、「ん、ばいばい」と君もまた相槌を打った。
 
 別れの言葉を皮切りに、僕は長い下り道を進んでいった。
 その間、いつも僕は一度読んだ本を見返すように一日を振り返っている。例えばその日は、何気ない情景の一つ一つを描いては、僕は長袖ワンピースを纏った君の姿を噛み締めるように何度も再生していた。
 
 ふと足が止まった。今日の鈴音を思い返していると、変な引っ掛かりを感じたのだ。
 
 一秒前に頭をもたげたことを掘り返すように、僕はもう一度じっくり今日という日の日記を読み込んだ。
 するとやはり、ある描写に違和感が見つかる。その不可思議を具体的な形にしたくなって、僕は誰に言うでもなく、雨音に包まれた森でそれを言葉にしていた。
 
 そう言えば、雨具を持っていない鈴音は、どうやってに濡れずにあそこまで来たのだろうか。
106 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2022/12/31(土) 15:36:19.71 ID:Mr3crreJ0
 ♦♦♦
 

 その次の次の日の放課後、僕は山に向かうことなく図書館へと繰り出した。
 水気の多い絵の具で塗りたくったような空には、異国の夏を追い掛けたばかりに遠くでひかめいている太陽が浮かんでいた。
 今日はこの季節にしては、外で動き回るのに最適な日だった。
 
 せっかくの晴れに彼女と遊べないことは残念極まりないが、一度その寂しさに身を浸すことで、明日がより楽しみになることだろう。
 そうやってある意味での正当化を図ることで、今にも百八十度回転しそうな我儘な足をなんとか言い聞かせる。
 彼女に会いたい欲求を抑え切ったところで、僕は図書館の扉をゆっくりと開いた。
 
 館内入場三歩目のことだった、長身の彼女がこちらに向かって来たのは。

 「お、少年。珍しいね、雨が降ってもない昼下がりにここに来るなんて」

 僕の姿を認めた斎藤さんは心底意外そうに言った。
 
 「そういう日もあるんです」と挨拶がてらに言葉を返すと、僕らはそのまま図書館の一角へと足を進めた。
 
 こうして図書館を訪れる度に斎藤さんが僕を気に掛けてくれるから、いつの間にか彼女は僕専属の秘書みたく振舞うようになった。
 彼女は慣れた手つきで本棚から数冊引っこ抜いては、それらをざっとテーブルの上に並べた。

 「で、今日はどっちの本探してるの?植物系?それとも神話系?お勧めはこれとこれなんだけど」
107 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2022/12/31(土) 15:40:00.17 ID:Mr3crreJ0
 毎度僕の趣向にピッタリ合った本を提供してくれる斎藤さんは、もしかせずとも何か別のことに才能を活かした方が良いのかもしれない。
 まずは数冊分の表紙を眺め、それらを一冊ずつ手にとっては数頁を捲って感性と相談する。

 暫く経ってから「じゃあ、今日はお勧めどっちも借りることにします」と僕は答えた。

 本来なら斎藤さんの仕事もここで終わりのはずなのだが「そう言えば」と彼女は言葉を続けた。

 「えーっと…日向祐介くん、だっけ?少年のこと探してたよ」

 「日向が?なんでですか?」

 よもや斎藤さんからアイツの名前が出てくるとは思わなかった。
 何処がどう繋がってこんな伝言が届けられたのか。と言うか、同じクラスに属しているというのに探しているとはどういう意味なのか。
 
 疑問が後者に偏った結果、僕はそちらについて訊ね返した。

 「さぁ?まぁ察しは付くけどね。少年は雨の日とかに良く来るよー、って教えてあげたんだけど、どうやらその生態も移り変わりつつあるみたい」

 「人を観察動物みたいに扱わないでください」
108 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2022/12/31(土) 15:44:56.65 ID:Mr3crreJ0
 斎藤さんとしょうもないやり取りを交わしながら、僕は久々に日向のことを思い出していた。
 しかしあの時の怒りは再燃するどころか、今や完全に沈下していた。僕は根に持つ性分ではないのだ。
 
 とは言え、あれ以来僕は彼らと遊ぶことはなくなった。でもそれは別に、彼らが許せないとかそういうわけではない。
 学校の時間は本を読んでいればいいし、放課後には鈴音に会いに行くわけだし、ただ彼らがいなくとも僕の世界は成立していたというだけの話だ。
 人というのは、どこにも居場所がないことは辛いが、どこか一つでも安息地が見つけられたならそれで充分な生き物なのだ。
 
 まぁ、用があるならそのうち向こうから話し掛けてくるか、と適当な考えに落ち着いた僕は、受付にて本を借りるべく動き出そうとした。
 しかし一歩目でその足を止めると、僕は首を後ろに向けた。

 「一つ、聞きたいんですけど」と僕は話を切り出した。

 「私に答えられることなら」斎藤さんは頼もしい返答をくれた。

 昨晩から頭をひねっては答えを導き出せなかった疑問。僕はそれについて訊ねた。
109 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2022/12/31(土) 15:48:09.26 ID:Mr3crreJ0
 「今日は山に入るなって言われたんですけど、何か知ってたりします?」

 これまで毎日のように(あれ以前は天候によりけりだったが)森の中で落ち合っていた僕らが、何故今日に限ってそれを制限しなければならなかったのか。
 僕にはそれがどうしても理解が出来なかったのだ。
 
 僕が顔を出せば必ず姿を現してくれる以上、鈴音があそこで待ってくれているのは当然のことのように思えてしまう。
 だから今日も言いつけを破って山に向かえば、「来ちゃダメだよって言ったのにさ〜」と朗らかに笑う君が居る気がしてならなかったのだ。
 
 僕の質問を受けて、斎藤さんは少々考える素振りを見せた。

 「そうねぇー…禁足日とかじゃないの?」

 「禁足日?」

 聞き慣れない言葉を前に、僕は鸚鵡返しをした。斎藤さんは重ねて推測の予防線を張りながら続けた。

 「そう、日頃狩りや木々の伐採でお世話になってる山の神様に感謝する日のこと。その日は山に入っちゃいけないんだって。私はよく知らないけど、多分今日がその日なのよ、きっと」

 「なるほど…」
110 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2022/12/31(土) 15:51:42.44 ID:Mr3crreJ0
 「禁足日って言うのはねぇ、一時的に禁足地に早変わりするみたいなものだから中々に背筋の凍る話が揃ってるのよ。例えばこの怪異小説なんかは──」

 「結構です」

 楽しげな様子で赤い表紙の本を紹介しようとしている辺り、図書館で働いている斎藤さんもやはり本の虫ということなのだろう。
 
 しかし、それは僕にとって耐え難い内容であった。
 訪問セールスをあしらうよう片手を前に出す。身振りでも意思表明を済ませると、僕は早々に受付に向かった。
 
 大きな体で行く手が阻まれた。彼女は嫌な笑みを浮かべながら「ん?もしや少年は怖いものが苦手なのかな〜?」などと僕を煽った。
 それでも知らんぷりを貫き通すと、「ちぇ」と詰まらなそうな舌打ちが聞こえた。
 
 難は乗り越えたか。
 流石の斎藤さんも、僕がそれを明言しないからと言って本を貸さないなどという暴動に出ることもなかった。
 結果、僕は無事に目的の本を借り出すことに成功した。
 
 だがそこはあの人だ。僕は借りるつもりのなかった本を一冊、彼女は無理に預けてきた。
111 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2022/12/31(土) 15:55:43.76 ID:Mr3crreJ0
 「ま、少年もこれでホラー慣れしときなさい」

