SS「半透明な恋をした」

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98 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2022/12/30(金) 22:49:43.09 ID:3+1GuYNt0
 彼女を安心させるよう、僕は努めて言葉を選んだ。そのお陰か、ようやく鈴音の表情にも微笑みが戻った。
 が、納得いかない部分もあるらしい。彼女は暫し小さな声で何事かを呟いていた。
 僕はそんな彼女をぼんやりと眺めながら、頭はまた別なことに作用していた。
 
 少なくとも今の問答を通して、分かったことが二つある。
 
 一つは、鈴音が冬の寒さを意にも介していないこと。
 そしてもう一つが、気温云々以前の問題として、『彼女はこの季節に半袖で居ることが異常であることを認識していないこと』だろう。
 
 率直に言って、こんなことが有り得るのだろうか?鈴音の体感覚は通常とは違っているとか、そういうことなのだろうか?
 
 疑問を解消出来たと思ったら、また新たな疑問がふわふわと頭に憑りついた。手で払いのけようとも霧が晴れることはなく、僕はどんどんと濃霧に呑み込まれていく。
 謎が謎を呼ぶ。上手くジグソーパズルを解いたつもりが、盤面からピースがそこから根こそぎ抜け落ちたようだった。
 
 それでも僕は性懲りもなく、ばらばらになったピースをはめ直そうと両手を動かし始める。かき集めた情報の断片を繋ぎ合わせることで、鈴音の全てを丸裸に出来るように。
99 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2022/12/30(金) 22:55:35.69 ID:3+1GuYNt0
 しかして以降の僕は、鈴音の不可解な点を見つけ出してはその原因を突き止めようとした。
 だがそれは、僕は探偵にでもなった気分だったとか、そんな自分に有頂天になっていたとかでは断じてない。
 僕はただ純粋に、彼女をより深く知り、もっと強く理解したかったのだ。

 それ故、この日のように鈴音の表情を曇らせることのないよう、それからの僕は疑問を頭の中で解消しようとするに留めた。
 僕にとっての優先順位を履き違えることはなかったのだ。
 
 と言っても、僕が不可思議を解き明かそうとしたことに変わりはない。
 秘密を暴くということには、得られるリターンが未知数である一方で、強大なリスクが付き物であることには留意しなければならない。それは分の悪い賭けに挑んでいると言っても構わないだろう。

 公然であろうと内密であろうと、秘密が秘密でなくなったその時、何かが破綻してしまう。暗黙の了解がいい例だ。
 そこまで分かっておきながら、僕は彼女の不可思議について考えることをやめはしなかった。

 恋は人を盲目にするとはよく言うが、実際はそればかりではない。
 恋とは、自分本位の自己中心的な思考回路へと至らせる破滅的な病でもある。
 そして過ぎた好奇心が滅ぼすのは猫でも人間でもなく、目には見えぬが大切なものなのだ。
100 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2022/12/30(金) 23:17:14.35 ID:3+1GuYNt0
 ♦♦♦


 その次の日は、生憎の雨天であった。
 朝から糸雨が絶え間なく降り注ぎ、昼間だというのに空気は冷え切っていた。
 土に汚れた運動靴が濡れた地面に茶色い足跡を残しては、雨粒が手早くそれを掻き消していく。僕は雨と鼬ごっこを繰り返しながら、霧雨に見舞われた曇り空の下を歩いていた。傘を差すことはなく、代わりに黒いポンチョをぽすりと被っていた。
 
 であれば、その足は毎度の如く図書館へと向いていたのか。
 はたと動きを止めた先には、雨粒を纏い艶やかな緑たちが待ち構えていた。
 なんの躊躇もなく濡れた草木をかき分け、やがて僕は目的の場所に辿り着いた。と同時に、太い幹の裏から彼女が顔を覗かせた。

 「おはよう。鈴音」

 「ん、おはよー。千風くん」

 実際にはもう午後三時を回っていたが、今日鈴音と会うのはこれが初めだ。だからこの挨拶にも何の問題もないだろう。
 そうして定型的な言葉を交わしてから、僕は鈴音の待つ大樹へと向かった。
 
 君との距離あと五メートルというところになって、彼女は突如「待って」と僕を立ち止まらせた。

 「どうしたんだ?」

 「えっとねー」

 鈴音は微笑みを浮かべながら言葉を濁した。彼女が何かを企んでいるのは一目瞭然だった。僅かな間を置いてから、鈴音は調子の良い掛け声と共にこちらに躍り出た。
101 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2022/12/30(金) 23:20:30.67 ID:3+1GuYNt0
 「じゃーん!どうかな〜?」

 裾を掴んでそれらしい姿勢を取った彼女は、この薄暗い天気に似合わないぐらいにいつもに増して陽気な様子であった。
 
 そんな鈴音を目にして、僕はただただ不思議でならなかった。
 だって、彼女はいつもと変わらず下駄っぽいサンダルに白いワンピースを纏って、鏡のような黒髪とその魅惑の頬笑を──。
 
 と、そこで気が付く。星のように僕の両目を惹き付ける微笑みから目を逸らし、まず彼女の足に着目した。
 山を駆け巡っているうちにいつかポッキリ折れてしまうのではないかと、見ている方がヒヤヒヤするほどに細い線を描いた乳白色の脚が、今日は幾ばくか見え辛くなっている。
 
 更に彼女の上体に視線を移してみれば、いよいよその変化は明らかになった。
 いつもは余すことなく外界に晒されていた華奢な腕が、今やすっかり白い生地に覆われてしまっているではないか。

 「長袖にしたのか?」

 再び彼女の顔を見やって問い掛けると、「うん、そうだよ!」と二つ返事が返された。

 やはり鈴音も来たる冬の寒さには耐えられず、半袖は止めにしたということだろうか。いやしかし、結局あの生地の薄さではどんぐりの背比べといったところだろう。となると、何故長袖を着るようになったのだろうか。
 
 などと考えていると、鈴音は妙な咳払いを挟んでから、耳打ちするみたいな小声を発した。
102 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2022/12/30(金) 23:22:42.78 ID:3+1GuYNt0
 「それで、千風くん的には、どう?」

 「どうって…」

 君の曖昧な言葉に対して、僕は幾通りかの答えを思い浮かべた。
 鈴音は何かを待ち望むように何度か僕の目を見てはそっぽを向いた。
 そのいかにも褒めて欲しそうな君の様子を前に、自ずと頬は緩んでいた。微笑みを浮かべた僕は、どうとでもとれるその言葉を贈った。

 「すごく、似合ってると思う。やっぱり鈴音には白が一番なんだろうなって思わされるぐらい」

 決してお世辞ではない。それは鈴音を良い気分にさせつつも、僕の気持ちのごく一部を入り交えた嘘偽りのない本音だった。
 それでも胸に抱く感情は悟られたくなくて、それが表に出ないよう僕は努めて真顔で言ってのけた。

 賛辞を受け取った君は、「そっかそっかぁー」と何気ない素振りで即応した。
 
 程なくして、僕らは隣り合わせに大樹に寄りかかった。
 お互いに言葉を発することはなく、霧雨が葉を叩く音に暫し耳を澄ませた。そこには悪くない沈黙が漂っていた。
 
 だから時折、「えへへ…」と照れくさそうな笑声が隣から聞こえたのは、抗えず横目を向ければ、そこに気恥ずかしそうな君が居たのは、全て僕の気のせいなのだろう。
103 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2022/12/30(金) 23:29:11.31 ID:3+1GuYNt0
 

 暫時雨止みを待ってはみたが、今日のバケツはまだまだ空っぽにならないらしい。
 僕らはその場から一歩も動き出せないまま、静謐に身を任せていた。
 
 どうして僕は雨の日だというのにここに来たのか。それは単純なことで、嵐の日に鈴音が僕と同じように山を訪れていたから他ならない。
 以前の僕はてっきり、鈴音は雨天時には足を運んでいないものだと思い込んでいたのだが、あの日、実際はそうでないことを理解したのだ。
 
 そういうわけで、僕はあれから天気に関わらずここにやって来ている。
 もちろん、雨の日に出来ることは少ない。こうして大樹の下で雨宿りすることが関の山だろう。あとはぽつぽつと僕が日常の話題を持ち出しては、彼女が優しく相槌を打ってくれるぐらいだった。
 
 遠い雲から零れ落ちた無数の雨粒は、大樹が命一杯広げた葉を容赦なく打ち付けていた。真上の方では雨が葉を叩く乾いた音が無数に響き渡り、正面では枝から滴り落ちる雫が深い水溜まりを作っていた。それは鹿威しみたく一定間隔で耳障りのいい水音を奏でていた。
 
 僕はこの時間にある種の心地良さを見出していた。
 普段は快活に笑い、活動的に動き回っている僕らが、この時ばかりは人が変わったように静かな時間を過ごす。その緩急が良かったとでも言えばいいのだろうか。鈴音と共に雨音へ耳を傾け、のんびりと時の流れを感じるこの瞬間は嫌いじゃなかった。
 いつしか雨が降ると妙に荒ぶるようになった心音も、何故だか君と共にいれば唸りを潜めるのだ。

 まぁ、少し前までは雨模様が嫌いだった癖に、今となっては雨天をも快晴と同列に扱うようになっている自分の手のひら返しには呆れてしまうのだが。
104 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2022/12/30(金) 23:33:04.22 ID:3+1GuYNt0
 結局、その日は日暮れまでに雨足が弱まることも止まることもなく、僕らは長閑けな一日を終えた。
 まだ鈴音との時間を終わらせたくないと思う反面、また明日には素晴らしい時間が訪れることを訳もなく期待する。
 そうやってなんとか名残惜しい気持ちに区切りをつけて、僕は重い腰を上げるのだ。

 「あっ、そうだった」

 僕らが別れを交わそうとしたその時、鈴音は言い忘れていたように両手を叩いた。

 「明日はさ、千風くんは山に来ちゃ駄目だからね」彼女は別れ際にその言葉を付け加えた。
 
 一瞬の間を置いてから「…?鈴音も来ないのか?」と僕はたいそう疑問気に尋ね返した。
 
 僕らは明確に遊ぶ時間帯を決めず、野良猫みたいに気ままな調子でここに集まっている。だからこそ、来るなと言われるのは初めてのことであり、それは同時に意外な発言でもあったのだ。

 僕の問い掛けに対して、鈴音はさらっと「うん、まぁそんな感じ」と答えた。
105 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2022/12/30(金) 23:38:54.28 ID:3+1GuYNt0
 厚い雨雲のせいもあって、帰り道はもう薄闇に包まれていた。

 僕が慎重に足を進めようとすると、「ちゃんと足元に気を付けてね」と彼女は何処か不安そうに言った。

 「ん、じゃあ、またな」と僕が言葉で応じれば、「ん、ばいばい」と君もまた相槌を打った。
 
 別れの言葉を皮切りに、僕は長い下り道を進んでいった。
 その間、いつも僕は一度読んだ本を見返すように一日を振り返っている。例えばその日は、何気ない情景の一つ一つを描いては、僕は長袖ワンピースを纏った君の姿を噛み締めるように何度も再生していた。
 
 ふと足が止まった。今日の鈴音を思い返していると、変な引っ掛かりを感じたのだ。
 
 一秒前に頭をもたげたことを掘り返すように、僕はもう一度じっくり今日という日の日記を読み込んだ。
 するとやはり、ある描写に違和感が見つかる。その不可思議を具体的な形にしたくなって、僕は誰に言うでもなく、雨音に包まれた森でそれを言葉にしていた。
 
 そう言えば、雨具を持っていない鈴音は、どうやってに濡れずにあそこまで来たのだろうか。
106 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2022/12/31(土) 15:36:19.71 ID:Mr3crreJ0
 ♦♦♦
 

 その次の次の日の放課後、僕は山に向かうことなく図書館へと繰り出した。
 水気の多い絵の具で塗りたくったような空には、異国の夏を追い掛けたばかりに遠くでひかめいている太陽が浮かんでいた。
 今日はこの季節にしては、外で動き回るのに最適な日だった。
 
 せっかくの晴れに彼女と遊べないことは残念極まりないが、一度その寂しさに身を浸すことで、明日がより楽しみになることだろう。
 そうやってある意味での正当化を図ることで、今にも百八十度回転しそうな我儘な足をなんとか言い聞かせる。
 彼女に会いたい欲求を抑え切ったところで、僕は図書館の扉をゆっくりと開いた。
 
 館内入場三歩目のことだった、長身の彼女がこちらに向かって来たのは。

 「お、少年。珍しいね、雨が降ってもない昼下がりにここに来るなんて」

 僕の姿を認めた斎藤さんは心底意外そうに言った。
 
 「そういう日もあるんです」と挨拶がてらに言葉を返すと、僕らはそのまま図書館の一角へと足を進めた。
 
 こうして図書館を訪れる度に斎藤さんが僕を気に掛けてくれるから、いつの間にか彼女は僕専属の秘書みたく振舞うようになった。
 彼女は慣れた手つきで本棚から数冊引っこ抜いては、それらをざっとテーブルの上に並べた。

 「で、今日はどっちの本探してるの?植物系?それとも神話系?お勧めはこれとこれなんだけど」
107 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2022/12/31(土) 15:40:00.17 ID:Mr3crreJ0
 毎度僕の趣向にピッタリ合った本を提供してくれる斎藤さんは、もしかせずとも何か別のことに才能を活かした方が良いのかもしれない。
 まずは数冊分の表紙を眺め、それらを一冊ずつ手にとっては数頁を捲って感性と相談する。

 暫く経ってから「じゃあ、今日はお勧めどっちも借りることにします」と僕は答えた。

 本来なら斎藤さんの仕事もここで終わりのはずなのだが「そう言えば」と彼女は言葉を続けた。

 「えーっと…日向祐介くん、だっけ?少年のこと探してたよ」

 「日向が?なんでですか?」

 よもや斎藤さんからアイツの名前が出てくるとは思わなかった。
 何処がどう繋がってこんな伝言が届けられたのか。と言うか、同じクラスに属しているというのに探しているとはどういう意味なのか。
 
 疑問が後者に偏った結果、僕はそちらについて訊ね返した。

 「さぁ?まぁ察しは付くけどね。少年は雨の日とかに良く来るよー、って教えてあげたんだけど、どうやらその生態も移り変わりつつあるみたい」

 「人を観察動物みたいに扱わないでください」
108 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2022/12/31(土) 15:44:56.65 ID:Mr3crreJ0
 斎藤さんとしょうもないやり取りを交わしながら、僕は久々に日向のことを思い出していた。
 しかしあの時の怒りは再燃するどころか、今や完全に沈下していた。僕は根に持つ性分ではないのだ。
 
 とは言え、あれ以来僕は彼らと遊ぶことはなくなった。でもそれは別に、彼らが許せないとかそういうわけではない。
 学校の時間は本を読んでいればいいし、放課後には鈴音に会いに行くわけだし、ただ彼らがいなくとも僕の世界は成立していたというだけの話だ。
 人というのは、どこにも居場所がないことは辛いが、どこか一つでも安息地が見つけられたならそれで充分な生き物なのだ。
 
 まぁ、用があるならそのうち向こうから話し掛けてくるか、と適当な考えに落ち着いた僕は、受付にて本を借りるべく動き出そうとした。
 しかし一歩目でその足を止めると、僕は首を後ろに向けた。

 「一つ、聞きたいんですけど」と僕は話を切り出した。

 「私に答えられることなら」斎藤さんは頼もしい返答をくれた。

 昨晩から頭をひねっては答えを導き出せなかった疑問。僕はそれについて訊ねた。
109 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2022/12/31(土) 15:48:09.26 ID:Mr3crreJ0
 「今日は山に入るなって言われたんですけど、何か知ってたりします?」

 これまで毎日のように(あれ以前は天候によりけりだったが)森の中で落ち合っていた僕らが、何故今日に限ってそれを制限しなければならなかったのか。
 僕にはそれがどうしても理解が出来なかったのだ。
 
 僕が顔を出せば必ず姿を現してくれる以上、鈴音があそこで待ってくれているのは当然のことのように思えてしまう。
 だから今日も言いつけを破って山に向かえば、「来ちゃダメだよって言ったのにさ〜」と朗らかに笑う君が居る気がしてならなかったのだ。
 
 僕の質問を受けて、斎藤さんは少々考える素振りを見せた。

 「そうねぇー…禁足日とかじゃないの?」

 「禁足日?」

 聞き慣れない言葉を前に、僕は鸚鵡返しをした。斎藤さんは重ねて推測の予防線を張りながら続けた。

 「そう、日頃狩りや木々の伐採でお世話になってる山の神様に感謝する日のこと。その日は山に入っちゃいけないんだって。私はよく知らないけど、多分今日がその日なのよ、きっと」

 「なるほど…」
110 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2022/12/31(土) 15:51:42.44 ID:Mr3crreJ0
 「禁足日って言うのはねぇ、一時的に禁足地に早変わりするみたいなものだから中々に背筋の凍る話が揃ってるのよ。例えばこの怪異小説なんかは──」

 「結構です」

 楽しげな様子で赤い表紙の本を紹介しようとしている辺り、図書館で働いている斎藤さんもやはり本の虫ということなのだろう。
 
 しかし、それは僕にとって耐え難い内容であった。
 訪問セールスをあしらうよう片手を前に出す。身振りでも意思表明を済ませると、僕は早々に受付に向かった。
 
 大きな体で行く手が阻まれた。彼女は嫌な笑みを浮かべながら「ん?もしや少年は怖いものが苦手なのかな〜?」などと僕を煽った。
 それでも知らんぷりを貫き通すと、「ちぇ」と詰まらなそうな舌打ちが聞こえた。
 
 難は乗り越えたか。
 流石の斎藤さんも、僕がそれを明言しないからと言って本を貸さないなどという暴動に出ることもなかった。
 結果、僕は無事に目的の本を借り出すことに成功した。
 
