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新田美波「わたしの弟が、亜人……?」

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449 : ◆X5vKxFyzyo [saga]:2017/09/25(月) 21:05:09.57 ID:4fkctst+O

 車内で身を伏せていた美嘉たちがおそるおそる頭をあげ、旅客機が墜落した地点を見ようと首を伸ばす。運転手は車から出ないように三人に注意すると、次の瞬間に車体に雹のような小さな物体が降り注いだ。墜落と爆発の衝撃で空中に高く舞い上げられた旅客機の破片やビルの瓦礫が立ち往生している車列の襲いかかってきたのだ。

 降り注ぐ破片は車のボディに食い込み、フロントガラスを割り、ミラーを破壊する。運転手は声を張り上げ、美嘉たちに伏せるように叫ぶ。そのとき、瓦礫のひとつが弾丸のようにフロントガラスを突き破り、車内に飛び込んでくる。瓦礫が直撃した運転手の頭から血がだらだらと流れる。

 美嘉は二人に覆い被さるだけで精一杯だった。外では粉塵が津波のように押し寄せ、破壊された車を包み込んでいた。


ーー
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450 : ◆X5vKxFyzyo [saga]:2017/09/25(月) 21:06:28.69 ID:4fkctst+O

ーー午後三時三分。


 衝撃音に撮影が中断される。カメラマンは機材を持ったまま外に飛び出し、オフィス街にオープンしたばかりのカフェでレポートを行うかな子、智絵理、きらりの三人をその場に残していく。

 カメラマンが撮った映像はその後いくつかのニュース番組に提供される。高層ビルよりも高く猛々と立ち昇る黒煙。墜落現場周辺の上空に舞う白い紙は、墜落の衝撃によって爆発より前に吹き上げられた資料で、高温によって生じた気流にのっていまも上空に舞っている。

 外では多くの通行人が黒煙を見上げている。他のスタッフたちも怖々としながら店の外に出ようとしたとき、破片の落下がはじまる。

 往来はたちまち怪我人で溢れ返った。落下物が直撃する者もいれば、割れたガラスによって負傷する者もいた。カメラマンはまだ撮影を続けていて、スタッフたちの必死の呼び掛けも聞こえてないかのようだ。
451 : ◆X5vKxFyzyo [saga]:2017/09/25(月) 21:08:18.43 ID:4fkctst+O

 カメラマンが機材を真正面に向ける。そこには腕を怪我した女性が血を流しながら、いまにも倒れそうな様子でひょこひょこと歩いている姿が映った。近くには女性と同じ年齢くらいの男性が倒れていた。男性の頭の位置はふつうある場所にから右側にずれていて、肩の上にあった。カメラマンは男性が死亡していることを悟った。その直後、彼女の背後から粉塵の津波がごぉーっという音を立てながら迫ってきた。

 肩に担いだ機材を手にぶら下げ、カメラマンは怪我をした女性のもとまで走った。片手にカメラ、もう片方に女性を抱え、カメラマンはカフェまで走る。粉塵がほとんど水と同じように二人のあとを追いかけてくる。

 スタッフのひとりが意を決してカメラマンのもとまで飛び出していく。カメラマンはそのスタッフにバトンのように機材を差し出し、受け取らせた。反射的にカメラを受け取ったものの、そのスタッフは当然のことながら怪我人を助ける手助けをするつもりだったので、手渡されたカメラに困惑して一瞬立ち止まってしまう。カメラマンは立ち止まっているスタッフを追い越し走り続け、それに気付いたスタッフもカメラマンのあとに続いた。

 粉塵がカメラマンたちを飲み込んだというまさにそのとき、三人はカフェのなかに転がり込んできた。粉塵を浴びた三人の全身は真っ白になっている。ぜえぜえと息を喘がせるカメラマンとスタッフとは対照的に、女性は沈黙したまま頭を下げ、床に付けていた。
452 : ◆X5vKxFyzyo [saga]:2017/09/25(月) 21:09:39.33 ID:4fkctst+O

 右上腕のあたりがばっくりと切れ、傷口から下がいまも流れる血で真っ赤に染まっている。右腕だけ赤い死人のような白い女というのが、この怪我をした女性を見た誰もが抱く印象だった。

 女性は同じ姿勢のまままったく動かなかったので、もしかしたら死んでいるのでは、と店内にいる者は思った。


かな子「だ……大丈夫ですか?」


 濡れたハンカチを手に持って、かな子は女性に話しかける。女性が反応を示さないので、かな子は躊躇したが、傷口から流れる血を見て、せめて怪我したところを綺麗にしようとハンカチをそっと近づけた。

 傷口にハンカチが触れた瞬間、女性はゆっくりとぎこちない動作で首をあげ、かな子を見た。その眼を見た途端、かな子の手が止まった。女性はかな子から視線を外し、ゆっくりと店内を見渡した。女性の眼を見た全員が、かな子と同じく息を止め、その場に立ち竦んでいた。その女性を助けにいったカメラマンとスタッフも同様の反応を見せていた。見開かれた女性の眼は人間のものとは思えなかった。

 それは幽霊の眼だった。自分が死んだことを自覚した幽霊の眼。彼女には、かな子や他の人間たちを自分と同じ幽霊として認識しているというふうな視線をあちこちに向けていて、その眼に見られた人間は彼女と同じ見方が伝染したかのように世界の見方が違って見えた。

 外では粉塵が落ち着きはじめていた。景色に輪郭が戻ってくると、そこに広がっていたのは、破片が積み重なる、灰を被ったかのような真っ白な光景だった。


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453 : ◆X5vKxFyzyo [saga]:2017/09/25(月) 21:10:23.73 ID:4fkctst+O

『旅客機です、旅客機が墜落したようです』


中野「……」


 中野攻は永井から貰ったポータブルテレビでニュース中継を見ていた。レポーターの実況は驚愕と動揺をそのまま伝えていて、説明の内容より声の調子それ自体が事件の規模のとんでもなさを伝えていて要る。

 中野は険しい表情のして、小さな画面を睨み付けている。その視線には怒りが宿っている。大勢の人間が殺された光景を見ながら、中野は怒りを感じている。


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454 : ◆X5vKxFyzyo [saga]:2017/09/25(月) 21:12:01.68 ID:4fkctst+O

《それからはじめに私は見た、天頂から落ちる星のように垂直にくだってくる、つばめのように、あるいはあまつばめのように素早く/そして私の足の?骨のところに降り、そこから入りこんだ/しかし私の左足からは黒雲がはねかえってヨーロッパを覆ったのだ》


 目を覚ました瞬間、美波の脳裡にブレイクの預言詞『ミルトン』の一節が浮かんだ。それは美波が見た夢の内容そのものだった。輝く落下物が描く垂直線と盛り上がり弾ける地面、それ続く空を覆う黒雲の面。

 不吉な内容だったが、美波は不安を感じてはいなかった。不思議と身体も軽い気がした。

 美波はベッドから起き出し、部屋を出て階下へと向かう。

 ラウンジはがらんとしていた。みんな、レッスンか仕事に出ているのだろう。女子寮全体もしんとしている。

 美波は無人の空間が作る静けさにほっとしていた。仲間たちが心配してくれる気持ちはうれしかったが、その気持ちに応えるため元気になろうとしても美波にとってそれはすぐには不可能なことだったから、ひとりでぼーっと過ごせるのは何より落ち着くことだった。

 美波はあまり意識しないままテレビをつけた。それから、そういえばテレビやスマートフォンは禁止されていたっけと思い出す。だが、いまの気持ちのよさに水を指す気がして、結局テレビをつけっぱなしにして、美波はソファに凭れこむ。


『現場では必死の消化活動がつづいています』


 美波は一瞬、自分はまだ夢の中にいて、入れ子になった夢をテレビ越しに見ているのかと思った。だが、身を乗り出したときに感じた体重の移り変わりに現実感を覚え、あらためてテレビを注視する。そこには崩壊した建物と黒煙をあげる炎が映っていた。
455 : ◆X5vKxFyzyo [saga]:2017/09/25(月) 21:14:03.89 ID:4fkctst+O

 美波は衝撃を受けつつも、まだニュースが伝える事態に距離を置くことが可能だった。地震があったのかと思ったが、壊れたビルは東京のオフィス街にあり、被害もこのビル一棟だけだったので、地震ではないと自ずと理解できた。

 美波はいったいどんなことがあったのだろうと、一層身を乗り出し、何を見ても冷静な態度でいられるというようにテレビに顔を近づけた。


『はたして亜人・佐藤の犯行予告と関連はあるのでしょうか』


 レポーターの言葉に美波はふたたびソファに凭れ込んだ。


美波「うそ……」


 美波は全身から力が抜けていくの感じながら、それでもテレビから目を離せないでいた。腕や脚の筋肉が弛緩したようにだらんと垂れていくなか、眼だけが見開かれていた。

 あそこに死なない人間がいる、と美波は思った。圭と同じ、死なない人間が。

 その事実がどのような結果をもたらすのか、美波にはわからなかった。

 もしかしたら、これが結果なのかも、という声が美波の頭の中のどこか奥の方から響いてきた。美波はばっと後ろを振り向いた。そこには何もなかった。美波は瞼を硬直させたままテレビに視線を戻した。

 もしかしたら、これが結果なのかも。美波は声を反芻しながら、テレビ画面を凝視した。そこに映っているのは、さっきと同じ崩壊したビルと炎、その上を覆い尽くす黒煙だった。だが、美波の意識はカメラが映すもの以上のものを感じ取っていた。

 瓦礫の山に埋もれる夥しい死体。そして、その上に立つ、決して死ぬことのない人間。


 亜人。


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456 : ◆X5vKxFyzyo [saga]:2017/09/25(月) 21:15:29.37 ID:4fkctst+O

 永井圭は畳の上に足を伸ばして佐藤のテロの実行をテレビで見ていた。テレビの音量は山中のおばあちゃんが使っているときよりも小さくしていたので、外で騒いでいる蝉の声に負けそうだった。

 永井はリモコンを手に取り、音量をあげた。


『はたして亜人・佐藤の犯行予告と関連はあるのでしょうか』


 ヘリコプターから捉えた炎上する墜落現場の映像とレポーターの縺れそうな声。永井はそれを見ながら、すこし感心したような声を出した。


永井「やるー」


 永井は足を伸ばした姿勢のまま、このあとの展開を予想した。それが自分にとって有益な方向に進むのを期待しながら、永井はニュース中継の視聴を続けた。


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457 : ◆X5vKxFyzyo [saga]:2017/09/25(月) 21:16:52.71 ID:4fkctst+O


 墜落地点に出来たクレーターの周囲に、破片と瓦礫が積み重なっていた。

 それらの破片の山は旅客機のボディである金属、電子部品のパーツ、コード類、プラスチック、座席シートのクッション、鉄筋コンクリート、燃え尽きた紙片など様々な素材から成っていたが、共通点としてどれもある一定の大きさ以上のものは存在しなかった。いちばん大きなものでも二〇センチに満たず、七百体以上にものぼる遺体も同様の有り様だった。医学報告書にはこれらの遺体の状況が「断片化著しい」と記載され、身元確認もままならなかった。

 そのような「断片化」した物体の山から至るところで火の手があがり、クレーターの周囲はまるで火山地帯のように煙が立ち込めていた。だが、例外も存在していた。

 墜落の衝撃で機外に放り出されたいくつかの品物が、地上に落下しても壊れずに原型を保っていた。そのひとつが音楽プレーヤーで、スピーカーから「The Man Comes Around」の最後のヨハネの黙示録の内容をノイズ交じりで唱える箇所を流している。
458 : ◆X5vKxFyzyo [saga]:2017/09/25(月) 21:18:03.90 ID:4fkctst+O

《And I heard a voice in the midst of the four beasts
And I looked and behold, a pale horse
And his name that sat on him was Death
And Hell followed with him.

そしてわたしは聴いた、四つの獣の中心から響きわたる声を
わたしは視た、青ざめたる馬がそこにあるのを
馬の背に乗る者の名を死といい、?陰府がこれに付き隨っていた》


 その言葉を最期に音楽プレーヤーは完全に息絶えた。

 もうひとつ原型が無事なものがあり、それはハンチング帽で瓦礫の山の上にひっそりと休息をとっているかのように置かれていた。

 そのハンチング帽を手に持つ者があった。その男は例外としての音楽プレーヤーやハンチング帽と違い、奇跡的に損傷を免れたわけではなかった。その男もまた断片と化していた。それは熊にに引き裂かれでもしたかのような男の服装を見れば明らかだった。帽子を拾う男の手も同様で、右腕の筋肉は裂け、白い骨が熱せられた外気に晒されている。だが、男にとって肉体の損傷など気にする必要はなかった。なぜなら、いままさに右腕やその他の損傷が修復されている最中だったからだ。

 男は亜人だった。この亜人は世間に対して佐藤と名乗っていた。

 佐藤は拾い上げた帽子を頭に被ると、手の感触で帽子の位置を調整しながら、弾むような声で言った。


佐藤「スリル満点!」


 復活した佐藤の周囲では、いまも炎と叫び声が続いていた。
459 : ◆X5vKxFyzyo [saga]:2017/09/25(月) 21:39:27.49 ID:4fkctst+O
トリップが違いますが、>>1です。スマホの機種変したので、そのせいですかね?

ともあれ、久しぶりの更新になりました。お待ちいただいた方は申し訳ありません。

さて、いよいよ今週末から実写版の『亜人』が公開になりますが、私はこれわりと期待しています。映画評論家の添野知生さんがオススメされてたことも期待に拍車をかけますね。
とはいえ、オチが被ってたらどうしようという不安もありますが……

今回の更新で引用したのはこちらの曲です。

https://youtu.be/k9IfHDi-2EA

最近では『LOGAN /ローガン』のエンディングにも使われてました。他にも色んな映画やドラマにも使われててリメイク版『ドーン・オブ・ザ・デッド』のタイトルがおそらく一番有名かと思います。
個人的な好みでは、『エクソシスト』のウィリアム・フリードキンが監督した『ハンテッド』のエンディングへの入りかたがめちゃくちゃカッコ良かったですね。
映画はサバイバル技術とナイフ殺人術の師弟であるトミー・リー・ジョーンズとベニチオ・デルトロが森で都会でFBI を後目に追走劇を繰り広げ、切り刻むという表現がぴったりの激痛ナイフバトルを天下します。

というわけで今日はここまで。
460 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2017/09/29(金) 01:00:54.12 ID:TvFoGCQm0
来てたのに気づけなかったぜ乙
461 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/10/23(月) 22:16:40.25 ID:rkcK97lyO
undefined
462 : ◆X5vKxFyzyo [sage]:2017/10/23(月) 22:17:59.08 ID:rkcK97lyO

石丸「コウマ陸佐、いつまで出し惜しみしてる気だ! 対亜を召集したらどうなんだ」

コウマ陸佐「駄目だ。存在自体違法の部隊。こんな公の場では出動させられん。上からも釘を刺されている」


 コウマ陸佐は苦渋の表情を浮かべながら応えた。


石丸「戸崎! 完敗だな!」

戸崎「ここからですよ」


 戸崎は、打つ手なしの状況に叫ぶ石丸に振り向きもせず、モニターを見上げたまま静かに言った。

 墜落現場の空は煙と埃で暗く、陽光が地上に届かないままだったが、いまもなお続けられている消火活動のおかげで火の手はかなり鎮まってきていた。消火水は雨のように墜落現場に降り注いでいる。落下する水滴はその過程で粉塵を吸い込み、すこしずつ大気を清浄に戻していく。ドス黒かった煙も火の手とともに燻ってゆき、ピークを過ぎた煙は、白く、小さくなっていた。

 進入が困難と思われていた地点に陽光が射し込みはじめ、それがまるで道標のようになっていた。墜落地点の中心部に最初にアプローチしたのは、回転翼が六つあるヘキサコプター型のドローンだった。ドローンは細長いガンケースを輸送していて、安定した飛行姿勢のまま、水滴を浴びながら空を見上げる佐藤の足元に着陸した。
 

佐藤「ありがとう、奥山君」


 飛び去っていくドローンに礼を言いながら、佐藤はガンケースのチャックを開けた。
463 : ◆X5vKxFyzyo [sage]:2017/10/23(月) 22:19:37.48 ID:rkcK97lyO
すいません、やり直します。
464 : ◆X5vKxFyzyo [sage]:2017/10/23(月) 22:21:17.46 ID:rkcK97lyO

