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新田美波「わたしの弟が、亜人……?」

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549 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/02/18(日) 21:26:12.88 ID:oL93h30zO

アナスタシア「ミナミを、元気にしたくないの?」

永井「それは僕が気にしなきゃいけないことか?」


 冷徹な響きがアナスタシアを打ちのめした。それは非情さが現れた言葉だとアナスタシアは思ったが、つぎに続く言葉でそれは間違いであることに気づいた。


永井「僕がいまどんな状況にさらされてるのか、おまえ、わかって言ってんのか? 佐藤を拘束し事態を収束させなきゃ未来はないんだぞ」


 冷徹ではあったが、責めるような響きはなかった。それでも、アナスタシアの心を苛めるには十分な冷たさを備えていた。永井の不満はアナスタシアの要求そのものにあるのではなく、要求の仕方にあった。アナスタシアの要求は、交渉や駆け引きの要素が微塵もなく、無防備といっていいほど直截的に、美波に救いを与えるように永井に頼もうというものだった。救いは永井のほうが欲しいものなのに。永井からしてみれば、これは無能力の証左以外の何物でもなかった。バカでも独力で佐藤からも亜人管理委員会からも逃げおおせた中野のほうがまだ役に立つ、と永井は心中でひとりごちた。

 結局ただのガキか。永井はアナスタシアへの興味を失っていた。スケープゴート以外の価値を見出だすのは面倒ではじめから乗り気ではなかったが、そのつもりもすっかり消え失せてしまった。

 アナスタシアもそのことは感じ取っていた。そのことに怒るでもなく、アナスタシアは自分を責めた。正しく怒ることをせず、自責に流されるのは楽だった。というのも、アナスタシアは自分が永井だけでなく、美波に対しても、何ら善い影響を与えられないと分かり始めたからだった。
550 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/02/18(日) 21:27:26.77 ID:oL93h30zO

 永井は階下から視線をはずして、スマートフォンを操作した。新着メールが届いてないことを確認すると、ため息をついた。アナスタシアは最後の希望を込めて、永井に訴えかけようとしたが、永井が先に口を開いた。眼はスマートフォンに落としたままだった。


永井「自分にそれができないからって、僕に勝手な期待をかけるな」


 ちょっとした忠告の響き、聞く人によってはアドバイスのように響く声だった。だがアナスタシアにとって、これは宣告に等しかった。いま現時点において、おまえは無意味だという宣告。過去はどうあれ、いま現時点において、おまえはだれに対しても救いをもたらせられない。おまえは存在する、息をする、鼻と口だけ使って、舌は使わず、だれかがおまえに眼をむける、しかし、気にもとめない、すぐに視線はよそへ行く。おまえは存在し、それだけだ。息をする、それだけだ。

 アナスタシアはふらつきながら立ち上がった。両足に力は入ってなく、身体はふらつき、頭が揺れた。倒れないのが不思議だった。やがて、夢みるような心持ちで、無意識に歩き出した。その夢遊病者のような、儚く離れ行く背中に永井が「おい」と声をかけたが、アナスタシアはうつむいて反応を見せないまま歩き、おぼろげな薄明かりを越え、夜闇のなかにいなくなった。

 永井はまた眼をつむった。頭を悩ませてる奴が勝手に姿を消してくれた。不確定要素が去ったいま、永井はひと休みすることにした。


ーー
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551 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/02/18(日) 21:28:55.16 ID:oL93h30zO

 数時間が経ち、中野がようやく居酒屋から出てきた。サラリーマン風の三十〜四十代の男性数名と連れ添っている。かれらのうちでいちばん太っちょで年かさの男性が両脇を、おそらくは部下であろう二人に抱えられて足を浮かせていた。店前に停まったタクシーまで引きずられながら、おれは運転できるぞー、と喚いている。両脇のふたりはなんとかタクシーに男性を押し込ると、眼鏡をかけたひとりが振り返り中野に快活に別れーーじゃあな、少年!ーーを告げた。


中野「ごちそーさんです」


 中野はタクシーが見えなくなるまで手を振っていた。

 永井はうしろのほうで中野が見送る姿を黙って見守っていた。


中野「サプラーイズ」


 タクシーを見送った右手をぶらぶらさせながら永井の正面まで来た中野は、その手を顔の横に掲げてみせると、そこには自動車のキーがあった。キーワードの輪っかに中指を通している。
552 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/02/18(日) 21:29:57.94 ID:oL93h30zO

永井「スったのか」

中野「そんなことするか。くれたんだよ」


 と言いつつ、中野はだいぶ酔ってたけど、とちいさくつけ足した。


中野「明日休みだって言ってたしな。まあ、あの分だと昼までは起きれんばい」


 居酒屋の駐車場に停めてあった車の運転席に乗り込んだときだった。中野がアナスタシアの不在に気づいて、助手席の永井に尋ねた。


中野「あれ、アーニャちゃんは?」

永井「どこかいった」


 永井はシートベルトを引っ張りながら言った。


中野「はあ!? ひとりで? 女の子だぞ」

永井「平気だろ、亜人なんだから」
553 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/02/18(日) 21:31:23.63 ID:oL93h30zO

 中野は咄嗟にエンジンをかけると不意打つように車を急発進させた。シートベルトを着ける寸前だった永井はダッシュボードに頭をぶつけそうになった。


永井「なんだよ、急に!」

中野「探すんだよ、歩きならまだこの近くだろ」

永井「はあ!? 放っとけよ」


 中野は言うことをきかず、ハンドルを右にきった。赤い車体が幅の狭さにもかかわらず、スピードを出して道路を突き進んでいく。永井は抗議したが、中野は無視した。


永井「わかった、見つけるからいったん車停めろ」


 駅近くまで車が走り、ぽつぽつと人の姿が見えだしたところで、永井が観念して声をあげた。
554 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/02/18(日) 21:33:06.87 ID:oL93h30zO

中野「探してるだろ」

永井「やみくもに走らせても意味ないだろ」

中野「じゃあ、どうすんだ?」

永井「車停めてカーナビつけろ」

 中野は言われた通りにした。起動したカーナビの画面に地図が表示され、現在地の周辺情報が検索可能となる。

 井戸から出したとき、永井は亜人は追われる存在になったとアナスタシアに言った。その説明にうそはなかったが、わざと言わなかったこともある。追われる亜人とは永井のことで、アナスタシアはそうではないということだ。追手の銃声の効果も手伝ってか、アナスタシアはなにも聞かずに黙ってついてきた。疑いを持ったとしても、アナスタシアのスマートフォンはいまも永井が預かったままなので、動画が拡散させれいるか確かめる術がない。自分の正体が世間に露見したと思い込んでいるはずだ。ならば、人気のない場所をしらみつぶしに探せばいい。

 永井は頭は良かったが、この考えは直感的なものだった。トラックに引かれた日、永井もおなじ気持ちを味わっていたから。

 蒸し暑さにうるさく鳴く虫。うんざりするような暑さが今日も夜を包んでいる。訴えるような犬の遠吠えがかすかに聞こえた。

 アナスタシアが歩き去った方角と移動速度を考慮して捜索すべき範囲を決めると、永井はめぼしい箇所をいくつかピックアップする。公園や神社といった夜間に人の気配がない場所を。

 捜索場所を選び終えると、焦れていたのか中野がまた車を急発進させた。

 永井はとっさにダッシュボードに手を置いたので、身体が前に倒れることはなかったが、それでも悪態をつきそうになった。

 こんなことになるなら井戸の底に置いてくればよかった。そう思いながら、永井はようやくシートベルトをつけることができた。


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555 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/02/18(日) 21:34:33.45 ID:oL93h30zO

 ドーム型遊具のなかにいると、暗闇のおかげですこしだけ安心して休まった気持ちになる。コンクリートでできた半球形の屋根がすべてを遮断してくれ守ってくれるように思える。例外もあるが。ここにいれば、街灯の緑っぽい光やすれちがう他人の視線から避難することはできる。ただ熱気からは逃れられない。形と材質のせいで、熱気のほうが逃れられないといったほうがいいかもしれない。蒸し風呂とまではいかないが、そうとうな温度なのは確かだ。

 今夜は風がなく、涼むことは望めそうにない。ドームのなかにいるアナスタシアにはなおさら。

 アナスタシアは暑さが苦手のはずだったが、ドームの下で微動だにせず、膝をぎゅっときつく抱き締めて顔を埋めている。額には汗が浮かび、首や背中もしっとりしている。夜の湿気を吸いとりきれず、余剰な水分が全身の皮膚から浮かび上がっているかのようだ。

 アナスタシアは膝を抱えた姿勢のまま、三十分は動かずにいた。眉間を伝って流れた汗の滴が鼻の頭をくすぐったとき、アナスタシアは顔をあげ鼻をすすった。目尻をこすると、汗と涙で手の甲が濡れた。この自分の手を見ても、アナスタシアがこれ以上悲しむことはなかった。悲しむ理由は搾り取られたようになくなっていた。胸のなかに虚無感が拡がっていた。
556 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/02/18(日) 21:35:59.37 ID:oL93h30zO

 とはいえ、人間の心理はひとつの感情が一定のまま長続きするものではない。暑かったり寒かったり、周囲の環境が肉体的負担をかけている場合はとくにそうだ。

 アナスタシアはふと我にかえり、ひどい空腹と喉の渇きを覚えた。

 ドームの丸い穴から外の様子をうかがってみる。ほとんど無意識で、足の向くままにこの公園にやってきたので、周囲がどんな場所なのかはっきり見ておらず記憶になかった。

 穴窓から見えるのは公園の入り口と敷地をぐるっと囲うフェンス、入り口のすぐそばにあるコンクリート製の箱のような建物はトイレだ。トイレの入口横に備え付けられている電灯の蛍光灯は古くなっていて弱々しい白い光をフェンスの向こうにある防災倉庫に投げかけている。地面に草はなく、乾いたむき出しの土が平らに広がっている。お決まりの滑り台やブランコといった遊具。ちいさな公園だった。

 そして、やはり公園の周囲にあるのは住宅地だった。
557 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/02/18(日) 21:37:38.02 ID:oL93h30zO

 子どもたちの遊び場なのだから、人の住む場所の近くにあるのが当然だ。アナスタシアは不安になる。いまはまだ夜で、人のすがたはなく、たまに自転車のホイールの回転する音や自動車の走行が聞こえるくらいだけど、朝になれば子どもたちが公園に遊びにくる、母親あるいは父親もいっしょについてくる、人であふれるほど立派な公園ではないけれど、午前十時くらいにはやっぱりだれかがやってきて、遊具にかけより、すべったりゆれたりする、そのうちドームにやってきて、ゆるやかな曲面をのぼり天辺に立って公園を征服した気分になる子どももいるだろうが穴を通ってドームの内側に入ってくる子どももいて、そしてそこでアーニャを見つけてびっくりする。

 見つけたのは亜人だから。

 もうだれもアーニャをアイドルとして見てくれない。

 ささやかな夜の中にアナスタシアはひとりぼっちでいた。

 どこにも行き場がなく、しかしここにとどまることもできない事実をアナスタシアはあらためて思い知る。絶望感がアナスタシアを襲う。
558 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/02/18(日) 21:38:59.83 ID:oL93h30zO