 だがそこはあの人だ。僕は借りるつもりのなかった本を一冊、彼女は無理に預けてきた。
111 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2022/12/31(土) 15:55:43.76 ID:Mr3crreJ0
 「ま、少年もこれでホラー慣れしときなさい」

 よし、一頁も捲ることなく返却しよう。
 僕はげんなりとした気分で堅い決意を抱きながら、対照的にニマニマとした笑顔の斎藤さんからホラー小説を受け取った。表紙でさえも見たくなかったが、それが視界の端に映るのは不可抗力であった。
 
 瞬間、僕は見えない何かに頭を固定されたように表紙に釘付けとなった。
 
 長らく手入れされていないであろう乱れた長髪。病的にまで青白い肌。原始的恐怖を呼び起こす真っ黒な眼窩。そしてくすんだ白のワンピース。
 典型的且つ王道の幽霊が、そこに描かれていた。
 
 だが脳内の情報処理はまだ止まらなかった。
 長いことズレていた歯車が噛み合い、確かな音を立ててつっかえていた絡繰りを起動させる。神経細胞にシナプスが駆け巡る。脳裏に断片的な単語が浮かんでは消えていく。
 
 綺麗な白のワンピース、雪のような肌色、寒さを感じない、雨にも濡れない肌は焼けない髪は伸びない、そう言えばどうして彼女はいつも時間ピッタリにあそこに居てくれてる──。

 「…まさかな」

 脇下に僅かな湿り気を感じ取り、嫌な痺れと共に背筋がピンと伸びた。
 
 「少年、どしたの?」

 斎藤さんは不思議そうにこちらを眺めていた。

 「いえ、なんでもないです」

 現実に引き戻された僕はぎこちない笑顔を浮かべた。
 
 正直、妙な合致点が多過ぎると思った。
 
 しかしまぁ、そんなことがある訳ないじゃないか。事実は小説より奇なりとはよく言ったものだが、幽霊なんて科学的根拠に欠ける存在だろう?あぁ、その通りだ。うん、くだらないことを考えるのはよそう。
 
 土砂崩れのような思考を強引に堰き止め、僕はその余りに飛躍した可能性を頭から追いやった。
112 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2022/12/31(土) 17:17:16.97 ID:Mr3crreJ0
 ♦♦♦
 

 一周回って日が天に上ると、僕はまた山へと向かうようになった。
 
 僕があそこに辿り着けば、やっぱり鈴音もひょっこりと姿を現した。そんなことを何カ月も繰り返しているなんて、もしや僕らは磁石のように引かれ合っているのだろうか。
 いや、残念ながらそれは一方的な思い込みなのだろう。実際の僕らはS極とN極などではなく、単に僕の方が引き込まれているだけに違いない。
 
 だがこの数日間を境に、僕はそんな甘い幻想に浸っているばかりではいられなくなった。馬鹿げた思考が脳裏を過っては、事ある毎に僕の心に陰りを与え始めたのだ。
 
 これがそのれっきとした証拠だろう。彼女は懸命に首を伸ばしてこちらを覗き見ながら、不服そうに言った。

 「もうちょっとこっち寄ってよー。じゃないと見えないからさ〜」

 二人揃って大樹の麓に腰を下ろし、今日は僕が本を開けている。最早恒例となった読書会だ。
 しかしそこには、以前と違っている点が一つあった。
 
 それは隣り合った僕らの距離感覚である。
 前までの僕と鈴音は肌と肌がかろうじて触れ合わないぐらいの間隔で座り込んでいた。微風が吹けば君の髪が流れ、僕の頬にくすぐったい感覚を残す。鼻孔には落ち着く匂いが広がり、僕の全身は骨が抜けたのように和らいだ。
 それはそれは、実に安らかな心地でいられる時間だった。
 
 しかし今はどうか。僕らの間には一人分ぐらいの奇妙な空間が生じているし、彼女がこちらににじり寄れば、僕は距離をとるまではせずとも仄かな緊張感を覚えた。
 この排他的な合間を設けたのは僕の一方的なことだし、そもそもこれまで彼女の傍に寄っていたのも、君が何も言わないことを良い事にしていた僕の方であった。
113 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2022/12/31(土) 17:21:21.55 ID:Mr3crreJ0
 僕は不自然に鈴音を遠ざけようとしている。

 それは自分でも自覚していることであった。
 そしてまた鈴音も、薄々何か勘づいてきたのだろう。つい昨日から僕の真意を図りかねた様子で、

 「…ね、どうしたの?」

 と頻りに尋ねてくるようになった。その度に僕は精一杯の貼り付け笑顔で、

 「どうかしたのか?なんでもないけど?」

 と応じるのだ。
 
 「…そう?なら良いんだけど…」と君は答えたものの、その表情はほんの少しの憂いを残したままであった。そんな君に出会えば出会うほど、僕の胸は爪楊枝で突かれたみたいにチクリと小さな痛みを感じ取った。
 
 僕は繰り返し自分に言い聞かせる。脳内に纏わりつく二つのイメージをなんとかして切り離そうとする。
 しかしそれは溶解した金属みたいに接合点で溶け合って離れず、じわじわと彼女への心象に不純物が混じっていく。
 
 そうだ。鈴音は何も悪くない。邪まなのは割り切れない僕なのだ。
 
 こうして鈴音に忌避感めいたものを抱いてしまった原因は分かっている。赤い表紙のせいだ。清廉な鈴音とあの汚らわしく陰湿な表紙絵は似ても似つかないはずなのに、いつしか僕はそれを混同してしまっていた。
114 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2022/12/31(土) 17:26:11.79 ID:Mr3crreJ0
 一度でも錯覚が生じてしまえば、物事の見え方は大きく歪む。
 言わば、その正否に関わらず、仮説の肯定に繋がる要素ばかりに囚われてしまうのだ。
 
 世にいう確証バイアス。僕はまさにその状態に陥っていた。
 
 加えて、これまで腑に落ちなかった疑問の数々も、彼女が非科学的な存在であると仮定すれば説明がついてしまうのも問題であった。
 もっとも、前提をそんな都合の良いものにしてしまえば、当たり前の如く疑問というものは大概が解決してしまえるのだが、当時の僕はそんな簡単なことさえ見落としていた。
 
 例えば、仮に彼女が隣町の学校に通っているのだとしたら、距離的に考えて僕の方が先にここに着くはずなのだ。なのにいつもここで待ってくれているというのは一体どういうことなのか。
 他にも、そう言えば何故彼女は僕よりも先に帰ることはないのか。何故僕を見送っているのか。そもそもいかで日常の話題を一つも吹っ掛けてこないのか。
 
 考えたことを一から挙げるとキリがないが、それら全てが鈴音と幽霊との結びつきを強めたことに違いはない。
115 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2022/12/31(土) 17:28:18.50 ID:Mr3crreJ0
 言わずと知れたことだが、人は正体不明の未知を恐れる生き物だ。
 
 それは僕とて例外ではなかった。

 僕には幽霊なんて居るわけないだろうと笑い飛ばせる勇気もないし、襲い来る幽霊に向かって強気に立ち向かえるような度胸もない。
 もし独り暗闇の中に放り込まれるようなことがあれば、何処かで何かが血眼になって生者を睨み付けているのでは、と訳もなく恐怖に苛まれ、膝を掛けて震えあがることだろう。
 
 恐れという感情には人一倍敏感な僕が、僅かにでもその可能性を見出してしまったのが運の尽きだったのかもしれない。
 鈴音をそんな風に見てしまうなど、己の審美眼が曇ったようでこの上なく不快だったが、それでも原始的本能には打ち勝てなかった。
 
 もちろん、とって食われるかもしれない、などとまで思っているわけではないはずだ。
 だが彼女はいつか正体を露わにし、血走った目で僕の首を両手で締め上げるのではないか、と思うと、とても無防備に傍には居られなかった。
116 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2022/12/31(土) 17:31:59.80 ID:Mr3crreJ0
 「んー…今日はもう読書やめよっか。千風くん、実は身体動かしたいんでしょ?」

 鈴音は徐に立ち上がり、見当違いなことを言ってのけた。
 
 「…あぁ、そうしよう。やっぱり冬は寒いからな」

 適当な言葉を返し、僕は彼女の提案に乗った。歩き回るとなれば、距離を開けても怪しまれはしないだろうと思ったのだ。
 
 そうして僕らがぎこちない距離感で大樹の下を発とうとした矢先のことだった。

 「千風!」

 何処で聞き覚えのある声が響いた気がした。それは彼女の清らかな声とは違い、若い男の子が発するような大きな声だった。
 辺りを見回してみれば、僕らの前方に日に焼けた少年が見えた。

 「日向か、久しぶりだな」

 「…あぁ、こうやって話し掛けるのは、久しぶりだ」

 僕がいつもと変わらない調子で言葉を切り出したのに対して、日向はやけに慎重に言葉を選んでいた。僕らがまともに口を利いたのは、実に数カ月ぶりのことだった。

 「よく僕がここにいるって分かったな」

 「最近放課後になったら居なくなるから、もしかしたらここかと思って来たんだ。当たりみたいだったな」

 二言目を発する時には、日向も以前の様子に戻っていた。なるほど彼がここにやって来られたのは、僕が一度連れてきてやったからか。

 「それで、わざわざここまで来てどうしたんだ?」

 「そのー…」

 三言目になると、日向はまた言葉に詰まった。
 首裏に手を当てながら煮え切れない様子で右のつま先を立てる。数度靴先で円を描いたところで、意を決したようにこちらに顔を向けた。
117 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2022/12/31(土) 17:34:10.45 ID:Mr3crreJ0
 「この前は、結構言い過ぎたなって思って…。やっぱり、このままじゃダメかと思ってさ…その、悪かった」

 「あぁ、そんなの気にするな。僕らの間じゃ珍しくないことだろ?」

 僕はあっさりと日向を許した。実際、僕らは喧嘩が日常茶飯事みたいなものだったし、今回も特に深刻な仲違いをしたという訳でもない。これまでは大体、どちらかが謝りたい雰囲気を醸し出したところでそれとなく仲直りを繰り返していたが、今回の僕はそんなことそっちのけであった。
 
 その最大の理由が、僕の隣で身体を強張らせ、黙りこくっている彼女である。
 せっかくの機会だと、僕は鈴音に目配せした。それから、「それよりさ」と僕が日向に向き直れば、

 「だめっ──」

 鈴音は小さな悲鳴を上げると共に、慌てて僕の服の裾を掴んだ。しかしそれは一歩遅く、僕は胸を張って彼女を紹介してしまっていた。

 「ほら、こいつが前に言ってた鈴音だ。植物博士で御伽噺にも詳しいんだけど…鈴音?」

 遅れて彼女の妙な反応に気が付く。
 鈴音は裾をぎゅっと握り絞めたまま、僕の身体を遮蔽物にするように後ろへ隠れてしまった。
 鈴音に手の近くを掴まれ、僕の心臓は喜びと恐怖の二つの意味で大きく脈動した。
 肩
 越しに振り返った視点を元に戻す。日向は僕を眺めて唖然としていた。数秒口が閉じないような素振りを見せた末に、我が目を疑う様子で恐る恐る言った。
118 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2022/12/31(土) 17:36:35.14 ID:Mr3crreJ0
 「……千風?お前一人でどうしたんだ…?」

 「……は……?」

 頭が困惑一色に染まり切った。
 日向が放った短い言葉を三度ほど繰り返し、長い時間を掛けてそれが聞き間違いなどではないことを把握した。
 
 そして同時に、もう一つ理解せざるを得なかった。
 僕と同じか或いはそれ以上に愕然としていた日向は、動揺したままに言葉を続けようとした。

 「いや、だから一人で──」

 それ以上は言わせてはならない。言わせたくない。言って欲しくない。
 様々な感情が入り混じった結果、僕は直感的な判断を下し、すぐさま言葉を重ねた。

 「あぁ、ちょっと寝ぼけてたみたいだ。さっきそこで昼寝してたからさ。…まぁ、日向は先に帰ってくれ。また明日な」
119 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2022/12/31(土) 17:41:44.54 ID:Mr3crreJ0
 春や秋ならまだしも、この寒さの中外でうたた寝する馬鹿者など居るはずがないだろう。僕の口から出まかせは甚だ杜撰なものであったが、混乱状態の日向には効果覿面であった。
 
 捲し立てるように堂々と言い切ってやれば、彼もひとまずそういうものだと飲み込むことにしたらしい。何かを不思議がりながらも、「…あぁ、また明日な」と別れの言葉を残して去っていった。
 
 その背中が確実に見えなくなるまで見送り続ける。残された僅かな間で目が回るほどに思案を繰り返す。
 僕と鈴音との空間に嵐が襲い来たことで、これまでの安寧は根こそぎ破壊されてしまった。
 
 まぁずっと前に僕は日向達を連れてきたのだから、どう転んでもこのような結果には行き着いたのだろう。これは僕の蒔いた種だ。誰にも文句は言えまい。
 さて、これから僕はどうしたものだろうか。いざという時には、全力でこの場から逃げ出さねばならないのだろう。
 
 虫の音はおろか、鳥一匹の囀りさえ聞こえない。冬の寂しい空気だけがその場を突き抜けていた。
 僕はあらゆる可能性を想定しつつ、思い切って身体ごと振り返った。
 
 その先には、視線を落として縮こまっている鈴音が居た。そこには普段の彼女が放つ明るい様子は微塵も見受けられなかった。
 僕は警戒を怠らず、彼女の予備動作に備えた。
 僅かな沈黙ののちに、鈴音は滲んだような瞳で僕を覗き込んだ。
120 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2022/12/31(土) 17:45:01.48 ID:Mr3crreJ0
 「…え…っと、ね…。その…わ、私は…」

 しかしそれは言葉とならず、君は怯えたように声だけでなく身体をも震わせた。それはまるで、大きな罪を犯したが故に相応の罰を待つ子供のような姿だった。
 
 鬼が出るか蛇が出るか、といった心構えで後ろを向いた僕は、そのどちらもが姿を現さなかったことに唖然としていた。
 やがて鈴音の目尻には光るものが浮かび、君はそれを隠すように俯いた。数滴の雫が大地を微かに湿らせた。
 
 途端、訳もなく胸が締め付けられた。
 大地に染み渡る水滴が己の心にも及んでいるように、いま自分が何にも代えられない耐え難い苦しさを覚えていることを強く意識させられた。
 
 ──あぁ、そういうことだったのか。
 
 その時、巨石が音を立てて瓦解するように、或いは波にさらわれた砂城のように、僕の中の変に凝り固まった価値観は一掃された。
 十年近くと一緒にいるはずの自分の一端をようやく理解できた気がして、それは心地良ささえ感じるほどに不思議と腑に落ちる答えだった。
 
 あんなにも掻き乱されていた心が、今は迷い一つ感じられない。
 僕は何気なく身体を伸ばすと、彼女を追い越すようにゆっくりと歩き出した。
121 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2022/12/31(土) 17:50:24.24 ID:Mr3crreJ0
 「じゃ、ちょっと身体動かしに行こうぜ。ずっと座ってて身体鈍ってるしなー」

 「…千風、くん…?」

 僕の間延びした言葉が辺りに木霊した。それはこの緊迫した空気に不相応なもので、君は戸惑いに塗れた声色で僕の名前を呟いていた。
 僕は思い直したように数歩進めた足を戻して、徐にポケットからハンカチを取り出した。それで彼女の目尻から柔らかい頬にかけてを丁寧に拭ってやると、僕はいつも通りの、嘘偽りのない微笑みを向けた。

 「ん?なんかあったか?ほら、早くしないと時間なくなるぞ」

 まるで僕の行動が全く理解出来ないといった様子で、君は狼狽したように長らく僕を見つめていた。
 しかしある時になって、ようやくその表情に日を差し込ませてくれた。
 僕がほっと胸を撫で下ろすと、そのまま鈴音は僕を追い抜くように駆け出し、やがてはいつものように僕を先導し始めた。
122 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2022/12/31(土) 17:53:06.32 ID:Mr3crreJ0
 やっぱりこれで良かったんだな。

 彼女の屈託のない笑顔を眺めていると、僕は深くそう思わされた。
 暗黙の秘密が暴かれそうになった直前で、僕は何よりも優先するべきものを再認識出来たのだ。
 
 あんなにも不安そうに怖がる君を見たその時、鈴音にはそんな顔をして欲しくないんだと、いつでも太陽みたいな笑顔を魅せて欲しいんだと、僕の魂は切に叫んでいた。
 回りくどい事はなしにして、結局のところ、それが全てだった。
 
 要するに、君がこの地に囚われた地縛霊だろうと人の形に化けた妖狐だろうと、僕が君に抱く気持ちは変わらないのだ。
 もちろん、本当のことが気にならなかったと言えば嘘になる。
 だがそれで鈴音が嫌な思いをするぐらいなら、そんなことは知らずにいるほうがマシだった。そういうことだ。
 
 如何に表面が暗い靄に覆われようとも、奥底では真っ直ぐな感情が息をしている。大切なのは属性ではない。そこに想いが宿るか否かだけなのだろう。
 
 そもそも、これほどにまで純粋な君が悪霊な訳がないし、よしや呪いを掛けられたとしてもどうってことはないのだ。僕にとって鈴音から授かる呪いというものは、驚喜の福音に等しいだろうから。
123 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/01(日) 17:15:42.87 ID:Bl/o1C/K0
 ♦♦♦


 それ以外には何もない、駅前のバス停に佇むこと三十分強。ふと身体が陰に覆われ、目の前で空気の抜ける音が聞こえた。
 
 やっとのことで古びたバスが到着したようだ。かつては鮮やかであったろう外装は剥がれ落ち、バスは今や傷だらけの姿をしていた。
 ディーゼルエンジンからは黒い排気ガスが噴き出しているが、その間隔は不規則で今にも動きを止めてしまいそうだ。
 
