田井中律誕生日記念SS2016(must was the 2014)

Check このエントリーをはてなブックマークに追加 Tweet

146 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/13(土) 21:01:17.73 ID:fx1PVUDlo

*

9章

 優しく揺れた。朧な意識の中、自分を呼ぶ声も聞こえる。
伴って、緩やかに覚醒してゆく脳が、少しずつ現実を把握し始めていた。

「澪?」

「起きたか?ゆっくりでいい、身を起こせ。そろそろ移動しよう」

 澪に声を掛けられている内にも、
律の意識は現状を思い出せる程度には回復してきていた。
澪、との呼び名も間違っている事も思い出す。
今の相手はサングなのだ。

「すっかり眠っちゃってた。今、何時くらい?」

 曇天なので分かり辛いが、眠る前に比べて辺りは暗くなってきたような気がする。
それでも、焦るような時間帯の暗さでもなかった。
夕方の手前くらいだろうとの見当は付く。

「16時過ぎくらい。唯達との約束まで、時間はまだあるけどな。
どうだ?もう歩けそうか?」

 律の読みと、然したる乖離を来たしていない時間帯だった。
この分なら、寄り道する時間くらいはあるだろう、と。下腹部を軽く撫でてから頷いた。

「うん、お蔭様で大分楽になったみたい。行こ?」

 疲労が完全に癒えた訳ではなく、脚の付け根にも疼痛が残っている。
それでも、自力で歩けるくらいには回復していた。眩暈も感じない。
眼の痛みも気にはなるが、邪魔にならない程度には緩和されている。
147 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/13(土) 21:02:50.23 ID:fx1PVUDlo
「とは言え、女の子の身体に過度の無理をさせちゃったからな。
支えは必要だろう?」

 立ち上がった律の腰に、澪の右手が回ってきた。
中華街から山下公園へと来る時にも、この姿勢で二人連れ添って歩いている。

「ありがと」

 律は引き寄せられるままに受け入れて、澪の胸に頭を委ねた。
そのまま二人、眼下の海を右手側に、歩道を真っ直ぐ北西へと歩いていく。
首だけ小さく振り向けて右目で瞥見すると、後方に遠ざかった氷川丸の側面が映る。
振り向く度、小さくなってゆく。

 歩道が突き当りを迎える直前に、澪は左へと進路を変えた。
澪と同じ方角を向く律の目にも、山下公園の出口が見えてきている。
公道まで、もうすぐだ。

「そうだ。水分を摂らないとな。
自販機で冷たいものでも買おう」

 公道に出た直後、澪が律の顔を覗き込みながら言った。

「えっ。私はいいよう」

 咄嗟に遠慮したが、澪に提案を引っ込める気配はない。

「何を言ってるんだ。喉が渇いていないつもりでも、夏は気を付けなきゃいけないんだぞ。
曇っているから直射はないけど、だからといって水分補給の重要さまで翳る訳じゃない。
第一、さっき寝てた時だって、火照って寝汗かいてたぞ?」

 寝汗の感触は微かながら残っているし、喉が全く乾いていない訳ではない。
加えて、夏場は水分補給が重要であるとの主張は、幾度となく耳にしてきている。
だから澪の言う事こそ正しいとは理解していた。
だが、今はより緊迫した要求が、律の身体に再来している。

「うん、分かってるんだけど。
また、ね、お手洗いに行きたくなってきちゃってるから」
148 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/13(土) 21:04:03.06 ID:fx1PVUDlo
 寝ている間に体内で処理された水分が、下腹部に溜まって寝起きの身体を疼かせている。

「あれだけ飲んで、一度のトイレで済む訳もないか。
さっき、トイレに行かなくて大丈夫か聞いておくべきだったな。
律も言ってくれて構わなかったんだぞ。どうする?戻るか?」

 律は首を振った。

「いいの。公園のお手洗いは、もう嫌だったから。さっき、大変な目に遭ったし。
それよりね、この先の何処かに、お手洗いがないかなーって。
ね、それくらい、寄り道する時間はあるでしょ?」

 澪の表情に、余裕を漲らせた笑みが走る。

「ああ、好都合だ。始めからさ、寄り道、するつもりだったんだよ。
トイレだってちゃんとある。そこの交差点を右だ」

 突き当たった広い交差点を右に折れると、前方に上り坂が見える真っ直ぐな道に出た。
その上り坂を歩いて行くうちに分かったのだが、
客船の泊まる埠頭に通じているらしい。

「船に乗るの?」

 道中の自動販売機でペットボトルを購入する澪に、律は訪ねてみた。

「それも良かったけどな。目的と時間帯を考えたら、そぐわなかったんだ。
それに、だ。乗ったとしても、現実問題、律の好みに添えそうもなかった」

 ペットボトルをバッグに収めた澪の手が、再び律の腰へと伸びてくる。
その手を受け入れながら、律は澪の言葉を反復した。

「私の好み?」
149 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/13(土) 21:04:56.91 ID:fx1PVUDlo
「ああ、お前の好み。
それを実現する為の船に代替する手段も、ちゃんと用意済みさ。
お前は私に連れられるがまま、付いて来ればいい。おいで」

 動き出す澪に、律は腰を委ねて歩く。
自分の好みとは何を想定しているのか、そしてどのような手段を以って応えるのか、
律は問わなかった。
委ねているのは身や心だけではない。
降りかかる結果の全てだ。

 この客船ターミナルを擁する埠頭は、
大さん橋と言うのだと澪が歩きながら教えてくれた。
屋上には散歩や遠望に最適な歩道が左右に展開しており、そこを自分達は歩くらしかった。
車道を挟んで歩道の右側を歩いている律達は、大桟橋の屋上も右側を歩くことになる。
そして澪の意図として、降りる時は左側を使うのだろうと律は察した。
先程の交差点を横断した場合と同じ道へと、自分達は出る事になる。