 自転車の走行音がまた聞こえる。スピードはそれほど出てなく、タイヤがアスファルトを擦る音がやたら大きく響いた。角を曲がったときに鳴るあの特有の音だ。おそらく、公園ちかくに停車したのだろう。ドアが開き、閉められる音がたてつづけにして、だれかが公園へ入ってきた。

 アナスタシアは緊張で心臓をバクバクさせながら、トイレによっただけ、と思い込もうとした。身体を縮こまらせ、呼吸をとめて、気配を消そうと力んだ。

 足音は迷いないリズムを刻みながらアナスタシアのいるドームまで近づいてきた。ざっざっという土を踏む音がまっすぐアナスタシアの耳まで届く。

 アナスタシアは耳を塞ぎ、足音など聞こえないふりをしようとした。足音がいよいよドームのすぐそばまでやって来たとき、アナスタシアはやっとドームの穴から逃げ出きゃと顔をあげた。
559 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/02/18(日) 21:40:49.79 ID:oL93h30zO

 顔にむかって光が投げかけられた。瞳に光線がまともにぶつかり、アナスタシアは反射的にまぶたをとじた。光が眼に滲みる。ぎゅっと搾るようにまぶたを閉じたので、まぶたの裏側の血流を感じた。

 ドームを覗きこんだ人物は光源をさげ、トイレを捜索しているもうひとりの男に向かって叫んだ。


永井「中野、いた」


 その声にアナスタシアが眼を開いた。

 動く気配を察したのか、永井はふたたび光源をアナスタシアに向けた。

 永井はドーム内のむわっとした空気を肌で感じ取って、いった。


永井「よくそんなところにいられるな」


 永井はスマートフォンのライトを消し、ドームから離れた。入れ替わるように中野がドームの入口から顔をのぞかせアナスタシアの姿を認めると、おおきく息を吐きながらいった。


中野「あー、よかったー。冬だったら凍死してるぜ」


 ドーム内の熱気を感じた中野は手に持ったうちわをバタバタと扇いだ。扇部が外に手招きするのように揺れている。風がアナスタシアのところまで流れてきたが、もともとの空気が暑いので涼風とはいかなかった。
560 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/02/18(日) 21:41:56.51 ID:oL93h30zO

 アナスタシアは頭を下げながらゆっくりと外へ出てきた。中野はいっそう強くうちわをあおいだので、銀色の前髪が持ちあがり、額やまぶたをくすぐった。ふらつきながら立ち上がると、喉と胃の訴えがふたたび強くなってきた。
 

中野「永井、飲み物三つな!」


 アナスタシアをあおぎ続けながら、公園の入り口横にある自販機のまえにいる永井にむかって中野がさけんだ。

 アナスタシアのところからでも永井がびくっと身を震わせるのがわかった。永井があわてた様子でふたりのところまでもどってくる。


永井「大声出すなよ。見つかったらどうすんだ」


 声を潜めた永井の文句は、電車のなかでさわぐ子どもを叱るつけるときの口調だった。


中野「夜中だし、平気だろ」


 中野は顔を永井に、うちわをアナスタシアにむけながら言った。
561 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/02/18(日) 21:43:46.73 ID:oL93h30zO

 永井はあきらめたようにうなだれた。永井の右手には五〇〇ミリリットルのコーラのペットボトルが一本あるだけだった。


中野「おれらの分は?」

永井「おまえが急に叫ぶからだろ」


 永井はなじりたくなるのをなんとか我慢した。

 中野が永井に文句を返すなか、アナスタシアは不安がぶり返し、のど元までせりあがってくるのを感じていた。

 永井と中野に再会したことで、アナスタシアはとある思いを抱きはじめていた。覚悟を決めなければならないという思い。亜人として生きていく覚悟、佐藤と戦わなければならない覚悟を。

 あたりまえのことだが、このような覚悟を決めるということはアナスタシアにとって、とてつもない困難だった。亜人のテロリストと戦うしかないという現実を、どうのみ込めばいいのか。アナスタシア十五才の少女でしかないのに。途方にくれ、もうひとつの現実に対する覚悟、自分はもう亜人として世間に認識されているということに考えを向けると、アナスタシアはもうどうしようもなくて、恐怖する。おののく。その容姿のせいで、ものめずらしい目で見られることは頻繁にあったが、これからは決して見られてはならない。すべてを剥ぎ取られた姿を見られてはならない。剥奪されてしまった。保障もない、権利もない、人間ではない、命だけはあって命しかない、亜人。

 美波の弟とおなじになってしまったが、彼は決してアナスタシアを助けてくれない。それどころか気にもとめない。犠牲にされるのがせいぜいだろう!
562 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/02/18(日) 21:44:49.33 ID:oL93h30zO

中野「で、これからどうする? まずはアーニャちゃんを家に帰さなきゃなんないよな」


 出し抜けに中野の声が耳に届き、アナスタシアは顔をあげた。「えっ」という困惑の声が送りつけられた涼風に跳ね返される。風が鼻腔を通っていく。中野はうちわを左手に持ちかえていた。アナスタシアが考えに耽っているあいだも、うちわをあおぎつづけてくれたので、アナスタシアの額の汗はすっかり引っ込んでいた。

 中野がアナスタシアを見やった。さっき洩らした声が聞こえたようで、どうして驚いたのかとすこし訝しげに眉をよせた。が、すぐに得心がいったように中野が声をあげた。


中野「アイドルが男に送られるのはまずいか」

永井「どこかの駅にでも置いてくればいいだろ」


 永井が知ったことかという態度をあからさまに表情に示して言った。


アナスタシア「あ、あの!」


 またもや言い争いになりそうな空気を察し、アナスタシアは声をおおきめに出した。


アナスタシア「アーニャはもう、亜人だってバレてて……」

中野「そうなの?」

永井「気づいてなかったのか?」


 永井が信じがたいものを見る眼で中野を見た。
563 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/02/18(日) 21:46:08.58 ID:oL93h30zO

中野「いや、アーニャちゃんが亜人だってのはわかってるよ。でも、居酒屋で亜人の話になったときもそんな話は全然なかったぜ」

永井「ていうか、こいつの正体ばらしてないし」

アナスタシア「えっ!」


 こんどはアナスタシアが驚いて眼を見張った。顔をぐいっと永井のほうにつきだし、話の続きを聞こうとする。


永井「セーフゾーンにいられなくなったのに動画を公開しても意味ないだろ」

中野「動画ってなに?」


 永井は無視した。アナスタシアにしても中野の疑問にこたえる余裕はなかった。

 心のなかでふつふつと気持ちが湧き起こる。アナスタシアはようやく、あまりにも自分勝手な永井に怒りはじめていた。飲み物を自分の分しか買ってこなかったのもむかむかする。しかし、同時に安堵の気持ちもあった。ふたつの気持ちが拮抗し、アナスタシアの表情が凝り固まった。

 どっちの態度を面にあわらわすか決められずにいたアナスタシアが、永井があるものをズボンのポケットにしまおうとするのを見たとき、思わず叫んだ。
564 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/02/18(日) 21:47:23.02 ID:oL93h30zO

アナスタシア「アーニャのおサイフ!」


 永井はとくに驚いた様子をみせなかったが、大声には顔をしかめた。財布がアナスタシアに投げ返される。中を確かめると、わずかに硬貨が残されているだけで紙幣が一枚もなかった。


アナスタシア「お金がないです」

永井「こっちには資金が必要なの」

中野「おまえ、金返せよ」


 永井は中野にも財布を投げた。案の定、財布の中身は空だった。


永井「おまえ、ぜんぜん金持ってないな」


 永井はペットボトルの蓋をひねりながら平然とした調子でいった。

 ついにアナスタシアの堪忍袋の緒が切れた。永井の手からペットボトルをひったくる。開けかけの蓋がすっ飛んだ。アナスタシアは空にしてやるつもりでコーラを一気にあおった。しゅわしゅわとコーラの甘さが口に広がり、舌を満足させる。が、流し込まれた炭酸水が定められたように喉で弾けると、アナスタシアはむせてごほごほと咳き込んだ。
565 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/02/18(日) 21:48:37.36 ID:oL93h30zO

 永井と中野はふたりして呆然としていた。アナスタシアが鼻と口を手でおおって上を向いたとき、永井は文句をぶつけようとアナスタシアに一歩詰め寄った。

 公園に盛大な腹の音がたっぷり五秒間響いた。

 音源はアナスタシアの腹だった。空腹がみずからの存在を思い出させようとしているかのような大音量。むかっ腹とすきっ腹が混じりあった状態にアナスタシアはどうしたらいいかわからず、羞恥に頬を赤く染めた。


永井「でかいし、長い」


 永井は勘弁してくれと思いながら言った言葉は、アナスタシアに追い討ちをかけた。


中野「ダジャレ?」

永井「うるさい」

アナスタシア「うぅぅ〜……」


 とうとうアナスタシアが大声で泣きはじめた。声量を押さえる術を知らない子どものような全力の泣きかた。
566 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/02/18(日) 21:50:07.93 ID:oL93h30zO

永井「中野、車まで連れてってやって……」


 永井はなにもかも諦めたかのように両手で顔をおおった。

 中野は言われて通りにアナスタシアを車まで連れていった。中野は歩きながら食べ物の話をしてなぐさめる。アナスタシア泣きじゃくりながらもすこしは落ち着いた。


中野「車に食べ物あるから、それ食べよう。居酒屋の裏メニューを持ちかえりにしてもらったから」

アナスタシア「ケイはひどいです……おなかが減ってるの、アーニャにもわかってます……」

中野「うんうん、クズだよな、あいつ」

アナスタシア「そこまでは……言ってないです……」


 怒ったとはいえ、侮蔑を口にすることにアナスタシアは賛同できなかった。

 公園に残った永井はアナスタシアが持っていったペットボトルの蓋を探していた。地面をスマートフォンのライトで照らすと、真っ赤な蓋がすぐに見つかった。蓋を拾おうとしゃがむと、どっと疲れが出てきた。

 永井はしゃがんだまま、おおきくため息をついた。こんなことになるとは予想だにしてなかった。バカだろうがガキだろうが貴重な戦力になるだろうから連れてきたのに。中野も、アナスタシアといっしょに井戸に突き落としていたほうが良かったかもしれない……。

 クラクションの音が夜の公園に鳴り響いた。
567 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/02/18(日) 21:52:06.22 ID:oL93h30zO

永井「あー、もう!」


 さすがの永井もついに大声をあげた。いそいで車まで走っていく。助手席に乗り込むと、ドアを乱暴に閉める。

 車内にはカレーの匂いが漂っていた。持ちかえり用の白い容器から中野がカレーをすくって口に運んでいた。


永井「居酒屋で食っただろ」

中野「これすげえうまいだって」


 中野は永井に容器を渡した。手に持つと、容器はまだ温かった。カレーの匂いと温かさは永井の空腹を充分に刺激した。カレーはごろごろした人参やじゃがいもが入った家庭でつくられるいたって普通の代物だった。だが、ひとさじ口にいれると、驚いた。白いごはんと思っていたのは、卵チャーハンで、味つけはされていないが、ぱらぱらに炒められていて、カレーと混ぜると、とてもうまい。山中のおばあちゃんのカレーよりおいしいかもしれない。永井はあっという間に平らげた。