 という感想を抱くのはこれで何度目だろう。案外故障しない所を見るに、こいつもブラウン管テレビみたいなものなのかもしれない。
 軋んだ音を立ててドアが開くと、僕はバスに乗り込んだ。特段冷房が効いている訳でもなく、当然のように蒸した空気が室内を覆っている。窓が大きく開け放たれていることが唯一の救いだった。
 
 定刻には十分ほど遅れているものの、定年間近と見える白髪の運転手は謝りもしないし、一方僕もそれを咎めることはない。
 この街では皆、時間にルーズなのだ。まるで徒競走でもしているような忙しなさの都会とは違っていて、時の流れはゆったりと動いている。
 ここで暮らしていると、時計の針が止まっているのかと勘違いしてしまうぐらいだ。

 勿論、それはあくまで錯覚である。実際にそうであればどれだけ嬉しいことだろう。
 ともかく、ここで生まれ育った僕はそれを知っているから、この程度で腹を立てることもないのだ。
 
 適当な座席に腰を下ろすと、バスは再び大きな音を立てて出発した。
 どうやら道の方にもガタが来ているらしく、頻繁に車体が上下に揺れた。その度に風鈴が大きな音を奏で、僕はまた遠い思い出に浸ろうとしていた。
124 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/01(日) 17:19:08.47 ID:Bl/o1C/K0
 しかしその直前に、どうにも聞き覚えのある声が響いた。
 それに気が付けたのは、ちょうど掘り起こす記憶の中に同じようなトーンの声の持ち主が現れたからだ。

 「よぉ、奇遇だな、千風」

 後部座席に首を向けると、相変わらず色黒な彼が笑みを浮かべていた。
 記憶の中の彼と比べると、その輪郭には枠からはみ出したような違和感を覚えたが、それはあどけなかった表情が大人らしいものに成長した証だろう。
 こうして旧友の姿を見ると、この町にも時が流れていることがようやく実感できた。
 
 「あぁ、久しぶりだな、日向。何年ぶりだ?」

 僕は同じように言葉を返した。

 「何言ってんだ。つい一カ月前も会っただろ」

 彼は気さくに僕の冗談を笑い飛ばした。
 
 共に幼少期を経た旧友の中で、このようにしばしば顔を合わせる奴はこいつぐらいだ。
 他の連中は退屈なこの街に嫌気が差して都会に出て行ったものだから、皆で集まる機会は中々ない。
 日向は家業を継いだものだから、僕を含む多くの人間と違って、今も生まれ育った故郷で暮らしを営んでいるのだ。
 
 彼は最寄りのバス停に着かないうちに降車ボタンを赤く点滅させた。そして手に何かを握る仕草をしながら、それを口に呷るようにして見せた。
 
 「せっかく一カ月ぶりに会ったんだ。一杯やろうぜ」

 彼はにやりと笑った。

 「まだ昼だぞ?」

 僕は形式だけの浅いため息を吐き出した。そういうのも嫌いではない。小腹が空いていたのも事実だ。
 
 次のバス停で降りると、僕らは小さな商店街に繰り出した。
 道の両脇には細々と店が立ち並び、しかし活気が失われているわけではない。そんな田舎町の小さな飲み街だった。
 
 どうやら、毒林檎に手を伸ばすのはもうしばらく後で済みそうだ。

125 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/01(日) 17:22:28.23 ID:Bl/o1C/K0
 ♦♦♦


 その年の夏を契機として、そして秋冬と季節を経るにつれて、僕は減少傾向にある新たな読書家の一人に加わった。
 とは言ったものの、学校図書館に入り浸り、書架を征服する勢いで読書に没頭することもなければ、かと言って街の図書館の閲覧室に引き籠ったわけでもなかった。
 
 確かに本は好きだ。だが僕が本当に好きなのは、本を読むこと自体ではなかった。
 
 読書が全く嫌いというわけではない。
 しかしそれ以上に、僕は聞き手となることが好きだった。読み手が朗読する物語を受け取り、脳裏に美しい情景を描いては咀嚼することに魅力を感じていたのだ。
 この世に生を授かった時にはとっくに絶滅してしまっていたが、生まれる時代が違えば、僕は紙芝居屋なんかに虜となっていたのかもしれない。
 
 けれども僕はそれを惜しむことはなかった。紙芝居屋などに出会わずとも、こちらの方がより素晴らしいものだと確信しているから。

 「其の島に天降りまして、天之御柱を見立みたて──」

 音楽のように澄み切った玉音がすぐ隣で響いている。
 高尚な演奏に身を浸すように伏せた目を僅かに横へ向けると、目を閉ざし長い睫毛を際立たせた君が、心まで洗い流してしまいそうな清音で詩を詠っていた。
 
 口を挟みかけた僕は何も言わず、鈴音を邪魔しないよう耳を傾けた。
 彼女の旋律は数十秒と続き、あっという間に締め括られた。最後の一音を詠った鈴音は小さく息を吐き出した。
 
 程なくして、僕は両手を叩いて賛称した。
 彼女はこそばゆそうに頬を緩ませた。
 微笑む君を充分に楽しんだ後になって、僕は言いたかったことを伝えた。
126 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/01(日) 17:27:56.81 ID:Bl/o1C/K0
 「ごめん、全然意味が分からなかった。もうちょっと優しく説明して欲しい」

 「え」

 すっかり僕が理解したと考えていたらしい彼女は、称賛を浴び得意げだった目を丸めた。
 
 それからすぐに「じゃあなんで黙ったのさ〜」と非難した気な表情で僕を問い詰めた。
 
 「そりゃあ、あんまり鈴音の声が綺麗だったから、ついつい」と僕がわざとらしい言い方で答えれば、君は喜ぶような呆れたような、なんとも言えない笑みを浮かべた。

 一呼吸挟んでから、「仕方ないなぁ」と彼女は僕にでも分かるよう簡単にお話を教えてくれた。

 結論から言うと、それは国生みと黄泉の国の物語だった。
 より分かりやすく言えば、伊邪那岐と伊邪那美で有名なあの神話だ。
 彼女の搔い摘んだ解説は、国生みの終わりから黄泉の国の最後までだった。それを具体的に言えば、火之迦具土神が生まれ、それと引き換えに伊邪那美が死んでしまったところからである。
 
 「なんで初めからじゃなくて、中途半端なところから始めたんだ?」と僕が問えば、「…そこはあんまり関係ないところだから」と鈴音はそげなく答えた。

 
127 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/01(日) 17:30:58.43 ID:Bl/o1C/K0
 「でもさ、伊邪那岐も酷いもんだよな。せっかく再会できた伊邪那美から逃げ出すなんて」

 「そうかな?私は仕方のないことだと思うけど」

 彼女の話す物語にも区切りが付いたことだし、話題転換の意味も込めて僕は無難な感想を述べたつもりだった。
 鈴音は予想外の答えを返した。ここは共感の得られる箇所だと思っていたばかりに、その衝撃は大きかった。

 「なんで仕方がないんだ?伊邪那岐と伊邪那美は相思相愛だったろ?」

 「うん、伊邪那美が死ぬ前はね。でも、伊邪那岐は変わり果てた最愛の人を受け入れられなかった。それだけの話だよ」

 彼女の語りを思い出しながら、僕は二人が愛し合っていたという事実を指摘した。
 鈴音は間を置くこともなく、どこか儚げな声で反駁した。
 
 いまの僕らが着目しているのは、黄泉の国の物語の方だ。
 その概要は、死んでしまった伊邪那美をどうしても忘れられなかった伊邪那岐が、はるばる黄泉の国にまで妻を迎えに行くという話である。

 黄泉の国とは死者の行き着く世界であり、とうとうそこに辿り着いた伊邪那岐は伊邪那美を見つけ出す。
 しかし、既に黄泉の国の食物を食らい、死者の国の住人となってしまっていた伊邪那美は簡単には元の世界へ戻れない。黄泉の国の神から帰還の許可が得られるまでの間、決して私の姿を見ないようにと念を押した上で、二人は待機することになった。

 愛する妻が目と鼻の先にいる状態で、伊邪那岐は辛抱ならず、遂にはその姿を覗き見ようとしてしまう。
 松明の揺れる火が照らし出したそこにはなんと、蛆に集られ腐った身体となった伊邪那岐が居た。

 それを見て恐ろしくなった伊邪那岐はその場から逃げ出し、伊邪那美はそれを追い掛け──いや、ここらで切り上げることにしよう。
128 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/01(日) 17:34:08.52 ID:Bl/o1C/K0
 「伊邪那岐にとって、醜悪な伊邪那美は愛せる対象じゃなくなった。住む世界が異なる。たったそれだけのことだけど、そこに想いは結ばれないんだろうね」

 憂愁の混じった吐息が聞こえる。隣へ顔を向ければ、物語の当事者のようにとっぷりと世界観に入り込んでいるのか、君は辛そうな表情でこちらを眺めていた。
 瞬間、僕はほとんど反射的に次なる言葉を見つけていた。

 「そんなことない。例えば鈴音が蛇女だったとしても、僕は変わらずに君を見つめられるから」

 その言葉は喉まで出かかった。が、瞬く間に軟口蓋が喉を塞ぎ、それは寸でのところで飲み込まれた。
 感情のままに動いてはいけない。僕は落ち着きを取り戻すように大きな深呼吸を挟んだ。
 
 客観的に見て、僕の放とうとしていた言葉はどれほどに自惚れたものだっただろうか。そのうえ、たとえ話であったとしても、彼女を気味の悪い妖怪として扱うことなど許されるはずがないだろう。僕は慌てて代わりとなる言葉を用意した。

 「…まぁ、これは伊邪那美を愛し切れなかった伊邪那岐が悪いんだろうな」

 「プシュケーとはまた違うけど、伊邪那岐は自分の愛に疑いが生じたのかもね」

129 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/01(日) 17:37:19.35 ID:Bl/o1C/K0
 そうやってお互いの概評を纏めたところで、僕達は伸びをしながら立ち上がった。
 
 「どこか行きたいところはある?」と君は尋ねつつも既に足を進めていた。

 「今日も鈴音のお任せで」僕は苦笑しながら彼女の後に続いた。
 
 山はすっかり茶色ばかりが目立つようになった。踏ん張るように枝に残ったごく少数の葉っぱも、冷たい風に吹かれてひらひらと舞い落ちていく。
 
 こうして冬になると極端に木々の間隔が広がってしまうのは、夏は草木が過剰に生い茂る反動ゆえなのだろうか。
 枯れ木を踏み締める音だけが無口な森に響き渡り、今日は虫の喧騒さえ演出されなかった。
 
 そんな寂々たる森の奥へと進めば、徐々に僕らの足音以外の物音が聞こえるようになった。
 こぽこぽ、こぽこぽと、一定の音律が森を流れていく。音源に惹かれるようにそちらへ向かうと、やがて僕達は少し開けた場所に出た。
 
 そこは落葉樹と常緑樹に囲まれ、枯れ葉の中にも緑がまだらに萌えている場所だった。
 辺りにゴロゴロと散在する丸い岩々には苔が生えていて、すぐ近くには大きな倒木が転がっている。そしてその中央には、透き通った清流が穏やかに流れていた。
 
 今日の目的地はここだったらしい。鈴音は倒木に腰を下ろすと、僕を促すように隣を叩いた。
 同じように僕も倒木を座椅子代わりにすると、彼は耐えかねたように彼なりの金切り声をあげた。
130 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/01(日) 17:40:03.12 ID:Bl/o1C/K0
 「ここ、良い場所でしょ?」

 小川のせせらぎに心身を落ち着かせていると、それに負けないぐらいに耳に快い声が鼓膜を撫でた。
 僕はそれを無言で肯んじた。こちらの意図を汲んだ彼女は、暫し静寂の時間を作ってくれた。
 
 時々、君がゆっくりと流れる浅瀬に指先を伸ばしては、「わっ」と弾んだ声をあげて水面から指を引っ込めたりもしていたが、それも含めて気持ち良い静けさだった。

 「ね、千風くん」

 不意に名前を呼ばれて、「どうした?」と僕は尋ね返した。彼女は挑戦的な笑顔を浮かべると、小川を指差し答えた。

 「せっかくだし勝負しよーよ。どっちが長く我慢できるか」

 鈴音との勝負事と言えば山登りが真っ先に浮かんでくるが、あれはもう勝てるビジョンが一切見えない。
 ともすればこのチキンレースも似たような結末に至るのかもしれないが、「よし、その勝負乗った」と僕は彼女に言葉を返した。

 大切なのは勝ち負けではない。第一に鈴音が笑顔になれて、二の次に僕が勝てるかだ。
 勝負を開始することに決めた僕らは、倒木から飛び降りて川辺に近づいた。
131 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/01(日) 17:43:52.22 ID:Bl/o1C/K0
 声を揃えたカウントダウンの末に、両者勢いよく水面に片手を突っ込んだ。
 バシャリと音を立てて二つの波紋が生じ、小さな気泡が下流へと流れていく。氷に包まれたかのような過度な冷たさに思わず唇を噛みながらも、僕は川に手を浸し続けた。
 
 意外にも勝負は長期戦へと突入した。
 僕も鈴音もさも何事もないかのようにポーカーフェイスで視線をぶつけ合いながら、自然の冷水に腕を浸らせ続けた。

 先に音を上げたのは、やっぱり僕の方だった。余りの冷たさに右手が刺すような痛みさえ覚え、堪え難く腕を水上へと救出してしまった。

 「いやー、流石にちょっと冷たいかな〜」

 などと呑気に笑いながらゆっくりと左手を引き上げた彼女は、その表情通りにまだまだ余裕に溢れているように見受けられた。
 しかし鈴音の左手もまた、僕の右手と同じように僅かに赤く腫れていた。
 
 鈴音でも度を越した温度変化には影響を受けるのか。
 そんなことを頭の片隅で思いながら、その時、僕は電撃的に閃いた。
 それを実行した場合に起こり得る可能性までをシミュレーションすることなく、いや、実際に想定してしまえばそんなことは出来なかっただろう。僕はあっさりとそれを行動に起こした。
132 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/01(日) 17:46:06.71 ID:Bl/o1C/K0
 「ひゃぇ!?」

 冷え切った僕の右手を、君の濡れた左手の甲にそっと重ね合わせる。
 その突発的な行動に鈴音は頓狂な声をあげた。君は跳ね飛ぶように僕の傍から離れようとするも、左手だけはその場から動き出そうとはしなかった。

 あんまり慌てふためく彼女が意外で、僕は思わず笑い声をあげてしまった。
 何が何だか分かっていない様子で、でも文句を言いたそうな鈴音は口を尖らせていた。

 「さっきの話の続きだけどさ」

 僕が話を切り出すと、鈴音は声も出さずにこくこくと固い動きで頷いた。
 凍えた右手には感覚が戻らず、未だ痺れが残ったままであった。
 色々が身体と頭に追いついて来る前に、僕は君に言いたいことを伝えた。

 「こうやって二人が感じる熱が同じなら、僕はそれで充分だと思うんだ」
133 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/01(日) 17:49:42.45 ID:Bl/o1C/K0
 僕は一体何を言っているんだ!?

