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新田美波「わたしの弟が、亜人……?」

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349 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/07/10(月) 21:41:13.75 ID:9Rb28CM7O
>>348
コメントありがとうございます。『亜人』のssはたしかに少ないですよね。もうすぐ実写映画が公開されますが、ssへの影響は微妙ですよね(映画自体は割と楽しみにしています)。

『とある〜』とのクロスオーバーの件ですが、恥ずかしながら『とある〜』はアニメを数話見たのみで原作未読でして、ご提案に応えることは厳しいと思います。申し訳ありません。
350 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2017/07/11(火) 19:13:14.36 ID:OKD+Ge6+0
>>349
実写映画は配役がちょっとイメージと違う感じがしましたね
それとクロスオーバーなんですがリリカルなのはとかはどうですかね?
351 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2017/07/12(水) 01:50:39.12 ID:tUWbhTVnO
更新乙
女の子にも容赦ない永井マジ永井
352 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2017/08/04(金) 01:03:56.53 ID:8Xal0QuB0
更新待ってます。
353 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/08/12(土) 22:06:19.84 ID:jvW3su8lO
6.Let's Roll!


乗客たちがハイジャッカーたちに反撃した際に「Let's Roll.(さあやろうぜ)」を合図にしたと言われている。この9・11事件以降のアフガニスタンへの「報復戦争」において、この「Let's Roll」は軍用機に描かれたり、空母乗組員が人文字を空中撮影する際に用いられたりするなど、しばらく「テロと戦うスローガン」とされた。しかし乗客はコックピット内に進入できず、テロリストの操縦により機体を墜落させたと結論づけている。−−ウィキペディア「アメリカ同時多発テロ事件」


−−月曜日


オグラ「オッサン、おれは煙草が吸いたい」


目の前にいる拳を握る男に向かって、オグライクヤはコンビニの店員を呼びかけるみたいに注文をつけた。オグラの頬に拳が見舞われた。殴った男の拳は第三関節のところが平らで、拳が打ちつける面積が普通の人間よりおおきかった。人間を殴り慣れている拳による殴打は、頬を叩いたときの軽い打撃音からは想像もつかない威力でオグラの頭を揺さぶり、拳がぶつかった箇所が口の内側に深く沈みこみ、オグラは自分の歯で頬肉を噛みちぎりかけた。


平沢「渋ってどうなる。もう死んだことになってるんだぞ」


殴った男がオグラにいった。男はふたたび拳を上げ、IBMについて説明するようオグラに強要した。


オグラ「ははは。亜人ぽいな」
354 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/08/12(土) 22:07:53.80 ID:jvW3su8lO

オグラはとくにおもしろくもなさそうにいった。右側の頬骨のあたりと唇から出血している以外、オグラの顔面には変化がなかった。オグラがかろうじてぶらさがっている頬の肉からの出血に気にもとめず喉に流れ落ちるままにしていると、ふたたび同じところを殴打された。オグラの身体が拘束されている椅子の脚ごと浮き上がった。


平沢「なぜ話さない。研究員の前じゃペラペラ話してたんだろ?」

オグラ「そんなこともわからないのか?」


オグラはだらんの下に伸びきった首を上げ、平沢を無感動な眼で見据えながら言った。右の鼻から血が垂れている。


オグラ「聞きたがってる奴に話して何が面白いんだ、ハゲ」


ふたたび殴打が強く見舞われる。平沢の拳はオグラの血に湿った。拳による尋問はまだ始まったばかりだった。


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355 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/08/12(土) 22:09:45.58 ID:jvW3su8lO

この日の午前中、亜人管理の責任を引き受ける厚生労働省が開いた記者会見は、まるで可燃性ガスに火がついたかのように紛糾していた。


「ですから何度も言ってる通り、亜人に対して人体実験が行われたなどという事実はありません」


記者たちは厚労省の広報官が繰り返した言い逃れにいい加減飽き飽きし、沸き起こるように抗議の声をあげた。かれらの執拗な興奮は、研究所からの永井圭の逃亡、テレビクルーの前で堂々と田中を施設外へ連れ出す佐藤の映像、のちに判明したオグライクヤを含めた施設内での大量殺人、そして佐藤によるグラント製薬への爆破予告といったここ最近大きなトピックになっているこれらの事件の原因が、グラント製薬が行った亜人への人体実験に集約できるだろうと考えているためだった。


「永井圭は研究所に運ばれたときすでに情緒不安定でした。それはメディアやそれに触発された心ない人たちに……」


広報官の具体性のない言い訳に記者たちがふたたび気炎を揚げるまえに、亜人管理委員会の一人がリモコンでテレビを消した。
356 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/08/12(土) 22:11:34.41 ID:jvW3su8lO


石丸「くそっ、マスコミが騒いでる」


そう苛立たしげに言ったのは、つるりと頭を剃り上げたNisei特機工業の石丸竹雄だった。石丸がリモコンを会議用テーブルに叩きつける音を合図にするかのように、研究者の一人が入口の扉に接する壁のまえに立つ戸崎に向かって問い詰めるように言う。


研究者1「具体的な社名まであがってしまったぞ。どうすんだ、戸崎!」

戸崎「確かにマスコミはやっかいですが、日本の報道の価値はすでに死んでます。一般人も一部を除いて大半がそれに気付いており相手にしないでしょう」


戸崎は正面を向いたまま、会議に参加しているメンバーを視野に収めながらら先ほどから変わらぬ冷ややかな眼を保ったまま言った。
357 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/08/12(土) 22:12:37.81 ID:jvW3su8lO

石丸「その一部がうるさいんだよ。くだらない情報を間に受けるバカどもが」

戸崎「ですが、いま議論するべきことではありません。いま急を要するのは帽子への対策です」

研究者2「何を偉そうに! 研究所への侵入を許すわ、サンプルを逃すわ」

石丸「そうだ! どれほどの損失だと思ってるんだ」


委員会メンバーが飛ばす叱責は戸崎を怯ませるどころか、その眼の冷ややかさを侮蔑のそれに深める効果しなかった。


戸崎 (よく吠えるもんだ……文句ばかりで何もしない連中が……)
358 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/08/12(土) 22:14:24.80 ID:jvW3su8lO

戸崎が眼で軽蔑を示していると、ドアが開き、失礼しますと断りをいれながら会議室に入ってくる者がいた。戸崎はその人物を見て、会議が始まってからはじめて、かすかにだがその眼に感情が宿った。


戸崎「曽我部、なぜおまえがここに」

曽我部「お世話になった先輩には申し上げにくいのですが……大臣から声を掛けて頂いたんです」


そう言ったあと、あなたの後任候補として、と付け加える曽我部の表情にはまだかろうじて慇懃さが保たれていた。曽我部の言葉を聞いた委員会メンバーは胸のすく思いだった。戸崎が辿るであろう顛末を想像し、嘲笑を洩らす者すらいる。


曽我部「今日から先輩の仕事を監視し、逐一上へ報告させてもらいます。もし問題ありと判断が下った場合……」

戸崎「おれはおまえと交代ってわけか」


戸崎は先回りして言った。


曽我部「いえ。地獄行きでしょ」
359 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/08/12(土) 22:15:20.34 ID:jvW3su8lO

そのように答えを返す曽我部の表情には隠しきれない無礼と見下しが浮かんでいて、それは下がり眉と口の橋の上がり具合に見て取れた。自分を侮っていることを隠すどころか、むしろ挑発するような態度を取る後輩に対して、戸崎の表情はどこか弛緩したような感じで、倦怠や諦観や憐れみなどを思いこさせる視線を曽我部に向けていた。


戸崎「曽我部、これはおまえへの最後の忠告だが、この一線は……後戻りできないぞ」

曽我部「先輩風吹かせてる場合ですか」


思っていたような焦りや緊迫といった反応が見られなかったためか、戸崎の忠告に曽我部はすげなかった。


曽我部「グラント製薬の警備は警察が対応に当たるのが必然。われわれ亜人管理委員会はコンサルタントとして参加することになる。あと四十八時間です。それまでにIBM対策をひねり出せるのですか?」


曽我部はまた慇懃無礼な態度になって言った。戸崎の置かれた状況を説明していると、この状況から抜け出す術はないだろうという考えが浮かび、その後のことを考えると曽我部はほくそ笑みたくなった。そんな後輩に向ける戸崎の視線が鋭くなっていく。


曽我部「やってみせてくださいよ、戸崎先輩」


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360 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/08/12(土) 22:16:46.47 ID:jvW3su8lO

ホテルの通路の壁面の上部に備え付けられた灯りが通路をズカズカと進む戸崎を明滅するように照らしていた。影と光が交互に戸崎の顔にかかる。廊下は静まり返っていて人の気配がなかったが、それはいつものことだった。目的の部屋に到着した戸崎はカードキーでロックを解除すると中に入り、後手でドアを閉めた。


オグラ「女王様のご帰還か」


戸崎を見たオグラが言った。顔の傷などまるで気にしていない。


平沢「戸崎さん。これだけやって何も話さねえ。こいつ、本当は何も知らないんじゃ? だいいち、事実かどうか疑わしい情報なんだろ?」


尋問を行っていた黒服が前を通り過ぎる戸崎に話しかけた。戸崎は答えず手に持っていたイージージッパーを机を上に置いた。中には、パスポートなどの身分を証明する証書が数点とマガジンが抜き取られた自動拳銃が入っていて、机に置いたとき拳銃とマガジンががちゃんという音を立てた。
361 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/08/12(土) 22:18:02.00 ID:jvW3su8lO

戸崎はオグラに歩みよると、手錠が掛けられたオグラの左手を掴み、手を開いた状態でテーブルの上に押さえつけ、長方形と二等辺三角形が組み合わさったような五角形の薄いスチール製のこてをつき下ろした。オグラの小指が骨ごと切断された。テーブルに血が広がった。こてを抜いたとき、小指がもとあった位置からずれ、テーブルを覗きこめば手と指の断面が見えるようになった。


戸崎「それを見てみろ。死んだボディーガードの私物だ」


苦悶するオグラの手を押さえつけたまま、いきなりの蛮行に驚いている平沢に向かって、戸崎が言った。平沢は言われた通り、イージージッパーから手帳を取り出し、中身を開いて見た。


平沢「国防総省……」

戸崎「オグラ・イクヤが向こうの国で受け入れられたのは生物物理学者としてではない」


戸崎はオグラを見下ろしながら、話を続けた。

362 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/08/12(土) 22:19:52.34 ID:jvW3su8lO

戸崎「この男の話は理論や根拠はともかく言っていることは偶然にも正しい。そしてそれはある分野で大いに役立った。すなわちIBM対策。こいつの情報は有益だ」

平沢「ぶっとんでるな」

戸崎「さすが成果主義の国だよ」

オグラ「ぐ……く……」

戸崎「もう一本失うか?」


戸崎はこてを握る手を上げて、無表情にオグラを脅す。オグラは苦しそうにゆっくりと顔を上に向けてから、言った。不敵に笑っているように、口の端が上向いていた。


オグラ「二本は……残しとけよ。スモーカーには死活問題だ」


戸崎がいきおい肩を上げこてを振りかぶると、オグラが突然慌て出した。


オグラ「ま、待て! うそうそ」

戸崎「てこずらせやがって」

オグラ「いや、三本だった。灰が落とせない」


オグラの薬指が切断された。
363 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/08/12(土) 22:21:42.18 ID:jvW3su8lO

戸崎は 「なんなんだ、おまえは。痛みに鈍いのか? 亜人にでもなったつもりか?」


表情にこそ表れていないが、戸崎は、激痛に苦しみ喘ぎはするものの、一向に話をしようとも拷問を止めるよう懇願しようともしないオグラの態度に苛立ちと困惑を覚え始めていた。

オグラは苦悶のせいで肩を大きく上下させていたが、呼吸が次第に落ち着いてくると、首を垂れたまま、潜めいた笑い声を洩らしはじめた。戸崎も平沢も、ついにオグラがいかれたのかと思ったが、それにしては笑い声に明確な対象がある気がして、不気味なものを感じ始めていた。笑い声をおさめると、オグラはふたたび顔をあげ、自分を見下ろす戸崎を見て言った。


オグラ「耐えられる程度なのさ……身体の痛みなんてのは」

平沢「戸崎さん、こいつは話さないぜ」

戸崎「なぜ」

平沢「だって、いかれてる」
364 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/08/12(土) 22:23:42.07 ID:jvW3su8lO

オグラ「そうさ……メガネ……こんなもんじゃあ、おれは……話す気分にならない。おれが話す条件はたったひとつ……たったひとつだけだ」


頭を上げたままの姿勢を維持するのに大きな苦労でもあるのか、オグラの首がまた下を向いていた。オグラの発言に戸崎の目が見開いた。耳に意識を集中させ、その内容によって拷問を続行するか瞬時に判断しようとしていた。オグラの頭と手が、ゆっくりと大変そうに戸崎に向かって上がっていく。震える右手が戸崎を指差し、大きく見開かれたオグラの目が、暗闇の中に灯るように浮かんだ。オグラははっきりと宣言するように、要求を口にする。


オグラ「FKを持ってこい」


意味不明の要求に戸崎が腕を振り上げる。スーツが捻れ、脇のところに皺が寄ったところで、戸崎の動きが止まった。オグラの言うFKが何なのか分かったからだ。


戸崎「……え? 本気か?」


戸崎は数年前から禁煙していた。だから、オグラが煙草を要求していることにすぐには気がつかなけった。


オグラ「最初から言ってるだろ。車にあったハズだ。持ってこい、いますぐ」
365 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/08/12(土) 22:25:28.06 ID:jvW3su8lO

黒服が要求に従い、銘柄通り、マイルドセブンFKを部屋まで持ってきた。オグラは最低限の応急処置がされただけの左手で煙草を挟み、口に咥えると、右手に持ったライターで火をつける。口腔内の咬み傷に煙草の煙はひどく沁み入るはずだが、オグラは痛む素振りなど少しも見せず、満足するまで煙草を味わうと、ゆっくりと紫煙を吐き出して、言った。