 ふたつあるドリンクホルダーにはペットボトルのお茶がいれてあった。永井は未開封のペットボトルを持ち上げ、一口飲んだ。そのとき、ミラー越しに後部座席のアナスタシアの様子が見えた。
568 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/02/18(日) 21:55:45.71 ID:oL93h30zO

 アナスタシアがじっくり味わいながらカレーを食べていた。もう涙は流してなかったが、眼はまだ赤く、ときおり鼻をすすった。アナスタシアは食事に割り箸を使っていた。なぜカレーを箸で食べるのかと疑問に思ったが、すぐに解消した。アナスタシアのカレーにだけアジフライが入っていた。作られてからそんなに時間が経ってないのだろう。アナスタシアがアジフライを齧ると、サクッという衣を噛む音がした。

 口の中のものを嚥下したアナスタシアがコーラを飲んだ。そしてふたたび食事を再開しようとしたとき、ミラー越しに永井と視線がかち合った。


アナスタシア「や、あげない」


 アナスタシアは永井からカレーを遠ざけながらいった。


永井「いらないよ」


 永井は呆れながら後部座席にペットボトルの蓋を投げた。蓋はアナスタシアのおでこに当たったらしく、ちいさく唸るような声が聞こえてきた。
569 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/02/18(日) 21:58:28.21 ID:oL93h30zO

中野「永井、これ、おまえの姉ちゃんだろ」


 中野が見せてきたCDジャケットには水着姿の美波が印刷されていた。


永井「なんでこんなのがあるんだ?」

アナスタシア「こんなの……?」

中野「この車を貸してくれたおじさんの娘さんがファンなんだって。アーニャちゃんのCDもあるし、あとあれ、ラブライブのやつも」

アナスタシア「ラブライカです!」

中野「あ、ごめん」


 アナスタシアに謝ったあと、気を取り直して中野はいった。


中野「水着ってことは、夏の歌か。TUBEみたいな」

アナスタシア「コウ、ミナミはアイドルです……」

永井「それって違うの?」

570 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/02/18(日) 21:59:48.98 ID:oL93h30zO

 永井の純粋な疑問にふたりは眼を見開いたまま絶句した。


アナスタシア「ケイは……ミナミの弟、ですよね……?」

永井「決まってるだろ」

中野「なのに聞いたことないのかよ?」

永井「ない」

中野「姉ちゃんなんだろ、おまえの」

永井「家族の職業なんて、職種は知っててもふつうは内容まで知らないだろ」

中野「アイドルはふつうじゃねえだろ」

永井「それより、はやく車だせよ」

アナスタシア「コウ、いますぐCDかけてください!」

中野「よしきた」


 中野はCDをオーディオに飲み込ませた。ローディングがおわり、スピーカーからイントロが流れ出す。


永井「だから、車……」

アナスタシア「ミナミの歌が終わるまではダメ!」
571 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/02/18(日) 22:00:27.84 ID:oL93h30zO

 曲を聴いているうちに、永井は歌詞の内容が夏の季節感とはまったく関係ないことに気づいた。それは中野も同様だったらしく、曲がおわると「夏っぽくないな」とこぼした。


中野「でも、かっこよかったよな」

永井「あの曲調でなんでこんなジャケットになるんだ?」

中野「歌詞は?」

永井「いや、どうだろ……」

アナスタシア「ニェット……ちがいます、そうじゃないです……どうでもいいところを気にしないで、もっとまじめにミナミの歌を聴いてください……ケイ、〈ヴィーナスシンドローム〉というのはそもそも……」


 アナスタシアの講釈が鬱陶しくなってきたので、永井は別のCDをオーディオにかけた。美波とアナスタシアのユニット〈ラブライカ〉の曲。


 ーーひとりよがりの冷たい……ーー


 Aメロの最初の歌詞を耳にした中野が驚いた様子で永井のほうを向いた。


中野「これ、おまえのこと?」

永井「雨にかかってんだよ、それは」

アナスタシア「もぉー!」


 曲とは別のところばかり気にする永井と悪気がないために盛大に勘違いする中野のコンビに、アナスタシアはとうとう音をあげた。
572 : ◆X5vKxFyzyo [saga]:2018/02/18(日) 22:12:22.35 ID:oL93h30zO
今日はここまで。

話は進みませんだが、とりあえずトリオ結成ということで。アーニャには申し訳ないですが、このクズとバカとガキのトリオだと、人格がまともなアーニャがメインのツッコミ役になっちゃいますね。というわけで、次回も中野がボケて永井がスルーしアーニャちゃんがツッコミます。

卵チャーハンカレーの描写は、殊能将之『美濃牛』からそっくりいただきました。で、『黒い仏』をも読んだんですが、これは、その……マジっすか……。後期クイーン問題にラブクラフト……。凄すぎて絶句しました。
573 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2018/03/19(月) 13:36:59.33 ID:RhM68ior0
おつ

アーニャは離脱するのか?と読んでる途中に思ったけど
このまま3人で行動する感じみたいね

アーニャは男二人と違って正体が誰にもバレてない強みがあるけど
それが生きる場はあるかな
574 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/04/17(火) 21:20:56.80 ID:7BzTB0Y9O

 今日、私は、第二ウェーブの開始を決意した。

 人間は省みることなく我々亜人への弾圧を加速させている。

 第二ウェーブのテーマは、“浄化”だ。

 田中君が拘束中見聞きした情報等から、陰謀に荷担した組織の主要な面々十一名をリストアップした。

 我々は、この十一名を暗殺する。


ーー
ーー
ーー
575 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/04/17(火) 21:22:54.97 ID:7BzTB0Y9O

中野「ネ、ネ……ネブ……」


 中野は手に持ったアナスタシアのCDジャケットと格闘していた。小学校時代に習得したはずのローマ字読みの知識を動員し、〈Nebula sky 〉なるアルファベットの並びから、どうにか意味を汲み取ろうと必死になっている。


中野「ネブラ……スキ、カ?」


 しばらく眼を凝らしていると、中野の頭のなかでひらめきが起こった。そいつはどう考えてもぴったりくる答えだった、それ以外考えられない、だから歌詞の内容もすっぽり抜け出した、なんてったって英語なのが最大のヒント、いや答えそのものだ。


中野「あっ、そうか、アメリカか!」

アナスタシア「ニェット……アーニャ、ロシアと日本のハーフです……」


 アナスタシアがすかさず訂正する。その声には、わずかながらに無意識の失望の色が滲んでいた。


永井「スペルがちがうだろ。〈Nebula〉は星雲って意味だ」


 意外にも永井がアナスタシアに味方するように中野に注意した。中野は永井のほうを向いた。


中野「せいうんって……線香の?」


 ふたりの脳内で同時にコマーシャルソングのメロディーが再生された。「幸せの青い空」という歌詞もいっしょに。


永井「……それでいいよ、もう」

アナスタシア「よくないです!」


 アナスタシアの叫び声が車中に響いた。永井はうるさく思った。もう、すっかり夜だった。
576 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/04/17(火) 21:24:47.66 ID:7BzTB0Y9O

 三人を乗せた車は高架下の駐車場に停めてあった。道路を行き来する車はなく、高架は屋根のように覆い被さっていた。高架の両側に並んだ平屋の民家も、近くにある踏み切りも、深夜なので真っ暗闇に呼応するように沈黙していた。音がしているのは永井たちがいる車の中だけだった。

 スピーカーの音量は絞ってあったが、中野とアナスタシアがぺちゃくちゃくっちゃべっていて、これが永井にはうるさかった。歌詞の解釈やレコーディング時の裏話などをアナスタシアは嬉々として語った。中野はふんふんと頷きながら感心したように話を聞いていた。アイドル本人が後部座席から歌っている曲の解説をしてくれるのがどれほど幸福なのか、中野はよくわかっていない。

 こいつら、いつまで話してるんだ。永井はいつまでも寝静まらないにふたりにげんなりしていた。

 中野もアナスタシアも親の言いつけを破ってはじめて夜更かしするときのように元気だった。肉体労働者らしい体つきの中野はともかく、細身の少女でしかないアナスタシアのどこからこんな元気が湧いていくるのか……。

 そこまで考えたとき、そういえばアナスタシアは姉さんとユニットを組んでいたっけ、と永井はいまさらながら思いあたった。
577 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/04/17(火) 21:26:31.44 ID:7BzTB0Y9O

 幼いころは姉と遊んだ、トランプとかボードゲームとかで。こういったテーブルゲームの類いで姉と対戦したとき、永井の記憶では、いつも自分が勝っていた。それは、けっして負けがくやしくて忘れ去ったわけではなく、事実負けたのは最初の数回くらいで、あとは全部勝っていたからだった。

 美波は負けず嫌い。つまり熱しやすい性格だった。だから、敗色が濃くなってきたときにチャンスのようなものをそっと差し出してみると、すぐに飛びついてくるのだった。そこに罠を仕掛ける。あるいは、ほんとうにチャンスを差し出す。二回、三回と、逆転の可能性をちらつかせ、こちらもそれを必死にものにしようという懸命さをみせ、接戦を演じてみせる、確実に勝てる切り札を手札に隠しながら。そうすると、美波は地雷を踏んでしまったかのように負けてしまうのだ。

 たかがゲームだから、姉といえど、その感情を利用することにとくにためらいはなかった。永井からしてみれば、感情をよくあらわした美波の表情は手札のカードとおなじようなもので、見えるものを見えないふりするつもりなどまったくなかった。そうやって永井は姉とのゲームで勝ちを積もらせていったが、その結果、とんだしっぺ返しをくらうことになった。

 美波は負けを清算するため、フィジカルな勝負に切り替えた。家の前の道路での競争。いやがる弟を、姉が持つ強制力、先に生まれたというだけで持てる力をつかって外に引っ張りだし、せーので角のところまで駆け出す。当然、美波が勝つ。年上だし、運動するのが好きだからだ。かけっこは一回では終わらない。それまで負けた分を取り返すべく、何度もよーい、どん、で走り出す。
578 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/04/17(火) 21:27:53.33 ID:7BzTB0Y9O

 九月初めの夕暮れ時。濃いオレンジ色の夕陽に照らされて、走るふたりの影がのびる。全力疾走は十回を越える。ついに永井が音をあげた。半分怒ってもいる。美波は水筒から麦茶をごくごく飲んでいた。勝利を味わうように。起き上がった永井はぷいと背かを向け家へと歩いていく。ドアを開けたところで、美波から声がかける──「ねえ待って、まだあと三十回は……」──永井はドアを閉めた、ばたんと大きな音がした。

 その後、姉弟のあいだでゲームが行われたことは一度もない。


永井「修学旅行じゃねえんだぞ。さっさと寝ろよ」


 永井は眠気をおさえながら言った。


アナスタシア「アーニャ、夜はちゃんと寝てました」

中野「おれ、行ったことないや」

アナスタシア「ダティチョー……! ほんとう、ですか?」

中野「金なくてさ。クリスマスや正月もなんもなかったな」

アナスタシア「コウのパパとママは、どうしてたんですか?」

中野「んー……」

永井「貧困エピソードとかいいから」


 永井があくびを噛み殺しながら、じれったそうに言った。眼をしばたたかせると、不機嫌そうな顔つきになった。
579 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/04/17(火) 21:29:30.40 ID:7BzTB0Y9O