 気取った台詞を放ち、その蛮勇を真正面から認識した瞬間、僕は顔から火が出たかと思った。
 動転の余り、自ら掴んだ鈴音の手を振り解くように放してしまうほどだった。
 
 一体、この衝動的な言動をどう釈明したものか。
 僕は途方に暮れながらも鈴音を見やった。
 
 君は宙に吸い込まれたように僕を見ていた。瞬きすることすら忘れて、彼女は愕然とその場で固まっていたのだ。
 その状態は長らく続いた。僕が心配になって声を掛けようとしたところで、鈴音は我に返ったように背筋を伸ばした。
 
 やがて君は黒目を僕の右手に移し、何を思ったのだろうか。
 一歩こちらに詰め寄ると、左手をゆっくりと伸ばし、先程の僕と同じように僕の手の甲にそっと触れた。
 そしてほんのりと赤い顔で僕を見つめながら、甘い囁きを放った。

 「それなら、これから毎日私に教えて?伝わる熱には、隔たりなんてないんだって」

 もうとっくに手の感覚は戻っていた。
 僕よりも一回り細く小さい指が手の表に纏わりつき、じんわりとした温かみが伝わってくる。
 一方僕の手は、全身の血液が集結したようにさぞ煮えたぎっていたことだろう。
 
 君に瞳を直視された僕は、目を逸らして頷くのが精一杯だった。
134 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/01(日) 21:24:49.74 ID:Bl/o1C/K0
 ♦♦♦

 
 ゆるりと流麗な細流に手を浸す。余りの冷たさに身の毛がよだつ。反射的に戻しそうになる腕を抑え込んで、僕は指先から感覚が失われるのを待った。

 冬の凍てつく流水は遠慮なく僕から熱を奪い去っていく。
 その勢いは、血管に冷水が染み込み、それが逆流していつか僕の心臓を止めてしまいそうな程であった。
 
 暫く経って水温に変化を感じられなくなったところで、僕は素早く川から手を取り出した。
 その過程を経たうえで、僕らは欠かさず日ごとに、新たに組み込まれたルーティンを行った。
 
 僕の方が君の手の甲に重ねることもあれば、鈴音の方から僕の手の甲に触れることもあった。
 どちらがどうするかはその日次第であったが、鈴音は毎度の如く何かを確かめるような微笑みを浮かべたし、対して僕はその度に息を止めて仏頂面を作った。
 極度の緊張感を手放さないようしっかりと握っていなければ、いつの間にか頬の筋肉が緩んでしまいそうで気が気でなかったのだ。

 そうして僕達は両手両足の指を使っても数え切れなくなるほどに、その気持ちの良い日課を繰り返した。
135 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/01(日) 21:28:22.11 ID:Bl/o1C/K0
 そして今日も今日とて、僕は右手の温度感覚の麻痺させてから鈴音へと手を伸ばしていた。
 彼女もあえかに腕を伸ばし、指先と細く小さな手が僅かに触れ合うと、やがて一方の手が甲にそっと添えられた。
 
 彼女の手の甲を握る数秒の間、僕は極力余計なことを考えないで済むよう、頭の中で山のように免罪符を刷っている。
 例えば、これはあくまでも彼女に熱を伝えるためだけの行為なのだとか、より温度感が伝わりやすいようにこうして手に触れているだけなのだとか。そんな感じだ。
 
 毎回手から血の気を引かせているのは、そうでもしないと必要以上に僕の熱が彼女に伝わってしまうから他ならない。
 だから鈴音の体温がうっすらと伝播し始めると、僕はすぐに手を引っ込めるようにしていた。
 今日もそろそろ夢の時間が終わる。西日の眩しい遊園地を後にするみたいに、僕は渋々手を離した。
 
 伝わってはいけないところまで伝えてしまっていないだろうか。何度やっても慣れない一連の流れの末に、僕はまた鼓動を速めていた。
 解かれた右手をしみじみと眺める彼女は、まるで全てを見透かしたような微笑を向けていた。
136 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/01(日) 21:31:09.50 ID:Bl/o1C/K0
 やや時間を置いてから、僕らは散策に繰り出した。
 
 ここら辺に頻繁に足を運ぶようになって早半年が経過した。
 それ故に、何処に何があるかも粗方把握しているつもりではあるが、山という存在は季節によってその有様を大きく変える。
 
 例えば今の時期なんかは、世界は実に殺風景に映っていた。
 地上は根を張る生き物にとっての準備期間となっているせいで、物寂しい空虚さが際立っているばかりだ。
 華やかさを追い求めて天上を見やれども、そこは白っぽい灰色で覆われており、その下で鳶が悠々と旋回しているのみだった。もし君がここに居てくれなくては、眠る山にはこれっぽっちの見所も残されていなかったことだろう。

 「冬の山ってさ、他の季節に比べると魅力に欠けるよな」

 手持ち無沙汰に足を動かしていた僕は何気なくそう言った。
 木々を縫うように通り抜けていた彼女は、振り返って形の良い眉を八の字に持ち上げた。

 「そんなことないのに。もっと周りに目を凝らさなきゃ」

 彼女は両手を大きく広げて僕に周囲へと意識を向けさせようとする。
 僕もそれに従って辺りをぐるりと見回すと、丁度彼女の身体で隠れていた部分にそれを発見した。と同時に、「例えばさ、ほら」と彼女はその場を指差した。
137 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/01(日) 21:35:28.16 ID:Bl/o1C/K0
 つる植物のような背の低い木が小さな赤い実をつけている。ついでに、深緑色の丸い葉は鋸みたいにギザギザとしている。
 この見た目でこの頃に実がなる植物と言えば、もうあれしかないだろう。今回の問題は比較的簡単であったからこそ、僕はすぐにその名前を思い出せた。

 「お、フユイチゴか」

 僕の解答に対して、鈴音は「そうだよー」と答えながら実を幾つか採集し始めた。
 
 「この時期にでも採れるんだな」

 彼女の屈んだ後姿を眺め言えば、「結構限り限りだけどね。だからよく熟れてるんじゃないかな」と片手に収まる量を手に入れた君は言った。
 
 こちらに向き直った鈴音は、果実を僕に分け与える素振りを見せた。
 受け取るべく僕は両手を椀にして差し出した。
 
 彼女は一粒抓み上げると、それを僕の手に乗せようとして、しかしその手を引っ込めて自分の口に放り込んでしまった。
 僕が唖然としている間に、彼女は口元を緩めながら冬苺を食べ終えてしまう。そして意地悪な表情で「あげない〜」などと言うのだ。
 
 別に、冬苺なんて然程甘くもないし、そこまでして食べたいという訳でもなかったはずだった。
 しかし、そんなに美味そうに食べられては興味が湧いてしまうというものだ。僕は素直に白旗を掲げた。
138 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/01(日) 21:39:36.84 ID:Bl/o1C/K0
 「前言撤回するよ。山はどんな時でも素晴らしい場所だ」

 そうやって山が季節問わずに魅力的であることを認めれば、僕も鈴音から残りの冬苺を分けてもらえると思ったわけだ。
 
 がしかし、それでも鈴音は僕に冬苺を分け与えることはなかった。
 代わりに一粒指で抓み取り、「口開けて?」と悪ふざけの延長線みたいな調子で言った。
 
 言われた通りに口を開けると、鈴音はおはじきみたいに冬苺を弾いた。それが上手いこと口内に飛び込んできて、僕は歯を重ねて果実を噛み潰した。
 溢れ出た果汁は随分と水っぽいものだったが、不思議と引き締まるような甘酸っぱさを感じ取った。
 彼女の満足そうな笑顔を見ていると、それは一層強い味覚となって舌に残った。
 
 一粒で充分満足できたことを知らせると、彼女は残りの冬苺を口に運びながら元来た道へと引き返した。
 僕もそれに倣って半回転する。二人してゆっくりと歩を進め、シンボルツリーまで残り僅かとなった時のことだった。
 
 ふと、眼前で白い浮遊物が舞い落ちた。
 それは鼻の上に乗ると、仄かな冷たさと共に消えてしまった。そのうち二、三と白い星屑がふわふわと宙を踊り始めた。
139 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/01(日) 21:42:47.02 ID:Bl/o1C/K0
 「雪だな、珍しい」

 僕はぽつりと呟いた。
 軽く頷いた鈴音は、薄明るい曇り空を眺めながら細雪を空いた手のひらで受け止めようとしていた。

 もう少し足を進めて大樹まで戻って来ると、僕らは予めそうすると決めていたようにその下を避難先にした。
 休憩がてらその場に座り込んだ鈴音は小さく言った。

 「流石に寒いね、雪が降ると」

 「鈴音が寒い?それ本当なのか?」

 この時期でもその服の薄さで平気らしい彼女が、なんと寒さを感じると言うのだ。
 意外過ぎるその一言に、僕は思わず率直に聞き返した。

 すると彼女は心外そうに、「当たり前じゃん。私だって寒いものは寒いよ」と口をすぼめて答えた。
 
 自分で自分を抱き締めるよう暖を取っている鈴音を見ていると、途端に、布切れ一枚しか纏っていないと言っても過言ではない君が、極寒の地に降り立ったかのような光景が脳裏に浮かんだ。
 僕は徐に厚い外套を脱ぎ去ると、それを彼女に差し出した。そして、

 「これ使えよ」と僕が言ってやれば、

 「でも、それじゃあ千風くんが凍えちゃうんじゃないの?」と鈴音は的確な返事をした。

 「まぁ確かに」と僕がやせ我慢することなく同調すると、

 「だからくっつこう」と君は肩を密着させる勢いで近づき、数ミリを残して身体を揺らした。僕の身体はびくっと跳ね上がった。
140 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/01(日) 21:45:34.16 ID:Bl/o1C/K0
 布越しにでも分かる鈴音の柔らかな肌が、寄せては返す波のように触れ合うこと数十秒。僕はとうとう平常運転で居られなくなった。
 このままでは、感情が理性を残さず焼き尽くしてしまいそうであった。
 
 足先に打ち寄せる波から逃げるようにして、僕は少しだけ彼女から距離を取ろうとした。
 その時、君は深く息を吐き出してから、丁寧な声色で不思議なことを言い始めた。

 「…私さ、時々千風くんが、聡明なんじゃないかな、って思っちゃうの」

 初めてそう言われたその時、僕はまず彼女の言葉の繋げ方につっかえを感じた。
 しかし次に言葉の意味を解釈し、僕は少々眉をひそめた。

 だから、「…それどういう意味だよ。馬鹿って言いたいのか?」と訊ね返したのだ。

 もちろん、本気で気分を害したわけじゃない。僕はそれを単なる気安い会話の一種として捉えていた。
 
 そう問い掛けられた鈴音は、暫し驚いたように瞬きを繰り返していた。
 その後になって愉快そうな笑い声をあげると、僕を宥めるみたいに優しい調子でこう言った。
141 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/01(日) 21:49:39.27 ID:Bl/o1C/K0
 「ううん、そんなことないよ。君は賢い子だと思う」

 久しぶりに「君」呼ばわりされて、僕はなんだかむず痒い気持ちを味わわされた。僕を「君」と呼ぶ鈴音は、いつもと違って一回り落ち着いた印象を与えた。
 彼女の言葉はそこで止まらなかった。「でも」と接続詞を挟み、君は心底穏やかに頬を綻ばせた。

 「やっぱり聡明じゃないんだろうね」

 賢いけれど聡明とは言えない。
 彼女に禅問答のようなことを言われて、なんのこっちゃ分からなかった僕は何も言葉を返せなかった。
 
 今度は僕が目を丸めていると、起き上がり小法師が重心を崩したみたいに、鈴音はこてんとこちらに身体を傾けた。
 最後の数ミリ詰め切られ、触れては離れてを繰り返していた半身が隙間を完全に失った。
 
 自分以外の息遣いを直に感じて、僕は心のうちで暴れる自分を抑えることに必死だった。
 君は僕の知識では表現し難い微笑みを浮かべ、ゆっくりと口を動かした。

 「だから凄く安心するし…私は、嬉しいかな」

 細雪が舞い散り一層気温の下がった世界で、僕達は半身を密着させて寒さを耐えしのごうとした。
 
 程なくして、雲の中央に亀裂が入り、辺りには光芒が差し込み始めた。次第に剝離していく雲の間隙からは太陽が姿を現し、しかしそれでも、僕らは長らく寄り添い合ったままでいた。
 外に晒された半身は凍え、くっついた半身は火照るほどに熱かった。
 
 身は悴めど心は茹だりそうな、冬のある日のことだった。
142 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/02(月) 18:04:36.26 ID:c3Z23hjh0
 ♦♦♦

 
 「お前はいつ頃からか、放課後遊ばなくなったよな」

 すっかり顔を赤くした日向がふと思い出したように言った。弱い昼白色で照らされた居酒屋は、まだ日中だというのに地元客で溢れていた。
 
 「そんな時期もあったな」

 僕が小鉢をつつきながら返事をすると、彼は揶揄うような笑みで続けた。

 「あれだろ?あの図書館の美人なお姉さんに恋でもしてたんだろ?」

 そこまで言われて、僕はようやく司書さんのことを思い出した。なかなか的外れなことを言われて思わず目が点となる。
 しかしまぁ、他の職員や図書館常用者からすれば、僕はさながら犬のように斎藤さんに良く懐いているように見えたのだろう。
 
 僕は適当に相槌を打ってから小麦色の液体を呷った。喉には弾けるような感覚が伝わった。
 
 それを照れ隠しのようなものだと思ったのか、日向は「いやー、あの人美人だったよなぁ〜」と昔日を懐かしむように呟いた。
 
 店内の白い壁の隅には、肩遅れのテレビが設置されていた。特に興味があった訳ではないが、僕は何気なく画面に目をやった。
 この季節らしく心霊番組のようだ。画面に映る出演者たちは、まるで幻影でしかない幽霊が本当に実在するかのように大袈裟に驚いて見せている。
 
 いや、今のは語弊のある言い方か。彼女らはそこに存在するかもしれないし、居ないかもしれない。少なくとも僕は幽霊を見たことがない。それだけの話だ。
 
 どうやらテレビの内容は酒の肴にはならないらしい。
 画面に着目していた彼も似たような結論に至ったらしく、酒のつまみに視線を戻すと、僕らはまた過ぎ去った日々に思いを馳せた。
 
 頭の片隅の方で、僕はひとり過ぐる日々に思いを巡らせた。
143 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/02(月) 18:07:27.93 ID:c3Z23hjh0
 ♦♦♦


 ストレスは大きく分けて二種類存在する。
 
 それは主にポジティブストレスとネガティブストレスと呼ばれるもので、一般的なイメージのストレスは後者に該当するだろう。
 後者を例えるなら、会社の上司が吐き捨てるような態度で罵倒してきた際に感じる鬱憤などだ。
 対してポジティブストレス、言わば前向きなストレスとは、普段行かないような場所で遊び倒したあとの気怠い心地良さなんかだ。
 
 こちらはリフレッシュとしても機能するという正の面もあるのだが、どちらのストレスも心身に負担を与えるという意味では共通している。
 引っ越しなどで生活環境の大変化が起こりがちな春頃、ストレスは特に人間に影響を及ぼす。
 
 ある研究結果によると、蓄積したストレスが発端となって、春季には恋人関係の破綻が増加傾向にあるらしい。
 それを知ってか知らずか、故人は春を別れの季節として扱ってきた。
 
 多くの人々が初めて別れの季節を胸に響かせるのは、中学校卒業の時なのだと思う。小学校卒業の時とは違って、これまでよくしてきた仲間たちと本格的にそれぞれ別の道を進んでいくことになるのだから。
 
 しかし僕はそれより一足先に、一つの物事の終わりに出会うことになる。
 
 別れと出会いの季節などとはよく言ったものだが、その春、僕は出会いを経験することなく、一方的に別れだけを押し付けられることになった。
144 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/02(月) 18:10:07.86 ID:c3Z23hjh0


 切り裂くような北風が唸りを潜め、淡く澄んだ空がぼんやりと霞むようになった。次第に長閑なそよ風が舞い込み、麗らかな日光が姿を見せ始めた。街行く人々の足取りも軽やかで、何処からか呑気な鼻歌が流れてくる日が続いている。
 
 僕も浮き立つ心地で街を通り過ぎて、お昼前の時分に図書館を訪れていた。
 借りた本の返却と新たな蔵書を借り出すのが目的だ。
 恐らく鈴音はいつでもあそこにいるだろうし、本当はこの時間でさえも鈴音との一時に割きたいのだが、僕の住む町の図書館は閉館時間が早かった。日暮れ頃までずっと彼女と共に過ごしたい僕としては、こうしてお昼前のうちにこちらへ向かうのが最適解なのである。
 
 図書館のドアを潜ると、まずは返却箱に借りていた本を仕舞う。次に受付の方へと視線をやり、斎藤さんが居るかどうかを把握する。
 居ればそちらに向かってお勧めの本を訊ねただろうし、居なければ自分の感覚で本を選ぶまでだ。
 
 彼女の姿は見えない。どうやら今日は不在のようだ。
 そう判断した僕がいつもの本棚へ向かって行くと、その途中に本棚整理をしている斎藤さんに出くわした。
 僕の姿を認識するや否や、彼女は挨拶さえ抜きにしてしまって、開口一番にこう言った。

 「良いニュースと悪いニュース、どっちから聞きたい?」
145 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/02(月) 18:13:32.54 ID:c3Z23hjh0
 斎藤さんからの報せに良いも悪いもあるのかは判別し難いことだったが、悪い話から聞いては後の良い話も喜べまい。
 
 少し考えてから「良いニュースで」と僕は答えた。

 「りょーかい。じゃ、ついて来て」

 彼女は僕を先導していつものコーナーへ連れて行った。
 
 そこで僕も気が付いた。これまでは図書館の隅にひっそりと存在していたその場所が、隣のコーナーを追いやって実に倍以上のスペースを占領していることに。
 
 僕は目を見開いて本棚を見つめていた。
 斎藤さんは屈んで僕の視点に背丈を合わせた。そしてその表情に微笑みを浮かべ、周囲の迷惑とならないよう控えめな声で僕の歓喜を代弁した。

 「少年の大好きな植物に関する蔵書が増えましたー!」

 確かに良いニュースだった。
 これだけ新たに蔵書が増えれば、僕はまた一歩鈴音の知識量に近づけるのだから。
 
 喜色を隠せないまま僕が目新しい本を取っては捲っていると、「少年がこのコーナーの本を頑張って読んでるから、貸出冊数が増えたのよ。日頃の努力の賜物ね」と斎藤さんは優しく言ってくれた。
 
 こうして褒められるのは悪い気分じゃない。彼女もこの部分だけを切り取れば聖母のような人なのだが、誰しも素顔が一枚とは限らないものである。斎藤さんに関して言えば、もう一枚の素顔は少々おふざけが過ぎるところだろう。
 
 今日はこれを借りてみようか、と興奮に一区切りついたところで僕は現実に戻ってきた。
 はしゃいでいるところを彼女にニマニマと眺められていることを認識し、どうにも極まりが悪かった。
 だから僕は反動的にぶっきらぼうに言った。
146 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/02(月) 18:15:39.50 ID:c3Z23hjh0
 「それで、悪いニュースってなんですか?」

 「私がここで勤務するのは明後日で最後ってことかな」

 まるで何事もなかったかのような言い草だった。さらりとそう言ってしまうと、彼女はいつも通り調子に乗った口を滑らせるのだ。

 「まぁ、私みたいに素晴らしい司書さんが居なくなっちゃうのは寂しいかもだけど──って、少年?」

 その時、僕は二重の意味で驚き通していた。
 
 一つは単純に、斎藤さんがこの図書館で働かなくなることについて。
 そしてもう一つは、世間話をすることはあれども、結局はビジネスライク的な関係に過ぎないだろうと考えていた斎藤さんが居なくなることに対して、少なからずの衝撃を受けている自分自身に向けられたものであった。
 
 口うるさくも僕にお節介を焼いてくれる彼女が、もう数日後にはその姿を消している。その場面を想像すると、なんだか胸に穴が開くような気分になった。
 不思議そうにこちらを眺めている斎藤さんに向けて、僕は素直な気持ちを言葉にした。
147 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/02(月) 18:17:27.37 ID:c3Z23hjh0
 「…そりゃ、寂しいですよ。鬱陶しい時もありましたけど、なんだかんだお世話になりましたし」