曽我部「こ……こんな……」


 会議室の大型モニターで旅客機墜落の瞬間を目撃した曽我部がやっとの思いでつぶやいた。曽我部はあとに続く言葉を見つけられず、喉が詰まるような思いでモニターを茫然と見つめていた。

 会議に同席している亜人管理委員会のメンバーも曽我部と同様に絶句していて、帽子の男による亜人の特性を最大限に利用した大量虐殺の結果に恐怖を覚えていた。

 中継映像は瓦礫の山と化したグラント製薬本社ビルの跡地に大量の消火水が散布される様子を伝えていた。立ち込める粉塵のせいで視界がほとんど見えないなか、声を頼りに救助隊が現場へと向かう姿がちいさな移動する点として映っている。

 爆破予告を受けて待機していた消防隊や救急隊の数では事態に対処しきれず、応援要請を受けた消防車輌や救急車輌が墜落地点に向かおうとするが、警察の警備によって発生した渋滞に阻まれて現場まで近づけないでいる。道路にはコンクリートや旅客機の破片が散乱していて、車輌を無理に進めようとすればタイヤがパンクするだろうという有り様だった。
465 : ◆X5vKxFyzyo [sage]:2017/10/23(月) 22:23:15.37 ID:rkcK97lyO

 悲惨なのは、破片によって二次被害を受けた人びとだった。墜落の衝撃とその後の爆発によって空中高くまで吹き飛ばされた破片物はほとんど隕石のような勢いで落下してきて、無防備な歩行者に降り注いだり、車やビルの中にいる人間にも窓ガラスを突き破って襲ってきた。頭部に直撃しなくとも胴体に当たれば内臓がダメージを負い、四肢のどこかに当たっただけでも腕や脚の動脈が損傷した。重傷でなくとも、ひどいショックを受け身体を小刻みに震わせながら自失している者や逆にパニックを起こし叫び声をあげている者たち、ビルや車から逃げ出してきた軽傷の人間が道路に溢れかえり、混乱した様子で動き回っていた。

 空には何機ものヘリコプターが舞っていた。報道ヘリ、消防防災ヘリ、ドクターヘリ等が出す騒音は上から聞こえるだけに負傷者を不安にさせる。ヘリから降り立った医師が負傷者のもとへ駆けてゆく。消防隊員もウィンチでヘリから降り、地上からは届かないところにいる被災者をひとりずつ助けあげている。

 戸崎はそのような事態の推移をただ黙って、無感情な眼で見据えていた。


石丸「コウマ陸佐、いつまで出し惜しみしてる気だ! 対亜を召集したらどうなんだ」

コウマ陸佐「駄目だ。存在自体違法の部隊。こんな公の場では出動させられん。上からも釘を刺されている」


 コウマ陸佐は苦渋の表情を浮かべながら応えた。


石丸「戸崎! 完敗だな!」

戸崎「ここからですよ」


 戸崎は、打つ手なしの状況に叫ぶ石丸に振り向きもせず、モニターを見上げたまま静かに言った。
466 : ◆X5vKxFyzyo [sage]:2017/10/23(月) 22:24:45.48 ID:rkcK97lyO

 墜落現場の空は煙と埃で暗く、陽光が地上に届かないままだったが、いまもなお続けられている消火活動のおかげで火の手はかなり鎮まってきていた。消火水は雨のように墜落現場に降り注いでいる。落下する水滴はその過程で粉塵を吸い込み、すこしずつ大気を清浄に戻していく。ドス黒かった煙も火の手とともに燻ってゆき、ピークを過ぎた煙は、白く、小さくなっていた。

 進入が困難と思われていた地点に陽光が射し込みはじめ、それがまるで道標のようになっていた。墜落地点の中心部に最初にアプローチしたのは、回転翼が六つあるヘキサコプター型のドローンだった。ドローンは細長いガンケースを輸送していて、安定した飛行姿勢のまま、水滴を浴びながら空を見上げる佐藤の足元に着陸した。
 

佐藤「ありがとう、奥山君」


 飛び去っていくドローンに礼を言いながら、佐藤はガンケースのチャックを開けた。

467 : ◆X5vKxFyzyo [sage]:2017/10/23(月) 22:26:56.98 ID:rkcK97lyO

佐藤「さて、敵も私を容易に逃がしてはくれないだろう」


 中には予備の帽子と真新しいシャツとズボン、ナイロン製のタクティカルハーネス、ウェアラブルカメラ内蔵のインターカム、スピードローダー九本、ランヤードに繋がれた装填済みのウィンチェスター製ショットガンM1897が入ったいた。佐藤はまず帽子を除けて、パリッと糊のきいた半袖のシャツを手に取った。

 グラント製薬本社ビルをぐるっと隙間なく城壁のように取り囲み、ネズミ一匹通さないほどの警備を築き上げていた機動隊の隊列は、落下する瓦礫によって壊滅的な被害を受けていた。機動隊の隊長は止めどなく出血が続く部下の大腿に両手を押しあて、出血を止めようと必死だった。周囲では救助を求める声が飛び交い、どこかで悲痛な叫び声が響いたかと思うと、次の瞬間には止んでいた。

 まだ微かに漂っている粉塵が落ち着きはじめ、周囲の様子が確認できるようになってきた。身を隠すにはほどよい大きさの瓦礫が散らばっている開けた空間が見渡せた。

 機動隊隊長がいる場所から五〇メートルほど離れたところに人影が見えた。リラックスした様子で立っているその男の服装は清潔さを感じさせ、この場にはそぐわない。ハンチング帽をかぶり、左耳にインターカムをつけ、右手に持ったショットガンを地面に向けている。タクティカルハーネスも装備し、胸元に目立つ棒状のものは、ショットシェル用のスピードローダーだ。

 佐藤は機動隊の隊長がいるあたり、埃が漂う向こう側を見据えながらインターカム越しに話しかけた。


佐藤「さあみんな、建物ひとつ壊しただけで勝ったなどと思ってないな」
468 : ◆X5vKxFyzyo [sage]:2017/10/23(月) 22:28:21.17 ID:rkcK97lyO

 佐藤は煙と埃の漂いに視線を注いだまま言った。風に運ばれていく漂いのなかから、足音が聞こえてくる。


佐藤「この国最強の軍隊とは?」

佐藤「自衛隊か? 違う。一度も実戦経験のない奴らなど、論外甚だしい。」

佐藤「となると、そう……」


 足音がいよいよ大きくなってきた。音の大きさから足音は大人数からなるもので、かつその規則正しいリズムが部隊の練度の高さを物語っていた。

 風が粉塵を運びさった。そこから現れたのは目出し帽の上にケブラー製のヘルメットを被り、上腕部を保護するプレート付きの防弾ベストを身に纏った警官たちだった。胸元に警視庁の文字が刻印されている。首から短機関銃を下げ、レッグホルスターには拳銃、防弾盾を装備している者もいる。

 機動隊の隊長は前進する彼らに「頼んだぞ」と声をかけた。彼らは眼にさらなる力を宿し、テロを引き起こした犯人に向かって歩を進める。


戸崎「警視庁特殊急襲部隊(SAT )」


 と、戸崎がモニターを見上げながら説明した。
469 : ◆X5vKxFyzyo [sage]:2017/10/23(月) 22:29:44.37 ID:rkcK97lyO

戸崎「刑事部だけでは対処できないテロや凶悪事件発生時、交渉より制圧を優先し展開する実戦経験のある精鋭たちだ」

佐藤「極論、かれらに勝てれば私達は最強の軍隊といえる」


 佐藤はショットガンのフォアエンドを後ろにスライドさせ、もとの位置に戻しながら言った。薬室に実包が装填され、戦闘の準備を整える。

 SAT隊員たちは五班に分かれ、それぞれビルの瓦礫や旅客機の破片に身を隠した。先頭の射手が片膝をついた膝射の姿勢で短機関銃を肩にあて、ピープサイトを除きこみ、佐藤に狙いをつける。


佐藤「国民に問う。この戦闘で判断せよ」

佐藤「我々と人間、どちら側につきべきか」


 佐藤の声が曽我部が膝の上で開いているノートパソコンから聞こえてきた。曽我部は「AJIN.com 」を閲覧していた。


曽我部「戸崎先輩、帽子は自分の視野をライブ配信してます。日本中がこの戦闘を見る!」


 曽我部は戸崎に向かって慌てて話しかけた。


曽我部「負けるわけには……いきませんよ」

戸崎「奴も同じだ」
470 : ◆X5vKxFyzyo [saga]:2017/10/23(月) 22:31:34.06 ID:rkcK97lyO

石丸「どう眠らせる? 研究所襲撃の二の舞になるんじゃないのか?」

戸崎「麻酔銃の使用は違法です。あのときのような作戦はこんな公の場では展開できません」

戸崎「警察ならなおさらです。我々との裏の繋がりもありませんし」
 
石丸「は? 猛獣が逃げたときなんかに使ってるじゃないか」

戸崎「あれは獣医師等資格を持った人間に協力を依頼しています。亜人捕獲時もそう」

戸崎「だかもはや、中村慎也事件……フラッド現象の枷はありません」

石丸「ハッ。殺すのか!」

戸崎「いや、殺し続ける」



 SATの射手に射撃命令が下される。射手は了解の返答とともに引き金にかかる指に力を入れ、引き金を引き絞る。


佐藤「何!?」


 見えないはずの指の動きを佐藤は培われた戦闘勘で察知していた。その直後、佐藤の眉間の真ん中を銃弾が突き抜けた。


SAT隊長「前進」


 隊長の合図に五つの班に分かれた隊員たちが、防弾盾を装備した隊員を先頭にして佐藤に接近する。


佐藤「戦略を変えたな、トザキ君」
471 : ◆X5vKxFyzyo [saga]:2017/10/23(月) 22:33:10.06 ID:rkcK97lyO

 復活した直後の佐藤の左のこめかみに銃弾がふたたび送られる。それを合図に、五方向から一斉に短機関銃が火を吹いた。

 佐藤の頭部や背中に孔があき、修復され、また孔があく。


「二班、装填」

「三班、撃て」


 盾役の背後に身を隠し、射手は佐藤に向かって発砲を続けながら前進していく。その間も、佐藤の身体から血と黒い粒子が絶え間なく吹き出し続けている。



曽我部「帽子が動けない……こんなにも簡単に……」

戸崎「当然だ。IBM対策と射撃の技術があっての作戦だが、SAT隊員五十名、警備員相手とはワケが違う」


 驚く曽我部に、戸崎は展開される作戦の推移を見つめながら、落ちついた声で言った。


戸崎「奴は人間をナメすぎた」


 組み立てられた担架に佐藤をのせ、手首を拘束帯で固定するのを確認すると、指揮をとるSATの隊長が大声を銃撃の音にも負けない大声を張り上げた。


SAT隊長「殺しながら護送車まで運ぶぞ!」


 IBM対策のための放水が雨のように降り注ぐなか、隊員たちは担架を二〇〇メートルほど先にある護送車まで運んでいく。担架の運び手と銃撃を担当する射手の歩幅はほとんど同じで、移動のスピードも足の運びかたも同期してるようにぴったりだった。
472 : ◆X5vKxFyzyo [saga]:2017/10/23(月) 22:34:51.56 ID:rkcK97lyO

「五班装填!」「一班と交代!」「撃て!」


 伝達を耳にした隊長が佐藤を絶え間なく殺し続けるよう別班に指示をとばす。指示を受けた一班は前の担当班と入れ替わり、先頭の射手が担架の横に付き、陥没している両眼のまわりから黒い粒子わ沸き上げている佐藤の顔に銃口を向けた。

 引き金に指をかけようとした瞬間、銃声が響き、同時に射手の頭が大きく揺れた。射手の膝から身体を支える力が一瞬で消え去り、両手を宙に放り出しながら射手は地面に倒れた。


ゲン「右二ミル調整」

高橋「OK」


 グラント製薬正面のビルの屋上に高橋とゲンはいた。高橋はライフルの引き金を引き、身を隠すのに間に合わなかった隊員を一人撃ち倒した。


高橋「放水してる奴は見えるか?」

ゲン「物陰だ」

高橋「OK!」


 高橋がまた一人隊員を狙撃した。放水役の隊員は喉に銃弾があたり、流れ込んでくる自分の血でゴボゴボとうがいのような音を立てながら死んでいった。

 隊員たちは身を守るため頭を低くしながら一つに固まっていた。防弾盾を装備した隊員が壁を作り、背後に他の隊員か隠れるというかたちをとっていたが、ビルの屋上から放たれた銃弾が急角度で襲ってくるので、完全に防御することはできず、ふたたび死傷者がでることになった。
473 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/10/23(月) 22:40:02.09 ID:rkcK97lyO

佐藤「ゲン君、高橋君!」


 復活した佐藤が高橋らに呼びかける。拘束帯によって担架にくくりつけられた手首が狙撃され、拘束が佐藤の手首ごと千切られる。一拍おいた二連射のあと、佐藤が身体を起こす。集団から飛び出してきた一人の隊員その眉間を撃ち抜き、佐藤はまた倒れた。


SAT隊長「こいつだけは復活させるな!」


 佐藤を撃った隊員の目が狙撃された。それと同じタイミングで別の射手が担架の側まで近づき、佐藤を撃ち続けた。盾を持った隊員が射手に並走し、狙撃から射手を守る。

 弾倉が残りひとつになったところで射手は盾役の隊員の背中を叩いた。それを合図に二名の隊員は担架からゆっくり離れ、射殺と後退を続けながら、待機していた交代要員と入れ替わった。落ちる水滴に混じって銃弾が飛来してくるなか、交代した射手は銃火を閃かせながら佐藤に近づいていった。集団から離れた位置にいるせいで、射手に狙撃が集中した。盾役の隊員は射手の頭部が隠れるよう盾を高めに持ち上げねばならなかった。

 地上部隊は釘付けにされていた。高橋は時折、思い出したかのように、集団に向けても狙撃を放ち、隊の前進を邪魔していた。


SAT隊長「狙撃手はなんとかならないのか!?」


 また一人隊員が頭を撃ち抜かれたのを見て、SATの隊長は叫ばずにいらなれなかった。


ゲン「手枷は外した。復活の隙を作ってやらねーと」


 ゲンは双眼鏡から眼を離して高橋に話しかけた。次の瞬間、ゲンの鼻先をなにかが掠めていった。かすかな痛みを感じながら、隣を見やると、高橋の頭が打ち抜かれていた。高橋の頭はがくんと右側に倒れ、頭の左側が上を向いた。星型に裂けた射出口からどばどばと血が流れて、屋上を赤く汚した。

 ゲンは頭を回して北側のビルに目を向けた。ビルの屋上に二人の人影が見えた。
474 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/10/23(月) 22:41:42.52 ID:rkcK97lyO

狙撃手01「こちら狙撃01。標的を亜人と確認」


 北側のビルの屋上にいるSATのスナイパーがスコープ越しに標的の復活を確認する。


狙撃手01「狙撃02・狙撃03、殺し続けるぞ」


 三方向からの狙撃が高橋を貫き続けた。銃弾が貫通するたびに高橋の身体はびくんと跳ね、周囲に血が飛び散っていった。


SAT隊長「運搬再開だ!」


 敵狙撃手の無力化したとの無線を聞いた隊長が部下たちに叫ぶ。担架が持ち上げられ、殺しながらの移送がふたたび始まる。


『もう一人はどうする』

狙撃手01「撃つな。投降している」


 SATのスナイパーは、双眼鏡を放棄し、空の両手を挙げるゲンに投降の意思表示を認めた。ゲンから少し離れたところで、相棒の高橋が二方向から狙撃を受け、死に続けている。狙撃手はライフルのボルトを後方に引いて排莢し、元の位置に戻し薬室に銃弾を送り込むと、引き金を引いて高橋を撃ち殺した。


石丸「おい、あいつは撃たないのか?」


 会議室のモニター越しに作戦の動向を見守っていた管理委員会の一人が思わずといった調子で口にした。
475 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/10/23(月) 22:43:26.12 ID:rkcK97lyO

コウマ陸佐「無理だ。SATの運用は従来の警察法の範囲内。それに報道ヘリまで出ているんだぞ。撃てるわけがない」

石丸「どうせ亜人に決まってるだろ!」

戸崎「殺してみない限り、あの男が亜人であるかどうか我々に判断はできません」


 戸崎の言葉に石丸は憮然としながら黙りこんだ。戸崎は、内心では石丸と同じことを考えたいた。厚生労働省前にIBMが(おそらく複数)存在していたことはほぼ確実であり、現に佐藤側に管理委員会が存在を把握していなかった亜人がこうしてテロに参加しているのだ。投降している観測手を射殺すれば、警視総監の首が飛ぶだろうが、それでもあの観測手は射殺し無力化すべきだと戸崎は思った(戸崎が現場指揮官であったなら、間違いなくそうした)。