 澪の説明を咀嚼しているうちに、ターミナルの屋上部分へと足は進んでいた。
眼下に海を置いて、澪に伴われた律は坂を上ってゆく。
華奢な体にとって、決して楽な行程ではなかった。
海上を突き抜けて勢いの増した強風が、海原に突端した埠頭を吹き抜けてくる。
その度、律は何度も裾を押さえねばならなかった。

 正面から叩き付けてくる風が絹の生地を肌に張り付かせ、
体のラインをより鮮明に主張させている。
そして、律の肌を撫でた風が、後方へと吹き抜けていた。
後ろを歩く者に淫靡な香を届けてしまったかもしれない。
そう考えて興奮する身体が、自分の物ではないみたいに感じられた。
少なくとも、昨日までの自分では考えられない。
澪と過ごした今日という日が、自分の新しい嗜好を開発してしまったのだろうか。
或いは、埋もれていた性癖が、熱された事で目覚めて表出しただけなのかもしれなかった。
さながら、冬眠していた生物が、暖気で目覚めて土から這い出してくるように。
150 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/13(土) 21:06:15.12 ID:fx1PVUDlo
「ご覧。さっきまで居た山下公園だ。
私達が居たのは、あの辺りだったかな。お前、大胆だったよな」

 澪の指し示す先に合わせ、視線を右手側の後方へと流した。
澪の言う通り、海を挟んで山下公園の遠景が映る。
自分達が座っていたベンチまでは見えないが、澪の指の先で間違いないような気がした。
この指の先で、自分は変わったのだ。
否、山下公園に入る前、中華街で既に変化の萌芽は訪れている。

 そして、正鵠を期すならば、きっと今も。
今も自分は、変化の過程に身を置いているような気がして止まない。

「サングのせいだよ」

 律は澪を軽く上目に睨み付けてから、はにかんだ笑みを漏らして続ける。

「大胆って言えば、あそこのお手洗いで大変な目に遭ったんだった。
でね。今も、大変な事になっちゃいそう。
お手洗い、こっちにあるんだよね?それとも、まだお預け?」

 律は腰を落とした姿勢から、内股を擦り合わせてみせた。
仕草にも表さなければ気が済まない程、身体の切なる訴えは急迫を告げている。
膀胱が熱を持ったように疼き、下腹部には鈍痛も兆し始めていた。

「もう見えてるよ。
そこに、右に逸れていく道があるだろ?あそこから屋内に入って、中にすぐあるよ」

 澪の指差す先を目で追うと、建物内部へと通じる道が律にも見えた。
ただ、真っ直ぐな道で見通しが良いから視認できるだけで、近いとは思い難い。
焦眉の事態に急く律にとっては、十メートルの距離でさえが天竺への険路だ。
151 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/13(土) 21:07:33.19 ID:fx1PVUDlo
 埠頭の突端に近付くに連れて増す風の強さが、ここでも律を苛んだ。
足を重くさせる上りの坂道と相俟って、律の身体を容易には前方へと運ばせてくれない。
澪が腰を押し出してくれていなければ、より遅々とした行程となった事だろう。
加えて、強風に煽られて身体が揺れる度、膀胱に震動の波が伝わって尿意を刺激している。
それもまた、律を悩ませた。

「ふぅー、やっと、だね」

 艱難の道程を終えて手洗いに通じる小道へと入った律は、大きく息を吐いた。
ここならば、風も建物に遮られて煽ってはこない。

「切羽詰ってたみたいだな」

 澪が苦笑しながら、ハンカチで額を拭ってくれた。
気付かないうちに、脂汗を滲ませていたらしい。

「うん。もー限界」

「ほら、行っておいで。一応、これ持っていくか?」

 ハンカチをポケットティッシュに持ち替えて、澪が言う。

「大丈夫、だと思う。持って行くにも、収めておくポケットとかないし」

 律はチャイナドレスを眺め下ろしながら答えた。

「まぁ、流石に大丈夫だろうな。公園の屋外トイレとは違うんだし。
そこは安心か」

 澪は無理強いする事無く、ポケットティッシュも引っ込めた。

 律にとって、持っていく事なら造作もない。
ポケットが服に付いていなくとも、荷物と手間が少し増えるだけの事だ。
ただ、荷物と手間の双方ともが、少なければ少ないほど良いものである。
もっと言えば、少ないよりも無い方が好ましかった。
152 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/13(土) 21:08:33.20 ID:fx1PVUDlo
「でも、気持ちは嬉しいよ。
それに、万が一、また無かったとしてもどうせ」

 言いかけて、律は口を噤んだ。
独り言でも零すかのような自然な口舌で、何を口走ろうとしたのか。
そこに思考を馳せるよりも先に、怪訝な様子の澪が律の目に飛び込んできた。

「どうせ、あるに決まってるよ。屋上とはいえ、客船ターミナルなんでしょ?
大丈夫、大丈夫。じゃ、行ってくるね」

 律は早口に言い繕うと、逃げるように屋内へと入っていった。
澪も呼び止めることはしなかった。

 屋内の通路は狭いながらも、瀟洒な装いで律を迎えてくれた。
壁には流線形のタイルが幾重にも編まれ、
その光沢のあるダークグレーが照明と相俟って落ち着いた高級感を演出している。
そして入ってすぐのタイルに、手洗いへ案内する銀のプレートが埋め込まれていた。
急く心のまま、矢印の示す先へと律は進む。