アナスタシア「ひどいことを言っちゃ、ダメです」


 アナスタシアは頭を突きだし、大声を出した。その顔は永井のすぐ横にあり、青い眼が永井の耳の穴と直線で結ばれた。アナスタシアはヘッドレストを両手で掴み、あごを親指の付け根のあたりに置いて支えていた。

 永井はいきなり座席を倒した。勢いよく倒れこんでくる背凭れにはね飛ばされ、アナスタシアは前後部の座席に挟まれるかたちとなった。

 アナスタシアはうーうー呻きながら、抗議の声をあげた。


アナスタシア「ウー、せまい! ケイ、せまくてくるしい、です」

中野「いじわるすんなよ」


 中野はガキのケンカをながめるときのような心持ちで言った。永井は眠りにつく寸前のような面持ちで、その言葉を無視した。座席の背もたれをアナスタシアがぐいぐい押してくる。永井が座席自体を後ろにスライドさせる。隙間はいっそう狭まり、アナスタシアの身動きは完全に封じ込まれてしまう。

 そこまでやったところで、永井は閉じていた瞼をふっと開いた。


永井「なんかめんどくさくなったきた」


 自分のやったことが急に馬鹿馬鹿しくなったのか、永井はそうつぶやいてから、座席の位置を戻した。背もたれは倒れたままだったが、息がつまるほどの狭さがすこしはましになった。
580 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/04/17(火) 21:31:02.58 ID:7BzTB0Y9O


永井「おばあちゃんのトコにいたかったな」


 永井は充電中のスマートフォンをいじりだした。画面の放つ白い光が永井の顔を照らして、闇に浮かべた。


永井「日付変わってる……あ、あれの日だ。知ってる? 子供向け番組、人形が歌うの。けっこう面白いんだよ」


 永井がぶつくさつぶやく後ろではアナスタシアが座席のあいだから抜け出そうと、ずりずり身動ぎしている。アナスタシアが座席から抜けた右手をばたばたさせる。永井が座席をずり下がってアナスタシアの手のひらをかわした。


中野「やる気だせよ」

永井「やだ。もうおまえらふたりで全部決めていいよ」

中野「じゃあ、まずアーニャちゃんを帰して……」

永井「んー……」

中野「なんだよ? おまえ、アーニャちゃんも連れてくつもりか?」

永井「微妙」


 そうこたえた永井は、ずり下がりすぎて背もたれにほとんど肩だけ預けていた。ちょうどそのとき、アナスタシアの頭がすぽんと抜けた。ぜえぜえと疲れた様子をみせ、一息つこうと反対側の座席にある飲み物に手を伸ばすが届かない。アナスタシアの指がペットボトルを何度もかすり、二の腕がぴりぴりと痛くなってきた。永井が話を先に続けた。 
581 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/04/17(火) 21:52:11.84 ID:7BzTB0Y9O

永井「暗殺リストが公開されたいま、佐藤と戦うなら待ち伏せがベストだけど、こいつの容姿は目立つ。不向きこの上ない」

中野「暗殺リストってなんだよ?」

永井「なんだよ、アイドルって。しかもけっこう有名だし……」


 うつらうつらしていた永井はすこし意識をはっきりさせ、中野に答えを返さず、そして、アナスタシアのみてくれを貶しはじめた。

 ロシアでも日本でも、その容姿をもの珍しく見られたり、実際に言われたりしてきたアナスタシアだが、待ち伏せに向かないからという理由で文句を言われたのははじめてだった。これには戸惑った。が、アイドルのことまで永井が文句をつけ始めると、さすがに抗議のひとつでもあげようという気持ちになった。放っておいたらまた何を言われるかわからない。アナスタシアは決心した。永井の頭をかるくはたいてやろう。痛くしないから、そんなに怒らないはず。言っただけではきかないのは目に見えてるし、それに、これまで永井にされたことを思えばはたくくらいはやってもいいと思う。

 アナスタシアはてこずりながら、警戒し威嚇する野良猫をそっとなでようとするときのように、永井の頭の上にゆっくり手を持ってきた。そして一瞬だけ手をとめ、それから意を決してふっと手を振り下ろす。ハンカチのように頭におろされるはずだったアナスタシアの右手は、永井によって思いっきり弾かれた。柏手の音が車内に響きわたった。アナスタシアの右手はぐんと半回転し、運転席の中野の額を打ちつけた。
582 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/04/17(火) 21:54:28.10 ID:7BzTB0Y9O

アナスタシア「いたい!」

中野「いてっ」


 手のひらと手の甲の両方に痛みが走った。中野のほうは硬い前頭骨に守られていたので、反射的に言葉が出ただけだった。中野は額を擦りながら頭を後ろにまわす。アナスタシアは下唇を噛みながら、赤くなってヒリヒリしている指を中野に見せてきた。

 
永井「どいつもこいつもバカばっか」


 永井はふたりにスマートフォンで動画を見せた。

 動画には佐藤が映っていた。亜人の人体実験に関与した十一名の顔写真と氏名、所属する組織とその役職名がプリントアウトされた用紙を佐藤は手に持ち、彼らを暗殺すると宣言していた。
 

佐藤『第二ウェーブは第三ウェーブへのカウントダウンでもある』


 佐藤の背後には奥行きのない空間があった。プロジェクター合成された晴れた日の公園の風景。この背景は、その明るさによって、人物の不在が際立っていた。

 佐藤が話を続ける。


佐藤『このウェーブ終了までに国が亜人弾圧の姿勢を改めていなかった場合、我々は第三ウェーブへコマを進める』

佐藤『第三……それが、最終ウェーブだ』


 佐藤はいちど言葉を切り、頭を下げる。頭を上げると、カメラに視線を戻し、こう宣言した。


佐藤『私がこの国を統治する』

佐藤『陳腐な夢に聞こえるか? 私はやる』


 佐藤の口角が笑みを作るようにあがり、動画は終了した。

 中野もアナスタシアも、しばらく言葉を失っていた。いまや二人とも、佐藤が暗殺を実行している様子──開始から達成までを鮮明に──思い浮かべることができた。
583 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/04/17(火) 21:56:41.37 ID:7BzTB0Y9O
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584 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/04/17(火) 21:59:23.16 ID:7BzTB0Y9O

アナスタシア「アヂン、ナッツァッチ……じゅういち、人……」


 アナスタシアは数を数えてみた。十一人分の命、十一人分の命がゼロになったときのことを考える、そのときはもっと多くの、夥しいと言っていいほどの命が消える、そんな事態が起きる、ほとんど確信にちかい思い、ふと《戦争》という言葉が頭をよぎった、それは文章になった、それを読んだのは誰かの肩ごしから、──パパ? ママ? グランパかグランマ? それとも、まったく別の人? フミカもよく本を読んでるけど、覗きこんだことはないからちがうはず──こんなふたつの文章を。


《戦争はなくならないんだ。石のことをどう考えるかというのと同じだ。戦争はいつだってこの地上にあった。人間が登場する前から戦争は人間を待っていた。最高の職業が最高のやり手を待っていたんだ。》

《戦争がなくならないのは若者も年寄りもみんなそれが好きだからだ。》


 次いで、もうひとつ、戦争に関する文章が思い浮かんだ。いつどこで読んだのかはもちろん、肩越しに読んだか読み聞かされたのかさえ思い出せなかったが、それでも文章は思い浮かんだ。まったく、自分でその文章を考えついたかのような思い出しかただった。


《ともかく万事がこう、やけくその方向にいっちまったからには、いよいよ最後の、一か八かの手段を試みるしかない、そう覚悟を決めた、自分の力で、僕ひとりの力で、戦争を中止させるのだ! せめて自分のいるこの一隅だけでも。》
585 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/04/17(火) 22:00:57.90 ID:7BzTB0Y9O

 亜人が三人も集まったのなら、尽きることのない命が三つも集まったのなら、《戦争》を、いや《戦争》が起きるのを止められるかもしれない。でも、そうだとしても、覚悟が決まらないし、勇気が足りない。美波がいたらと考え、すぐ思い直す。遠ざけねばならないのだ、争いや殺しといったおそろしいことから。アナスタシアはペシコフを亡くしたときの祖父の姿を思い出す。あきらかに心の均衡を崩していた、正気でいたくないという願望、他人事ではない死の恐怖。美波もそうなっている。佐藤のテロせいで、亜人の国内状況はひどくなるし、亜人の家族にとってもひどくなる。祖父のときよりもっとひどく、長く続く状況。

 アナスタシアとちがって、中野は決然とした態度で永井に身を乗り出して大声で言った。


中野「いますぐ佐藤のトコに乗り込もうぜ!」

永井「バカかよ!」


 永井は手で顔をおおい「あぁ……」という半分呻くような声を洩らした。それから、背もたれとともに身体を起こした。


永井「いいか? 現状僕らに勝機はない」


 ふたりの大声に驚いたアナスタシアは背もたれから解放されると、あわてて中野の後ろの席へぽんとお尻を移して逃げた。


永井「佐藤の居所がわかってそこに乗り込んだとして、糞ガキ三人になにができるよ? だいいち奴を止める方法は? 檻にでも入れるか? その檻はどうする?」

中野「できることはないってのか!?」

アナスタシア「クソガキ……」

永井「ないだろ、ほとんど」

アナスタシア「三人……?」

永井「僕らの持ってるカードは次の二枚ぽっちだ」

アナスタシア「さん……」
586 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/04/17(火) 22:11:12.16 ID:7BzTB0Y9O

 永井は指を二本立てた。中野とアナスタシアはその指を見ながら永井の言葉を待った。永井がふたりの方を向いて、言った。


永井「ひとつ目は……僕がそこらの大人なんかよりよっぽど頭がいいってとこだ」


 永井の答えに、ふたりは同意とは微妙に異なる沈黙を返した。同意できなくないが、できればしたくないという沈黙だった。そのような空気に気づかないまま、永井は話を続けた。


永井「僕らは麻酔銃も亜人を閉じ込める部屋も持ってないが、そこは工夫しだいだ。まえ、生涯無力化する手段があるって話しただろ」

中野「したっけ?」

永井「したの!」


 永井はアナスタシアに顎をしゃくって、中野の視線をうながした。


永井「こいつがいた古井戸の跡には空気がなかった。酸素がないと人は瞬間的に意識を失う。亜人ならエンドレスだ。こうやって周りを観察すれば、戦う手段は案外転がってるかも」

中野「いたっていうか」

アナスタシア「ケイに落とされました」


 アナスタシアははっきり言葉にして反論したが、永井は無視して話を続けた。


永井「二つ目は、戦うための最大のスキルをすでに持っているというとこ。例えば、こういうアンケートを取ったとする」
587 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/04/17(火) 22:12:45.56 ID:7BzTB0Y9O