 よし、一頁も捲ることなく返却しよう。
 僕はげんなりとした気分で堅い決意を抱きながら、対照的にニマニマとした笑顔の斎藤さんからホラー小説を受け取った。表紙でさえも見たくなかったが、それが視界の端に映るのは不可抗力であった。
 
 瞬間、僕は見えない何かに頭を固定されたように表紙に釘付けとなった。
 
 長らく手入れされていないであろう乱れた長髪。病的にまで青白い肌。原始的恐怖を呼び起こす真っ黒な眼窩。そしてくすんだ白のワンピース。
 典型的且つ王道の幽霊が、そこに描かれていた。
 
 だが脳内の情報処理はまだ止まらなかった。
 長いことズレていた歯車が噛み合い、確かな音を立ててつっかえていた絡繰りを起動させる。神経細胞にシナプスが駆け巡る。脳裏に断片的な単語が浮かんでは消えていく。
 
 綺麗な白のワンピース、雪のような肌色、寒さを感じない、雨にも濡れない肌は焼けない髪は伸びない、そう言えばどうして彼女はいつも時間ピッタリにあそこに居てくれてる──。

 「…まさかな」

 脇下に僅かな湿り気を感じ取り、嫌な痺れと共に背筋がピンと伸びた。
 
 「少年、どしたの?」

 斎藤さんは不思議そうにこちらを眺めていた。

 「いえ、なんでもないです」

 現実に引き戻された僕はぎこちない笑顔を浮かべた。
 
 正直、妙な合致点が多過ぎると思った。
 
 しかしまぁ、そんなことがある訳ないじゃないか。事実は小説より奇なりとはよく言ったものだが、幽霊なんて科学的根拠に欠ける存在だろう?あぁ、その通りだ。うん、くだらないことを考えるのはよそう。
 
 土砂崩れのような思考を強引に堰き止め、僕はその余りに飛躍した可能性を頭から追いやった。
112 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2022/12/31(土) 17:17:16.97 ID:Mr3crreJ0
 ♦♦♦
 

 一周回って日が天に上ると、僕はまた山へと向かうようになった。
 
 僕があそこに辿り着けば、やっぱり鈴音もひょっこりと姿を現した。そんなことを何カ月も繰り返しているなんて、もしや僕らは磁石のように引かれ合っているのだろうか。
 いや、残念ながらそれは一方的な思い込みなのだろう。実際の僕らはS極とN極などではなく、単に僕の方が引き込まれているだけに違いない。
 
 だがこの数日間を境に、僕はそんな甘い幻想に浸っているばかりではいられなくなった。馬鹿げた思考が脳裏を過っては、事ある毎に僕の心に陰りを与え始めたのだ。
 
 これがそのれっきとした証拠だろう。彼女は懸命に首を伸ばしてこちらを覗き見ながら、不服そうに言った。

 「もうちょっとこっち寄ってよー。じゃないと見えないからさ〜」

 二人揃って大樹の麓に腰を下ろし、今日は僕が本を開けている。最早恒例となった読書会だ。
 しかしそこには、以前と違っている点が一つあった。
 
 それは隣り合った僕らの距離感覚である。
 前までの僕と鈴音は肌と肌がかろうじて触れ合わないぐらいの間隔で座り込んでいた。微風が吹けば君の髪が流れ、僕の頬にくすぐったい感覚を残す。鼻孔には落ち着く匂いが広がり、僕の全身は骨が抜けたのように和らいだ。
 それはそれは、実に安らかな心地でいられる時間だった。
 
 しかし今はどうか。僕らの間には一人分ぐらいの奇妙な空間が生じているし、彼女がこちらににじり寄れば、僕は距離をとるまではせずとも仄かな緊張感を覚えた。
 この排他的な合間を設けたのは僕の一方的なことだし、そもそもこれまで彼女の傍に寄っていたのも、君が何も言わないことを良い事にしていた僕の方であった。
113 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2022/12/31(土) 17:21:21.55 ID:Mr3crreJ0
 僕は不自然に鈴音を遠ざけようとしている。

 それは自分でも自覚していることであった。
 そしてまた鈴音も、薄々何か勘づいてきたのだろう。つい昨日から僕の真意を図りかねた様子で、

 「…ね、どうしたの?」

 と頻りに尋ねてくるようになった。その度に僕は精一杯の貼り付け笑顔で、

 「どうかしたのか?なんでもないけど?」

 と応じるのだ。
 
 「…そう?なら良いんだけど…」と君は答えたものの、その表情はほんの少しの憂いを残したままであった。そんな君に出会えば出会うほど、僕の胸は爪楊枝で突かれたみたいにチクリと小さな痛みを感じ取った。
 
 僕は繰り返し自分に言い聞かせる。脳内に纏わりつく二つのイメージをなんとかして切り離そうとする。
 しかしそれは溶解した金属みたいに接合点で溶け合って離れず、じわじわと彼女への心象に不純物が混じっていく。
 
 そうだ。鈴音は何も悪くない。邪まなのは割り切れない僕なのだ。
 
 こうして鈴音に忌避感めいたものを抱いてしまった原因は分かっている。赤い表紙のせいだ。清廉な鈴音とあの汚らわしく陰湿な表紙絵は似ても似つかないはずなのに、いつしか僕はそれを混同してしまっていた。
114 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2022/12/31(土) 17:26:11.79 ID:Mr3crreJ0
 一度でも錯覚が生じてしまえば、物事の見え方は大きく歪む。
 言わば、その正否に関わらず、仮説の肯定に繋がる要素ばかりに囚われてしまうのだ。
 
 世にいう確証バイアス。僕はまさにその状態に陥っていた。
 
 加えて、これまで腑に落ちなかった疑問の数々も、彼女が非科学的な存在であると仮定すれば説明がついてしまうのも問題であった。
 もっとも、前提をそんな都合の良いものにしてしまえば、当たり前の如く疑問というものは大概が解決してしまえるのだが、当時の僕はそんな簡単なことさえ見落としていた。
 
 例えば、仮に彼女が隣町の学校に通っているのだとしたら、距離的に考えて僕の方が先にここに着くはずなのだ。なのにいつもここで待ってくれているというのは一体どういうことなのか。
 他にも、そう言えば何故彼女は僕よりも先に帰ることはないのか。何故僕を見送っているのか。そもそもいかで日常の話題を一つも吹っ掛けてこないのか。
 
 考えたことを一から挙げるとキリがないが、それら全てが鈴音と幽霊との結びつきを強めたことに違いはない。
115 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2022/12/31(土) 17:28:18.50 ID:Mr3crreJ0
 言わずと知れたことだが、人は正体不明の未知を恐れる生き物だ。
 
 それは僕とて例外ではなかった。

 僕には幽霊なんて居るわけないだろうと笑い飛ばせる勇気もないし、襲い来る幽霊に向かって強気に立ち向かえるような度胸もない。
 もし独り暗闇の中に放り込まれるようなことがあれば、何処かで何かが血眼になって生者を睨み付けているのでは、と訳もなく恐怖に苛まれ、膝を掛けて震えあがることだろう。
 
 恐れという感情には人一倍敏感な僕が、僅かにでもその可能性を見出してしまったのが運の尽きだったのかもしれない。
 鈴音をそんな風に見てしまうなど、己の審美眼が曇ったようでこの上なく不快だったが、それでも原始的本能には打ち勝てなかった。
 
 もちろん、とって食われるかもしれない、などとまで思っているわけではないはずだ。
 だが彼女はいつか正体を露わにし、血走った目で僕の首を両手で締め上げるのではないか、と思うと、とても無防備に傍には居られなかった。
116 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2022/12/31(土) 17:31:59.80 ID:Mr3crreJ0
 「んー…今日はもう読書やめよっか。千風くん、実は身体動かしたいんでしょ?」

