田井中律誕生日記念SS2016(must was the 2014)

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171 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/13(土) 21:33:29.96 ID:fx1PVUDlo
>>146-170
本日はここまでです。
また明日よろしくお願いします。
172 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/14(日) 19:54:22.93 ID:cjeQh/sKo
こんばんは。
>>170の続きを投下します。
173 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/14(日) 19:55:19.22 ID:cjeQh/sKo

*

10章

 丁度良い頃合に、ウィンドウショッピングを切り上げる事ができて良かった。
エレベーターに乗り込んだ紬は、安堵に胸を撫で下ろす。
同乗する唯と梓の顔を密かに窺ってみたが、
そこには満足と期待が浮かぶばかりで、不服も未練も感じ取れない。
ウィンドウショッピングの時間を設けた事に、満足してくれたらしい。

 ワールドポーターズの中でも、唯の興味の対象は八方へと向いていた。
一階ではレストランに、二階ではカフェとスイーツに、
そして三階ではファッションに、といった具合である。
梓が唯を注意して引っ張っていたが、その梓も本心では興味があったのだろう。
未練の有りそうな一瞥を、其処彼処のテナントへと投げ掛けていた。
指定の時間までの猶予ならまだ十分にある。
そう判断した紬は、ウォッチスポットへの道順の確認だけ済ませると、
ウィンドウショッピングの時間を設けてやった。
元より、不測の事態に備え、時間的な余裕を持たせてスケジューリングしている。

 そして紬には、不測の事態を危惧するに足る十分な理由があった。
もし口に出したのならば、梓も同調してくれるだろう。
ただ、唯の前では口外できない。彼女が、その理由なのだから。
即ち、唯が予測を超えた行動に出ないか心配だったのだ。
ランドマークタワーのカフェで梓が愚痴混じりに話していたのだが、
唯は梓と同乗した電車の中で中華街に行きたい雰囲気を醸していたらしい。
それを聞いた時、唯なら行きかねないと思ったものだ。
逆に、素直に待ち合わせ場所へと直行してきた事の方が、紬にとっては意想の外だった。
梓は遅刻を詫びていたが、数分の遅刻で済むなら安いものである。
”数分”遅れるとの連絡を貰った時、紬は彼女達にコーヒーを奢る気にさえなっていた。
174 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/14(日) 19:56:42.73 ID:cjeQh/sKo
 ウィンドウショッピングの時間は、お行儀の良い二人に対する紬なりのお礼でもあった。
切り上げる時も、二人はごねる事なく従ってくれている。

「また来ましょうね。その時は、ゆっくりと」

 二人に話し掛けて、紬は自分の声が弾んでいる事に気付いた。
自分が一番、楽しんでいたのかもしれない。

「ええ。今度は純粋に観光目的で来たいです。
今日のも楽しかったですけど、何も買えなかったのは少し残念でしたし」

 梓の両腕は張り合いがなさそうに、身体の両脇に垂れている。
使命に支障を来たさない程度であれば、荷物を増やしてくれても構わない。
別に隠れる訳でもなければ、身軽である必要もないのだ。
だが、全方位の事態に即応できるようにとの暗黙の了解が、紬達にはあった。

 紬達を乗せたエレベーターは上に向かっている。
ここの屋上にあるルーフーガーデン、
そこに隣接する駐車場の一角が指定されたウォッチスポットだった。
見るだけの場所に向かうはずなのに、戦場に赴くような緊張を感じている。
誕生日の──そして何より危険日の──逢瀬に望む律の本気に、
当てられているのかもしれない。

「あーあー、それ敗北宣言だからね。ムギちゃん、あずにゃん。
りっちゃんってば、今日はデートなんだよ?
それなのに私達ときたら、また次も女同士での約束?
それじゃあ先を越される一方だよ。
りっちゃんが孕んで産んでのサイクルに淫する傍らで、
私ら三喪は仲良くヤラハタ、ヤラサー、ヤラフォー、でヤラハカですか?
勘弁してよー」

 品のない言葉を連ねる唯に、紬は露骨に顔を顰めてみせた。
梓も呆れたように、眉根を寄せている。
唯の言っている事は分かるが、表現が頂けない。
内心で共感できても、それを表出させる気にはならなかった。
175 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/14(日) 19:58:01.41 ID:cjeQh/sKo
「もう。こんな時、澪先輩が居てくれれば」

 梓が零した。澪が居てくれれば、唯を強く窘めてくれただろう。
その頼もしい存在は此処に居ないばかりか、LINEも見ていないようだった。
それでも紬は、チャイナドレス姿の律がその画像を展開する際、
LINEのグループトークを用いていた事には安堵している。
紬達三人の見学者のみへとメールで送るケースとは異なり、澪を仲間外れにしなくて済む。

「澪ちゃん、やっぱりショックなのかな」

 唯が一転、湿った口調で呟いた。
澪の名を出した梓も、気まずそうに口を噤んでしまった。

 紬は澪と律の交遊に、予てより友情を超えたものを感じている。
今の唯と梓の反応を見るに、二人とも同じ思いらしかった。
無理もない。
それくらい、律と澪のやり取りは比翼連理じみたものを醸し出していたのだから。

 それだけに、律に異性の恋人が居ると知った時は驚いたものだ。
二人の仲に友情以上のものを見出したのは、自分の錯覚に過ぎなかった。
律の性的な興味は異性にあるのだと、紬もあの日に思考を修正している。

 だが、澪の側はどうだったのか。
異性を性的な目で見ている者は律だけであり、澪は律が好きだったのではないか。
現にあの日、澪は露骨なまでに刺々しい態度で、律を突き放していた。
今日来ない理由も、恋人を作った律が許せないからなのかもしれない。
少なくとも唯は、それに類する理由で澪が今日来ないのだと推測している。
唯の一言に黙りこくってしまった梓も同様らしい。

「あっ。もうすぐ到着ですね」

 エレベーターの中に降りた沈黙を、梓が白々しいほど明るい声で破った。
彼女の目は紬にも唯にも向かず、階数の表示されるパネルへと向けられている。

 直後、エレベーターが止まり、両開きの扉が音を立てた。
梓が宣した通り、パネルにはRFという表示が光っている。
一足先にエレベータから降りた唯を追って、紬と梓も順に降りた。
176 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/14(日) 20:00:18.65 ID:cjeQh/sKo
 エレベーターの乗降口は屋根と壁とガラス扉があり、
この一角だけは室内という佇まいを見せている。
だが、性急な唯は早くもガラス扉を開けて、半身を外気に乗り出していた。

 屋上から吹き込んでくる夏の風が、紬の肌に当たる。
冷房に当たりきりだった触覚に、外気が心地良い。
外に出たら、もっと気持ちよさそうだ。
紬も唯に倣って、外へと出た。

「ここに出て、どっち側だっけ?」

 左右を交互に見ながら唯が呟く。

「駐車場の側、右側よ」

 紬は指を差しながら答えてやったが、唯の視線は逆を向いている。
右往左往している内に、関心を引くものが目に入ったのだろう。
目を動かさずとも、
この辺りの地理や名所が頭に入っている紬には対象の推測も付いていた。

「ちょっとだけ、あっち行ってみていい?」

「ああ、あれですか。確かに、近くで見てみたいですね」

 平素から、梓は唯が本来の目的よりも目先の欲を優先させる度に説教していた。
だが、この時ばかりは唯に同調している。
此処は、あの狭い部室とは違うのだ。
部活において練習という目的を脇に、
お茶とお菓子とお喋りに興じる先輩を窘めるようにはいかない。
巨大な観覧車の下部の円弧を目先に置いて、
梓も普段の”真面目な後輩”のままでは居られないようだった。

「構わないわ。少しだけ、寄り道しましょうか」

 この程度の寄り道なら、予測の範疇だった。
紬は二人を伴って、屋上を右、北西側へ向かって歩く。
ルーフガーデンと呼ばれる屋外の一角で、
ここにはパターゴルフの出来る設備も設けられていた。
177 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/14(日) 20:01:30.85 ID:cjeQh/sKo
 パターゴルフのコートの外に、台が一段高く盛られてベンチが置かれている。
その前に三人で立って、緩やかに巨躯が回る観覧車を眺めた。
前方の視界に塞ぐに足る円は、遥か頭上の中心部に時計を掲げている。
律との約束に達するまでの時間を数えるより先に、その高さに圧倒されてしまう。
紬達の居る地平は、六階建ての屋上部分である。
にも関わらず、中心部の時計を目に入れる為には、顔を傾けて見上げる必要があった。

「凄い。下を通った時に、見上げてたはずですけど。
こうして近くで見ると、圧倒されますね」

 息を詰めて見入っていた梓が、声を取り戻した。

 梓の言う通り、ランドマークタワーからここに向かう途中、
国際橋の通過後に観覧車の下を通っている。
唯にも遊園地の名称を聞かれ、コスモワールドと答えていた。
そしてこの観覧車がコスモワールドの名物、コスモクロック21である。

「ええ。そうね」

 一周回るために十五分を要する、という巨体を間近に、紬も短く答える事で精一杯だった。
乗った事がないばかりか、近くで見る事さえこれが初めてである。
過去の横浜旅行で、遠目に見た記憶があるのみだった。
その過去の記憶を、目の前で体験している圧巻の光景が上書きしてゆく。

 思慮の足りない唯には内心で呆れる事も多いが、
彼女の積極的な姿勢から受けてきた恩恵も少なくない。
この体験も、その一つに列せられるのだ。
妹のように可愛がっている斉藤菫からも、
最近は紬の性格が積極性を帯びてきたと指摘されている。
それも、唯が齎してくれた影響なのだろう。
偶には、唯に振り回されてみるのもいいかもしれない。
偶にならと、紬は思った。

 勿論、唯が暴走しないよう制御する役を忘れてはいない。
律達の邪魔になる事態だけは避けねばならないのだから。
その手前までが、唯に乗ってもいい限度である。
178 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/14(日) 20:02:29.46 ID:cjeQh/sKo
「本当、大きいねぇ。何だか、ホールケーキを食べたくなってくるよ」

 唯の漏らした感想に、紬は危うく噴き出しそうになった。

「もうっ。唯先輩は本当に食べる事ばっかりですね。
これ見て思い浮かぶのがケーキですか?
もうちょっと、サイズとか、装飾とかにも目を配りましょうよ」

 梓は噴き出してしまっている。
その所為か、口から出る文句の言葉に棘は感じられなかった。

「だってぇ、今日はあまり食べてないから、お腹が減ってるんだよ
まぁ大きいのはその通りだけど、装飾は真ん中の時計以外、目を引く所なくない?」

「何言ってるんですか。幾何学的な骨組みとか……」

 唯の薄笑いに気付いたのか、梓は咳を一つした。
発言の途中での咳は、梓が滑った時に見せる癖である。

「とにかくっ。見たいって言ったのは、唯先輩じゃないですか」

「あずにゃんも賛成したくせにー。
それに、私がこの観覧車に興味を持ったのは、大きくて目立ってるからだよ?
そこは正直に言っちゃうけどさ。
だって、装飾だとか幾何学だとか、衒った事を言って格好付ける趣味ないしー」

「なっ」

 梓が色を成した。戯れた言い争いで唯には勝てまい。
見かねて、紬は助け舟を出した。
後輩を弄る趣味はない上に、時間も迫っている。

「でも、装飾、あるよ?
もう少し経って日没になるとね、
観覧車のイルミネーションが点灯するらしいの。
今日のメインイベントの後で見ようね」
179 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/14(日) 20:03:34.43 ID:cjeQh/sKo
「ああ、それは楽しみですね。
ライトアップされたケーキ、デザートには持ってこいです。
その前に、メインディッシュを頂いておきましょうか」

 形勢の悪かった梓が紬の話に乗ってきた。
それでもケーキに触れて唯への皮肉を忘れないあたり、
負けず嫌いな梓の性格が表れている。

「そうだね。いい加減、持ち場に着こうか。
りっちゃんの晴れ姿、見てあげないとだし。彼氏がイケメンだったらどうしてくれよう」

 同意した唯が率先して歩き出した。
後輩を茶化して遊ぶ事よりも、彼女の興味を引いているものがある。
食よりも飾よりも、色が今一番の関心事なのだ。

 紬も同じ思いだった。律の色恋沙汰が何よりも気になっている。
気付けば唯を抜かして、三人の先頭に立って歩いていた。
逸る気持ちの所為ではあるが、どのみち二人を案内する役割に違いはない。
紬は二人を先導したまま、エレベーター前の扉を通り過ぎた。
あの扉を背にして右側に、目指すべき場所がある。
エレベーター脇にある連絡通路を抜けた先、駐車場こそが目的の場所だった。

「あー、ここですか。ここから、あの辺りを」

 梓が不服を隠せない口振りで呟く。

 駐車場の入り口の付近、と言っていいのだろう。
連絡通路を通ってすぐ左に曲がった角が、律から指定されたウォッチスポットである。
見通しは自体悪くない。眼下に海とそれを囲う建造物が覗けている。

「あの道、汽車道って言ったっけ?
ここから人を見るには、幾らなんでも、遠過ぎるよねぇ」

 唯も梓に続いて口を尖らせた。
その視線の先で、桜木町駅の方からワールドポーターズの前方まで、
海を区切る様に道が伸びている。
唯の言う通り、汽車道と名付けられている道だった。
180 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/14(日) 20:04:43.36 ID:cjeQh/sKo
 海を区切る道が最も目立っているが、
その海上の橋梁を出てからも汽車道自体は終わらない。
ワールドポーターズの東端の向かい、
交差点の前まで続いている道までを正確には指すらしかった。

 紬は今日、桜木町駅を降りているので、
唯達との待ち合わせ場所に向かう道中で汽車道の西側入口の前を通っている。
桜木町駅からランドマークタワーへ向かう道は他にもあったが、
律達の通る場所を下見しておきたかったのだ。

 そう、律は恋人と一緒に汽車道を通る。
そして紬達はここワールドポーターズの屋上から、
二人を観察するというのが今夜の手筈だった。
汽車道の東側、海上に渡された橋梁を出て左にある階段を上れば、
このワールドポーターズの二階に直通する通路も配されている。
だが、自分達──特に唯──との鉢合わせを嫌う律が、
ワールドポーターズの中にまで入ってくる訳がない。
汽車道を道なりに通った後、そのまま真っ直ぐ東に進んで赤レンガ倉庫の方へ向かうのか。
或いは橋梁を出てから北西へ曲がり、紬達が辿って来た道を逆に行くのか。
どちらかではあるのだろうが、そこまで教えられてはいない。
紬達に許されているのは、汽車道を通る二人を遠目に観察する事だけなのだから。

 そして梓や唯が零す様に、この高さと遠さからでは、
汽車道を通る人の顔までは判別が付かない。
双眼鏡や望遠レンズの類を用いたとしても、
遮蔽物の多い中で動体を見るのは素人には難しいだろう。
況してや状況は夜で、遮蔽物には標的同様に動体である人も含まれるのだ。
まだ肉眼のままで視野を広く持った方が、標的を視界には収めやすい。
そもそもが、この距離から人の顔を判別できる倍率ともなると、
専用の機材無しでは扱えまい。

「でも。りっちゃんは、目立つ服を着ているでしょう?
私達、それを送られてきた画像で確認しているんだし。
ここからでも、りっちゃんは分かるんじゃないかしら」

 此処からでも、服の色合い程度は視認できる。
黄一色のチャイナドレスという目立つ格好が標的なのだから、律の特定も容易だった。
そして律が分かれば、寄り添って歩く人影が彼氏である。
そう言って紬は、律の指示した内容を擁護してやった。
181 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/14(日) 20:06:10.77 ID:cjeQh/sKo
「うーん、でも律先輩が通る時間帯って、暗くなりますよねぇ。
今の時間帯なら何とかなっても、日没後に黄色って分かりますかねぇ」

 梓は思案顔だ。

「橋の上が真っ暗になる訳じゃないから。
最低限歩けるような照明は灯すはず。
そして特定のスポットでは遠目に映えるように、ライトアップされるに違いないわ」

「むー、それ以前にだよ、あずにゃん、ムギちゃん。
明るかったとしても、彼氏の顔までは見れないよ」

 そこが何よりの問題だと主張するように、唯が語勢を強めて言った。
梓も胸中では同意見らしく、首肯で以って唯に加勢している。

「仕方ないわ。りっちゃんの目的は彼氏を見せる事じゃない。
彼氏が居るんだって事を証明する為だもの」

 律を庇う紬とて、願望に素直に従った意見を表明している訳ではない。
胸の中では、律の彼氏の情報は一つでも多く知りたいと思っている。

「まあ、唯先輩が煽りまくったのが原因ですからね。
でもこっちとしては、証明だけじゃなくって紹介までしてくれると安心できます。
勿論、ちゃんとした人だって、信じたいですけど」

 紬の胸中にある本音を、梓が代弁してくれた。
言い訳がましいが、梓も自分も好奇心だけで此処に来た訳ではない。
渦中の恋人が果たして律に相応しいのか、見極めたい思いもあった。

 だが、律にとっては過ぎたお節介でしかないだろう。
そもそもが、執拗な唯の挑発を原因として、
律は大切な誕生日の逢瀬に部外者を招く事態に陥っている。
本来ならば、二人きりで楽しみたかったに違いない。
ならば、動機が好奇心であれ憂慮であれ、これ以上容喙すべきではなかった。
182 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/14(日) 20:07:51.83 ID:cjeQh/sKo
「えーっ。まるで私だけが悪者みたいー。
二人だって気になる癖にぃ。此処まで来た以上、同罪なんだって分かってる?」

 唯は口調でこそ戯けているが、目には裏切り者を告発するような鋭さが宿っていた。
唯の言う通り、此処に来た事実は否定できない。
その上、紬は唯の鼻っ柱を折る為とはいえ、律に逢瀬を見せるよう勧めてまでいるのだ。
今更、自分だけ良い子の如く振舞って、唯一人に責を負わせる事も許されてはいない。

「ええ、連帯しているわ。
りっちゃんに迷惑を掛ける事になったのは、勿論私の所為でもあるもの。
だからこそ、邪魔したくなくって」

 狡い言い分になっただろうか。
自分の責を認めつつも、唯や梓の不満に理解を示してはいないのだ。
その後ろめたさ故だろうか。
紬は唯が頬を歪めて作る笑みから、
『やっぱりいい子ぶっちゃって』という無言の嘲罵を受けた気がした。

「連帯と言えばね。
あの汽車道には、その名の通り、線路に使われていたレールが埋まっているの。
その間を恋人同士で最後まで歩くと、結ばれて後に比翼連理の幸せに浴せるんですって」

 後ろめたさと唯の視線から逃れるように、汽車道を見下ろしながら紬は言った。

 汽車道を視界に収めて、
よく律はこのウォッチスポットを見付けられたものだ、と改めて紬は思う。
夜であろうと明かりさえあれば、
紬達が容姿に付いて事前の知識を持っている律の姿なら視認できる。
反面、恋人の仔細な様子までは伺えない距離だ。
逢瀬の証拠を見せつつも、恋人の情報に付いては遮断できる。

 間違いなく、律はこの日の為に下見をして、
条件に恵まれたウォッチスポットを探したのだろう。
特定の目的の下に、自らの目と足を使わなければ見付けられない場所なのだ。
そこまでして、律は自分達に恋人を見せたくないのだろうか。
或いは本当に、律の言う通り自分達を彼氏に見せたくないだけなのか。
何れにせよ、用意が周到に過ぎているように思う。
ここに留まったままでいいものか、惑う。
183 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/14(日) 20:08:57.34 ID:cjeQh/sKo
「へーっ。ロマンチックなエピソードですね。
レール間の幅じゃあ、密着させて歩かないといけませんよね。素敵です」

 話を逸らす目的が見え透いた話題だったが、梓は期待通り乗ってくれた。
乗ってくれるだろうとの見通しの下、変えた話題でもある。
唯に痛い指摘をされたのは、梓とて同様なのだ。

 当の唯は無言ながらも、地上を見下ろしている。
その視線は汽車道に留まらず、脇にも振れている様だった。

「ええ、そうやって寄り添ってレールを歩いて行く事で、
偕老同穴の道程を歩む事を模しているのでしょうね。
本当、素敵」

 黙って景色に目を落としている唯は置き、紬は梓に応えて言う。
それとても、梓に合わせた物言いに過ぎない。
元々が、唯の指摘から逃れる為に引っ張り出した話題でしかないのだ。

 そもそも、自分で紹介したエピソードながらも、本心では全く別の感想を抱いている。
レールの上を歩く恋愛に、浪漫など感じない、と。
レールから外れてでも、規範や人の目から駆け落ち同然に逃れてでも、
自分達の恋を貫く方に紬は浪漫を感じていた。
その方が、当人達は間違いなく幸福になれるのだから。

「ここから汽車道を見ろって事は、律先輩達もそのエピソードに擬えて彼氏と」

「ねえ」

 黙っていた唯が口を開き、梓の言葉を遮った。

 声に釣られて目を向けたが、唯は地上を見下ろしたままだった。
だが今は、視線が振れる事無く、一方向に固定されている。
紬は視線を唯に沿わせ、同じ景色を視界に収めた。