オグラ「まずい」


左手に巻かれた包帯はいまだ鮮血で赤々しく、煙草を口から離したとき、傷口から浸み出した血が一滴ぽたりと垂れた。


オグラ「さて、なにから話そう」


血の跡が残るテーブルの上に置かれた灰皿に煙草の灰を落としてから、オグラは説明を始めた。

366 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/08/12(土) 22:27:14.01 ID:jvW3su8lO

オグラ「“アドバンス”……ああ、おまえらは“別種”と呼んでたな。
ここ数年、亜人は自分達のもうひとつの性質に気がつき始めた。自分以外にもう一つの肉体を作り出すことができたんだ。形状は個々によって変化することがあり、現れやすいのは手・口周辺。それは武器化する傾向にある。
おれはこれを『魂の痕跡器官』と呼んでる。人間の原始的な武器は爪と歯だからだ。
身体能力は人間と変わらない。が、人間の脳の制約を受けないため常に『火事場の馬鹿力』が出せる」

戸崎「過程はどうでもいい。結果だけ話せ。『つけいるスキ』とは?」

オグラ「IBMを形づくる未知の物質はきわめて不安定で、発生と同時に崩壊が始まってる」

戸崎「つまり?」

オグラ「IBMは五分から十分程度で自動的に消滅してしまうんだよ。
また、あれだけの質量の宇宙の意思に反した物質を生み出すんだ。連続して何度も出せるものじゃない。
日に一、二体が限度」

戸崎「だからあの日佐藤は……」

オグラ「違う。あの日は雨が降ってた」


オグラは言葉を切り、煙草をふかした。
367 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/08/12(土) 22:37:28.14 ID:jvW3su8lO

オグラ「先刻話した通り、IBMは崩壊し続けており、崩壊の際に特殊な電磁波を放っている。放射性同位体のようにだ。この電磁波でIBMと亜人は意思の疎通をしている。
ラジオが聞きづらくなることがあるだろう。雨の日なんかに。アレと同じ、雨の中でIBMは動かしづらくなる。
IBMは、パワフルだができそこないだ。やり合えそうな気がしてきただろ?」

戸崎「ああ」

オグラ「オマケでもうひとつ」


説明が終わっただろうと戸崎が席を立とうとしたとき、オグラが付け加えることがあるかのように言った。


オグラ「おまえらは亜人の殺害が引き金で中村慎也事件が起きたと予想していたようだが、それは少し大きな間違いだ。 われわれはあの現象をフラッドと呼ぶ」


中村慎也事件とは、ただ死んで生き返るだけだと思われていた亜人が特殊かつ危険な能力を持っているのだと、はじめて人間側が認識した事件だった。当時大学生だった中村慎也を捕獲しようとした黒服たちが全員死亡し、遺体は無惨にもばらばらにされていた。現場には多くの爪痕が広範囲にわたって残されていた。この証拠から、黒服たちを殺害した何者かは複数体、おそらく十体以上存在していたのだと推察された。

これまでのオグラの説明によって、 “氾濫”を意味する語を冠するこの現象は、IBMの同時多発現象のことだと戸崎は理解することができた。


オグラ「異常な感情の高まりと復活が重なった時、ごくごく稀に起こる現象だ。殺害にはいうほど気を使わなくて……」


オグラの頭が突然がくんと落ちた。


オグラ「あれ?……えーと……何の話だっけ……」
368 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/08/12(土) 22:39:34.60 ID:jvW3su8lO

戸崎「出血のせいだ。治療の手配を」

オグラ「健闘を祈るよ」


失血のせいで、オグラは眉間を押さえて項垂れていた。右手に挟んだ煙草から昇る煙は、空調に揺られゆらゆらしてながら霧散していった。戸崎はオグラと消えゆく煙を見下ろしながら、思った。


戸崎 (なんとしても、あのバカどもを納得させねば)


明日の会議で、戸崎はオグラの説明を元に立案した作戦を、亜人管理委員会のメンバーに向かって話さなければならなかった。

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369 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/08/12(土) 22:40:47.54 ID:jvW3su8lO

−−火曜日


戸崎「以上が警察への助言内容です」

石丸「限界だ!」


石丸竹雄が会議用テーブルを拳で強く打ち付けた。ざわめきたつ傍聴人を裁判長が槌を叩いて静粛さを求めるような動作だったが、この打撃音によって生まれたのは静寂ではなくさらなる叱責と怒声だった。


「科学的根拠が皆無だぞ」

「オグラ君と話してるようだ」

「バカにしてるのか」「戸崎!」

戸崎「先の襲撃から予想して立てたベターな手段です」


無思慮な発言に耐えながら、戸崎は説得を試みるが委員会メンバーは態度を変えないままだった。


「もういい!」

「曽我部君! 上へ報告して戸崎を除名しろ!」
370 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/08/12(土) 22:42:36.79 ID:jvW3su8lO

すこし離れた位置に座って会議を静観していた曽我部は、委員会からの要求を受けてこう答えた。


曽我部「ダメです」


その発言にだれもが驚いて、さっきまで紛糾していた会議は嘘みたいに静まりかえった。


曽我部「皆さん、戸崎先輩一人を責めるのは間違っていますよ」


慇懃な口調で曽我部は話を続けた。


曽我部「研究員の皆さん、あなたたちはこれまでにIBM対策に繋がる研究成果を残していますか? 」


岸たち研究員はうってかわって、口を閉じていた。


曽我部「他の方々も何か提案のある人は?」
371 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/08/12(土) 22:44:11.47 ID:jvW3su8lO

ほかの委員会メンバーも、曽我部の問いかけに答えず、沈黙したままだった。曽我部はそういした場の空気に憤ったのか、一転して声を荒げて身を乗り出して言った。


曽我部「何もないなら、戸崎先輩の意見に従うのが最善じゃないですか!」


会議の参加者たちは曽我部の発言にたいして反論や対案を口にすることはなく、黙って視線を漂わせていた。結局、それが結論となった。戸崎は意外そうに横に立った曽我部に視線だけ向けて言った。


戸崎「曽我部、お前からの後押しがあるとはな」

曽我部「僕は中立です。あなたの仕事ぶりを公正に上へ報告するのが仕事なのですから」


曽我部も戸崎と同じように視線を返した。曽我部が視線を戻したあとも、戸崎は観察を続けた。そして、ひとつの確信を得た。


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372 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/08/12(土) 22:45:53.80 ID:jvW3su8lO

会議を終えた曽我部はその足で直接大臣の元へと赴いた。カーテンが閉められた薄暗さが包む部屋のなかで大臣は高級椅子に腰掛けていた。


大臣「おつかれ」


曽我部は大臣の側に背を伸ばして立ち、後ろで手を組んだ。


大臣「どうだった、戸崎は?」

曽我部「はい。戸崎先輩は、あきらかに異常なです。いろいろと知りすぎています」

大臣「となると、やはり……」

曽我部「はい。オグラ・イクヤは生きている」


曽我部が口にした結論に、大臣はひそめいた笑いを洩らした


大臣「戸崎……思った以上に大した奴だ。アメリカ側の人間に手を出すとは」

大臣「あの男は、われわれには超えられない一線を越えてくれたぞ」
373 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/08/12(土) 22:49:29.64 ID:jvW3su8lO

大臣「曽我部、われわれはこの事実を知らない。いいか? 知らないんだ」

大臣「すべてはあの男の身勝手な単独プレー。大活躍してもらおうじゃないか。そして事態が収拾したあかつきには……すべての責任を負って、消えてもらおう」


曽我部も大臣とともにほくそ笑んだ。陰謀に加担するのは楽しい。厄介な事態への対応はすべて戸崎がやってくれる。おかげですべてが終わったあと、何のリスクもなく上のポストに就けるのだから、笑みが浮かぶのも当然だった。

戸崎は最後の瞬間までこのことに気づかないだろうという優越感も、曽我部をほくそ笑ませる要因のひとつだった。

そんな曽我部と大臣の様子を、下村のIBMが最初から最後まで見聞きしていた。

戸崎は大臣と曽我部の会話を下村から中継されるかたちで聞いていた。長椅子に座る戸崎の眼は細く引き締まり、鋭い視線を真っ直ぐに飛ばしている。戸崎は革手袋をした両手を膝の位置で合わせていて、下村から話を聞かされているあいだもその手は微動だにしなかった。


戸崎「上等だ」


覚悟を込めた声を喉の奥から響かせながら、戸崎は自らの命も賭けのテーブルにあげることを決意した。


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374 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/08/12(土) 22:50:57.27 ID:jvW3su8lO

田中「あ、ちょっと。佐藤さん」


アジトの通路に棒立ちになっている佐藤の幽霊に田中は話しかけた。


IBM(佐藤)『私……の、名前……佐藤……あ……じん』

田中「……あら」


ぶつぶつと独り言を言う佐藤の幽霊は、まるで生まれて初めての自由に戸惑っているかのように両手を弄っていた。明らかに佐藤の命令下にない黒い幽霊をどうしようか田中がと迷っていると、佐藤がやってきて後ろなら田中に声をかけた。


佐藤「呼んだ?」

田中「なにやってんすか? アレ」


田中は黒い幽霊を指差しながら佐藤に尋ねた。
375 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/08/12(土) 22:52:45.32 ID:jvW3su8lO

佐藤「ん? 放任!」

田中「はあ?」


佐藤の答えは単純明快すぎて、田中は逆にその意図をつかめない。


佐藤「黒い幽霊を動かす感覚は、ラジコンの操作というより犬に命令する感じに近い」


佐藤が補足説明を話し始めた。


田中「こいつらにも自我みたいなもんがある感じすからね」

佐藤「うん。それで、永井君の幽霊みたく自発的に行動させることもできたら面白いかもと思ってね。だから放任中。自我を育む」

田中「そんなにうまくいくんすか?」

佐藤「君だってあんな短期間でライフルを撃たせられるようになったじゃないか。野生的な動作より文明的な動作のほうが難易度が高い。殺戮なんかは案外簡単にできてしまうだろ?」
376 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/08/12(土) 22:53:57.82 ID:jvW3su8lO

そこで佐藤は一旦言葉を切って、呆れたようにため息をついた。


佐藤「それに比べて奥山君はド下手。本人が器用だから、幽霊にいろいろさせてこなかったんだよ、アレは……」

田中「あいつは喋らすのも下手すからね」


佐藤は頭を上げ、黒い幽霊を見た。幽霊は相変わらず両手を弄っていて、爪の先で反対側の爪の表面をひっかくように動かしていた。


佐藤「何事も練習! シモ・ヘイヘも言ってる」


佐藤は視線を幽霊から田中へ移すと、にっこりと笑みを浮かべて話しかけた。


佐藤「よし、明日の準備をしようか」


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377 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/08/12(土) 23:00:24.08 ID:jvW3su8lO
>>1です。実はこの後の展開が絶賛難航中でして、今日の本編の更新はここまでになります。

長らくお待たせしたうえに、原作の話をまんま文章化したものしか更新しないのはあまりにもあれなんで、代わりといってはなんですが、ちょっとした番外編3編をこの次のレスから更新していきます。

永井が346プロに入社しているという設定のコメディ的な話です。設定とか時間軸とかキャラまでゆるゆるですが、どうかご容赦願います。
378 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/08/12(土) 23:03:36.10 ID:jvW3su8lO
番外編その@


夏期の長期休暇を目前にしてシンデレラプロジェクトのメンバーたちに立ちはだかったのは、学習範囲が広いことが厄介な期末試験であった。

アイドルをしながら学業もある水準をキープしなければならないとなると、常日頃から持続的な勉強が必要になってくるが、アイドルとしての活動も多岐にわたり、またライブやイベントが開催されるとなるとコンディションの調整に気を使わなければならなくなる。レッスンがあれば体力を消費するし、仕事の合間合間に予習復習をしても、すべての範囲をカバーしきれないのが現状であった。

もちろんプロダクションは、就学中のアイドルたちが学業に集中できるようなサポートを欠かさなかった。未成年のアイドルの保護者は、当然ながら彼女たちの学校の成績を心配する。だからプロダクションは、学業をサポートできるよう有名学習塾と契約を結び、希望者にはプロダクション内のまさしく教室そのもの部屋で派遣された講師から一対一、あるいは複数人で講義を受けることもできた。

今回、期末試験にむけて対策講義を受けることになったのは、美波をのぞくシンデレラプロジェクトのメンバー全員だった。美波の大学は試験の日程がはやく、七月初旬から始まった試験はほぼ終了していた。美波はプロジェクトのリーダーとして、メンバーたちの勉強をサポートするつもりだった。

美波とともに講師役を務めることになったのは、彼女の弟である永井だった。契約の更新になにかトラブルがあったのか、今月は講師が派遣されず、社内の人間を代理にたてようと困っていたところを入社試験を完璧にクリアした永井の名前が挙がった。
379 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/08/12(土) 23:06:19.90 ID:jvW3su8lO

永井「それって契約外の業務ですよね」


プロデューサーから講師代理の件を聞かされたとき、永井はそう言った。


武内P「ええ、たしかに」

永井「期末テストの範囲をカバーするとなると、一日じゃ足りませんよ」

武内P「おっしゃるとおりです」

永井「メンバーは十人以上いますし」


永井はパソコンから目を離さず、キーを叩き続けながら言った。


武内P「お引き受けくだされば基本給とは別途に手当が支給されますが」

永井「通常業務に加えて、契約外の業務もやるんです。支給金額が契約先の講師と同額ってことはないですよね?」


プロデューサーはすこしたじろぎながら「確認してみます」とだけ答え、永井が「お願いします」と言ったところで講師依頼の話はそこで終わりになった。

後日、永井は要求が通ったことをプロデューサーから聞かされ、講師を引き受けることにした。
380 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/08/12(土) 23:08:00.35 ID:jvW3su8lO

永井が講師を務めることについて、シンデレラプロジェクトのメンバーたちの心持ちは不安がかなりの割合を占めていた。それは永井の能力への不安ではなく、アナスタシアが評した永井の人物像が原因だった。