 佐藤側の狙撃手が田中ではないことも、戸崎の胸中に懸念を生んだ。狙撃による援護を田中が担当していないとすると、残された可能性はひとつしかない。だが、戸崎にはなにもできない。曽我部の言った通り、亜人管理委員会はコンサルタントとして作戦立案に協力したが、警察による具体的な検討に参加はかなわず、現場の作戦指揮に関わることも出来なかった。厚生労働省前のIBM集合の可能性についても意見を提出したが、それがどこまでこの作戦に反映されたのかも不明だ。

 戸崎はただ、据わったように動かない眼で事態の推移を見守るしかない。
476 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/10/23(月) 22:46:12.69 ID:rkcK97lyO

ゲン「SATのスナイパーが三箇所。北と南の屋上。あと水野ビル十一階」


 ゲンは、高橋に撃ち込まれる銃弾が三箇所から放たれたことを見てとると、周囲のビルを見やり、銃火を確認し、狙撃手の居場所を特定した。

 ゲンは狙撃手の位置を連絡し終わると、僅かに痛む鼻先を目を寄せて見ようとした。撃ち殺されている高橋と三十分からの銃声に、気にもとめていなかった。

 北側の狙撃手が、ガラスの割れた音に反応して西側に建っているビルに目を向けると、自分たちがいる屋上から一階ほど高い窓ガラスに丸い傷ができているのが見えた。連射でもしているのか、弾痕のような傷が立て続けに窓ガラスを小さく割っていった。


狙撃手01「こちら01、狙撃されてる。別の狙撃手がいるよう……」


 そこまで言って狙撃手は言葉を切った。


狙撃手01「いや……」


 狙撃手は、一瞬、見間違いかと思った。弾痕らしき傷は、自分たちを狙って位置を修正することなく、だんだんと上方にずれていっていたが、窓に穴を開ける銃弾の軌道が黒い直線として眼に映ったからだった。


狙撃手01「あれは……」


 見間違いかと思えたそれは、徐々に実体をあらわにし始めた。三本あるうちの真ん中の爪によって窓ガラスを突き刺し、ビルの外面を上っていく人間大のなにか。真っ黒なその全身をはっきりと視覚で捉えたとき、驚愕と恐怖の感情が狙撃手を襲った。
477 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/10/23(月) 22:47:52.49 ID:rkcK97lyO

狙撃手01「本当に、実在するのか!?」


 田中のIBMは、身体を反転させ、ビルの窓を足場にして強く踏み込み、狙撃手たちがいる北側のビルの屋上に向かって一直線に跳躍した。


IBM(田中)『お゛お゛』

狙撃手01「うお゛おおお」


 銃弾のようなスピードで跳んでくるIBMは、狙撃手の首をあっさりと切り飛ばした。振り切った腕の勢いにのって、狙撃手の首はゴルフボールのように吹っ飛び、放物線を描いて屋上から落下していった。


観測手01「あ゛あ゛っ!」


 続けて、IBMは拳銃を引き抜こうとする観測手の眉間の真ん中に爪を突き刺した。IBMがそのまま屋上を駆け抜けると、ぞっとするほどの長さのある中指の第一関節のあたりまで眉間に深く突き刺さった死体の足が宙に浮き、死体は空を舞う凧のようにひらひらと揺れ動いた。

 IBMが屋上の縁から、背の低いビルをひとつ挟んだ東側の高層ビルに跳躍したとき、左中指の爪が観測手の眉間からすぽっと抜けた。観測手の死体は頭を下に向けながら、アスファルトで舗装された地上に向かって真っ直ぐ落ちていった。

 水野ビルにいる狙撃手と観測手が、ビルへと跳躍するIBMを視認する。
478 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/10/23(月) 22:49:35.17 ID:rkcK97lyO

観測手02「01がやられた。何だあれは?」

狙撃手02「IBM……? あれがIBMだ! 準備しろ!」


 観測手は発炎筒を焚きながら立ち上がった。狙撃手は座射の体勢を崩さず、ビルの外面を走るIBMを狙撃する。そのうち一発がIBMの右腕に当たるが、黒い粒子が飛び散っただけで腕はすぐに修復されてしまう。ビルの外壁を二回踏み込んだだけで、IBMは一〇〇メートルもの距離を一瞬で詰めより、狙撃手の眼前へと迫る。狙撃はまったく当たらなくなっている。狙撃手は接近するIBMの顔がスコープを覆うのを見ながら叫んだ。


狙撃手02「来るぞぉ!」


 IBMが窓を突き破った。右足で狙撃手の肩を押さえ込み、床に押し付けると、IBM は『お゛お゛』と叫びながら右腕を振り上げ、ふたたび狙撃手の断頭を目論んだ。見開いた眼が、ギロチンの刃のように降ってくる黒く鋭い爪を捉える。

 スプリンクラーがIBMの動きを止めた。観測手はIBMが飛び込んだきた順調、発炎筒を天井に向け、腕をぴんと伸ばしたので、スプリンクラーが作動したのだった。


IBM(田中)『?』


 田中のIBMは、突然動かなくなった自身の肉体を心底不思議がっていた。


狙撃手02「止まった……止まったぞ!」


 狙撃手は緊張から解放され、胸中に喜びと安堵が満たされていくのを感じながら叫んでいた。
479 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/10/23(月) 22:51:16.93 ID:rkcK97lyO

 発炎筒を掲げる観測手の後方のドアがばんと大きな音をたてながら勢いによく開いた。

 部屋に侵入してきた田中が同時に両手でしっかりと拳銃を持ち、二度引き金を引く。ドアが開いた音に振り返っていた観測手は左側頭部に銃弾を受けた。いまも床に磔にされている狙撃手は、頭頂から入った銃弾が顎から斜めに抜けていった。二人とも即死だった。

 スプリンクラーが降り注ぐなか、田中は銃口をすこし下げ、二人が動かないことを確認する。そのとき、いまさらになってIBMが爪を突き立てた。ドスっというすこし重い音がしてその方を見ると、IBMは狙撃手の頭から右に二十センチずれたリノリウムの床に爪を刺していた。


田中「遅えよ」


 田中のつっこみに反応したかのように、IBMは身体を崩していった。


田中「もう一箇所」


 田中は身を翻して部屋から出ると、ふたたびIBMを発現した。


SAT隊長「護送車を開けろ!」


 地上部隊が護送車の近くまでやって来ていた。その様子を双眼鏡を覗きこんで見ていたゲンが、復活したばかりで頭を振っている高橋に急かすように呼びかける。
480 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/10/23(月) 22:53:00.43 ID:rkcK97lyO

ゲン「早く起きろよ!援護しねーと持ってかれちまうぞ!」

高橋「待てゲン!」

ゲン「は!?」

高橋「切れちまった」


 高橋はジャンプスーツの胸ポケットから小瓶を取り出すと、中に入っている覚醒剤をガンケースの上に撒いた。高橋は小さく山になっている粉末に鼻を近づけ、左の鼻の穴を指で押さえながら粉末を一気に吸い込んだ。高橋は頭を後ろに仰け反らせ、吸い込み口の周りについた粉を鼻の下を伸ばしながら擦って取ると、歯を剥いたように大きく口を開け、思いっきり息を吐き出した。

 ゲンはライフルを手に取る高橋に笑いながら話しかけた。


ゲン「はははっ!イケるか!?」

高橋「キメてやるぜ」


 高橋はスコープを覗きこみながら言った。
481 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/10/23(月) 22:54:34.08 ID:rkcK97lyO

観測手03「01・02ダウン。これでは連続して殺せない。避難しましょう」


 南側のビルの屋上にいる観測手が腰を浮かせながら、パートナーである狙撃手に向かって言った。


狙撃手03「まだだ!」


 狙撃手は伏射の姿勢のままパートナーの提案を大声で却下した。


狙撃手03「敵の……ライフル自体を無力化する」


 右目をスコープに押し付けながら、狙撃手は狙いを高橋からライフルへと移行する。観測手は腰を浮かしたまま、どうするべきか迷っていた。離れたところで金属音がしてばっと顔をあげると、01と02を殺害したIBMが、貯水タンクを蹴ってビルの外壁に跳び移る姿が眼に入った。 IBMは驚くべき速さでこちらに向かってきている。


観測手03「はぁ、はぁ」


 観測手の呼吸が恐怖で荒くなった。いま、パートナーの言う通りに敵のライフルの狙撃に戻ればIBMから逃げることは不可能になる。迷っている時間は一秒だってなかった。

 観測手は狙撃手を見た。パートナーは何も言わずにスコープの先の標的に狙いをつけ続けている。彼にある感覚は指と眼のそれだけだった。彼の関心は狙撃することだけだった。そして、狙撃を完璧なものにするには、観測手が必要だった。狙撃手はなにも言わず、屋上に伏せたままでいる。IBMは迫りつつある。決断はすべて、観測手自身がくださなければならない。

 観測手は身を翻し、スコープを覗きこんだ。


観測手03「ほぼ無風、行けます!」

狙撃手03「了解。仕事をやり切るぞ」


 狙撃手は息を止め、わずかな震動もライフルに伝わらないようにした。
482 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/10/23(月) 22:56:08.65 ID:rkcK97lyO

ゲン「もう一度復活の隙を作ってやるんた」

高橋「手前の奴を転ばす……」


 高橋は担当の前を持つ隊員の膝裏に狙いをつけている。息をたっぷり吸い、吐かずにタイミングをはかる。高橋が引き金を引いた。SATの狙撃手も同じタイミングでライフルを撃った。銃声が重なった。南側のビルにIBMが飛来してきて、狙撃手と観測手の背中を貫いた。高橋の撃った銃弾は隊員の膝蓋骨を破壊し担架の上に倒れこむ。同時に高橋のライフルも銃撃を受け、使用が不可能になった。金属片が弾け跳び、高橋は腕で目を覆った。


高橋「クソッ、佐藤はどうなった!?」


 ゲンは双眼鏡をのぞきこんだまま、息をのんで答えない。


SAT隊員「邪魔だ!どけぇ!」


 佐藤に覆い被さっている隊員をどかし、射手が急いで前に出る。射手が短機関銃の銃口を佐藤に向けると、復活した佐藤と目があった。


佐藤「おはよう」


 目覚めたばかりの佐藤が、射手にむけて朝のあいさつを口にした。


SAT隊員「くたばれぇっ!」


 射手は機関銃の引き金を引いた。撃針が雷管を叩き、推進力を得た大量の銃弾が火と煙をともないながら佐藤を襲った。


ゲン「駄目か!」
483 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/10/23(月) 22:57:47.02 ID:rkcK97lyO

 離れたビルの屋上まで響く長い銃撃音を耳にしたゲンが思わず叫ぶ。もうもうと立ち込める煙に遮られ、佐藤がどうなったかはゲンのところからは見えない。

 SATの射手は、硝煙によって標的の視認が困難になる寸前で射撃を中断した。煙が風に運ばれ、ふたたび銃弾を見舞おうと短機関銃の銃口を向けたそのとき、射手は異変に気づいた。


SAT隊員「弾……が……?」

佐藤「ん?」


 先端がひしゃげた銃弾が佐藤の顔面の数センチ上で浮いていた。銃弾は宙に静止したまま、孔を穿つはずの箇所にちいさな丸い影を佐藤の顔面に投影している。

 銃弾を受け止めていたのは、佐藤のIBMだった。放水によって動くことのできないIBMだったが、特殊な分子結合によって形成された肉体は、至近距離からの銃撃すら問題としないほど強固だった。

 SATの地上部隊の目に、透明だったIBMの肉体が徐々に黒みを帯びて見えはじめる。佐藤は、SATがIBMに目を奪われている僅かな隙にランヤードに繋がれたショットガンを持ち上げ、射手の顎の下に散弾を食らわせた。


ゲン「すげえ!」


 顎を撃たれた射手の身体が、まるでワイヤーで引っ張られたかのように浮き上がる。射手が地面に落下するまでのあいだに、佐藤は上体を起こし、背中に預けたIBMを盾にして次弾を薬室に送り込む。SATからの銃撃はすべてIBMが防いでいる。


ゲン「あははっ!」

高橋「行け! 佐藤ォ!!」

佐藤「うるさいよ」
484 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/10/23(月) 22:59:25.41 ID:rkcK97lyO

 SATが動揺から回復する前に佐藤は目の前にいる隊員の脚を吹き飛ばした。銃撃からすこしの間もなく佐藤は前に飛び出し、蹴りあげられたように身体を一回転させる隊員の下に潜り込み、その身体を背負った。


SAT隊員「撃つな!」


 その必死な叫び声に佐藤に向けていた複数の銃口の動きが一瞬鈍る。直後にスピードローダーによって装填を一瞬で終えた佐藤が、反時計回りに回転しながら周囲を取り囲む隊員たちを皆殺しにした。佐藤のショットガンは、トリガー引きっぱなしのままフォアエンドを前後させることで、連続射撃が可能なスラムファイアという動作を引き起こす機構を備えたいた。

 SATの隊員たちの死体が放射状に広がるなか、佐藤の真後ろの位置についた隊員が佐藤の膝を撃ち抜いた。膝ががくんと落ち、佐藤の体勢が崩れる。佐藤は、ジョン・ウェインが片手でくるりとライフルを扱うみたいに、ショットガンを手の中で素早く回転させ、銃口を自分の胸に当てて引き金を引いた。

 ゼロ距離から散弾をまともに食らった心臓は原形を留めることなく、散々に破れ、背中におおきく開いた射出口から吹き出した大量の血液が、真後ろの隊員にべっとりと降りかかった。

 視界を奪われた隊員が焦りをおぼえる、その直後、隊員は腹にショットガンの銃口が深く食い込む感覚を味わった……。ショットガンの三連射が隊員の内蔵をぐちゃぐちゃに破壊した……。

 佐藤は銃口を死亡した隊員に突き刺したまま、SAT隊員たちが密集している場所に飛び込んでいった。
485 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/10/23(月) 23:02:14.58 ID:rkcK97lyO

ゲン「マジかよ……」


 集団の中心から隊員を確実に殺している佐藤を双眼鏡越しに見ていたゲンが、眼を見開いたままぼそりとつぶやいた。


ゲン「群れのど真ん中に分け入った! SATは味方の誤射を気にして迂闊に発砲できない」


 高橋もその様子をライフルのスコープを使って見ていた。高橋は口を半開きにして、引きつった笑いをこぼすかなように息を細かく吐いている。内側に押さえきれない興奮を感じたゲンは、双眼鏡を眼から外して高橋に叫びかけた。


ゲン「やべえっ、あのオッサン、人間じゃえねえ!……ああっ、亜人か!」


 高橋もゲンを真似してスコープから眼を離した。だが、隣の相棒に応える声は背骨を走る戦慄に似て、小さく、そして震えていた。


高橋「怪物だよ……」
486 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/10/23(月) 23:04:16.76 ID:rkcK97lyO

 地上では、佐藤が短機関銃のストラップを首に巻き付けて動きを拘束した隊員を盾にして、銃弾の装填を行っていた。首に食い込むストラップのせいで、見開いた両眼が血走っている。


SAT隊長「散れ! 散れ!」


 半数以上が身体のどこかを欠損した死体となって散乱するなか、動揺が抜けきらない部隊に向かって隊長が吠えた。佐藤の周囲に密集したままでは確実に全滅する。残った人数でも部隊を三つに分け、連続射殺を再開すればまだ望みはある。場合によっては、いま拘束されている仲間ごと射殺することも想定しなければならなかった。

 隊長の指示にしたがい、部隊員たちが散開しようとする。

 拘束された隊員はナイフを手に取り、首を締め付けるストラップを切断しようともがいていた。ナイフの刃がストラップに触れた。隊員は必死の力を込め、ナイフを握る手を引き、ストラップを切断した。拘束が解け、隊員の身体が前に倒れる。右脚を前に出し、体勢を立て直そうとする直前、ナイフを握る手を佐藤が掴んだ。
487 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/10/23(月) 23:05:49.46 ID:rkcK97lyO

 佐藤は隊員をふたたび後ろに引き倒すと、掴んだ手首を首まで持ってきて、さらけ出された喉にナイフを深く突き刺した。佐藤はナイフを喉の外側から真ん中に走らせると刃を引き抜き、今度は反対方向から同じようにナイフを素早く動かし喉を掻き切った。