《戦場に次の三つのうち、ひとつだけ持っていけるとしたらどれを選びますか?》


@修練により鍛え上げられた屈強な肉体
A経験からあらゆる戦略を蓄積した頭脳
B不死身


中野「屈強な肉体だろ」

アナスタシア「コウ、二番だと思います」

永井「そう、すべての人が不死身を選ぶに違いない」

アナスタシア「エ!?」


 アナスタシアは永井がさも当然のように頭の良さを自慢していたたから──永井自身はそれが自慢だとは思っていない。ただの事実なのだ──てっきり答えは二番だと思っていた。そのことを永井に聞いてみたら、経験からって言っただろ、と返ってきた。

 永井はなかばムカつきながら、「聞くほうもヘタなのかよ」と言い捨てた。

 憤慨するアナスタシアを中野がなだめ、おさえる横で、永井がひとりごちるように言った。


永井「それらをふまえて僕らには、あの戦いに介入してできるなにかがあるはず……」


 思考が内へと向かっていくように、永井の声も最後のほうは小さくしぼんで、つぶやくようになった。

 しばらく、といってもそれは、ほんのすこしの秒数だったが、永井が言葉を切ったときの沈黙は、耳が痛いくらいだった。

 気を取り直した永井が、話を再開する。口調はどこか自嘲の色を帯びている。


永井「だが、佐藤にはそれを遥かに上回る人員・物資・経験があるんだぞ。僕らだけで戦う? ハッ、笑えるね」
588 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/04/17(火) 22:14:19.93 ID:7BzTB0Y9O

 高架線の下は暗く、高架橋にのっているコンクリートできた道路は、ぎゅうぎゅうに押し固められたひとつの夜の塊のようだった。アナスタシアは永井の横顔をみた。動作中のオーディオのほのかな青色の光が、わずかにふくらんだ前髪、鼻梁から顎までにかけての輪郭をよわよわしく浮かび上がらせている。


永井「つまり、僕らが今やるべきは何か?」


 永井はふたりに向き直り、きっぱりと言った。


永井「仲間を探すことだ。それも強力なサポートが可能な大人に限る」


 永井の言葉を聞いた中野はニカッと笑い、「それならアテがある」と自慢げに言った。

 ほんとかよ、と半信半疑の永井のななめ後ろで、アナスタシアは頼りになる大人について考えていた。まっさきに挙げられるのは、家族を除けばプロデューサーしかいなかった。だが、彼のことを口には出さなかった。大きな身体をしているが、乱暴なこととは無縁の人で、だからアナスタシアは美波や仲間たちとおなじく、プロデューサーも、危険で物騒なことから遠ざけたかった(それに永井になんと言われるか。芸能関係者の名前を出したところで、またバカと言われるだけだ)。

 永井のスマートフォンがふるえて、充電が完了したのを知らせる。永井は充電器の線を引き抜くと、オーディオからCDを取り出した。それからふたたび座席の背もたれを倒し、眼を瞑って、本格的な眠りにつこうとする。それにつられて中野の伸びをし、背もたれに身体を預けた。
589 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/04/17(火) 22:18:43.50 ID:7BzTB0Y9O

アナスタシア「ケイ」


 アナスタシアは首をつきだして、顔を見下ろしながら永井に呼びかけた。


アナスタシア「アーニャは、どうすればいいですか?」

永井「さあね」


 永井は瞼を閉じたままぼやいた。いまにも眠りに落ちそうな声。中野の瞼はすでに閉じられている。


アナスタシア「わたしも、サトウと……バロッツァ……」

永井「どっちでもいいよ」

アナスタシア「どっちでも……?」

永井「おまえが戦闘に参加するとして、メリットとデメリットが同じくらい。だから、どっちでもいい。ぜんぶ自分で考えて決めたら?」


 永井の声に覇気はなく、しぼんでいくようだった。しばらくすると胸が規則正しく上下なせながら寝入ってしまった。アナスタシアが戦おうが戦うまいが、永井にとってはほんとうにどっちでもよかった。深く眠っている中野の寝息と永井の浅い寝息が重なりはじめているのが聞こえた。
590 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/04/17(火) 22:20:45.06 ID:7BzTB0Y9O

 宙吊りの状態。アナスタシアは二つの極のあいだで惑っていた。ひとつは、たとえるなら上方に位置するほうで、そこでは無数の輝きが空間いっぱいに星の海のように広がっている。視界の下から上まで光に満たされ、光を見る自分自身も輝きのひとつになっている。対するもうひとつ、下方に存在するのは死者たちだ。雨に濡れた地面に横たわる死体の反応の無い眼、スプリンクラーが血を洗い流している研究所の通路、墜落させられた旅客機、崩れ落ちるビル、瓦礫の下の人びと、SAT隊員五十名。死者たちのリストは続く。あらたに十一名が加わる可能性。死者の長い列は続いてゆく。

 このようなリストの存在をいつから意識し始めたのか、アナスタシアは疑問に思った。佐藤による暗殺リストの公表が形を明確にしたわけだが、本質はすでにアナスタシアの内部にあった。観念から形象へ。その観念はいつ生まれたのか。死についての観念は。自分がはじめて死んだときかと思ったが、そのときの記憶ははるか過去のもので、痛みの実感とともに遠くにある。幼い頃のアルバムを開いた両親が親戚に向かって撮影当時のエピソードを語っているのを、すこし気恥ずかしい思いをしながら他人事のように聞いているときのようなもので、振り返ってみてもその当時がみずからの人格形成に作用したとはどうしても思えない。だから、アナスタシアにとって、死というものの存在を知った日、死の観念が生まれた日は、うちひしがれた祖父の姿を見たときだ。そして、そのときから漠然と抱いていた死のおそろしさにはじめて戦慄したのは、永井圭が死んだときだった。それは美波の動揺に反応した面もあったが、死そのものに対する言い様のないリアルな不気味さを実感したせいでもあった。以前にも似たような感触を味わったことがある。中学生のときだ。
591 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/04/17(火) 22:22:37.68 ID:7BzTB0Y9O

 中学の一、二年のとき。夏休みがあけた九月一日の始業式。全校生徒が体育館に集められていた。アナスタシアは隣の列の友だちと他愛なくおしゃべりしながら始業式がはじまるのを待っていた。マイクで拡声された学年主任の声が響いて、校長先生が壇上へあがる。学年主任と入れ替わるかたちで演台の前に立った校長は、おはようございますと生徒たちに向かってあいさつをした。マイクを通しているにも関わらず、声は低く通りがよくない。そのせいか生徒たちの返事はまばらでためらいがちだったが、校長はやり直しを求めなかった。

 校長はこう言った。悲しいお知らせがあります。三年ーー組のーーさん(クラスも名前も覚えてなかったが、名前は女子生徒のものだということだけは確かだ)が夏期休暇中に亡くなられました。交通事故でした。

 教師たちの予想に反してざわめきは起きなかった。生徒たちは顔を見合わせたり、固まったりしたまま、息を止めたかのように静まっている。アナスタシアは三年生が列を作っている方へ首を向けた。生徒たちは密に伸びた木々のようで、事故で死んだ生徒のクラスの様子は伺えなかったが、友人らしき女子生徒数名がすすり泣いているのが聞こえた。
592 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/04/17(火) 22:28:28.99 ID:7BzTB0Y9O

 それをきっかけにしてか、演台の校長が哀悼の言葉を言う。黙祷が一分つづき、それが終わると校長は演台から離れ、学年主任と交代した。学年主任も引き継いだように哀悼の言葉を一言いってから、連絡事項に移る。始業式が終わり、教室に戻ってからも担任教師が女子生徒のことでなにかを言った。おざなりではなかったが、演台の校長の言葉にくらべると、深刻さは薄かった。

 しかし、それも無理のないことだった。三度目ということもあるし、アナスタシアを含む教室の全員が上級生の死に対して、可哀想と思いつつも、悲しみにくれていなかったからだ。顔も名前も知らない人の死を心から悼むことはできないのは当然だ。

 だが、生徒たちのあいだにはひとつの共通する思いがあった。

 十五才で死ぬひとがいるなんて。死は老人か病人のもので、自分たちが死を意識しはじめるのは五十年は先のことだと思っていたのに。

 壇上の校長は、生徒たちに向かって、あなたたちも死に得ると告げたようなものだ。死なないように。あなたたちは死に得るのだから。

 アナスタシアたちは、そのことに特別おそろしくなったわけではない。ただ死ぬことを悟っただけだ。数学の応用問題の解き方をふと思いついたときのように、自分が死ぬことを生徒たちは悟ったのだった。
593 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/04/17(火) 22:29:49.05 ID:7BzTB0Y9O

 アナスタシアは充電器をそっと手に取り、自分のスマートフォンに差し込んだ。画面が明るくなり、アナスタシアの顔を照らした。不在着信の数は百近い。そのひとつひとつを確認していきたかったが、眠気が限界に近い。

 アナスタシアはあきらめて座席に横たわると眼を閉じた。暗闇がいっぱいになる。永井と中野、ふたりの寝息が規則正しいリズムで重なっている。アナスタシアもふたりの寝息にあわせて息をする。心臓の音すらも、呼吸にあわせているかのようだ。やがて、ふたつに重なっていた呼吸の音は、暗い車中でみっつに重なっていた。


ーー
ーー
ーー

594 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/04/17(火) 22:40:58.35 ID:7BzTB0Y9O
今日はここまで。

ほんとはもっと先まで書いてから投下するつもりでしたが、前回から二ヶ月経ちそうだったんできりがいいと思うところまで投下しました。

話が全然進んでないので、短めのをこまめにあげてくスタイルにしたほうがよいのかしらと考え??います。

話は変わって劇場での美波はとても可愛かったですね。そういうのはファンにやれって永井も言いそうだし。二曲目もとてもいい感じの曲でした。

今回の引用は上の二つがコーマック・マッカーシー『ブラッド・メリディアン』、最後のがルイ・フェルディナン・セリーヌ『夜の果てへの旅』からです。
595 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2018/04/18(水) 21:11:15.80 ID:l9KsL7Sw0
おつ。「たくさん!」の出だしが亜人としか聞こえないの思い出した
596 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/05/13(日) 21:54:35.68 ID:HRQM2WMiO

 手の中の振動がアナスタシアの目を覚ました。

 曙光が空に筋を描いて街を明るくするにはまだすこし時間があったが、あたりの暗闇は淡くなりはじめていた。もののかたちがぼんやりと見えてくる。輸送トラックが高架線を走る音が聞こえた。近くの踏切はまだ沈黙している。

 寝ぼけ眼で頭がはっきりしないまま、アナスタシアはつねにそうしているという習慣的な理由のみで電話に出た。


武内P『アナスタシアさん、ご無事なんですか!?』


 プロデューサーの声にアナスタシアは飛び起きた。勢い余って天井にごんと頭をぶつけてしまい、前部座席で眠っていた永井と中野は起き抜けに後頭部をおさえているアナスタシアを目撃することになった。

 寝ているあいだに指が通話ボタンに触れてしまったらしい。

 プロデューサーは動揺と焦燥に急き立てられていた気持ちに安堵が入り交じった複雑な感情でいて、通話口から漏れ聞こえてくる、がなりたてないように抑えられながらもアナスタシアの状態と居場所をはやく把握しようという必死な声が、永井らの耳にも届いた。
597 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/05/13(日) 21:55:55.88 ID:HRQM2WMiO