 ワールドポーターズとは道路を隔てて向かい合い、コスモワールドの南に隣接した一角。
そして汽車道とは海を挟んで北に位置する、絢爛な建物を構えた一角だった。
その建物は三階建てか四階建てくらいだろうか。
ワールドポーターズより背丈は低いものの、城を思わせる作りが海に面して映えている。
184 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/14(日) 20:10:01.45 ID:cjeQh/sKo
 だが、唯の視線を精確に辿るならば、その建物が焦点という訳ではなさそうだった。
建物の収まる一角の端、海に面した歩道の辺りだろうか。
海上に渡された橋梁との距離が最も近くなる角に、
唯の視線の焦点が向かっているような気がした。

「一つ、提案があるんだけどさ」

 唯の放った言葉が、紬の視線を再び唯の顔へと振り向けさせる。
梓の発言を遮った時とは打って変わり、唯の顔も双眸も紬達へと向けられていた。
代わりに唯の人差し指が、先程まで視線を置いていた一角へと注がれている。
城のような外観の建物の脇、
海に渡されている汽車道と最も近くなる陸地の角を指し示すように。

「乗ってみない?」

 諾否の問い掛けを倒置してから、唯は提案の内容を話し始めた。
或いは、誘惑の口車を回し始めた。

*

185 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/14(日) 20:11:48.64 ID:cjeQh/sKo

*

11章

 大さん橋を下りた律と澪は、北西へと道なりに進んでいた。
すぐに見えてきたのは、横浜税関前の交差点である。
そこを右折した先にある新港橋は、赤レンガ倉庫の前へと通じている。
だが、寄り道している時間はない。
曇天も手伝っているのだろうが、既に街は暗くなってきている。

 過ぎていく景色を、律は澪の胸の中で揺られながら眺めていた。
大さん橋を降りた直後、澪が抱えてくれたのだ。
首の後ろと膝の下に腕を差し込んで抱える、
所謂『お姫様抱っこ』と呼ばれる抱き方である。
無理な開脚と歩行で脚に負担の掛かっていた律は、抗う事無く澪に身を預けた。
澪にも律の疲労は、文字通り”手に取るように”伝わっていた事だろう。
伝わっていながら黙っているような、気の利かない彼氏ではない。
抱き方一つにもサービス精神を溢れさせる、律自慢の彼氏である。
そう、今この時は、まだ間違いなく。

 万国橋も横目に通り過ぎた。
あの橋を渡って真っ直ぐ進めば、ワールドポーターズの東端に着く道に繋がるらしい。
それは赤レンガ倉庫に繋がる新港橋同様、
澪の作成するプランの中で弾かれた道でもあった。
場所の選定は全て澪が行ってくれて、
律は澪から受けた指示通りに唯達へと伝えただけである。
楽をしている感が拭えないと、澪に揺られながら思う。

「もうすぐ歩く事になるけど。足は大丈夫か?」

 馬車道駅を通り過ぎた辺りで、澪が律の顔を覗き込んで言った。
律は前方に見えてきたランドマークタワーから、
間近の端整な顔へと目の焦点を切り替える。

「うん。お蔭様で。大分、休める事ができたよ。
もう自分の足で歩けるし」

 澪の胸の中で、律は上体を起こしてみせた。
186 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/14(日) 20:12:56.67 ID:cjeQh/sKo
「歩けるなら良かったよ。いと重畳、恙無いな。
でも、ギリギリまでこうしててやる。
私が下ろすまで、あんよは休めておけ」

 幼児に用いる言葉で足を形容され、律は頬を膨らませて抗議する。

「あーっ、今、子供扱いしたー」

「アダルトな扱いがお望みかい?My fair Lady」

 顔の傍で、澪が妖艶に笑う。
梓に見られたのなら、
間違いなく『バカップル』と呆れられてしまうやり取りだろう。

「サングが望むなら、好きにしていいですよー」

 密着した身体に熱が篭る所為か、歩かずとも律の肌に汗が滲んでくる。
それでも澪から離れようとは思わなかった。
足を休ませたい訳ではない。この姿勢から見る景色を、今は満喫していたい。

 北仲橋を渡り終えると、直後に汽車道の入口があった。
海を縦断する橋梁の手前から臨む景色に、律は息を呑んで絶句する。
圧巻だった。
摩天楼が、ショッピングモールが、遊園地が、
虹の如く多色の光を放って狂い咲き、囲われた夜の海と空を彩っている
宛ら、乱舞する蛍の大群が水上の楼閣を形成しているかのようだった。

「ようこそ、お姫様。下ろすぞ」

 澪は律の爪先を地に着けてから、律の身体をゆっくりと立たせてくれた。
澪の胸から降りた律は、忙しく周囲に視線を巡らせる。
左手にランドマークタワーの高層が聳え、犇き煌く数多の窓が縦に星空を形成していた。
そして海上を貫通して伸びる汽車道の奥には、
唯達の座すワールドポーターズが絢爛たる光を放っている。
187 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/14(日) 20:14:13.41 ID:cjeQh/sKo
「あいつらに、見せ付けてやろうな。おいで」

 律の右半身に回った澪が、腰に手を回してくる。
導かれるまま、律は橋梁の上に一歩目を置いた。
伴われて更に二歩、三歩と足を進めてゆく。
橋上の灯かりを頼りに足元を見ると、
本来ならば線路で見るべきレールが橋板に埋め込まれていた。
汽車道の由来を理解させるオブジェは、まっすぐ橋梁の進行方向に沿って伸びている。

「ああ、そのラインからはみ出るなよ?
カップルがこのレールの中から出る事なく最後まで辿ると、
偕老同穴の関係に結ばれて幸せになれるらしい。
ま、デートスポットにはよくある俗説の類だけどな。
でも、折角だ。お前を幸せにしてくれる奴が表れるよう、縁起を担いでおいてやるよ」

 律の視線に気付いたらしく、澪がレールを指差しながら説明した。

「もぉっ。何言ってるの?今は、サングがその恋人でしょ?
思い知らせてやるんだから。ぴったりっちゃん」

 律は上目で軽く睨んでから、頭を澪の胸に撓垂れさせた。

「そうそう、そんな感じ」

 聞き分けのいい子供を褒めるように、澪が頭を撫でてくれた。

 律にしても、澪の申し出を断る理由などない。
密着して歩く口実が提供されたというものだ。
律は遠慮する事なく、思う存分に汗ばんだ肌を押し付け合って歩いた。

 肉欲を別にしても、律は澪と離れたくなかった。
このレールの終点まで辿り着いた時、自分達の目的も達成の時を迎える。
今日の目的は、唯達にデートしている姿を見せる事なのだから。
そうして終点まで歩いて恋人を装う必要性がなくなったその時、
魔法が解けるように自分達の関係も友人に戻ってしまうのだ。
188 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/14(日) 20:15:21.05 ID:cjeQh/sKo
 澪の恋人として振舞える今を離したくない。澪を離したくない。
だから律は、澪に強く強く身を押し付けた。

「そこが気に入ったのか?でも、俯いているのは勿体無いぞ。
折角のいい天気だ」

 澪が顔を上げるように促してきた。
律を安心させる落ち着いた声が耳朶に染み入る。
律の体重が寄り掛かっていても、澪の足取りは一糸たりとも乱れていない。
頼もしくて、強靭だった。

「いい天気?」

 夜なのに。曇天だったのに。今も月が隠れているのに。
律は澪の言葉尻を捉えて拗ねてみせた。

「ああ。雨でも晴れでもなく、折角の曇だ。
だからこそ、夏のこの時間でも夜景が映える。
雨まで降っては論外だが、かといってこの季節の今の時間帯だと、
空を雲が覆っていなければ完全には暗くならないからな。
夜景を天候が恵んでいる」

 律は弾かれたように顔を上げた。
今日、元町・中華街駅に降り立ったときは、曇天が恨めしかった。
だが、昼はムードに水を差すよう思われた天気も、
今となっては夜景を際立たせるムードの形成に一役も二役も買っている。
塞翁の故事を持ち出すのは大仰に過ぎるだろうか。
だが少なくとも澪は、
今日が曇天だと知った時点で転禍為福のシナリオを描いていたに違いない。
そう信じるに足る用意周到さを、澪は見せ付けてきているのだ。
189 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/14(日) 20:16:43.86 ID:cjeQh/sKo
 ならば澪に誘われるままに夜景を愉しもうと、律は視線を周囲に巡らせる。
夜景の光源は主に左手側から降ってきていた。律の視線も、自然と其方に向く。
澪が律の右半身に位置しているのも、絶佳の眺望を遮らない配慮に違いなかった。

 ランドマークタワーから建物一つ分ほど離れて北側に、
下り階段のように順に低くなる三棟のビルが連なって見えた。
あれがクイーンズタワーだろうと、今日に備えて予習してきた知識と照らし合わせる。
ランドマークタワーの側からクイーンズタワーA・B・Cと、
背の高い順にアルファベットが振られ区別されているらしい。
C棟の下部ではコスモワールドから遊園地らしい賑やかな光が放たれ、
その熱気ある煌きが入り江の入口たる国際橋を回り込むように伸びていた。
それがワールドポーターズの隣にまで、光を繋げる架け橋の用を為している。

 その、ワールドポーターズに北西側で隣接した区画こそが、
律の目を最も惹き付ける場所だった。
高層ビルにも匹敵する巨大な観覧車と、その下に見える建物の壮観さには息を呑む他ない。
巨大な観覧車──コスモクロックは、
環の色合いを忙しくカラフルに転じながら緩やかな動作で回っている。
比して、コスモクロックの下に位置した建物は、横長の山形の構造をしていた。
コスモクロックが多彩な色を淀ませずに変じ続けているのに対して、
こちらの建物を彩る光は一色で統一されている。
尤も、他のオフィスビルや商業施設とは色の魅せ方が違っていた。
窓から照明灯の光が漏れているのではない、
また壁面に取り付けたネオンで装飾しているのでもない。
建物全体が金色に輝いて見える、そういう魅せ方で配された光源が発色している。
宛ら、湖を前にして建つ、小規模な城のような装いだった。

 魅入っていた。観覧車と城のような建物の作り上げる海上の景色に。
城の如き建物が陸に近い海面を金色に染める。
屹然と立つ観覧車は陸から遠い海面に光を届かせ、海の色に間断なく変化を付けていた。
陸上と空中から夜を彩る明晰な照明と、反射して海上に映る揺蕩った灯影。
この幻想的なコントラストも、律を忘我の境地に誘う一因となっていた。

 あの、城のような建物は何なのだろう。
オフィスでない事くらい、一目で分かる。
かといって、ショッピングセンターでも無さそうだった。
何をする施設なのだろうか。
この光景を作るにあたって多大な貢献をしている建物に、
律が疑問と強い好奇心を向けた時。
身体が急に持ち上がり、視界も平衡器官も揺れた。
190 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/14(日) 20:17:55.72 ID:cjeQh/sKo

「わっ」

 澪に抱え込まれて回ったのだと、律は声を出した後で気付いた。
その目の前を、同伴者とのお喋りに夢中な男性が通り過ぎてゆく。

「驚かせたか?次からは間に合うようなら、声を掛けるよ」

 律を隣に降ろして澪が言う。
この汽車道も人通りが多い。
景色に見入っていた律が気付かないうちに、
正面から歩いてくる人が衝突しかねない位置まで接近してきていたのだろう。
今は澪が律を持ち上げて回避させた、という事だと推せた。
当たり前だが、都市伝説に沿って行動するカップルの都合など、
周りには関係のない話である。
誰も彼もが道を譲ってくれる訳ではない。

「んーん、私が気を付けるよ。前も見て歩かないと」

「いや。彼氏が気を付けてやるべき事だ。
それに、下手に動くとレールから出ちゃうぞ。
私が抱き抱えてやるから、律は夜景に集中してな。お前の為の光景だ」

 そうなのだ。
先程の男性を回避した時も、レールの外に足は着いていない。
身体は外に出ても、足はレールの内にだけ着くように澪が持ち上げてくれていた。
レールを辿り終えるまで、同じように守ってくれるのだろう。

「そういう事なら、甘えちゃうね。私の為の景色だもんね」

 律は申し出られるままに、前方への注意と回避を澪に委ねた。
今ならもう分かっている。澪の言うように、これが自分の為の景色なのだと。
この光景を律に見せるが為に、澪はこのデートコースを選び出してくれたのだから。
唯達のウォッチスポットの件も含め、
何度も下見に足を運んだに違いない澪の骨折りが心に沁みた。
それでも気付かぬ振りをして厚意を受け取るのが淑女の嗜みである事くらい、
律もとうに心得ている。
だから律は澪の望むまま、忘我に夜景を愉しんだ。
191 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/14(日) 20:19:06.16 ID:cjeQh/sKo
 その後も、律は二度ほど澪に持ち上げられた。
持ち上げる際に律の細い身体を澪の腕が締め付けるが、
痛みや苦しさよりも頼もしさを律は覚えている。
肉体が締められる痛みに軋む度、守られているのだと感じられた。
二度目に持ち上げられた時は、澪の左手側から右手側へと身体を移されている。
レールの中で左右が入れ替わった格好だが、
それさえも律を飽きさせまいとする澪の配慮に思えた。

 そうする内にも、海の終わりに近付いてきていた。
橋梁部分を終えて陸地に移ってもレールはまだ続くが、
唯達に見せるシーンは橋梁にいるうちだけだ。
陸地に移ってしまえば、ワールドポーターズの屋上からでは覗けまい。

 律はすっかり近付いたワールドポーターズの、屋上部分を見上げた。
唯達は今もあの場所から自分達を観察している。
律は夜景を見ていたが、唯達は律を見ているのだ。
彼女達に美しく見せられただろうか、と。
律は彼氏の証拠を提出できた安堵の念よりも、
晴れ姿に下される評価の方が気になった。

 距離を縮めたのは、ワールドポーターズだけではない。
一目見た時から気になっている、城のような建物も近付いている。
後少しで、建物の前に突き出た角と、海を挟んで最も接近する部分に差し掛かる。
そうなったら、あの建物に付いて澪に聞いてみようと、律がその角に目を留めた時。

──何で?

 律は大きく目を見開いていた。足も止まりかける。
そこに在るべきではないものが、目に入ってしまったから。
澪に異常を知らせるべく、律は急いで澪の耳元に唇を近付けた。
彼女の顔も、隠さなければならない。

 海を挟んで汽車道と最も近くなるその角。
そこに、ワールドポーターズの屋上に居るべきはずの、
唯と梓と紬が立ってこちらを凝視していた。

*

192 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/14(日) 20:23:46.02 ID:cjeQh/sKo
>>173-184 >>185-191
本日は以上です。
大体、10章あたりで文章量的には半分といったところです。
さて、律誕まで後一週間を切りましたが、引き続きよろしくお願いします。
 それではまた明日。
193 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/15(月) 20:53:11.72 ID:KfzCVlTZo
こんばんは。
>>192の続きを投下します。今回は短いです。
194 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/15(月) 20:54:07.51 ID:KfzCVlTZo

*

12章

 約束していた時間に達しているが、まだ律達は見えてこない。
だが、唯は訝っていなかった。
電車のダイヤのようなピンポイントの時刻を告げられた訳ではない。
汽車道を訪れる時間など、律はレンジでしか示していないのだ。
今はまだそのレンジ内に留まっている以上、姿が見えずとも予定の範疇でしかない。

 約束を破ったのは寧ろ、自分達の方だった。
律からは、ワールドポーターズの屋上からデートを見るように指示されている。
だが今は、他ならぬ唯自身の提案によって、汽車道の近くに席を移していた。

 ワールドポーターズの屋上から見えていた、城のような建物の傍である。
建物脇にある海側の歩道に突き出た角が見えており、
海を挟んで汽車道に最も接近できる場所だった。

 ワールドポーターズの屋上でこの場所に気付いた唯は、
紬と梓に席を移るよう提案した。
呑ませる勝算ならあった。梓は屋上から見物する事に対し、好意的な反応を見せてはいない。
勿論、律との約束に義理立てして、唯の誘惑を一旦は断る姿勢こそ見せるだろう。
だが、梓の本心は、汽車道から遠い屋上の席に不満を抱いているのだ。
違約へと誘惑する悪者の役を唯が引き受けて、
二度三度と重ねて誘えば靡いてくれるだろう。
そうして梓さえ引き込んでしまえば、二対一だ。
数で押して紬を説き伏せる事も容易に思えた。

 そう踏んで提案したのだが、予想外にも紬は反対しなかった。
彼女はワールドポーターズの屋上という律の指定を最も庇っていた。
翻意が意外ではあったが、紬も内心では見え辛い立地は不満だったのだろう。
ただ、本心なのか建前なのか、律のデートを尊重する意思も口にしていた。

『その代わり、絶対に、無茶はしちゃ駄目よ?
邪魔にならないよう、あの場所から見るだけだからね?』

 淑やかな紬にしては珍しく、眉根に皺を寄せながら決然とした語勢で言い含めてきた。
その時、唯は迷わず即答で承諾を返している。
195 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/15(月) 20:55:17.79 ID:KfzCVlTZo
 難所と思われた紬が靡いた以上、後は容易だった。
梓は儀礼的に渋って見せただけで、
重ねて誘うと”根負け”した風を装って唯の提案に乗ってきた。

 そうして唯の目論見どおり、席は汽車道の傍に移っている。
尤も、仮に二人が強硬に反対した所で、唯は一人でも律の彼氏を間近で見る積もりだった。
その場合、此処よりも更に近く、汽車道の橋梁部の終わり付近に潜んでいた事だろう。

 そしてどちらにせよ、唯は見るだけで満足する気などなかった。
あわよくば偶然を装って、律の彼氏に話し掛けてやる。

『わーっ、りっちゃん、こんな所で何してるのー?
あれー?隣のイケメンは誰ー?あ、もしかしてぇ、前に自慢してた彼氏ー?
初めましてー、私ぃ、りっちゃんの大親友の平沢唯ですぅ』

 約束を破られた律にしてみれば、白々しい事この上ない口上だろう。
だが唯にしてみれば、そうまでしてやらないと気が済まなかった。

 恋人の存在を隠していた事がまず気に食わない。
その上、唯達を彼氏から過剰に遠ざけて、情報を遮断する姿勢も気に入らない。
殊に、友達を邪魔であるかのように扱う律の態度は、唯の逆鱗に触れていた。

 律の大親友として接してきただけに、唯の裏切られた思いは一際強い。
況してや、律の幼馴染である澪の胸中を思えば、
律に彼氏の前で嫌味の一つでも浴びせたくもなる。
澪の律に対する思いが恋情だったにせよ友情だったにせよ、
彼氏の存在が露となってからの律の態度は澪の心を抉った事だろう。
唯も大事な幼馴染が居るだけに、その胸中は察するに余りある。

 唯は頭を振った。
紬達も着いて来てくれて、本当に良かったかもしれない。
予ての決意通りに一人で待っていたのなら、ブレーキ役も居なくなっていた。
だが、紬と梓が居るならば、衝動のままに振る舞っても問題はない。
だから、自分は予定通りに律達を追い掛けて機会があれば話し掛けよう、
紬達にはその際に自分が度を越さないよう制御してもらおう。
それが友達を信じる事だと、唯は自分と友人の役割を確認しながら胸中で言い聞かせた。
196 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/15(月) 20:56:33.94 ID:KfzCVlTZo
「あっ。あれじゃないですか?」

 梓の上げた声が、唯の回想も思惟も掻き消して響く。
梓が指差す方向に目を向けると、遠目にも目立つ黄色い服が見えた。
目を凝らして焦点に据えつつ、脳裏で律から送られた画像と照らし合わせる。
黄色い姿が近付いてくる度に、チャイナドレスを着た写メの律と重なってゆく。
あれは間違いなく──

「りっちゃんだね」

「隣が彼氏なのね」

 確認するよう呟く唯に、肯って補足する紬の声が続いた。

 律の左側に、寄り添って歩く人の姿も見えている。
紬が言うように、その人間こそ律の恋人なのだろう。

「あれが例のサングさんですか」

 梓が目を細める中、サングと律の姿が目まぐるしく動く。
橋上でダンスでもするかのように、サングが律を抱き上げて半回転していた。
睦まじさを見せ付けた動きで、二人の左右が入れ替わる。

「大勢の人が居る前なのに。サングさんも大胆な人なのね」

 長息してから繰り出す紬の声には、呆れと羨みが半ばずつ同居しているようだった。
サング”も”と言う巻き添えの対象は、大胆な服装で外を歩く律に違いないだろう。

「サング君の背格好とか服装とかは見易くなったけど、
顔は逆に完璧向こう向いちゃったね」

 律とサングのターンは見応えがあったが、その点は少しだけ残念だった。
唯達から見て、サングの身体が手前にあるという事は、
律の身体は奥に有るという事を意味する。
自然、サングの顔は恋人である律の方へと向く。
当然、唯達には後頭部を向ける格好となっていた。
197 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/15(月) 20:57:25.14 ID:KfzCVlTZo
「まぁ、夜だし、海を隔てた距離だし、元がこの角度だし。
二人の位置関係がどうあれ、
相貌の仔細まで視認するのは難しかったんじゃないかしら」