「ふー」

 悶える身を抱いて手洗いに到達した律は、長息して我が身を労った。
尤も、この手洗いを一見するだけで、ここまで我慢した甲斐も認められる。
床や壁の清潔さも、個室の数も、山下公園の屋外トイレとは雲泥の差で優位していた。

 手洗いを中央まで進んだ律は、空いている個室へと無造作に身を収める。
入ってすぐ目を走らせたのは、トイレットペーパーだった。
澪も律も揃って楽観していた通り、ホルダーに装備されて先端を垂らしている。
予備もホルダー上部の籠に充填されている様子が伺えた。
個室の中に構えている便器は洋式である。律の選んだこの一室だけではない。
全ての空室を覗き見た訳ではないが、
少なくとも目に入った範囲では全て洋式の便器が鎮座していた。
和式とは違い、工夫次第でドレスを汚さずに済ます事もできそうだった。
153 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/13(土) 21:09:40.83 ID:fx1PVUDlo
 律は備え付けの除菌クリーナーをトイレットペーパーに吹きつけ、便座を拭う。
次いで、便座の後方に据えられたタンクに目を向けた。
タンクのトップに吐水口はなく、陶器製の板が平面を形作っている。
ここに背面の裾を後方へ流して載せる方法も考えてみたが、
不精せずに片手で持ち上げていた方が確実だろう。
正面の裾は、両の腿の上へと流しておけば良い。
これでも片手は空くのだ。拭く段になっても難儀はすまい。

 そう考え、律は背面の裾を片手で持ち上げながら、便座へと腰を下ろそうとした。
だが、動きは止まる。
背中の長い裾を持ち上げる為には、手を背へと回さねばならない。
実際に手を回してみるまで楽観していたが、
実践してみると想像していたよりも大変な姿勢となった。
背と腕に攣りそうな程の負担が掛かり、柔軟体操でもしているかのような気分に襲われる。
この姿勢を保ったままの排尿は、不可能とは言わないまでも大仕事だとは思う。

 答えが出てからの決断は早かった。
脱いでしまえばいい。一度行っているのだ、抵抗など薄れている。
もし昨日までの、即ち未経験の自分なら躊躇っていただろう。
否、着衣したまま頑張っていただろう。

 律はタンクのトップの平面を除菌クリーナーで吹いた上で、
トイレットペーパーも敷いた。
手間を重ねる内にも尿意は募るが、怠れない手順である。
澪から貰った大切な服を載せる場所になるのだから。

 そして服を脱ぐ段になって、尿意は最高潮に達した。
開放の時を間近だと感じた膀胱が暴れ、律を身悶えさせる。
律は身体を捩じらせながらも、服を慎重に脱いで丁寧に畳んだ。

「はぁっ」

 ここまで終えた律の口から、大きな吐息が漏れ出る。
我慢が齎す身の緊張のあまり、呼吸さえも忘れていた。
便座に腰掛けた律は音姫に手を伸ばしかけ、触れる事無く引っ込める。
一糸纏わぬこの大胆さを、今日は持ち続けていたかった。
澪の彼女として過ごす一日を、淑女らしさに縛られて終わらせたくはない。
154 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/13(土) 21:11:11.35 ID:fx1PVUDlo
「ふー」

 開放された心地良さに、律は長い息を吐いた。
同時に、排尿の音が音姫の擬音に邪魔される事無く響く。
擬音装置の付いていないトイレであっても、律は必ず水を流しながら事に及んでいる。
そんな律にとって、初めてとも言える体験だった。
少なくとも、恥じらいを覚える齢となって以降では、音のケアを怠った記憶はない。
弟が居る以上、家でさえ欠かした事のない習慣である。

 誰に聞かれているか知れない。
その羞恥は排尿が終わるまでの間、律を存分に焦らしながら続いた。
個室の外に人の気配を感じる度、律の視線は音姫へと向く。
そうして未練がましく音姫を睨み付けながら、膀胱が楽になる時を待った。

 排尿を終えた律は開口一番、ここでも大きな息を吐き出した。
緊張を強いられただけに、精神を見舞った疲労は大きい。
身体にも汗が滲んでいた。

 ただ、山下公園の時ほどには、消耗も疲弊もしていない。
ならば直ちに後処理も済ませ、澪の元へと戻るべきだろう。
そう思い、律はトイレットペーパーホルダーに目を向けた。
前の使用者が律儀なのか、掃除の人が回って以降で初めての使用だったのか、
トイレットペーパーの先端が行儀良く三角に折られている。
だが、矢印のようなトイレットペーパーに、律の指が触れることは無かった。

「いいよね」

 個室に響いていた排尿の音よりも小さい声で、律は一人呟いて立ち上がる。
律がトイレットペーパーの代わりに手にしたものは、
タンクのトップに畳んでおいたチャイナドレスだった。

「えへへっ」

 誰に見られている訳でもないのに、律は照れたように笑った。
はにかみながら、ドレスに肌を通してゆく。
155 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/13(土) 21:12:38.19 ID:fx1PVUDlo
 拭くべきだとは分かっている。良識的に考えても、そして何より、衛生的に考えても、だ。
かぶれてこそいないが、痒みは感じ始めている。
無理もない。澪と合流してから、幾度となく液体を纏う羽目になった箇所なのだ。
汗、尿、そして粘液と。
肌に貼り付いて蒸れるそれらが、痒みを誘発する刺激となったとしても不思議はなかった。

 だが、良識も衛生観念も押し流すだけの強い動機が、律を動かしている。
澪が褒めてくれた自分の匂いを、濃く保っていたい。
溢れて塗れる体液がフェロモンの用を成すならば、
このまま被服を纏う事も吝かではなかった。

