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【可愛そうにね、元気くん】「進まない」【SS】
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53 :
以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします
[saga]:2021/08/14(土) 03:08:12.71 ID:JzXNw/sm0
「――――」
真っすぐな視線と、言葉。
ただそれだけで、さっきまで荒かった呼吸が冗談のように凪いだ。急に酸素を絶たれた脳がキィィンと鳴っている。
そんな俺を見て満足そうにうなずくと、鷺沢は鼻歌まじりでバスルームに入って行った。
……俺が呼吸の仕方を思い出したのは、シャワー室から水音が聞こえ始めてからだった。
「…………」
鷺沢と、ラブホ。
その現実を、感じちゃいけない胸の高まりを、ゆっくりと噛み締める。
そりゃあ俺の最大の理解者はいつまで経っても鷺沢で、鷺沢も……たぶん、俺の事をそれなりに好いているみたい、だけれど。
「俺は……」
54 :
以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします
[saga]:2021/08/14(土) 03:08:44.05 ID:JzXNw/sm0
俺は……八千緑さんが、一番に好きだ。ここで鷺沢に流されるのは、八千緑さんも過去の自分も鷺沢も、全部裏切る事になる。
けれど――今の鷺沢に、今の俺が求められているのもまた、事実だ。
鷺沢は俺が居なくても、理解者が居なくても上手く生きているのだろうと思ってた。けどそれが間違いだったら?
もしも……もしも俺があの日ピアスを捨ててしまった事で、鷺沢もまた、埋めようのない心の穴を抱えてしまったのだとすれば。
今、ここで鷺沢の行動に応えないのは――俺のワガママでしかないのだろうか?
55 :
以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします
[saga]:2021/08/14(土) 03:09:25.42 ID:JzXNw/sm0
……そんなことを延々と考え続けたまま、二十分かそこらの時間が経って。
シャワーから出てきた鷺沢は、『待て』と言われた瞬間の姿勢のままで固まっていた俺を目に留めると、嬉しそうに破顔した。
「……ふふ。ちゃんと待ってたんだ。偉いね」
――濡れぼそった髪。バスローブから覗く白い脚、胸元。メイクを落としてもなおこの上なく整っている、魔性の美貌。
それらがまっすぐに俺の方を向いて、俺を賞賛している――それだけで、天へ昇りながら底なし沼に落ちていくような、言い知れない情動の灯が胸の中で揺らめいた。
「っ、あ……!」
56 :
以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします
[saga]:2021/08/14(土) 03:09:56.45 ID:JzXNw/sm0
スリッパを履いた鷺沢が、ぱた、ぱたと俺に近づく。
舌舐めずりのような、既に賞味しているような、俺を咀嚼する目線。見えない歯が食らい付いたかのように心臓が痛む。
その痛みの出所は――弾けるほどに鼓動が跳ねる理由は――期待と、興奮だった。
自分でも誤魔化しようがないほどに、俺はもう、『その気』にさせられていた。
「っ、待――」
57 :
以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします
[saga]:2021/08/14(土) 03:10:47.02 ID:JzXNw/sm0
鷺沢がベッドに膝をつく。俺に向かってしなだれるようにかがみ込む。眩むような美貌が目と鼻の先にあった。垂れた髪は俺を食いちぎるかのように、顔の両側へと迫る。
漆黒の牙のように房になった髪は――そのまま、やさしく俺の頬をくすぐった。
「――っ、ぁ……」
さっきまで保とうとしていた理性がいとも容易く引き倒されるのを感じた。どんなに足元を踏ん張ったつもりでも、鷺沢の一挙一動は暴力的なほどに俺の心を惹きつける。
ぶるり、と全身を震わす俺の耳元で、鷺沢は熱い吐息を甘いナイフのカタチに変えた。
「かわいい……♡」
58 :
以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします
[saga]:2021/08/14(土) 03:11:16.16 ID:JzXNw/sm0
「〜〜〜〜っ……!!」
首筋を刃物が撫でるような危険なくすぐったさに、思わず身を竦ませる。
シーツを握りしめる俺の手を優しく上から覆うと、鷺沢は耳元でくすっと笑った。
「――お風呂、入ってきたら?」
59 :
以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします
[saga]:2021/08/14(土) 03:11:42.68 ID:JzXNw/sm0
******
「元気くん。こっちこっち」
足をぶらぶらさせる鷺沢が指差したのは、自分が腰掛けているベッドの上。鷺沢の隣、数センチの位置。
「…………」
シャワーで少し冷静さを取り戻していた俺はその場で足踏みをする。けれどその逡巡は意味のないものだと、半ば分かっていた。
「………………」
「……ふふ」
俺がベッドを軋ませると、鷺沢は洞穴の奥に吹く風のような声で笑った。
60 :
以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします
[saga]:2021/08/14(土) 03:12:40.60 ID:JzXNw/sm0
「……がちがち、だね♡」
「おいこら」
俺の挙動の話だ。……今はまだ。
「そんなに緊張しなくてもいいじゃん。そりゃ童貞の元気くんはこんなところ初めてかもしれないけど」
「いいいいや初めてじゃないしそもそもどどど童貞じゃないけど」
「なんで見え見えの嘘つくの?」
呆れたように鼻で笑われる。しょうがないなあ、とでも言うように眉尻を下げて。
鷺沢に隠し事はできない。全部理解されている。俺はただ性癖がこじれているだけで、底の浅い単純な人間だ。
61 :
以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします
[saga]:2021/08/14(土) 03:13:19.44 ID:JzXNw/sm0
けれど、そんな俺を見つめるとき。
鷺沢はだいたいいつも、笑顔でいてくれるのだ。
62 :
以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします
[saga]:2021/08/14(土) 03:14:05.78 ID:JzXNw/sm0
「…………ね」
不意に、鷺沢が俺のあごに手を添えた。
「…………ん」
俺は鷺沢を見た。
細められた目と、紅潮した頬と、振り上げられた手を見た。
63 :
以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします
[saga]:2021/08/14(土) 03:15:08.06 ID:JzXNw/sm0
俺が何か言うより早く、鷺沢が手を振り下ろした。
64 :
以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします
[saga]:2021/08/14(土) 03:15:57.51 ID:JzXNw/sm0
――ばちん!
「いっ……!!」
手のひらが爆ぜる音。頬へのフルスイング。首、頭、最後に頬と、痛みが循環する。
ぐらぐらと揺れる脳は、突沸したように心地よく膨れる。
「……あははっ!」
鷺沢が俺に跳びかかる。馬乗り。ベッドがぼよん、と波打つ。目を開けるより前に、二発目が来る。
65 :
以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします
[saga]:2021/08/14(土) 03:17:23.26 ID:JzXNw/sm0
「うぁっ」
情けない声を上げる。けれど彼女はそんな俺に失望しない。俺の弱いところを飲み干して、より激しく、より熱く、俺に痛みを注いでくれる。
「は――あはっ、ふふっ、あははっ!!」
「あっ、がっ、痛、っ――」
平手の雨。あの頃より強く、容赦ない顔への殴打。
俺の上に乗って、俺を押さえつけて、俺を支配してくれる、彼女の声が降り注ぐ。
66 :
以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします
[saga]:2021/08/14(土) 03:18:04.64 ID:JzXNw/sm0
「元気くん」
「ぎゃっ――い、い"っ、あ、がっ――!」
首への圧迫。
「元気くん♡」
「っ……! ぁ、ぎ……ぁ! っ! っっ!!」