 元より期待が薄かったのか、単に落胆と未練を隠しているだけなのか。
唯に応じる紬の口調は淡々としていた。

 事実、紬の言う通りだろう。
顔の向きがどうあれ、詳しく顔を観察する事は難しかったに違いない。
構わないと、唯は自分に言い聞かせる。
どうせ少しの間、お預けになったに過ぎないのだ。

 唯は再度、サングの背格好を眇めてみた。
律よりも、そして自分達の三人の誰よりも背は高い。
この場には居ないが、澪くらいあるだろうか。

「それよりも、ここ、やばくないですか?
律先輩から見えちゃうんじゃ?」

 梓が弾かれたように言う。
今更気付いたのかと、嘆息したくなる。
否、白々しいと、細めた目で蔑んでやりたくなる。
目の粗いメッシュ状のフェンスがあるだけで、遮蔽物などない場所だ。
歩道脇の芝生に木を植えられた汽車道の方が、まだ視界を遮っている。

「まぁ、気付かれるでしょうね。
りっちゃんの顔、こっち側に向いているんだし」

 紬の方は覚悟が固まっているらしい。
落ち着き払った声で、梓に返答していた。
198 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/15(月) 20:58:16.11 ID:KfzCVlTZo
「りっちゃんの顔の向きなんて関係ないよ。
どっちを向いているかなんて、此処に着いた時には分からなかったけど、
此処が橋から丸見えって事だけは、あずにゃんも分かってたはずだよね。
つまりさ、見つかる前提で、ここに構えたんじゃないの?」

 唯は追い討ちを掛けてやった。
梓は可愛い後輩だが、腰が定まりきらない欠点を持っている。
自分の立ち位置を見失って『カムバック私』などと呟いている事もあった。
だが、事此処に至ってまで今更惑ってしまうのは、胆力を欠くにも程がある。

 第一、言葉にこそ出さないが、遠目にも一番目立つのが梓だ。
腰まで長くたらしたツインテールなど、横浜に来てから梓を除いては一人も見ていない。
誰が原因で律に見つかるかといえば、彼女自身に他ならないだろう。
律達を最も早く見つけたのも梓ではあるが、
その手柄さえも”触角のお蔭か”と嫌味に転じてやりたくもなる。

「まぁ、ええ。その時はそうでしたけど。でも、今なら、まだ」

「往生際が悪いよ、あずにゃん。なんなら一人で戻る?」

 あくまでも視線は律に向けたまま、梓に一瞥もくれずに唯は言い放つ。
既に律達は、この角と汽車道が最も近くなる地点へと近付いて来ている。
降りるのなら、今が最後の降車駅になるだろう。
そう梓に告げてやろうかと考えた時、唯は律と視線が合ったような気がした。

「なっ。戻りませんよ。
ええ、駄目です。私の目が届く範囲に居ないと、唯先輩は何するか分かりませんから。
変な事しないよう、見張っていてやるです」

 梓が色を成して言う。
顔色が変わっている事は、顔を見ずとも激しい語勢で分かった。

 負け惜しみの嫌味である事くらい分かっているが、
唯は遣り込めてやろうとはしなかった。
売り言葉に買い言葉が呼んだ偶然の符合に過ぎずとも、
梓は間違ったことなど言っていない。
正解だ、唯は大人しくしているつもりなどない。

 それに、どうせもう──

199 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/15(月) 20:59:12.18 ID:KfzCVlTZo
「ええ。見張っていましょうね。
だから、一緒に居てくれるわよね?
何かあった時、止めるの協力してくれるわよね?」

 口を開きかけた唯に先んじて、紬が言った。
梓を慰めているような物言いだが、実際には唯に対する牽制も含んでいるのだろう。
唯との付き合いが梓よりも長いだけに、紬は唯の性格をより深く知っている。
場所を移ろうという唯の提案に乗ってしまった以上、
唯を制御する責任も強く感じているのかもしれない。
或いは始めから、提案を拒否して唯に単独行動されるよりは、
傍にいて水際で阻止しようと考えていたか。

「ええ、阻止しますとも。やってやるです」

 紬の意図はともあれ、梓は気合を入れ直していた。丁度良い。
紬も梓も気付いていないだろうが、もう戻る道はなくなっている。
唯は紬に策励されて猛る彼女に、
先ほど紬に割り込まれて言いそびれていた事を伝えてやった。

「ああ、うん、やっぱりあずにゃんも居て。っていうか、ね。
多分、もう、手遅れかも」

 唯の言葉を裏付けるように、律が彼氏の手を引いて走り出していた。
気付かれていたのだ。遅くとも、唯が律と目が合ったように感じた時には。
200 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/15(月) 21:00:04.29 ID:KfzCVlTZo
 もう、静かに留まってやる必要はない。
唯は二人を追うべく駆け出した。
律は汽車道を戻らず、橋梁部の出口へと向かっている。
唯が海を回り込むよりも早く、律は橋梁部から出る事だろう。
その後、律達が進めるルートは二つしかない。
西から唯が追っている以上、ワールドポーターズの側へ北上するか、
赤レンガ倉庫の方へと東奔するか。

 画像で見ていた限りでは、律の身に着けた靴もドレスも走り易そうには見えない。
どちらに向かおうが追い付いてみせると、唯は走る足に力を込めた。

「唯ちゃん、駄目よ」

「唯先輩、それじゃあ話が違いますよ」

 背中の方から、唯を制止する紬と梓の叫び声が追い掛けて来た。
走りながら横目を向けると、声だけではなく二人の身体も追って来ている。
唯の暴走を阻止するという二人の宣言に、嘘はなかった。
確認した唯の口から、荒い呼気に混じって笑い声が微かに漏れる。

 いいよ?さっき言っていた通り──私を止めてみな?

 胸中で挑戦的に呟くと、焦げそうに熱い肺に鞭打って走力を増した。
息を切らせる後ろの二人も、振り切られずに追い縋って来ていた。

*

201 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/15(月) 21:01:13.72 ID:KfzCVlTZo
>>194-200
本日はここまでです。
また明日よろしくお願いします。
202 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/16(火) 21:27:30.48 ID:hD9KNgabo
こんばんは。
>>200の続きを投下します。
203 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/16(火) 21:28:21.46 ID:hD9KNgabo

*

13章

 律は澪に耳打ちした。

「ねぇ、大変だよ。見て見て、左の海の向こう。あいつらったらぁ、約束したのに」

「気付いているよ、唯達が居るんだろ?なら向こうを見る訳にはいかないよ。
顔を見せる事になるからな。だからお前もあまり見るな」

 慌てふためく律に、澪は落ち着き払って応じていた。
口振りから察するに、澪は律よりも早く気付いていたらしい。
だからこそ、澪は律と立ち位置を変えたのだと、今になって律も気付いた。
律が夜景に耽溺している間にも、澪は周囲を警戒してくれていたのだろう。
本当に頭の下がる思いだった。

「じゃあ、このまま知らない振りして、通り過ぎちゃう?」

「触角が目立ってる奴と金持ってる奴の二人だけが相手だったら、
それで済みそうだけどな。
やんちゃ盛りなロッカーも一人居るだろ?
何の為に約束破ってまで、私達に近付いてきたと思う?」

 澪が誰に付いて警鐘を鳴らしているのか、律は即座に理解した。
間違いなく、唯だ。

「まさか、至近距離でサングの顔を見るつもりじゃあ」

 律は一番恐れている事を口にした。
幾ら散髪して変装していても、間近で顔を見られたら露見しかねない。
204 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/16(火) 21:29:34.44 ID:hD9KNgabo
「そこまで具体的な目的はないかもな。
だが、接近を試みようとはするだろう。
だから、私を連れて走れ」

 前を見据えて、澪が命じた。
律は澪の顔を覗き込みながら、言い付けられたばかりの指示を反復する。

「私がサングを連れて、走るの?」

「ああ。お前なら走る動機は立つだろ?
約束を違えた唯に気付いて、彼氏を連れて逃げ出した。違和感はないさ。
でも、私はお前が友達にデートを見せてるなんて、知らない設定だからな。
急に脈絡なく逃げ出したら、お前と通じていると勘付かれかねない」

 単に走って逃げるだけなら、澪に連れられた方が遥かに速い。
だが唯達の存在など与り知らぬはずのサングには、逃げる理由がないのだ。

「でも私」

「大丈夫。私が付いている。
何処に逃げればいいか、しっかりナビゲートしてやるよ。
距離だってこっちにアドバンテージがある」

 不安がる律を、澪の言葉が勇気付ける。
澪は明言こそしていないが、この近辺は下見で何度も訪れた場所に違いない。
逃げる道に付いても、土地勘が働くだろう。

 決断を促すように、澪が右手で律の臀部を叩いた。
平手が肌に打ちつけられる音と痛みが、絹の生地を越して響く。
律は応と言葉で返す代わりに、澪の手を掴んだ。

「いいか、このまま汽車道の橋を抜ければ、左手に階段がある。
ここからでも、屋根は見えるだろ?
そこを駆け上がれ」
205 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/16(火) 21:30:37.94 ID:hD9KNgabo
「そんな事しなくても、汽車道を走って戻れば」

 続けて指示を出す澪に、律は異論を割り込ませた。
進むよりも戻る方が、唯達との距離は広げられる。
即座に弾き出せる、圧倒的な差だ。

「楽だな、確実だな、でも安直だな。
第一、お前は後戻りしたい訳じゃないだろ?」

 澪が見透かしたように言う。
律が安全な道を選ぶのは、単に怯懦からだった。
危険を取ってでも、行きたい場所がある。欲しい居場所がある。

「恐れるな望め私が居る。ほら、私を連れて行け」

 澪の言葉が、律を動かす合図となった。
律は澪の手を力強く握り込むと、弾かれたように走り出す。

 左方の対岸に目を遣ると、唯も地を蹴って駆け出している。
遅れて追走する紬と梓の姿も見えた。

「一々気にかけるな。前を見ろ」

 澪に言われて、律は前方に意識を集中させた。
脇を気に掛けてばかりいれば、当然に速度も落ちる。
この人通りの中では、通行人と衝突する危険性も高まってしまう。
澪の指示は的確だった。

「そう、橋を出たら、左手にある階段だ。そこを上れ」

 橋梁部が終わりに近付いた時、澪が先程の指示を繰り返した。
律は名残惜しそうに足元を一瞥する。
このレールを終点まで辿れば幸せになれる、そんな伝説があると澪が言っていた。
ここまで来て外れてしまう事が、残念でならない。
206 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/16(火) 21:31:37.08 ID:hD9KNgabo
 このまま進めないだろうか。
律の頭に、その誘惑が過ぎった。
レールの先に凹の字を逆さにしたような建物が構え、
門を思わせる開口部にレールが敷かれている。
唯達に背を向けてレールのままに走り抜け、東の方向に逃げ道を見出してみようか。
一瞬だが、律は頭で誘惑を吟味してみた。

 だが、頭を上げた律の目は、階段の方を向いていた。
進路を変えずレールに沿ってしまえば、澪の指示に反する事となる。
律が欲しいのは、レールに沿って手に入る幸福ではない。
レールから外れてでも、飛び込みたい場所があるのだ。

「えいっ」

 橋梁部が終わると、律は掛け声と共に進路を左手へと変えた。
レールに閉ざされた内側から、嶮しい階段が聳えるレールの外側へと。

 階段に向かって駆ける際、律は脇目に唯を窺ってみた。
丁度、階段の側面に向かって伸びる直線を、
前傾気味の姿勢で駆けてきている。
獲物に向かう肉食動物の如き迫力があった。
ならば受けて立つ自分は、草食動物の如き必死さで逃げなければならない。
律は脚を急がせ、階段の一段目へと足を掛けた。

「大丈夫か?」

 階段を上る律の臀部を、澪の手が押し上げてくれた。
澪は律が苦しい時、”頑張れ”とは絶対に言わない。
いつだって手を貸してくれた。

「この歩道橋をまっすぐ行くと、ワールドポーターズの二階への入口がある。
でも、中には入るなよ。左手に下へ降りる階段があるから、そこを下れ。
後は北西へ交差点まで道なりだ」

 歩道橋と言うにはあまりにも洒落た道の上で、澪が次の指示を与えてくれた。
後方を見れば、階段を上り終わった唯が向かってきている。
直線上に居る為に行き先を見られてしまうが、仕方がない。
律は指示通り、階段を下り始めた。
207 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/16(火) 21:32:45.43 ID:hD9KNgabo
 階段を下り切った頃には、既に律の身体は疲労困憊を訴えていた。
体力のない身と走り辛い格好を負って、
階段の昇降も含めて臨んだ全力疾走が堪えている。
肺の奥から、焼けた息が漏れ出てくるようだった。
加えて、夏の気温と湿度も、律の華奢な身体に容赦のない追い討ちを掛けている。

 だが、休んでいる暇はない。
律は悲鳴を上げる身体に鞭打って、西側へ向けて脚を動かし続けた。
辛いのは、唯も同様だろう。
自堕落な生活に淫する彼女が、持久力に長けているとは思えない。

 道なりの角を曲がると、大きな交差点が見えた。

「そこの交差点は、左側の遊園地、あの観覧車が見える方に渡るんだ。
そうして遊園地、コスモワールドの中に逃げ込め」

 澪の指示を耳朶で受けながら、律は目を信号機に向けていた。
丁度、コスモワールドの側に渡された横断歩道は、青信号となっている。
タイミングとしては歓迎できないかもしれないと、
此処からの距離を測りながら律は思う。
律が辿り着く前に、信号の色が変わるに十分な距離だ。

 角を回りきる前に、律は唯に背中を見せてしまっていた事だろう。
唯は標的を見失う事なく、律を追って迫ってきているに違いない。
ここで律が対岸の道に渡り切って、
唯を此方に置いたまま信号が変われば確実に逃げ切れる。
だが、律が横断歩道に辿り着く前に、信号が赤へと変わってしまえば。
再び青になる前に、唯達に追い付かれてしまう事態へと至るは蓋然的とさえ思えた。

 焦燥に急く律を煽るように、歩行者用の信号が点滅を始めた。
赤へと変わる兆候が早くも訪れている。
律は瞼に落ちてきた汗を右腕で拭うと、走る足に力を込めた。
息は荒く断続的に口から漏れ、脚は地に引き摺られるように重い。
肌は仮漆でも塗られた如く、吹き出た汗を艶やかに纏っている。

 それでも尚、涎が溢れそうな程に息を喘がせ、
地に吸い付く脚を持ち上げ、汗を垂らして走ったのに。
機械は少女が必死の姿勢で見せた嘆願など、無関係にシステム通り動いてしまう。
律が辿り着く直前で、信号は色を青の点滅から赤の点灯へと変えていた。
208 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/16(火) 21:33:49.96 ID:hD9KNgabo
 渡り切っていない人が居る今なら、行けるだろうか。
そう思った直後には、車が横断歩道へと車体を入れてきている。
律が横断歩道の前に立ったのは、横断歩道が車体に塞がれてからだった。
尤も、車の進入に関係なく赤へと変わった時点で、澪が律に無理をさせはしなかっただろう。
信号の色の変化と時を同じくして、律の手を握り返す澪の握力が増していたのだから。

「どうしよう、追い付かれちゃう」

 律は澪の顔を見上げながら、泣き言を零した。

「タイミングが悪かったな。さて、どうするか」

「この中、入っちゃう?それとも、あっちに行く?向こうに渡る?」

 律は背中のワールドポーターズの入口を指差し、
次いでその脇を南東へ走る道を指差し、最後に北側にある対岸の道を指差した。

「まぁ落ち着け。
下手に逃げても、外部と隔絶された所に落ち着かない限り、追いかけっこは終わらない。
それにほら、もう見つかってるし」

 澪が目顔で示す先を追って、律は表情に走る悲痛を抑えられなかった。
唯はもう角を回って、直線上の律達を視界に収めてしまっている。
目立つ服を纏う律は、さぞ見定め易い標的だろう。

「あっ、ゆぅい」

 呻いた律は、救いを求めるように信号を見遣った。
澪が逃げ道として指示していた、コスモワールド側へと渡す歩行者用の信号を。
融通の利かない機械は、無慈悲な赤色を灯して律を見下ろしている。

 コスモワールドの対角、即ち律達の居る場所から見て北側の対岸へと渡るべきだろうか。
だが、長い横断歩道の途中に、渡り切れなかった時の為か歩道が設えてある。
信号の変わるタイミング次第では、あの車道に浮かぶ歩道の中に、
唯とともに取り残されてしまいかねない。
そうなれば、確実に”詰み”だ。
209 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/16(火) 21:35:08.60 ID:hD9KNgabo
 逆に言えば。上手くタイミングを調整できれば、
あの孤島じみた歩道に唯達を取り残す事も可能な策ではある。
だが、信号が変わる前に、対岸まで走り切れる体力が自分にあるのか怪しかった。
体力勝負では分が悪い以上、律よりも唯に有利な目が予想される賭けである。

 ならばどうすれば良いのか。
ワールドポーターズの中に入ろうが、脇の道を駆けようが、
終わらない追いかけっこに勝ち切れる自信はない。
どうすれば、いい。
唯が近付くに連れて、焦燥ばかりが募ってゆく。
横断歩道の前に募る人だかりの向こうに、唯の顔が見えている。
最早、万事休すか──

「大丈夫だから」

 パニックになり掛けた律の耳元で、澪が小さく囁いた。
同時に、頬に吐息を感じ、髪の毛が擽られたように揺れる。
澪が律の髪に顔を埋めるようにして話しかけているのだ。

「えっ。でも」

「大丈夫、誤魔化せる。
もし唯が私の正体を判別できそうなくらい近付いてきたら──この場でお前を犯してやるよ」

「えっ?」

 律は我が耳を疑った。

「はっ、幾ら唯でも、
こんな所で一発始める淫乱と知り合いだとは思われたくないだろうからな。
私の顔を見る前に、お前とは他人の振りして逃げ出すさ。
それにセックスなら、私の顔も愛撫を装って、お前の肉体で隠せるからな」

 今や我が耳を疑いようもない。
耳朶を真っ赤に茹らせる熱い熱い血潮が、澪の言を確と聞き届けたと証している。
210 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/16(火) 21:36:15.68 ID:hD9KNgabo
「ああ、でもそんな事したら、唯達が助けに来ちゃうか?
友達がこんな所で卑猥な扱い受けてるの見たら、あいつらショック受けるだろうからな。
そうなったら困るなぁ。
私の読みが外れて、唯達が他人を装わずに向かってきた時、どうすればいいんだろうな?」

 律の絶句を応と受け止めたらしく、澪は話を進めていた。

「もしあいつらが、暴虐なサングに大衆の面前で公開陵辱されているお前を見て、
外聞を捨てて、それどころか自らの危険すらも顧みずに助けに入ってきたら?
お前は、どうする?」

 一句一句を刻み込むように言われて、
律は自分が唯達を騙しているのだと改めて意識させられた。
自分を助けようとする行動にさえ、嘘で返してこの場を切り抜けようとするのだろうか。

「まぁ、ここで細かく打ち合わせている時間はない、か。
律、もし私の読みが外れたのなら。
その時はアドリブ対応で切り抜けてくれ」

 澪は無茶を言っているようだが、
時間的な猶予がない以上は現実に即した要求と評価せざるを得ない。
内緒話を控える必要がある距離にまで、唯は近付いて来ている。

「っ」

 肌に澪の手の感触が走り、律の口から意図せず喘ぐような吐息が漏れ出る。
太腿を澪の右手がゆっくりと擦り上げてゆく。
同時に、澪は律の首筋を唇で挟んで、吸い上げた肉を舌先で舐め回している。
生暖かい風に嬲られたかのように身体が擽ったい。
伴って、痙攣のような感覚が、背筋から項へと這い上がってゆく。
心地良くて気持ち悪い。
立ったまま、意識を保ったまま、失禁してしまいそうだった。
211 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/16(火) 21:37:19.71 ID:hD9KNgabo
 振り払うべきだと良識が告げても、本能が抗っている。
理性もまた、現実に即した判断を促している。
律は横目で唯の位置を確認した。
もうこの距離では、澪の言うように犯されて唯を退かせる他ない。
もしそれでも唯が退かないのなら──どころか、
律を助けようとしたのなら。
その時は、律も真摯に──

 その時は、その時だ。 
律は眼前の危機を避ける事に傾注するべく、思考を振り払う。
身を仰け反らせ、澪の胸に頭を預けた。
同時に、澪の左手を手に取り、律の胸に宛がわせる。
澪の大きな手が、律の小振りな乳房を覆った。
律は大きな吐息で甘く喘ぎ、澪を誘う。