 鈴音は徐に立ち上がり、見当違いなことを言ってのけた。
 
 「…あぁ、そうしよう。やっぱり冬は寒いからな」

 適当な言葉を返し、僕は彼女の提案に乗った。歩き回るとなれば、距離を開けても怪しまれはしないだろうと思ったのだ。
 
 そうして僕らがぎこちない距離感で大樹の下を発とうとした矢先のことだった。

 「千風!」

 何処で聞き覚えのある声が響いた気がした。それは彼女の清らかな声とは違い、若い男の子が発するような大きな声だった。
 辺りを見回してみれば、僕らの前方に日に焼けた少年が見えた。

 「日向か、久しぶりだな」

 「…あぁ、こうやって話し掛けるのは、久しぶりだ」

 僕がいつもと変わらない調子で言葉を切り出したのに対して、日向はやけに慎重に言葉を選んでいた。僕らがまともに口を利いたのは、実に数カ月ぶりのことだった。

 「よく僕がここにいるって分かったな」

 「最近放課後になったら居なくなるから、もしかしたらここかと思って来たんだ。当たりみたいだったな」

 二言目を発する時には、日向も以前の様子に戻っていた。なるほど彼がここにやって来られたのは、僕が一度連れてきてやったからか。

 「それで、わざわざここまで来てどうしたんだ?」

 「そのー…」

 三言目になると、日向はまた言葉に詰まった。
 首裏に手を当てながら煮え切れない様子で右のつま先を立てる。数度靴先で円を描いたところで、意を決したようにこちらに顔を向けた。
117 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2022/12/31(土) 17:34:10.45 ID:Mr3crreJ0
 「この前は、結構言い過ぎたなって思って…。やっぱり、このままじゃダメかと思ってさ…その、悪かった」

 「あぁ、そんなの気にするな。僕らの間じゃ珍しくないことだろ?」

 僕はあっさりと日向を許した。実際、僕らは喧嘩が日常茶飯事みたいなものだったし、今回も特に深刻な仲違いをしたという訳でもない。これまでは大体、どちらかが謝りたい雰囲気を醸し出したところでそれとなく仲直りを繰り返していたが、今回の僕はそんなことそっちのけであった。
 
 その最大の理由が、僕の隣で身体を強張らせ、黙りこくっている彼女である。
 せっかくの機会だと、僕は鈴音に目配せした。それから、「それよりさ」と僕が日向に向き直れば、

 「だめっ──」

 鈴音は小さな悲鳴を上げると共に、慌てて僕の服の裾を掴んだ。しかしそれは一歩遅く、僕は胸を張って彼女を紹介してしまっていた。

 「ほら、こいつが前に言ってた鈴音だ。植物博士で御伽噺にも詳しいんだけど…鈴音?」

 遅れて彼女の妙な反応に気が付く。
 鈴音は裾をぎゅっと握り絞めたまま、僕の身体を遮蔽物にするように後ろへ隠れてしまった。
 鈴音に手の近くを掴まれ、僕の心臓は喜びと恐怖の二つの意味で大きく脈動した。
 肩
 越しに振り返った視点を元に戻す。日向は僕を眺めて唖然としていた。数秒口が閉じないような素振りを見せた末に、我が目を疑う様子で恐る恐る言った。
118 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2022/12/31(土) 17:36:35.14 ID:Mr3crreJ0
 「……千風?お前一人でどうしたんだ…?」

 「……は……?」

 頭が困惑一色に染まり切った。
 日向が放った短い言葉を三度ほど繰り返し、長い時間を掛けてそれが聞き間違いなどではないことを把握した。
 
 そして同時に、もう一つ理解せざるを得なかった。
 僕と同じか或いはそれ以上に愕然としていた日向は、動揺したままに言葉を続けようとした。

 「いや、だから一人で──」

 それ以上は言わせてはならない。言わせたくない。言って欲しくない。
 様々な感情が入り混じった結果、僕は直感的な判断を下し、すぐさま言葉を重ねた。

 「あぁ、ちょっと寝ぼけてたみたいだ。さっきそこで昼寝してたからさ。…まぁ、日向は先に帰ってくれ。また明日な」
119 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2022/12/31(土) 17:41:44.54 ID:Mr3crreJ0
 春や秋ならまだしも、この寒さの中外でうたた寝する馬鹿者など居るはずがないだろう。僕の口から出まかせは甚だ杜撰なものであったが、混乱状態の日向には効果覿面であった。
 
 捲し立てるように堂々と言い切ってやれば、彼もひとまずそういうものだと飲み込むことにしたらしい。何かを不思議がりながらも、「…あぁ、また明日な」と別れの言葉を残して去っていった。
 
 その背中が確実に見えなくなるまで見送り続ける。残された僅かな間で目が回るほどに思案を繰り返す。
 僕と鈴音との空間に嵐が襲い来たことで、これまでの安寧は根こそぎ破壊されてしまった。
 
 まぁずっと前に僕は日向達を連れてきたのだから、どう転んでもこのような結果には行き着いたのだろう。これは僕の蒔いた種だ。誰にも文句は言えまい。
 さて、これから僕はどうしたものだろうか。いざという時には、全力でこの場から逃げ出さねばならないのだろう。
 
 虫の音はおろか、鳥一匹の囀りさえ聞こえない。冬の寂しい空気だけがその場を突き抜けていた。
 僕はあらゆる可能性を想定しつつ、思い切って身体ごと振り返った。
 
 その先には、視線を落として縮こまっている鈴音が居た。そこには普段の彼女が放つ明るい様子は微塵も見受けられなかった。
 僕は警戒を怠らず、彼女の予備動作に備えた。
 僅かな沈黙ののちに、鈴音は滲んだような瞳で僕を覗き込んだ。
120 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2022/12/31(土) 17:45:01.48 ID:Mr3crreJ0
 「…え…っと、ね…。その…わ、私は…」

 しかしそれは言葉とならず、君は怯えたように声だけでなく身体をも震わせた。それはまるで、大きな罪を犯したが故に相応の罰を待つ子供のような姿だった。
 
 鬼が出るか蛇が出るか、といった心構えで後ろを向いた僕は、そのどちらもが姿を現さなかったことに唖然としていた。
 やがて鈴音の目尻には光るものが浮かび、君はそれを隠すように俯いた。数滴の雫が大地を微かに湿らせた。
 
 途端、訳もなく胸が締め付けられた。
 大地に染み渡る水滴が己の心にも及んでいるように、いま自分が何にも代えられない耐え難い苦しさを覚えていることを強く意識させられた。
 
 ──あぁ、そういうことだったのか。
 
 その時、巨石が音を立てて瓦解するように、或いは波にさらわれた砂城のように、僕の中の変に凝り固まった価値観は一掃された。
 十年近くと一緒にいるはずの自分の一端をようやく理解できた気がして、それは心地良ささえ感じるほどに不思議と腑に落ちる答えだった。
 
 あんなにも掻き乱されていた心が、今は迷い一つ感じられない。
 僕は何気なく身体を伸ばすと、彼女を追い越すようにゆっくりと歩き出した。
121 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2022/12/31(土) 17:50:24.24 ID:Mr3crreJ0
 「じゃ、ちょっと身体動かしに行こうぜ。ずっと座ってて身体鈍ってるしなー」

 「…千風、くん…?」

 僕の間延びした言葉が辺りに木霊した。それはこの緊迫した空気に不相応なもので、君は戸惑いに塗れた声色で僕の名前を呟いていた。
 僕は思い直したように数歩進めた足を戻して、徐にポケットからハンカチを取り出した。それで彼女の目尻から柔らかい頬にかけてを丁寧に拭ってやると、僕はいつも通りの、嘘偽りのない微笑みを向けた。