彼女たちは永井と仕事のうえで付き合いはあったが、親しくはなかった。はじめは美波に話を聞こうとしたものの、亜人を巡る一連の事件で味わった苦悩と心労から解放されたためか、ちょっと度が過ぎるほど褒めちぎるので参考にはならなかった(そもそも九年間はなればなれに暮らしていたうえに、アイドルとしての活動にまったく興味がなかった弟が自分とおなじ職場にいてはやくも成果をあげているのだから、美波としてはうれしさに満ちた気持ちを所構わず話したくてしかたなかった)。

そこで今度はアナスタシアに永井について尋ねることにした。アナスタシアも永井と同じ亜人で、美波すら預かり知らないところで永井と行動をともにしたこともあるらしい。アナスタシアは、まるで数を数え上げるときのような自然で淡々とした口調で言った。


アナスタシア「情け容赦と躊躇がないです」

美波「そっ……んなこと、はないんじゃないかな……?」


美波は思わず声をあげて反論しそうになったが、言葉はあとにむかうにつれた小さくなり、最後のほうは消え入りそうなくらいだった。
381 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/08/12(土) 23:11:14.56 ID:jvW3su8lO

アナスタシア「アー……あとはフツウだと思います」

卯月「それは普通って言えるんですか?」


美波に対するアナスタシアのフォローに卯月が疑問を挟んだ。

この問答のせいで彼女たちはほとんど恐怖にちかい思いを抱きながら講義当日を迎えたわけだが、そんな不安を知ってか知らずか永井はさきに教室で待っていて、会議用テーブルをひとりで使っていた。メンバーが席に着くと、永井は一人ひとりにプリントを配布した。アナスタシアはプロジェクトクローネとの兼ね合いの仕事があり、すこし遅れて参加するので、配られたプリントの枚数は十二枚となった。そこには数学の問題が書かれていた。


永井「テスト問題を予想してみたから、とりあえずそれを解いてみて」


テストが返却されたのは、テスト終了後の休憩時間のあとだった。間違えた問題には赤ペンでどこをどう間違えたのかや解法に使うする公式が事細かに書かれてあった。

次にプリントが十枚ほど重ねられてホッチキスで留められていた問題集と新しい参考書が配られた。プリントにはメンバー個々人の弱点をカバーする問題がびっしりと印刷されていて、一ページ目は基礎的な内容の問題が並び、ページをめくるごとに難しさがあがっていく。

そのページにある問題のうち八割が正解だったら次のページにいけるが、正解率がそれに満たなかったら、同じレベルの問題が印刷されたプリントを渡されまた問題を解く。
382 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/08/12(土) 23:13:30.48 ID:jvW3su8lO

いちばん最初にプリントを終えたのは双葉杏だった。杏はいきなり十ページ目の最高難度の問題を解き、すべて正解していた。


永井「双葉さんは自習で大丈夫」

杏「寝ててもいい?」

永井「いいよ」

美波「自習しようよ」


美波をはじめメンバーたちは、杏も杏だが、永井も永井だと思った。

問題を解いているあいだ、永井と美波は教室をまわり、質問に答えるなどしていた。中学生以下のメンバーには美波が面倒を見ていて、とくに神崎蘭子には細かく注意を払っていた。おそらく、弟と蘭子を会話させるのはいろいろな意味でまだ早いと思っていたのだろう。
383 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/08/12(土) 23:15:06.31 ID:jvW3su8lO

永井は手が止まっているメンバーを見つけると、苦戦している問題を一瞥してから参考書のページ数を教えた。言われたとおり参考書を開くと、そこには問題を解くのに必要な基礎的な知識や解法、公式が書かれていて、たしかに学習の役に立つのだが、数学が不得意な者にとっては読むだけで完璧に理解ができるといったわけでもなかった。

しかし永井の口調はそっけなく、これ以上のヒントや解説をもらうのを躊躇わらせるものがあった。

そういう場合は美波がすかさず困っている様子のメンバーの側に寄って、どこがわからないのかを尋ねた。

このままでは「いい警官、わるい警官」式の授業になりそうだったが、永井も姉を見習いていねいな解説を加えるようになった。有能な人間というのは自らの能力が基準となっているので、ほかの人間に対しても自分と同等の処理能力を求めがちであり、永井はその典型といえた。周囲が熟達した技術を持ったプロフェッショナルならともかく、勉学においては普通の水準に留まるシンデレラプロジェクトのメンバーたちに永井の勉強法についていくのはかなりつらいものがあった。

美波はそんな弟と仲間たちのあいだでうまく緩衝材の役目を果たしていた。仲間たちには弟の指摘にわかりやすい解説を与え、弟にはメンバーそれぞれの性格や理解度にあわせた対応を見せた。
384 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/08/12(土) 23:20:54.67 ID:jvW3su8lO

おかげで過度な緊張感は次第になくなっていったが、今度は量の問題が現れ始めた。課題の多さのせいでメンバーたちの脳に疲労が積み重なっていたのだ。


かな子「あまいものがたべたい……」

卯月「お菓子、もうありませんね……」


三村かな子と島村卯月が痛みに似た空腹を感じて弱々しく零した。勉強をしているあいだの飲食は自由だったが、持ってきたお菓子類はすでになくなっていた。

多くの難問を解いていくうちに、脳が要求するままに糖分を摂取していたのだが、用意したぶんではぜんぜん足りなかったのだ。


凛「手もつかれたね」

未央「てか痛いよー……」


未央はペンを握ったままの右手の指を左手を使ってゆっくりと解いていった。ペンが抜けた指はまだ固く、曲がったままの指をピンと伸ばすのも一苦労といった有様だった。

385 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/08/12(土) 23:24:50.82 ID:jvW3su8lO

メンバーの疲労の色の濃さを見てとって、永井は彼女たちの机の上に円筒型のプラスチックケースを置いていった。白い容れ物には青いラベルが貼られていた。


みりあ「これ、なに?」

永井「ブドウ糖」


永井はケースを置きながら言った。


永井「タブレットだから問題を解きながらでも食べられる」

美波「休憩にしましょう!」


永井は姉に同意した。メンバーは美波の宣言に感謝してもしきれない気持ちだった。ブドウ糖は摂取してから脳に届くまで十五分から三十分かかるので、十五分間の休憩を取るのは合理的だった。

みんなが口の中でタブレットを転がして甘い以外の感想がないまま休憩していると、突然叩きつけるような勢いでドアを開けられた。アナスタシアだった。
386 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/08/12(土) 23:26:37.34 ID:jvW3su8lO

アナスタシアはここまで急いで走ってきたのか息を切らしていて、呼吸をするたびに学校指定の白い半袖ブラウスの襟ぐりと、そこに結ばれた青いチェック模様のリボンが揺れていた。アナスタシアはまっすぐ永井にむかって大きな早足で近寄ってきた。


アナスタシア「これは、この写真は……アレです。アレなんですよ、ケイ……」


アナスタシアの声には動揺が現れていた。


永井「ちゃんと閉めろよ」


永井はアナスタシアが入ってきたドアを見ながら言ったが、アナスタシアは聞いてないようだった。永井は席を立ち、ドアを閉めにいった。アナスタシアはふるふる震える両手で持った写真集に視線を落としたまま永井を追うと、さっきの絞り出すようなか細い声から一転し、急に大きな声をあげた。


アナスタシア「ミナミがセクシーすぎます!」

美波「アーニャちゃん!?」

永井「うるさい」

アナスタシア「見てください、ケイ!」
387 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/08/12(土) 23:28:37.84 ID:jvW3su8lO

アナスタシアは写真集のページをばっと開いて永井の眼前に突きつけた。


永井「これが?」


永井は開かれたページを一瞥したあと、視線をアナスタシアに戻した。


アナスタシア「水着が多いです!」

永井「アイドルなんだから水着くらい着るだろ」

アナスタシア「だから、セクシーなんです!」

美波「ア、アーニャちゃん、おち、落ち着いて」


美波の声は動揺のあまり、ちゃんと伝わってないようだった。


永井「ていうかこの写真集、サンプルだろ。どっから持ってきたんだ?」

アナスタシア「プロデューサーから借りました」


永井はため息をついて、アナスタシアから写真集をひったくると、最初のページに戻った。席に着いた永井は姉が被写体となっているグラビア写真の点検をはじめた。
388 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/08/12(土) 23:31:42.49 ID:jvW3su8lO

美波「えっ……よ、読むの? 圭」

永井「印刷のミスとかがないかチェックしないといけないし」


永井は業務的な態度で姉に答えた。アナスタシアは腰を屈め、永井の肩口から写真集をのぞき込むと、美波の水着や濡れて透けたTシャツの過度な色っぽさをいちいち指摘していった。永井はそんなアナスタシアが邪魔でしかたないといった表情をしながら、無視してページを進めていく。

そのような二人の様子をシンデレラプロジェクトのメンバーたちはなんとも言えないまま居心地悪そうに眺めていた。


凛「反応が対照的すぎる」

卯月「永井君、ドキドキしないんでしょうか?」

未央「いやまあ、弟だからね」

杏「アレが普通なんだね」

未央「最近までアイドルことぜんぜん知らなかったみたいだから、みなみんが基準になってんじゃない?」

みりあ「ねえ、美波ちゃんが」

美波「許して……謝るから、許してぇ……」


アナスタシアと弟が自分の写真集を見ている現実に、美波は顔を赤くしながらもだえていた。
389 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/08/12(土) 23:34:08.77 ID:jvW3su8lO

未央「ああ……うん。これはキツいわ」

智絵理「わたし、家族が自分の歌を口ずさんでるだけでも恥ずかしいのに……」

蘭子「恥辱」

李衣奈「でもさ、永井君はなんというか、淡々としてるしさ……」

みく「余計にキツくない?」

卯月「えっ、美波ちゃん、こんなポーズ……」

未央「しまむーいつの間に」

アナスタシア「ケイ、これ! このメイド服、肩と胸が見えすぎです! 前のページはふつうだったのに!」

永井「なんでカウボーイが使う牛追い鞭を持ってるの?」


永井は姉に尋ねたが、美波は顔を伏せたまま「知らないよぉ……」と消え入りそうな声で言うだけだった。いつの間にかギャラリーが増えているのに気づいた永井は、人の多さにうんざりしてページをめくるのをやめ、アナスタシアに振り返り聞いた。
390 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/08/12(土) 23:37:53.69 ID:jvW3su8lO

永井「で、なにが言いたいんだよ?」

アナスタシア「ミナミにカワイイ衣装を着せてください!」

永井「プロデューサーに言えよ」


永井が面倒そうに前に向き直ったとき、写真集のページが自然にめくれた。

空気が凍ったような気配を感じた美波はふと視線だけをあげてみると、弟やアナスタシアだけでなく、彼らの周囲にいたメンバーたちも固まって、机の上にある写真集に視線を注いでいた。

美波は異様な雰囲気に息を飲みながらやっとの思いで立ち上がり、恐るおそる慎重に自分以外の人間が見つめたままでいる自分のグラビアに近づいていった。

二ページ使った見開きに写っていたのは、小悪魔の格好をした美波が椅子の背を前にして脚を大きく開脚しながら振り向いている姿だった。短いスカートの裾がすこし上がり、そこから木の座面に押し付けられ膨らんだようすの大腿部からヒップのラインが覗いていた。見返る美波の横顔は口の辺りが右肩に隠れていた。黒いナイロン生地に覆われた肩の上から見える頬は朱に染まり、さらにその上に潤んだように光る茶色の瞳としとやかに垂れた瞼の線があった。

永井は静かに写真集を閉じた。
391 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/08/12(土) 23:42:12.86 ID:jvW3su8lO

美波「あっ……えっ……」


美波はこのグラビアの過度な色っぽさに説明を試みようとしたが、言葉にはならず息が洩れるばかりだった。一同は美波の呼吸音に顔を上げた。その表情を見た美波はへなへなと元の位置に戻り、ふたたび顔を伏せた。いまにも泣き出しそうな雰囲気があった。実際、うめき声のようなものが聞こえた。


アナスタシア「パルゴヴォイ……ミナミ、エッ……」


永井は右手に持った写真集をすばやく後ろに振って、左肩のあたりにあるアナスタシアの顔を写真集のカバーで叩いた。パンという軽快な音が教室に響き渡り、二人の周りにいたメンバーたちは驚いてその場から飛び退った。


きらり「にょわっ!?」

未央「顔は! 永井君、顔はやめよう!」


アナスタシアはのけ反った頭を元に戻し鼻を押さえながら、腕を上げて手のひらを見せ、自分の落ち度を認めるジェスチャーを示した。
392 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/08/12(土) 23:46:49.63 ID:jvW3su8lO

永井「まあ、そろそろ別の路線の仕事も入れるべきかも」


永井がぼそりと言った。


アナスタシア「おねがいします、ケイ」


鼻を押さえてるせいか、アナスタシアの声はすこしくもぐっていた。


永井「プロデューサーと相談してみる」

アナスタシア「わたしもいっしょに行きます」

永井「勉強しろよ」

アナスタシア「歩きながらやります」


永井はそれ以上なにも言わなかった。二人が部屋から出て行くと、部屋に残されたメンバーは、羞恥に呻きながら顔をうずめている美波をいったいどうやって励ますかという、この日いちばんの難題に頭を悩ませることになった。

393 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/08/12(土) 23:48:21.37 ID:jvW3su8lO
番外編そのA


休憩中、ラウンジの自販機で缶コーヒーを買おうとする永井に、アナスタシアと蘭子が話しかけてきた。


蘭子「黒き分け身を我が眼が捉えんと欲しているの」

永井「……」


永井は無言で蘭子を見つめた。


蘭子「えっと……そのぉ……」

アナスタシア「アー……黒い幽霊が見たい、と言ってます」


アナスタシアの後ろで蘭子がこくこくと頷いた。


永井「見せたらいいだろ」

アナスタシア「むずかしいです……チゥーストヴァ、感情を強く込めるの」

永井「舞台稽古かよ」
394 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/08/12(土) 23:50:10.65 ID:jvW3su8lO