殴打。殴打殴打絞首殴打殴打殴打殴打。
「元気くんっ♡♡♡」
「っ――ひ――ぁ、ぃ……ぁ……っ!!」
67 :
以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします
[saga]:2021/08/14(土) 03:19:01.60 ID:JzXNw/sm0
苦痛が綿菓子のように視界を覆う。痛みと快楽に喉が詰まって、意識を失うかと思ったその直前――鷺沢が俺の首から手を離した。
「かはっ!! えほっ、げっほ、げほっ……!!」
体を横にねじって咳き込む。鼻と口から血を吐いた。鼻腔が粘ついて、何もかも吐き出したい気分だった。
真紅の歪な水玉がぼたぼたとベッドに落ちる。それは俺たちの欲望の形をしていた。
「は、あはっ……ふふっ、元気くん……♡」
夏場の飴のようにどろどろに溶け切った声。その中を泳ぐように艶やかな所作で、鷺沢は俺の下半身をまさぐった。
「っ……!」
68 :
以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします
[saga]:2021/08/14(土) 03:19:58.37 ID:JzXNw/sm0
『ソレ』も――全部、バレている。
顔を背けようとする俺の髪をつかんで引き寄せながら、鷺沢は、再び怪しいフレーズを――正しく、淫猥な意味で――口にした。
「がちがち、だね……♡」
69 :
以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします
[saga]:2021/08/14(土) 03:20:31.32 ID:JzXNw/sm0
何もかも溶けていくような、熱い吐息が遠く聞こえる。その息を発した内臓は、どれだけ煮えたぎっているというのだろう。
鷺沢はゆっくりとバスローブをはだけながら、下半身を擦り付けるようにぐらぐらと揺らす。
柔らかい。熱い。痛い。気持ちいい。今にも逝ってしまいそうな甘い雰囲気が、俺をゆすって、溶かして、押しつぶしていく。
「――……待っ……て、鷺沢、さん」
心の奥底までやさしく握りつぶされた俺は、情けなく縋り付くように手を伸ばす。
手のひらを前に向けて、鷺沢の肩を押す。
70 :
以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします
[saga]:2021/08/14(土) 03:21:28.59 ID:JzXNw/sm0
鷺沢を……拒むために。
「……それは……しない。……ごめん」
71 :
以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします
[saga]:2021/08/14(土) 03:22:03.25 ID:JzXNw/sm0
「……は?」
72 :
以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします
[saga]:2021/08/14(土) 03:22:46.77 ID:JzXNw/sm0
「……ごめん」
谷間とヘソを――白磁のように艶やかな曲線美を――惜しげもなく晒す鷺沢は、俺の目をくり抜かんばかりの鉄の視線で俺を刺す。恐い……とかそれ以前に、ここまで来ていおいて申し訳ない、とは思う。
でも……その目線に折れてはいけない時が、ある。
「嫌だって、わけじゃなくて、でも……コレは……やっちゃいけない、と思う」
血の味が染み出す口で、可能な限りはっきりと拒絶する。越えてはいけない一線。いくら鷺沢に流されそうになっても、『これ』だけはしてはならないと、シャワーを浴びている間に心の中で決めていた。
73 :
以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします
[saga]:2021/08/14(土) 03:23:41.90 ID:JzXNw/sm0
……俺が確固たる意志を持って鷺沢を跳ね除ける時、一体何が俺の土台にあるのか、鷺沢はよくわかっていた。
「…………八千緑さん?」
無言で顔を背ける。鷺沢は呆れ切って、やけっぱちみたいな口調で俺を詰った。
「……はぁ。あの子、もう結婚してるんでしょ。操でも立ててるつもり? 今時誰も喜ばないよ、そんなの」
「わかってるよ」
ここで『八千緑さんに誠実であること』が、同時に『鷺沢に対して不誠実であること』になっている。それくらい、いくら馬鹿な俺でもわかる。