 だが、律がこうして受け入れる意思を示したのに。
澪の手は止まり、律を犯す暴虐な意思が感じられなくなっていた。
不思議に思い澪を見上げ、
次いで彼女の意味ありげな一瞥が示した先へと自身の瞳も向かわせる。

 一見で理解した。
澪が律を犯す理由は、もう無くなっている。

 唯が横断歩道の人だかりの前で歩みを止めていたのだ。
両隣には梓と紬が、厳しい顔で唯に睨みを利かせている。
この構図を見るだけで、事情も察せようというものだ。

 唯は律並びサングとの接触へ至る前に、
追い付いた梓と紬に止められてしまったのだろう。
紬も梓も唯とは違い、約束を破る事に後ろめたさがあったに違いない。
見物する場所を勝手に変える程度の違約はできても、
紬と梓に全てを反故にする程の度胸はなかった。
恐らく、背信の度合いや影響の大小を斟酌して、行動の指針としている。
直接的な干渉に動いた唯を止めたのは、その比較衡量の結果だと推せた。
少なくとも律は、そのように考えていた。
212 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/16(火) 21:39:22.17 ID:hD9KNgabo
 唯だけではなく、制御する役を担う紬と梓も居て良かった。
漸く青になった信号を渡りながら、律は胸を撫で下ろして思う。

 尤も、紬達にしても、
ここで律達への追跡を唯に断念させる事まではしないらしい。
或いは、そこまでは唯を抑えられない、と言うべきか。
何れにせよ、律達とは距離を取っているものの、
唯達三人も横断歩道を渡る一団に列していた。

「入園フリーだ。入るぞ」

 渡った直後にあるコスモワールドの敷居を跨ぎながら、
澪が律にだけ聞こえる小さな声で言った。
喩え偽装に過ぎずとも、澪と遊園地でデートする事は喜ばしい。
一方で、付いて回る不安もあった。
入園から十数メートル進んだ辺りで後方を一瞥して、抱いた不安の的中を悟る。
追跡を躱せる訳もなかった。
分かり切っていた事なのに、迫り上げて来る嘆息は抑え切れるものではない。
律の瞥見した視界には、コスモワールドへと入場してくる唯達の姿が映っていた。

*

213 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/16(火) 21:40:29.57 ID:hD9KNgabo
>>203-212
本日は以上です。
また明日、よろしくお願いします。
214 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/17(水) 21:18:08.43 ID:Sw4RzHr9o
こんばんは。
>>212の続きを投下します。
215 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/17(水) 21:19:03.53 ID:Sw4RzHr9o

*

14章

 時折、案内板に目を遣りながらも、澪の足取りに迷いはなかった。
律の腰を左腕に収め、疲弊の身を支えながら進んでくれている。

 コスモワールドに入園してから、澪が小声で出した指示はシンプルだった。
澪は唯達が入園するのを待って、こう言ったのだ。
『あいつらに聞こえるように”だって、観覧車に早く乗りたくて”と言え。
彼氏に甘えるようにわざとらしくだ』

 言われた通りに、律は言ってやった。
『だぁってぇ、早く観覧車に乗りたくてぇ』と。
澪は一言も喋らず、黙って律の腰に腕を回してくれた。
急に走り出した件を彼氏に言い訳する、という芝居を命じられた事くらい律にも分かる。
併せ、澪に案内を委ねる為の布石も打たせたかったのだろう。
唯達は”訝る彼氏を下手な演技で誤魔化そうとする律”に呆れたかもしれないが、
実際には彼女達の方が引っ掛けられているのだ。

 それから、後方に唯達の追跡を受けたままではあるが、
順調に観覧車へと向かって進んでいる。
演技とはいえ口に出して唯達に聞かせた以上、観覧車は必須の工程となった。
勿論、律に不満はない。
憧れの澪と二人っきりで、高所の密室に閉じ込められる僥倖に浴せるのだ。
厭う理由はない。

 観覧車の真下辺り、折り返しを繰り返して聳える階段に差し掛かった。
ここを登って行けば、乗り場に辿り着ける。
澪に耳打ちされるまでもなく、階段に掲げられているプレートが案内していた。

 足の疲労は深刻だが、腰部の後ろに回っている澪の腕がリフトの用を為してくれている。
澪に支えられて階段を上りながら、律は自身の腕で裾を押さえた。
腿を上げる度に靡く裾が危なっかしい。
走っていた時のお転婆な姿が脳裏に浮かび、顔から火が出そうになる。
あの時は気にしている余裕もなかったが、今になって思えば際疾かった。
際疾いどころか、晒してしまった瞬間もあったかもしれない。
彼氏の正体よりも”そこ”を隠すべきではないかと指摘されれば、反論できない有様だった。
216 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/17(水) 21:20:10.00 ID:Sw4RzHr9o
 今とても、危険な状態にあると感じている。
律の登っている緑色に塗装された金属製の階段には、蹴込み板など付いてはいない。
高所に向かう屋外階段らしい設えではあるが、
下から裾の中が覗けてしまわないか不安でならなかった。
一方で、下層の階を見通し易いというメリットもある。
下方の階段には何組もの通行人が見えるが、その中に唯達の姿も散見できていた。
殊に、特徴的な梓の髪型が、発見を容易にしている。

「どこまでも付いてきているな」

 階段も終わりが近付いてきた頃、澪が耳元で囁いた。
唯達は追跡を切り上げてはいないが、律達に接しようともしていない。
疲労困憊の律が緩やかに移動する後方で、唯達は一定の距離を保って尾となっている。
横断歩道の前で唯を捕まえてくれた時と同じく、紬と梓が制御してくれているのだろう。
或いは単に”近付けば逃げる”という追いかけっこに、
向こうも疲れているだけかもしれない。
それもまた、多分に想定できる動機だった。

「唯達も、このまま乗るつもりなのかな」

 律もまた、澪にだけ聞こえる小声で返す。
こういう内幕を連想させるもののみならず、会話それ自体がシークレットだ。
唯は耳が良い。
故に、恋人同士の会話を装ってさえ、唯に聞こえる声で澪が喋る訳にはいかなかった。
唯の耳は日常で生じる音さえも、音階で表す才を持っている。
サングの声を聞いて、澪と同一人物だと判別できるだけの技術が唯の耳にはあった。

「だと良いがな」

 澪は思案顔だった。

 確かに、乗ってくれた方が良いには違いない。
律達が先に並ぶ以上、乗車も降車も先である。
即ち、降車後に唯達を観覧車の籠に置いたまま、
姿を晦まして逃げる時間的な余裕が生まれるのだ。
217 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/17(水) 21:21:12.00 ID:Sw4RzHr9o
 だが、澪の表情から察するに、期待よりも懸念を込めた呟きのようでもある。
何か不安視する要素でもあるのだろうかと、律は思考を寄せようとした。
その時、階段も終わった。
自然、律の関心も、観覧車とその前に並ぶ行列へと移る。
入園はフリーでも、アトラクションを楽しむには当然にチケットが必要になる。
まず並ぶは、チケット売り場の列だ。

「お疲れ。結構、大変な階段だったと思うけど、足は大丈夫か?」

 チケット売り場の列に並んでから、澪が労ってくれた。
確かに、律が普段昇降する階段と比べれば、長さも形状も労苦を要求するものとなっている。
実際、澪が押し上げるように支えてくれていなければ、腿を持ち上げるのも辛かっただろう。

「お蔭様で。サングの方こそ疲れてるんじゃない?私、重くなかった?」

「お前が?嫌味を言うと、お仕置だぞ」

 澪の浮かべる笑みからは、疲労など微塵も感じられない。

 嫌味を言ったつもりはないが、愚問を放ってしまった事は分かっていた
疲れていても、澪は自分の前でそのような素振りを決して見せないだろう。

 チケットを買う順番が回ってきた。
観覧車のチケット代すらも、澪は律に出させるつもりはないらしい。
それでも律は、支払いの動作に移ろうとする澪の左手を腰部に押し留める。
澪に遠慮した訳ではなかった。
面子を汚す意図はないと示すべく、律は右手を揺り動かして見せた。

 澪は律の意図を汲み取ってくれたらしい。
左腕を律の腰に回したまま、右手で財布を取り出していた。
利き手でないだけに不安だったが、澪は器用に片手で財布を操っている。
利き手に配慮されず、どころか顧慮すらもされず、
多数派である右利き用のツールを配されても澪は文句一つ言わず使いこなしてきた。
少なくとも、律が澪の存在を初めて認めた時から、彼女はそのように振舞ってきていた。
その訓練の成果が、或いは苦難の甲斐が、出ているのだろう。
澪は慣れた手付きでチケットを二枚、買ってくれた。
218 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/17(水) 21:22:44.77 ID:Sw4RzHr9o
 それでも部活では、澪は左利き用のベースを使っている。
澪は自分で選べる時にまで、無理に右利きに合わせた事はない。
その為、唯達には澪が左利きである事が印象付けられている。
だからこそ律は今、澪に右手を使うよう促したのだ。
当の唯達が階段を登り終えて、後方に姿を現していたのだから。

 唯達がサングの利き手にまで気を払ったかは分からない。
また、左利きに気付かれた所で、澪の連想に至るとも限らなかった。
利き手の一致など、危険とは言えない些事なのかもしれない。
だが、観覧車に乗るまでの間、唯達と同じ行列に並ぶのだ。
離れていても同居する空間は同じである以上、唯達に観察の機会を与えてしまう事になる。
ならば澪を連想させる材料は一つでも減らしておいた方がいい。
そうする事で澪に腰を取られた姿勢も維持できるのだから、律にとっては尚更である。

 律が観覧車の列に付いている間に、唯達もチケット売り場に並んでいた。
当たり前ではあるが、チケット売り場で律達の後ろに並んでいた人達も、
順に列の後尾に回っていく。
この人々が、自分達と唯達を隔てる壁だった。

 唯達が列の後尾に付いてからも、尾となる人は尽きずに更新されてゆく。
一方、更新が為されるのは尾だけではない。
観覧車のゴンドラも、降車する人と乗車する人が入れ替わっていった。
その度、列の先頭に立つ人も変わってゆく。
そしてそのサイクルが行われるごとに、律の順番も一つずつ近付いていた。

 だが、観覧車に乗る前に、超えねばならない難関が構えている。
列は真っ直ぐ乗車地点まで伸びている訳ではなく、途中で一度折り返していた。
その為、律の左手側には人二人分ほどの空間を空けて、乗車の順番が間近な組が並んでいる。
この逆行する列が難所だった。

 列を折り返した直後、唯達に律と澪を正面から晒す時間帯が生じてしまう。
律と澪が折り返して身体の向きを反転させ、唯達がこちら側の列に居る時間帯がそれだ。
化粧や髪の長さといった変化で、唯達の見慣れた澪とは異なった姿に変身してこそいる。
だが、この至近距離で正面から顔を捉えられれば、澪だと気付かれてしまいかねない。
表情だけ唯達から逸らしたとしても、至近距離で澪の面影を気取られる危険が残る。
第一、表情を唯達から逸らすという行為自体が、不審そのものだ。
219 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/17(水) 21:25:48.08 ID:Sw4RzHr9o
 せめて、自分の背丈と澪の背丈が逆ならば、澪の顔も姿も隠せたのに。
律は詮無い想像を脳裏だけに留めた。律の頭が漸く澪の胸の位置である。
自分の身体で相手の姿を隠すなど、現実からの乖離が著しかった。
そもそも、自分の背が彼氏役よりも高ければ、それとても唯達に不審を与えていただろう。

 それでも律は状況を悲観してはいなかった。
澪ならばこの窮地を切り抜ける策が浮かんでいるはずだと、
盲信に近い信頼を彼女に寄せている。
ただ、折り返し地点が近付いてくると、不安と焦燥くらいは芽生えてしまう。
澪の事を信じてはいるが、あまり焦らさず解決策を提示して欲しい。
迫るデッドラインを前に耐えかねた律が、
澪にアイコンタクトでアクションを促そうとした時だった。
腰部を強く圧され、足も地から浮いていた。

「わっ」

 律は驚いて声を上げたが、すぐに状況を把握する。
律は身体を、澪に抱き上げられていたのだ。

 律と澪の顔は、触れ合いそうな距離にまで近付いている。
律の顔で、澪の顔を隠そうという狙いがあるのだろう。
律が澪の顔を隠すという発想自体は、律の脳裏にも過ぎっていた。
だが、自分の身体のサイズ的に無理だろうと、口に出す前に諦めてしまっている。
一方の澪は、律を持ち上げる事で、身長差の問題を解決していた。
澪の膂力も然る事ながら、律の身体が小さくて軽い事も寄与している。
律が諦めていた理由とて、澪は可能な理由へと転じてしまったのだ。
その頼もしさに惚けて、眼前の澪の頬へと口付けてしまいたくなる。

 澪の視線が、律の瞳を捉えた。
劣情を気取られたかと律は内心焦ったが、アクションの合図に過ぎなかったらしい。
澪は息を吸い込んでから、律の身体をより高く持ち上げた。
もう澪の顔の位置に律の顔はない。
澪の頭の位置にある部位は、律の胸部だ。
220 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/17(水) 21:26:53.73 ID:Sw4RzHr9o
 澪の顔を隠す目的で律を使うのであれば、確かにこの位置の方が効果は高い。
顔で顔を隠そうとしても、はみ出る部分がどうしても生じてしまう。
だが、胸部で顔を覆うならば、唯達の側から向けられる視線を遮断する事が可能となる。
左腕で持ち上げられた律は、澪の左側の上半身を覆う格好となっていた。
丁度、折り返した直後に唯達へと向ける側でもある。
これならば唯達を躱しきれるに違いなかった。

 律は胸を澪の横顔に押し付けて支えとする事で、高所での姿勢を安定させた。
乳房が澪の輪郭の形に沿って波を打つ。同時に、胸奥の心臓も早鐘を打った。
胸は苦しいものの、この方が澪の顔を覆い隠す効果も高くなる。
一方で、澪の視界を確保できるよう配慮する事も怠らなかった。

 折り返す時、高所から見下ろす律の瞳は、
自分達に注がれる衆目とその主達の表情を捉えていた。
呆れ、辟易、妬み、揶揄、嘲笑、怒気、数多の視線に篭る感情はそれぞれだが、
所謂”バカップル”を遇する際の視線と捉えて間違いはないだろう。
”こういうモノ”を見る時の人々は、決して瞳に篭る感情を隠そうとはしない。
その中には、律の良く知る三人の視線もあった。
紬だけは稀有にも、羨望の眼差しを向けてくれているらしい。
だが、残りの二人は、他の衆目と同様の感情を目に浮かべている。
梓の表情からは呆れている事が読み取れる上に、
唯に至っては不機嫌を露骨なまでに相貌へと表出させていた。
それでも”バカップル”で狙いを糊塗できたのならば、上々と評価できる。

 念を入れる訳ではないが、律は乳房を澪の横顔に擦り合わせた。
布地の中で乳首が擦れ、喘ぐ吐息と共に硬く隆起していく。
仕草だけバカップルを演じようにも、敏感な身体は演技で留まってはくれない。
今日受けた仕打ちで身体が淫乱に仕上がっているからか、
或いは愛撫の相手が澪だからなのか。
考えるまでもなく両方なのだろう。
対して、澪にはどう伝わっているのだろうか。
起って硬化した突起が布越しに顔の側面で転がる感触も、
乳房が潰れんばかりに押し付けた胸の奥で轟く拍動も、
澪には伝わっているだろうと律は思う。
今に限らず、律の身体がどれだけ澪へと愛欲を訴えても、
澪は何らの確答も返してくれていない。
221 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/17(水) 21:27:41.15 ID:Sw4RzHr9o
 列が進むごとに、律や唯の位置関係も変わっていく。
律の斜め前に居た唯達が隣に立ち、そして擦れ違うように斜め後ろへと流れていった。
こうなってしまえば、もう安全だった。
唯達が振り向いても、彼女達の視界に映るは自分達の後姿である。

 だからと言って、即座に澪から降りる訳にもいかない。
遣り過ごした直後に降りてしまっては、
サングの顔を隠したい意図が見え透いてしまう。
勿論、律がサングに関する情報を遮断したがっていると思われるだけならば、
生じる問題は少なくて済む。
だが、サングまで秘密の形成に協力的だと思われてしまっては、不審を招くだろう。
唯達が見ている事などサングは知らないはずなのだから、
自らの相貌を秘す動機などある訳もない。
あくまでもサングは、
甘える律に応じて睦ぶ”バカップル”の片割れでなければならないのだ。

 ならば、徹底的に甘えて説得力を増してしまおう、と。
或いは、説得力を増す口実で徹底して澪に甘えてしまおう、と。
決意した律は身を迫り上げて、澪の頭頂に乳房を乗せた。
そうして逆側の右耳へと口唇を寄せ、囁いてねだる。

「肩車、して」

 澪は口元で笑って肯いを示した。

 荷物が澪の右手から離れ、地に落ちた。
空いた右手は、回り込んで律の臀部を支える。
代わって澪の左腕が律の腰部の拘束を解き、股下へと回り込んできた。
そうして律の股を、澪の左上腕が持ち上げてゆく。
高価な陶器を扱うように、ゆっくりと。
同時に、律の臀部を支える右手も、律を押し上げる動きに加勢していた。
222 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/17(水) 21:28:57.92 ID:Sw4RzHr9o
 膂力と体力に秀でた澪といえど、左腕に掛かる負荷を隠しきれてはいない。
律が乗る上腕の筋肉は時折震え、端整な顔には脂汗が滲んでいる。
滲むに留まらず、眉間の間を汗が一条伝っていった。
澪の筋繊維が悲鳴に軋む音も聞こえてきそうだった。
当然だろう。
律を片腕で抱えた後に、自分の首の高さまで律の腰を持ち上げようと言うのだ。
況してやその間、無情にも列は動いている。
両手の塞がる澪は足でバッグを転がしながら、
前に並ぶ者との間隔を詰めて進まねばならない。
少女の身にとって、拉ぐに足る過酷極まりない負担のはずである。

 にも関わらず澪は、自身の身体に一切の容赦をしていなかった。
筋肉を痙攣させ、体力を汗とともに流出させても、律の身を持ち上げ続けている。
苦しいはずなのに、澪の表情は苦痛に歪んでいなかった。
筋肉が断裂しても、体力が尽き果てても、澪は律を高みに導くに違いない。
それを確信させる強靭さが、今の澪からは感じられた。

 澪に無理をさせていると分かっていても、律は降りようなどと思わなかった。
澪は無理してまで表情に余裕を繕っているのに、気遣ってしまっては面子を潰す事になる。
格好付ける彼氏の水面下の苦労に触れぬは、乙女としての嗜みだ。
何より、自分の為に頑張っている澪の汗が、堪らなく愛おしい。

 澪の左上腕が肩の位置まで上がった。
それと共に、肘を曲げた左手と回り込んだ右手が、律の背へと力を加える。
滑るようにして、律の臀部は澪の左肩の上へと乗った。
肩に担いではいるが、肩車として一般的な姿勢ではない。
乗せる側の首を後ろから挟んで、相手の胸部へと両脚を垂らす体勢が標準的なものだろう。
だが澪は、片方の肩のみに律を乗せている。
自然、律の脚は澪の胸部と背部に、前後一本ずつ垂れる格好となっている。

 両脚を相手の胸に垂らす普通の肩車なら、
乗せる側が乗った側の脚を両手で支えてくれるだろう。
だが、この体勢ではそれも無理と言うものだ。
変わりに、肘を曲げた澪の左手が、律の背を押し続けている。
そうやって左肩に乗る律が落ちぬよう、
彼女自らの横顔へと律の下腹部を押し付けていた。
米俵を肩で担ぐ人の姿勢と、自分達の取る体勢が律の脳裏で似通って映る。
223 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/17(水) 21:30:23.12 ID:Sw4RzHr9o
 だが、律は自らを支える術のない米俵とは違う。
その事を思い出させるように、澪の右手が律の脚を指差した。
そして、親指を人差指と中指の間に挟み、律にサインで指示を伝えている。
両脚で首を挟み込め、という仕草に他ならなかった。
言われずとも、そうせざるを得なかっただろう。
今の体勢からバランスを保とうと思えば、
両腿で澪の頸なり頭部なりを挟み込む以外にない。
澪の髪を掴むなど言語道断だ。

 律は澪の首を絞めてしまわぬよう、加えて視界も塞がぬよう、左脚を回した。
自然、澪の顎が軸となる。
澪の口を太腿で塞いでしまうが、どうせ喋りはしないのだから問題なかった。
鼻も密着の寸前だが、呼吸が可能な隙間くらいは空いている。
そして後頭部からは右脚を回して、
澪の頭部を挟み込むべく前後の両サイドから強く力んだ。

 圧しているのは、あくまで律のはずである。
にも関わらず律は、澪の柔らかい唇に太腿を強く口付けられたように感じた。
自分が上となり圧し込むこの体勢でさえ、どちらが惚れた側なのかは明確に表れている。
澪には勝てない。