 座席に正座するように膝をついていたアナスタシアは、これまでの経緯をどうやって説明すればいいのかさっぱりわからないでいた。

 高架線ではトラックが相変わらず行き来していたし、始発電車も動き出している。窓の外に眼をやれば、踏み切りの色、黄色と黒の縞模様が淡くなった薄闇のなかに浮かんでいるのが見える。ランプが赤く光ると、周囲の薄闇は青みがかっているように見えた。

 アナスタシアはこれらの音のせいで、プロデューサーに居場所がバレるのではないかと不安になった。下手にしゃべったら秘密にしておかなければならないことも口に出してしまいそうだった。アナスタシアは悩んだあげく通話口を手のひらで押さえると、顔を突きだし永井に助けをもとめた。


アナスタシア「どうしよう?」

永井「知るかよ」

中野「おまえのせいで困ってんだろ」

永井「じゃあ、遭難してたとか……」

アナスタシア「遭難してました!」

598 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/05/13(日) 21:57:15.64 ID:HRQM2WMiO

 いくつかの案を提示する前にアナスタシアは最初のひとつに飛びついた。その性急さが永井には考え無しにみえ、勝手に困ってろといわんばかりにまた眼を閉じて二度寝した。電話口の向こうでは、当然プロデューサーが事態を把握しようと質問攻めをはじめるが、見切り発車の発言に首を絞められたアナスタシアは返答に窮している。 

 中野が首をのばしてアナスタシアをうかがっている。中野は永井の肩をこづいて起こそうとするが腕を払いのけられる。

 後部座席のアナスタシアはすっかり困りきって、弓の弦を引き絞るように下唇を噛んでいた。良い説明が思いついた瞬間、すぐにプロデューサーに話せる準備をしているかのようだが、まったく思いつかない。ウー、という涙を連想させるうめき声がもれた。

 中野が手のひらを差し出した。アナスタシアは意味がわからず、中野を見た。中野が差し出した手を振って、スマートフォンを渡すようにいっているのだ。

 すこし迷って、アナスタシアは中野にスマートフォンを手渡した。


中野「もしもし。おれ、中野です。あ、アーニャちゃんが森で倒れてるとこみつけたのおれなんすよ。マジビビりました、死んでんのかと思って。はい、遭難してて。気を失ってただけだったんすけど、最近まで意識なくて。持ち物もケータイしかなくて、これも壊れてたのか電源入んなかったんすよ。今日叩くかなんかしたら直ったけど。だからどこのだれだか分かんなかったんですよ。え? 警察? ああ、届けたんですけどすげー田舎で、ネットもないとこなんすよ。捜索届け出てるかわかんなくて。ダメっすね、田舎は。警官もやる気ないっすもん。あ、アーニャちゃんってアイドルなんすよね。それも意識が戻ってからはじめて聞いて」
599 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/05/13(日) 21:58:27.69 ID:HRQM2WMiO

 得々とした中野の語りにアナスタシアは眼を見張っていた。それはプロデューサーも同じで、ここまで話を聞いたときにはもう中野のペースにはまっていた。

 打ち解けた感じのする通話が続いたと思ったら、中野がスマートフォンをアナスタシアに返してきた。


中野「てきとう言ったけど、アーニャ無事だし、まあなんとかなるばい」


 スマートフォンを耳に当てるとまだ通話中で、プロデューサーの声は落ち着いた雰囲気を取り戻していた。


武内P『中野さんから事情は伺いました。大変だったんですね』

アナスタシア「アー……はい……」


 これまでのいきさつを思い起こし、アナスタシアは苦り切った返事をした。


武内P『こちらに到着したら、すぐに寮までお送りします。今日はとにかく身体を休めることに専念してください』

アナスタシア「プロデューサー、ごめんなさい……わたし、みんなに迷惑かけてしまいました……」

武内P『多くの方がアナスタシアさんのことを心配していました。その方たちはアナスタシアさんが無事だとわかれば、心のそこからホッと安心しますよ。私もそうなのですから』


 アナスタシアは感極まりそうになる。そのことを悟られまいとスマートフォンを耳から離して胸元にあて、深呼吸して気持ちを落ち着ける。息を長く吐いて胸元をたいらにすると、アナスタシアはスマートフォンを耳にもどした。
600 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/05/13(日) 21:59:41.72 ID:HRQM2WMiO

アナスタシア「プロデューサー……その、ミナミはどうしてますか?」


 いちばんの心配ごとを口にした。口にした途端、自分の言葉にうぬぼれが滲んでいないか不安になった。

 永井と出会ってから、アナスタシアの心中に、じつは美波のことをよく理解できていなかったのではないかという思いが去来していた。亜人だと発覚するまで、美波の弟の顔も名前もアナスタシアは知らなかった。妹のほうは名前も知っていてスマートフォンのカメラで撮影した美波とのツーショット写真や美波の歌を照れくさそうに唄う様子を撮影した動画(美波が吹き替えたのではないかと思うほど、妹の声は姉にそっくりだった)を見せてもらったことがあったが、重い病気でいまも入院生活を余儀なくされているとは知らなかった。

 アナスタシアが話してきたほどに、美波は家族のことを話さなかった。

 それは話さないという意志的な選択ではなく、話しがたさ、困難さのためだった。未解消の家庭事情から発生する困難さは、言語表象を不可能に近づけるし、話すことが可能だとして、そもそも人に話すような事柄ではない。

 一連の報道によって美波の家族の歴史を知ったアナスタシアもそのことを理解できた。しかし、それでもわたしには、という思いが拭いきれないのも事実だった。

 プロデューサーはアナスタシアの不安に気づいていないようだった。プロデューサーは別のことに気をとられ、ほのかな陰りに滲んだアナスタシアの声のニュアンスに気づくことはなかった。
601 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/05/13(日) 22:01:22.24 ID:HRQM2WMiO

武内P『それは……あとで話したほうがいいでしょう』


 プロデューサーは苦しげに言葉を濁して通話をおえた。

 あたりはかなり明るくなりはじめていた。時刻は午前六時をすこし過ぎた頃。中野が言うには、プロデューサーと合流するのは二時間後の午前八時とのことだった。

 中野は助手席でうたた寝している永井を起こし、事情を説明した。

 怒りこそしなかったが、アナスタシアが思ったとおり永井は不機嫌そうに顔をしかめた。まだ眠っていたいのに邪魔されたのが不機嫌の理由のような態度だった。


永井「僕がそいつに見られたらどうすんだよ」

中野「トランクに隠れてればいいじゃん」


 中野はいたってまじめに答えた。

 ひとりでこっそりとトランクに隠れる永井を空想すると、アナスタシアはなかなか愉快な気持ちになった。とはいっても、永井がそんなことをするつもりがぜんぜんないことは、ふてくされた様子で背もたれに沈みこんでいる姿をを見なくてもわかりきっていた。
 

永井「お腹すいたな」


 眠気をにじませた声で永井がぼやいた。そのひとことでアナスタシアたちも思い出しかのように空腹を自覚した。
602 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/05/13(日) 22:05:08.82 ID:HRQM2WMiO

中野「あそこに食堂があるぜ」


 言いながら中野は顎をしゃくって前方にふたりの視線をうながした。張り紙がしてある古びれたサッシの引き戸、ひさしのうえに掲げられた年月に晒されくたびれた白地の看板には色褪せた赤い字で食堂の名称が書かれている。ひと気のない観光地の路地にひっそりとたたずむ商品替えもしたことないようなみやげ物屋、そういう印象を与える食堂だった。

 引き戸の入口のすぐ側には鉢植えが並んでいて、世話をされず放置されたのをいいことに植物は生命力を野放図にひろげ、重く厚くなった葉を地面に垂らしていた。鉢植えのあいだに立て看板が縦につらぬくように立っていた。黒い細かな文字、おそらくメニューだ。

 三人は車から出て、立て看板へと歩いていった。今日はサービスデーらしく、朝の献立をたのむとたまごか納豆が無料でついてくると書いてあった。
603 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/05/13(日) 22:07:03.17 ID:HRQM2WMiO

アナスタシア「アーニャは納豆にします」

中野「日本人だなあ」

永井「いいけど、変装しとけよ」


 アナスタシアは車から持ってきたレイバンのサングラスをかけてみた。サイズが大きく、顔の半分が隠れるほどだった。

 
アナスタシア「似合ってますか?」

永井「ダサい」

中野「デカすぎじゃね?」

永井「ていうか、髪の色をどうにかしろよ」



 男性陣からの不評に、アナスタシアはむっとしつつフードをかぶって銀髪を隠した。


アナスタシア「これでどうですか?」


 アナスタシアの声には憮然とした調子がこもっていた。


中野「なんかラッパーみたい」

永井「余計目立ってどうすんだよ」
 
中野「あれ? ロシアってラッパーいんの?」

永井「興味ない」

アナスタシア「ママがよく聴いてますね。アー……Dead Dynasty、とか」

中野「すげえなあ。おれ、t.A.T.u.くらいしか知らないや」

アナスタシア「アーニャもよく知らないです」
604 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/05/13(日) 22:09:00.45 ID:HRQM2WMiO

 そこだけは何時になってもずっと暗い食堂と隣家のあいだの狭い路地というか隙間から猫が一匹飛び出てきた。猫は着地すると、その猫は白と黒のぶち猫で右眼のまわりの黒い模様が眼帯みたいに見えた。ぶち猫は育ちすぎて鉢植えから地面まで伸びた葉先が鋭尖頭の葉っぱの下を背中を掻くようにして歩き、ふと白い方の眼を永井にとめると腰を下ろし頭をあげ、ぱちくりと両眼をひらいた。

 猫の行動をみていたアナスタシアはしゃがんで、できるだけ猫とおなじ視線になろうとした。


アナスタシア「コーシュカ」

中野「猫のこと?」

アナスタシア「ダー。にゃんこのこと、です」

中野「にゃんこ」

アナスタシア「にゃんこ、です。にゃー」


 アナスタシアにつられて中野もしゃがみ猫の鳴き真似をして、ぶち猫の気を引こうとした。二人はミャウミャウ言ったり、指をならしたりしてみるが、猫は永井を見上げたまま動かなかった。永井はスマートフォンを見ていたが、ため息をついてポケットにしまうと道路の向こうを行き来する車や自転車をぼーっと見つめ出し、猫に視線をやることはなかった。

 猫が前足を永井のスニーカーの上に置くと、永井はようやく猫を見下ろした。猫はにゃーおとひと鳴きして甘えたがっているみたいだったが、永井はズボンのポケットに両手をつっこんだまま何もしないで無感情でいた。
605 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/05/13(日) 22:10:11.57 ID:HRQM2WMiO

アナスタシア「遊びたがってます」

中野「かまってやれよ、永井」

永井「食べるまえにのら猫になんか触れるか」


 猫に対する態度をしない永井に、ふたりは文句をたれた。ふたたびミャウミャウと猫を呼びかけはじめたが、猫はかまいたがりに一瞥もくれず、前足を置いた姿勢のまま永井の反応を待っていた。