 「ん?なんかあったか?ほら、早くしないと時間なくなるぞ」

 まるで僕の行動が全く理解出来ないといった様子で、君は狼狽したように長らく僕を見つめていた。
 しかしある時になって、ようやくその表情に日を差し込ませてくれた。
 僕がほっと胸を撫で下ろすと、そのまま鈴音は僕を追い抜くように駆け出し、やがてはいつものように僕を先導し始めた。
122 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2022/12/31(土) 17:53:06.32 ID:Mr3crreJ0
 やっぱりこれで良かったんだな。

 彼女の屈託のない笑顔を眺めていると、僕は深くそう思わされた。
 暗黙の秘密が暴かれそうになった直前で、僕は何よりも優先するべきものを再認識出来たのだ。
 
 あんなにも不安そうに怖がる君を見たその時、鈴音にはそんな顔をして欲しくないんだと、いつでも太陽みたいな笑顔を魅せて欲しいんだと、僕の魂は切に叫んでいた。
 回りくどい事はなしにして、結局のところ、それが全てだった。
 
 要するに、君がこの地に囚われた地縛霊だろうと人の形に化けた妖狐だろうと、僕が君に抱く気持ちは変わらないのだ。
 もちろん、本当のことが気にならなかったと言えば嘘になる。
 だがそれで鈴音が嫌な思いをするぐらいなら、そんなことは知らずにいるほうがマシだった。そういうことだ。
 
 如何に表面が暗い靄に覆われようとも、奥底では真っ直ぐな感情が息をしている。大切なのは属性ではない。そこに想いが宿るか否かだけなのだろう。
 
 そもそも、これほどにまで純粋な君が悪霊な訳がないし、よしや呪いを掛けられたとしてもどうってことはないのだ。僕にとって鈴音から授かる呪いというものは、驚喜の福音に等しいだろうから。
123 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/01(日) 17:15:42.87 ID:Bl/o1C/K0
 ♦♦♦


 それ以外には何もない、駅前のバス停に佇むこと三十分強。ふと身体が陰に覆われ、目の前で空気の抜ける音が聞こえた。
 
 やっとのことで古びたバスが到着したようだ。かつては鮮やかであったろう外装は剥がれ落ち、バスは今や傷だらけの姿をしていた。
 ディーゼルエンジンからは黒い排気ガスが噴き出しているが、その間隔は不規則で今にも動きを止めてしまいそうだ。
 
 という感想を抱くのはこれで何度目だろう。案外故障しない所を見るに、こいつもブラウン管テレビみたいなものなのかもしれない。
 軋んだ音を立ててドアが開くと、僕はバスに乗り込んだ。特段冷房が効いている訳でもなく、当然のように蒸した空気が室内を覆っている。窓が大きく開け放たれていることが唯一の救いだった。
 
 定刻には十分ほど遅れているものの、定年間近と見える白髪の運転手は謝りもしないし、一方僕もそれを咎めることはない。
 この街では皆、時間にルーズなのだ。まるで徒競走でもしているような忙しなさの都会とは違っていて、時の流れはゆったりと動いている。
 ここで暮らしていると、時計の針が止まっているのかと勘違いしてしまうぐらいだ。

 勿論、それはあくまで錯覚である。実際にそうであればどれだけ嬉しいことだろう。
 ともかく、ここで生まれ育った僕はそれを知っているから、この程度で腹を立てることもないのだ。
 
 適当な座席に腰を下ろすと、バスは再び大きな音を立てて出発した。
 どうやら道の方にもガタが来ているらしく、頻繁に車体が上下に揺れた。その度に風鈴が大きな音を奏で、僕はまた遠い思い出に浸ろうとしていた。
124 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/01(日) 17:19:08.47 ID:Bl/o1C/K0
 しかしその直前に、どうにも聞き覚えのある声が響いた。
 それに気が付けたのは、ちょうど掘り起こす記憶の中に同じようなトーンの声の持ち主が現れたからだ。

 「よぉ、奇遇だな、千風」

 後部座席に首を向けると、相変わらず色黒な彼が笑みを浮かべていた。
 記憶の中の彼と比べると、その輪郭には枠からはみ出したような違和感を覚えたが、それはあどけなかった表情が大人らしいものに成長した証だろう。
 こうして旧友の姿を見ると、この町にも時が流れていることがようやく実感できた。
 
 「あぁ、久しぶりだな、日向。何年ぶりだ?」

 僕は同じように言葉を返した。

 「何言ってんだ。つい一カ月前も会っただろ」

 彼は気さくに僕の冗談を笑い飛ばした。
 
 共に幼少期を経た旧友の中で、このようにしばしば顔を合わせる奴はこいつぐらいだ。
 他の連中は退屈なこの街に嫌気が差して都会に出て行ったものだから、皆で集まる機会は中々ない。
 日向は家業を継いだものだから、僕を含む多くの人間と違って、今も生まれ育った故郷で暮らしを営んでいるのだ。
 
 彼は最寄りのバス停に着かないうちに降車ボタンを赤く点滅させた。そして手に何かを握る仕草をしながら、それを口に呷るようにして見せた。
 
 「せっかく一カ月ぶりに会ったんだ。一杯やろうぜ」

 彼はにやりと笑った。

 「まだ昼だぞ?」

 僕は形式だけの浅いため息を吐き出した。そういうのも嫌いではない。小腹が空いていたのも事実だ。
 
 次のバス停で降りると、僕らは小さな商店街に繰り出した。
 道の両脇には細々と店が立ち並び、しかし活気が失われているわけではない。そんな田舎町の小さな飲み街だった。
 
 どうやら、毒林檎に手を伸ばすのはもうしばらく後で済みそうだ。

125 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/01(日) 17:22:28.23 ID:Bl/o1C/K0
 ♦♦♦


 その年の夏を契機として、そして秋冬と季節を経るにつれて、僕は減少傾向にある新たな読書家の一人に加わった。
 とは言ったものの、学校図書館に入り浸り、書架を征服する勢いで読書に没頭することもなければ、かと言って街の図書館の閲覧室に引き籠ったわけでもなかった。
 
 確かに本は好きだ。だが僕が本当に好きなのは、本を読むこと自体ではなかった。
 
 読書が全く嫌いというわけではない。
 しかしそれ以上に、僕は聞き手となることが好きだった。読み手が朗読する物語を受け取り、脳裏に美しい情景を描いては咀嚼することに魅力を感じていたのだ。
 この世に生を授かった時にはとっくに絶滅してしまっていたが、生まれる時代が違えば、僕は紙芝居屋なんかに虜となっていたのかもしれない。
 
 けれども僕はそれを惜しむことはなかった。紙芝居屋などに出会わずとも、こちらの方がより素晴らしいものだと確信しているから。

 「其の島に天降りまして、天之御柱を見立みたて──」

 音楽のように澄み切った玉音がすぐ隣で響いている。
 高尚な演奏に身を浸すように伏せた目を僅かに横へ向けると、目を閉ざし長い睫毛を際立たせた君が、心まで洗い流してしまいそうな清音で詩を詠っていた。
 
 口を挟みかけた僕は何も言わず、鈴音を邪魔しないよう耳を傾けた。
 彼女の旋律は数十秒と続き、あっという間に締め括られた。最後の一音を詠った鈴音は小さく息を吐き出した。
 
 程なくして、僕は両手を叩いて賛称した。
 彼女はこそばゆそうに頬を緩ませた。
 微笑む君を充分に楽しんだ後になって、僕は言いたかったことを伝えた。
126 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/01(日) 17:27:56.81 ID:Bl/o1C/K0
 「ごめん、全然意味が分からなかった。もうちょっと優しく説明して欲しい」