 現に、今も律の方が攻められていた。
澪の鼻から出る呼気が腿を擽っている。
そして、澪の鼻へと入る吸気には、
律の汗ばんだ腿や泥濘んだ股の空気が濃密に含まれていた。
二人の体勢上、律を最も雌たらしめる器官は、
澪の口唇及び鼻のすぐ真横に押し付けられている。
淫靡な匂いが澪の呼吸器系統に充満し、内部から澪を穢していくように感じられた。
それは、身体の内奥へと染み込ませるマーキングに他ならない。
澪を自分のものだと主張したい激しい情念が、化学物質に変じて大量に分泌されてゆく。
自制の効かない我が身は、生物兵器を高速で生産する工場にでもなったようだ。

 澪の後ろ髪に触れる右腿も、彼女への愛しさを弥増す功を受けている。
綺麗な黒髪に腿を擽られているだけが、律を猛らせているのではない。
昨日の部活の時点では腰まで届く長髪だった。
それを、今日の逢瀬で唯達を騙し切る為に、肩の辺りの長さに揃えて切ってくれたのだ。
謂わば、女の命を賭けてまで、律を助けてくれた証でもある。
その確かな証と肌が触れ合い、情が昂じぬはずもない。
224 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/17(水) 21:31:20.85 ID:Sw4RzHr9o
「ひぐっ?」

 不意に姿勢が前のめりに傾き、驚いた律の口から短い声が漏れる。
澪が右腕の側へと身体を屈ませたのだ。
澪は右手が再び再び空いたので、手元から離していたバッグを拾い上げたいらしかった。
澪の動きに連動して、律の体重を一身に受ける股の支点も変わる。
律の意識は、否が応でもそこから離れられない。

 ボストンバッグを持ち上げた澪は、姿勢を正すように小さく跳ねた。
その衝撃も、重力の集中する律の股には敏感に響く。
上気した顔を高く掲げる今の自分は、良い晒し者になっているだろう。

 周りの反応を確かめるように、律は周囲を見回した。
律を遇する視線は、思っていた通りに注視の度を強めている。
ただ、震源地である律の真後ろに並ぶ人は、
凝視を避けるばかりか、間隔も明らかに広く取っていた。
痴態を晒す少女に興味はあるが直接関わりたくはない、
という微妙な心情が距離感となって表れている。

 反面、ある程度離れた者は容赦をしていなかった。
不躾な視線を送るに留まらず、聞こえよがしに囁いている者も居た。『変態』と。
また別の所からは、山下公園で痴態を晒した時と同じように、
スマートフォンやデジタルカメラの撮影音が聞こえてきていた。
やはりWEBでSNSを通じ、律の痴態が顔付きで晒されるのだろう。
──ツイッターで、インスタグラムで、タンブラーで、今現在もペリスコープで。
そうして世界中へと拡散され、
この星に生きる人々の間で『律は変態』という認識が共有されるに至るのだ。
そのスケールと身に降りかかる影響を考えただけで、泣いてしまいそうになる。
どうにでもなれ。
律は自棄になった思いで、両手でピースの形を作って顔の横に掲げてやった。
無理矢理に繕った、笑顔も添えて。
涙は堪えたつもりだったが、我慢できずに瞳の端へと浮かべてしまっている。

 不意に身体を振動が見舞った。澪が左腕を突き上げて揺らしてきたのだ。
見れば、澪が眦を吊り上げた眼で、律を睨み付けている。
調子に乗るなと言ってるようにも、自棄になった律の内心を見透かしたようにも見える。
理由はともかく、制止を命じている仕草には違いない。
律は素直に手を下ろした。
225 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/17(水) 21:32:36.49 ID:Sw4RzHr9o
 手を下ろすと、昂っていた気持ちも落ち着いてきた。
それでも脳裏には撮られた写真の事が巡っている。
画像データに映る自分達は、恋人として収められているのだろう、と。
今日限りの恋人だが、
恋人が擬態された画像はネットの海で半永久的に残り続けるのかもしれない。
バカップルであれ変態であれ、澪と恋人でいる関係が何処かで続くのは慰めに感じられた。
慰めに満足できないのならば、更に深い一歩を踏み出すしかない。

 澪が再び左腕を突き上げ、律の股に衝撃を齎してきた。
何か伝える事があるという合図だろう。
律は考え事から思考を切り替え、澪の顔に視線を落とす。
澪は律と目を合わせながら、律の太腿に右の人差し指を突き付けてきた。
流れるように次の動作で、同じ指を地面へと向ける。
降りろ、という指示なのだろう。
確かに、観覧車も律達の順番が迫って来ている。
直前で慌てふためくよりも、余裕を持って動いた方が良いに違いない。

 律が首肯で応じると、律を抱える澪の左腕の角度が緩やかな速度で下がり始めた。
拘束と支えを同時に失いながら、律はどう降りたものかと思案する。
律は今、澪の頚部を腿で挟んで、自らの体を支えている状態なのだ。
降りようとして脚を解けば、安定を失った身体は地に打ち付けられてしまうだろう。
途方に暮れる律に、澪の指が再び指針を示す。
彼女は右手の平を律に触れる距離にまで寄せてから、自身の顔の前へと振り戻した。
取手をその右手首に掛けて提げているバッグも、動きに合わせて揺れる。
意味を図りかねている律の前で、澪がもう一度同じ動作を繰り返した。
今度こそ、律も意図を察する。
恐らく、澪の言いたい事は──

 確認の為、律もボディランゲージで応じた。
別に自分の声なら唯に聞かれても不都合はないのだが、
憚らざるを得ない内容の問いである。
律は自身の脚の付け根辺りを指差してから、同じ指で澪の顔を差した。
澪が頷いてしまった事で、律は自分の推測が誤っていないことを確信する。
澪は太腿を頚部に絡めたまま、律の体を澪の顔面に回せと指示しているのだ。
確かに、慌てず臨めば、比較的に危険の少ない方法である。
澪の頭部を軸にして、律の下腹部を澪の顔の外周に沿わせ少しずつ這わせていけば良い。
そうして、澪の正面に回ってさえしまえば、後は安全だった。
律を左肩に乗せている今の体勢では、澪は両手とも律を支える用に供せない。
反面、律が正面に回るのならば、澪は両手で律を支えて下へと降ろす事ができるのだ。
226 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/17(水) 21:33:54.78 ID:Sw4RzHr9o
 当然の事ながら、生殖器を秘す律の股が、澪の顔面へと密着する事になる。
それでも逡巡の暇はない。どころか、応否の自由さえもないのだ。
澪に命じられている以上、迷っていてもどうせ従う羽目になる。
第一、他の解決策も思い当たらない。
律は覚悟を決めると、澪の頭頂を軸にして回り始めた。

 羞恥と興奮で、心臓が破裂しそうなほどに暴れている。
太腿が澪の顔や髪で擦れる度に、意図せずに艶めかしい吐息が口から漏れ出た。
澪の視界を塞ぐ格好になってしまう為、昂ぶる中であっても手早く行わねばならない。
現状、列が進めば、律が澪の目となって前に詰める指示を出している。
指示を受けた澪は慎重な足取りで、前に並ぶ者との距離を詰め過ぎないよう、
一方で後方にも遅滞や苦情が生じぬよう、緩急の配分を上手く整えて進んでくれていた。
だが、視界が閉ざされた中で頭部に人を抱えて歩くのは、
如何に澪と言えども心身に掛かる負担は甚大なものとなる。
なるべく早く、楽な体勢に移行させてやりたい。

 澪を想いながら、律は移動を完遂させた。
後頭部に回した両足で後ろから強く挟み込んで、泥濘む股を澪の顔に押し付ける。
こうなると棘を増す周囲の視線よりも、澪が受けた知覚の方が気になった。
息苦しい程に押し付けられた”そこ”から、彼女は何を感じ取ったのだろうか。
当の澪は味わうような間を置いてから、律の腰部に手を添えてきた。
力を込めて腰を掴み、ゆっくりと律の体を浮かせてゆく。
その動きに合わせ、律も脚を解いていった。

 腰を強く掴まれているので痛みはあるが、降ろす動作自体は緩やかなものだった。
腰骨に響くほど込められた力も、律を落とすまいとする心遣いからに違いない。

「ぅーっ」

 地に足を付けた律は、間髪を容れず澪の胸へと飛び込んだ。
消え入りそうに吠える声が、抱き付く間際に律の口から漏れ出る。
澪の顔を見る暇もなく、律の顔を見せる間も与えなかった。
恥ずかしくて、顔も見れない。見せられない。

 律を胸に受け止めた澪は、頭頂の髪を優しく撫でてくれた。
淫らに蒸れた肉を顔に押し付けられたというのに、律を厭う様子は欠片も見せていない。
愛おしむように慈しむように、優しく扱ってくれている。
そうして律達が乗る順番になるまで、髪に擽るような愛撫を与え続けてくれた。
227 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/17(水) 21:35:44.18 ID:Sw4RzHr9o
 やがて、乗る順番が来たと、律の前髪を掻き上げて澪が教えてくれた。
律は促される侭に顔を上げると、首を観覧車の方へと振り向ける。
回り終えた者の降車を確認した係員が、順番の来た組に乗車を案内する所だった。
即ち、律と澪の組である。
律は澪に両肩を抱き竦められながら、背を押して貰うような足取りでゴンドラへと向かう。

「どうぞ」

 ゴンドラへと案内する係員は、律達に対してどこか腰が引けて見えた。
無理もない反応だと、自分達の痴態を顧みながら律は思う。
寧ろ、客の手前、平静を取り繕おうとする意識は接客のプロとして褒称に値する。
訓練を受けていない者ならば、顔に鮮明な軽蔑の念が浮かんでしまう事だろう。
内心で忍耐を強いた事を詫びながら、律はゴンドラに乗り込んだ。

 勿論、緩慢ながらも動きを止めないゴンドラに乗り込む時も、澪のサポートを受けている。
後ろから抱えるようにして支えてくれたのだ。
これぐらいなら、カップルの範疇として許されるだろう。

 律達の乗車を確認した係員が、ゴンドラのドアを閉めた。
ドアに掛かるロックの音を最後に、外界の音が遮断される。
逃げ場のないゴンドラの中で、周囲の喧騒に邪魔をされない時間が漸く訪れた。
やっと、澪と二人きりになれたのだ。

 籠の中には、詰めれば四人は座れそうな座席が向かい合って配置されている。
律と澪は、同じ側の席に寄り添って座っていた。
贅沢に空間を使うよりも、贅沢に時間を使いたい。
寄る律を澪は友情故に拒まないだけなのだろうが、律は明確に恋情を秘して寄っていた。

「一旦、落ち着けるな」

 澪が隣で長い息を吐く。
張り詰めていた神経の糸が緩んだのだと、吐息のみならず澪の横顔からも察せられた。
発声それ自体が、唯達の監視下を脱した現況の象徴であり合図でもある。
律にしても、久しく聞いていなかったような懐かしささえ覚える澪の声に、
心が緩むような安堵を齎されていた。
後は白いバラ、ロサ・ブランコを手に持っていれば、いつもの澪だった。
──勿論、髪の長さを除けば、の話ではある。
228 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/17(水) 21:36:50.25 ID:Sw4RzHr9o
「お疲れ様。また私の我侭に付き合わせちゃって、ごめんね」

 待ち時間に肩車を頼んで、澪を酷く消耗させてしまっている。
神妙に頭を下げて詫びる律に、澪は手を振り鷹揚に返してきた。

「いいや、我侭なんかじゃないよ。分かってる。
律が肩車をおねだりしてくれなかったら、
私が顔を隠したがっているように見えていたかもしれないしな。
良くやった」

 律がそこまで計算していたという澪の見立ては、全くの誤謬という訳ではない。
ただ、下心も半ば以上同居していただけに、手放しで褒められると擽ったかった。

「いやん。でも、サングだって。
あんなきつい体勢じゃなくって、一旦私を降ろしてから、
首の後ろで肩車してくれて良かったのに」

「一応、彼氏役だからな。格好付けたかった、っていうのもある。
それに、律の”そこ”に近付けるチャンス、彼氏が無駄にするはずもないからな。
そこは演じ切らないと。
ああ、それと私も律の”そこ”は気に入っているよ。
超雌のフレグランスを、山下公園で嗅いだ時からな」

 澪は律の両脚の付け根の間を指差しながら、堂々とした風情で言い切った。
律は咄嗟に前屈みになって、澪の指先から局部を隠すように試みる。
両手を行儀良く両膝の上に置いたまま前屈した所為で、
澪の迫力に呑まれた構図が出来上がってしまった。
対照的に足を組んで泰然と構える澪の姿勢も、その構図の形勢に助力を添えている。
分かってはいるが、虚勢を張って対等に振舞う余裕が律にはない。
生殖器を指差されながら評される羞恥に際して、
我が身は縮こまって茹る一方だった。

「黄色い装いのドレスの下、触れば柔らかくて、甘い匂いと味がする。
律のここ、色も感触も味も匂いも、まるで巣蜜みたいだな」

「うーっ。もうっ、恥ずかしいんだからぁっ。止めてよぉっ」
229 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/17(水) 21:38:00.07 ID:Sw4RzHr9o
 なおも続けられる澪の感想を聞いていられず、律は羞恥を素直に叫んで遮った。
だが、労を惜しまずに抱え上げてくれた相手へと、
喚き散らすのはあまりにも冷たく遇しているのかもしれない。

「ごめん。折角、苦労して持ち上げてくれたのに。
それに、気に入ってくれたなら、私だってちょっと嬉しかったって言うか」

 放ってしまった強い語勢を打ち消す積もりで、律は言い繕う。
だが、言葉が進むに連れて羞恥も強まり、語尾は消え入るような声量に窄んでいた。

「誰だって気に入るさ。だから、謝る必要も隠す必要も恥じる必要もない。
もっと自信を持って、誇示していっていいんだぞ。それがお前の悦びだ」

 消え入りかけていた律の言葉の末端まで、澪は聞き分けてくれていたらしい。
律を肯定してくれる澪の声が、耳に心地良く響く。

「あーら、この子ったらお世辞ばっかり言っちゃってぇ。
でも、ありがとね」

 決して、世辞に対する礼ではなかった

──少し、自信を持てた気がする。
──少し、勇気を持てた気がする。

 だからこその、有難うだよ、と。心の中で、律は付け加えた。

「お世辞なんかじゃないさ。それはそうと、だ。
折角乗ってるのに、私の顔ばかり見ていたって勿体無い。だろ?」

 澪が親指で窓の外を指差した。景色を見ろ、という仕草に他ならない。
律は素直に従い身を乗り出す。そうして窓に顔を貼り付け、外の景色を目に収めた。

「少しずつだけど、建物とかが小さくなっていくね」

 律達を乗せたゴンドラは四分の一の行程を消化する手前、
即ち九十度の位置に達しようとしていた。
ここから頂点、百八十度に達するまでは、景色を小さく変えていくのだろう。
230 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/17(水) 21:39:17.13 ID:Sw4RzHr9o
「ああ。もうすぐ、律のお好みの夜景にだってなるさ。
そこまではまだあるし、解説でも流すか?」

 ナビゲート音声の流れる装置と思しきボタンへと、
澪が指を伸ばしながら問い掛けてきた。
律は首を振って応じる。

「いい。サングのナビの方が優秀だもん」

 呼称は迷ったが、サングを継続することにした。
まだ終わっていない、そう自分に言い聞かせる為に。

「おいおい、ナビゲートするほど、詳しくはないぞ?
この街に付いて知っている事なんて、
今日のデートを乗り切る為だけに身に付けた付け焼刃だ。
ムギ辺りなら、初心者相手にナビできる程度には詳しいのかもしれないけどな」

「梓あたりも詳しそうだけどね。
旅行とかの話になると、張り切って調べたり計画立てたりしそうなタイプだし。
でも今は、レクチャーもナビゲートもしてないだろうけど。
唯達もそろそろ乗った頃合なのかな?」

 彼女達の目的は横浜の観光ではない。自分達の観察である。
興味の対象が自分達に絞られている中で、悠長に景色の解説をしているとも思えなかった。

「ああ、乗ってたぞ。
遠いし暗いから見た目じゃ分かり辛かったけど、まず間違いないよ。
少なくとも、列を抜けた素振りはなかった」

「ふーん。まぁ、折角並んだんだからね。ここまで並んで、帰ったりしないでしょ。
それに、唯達も尾行みたいな陰気な事ばっかりやってないで、
楽しんでくれた方がいいもんね」

 澪が安心したように言うので、律も調子を合わせた。
部活の仲間達の事を、気に掛けていたらしい。
律は竹馬の友を誇るような気持ちで、改めて澪に感心する。
澪は姿勢を楽に崩して律との会話に興じる一方で、
唯達の動向からも意識を逸らしていなかった。
231 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/17(水) 21:40:50.65 ID:Sw4RzHr9o
「こっちも安全になるしな。勿論、いつだって油断は大敵だけど」

「うん、恋の鉄則だよね」

「Sweet, My Fair Lady.
 甘いな、 お姫様。
恋の鉄則を言うなら、安全こそ大敵だぞ?」

 油断するなと言いたげな澪に、相方を茶化す恋人のように返した積もりだったが、
澪の方が上手だった。
心底、敵わないと思い知らされる。

「あーら、この子ったら経験豊富そうな発言しちゃってぇ」

「お前が初過ぎるんだよ。この様子では彼氏が出来た時に不安だな。
幼い頃からの親友として、レッスンしてやった方がいいかな」

 自分で放った言葉に、澪は一人頷く。

「うん、そうしよう。親友としての努めだよな。
唯達にこのゴンドラを覗かれてもいいように、
睦み合う姿も見せておかないといけないしな」

 言いながら伸びてくる澪の右手が、律の顎を掴んで上向きに持ち上げる。

「覗くって。どうやって」

 激しく脈打つ心臓を押さえながら、律は小さな抵抗を試みる。

「角度的にさ。
唯達の乗るゴンドラから、
このゴンドラが見える配置に差し掛かる事だってあるかもしれないだろ?」

「無理だよ。見える訳ないし」

 仮にこれがシースルーであったとしても、
離れたゴンドラの様子を覗き見る事は至難である。
況してや今は、陽光が透過する昼間ではない。暗い陰の落ちた夜間なのだ。
232 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/17(水) 21:41:56.32 ID:Sw4RzHr9o
「さっきも言っただろ?その油断が大敵なんだよ。
実際に見られるかどうかだけの問題じゃなく、意識も含めてさ。
それとも、何もしない方がいいか?嫌なのか?」

「んーん、嫌じゃない」

 律は反射的に首を振っていた。肯う言葉は動作に遅れて出てくる。
意識が、無意識に追随している形だ。

「いい子だ。まあ、実は始めから拒否権なんて与えてなかったから、
どう答えても同じだったんだけどな」

 澪は律の顎を持ったまま、窓へと律の後頭部を押し付けた。

「どういう意味?」

「言ったろ?唯達へのアピールや警戒だけじゃなく、レッスンも含めてるって。
初で無垢な律が悪い奴から酷い目に遭わされないように、教育してやる」

 律の身体に半身を圧し掛からせながら、澪が言葉を降らせてくる。
澪の体重に拉がれてしまいそうだった。

「重っ。ちょっと痛いし、苦しいよ」

「律は非力だからな。跳ね除けられないだろ?
こうされると、もう身動きできない」

 身動きの取れない律の顔に、澪が顔を近付けてきた。
澪の端整な顔が、切れ長の瞳が、長い睫が、律の眼の間近に迫っている。

「みっ」

「だから、サングだって」

 澪と言いかけて喉に閊えている間に、訂正の言を受けていた。
233 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/17(水) 21:43:15.61 ID:Sw4RzHr9o
「サングなんだよ、律。分かってるのか?
今お前は、逃げられない空間に入ってしまっているんだ。
誰も助けに来れやしない。
こんな状況下に、そんな挑発的な格好で、野郎と二人きり。
無事で済むと思っていたのか?」

 澪の左手の長い指が、律の身体の上を滑っていく。
絹に浮き出た曲線を、念入りになぞるように、ゆっくりと。

 律もよく知っている、演奏の時にベースの三弦を自在に鳴らす指だった。
所属するバンドのHTTでは、律の受け持つパート、
ドラムはベースの真後ろに配置されている。
演奏中にいつも見ているのは、澪の背だった。
否、背を流れて腰へと落ちる、在りし日の長い黒髪だった。
その為、澪の長い指の捌きを観察する機会は少なかった。

 百聞は一見に如かず。そして、百見は一触に如かず。
今や、律は澪の指捌きを仔細に観察できるに留まっていない。
絹の上を滑らかになぞる感触を、敏感な肌に知覚させられている。