でも……これ以上は出来ない。こうすることで鷺沢が、もしかしたら……多少ショックを受けるのだとしても。
「……わかってるよ。でも、俺は……たぶん……こういう風に幸せになっちゃいけない、んだと、思う」
74 :
以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします
[saga]:2021/08/14(土) 03:24:17.54 ID:JzXNw/sm0
俺の性癖は――俺の生き方は、鷺沢以外の誰にも理解されない。今更普通になろうとしても無理だ。それは高校生の時にいやというほど思い知らされた。
だからこそ、自分で決めたことだけは曲げたくない。
だって俺は結局、漫画を描いているから。
漫画を描く俺でいいって、気持ち悪くて理解されない俺でいいって、あの日彼女が言ってくれたから。間違った形だったとしても、無残に砕け散ったのだとしても、彼女と過ごした日々だけが俺の中でいつまでも輝いて、後ろめたくも俺を照らしてくれるから。
75 :
以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします
[saga]:2021/08/14(土) 03:25:01.47 ID:JzXNw/sm0
だから、普通の幸せなんて掴まなくてもいいんだ。
高校であんなことになった後でも、俺はいまだに暴力を受ける女の子が好きだ。それは変えようのない性癖だ。
そして、それと同じくらい――八千緑さんへの思いは、強く俺の中に根付いているのだ。
彼女がくれた言葉や、耐え難かった痛み。当時の感情が薄れて行くのだとしても、『そういうことがあった』という記憶だけは失くしたくない。
無かったことには、したくない。
愚かでも、幸せになれなくても、一人で生きると決めたあの時の俺に出来るだけ殉じたい。
76 :
以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします
[saga]:2021/08/14(土) 03:26:22.71 ID:JzXNw/sm0
「……誘ってくれて、楽しかったし、うれしかったよ。でも俺は……一人で埋められるし、そうしたいから」
「……幸せが目の前にあるんだよ。手を伸ばさなくていいの?」
「うん。いい」
なんというか、幸せって――手を伸ばした先につかみ取る、みたいな熱いものじゃなくて。
一つの方向に歩き続けていたら、その途中で落っこちているのに気づいて拾う……みたいな、簡素なものなんだろう、きっと。そうであってほしいなと思う。
「…………そ」
鷺沢は、何を思ったのかまでは分からなかったけれど。
つまらなさそうにそれだけ言うと、ごろりとベッドに転がった。
77 :
以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします
[saga]:2021/08/14(土) 03:27:01.79 ID:JzXNw/sm0
「「…………」」
火照っていた体が、少しずつ冷めていくのを感じる。
行き場のない熱もいつかは自然に消えてしまうように、甘い空気が無味に乾いていく。二人分の無言がしばらく、天蓋のように俺たちを覆っていた。
……始発で帰れば、出社までに着替える時間くらいはあるだろうか。
離れた時間のことに思いを馳せていると、隣の鷺沢が不意に声を上げた。
「……元気くん。スマホ貸して」
「え、なんで……」
「いいからぁー」
俺ににじり寄って、肩をゴンゴンとぶつけてきながら鷺沢がゴネる。
しぶしぶ差し出すと、俺の顔で勝手にロックを解除された。
78 :
以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします
[saga]:2021/08/14(土) 03:27:42.94 ID:JzXNw/sm0
「はい、チーズ」
ぱしゃり。服をはだけさせた鷺沢と顔を腫らした俺、ベッドの上でのツーショット。
「はい、送信」
「待って待って待って待って待って」
他人のスマホを使った考えうる限り最低の行為を平然とやってのけないでくれ……!!
「誰に送ったの今!?」
79 :
以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします
[saga]:2021/08/14(土) 03:28:11.06 ID:JzXNw/sm0
「んー? さきこちゃん」
さきこ。
牛島さきこ。
うしじませんぱい。
……めちゃくちゃやばいじゃん!!