永井は自販機に硬貨を入れて、缶コーヒーを買おうとしていた。 アナスタシアもつられて自販機のラインナップを見ると、新しく並んでいるきな粉味のスタミナドリンクに興味を惹かれた。


アナスタシア「きなこ……」

永井「自分で買え」


そう言うと永井はブラックコーヒーのボタンを押した。ガコンという音がして、永井が取り出し口からコーヒーを取り出す。

アナスタシアは一瞬ムッとしたが、永井の態度はいつものことなので、気を取り直してIBMについて質問することにした。


アナスタシア「オグラ博士はケイの幽霊を見た、と聞きました。ケイは、どんな感情をこめたのですか?」

永井「殺意だけど」
395 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/08/12(土) 23:51:31.84 ID:jvW3su8lO

アナスタシアの背後で蘭子がぴぃっ、とちいさく悲鳴をあげた。アナスタシアも内心穏やかではなかったが、さらに質問を重ねた。


アナスタシア「……きらい、なんですか? 博士のこと……」

永井「なんで?」

アナスタシア「だって……」

永井「好悪の感情に関係なく人は殺せるだろ?」


永井は缶コーヒーの蓋を開けた。永井の答えに蘭子は本気で怖がっていたし、アナスタシアは、そうだ、ケイはやばいやつだった、と質問したことを本気で後悔していた。
396 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/08/12(土) 23:53:38.47 ID:jvW3su8lO

自販機の硬化投入口の横の電光板がちかちら光っていた。四桁の数字が揃い、当たりの表示がされている。
アナスタシアは思いきってきなこ味のスタミナドリンクに人差し指を伸ばした。これを話題にして、果敢にも凄まじく居心地の悪いこの場の空気をすこしでも良くしようとしての行動だったが、先に永井の指が音もなく伸び、同じ缶コーヒーのボタンを押した。

取り出し口に手を伸ばす永井を見下ろしながら、アナスタシアはいじけたようにボソッとつぶやいた。


アナスタシア「ケイ、そんなことしてたら、友だち、いなくなります」

永井「カイになにかしたら、おまえ、殺してやる」


アナスタシアの背筋が一瞬凍りついた。明確な殺意を身に浴びて恐怖した。それが一瞬だけですんだのは、永井自身が言った直後にさっきの反応は早とちりだったし、過剰だと省みて殺意をおさめたからだった。

永井はふたたび硬貨を自販機に入れた。商品ボタンが点灯すると、永井はアナスタシアに聞いた。


永井「……きなこ味?」


永井が自販機の見本を指差した。


アナスタシア「……きなこ味」


そう答えたあと、アナスタシアも永井と同じ見本に指先を向けた。永井がボタンを押すと、商品が取り出し口に落ちてきた。
397 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/08/12(土) 23:55:43.75 ID:jvW3su8lO

永井「神崎さんは?」

蘭子「はひっ!?」


永井に尋ねられた蘭子は肩をビクッと震わせた。スタミナドリンクを手に取ったアナスタシアは、永井の視線から蘭子をかばうように二人の間に割って入った。


アナスタシア「ランコも、きなこ飲みますか?」


蘭子は戸惑っていたが、やがてゆっくり頷いた。永井がボタンを押し、ふたたびがこんという音がしたとき、自販機のルーレットがまた当たりを出した。

アナスタシアは即座に動いて同じ飲み物のボタンを押していた。 飲み物を手に取った途端、取り出し口からまた音がしたので永井は奇妙に思った。

アナスタシアは流れるような動作でボタンから取り出し口に手を移動させ、ドリンクの瓶を手に取ると、永井に押しつけるように手渡した。
398 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/08/12(土) 23:57:55.97 ID:jvW3su8lO

三人はラウンジにある円形ベンチに腰掛け、ドリンクを飲み始めた。

永井は飲み物を奢った時点でさっさとその場を離れたかったのだが、アナスタシアが蘭子を怖がらせた分はきっちり埋め合わせをしろと視線で告げていたし、永井自身も必要のない感情を蘭子にも見せてしまったことに多少の申し訳なさも感じていた。

しかし、きなこの味がするという以外に飲み物についての感想はなく、空気は相変わらず重かった。

アナスタシアはがんばって蘭子が興味を持ちそうな話題を話して、さっき永井が見せた殺意のことを忘れさせようとした。

アナスタシアが話したのはロシアの民話に登場する不死身のカシチェイという老人についてだった。ニコライ・リムスキー=コルサコフが歌劇の主題にもしたこの老人は痩せこているが強い魔力を持った魔王で、不死身の源である魔法の針を折られれば死ぬが、その針は念入りに隠されている。オークの木の上の長持ちがあり、その長持ちの中にはウサギがいて、さらにウサギの中にアヒルが入っており、そしてまたアヒルの中には卵が入っている。魔法の針はその卵の中にある。

永井はその話を聞きながら、針を折って死ぬのなら楽な話だな、と思った。

ロシア民話について語るアナスタシアのがんばりが功を奏して、蘭子は話に夢中になり、元気を取り戻したようだった。
399 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/08/12(土) 23:59:13.85 ID:jvW3su8lO

蘭子「分け身たる黒き従者はやはり不可視であったか」


休憩時間がもうすぐ終わろうというとき、蘭子が残念そうに言った。


アナスタシア「ランコ、もうすこし待っていてください。ポカーザノ……見せられるようにしますから」

永井「おまえが神崎さんに殺意を持つのは無理だろ」

アナスタシア「ほかの感情!」

永井「あそう」


と、そこで永井の身体から黒い粒子が放出されるのを、アナスタシアは見た。
400 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/08/13(日) 00:01:09.14 ID:P+sjA4XXO

アナスタシア「オイ!」


ロシア語で驚きの声をあげながら、アナスタシアは背中で蘭子に覆いかぶさり咄嗟にIBMを発現した。

永井から放出された黒い粒子は人型IBMを作らず、空気の中に消えていった。

アナスタシアは、いったいケイはなんのつもりだったんだろうと訝りながら身体を起こし、蘭子に振り返った。

蘭子の目は驚いたように見開いてた。


アナスタシア「アー……いまのは、ロシア語で」

蘭子「幽霊……?」


蘭子の視線を追うと、たしかにその先にアナスタシアが発現したIBMが立っていた。


アナスタシア「ランコ、見えますか?」


蘭子はこくこくと頷いた。

アナスタシアは永井のほうに向き直った。永井はもうその場から離れていて、ドリンクの空き瓶と缶を捨てるとすぐに去っていった。
401 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/08/13(日) 00:02:51.28 ID:P+sjA4XXO

蘭子「星光りの如き十字架よ!」


蘭子の瞳も星のように輝いていた。

アナスタシアは、そうか、こういう気持ちになればいいのかと思った。自分ではない誰かを必死になって守ろうとする気持ち。おそらく、ケイもこの気持ちのことを知っているのだろう。

アナスタシアは永井が折れていった廊下から視線を戻し、ふたたび蘭子を見つめた。


アナスタシア「リクエスト、ありますか? ランコ」


それからアナスタシアのIBMは人間には不可能なさまざまな動作を披露して蘭子を驚かせ喜ばせた。五分ほどしてIBMが消滅すると、二人はラウンジからレッスンルームへと向かった。移動中のおしゃべりの内容は、当然アナスタシアのIBMについてだった。


蘭子「でも、ちょっとこわかったかも……」


ひとしきり興奮が収まったあと、蘭子がポツリと言った。


アナスタシア「仕方ないです。ケイは、ああいう性格ですから」

蘭子「アーニャちゃんの幽霊のこと……」

アナスタシア「オイ!」


アナスタシアはまたロシア語で驚きの声をあげた。
402 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/08/13(日) 00:04:45.55 ID:P+sjA4XXO
番外編そのB


アナスタシア「ラッキースケベ、という言葉があります」

永井「あ?」


衣装合わせに向かう途中、アナスタシアが出し抜けに言った。永井は冷ややかな目でアナスタシアを見た。このような目で見られることに慣れつつあることを感じながら、アナスタシアは話を続けた。


アナスタシア「ディエーヴァチカ……女の子がたくさんいるところに、男の子がひとりだと、To LOVEるが起きます。マンガで読みました」

永井「マンガを間に受けてるのかよ」


永井は呆れて頭を下げると、面倒から逃れるようにアナスタシアを残してつかつかと先に進んだ。アナスタシアはいつもより大股で歩きながら永井を追いかけ、結論を聞かせた。
403 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/08/13(日) 00:06:05.10 ID:P+sjA4XXO

アナスタシア「衣装室、いきなり開けたらダメ、ですよ?」

永井「それくらいの常識はマンガじゃなくて親に教えてもらえよ」


永井の煽るようなもの言いに、アナスタシアは腕を伸ばしただけの痛くないパンチを永井の肩に繰り出して答えた。ちゃんと拳を作ってなかったので、軽く曲げた指が永井の肩甲骨に当たったとき、がくんと関節が折れ、痛かった。

ひー、という表情をして右手の指をおさえるアナスタシアを見て永井はため息をついたが、それ以上のことはせず、バカと言うこともなかった。

そうしているうちに二人は衣装室に到着した。永井がドアをノックすると、中からどうぞ、という声が聞こえてきた。

衣装室にいたのは十時愛梨だった。


愛梨「あっ、アーニャちゃんに永井君」
404 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/08/13(日) 00:07:34.06 ID:P+sjA4XXO

愛梨はバニースーツに身を包んでいた。肩を露出した赤いボディスーツの前は黄色いボタンで窮屈そうに留められていて、足ぐりのあたりには黒いフリルが舞っていて、お尻のほうにも黒くて丸い尻尾飾りが整ってついている。網タイツに包まれた脚が伸びている先にあるハイヒールもスーツと同じ赤色で、ウサギの耳をかたどったヘアバンドや蝶ネクタイなど、バニーガールにお馴染みの装飾もしていたが、カフスはなく左手首に金色のブレスレットを二つつけていた。


アナスタシア「プリヴィエート、アイリ。ウサギさん、ですね?」

永井「まだ終わってないんですか?」

愛梨「はい〜……じつはこの衣装、サイズがちいさくて……」

永井「衣装さんは?」


永井は衣装の裏に衣装係が隠れていないかと探すように部屋を見渡した。


愛梨「直しに必要な道具を取りに行ってるみたいです」

永井「そうですか」
405 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/08/13(日) 00:08:59.57 ID:P+sjA4XXO

永井は手帳を取り出し、この後のスケジュールを確認した。愛梨の女性らしい丸みをおびたボディラインを強調する姿を見ても、永井にこれといった感想はなく、バストがおおきくなったかもとこぼす愛梨に、体型維持は大変ですね、と永井は手帳に目を落としたまま淡々と言った。

その返答はどうなのかと思いつつ、アナスタシアはこれほどふわふわしてセクシーな愛梨を前にしても普段と変わらない態度をとるケイは、さすがにミナミの弟だなと思ったりしていた。

とはいえ、懸念もあった。永井と愛梨はある意味で互いに無警戒と言えたからだ。永井は無関心のため、愛梨は天然な性格のためだった。二人してボタン糸が醸造しているサスペンスに気づいていない。もしも場合に備えてアナスタシアは身構えていた。
406 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/08/13(日) 00:11:03.06 ID:P+sjA4XXO

永井「僕たちはラウンジで待ってますから……」


と永井が言ったとき、愛梨の胸元のボタンが弾け飛んだ。

それからこれらのことがほぼ同時に起こった。

おおきな乳房が衣装から零れ落ちそうになり、愛理はあわてて声をあげながら背中を丸めて両腕で胸を押さえ、愛梨の声に反応し顔を上げた永井の右目にボタンが回転しながら命中し、反射的に痛むところを手で押さえようとしたら、アナスタシアが永井の視界を覆い隠そうと突き出した手がさきに永井の目元に届き、その右目に二撃目を打ち込んだ。


永井「痛ってえっ!」

アナスタシア「ああ! ごめんなさ……」


永井は反射的に右足を打ち上げて反撃をしていて、真新しい革靴の固い爪先がアナスタシアの向こう脛を蹴った。
407 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/08/13(日) 00:13:11.43 ID:P+sjA4XXO

アナスタシア「いったい!」


ロケットみたいに跳び上がりながら、蹴りつけられた右足をアナスタシアは赤くなった脛を両手でばっと押さえた。あまりにすばやく足を上げたので、アナスタシアはバランスを崩し、右目を押さえている永井のいる方に倒れてしまう。ふたりして後方に倒れこむと永井の背中がドアにぶつかり、鍵のかかってないドアは二人分の体重と衝撃で勢いよく開いた。

永井とアナスタシアの二人は廊下に倒れこんだ。アナスタシアは倒れた拍子に脛を押さえていた両手を思いっきり投げ出していた。それは永井も同様で、アナスタシアの後頭部ががら空きの目にぶつかり、永井の右目にまた衝撃が届いた。

開いたドアは壁にぶつかると勢いはそのままで跳ね返り、永井の身体に上向いて重なっているアナスタシアの赤く腫れた脛めがけて、角のところがまるで引き寄せられるみたいに戻ってきた。


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408 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/08/13(日) 00:18:19.30 ID:P+sjA4XXO
>>407 訂正


アナスタシア「いったい!」


アナスタシアはロケットみたいに跳び上がりながら、蹴りつけられた右足の赤くなった脛を両手でばっと押さえた。あまりにすばやく足を上げたので、アナスタシアはバランスを崩し、右目を押さえている永井のいる方に倒れてしまう。ふたりして後方に倒れこむと永井の背中がドアにぶつかり、鍵のかかってないドアは二人分の体重と衝撃によって勢いよく開いた。永井とアナスタシアはふたりして廊下に倒れこんだ。

アナスタシアは倒れた拍子に脛を押さえていた両手を思いっきり投げ出していた。それは永井も同様で、アナスタシアの後頭部ががら空きの目にぶつかり、永井の右目にまた衝撃が届いた。

開いたドアは壁にぶつかると、勢いはそのままで跳ね返り、永井の身体に上向いて重なっているアナスタシアの赤く腫れた脛めがけて、ドアの角がまるで引き寄せられるみたいに戻ってきた。