 「え」

 すっかり僕が理解したと考えていたらしい彼女は、称賛を浴び得意げだった目を丸めた。
 
 それからすぐに「じゃあなんで黙ったのさ〜」と非難した気な表情で僕を問い詰めた。
 
 「そりゃあ、あんまり鈴音の声が綺麗だったから、ついつい」と僕がわざとらしい言い方で答えれば、君は喜ぶような呆れたような、なんとも言えない笑みを浮かべた。

 一呼吸挟んでから、「仕方ないなぁ」と彼女は僕にでも分かるよう簡単にお話を教えてくれた。

 結論から言うと、それは国生みと黄泉の国の物語だった。
 より分かりやすく言えば、伊邪那岐と伊邪那美で有名なあの神話だ。
 彼女の搔い摘んだ解説は、国生みの終わりから黄泉の国の最後までだった。それを具体的に言えば、火之迦具土神が生まれ、それと引き換えに伊邪那美が死んでしまったところからである。
 
 「なんで初めからじゃなくて、中途半端なところから始めたんだ?」と僕が問えば、「…そこはあんまり関係ないところだから」と鈴音はそげなく答えた。

 
127 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/01(日) 17:30:58.43 ID:Bl/o1C/K0
 「でもさ、伊邪那岐も酷いもんだよな。せっかく再会できた伊邪那美から逃げ出すなんて」

 「そうかな?私は仕方のないことだと思うけど」

 彼女の話す物語にも区切りが付いたことだし、話題転換の意味も込めて僕は無難な感想を述べたつもりだった。
 鈴音は予想外の答えを返した。ここは共感の得られる箇所だと思っていたばかりに、その衝撃は大きかった。

 「なんで仕方がないんだ?伊邪那岐と伊邪那美は相思相愛だったろ?」

 「うん、伊邪那美が死ぬ前はね。でも、伊邪那岐は変わり果てた最愛の人を受け入れられなかった。それだけの話だよ」

 彼女の語りを思い出しながら、僕は二人が愛し合っていたという事実を指摘した。
 鈴音は間を置くこともなく、どこか儚げな声で反駁した。
 
 いまの僕らが着目しているのは、黄泉の国の物語の方だ。
 その概要は、死んでしまった伊邪那美をどうしても忘れられなかった伊邪那岐が、はるばる黄泉の国にまで妻を迎えに行くという話である。

 黄泉の国とは死者の行き着く世界であり、とうとうそこに辿り着いた伊邪那岐は伊邪那美を見つけ出す。
 しかし、既に黄泉の国の食物を食らい、死者の国の住人となってしまっていた伊邪那美は簡単には元の世界へ戻れない。黄泉の国の神から帰還の許可が得られるまでの間、決して私の姿を見ないようにと念を押した上で、二人は待機することになった。

 愛する妻が目と鼻の先にいる状態で、伊邪那岐は辛抱ならず、遂にはその姿を覗き見ようとしてしまう。
 松明の揺れる火が照らし出したそこにはなんと、蛆に集られ腐った身体となった伊邪那岐が居た。

 それを見て恐ろしくなった伊邪那岐はその場から逃げ出し、伊邪那美はそれを追い掛け──いや、ここらで切り上げることにしよう。
128 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/01(日) 17:34:08.52 ID:Bl/o1C/K0
 「伊邪那岐にとって、醜悪な伊邪那美は愛せる対象じゃなくなった。住む世界が異なる。たったそれだけのことだけど、そこに想いは結ばれないんだろうね」

 憂愁の混じった吐息が聞こえる。隣へ顔を向ければ、物語の当事者のようにとっぷりと世界観に入り込んでいるのか、君は辛そうな表情でこちらを眺めていた。
 瞬間、僕はほとんど反射的に次なる言葉を見つけていた。

 「そんなことない。例えば鈴音が蛇女だったとしても、僕は変わらずに君を見つめられるから」

 その言葉は喉まで出かかった。が、瞬く間に軟口蓋が喉を塞ぎ、それは寸でのところで飲み込まれた。
 感情のままに動いてはいけない。僕は落ち着きを取り戻すように大きな深呼吸を挟んだ。
 
 客観的に見て、僕の放とうとしていた言葉はどれほどに自惚れたものだっただろうか。そのうえ、たとえ話であったとしても、彼女を気味の悪い妖怪として扱うことなど許されるはずがないだろう。僕は慌てて代わりとなる言葉を用意した。

 「…まぁ、これは伊邪那美を愛し切れなかった伊邪那岐が悪いんだろうな」

 「プシュケーとはまた違うけど、伊邪那岐は自分の愛に疑いが生じたのかもね」

129 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/01(日) 17:37:19.35 ID:Bl/o1C/K0
 そうやってお互いの概評を纏めたところで、僕達は伸びをしながら立ち上がった。
 
 「どこか行きたいところはある?」と君は尋ねつつも既に足を進めていた。

 「今日も鈴音のお任せで」僕は苦笑しながら彼女の後に続いた。
 
 山はすっかり茶色ばかりが目立つようになった。踏ん張るように枝に残ったごく少数の葉っぱも、冷たい風に吹かれてひらひらと舞い落ちていく。
 
 こうして冬になると極端に木々の間隔が広がってしまうのは、夏は草木が過剰に生い茂る反動ゆえなのだろうか。
 枯れ木を踏み締める音だけが無口な森に響き渡り、今日は虫の喧騒さえ演出されなかった。
 
 そんな寂々たる森の奥へと進めば、徐々に僕らの足音以外の物音が聞こえるようになった。
 こぽこぽ、こぽこぽと、一定の音律が森を流れていく。音源に惹かれるようにそちらへ向かうと、やがて僕達は少し開けた場所に出た。
 
 そこは落葉樹と常緑樹に囲まれ、枯れ葉の中にも緑がまだらに萌えている場所だった。
 辺りにゴロゴロと散在する丸い岩々には苔が生えていて、すぐ近くには大きな倒木が転がっている。そしてその中央には、透き通った清流が穏やかに流れていた。
 
 今日の目的地はここだったらしい。鈴音は倒木に腰を下ろすと、僕を促すように隣を叩いた。
 同じように僕も倒木を座椅子代わりにすると、彼は耐えかねたように彼なりの金切り声をあげた。
130 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/01(日) 17:40:03.12 ID:Bl/o1C/K0
 「ここ、良い場所でしょ?」

 小川のせせらぎに心身を落ち着かせていると、それに負けないぐらいに耳に快い声が鼓膜を撫でた。
 僕はそれを無言で肯んじた。こちらの意図を汲んだ彼女は、暫し静寂の時間を作ってくれた。
 
 時々、君がゆっくりと流れる浅瀬に指先を伸ばしては、「わっ」と弾んだ声をあげて水面から指を引っ込めたりもしていたが、それも含めて気持ち良い静けさだった。

 「ね、千風くん」

 不意に名前を呼ばれて、「どうした?」と僕は尋ね返した。彼女は挑戦的な笑顔を浮かべると、小川を指差し答えた。

 「せっかくだし勝負しよーよ。どっちが長く我慢できるか」

 鈴音との勝負事と言えば山登りが真っ先に浮かんでくるが、あれはもう勝てるビジョンが一切見えない。
 ともすればこのチキンレースも似たような結末に至るのかもしれないが、「よし、その勝負乗った」と僕は彼女に言葉を返した。