 律は誰に命じられた訳でもなく、拭かぬままの身にドレスを着込んだ。
身体も音も匂いも、遍く衆人の面前で白日のもとに晒してやる。
──願わくば、心も。

 水を流して個室から出た律は、手を洗ってドライタオルに翳して乾かした。
不潔が好きな訳ではないのだから、水は流すし手だって洗う。
最低限の措置に過ぎないが、それが不浄と淫縦の間で律なりに画した一線だった。

 律が戻ると、澪はバッグからペットボトルを取り出して迎えてくれた。

「さっきも言ったけど。喫緊の欲求を片付けたなら、飲んでおいた方がいいよ」

 差し出された飲料を、律は素直に受け取った。
トイレが近くなるからと嫌がっていては、熱中症は防げまい。

「そうだね。またトイレに行きたくなると困るけど。
熱中症の方が、困るから」

 倒れてしまえば、澪にも迷惑が掛かるだろう。
唯達に見せ付ける事もできなくなる。
何より、折角の逢瀬を半端な形で切り上げたくはない。

 律はペットボトルを咥えると、首とともに上方に傾けた。
そうして喉に落ちる冷たい水を、目を細めて嚥下する。
気付けば、渇きを癒すのではなく、涼を得たいが為の吸水となっていた。
熱中症対策の度を超えた水分の摂取は、手洗いを近付ける原因になってしまう。
夏場の冷水に名残惜しさはあったものの、律はペットボトルを口から離した。
見ると、既に半分近くを空けてしまっていた。
156 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/13(土) 21:13:52.56 ID:fx1PVUDlo
「ご馳走様。ね、サングはお手洗い、大丈夫なの?
行ってくるなら、私ここで待ってるよ?」

 澪にペットボトルを返しながら、たった今湧いた疑問を律は問い掛けた。

「ああ、平気さ。律ほどには水を飲んでいないからな。
それに、この暑さでこの格好だからな。余分な水分は汗で排出されていったよ」

 男装している澪は、夏にしては着込んでいる。
豊満な胸を隠さなければならないという体型上の都合も、
厚着の傾向に拍車を掛けたに違いない。

 だが、排泄は他の器官からの水分の排出によって、完全に代替し切れるものではない。
現に律とて、汗を掻いた程度では、排尿の欲求は消えずに自身を苛んでいた。
また排尿の欲求を抱えていても、身体は吸水の必要を喉の渇きで訴えていた。

 人の身体には、完璧な物流網など備わっていない。
不足する水分と過剰する水分を、器官の間で調節できる仕組みにはなっていないのだ。
尿の形で膀胱に溜まった水分を、喉に回し渇きを癒やす事も、
また肌から汗の形で水分を出して、排尿の欲求を取り去る事も、どちらも不可能な話である。

「本当?無理してない?」

「無理してないよ」

「でも、私と合流してから、お手洗いに行ってないよね?」

 自分が寝ているうちに、用を済ませていたとは考え辛かった。
眠る時、澪の肩を借りていたのだから。
157 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/13(土) 21:15:23.95 ID:fx1PVUDlo
「合流する直前には行ったけどな」

 澪はそこで言葉を切ると、指の腹で律の頭頂部を軽く叩いてくれた。

「心配してくれてありがとな。でも、本当に今は大丈夫だ。
それに、向かいの通路にもトイレはあるから、そっちで済ませるよ。
したい、したくないに関わらず、初めからそのつもりだったんだよ」

 澪の腕が律の腰に回り、歩みが再開した。

「そうなの?」

「ああ。ここを過ぎれば、みなとみらい21、
唯達のウォッチスポットに直行するからな。
その直前に、さ」

 言われて、律は納得した。
今日の澪は彼氏役なのだから、女子トイレに入る所を見られては不味い事になる。
事情を知らない赤の他人には、澪が男装の麗人に映るに違いない。
手洗いの中のような狭い空間で間近に彼女を見るならば、
澪が女性であって変質者の類でないとの判別は誰にでも付く。
よって、澪が男に間違えられてトラブルに至る心配はなかった。

 だが、距離を取って眺める唯達は、律と行動を共にしている者は男だと思っている。
澪が女子トイレに入る所を目撃されれば、嘘が露見しかねなかった。

 自分が如何に大変な事を澪にお願いしたのか、
そして澪が如何に無理な難題を引き受けてくれたのか、身に染みて分かった。
自身の排泄欲を満たす事しか考えていなかった自分の厚顔さが、今となっては許せない。

「大丈夫か?風が強くなってきたから、気を付けてな」

 気遣うような澪の声で、律は我に返った。
澪は律の裾が捲れてしまわないように、下腹部に空いた方の手を添えてくれていた。
158 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/13(土) 21:16:56.31 ID:fx1PVUDlo
「確かに強いね。
サングが抑えてくれていなかったら、私まで飛んで行っちゃう所だったよ」

 軽口を返して、律は自分の手で下腹部を押さえた。
臀部の押さえは歩き始めた時から、澪に任せてある。

 押さえていても、長い裾は強風にはためいて風切り音を響かせていた。
布地は視界を遮る用は成していても、股下を擽って吹き抜ける風までは防げていない。
性器に風圧を感じる度、
拭き取らなかった尿の残滓が風に飛ばされてしまわないか心配だった。
後方で歩いている人も居るのだ。
雫の直撃に至らずとも、匂いくらいは鼻腔に届けてしまっているかもしれない。

 律は後方に歩く人の表情を伺おうと、首だけを振り返らせて見た。
十メートルほどの距離を置いて歩く男性と目が合ったが、
彼は慌てて視線を逸らしてしまった。
気まずさの漂うその仕草から察するに、後方から律を凝視していたのだろう。
運良く裾が派手に捲れて、臀部や生殖器を目に出来ないかと期待していたのか。
或いは、このままでも眼福に値するものと評価してくれていたのか。
そこまで考えて、律は自分が前面ばかり意識していた事に気付いた。