 僕はくぐもった声でそう呟いた。
 彼女は目を皿のように見開いた。それから今度は丸い目を横に細め、「へー、そんな風に思ってくれてたんだ。結構意外かも」と感慨深そうに言った。
 
 「もしかして私のこと好きになっちゃったりして?」などと斎藤さんの続ける阿保みたいな言葉は聞き流しながら、僕はその間色々と考えを巡らした。
 そしてその末に、今日はこのまま踵を返すという選択肢を選んだ。

 「あれ、本借りていかないの?」

 当然、彼女は疑問気に訊ねてきた。
 対する僕は斎藤さんの目を見て、今し方用意した理由を返した。

 「二日じゃ一冊読めないですから。なのでまた明後日来ます。…だからその時、ちゃんとお勧め教えてくださいよ?」

 「はいはい、お姉さんに任せなさい!」と胸を張って答えた彼女は、こちらの意図を知るや知らずや、おかしそうに笑顔を浮かべていた。
148 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/02(月) 18:19:46.01 ID:c3Z23hjh0


 春真っ盛りなこの時期、冬の間がら空きに見えた田んぼは藤紫一色に染め上げられる。
 小風に乗せられた春の匂いに釣られて、モンシロチョウやミツバチがそこから忙しなく蜜を運び去っていく。
 
 もちろん、人様は明るい花々が一面に咲き誇る様を楽しんだり、或いは虫たちの為だけに蓮華草を咲かせているわけではない。
 いわゆる緑肥として農家が育てているのだ。
 
 厳しい寒さを乗り越え、活力を取り戻し始めた自然を眺めながら、僕は草木の萌えつつある山に歩み入った。
 どこかで音痴な鶯が鳴き声の練習をしていて、耳元ではてんとう虫が羽音を立てて飛んでいった。足元ではたんぽぽが力強く咲いていて、少し視点を上げれば、散り始めた山桜や梅、昨日鈴音と蜜を吸ったツツジなんかも伺えた。
 
 山は白、黄、赤、緑、桃色と華やかに飾られ、視覚も聴覚も癒される季節となった。
 と言ってみたものの、僕の心を一番傍で溶かしてくれているのは年がら年中一緒にいる君なのだが。
149 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/02(月) 18:22:00.59 ID:c3Z23hjh0
 シンボルツリーに近づけば、その下で鈴音が待ってくれていた。
 おはようの挨拶もほどほどに、僕らは穏やかな春の日を楽しみに向かった。

 何をするかはその日によってまちまちだ。
 春の山菜を収穫したり、カラスノエンドウで草笛を吹いてみたり、或いはいつものように御伽噺を読むこともあった。
 
 今日も似たような、でも毎日違っている時間を過ごして、その最中ふと僕は彼女に訊ねた。

 「鈴音って、かなり花に詳しいだろ?」

 シロツメクサとたんぽぽを重ね合わせ、少し豪華な冠を作り上げようとしていた彼女は得意げに言った。

 「うん、千風くんよりは詳しい自信があるかな」

 その表情はなかなかに憎たらしい笑顔だったが、より博識であるのは彼女の方だということは、悔しいことに事実だ。
 いつか見返してやるぞと思う一方で、でもそれは一体いつになるのだろうかとも思いながら僕は本題を切り出した。

 「じゃあさ、尊敬して…お世話になった人に贈る花って何が良いと思う?」

 要するに、僕が二日後に図書館に赴くことに決めた理由は、斎藤さんに日頃の感謝を込めた花を贈ろうと企てたからである。
 僕は尊敬という単語を発しようとして、しかしそれは気に食わず言葉を変えた。
 それを並列と捉えた鈴音は、「尊敬しててお世話になった人かぁ。そうだね〜」と思案顔で唸った。
150 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/02(月) 18:24:34.61 ID:c3Z23hjh0
 「いや、尊敬はあんまり出来ないかもだけど」と僕が苦笑いで訂正を入れておくと、彼女は思い出したように、「因みに誰に贈るつもりなの?」と手先を器用に動かしながら僕の方を見た。
 
 僕は斎藤さんとの日々を思い返し、そのくだらない時間に小さな笑みを零していた。ありありと脳裏を巡る記憶の要約を、流水のように切れ目なく伝えた。

 「えっと…図書館で働いてるお姉さんだな。僕がここに持ってくる御伽噺とか、勉強のための植物図鑑とか、その人がよく一緒に選んでくれてたんだ。まぁちょっとお節介が過ぎるところがあって、たまに呆れるような時もあるけどさ、総合的には良い人で──」

 そう言えばこんなこともあったな。あぁ、あんなこともあったか。といった具合に僕はついつい回想に夢中になってしまった。
 
 それを無表情で眺めていた君は、途中で「ふぅん」と面白くなさそうに相槌を打った。
 そして機械的な声のトーンで、「そんなに熱心に語れるぐらい大事なら、自分で選んだ方が良いんじゃない」と素っ気なく言い切ってしまった。
 
 鈴音は再び視線を手元へ向ける。
 彼女の急な変わりように驚いた僕は、「え?だから鈴音の力を借りたいと思ったんだけど」と純粋に言葉を返した。
151 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/02(月) 18:28:14.32 ID:c3Z23hjh0
 しかし、それっきり彼女は知らんぷりであった。
 黙々と冠を完成させると、それを頭の上に乗っけて立ち上がり、自己満足的にくるりと回った。

 いつもならその後、「どう?」とかこれまた返答に困ることを微笑みながら聞いてきそうなものなのだが、何か怒らせてしまったのだろうか。鈴音はそれからもそげない態度を保ち続けた。
 
 それはその日に限らず、その次の日までも続いた。一応話し掛ければ返事はしてくれるし、いつもの場所で待っててくれてるし、そこまで怒り心頭と言うわけではないのだろうが、それではこの有様はどう説明すればいいのか。
 
 一晩経って、知らない身内話で盛り上がられたらそりゃあ不愉快だったか、と反省した僕は彼女に謝ったのだが、「別にいいよ」と答えた鈴音はやはり冷たい反応のままであった。
 
 いつもは笑顔で溢れている君が少々つれない反応を示す。
 たったそれだけのことで僕の心は酷く攪乱され、まるで季節が逆戻りしたかのような心地に陥った。
 
 一つの問題を解決しようとした結果、僕は鈴音の斜めなご機嫌を持ち上げることと、斎藤さんへの贈る花選ぶこととの二つの問題を抱える羽目となった。
152 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/02(月) 18:54:13.52 ID:c3Z23hjh0


 何故だか心労が倍以上になって、無駄に疲弊した状態で僕はその日を迎えた。
 結局、鈴音の力を借りられなかった僕は薄い知識で一本の花を選び出した。
 一応、花を贈るのはサプライズの予定だ。それが見えないよう大き目のバッグを携え、僕は図書館に到着した。
 
 初めて斎藤さんと会話を交わしたあの日と違って、今日は気持ちの良い日光が館内を照らし出していた。
 僕が受付へ近づこうとすると、先にこちらの姿を認めた彼女が歩み寄って来た。
 そのままいつもの場所へ移動し、また変わらず彼女は幾冊かの本を取り出した。

 「この四つが、最後に少年にお勧めしとく本かな」

 斎藤さんの簡潔かつ興味を引かせるような説明を聞いた後に、僕はうちの二冊を借り出すことに決めた。
 彼女に貸し出し許可を貰って、流れで出口まで見送ってもらったところで、僕はふと足を止めた。

 「斎藤さん」と僕が意を決して呼べば、「ん?」と彼女は軽く相槌を打った。
 
 僕はゆっくりとバッグから花を取り出し、頭を下げてそれを差し出した。
 
 「今日まで僕に良くしてくれて、本当にありがとうございました」
153 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/02(月) 18:56:28.24 ID:c3Z23hjh0
 短い言葉だったが、僕なりに伝えるべきことは言葉に出来たはずだ。
 言ってみると少し恥ずかしい気分になった。が、それは向こうも同じだったらしい。

 「おー、カーネーションかぁ…ありがとうね、少年」

 斎藤さんは人差し指で頬を掻きながら、僕の手にある白いカーネーションを受け取ってくれた。
 彼女が照れ臭そうな様子を見せるのは初めてのことで、僕は思わず毒気を抜かれていた。
 しかしそれも一瞬のことで、一口息を吸うと、彼女はいつもの調子に戻った。

 「因みに言っとくと、誰かに花を贈るときは色に気を付けないとだよ?少年がくれた白は『感謝』って意味だけど、例えばオレンジ色だったら『あなたを愛します』になるからね」

 へぇ、カーネーションって色ごとに別の意味を持つのか。今後誰かに花束を贈ることがあれば気を付けることにしよう。
 あぁ、そう言えば、鈴音には蔦葉天竺葵を渡そうとしたっけ。あの時は花屋のおっちゃんに選んでもらったからな。もしかしたら、それがまずい花言葉で鈴音は受け取ってくれなかったのかもしれない、か。
 
 彼女の助言に耳を傾けながら、僕はそんなことをぼんやりと考えていた。
 そして同時に思い出す。かつて僕が激突した難題を、斎藤さんはいとも簡単に乗り越えさせてくれたことを。
 
 原因不明で悪化した鈴音の機嫌を元に戻すこと。
 僕にはなかなかどうして難しいことだけど、彼女ならどうにかする方策を思い付けるのではないだろうか。
 
 もうとっくにお姉さんを頼れる人だと認識していた僕は、自然と言葉を発していた。
154 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/02(月) 18:59:16.93 ID:c3Z23hjh0
 「あの、斎藤さん。最後に一つ聞いていいですか」

 「うん、なに?」

 「実は…」

 相談に乗る素振りを見せた斎藤さんに対して、僕は余すことなく事の詳細を伝えた。
 僕の頭を悩ませていることを知った彼女は、例のニマニマとした笑顔を作った。

 「ほぉ〜。私に贈る花が何が良いか聞いたら、口利いてくれなくなっちゃいましたと」

 こくりと首肯すると、彼女は面白おかしそうにケロッと言った。

 「それは嫉妬って気持ちよ。いやー、その子に嫉妬させるなんて、少年も中々のやり手だねぇ〜」

 「は?んなわけ──」

 予想外にもほどがある答えを前に、僕は敬語を取っ払ってその可能性を否定しようとした。
 そうであって欲しいと願う気持ちと、そんなことがあるはずがないだろうと冷静な気持ちが拮抗し、心の中は酷く雑然としていた。
 
 しかし、僕の反論を躱すようにひらひらと手を振った斎藤さんは、「ま、何はともあれちゃんと誤解は解いてあげないとね?それじゃ、またいつか」と言い残して、たちまちその場を去ってしまった。
 それはまるで嵐を見ているようであった。
 
 最後まで、「少年」呼びは変わらなかったな。

 彼女の後姿を眺めた僕は、それを妙にしみじみと思った。
155 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/02(月) 19:03:15.79 ID:c3Z23hjh0


 そういう訳で、問題解決に至らないどころか余計な妄言さえ突っ込むことになった僕の頭の中は、既に機能不全にまで追い込まれていた。
 
 痛む頭を抱えて、それでもシンボルツリーに向かってしまうのは、どうしようもなく僕が彼女に会いたがっているからなのだろう。
 思考が無意味な空転を繰り返していると、僕はいつの間にか大樹に辿り着いてしまっていた。
 
 ふと俯いた視線を戻す。すると、春の日差し、映える緑、大樹の下で座り込む君の姿、そして、彼女の伸ばした右手の先で休むアオスジアゲハ、といった形で羅列的に脳内に情報が飛び込んできた。

 それは僕に美術展のメインを飾る一枚絵を思わせた。
 その神秘的な空間に魅入っていると、奇跡の絵画に命が宿った。
 
 君が僕を視認し、「あ…」と小さな声をあげる。
 
 その振動のせいか、蝶はひらひらと何処かへ舞っていった。
 芸術的一場面を壊してしまった罪悪感ゆえに、僕は何も言葉を放てなかった。
 
 鈴音も長らく間を置いてから、目交ぜで隣に来るよう僕を促した。
 僕はいそいそと一線を画した大樹の方へ寄り、腰を下ろした。
 
 それからは何も言わずに、僕らはお互いに僅かながら身体を近づけた。
 でもたったそれだけのことで、「ごめん」とか「私こそごめん」とか「いいよ」の言葉は不必要だと思えた。
156 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/02(月) 19:07:00.02 ID:c3Z23hjh0
 程なくして、鈴音は僕の目を見て何気なく言い出した。

 「ね、覚えてる?少し前に話したエロスとプシュケーのこと」

 「あぁ、覚えてる」僕が二つも前の季節のことを思い返していると、彼女はつい昨日のことを思い出すように続けた。

 「あれはさ、やっぱり私が間違ってると思うの。千風くんの方が正しいんだよ、きっと」

 覚えている、とは答えたものの、僕が思い出せたのは『愛と疑い』の話をしたことぐらいで、それ以上のことは詳細に検索できなかった。
 
 だが、幸いにも話の本筋はそこだったらしい。あんなにもきっぱり割れていた意見を、鈴音は今更僕の方に譲ると言ったわけだ。
 しかし、幾ら思い出せど僕の解釈は作品に似合わない独り善がりなものだったと言わざるを得なかった。
 
 だから、「そうか?鈴音の解釈の方が物語に合致してたと思うけど」と僕は言葉を返すことにした。

 すると、「じゃあ、あの二人は嘘をついてたってことだよ」と彼女はあっさり言い返し、それから物語の何もかもを無に帰すように笑い飛ばした。
 
 そして「よいしょ」ともう少し僕の方へとにじり寄り、君は優しく穏やかな表情で囁いた。
157 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/02(月) 19:08:26.39 ID:c3Z23hjh0
 「真実を見つけ出した千風くんには、私からの特別にご褒美があります」

 その女神めいた微笑みは、あっけなく僕の心を捉えていた。
 
 鈴音はそのままこちらに手を伸ばす。
 凝り固まった頭上にこそばゆい感覚が生じたところで、僕は彼女にわしゃわしゃと頭を撫でられていることを認識した。
 
 与えられる柔らかな手のひらは寝起きの布団みたいに心地良くて、その人一人に浴びせるには強烈過ぎる笑顔はどこまでも僕の胸を震わせた。
 それでも以前の僕であれば、鈴音から伝わる無邪気な愛情を受け取ることを恐れ、小動物のようにその場から飛び跳ねたことだろう。
 
 だけどどうやら僕は、とっくに飼い慣らされてしまったようだ。
 
 すっかり素直になった心模様に苦笑いを零しながらも、僕は身じろぎさえすることなく目を閉ざし、君にされるがままとなった。
 
 脳髄にその心地良さを染み込ませるかのように、君は暫くの間、僕に慈愛の賜物を授けていた。
158 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/02(月) 21:56:33.40 ID:c3Z23hjh0
 ♦♦♦


 あれからしばらくすると、日を追うごとに気温は快適な状態へと保たれるようになり、一方湿り気は右肩上がりで上昇していった。
 田起こしと田植えを経て、蓮華草畑だった田んぼもすっかりよく見る姿に戻ってしまった。
 四月いっぱいは踏ん張るように花を付けていた桜も、後の五月雨にあえなく撃沈してしまった。
 
 地へ落ち土に汚れた桜の花弁は、もう誰にも見向きされない。

 「どうして?私たちの美しさは変わっていないはずなのに」

 彼女たちは声なき声で彼らに訴える。しかし、その微かな声と視線でさえもが雨音と陰鬱な空に掻き消され、悲鳴を上げる間もなく彼女らは靴底で磨り潰されていく。
 そこには、人の価値観は残酷だということが良く現れていた。
 だから僕はこの時期、少しだけ気分が下がるのだと思う。
 
 地面に張り付いた薄桃色の花弁を拾い上げ、これまで頑張ってくれてありがとう、と念じるように感謝を伝える。
 もう苦しい思いをしなくてもいいように、彼女らを人の歩かない路肩へと安置しておいた。

 それは、見頃を一瞬で終える花々に対する傲慢や憐憫のようなものなのかもしれないし、あるいは鈴音との日々を介して、草木を思いやる心でも芽生えたのかもしれない。
159 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/02(月) 21:59:17.61 ID:c3Z23hjh0
 今日は梅雨の時期にしては珍しい晴れ間の見える日だった。
 屈んだ姿勢から立ち上がると、僕はいつも通りにあの場所を目指していった。
 
 久々に合羽を着ることなく、僕は右手に一冊の本を抱えていた。
 当然ながら、この本は僕一人で選んだものだ。もう斎藤さんのお勧めというわけではない。

 最初こそ何かが足りないように思えた日々も、徐々に日常へと溶け込んでいった。やがて僕は、入場から退場まで一言も発さない図書館生活に適応してしまった。
 時々それを寂しく思うことはあるが、虚しいことにも、彼女が僕の生活に与えた影響は微々たるものでしかなかったのだろう。
 
 雨露の薄膜に包まれた草木を手でかき分けていくと、僕はすぐに彼女を見つけた。
 そこからはいつもの流れだ。 
 
 「待ってたよ〜」と鈴音は大きく手を振りながら笑顔を輝かせる。

 「待たせてごめん」と僕は軽く謝りながら大樹の傍へと向かう。

 まずは持ち寄った本を見せてやって、仲良く黙読したうえでお互いに感想を交わした。やはり鈴音の講評は的を得ていた。
160 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/02(月) 22:02:56.24 ID:c3Z23hjh0
 次は適当な場所まで移動して、恒例の駆けっこをした。
 もちろん僕の敗北だ。

 それから、今日は草花遊びでオオバコ相撲もした。
 こっちも全戦全敗だ。
 因みにオオバコ相撲というのは、それぞれがオオバコの茎を絡め、それを引っ張り合うことで相手の茎をへし折るゲームだとでも言えばいいだろうか。