 大切なのは勝ち負けではない。第一に鈴音が笑顔になれて、二の次に僕が勝てるかだ。
 勝負を開始することに決めた僕らは、倒木から飛び降りて川辺に近づいた。
131 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/01(日) 17:43:52.22 ID:Bl/o1C/K0
 声を揃えたカウントダウンの末に、両者勢いよく水面に片手を突っ込んだ。
 バシャリと音を立てて二つの波紋が生じ、小さな気泡が下流へと流れていく。氷に包まれたかのような過度な冷たさに思わず唇を噛みながらも、僕は川に手を浸し続けた。
 
 意外にも勝負は長期戦へと突入した。
 僕も鈴音もさも何事もないかのようにポーカーフェイスで視線をぶつけ合いながら、自然の冷水に腕を浸らせ続けた。

 先に音を上げたのは、やっぱり僕の方だった。余りの冷たさに右手が刺すような痛みさえ覚え、堪え難く腕を水上へと救出してしまった。

 「いやー、流石にちょっと冷たいかな〜」

 などと呑気に笑いながらゆっくりと左手を引き上げた彼女は、その表情通りにまだまだ余裕に溢れているように見受けられた。
 しかし鈴音の左手もまた、僕の右手と同じように僅かに赤く腫れていた。
 
 鈴音でも度を越した温度変化には影響を受けるのか。
 そんなことを頭の片隅で思いながら、その時、僕は電撃的に閃いた。
 それを実行した場合に起こり得る可能性までをシミュレーションすることなく、いや、実際に想定してしまえばそんなことは出来なかっただろう。僕はあっさりとそれを行動に起こした。
132 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/01(日) 17:46:06.71 ID:Bl/o1C/K0
 「ひゃぇ!?」

 冷え切った僕の右手を、君の濡れた左手の甲にそっと重ね合わせる。
 その突発的な行動に鈴音は頓狂な声をあげた。君は跳ね飛ぶように僕の傍から離れようとするも、左手だけはその場から動き出そうとはしなかった。

 あんまり慌てふためく彼女が意外で、僕は思わず笑い声をあげてしまった。
 何が何だか分かっていない様子で、でも文句を言いたそうな鈴音は口を尖らせていた。

 「さっきの話の続きだけどさ」

 僕が話を切り出すと、鈴音は声も出さずにこくこくと固い動きで頷いた。
 凍えた右手には感覚が戻らず、未だ痺れが残ったままであった。
 色々が身体と頭に追いついて来る前に、僕は君に言いたいことを伝えた。

 「こうやって二人が感じる熱が同じなら、僕はそれで充分だと思うんだ」
133 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/01(日) 17:49:42.45 ID:Bl/o1C/K0
 僕は一体何を言っているんだ!?

 気取った台詞を放ち、その蛮勇を真正面から認識した瞬間、僕は顔から火が出たかと思った。
 動転の余り、自ら掴んだ鈴音の手を振り解くように放してしまうほどだった。
 
 一体、この衝動的な言動をどう釈明したものか。
 僕は途方に暮れながらも鈴音を見やった。
 
 君は宙に吸い込まれたように僕を見ていた。瞬きすることすら忘れて、彼女は愕然とその場で固まっていたのだ。
 その状態は長らく続いた。僕が心配になって声を掛けようとしたところで、鈴音は我に返ったように背筋を伸ばした。
 
 やがて君は黒目を僕の右手に移し、何を思ったのだろうか。
 一歩こちらに詰め寄ると、左手をゆっくりと伸ばし、先程の僕と同じように僕の手の甲にそっと触れた。
 そしてほんのりと赤い顔で僕を見つめながら、甘い囁きを放った。

 「それなら、これから毎日私に教えて?伝わる熱には、隔たりなんてないんだって」

 もうとっくに手の感覚は戻っていた。
 僕よりも一回り細く小さい指が手の表に纏わりつき、じんわりとした温かみが伝わってくる。
 一方僕の手は、全身の血液が集結したようにさぞ煮えたぎっていたことだろう。
 
 君に瞳を直視された僕は、目を逸らして頷くのが精一杯だった。
134 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/01(日) 21:24:49.74 ID:Bl/o1C/K0
 ♦♦♦

 
 ゆるりと流麗な細流に手を浸す。余りの冷たさに身の毛がよだつ。反射的に戻しそうになる腕を抑え込んで、僕は指先から感覚が失われるのを待った。

 冬の凍てつく流水は遠慮なく僕から熱を奪い去っていく。
 その勢いは、血管に冷水が染み込み、それが逆流していつか僕の心臓を止めてしまいそうな程であった。
 
 暫く経って水温に変化を感じられなくなったところで、僕は素早く川から手を取り出した。
 その過程を経たうえで、僕らは欠かさず日ごとに、新たに組み込まれたルーティンを行った。
 
 僕の方が君の手の甲に重ねることもあれば、鈴音の方から僕の手の甲に触れることもあった。
 どちらがどうするかはその日次第であったが、鈴音は毎度の如く何かを確かめるような微笑みを浮かべたし、対して僕はその度に息を止めて仏頂面を作った。
 極度の緊張感を手放さないようしっかりと握っていなければ、いつの間にか頬の筋肉が緩んでしまいそうで気が気でなかったのだ。

 そうして僕達は両手両足の指を使っても数え切れなくなるほどに、その気持ちの良い日課を繰り返した。
135 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/01(日) 21:28:22.11 ID:Bl/o1C/K0
 そして今日も今日とて、僕は右手の温度感覚の麻痺させてから鈴音へと手を伸ばしていた。
 彼女もあえかに腕を伸ばし、指先と細く小さな手が僅かに触れ合うと、やがて一方の手が甲にそっと添えられた。
 
 彼女の手の甲を握る数秒の間、僕は極力余計なことを考えないで済むよう、頭の中で山のように免罪符を刷っている。
 例えば、これはあくまでも彼女に熱を伝えるためだけの行為なのだとか、より温度感が伝わりやすいようにこうして手に触れているだけなのだとか。そんな感じだ。
 
 毎回手から血の気を引かせているのは、そうでもしないと必要以上に僕の熱が彼女に伝わってしまうから他ならない。
 だから鈴音の体温がうっすらと伝播し始めると、僕はすぐに手を引っ込めるようにしていた。
 今日もそろそろ夢の時間が終わる。西日の眩しい遊園地を後にするみたいに、僕は渋々手を離した。
 
 伝わってはいけないところまで伝えてしまっていないだろうか。何度やっても慣れない一連の流れの末に、僕はまた鼓動を速めていた。
 解かれた右手をしみじみと眺める彼女は、まるで全てを見透かしたような微笑を向けていた。
136 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/01(日) 21:31:09.50 ID:Bl/o1C/K0
 やや時間を置いてから、僕らは散策に繰り出した。
 
 ここら辺に頻繁に足を運ぶようになって早半年が経過した。
 それ故に、何処に何があるかも粗方把握しているつもりではあるが、山という存在は季節によってその有様を大きく変える。
 
 例えば今の時期なんかは、世界は実に殺風景に映っていた。
 地上は根を張る生き物にとっての準備期間となっているせいで、物寂しい空虚さが際立っているばかりだ。
 華やかさを追い求めて天上を見やれども、そこは白っぽい灰色で覆われており、その下で鳶が悠々と旋回しているのみだった。もし君がここに居てくれなくては、眠る山にはこれっぽっちの見所も残されていなかったことだろう。