「ん?どうかしたのか?律?」

 背面に首を振り向けている律に、訝しんだらしい澪が尋ねてきた。

「この格好なんだけど。
やっぱりお尻の形とかも、服の上から分かっちゃってるよね」

 布地を突き上げる堆い恥丘や、空いた胸元、
深く際どいスリットばかり気に掛けていた。
だが、チャイナドレスがラインの出易い服だというのなら、
背にも注意を向けて然るべきだった。
臀部の形も、赤裸々になっていたに違いないのだから。
159 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/13(土) 21:18:11.80 ID:fx1PVUDlo
「ああ、余計な肉がないから、割とくっきり映っていたと思うぞ。
今日はあまり律を後ろから見る機会なくて、チラ見した感じだけど、
ちっちゃくて形が良いよな。羨ましいよ」

 そうだった。言われて、改めて実感する。
澪は今日ずっと、律の隣に寄り添ってくれていた。
後ろから眺める機会など、あまりなかっただろう。

「ありがと。サングだって、引き締まったお尻と身体してて、格好良いよ。
でも、私のお尻、他の人にも見られちゃってる、かな」

 少なくとも、律達の後方を歩いている男は、それらしき仕草を見せていた。
ここに来るまでも自分が気付いていないだけで、
数多の視線に晒されていたのかもしれない。

「見せ付けてやれよ、お前は美しいんだから。
第一、今更だろ?
こっちの方が過激で、余っ程目立って、遥かに注目を集めていたよ」

 澪の目が、下腹部に聳える恥丘を射抜いてくる。

「うーっ。じゃあ、前も後ろも見られちゃってるって事じゃんかー」

「その通り。何度でも繰り返すけど、それだけお前が美しいって事だ」

「審美の目を向けてきてるんじゃんなくて、どうせ下心だよ」

 律は赤くなった顔を俯かせて言い放つ。
耳元で美しいと連呼されては、
顔を隠さずには居られない程に顔色が染まってしまっている。

「ほら、顔を上げて。先端に着いたぞ」
160 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/13(土) 21:19:57.29 ID:fx1PVUDlo
 足を止めた澪が、律を促してきた。
言われるがまま従って、律は顔を上げる。
先端と言うよりも、上端と言った方が正鵠を射る地形だった。
この突き出たエリアの直下に海がある訳ではなく、
船の乗り場と思しき土台が下部を囲んでいる。
ただ、大さん橋のここ最上部から海を見渡す限りでは、
土台は視界にほぼ入ってこない構造にもなっていた。

 前方にある柵の奥に、目を向けてみる。
遠く小さく映る向こう岸まで、海が広がって見えた。
曇という天候と夕方という時刻が影響してか見通しは良くないが、
晴天時の昼間ならば向こう岸の建造物も明瞭に映った事だろう。
或いは今よりも周囲が暗くなれば、
向こう岸に灯る明かりの束が夜景となって目に届いていたかもしれない。
今は向こう岸が、隆起する霞の連なりとなって見えている。

 それでも柵の前に設置された望遠鏡に指定の硬貨を投じれば、
向こう岸を微細かつ明瞭に見通す事ができるのだろう。
だが、律に望遠鏡を覗き込む積もりはなかった。
眼下に広がる海を眺めるに支障はない。
ならば、海を眺めれば良いだけだった。
何を見るかよりも、誰と見るかの方が、律にとって重要なのだから。

 右方へと目を転じれば、長く東南へと伸びる山下公園が視界に入る。
前方の陸地と違って距離が短い為、この時間帯のこの天候であっても、
奥の氷川丸までも見晴らす事ができた。

──映画みたいなデートにしたい

 彼氏が居るなどと嘘を吐いてしまったあの日、
零した言葉の全てが嘘だった訳ではない。
恋愛映画を見て胸に響く場面に出会う度、こういうデートがしたいと憧れてきた。
数多の映画の無数のお気に入りのシーンが、カタログのように頭に仕舞われている。
今日、氷川丸を間近に見た時、そのカタログの中の一ページが脳裏に開かれていた。
だが、開かれただけで、実践には至っていない。
こうして遠ざかってから見返すと、胸を焦がすような未練の念が湧いてきた。
161 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/13(土) 21:21:23.71 ID:fx1PVUDlo
「律」

 未練がましく見ていても切なさが募るだけだと、
律が無理矢理にでも視線を氷川丸から引き剥がそうと思った時、澪が呼び掛けてきた。
渡りに船と、律は目を首ごと澪へと向ける。

「おいで」

 澪は言いながら、突端の手摺の前に立って手招いている。

「なぁに?」

 律が歩み寄りながら問うても、手招く澪はもう片方の手で隣を指差すだけだった。
仕草で促されるまま、律は澪の隣へと身体を収める。
と、同時に、澪が勢いを付けた大股で前に動いていた。
落下防止の柵が眼前にあっても勢いを削がない澪の動きに、律は目を瞠る外ない。
必然、澪の体重が柵に圧し掛り、衝撃で大きく揺れた。

 衝突の直後なのか、或いは同時だったのか。
拳の形に握られた澪の右手が、斜め前方へと掲げられていた。

「I'm the king of the world!」

 衆目に怯む様子など微塵も見せず、澪が堂々とした声を海に響き渡らせた。
その姿に見覚えがある。何より、言葉に聞き覚えがある。
律の頭に仕舞われているカタログが、
烈風に煽られたように猛烈な勢いでページを捲り始めた。
そして頁を繰る風は、氷川丸を見た時にも開かれた頁を指して止まる。