 隊員の左右の頸動脈が真っ二つに切断され、噴水のように吹き出した血が雨に混じって隊員たちに降り注ぐ。佐藤は隊員を前に押し出し、いまにも散らばろうと身を翻しつつある部隊の中心に血塗れの仲間を投げつけた。

 喉を切られた隊員は自分の出血で溺れていた。あっという間に地面に血が広がり、喉を切られた隊員は血だまりに沈みながら死んでいった。

 隊員たちは仲間が残酷な方法で苦痛を味わいながら死んでいく様を見せつけられ、戦慄して動けなくなっていた。その硬直時間ははほんの数秒でしかかなかったが、その間に佐藤は次々に隊員たちを撃ち殺していった。ボディアーマーを撃ち抜くため、佐藤はショットガンを至近距離から連射した。ときには、アーマーの隙間や顎や喉を狙うことで一発で即死させることもあった
488 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/10/23(月) 23:07:49.25 ID:rkcK97lyO

 一方的な展開だったが、それでも生き残っている隊員は、冷静さをギリギリで保ち、死体を盾にする佐藤に向けて引き金を引いた。死体を貫通した銃弾が佐藤の頬を切り裂いた。

 佐藤は死体を持ち上げると、射手のいる方向に向かって投げつけ、仰向けになって転がっている死体の胸部を撃った。タクティカルベストに装備されたスモークが吹っ飛び、あたりが白い煙幕に包まれる。

 視界がホワイトアウトするなか、隊長はショットガンの発砲音が続けざまに鳴り響くのを耳にした。発砲音の数は、生き残っている隊員の数と同じだった。

 隊長は大きなコンクリート片を背に短機関銃の銃床を肩にあて、佐藤を待ち構えた。煙の中から飛んでくるものがあり、その動きに沿うように身体が反応する。それが地面に落ちる前に瓦礫であることに気づいた隊長は、身体をもとの位置に戻そうとするが、一瞬はやく佐藤が隊長に接近し、引き金に指をかけている方の腕を吹き飛ばした。

 撃たれた右腕は、肘のところでかろうじて繋がっていた。佐藤は苦痛を叫ぶ隊長の喉元に銃口を突きつけ、背後にある瓦礫に隊長を押しつけた。その円形の感触は、永遠にも等しい時間を隊長に体感させた。佐藤は引き金を引いた。
489 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/10/23(月) 23:10:04.59 ID:rkcK97lyO

佐藤「あ」


 ショットガンから弾は発射されなかった。佐藤は最後の一本になったスピードローダーに手をかける。一方、SATの最後の生き残りは、レッグホルスターから拳銃を引き抜き、銃口を腹にあて弾切れになるまで撃ち続けた。佐藤の身体にいくつも孔が開き、スピードローダーを持つ手がだらりと垂れ下がった。

 隊長は呼吸する間も惜しんで、佐藤が復活するまえにその場から離れようとする。身体を動かすと、拳銃を撃ったときには感じなかった激痛が彼を襲った。

 崩れ落ちる佐藤の身体の脇を抜け、隊長は前に進もうとする。痛みをこらえ、息を吸おうとする。そのとき、喉にまたあの感触を感じる。


佐藤「は、は、はーー」


 佐藤は復活していた。喉にあてたショットガンにスピードローダーを使って装填できる弾数をすべて装填し、フォアエンドを動かし薬室にショットシェルを送り込む。

 引き金が引かれるまでのあいだに、隊長はふたたび引き延ばされた時間を体感する。隊長が最期に見たものは、佐藤の“表情”だった。それは、いままで佐藤が見せてきた、どんな表情とも違っていた……。

 佐藤はトリガーを引きっぱなしにしたまま、全弾撃ち尽くすまでフォアエンドを前後させた。
490 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/10/23(月) 23:12:38.78 ID:rkcK97lyO

 戦闘に決着がつき、グラント製薬があった場所に静寂が戻った。

 佐藤は煙が流れるヘルメットからショットガンを引き抜いた。支えを失った死体が膝から真っ直ぐ下に落ちる。死体は背をまるめながら前方に倒れると、ケブラー製のヘルメットが地面を転がった。十二ゲージの散弾を内側から食らったヘルメットは、頭頂にあたる部分が大きく破れていて赤かった。ヘルメットと死体の首は、赤色の線で繋がっていて、それはどことなく臍帯を連想させたが、実態はまるで違っていた。その線は地面に染み付いていた。

 佐藤がヘルメットの行き先を眼で追おうと下を向くと、靴が片方脱げ、片足が裸足になっていることに気がついた。佐藤はあたりを見回して靴が落ちてないか探してみたが見つからず、しかたなしに裸足のままその場をあとにした。

 戦闘によって舞い上がった粉塵の中から道路に出ていくと、いちばんはじめに周辺の警備にあたっていた警官と目があった。彼らはひとり残らず震え上がっていた。それは、佐藤が左手にぶら下げている、さっきまで轟音を響かせていたショットガンのせいばかりではなかった。

 警官たちの手は拳銃にのびかけたところで止まっていた。粉塵が落ち着きだし、SATの死体の群れが眼にはいる。警官たちの眼前を佐藤が横切った。警官のひとりが後退りし、パトカーにぶつかった。佐藤は彼らと眼を合わせ、彼らにむけてこう言った。


佐藤「いやー、疲れたね!」


 その一言で、警官たちは、佐藤を眼で追うことすらやめた。
491 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/10/23(月) 23:15:08.39 ID:rkcK97lyO

 道路では、まだ悲鳴がこだましていた。激しい戦闘音が轟いたせいで、怪我人たちのパニックがぶり返したためだった。このせいで、救急隊員たちの仕事は依然として進んでいなかった。

 佐藤は散歩の帰り道のように悲鳴の中を歩いていった。そのとき、車列のあいだを抜けようとする佐藤を呼び止める声が耳にとどいた。


美嘉「すみません! こっちにまだ怪我人が、助けてくださ……」


 佐藤は首をぐるりと回し、いつもの表情を美嘉にむけた。

 美嘉は帽子の男の顔を見た瞬間、十七年かけて、いまこの場所にいる理由は、なにがあっても説明できないだろうという思いにとらわれた。終着点に突如として立たされた人間は、あたりの景色を見回すものだが、このときの美嘉は目の前にいる帽子の男しか眼に入らなかった。

 佐藤はショットガンを両手に持った。銃を横にすると、薬室を開いて銃弾が残っているか確認することにした。銃口は美嘉の方を向いていた。殺す理由はなかったが、殺さない理由もなかった。それはなんとなくで行われ、言うなればコイントスのようなものだった。
492 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/10/23(月) 23:16:59.86 ID:rkcK97lyO

佐藤 (空っぽー……)


 佐藤はまた左手にショットガンをぶら下げ、その場から去っていった。

 取り残された美嘉は、しばらくのあいだ瞬きもせずに突っ立っていた。


莉嘉「お姉ちゃん!」


 姉を見つけた莉嘉が大声をあげながら駆け寄ってきた。救急隊員が頭を怪我した運転手のところにようやくやって来て、治療をはじめたことを伝えにきたのだった。

 美嘉は妹を見たとたん、なにかを言おうと口を開けたが言葉は出てこなかった。息をうまく吐き出せず、片手で口を覆うと膝からすとんと落ちていった。同時に、涙が一筋瞳から零れた。



莉嘉「お姉ちゃん!?」


 莉嘉の呼び掛けに美嘉は反応を見せず、ただ小刻みに身体を震わせていた。叫喚はまだ続いていて、歯をカタカタ鳴らす美嘉の震えはまるで周囲と共鳴するかのように次第に大きくなっていった。

 一機の報道ヘリがコントロールを失い、錐揉みしながらビルに追突した。爆発と炎上がふたたび起こり、叫喚はそれを栄養に、より一層大きなものとなっていった。


ーー
ーー
ーー

493 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/10/23(月) 23:19:05.16 ID:rkcK97lyO

旅客機からヘリの墜落までの一部始終をモニターで見ていた亜人管理委員会の面々は、蒼い顔をして脂汗を滲ませて押し黙っていた。
 起こってしまった出来事の酷さがそうさせていたのだが、これから起こるであろうことへの恐怖も、彼らの彼らの心の奥底に混じっていた。
 戸崎だけはモニターの前に立ったまま、変化のないような態度をつらぬいているように思えた。その戸崎がわずかに肩の力を抜き、口を開いたのは、墜落した報道ヘリが爆発を起こした直後のことだった。


戸崎「ダメか」


 戸崎はまるで予期していたかのように、一言だけそうつぶやいた。


ーー
ーー
ーー

494 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/10/23(月) 23:35:44.91 ID:rkcK97lyO
今日はここまで。

今回更新した分を書いてて思ったんですが、このクロスオーバー、アニデレ側の負担がもの凄い。クロスオーバーだからと両者を同じ場面に登場させると、片方がテロリストだから周囲は大抵死人でいっぱいという有り様で、なんだか申し訳ない気持ちになってきます。

ていうか、ラブライカへの負担が凄い。アーニャに至っては肉体的にもひどい目にあってるし……。

いちおう、これから永井は誰よりもきつい、ひどい目にあう予定なんですが、それでバランスがとれるのか。

今後も拝読して頂ければ幸いです。

あと、映画『亜人』は初日に観て、所々テレビっぽい画面は残念でしたが、現代日本を舞台に『ジョン・ウィック』以降のアクションをうまく翻案し、CGとのバランスも大変よく考えて作られた優秀な娯楽映画だと思いました。ラストが潔くて良かったですね。

あと、私は未体験なんですが、4DX 上映だと例の「転送」シーンで顔に飛沫がかかるらしいです。ファンのあいだでは綾野剛の肉片を浴びにいくというパワーワードで語られていて、ぜひ体験してみたいものですが、まだやってるんでしょうか?

あとあと、末期の癌を患い闘病生活を送っていた大林宣彦監督のお姿が見れて、初見のときは声をあげて驚きました。監督最新作『花筐』は12月公開なので、これを観ないと年は越せないなあ、とスクリーンで亜人の偏見を助する大林監督を見ながら思いましたね。
495 : ◆AyvLkOoV8s [sage]:2017/10/24(火) 00:16:37.35 ID:HnBxbFIl0
おつー

亜人の映画は、アニメもそうだけど佐藤の倒し方というか決着のつけ方をちゃんと書いてるのが良かった
バトル重視でストーリー面は削ってるみたいだけど、ちらちら見える映画オリジナルのエピソードはあれはあれで見てみたいなと思わされた

アイドルの負担はぶっちゃけ「面白かったからOK」って受け入れてくれる人がちゃんといるから大丈夫だと思うよ!
アイドルが死ぬわ喰われるわな話書いても受け入れてくれる人はいるんだから
読者を信じて書きたいもの書けばいいと思うよ!b

がっこうぐらしクロスから>>1の作品好きなので最後まで応援させてもらいます!
496 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2017/10/24(火) 20:16:00.08 ID:3l3zizC80

クロスが亜人な時点で誰かが酷い目にあうのはわかるから問題ないです
永井は積極的に人に危害を加えるタイプじゃない気がするから多少酷い事する奴にしないと漫画と同じ道辿っちゃいそうだし
497 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/10/25(水) 22:43:51.94 ID:9edaZuJ/O
〉〉495
偶像喰種の作者の方からレスがいただけとは。大変励みになる言葉、ありがとうございます。しかも、前作から読んでくださってくれてるとは……めっちゃうれしい。

お書きになられたアーニャのssもとても素敵でした。

AyvLkOoV8sさんのssは映画ネタが多いので、そこもとても楽しく読ませてもらってます。


今年は亡くなられる映画監督が多くて悲しいです。ジョナサン・デミのことはつい本編でも名前をだしましたが、まさかロメロにトビー・フーパーまで……


佐藤との決着の付け方はいちおうちゃんと考えてあります。これはちゃんと書けたらめっちゃ盛り上がるだろうな、とけっこう自信があるんですが、原作とかぶらなければいいなあ……

〉〉496
ありがとうございます。

更新がなかなかできないなか、レスをいただけるだけでもありがたいのに励みになる言葉まで。感謝です。

潜伏中の永井が他人にコンタクトをとるのは、行動原理としてちょっと微妙にあてはまらないかもな、とは思ったんですが、こうでもしないと話を前に進められないし、メリットがでかいということにして思いきりました。

永井が自分から積極的に危害を加えにいくのも原作のなかにはないですがここも同様に思いきりました。

一度決めたらあとは楽だったというか、永井にとってアーニャがアイドルかつ亜人であること以外は、とても綺麗な女の子であったりとてもやさしかったりすることは、なんらメリットにならないことなので、対面してからの展開はかなりすんなり書けました。

でも、投稿するときはけっこうドキドキだったんで、今回のお二方のコメントにはほんとうに励まされました。

あらためてありがとうございます。

498 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/12/22(金) 22:57:45.13 ID:OBzab0O/O
永井が雑草の葉っぱと根の境目のちかくの茎を掴んで引っこ抜くと、土の中に根を張り巡らせているこの植物はさっきまで充実感をともなってむしっていたイネ科のそれと違い、筋ごとに根が出て地面に食い込んでいるので、抜いても筋のところで千切れてしまい、抜くというより千切るとかもぎ取るとかいう感じばかりがするので、永井は、はかがいかなくなってくるのを感じた。

 雑草はとなりの畦道から勢力をのばしているようで、永井は軍手のなかをしっとりと汗ばみながら、長い茎や尖った葉を持った何種類もの雑草を抜いていっていた。田んぼで育ったシオカラトンボの群れが作業をしている永井のまわりを飛びまわった。

 永井は茎から下がない短く尖った葉を、抜き終わった雑草を山にしているところに捨てにいった。山になっている雑草はどれもシャーっと伸びたやつばかりで、この種類のものは葉っぱ自体は派手に長く伸びて広がっているが、根はひとつしかないので簡単に抜けてしまうのだった。
499 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/12/22(金) 22:59:32.38 ID:OBzab0O/O

永井は葉から手を離したあと、曲げていた腰をもとに戻し、さっきまで草むしりをしていたところを見た。

 太陽が燦々とよく照って、雑草といえども光をたっぷり吸った葉っぱは緑にかがやいていた。あいまにある草をむしったところは掘り返された土が黒っぽい茶色を露出していた。永井が担当していた場所は緑と焦げ茶のまだらになっていて、抜きやすい種類の草ばかり抜いていたことを示している。そして、かがやく葉っぱはどれも短く尖ったかたちをしていた。

 永井はうんざりしながらしゃがんで草むしりを再開した。掘り返された土の中から透き通った翡翠のような緑をしたクモの幼生が天災から逃げるように走っていった。永井はクモの行方を眼で追いながら草をむしった。ぶちっという感触が軍手越しにつたわり、見ると、またしても尖ったかたちの草だけが手のひらに収まっていた。
500 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/12/22(金) 23:03:10.52 ID:OBzab0O/O
永井「ひー」


 永井は悲鳴に似たため息をもらし、腰をかがめて作業をしている山中のおばあちゃんに目をやった。おばあちゃんは黙々と、草取りレーキを振って土の中の根っこを掘り返していた。永井はおばあちゃんの曲がった背中に話しかけた。


永井「雑草なんて抜いても生えてくるんだからほっとけばいいんじゃないの?」

山中「無駄だとわかっててもやるの! それが男ってもんだよ」

永井「あそう」


 返ってきた答えに前時代的な価値観を感じつつ、永井はまた草むしりをはじめた。

 雑草のサイズにたいして七倍くらいの面積を掘り返し、それを三回繰り返したあと、永井は玉になった額の汗をタオルで拭った。瞼にかかる汗も拭う。
 
 瞼からタオルをのけると、すこし離れた道のところにいる老人ふたりがこちらを見ているのに永井は気づいた。


永井「こんにちはー」


 永井はにこやかな声をつくってふたりに挨拶した。

 呼びかけられた老人たちは肩をビクッと震わせ、慌てた様子で立ち去っていった。
501 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/12/22(金) 23:04:38.31 ID:OBzab0O/O
山中「なんだい、ありゃあ。失礼だね」


 山中のおばあちゃんは二人の態度にあからさまに顔をしかめた。永井のほうは、あいさつしたときの親しみやすさを表した表情はすっかり消えていて、細まった黒い眼でちいさくなっていく老人の背中に視線を注いだ。


永井 (まずいな……)


 永井は、かれらの背中をその姿が見えなくなるまで、じっと見送っていた。


ーー
ーー
ーー

502 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/12/22(金) 23:05:54.94 ID:OBzab0O/O