 「冬の山ってさ、他の季節に比べると魅力に欠けるよな」

 手持ち無沙汰に足を動かしていた僕は何気なくそう言った。
 木々を縫うように通り抜けていた彼女は、振り返って形の良い眉を八の字に持ち上げた。

 「そんなことないのに。もっと周りに目を凝らさなきゃ」

 彼女は両手を大きく広げて僕に周囲へと意識を向けさせようとする。
 僕もそれに従って辺りをぐるりと見回すと、丁度彼女の身体で隠れていた部分にそれを発見した。と同時に、「例えばさ、ほら」と彼女はその場を指差した。
137 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/01(日) 21:35:28.16 ID:Bl/o1C/K0
 つる植物のような背の低い木が小さな赤い実をつけている。ついでに、深緑色の丸い葉は鋸みたいにギザギザとしている。
 この見た目でこの頃に実がなる植物と言えば、もうあれしかないだろう。今回の問題は比較的簡単であったからこそ、僕はすぐにその名前を思い出せた。

 「お、フユイチゴか」

 僕の解答に対して、鈴音は「そうだよー」と答えながら実を幾つか採集し始めた。
 
 「この時期にでも採れるんだな」

 彼女の屈んだ後姿を眺め言えば、「結構限り限りだけどね。だからよく熟れてるんじゃないかな」と片手に収まる量を手に入れた君は言った。
 
 こちらに向き直った鈴音は、果実を僕に分け与える素振りを見せた。
 受け取るべく僕は両手を椀にして差し出した。
 
 彼女は一粒抓み上げると、それを僕の手に乗せようとして、しかしその手を引っ込めて自分の口に放り込んでしまった。
 僕が唖然としている間に、彼女は口元を緩めながら冬苺を食べ終えてしまう。そして意地悪な表情で「あげない〜」などと言うのだ。
 
 別に、冬苺なんて然程甘くもないし、そこまでして食べたいという訳でもなかったはずだった。
 しかし、そんなに美味そうに食べられては興味が湧いてしまうというものだ。僕は素直に白旗を掲げた。
138 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/01(日) 21:39:36.84 ID:Bl/o1C/K0
 「前言撤回するよ。山はどんな時でも素晴らしい場所だ」

 そうやって山が季節問わずに魅力的であることを認めれば、僕も鈴音から残りの冬苺を分けてもらえると思ったわけだ。
 
 がしかし、それでも鈴音は僕に冬苺を分け与えることはなかった。
 代わりに一粒指で抓み取り、「口開けて?」と悪ふざけの延長線みたいな調子で言った。
 
 言われた通りに口を開けると、鈴音はおはじきみたいに冬苺を弾いた。それが上手いこと口内に飛び込んできて、僕は歯を重ねて果実を噛み潰した。
 溢れ出た果汁は随分と水っぽいものだったが、不思議と引き締まるような甘酸っぱさを感じ取った。
 彼女の満足そうな笑顔を見ていると、それは一層強い味覚となって舌に残った。
 
 一粒で充分満足できたことを知らせると、彼女は残りの冬苺を口に運びながら元来た道へと引き返した。
 僕もそれに倣って半回転する。二人してゆっくりと歩を進め、シンボルツリーまで残り僅かとなった時のことだった。
 
 ふと、眼前で白い浮遊物が舞い落ちた。
 それは鼻の上に乗ると、仄かな冷たさと共に消えてしまった。そのうち二、三と白い星屑がふわふわと宙を踊り始めた。
139 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/01(日) 21:42:47.02 ID:Bl/o1C/K0
 「雪だな、珍しい」

 僕はぽつりと呟いた。
 軽く頷いた鈴音は、薄明るい曇り空を眺めながら細雪を空いた手のひらで受け止めようとしていた。

 もう少し足を進めて大樹まで戻って来ると、僕らは予めそうすると決めていたようにその下を避難先にした。
 休憩がてらその場に座り込んだ鈴音は小さく言った。

 「流石に寒いね、雪が降ると」

 「鈴音が寒い?それ本当なのか?」

 この時期でもその服の薄さで平気らしい彼女が、なんと寒さを感じると言うのだ。
 意外過ぎるその一言に、僕は思わず率直に聞き返した。

 すると彼女は心外そうに、「当たり前じゃん。私だって寒いものは寒いよ」と口をすぼめて答えた。
 
 自分で自分を抱き締めるよう暖を取っている鈴音を見ていると、途端に、布切れ一枚しか纏っていないと言っても過言ではない君が、極寒の地に降り立ったかのような光景が脳裏に浮かんだ。
 僕は徐に厚い外套を脱ぎ去ると、それを彼女に差し出した。そして、

 「これ使えよ」と僕が言ってやれば、

 「でも、それじゃあ千風くんが凍えちゃうんじゃないの?」と鈴音は的確な返事をした。

 「まぁ確かに」と僕がやせ我慢することなく同調すると、

 「だからくっつこう」と君は肩を密着させる勢いで近づき、数ミリを残して身体を揺らした。僕の身体はびくっと跳ね上がった。
140 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/01(日) 21:45:34.16 ID:Bl/o1C/K0
 布越しにでも分かる鈴音の柔らかな肌が、寄せては返す波のように触れ合うこと数十秒。僕はとうとう平常運転で居られなくなった。
 このままでは、感情が理性を残さず焼き尽くしてしまいそうであった。
 
 足先に打ち寄せる波から逃げるようにして、僕は少しだけ彼女から距離を取ろうとした。
 その時、君は深く息を吐き出してから、丁寧な声色で不思議なことを言い始めた。

 「…私さ、時々千風くんが、聡明なんじゃないかな、って思っちゃうの」

 初めてそう言われたその時、僕はまず彼女の言葉の繋げ方につっかえを感じた。
 しかし次に言葉の意味を解釈し、僕は少々眉をひそめた。

 だから、「…それどういう意味だよ。馬鹿って言いたいのか?」と訊ね返したのだ。

 もちろん、本気で気分を害したわけじゃない。僕はそれを単なる気安い会話の一種として捉えていた。
 
 そう問い掛けられた鈴音は、暫し驚いたように瞬きを繰り返していた。
 その後になって愉快そうな笑い声をあげると、僕を宥めるみたいに優しい調子でこう言った。
141 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/01(日) 21:49:39.27 ID:Bl/o1C/K0
 「ううん、そんなことないよ。君は賢い子だと思う」

 久しぶりに「君」呼ばわりされて、僕はなんだかむず痒い気持ちを味わわされた。僕を「君」と呼ぶ鈴音は、いつもと違って一回り落ち着いた印象を与えた。
 彼女の言葉はそこで止まらなかった。「でも」と接続詞を挟み、君は心底穏やかに頬を綻ばせた。

 「やっぱり聡明じゃないんだろうね」

 賢いけれど聡明とは言えない。
 彼女に禅問答のようなことを言われて、なんのこっちゃ分からなかった僕は何も言葉を返せなかった。
 
 今度は僕が目を丸めていると、起き上がり小法師が重心を崩したみたいに、鈴音はこてんとこちらに身体を傾けた。
 最後の数ミリ詰め切られ、触れては離れてを繰り返していた半身が隙間を完全に失った。
 
 自分以外の息遣いを直に感じて、僕は心のうちで暴れる自分を抑えることに必死だった。
 君は僕の知識では表現し難い微笑みを浮かべ、ゆっくりと口を動かした。

 「だから凄く安心するし…私は、嬉しいかな」

 細雪が舞い散り一層気温の下がった世界で、僕達は半身を密着させて寒さを耐えしのごうとした。
 
 程なくして、雲の中央に亀裂が入り、辺りには光芒が差し込み始めた。次第に剝離していく雲の間隙からは太陽が姿を現し、しかしそれでも、僕らは長らく寄り添い合ったままでいた。
 外に晒された半身は凍え、くっついた半身は火照るほどに熱かった。
 
 身は悴めど心は茹だりそうな、冬のある日のことだった。
142 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/02(月) 18:04:36.26 ID:c3Z23hjh0
 ♦♦♦