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409 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/08/13(日) 00:20:07.60 ID:P+sjA4XXO

衣装係が戻ってくると、そこには混沌としかいいようのない状況が広がっていた。

右目を押さえた永井は壁に手をつきながら冬のナマズのように動かず黙りこくっているし、アナスタシアは涙目で脛を押さえながらうーうー呻きながら廊下を転がっているし、バニーガールの衣装を着た愛梨は破けた胸元を隠しながらどうしたらいいかわからず廊下でおろおろしている。なにがあったらこんなことになるのか、衣装係はぜんぜん理解できず、ぽかんとしたまま口を開けていた。

その後の衣装合わせはとてつもなく重い空気の中で行われた。永井の右目は眼帯で覆われているし、アナスタシアの右足を上げる動作はぎこちないし、衣装係はとにかくはやく帰りたがっていた。三人とも、衣装のサイズが合っていればもうなんでもよかった。

それからしばらく、永井は胸の大きい女性がボタン付きの服を着ていると警戒して距離をとり、アナスタシアも永井が大きなバストに警戒しているときは蹴りが届かないところまで離れるようになった。

二人は胸の大きな女性を中心にして反対側に距離を取るので、警戒された女性からすれば、そのかたちはまるではさみ打ちのかたちのように見えた。
410 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/08/13(日) 00:24:53.29 ID:P+sjA4XXO
今日はここまで。本編の続きは資料とか読んでて、なんとか構成が見えてきた感じです。

また本編に苦戦したら番外編を書くかもしれません。次に書くとしたら、永井とありすかなとぼんやり考えてます。いまのところ確実に言えるのは、永井はデレないということくらいです。
411 : ◆X5vKxFyzyo [saga]:2017/09/25(月) 19:46:37.69 ID:Tw0BKg/zO
−−水曜日 午前九時五十八分。


 水曜日。決行の日。田中は椅子に浅く腰掛け、型落ちした薄型テレビの黒い画面を見つめていた。

 田中は一昨日もこうしてここに座り、いま自分の顔の輪郭が崩れたようにぼんやりと浮かんでいるこのテレビで厚生労働省の会見の様子を見ていた。予想していた通り、奴らは嘘と誤魔化しと言い逃ればかりを口にした。それはあらかじめわかっていたことだった。この十年で味わった苦痛はいまでも鮮明に覚えていて、眼を閉じればすべてが容易く思い出された。口の中に逆流してくる自分の血の味や膨らんだ鼻の穴から抜けていく血の臭いさえも。

 田中は射抜くような視線をテレビの画面に向けた。厚労省の広報官は見も知らぬ男だったが、でたらめを口にしているという理由だけで殺せそうな気がしてきた。だが、実際にこの広報官が眼の前にいて、自分の手に拳銃が握られていたとしても、田中はその男の口を撃つことはなかっただろう。広報官のことなどどうでもよかった。田中にはもっと他にやるべきことがあった。

 準備を終えた田中は会見を見ていたときと同じ姿勢で、液晶画面に写る自分の顔を見つめていた。うっすらと滲んだ肌色にまとわりつく深く沈んだ黒色を見ていると、憎しみが呼び起こされ、心が奮い立った。

 時計の針が十時ぴったりを指した。田中はキャップ帽を目深かにかぶり、椅子から立ち上がった。

 部屋から出て準備を終えた佐藤らと合流すると、田中は緊張で四五口径のコルトを握る手の強張りを解こうと頭の中で計画と役割を反芻し、やるべきことを心に刻みながらアジトを後にした。


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412 : ◆X5vKxFyzyo [saga]:2017/09/25(月) 19:48:26.18 ID:Tw0BKg/zO
−−午前十時五十六分。


 スクリーンのような横幅の広いガラス窓から差し込んでくる光線は壁に斜めの線を走らせ、三角錐を横倒しにしたような明るい領域を社長室のデスクのあたりに作っていた。

 グラント製薬の社長はデスクにしまわれた椅子の後ろに立ち、身体の向きを斜めにして窓の外を眺めている。佐藤からの爆破予告を受けたにもかかわらず、その様子に動揺したところはなく、平然としている。たかをくくっているとも言えそうな様子だった。


機動隊隊長「社長」


 背を向けて高層ビルが立ち並ぶ外の景色に目を向けているグラント製薬の社長にむかって、警備の現場責任者である機動隊の隊長が声をかけた。



機動隊隊長「社員を帰宅させるべきです」


 隊長の声は落ち着いていたが、真剣だった。


グラント製薬社長「時は金なりだ」


 振り返った社長が機動隊の隊長に答えた。


グラント製薬社長「一日の休業で何億の損失になると思う」

機動隊隊長「人命に係わります」

グラント製薬社長「金と命は同義語だよ」


 そう言うと、社長はふたたび窓のほうへ首を向けた。

413 : ◆X5vKxFyzyo [saga]:2017/09/25(月) 19:56:14.17 ID:4fkctst+O
グラント製薬社長「もし、IBMなんてものが実在するとして、何ができるというんだ」


 社長室から見下ろす視界に映っているのは、盾を装備した機動隊がグラント製薬の本社ビルをまるで城壁のようにぐるりと囲んでいる光景だった。機動隊のほかに百五十名近くの警察官が本社ビル周辺の警戒にあたり、不審車両のチェックのため交通規制を敷いている。そのため、グラント製薬の周囲の道路には車が延々と連なり、遅々として進まなくなっていた。

 警備の警官は屋上にも配置されていた。屋上の西側の端に無線を持った警官が待機していた。日光が顔に当たるのを避けるため、その警官は顔を下げていた。無線に指示がはいると、その警官は顔を上げ、給水口に繋げられた消化用ホースの側で待機している同僚に放水を始めるように伝えた。ホースの口は屋上の四隅に向けられていて、警官が栓を操作すると萎んで横たわっていたホースが強い水の流れによって膨らんだ。

 上向いたホースから放出された水流は放たれた直後に拡散し、ばらばらの滴となって光を浴びながら落ちていった。

 水滴は社長室の窓ガラスにも張り付き、泳ぐようにして下に向かっていく。滝の裏側を見ているような光景だった。
 
 
グラント製薬社長「この建物を吹き飛ばすのに何キロの爆薬が必要だと思う?」


 グラント製薬の社長は窓ガラスをつたう水滴を眺めながら言った。


グラント製薬社長「この警備の中コソコソ持ち込むなんて不可能だよ」

グラント製薬社長「帽子の男の虚言になど付き合ってられん」


 そのように言う社長の口調は、まるでこの鉄壁の警備が、自らの力によって組織されたかのような口ぶりだった。


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414 : ◆X5vKxFyzyo [saga]:2017/09/25(月) 19:58:24.06 ID:4fkctst+O
−−午前十一時三十九分。


 軋んだ音が上方から聞こえてきて、中野は上を見上げた。はじめはまるで卵にひびが入ったかのように光が線となって暗闇を切り裂いたかと思うと、光は徐々に細長い長方形になり、最後に白く輝くひとつの面となった。薄暗く死ぬほど蒸し暑いコンテナのなかに、二十四時間ぶりに陽の光が差し込んできた。

 永井は昨日と同じように水と食糧のつまったビニール袋をコンテナの底にいる中野めがけて落とした。重力に従って落下してくる食糧を中野は両手で受け止める。腕が汗でぬめっているせいで、あやうく中野はビニール袋を取り落としそうになった。

 食糧を受け渡すと、永井はさっさとコンテナの扉を閉めようとした。扉を開けたとき、熱気が蒸気のようにむわっと立ち昇ってきて、はやく退散したかったからだった。


中野「永井! もう水曜だぞ」


 永井が開いたコンテナの扉に両手を置いたとき、隅にビニール袋を置いた中野が真上を向きながら大声をあげた。

 中野の声はコンテナの内壁に跳ね返り、反響を伴いながら永井の耳に届いた。永井はキーンと響く声に顔をしかめた。

 中野が閉じ込められているのは、崖から投棄されたトラックで、そのコンテナ部分に意識を無くしていた中野は放り込まれたのだった。車輌は落下の衝撃でぐしゃぐしゃにひしゃげていて、タイヤも年月の経過によってボロボロになり穴も空いている。コンテナには錆がまとわりついていたが、黒い幽霊でも破壊できないほどの頑丈さは損なわれていなかった。


永井「だから?」


 扉を閉める手をとめ、永井が聞き返した。


中野「佐藤を止めるんだよ! このままじゃ大勢殺されちまう」

永井「前にも言ったけど、日本のどこかで他人がどうなろうと僕の知ったこっちゃない」

中野「だったらおれだけでも出してくれよ! 一人でもやつを止める」

永井「僕の居場所を知ったおまえを解放するわけないだろ」


 永井は中野の物わかりの悪さにあきれ果てた。

415 : ◆X5vKxFyzyo [saga]:2017/09/25(月) 20:00:06.77 ID:4fkctst+O
undefined
416 : ◆X5vKxFyzyo [saga]:2017/09/25(月) 20:01:29.44 ID:4fkctst+O

永井「一九九四年、ルワンダで八十万人が虐殺されたとき、国際社会は虐殺が進行中と知っていて何もしなかった。虐殺は以前から計画されたもので、それが始まる三ヶ月前にPKO司令官が阻止するために軍事介入を提案したが国連は却下した。資源の乏しいアフリカの小国家の紛争に干渉しても何も得がないからだ」

永井「日本も例外じゃない。当時の国連難民高等弁務官は日本人だった。だがその弁務官が政府に対してできたことといえば、自衛隊を当時のザイールにあった難民キャンプへ派遣するよう要請することぐらいだった。そのキャンプには虐殺の加害者もいたが、加害者と被害者を区別ができないまま支援活動を続けるしかなかった」

中野「なにが言いたいんだよ」

永井「起こりうる危機的な事態を阻止することも、起こってしまった悲劇的な事態への充分な対処もほとんど不可能だってことだよ。僕らがいるのは、事後的で、消極的な世の中ってことだ」


 陽の光で熱くなっているところに触れないよう気をつけながら永井は扉に手をかけた。永井が扉を閉じようとするのを見てとった中野はとにかくまた声をあげて、外へ出すように訴えようとした。中野の口から大声が飛び出るまえに、永井がまた顔を下に向けた。

 息継ぎをするかのように蝉の鳴き声が落ち着き、微風が涼を運んできた。

 永井はまるで折衷案を提案するかのように、中野に言った。


永井「佐藤を止めたいなら、このまま事を起こさせろよ。被害が大きければ大きいほど、政府も本腰を入れて対応するはずだ」


 それを聞いた瞬間、中野の頭から考えが吹き飛んだ。 激昂した声が空にまで届くような勢いで飛んできた。


中野「ふざけんな! クズが」

永井「わめいてろ、バカが」


 不毛さを感じながら、永井は冷たく言い返した。永井はコンテナの扉を閉めた。

 熱気のこもるコンテナの壁を中野は苛立ちながら何度も何度も強く蹴りつけた。分厚い金属の壁は打ち付けられた力をすべて受け止め、外の世界をいままでと同じ、何も変わらないままにしていた。風鈴を揺らす程度のそよ風がゆるやかに抜け、木々の陰にいる蝉たちが眩しい光から隠れながら、ふたたび鳴き始めた。


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417 : ◆X5vKxFyzyo [saga]:2017/09/25(月) 20:04:23.58 ID:4fkctst+O
>>416の前に入る文章の一つ目です。


中野「あの女の子は逃したって言ってたじゃねえか」

永井「彼女はアイドルとして世間に顔が知られてるから、長期間の拘束は僕にもリスクがある。加えて、僕は彼女の正体が亜人だということを知っている。僕がふたたび捕獲されるようなことは彼女にとっても不利益になる。この二点がおまえと違う」


 中野は復活した直後に聞かされたことを根拠に反論を試みた。それは当然嘘だったが、それに対する永井の返事は事実を含んでいた。有名アイドルの失踪事件となればメディアは騒ぎ出すだろうし、警察も動く。目撃証言や駅の監視カメラの映像を調べて足取りをたどれば、この辺りの地域で姿を消したことはすぐに発覚するだろう。それは警察が、永井が潜伏している村にまで訪れるというリスクが発生する事態になり兼ねないことだった。

 だが、このリスクはアナスタシアをスケープゴートにした際のメリットを考えれば、許容するに値するものだった。しかも永井は、このリスクが現実化する可能性はあまり高くないと踏んでいた。

 警察は、アナスタシアの失踪に事件性を見出ださないだろうと永井は考えている。アナスタシアとの会話やその表情から永井が感じたのは、現在の姉の状態にアナスタシアはひどく心を痛めているということだった。姉と面識のある人間は、多かれ少なかれ同情と心痛を抱いているだろうが、アナスタシアのそれは氷河を二分するクレバスのように深く刻まれているように思えた。このような心理状態なら、突然姿を消しても、警察は失踪を突発的な逃避行動と判断するだろう。両親や友人、プロダクションの人間が違うと訴えても、証拠がなければ警察はまず行方不明者の捜索を行わない。
418 : ◆X5vKxFyzyo [saga]:2017/09/25(月) 20:07:34.29 ID:4fkctst+O
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419 : ◆X5vKxFyzyo [saga]:2017/09/25(月) 20:09:39.82 ID:4fkctst+O
>>416の前に入る文章二つ目です。

 行方不明の原因が事件や事故による場合や生命に危険があると判断された場合、捜索対象者は特異行方不明者に分類され、警察による速やかな捜索が行われる。これに分類される条件はさまざまあるが、そのひとつに十三歳以下の子供や高齢者など、本人のみの生活が困難だと考えられる者という条件があり、十五歳のアナスタシアはこれに当てはまらない。警察が行うであろうことといえば、巡回の際の聴き込みがせいぜいだろう。それに佐藤の爆破テロの件もある。今日のテロが成功すれば、佐藤の情報を得ることが聴き込みの最優先事項になるだろう。あとはタイミングを見計らってアナスタシアが亜人だという証拠映像をアップロードすればいいだけだ。もちろんアップロード地点が発覚しないように工作を施す必要はあるが、平穏な生活を送り続けられるなら全く苦にならない作業だ。