──タイタニックだ。

 海に向けた澪の叫びは、あの映画の序盤のワンシーンを模したものに他ならない。
そして、同タイトルは、恋愛映画史上で律が最も憧れるシーンも擁している。
162 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/13(土) 21:22:51.75 ID:fx1PVUDlo
「あれをやりたいんだろ?お前の好みに沿うと約束した通りだよ。
代替であったとしても、な。
だから、目を閉じて。大丈夫、私を信じろ」

 惚けている律の耳を、澪の声が擽った。
忘我に浸っていた直後だけに、律の反応は鈍い。
澪の指示に対して、脳内で咀嚼する手間を踏まねばならなかった。

「Close your eyes.Believe me」

 続け様、澪が言語を変えて、指示を繰り返していた。
その二言が、律に移るべき行動を理解させる。
落ち着いた心地で律は目を閉じ、澪のリードを待った。

「触るぞ」

 目を瞑っている律が怯えないようにとの配慮からだろう。澪が一声掛けてきた。
相手が見えぬとも、澪の感触とそれ以外の触感を触覚で判断できるだけの自信はある。
だが、律の心に無用の不安を抱かせぬよう、気を配ってくれた心持は嬉しかった。
澪の紳士的な態度に、律は淑女らしからぬ奔放な許可を与えて応える。

「Please, Touch me」

「仰せのままに。My fair lady」

 律の後ろに立つ澪は右手を律の腰に回すと、空いた左手を律の左手と重ね合わせてきた。
互いの指の股に指を通し合って握り込み、左腕を伸ばして真っ直ぐに張る。
そのままの姿勢で、澪が律を伴って歩き出した。
ダンスのステップでも踏んでいるようだと、自分達の重なる体勢を脳裏に浮かべながら律は思った。

 ステップが終わると、ターンが律を見舞う。
律の肢体は澪の腕の中で回されて、胸に両手を添えられる事で止まる。
乳房が圧され、先端の突起が布地と擦れた。
身体が敏く仕上がっているせいで、律の口から荒い呼気が漏れ出る。
その間にも、澪の両手は律の両腋の下に回っていた。
澪の両手が、律の両腋の下から手首へかけて各々滑ってゆく。
そうして澪の手が淀みない滑走を終える頃には、律の両腕は水平に伸ばされていた。
163 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/13(土) 21:24:06.90 ID:fx1PVUDlo
 そこまで終えた澪の両手が、左右から挟みこむように律の脇腹へと添えられる。
正面から強風が唸りを上げて煽ってきているが、
澪に力強く支えられている為か姿勢を崩さずに済んだ。
律を守る澪の膂力が頼もしい。
思えば、ステップもターンも強風に乱されていなかった。

「Open your eyes」

 風の齎す轟音に邪魔されぬよう、
澪が律の耳介に唇を挿し入れるようにして囁いてくれた。
律は促されるままに、両目を開く。

「わぁっ。あは」

 律は声とも息とも付かぬ空気を喉から漏らして、眼下の海に見入った。
海の色は濃さを増して、空から零れた橙を海面に映している。
雲の向こうで、太陽が傾いているのだろう。

 前方から吹き寄せる風は、空気抵抗のような圧力を律の身体に与えてゆく。
埠頭の側へと連なって押し寄せる漣と相俟って、空でも飛んでいるような錯覚に包まれた。
自らの身体で海上を飛んだ時、こういう光景が目に映るのだろうか。
頬に胸部に下腹部に風圧を感じながら、後方へと流れてゆくような海の漣を見ていた。

 空を飛ぶ、鳥になる、何れも自由の象徴だ。
あの映画のヒロインであるローズも、不自由を強いる周囲に翻弄されて自由に憧れていた。
自分も周囲を気にして自由な恋愛さえできない小心者だと、ローズに感情移入してしまう
件の映画でローズを救い、自由へ導いた者はジャックだった。
ならば自分は──

 海を眼下にそこまで考えた時、両の手に重ねられるより大きな手の存在を感じた。
振り向かずとも分かる。澪が両手を重ね合わせてくれたのだ。
気付けば、脇腹を挟み込む圧力も消えている。
164 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/13(土) 21:25:37.94 ID:fx1PVUDlo
 律は首を捻って背に立つ澪を見遣った。
澪の顔が見たいと、切実に視覚が欲している。
海上で風を切って飛ぶ感覚も捨て難いが、
この体験を演出してくれた澪への愛しさが募って止まない。
律の顔の真横に、澪も顔を迫り出し近付けていた。
接吻でもするかのような至近に顔を置いて、律は口を開く。

「有難う」

 時間では換算できない満足を感じ、律は心からの礼を言う。

「こんなのでごめんな。本当は、船に乗せてやりたかったんだけど。
この後、唯達にお披露目する予定が控えているからな。
それに乗ったとしても、客船じゃ甲板部分、特に船首や船尾には出られないんだよ」

 律と重ねていた姿勢を解きながら、澪が言葉を返してきた。

「自家用クルーザーでもあれば、な。
香港にせよタイタニックにせよ、甲斐性のなさが恥ずかしいよ」

 と、澪は苦笑いで続けている。

「んーん、ここまでしてくれて、嬉しかったよ」

 ここまで尽くされて、不満などあろうはずもない。
律は胸中で澪の対応に満点を付けてから、二人で歩き出した。

 直後、律は自分達へと注がれる視線の群れに気付く。
これだけの人通りの多い中でタイタニックを模せば、
注目を集めてしまう事など分かり切っている。
理解した上で及んだ行為だったが、
実際に無遠慮な注視を全身に受けてしまうと含羞で頬が火照った。