 彼女は力の使い方まで実に巧妙であった。
 柔よく剛を制するし、剛よく柔を断つということなのだろう。僕が強く引っ張れば力を緩め、こちらが引けば力を加えた。

 僕の茎ばかりが千切れ、その度に彼女は小馬鹿にするような笑顔で、「千風くんは下手だなぁ〜」と煽りを入れてくるのだ。
 僕は躍起になって彼女に打ち勝とうとして、しかしその全てが空回りであった。でもそれが楽しかった。
 
 そうこうしているうちに、段々と太陽が沈んでゆく。
 そろそろお別れの時間が僕らを迎えに来ていた。
 
 冬と比べれば大分と日が伸びたとは思う。それでも、心はまだまだ遊び足りないと叫んでいるし、鈴音も夕陽を見ると名残惜しそうな表情を匂わせた。
 そんな彼女を見る度に、僕は口惜しい気持ちで山を後にするのだ。
 
 しかし、今日に限ってはまだ続きを繋げる術があった。
 僕が去ることを見越して、鈴音は小さく手を振ろうと腕を動かす。
 
 だがその動きを制止するように、僕は「なぁ」と言った。
 
 振る手を下げた彼女は疑問の相槌を打った。
 そこで僕は温めておいた計画を大公開した。
 計画の全貌を知った鈴音は、今からその時が待ち遠しいのか、一目でわかるくらいに気分を高揚させていた。

 「じゃあ、今日はこの後空いてるか?」

 それは確かめるまでもないことだったが、僕は形式的に確認を取った。

 「うん、もちろん!」

 君は二つ返事で了承した。
161 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/02(月) 22:06:01.92 ID:c3Z23hjh0

 
 夕陽が沈み切る前に我が家に戻り、夕ご飯を頂いてから僕は再び出発の準備を整えた。
 その頃には外も黒く染まり、せっかちな星々が夜空を訪れていた。

 基本的には自由にさせてくれている母さんも、流石に日が暮れてから出掛けることは咎めはした。
 だから隠さず目的を伝えると、「気を付けなさいよ」と母さんは懐中電灯を一本手渡してくれた。
 靴ひもを結びながらそれを受け取り、僕は夜の世界へと繰り出した。
 
 この時間帯に出歩くこと自体は初めてではない。いつもと違うのは、今は傍に誰も居ないということだ。
 我が家付近こそ薄明るい街灯が辛うじて闇を払っていたが、山に近づくにつれて、徐々にその僅かな光さえも失われてしまった。
 
 やがては農道と田んぼの境目があやふやになるほどの暗がりに包まれ、僕は懐中電灯の明かりを点けようと指をスイッチに掛けた。
 でもそのうちに暗順応が完了し、遂には宵の空を舞う蛾や飛び跳ねる蛙までもが捉えられるようになった。
 
 がしかし、それでも夜の森は別格だった。
 草木が昼間よりも一段と深い陰を落とし、生え重なる植物が足元を完全に覆い隠してしまう。
 緑の生長した林冠のせいで、そこには闇夜ともとれるような濃い暗闇が広がっていた。
162 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/02(月) 22:09:11.10 ID:c3Z23hjh0
 やむなく懐中電灯を光らせると、前方の一部分だけが良く伺えるようになった。
 しかし却ってその白い輝きが周囲の黒暗を引き立てているように思えた。

 今の自分は真っ暗闇に放り込まれているという事実が脳裏に強く刷り込まれ、無意識的に身体は強張った。
 更には嫌に山が静まり返っているものだから、もしや近くに何かが居るのでは、と正体不明の恐怖心までもが芽吹いてしまった。
 
 だが鈴音と落ち合う約束をした手前、ここでいそいそと逃げ出すことは許されない。
 いざという時はこの強烈な明かりで目潰ししてしまおう、などと馬鹿げたことを考えながら、僕は腰を引いて森を進んだ。
 
 通常の倍近く時間をかけていつもの場所に到着する。
 しかしそこに鈴音の姿は見えなかった。
 夜で見え辛いだけだろうか、と大樹に近寄り明かりを向けれど、やはりその姿は見当たらない。
 
 …おかしいな。彼女がいないことに疑問を覚えつつも、ひとまず大樹に身を預けるべく、僕は身体を振り向かせると

 「わっ!!」

 宵闇のせいで余計に青白く映る何かが、僕の両肩に軽く手を乗せた。
 瞬間、僕は腹の底から湧き上がるエネルギーを全放出した。

 それはまるで、熊に襲われ腰の抜けた登山者のように頼りない悲鳴だった。
 いや、それは比喩に留まらない。
 実際に僕は半分尻餅をついた状態で目を白黒させ、反射的に懐中電灯の明かりを声の方に向けていたのだから。

 明かりに照らし出された先には、くすくすと楽し気に笑う彼女がいた。
163 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/02(月) 22:13:05.62 ID:c3Z23hjh0
 「…びっくりしたじゃないか」

 数秒使ってそこにいるのが鈴音だと理解した途端に、僕は空いた口を閉ざし文句を垂れた。
 
 彼女は微塵もそう思っていない素振りで、「いやぁー、ごめんごめん。あんまり怯えて歩いてたから、つい」と謝罪の言葉を入り交えた。

 恥ずかしい所を見られてむっとした僕は、起き上がって鈴音のおでこを指で優しく弾いた。
 お灸をすえられた彼女は、壁に激突したひよこみたいな声をあげた。
 
 鈴音は恨めしそうに手でおでこを押さえる。
 そんな彼女を尻目に僕は足を進めようとして、ふと思い直すようにバッと見返った。
 
 急な挙動目にした彼女は、「どーしたの?」と言いたげに首を傾げた。

 僕はゆっくりと君の姿に注視し、それが慣れない環境の見せる幻覚ではないことを確かめたうえで言葉を発した。

 「鈴音、その服って…」

 僕が言い切ってしまう前に、彼女は自分の服装に視点を落とし、こちらの言わんとする言葉を繋いだ。
164 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/02(月) 22:16:13.89 ID:c3Z23hjh0
 「あー、これ?ほら、千風くんも最近は半袖着るようになったじゃん。だから私もそろそろ着ようかなーって」

 確か、昼間の彼女は長袖のままだったはずだ。感じた違和感の正体はこれだったのか。
 生じた疑問を解消しつつも、僕は半袖ワンピースな鈴音を今一度眺め、だがすぐにそれを直視出来なくなってしまった。
 
 長袖から半袖に変わったことで、彼女の細い二の腕や鎖骨は綺麗に露出してしまっていた。
 その官能的なまでの肌色は、長らく長袖というフィルターを介して彼女を見ていた僕にとって刺激の強過ぎるものだった。
 
 鈴音の身体はこんなにも流暢なラインを描いていただろうか。
 簡単な話、今の僕には素肌に対する耐性というものがまるっきり失われていたのである。

 だが鈴音はそんなことを露知らず、逸れた目線を追い掛けるように僕を覗き込み、「早く行こ?」と僕を急かした。
 
 何か甘い文句の一つでも言ってみたかったが、彼女の言う通り、僕らの目的は時間帯に大きく左右される。
 一度大きく息を吸い込み、暴走しつつある気持ちを片隅に追いやった。

 僕は色々を一旦放り投げて、彼女と共に慣れた道を進んだ。
165 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/02(月) 22:32:40.40 ID:c3Z23hjh0


 鈴音は猫みたく夜目が効くようで、鬱蒼たる森の中を滑るように突き進んだ。
 僕が慌てず慎重に足元に気を使っていると、彼女は時折その動きを止めて「早く早く」と僕を手招きした。
 
 それを数度繰り返していると、僕は君の後ろに追いついた。
 彼女は息を潜めるようにして藪に隠れている。僕も同じように身を屈め、懐中電灯のスイッチを切った。
 辺りは瞬く間に黒く染まり、草木をかき分ける音も踏みしめる音も消えてなくなった。代わりにケラの低音と流るる水音が僕らを包んだ。

 「いるかな?」

 鈴音は弾むような調子で言った。
 例え暗闇の中であろうとも、この先に待ち受ける光景を脳裏に浮かべ、胸を膨らませる彼女の表情は良く見えた。
 
 「いるといいな」
 
 期待の入り混じった声で答える僕もまた、声色通りにその心を躍らせていた。
 二人して頷き合わせると、僕らは余り大きな音を立てないようにゆっくりと藪の向こう側へ身体を出した。
 
 君の小さな歓声が上がった。
 それに遅れた僕も思わず息を吞み、その光景に吸い込まれた。
 
166 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/02(月) 22:33:57.73 ID:c3Z23hjh0
 中央の小川を囲むように、極小の光球が無数に浮かび上がっている。
 それはまるで翡翠が発光したような輝きで、ともすれば上流から宝石が溢れ出したようにも見えた。
 
 緑の光は無秩序に空中を舞っている。
 黒目を右へ左へ行ったり来たりさせて、僕は無限大にある光の玉の一つを目で追おうとした。
 だがその速さに振り切られ、やがて僕はその幻想的な光景を俯瞰することになった。
 
 一方、澱みなく目で輝きを追っていた君は、一度満足したように瞳を閉ざした。
 そして横目で僕に語り掛けると、恍惚とした表情で言った。

 「蛍って、こんなに綺麗なんだね」

 僕は軽く顎を引いて肯いた。

 「鈴音は見たことなかったのか?」

 「うん。知識の上では知ってたけど、実物を見るのは初めて」
167 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/02(月) 22:36:25.10 ID:c3Z23hjh0
 彼女は再び夜空に舞う蛍へ視線を向けた。
 今度の僕は壮観な美景に鈴音の姿を加え、いや、君の姿にこそ夜蛍のアクセントを加え、陶然と世界を眺めていた。
 
 暫くすると、藪から棒に鈴音は足を繰り出した。
 どうやら、一際大きく一閃する蛍を捕まえようとしているみたいだ。

 君はまるで夢遊のようにぼんやりと動き、その視線は蛍で夢中になってしまっていた。
 周りの見えていない彼女に気が付いた僕が、「鈴音、危ないぞ」と慌てて声をかけた時にはもう遅く、辺りに水面を叩く音が反響していた。
 鈴音が小川に突っ込んだのだ。
 
 振り返った彼女は、「あちゃー」とでも言わんばかりの苦笑いを浮かべていた。
 それから小川に沈んだ右足を岩瀬に掛け、濡れたサンダルを脱ぎ素足になると、改めて右足を浸けた。
 突拍子もない行動を前に僕が呆気に取られていると、彼女は続けて左足も突っ込んでしまった。

 「ちょっと冷たくて気持ちいいよ。千風くんも来なよ〜」と彼女は足湯に浸かるみたいに僕を誘った。

 特に断る理由もなく、僕は靴と靴下を脱いで彼女の隣にお邪魔した。
168 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/02(月) 22:39:26.10 ID:c3Z23hjh0
 その日は初夏を先取りしたような程よい暑さで、水温自体も悪くなかった。
 
 足元で爽やかな涼しさを感じながら、僕はパノラマとなった蛍を観賞しようとして、直後、「…えいっ!」と変に気合いの入った声が耳元に響いた。
 謎の発声を確かめようとした頃には、もう顔面にひやりとした感触をぶちかまされていた。

 「うわっ!」

 ぱしゃりと弾けるような音がして、続いてばしゃんと大量の水が水面に打ち付けられる音が響いた。
 驚愕の声が飛び出ると同時に瞼を閉ざす。すぐさま濡れた両目を擦って視界を確保する。大体何が起きたかを察した上で、僕はその目を開いた。
 
 まず、「えへへ」とこの上なく屈託のない笑顔が最初に飛び込んできた。
 その際限なく細められた両目を数秒見つめる。
 段々と不思議な心地に陥ったらしい彼女が、「どうしたの?」の形に口を動かそうとした瞬間、僕は両手の形を椀に構えた。

 「きゃっ!」

 その小顔に水を浴びせられた君は、実に女の子らしい悲鳴をあげた。
 柳髪からポタポタと水滴を落とす鈴音に向けて、僕はしたり顔を見せつけてやった。
 
 ぽかんと硬直していたのも束の間、すぐさま「やったな〜!」と心底楽しそうに彼女は応えた。
 同じように手を重ねて椀を作ると、透明に輝く水滴をこっちに浴びせてきた。
 
 そこからのことは言うに及ぶまい。

 僕らは童心の赴くままにはしゃぎ尽くし、水をかき分ける音と二人の騒ぎ声だけが、静寂の世界に調和していた。
169 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/02(月) 23:10:08.44 ID:c3Z23hjh0


 心行くまで水掛合を楽しんだ僕らは、やがて糸が切れたようにその動きを止めた。
 暗黙の了解で水を掬うことを終わりにして、二人して川辺の岩に座り込んだ。

 決して座り心地の良い場所ではないというのに、身体は吸い付いたようにピタリとその場に適合して、もう微塵も身体を動かしたくない気分だった。
 すっかり体力を枯渇させた僕らの間には、呼吸を整える息遣いが漂っていた。
 僕も鈴音もびしょ濡れで、木立に吹く風が少し肌寒く感じた。
 
 ここに来たのは随分と久し振りのことだ、と僕は何気なく思った。
 
 冬の寒さがやわらぎ、春の陽気が舞い込むにつれて、僕らは小川から足を遠のかせた。
 その理由は単純で、氷ともとれる冷たさを誇る川に手を濡らす口実がなくなったからである。
 
 手の感覚を麻痺させられない以上、いまや免罪符は廃版となってしまったわけだ。
 だから、今日の僕は彼女の決して冷たくない手に触れることは許されない。

 「千風くん」

 彼女は不意と僕の名前を呟いた。

 「なんだ?」と僕は静けさを壊さないような声量で返事をした。
 
 隣に座っていた鈴音はそっぽの方へ身体を向けた。
 僕はそれを横目で追い掛ける。
 君は軽く俯き、頬をうっすらと桜色に染めながら言っていた。
170 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/02(月) 23:13:07.87 ID:c3Z23hjh0
 「…背中、ちょっと貸して欲しいな」

 ちらりと垣間見える白のワンピースの下には、あちらこちらで雪のような肌色が透けて見えていた。
 さっきまでは気にならなかったそれを意識した瞬間、僕は全身に熱いものを覚えた。
 が、濡れた身体がすぐさまそれらを蒸発させてくれた。
 
 結果、その時の僕は彼女にふしだらな感情を抱くことはなかった。
 それどころか、その美しさの極致にあるかのような君の姿に目を奪われることさえ憚られた。まして欲情を抱くことなど不適切であるように思えた。
 
 僕は行動で応えた。
 彼女とは反対の方向へと身体を向け、背中合わせの状態を作り出した。

 程なくして、僅かながらに僕のものではない重みが加わった。
 誇張抜きで羽のように軽やかな背中だった。
 僕も同じ分だけ背中を預けて、いつしか元から二つが一つだったように僕は質量を感じなくなった。
 
 僕らを囲むように淡い光が飛び交っている。
 暗い水流がせせらぎ、柔らかな月影は水面で揺れている。
 
 お互いの呼吸が背を介して伝わり合う。
 僕らは言葉なく遠い夜空を眺めていた。

 ずっとこの時間が続けばいいな。

 僕は無意識に空へ願った。
171 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/03(火) 17:03:57.48 ID:e6a6AzVn0
 ♦♦♦

 
 あれから約一時間ほど、僕らは居酒屋に長居していた。
 日向との近況報告やらなんやらも終え、そろそろビール一本で粘るのが厳しくなってきたところで、お会計を済ませることにした。
 
 暖簾をくぐって外に繰り出すと、世界は茜色で溢れ返っていた。
 あらゆる建物には重厚な影が立ち、真っ赤な夕陽が建造物の空隙に覗いていた。
 僕らは商店街から住宅地までの遠い田舎通りをのんびりと歩き、やがて昔のようにとある分かれ道で手を振り合った。
 
 この辺りは右も左も棚田だらけだった。
 皐月に植えられた苗が大きく育ち、緑の絨毯を作り出している。
 いや、だんだん田と言うこともあって、絨毯階段と呼ぶ方が相応しいのかもしれない。
 
 登り坂の中腹へと向かって足を進めれば、水田の中からは耳を澄まさずとも蛙の鳴き声が響き返り、眼前を淡い青のシオカラトンボが飛び去っていった。
 後方から現れた少年少女が、目を輝かせてその後を追った。
 少年の方が勢いよく虫網を振り被ったが、蜻蛉は裕にそれを躱した。
 
 上手く逃げ仰せた蜻蛉は瞬く間にその場を離れ、二人は悔しそうにその後ろ姿を見つめていた。
 僕は足を止めて、何を見るでもなく二人を眺めていた。
 
 その二人に、ふといつかの面影が重なる。
172 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/03(火) 17:06:39.16 ID:e6a6AzVn0
 ♦♦♦

 
 長い雨もようやく降りやみ、徐々に太陽が威力を放つようになった。
 やがて世界は並外れた生気に踊らされ、草木は迸る勢いで成長していった。
 
 雨傘は日傘に持ち変えられ、誰もが窓を開けて団扇を携えるようになった頃、僕は年に一度の長い休みを手に入れた。
 春、冬と大きな休暇はあるものの、やはり夏休みは出来ることや活動時間の規模感が違うのだ。
 
 小学校生活最後の一学期終業式の日、僕は当然の如くこの休暇を鈴音との時間に費やすことに決めていた。
 というか、それ以上に有意義な時間の使い方があるとは考えられなかった。そうしなければ僕は最低の夏休みを過ごすだろうとさえ思っていた。
 