 そのアナスタシアといえば、いまも井戸の底にいて、無酸素状態のなかでエンドレスで死に続けている。


中野「居場所はバラさねえって!」

永井「問題外だな」

 そこで会話は終わりになるかと思えた。だが、永井の手は扉に伸びず、影のせいで黒に覆われた顔を下に向け中野を見下ろした。永井は唐突に話をしだした。

420 : ◆X5vKxFyzyo [saga]:2017/09/25(月) 20:12:02.99 ID:4fkctst+O

−−午後一二時二五分。


 プロデューサーはもう何度目にもなる「おかけになった電話番号は……」のメッセージに徒労をおぼえ、携帯電話を耳から離した。それから着信履歴を確認する。不在着信の履歴は五日前から変わっていない。五日前の正午前にはいったそれはアナスタシアからのものだった。プロデューサーからの連絡に折り返したもので、アナスタシアが残したメッセージには、勝手に外出したことへの謝罪とできるだけはやく帰寮するとあった。

 その日、アナスタシアは日の出前の薄暗い時刻から女子寮を出、どこかに出かけたらしい。七時前に出るときにはアナスタシアの靴はすでになかったと、ロケのため早朝に寮を出発した小早川紗枝が証言した。オフの日だったため外出そのものは問題なかったのだが、いまのような状況でアナスタシアがどこかへ出かけるというのはどこか妙な感じがした。

 いま、このようなとき、アナスタシアは美波から遠く離れてしまうような少女ではなかったはずだ。しかし、それは無責任なただの願望に過ぎないのではないかとプロデューサーは思い直した。亜人、とりわけ永井圭の置かれた状況の苛烈さは想像を絶する段階まで突き進んでいて、おそらくまだ止まないだろう。世間では、美波もこの状況を成す要因のひとつと見なされている。多くの憶測がなされ、なかには美波が亜人管理委員会に弟を一億円で売り渡したというデマもあるくらいだ。
421 : ◆X5vKxFyzyo [saga]:2017/09/25(月) 20:14:23.59 ID:4fkctst+O

 デマを信じる者はいなかったが、問題は美波自身がこのデマのような行いをしたのだと思い込んでいることだった。美波が実際にあったことと異なる自罰的な認識に至った理由は、永井圭がこのうえない苦痛を与えられたと暗に示すあの映像のせいだった。

 研究所に拘束された弟がどのような目に遭ったか、美波はすでに知っている。同様の苦痛を味わった国内二例目の亜人田中は、佐藤と行動を共にしている。つまり、田中もグラント製薬の爆破に賛同しているということだ。

 なら、弟は?

 永井圭が拘束されていた期間は十日と少しで、田中よりはるかに短い。もしかしたら、弟はあの映像のような目に逢っていないかもしれないと思うこともあった。そう思った直後、美波は激しい罪悪感と自己嫌悪へ振り戻された。

 なにもなかったのなら、なぜ弟は研究所から逃げ出したのか? 仮になにもなかったとして、それはあの段階ではまだということだけではないか。

 佐藤と田中は、武力を使ってでも亜人の権利獲得にむけて行動すると宣言した。はたして圭は、彼らの仲間に加わっているのだろうか? この問いがふたたび美波の心に浮上してきた。そして同時に、二つの言葉の連なりも浮き上がり、まるで問いと答えのようにイメージされた。
422 : ◆X5vKxFyzyo [saga]:2017/09/25(月) 20:15:55.09 ID:4fkctst+O

《「さよならだね」って最後の言葉/耳に残るから 痛いよ/今も 愛しているから》

《ぼくはあなたを愛しています、戸口でパン屑を拾っている小鳥を愛するくらいには》


 「Memories」の歌詞に、ウィリアム・ブレイクは完璧に対応していた。ブレイクの詞の言葉は、美波のなかでは弟の声の代わりを果たすものとして機能している。美波の精神にとって、声が語る詞の一節は現実の響きを持っていた。それを否定するには、永井圭が自身の喉から発した声が必要不可欠だった。だが、それは、到底望むべくもないことだった。永井圭は姿を消したまま。美波はいまこの時ほど、弟と二度と会うことはないのだと、深く絶望的な気持ちになることはなかった。

 現在、美波は精神安定剤を服用している。美波に処方された薬のいいところは、副作用が眠くなるという点にあった。真新しいスポンジがあますところなく水を吸うように罪悪感が指の先まで染み渡り、美波の身体を重く無気力な塊にしていた。身体がこんな状態だと、意識はどんどん悪い想像を働かせる。たとえば、武力行使に参加した弟の銃が、シンデレラプロジェクトのだれかに当たってしまうという想像。しかもそれは流れ弾などではなく、眉間に向けて冷徹に躊躇いなく引き金を引いたことで撃たれた銃弾なのだ。

 こういった想像から逃れるためには、薬剤の作用とそれに伴う眠りがもっとも有効だった。夢を見ることもなく、底の底まで落ち沈む。眠るというより意識喪失というほうが正確であるだろうこの状態が、美波にとってはなによりも救いになっていた。
423 : ◆X5vKxFyzyo [saga]:2017/09/25(月) 20:17:51.22 ID:4fkctst+O

 美波にたいして効果を与えることが可能なのは現状では医師くらいなもので(それも大したものではなかったが)、アナスタシアもその他のメンバーやプロデューサーにできることと言えば、美波の味方であると伝えること、いつでもどんなときでも力になると何度も何度も伝えることくらいしかなかった。このことは彼女たちにはとても辛い事実だった。事態が深刻さを増すにつれ、言葉と実行性の溝が深まり、無力感も増していった。亜人を巡る社会状況にたいしてはどうしようもないとしても、それに押し潰されそうな美波にすらなにもしてあげらない。できないことの多くを認め、それでも寄り添うという意志を見せること。これを誠実に実行するのは、大人、医療に従事する者でも難しいことで、まだ少女であるシンデレラプロジェクトの彼女たちにはなおさらだった。

 このような状況のなか、プロデューサーはメンバーたちにまず自分のことを最優先にするよう告げた。自らの心身を健康に保ち、学校に行き勉強をし、友人たちと会話をし遊ぶ。プロデューサーは、彼女たちに楽しいと感じることに後ろめたさを感じてほしくなかった。

 アイドルとしての仕事についても同様だった。今の彼女たちは経験を積んだプロフェッショナルで、つらいなかでも仕事をこなすことができるだろう。だが、前提として彼女らは未成年で、大人が責任をもって保護しなければならない存在なのだ。プロデューサーは彼女たちが仕事を行うかどうかは、彼女たちの意志によって決定されるべきことだと考えている。だが、状況によっては自分や保護者が介入し、無理にでも休息を取らせることも必要だとも考えていた。自分を偽ってまで笑顔を作らなければならないというなら、無理して仕事を続けるべきではない。仕事に対する責任は、まずもって大人たちが背負うべきなのだ
424 : ◆X5vKxFyzyo [saga]:2017/09/25(月) 20:20:01.66 ID:4fkctst+O

 現在のところ、彼女たちは仕事を続けられてはいる。だがこれはあくまでいまのところであって、これからはどうなるかわからない。彼女たち一人ひとりの状態をきちんと見極め、状況に応じた対応していかなくては。

 アナスタシアが失踪したのは、プロデューサーがあらためて身を引き締める思いになったその矢先のことだった。

 アナスタシアが外出した日、プロデューサーは女子寮の門限の時刻に寮監に連絡し、アナスタシアが帰寮しているか確認した。連絡を受けた寮監がふたたび電話口に戻ってくると、その声には戸惑いが滲んでいるようだった。アナスタシアはまだ帰ってきていなかった。アナスタシアに電話をかけてみたが、彼女の携帯の電源は入っていなかった。

 翌日、アナスタシアがまだ帰ってきていないことを確認すると、プロデューサーはアナスタシアの両親に連絡を入れた。両親とも、アナスタシアが寮に帰っていないことに驚き、不安を感じていた。両親に承諾を取り、GPSによる位置情報の特定も行ったが、位置を特定することはできなかった。プロデューサーは彼らにプロダクションが行う対応を伝え、アナスタシアが通う高校へそちらから先に連絡をいれるよう依頼した。両親が話を通しておいてくれたおかげで、高校への事情説明はすんなりいった。担任教師からプロデューサーへ連絡が来たのは昼休みが終わる少し前の午後十二時五十分頃。夏期休暇だったので、ほとんどの生徒から話を聞くことはできなかったとのことだった。
425 : ◆X5vKxFyzyo [saga]:2017/09/25(月) 20:21:37.27 ID:4fkctst+O

 その日のうちにプロデューサーは寮監とともに警察に行き、捜索願を出した。捜索願は受理された。四日過ぎた。警察からの連絡はこなかった。プロデューサーは警察に電話してみた。捜査状況はもちろん聞き出せなかった。電話に出た警官は、今回のケースに事件性はなく、家出人の多くは一週間以内に帰ってくるのだから落ち着いて待っていてくださいと嗜めるように言った。

 電話が切れたあと、プロデューサーはアナスタシアの携帯に電話をかけた。うんざりするくらい耳にした「おかけになった電話番号は……」のメッセージがまた再生された。


ちひろ「プロデューサーさん」


 プロデューサーは話しかけられてはじめて千川ちひろが部屋に入ってきたことに気がついた。


武内P「千川さん。すみません、気づかなくて」

ちひろ「いえ。いいんです」

武内P「皆さんはまだ部屋に?」

ちひろ「ええ。仕事がない子たちはみんな。夏休みの宿題をやっています」

武内P「今月は大変でしたからね」

ちひろ「それだけというわけではなさそうですけど」
426 : ◆X5vKxFyzyo [saga]:2017/09/25(月) 20:22:45.59 ID:4fkctst+O

 ちひろはいったん言葉を切り、おずおずとプロデューサーに尋ねた。


ちひろ「その、どうでしたか?」


武内P「まだ、なにも……」

ちひろ「そうですか……」


 沈黙が耳にこびりつくかのように部屋に張りつめた。それきり二人は黙りこくってしまった。耐えがたいが、耐えるしかない重苦しさが濃霧のように広がり皮膚にまとわりついた。そのとき、昼休憩の終了を告げるチャイムが鳴った。後ろめたさを覚えたように、二人はすぐには動けなかった。時計の針は止まることなく進み続けている。すこしして、二人は時間の進みに従うようにして、それぞれの作業に戻っていった。


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427 : ◆X5vKxFyzyo [saga]:2017/09/25(月) 20:25:36.23 ID:4fkctst+O

−−午後一時三十四分。


 帽子を被った男がグレーのトレーに小さなサイズのボディバッグを置いて、手ぶらのまま金属探知機をくぐり抜ける。トレーはコンベアでX線スキャナーまで運ばれる。X線を浴びたボディバッグの中身が透かされ、保安検査員が危険物が入っていないかモニターをチェックする。財布、パスポートのほか、小物が数点。本人も金属探知機に引っかかることなく通過した。帽子の男はボディバッグを肩にかけ、搭乗ゲート前のラウンジへ歩いていく。

 次に手荷物検査を受けたのは二十代後半の母親と七、八歳くらいの娘の親子連れだった。母親はあれこれと金属品をトレーのなかに入れていく。娘のほうは水色のポーチを肩から外そうとしている。ふとガサッという音がして、女の子は天井を見上げる。女の子が見たのは、大きな紙袋が天井に張り付き、左右に揺れながら一歩ずつ着実にというふうにゲートラウンジへ向かっている様子だった。


「ママ、おみやげが飛んでる」

「いいから早くして」


 母親はトレーに目を落としたまま、娘をせかした。

 紙袋を運んでいたのは、奥山のIBMだった。ホース状の首と先細ったチューブ状の四本指が特徴的な奥山のIBMは未発達といった印象を与える形状をしていて、不器用な動作で天井の梁に指をひっかけて移動していった。IBMは左腕で紙袋を抱ながらゲートラウンジで待っている佐藤のところまでやって来ると、風に飛ばされたてんとう虫が緑の葉っぱから地面に落下するみたいにぽとりと床に降りた。
428 : ◆X5vKxFyzyo [saga]:2017/09/25(月) 20:27:13.65 ID:4fkctst+O

IBM(奥山)『ど……ぞ……』

佐藤「おつかれ」

IIBM(奥山)『ヒ……つ……ヒマ……つ……ぶしも……入る、入れ……て……おいた……よ』

佐藤「おお。気が利くね」


 しゃべりも動きもぎこちない奥山のIBM から紙袋を受けとった佐藤は、口を広げ紙袋の中身をのぞいた。


IBM(奥山)『サ……ト……さん』

佐藤「ん?」

IBM(奥山)『本……ト……本当……上手くイカ……イケ、行く……の?』


 佐藤は紙袋から視線を奥山のIBMへ向けた。それから静かに全面がガラス張りの窓に視線を移し、タラップと連結している旅客機を眺めて言った。


佐藤「省前に来てた飛べる幽霊が仲間になってくれてたら、違うプランもあったかもね……」

佐藤「でも大丈夫。MSFSには一時期ハマったから」


 佐藤はふたたび視線を奥山のIBMに戻すと、にこやかな笑顔をつくり、はっきりとした口調で元気よく出発を告げる。


佐藤「行ってきます!」
429 : ◆X5vKxFyzyo [saga]:2017/09/25(月) 20:29:01.29 ID:4fkctst+O

 佐藤は搭乗手続きを済ませ、飛行機に乗り込むとチケットに記載されている座席番号を確認した。機内には六十名ほどの乗客がいて、旅行先での計画やコンペティションの資料の見直しをしている。結婚報告を向かう若いカップルも乗っている。

 佐藤は辺りを見渡し予約した座席を探す。すこしして席を見つけそこに向かって通路を進むと、微かに音楽が鳴っているのを耳にする。うたた寝している女性の耳から外れたイヤホンから漏れ聞こえてくるその曲には聞き覚えがあった。ジョニー・キャッシュの「The Man Comes Around」。黒服の男は「叫び声に嘆きの声/生まれくる者もいれば死にゆく者もいる/アルファにしてオメガの王国が到来する」と歌っていた。