 侵略する指の動きは、下腹部にまで伸びて漸く止まった。

「この先は何があるか、分かるな?」

 為されるが侭、甲高く荒い吐息を断続的に漏らすだけが精一杯の律に、
澪が噛んで含めるように問い掛けてくる。

「だ、駄目っ。こんな所で」

 別の所ならいいのかと、胸の奥から自問する声が聞こえてくる。

「絶好の場所だろ?誰も助けになんて来れないんだから。
ほぉら、言った通り危険だ。お前が望んだんだよな?」

 澪の目は、小鳥を狙う猫の目をしていた。否、これは豹だ。
それも、迷彩を成す草叢に潜伏して獲物へと近付いている時の眼ではない。
十分に接近し、身を隠す必要のなくなった必殺の狩人の瞳だ。
234 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/17(水) 21:44:25.14 ID:Sw4RzHr9o
「時間、ないよ?下に到着して、皆に見られちゃう」

「この観覧車は十五分掛けて一周する。
今は大体、三分の一くらい終わったか?
なら、ざっくり十分ほど残されている訳だ。
十分だぞ?分かるか?」

 澪は一旦言葉を切ると、口の端を片方吊り上げながら続けた。

「すっかり仕上がってるお前をいかせるには、十分過ぎる時間だよ」

「やぁっ」

 律は目を逸らそうと試みるも、顎を掴む澪の手によって正面へと引き戻されてしまった。

「観念しろよ。言ったろ?
そんな扇情的な格好で、ましてや下着も付けずに、
二人きりの密室に入ってしまったんだ。
”ここ”に触れた空気が蒸気と匂いを含んで、狭い密室に充満しているんだぞ?
咽せ返る程の雌の匂いで誘惑しておきながら、今更逃げるなよ」

 澪の語調は厳しかった。
この状況を律の責任に帰して、逃げ道を塞いでゆく。

「私、誘惑なんてしてないし」

「しているように見えちゃうんだよ、相手からはな」

「そんな勝手な」

「煩いぞ、口答えするな。そうだな、まずはそのお喋りな口を塞ぐ。だから目を瞑れ」

 澪が凜とした声を張り上げ、一方的な口調で命じてきた。

「えっと、心の準備とか」

「目を瞑れ」
235 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/17(水) 21:45:27.48 ID:Sw4RzHr9o
 律の言葉を遮って、澪の高圧的な声が響く。
有無を言わさない口調に、律も覚悟を決めて目を瞑った。
そうして澪の鼻息に鼻梁を撫でられながら、唇が重なるのを待つ。
下腹部に置かれた指が、更に曲線を辿って下へと落ちてくるのを待つ。

 焦れていた時間は数秒だっただろう。
その僅かな時間で、心臓は数時間分も拍動している。
少なくとも律には、それだけの暴れっぷりに感じられた。
身体のサイズを超えて暴れまわる胸が、痛くて苦しい。

 鼻息を髪に感じた直後。
律の額に、生暖かい感触が這った。
顎を掴んでいた指の圧力は消え、代わって前髪を払って押さえる力を感じている。
のみならず、身体を押さえ込んでいた澪の重みも消失していた。

 怪訝に感じた律が目を開くと、赤い舌を口唇から出した澪の顔が映る。
その唾液の滴る赤く長い舌に額を舐められたのだと、律は間髪を容れずに理解した。

「サング?」

 予想していた事態と現状との差に、律は戸惑いを隠せない。
律を徹底して嬲った澪の口振りからしても、律の早とちりや勘違いではなかったはずだ。

「だから言っただろ?レッスンだって。
本当にやったりしないさ。それは、親友の私の役目じゃない。
本物の彼氏の役目なんだよ」

 澪が律の前髪へと添えていた手を離すと、前髪が額に落ちてきた。
汗で濡れた額に、髪の細い房が一束二束と貼り付く。
236 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/17(水) 21:46:44.19 ID:Sw4RzHr9o
「びっくりしたぁ。
もうっ、迫真だったから、本気だと思ったじゃんかぁ、馬鹿ぁ」

 律は額に貼り付いた髪を剥がしながら返した。
実際に、迫ってくる澪は演技とは思えない凄みがあった。
律の身体も敏感に反応している。
身体中から緊張の汗が噴き出し、
生殖器は受け入れる準備を整えるように湧き出す粘液で潤った。
演技だったと分かった今となっては、
それら噴火寸前まで昂ぶった行き場のないリビドーが燻ってしまっている。
その所為もあるのだろうか。律の胸奥では、落胆している自分が居た。
付け加えた『馬鹿ぁ』という罵倒も、
期待への裏返しが口にさせた愚痴だったのかもしれない。

「始めから言っていた事だぞ?あんなに狼狽えるなよ。お前の方が余程迫真だったぞ。
でも、本気にしたなら、それだけレッスンも効果があったって事だ」

 澪が律の耳に口を寄せてきた。
これからが大事な話だと、仕草で示すかのように。

「もし律が、誰かと密室を過ごす時。
その時は、どうされてもいい相手と入れ。
特に、扇情的な格好をしたり、フェロモンを分泌している時はな」

 澪は居住まいを正してから、言葉を続けた。
律の視線に宿った抗議の色に気付いたらしい。

「ああ、分かってる。そんなの、相手の勝手な思い込みだって事。
別に二人きりの部屋に入ったからと言って、オーケーのサインとは限らないさ。
でもな。そういう輩が居る以上、お前は自衛を念頭に行動しなきゃいけない。
其処は私がお前を守ってやれない場所になっちゃうんだから。
だからこれは、お前のナイトとしてではなく、親友としての忠告だ」

 この上ない澪の気遣いに、律は自然と深く頷いていた。
澪は律の反発を分かってくれている。
その上で、例え不条理に感じたとしても、自衛するよう諭してくれているのだ。
237 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/17(水) 21:47:45.27 ID:Sw4RzHr9o
「そこが分かってくれたのなら、このレッスンは終了だ。
私だって親友としての勤めを、一つ果たした事になる。
そしてお前が、密室下で危険に晒されてもいいと思える相手と出会えた時、
直截に言って褥を共にできる本物の彼氏を見つけた時。
その時、私の幼馴染としての役目は全て遂げた事になるんだよ」

 噛んで含めるように語る澪の表情を、寂寞の影が翳していた。
物憂げな親友を眺める律の胸奥に、鼓膜を突いた言葉が落ちてゆく。
澪の言う”危険に晒されてもいいと思える相手”となら、今も密室を過ごしている。
甘美な危険は期待外れに終わってしまったが、
親友ではなく”本物の彼氏”だったのならば、
嫌がる素振りとは裏腹な律の奥意に沿ってくれただろうか。
親友としての”教育”でも”忠告”でもなく、況してやナイトとしての護衛などでもなく、
危険な目に遭わせてくれただろうか。

 思惟を巡らせる律の眼前で、不意に、澪の表情が柔和に崩れた。

「いけないな。説教めいた話になってしまった。
今この場この時に、こういう雰囲気は似合わないよな。
だってほら、ご覧?」

 澪が窓の外を指差しながら、高らかに宣した。

「そろそろ頂上だ。見下ろし召しませ、お前の為だけの絶佳の夜景」

 澪に言われて気付いたが、観覧車も半分の工程が終わりかけているらしい。
律は供されるままに窓へと顔を押し付け、眼下に広がる夜景を見下ろした。

「わっわっ、わぁっ。期待以上だよ、綺麗ー」

 澪の言葉に違わぬ絶景を目一杯に収め、律の気分は一気に高揚した。
昂ぶるあまり、律は澪の袖を掴んで踊るように捲くし立てる。

「ねっねっ。サングも綺麗だって思うでしょ?
私の為だけなんて勿体ないよー。ほらほら、サングも見て。
あっ。あれ、汽車道だよ?わぁー、懐かしいー、さっき通ったばかりなのにー。
上から見ると、海に浮かぶ儚い灯篭の道って感じ。
私達あれを通ったんだねー」

 目線が変わると、同じ場所でも全く異なって見えた。
238 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/17(水) 21:48:58.20 ID:Sw4RzHr9o

「気に入ってくれたなら、良かったよ。
連れ込んだ甲斐もあるというものだ」

 澪が右手首に絡む律の手を撫でながら言った。

「それは勿論、気に入るよー。
気に入らない女の子なんていないよ」

 律は澪に答えてから、もう一度夜景を眺め渡した。
海を挟んだ北西側に、観覧車に並立する形で背の高いビルが三棟聳えている。
汽車道からも見ていた、クイーンズタワーだった。
頂点に達した観覧車のゴンドラは、
A棟よりも低くC棟よりも若干高い位置で空中を遊歩している。
もしもB棟に目が有ったのなら、律と目が合っていた事だろう。

 その位置から、律は再び下へと視線を落とした。
散りばめられたトパーズとパールが発光しているような光景は、
何度見ても褪せる事はない。
それでも再見ともなれば、幾分かは落ち着いて瞳に収める事ができた。

「あ」

 視線が遠くから近くに動き、観覧車の傍に視線が達した時。
律は短く声を上げていた。
その視界には、城のような構えの建物が映されている。

「どうした?」

 律の声に反応した澪が、視線を向けてきていた。
この機を逃さず、律は指で示しながら問い掛ける。

「ねぇ、サング。あの建物って、何の建物か知ってる?」
239 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/17(水) 21:50:02.64 ID:Sw4RzHr9o
 その建物を、律は汽車道でも見付けていた。
あの時とは見る方向が真逆であるが、位置関係からいって間違いようがない。
コスモクロックよりも目を引いた、金色に輝く城のような建物である。
それだけに、汽車道を通っている時も、澪に訊こう訊こうと思っていた。
だが、訊ねる寸前で唯達を見付けてしまい、其れ処ではなくなったまま今に至っている。
もし、ここで視界に入らなかったのなら、澪に訊く時機を逸したままだったろう。

「結婚式場だよ」

 建物を見つめながら、澪が返答してくれた。
そのワードは、律の視線に熱を宿すに十分だった。
建物へ向けた律の関心の種類は、疑問から憧憬へと変じている。
何よりも、澪に寄り添い同じ視線で式場を眺める事が、
式場の下見のようで望外の幸せを味わえた。
少なくとも律は内心、式場の下見を擬していた。

「興味津々だな」

 式場を凝視していた律は、澪の声で我に返った。

「そんなんじゃないし。ちょっと、綺麗だなって思っただけで」

 内心を見透かされているはずもないのに、律は慌てて否定してしまっている。

「そうか?将来に備えて、勉強でもしているのかと思ったよ。
まぁ、彼氏が出来て順調に進めば、何処かには連れて行ってくれるさ。
リクエスト候補の一つとして、そこも念頭に置いておけばいい」

「んー。確かにあそこは式場って分かる前から気になっていたくらい綺麗だし、
あんな所で挙げるのは素敵だろうけれど。
でも、場所ってそこまで重要じゃないよね」

 律はみなまで言わなかったが、
本音としては”何処で”よりも”誰と”の方が遥かに重要だった。
240 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/17(水) 21:51:00.35 ID:Sw4RzHr9o
「そうか?でも、好きな相手には最高の環境で、
至上の結婚式を挙げてやりたいって、婿の方は思うものだよ。
勿論、場所を重視しなくとも、それは花嫁の自由だ。
ただ、それでも婿の方は、
花嫁の価値観を引っ繰り返す程の場所を提供してやりたいって燃えるものなのさ」

 言い切った澪が、再び窓の外を見遣った。
律も連れて視線を沿わせる。
半分以上の行程を終えたゴンドラは、既に下降を始めていた。
空に近付いていった時とは違い、今は地面に近付いていっている。
澪との二人きりを担保する密室も、そこで終わるのだ。

「ねぇ、サング。さっきの話なんだけど」

 呼び掛けて澪の視線と注意を引き付けてから、律は続けて言う。

「やっぱり、私匂う?さっき、私の……に空気が触れて、蒸気と匂いを含んで、
ゴンドラの中に咽せ返るほど充満しているとか、言ってたけど。
キツイ、よね?」

 遠慮がちに、律は上目で問うた。
澪から嬲り気味に指摘を受けるまでもなく、自分でも気にはなっている。
澪に迫られている時、怯えた態度や言葉とは裏腹に発情していた。
正確には、発情する生殖器を抑え切れなかった。
そこは場所も弁えずに、粘性の液体を滲み出させている。
それだけではない。
肌を湿らせる発汗も、律を危惧させていた。

 高所という用途柄、窓は嵌め殺しに設えられている。
換気が一切出来ない密閉された空間内では、
逃げ場を失った匂いは濃度を増していくばかりだ。
そのような場に自分一人ならまだしも、澪が居る。
澪の吸う息は、全て律の肉体から発散される液を介してしまっているのだ。

「ああ、凄まじく濃いよ。お前のフェロモンが充溢している。
次に乗る人にも気付かれちゃうだろうな」

「うぅー」
241 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/17(水) 21:52:02.66 ID:Sw4RzHr9o
「何て言うかな。
さっきさ、お前の此処が巣蜜みたいだと言ったけど、
この中はミツバチの巣の中のようだな。
ミクロになって入ってみれば、こんな甘い匂いに満ち溢れてるんじゃないか?
いや、新鮮な柑橘類のような強い酸味もあるから、ちょっと違うのか?」

 恥ずかしさで唸る律に、澪は温情を掛けてはくれなかった。
具体的な言葉を次々に連ね、ゴンドラの中に満ちる匂いに言及していく。
澪はまだ語り続ける積もりらしいが、聞いている律の方が耐えられない。

「うーっ、もういいよぉっ。
そ、そんなに具体的に言われると、恥ずかしいんだからぁっ」

 律は喚き声を被せて、澪の口上を遮った。

「今更恥ずかしがるなよ。今日一日、人目も憚らずに淫虐に耽っていたろ?
いや、人目も興奮の材料だったのかな。
なるほど、すると恥ずかしいという言葉は、
私に対するおねだりと同義に取って良いのかな?」

「なっ」

 律は絶句してしまい、それ以上の言葉を放てなかった。
唇を動かしてはいるのだが、声は出て来ず空回りするばかりである。
まるで、水面で餌を催促する鯉のようだと、金魚の色に頬を染め上げながら律は思った。

「ふふっ、逐一に可愛い反応を見せてくれるよな。サドり甲斐がある。
でも、これ以上は虐めたりしないから安心しな。
あまりやると、律が持たないからな」

 澪は律の反応に満足したのか、勘弁してくれる気になったらしい。
忙しない律の両頬を解すように両手で包みながら、慮る言葉を掛けてくれた。

「もぉー、意地悪っ。サングったら、本当にドエスなんだから」

 不平を零しながらも、澪に指摘された性癖は否めないままだった。
澪に虐められている時でさえ、律の下腹部は性的な興奮に沸いていたのだから。
倒錯した性の願望を持っているのは、寧ろ自分の方なのだろう。
242 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/17(水) 21:53:15.07 ID:Sw4RzHr9o
「ああ、そういう設定だろ?そういうサングがお好みだろ?」

 澪が片目を瞑って、茶化すように言う。
実際にそうだ。自分の言葉だ。
そしてあの時に唯が言っていたように、性的に倒錯した自分の願望でもあるのだろう。

「まぁ、それはそうと、だ。律。大丈夫か?
実際、今日は疲れただろ?」

 両目を開いた澪は、真面目な表情と声に転じていた。

「うん。疲れたけど。でも、サングの方がもっと疲れたでしょ?」

 今日の重労働を思えば、澪の肉体が如何に強靭と言えど堪えているはずである。

「舐めるな。お前とは鍛え方が違うよ。
と言いたい所だけど、確かに少しは、疲れているのかもな。
でも気付かない振りをしておいてくれ」

 澪は意地でも律に疲労を気取られたくないらしい。
何処までも格好付けてくれる姿が、律の心臓を跳ねさせる。

「そんな事より、自分の体を労われ。
この後、休憩でもどうだ?この地を後にする前に、一旦休んだ方がいい。
場所の手配も任せておけ」

「休憩って。何する気なの」

 身構える動作も口を衝く問いも、反射的なものだった。
ラブホテルにでも誘うような澪の口上に、律の身体が自衛の反応を自然と取っている。

「そう警戒するなって。何もしないよ。
あくまでも、お前を休ませてやりたいだけだ。サングとしての最後の勤めとしてな」

「いや、別に警戒している訳じゃないけど。
ただ、そんなに疲れてないかなって」

 澪に見透かされていたようで、律は慌てて取り繕った。
243 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/17(水) 21:54:37.28 ID:Sw4RzHr9o
「嘘を言うな。それに、否応は言っていられないぞ?
まさかその濡れ蒸れ塗れの身体で電車に乗る積もりか?
況してや、開放的な格好で?危険だ、お前も周りも。
今のお前は存在からして犯罪的に、否、もう涜神的に猥褻なんだよ」

 澪の選んだ言葉こそ嗜虐的だが、含意された内容までは否定できなかった。
律自身、匂いと露出の気になる身で、電車に乗る気にはなれない。

「だからさ。シャワーを浴びて汗も液も洗い流して、少し休め。
そうして、身も心も落ち着けてから帰ればいい」

「まぁっ。やっぱり、ホテルに連れてく積もりじゃんかぁ」

 律は口を尖らせてみせたが、抗議の意図はない。
内心では、既に諾否は決まっている。

「まだ未達だったノルマを達成するには、お誂え向きの場所だろ?」

 澪が得意げに笑う。

「ノルマ?未達?」

 思い当たる節のない律は、澪の言葉を繰り返す事で問いに変えた。

「今日は危険日だって、手帳にマークを付けてただろ?唯達も見てたぞ。
あの、ご丁寧にサテライトまで幾つも添えた、一際目立つハートマークをな」

「あっ、ああっ」

 得心がいった。確かにそれは、唯達に見せている。
生理周期から安全日と危険日を計算して記した手帳の事だ。
そして澪の言う通り、
今日の日付に付したハートマークは意図して他の日と装いを異にしている。
唯達に自慢する為の過ぎた行いだったが、
相応のアクションを求められているかもしれない。
ホテルに寄る所を唯達に見せ付けられれば、期待へと応えるに充分だろう。
244 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/17(水) 21:55:57.44 ID:Sw4RzHr9o
「勿論、唯達がホテルの手前まで追いかけて来れば、の話だけどな。
見せ付ける為だけに、あいつらを悠長に待つ気も、態とゆっくり歩く積もりもないし。
だからそれは唯達次第のオマケだ」

 そもそも、追って来ないのならば、唯達の興味などその程度という事だ。
見たいと無理を言って聞かなかったのは唯達なのだから、
相応の努力は彼女達の方にこそ求められる。

「待たないから勝手に追いかけて来い、って事だよね?
それでいいと思うよ。私達がホテルに寄る本来の目的って、休憩なんだし」

 身体を洗って着替える事も、休憩というワードに含意された要素である。
そうして電車に乗っても許される状態になりたいと、許されざる一日を顧みながら思う。

 自分の都合だけではない。澪も休ませてやりたかった。
強がってはいるが、少女の肉体に過酷な負担を課す一日だったはずだ。
彼女の矜持を慮って口には出さないが、彼女の身体も慮っている。

「いや、休憩も大事ではあるけどさ。実はもっと重要度の高い目的があるんだ。
落ち着ける場所で、明日に唯達をどう誤魔化すか、
その策をお前に話しておかないといけない」

 律が呆けた顔をしていたからだろう。
論題の共有に必要な情報を加えたいらしく、澪が口を開きかけた。
澪は第一声を放つ前に、長い指で短くなった髪の毛に触れる。
──”短くなった髪の毛に”──

「あっ、ああ、そうだ」

 その動作で、律は気付いた。
言われるまでもない。記憶を呼び覚ます情報は、その部位を触る動作一つで十分だ。
245 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/17(水) 21:57:10.53 ID:Sw4RzHr9o
「髪を切った理由を、唯達が不自然に思わないよう、説明しないといけないんだよね?
上手く納得させないと、不自然過ぎるものね。
サングと同じくらいの髪の長さなんだから」

 この事は、元町・中華街駅から中華街の東門に至る道中で、律も一度指摘していた。
その時の澪は、対応策を用意した上でカットに及んだと言い、
肝心の策は後で話すと律に告げている。
逢瀬の始まりに投げた疑問の答えが、逢瀬の終わりになって漸く回答されるらしい。

「そう。お前も気にしていただろ?今まで忘れていたみたいだけどな」

 澪が茶化すように目を細めた。
決して責めてはいないようで、頬も緩んでいる。

「いや、忘れてた訳じゃないし。
頭から抜け落ちていたって言うか、飛んでたって言うか」

 それを忘れていたと言うのだと、律は我が発言ながら胸中で呆れた。

「ふふ、構わないさ。
それくらい夢中になってくれたのなら、甲斐があったよ。
誕生日に夢のような時間を過ごして貰えたのなら、
私も及第点まで後一歩って所だな」

 及第点どころか満点だと、律は澪を評点し直した。
『ようこそ。律がお姫様でいられる時間へ』
と、彼女は中華街の東門を潜るときに宣している。
言葉通りの時間をプレゼントしてくれた。

「夢のようだったけど、夢じゃないよ。
ほら、チャイナドレスだってちゃんとあるし。これと同じだよ。
本当にあった、時間だから」

 偽りのデートであっても、演じた恋人であっても、
澪が律の為に骨を折ってくれた事実に違いはない。
夢とは違い、覚めて消えていくものではない。
246 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/17(水) 21:58:17.94 ID:Sw4RzHr9o
「そうだな。律の柔らかい感触も甘い匂いも、ちゃんと実体として感じたよ。
見目のスタイルと併せて極限に満点の肉体だ。
私が保証する。自信を持って、彼氏にくれてやれ」