 そうして七月の終わり頃から、僕は日中のほとんどを彼女と過ごすようになった。
 なにも特別なことをしたわけじゃない。昨日とも今日とも判別が付かないようなありきたりな毎日だ。
 それでも、僕は日々が痛いほど楽しかったし、鈴音だって僕との時間には何度も笑顔を綻ばせてくれていた。
 
 しかし、その素晴らしい日次の中にも、一つ僕を困らせることがあった。
 丁度、僕が夏休みに突入した頃からのことである。それを具体的に指し示せば、鈴音がよく上の空を眺めるようになったことだ。
173 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/03(火) 17:08:28.01 ID:e6a6AzVn0
 ふとした時に彼女は何かを思慮するように黙りこくり、僕の声を右から左に聞き流すことが多々あった。
 僕に何かを言い出そうとして、でもその開きかけた口を閉じてしまうということを幾度となく繰り返したりもしていた。
 魅惑の笑みを零しながらも、何処か心ここにあらずであった。
 
 それは八月頭の日のことだった。
 今日の鈴音は一段と落ち着かない様子だ。
 
 もう目の前のことにも手が付かないようで、浮かべる笑顔までもが乾いてしまっていた。
 それはそれで超然的な美しさを感じられて良かったのだが、ここまで来ると本人でない僕までもが彼女を気掛かりに思うようになった。
 
 両者の気がそぞろとなった状態で臨んだ笹船づくりは酷いもので、笹船は小川に流したところですぐ水流に揉まれてしまった。
 形を崩しゆく二葉の笹船を呆然と眺める。僕は鈴音が落ち着かない理由に、彼女は僕には分からない何事かにばかり気が向いていた。
174 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/03(火) 17:10:30.96 ID:e6a6AzVn0
 白日だけが徒に動き続け、今や空の切れ目が赤みを帯びつつあった。
 長いような短いような日中が幕を閉ざす。結局、僕はその訳を見つけられずに、鈴音は今日も言い出せずに、お互いが手を振ろうとしていた。
 
 大樹の片影に佇む彼女に背を向け、夕焼けの赤光を顔いっぱいに浴びる。
 軽く半身を振り向かせ、「またな」と僕が君に言おうとした時だった。

 「ね、ねぇ。千風くん」

 声が裏返ったように上下に揺れた声調で、鈴音は控えめに呼び掛けた。
 僕が目で問い掛けると、彼女は大きく息を吸って吐き出し、小さな咳払いをしたうえで言った。

 「今日、このあと大丈夫かな?」

 その時君が浮かべた笑みは、今日初めての温かみを感じるものだった。
 僕は僅かに返事に迷ったが、それでも結局は首肯した。

 「じゃあ、ここで待ってるね」と言った彼女は、つっかえが一つ取れたように大袈裟に胸を撫で下ろしていた。
175 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/03(火) 17:13:23.20 ID:e6a6AzVn0

 
 家に帰って軽く夕食を済ませると、僕は鈴音の元へと急ぐ前に固定電話に手を掛けた。
 数回単調な音を繰り返してから受話器を取った日向に対して、急用ができたから僕抜きで行ってくれ、と簡潔に事を伝えた。
 
 実はこのあと彼らと予定があったのだが、鈴音との時間と彼らとの約束を天秤に掛ければ、どちらに傾くかは一目瞭然のことであった。
 日向達には悪いとは思うが、僕にとって鈴音と居られる時間というものは、諸々を後手に回しても構わないほどに優先度が高いのだ。
 
 以前外に繰り出した時とは違って、本日の宵は赤い残光が紺の空を薄明るく滲ませていた。
 加えて、夜の街を彷徨う人々が三々五々と大勢であった。
 
 ともするとその人数は昼間よりも多いのではないだろうか。
 彼ら彼女らは夏夜の暑さに浮かされたかのように、嬉々と一方向に足を進めていた。
 
 そんな中僕一人だけが、波に逆らうように皆と真逆の方角へと向かっていった。
 濃い闇が落ちた山の道なき道を往く。夜風に揺れるシンボルツリーが見えた。今日の鈴音は僕を脅かすことなく、分かりやすい場所で待ち惚けとなっていた。

 「ごめん、ちょっと遅くなった」と僕は軽く謝ると、「いいよいいよ」と鈴音は気さくに言った。

 そうして決まりきった会話を交えたところで、「それで、今日はどうしたんだ?」と僕は彼女に訊ねた。
176 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/03(火) 17:15:57.43 ID:e6a6AzVn0
 もう夜間に蝉が鳴き始めるぐらい、世界には気怠い暑さが立ち込めていた。小川に向かっても蛍は一切伺えないことだろう。
 沢蟹を追い掛けることは三日前にしたし、カブトムシを捕まえるなら早朝に集合すべきだ。
 
 そんなことが分からないほどに鈴音が無知であるはずがないし、となると、今日はどうして呼び出されたのか。

 僕は僕なりに色々と考えてみたが、それらしい理由は一つも見つからなかった。
 答えを要求された鈴音は、「えっとね」の間投詞を挟んでからぎこちなく言葉を紡いだ。

 「今から、お祭り行かない?」

 彼女は自分の口からそう述べた後になって、これで誘い方が合っていたのかを確かめるように同じ言葉を言い直した。
 彼女の言葉を受け取った僕の頭は、なるほどな、と得心が半分、そしてもう半分はこれまでの価値観がひっくり返るような驚きで覆われていた。

 「お祭り?」と僕が彼女の言葉を繰り返せば、「うん」と彼女は食い気味に頷き返した。

 「鈴音って、山の外に出られるのか?」

 僕にとって一番気になる点はそこだった。
 
 僕がさり気なく聞いてみると、「まーね、今日は特別だよ」と彼女はなんでもなさげに言った。
177 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/03(火) 17:18:14.86 ID:e6a6AzVn0
 ずっと前に探偵ごっこはやめたはずのだが、ここで脳内事務所に新たな事実が舞い込んできた。
 僕はこれまで鈴音を、この地に囚われた悲劇の地縛霊かそれに近しい存在だとばかり思っていた。
 
 しかし、どうやらこの説は今日で破綻してしまったようだ。
 であれば彼女は一体、いや、既に僕は事務所をたたんだ身だ。今更真実を明らかにしたところで、僕が得られるのは鈴音の悲しむ顔だけだろう。
 
 考えることを自ら放棄し、僕は取り敢えず山から出ようと踵を返した。

 彼女は呼び止めるように、「こっちから行った方が早いよ。ついて来て」と森の奥へ僕を連れて行った。
 
 暫く密林のように繁茂した草木を潜り抜けていくと、何処からともなく太鼓と笛の律動が流れ込んできた。
 楽音を辿るように斜面を下れば、そこに段々と人声の喧騒が加わるようになった。
 そして最後には、ぽつぽつと闇の中に浮かんだ暖色の灯りが木立の緑を朧気に照らすようになった。
 
 とうとう僕らが草木から顔を飛び出させると、そこはちょうど祭囃子の中心となっている広場だった。
 
 円形の広間のど真ん中には荘厳な櫓が聳え立っており、櫓の頂上を起点として四方八方に提灯が連なっている。
 その下では数え切れない人々が踊り明かし、或いは端の方で腰を下ろして小休憩を挟んでいた。

 黒夜に浮かぶ橙の灯りは妖々しくもあり、集った群衆が渦巻きのようにゆっくりと流れる様は百鬼夜行を思わせた。
 その場には、夏の暑さを一点に凝縮し、純粋な結晶として取り出したような荒々しい勢いが迸っていた。
178 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/03(火) 17:20:10.38 ID:e6a6AzVn0
 見ての通り、今日はこの街の一大イベントと言ってもよい祭りの日だった。
 この時ばかりは隣町からも人々が足を運ぶようで、それはそれは街が大賑わいするのである。本来であれば、僕は日向達とここに来るつもりだったのだ。
 
 鈴音は目に焼き付けるように辺りを見回すと、「人が沢山だね〜」とのんびりとした感想を述べた。

 ここに居ては巡る人波に攫われそうだったので、僕らは速やかに広場の外れに向かうことにした。
 
 外れとは言えど、行き交う人の量は多い。
 僕は往来する人々にぶつかりそうになりながら、たどたどしく足を進めていたというのに、彼女はまるで森の中を進むのと変わらない様子で、難なく大人子供の隙間を上手く通り抜けていた。
 
 そうして端の方に辿り着くと、そこで僕らは不意と立ち止まった。
 そう言えば、僕らはお祭りにやって来たものの、何をするかについては全く考えていなかったのだ。
 大きな瞬きをしていた鈴音と顔を見合わせ、僕らは微妙な笑みを浮かべ合った。
179 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/03(火) 17:22:45.16 ID:e6a6AzVn0
 「これからどうしようか」と僕が彼女に話し掛けようとしたところで、ふと、鈴音が僕ではなく僕の後ろに目を奪われていることに気が付いた。
 
 気になって首を向けると、そこには中学高学年か高校生ぐらいと思しき男女が並んで歩いていた。
 少年のようなあどけなさの残る男の子は鼠色の浴衣を身に纏っており、少し大人びたように見える女の子は半色の浴衣に空色の髪飾りを身に着けていた。

 浴衣の色合いもさることながら、下駄を慣らす音でさえ、その二人は綺麗に息を合わせていた。
 一方の身体で隠れた二人の合間からは、ちらちらと結ばれた手と手が揺れて見えた。
 
 ある程度の情報を抜き出すと、二人に意識を向けることを止めた僕に対して、鈴音はその後姿を見送るように延々と二人を眺めていた。
 
 僕はあの二人を見て何を考えただろうか。君はあの二人を見つめ何を思ったのだろうか。
 願わくば、鈴音と僕があの二人の上に重ね描いたものが同じであって欲しいと思った。

 そんな泡沫の祈りは宙に浮かんで弾け飛んだ、かに思えた直後、手のひらには僅かな温もりが伝えられた。
180 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/03(火) 17:24:20.06 ID:e6a6AzVn0
 何かの間違いだと思った。
 だからそれが僕の強烈な願望によって引き起こされた幻触ではないことを確かめようとして、しかし幻の温もりが壊れてしまう恐れ、僕は何度も何度も目を泳がせた。
 そのあとになってようやく、僕は己が右の手のひらに視線を落とした。
 
 その全てが現実であった。
 瞬間、爆発したように心臓が大きく跳ね、熱という熱が激流の如く血管を巡った。
 
 僕は言葉を失ったままに君を見やった。
 鈴音はつぶらな瞳で僕の目を捉えながら、口籠るように細々と言った。
 
 「嫌だったら、嫌って言って…」

 夢に夢を見た気分だった。
 
 頭がくらくらするほどにぼんやりとして、だが僕は慌ててふるふると首を横に振った。
 それから振り絞るようにして「…嫌じゃない」と横目に見る君に伝えた。
 
 すると君は気恥ずかしそうな笑みを零し、僕の手のひらを潰さないよう優しく力を加えた。
 絡まる手と手の心地良さに息が詰まりそうで、喘ぐように口を動かせば、湿った空気に綿菓子を感じた。
 
 甘い魔法に掛けられて、僕にもようやく夏が訪れたように思えた。
181 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/03(火) 17:25:48.50 ID:e6a6AzVn0
 ♦♦♦

 
 このまま何事もなく夏は春の背を追い掛け、秋が冬の寒さから逃げてきたのならば、この祭りの日こそが、僕の脳裏に他の何よりも鮮明に刻み込まれた君との記憶になったのだろう。
 
 しかし現実問題としては、この記憶が君との最もたる思い出にはならなかった。
 まずはこの直ぐ後の出来事が、僕の感情を激しく掻き乱すことになるからである。

182 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/03(火) 17:28:22.45 ID:e6a6AzVn0
 ♦♦♦
 

 君が僕の先を行き過ぎないよう、僕が君に遅れ過ぎないよう、お互いの歩調を確かめるようにすり合わせる。
 ただ前に足を動かすだけだというのに、二人で並んで歩くということは実に難しく、何処かこそばゆく、胸にハッカの爽やかな香りが広がるようになんとも新鮮なものであった。
 
 それでも、二人三脚みたいに掛け声で波長を合わせてみたりして、やがて二人の歩幅がピタリと寄り添うようになった。
 その一体感は饒舌につくしがたいもので、僕はこのまま地球の果てにまで君と歩いて行けそうだった。
 
 丁度その時、ゆるい熱風に混じって何処からともなく香ばしい匂いが流れ込んできた。
 ふと現実世界に戻って来ると、目に優しい提灯の灯りが掻き消されるほどに煩い輝きが目をぎらつかせた。
 僕らはほとんど同時に歩みを止め、瞳孔を調整するように一度瞬きを挟んだ。
 
 道の両端に並ぶ簡易テント、闇を寄せ付けない白い照明灯、商店街を思わせる力強い客引きの声。
 どうやら僕らは、知らず知らずに即席の屋台街に迷い込んだみたいだ。
 
 「どうする?広場まで戻るか?」

 僕が顔を向けて問うと、「ちょっと見て回ろうよ」と彼女は僕の手を引いて前に進み出した。
183 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/03(火) 17:30:17.32 ID:e6a6AzVn0
 道を歩けば油のはねる音や焦げた醤油の匂いが鼻孔を擽り、僕の腹の虫は暴動一歩手前に追い込まれた。
 鈴音は都会に旅行にやってきた観光客みたいに首を左右に振っては物珍しそうにその足を進めていた。

 しかし、突如その動きが止まる。
 今度は右にくる思われた顔がこちらを向かず、彼女は左の屋台に釘付けとなった。
 
 その屋台では、赤い果実が小さな花畑を作っていた。
 その丸々とした赤色は、明かりに照らされ光沢を放っている。
 
 僕らよりも幼い子供がその内の一本を受け取り、満足そうにその場を後にした。
 その子に分かりやすく羨望の目を向けていた鈴音を見て、僕は軽く吹き出してしまった。
 
 「りんご飴、気になるのか?」

 僕は笑い声を抑えられないまま訊ねてやると、君は小恥ずかしそうに頷いた。
 そんな鈴音を見た僕は胸に甘い痺れを覚えながら、年相応だな、という感想を訳もなく抱いた。
 
 僕は空いている左手でポケットを探り、この日の為に貯めていた虎の子を取り出した。
 鈍く光る五百円玉を彼女の前に掲げ、僕はニヤリと笑い掛ける。鈴音はきょとんとして僕を眺めていた。
184 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/03(火) 17:32:04.52 ID:e6a6AzVn0
 僕はそのまま彼女の手を引っ張り、屋台の前で「りんご飴二本ください」と言った。

 店番のおじさんは「お前一人で二本も食うのか?」と欲張りな人を見る目で僕を眺めていた。
 
 お釣りとりんご飴を二つ受け取る。
 店の前から立ち退き、一本を彼女に手渡す。

 鈴音はそれを遠慮がちに受け取り、僕がりんご飴を舐めるのを待ってから恐る恐る口を付けた。
 飴を舐めた途端に表情を輝かせた君を見て、僕は生まれて初めて誰かに奢ることの喜びを知った。
 
 そうして、僕らはりんご飴を齧りながらまたのんびりと歩き始めた。
 黙々と甘い飴と酸っぱい林檎を齧り、それが残り半分ほどになったところで、鈴音は棒に視線を固定させながらぽつりと言葉を零した。

 「何も聞かないんだね」

 今更、『何を』というのを聞くのは無粋だと思われた。
 その上、今晩は夏の魔法が僕を無敵にしてくれた気がした。

 だから僕は君の手のひらを少し強く握って、「前にも言ったろ?」「伝わる温もりが同じなら、僕はそれで充分なんだって」と言ってやった。
 
 鈴音は少しだけ強張った笑顔を作り、握る手の力を強めると「…千風くんは、強いね」と消えそうな声で言った。
185 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/03(火) 17:35:04.62 ID:e6a6AzVn0
 りんご飴が綺麗さっぱりに消えてしまった頃、中途半端に胃袋を刺激したせいか、腹の虫はとうとう内側から僕をぶん殴るようになった。
 折よく好ましい屋台を見つけ、僕はそこで焼きトウモロコシを購入した。もちろん二本分だ。

 「またくれるの?」

 彼女は意外そうに言った。

 僕は一芝居打とうと思って、「あぁ、『よぉ、坊主。可愛い嬢ちゃん連れてるんだな。一つオマケしてやるよ』って屋台のおじさんが言ってくれたんだ」とそれっぽい声真似をしてみた。
 
 すると鈴音は面白そうに目を細め、「千風くんの嘘つき」と楽し気に言った。
 
 僕は返すように、

 「嘘じゃないさ」

 と言ってみたところで、その続きの言葉を繰り出すことは叶わなかった。
 
 君は待ち焦がれるように期待の目を向けていた。
 
 でも、僕の喉はそれ以上動かなかった、動かせなかった。
 
 やがて鈴音はずっと昔からそうなることが分かっていたみたいに、一瞬間何かを諦めたような表情を過らせた。
 
 僅かな沈黙を経て、僕らは歩き出した。
186 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/03(火) 17:37:15.74 ID:e6a6AzVn0
 それからは、ひたすらトウモロコシを齧る時間が続いた。
 
 少なくとも、夏夜の狂熱に踊らされた僕は、まだ夏の魔法に包まれていたのだと思う。
 だがそれでも、その先を言葉にすることは憚られたのだ。
 
 だってそうだろう?その先の未来に挑んだが為に、この心地良い関係が崩れてしまうかもしれないのだから。

 臆病だったと言われればそれまでかもしれない。
 だけど、それは石橋を金槌で叩かねばならぬほどに僕にとって下らなくないことで、その意志決定は僕の全てを左右するほどのものだったのだ。
 
 先に断っておくと、これは後知恵でしかない。
 それは、全知的な視点から語られる当事者の心情を無視した意見であると承知した上の話だ。
 
 だが敢えて言わせてもらえば、紛れもなくこの瞬間こそ、僕は続きの言葉を伝えるべきだった。
 僕は夏の魔法に浮かされてうっかり口を滑らせなければならなかったのだ。
 それは決して遅れてはならぬことだった。
 