堀口「あいつは山中さんの孫じゃねえ、永井圭だ」


 長い座卓を二つ並べた上座に腰をおろしている堀口がきっぱりと断言した。

 村の集会場には堀口をふくめ四人の男がいて、彼らはみな年老いていた。広い部屋のなかで老人たちはちゃぶ台を囲うような距離に座っていて、ごくりと唾を飲み込み、戸惑った視線を互いにむけた。


吉田「山中さんがかくまってるってことか?」

石原「いや、気づいてないのかもしれん」

吉田「オレオレ詐欺か」

山田「どう追い出す? 亜人てのは凶暴なんだろ? 偉い先生がそう言っとる」

吉田「ああ。何百人も殺したってな」

山田「そんなに強いのか?」

石原「わかんねーよ。おれに聞くなよ」


 ざわざわと話がとりとめもなく無方向に盛り上がっていった。そのとき、開けっ放しのアルミの引き戸から「誤解です」という声が老人たちに向けて話された。


永井「僕は永井圭じゃありません」


 噂をすれば影がさす。突然姿を見せた話題の主に、老人たちは気まずい思いをして口をつぐんだ。
503 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/12/22(金) 23:06:56.23 ID:OBzab0O/O

堀口「そんなこといわれてもな」


 片ひざを立てて座っている堀口が、場が沈黙に飲まれるまえに口を挟んだ。


堀口「ひょっこり出てきたおめえを、良次君と信じろってのに無理があるぜ」

吉田「ああ、そうだ! テレビの写真もと似とる!」


 老人たちは堂々とした態度の班長を目にして、自信を取り戻したようだった。彼らは堀口があっけらかんとした口調で言ったので、そのかまかけに気づいていない。


永井「あの……弁解させてください」


 永井はちょっと困ったというように視線を下げた。詰問調に叫ばれた「なんだと!」という老人の声。永井は視線を堀口だけにむけ、取り巻きは相手にしないことにした。


永井「班長さん、まず、僕の名前は良次じゃなく良太です」


 山中のおばあちゃんの孫の名前をあっさり訂正した永井は、老人たち、とりわけ堀口班長の反応をうかがい、手に持った紙袋を置いて下座に正座した。


永井 (田舎の集落ってのは村人同士があらゆる情報を共有しあってるし、閉鎖的だから仲間意識が強い。ここからの一挙手一投足に、すべてが掛かっているぞ)
504 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/12/22(金) 23:08:23.73 ID:OBzab0O/O

 膝を畳んで座った永井は堀口班長の周りにいる老人たちに目を向けてから話を始めた。


永井「山田さん、石原さん、吉田さん、堀口班長。たしかに、僕はどうしようもない人間です……いままでたくさんの人を裏切ってきたし……好き勝手やってきた……」

永井「みなさんも知っての通り、今年はじめ、地元東京で酒屋に忍び込み、窃盗で警察のお世話になりました。高校は退学、両親とたったひとりの兄弟にも見限られ……ここへ来ることになったんです」

永井「こうなるまで、僕は……人は一人じゃあ生きていけないんだと、気がつきませんでした……」


 と、ここで、永井はゆっくり頭を垂れた。いままで感情を抑え込んだ静かな語りのトーンに震えが混じり出した。


永井「もうここしか、居場所がないんです」


 永井は下げきった頭をすこし上げ、片目ですがるような視線を老人たちに見せてそう言った。


永井「ろくな挨拶もしてなかったし疑われるのは当然ですよね……でも僕は、本当に永井圭ではないんです」

永井「こんなことになってしまって、本当に……申し訳ないと思ってます」

永井「だから、どうか……(ここで涙が一筋、永井の頬を伝っていった)……ここにいさせてもらえないでしょうか……」


 永井は深く頭を下げ謝罪の姿勢をつくった。
505 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/12/22(金) 23:10:26.42 ID:OBzab0O/O

吉田「なあ……おれはこんな子が亜人には見えねえよ」

石原「ああ」


 老人たちはほだされたように互いを見やった。


堀口「話におかしな所はねえ。本人じゃなきゃあこんなにポンポン出てこねえわな」


 永井は頭を下げたまま、瞳を正面にいる堀口にむけて動かした。頬には涙で湿った感触が残っていたが、その眼はもう乾いている。


堀口「だがな、そんなんじゃあここの一員と認めるわけにはいかねえぞ」


 堀口だけは永井の涙混じりの弁解の言葉にほだされた様子は見せず、冷静な視線で永井を見据えながら言った。永井圭ではなかったとして、それだけで村の住人になれるわけではないのだ。ただの若造になにかしてやる義理はない。


永井「はい……この度は、本当にご迷惑をお掛けしてしまったので」


 永井はそう言いながら持参した紙袋の中に手を入れた。ガサゴソと中を探り、永井は中身を取り出すと、それを座卓の上にどんと大きな音を立てて置いた。


永井「お詫びといってはなんですが」


 一升瓶の底が座卓を叩く音に反応した老人たちに見えるよう、永井は瓶のラベルを正面に向けた。
506 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/12/22(金) 23:12:22.59 ID:OBzab0O/O

堀口「ははっ」


 堀口が笑い声をあげた。目の前の若造はひ弱そうにみえて、取り入りかたををよくわかっている。ほかの老人たちも緊張を解くのにうってつけのタイミングでうってつけの飲み物が差し出されたことに喜んで腰を上げた。


石原「じゃあー、誤解も解けたことだし一杯やりますかね」

吉田「コップコップ」

堀口「良太君、酒飲める年だったよな?」

永井「十六ですよ」

堀口「問題ねえじゃねえか」


 さてと、この場はてきとうに……。永井は頭のなかで考えたのはそこまでだった。

 酒の入った瓶が銃声とともに割れた。瓶を割った散弾は永井の胸部から飛び出してきた。背中を撃たれた永井は額を座卓に打ち付けた。座卓の弾着したところがけばだち、蜂の巣のような穴に透き通った酒と永井の血が流れ込み、混じりあった。

 突然の銃撃に驚き、その場を飛び退いた老人たちは、上半身を突っ伏している永井を息を止めながら見た。顔を上げると、猟銃を持った男が入り口に立っていた。


堀口「北さん! あんた、なんてこと!」


 堀口が猟銃を持った男に向かって叫んだ。


北「見ろ!」
507 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/12/22(金) 23:13:41.24 ID:OBzab0O/O

 北さんと呼ばれた長い白髪を後ろに撫で付けた肉付きのいいその老人は、猟銃の先を永井の背中の穴に向け、老人たちの視線をそこにうながした。

 細かい孔が密集している背中の銃創から、黒い粒子が泉の水のように湧き出し(といっても、老人たちにその粒子は見えなかった。IBM粒子は亜人にしか見えない)、永井の傷を癒していく。

 それを見て老人たちは慄きながら、また数歩後退さった。永井はもう眼を開いていたが、すぐに動かず、老人たちの悲鳴から現状を把握した。座卓に突っ伏しているとうことは、後ろから撃たれたというわけだ。復活したことを悟られるまえに、永井はおおきく口を開け、亜人の“声”を使った。


永井『動くな!』


 部屋に響き渡る振動が老人たちの筋肉を硬直させた。永井は弾かれたように身体をあげ、いちばん近くで固まっている山田めがけて飛びかかった。

 中野が自分の首に腕を引っ掻けたのと同じ要領で、永井は老人の首に左腕を引っ掻け、肩を掴みながら背中にまわると、腕を締め付け、老人を人質にした。
508 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/12/22(金) 23:14:59.36 ID:OBzab0O/O

「ひいいいぃッ! 亜人!!」

北「化け物め!」


 悲鳴と罵倒を浴びながら、永井はじりじりと後退していった。


永井「クソッ……台無しだろ!」

北「それを言いてえのはおれの方だ!」


 永井は憎々しげに猟銃を持った北を睨みながら、後方にあるドアへと近づいていった。首を絞められている老人は、喉の閉塞と恐怖ーー後ろにいる永井と目の前で黒く光る猟銃の銃口ーーによって、息苦しそうにぜえぜえ喘ぎながら足をもつれさせている。


北「クソガキ……取っ捕まえて、痛めつけてやる!」


 永井は腕からずり落ちそうになっている老人を無理やり引っ張りあげ、自分の身体をかばう盾のように扱いながら後ろに下がった。老人の身体があがった瞬間、猟銃の銃口が反射的にすこしだけ下がる。永井はそのタイミングでドアノブの位置を確認すると、ノブに手を伸ばし、ドアを開けてそこから逃げた。

 逃げるときに突き飛ばされ、床に倒れている老人を仲間が起き上がらせたとき、もう永井の姿は消えていた。
509 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/12/22(金) 23:16:32.76 ID:OBzab0O/O

堀口「あいつ……騙してやがったのか」


 堀口は茫然とした面持ちをして言った。


石原「北さん、助かったよ」

吉田「でも鉄砲まで持ち出さなくても……」

北「ニュースで見ただろ! やつらがどんな生き物か! 油断してっとこっちがやられるぞ!」


 北は話しかけてきたふたりから部屋全体へと視線を移すと、説得的な大声をあげた。


北「みんなで捕まえるんだ!」

石原「でももう出てってくれんじゃねーか?」


 一方的な宣言のように聞こえる北の発言に、老人のひとりがおずおずと反対意見を口にした。

 ぎろりとした脅しつけるような眼で発言者を睨んだ北は、憎しみを込めた声で言った。


北「あんな化け物がただで逃げると思うか?」


 生々しい実感がこもった北の声を聞き、老人たちの背中に怖気が走った。かれらは我勝ちにといった勢いで集会場から飛び出し、逃げ出した亜人を捕まえるため、伝令と武器の取りに駆け出していった。

 集会場に残っていたのは、北老人と堀口班長のふたりだけになった。堀口は猟銃にちらと眼を向け、それから北老人の顔を見ながら静かに尋ねた。


堀口「……北さん、何であいつが亜人だってわかった?」

北「……亜人だったろ?」


 北はそれだけ答えると堀口に背を向け、集会場をあとにした。


ーー
ーー
ーー
510 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/12/22(金) 23:19:05.08 ID:OBzab0O/O

 玄関の戸がガラッと音をたてながら開けられたので、山中のおばあちゃんがその方向に眼をやった。村の顔役たちが集まる集会場に出かけていった永井が慌てた様子で、疾走でもしてきたのか、汗まみれになりながら急いで玄関の鍵を閉めているところだった。


山中「あ、圭君、どうだった?」

永井「バレた」


 永井は靴を履いたまま、たたかきから廊下に上がり、おばあちゃんの前を突っ切って、すれ違い様に「もうここにはいられない」とだけ言い残し、自分の部屋へと向かった。

 山中のおばあちゃんは動転しながら身体を永井が消えた方向に回して大声をあげた。


山中「そんな……出てってどうするんだい!?」

永井「どうしようもない! とにかくこの村から出ていかないとダメだ!」


 永井がワンショルダーのボディバックに荷物を詰め込みながら言い返したとき、玄関がガンガンと叩かれ、見ると、戸の格子のあいだに嵌め込まれた曇りガラスの向こうに何人もの人影がいるのがうかがえた。


北「山中さん! どうした、カギなんかかけて!」


 北の喚き声が玄関を突き抜けて家のなかにいる永井と山中の耳に届いた。乱暴なノックに玄関の戸は、まるでそこから逃げ出そうとするかのようにガタガタと揺れ動いる。


山中「圭くん、裏の窓から逃げな」

永井「うん、ありがとう」
511 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/12/22(金) 23:20:18.76 ID:OBzab0O/O

 山中のおばあちゃんは騒がしく鳴っている玄関へと向かう途中、土のついた足跡が廊下に残されていることに気がついた。おばあちゃんは雑巾を取ってくる暇も惜しんで廊下に膝をつくと、服の裾を使って足跡を拭き取り始めた。

 戸を叩く音はさっきよりも増して、いよいよ打ち壊そうとするかのように激しくなっている。


北「開けろ!」


 戸を叩く拳の激しさにも負けないくらいの大声を北があげると、さっきまで揺さぶれるがままだった引き戸が突然開いた。


山中「どうしたんだい、勢揃いで」


 玄関を開けた山中が驚いた様子で集まっている村人たちに言った。彼らは手の中に武器になりそうなものを持ち、なかには狩猟用の銃器を持つ者も数人いた。


北「あのガキはどうした!?」


 集団の先頭に立つ北が山中のおばあちゃんに詰め寄り大声で詰問した。


山中「帰ってないよ」

吉田「山中さん、あいつはアンタの孫じゃない。亜人だ!」

山中「え!?」

石原「あんただまされてんだよ」

山中「そんな……」


 山中のおばあちゃんは茫然した様子でつぶやいた。
512 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/12/22(金) 23:21:26.93 ID:OBzab0O/O

北「村の出口は二ヶ所、橋と林道だ! 残ったやつは森を探すぞ!」


 北が飛ばした指示に従って村人たちはそれぞれの武器を握り駆け出していった。


山中「そんな……あの子が……」


 北はいまだショックから立ち直れない様子の山中を見た。山中が立っているところは玄関の庇の下で、呆けている表情が浮かんでいるはずのその顔には影がかかっていた。


北「山中さん、アンタ……本当に知らなかったのか?」


 北は影の下にいる山中に向かって、先ほどの詰問調とうってかわって、冷静な感じのする声で尋ねた。


山中「もちろんだよ」


 山中は影の中に身を置いたまま、北に答えた。

 返答を聞いた北の眼筋が引き締まり、目が細くなった。年老いた北はその細まった黒い眼を山中に向けながら、首が固定されたように山中から視線を動かさず、猟銃を握る手に力を込めた。


堀口「北さん、はやく!」


 急かされた北は山中に背を向けた。集団に合流するのあいだ、北が考えていたのは、山中の服にこびりついていた土汚れのことだった。


ーー
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ーー
513 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/12/22(金) 23:23:47.66 ID:OBzab0O/O

 一台のバンがかなりのスピードで杉の木が道の両端に並ぶ林道を走り抜けていった。平凡な夏の日によく見る光景だったが、タイヤが巻き上げる土埃の勢いは運転手が急いでいることを物語っていた。

 運転手は頬がこけた老人で、出っ張った頬骨の上には眼鏡のつるがあり、車体の揺れにあわせてレンズに反射する光が上下していた。


老人「山中さんにぜんぶ聞いたよ」


 運転している老人が助手席の永井に声をかけた。
 老人は山中の家の裏窓からにげだした永井を待ち構えていて、村から車で脱出させようとしてくれたのだった。


永井「亜人を怖がらないんですね」


 永井は老人のほうを見ながら言った。


老人「ニュースがすべて正しくないなんてことくらいわかるよ。きみは化け物じゃない」


 老人は運転に集中していて前を向いたままだったが、永井をないがしろにせず、不安を払拭するためによく言葉を考えて口にした。


永井「ありがとうござまいす」


 永井はほっとしたように言い、頭をシートのヘッドレストに預けてリラックスした。
514 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/12/22(金) 23:25:27.28 ID:OBzab0O/O

 だが、永井がその姿勢でいられたのは、束の間のことだった。


老人「私が責任をもって安全な場所まで連れていくよ」


 永井をさらに安心させるため、老人は言葉を続けた。


老人「国に保護してもらおう」

永井「はあ!?」


 永井はシートに沈めていた上半身を跳ね起こして、老人に向き直った。


老人「若いから窮屈に思うかもしれないけど、それが一番だよ!」


 老人の提案は永井にとって、それが口にされた瞬間に結論となっていた。騒ぎすぎるマスコミが正しく報道をおこなっていないのは永井もおなじ意見だが、メディアが世間に流通している情報すべてが正しくないかといえば、もちろんそんなことはなく、複数のメディアから得た情報を突き合わせ、検討していけば、亜人を巡る現在の状況のおおよその見取り図はできる。

 たとえ善意をもって味方になろうとしている人物であっても、この見通しが立てられない者は、永井には足を引っ張る邪魔者でしかなく、ましてや絶望してもいいくらいのマイノリティである亜人と国家との非対称的な関係性を想起できない奴など論外もいいところだった。


永井「ダメだ、こいつ」
515 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/12/22(金) 23:28:22.35 ID:OBzab0O/O

 永井は運転席の老人をとっとと見捨てることにした。永井の腕が獲物に飛びかかる蛇みたいにハンドルめがけて伸び、林道から真っ直ぐ空をめざす一本の樹木めがけて限界までハンドルを切った。正面にのびる林道から樹々が集まる森の景色へと老人の視界に写るものが一瞬で移り変わる。老人は悲鳴をあげながら必死でハンドルを元に戻そうとするが、永井は身体を運転席に乗りだし、老人のハンドル操作と視認の邪魔をする。そして、壊れたシートベルトを腕に巻き付け衝突に備える。