「でも、ちょっと、恥ずかしいね」

 律ははにかんだ笑みを澪に向けて、小さな声で言った。
165 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/13(土) 21:26:27.46 ID:fx1PVUDlo
「それはそうだろう。
だって私、律に恥ずかしい事をやらせちゃうサディスティックな彼氏なんだろ?
望むままに、だよ」

 澪は見下ろすような笑みと共に言葉を浴びせてから、唇を律の耳元に近付けてきた。
唇と耳朶が密着して、澪の言葉が鼓膜を叩いてくる。

「もっと恥辱を与える仕打ちだって企んでいる。覚悟しろって、言ったよな?」

 首筋を縮めたくなるような震えが律の項に走る。
怯え故の戦慄ではない。期待が故の武者震いだった。

 心臓の鼓動が早まってゆく。
呼応して、息遣いも荒くなりそうで、このままでは澪に興奮が伝わりかねない。

「でも、よく分かったね。私がタイタニックごっこしたいって」

 マゾヒスティックな興奮を気取られないよう、律は平静を装って問い掛けた。

「だってお前、言ってたろ?映画みたいなデートにしたいって」

 何でもない事のように澪が答える。

「覚えててくれたんだね」

「ああ。それに律、氷川丸を見てたから。それで」

「それで推測したら、偶然当たったんだね。運命みたいー。
って、こんな所から遠くの船見てたら、船に興味あるって分かっちゃうか」

 思えば、大さん橋の先端に到着した時、律は右手側の海の向こうにある氷川丸を見ていた。
未練の念で眺めている最中に澪から呼び掛けられ、
タイタニックのポーズへと誘われている。
澪は律の口惜しげな視線の先に、氷川丸を認めたに違いなかった。
それが澪の中で「映画みたいなデート」と繋がって、
タイタニックが連想されたとしても不自然はない。
律自らが否んだ通り運命ではなく、
蓋然的と思われる選択を澪が行った結果に過ぎないのだろう。
166 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/13(土) 21:27:44.93 ID:fx1PVUDlo
 そう考えて納得しかけた律の目に、澪の浮かべる呆れたような表情が映る。
誤謬を犯したのだと悟った直後、自身の行った推理に猛烈な違和感が湧き上がってきた。

 そうだ、この推理ではおかしい。何かを見落としているのだ。
確か、澪に何かを言われていたはずである。
それが引っ掛かっているのだと気付いたが、何を言われたのかが思い出せない。
どのタイミングだったか。埠頭の先端に来た後なのか、否、トイレから帰ってきた時か。
再び否、もっと前だ。ここ大さん橋を上り始めた直後、三度否、直前だ。
確かあの時、澪が自動販売機でペットボトルを──

「何を言っているんだよ、律。こんな遠くじゃなくって、近くで見てたろ?
山下公園で船の舳先を間近に眺めながら、
デッキに出られないかって訊いてきたじゃないか。
今日は出れないって言ったら、律がっかりして船から興味を無くしてた。
あれだけ露骨に興味の対象が偏っているなら、簡単に分かるよ」

 律が思い出すべき澪の発言を手繰り寄せる前に、当の澪が口を開いていた。
澪は律が推理したような、
大さん橋での律の振舞いからタイタニックを連想した訳ではない。
山下公園で初めて氷川丸を見た時から、彼女は律の希望に気付いていたのだ。

 船の中身でも背景でもなく、デッキ、それも舳先にしか興味を示さないのなら、
律の希望がタイタニックのポーズであると判断するのは容易だっただろう。
寧ろ自分が、態とらしく伝えたような気分にさえなってくる。

 そして此処まで分かれば、自分が見落としていたものも簡単に見つけ出す事ができる。
思い出してみれば、自分の問い掛けが発端だったのだ。
『船に乗るの?』と、大さん橋の入り口付近でペットボトルを買う澪に問い掛けている。
それに対する澪の返答こそが、律が見落としていたものであり、
引っ掛かりを覚えていた正体だったのだ。

「疲れて寝てた律を半端な時間に起こして、
ここに寄る時間を作ったのも、その為だよ」

 澪が丁寧に言い足した言葉も、律の思考と符号している。

 澪は始めから、此処に寄るつもりだった。
遅くとも、律を起こした時には。恐らくは、律が氷川丸から興味を失した時に。
167 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/13(土) 21:28:54.38 ID:fx1PVUDlo
 だからこそ澪は、”律の好みに沿えない”という理由で乗船しないと答え、
”律の好みに適う代替の手段を用意してある”と宣言したのだ。
故に、タイタニックのポーズは、
此処大さん橋の最先端部に到達してからの思い付きではない。
入り口の段階で言質を残しているのだから。

 確かに運命が導いた解答ではなかった。
だが、蓋然的な選択の結果でもない。
澪が律を観察してくれていたから辿り着けた、必然的な境地だった。

「運命なんかじゃないんだね。
サングが叶えてくれたんだもん」

 だから有難うと、律は澪に告げた。
人の力は運命の力よりも強い引力で、願いを成就へと引き寄せる。
それを教えられた思いだった。

「そんな大袈裟なものでもないだろう。
香港を中華街で代替し、豪華客船の船首を埠頭の突端で代替するような、
妥協の産物だからな」

「妥協なんかじゃないよ。
私の我侭を叶える為に工夫して作り出してくれた、夢みたいな時間だよ」

 例え澪本人の言であれ、澪の行為を妥協の一言で済ませる積もりはなかった。
律の望みを極力叶えんとする澪の徹底ぶりは、
長く美しい黒髪さえも供した散髪にも表れている。
168 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/13(土) 21:30:11.51 ID:fx1PVUDlo
「お気に召してくれたのなら、自分に及第点は与えられるよ。
でもな、まだこれはオープニングに過ぎない。
後に控えるは本番、もうすぐだ。ご覧?」