 通路を挟んだ二列後方の席に座っいる男性は、タブレット端末で『ハドソン川の奇跡』を試聴している。二〇〇九年に起きたUSエアアウェイズ1549便不時着水事故とその後の国家運輸安全委員会によるサレンバーガー機長の不時着水の判断の正当性をめぐる調査を、クリント・イーストウッドが映画化した作品だった。

 佐藤はその男性の一列後ろの窓側の席に腰を下ろした。腕時計で時間を確認すると、離陸まで三十分ほどある。佐藤は紙袋に手を入れ、奥山の言ったいた暇潰しを探すことにした。それは一冊の文庫本だった。チャック・パラニュークの『サバイバー』という特殊な形式の小説で、物語は第四十七章、四二七ページから幕を開ける。集団自殺をしたとあるカルト教団の生き残りである主人公は、小説の始まりのである終章のおいて、ハイジャックした飛行機の乗員乗客を「業界用語を借りれば、降機」させたあと、コックピットで独り、「ここに至る顛末を語った物語」をボイスレコーダー相手に語り始める。
430 : ◆X5vKxFyzyo [saga]:2017/09/25(月) 20:30:40.75 ID:4fkctst+O

 佐藤は文章を目で流しつつ、ページをめくる。章の終わり近く、四二〇ページで佐藤は手を止め、そのページの文章をじっくり読む。


「これを聞いてるなら、二〇三九便の絶対に破壊されないブラックボックスに耳を傾けているなら、この飛行機が垂直降下を終えた場所に行き、残骸を見渡してみてくれ。破片とクレーターを見れば、僕がパイロットの資格を持っていないことがわかるはずだ。これを聞いてるなら、僕が死んだことがわかるはずだ。」


佐藤「ボイスレコーダーか」


 佐藤は本から視線を上げ、窓から見える滑走路をぼんやり眺めながらつぶやいた。


佐藤「使い方わかるかな」


 しばらくして、離陸の準備が終わったことが機内アナウンスで伝えられる。客室乗務員がフライト中のサービスと諸注意、非常時の対応を説明する声が機内に響く。乗客たちは乗務員の指示に従って座席のベルトを締める。佐藤もベルトを締め、窓の外を眺める。ターミナルや管制塔や格納庫、ボーディングブリッジと連結された旅客機、着陸した航空機をスポットに誘導するマーシャラー、ハイリフトローダーによる貨物の積み込み作業など、空港内のさまざまな施設や人員が見える。

 いよいよ離陸のとき。旅客機はトーイングカーによってプッシュバックされ滑走路まで牽引される。それから離陸許可が管制塔から伝えられると、佐藤を乗せた旅客機はぐんぐんとスピードを上げてゆく。景色があっという間に後ろに流れ、速さが消えたと感じた瞬間に機体が浮かび上がる。空気抵抗による機体の振動と身体にかかるGの不可に不慣れな乗客たちが緊張するなか、佐藤はまだボイスレコーダーのことを考えていた。

 吹き込む言葉はもう決まっていて、あとは使い方をどうにかするだけだった。


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ーー
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431 : ◆X5vKxFyzyo [saga]:2017/09/25(月) 20:32:18.68 ID:4fkctst+O

ーー午後二時六分。


 高森藍子と日野茜はいつもより張りつめた感じで元気を装って歩く本田未央のとなりをすこしためらいながらも調子をあわせてついていっていた。ポジティブパッションの三人は、清涼飲料水の商品宣伝のため、撮影許可を取った学校を走り回り、きらきらと光を受ける飲料水を喉に流し込んだ。撮影は予定通りに終わり、三人は夏服から私服に着替え、いまはプロダクションへの帰路を歩いていた。


未央「夏休みの校舎って、誰もいないけどけっこう声がするよね」


 未央は普段過ごしている学校という場所に新たな見方があることに新鮮さを覚えるように言った。


茜「部活の人たちですね! ラグビー部はありませんでしたが!」

藍子「撮影のときは静かにしてくれましたね」

茜「でも目線は熱かったです! 」

未央「監督、やさしかったよね。生徒や先生の見学もオッケーだったし」

茜「おかけでいつもよりボンバーできました!」

藍子「茜ちゃんは元気ですね」

未央「ほんと、さすがだよ、茜ちん」
432 : ◆X5vKxFyzyo [saga]:2017/09/25(月) 20:33:58.59 ID:4fkctst+O

 その声には憂いの色が滲んでいて、茜の溌剌さと自分のそれを比較したとき、後者の方にふがいなさを感じでいるような言い方だった。未央の表情にほころびができるのを見た藍子は、ついに胸の内に抱えていた思いを口にした。


藍子「未央ちゃん、無理してませんか?」

未央「え? な、なんで、あーちゃん? 撮影うまくいったじゃん」

藍子「たしかにそうでしたけど、でも未央ちゃん、カメラが回ってないとき、すごく辛そうな表情でした」

未央「そんなこと……」

茜「わたしも見てました」


 未央は驚いたように茜を見た。普段の様子からは想像もつかない神妙な面持ちで、茜は静かにぎゅっと結ばれた口許を開いた。


茜「未央ちゃん、飲み物の資料を読んだときからヘンでした。なにかイヤなことを見つけたみたいで、そのあとすぐにスマホでなにか調べて、すごくショック受けてました……でもすぐにいつもの未央ちゃんみたいに元気に仕事がんばろうって言ったから、わたしも藍子ちゃんも黙ってたんです」

藍子「もしかして、美波さんのことと関係が……?」
433 : ◆X5vKxFyzyo [saga]:2017/09/25(月) 20:35:44.70 ID:4fkctst+O

 未央はすこし俯いて黙っていたが、ひた隠そうとした胸中を友人二人に言い当てられたことに動揺していて、その内面が唇に現れていた。喉につっかえる言葉をなんとか口にしようと唇はわずかに開くが、すぐに閉じてしまう。藍子も茜も足を止めて未央を見守っている。やがて未央の口がちゃんと開き、迷いがちに言葉を口にした。


未央「あのドリンクさ……作ってるの、グラント製薬なんだよね」

藍子「それって……」

未央「みなみんの弟さんに人体実験してた、かもしれないとこ」

茜「ほ、ほんとうにそうなんですか……?」


 未央は小さく「うん」とだけ言った。


未央「あ、でもあのドリンクが人体実験と関係あるとかそんなことはないと思うよ。開発してるとこは子会社っぽいし」


 未央がそのように言ったのは、友人二人が自分の動揺が移ったかのように顔から表情が消えていたからだった。思わぬ事実の露呈によって、自らが拠って立っていた地面に荒涼とした陰惨な場所を発見してしまったかのように、二人の顔は青白くなっていた。

 昼下がりの通りに人はまばらでここで三人が立ち止まったところで歩行者の迷惑にはならなかったが、未央は元気を取り戻したかのように振る舞って二人をどこか別のところに連れ出そうとした。未央たちのすぐ側を中学生くらいとおぼしき三人の少女が通り過ぎた。どうやら近くで人だかりが出来ているらしく、彼女たちははしゃいだ様子でその場所に向かおうとしていた。
434 : ◆X5vKxFyzyo [saga]:2017/09/25(月) 20:36:57.82 ID:4fkctst+O

藍子「なんでしょう?」

茜「お祭りですかね?」

未央「わたしたちも行ってみる?」


 未央は具体的な行動をとることによって気分と話題の転換を試みた。


田中「おい! やめとけ」


 突然背後から大きな声が飛んできて、未央たちをはじめ、中学生三人も驚いて振り返った。
 

田中「爆破予告があったところだぞ。面白半分でそういことするもんじゃえねえ」


 キャップ帽を被った田中にいきなり叱り飛ばされた三人は不服と困惑と仲間内で話しながらその場からそそくさと離れていった。その言葉は田中の耳にも届いていた。


田中「馬鹿野郎が」


 田中は悪態をつきながら首を振ってまた歩きだした。悪態には計画前に余計なことをした自分への苛立ちが多分に含まれていた。


未央「あ、あのっ、おじさん」


 田中は未央の呼び掛けを無視てもよかった。だが、結局足を止め顔をしかめながらも振り向いた。


未央「ありがとうございました」


 未央は頭を下げ、深くお辞儀をした。未央の両隣にいた藍子と茜もすこし贈れてお礼とお辞儀をした。

 田中は無言でその場を立ち去った。


ーー
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435 : ◆X5vKxFyzyo [saga]:2017/09/25(月) 20:42:43.22 ID:4fkctst+O

ーー午後二時三十三分から三十九分。


 高度一万フィート。そろそろベルト着用サインがオフになるというとき、佐藤が突然席をたった。佐藤は紙袋を手に通路をどんどん進んだ。


客室乗務員「お客様、ベルト着用サインがまだ……」


 客室乗務員は座席で身を捻り、通路を行く佐藤に声をかけた。佐藤は返事をしなかった。客室乗務員はトイレに寄るくらいなら別段問題はないだろうと思った。今日はフライトには最適の天候で、上空の気流は安定しており機体の揺れはほとんどない。乗客の数も平日の午後の時間帯の平均かすこし少ないくらいで、余裕をもって業務にあたれるだろう。客室乗務員は身体をもとの位置に戻した。

 佐藤はトイレの前を通り過ぎ、コックピットの扉の前に紙袋を置いた。身を屈め紙袋を破ると、佐藤は袋からバッテリー式の電気丸ノコを取りだし両手で持った。


客室乗務員「お客様?」
436 : ◆X5vKxFyzyo [saga]:2017/09/25(月) 20:43:54.21 ID:4fkctst+O

 客室乗務員は耳障りな高音にふたたび振り返った。耳にした高音からすぐさま連想したのはホイールカッターの回転音だったが、その連想が正しかったことを客室乗務員はその目で確認することとなった。
 
コックピットと客室を隔てる扉から火花が散っていた。回転刃の高音は不快に変化し、硬い金属を削りとっている。はじめは困惑しているばかりだった乗務員の気持ちに、次第に焦燥感が沸き起こり、彼女はベルトに手をかけた。何度となく扱ってきた座席ベルトに指がもつれ、それが余計に焦燥を生んだ。

 肩にかかったベルトがやっと外れる。客室乗務員は立ち上がろうとした瞬間、バランスを崩し、床に膝をついた。通路の壁に手を当て体勢を立て直し、乗務員は顔をあげる。

 その瞬間、乗務員は恐怖に凍りついた。彼女の目に入ったのは、鍵が切断されひとりでに開いたコックピットへのドアと、そこへ入っていく帽子の男の後ろ姿だった。


ーー
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437 : ◆X5vKxFyzyo [saga]:2017/09/25(月) 20:45:17.16 ID:4fkctst+O

ーー午後二時三十九分。


ゲン「手ぇー、震えてんじゃん」


 壁に背をつけ、ビルの屋上へと続く階段に尻を下ろしていたゲンが、三段上のステップに腰掛けている高橋に向かって言った。高橋はライフルバッグを足の間に挟むように立てていて、倒れないように両手で支えている。

 ゲンが指摘した通り、高橋の手は武者震いしていて、皮膚が見えるところは汗が滲んでいる。


高橋「やばい……」

ゲン「え?」


 高橋が今朝ぶりに声を出した。いつもは軽いノリでふざけてくっちゃべってばかりいる高橋は、この日ばかりは緊張で喉を詰まらせているようだった。

 高橋はライフルバッグにくっつけていた額を離し、片眼をゲンに向けた。見開いた眼は血走っていた。高橋は深く息を吸い、口を大きく開けて空気を吐き出すと、震える歯がかち合わないように笑顔を作るようにして口角をあげて、言った。



高橋「これはやばいぜ」


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438 : ◆X5vKxFyzyo [saga]:2017/09/25(月) 20:48:09.99 ID:4fkctst+O

ーー午後二時四十分から五十五分。

 コックピットに侵入した佐藤はまず機長の顔を左手で押さえ込み、右手に持ったネイルガンを喉元に押し付け、十秒ほどトリガーを引き続け機長を絶命させた。その様子を見ていた副操縦士は両腕を突き出し、狂ったようにバタバタさせた。佐藤は動き回る副操縦士の両手首をまるで空中にいる蝿を捕らえるかのように片手で押さえ込むと、ぐいっと引っ張り腕を延びきらせ、顔を剥き出しにした。

 副操縦士の顔面にどのような表情が張り付いているのか、佐藤は関心を持たなかった。目を閉じていた副操縦士は瞼の上に固くて冷たい金属的な感触を感じた。それは円形をしていた……

 佐藤はやわらかい右の眼球に八本の釘が打ち込まれた死体に背を向けコックピット入口へ手を伸ばした。慌ててコックピットに駆け込もうとする客室乗務員を尻目にドアを閉める。ネイルガンで薄い鉄板を何枚もドアに張り付け、乗務員の進入を防ぐと、佐藤は機長の死体を座席からどかしてシートに座り、操縦桿を握った。
439 : ◆X5vKxFyzyo [saga]:2017/09/25(月) 20:49:32.13 ID:4fkctst+O

 副操縦士のヘッドセットから航空管制官の声が聞こえる。マイクが拾ったコックピット内の叫び声と航空路からの逸脱について、状況の説明を求めている。ーー……便、航路を外れている。さっきの叫び声のようなものは? コックピット内は現在どのような状況だ? ーー管制官は何度も何度も繰り返し問いかけ続ける。

 進路を変更した旅客機がしばらく飛行していると、コックピットから見える景色が海上から港へと変化する。停泊中の大型船や広大な空間にまたがるコンテナターミナルの上を通過し、旅客機は街へと接近していく。

 佐藤は操縦しながら異常発生時の対処マニュアルを読んでいる。何枚かページをめくると、コックピット・ボイスレコーダーの詳細が記載されている。コックピット天井に会話収録用のマイクロフォンが装備されており、航空無線機の音声信号も簡易なミキサーを通じて収録される。

 佐藤はマニュアルを閉じると、レーダーと目視で現在位置を確認する。下方にオフィス街が見え始める。予定通りの順調なフライト。佐藤は副操縦士のヘッドセットを手に取りマイクに口を近づけ、同時に機内アナウンスのスイッチをオンにする。