 永井がフロントガラスにめり込んだ額を引き抜いたとき、日は傾きはじめ、林道は橙と黄色に輝く夕陽に染まり、林道から森へ曲線を描く轍に黒い影がかかっていた。


永井「ぐ……」


 永井は細かくなって皮膚に埋まったガラスの破片を手のひらで擦り取った。眉の上のあたりの傷口から血がじゅくじゅくと滲み出て、顎まで伝い落ちてきた。

 運転席の老人は顔をエアバッグに埋めていた。老人は気絶しているのかぴくりともせず、薄くなった皮膚の下にある頸椎を天井にむけて晒している。


『私たち素人は「死なないだけなんじゃ?」と思ってしまうのですが……』


 追突の衝撃で起動したのか、カーナビの画面から女性アナウンサーの声が聞こえてきた。夕方のニュース番組で、女性アナウンサーはゲストの日栄大学の心理学教授藤川翔に亜人の凶暴性について質問していた。


『まさにその、死なないというのが危険なのです』


 藤川は質問にかぶせるようにアナウンサーに答えた。


『我々人類は生き残るために、肉体を進化させるのではなく、他者と協力していくことを選択しました』

『それによって思いやりや愛情、つまり心が育まれていったのです』

『生来「死」という概念のない亜人には、心がないのであります』


 藤川の言説はそれらしく聞こえるが根拠というものはまったくなかった。佐藤のテロによって引き起こされた亜人という人種そのものへの偏見や恐怖、そういった漠然とした不安が意識されているいまの社会の雰囲気に流通しやすいだけの言説をこの大学教授はテレビで披露していた。
516 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/12/22(金) 23:29:58.79 ID:OBzab0O/O

『彼らは人を殺したとしても、何も感じたりはしません』

『例外なく、すべての亜人が危険だということを、国民一人一人が認識すべきだったのです』


 藤川はためらいなく言い切った。

 永井は額を押さえながらカーナビから流れてくる音声を聞いていた。

 夕暮れが進み、赤く照らされた場所がどんどん小さくなっていく。木に衝突したバンも薄暗い影に覆われ、蜩のカナカナと鳴く声が森に物寂しく響いていた。


『今後も続くであろう佐藤の凶行がその事実を我々に教えてくれるでしょう』


 大学教授のその言葉を最後にニュース番組はコマーシャルに入った。居酒屋での飲み会の光景。栄養ドリンクのコマーシャルで、高垣楓が出演していた。姉とおなじ346プロダクションに所属し、女優業でも確かな成果を出している名実ともにトップアイドルの彼女だったが、永井はそのことを知らなかった。

 多くの人間にとって、さきほどの大学教授の言説もコマーシャルで語られるドリンクの効用も、等価に聞き入れられ、意識の片隅に置いておかれる言葉なのだろう。どちらの言葉も語られる対象へのイメージを形作り、そのイメージを人びとは判断を下す材料のひとつとする。
517 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/12/22(金) 23:31:27.84 ID:OBzab0O/O

永井「佐藤さん……アンタ……本当に住み良い国を作る気あんのか?」


 そう呟いたあと、永井は額を押さえたまま頭をあげた。また傷口から血がゆっくり流れてきた。永井はもう一度手のひらで血を拭った。何度か瞬きして焦点が合ってくると、影と夕陽が切り分けた視界のなかに、白煙がゆらゆらとひしゃげたボンネットの隙間から立ち上っていた。

 永井はドアを開けて外に出た。車に凭れかけて疼痛を堪えると、おもむろに息をおおきく吐き、ワンショルダーバッグを掴み、肩にかける。銃撃によって破れたTシャツの穴にショルダーストラップが重なり、乾いた血が縁取った円形だけが見えるようになった。

 永井は迷うことなく森の暗闇のなかに足を進めていった。まるで暗闇が自分に味方してくれるとでもいいたげな強い足取り立った。

 何羽ものカラスがカアカア鳴きながら丸い夕日に向けて飛び立った。その鳴き声は蜩の声と混ざり、時刻が刻一刻と進んでいることを告げているようだった。


ーー
ーー
ーー
518 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/12/22(金) 23:32:57.24 ID:OBzab0O/O

中野「ざまあ! 登ってやったぞ!」 


 コンテナの扉まで到達した中野がそらまでの鬱憤を晴らすかのように叫んだ。コンテナの内壁にはなんとか指を半分まで入れ込むことが可能な溝が入口から奥まで直線上に並んで延びていて、中野はその溝に指をかけ梯子を登るようにコンテナの頂上むけて登っていった。

 だが、それは容易な行動ではなかった。横に細長い矩形の穴は断面が直角で、身体を持ち上げようと溝にかけた指に力を入れると、直角の断面が容赦なく指の肉に食い込んだ。

 中野は朝からそれを何度となく挑戦し、落下して底に背中を打ち付けては、痛む身体を起こし、指の支えだけで再び登るのを繰り返した。何度も何度も登るうちに、指の肉はぱっくり裂け、傷口からの出血はだらだらと遠慮がない。中野はタオルを細く裂いて手に巻き付け、痛みに耐えながら血で滑った矩形の穴に指をかけ、登頂を再開した。落ちては登るを繰り返すうちに縦列に並んだ溝は血だらけになり、鼻を近くに寄せると錆びた金属の臭いに新鮮な鉄くさい臭いが漂っているのが感じられた。

 光の届かないコンテナの内部を中野が登り詰めたとき、外では日が暮れなずむ時刻だった。このとき、中野は、正午過ぎから二時頃まで空腹を覚えていたことも、疲労によって身体がぎこちなくしか動かなくなっていることも忘れていた。ただ、外に出なければという意志のみで動いていた。

 コンテナの底に置かれたランプ型の電灯から放たれた光彩が四方の壁を照らし、中野の肩から上の部分を巨大な影として、入り口の扉に投影していた。中野はバランスを崩さないように慎重に左手をあげ、コンテナの扉を押し上げようとした。中野の動きに合わせて影も動き、上腕が拡大された影となって扉全体に投げかけられた。
519 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/12/22(金) 23:34:12.44 ID:OBzab0O/O

中野「よし……ん?」


 中野は力を込めて扉をあげようとしたが、入口はビクともしなかった。


中野「あ! 中からじゃ開かねーのか!」


 だが、そのときコンテナの扉がギイイィと軋みながら開けられた。夕焼けを背景に何者かがコンテナのすぐ側に立っていた。


永井「どいつもこいつも馬鹿ばっかだ!」


 コンテナを登ってきた中野を見て、永井は忌々しそうに叫んだ。


永井「無謀だが、他にどうしようもなくなってきた」


 永井はいらだちを抑えるように頭を振って、茫然と自分を見上げる中野にむかって言葉を吐きつけた。


永井「手伝え! クソッ……」


 ひと呼吸置いてから、永井は中野に要求を伝えた。このとき、はじめて永井と中野は近くで視線をあわせた。血の色が、永井の額を、夕焼けよりも赤く染めているのを中野はしかと見てとった。


永井「佐藤をどうにかしたい!」


ーー
ーー
ーー
520 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/12/22(金) 23:37:02.93 ID:OBzab0O/O

 はっきりしないながらもアナスタシアが意識を取り戻したとき、アナスタシアはロープで吊り上げられた状態で、ダクトテープで固定された両手足がぶらぶらと止まりかけた振り子のように揺れていた。

 ぼおっとしていると、アナスタシアの身体がぐいっと上に引っ張りあげられる。身体を縛るロープが肋骨に食い込んで痛い。引っ張られるたびにロープはぎしぎしと肋骨に食い込み、うめき声をあげそうになったが、口に巻かれたダクトテープのせいで喉の外に声が洩れることはなかった。そのかわり、ポロポロと涙が出てきてしかたがなかった。

 さらに災難なことに、アナスタシアは垂直方向に真っ直ぐ、つまり真上に引っ張りあげられているわけではなく、井戸の外にいる何者かがアナスタシアに巻かれたロープを綱引きの要領で無理矢理引っ引っ張っていたため、アナスタシアは井戸の内壁に身体のあちこちをぶつけられ、ゴツゴツした石に肌を擦り付けられるはめになった。

 口を塞がれているため、やめてと訴えることもできず、アナスタシアは、肋骨にロープを食い込ませるがまま、石にぶつけられるがままの状態で吊り上げられていった。

 ようやくアナスタシアの身体が井戸の外に引っ張り出された。最後はロープでなく誰かの腕によって引き上げられたが、襟の後ろを乱暴に掴まれての動作だったので、首がすこし絞まって苦しい思いをした。

 目の前には意識を失う直前に目にした暗闇が引き続き広がっていたが、井戸の底の奥深い息もできないくらい濃密な闇と違って、土の湿り気を感じながら見るこの闇にはじんわりと濃淡があり、斜め上に伸びる線があった。それらの線は森をかたちづくる樹木の輪郭だった。月明かりは葉の繁りに遮られていたが、光は空気の中に混じり、動くものがいるかどうかくらいは見分けられる程度の明るさはあった。
521 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/12/22(金) 23:38:12.29 ID:OBzab0O/O

 アナスタシアは身体中の痛みに気をとられて、まわりの状況を判断できる状態ではなかったが、すぐ側にいる人影に気づくととっさに身の危険を感じ、本能的にIBMを発現した。

 救いを求めるような必死さを込めて、その人影を遠ざけるようIBMに願うと、星十字のIBMは人影の胸の真ん中に爪を突き立て腕まで貫通させ、腕を真っ直ぐに伸ばしたままいちばん近い杉の木まで突進していった。攻撃を受けた人物と木が衝突し、幹は大きく穿たれ、ガサカザッと葉を鳴らしながら、木が大きく揺れた。



中野「痛っ、てぇ……」


 恐怖のため固く瞼を閉じていたアナスタシアが、聞き覚えのある呻き声に素早くばっと頭をあげると、自らの分身ともいえるIBMが中野を杉の木の幹に磔にしている姿を目撃した。葉のあいだから射し込んだ月明かりが茶色に染めた髪を照らし、アナスタシアは磔にされた男が自分を助けようとしてくれた人だったことに気がついた。

 その瞬間、アナスタシアの気持ちは闇色の絶望に染まった。たとえ故意でなくても、善人を殺めたという事実が一生を通じて呪いのようにつきまとい、あらゆる幸福、感情発生を正当的に禁止し、だがそれが罰というわけでもなく、だから償うこともできず、事実に命じられるがまま、殺人者として生を全うしなければならない。そのような絶望がアナスタシアを襲った。

 なぜそうしなければならいのか? それは、アナスタシア自身がそうしなければならないと考えているからだった。

 アナスタシアは死を恐れはじめていた。自分の死ではなく、どこかの誰かの死。それは、研究所に忍び込んだあの日、夜の雨のなか、真っ黒な無を宿した死人の眼を見てから生まれた感情だった。アナスタシアはその眼を見て、死が“ある”ということをはじめて知った。そして、死は、“もたらすことができる”ものだということも、同時に知った。
522 : ◆X5vKxFyzyo [saga]:2017/12/22(金) 23:40:23.48 ID:OBzab0O/O

 夜の帳がおりた森の只中は穏やかで、とても人が死んでいる風景には見えなかった。おぼろげな月明かりと夜風に包まれると気持ちが良くて、蒸し暑さを忘れるほどだったが、中野の胸の穴からは血が帯のようになって流れていた。

 脅威を退けるよう懇願されたIBMは、次の命令がないため中野に腕を打ち込んだまま沈黙していた。永井がIBMを発現し、この凶暴な黒い幽霊が星十字型の頭部を砕いた。IBMの身体がくずおれ、木に張りつけられていた中野が地面に落ちる。


中野「なんで……」


 中野は復活すると、頭を振って意識の回復をはかった。永井のIBMが再度中野を貫き、さっきとおなじ木に磔にした。


中野「おれ……」


 二度に渡ってIBMから攻撃を受けた杉の木の幹に亀裂が走り出し、木っ端が散って、ついには幹がずり落ち、アナスタシアめがめて倒れてきた。

 アナスタシアは咄嗟の反応で縛られた両腕で頭をかばい、恐怖で瞼を固く閉じたが、倒れかかる木は枝が別の木の枝と絡みつき、玄のように弾かれる音を響かせながら、骨や内蔵を押し潰そうとアナスタシアに容赦なく降りかかってくる。

 突然、アナスタシアの身体が引っ張られる。草の葉がふくらはぎをくすぐる感触をおぼえた直後、ドスンという大きな物音が振動として伝わった。アナスタシアが眼を開けると、さっきまでいたところに木が横たわっていた。

 アナスタシアを倒木から救ったのは永井だった。永井は折り畳みナイフでとりだし、アナスタシアの手首を縛っている灰色のダクトテープを切断すると、ナイフをアナスタシアに握らせた。


永井「あとは自分でやれ」


 永井はそう言い残し、中野が木の下敷きになってないか確かめにいった
523 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/12/22(金) 23:41:57.52 ID:OBzab0O/O

 永井のIBMはもう消失したのか姿は見えず、中野は幹の半分が抉られた倒木からすこし離れたところに倒れていた。中野はもうそこにはない胸の穴を押さえながら起き上がった。

 触ってみてはじめて気づいたが、中野の服の破れ目はまるい穴ではなく、肋のうえに横線が引かれているようにぱっくり開いていた。中野は破れ目が背中のほうまでつながっているのか確かめようと首を回した。そのとき、井戸の周辺の、かつて均され、いまはところとごろに草が生えた自然状態の開けた地面と森との境界に、一本の腕が転がっているのを見つけた。


中野「永井、腕とれてる」

永井「生えてるだろ、新しいのが」

中野「どうすんの、あれ?」

永井「井戸に捨てとけ」


 自分の腕とはいえ、切断された身体の一部を手にとることに中野は忌避感をおぼえた。おそるおそる触れてみると、指で押さえたところの皮膚が沈みこみ、ぶよっとしていた。中野の躊躇にしびれを切らした永井は、中野の腕をぶんどり、井戸にむかって放り投げた。腕はくるくる回転しながら、アナスタシアのすぐ上を通りすぎ、井戸の底に落ちていった。
524 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/12/22(金) 23:44:36.86 ID:OBzab0O/O

アナスタシアは足首にきつく巻き付いたテープを切るのに苦戦していた。ナイフの刃が粘着部に貼りつき、何層にも重ね巻きされたテープに食い込んでいかない。

 おもむろに永井はアナスタシアに近づいた。アナスタシアはあせった。永井がすぐ横まで近づくと、固く眼を閉じ、頭を永井の反対側に傾け、ナイフを持つ手をかばうかのように突きだした。

 永井は受け渡されでもしたかのようにナイフをひったくると、縛られた足首をぐいっと持ち上げテープを両断し、次いで身体のロープ、そして口元のテープを手際よく切断していった。すべらかなナイフの動きは清流を泳ぐ魚のようで、月の光を反射したナイフの刃が鱗のようにきらめいた。

 アナスタシアは永井の思いもよらない行動に呆気にとられていた。永井はたしか、アナスタシアが亜人であることを露見させたあと、しかるべきときに解放してやると言っていた。だが、永井の様子はどう見ても思惑が滞りなく進んでいるようには見えなかった。しかも、敵対していたはずの中野まで一緒にいる。

 永井はそんなアナスタシアにむかって口を開いた。
 

永井「佐藤がテロを決行し、七百人余りが死んだ」


 永井の説明はあっけなく、たんなる事実の報告としてアナスタシアの耳に届いた。そのあっけなさのせいでアナスタシアの頭はしゃっきりせず、言ってることをちゃんと理解できないまま永井の言葉を聞いていた。
525 : ◆X5vKxFyzyo [saga]:2017/12/22(金) 23:46:30.86 ID:OBzab0O/O

永井「グラント製薬の本社ビルに旅客機で突っ込んだんだ。その後の対応にあたったSAT五十名も、佐藤に殺された。亜人はいまやテロリストと同義語だ。助かりたかったら……」

中野「あっ!」


 中野が突然あげた大声が永井の話を中断させた。永井は忌々しげに中野に振り返った。


永井「なんだよ?」

中野「この子、おまえが逃がしたって言ってたじゃん!」

永井「嘘に決まってるだろ」


 いまさらの指摘に永井は頭を抱えたくなった。


中野「はあ!?」

永井「いいからもう黙ってろよ」


 当然そんな言葉に納得するはずもなく、中野はさらに食ってかかった。はじめは無視しようとしていた永井も中野があまりにもしつこいので、やがて中野に負けないくらい声を張り上げ、ついには言い争いに発展した。アナスタシアといえば、訳もわからぬまま、罵声を飛ばし合うふたりの顔を交互に見るくらいしかできなかった。