 澪が律の頭の後ろに、指と視線を向けた。
示す先へと首を振り向けた律は、目に飛び込む光に息を飲んで魅入る。
そこでは、氷川丸がライトアップされて、光を海に零していたのだ。
零れて海面に映る光は、光源たる船を下方からも煌かせている。
光の循環が生み出す海上の壮観に、律は感嘆の声を上げる事で精一杯だった。

「わぁっ」

「ほら、もうこんな時間だ。暗くなってきているんだよ。
唯達との約束の時間が迫ってきている。
憶えているな?それが今日の、本番だ」

 気の引き締まる真剣な声音で、澪が言う。
海上のオブジェがライトアップされるような時間帯なのだ。
それは沈みゆく夕日も示している。
忘れてなどいない、意図的に意識しないよう振舞っていただけだ。
だが、目は逸らせない。
今日の主目的である、唯達を偽の逢瀬で欺く時間が迫っているのだ。

「憶えているよ、手順もウォッチスポットも。
何度も打ち合わせしたもんね」

「上出来。じゃあ、行こうか」

 上って来た時とは逆側の通路へと、澪が腰を取って導いてくれた。
下半身を支配される感覚に、律は足取りをすら澪のリードに任せてゆく。

 こうして恋人として扱ってくれる時間も、終わりに近付いていた。
赤く傾いた太陽に、ライトアップされゆく街に、
澪の言葉に、律はその事を敏く感じ取る。
だが、その前に訪れるひと時こそが、この恋人のような関係性のクライマックスだった。
本物の恋人として、澪を唯達に披露する瞬間こそが。
169 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/13(土) 21:31:18.66 ID:fx1PVUDlo
 最高潮のひと時に焦がれる思いはあれど、
それで終わると思うと牛歩に伸ばしたくもなる。
律は細やかな時間稼ぎにと、一箇所だけ寄ってから目的地に向かうよう言い添えた。

「あ、でも、唯達の所に向かう前に。サング、お化粧室に寄って行くんでしょ?」

「ああ。さっきは、念の為に搾り出しておくノリだったんだけど。
緊張のせいか、近くなったみたいだ。普通に行けそうだよ」

「良かったぁ。私ばっかりお化粧室行くの、本当はちょっと恥ずかしかったんだぞー。
でも、サングが緊張なんてしてるの?」

 冷静かつ余裕の振る舞いを見せる彼女から、張り詰めた空気は感じ取れない。

「当たり前だろ。
学園祭でボーカルやるのも揉めたし、目立つのだって恥ずかしくって嫌いだし。
幼い頃の作文だって、ほら」

 冗談めかして澪が笑った。

「あー、目立つのは嫌いだったね。
格好悪い事が、誰よりも許せない人だった。
でも本当は度胸がない訳じゃないよね?
胆力は私達の中で、一番備わっていると思うし」

 唯も大胆な女ではあるが、羞恥心が薄いだけだと律は内心で評した。
半面、澪は常識的な羞恥心を備えた上で、必要とあらば最前線に立つ事を厭わない。
今日だってそうだ。
普段は目立つ事を厭う澪も、律の為にと衆目を集める行為に興じてくれていた。
このモードへとスイッチを入れた澪に緊張する心があったとは、意外な発見である。

「するさ、するよ。律の名誉の懸かった、大事な日なんだろ?
責任重大だからな」

 発声した後の澪の口から漏れた吐息に、力が篭っている。
緊張しているという発言は、本心から出たものらしかった。
170 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/13(土) 21:32:20.58 ID:fx1PVUDlo
「そっか。じゃ、向こうでもお手洗い、行きたくなっちゃうかもね。
その時、無理して我慢したら駄目だからね。約束っ」

 律は強引に澪と小指で契った。
元を辿れば、原因も責任も自分にあるのだ。
澪に無用の負担を掛け、挙句に健康や精神を害させる訳にはいかない。
例え、露見の危険を冒すことになったとしても、だ。

「大丈夫だよ。緊張したら毎度、ってタイプでもないから。
今日はあまりトイレに行ってなかったっていう事情と、相乗しただけだ。
新陳代謝の周期を少し早められただけさ」

 律の剣幕を往なすように、澪が苦笑しながら言う。
確かに、大一番の前で澪が尿意を訴えた事など、記憶を探っても思い当たらない。
ここで済ませておけば、唯達の前で再度催すという事態にはならないだろう。

 一方で、珍事であるが故に、本心から律の懇願を重視する澪の真剣さも伝わってくる。
それは澪が我が事では見せて来なかった姿なのだ。
必ず行為で示す形で、澪に報いようと。
澪の隣を歩く律の胸中で、チャイナドレスを貰った時の決意が繰り返されていた。

*

463.16 KB Speed:0.1   VIP Service SS速報R 更新 専用ブラウザ 検索 全部 前100 次100 最新50 続きを読む
名前: E-mail(省略可)

256ビットSSL暗号化送信っぽいです 最大6000バイト 最大85行
画像アップロードに対応中!(http://fsmから始まるひらめアップローダからの画像URLがサムネイルで表示されるようになります)


スポンサードリンク


Check このエントリーをはてなブックマークに追加 Tweet

荒巻@中の人 ★ VIP(Powered By VIP Service) read.cgi ver 2013/10/12 prev 2011/01/08 (Base By http://www.toshinari.net/ @Thanks!)
respop.js ver 01.0.4.0 2010/02/10 (by fla@Thanks!)