「待って待って待って待って待って待って待って待って待って待ってちょわあああ電話かかってきたけど!?」
「ふぁあ。おやすみー」
「ええぇ!?」
80 :
以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします
[saga]:2021/08/14(土) 03:29:05.36 ID:JzXNw/sm0
顔を伏せって本気で寝る体勢の鷺沢を尻目に、電話は鳴り続ける。呼び出し時間が切れても何度も掛けなおしてくる。数分間の葛藤の後、俺は恐る恐る通話ボタンを押した。
「……も、もしもし? せんぱい、お久しぶりで――」
『ヘイヘイヘイヘイヘイ後輩くんヘイヘイヘイなんだい後輩くんヘイこの写真はヘイヘイヘイヘイおいこらてめえ返事しろごらぁ』
「アッ」
だめだころされる。ここまでダイレクトに殺気を食らったのは励一くん以来だ。電話越しなのに圧が半端ない。
81 :
以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします
[saga]:2021/08/14(土) 03:30:02.54 ID:JzXNw/sm0
「すみませんすみませんすみません鷺沢が勝手に送って」
『てことはこの写真は事実なんだね今まさに君の隣で守が寝てるんだねラブホに居るんだねよろしくやったんだね?????』
「違っ……いやラブホなのは違わないん……アァッ……」
しまった墓穴を掘った。
『へーーーーそうかいそうかいそうかいそうかい、話を詳しく聞かせてもらおうかなヘーーーーイ?????』
せんぱいのテンションが壊れた。
さすが鷺沢、人を壊す事に置いては右に出るものがいないんだなぁ。
82 :
以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします
[saga]:2021/08/14(土) 03:30:47.19 ID:JzXNw/sm0
…………ひたすら謝り倒した後、『また今度根掘り葉掘り聞きに行ってやるから首をよく洗って待ってろ! あと手も! 風邪ひくなよ!』という宣告を最後に受けて、通話は切れた。
「っ、はぁあ〜〜……」
嵐のような電凸を乗り切って、今日一番のため息が出た。鷺沢は枕に顔をうずめたままくすくすと笑っている。
「あっははは……あー、おもしろい。ねえ、すぐに会う機会作ってあげなよ。みんなで飲み会とかさ」
「他人事だと思って……」
それに、俺が誘っても誰も来ないだろう。みんな忙しいだろうし、俺がそこまで好かれてるとは思えない。
83 :
以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします
[saga]:2021/08/14(土) 03:31:37.97 ID:JzXNw/sm0
「ふふっ」
そんな俺の考えを見透かして、それをやさしく否定するように。
「――楽しみにしてるね、元気くん」
顔を上げた鷺沢が、俺をまっすぐに見て嘯いた。
その目つきは――俺が殴るのも殴られるのもたくさんだと口にして、二人で歩いて帰った時の、無邪気な鷺沢のものだった。
……最後の最後に、そんな表情をするのはずるいだろ。
84 :
以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします
[saga]:2021/08/14(土) 03:32:33.68 ID:JzXNw/sm0
「…………じゃあ、誘うだけ誘ってみるけどさ。期待はするなよ」
「はいはーい。あ、私はいつでも大丈夫だから」
「ほんとなんの仕事してんの? 鷺沢……」
うだうだ言いながら、二人して枕に頭を乗せる。こうして並んで寝るのは二回目だっけ。
目の前には鷺沢の楽しそうな顔。少し目線を反らせば相変わらず素肌が覗く。匂いも吐息も体温も、目の前の世界の全部が鷺沢だ。
だけど、ドキドキして眠れない――なんてことは、不思議となくって。
他愛ない会話が不意に途切れた時、俺たちはどちらともなく心地よい眠りに落ちていた。
85 :
以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします
[saga]:2021/08/14(土) 03:33:22.07 ID:JzXNw/sm0
-進まない-
86 :
以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします
[saga]:2021/08/14(土) 03:34:04.84 ID:JzXNw/sm0
明朝。
半袖では少し肌寒い、夜明け間近の繁華街。二十四時間営業の酒場でもあるのか、遠くからわずかに騒ぎ声が聞こえる。
鳥肌を立てる両腕を擦りながら、鷺沢と並んで駅へと向かう。
「……鷺沢、家はこっちでいいの?」
「んーん。タクシー使おっかなって」
「ああ、まあ、それがいいよな」
明るくなってくる時間帯とはいえ、一人で帰るのは危ないだろう。
「心配してくれてるの?」
「そりゃ、まあ」
87 :
以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします
[saga]:2021/08/14(土) 03:34:48.64 ID:JzXNw/sm0
「やさしー。でも自分の心配したほうがいいよ? 顔、痣だらけだから」
「あー、うん。さっき顔洗ったときに気づいたよ」
数時間後には出社しなきゃならないのに。同僚への上手い言い訳を考えねば。