 自信を持って迫れば、受け入れてくれるだろうか。
抱いてくれるだろうか。いっそ、犯してくれるだろうか。

「私の身体にも澪から受けた感触が残ってるよ。
脚の付け根とか、まだ疼痛があったりするし。
あっ、でもちょっとだよ?歩いたりするの、そんなに支障ないもん。
さっきだって走れたし」

「目は?視力は回復したのか?眩暈も大丈夫か?」

「うん。そっちはもう平気。ちょっと違和感あるかな、って程度」

 症状を過大に伝えて、
『私の体を傷物にした責任取ってよ』とでも言った方が良かっただろうか。
いっそ、障害でも負っていれば、
澪に自分を否応なく引き取らせる事が出来て良かっただろうか。
半ば冗談で、律は思った。

「問題なさそうだな。見込んだ通り、無茶なプレイも可能らしい。
もっと開発したくなるよ、彼氏に譲るけどな。
さて律。大丈夫そうなら、降りる準備もしておけ。そろそろだ」

 澪の言う通り、観覧車の行程も終わりが近付いていた。
ゴンドラから客を降ろす係員の姿が見えている。

 行程を終えてゴンドラから降りる時にも、澪が手伝ってくれた。
係員の開けたドアを先に跨いだ澪が、律の手を引いてくれたのだ。
澪が見せる逐一の振る舞いには、エスコートという言葉が良く似合う。
247 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/17(水) 21:59:26.05 ID:Sw4RzHr9o
 乗る時とは逆側のドアが開けられたので、観覧車に並ぶ行列は円の向こうだ。
律達の乗っていたゴンドラは降車地点より先で待つ係員に渡り、
受け渡されたその係員は順番の来た客に乗車を案内していた。
当然だが、乗車地点を受け持つその係員は、律と澪の乗車を案内した者と同じだった。
彼の手によって、律達の乗っていたゴンドラに、新しい客が乗せられている。
どのような乗り心地を抱くだろうか。
──匂いが篭っていませんように。粘液が垂れて座席を汚していませんように。
と、律は祈るように念じた。

「ん、私達の乗ってたゴンドラ、
後に乗った人が違和感を抱かないか気になっちゃって」

 思案顔の律が気になったらしく、澪が顔を覗き込んできていた。
問われる前に本音を返してから、律は言葉を継ぐ。

「って、そんな事考えてる暇ないよね。
急がないと、唯達が後ろに乗ってたんだし。
あの執念深さには頭が下がるよね、あいつら危険な領域に達しているよ。
引いちゃう」

「いや?そうでもないだろう。
何が何でも面を割ろうという執念までは共有してないんじゃないか?
乗ってくれて助かったし、その事だって分かった」

 紬達を庇うような澪の論調を、律は釈然としない思いで聞いた。
執念があるからこそ、観覧車に乗ってまで追いかけて来ているのではないか。
律は口を尖らせて言う。

「何言ってるの。追っかけて来られる方が不味いじゃんかぁ」

「違うな。この辺りで待ち伏せされる方が遥かに危うかった。
実際、降車する場所に回り込まれていたら、詰みを回避できたか怪しいな」
248 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/17(水) 22:00:36.63 ID:Sw4RzHr9o
 建物内へと通じる扉を潜りながら、澪が言う。
律は息を呑んで振り返った。
降車してから歩く道は、甲板のように広く見通しのいい通路である。
乗車する前に並んでいた程の幅はないが、少人数が待ち合わせるのに不都合はない。
その一本道の先にチケット売り場を備えた屋外ホールがあり、
乗車サイドと降車サイドを三角州のように分岐させている。
同様、今進路を取っている建物内の階段と、並ぶ時に登った階段の二つの道を別っていた。
澪の言う通り、律達が観覧車に乗っている間に、
唯達に降車地点へと先回りされてしまうと逃げようがなくなる。
唯達が後続の観覧車に乗ってくれて助かったのだ。
澪が頻りと唯達が観覧車に乗るか否か気に掛けていた理由も、今なら分かる。

「危なかったんだね。この構造を唯達が知っていたら、アウトだったんだ。
まぁ、唯達の不知のお陰で命拾いしたけど、当然といえば当然かも。
ムギや梓だって、まさかコスモワールドの下調べまでしてなかっただろうし」

 コスモワールドに寄ったのは、窮余の果ての突発的な避難だった。
計画性のなさと性急さが却って幸いしたのだろう。
唯達に推測の暇も対策の余裕も与えずに、
チェックメイトの回避に図らずも成功していた。

「下調べはしていなかっただろうけど、それが理由じゃないだろうな。
並んでから調べる程度の余裕はあったし、
そもそもこの程度の簡易な構造、況して狭いエリアだと、
フィーリングで出口くらいは探し出せる。
実際、あいつらも頭の中にこの手は浮かんでいたと思うぞ」

 では、何故この手を使わなかったのか。
律達が乗車した後に列から抜けてしまえば、もうこちらは逃げようがなかった。

 律の表情に浮かんだ疑問を気取ったらしく、澪が続けて言う。

「ムギと梓かな。あいつらが、唯を観覧車に乗る方向へと誘導しくれたんだろうな。
さっきの横断歩道の時みたいにさ。
勿論、そもそも唯も待ち伏せを言い出さなかった、っていう可能性もあるけど。
始めの約束では、邪魔しないはずだったんだから」
249 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/17(水) 22:01:38.71 ID:Sw4RzHr9o
「いーや、唯は絶対に待ち伏せを主張してたよ。
あいつ、汽車道でだって約束破ってたもん。
横断歩道で捕まらなかったのだって、ムギと梓が押さえてくれたからだし。
執拗過ぎるもん」

 唯への不満を並べる律の脳裏には、唯に追いかけられていた時の事が蘇ってきている。
その記憶が、口から出たばかりの言葉と衝突した。

 赤信号で足止めされた横断歩道で捕まらなかったのは、
紬と梓が唯に追い付いて押さえてくれたから、で間違いはない。
だが、紬と梓が唯に追い付けなかったとしても、或いは唯に協力的だったとしても、
澪の正体を暴かれていたとは限らないのだ。
彼女には、追い付かれた場合のプランがあったのだから。

『この場でお前を犯してやるよ』

 澪の口から放たれた宣告が、彼女の声音を借りて記憶の奥底から蘇ってくる。
紬達が唯を止めていなかったのなら、澪は言葉通りに襲い掛かってきたかもしれない。
そうなっていたのなら、唯達はどうしていただろうか。
澪の読み通りであるならば、唯達は他人を装って追跡して来なくなるはずだ。
もし、唯達が他の行動を起こすとするならば、それは──

「そう言うなよ。唯の気持ちだって私は分かるぞ。
お前達、仲良かっただろ?
なのにさ、自分から彼氏の存在をバラしておいて、途端に唯を邪険にしだすものだから。
お前を親友だと思っていた唯にしてみれば、
男が出来た途端に友達への態度が露骨に変わった、
友情を裏切られた、と思っても無理はないよ」

 実際に、当の唯も似たような愚痴を梓に零していた気がする。
律は彼氏を作ってから態度が変わった、友情よりも恋愛なのか、と。
冗談めかした口調だったから、気にも留めていなかった。
だが、本心を戯けで糊塗していただけかもしれない。
今になって、そう気付く。
250 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/17(水) 22:02:34.39 ID:Sw4RzHr9o
「唯は今だって、友達だよ。ちょっと、頭来て、引くに引けなくなったというか」

「ああ、唯もそんな感じで、意地を張っちゃっているんだよ。
そんな唯を宥めているムギや梓だって、彼氏が出来たお前の事を心配していただろ?
ちゃんと律を大事に扱ってくれる男か気になってる、見せて安心させて欲しい、
あいつ等だって本心ではそう思ってるよ」

 ならば、危機に直面した自分を見捨てはしないだろう。
今の律の脳裏には、
犯される危機に瀕した自分を助けに来た唯や紬、梓の姿が映っている。
澪も、この可能性に付いては指摘していた。
それに対し律がどういう態度を取るのかという、宿題も添えて。

「私、親友の皆を騙しているんだよね」

 律は確認するように呟いた。
澪に相談を持ち掛けた時から、分かり切っていた事実である。
だが、今は重みが違っている。
否、異なっているのではない。重いものなのだと、今は自覚できるのだ。

 手に引力を感じた。直後、澪に引き寄せられていた。

「ああ。その事は忘れるな。取り敢えず今は逃げるけどな」

 低い声を律の耳元に囁いてから、澪は時計の表示を見せてきた。

「もう唯達がゴンドラを降りている頃合だ。追って来るぞ」

 澪は観覧車の周期から、唯達の降りる時間も割り出していたのだろう。
周期を観察する時間なら十分にあった上、一周に十五分を要すると澪自身も言っていた。
後は唯達の乗った時間さえ憶えていれば、簡単な計算である。
事実、澪は唯達の乗車を確認していたのだ。
251 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/17(水) 22:03:31.42 ID:Sw4RzHr9o
 距離に多少の有利があっても、律は目立つ服を着ている。
このまま唯達に気付かれず、逃げ切れるとは律も思っていない。
コスモワールドを出る前に捕捉され、また追跡を受ける羽目になるだろう。
そして──澪の言葉を借りるならば──
”未達だったノルマ”を達成する瞬間のお披露目へと至るのだ。

「ね、次の場所は決まっているんでしょう?
私も憶えているよ。何処にあるのか知らないだけ。
だから。私をホテルに連れてって?」

 澪は口では答えなかった。
代わりに、律の手を引く彼女の手に力が篭る。
それが、言葉よりも雄弁な回答だった。

*

252 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/17(水) 22:04:44.88 ID:Sw4RzHr9o
>>215-251
本日は以上になります。
また明日よろしくお願いします。
253 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/18(木) 20:55:20.18 ID:RC2/md2co
今晩は。
>>251の続きを投下します。
254 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/18(木) 20:56:15.13 ID:RC2/md2co

*

15章

 紬も唯と梓の後を追って駆け、コスモワールドから出た。
晩夏の夜とはいえ、蒸す気温の中で走れば汗は滲んで息も上がる。
体力的にも易しい訳ではないが、翻せばダイエットにはなるだろう。

 率先して先頭を走る唯は、ダイエットなどは頭を掠めてさえもいまい。
ただ、獲物を付け狙う野獣の如く、律とその彼氏を追っているだけだ。
観覧車を降りる直前から、唯は律達の向かう方向を凝視している。
先行して逃げていようとも、辿り得るルートは限定されているのだ。 
方向さえ分かれば、律達を見付ける事など造作もない。
律が目立つ服を着ているのだから、なおの事である。

 尤も、ゴンドラが頂点に達した辺りで、唯は酔っていたようだった。
その日の体調や乗り物の揺れ具合如何にもよるが、
唯は乗り物酔いしてしまう事があるらしい。
以前に、急発進したタクシーで車酔いした経験を、唯本人が話していた。
今日は疲労や緊張、そして慣れない乗物という要素が重なり、
乗り物酔いを催してしまったのだろう。

 律との約束を違えた唯を責め立てていた梓も、
酔った姿を前にしては気勢を削がれたようである。
詰責の文句を気遣う言葉に変えて、唯に投げ掛けていた。

 だが、大人しく酔ったまま終わる唯ではない。
律達のゴンドラが降車地点に近付くと、首を擡げて注視している。
顔は苦しげながらも、瞳だけは肉食獣の鋭さが宿っていた。
その肉食獣の瞳が、降りた律達の向かう先に沿って動く。
その執拗さを間近にしては、紬も律に同情してしまう。
とんだ相手に狙われているものだ、と。
唯は興味のある事ならば極限まで集中して追求する所がある、とは、
唯の幼馴染である和の弁だ。
その性格が今、律へと牙を剥いている。
255 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/18(木) 20:58:39.45 ID:RC2/md2co
 和の弁を裏付けるように、唯の執着する力には目を瞠るものがあった。
ゴンドラから降りた途端、唯は不調の身体をものともせずに走り出しているのだ。
同席していた紬をしても、乗り物酔いの直後の動きだとは思えなかった。
勿論、梓の説教を躱す為に、酔ったように装っていた可能性も否定はできない。
だが、紬の印象としては、乗り物酔いを演技だとは感じていなかった。
唯の浮かべていた蒼白な顔色が、疑う必要性を否定している。

 紬も唯とは浅からぬ付き合いだ。彼女の直情的な性格は熟知している。
演技の説を採るよりも、関心事への忘我故の復活だと考えた方が、
自分の知る唯と照らし合わせての納得ができた。
例えば車酔いの直後でも食事の話が出れば即座に復活し、
あろう事かローストビーフをリクエストしそうな貪欲さが、紬の知る唯にはある。
実際に今も、ローストビーフを前にしたような貪欲さで、律達を追っているのだ。

 今、律達は国際橋の上を走っていた。
紬達が来たルートを逆走するコースで、律達は逃げている。
遠目でも、律の黄色いチャイナドレスは目立っていた。
汽車道からコスモワールドへと至ったチェイスでも、紬は律の後姿を捉えている。
あの時は距離を詰めていたので、暗夜の中でも律の尻の形まで鮮明に見えていた。
肢体のラインを強調するチャイナドレスが、
律の小振りで形の良い臀部の曲線を綺麗に映えさせる。
走るリズムに合わせてスリットがはためき、裾が臀部を滑らかに撫で上げていた。
服のサイズが窮屈なのか、汗が貼り付かせたのか。
裾が二度ほど臀部の割れ目に食い込んで、律が手で引っ張る場面もあった。
そんな事まで憶えているくらい、そしてそんな仕草にまで見入ってしまうくらい、
見るものを引き付ける可愛らしく艶っぽい尻だった。

 だが今は律の後方にあっても、その可愛らしい臀部を堪能できる距離ではない。
例え時間帯が白昼だったとしても、同様に愛でられなかっただろう。
目に捉えるは、それが律のものだと色合いで分かる朧な後姿だけだ。

 紬が国際橋に差し掛かる頃には、律はもう渡り終える所に達している。
追い付ける訳もないが、先頭の唯は一向に諦める様子を見せていない。
だが、唯の息は上がっていた。
律は体力がなく格好も走りづらいもののはずだが、
追う側も困憊の為に詰める距離は遅々としたものになっている。
256 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/18(木) 20:59:53.05 ID:RC2/md2co
 先行する律に倣い、国際橋を通過した直後の横断歩道も渡った。
律はまだ走り続けているが、体力も限界なのか恋人に背を抱えられている。
律は勿論、唯も梓もそして紬も困憊する中、流石は彼氏と言うべきか、
サングだけは無尽の体力を披露していた。

 クイーンズタワーを過ぎた辺りで、何処まで走るのだろう、
と弱音に似た心持で紬は思った。
自分達がワールドポーターズまで辿った道を、今もなお律とサングは逆走し続けている。
律達は逃避の目的地を定めているのか、それとも、唯が諦めるまで走り続けるつもりなのか。
そして、唯は何処まで追いかける積もりなのだろう。
ダイエットで動機付けしても、紬の心身はともに音を上げつつある。

 いい加減、唯を諦めさせるべきだろう。
梓とて辛いのに違いはないのだ。きっと加勢してくれるはず。
そう信じて、紬は口を開く。

「ねぇ、唯ちゃん」

──もう止めにしない?

 そう続けかけた紬の目の前で、律とサングが方向を変えて減速していた。
その大きく落とした速度は、曲がる為でもなければ諦めた訳でもない。
高く聳えるタワーに入場する直前の、減速だ。

「ランドマークタワーッ」

 唯の叫ぶ声が、後ろを走る紬にも流れてきた。
言われるまでもなく、確と紬も目に収めている。
追い詰められて逃げ込んだのか、ここを目的として逃げてきたのか、
何れにせよ律とサングはランドマークタワーに入っていったのだ。

「急ぐよっ」

 唯が焦りを露に叫んで、走る速度を増した。
エレベーターに乗り込まれると、探し出すのは非常に難しくなる。
その前に追い付きたいのだろう。
257 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/18(木) 21:00:51.36 ID:RC2/md2co
「唯先輩っ。手出しは駄目ですよっ」

 梓も追い縋っていた。こうなっては、自分だけ怠ける訳にもいかないだろう。

「目指せマイナス三キロッ」

 自棄気味に叫んで、紬も続いた。

 流石の唯も入り口の付近では速度を落としていたが、
それでも焦燥を抑えられないらしく早足だった。
タワー内に入った後も、忙しく首を動かしている。

「あっちか」

 瞬時に目的地を定めたらしく、
唯がランドマークタワー一階に広がるプラザを奥へと進んでゆく。
追走する紬にも、唯の目指す場所は分かった。
頭上の案内板にも示されている通り、エレベーターホールへと向かっているに違いない。

 間違っていない着眼点だと、紬も共感する所だ。
確かに、ランドマークタワーの人混みに紛れて唯達の目を晦ました後で、
別の出口から逃げるという策も捨て切れるものではない。
だが、律の体力から考えるに、これ以上走れるものか疑わしかった。
ランドマークタワーに潜んで唯達を撒く案の方が、現実的かつ効果的に思えてならない。
その場合、エレベーターで階を跨いでしまうのが、最も見つかり難くなる。

 但しそれは、唯達が見つかる前に階を移動できた場合だ。
尚且つ、こちらに行き先を推理する材料が何もない場合だ。
紬の脳裏に、いつかの律の自慢げな顔が浮かび上がってくる。
唯も、あの日の事を憶えていたのならば──

「居たっ」

 唯が前方のエレベーターホールへと指を向けながら、甲高い声を放つ。
連れて目を向けた紬も、扉が閉まっていくエレベーターの向こうに律の姿を捉えた。
これだけ距離を隔てていても、
律の纏う煩いほど鮮明に主張する黄色だけは見落としようがない。
258 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/18(木) 21:02:06.99 ID:RC2/md2co
 律とサングが上階へと向かっても、唯に追跡を切り上げる気はないらしい。
歩調を緩める事無く、律達の消えたエレベーターホールへと向かっていった。
まるでまだ、そこに標的が居ると認識しているように、迷いのない足取りで。

 紬は梓を見た。梓も紬を見返してきた。
視線の交錯は一瞬で終わり、次の瞬間には二人揃って早足で唯を追っている。
単に、同意を求め合っただけだ。唯を放置して引き返す気など、自分達にもない。

「唯ちゃん」

 エレベーターの前で到着を待つ唯に追い付いて、紬は彼女の名を呼び掛けた。
唯の視線が向くのを待って、紬は続ける。

「もう、いいでしょ?お手上げでしょ?」

 唯は首を緩やかに振った。

「まだだよ。私は最後まで手を抜かない。
私達の仲はそんな軽くないし、りっちゃんにだって軽く思って欲しくない。
でも、それでも私を振り切れたのなら」

 唯の首が、再び左右に振れる。

「んーん、嘘でも祝福するなんてまだ言いたくないね。本音だから尚更。
それに私、まだ手は上げない。手詰まりじゃない。
向かった場所なら、分かるから」

「分かるんですか?」

 問い掛ける声は梓のものだ。梓とて、本当に分かっていない訳ではないのだろう。
”そこ”まで踏み込むのか、という確認の問いに違いない。

「分かるでしょ?
りっちゃんが乗ったこのエレベーターが停止する階層の中で、
一番行きそうな所と言えば?」
259 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/18(木) 21:03:08.03 ID:RC2/md2co
 エレベーターホールには、階毎の施設が刻まれたボードが掲げられている。
律の乗ったエレベーターは高層階に接続しているものの一つだが、
展望台には向かっていない。
そこに向かうには、別のエリアから専用の直通エレベーターを使う必要がある為だ。
ならば、オフィスフロアの多い高層階の群の中、
律が用のありそうな場所と言えばどこなのだろうか。
答えは一つしかない。

「ホテル」

 梓が観念したように呟いた。
同時に、近くでエレベーターが開く。
紬達は一斉に反応したが、律達の向かった階層とは異なる低層階に停止するものだった。
だが、向かう階層ごとに幾つもエレベーター乗り場を連ねたこのエリアでは、
唯の待ち望むエレベーターもすぐに着くだろう。

「その通り」

 自信有り気に唯が頷いた。
高層階、五十階を過ぎた辺りから展望台の直下の階辺りまで、
ホテルが占拠している階層だ。
そして律の乗ったエレベーターが向かう階層の中で、
唯一彼女に用のありそうなテナントだ。

「という訳で、五十二階に行くよ。
そこにフロントがある以上、必ずそこに一度は寄る。
まだ、フロントに居てくれるといいんだけどね」

 紬としてはチェックインを済ませて入室しているよう、祈るばかりだ。
律の逢瀬が気になるとはいえ、ホテルにまで踏み込むのは気が引ける。
かと言って、違背に躊躇いのない唯を放って帰る訳にもいかないのだ。