 複数の銃声が突然響き渡った。三人は銃声のした方を向いて固まり、押し黙った。


中野「鉄砲?」

永井「行くぞ」

中野「おまえ、何したんだよ」


 中野が声を潜めて尋ねた。


永井「何もしてない。亜人だから撃たれただけだ」
526 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/12/22(金) 23:48:28.57 ID:OBzab0O/O

 アナスタシアはその言葉にハッとして、永井の方を見た。血がこびりついたシャツに、大きな穴が開いている。血に染まったシャツには見覚えがあった。つい最近、アナスタシアはおびただしい数のそれを見たのだった。記憶はまだ生々しく、永井が亜人だとわかっていても、その赤い円形が胸元にあることに痛ましさを感じた。

 血の跡はバッグのストラップに隠れて見えなくなった。ストラップを肩にかけたとき、永井の視線がアナスタシアとかち合った。永井の視線は相変わらず温度が感じられず、感情の見えない眼でアナスタシアを見下ろしていた。


永井「狩られたくなかったらついてこい」


 それだけ言うと、永井は森のなかに姿を消した。


中野「立てるか?」


 中野がアナスタシアに駆け寄ってきて言った。IBMで攻撃されたにも関わらず、中野は驚くほど無警戒だった。


アナスタシア「あ、あの、わたし……!」

中野「いいから。はやく行かねえと。あいつしか逃げ道知らねーんだ」


 中野にうながされ、アナスタシアは足に力を入れようとしたが、うまく立ち上がることができなかった。立ち上がりかけ、途中で膝ががくんと落ち、ひっくり返りそうになったところで中野が腕をつかみ、その身体を引き上げ、森の方へと押しやった。

 二人が永井の背中が暗闇のなかに浮かんでいるのをみとめたとき、背後で銃声がふたたび轟いた。

 猟銃の音。アナスタシアが何度か耳にし、肌を震わせたこともあるその銃声は、いままでのそれとはまるで違っていた。

 獲物として聞くはじめての銃声は、とてつもなく恐ろしい音となり、アナスタシアの心臓を震撼させた。


ーー
ーー
ーー
527 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/12/22(金) 23:51:07.46 ID:OBzab0O/O

堀口「何だったんだ、今のは……」


 堀口は杖をつき、よろめきながら立ち上がった。自分の身体を見下ろし、怪我がないことを確かめると、次は周囲を見渡した。捜索隊の面々は先ほどまでの堀口と同様に腰を抜かし、そのほとんどが自失状態から脱け出せてない。

 かれらは一見、茫漠としているようだったが、実際は恐怖で動けなくなっていた。根本からぼっきりと折れた枝がかれらの周囲に観覧していた。地面にはっきりと残る足跡は、人のものに見えたが、その足跡の主を目撃したものは誰一人いなかった。辺りの木は鋭い爪のようなもので切り裂かれ、幹が抉られているものもあった。

 嵐が去ったあとのような静寂と散乱が暗闇に拡がっていた。だが、それはわずかなあいだのことだった。うずくまっていた者たちが、苦痛にうめきをあげ始めたのだった。


吉田「班長、大変だ!」

堀口「どうした!?」

山田「田村さんのとこのせがれが!」


 老人たちが言っているのは、猟銃を持ち出してきたうちの一人だった。洗濯され色褪せたキャップをかぶったその男は、腕に大きな裂傷を負っていて、内部の筋肉はおろか白い骨まで見える有り様だった。持っていた猟銃は、銃身がひん曲がり、木製の銃床は砕け散っている。


石原「医者に見せなきゃやべぇよ」


 タオルを傷口に当てている老人が言った。タオルは血を吸って、赤く、重くなっていた。上腕部をベルトできつく絞めたおかげで出血の勢いは弱まっていたが、男の顔面は蒼白していて、意識も朦朧としている。
528 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/12/22(金) 23:52:16.38 ID:OBzab0O/O

 事態の重さに堀口は屈みこむ途中のような姿勢で動揺していた。パキッという小枝を踏む音に堀口は顔をあげた。

 いきり立つように荒く呼吸を繰り返している北が猟銃の引き金に指をかけたまま、あたりを警戒していた。わずかな物音があれば、北はあまりある勢いで音がした方向を向いたので、まるで猟銃を振り回しているかのようだった。

 恐慌をきたしている北に近づくのは勇気が要った。「北さん」と声をかけた瞬間、銃口が堀口に向けられた。北はすぐに堀口に気づき、猟銃を上に向けた。生きた心地はしなかったが、つまりそれは生きているということで、大きく息を吐くと言うべきことが口に上った。


堀口「北さん、もうやめよう」

北「なんだと!?」

堀口「林道と橋には人を置いとくが、森の捜索はまた明日にしよう」


 北は煮えくり返るような怒りに満ちているだろうと堀口は思ったが、北はがなりたてて反対することはなく、唇を歪めるにとどめていた。


山田「班長、はやく!」


 仲間に呼ばれて堀口は北に背を向けた。負傷者を抱えた一団はすでに見えなくなっていて、襲撃があった場所に残っているのは北と堀口以外にはだれもいなかった。

 堀口は歩きながら後ろに注意を払った。北が後をついてくる気配は感じない。堀口はそのことに一抹の不安を覚えていた。


ーー
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ーー
529 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/12/22(金) 23:54:21.84 ID:OBzab0O/O

中野「こんな堂々と動いて見つからねーか?」


 小高い傾斜を登る永井の背中を見ながら中野が尋ねた。地面から露出した木の根を跨ぎ、幹に手をついてバランスをとりながら坂を上っていく。


永井「あの人達は森の怖さをよく知ってる。たぶんここらの捜索は打ち切ってるはずだ」

永井 (それに、おそらく黒い幽霊に襲われてる。死傷者が出たなら追跡はまず無い)

中野「今晩中に山を越えればいいわけか」

永井「何日もかかるだろ。脱出は一度やった手でやる」


 会話を聞きながら、アナスタシアは二人についていった。中野がそうしたように、幹で身体を支えて傾斜をのぼろうとすると、地面の落ちた葉っぱを踏んで足を滑らせてしまった。剥き出しの固い根に打ち付けた膝は皮膚が擦りむけて血が滲んでいた。転んだアナスタシアを中野がまた引っ張りあげた。服の土を払い、自分のTシャツを破くと擦りむけた膝に巻いてやった。

 永井はすでに傾斜を登りきっていた。振り向きもせず先に進もうとする永井に中野が声を飛ばした。


アナスタシア「イズヴィニーチェ……すみません……」

中野「永井、ライトは?」

永井「月明かりで十分見えるだろ」

中野「いや、危ないって」

永井「注意不足。ダンスやってるんだ。そいつ、僕より身体能力あるだろ」


 ひとりよがりな永井の言動に中野は憤懣とした。一方、アナスタシアは申し訳なさで心が苦しくなっていた。もともと怒りを覚えるような性格ではなかったが、まるで役立たずだと言わんばかりの永井の態度にアナスタシアはすっかり萎縮し、自分をかばってくれる中野に対しても余計な心配をかけさせている気がして、申し訳なさを覚えていた。永井はというと、着々と迷いなく夜の森のなかを歩き続けている。記憶が目印の代わりだった。

 振動音が突然して、ストラップの中が光った。
530 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/12/22(金) 23:55:41.89 ID:OBzab0O/O

中野「は!? ケータイ!?」

永井「おばあちゃんに買ってもらった」


 驚く中野に永井はしれっと答える。スマートフォンの画面はおばあちゃんからの着信を知らせていた。


永井「はあ?」


 奇妙に思いながら、永井はスマートフォンを耳にあてた。相手がほんとうにおばあちゃんかどうか確認がとれるまで、声は出さず息を潜めた。

 電話口の向こうががなりたっていた。北の声だ。口汚い怒声がスピーカーから響いたが、それは永井に向けて放たれたものではなく、北と同じ空間にいる者に向けられていた。

 永井はスマートフォンを耳から離し、しかめっ面をとある方角へむけた。側にいたアナスタシアが怯えたような不安げな表情で永井を見ていた。アナスタシアも電話越しの怒声を聞いていて、不穏な雰囲気を察知したのだが、永井はそのことにまったく気づいてなかった。


中野「永井、急がねーと」


 中野が振り向いて永井に言った。中野は遠くから聞こえるかすかな波の音に導かれ、先頭を永井と入れ替わっていた。永井は身体の向きを視線の方角に合わせると、ワンショルダーバッグを外し、おもむろに肩を落としながら引き返しはじめた。


永井「はあ……先行ってて……」


 面倒ごとにおもむく前によくやるため息を交えながら永井は言った。


中野「どうした!?」

永井「忘れ物!」


ーー
ーー
ーー
531 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/12/22(金) 23:57:13.82 ID:OBzab0O/O

 使われなくなって何年も経つその小屋は、物置きと化していて、同じように使われなくなった廃材やポリタンクや段ボール、諸々の粗大ごみが壁際に無造作に置かれていた。

 そこは居場所がなくなり、放置され、忘れ去られた物が棄てられた、忘れ去られた場所だった。

 大型のクーラーボックスの上に山中が座らされている。ガムテープで両手を縛られ、額からは出血している。銃床で殴り付けられてできた傷だった。


山中「ちょっとアンタ、異常だよ? なんでそんなにあの子にこだわるんだ?」


 山中のおばあちゃんが北に訊いた。


北「グラント製薬……あの会社がどれだけの人達を救ってきたか……」


 なかば茫然自失とした様子で北は話しはじめた。


北「株価は安定、本当の優良企業だ……それがあの事件で一変……連日のストップ安……どうにもならん」


 話しているうちに絶望を自覚したのか、北の声に悲痛さが増していった。北はほとんど叫ぶようにして、自らの絶望的な苦境をだれに訴えればいいのかわからないまま口にしていた。
532 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/12/22(金) 23:59:35.42 ID:OBzab0O/O

北「おれは年金も蓄えもあの会社の株に突っ込んでたんだぞ! おれの人生は!? 老後の計画は!? どうしてくれるんだ!?」
 
山中「小さい男だね! ただの逆恨みじゃないか!」

北「だまれクソババア!」


 必死の訴えを一蹴した山中の眼前に北は猟銃の銃口を突きつけた。


北「あんなバケモンかくまうんだ、てめえも亜人なんだろ! 正体暴いてやるよ」

山中「どうせあと何年も生きやあしないんだ。わたしはかまわないよ」


 山中は銃口など存在しないように鋭い視線でパニックになりかけている北を睨みあげた。引き金にかけた北の指は強張っていた。力が入りすぎ、万力のようにゆっくりと引き金に力かかかる。

 そのとき、小屋の外でガタンと物音がした


北「なんだ!? 奴か!?」


 北は慌てて振り向いた。


北「おい! そこにいるのか!」


 返事はなく、夜がしんと静まり返っているだけだった。ドアのない小屋の入り口は黒い闇を見せるだけ。北は猟銃を肩に当てずんずんと小屋の外へ進んでいった。


北「どこだ!?」


 北の姿が見えなくなった瞬間、いきなり銃声が轟いた。山中のおばあちゃんの身体が反射的に跳ねた。白い煙がモワーッと闇の中に浮かび、溶けるように消えていく。誰かの足音がした。その足音はすぐに聞こえなくなって、あたりに夜の静寂が帰ってきた。ささやかな虫の声音以外はなにも聞こえなくなっていた。北の怒りも絶望もこの世から消えた。


山中「……ふん!」


 すこしして、事態を察した山中のおばあちゃんが鼻を短く鳴らした。


山中「そうでなきゃあね……男ってのは」


ーー
ーー
ーー
533 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/12/23(土) 00:03:18.51 ID:FyC54XJBO

中野「おせえよ。何してたんだ?」


 ようやく森から出てきた永井に中野が言った。


永井「ん? 着替え」


 言葉の通り、永井は弾痕の残るTシャツから半袖のラグランTシャツに着替えていた。


中野「あそう……おれのは?」


 永井は手に持っていた筒状に丸めたTシャツを中野に投げてよこした。中野が着替えているあいだ、永井は発泡スチロールとロープを用意し、発泡スチロールに腕が通るようにナイフでくり貫きはじめた。

 崖下では黒い海面が拡がっていた。波打つ海面の運動にしたがって月の照り返しがきらきらと跳ねている。空に雲はなく、すこし欠けた月と満点の星が一面に輝いていた。月明かりはともかく、小さな星の光は黒い海には届かなかったが、月の光を浴びながら崖砕ける波の欠片は星のように白かった。

 見上げるには絶好の空模様だった。だが、アナスタシアは視線をさまよわせ、やがて自分の膝に視線を固定した。

 永井が戻ってくるまでのあいだ、アナスタシアは中野と会話を交わした。中野はアナスタシアと同じクローネのメンバーである大槻唯のような性格で、ただでさえ喋るのが得意でないのにいつの間にか一緒に逃亡する事態に陥って途方にくれていたアナスタシアでも、話しかけられているうちに自然と口から言葉を出すようになってしまうのだった。中野はアナスタシアがアイドルであることや永井を助けようとしたことに、てらいもなく素直に感心していた(実際、「すげえなあ」と感心をあらわす言葉を何度か口にした)。
534 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/12/23(土) 00:06:34.52 ID:FyC54XJBO

中野「アーニャちゃん、アイドルだって。知ってた?」


 作業を続ける永井に中野が訊いた。つい最近知った凄い知識を友達に披露するときのような口振りだった、永井はナイフを止めることなく答えた。


永井「なんとなく」


 永井のそっけない返答を聞いた中野が眼を見張る。


中野「おまえの姉ちゃんとユニット組んでるだろ?」

永井「だからなんとなく知ってるんだよ」


 中野は「えーっ」と不満げに口から洩らした。アナスタシアは悲しくなり、重みにも似た痛みを心に覚えた。

 穴を開け終わると、永井は発泡スチロールとロープを中野とアナスタシアに投げ渡した。ロープの端を自分の身体に結びつけるよう二人に指示すると、永井もバッグを肩にかけてから同じように二本のロープの端を自分にくくりつけた。それから発泡スチロールを持ち上げると、崖まで歩いていった。中野も当然のように崖まで歩いていった。アナスタシアはすこし迷って、ロープがピンと張られる前にやっと小走りで永井のところまでやって来た。

 はるか下方から波の砕ける音が聞こえる。水平線は黒く塗り潰され、海と空は一体になっていた。アナスタシアはそのときはじめて星空を見上げた。思わずため息をつくほどの星空だった。


中野「でもよ、こんなもんが浮きになんのかよ」


 中野の言葉にはっとしたアナスタシアは持っている発泡スチロールに視線を移した。下を向くと、波の音がはっきりと意識され、いまから自分が何をするのかがわかり、胃がきゅうっと締め付けられるような感じがした。
535 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/12/23(土) 00:09:01.56 ID:FyC54XJBO

永井「水難の講習とか学校でやらなかったか?」

中野「中卒だからなぁ」

永井「そっちは?」


 突然話を向けられたアナスタシアはばっと顔をあげ、永井を見つめた。一瞬なにを言われたのかわからず、アナスタシアはボーッとした表情をしていた。


アナスタシア「えっ?……あっ、ラボータ……お仕事、でした……」


 聞いても無駄かと思った永井が顔を背けようとしたとき、アナスタシアはつっかえながら、何とか答えた。永井は鼻からため息を漏らしてから、二人にむかって忠告をした。


永井「それ、なくすなよ。生体実験されて痛みには慣れたけど、それでも溺死は死ぬほど苦しかった」

中野「怖いこと言うなよ」


 空気が重くなった。そのとき、中野は思いついたことをつい口に出した。


中野「実験って、田中と同じことされたのか?」

永井「銃で撃たれたりとかはなかったかな。生きたまま解剖されたとか、それくらい」


 ますます空気が重くなった。中野は訊かなきゃよかったと後悔し、アナスタシアに至っては絶句するあまり、喉が石のように固まっていた。永井はそのような場の雰囲気を察しようともせず、脱出方法について説明するのだった。
536 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/12/23(土) 00:10:59.37 ID:FyC54XJBO