 でも結局のところ、僕はその場で足踏みしたまま一歩も前へと進もうとしなかった。
 現状維持の果てに待つものは永遠ではなく破滅だというのに、都合のよい面ばかりに縋り、そこから目を逸らしたのだ。
 石橋だって強く叩き続ければ、いつかは壊れてしまうというのに。
 
 結果、僕は僕の選択に大きな悔いを残すこととなる。
187 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/03(火) 17:45:39.87 ID:e6a6AzVn0


 焦げた醤油の辛みとコーンのほんのりとした甘さが絶妙だった焼きトウモロコシを食べ終えると、僕らはゴミを捨て、屋台街を抜けて行った。
 近くの縁石に腰を下ろし、遠くから祭りの喧騒をぼんやりと眺める。
 空高くに三日月が昇ると、店仕舞いを始める屋台がちらほら現れた。

 「一旦戻るか?」

 僕が立ち上がる素振りを見せると、鈴音は僕を引き留めるように握る手に力を込めた。

 「んーん。もう少しだけこのままでいよーよ」

 君は甘えた声で僕の身体にもたれ掛かる。それを肩で受け止めた僕は、もうしばらく月の淡い光を眺めることにした。
 
 屋台の半数が照明を落とし、夜の帳が密度を増した頃、「そろそろ帰ろっか」と鈴音は徐に身体を起こした。
 
 自然な動作で僕の手が解かれる。
 温もりが零れ落ち、何かが足りない感覚が手の内を漂った。
 
 鈴音は近くの茂みから森へ向かおうとした。

 「いつもの場所まで送ってくよ」と僕は君の後をついていくべく動き出そうとした。

 「別にいいよ、そこまでしてくれなくても」

 彼女は微笑みながら僕を制止した。
 
 しかしそこで退く僕ではない。「いや、夜は危ないからさ」と取ってつけた理由で言葉を返そうとすると、彼女はそれを遮るように口を動かした。
188 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/03(火) 17:47:56.41 ID:e6a6AzVn0
 「ね、千風くん」「もう一つだけ、わがまま言っても良いかな?」

 君の我儘ならなんだって聞いてやりたかった。僕は軽く頷き、鈴音の気ままなおねだりを待った。
 
 彼女は逡巡するように、何度もその口を開こうとしては閉じることを繰り返した。
 そんな君の表情は決して良いものとは言えなかった。諦念か憂慮か、それとも別の何かか、僕には判別できないものだった。
 
 だがある時、僕は直感的に理解した。

 何かがおかしい、と。
 
 そう思った次の瞬間、頭の中でけたたましい警告音が鳴り響いた。
 その先を言わせてはいけない、と少し先の未来を見たかのような心が訴えかけてくる。
 僕は何かしらの行動を起こそうとして、しかしその前に、長い躊躇いを乗り越えた彼女は言葉にしてしまった。

 「もう、あそこには来ないで欲しいの」
189 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/03(火) 17:49:53.55 ID:e6a6AzVn0
 大地が抜け落ちたような感覚に襲われた。
 一瞬、僕は彼女に何を言われたのかを理解出来なかった。
 
 自分にも君にも問い掛けるように、僕は言葉にならぬ問い掛けを口から零れ落とした。
 君は儚げな微笑みを浮かべていた。
 
 もう一度頭の片隅でその言葉を読み解く。訳が分からないのか分かりたくないのか、「どういう意味だよ?」と僕は引き攣った笑顔を浮かべた。
 その言葉をもう一度耳にすると言うことは、それすなわち僕の胸に大きな杭をもう一本打ち付けると言うこと他ならなかったが、だとしても訊ねずにはいられなかった。
 
 鈴音は押し殺すように瞼を閉ざすと、きわめて無表情に冷たい声を発した。

 「だから…こうやって一緒に遊ぶのは、今日で最後にしよって」

 今度は胸がすり潰れるような痛みに襲われた。
 僕は膝から崩れそうになって、しかし醜態を晒さないよう虚勢を張り、愕然とその場に突っ立った。

 表情の抜け落ちた、或いは、どうして?の四文字で埋め尽くされた僕を見た彼女は、冷徹だった表情をいたたまれないものに歪ませた。
 胸に込み上げるものを必死に抑えつけるように、君は震える声調で短く言い残した。


 「さようなら、千風くん」
190 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/03(火) 17:53:51.04 ID:e6a6AzVn0
 醒めない悪夢を見ている気分だった。
 後頭部を鈍器で殴りつけられ、その衝撃で魂が飛び出たかのように、自分の身体は自分のものじゃないみたいに微動だにしなかった。
 
 視線を背けて去り行こうとした鈴音は、しかし言い忘れたように振り返ると、「…今日まで一緒にいてくれて、ありがとうね」「本当に、楽しかった」と僕の目を見てぽつぽつと呟いた。
 僕は彼女の目なんて見ていられなかった。

 「…お、おい!」「待てよ鈴音!」

 君の後姿が茂みに消えそうになって、ようやく僕は僕を取り戻した。
 逃げるように森の中へ進んだ鈴音を追い掛けるべく慌てて走り出す。
 
 がしかし、これまでに一度も彼女に敵わなかった僕が追い付けるはずもなかった。
 それぐらい分かっていた。それでもいま彼女を引き止めないといけない気がした。
 
 僕は暗黒に目を凝らしてひたすら君の姿を探し、愚直に森を駆け続けようとした。
 数秒と経たないうちに鈴音の残した言葉で身体中が苦しくなって、つま先に引っ掛かりを覚えた。  
 
 途端に身体ががくんと下がって、いくら藻掻けど身体はそれ以上前に進めなくなった。
 
 いつの間にか、僕は地面に突っ伏していた。
 膝下からヒリヒリとした痛みが押し寄せる。穴の開いた胸には無情な突風が流れ込み、痛みを刻み込むようにズタズタと肉を切り裂いていく。
 ぼうっとした頭で目を凝らそうとも、もう君の白の名残りさえ見当たらなかった。
 
 空を見上げども、慰めの月明かりは届かない。
 何もかもが受け入れたくなかった。そんな僕の心情にはお構いなしに、許容限界を超える感情が殺到する。
 終いには身体中が一つの感情に支配されて、暗がりの森が滲んだ。
 
 吹き抜けるぬるい風は、僕から夏の魔法を呆気なく取り上げた。
191 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/03(火) 19:10:07.20 ID:e6a6AzVn0
 ♦♦♦

 
 昨晩、僕はどのようにして家に帰り風呂に入り布団に潜ったのかはよく覚えていない。
 それでも気が付くと太陽が昇り、僕は寝床でいつもと変わらない一日を迎えていた。
 
 頭は泥が詰まったみたいに重く、胸は妙に風通しが良かった。
 何度も朝の日課を違えながら、事務的に朝食を済ませ、慣習的に朝顔に水をやり、機械的に宿題に取り掛かった。
 
 淡々と午前の日々を消化し終え、太陽が天辺に昇ると、僕は訳もなく靴ひもを結んでいた。
 家を飛び出し向かう先は、やっぱり山の方だった。
 
 一晩経って否応なしに頭の方は整理が付いていたが、とは言え心の方はまだ諦めが付いていなかった。
 
 「あれは嘘だよ〜」「千風くんが慌てる姿、見たくなっちゃったから」

 なんてことを言いながら、意地悪い笑顔で僕を迎えてくれる君が居る可能性だってあるのだ。
 いや、あるに違いない。そうでなくてはならない。
 
 そうやって都合の良い君の像を乱立させて、昨日確かに見聞きした事実の輪郭を不明瞭にしてしまう。
 すくすくと育ちつつある青い稲を無関心に眺めつつも、ひたすらにこれまでと変わらない道筋を往く。
 雑木林をかき分け、緩い斜面を登り、僕はシンボルツリーに辿り着いた。
192 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/03(火) 19:13:24.12 ID:e6a6AzVn0
 「…鈴音?」

 その情けないほどに頼りない声が、他でもない自分の喉から振り絞られたものだと気が付いた時、僕はさほど驚くことはなかった。
 
 彼女の名を呼ぼうとも、君は大樹の裏からひょいと顔を見せることもなければ、後ろから僕を脅かしてくれることもない。
 僕の縋り声は蝉の暴音に吞まれ、夏の静寂が周囲をたたえていた。
 
 身体の内側から軋み音が聞こえた。
 でもそれらの感情を検分することは後回しにしてしまって、僕は手当たり次第に鈴音を探し始めた。
 
 この一年の間、君と一緒に過ごした場所の一つ一つを見て回らなければ、彼女が居ないことを決定付けることはできないのだから。
 もちろん、そんなことないと解っていたけれど。
 
 急斜面、小川、竹林、紅葉が綺麗だった場所、二人でオナモミを投げ合った所…闇雲に山の中を駆け巡って、しかし、居ない、居ない、居ない。
 
 頭の中に広げた地図にバツ印が増えるにつれて、僕は息が上がるほどに走力を振り切れさせた。
 満足に呼吸が出来なくなってもなおその足を止めようとはしなかった。
 今は盲目的に動き続けなければ、やがて僕は窒息してしまう気さえしたのだ。
 
 そのうちに日暮れ時がやって来た。僕は生まれたての小鹿みたいに足を震わせながらシンボルツリーのところまで戻って来て、そのまま崩れるように大樹の下に座り込んだ。
 
 一日中走り回ったのに、終ぞ彼女の姿を見つけることは叶わなかった。
 でも大丈夫。まだ大丈夫。残りの三割に君がいるかもしれないから。きっといるから。
 
 段々と心に余裕がなくなっていることを他人事のように自覚しながら、僕は手を振って山を下りた。
 
 そうして、終わった後の世界の一日目に区切りをつけた。
193 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/03(火) 19:16:40.86 ID:e6a6AzVn0
 二日目。

 今度は朝から山にやって来た。
 昨日酷使した筋肉が悲鳴を上げているが、それを無視して森の中を彷徨った。
 午前中のうちに記憶に残る場所は全て回ってしまい、遂に僕は現実を受け入れざるを得なくなった。
 
 鈴音は何処にも居ない。僕は鈴音に拒絶された。もう彼女は僕の前に現れてくれない。
 
 途端に、これまで良くも悪くも靄で覆われていた心が真っ白に染まった。
 もうこれ以上は何も考えたくなかったし、何もしたくなかった。
 僕は覚束ない足取りで山を後にし、自室に籠ってひたすら惰眠を貪った。
 
 三日目。

 僕は午後何時かに目を覚ました。文字盤はよく見えなかった。
 ぐっすり眠ったのに布団から這い出す気力の一滴も得られず、僕は一日のほとんどを仰向けになって過ごした。
 夏の奏でる音の全てが浅く聞こえ、何を食べても味を薄く感じ、目にはあらゆるものが暗く映った。
 
 いまは一秒でも早く日々が過ぎ去って欲しかった。
 君のいない一日は驚くほどに長かった。

 四日目。

 僕はひたすら机に向かった。
 ただ茫然と日々を過ごしても脳裏に君が過るというのなら、僕はいっそのこと他の何かに夢中になろうとした。
 
 でも、意識して考えないようにすればするほど、煙みたいに君との記憶が全身に纏わりついた。
 その度に皮膚が抉り取られるような心地を味わい、世界の彩度は一段と下がっていった。
 
 最近、視界が歪むことが多くなった気がする。
194 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/03(火) 19:19:36.11 ID:e6a6AzVn0
 五日目。

 全て無かったことにしよう、と僕は思った。
 もうこんなに辛い思いをするぐらいなら、いっそ全部忘れてしまえばいいんだと自暴自棄になった。
 
 もちろん、記憶を喪失出来るわけではない。僕はその日、久々に日向達と遊び明かした。
 全力で自転車を漕ぎ、プールに行って泳ぎ倒し、帰り道には大きなかき氷も食べた。
 
 その日、僕は存分に話したし、喉が枯れるほどに笑ったし、ぶっ倒れるぐらいに全力で身体を動かした。
 この上なく素晴らしい一日だ。暮れ方の空の下で彼らと自転車を押し歩いている時、僕は本当にそう思っていた。
 
 家に帰ってご飯を食べて、熱い湯船に浸かって気怠い身体に鞭打って布団に入ったところで、ふと凄まじい虚無感に襲われた。
 
 夢から醒めた夢を見たようだった。当然、彼らとの時間が楽しくなかったわけじゃない。
 少なくとも、頭の中は今日一日を最良の日だと思っているようだった。
 
 だけど心は全く満足していなかった。
 胸の内にはやるせなさだけが募った。

 六日目。

 僕は性懲りもなく山に向かった。
 当然の如く君は居なかった。

 行く当てもなく森の放浪者となった僕は、時々無意識のうちに、「なぁ、鈴音。どこに隠れたんだよ」「頼むから、出て来てくれよ」などと冀うように呟いていた。
 
 凡そ正気だとは思えなかった。
 いや、もうとっくに頭はどうかしていたのだろう。
 それぐらい僕にとって彼女の存在は精神的支柱だったのだ。

 夕方頃になってふらふらと大樹にまで戻って来ると、僕はなんとなくその場にへたり込んだ。
 あるのは絶望だけだった。
 膝を抱えて顔を埋める影法師が伸びていた。
 ヒグラシの他にも一匹泣き虫が、自分の居場所を叫ぶように鳴いていた。
 
 星々が微かに輝き始めた頃、ぐちゃぐちゃの僕はのろのろと立ち上がった。
 夜空に浮かぶ星彩は、そのどれも薄汚く見えた。
 
 それから、僕は死んだように眠った。
195 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/03(火) 19:21:45.57 ID:e6a6AzVn0
 七日目。

 目を覚ますと日が傾いていた。
 でも一日を無駄にしたとは思わなかった。それどころか、僕は一日が早く終わることに後ろ向きな喜びさえ感じていた。
 
 望んだとおりにすぐに夜の時間が来ると、しかし僕は上手く寝付けなかった。
 仕方なく布団から這い出て、窓辺から詰まらない夜空を漠然と眺めた。
 
 そうして長い間頬杖をついていると、ゆくりなく思った。僕は何をしているのだろう、と。
 
 その晩、僕はようやく真剣になった。

 鈴音が姿を見せなくなった理由、僕に足りなかったもの、別れ際の彼女の様子、そしてこの一週間のこと。
 思いつく限りについて一つ一つを取り上げては時間を掛けてじっくりと分析し、起きてしまったことの原因を究明することに努めた。

 もう二度と、同じ過ちを繰り返さないように。
 でも、その過ちをやり直したいたった一人の君はもういないんだ。こんなことをしてなんの意味があるって言うんだ。
 
 そんな風に、夜中の妙に冴えた頭は余計なことまで抱え込んだ。
 結果、僕が個別的に物事の検証を終えた頃には、窓枠に映る四角形の空が白み始めていた。

 そしてそれらを繋ぎ合わせる前に、僕はゆっくりと意識を失った。

196 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/03(火) 19:24:46.26 ID:e6a6AzVn0
 そしてまた今日がやって来た。
 
 僕は独りでに午後五時に目覚め、突っ伏した机の上で身体を伸ばした。
 一度睡眠を挟んだ頭は気持ちいいほどにすっきりしていて、僕は天啓のように一つの答えを導き出していた。

 寝癖を直すことも空いた腹を満たすこともなく、歯を磨いて乾いた口にコップの水を流し込むと、僕は寝間着姿とサンダルの格好で静かに玄関から出て行った。
 
 それから、ちょっとした散歩にでも行く調子で山の中に入った。
 暫くするとシンボルツリーにまで到着し、やっぱり鈴音は姿を現さなかった。

 「鈴音、居るなら出て来てくれよ。そろそろかくれんぼにも飽きてきたんだ」

 僕はのんびりとした調子で彼女に問い掛けた。
 その声色には、ここ最近のみっともない僕を微塵も感じさせない。
 だからその変わりように驚いて彼女は姿を現してしまった、ということを微かに期待してみたのだが、やはりそう上手くはいかないようだ。
 
 まるで君がそこにいるかのようなその口調は、一見すると、とうとう僕が狂気に吞まれたかのように見える。
 しかし、そこには揺るぎない確信があった。
 
 その証拠に、僕の感覚は今この瞬間も強く訴えている。誰かに見られている、と。
197 : ◆zUsZnsynWVoO [sage saga]:2023/01/03(火) 19:27:25.67 ID:e6a6AzVn0
 この奇妙な感覚は、思い返せばこの一週間山を訪れる度に僕に付き纏っていた。
 昨晩そのことについてよく考え、僕はある結論を得たのだ。
 
 それすなわち、鈴音はずっと僕の近くに居るのだと。
 
 まず彼女はあの日、もう来ないで欲しい、と僕に言った。
 しかし、自分が来ないとは言っていなかった。
 
 そしてそもそもの話、彼女は他の人には見えない半透明な存在なのだ。
 だから何かの拍子に僕も皆と同じようになってもおかしくはない。

 要するに、彼女は形而上となって今も僕を見ている。そう言うことだ。
 
 であれば、後はどうやって彼女に姿を現させるか。問題はそれだけだ。そこでとある作戦を実行するという訳である。
 
 そこには論理的思考など皆無だった。それでも、僕にとってはそれが唯一の真実であるように思えたのだ。
 
 僕はシンボルツリーの先を進み、やがて見覚えのある崖地の手前までやって来た。
 注意深く地面の切っ先にまで足を進める。あの時のことは不思議と上手く思い出せないが、どうやら身体は覚えているというやつらしい。
 身を乗り出して遠い地面に視線を落とすと、身体のあちこちで嫌な脂汗が伝った。

 僕は一呼吸挟み、自己暗示を塗り重ねた。
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