「もうチェックインしているんじゃないですか?」

 紬の願望を、梓が口に出してくれた。
唯とてその懸念を抱いているに違いないが、引き返させる一撃とはなり得ないだろう。
260 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/18(木) 21:04:28.98 ID:RC2/md2co
「かもね。でも、フロントが別の客の応対とかでつっかえてるかも。
それでなくても、りっちゃんたら、すっかり安心して急ぐ発想もなくなってるだろうし。
ま、ダメ元で行ってみる価値はあるよ」

 行った結果間に合わなかったとしても、僅かばかりの時間を失うに過ぎない。
そして僅かの時間さえ惜しむなら、そもそも他人のデートなど見に来ていない。
行かずに見逃す考えなど、今の唯が採るはずもなかった。

「律先輩がエレベーターに乗り込む瞬間を見れたみたいに、
また偶然、間に合う事を期待しているんですか?」

 尚も抗する梓とて、悪足掻きでしかないとは自覚しているに違いない。
それでも半畳を入れずに居られないのだろう。

「ま、確かにさ。エレベーターに乗り込むりっちゃんを見れたのは、偶然だったよ。
でも、別に乗り込むエレベーターが分からなかったとしても、
りっちゃんの向かう先は分かってた」

 応える唯の後ろで、エレベーターの到着を知らせるランプが灯った。
開いた扉から、人が吐き出されてゆく。

「それにしては、建物に入ってからも大急ぎでしたよね、唯先輩」

「のんびりしていると、間に合うものも間に合わなくなるからね。
チェックインされて、入室されたらお手上げだよ」

 人の捌けたエレベーターに乗り込みながら、唯が続けて言う。

「あずにゃんだって、分かってたんじゃない?
りっちゃんの体調を管理した手帳、忘れるはずないんだし。
だぁって、あんなに目立っちゃってるんだもん。
あのケバいハートマーク、忘れようがないよ。危険日、りぃーっ、だってさ」

 律の声音を唯が真似た。
それを聞く紬の脳裏にも、あの日の律の得意気な顔が蘇っている。
やはり唯も憶えていたのだ。
261 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/18(木) 21:05:23.13 ID:RC2/md2co
 エレベーターパネルの前に立った梓は、
人が乗り込み終わるまで『開』のボタンを押していた。
それも途切れた今、梓の人差し指がボタンから離れ、
呼応して扉がゆっくりと閉じてゆく。

「人前で、止めてくださいよ。
大体、ここにホテルがあるかなんて、唯先輩知ってたんですか?」

 上昇を始めたエレベーターの中、梓は周りの耳目を憚ってか小声で唯に言った。

「ほら、ムギちゃんが教えてくれたでしょ?ホテルがあるって。ねぇ」

 唯の声と視線が紬に向く。

「憶えていてくれてとっても嬉しいわぁ、忘れてくれても全然いい説明だったのに。
でも私、二つあるって言わなかったかしら。真ん中くらいの階層と、高層階にって。
さっきのインフォメーションボードにも、ホテルは二つ記されていたはずよ」

 応じる紬は言葉と語勢で、梓への加勢の意を示した。
唯は律が乗り込んだエレベーターを見て、ホテルを特定したに過ぎない。
そう、言外に込めてやった。
今更、唯を遣り込めても意味はないが、梓に与さずには居られない。

「分かるよ。高い方だって」

 唯が両の掌を上に向けながら微笑んだ。
その脇を人が通り過ぎ、オフィスフロアへと降りてゆく。
エレベーターは通過する階層を通り過ぎ、停止する階層へと到達しているらしい。
エレベーターは待っている時よりも、動いている時の方が早く感じる。
そして実際に、待ち時間よりも遥かに短い時間で、目標へと到達してしまう。

 紬と梓が訝る視線を唯に向けて黙する短い間にも、
次の停止階、その次の停止階と、人の受け渡しを行っていった。
262 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/18(木) 21:06:47.21 ID:RC2/md2co
「乗り込む律先輩を見た後だから言えるんですよ。
高層階の方だって、乗り込む律先輩を見ずとも本当に分かったんですか?」

 沈黙に堪りかねたように、梓が口を尖らせた。
その問いを待っていたとばかりに、唯が胸を張って言う。

「分かるよ。だって、私ちゃんと言ってたよね?
りっちゃんてば、高い所が好きそうだって」

 唯には勝てない。紬は改めて痛感した。
梓も同じ思いらしく、二の句も告げずに目を見開くばかりだ。

「勿論、私達もね」

 唯が勝ち誇った顔で宣した直後、紬は体に重力を感じた。
床に足が吸い付けられるようなこの感覚は、
利用者の乗降でエレベーターが停まる度に何度も味わっている。
だが、今までのように乗降する者を、見送り迎える停止ではない。
自分達が、その”乗降する者”に列する停止だった。
唯の前方で、扉が重々しく動く。唯が、歩き出す。
目的地である五十二階、フロントに着いたのだ。

「一人で行かないでください、唯先輩」

 唯に並ぶ形で、梓も飛び出した。紬も遅れまいと二人に続く。

 唯は間違いなく、フロントへと直行するだろう。
その前に、律とサングがチェックインを終えて、部屋に入っていればいいが。
そう思考しながら、フロアに出て数歩進んだ時。
甘酸っぱい強烈な匂いが、鼻腔の奥を鮮烈に刺す。唯の足も、急に止まる。
直後には、驚愕に満ちた顔を、三者揃って後ろへと振り向けていた。

 紬達の乗ってきたエレベーターに、カードキーを手にした律が乗り込んでいた。
拗ねたような顔を見せているが、
本人としては違約への怒りを表した貌のつもりなのだろう。
一方で、傍らにサングの姿は見えない。
唯が彼氏の情報を欲していたのなら、その試みは失敗に終わったと言える。
唯が、負けたのだ。律が、勝ったのだ。
263 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/18(木) 21:08:27.29 ID:RC2/md2co
 閉まってゆく扉の向こうで、律が赤い舌を唇から覗かせた。
唯の息を呑む音が、紬の耳にも届く。
沸騰したような激しい動作で、唯が身を反転させた。
そして、一歩目を踏み出しかけた動作のまま、唯は固まる。
直後、唯の目だけが動いて、梓を睨み殺さんばかりに見下ろしていた。
対する梓は手刀を唯の首元に宛がったまま、睥睨に怯む事なく見返している。

 エレベーターの扉が閉まりきるまで、二人の少女は互いに一歩も退かなかった。
鬼気迫る対峙を前にしては、紬は息を詰めて見守る事しかできない。
如何に自分が”お嬢様”なのか、痛感させられる。
この二人の迫力も律の危うい色気も、自分には出せない。
エレベーターが閉まった後も、自分からは何も言い出せなかった。

 律を乗せたエレベーターが上階に向かってしまうと、唯も梓から視線を外した。
代わって唯の双眸は、扉の直上の壁に設えられた階数表示パネルへと向けられる。
階数の刻まれた表示板が光る事で、
エレベーターが何階に到達しているか一目で分かるものだ。

「ゲームオーバーですよ、唯先輩」

 唯の未練を断ち切るように、梓が凛とした声で宣言した。
唯の瞳が、再び梓を見下ろす。
だが、先ほどと違い、人を射殺さんとする凶暴な視線ではなかった。

「これ以上、足掻かないでください。もう、終わりなんです。
帰りますよ」

 唯の首元から手を退けて、梓が付け足した。

「分かってるよ。これ以上の追跡は、暴力でしかない。
ていうか、私がかっこ悪いだけだよね。完敗っと」

 首を竦めた唯が、エレベーター脇に設えられた矢印のボタンを押した。
言葉に違わず、下を向いた矢印のボタンだった。
264 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/18(木) 21:09:24.90 ID:RC2/md2co
「チェックインを終えたりっちゃんと、偶然、擦れ違ったのね」

 雰囲気の軟化を確認してから、紬は二人に話し掛けた。
下へ向かうエレベーターが来るまで、律に出し抜かれた話題で時間を潰す積もりでいる。
それだけの余裕が、戻ってきていた。

「ええ、降りる人を遣り過ごそうと、脇で待っていたんでしょうね。
まさかその降りる人間に、私達が混じっているとは思わなかったでしょうけど」

「気付かず通り過ぎちゃったけどさ。全然、惜しくもなかったよね。
だって、サング君、居なかったんだし。
偶然を装って近付くなんて事、できなくなってた」

 唯が天を仰ぎながら言う。
その声色に、自嘲の色が滲んでいる。
律に気付いていれば間に合っていたような話ではない。
唯の狙いの真意が、律の彼氏のより詳しい情報を入手する事だけなのか、
或いは逢瀬そのものへの介入になっているのかは不明である。
だが何れにせよ、律一人の場面を抑えて成就するものではない。

「律先輩の彼氏が一緒に居ても、唯先輩は近づけなかったですよ。
私が絶対に、近付かせませんから」

 梓が鼻息を荒げて言う。
先ほど実際に暴走しかけた唯を阻止しており、口先だけではない事を証している。

「間違いないね。あずにゃんの事、見直しちゃった。
守るべきラインを死守するだけの腰は定まってるし、胆力もあるね。
可愛い後輩の骨のある所を見られただけでも、収穫かな」

 対する唯は満足そうだった。
当の唯も、自身の行動が暴走気味であるとの自覚はあるのだろう。
殊に、律の乗るエレベーターに闖入しようとした事は、過ぎた行いだった。
そこから追跡しようとしても、手段は手荒にならざるを得ない。
結果、律とサングの逢瀬を台無しにしてしまう可能性もあった。
そうならずに済んだのは、梓のお蔭でもある。
265 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/18(木) 21:10:10.04 ID:RC2/md2co
「どうしたんですか、急に。
そんな事より、律先輩の彼氏は何処に行ったんでしょうね。
やっぱり先に部屋で待っているんですかね?」

 真っ向から褒めちぎられて照れたのか、梓が話題をサングの行方へと転じていた。

「きっとそうだよ。フロントで私達と鉢合わせないよう、先に行かせたんだよ。
りっちゃんたら、本当に用心深いんだから。
何もそこまでして私達を避けなくてもいいのにー」

 唯の口が拗ねたように尖る。
ゲームオーバーを認めても、律の態度に納得まではしていないのだろう。

「何もここまでして追いかけて来なくていいのに、って律先輩も思ってるはずですよ。
無理に探ろうとするから警戒されるんじゃないですか?
北風と太陽ですよ。そのうち私達にも、自慢話と一緒に彼氏の事を聞かせてくれますって」

 梓の言葉に、紬も続く。

「りっちゃん、恥ずかしがりやさんなのよ。
まだ彼氏を見せるのに照れちゃうから、先に行かせておいたに違いないわ。
もう少し、待ちましょう?きっとりっちゃん、心を開いてくれるはずだから」

「うん、ここまでして逃げられた以上、待つしかないよね。
少なくとも、サング君がりっちゃんに惚れているって事だけは、分かったんだし。
それを見せたり見たりするのが、今日の本来の趣旨だった訳だしさ。
ま、我侭なお姫様と、それに付き合う素敵な王子様のデートでしたって事でいっか」

 唯の語調は、自分へと無理矢理に言い聞かせているようだった。
だが、サングが律に惚れているという内容自体は本心だろう。
我侭なお姫様とそれに付き合う素敵な王子様という喩えも、紬の共感する所だ。
266 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/18(木) 21:11:12.50 ID:RC2/md2co
 律は今日一日、サングを振り回している。
それは勿論、自分達の所為でもあるのだが、サングには与り知らぬ所だ。
律はサングを自分達から遠ざける為、この逢瀬で多くの注文を付けたに違いない。
観覧車のあるコスモワールドにもサングの手を引き走り、半ば強引に連れ込んでいた。
観覧車の後にホテルまで駆けたのも、唯達から逃げたいとする律の都合である。
サングに唯達を避ける理由などあろうはずもないのだから。
律がサングにどう説明したにせよ、
面倒且つ骨の折れる作業をサングは厭わずに受けているのだ。
掛けた手間の数々が、律をそれだけ愛している証左に他ならない。

「ええ、観覧車の待ち時間に律先輩を担ぎ上げた時はサドい事してるな、
って思いましたけど。
律先輩も股で彼の顔を挟み込んだりと、乗ってましたから。
お似合いのカップルかもですね」

「あの時のりっちゃん、大胆だったよねー。
ここで一発始める積もりなのかなって、目を疑っちゃったよ」

 唯が笑い声を響かせると同時に、エレベーターが到着した。
乗り込んだ唯が一階を押下して、扉を閉める。
下に到着するまでの短い時間、紬達は黙って過ごした。
話に性的な色が混ざりつつある。
狭い個室内に密集する耳目の中では憚られる話題の上、
どうせ待ち時間とは比べ物にもならない僅かばかりの時間で一階に着いてしまう。
無理に続けるほど重要な話題でもない。また、急いでもいなかった。

 それでも唯にとっては、言及を続けたい話題らしい。
エレベーターが一階に着いて個室から解放されると同時に、口を開いていた。

「大胆って言えばさ。
りっちゃん、彼氏を伴わないで一人エレベーターに乗り込んでたよね。
あんなエッチな格好で、無防備だよね。
他のお客さんだって乗るのにー」
267 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/18(木) 21:12:04.31 ID:RC2/md2co
「流石にこんな所で、危ない目に遭ったりはしないんじゃ。
カメラとかだってあるでしょうし。
ホテル内の移動で危険なら、外じゃ一人でトイレにも行けませんよ」

「そこはあずにゃんの言う通りなんだけどさぁ。
りっちゃんって格好だけじゃなくって、匂いもエロかったでしょ?
擦れ違うだけでも、こっちまで濡れてきそうなレベルで、
パンチの効いた匂いが鼻を衝いたし」

 唯は含み笑いを浮かべてから、続けて言う。

「エレベーターみたいな狭い個室の中じゃ、りっちゃんの匂いが篭っちゃうよ。
他の乗客は大変だったろうねー」

 紬も自身の嗅覚を以って体感している。
エレベーターを降りてすぐ律と擦れ違ったあの時の事だ。
紬の鼻は間違いなく、甘酸っぱく淫らな香りを捉えている。
嗅覚に留まらず、味覚さえもが酸味を感じ取って、
口中に多量の唾液が分泌される程だった。
その鮮烈なる酸味とともに、心を蕩けさせて溶かし込むような甘味も感じている。
蜂蜜を想起させる柔らかい甘さだった。
僅かに、シナモンのような爽やかな甘い香りも混じっていたように思う。

「もうっ。唯先輩はまたそんな話ばっかりして」

 梓は呆れたように言うが、
彼女の鼻も唯や紬同様に律の香りを感じ取っていたに違いなかった。

「そんな事言ってぇ。あずにゃんだって、エッチだなって思ったでしょ?
まぁ私達はそんなんで済むけど、エレベーター内じゃそうもいかないよ。
エレベーターボックスの中に充満しちゃって、咽せ返っちゃった人も居たんじゃない?」

 密閉された狭い空間内では、匂いは分散せずに高濃度で留まり続ける。
決して不快な香りではなく、どころか芳醇で病み付きになる香りなのだが、
如何せん嗅覚の受容器にとっては刺激が強過ぎるのだ。
唯の言う通り、咽る者が居ても不思議ではない。
268 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/18(木) 21:12:59.46 ID:RC2/md2co
 紬はそこまで思考を及ぼしてから、ふと気付く。

「そういえば、りっちゃんの彼氏さん、
コスモワールドでは一緒のゴンドラに乗ったのよね。
エレベーターなんかより体積の少なそうな空間内で、十五分間もの長時間。
ゴンドラ内、凄かったんじゃないかしら」

 エレベーターに同乗する時間は僅かなものだが、ゴンドラは違う。
一周するまでの十五分間、狭い密室で超高濃度の匂いと接し続ける事になるのだ。

「あはっ、きっつ。匂いが染み付いちゃうじゃん。
サング君だけじゃなくって、後に乗るお客さんも、掃除する係員も大変だ。
しかも密閉だけじゃなくって、密着もさぞ凄まじかったと思うよ」

 言いながら、唯が身を乗り出してくる。

「サング君ったら、りっちゃんを持ち上げた時、顔のすぐ真横に股があったからね。
もうさ、凄まじい匂いが怒涛の如く間近の鼻に押し寄せたんじゃない?」

「その後で、顔面を股に挟み込まれて、生殖器を押し付けられてましたからね。
ゼロ距離であんな匂いを喰らって耐えられるなんて、肉体も精神も強靭に過ぎます」

 梓が後を引き取って言い足した。

「匂いだけじゃないわ。あの見せ付けるみたいに盛り上がった恥丘の感触だって、
きっと柔らかくて滾らせただろうし」

 紬も続いて言った。
歩きながらの雑談では、周囲の耳も然程は気にせずに済む。

「っていうか、やっぱりあの強烈に芳しい匂いって、
律先輩のあの部分から出てるんですかね。
私もその前提で、つい話しちゃいましたけど」

 梓は今更のように”あの部分”などと暈しているが、
つい今しがた同じ口から”生殖器”と発したばかりだ。
269 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/18(木) 21:14:04.00 ID:RC2/md2co
「じゃない?チャイナドレスって、下着を着けないのが本来なんでしょ?
だからさ、いつもはショーツで蓋してるけど、今日はダイレクトで匂っちゃったんだろうね」

「蓋だなんて。いくら律先輩でも、常時ああいう訳では。
合宿とかで一緒にお風呂入っても、あそこまで強烈な匂いはしませんでしたよ。
まぁ、その興奮かなんかで、今日は濡れちゃってたっていうか」

 言葉足らずな唯に梓が補足を試みるが、
直截な表現が憚られた故か言葉尻は萎んでいった。

「ああ、勿論興奮して、
愛液かなんかの匂いの成分が分泌された、って事だよ。
いくらりっちゃんでも、あんな発情真っ盛りな匂いを常時放っていないだろうからね。
合宿の時は寧ろ、りっちゃんより澪ちゃんやあずにゃんの方が、ねぇ」

「なっ、唯先輩には言われたくありません。
憂が家事を率先してやるのだって、
唯先輩とは下着やタイツの洗濯を別けたいからですよ、きっと」

 含み笑う唯に、梓が噛み付いた。
確かに合宿で一緒に入浴した時は、澪や梓、そして唯の方がより峻烈な匂いを放っている。
それも、律のものとは違い、生物にとってあまりにも過酷なものだ。
一緒の湯船に入るのも躊躇われ、
その後も紬は当該の宿泊施設の風呂に入ろうとは思えないでいる。

 同時に、コンプレックスも覚えていた。
あれが即ち、雌としての濃度でもあるのだろう。
潔癖の如く忌んだ自分の方が、雌として成熟できていないように思えてくる。

「えーっ。そんな事しないよー。憂だって人の事言えないくらいだし。
まぁ、熟成に要した年月と、タイツという蒸れる環境下で、
確かに私の方が多少は」

「二人とも、何て話で競っているの。その話は場を改めて詳しく聞かせてもらうわ。
その前にほら、出口よ。この後の予定だけでも、先に決めるのはどうかしら?」

 紬は唯を遮って言った。場所柄、看過できないほど話が生々しくなってきている。
丁度、駆け込んできた入口へと戻ってきていた。
誰が言い出すともなく、来た道を漫然と辿っていたのだ。
270 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/18(木) 21:15:02.17 ID:RC2/md2co
「場を改めて、聞きたいんでしょ?
いいよ、今夜。話してあげる。即帰るようなテンションでもないし。
あずにゃんはどうする?いや聞いてるんじゃなくって、誘ってるんだけどね」

「私だって勿論付き合いますよ。
ムギ先輩一人じゃ、唯先輩の話相手は大変でしょうし。
あ、ムギ先輩も付き合うんですよね?」

「ええ。でも、あまり過激な話だと、私が足を引っ張っちゃうかも」

 予定を訊いた紬が下りる訳にもいかない。
そもそもが、真っ直ぐ帰るつもりなら、二人に予定を決めようなどと投げ掛けていない。

 ランドマークタワーの外には、
通行人の邪魔にならないよう会話を出来る場所が幾らでもあった。
そのうちの一つ、花壇の脇に紬達は一旦身を寄せる。

「で、何処の店に行きます?」

 落ち着く間もなく、気の早い梓が移動を急かして来た。
それでも不都合はない。紬にせよ、元よりこの場に長居する積もりなどなかった。

「あー、適当な居酒屋、って冗談だよあずにゃん、睨まないで。
そうだねぇ、やっぱファミレスとか、洒落ても喫茶店とかになるのかなぁ。
ムギちゃんは何か考えある?」

 唯が紬を見た。梓も、唯に倣って紬へと視線を送ってきている。
この三人の中で最も地理に通じた人間に期待したいと、二人の視線が語っていた。

 紬は回答の用意があるものの、自分の考えという訳でもない。
寧ろ、問うた側の考えであったはずだ。

「あら?私に訊くの?変ねぇ、唯ちゃん、行きたい場所あったはずだけど」

 唯は思い当たらないらしく、眉根を寄せていた。
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