永井「この辺りのことはいろいろ調べてある。ここから入水すれば潮の流れで押し戻されずに外へ出られるし、そう遠くへも行かない……たぶん」

中野「外国に行っちゃったりしてな」

永井「インドじゃあ亜人は崇拝されてるらしいよ」

中野「すうはい?」


 永井は、中野がバカをさらす発言をしても、いちいち呆れないようにしようと心に決めた。


永井「準備はいいか?」

中野「おれは大丈夫だ」

永井「あそう」


 電話したときの海斗と同じことを言う中野に、永井は不愉快そうに眼を細めた。次にアナスタシアの方に顔を向けると、身体に巻いたロープの結びつけがゆるいことに永井は気づいた。


永井「ああもう」


 永井は結び目をちょっと乱暴に解くと、ロープが緩まないように引っ張っり、それから固く締め上げた。永井が自分に手を伸ばしてきたとき、アナスタシアはビクッとし、おもむろに腕をあげて頭をかばった。やっぱりまだ永井のことは怖かったからだか、その動きが身体を開けることになり、永井の作業をスムーズにさせた。巻き直されたロープはアナスタシアの肋骨に食い込み、じりじりとした痛みを与えていた。

 だが、呻くひまはなかった。アナスタシアの身体が突然「く」の字に折れ曲がり、崖に向かって引っ張られた。

 永井はロープを結び直したあと、すぐに崖から飛び降りた。永井が岸壁から虚空へ足を置いた瞬間、中野は慌てて永井のあとを追った。ロープに苦しめられていたアナスタシアはそのことに気づかなかったのだ。
537 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/12/23(土) 00:13:10.23 ID:FyC54XJBO

 男二人の落下にアナスタシアの足は浮き、転ぶようにして崖から身を踊らせることになった。海面に落下するまでに身体は前に一回転し、アナスタシア星空を見上げながら落ちていった。星の光は痙攣したかのように動きまくっていた。アナスタシアは海へと落ちた。

 海面で打ち付けた後頭部と背中が痛い。冷たさと痛みでとても眼を開けていられない。パニックになり、鼻から海水を吸い込んでしまったアナスタシアを激痛が内側から襲った。発泡スチロールの浮きのおかげでアナスタシアは海面に浮上できた。鼻から海水を吐き出そうとするが、押し寄せる波が顔にぶつかり邪魔をした。波にいいようにされたアナスタシアは、浮きを手離してしまった。

 溺れそうになったアナスタシアを永井が懸命に引っ張りあげた。手足をばたばたさせるアナスタシアを海面から上にあげたままにするには、永井の体力ではあまりに心もとない。


永井「中野、まだか!」


 永井は息も絶え絶えになりながら、必死に叫んだ。

 中野がアナスタシアが手離した発泡スチロールを持って泳いでくる。それを見た永井はアナスタシアを押し出し、大きく呼吸しながら仰向けになって海に浮かんだ。永井は二人から離れるように流されていったが、ロープが張りつめ身体が回転したところで深呼吸し、泳ぎやすい体勢に直した。

 発泡スチロールの浮きをビート板の代わりにして、アナスタシアはなんとか落ち着きを取り戻した。こちらに戻ってくる永井を見たアナスタシアは、さっきのことでお礼を言おうかとすこし悩んだ。

 言うか言わないかの判断をする前に、永井はアナスタシアを通りすぎた。そしてその瞬間、海流が三人を捉え、その身体をどんどん押し進めていった。

 想像以上のスピードで流されながらアナスタシアは、夜の海の宇宙のようなその黒い色そのものに、うまく言語化できない怖さを感じ始めていた。
538 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/12/23(土) 00:24:16.36 ID:FyC54XJBO
今日はここまで。

今回。あんまりアーニャを喋らせられなかったので次の更新ではセリフを増やしたいですね。これからしばらくはアーニャがでずっぱりで、美波の出番は減っていく感じなので、なんとかあの独特のセリフ回しをものにしたいです。

さて、もう年末。このスレを立ててからだいたい一年くらい経ちましたがまだまだ完結するまでに時間がかかりそうです。いまのペースだと来年末にも終わってるかどうか。それを考えるとちょっと恐ろしいです。

とりあえず、今スレ内に9巻のところまでいけるように頑張ります。

それでは少し早いですが、このような有り様にお愛想が尽きねば、来年もまたよろしくお願いいたします。
539 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2017/12/23(土) 07:36:38.12 ID:2dQhr0Eh0
おつ

アーニャもフォージ作戦に参加するのかな?
でも目立つ外見してるから社員のフリは出来なさそう
540 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/02/18(日) 20:49:06.86 ID:oL93h30zO
7.糞ガキ三人になにができるよ?


Come Together ーーザ・ビートルズ


 古ぼけた電光看板が赤や緑の光で道路を照らしている。寿司屋、中華料理屋、スナックや居酒屋が立ち並ぶ通りに人影はなく、永井たち三人は海水でぐしょぐしょに濡れた靴でアスファルトに足跡を残しながら路面を歩いていた。永井と中野が横に並び、そのすこし後ろをアナスタシアがとぼとぼと歩いている。中野が永井と話しているので、アナスタシアはそうするしかなかった。水に濡れた黒い足跡は、さまざな種類の電光にあてられ、場所ごとに違う色に染められていた。店の前を通るたびに酔っぱらいの笑い声やカラオケの歌がドア越しに聞こえてきた。


永井「中野、足を探さないと」

中野「自転車? バイク?」

永井「車だな。免許持ってるか?」

中野「ないけど、フォークリフトも動かせるぜ。現場じゃ問答無用だからな」

永井「じゃあ、どう盗むかだな。強奪しかないか」


 永井は後半の部分を一人言のように口にした。


永井「でも発覚までに時間がかかるのがいい。なんとか間に合えばいいんだが……」

541 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/02/18(日) 20:51:34.28 ID:oL93h30zO

 今後の計画について、ぶつぶつと唱える永井の考えをアナスタシアはしっかり聞いていた。永井が倫理や道徳を気にかけないことなどとっくにわかっていたが、それでも目の前でこう淡々と盗みを働こうとするのを見ると、戸惑いと緊迫を隠せない。特にアナスタシアをどぎまぎさせたのは、強奪という言葉だった。他者への強制力と攻撃性を内包したこの言葉に、アナスタシアは車の持ち主の後頭部を殴りつける永井の姿を想像した。

 ーーでも、ケイは強奪を目撃されるようなヘマはしないはず。用心深いはずだから……でも、不可抗の事態はいつだって起こりうる。もし、目撃者があらわれたら? 口封じしようとしたら……? コウならとめてくれる……とめられなかったら……? わたしがとめる……? とめられるの……?ーー

 アナスタシアがわるい方向への考えに深くはまりこんでいると、中野が突然二人から離れた。


中野「ちょっと待ってろ」

永井「は!? おい!」


 永井もアナスタシアもこれには面を食らった。引戸がガラガラと音をたて、中野は常連客の態度でのれんをくぐり抜けると慣れたようすで居酒屋に入っていった。

 永井は悪態をつくかわりに頭をふるとすぐさま居酒屋から離れた。隣にある雑居ビルの駐車場を通り過ぎ、ビル裏の錆び付いた非常階段を見上げどの階にも明かりが灯ってないことを確認すると、ぼやけた電灯に照らされた踊り場に腰かけた。
542 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/02/18(日) 20:53:12.09 ID:oL93h30zO

 アナスタシアはまるで十歳幼くなったような足取りで永井の後を追った。階段の一番下の段にちょこんと座り、すこし迷って通りを見やった。

 病んだ老犬みたいに劣化して弱った電灯が立った路地だった。風情など欠片もない古いというより経年という言葉がぴったりくる建物の並び。赤提灯に白く発光する電光看板。どうやら目の前の店はおでん屋さんらしい。そしてあたりに漂うのは酒の匂い。こういった都会の一隅は通りすぎるだけで、立ち寄ったことはなかった。

 アナスタシアは意を決して振り向き、永井を見上げた。永井はバッグを手すりの支柱にくっつけて枕の代わりにして頭を預け、眼を閉じていた。呼びかけの一言を口にするまでには随分時間が必要だった。


アナスタシア「あ、あの……」

永井「なに?」


 永井の返事は明瞭で、眠っていたふりをしていたのかと思うほどだった。永井は閉じていた瞼を上げ、黒い石のような眼でアナスタシアを見下ろしている。アナスタシアはどぎまぎしつつ口を開こうとした。声を出そうとしたが、声は喉に引っ掛かってうまくしゃべれない。喉が干からびてしまったかのようだ。そもそもなにを話そうとしたのだろうか。

 永井の眼が夜の中に浮いている。形だけは月と同じ円形をしていたが、その眼はどこまでも黒く、むしろ特別黒いことで周囲の闇から際立って存在していた。

 アナスタシアはごくりと喉をならした。とにかく舌と唇を働かせることにした。
543 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/02/18(日) 20:55:01.19 ID:oL93h30zO

アナスタシア「ミナミ、心配、しています……」

永井「それはまえに聞いた」


 永井の意識が会話から離れかける。アナスタシアはあわててディテールを、つまり何を心配しているか、美波が弟の安否の次に心配していることを説明する。


アナスタシア「プレス・コンフェレン……(アナスタシアはロシア語の発話をここで中断した)……アー……きしゃ……記者会見、ミナミは、あなたがミナミの会見のせいでつかまったかもって思って……」

永井「それ見てない」


 永井はあっさりと言ってのける。他人事のように。というより、アナスタシアにとって美波の心痛は他人事だろうとでもいうような言い方だった。


永井「僕が捕まったのは、佐藤にハメられたからだ。おおかた、人間への憎しみを植えつけて仲間にするために実験体として差し出したんだろう。田中のときの経験かな」


 永井は自身の体験を小動物を解剖するかのように分析した。アナスタシアにとって、この冷徹さは何度見ても信じがたいものだった。それは、いままで生きてきた世界に、永井のような人間はひとりも存在していなかったからだ。切り刻まれたことも、切り刻むことも、同じようなことだと言わんばかりの態度。

 この瞳を揺らすのに必要な言葉を探すため、アナスタシアは必死に頭を回転させた。美波の弟に人間的な面があると信じられる理由がどうしても欲しかったのだ。
544 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/02/18(日) 20:56:38.05 ID:oL93h30zO

 それを探してまずはじめに思い浮かんだのは、森の中で見た永井のしかめ面だった。スマートフォンから漏れ聞こえてくる怒声に困っていた顔。いま思えば、あの怒声は永井に向けられたものではなかった。永井なら怒鳴られたところで眉ひとつ動かすでもなし、そもそもなぜ電話に出たのだろう?

 その疑問が頭に浮かんだ瞬間、パズルのピースが音をたててはまった。電話越しの罵倒の言葉が小楢の木の下で永井が口にした「おばあちゃん」という語とイコールで結ばれ、ひとりで森を引き返した永井がなにをしに行ったのか検討がついた。そして見当がつくと、研究所の屋上で、永井はやっぱり研究員を助けていたのだと確信できた。

 意識を思考から頭上にもどすと、永井はふたたび瞼を閉じようとしていた。アナスタシアはあわてて口を開いた。


アナスタシア「研究員のひと……助かりました、生きてます」

永井「ああ、あのひと。よかった」

アナスタシア「ダー……! そうです、よかったです」


 アナスタシアの眼がぱっと輝いた。電灯が光を落としているところに身を乗り出したので、顔が照らされて表情がよく見えた。永井はそれを見て、やっぱりかと期待はずれの予感は正しかったと感じた。
545 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/02/18(日) 20:58:52.13 ID:oL93h30zO

アナスタシア「おばあちゃん、森での電話も……」

永井「あの研究員には利用価値があった」


 アナスタシアがしゃべっている途中で永井が出し抜けに、理解を正すために口をはさんだ。


永井「彼は亜人の理解者だった。それでいて政府に属しているのはポイントが高い。一、二回死んでも助ける価値はあるよ」

アナスタシア「りよう、価値……?」

永井「そう。利用価値の有無」


 アナスタシアの口からこぼれたその言葉は、まるでその口から初めて発せられたように響いた。期待していた答えとの落差に、瞳からさっきの煌めきがなくなった。永井の冷徹さが大気を通して伝わり、そのせいでアナスタシアの青い眼を氷のように固めたかのようだ。

 すこし離れたところから、チリンチリンとベルの鳴る音がした。スナックのドアが開けられ、何人かの客が談笑しながら店に入っていった。ドアの隙間からカラオケを熱唱する声が流れてきて、アナスタシアの耳まで届いた。ジョニー・サンダースの〈サッド・ヴァケイション〉。調子はずれの歌声は、歌っている本人にはサンダースの声のように聞こえているのだろう。

 永井は何の反応も見せないまま、困惑するアナスタシアを見下ろしていった。


永井「まさか、善意から助けたとでも思ったか?」

546 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/02/18(日) 21:18:44.07 ID:oL93h30zO

 そう言ってから、アナスタシアの表情を見る。返事は聞くまでもなかった。永井は悩ましげに瞼をぎゅっと閉じ、指で押さえた。いったいどうして、こいつはこんな状況なのに情緒的にしか頭を働かせられないんだ。情緒を理由に行動したり、モラルを優先したりするのは、市民権のある人間ーーそう、まさしく人間ーーにしかできない贅沢だってのに。権利のない人間にとって、道徳の優先順位は食うことより下。ブレヒトを読んでなくたって、それくらい理解できそうなものなのに……。


永井「ああ、そういうことか」


 永井はアナスタシアが自分に何を求めているのか悟った。けだるい態度でふたたび下方のアナスタシアを見る。こんどはゆっくりと、貫くように。思考そのものを読みとろうとするかのように、アナスタシアの凍りついた表情を見る。

 理由はあの小楢の木の下ですでに聞いていたのだと永井は思い出した。新田美波の弟だから。それが理由だ。
547 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/02/18(日) 21:21:08.18 ID:oL93h30zO

 容姿や言葉づかいから鑑みるに、アナスタシアは他者と積極的にコミュニケーションをはかる性格ではない。生まれついての性格やロシアと日本でハーフとして過ごした生い立ちが、現在のアナスタシアの人格をかたちづくったのだろう。容姿は秀でているがそれだけに近寄りがたく、たどたどしい口調を理由にコミュニケーションを断念される。そのような人物が、亜人をめぐる国家的な事態にたいしては積極的に関与してみせた。アナスタシアにとって姉との関係性はそれほど重要だということだ。

 永井は美波が姉で良かったと思い、そのやさしさや他者への気づかう性格に心の底から感謝した。こうして駒として使用できる亜人がひとり、手の内にあるのだから当然だ。結果さえ伴っていれば、アナスタシアの善意にも山中のおばあちゃんと同程度には感謝したかもしれない。だが、アナスタシアの介入は特段かんばしい成果はあげず、だからこそスケープゴートにするのがもっとも有益な活用法だったのだが、この思惑もうまくいかなかった。となれば、アナスタシアも中野と同様に佐藤を止めるために仲間にするのがいまのところましな選択肢なのだが、永井はどうにも気がのらない。
548 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/02/18(日) 21:23:35.95 ID:oL93h30zO

 佐藤との戦闘にあたり、アナスタシアが戦力になるか、永井は評価を保留している。本体の戦闘力はともかく、コントロール可能な黒い幽霊は有益だし、仲間はひとりでも多い方がいい。しかし、問題点もある。そっちの方が多いくらいだ。アナスタシアはただでさえ目立つ容姿をしている、しかもアイドル、それも知名度があるアイドルなのだ。スケープゴートにできたなら、これらの点は有効に作用しただろう。容姿と知名度がアナスタシアを追い詰め、永井は注目されることがなくなる。そういう望ましい状況が生まれるはずだった。いまでは、それらはむしろネックになっている。秘密裏に行動しなければならないこの状況では。

 それに、アナスタシアは死ぬのを怖がっている。自分でリセットできない亜人などどう考えても足手まとい。死に際がわからず、銃撃に怯んで動けなくなってしまったり、逆に空気を裂きながら襲い掛かってくる銃弾の群れに無闇に飛び込んでいくかもしれない。

 永井は階下のアナスタシアを無感心な眼で見やった。

 アナスタシアは永井の良心的な部分を見出だすのをまだあきらめてないのか、涙を堪えために細めた眼でなんとか永井を見上げたままでいる。そんなアナスタシアの様子をみた永井の心のなかにだんだんと疎ましさが増しはじめた。同時に、どうやら姉の状態はかなり良くないようだということも感じ取った。記者会見のことやその他の亜人に関することを気にして、おそらくは鬱状態にまでなっているのだろう。

 すっかり動揺していたアナスタシアは、懇願するときのように声を絞り出して、自分が最も尋ねたかったことを口にしてしまった。
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