まさか正直に『久々に会った同級生に殴られました』と言うわけにはいかないしなあ。
88 :
以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします
[saga]:2021/08/14(土) 03:35:40.78 ID:JzXNw/sm0
……当たり前のことだけど。
『言い訳』なんてものを考えなきゃいけないくらいには、俺たちの性癖は多くの人には理解されない。
俺も鷺沢も――きっとどんな人も、生まれた環境やふとした出来事で少しずつおかしくなっていく。
その中で幸せになるためには、『自分は普通だ』と言い聞かせるか、鷺沢のようになるか、幸せを諦めるしかない。
俺が選んだのは、一番愚かで無意味な選択肢だったかもしれないけれど。
昨夜ホテルで過ごす中、どれだけ鷺沢の暴力に折れてしまいそうになっても、自分の選択を貫けた自分を。
その場で踏みとどまって、先に進まなかった自分を――今日だけは、少し褒めてやりたいと思った。
……せっかくの童貞を捨てるチャンスをふいにしたのは、まあ、正直、若干惜しくはあるけれど。
89 :
以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします
[saga]:2021/08/14(土) 03:36:22.48 ID:JzXNw/sm0
「ん……」
駅前のロータリーに差し掛かる。始発にはまだ少し時間があるのか、改札の前でシャッターが開くのを待っている人が何人か見受けられた。
一方鷺沢は、朝から客のためにドアを開けているタクシーに目をやっていた。
「……ここでお別れ、かな」
「……そうだな」
わずかな重さを感じる声に、一瞬、立ち止まる。
……何か言おうか。でも俺が鷺沢へ言うことなんて、今更あるだろうか。
思い悩んでいると、服が突然強く引っ張られた。
90 :
以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします
[saga]:2021/08/14(土) 03:36:57.55 ID:JzXNw/sm0
「――うわっ!?」
バランスを崩した途端、大きな瞳とばっちり目が合って、直後にやさしく呼吸が塞がれる。
俺の襟首を引っ掴んで、鷺沢が俺に口づけしていた。
思わずぎゅっと目を閉じる。が、しかし、鷺沢はすぐに俺から顔を離した。
「…………ぃ、っ」
思わず自分の口元を触る。自分より少しだけ低い体温の、柔らかい唇の感触だけが残っていた。
91 :
以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします
[saga]:2021/08/14(土) 03:37:47.07 ID:JzXNw/sm0
おろおろと目を泳がせる俺に、鷺沢は呆れたように苦言を呈する。
「……。キスくらいで今更照れるの?」
「いやっ、そう……じゃ、なくて」
怪訝な顔をする鷺沢に――どうせ耳まで真っ赤なのはお見通しだろう――正直に、理由を告げた。
92 :
以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします
[saga]:2021/08/14(土) 03:38:30.70 ID:JzXNw/sm0
「……血の味がしないキスなんて、初めてだったから」
鷺沢は一瞬ポカンとしたあと、盛大に笑った。
「…………うふっ、あはは! まったくもう……それは――」
93 :
以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします
[saga]:2021/08/14(土) 03:39:30.54 ID:JzXNw/sm0
「――可愛そうにね、元気くん!」
94 :
以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします
[saga]:2021/08/14(土) 03:41:50.81 ID:JzXNw/sm0
******
――あ、勝丸? うん。久しぶり。
――元気でやってる? ……そうなんだ、よかった。……はは、勝丸らしいな。
――……ところでさ、来週の週末って空いてる? 高校の頃の……美術部とか、鷺沢とかのメンツ誘って、飲み会とかどうかなって。
――うん……うん。わかった。
――ところで小柴川先生って今……え? 聞くな? あ、うん。はい。
――……うん。それじゃ、また。
95 :
以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします
[saga]:2021/08/14(土) 03:42:54.50 ID:JzXNw/sm0
――アッ……どうも、うしじま先輩……廣田です……。先日はどうもご迷惑を……ハイ……。
――あ、はい、帰ってる途中で半ば無理やり……はい……はい…………はい……………………スミマセン……………………。
――と、ところで話変わるんですけど! 今締め切りとかどんな感じですか? ……いや進捗どうですかとかそういうのじゃなくて。
――飲み会開こうと思ってるんですけど、来週の週末って、空いてますか。
96 :
以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします
[saga]:2021/08/14(土) 03:43:29.76 ID:JzXNw/sm0
――……あ……。
――八千緑さん。わざわざ電話ありがとう。メールでもよかったのに……忙しくなかった?