 永井が不意をつくように足をあげた。踵は地面についたままなので爪先がはね上がるかたちになった。猫はびっくりして一歩後ろに飛び退いた。

 永井が足首をやわらかくする体操みたいに足を振ると、左右に振れる爪先をを猫じゃらしだと思ったのかぶち猫が前足で叩こうとする。

 猫は夢中になっていた。足首を振るのに疲れた永井が爪先で地面をとんとんと叩くと、猫はスニーカーの爪先を引っ掻こうとした。
606 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/05/13(日) 22:11:55.27 ID:HRQM2WMiO

 食堂の引き戸がガラガラと音をたてながら開かれ、なかから開店準備をしにきた六十代くらいの女性が出てきた。丈の長い襟元の弛んだTシャツを着ていた。猫は女性を見たとたん、一目散に逃げていった。中野が女性にすかさず話しかけ、店内に案内してもらう。

 朝食のメニューは白米にごぼうの味噌汁、ふっくらした焼鮭にきのこと卵の炒め物、そして三人が頼んだサービスの納豆はじゃこがまぶされたじゃこ納豆だった。飲み物の緑茶はぬるかった。

 箸が茶碗にあたる。鮭の身はほぐされ、納豆がかき混ぜられる。味噌汁をすする音と湯飲みを卓に置く音。みるみるうちに朝食が三人の胃に納められていく。

 アナスタシアは口をもぐもぐさせながら炒め物に箸をのばした。かき分けた卵のなかにきのこを見つけたとき、箸の動きがぴたりと止まった。半円のかさを持ったしめじとの睨めっこ、正確に言うならば一方的に睨まれているという感じだ。アナスタシアは箸で持ち上げ口をおおきく開けてきのこを食べようとした。だが喉が詰まったような飲み込めない感覚がして、結局すこし顎を引いて口を閉じた。何度が同じことをしてみたが、きのこは箸につままれたまま食卓の上に浮いていた。


永井「なにやってんだ」


 口を開けたり閉じたりしているアナスタシアを変に思った永井がそう言った瞬間、どうすれば思いついた。アナスタシアはすかさず永井に皿に箸をのばす。
607 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/05/13(日) 22:13:42.17 ID:HRQM2WMiO

アナスタシア「あげます」

永井「口つけた箸でつまむんじゃねえよ」


 永井は不快感を露にきのこをつまんだ箸を押し返した。それから永井は中野がお茶をぐいっとあおっている隙にまるごと残ったアナスタシアの炒め物をすっかり空になった中野の皿にあけた。

 お茶を飲みおえた中野が元通りになった皿の様子に気づいた。


中野「あれ? 増えてる」

永井「やる」

中野「好き嫌いすんなよな」

アナスタシア「イズビニーチェ……ごめんなさい、です」

中野「なんでアーニャちゃん?」


 中野はかきこむようのして炒め物をたいらげた。

 永井は伝票を見て財布から千円札を二枚取り出して卓に置いた。


永井「払っといて」


 永井はふたりを残して食堂から出ていった。

 中野は伝票を手に取り、記入された金額と永井が置いていった金額を見比べる。考え込むような表情。眼はじっと二枚の紙幣に注がれている。


アナスタシア「コウ、どうしました?」


 アナスタシアが中野に声をかける。もしかしてお金が足りないのかと心配になる。

 中野は懐かしいものを見たときのような声で言った。


中野「これ、おれらの金なのかなあ」

アナスタシア「アー……」


 食堂の外では、ふたたび現れたぶち猫が永井に背中を撫でられて気持ち良さそうに喉をゴロゴロと鳴らしていた。


ーー
ーー
ーー
608 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/05/13(日) 22:15:12.37 ID:HRQM2WMiO

 中野が右にくんっとハンドルをきり、自動車はコンビニへと入っていった。アナスタシアは強い遠心力を感じながらスピードが速すぎるのではないかと思ったが、車はスムーズに駐車場に進入していった。

 時刻は七時五十分。プロダクション近くのこのコンビニのこの時間帯は客足のピークが過ぎ去ったころで、停まっている車は従業員のものをのぞけば一台しかなく、その車はプロデューサーが運転してきたものだった。プロデューサーは車から降り、コンビニの入口前に直立姿勢で待っていた。どことなく落ち着かない様子だ。

 車が曲がったとき、リアウインド越しにアナスタシアとプロデューサーの眼が合った。プロデューサーが車に引っ張られるように身体の向きを変え、アナスタシアを追いかけた。


アナスタシア「コウ、あの人がプロデューサーです」


 中野がバックのために振り向くとアナスタシアは頭を下げた。駐車スペースに停まり、アナスタシアは車から降りた。

 プロデューサーはアナスタシアがいま眼の前にいるのがまだ信じられないのか、半分呆けたような表情をしていた。言葉を失っているプロデューサーを前にすると、アナスタシアも何を話していいのかわからなくなっていた。
609 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/05/13(日) 22:16:25.80 ID:HRQM2WMiO

プロデューサー「お怪我は、ないんですね?」


 やっとことでプロデューサーが口を開いた。


アナスタシア「ダー……大丈夫、です」

プロデューサー「そうですか」


 長く細い息をはいたあと、プロデューサーはようやく安堵の表情を浮かべた。


プロデューサー「よかった……ほんとうに……」


 胸が締め付けられるような気持ち。数時間前に電話で話したときのことを思いだし、アナスタシアはまた申し訳ないという思いでいっぱいになった。


アナスタシア「わたし、いっぱい心配かけたんですね?」

プロデューサー「あなたが無事ならそれでいいんですよ」


 背後で中野がゆっくりと車を発進させた。車はふたりの横に停まり、運転席側の窓から中野が顔を出してきた。
610 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/05/13(日) 22:17:48.03 ID:HRQM2WMiO

中野「アーニャちゃん、おれらもう行くから」


 元気でとだけ言い残し、アナスタシアの返事も待たずに中野は窓を閉めようとした。プロデューサーはあわてて車に近より、中野に話しかけた。アナスタシアは思わずぎくりとする。


プロデューサー「中野さん、でしたね? この度はなんとお礼を申し上げたらいいか……」

中野「ぜんぜんたいしたことないっすよ」


 プロデューサーは永井に気づいた様子はないようだった。助手席の永井は帽子で顔に隠しシートに凭れて寝たふりをしていた。


中野「それじゃこれから仕事なんで」


 その言葉を最後に中野の運転する車は気ままな旅烏のように去っていった。空いた道路を走る車に劇的な印象はまったくなく、アナスタシアは永井と中野との別れがこんなにあっさりしてていいのだろうかと思った。


プロデューサー「なにか買っていきますか?」


 プロデューサーが尋ねた。朝食はもう食べたし、たとえ空腹でもアナスタシアは食べ物をねだったりしなかっただろう。プロデューサーはとりあえずミネラルウォーターを手渡した。
611 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/05/13(日) 22:19:18.40 ID:HRQM2WMiO

アナスタシア「あの、これからどうしますか?」


 プロデューサーの車に乗り込んだアナスタシアが尋ねた。


プロデューサー「大事をとってまずは病院で検査を受けてもらいます。見たところお元気そうなのでわずらわしいかもしれませんが、ご両親もいらっしゃってますので」

アナスタシア「パパとママが?」


 アナスタシアはとても驚いた様子でプロデューサーに聞き返した。


プロデューサー「え、ええ」


 予想外の反応にプロデューサーの言葉が詰まった。アナスタシアの顔は青くなっていて、なにか怯える理由があるかのようだ。


アナスタシア「アーニャがあぶないことしたとき、ママはとても怒ります……」

プロデューサー「その、お父様もいっしょですし……」

アナスタシア「ママが怒ってるとき、パパはニナヂョーズニー……すこし頼りないです……」


 プロデューサーは言うべきことが見つからなかった。しばらくしてからとまどいがちに「車を出しますね」と言い、アナスタシアは消え入りそうな声で「ダー……」とだけ答えた。


ーー
ーー
ーー
612 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/05/13(日) 22:20:33.61 ID:HRQM2WMiO
短いですが、今日はここまで。
613 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/05/21(月) 03:29:37.62 ID:MQxsUN2EO
追いついた

614 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/07/08(日) 20:16:45.73 ID:Wqc3ZOPPO

 極度の混乱、極端ともいえる自罰的傾向、事実関係の誤認識、うつ症状の進行、精神療養の必要あり。新田美波─療養施設にて治療を受けている。面会謝絶され、隔離されている。世間から遠ざけられる─さらに。亜人に関する事柄からも─つまり、佐藤と永井圭。

 均衡が崩れた精神。それがどのような思考や感情を生み出すのか、アナスタシアにはわからない。今日は九月二日、アスタシアは高校の教室にいて、自分の席に浅く腰かけながらいま現在の状況について考えをめぐらせている。昨日の始業式の日には、心配しきったクラスメイトに囲まれ、静かに考えることができなかったから、今日は昨日の分までより多くのことを深く思索しなければならない。
615 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/07/08(日) 20:18:29.01 ID:Wqc3ZOPPO

 学校に行くことに、母親は懸念を示した。母親はそれが過敏な態度だとは自覚していたが、亜人のことがひどく取りざたされている現状で、娘が突然消息を絶ち、その間に亜人が殺戮を引き起こし、その亜人は殺戮は一過性のものではなくこれからどんどん拡げていくと宣言したのだから、アナスタシアが亜人だと判明した直後の周囲への疑心暗鬼と不安がぶり返してしてたとしても仕方のないことだった。

 母親は(父親にも祖父母にもいえることだが)アナスタシアが亜人だと発覚してから、むしろ娘の安全にこれまで以上に気を遣いだした。車の行き来の激しいところでは痛いくらいに手を握りしめ、川の流れを覗き込もうと橋の欄干から身を乗り出そうとすればまるで連れ去ろうとでもするかのようにきつく抱き締めた。成長するにつれ、アナスタシアは家族のそうした態度にうんざりすることが多くなった。

 あるとき、母親のふとした注意に愚痴ったときの表情はいまでも忘れられない。
616 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/07/08(日) 20:20:05.88 ID:Wqc3ZOPPO

 晴れ渡った冬の車内、ロシアはとてつもない寒波に見舞われていた。暖房の調子がわるく、途切れ途切れに吐き出される温風は調子を崩した犬の喘ぎに似ていた。窓ガラスが白くなっていたのは曇りのせいではなく凍ったせいだった。

 空気そのものが凍るほど寒い日に母娘ふたりで車に乗ったのは、明日は仕事なのにガソリンを入れることをすっかり忘れていたためだった(ついでに灯油を買う必要もあった)。母親は七歳になる娘に眼をやった。ふてくされていた。人形アニメが見たかったのだ。ひとりでも平気だから家にいると駄々をこねたが、もちろん母親は有無を言わさず防寒着をしっかり着込ませ車に乗せた。いまでは防寒着の前は開きマフラーはほどけていた。寒さよりこんな風に窮屈にされるのが我慢できないとでも言いたげな風だった。

 母親は寒いでしょと言いながら直しようとアナスタシアに手を伸ばす。アナスタシアは身体をはんぶん捻って母親に背を向けその手から逃げると、アーニャは亜人だからいいとぼやいた。