 
 「お前はいつ頃からか、放課後遊ばなくなったよな」

 すっかり顔を赤くした日向がふと思い出したように言った。弱い昼白色で照らされた居酒屋は、まだ日中だというのに地元客で溢れていた。
 
 「そんな時期もあったな」

 僕が小鉢をつつきながら返事をすると、彼は揶揄うような笑みで続けた。

 「あれだろ?あの図書館の美人なお姉さんに恋でもしてたんだろ?」

 そこまで言われて、僕はようやく司書さんのことを思い出した。なかなか的外れなことを言われて思わず目が点となる。
 しかしまぁ、他の職員や図書館常用者からすれば、僕はさながら犬のように斎藤さんに良く懐いているように見えたのだろう。
 
 僕は適当に相槌を打ってから小麦色の液体を呷った。喉には弾けるような感覚が伝わった。
 
 それを照れ隠しのようなものだと思ったのか、日向は「いやー、あの人美人だったよなぁ〜」と昔日を懐かしむように呟いた。
 
 店内の白い壁の隅には、肩遅れのテレビが設置されていた。特に興味があった訳ではないが、僕は何気なく画面に目をやった。
 この季節らしく心霊番組のようだ。画面に映る出演者たちは、まるで幻影でしかない幽霊が本当に実在するかのように大袈裟に驚いて見せている。
 
 いや、今のは語弊のある言い方か。彼女らはそこに存在するかもしれないし、居ないかもしれない。少なくとも僕は幽霊を見たことがない。それだけの話だ。
 
 どうやらテレビの内容は酒の肴にはならないらしい。
 画面に着目していた彼も似たような結論に至ったらしく、酒のつまみに視線を戻すと、僕らはまた過ぎ去った日々に思いを馳せた。
 
 頭の片隅の方で、僕はひとり過ぐる日々に思いを巡らせた。
143 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/02(月) 18:07:27.93 ID:c3Z23hjh0
 ♦♦♦


 ストレスは大きく分けて二種類存在する。
 
 それは主にポジティブストレスとネガティブストレスと呼ばれるもので、一般的なイメージのストレスは後者に該当するだろう。
 後者を例えるなら、会社の上司が吐き捨てるような態度で罵倒してきた際に感じる鬱憤などだ。
 対してポジティブストレス、言わば前向きなストレスとは、普段行かないような場所で遊び倒したあとの気怠い心地良さなんかだ。
 
 こちらはリフレッシュとしても機能するという正の面もあるのだが、どちらのストレスも心身に負担を与えるという意味では共通している。
 引っ越しなどで生活環境の大変化が起こりがちな春頃、ストレスは特に人間に影響を及ぼす。
 
 ある研究結果によると、蓄積したストレスが発端となって、春季には恋人関係の破綻が増加傾向にあるらしい。
 それを知ってか知らずか、故人は春を別れの季節として扱ってきた。
 
 多くの人々が初めて別れの季節を胸に響かせるのは、中学校卒業の時なのだと思う。小学校卒業の時とは違って、これまでよくしてきた仲間たちと本格的にそれぞれ別の道を進んでいくことになるのだから。
 
 しかし僕はそれより一足先に、一つの物事の終わりに出会うことになる。
 
 別れと出会いの季節などとはよく言ったものだが、その春、僕は出会いを経験することなく、一方的に別れだけを押し付けられることになった。
144 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/02(月) 18:10:07.86 ID:c3Z23hjh0


 切り裂くような北風が唸りを潜め、淡く澄んだ空がぼんやりと霞むようになった。次第に長閑なそよ風が舞い込み、麗らかな日光が姿を見せ始めた。街行く人々の足取りも軽やかで、何処からか呑気な鼻歌が流れてくる日が続いている。
 
 僕も浮き立つ心地で街を通り過ぎて、お昼前の時分に図書館を訪れていた。
 借りた本の返却と新たな蔵書を借り出すのが目的だ。
 恐らく鈴音はいつでもあそこにいるだろうし、本当はこの時間でさえも鈴音との一時に割きたいのだが、僕の住む町の図書館は閉館時間が早かった。日暮れ頃までずっと彼女と共に過ごしたい僕としては、こうしてお昼前のうちにこちらへ向かうのが最適解なのである。
 
 図書館のドアを潜ると、まずは返却箱に借りていた本を仕舞う。次に受付の方へと視線をやり、斎藤さんが居るかどうかを把握する。
 居ればそちらに向かってお勧めの本を訊ねただろうし、居なければ自分の感覚で本を選ぶまでだ。
 
 彼女の姿は見えない。どうやら今日は不在のようだ。
 そう判断した僕がいつもの本棚へ向かって行くと、その途中に本棚整理をしている斎藤さんに出くわした。
 僕の姿を認識するや否や、彼女は挨拶さえ抜きにしてしまって、開口一番にこう言った。

 「良いニュースと悪いニュース、どっちから聞きたい?」
145 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/02(月) 18:13:32.54 ID:c3Z23hjh0
 斎藤さんからの報せに良いも悪いもあるのかは判別し難いことだったが、悪い話から聞いては後の良い話も喜べまい。
 
 少し考えてから「良いニュースで」と僕は答えた。

 「りょーかい。じゃ、ついて来て」

 彼女は僕を先導していつものコーナーへ連れて行った。
 
 そこで僕も気が付いた。これまでは図書館の隅にひっそりと存在していたその場所が、隣のコーナーを追いやって実に倍以上のスペースを占領していることに。
 
 僕は目を見開いて本棚を見つめていた。
 斎藤さんは屈んで僕の視点に背丈を合わせた。そしてその表情に微笑みを浮かべ、周囲の迷惑とならないよう控えめな声で僕の歓喜を代弁した。

 「少年の大好きな植物に関する蔵書が増えましたー!」

 確かに良いニュースだった。
 これだけ新たに蔵書が増えれば、僕はまた一歩鈴音の知識量に近づけるのだから。
 
 喜色を隠せないまま僕が目新しい本を取っては捲っていると、「少年がこのコーナーの本を頑張って読んでるから、貸出冊数が増えたのよ。日頃の努力の賜物ね」と斎藤さんは優しく言ってくれた。
 
 こうして褒められるのは悪い気分じゃない。彼女もこの部分だけを切り取れば聖母のような人なのだが、誰しも素顔が一枚とは限らないものである。斎藤さんに関して言えば、もう一枚の素顔は少々おふざけが過ぎるところだろう。
 
 今日はこれを借りてみようか、と興奮に一区切りついたところで僕は現実に戻ってきた。
 はしゃいでいるところを彼女にニマニマと眺められていることを認識し、どうにも極まりが悪かった。
 だから僕は反動的にぶっきらぼうに言った。
146 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/02(月) 18:15:39.50 ID:c3Z23hjh0
 「それで、悪いニュースってなんですか?」

 「私がここで勤務するのは明後日で最後ってことかな」

 まるで何事もなかったかのような言い草だった。さらりとそう言ってしまうと、彼女はいつも通り調子に乗った口を滑らせるのだ。

 「まぁ、私みたいに素晴らしい司書さんが居なくなっちゃうのは寂しいかもだけど──って、少年?」

 その時、僕は二重の意味で驚き通していた。
 
 一つは単純に、斎藤さんがこの図書館で働かなくなることについて。
 そしてもう一つは、世間話をすることはあれども、結局はビジネスライク的な関係に過ぎないだろうと考えていた斎藤さんが居なくなることに対して、少なからずの衝撃を受けている自分自身に向けられたものであった。
 
 口うるさくも僕にお節介を焼いてくれる彼女が、もう数日後にはその姿を消している。その場面を想像すると、なんだか胸に穴が開くような気分になった。
 不思議そうにこちらを眺めている斎藤さんに向けて、僕は素直な気持ちを言葉にした。
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