――うん。うん。そっか。……ありがとう。俺も会えて嬉しかった。……美味しかったよ。また食べに行くから。
――で、来週なんだけど……大丈夫そう? うん、わかった。
――うん。俺も、楽しみにしてるよ。
97 :
以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします
[saga]:2021/08/14(土) 03:44:00.10 ID:JzXNw/sm0
――あ、励一くん。……その、久しぶり。……うん、廣田元気だけど。
――ごめん、八千緑さんから番号聞いて……。
――……その、来週の週末って空いてる? 色々あったけど、高校の時の知り合い集めて飲み会でもどうかなって……。
――……そっか。まあ、忙しいよね。一応八千緑さんも参加する予定だけど――
――え、来る? あ、うん、はい。それじゃ……。
98 :
以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします
[saga]:2021/08/14(土) 03:44:31.03 ID:JzXNw/sm0
――もしもし。鷺沢?
――うん。来週の金曜日で決まりそうだけど、どう……行ける? じゃあ――あ、待てって――
「…………切れた」
……まあ、大丈夫だろう。
99 :
以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします
[saga]:2021/08/14(土) 03:45:11.75 ID:JzXNw/sm0
******
(――やべ、思ったより残業長引いた……!)
(一応幹事なのに遅れるの、申し訳ないな……みんなには先に入っといてって言ってるけど)
(……普段幹事とかしないし、よく考えたらうしじま先輩と励一くんや勝丸は初対面だけど)
(みんな、楽しんでくれてるかな。嫌々来てくれたとかじゃないかな――)
「……っ、着いた……!」
「いらっしゃいませー! お一人様ですか?」
「あ、待ち合わせです――」
100 :
以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします
[saga]:2021/08/14(土) 03:46:25.70 ID:JzXNw/sm0
「――あっ! 来た来た! 久しぶりー!!」
101 :
以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします
[saga]:2021/08/14(土) 03:47:25.86 ID:JzXNw/sm0
終わりです。
8巻の最後の飲み会ですが、うしじま先輩と励一&勝丸という初対面の組み合わせがいるので元気くんが幹事として呼んだんだろうなと勝手に思っています。
本当に本当に大好きな作品で、終わってしまったのが心の底から悲しかったのですが、半年ほど経ってようやく気持ちの整理がついたのでこうやって幻覚を形にしました。
作者様もおっしゃっていた通り色んな解釈があると思いますので、あくまでこれは私の解釈(妄想)としての文章ですが、元気くんファンの方に楽しんでいただけたなら幸いです。
古宮先生の次の作品も楽しみにしています。
102 :
以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします
[saga]:2021/08/14(土) 03:48:03.46 ID:JzXNw/sm0
過去作です
283P「歯医者のタオルってエロくないですか?」
ttp://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/internet/14562/1593193189/
【モバマスSS】志乃「Pさん、本当はお酒苦手なんでしょう?」
ttp://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/internet/14562/1577210559/
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