 佐藤の口からある言葉が現れる。


佐藤「Are you guys ready? Let's Roll!」


 そして、言葉を言い終えたと同時に、佐藤は操縦桿を前方に強く押し倒す。


ーー
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440 : ◆X5vKxFyzyo [saga]:2017/09/25(月) 20:50:18.14 ID:4fkctst+O

ーー午後二時五十七分。


奥山「ああ……本当にやっちゃうんだ」


 そのようにこぼす奥山の声に抑揚はなかったが、聞いた者がいるならば、奥山が感嘆していることがわかるような声だった。
 ドローンに搭載されたカメラはグラント製薬本社ビルの上空の様子を撮影している。映像は奥山のノートパソコンに中継されていて、先ほど奥山が口にした無関心と感嘆が同居した声はその映像を見たために発された。
 ビル街の上空に現れた機影は画面の上をまるでマウスポインタのようにすばやく移動していた。


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441 : ◆X5vKxFyzyo [saga]:2017/09/25(月) 20:52:09.80 ID:4fkctst+O

ーー午後二時五十八分。


 その物体に最初に気づいたのは卯月だった。

 シンデレラプロジェクトルームには、ロケや宣伝撮影に出ている六名ーー未央、みりあ、莉嘉、かな子、智絵理、きらりーーとアナスタシアと美波を除いた六名のメンバーがいた。

 オフィスビルの三十階からの景色は、地上のオフィス街と青空が視界の上下を二分している。何気なしに窓を眺めていると、なだらかに歪曲した天地の境界線に雲の間から太陽の光が梯子のようにに降り注ぐ景色のなかに、チカッと目に射す光が卯月の目に飛び込んできた。

 その光は輝きながら地上に向かっていた。光は物体そのものが放つものではなく、反射によるものだった。

 卯月が光る物体の正体に思いあたったのは、聞き覚えのある音を耳にした瞬間だった。それはもっぱら上空から響いてきた音だった。音に反応して上を見上げると、予想していた通り、ぼやっとしたシルエットが空をなめらかに横切っていた。それがいつも見る光景だった。


卯月「飛行機……?」


 卯月の声に戸惑いがあった。他のメンバーも窓の側にいて、卯月と同じ戸惑いを共有している。誰もが音と光の動きのズレに困惑していた。それは、いつもははるか上空を飛んでいるはずの飛行機が、ほぼ垂直といってもいい角度で、地上に向かっているからだった。


ーー
ーー
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442 : ◆X5vKxFyzyo [saga]:2017/09/25(月) 20:53:31.73 ID:4fkctst+O

ーー午後二時四十分から午後三時。墜落するまでの機内の様子。


 午後二時四十分。佐藤によるハイジャックを目撃した客室乗務員はドアまで走り、コックピットの中へ入ろうとする。扉は固定されていて、乗務員ひとりの力ではどうしようもない。しばらくドアと格闘していると取手を握る指の先が真っ赤になり、爪が痛みを訴え始める。乗務員は取手から手を離す。振り返ると、乗客たちが席から身体を乗りだし、自分の方を見ていた。その瞬間、機体がおおきく傾く。ハイジャッカーが旅客機の進路を変更したのだと、乗務員は察知する。

 午後二時四十四分。吐き気をこらえつつ、乗務員はハイジャック対策のマニュアル通りに行動しようとする。インカムで同僚の乗務員たちにすぐに集まるように連絡。客室をパニックに陥らせないために数名は残す。次に地上との連絡。機内に備え付けられた地上との交信用の電話を手に取り、ハイジャック発生を航空管制官に伝え、警察や消防への連絡を依頼する。乗務員の話を聞いた管制官がもう一度機内の状況を説明してくれと要求してくる。だから、機長と副操縦士が殺されたんです、と言いながら、相手が一度の説明で十分に理解しなかったことにいらだっていたところで、客室乗務員は自分で自分の言葉に愕然とする。半分開いたドアから見たあの光景。あれが殺人の瞬間だったのだと、いまようやく脳が理解した。受話器を持つ手の震えがいよいよ大きくなりだした。

 ほかの客室乗務員たち機体の前方に集まってきた。彼女たちは異変があったことは察しているが、詳しい状況はまだわかっていない。恐怖に身を震わせている客室乗務員を見て、集まった同僚たちも事態の深刻さに恐れを抱き始める。なかでも、現場に出て半年も経たない新人の動揺は大きい。
443 : ◆X5vKxFyzyo [saga]:2017/09/25(月) 20:55:17.52 ID:4fkctst+O

 だが、迷っている暇はない。管制官を待たせ、乗務員は状況を説明する。機長と副操縦士がすでに殺害されたことに、乗務員たちは強い衝撃と動揺を覚える。そんな彼女たちを、現場を目撃した乗務員はほとんど叱咤するように、わたしたち客室乗務員は保安要員としてここにいるのだと言い聞かせる。

 午後二時四十九分。乗務員たちは行動に移る。コックピットを奪取しなければ生存は叶わない。そのためには乗客たちの協力も必要になってくる。乗務員たちは乗客への状況説明と協力要請を決める。集まった乗務員たちに客室での対応を任せ、代わりの連絡要員を置いた客室乗務員は、新人といっしょに備品が機内を飛び回らないように固定作業を行うことにする。新人の手元はおぼつかない。コーヒーサーバーには淹れたばかりの熱々のコーヒーが注がれていて、揺れにあわせて縁から溢れていた。客室乗務員は荒っぽくならないよう気を落ち着けながらコーヒーを捨てた。その様子を見ていた新人の客室乗務員は、取り返しのつかないミスを犯したかのように青ざめていた。

 新人はしどろもどろに言い訳めいたことを口にした。だって今日は水曜日で、晴れた日で……。新人の言葉を途中で遮り、乗務員は固定がちゃんと行われているか確認するよう指示を出す。指示を受けた新人は、意識を取り戻したかのようにてきぱきと確認作業に当たっていく。

 地上との連絡を担当していた同僚が、ここはいいから客室へ行って、と言う。乗務員は新人を見る。必死そうに動いているが、パニックの様子はない。乗務員は同僚に頷き、客室へと向かう。
444 : ◆X5vKxFyzyo [saga]:2017/09/25(月) 20:57:24.56 ID:4fkctst+O

 この客室乗務員も、新人の彼女と同じように、ハイジャックが起きたのが信じられないという気持ちがあった。ーー日本で?こんな日に?今日は水曜日で、晴れた日でフライトも順調なはずだった。乗客の数も少なくて、余裕のある業務の日で……ーー 新人の彼女だけじゃなく、わたしも仲間たちもこのように考えているに違いない。でも、こういったことは考えるべきじゃない、たちまち恐怖に支配されてしまう……。客室乗務員は通路を歩きながら、犯人の目的に必死で考えを巡らせる。目的が分かれば、どう対処すればいいか分かるかもしれない。

 午後二時五十三分。客室は思ったより静まっている。そのせいで機体の揺れる音と気流の乱れが恐怖を煽るが、乗客たちはなんとかパニックにならずに済んでいる。同僚たちは中央の列に身を低くして集まっていて、五人の男性と話している。彼らはコックピット奪還に協力の志願をした乗客たちで、そのうち一人は事業用操縦士免許を取得していた。

 乗務員も作戦会議に参加する。膝をついた彼女に、五十代くらいの男性がほんとうに機長たちは殺されたのか? と尋ねてくる。乗務員の頷きに、若い男性客が同意する。彼は機体前方の席にいてコックピットから聞こえる叫び声を聞いていた。乗務員はコックピットの扉が固定され開かないようになっていると説明する。ハイジャッカーはドアロック切断してコックピットに侵入している。ならば、いまドアを固定しているものは簡易的なもので、カートを破壊槌代わりに使えば突入できるだろうと一同は結論づけた。

 犯人は何人いるんだ、と男性客の一人が乗務員に尋ねる。乗務員はコックピットにいるのは一人で、年齢や身長、服装などを皆に伝える。ハイジャッカーの特徴を語りながら、客室乗務員はどこかで犯人のことを見た気がする。
445 : ◆X5vKxFyzyo [saga]:2017/09/25(月) 21:00:12.26 ID:4fkctst+O

 午後二時五十五分。機内アナウンスから犯人の声が響く。


『Are you guys ready? Let's Roll!』


 客室乗務員はとてつもない恐怖に襲われる。この言葉はよく知っている。二〇〇一年九月十一日、ハイジャックされたユナイテッド93便を奪取しようとした乗客の一人がコックピットへの突入の直前に言った言葉。この言葉によって、犯人の目的がわかった。同時にいまコックピットにいる犯人の正体にも思い当たる。

 佐藤。亜人の佐藤。水曜日の午後三時にグラント製薬本社ビルを爆破すると予告した亜人の佐藤。

 そのとき、旅客機の角度が垂直になる。ノーズダイブする旅客機のなかは悲鳴がこだましている。客室乗務員はコックピットの扉まで転がり落ちていった。落ちてきたのは彼女のほかには音楽プレーヤーだけで、落下した衝撃で電源がオンになった。

 閉じられた扉を背に、悲鳴を聞きながら客室乗務員は乗員乗客全員の顔が見えた。フライト前の記憶が走馬灯にように浮かんだ。乗客たちはみな恐怖していた。客室乗務員は、かれらが怖がらないように立ち上がって仕事に戻りたかった。だが、垂直に近い角度で急降下する旅客機の通路は、崖のように客室乗務員の眼前に立ちはだかっていた。

 客室乗務員は思った。死ぬんだ。わたしたちみんな、ここで死ぬんだ。客室乗務員は泣いた。落ち着いた振る舞いなどできるはずもなかった。どうしようもなかった。喉から渇いた嗚咽が洩れた。


《There'll be a golden ladder reaching down
When the man comes around/金色に光輝く梯子が地上へ降される。そのときその男がやって来るのだ》


 音楽プレーヤーのスピーカーから曲が流れる。ジョニー・キャッシュが、まさにこの状況にぴったりな歌詞を歌う。プレーヤーは狂ったように何度も何度も同じ曲をリピート再生する。



佐藤「−−は、は、は−−」


 旅客機を操縦する佐藤が、ものすごいスピードで接近する地上の風景を見ながら笑い声をあげる。けたたましい警報の音も無視して、佐藤は機首を下げたままにしている。大量のジェット燃料を積んだ旅客機はそれ自体が爆弾だ。旅客機の速度はすでに音速を越えている。時刻は午後三時ちょうどになる。旅客機はビルよりも低い位置にいる。


ーー
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446 : ◆X5vKxFyzyo [saga]:2017/09/25(月) 21:01:21.09 ID:4fkctst+O

ーー午後三時。


 グラント製薬の社長は左手の親指の爪を切っていた。安心しているというよりは、油断しているといった様子だが、爆破予告した佐藤らは予告した時間になっても現れないのだから、無理もない。グラント製薬の社長ははじめから爆破など不可能だと考えている。

 パチンという爪切りの音がする。切ったところがなめらかになるようやすりをかけ、爪に息を吹き掛ける。

 社長は爪切りの出来映えに満足している。時刻は午後三時から十五秒ほど過ぎている。

 轟音がハンマーのように上空から襲いかかってくる。社長の身体が空気の振動で揺らされるが、そのあとに続く生体的な反応も感情的な反応も行われなかった。グラント製薬社長の最期の記憶は、身体を揺さぶる凄まじい、それも一瞬にも満たない刹那の衝撃の記憶だけだった。

 よく晴れた水曜日の午後三時。乗員乗客あわせて七十二名を乗せた旅客機がグラント製薬本社に墜落した。


ーー
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447 : ◆X5vKxFyzyo [saga]:2017/09/25(月) 21:03:03.85 ID:4fkctst+O

ーー午後三時一分。


 送迎車は渋滞に捕まっていて、一向に前進する気配を見せなかった。

 城ヶ崎美嘉と城ヶ崎莉嘉、赤城みりあの三人はすでに撮影を終え、プロダクションへ戻る道中だった。急ぐ必要がないとはいえ、遅々として進まない車の中でじっとしていなければならないのは、けっこう堪えるものがあった。とくに莉嘉とみりあは子供盛りの元気さが取り柄だったので、待ち時間や移動時間に生じる退屈との戦いが常なふたりにはなおさらだった。

 しかし、車内のふたりはいつもと違って静かに口を閉じていた。美嘉もその理由は知っていたが、それだけにだんだんと耐え難い気持ちになってきた。


美嘉「渋滞、まだ続きそうですか?」


 しびれを切らした美嘉が、運転手に聞いた。運転手がスマートフォンで渋滞情報を調べるかぎり、渋滞の原因は警察の検問であり、もうしばらく続くとのことだった。


莉嘉「警察?」

みりあ「なにか事件なの?」


 運転手は爆破予告があったみたいと曖昧に答えた。返答がぼかされていたのは、アイドルたちに気を遣うというより、運転手が検問の理由にたいして興味がないからだった。
448 : ◆X5vKxFyzyo [saga]:2017/09/25(月) 21:04:08.27 ID:4fkctst+O

 三十分くらいたった気がしたとき(実際には五分も過ぎていなかった)、美嘉たちはいままで響き続けていた音が急に音量を増したことに気がついた。音の響きはあきらかに音源の接近を告げていて、窓ガラスが震え出すほどだった。車内のだれもが身の危険を感じ始めたとき、道路に並んだ車列の頭上を旅客機が通過していった。

 それはあまりに現実味のない光景だった。旅客機の速度は時速一〇〇〇キロを少し越えていたが、機体自体は巨大なので、その飛行の様は川を流れる葉っぱの小舟のようにしっかりと眼で追えた。

 墜落の瞬間は落下軌道ほど持続的なものではなかった。それはカメラを通してはじめて視覚で認識できるものだった。旅客機がビルに真上から突っ込むまでの十五秒の映像は、このあとインターネット上で何度も再生される。

 鼓膜が破れるかと思うほどの轟音のあとに、爆発と黒煙が続く。黒煙が上空にのぼり、白い雲と混じっていく。
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