 母親が息を呑むのが気配でわかった。二、三回ゆっくり呼吸して、アナスタシアは慎重に瞳と首を動かした。母親は顔を前に向けていたから、横顔しか見えなかった。それでも母親の顔面に強張っているのがわかった。怒りと慄きと悲しみがいっしょになって直しようのない亀裂を刻み込んでしまっていた。
617 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/07/08(日) 20:22:25.68 ID:Wqc3ZOPPO

 いまなら母親がそんな顔をした理由がわかる、亜人の情報提供を呼び掛けるチラシに載った永井圭の顔写真──佐藤と田中のあいだにあるその写真で永井は学生服の詰襟を上まで閉めている──を見ているとつよくそう思う。太い枝をみずからの首に突き立てて易々と頸動脈を破ってしまったあの光景は恐ろしかったが──あの躊躇いのなさは自分が亜人だと確信しているからというより、自分より偉大な存在にみずからのすべてを捧げようとしているかのようにアナスタシアには思えた──ある程度時間が経過してみると、行いそれ自体への恐れとはまた別の感情もあることがわかった。美波があの光景を見ていたらと考えると、背中を寒気が走り抜けたような感覚をおぼえた。それと同時に、アナスタシアは自分だけが感じる寒気におののいた。死を躊躇しないあの態度。それがある一点を越えたら自他の区別がなくなってしまうのではと、アナスタシアは漠然と感じている。一線を越えた先には帽子を被った男がいる。

 冷風がうなじにあたり、アナスタシぶるっとは身震いをした。髪を二つ結びにしていたから冷たさが首の後ろにまともにぶつかった。ひとりきりの静寂が守られていた教室にクーラーのゴォッーという作動音がおおきく響いた。
618 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/07/08(日) 20:23:48.96 ID:Wqc3ZOPPO

 教室に入ってきたのは友達とはいえない距離間のクラスメイトだった。彼女はアナスタシアを見て、一瞬驚いたように口をすぼめてからおはようと言った。それから「すごく早いね」とそのクラスメイトは続けた。

 アナスタシアは「うん」とだけ応えた。理由を説明することはむずかしかったからだ。さいわい、相手は追及するつもりがなく自分の席にスクールバックを置いた。

 窓は大きく開けられ光と風をいっぱいに取り込んでいた。ふわりと風に浮かんだカーテンに視線をやってからクラスメイトはアナスタシアに「窓閉めてもらっていい?」と言った。

 他のクラスメイトが次々と登校してきて、教室に入ったとたん、彼女たちは室内の涼しさを喜び感嘆したように声をあげた。教室はにわかに騒がしくなっていった。宿題や部活、気になるアーティストの新曲やお菓子やおしゃれなど様々なことが話題にあがったが、今朝はやくNisei特機工業の石丸竹雄が出張先のホテルの一室で刺殺されているのが発見されたことを口にする者はいなかった。

 そんな教室の様子は、登校するまでの一見いつもと変わらないように見える風景のことを思い起こさせた。寝て起きて朝食を食べる女子寮であったり、学校やプロダクションにむかうときに通り過ぎる街中、行き交う人びとのことであったり、校門の隣で緑の葉を繁らせている桜の木であったり。風景には空気と光があり、肌の感覚が風や熱や音を記憶していた。それらはまるで亜人などはじめから存在していなかったかのような風景だった(例外はさらなるテロに対する厳戒警備にあたっている警官たちで、いまアナスタシアが眺めているチラシもその警官たちから渡されたものだった)。
619 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/07/08(日) 20:25:38.35 ID:Wqc3ZOPPO

 朝のホームルームの一分ほど前に担任が教室に入ってきた。チャイムが鳴るとわいわいがやがやが鐘の音にかき消され、それから椅子が引かれる音がした。起立、着席、ふたたび椅子の足が床を擦る音が響いた。

 アナスタシアは席がひとつ空いていることに気づいた。右隣の列の前から三列目にある席で、そこにはいつも時間ギリギリにやってくる子の席だった。その子は歌が得意で、合唱コンクールの練習のときアナスタシアと同じパートだった。その子の友達は歌がうまいのだからとアナスタシアの隣に彼女をたたせたが、彼女は気後れして緊張したのか歌声をうまく出せなかった。アナスタシアはそんな彼女の手をとって、励ました。眼をみて、微笑んだ。彼女が実力を発揮すると、アナスタシアでも驚くほど透き通った声を響かせた。おかげでコンクールでは一位を取れた。アナスタシアとその子は友達になった。その子は昨日は休みで、どうやら今日も休みのようだ。

 チャイムが鳴り終わっても担任は何も言わず教壇に突っ立っていた。生徒たちが不審そうに顔を見合わせ、ちいさな泡のようにひそひそ話が起こり始めたとき、担任が重たそうに口を開いた。アナスタシアは教室全体を見渡した担任の視線がただひとつの空席にとめられたとき、その眼が苦しげに揺らめくのを見て取った。

 担任は遺体の確認がとれたと言った。
620 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/07/08(日) 20:27:19.67 ID:Wqc3ZOPPO

 身元不明の遺体のひとつがいま空席になっている生徒だと昨日になってやっと判明した。遺体の数はあまりにも多く、身元確認の作業が終わるまでこれだけ時間がかかったそうだ。その子は佐藤のテロの犠牲者だった。

 空気が音を伝達するのを止めてしまったかのような沈黙がわずかにおり、動揺とどよめきが教室に広がった。泣き出し、えずく者も出てくるなか、担任は告別式は午後にとりおこなわれると告げた。

 アナスタシアのすぐ側にある窓に一匹の蝉が張り付いてきた。蝉はもぞもぞ動いて位置を調整すると、カエルとサソリの寓話で、生まれ持った性質に従うしかなかったサソリのように自らが蝉であるからという理由だけでやかましく鳴き始めた。

 アナスタシアは窓の外を見た。ガラスにぼんやりと自分の顔が写っていた。外の世界はいつもの風景と変わらないように見えた。だが、アナスタシアにはわかっていた。自分が見ているのは、人が殺されている世界だということを。


ーー
ーー
ーー
621 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/07/08(日) 20:32:31.53 ID:Wqc3ZOPPO

中野「ない……何も……」


 空っぽの部屋を中野は茫然と眺めていた。コンクリートが打ちっぱなしになっている部屋は、佐藤が亜人たちを召集したホテルにある地下室だった。中野が入ってくるまでそこは音の無い部屋だった。床にうっすら積もった埃が空気の振動や振幅がいままで存在していなかったことを証明していた。


中野「ドラム缶に入れて、地下に置いとくって言ってたのに」

永井「バカだな。同じところに置いとくわけないだろ」


 背後から永井がしゃべった。はじめから期待などしていなかったのか、無感動な眼で灰色の壁と床を視野に入れていた。呆れてすらいなかった。


中野「……バカって言うんじゃねえ」


 落胆のせいか、中野が力のない声で反論した。


永井「バカだろ! 長距離移動のあげく佐藤のいたところに来たんだぞ。危険だろ!」

中野「危険とか関係あんのかよ!」

622 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/07/08(日) 20:34:27.00 ID:Wqc3ZOPPO

 怒鳴りあう声が壁にぶつかって跳ね返った。言い争いに発展しそうになったそのとき、永井のポケットのスマートフォンが着信を告げた。永井があわてて着信を確認する。


永井「よかった、待ってたぞ」


 メールの送信先を見た永井はほっとしたようにつぶやいた。


中野「電源入れてんのか? それこそ危険なんじゃねーの? 逆探知的なの」

永井「ああその通りだ。あの村の人たちはよそ者が押し寄せてくるのを嫌うから、僕のことを黙ってる可能性はあるが、警察に伝わってたらこのケータイはヤバい」


 中野の指摘に永井はうなずいた。


永井 (いちおう、北さんは自殺に見せかけたけど……)

永井「それに僕らの車は盗んだやつだろ。いつまでも乗ってられるもんじゃない。おまえは気づいてないようだけど、あの村を出た時点で追ってに見つかるのは時間の問題なんだよ!」


 メールに添付されたPDFのダウンロードをもどかしげに待っている永井がいらだった口調で言った。冷静に状況を振り返れば振り返るほど、不利な方向へ進んでいるのがわかった。永井は中野を見た。具体的なことは理解できてないが、危うい状況のなかにいることは察しているようだった。


永井「危険はさけられない、重要なのは有意義な危険を冒せるかだ!」

623 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/07/08(日) 20:41:34.02 ID:Wqc3ZOPPO

 ダウンロードが完了した。PDFファイルをスクロールしていると、ふと永井の親指が宙にとめられた。ファイルを読む。永井はほくそ笑みながら口を開いた。


永井「こいつにしよう」

中野「だれのメールだよ」

永井「あの日、海に飛び込むまえ、亜人管理委員会役員数名の身辺調査を依頼した……興信所にだ」

中野「そんな金よくあるな」

永井「おばあちゃんのキャッシュカードを持ってきたからな」


 中野が「えっ」と驚きを顔にあらわした。永井は中野の表情に気づかず、画面を中野に向けて言った。


永井「そのなかで仲良くなれそうな奴がひとり」


 永井が中野に画面を見せる。見覚えのある顔。戸崎の顔が映った。


中野「そいつ!」

永井「こいつはおもしろいぞ」


 永井はふたたびスマートフォンに視線を戻し、調査内容が記載されたファイルを読み上げていった。
624 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/07/08(日) 20:42:54.09 ID:Wqc3ZOPPO

永井「婚約者が意識不明の重体、その医療費を自分で負担してる……保険に入ってないのか。はははっ、これはちょっとやそっとじゃ払い続けられる額じゃないぞ!」


 すこし興奮気味の早口での説明を聴きながら、中野は戸崎のことを思い出していた。自宅マンションのまえでの無慈悲な眼がはっきりと記憶され、その印象が中心となってその他の輪郭や風景を形作っていた。記憶の世界ができあがると、無慈悲な眼の奥を覗きこめるような気になった。それは感情的な背景であり、戸崎の苦悩と、そして自分の同情が存在していた。

 永井は相変わらず現実の基盤にあるファイルを見ていた。声は落ち着き、頭の中では今後の方針を固め始めている。


永井「こいつにはなんとしてでも佐藤を止め、自分のポストを守らなければならない理由がある、そしてなにより、恋人というつけ入る弱味がある」


 視線をあげ、永井は中野を見た。見下したような眼。中野に向けられたものではなく、戸崎に対する優位に満足しているようだった。永井は静かだが、覆ることの無い決定事項を告げる声で言った。


永井「こいつと組むぞ」

中野「何が楽しいんだよ」


 中野がすかさず返してきた言葉に、永井に不意をつかれたような表情をして黙った。理由を考えて見ると、居酒屋の窓から覗き見たある光景が浮かんだ。そこは灯りに照らされていた、食事と笑い声、そのふたつが結び付くことが永井には意外だった。

 結局、永井はなにも口にすることなく、中野とともに車まで戻った。すっかり夜の帷が下りていた。空には透明な星が瞬いていた。周囲の山々は真っ黒に染まっていて、地面から稜線のところまで暗闇が膨らんできたかのようだった。

 エンジンが始動し、ライトが地面を照らした。黄色い光を見た永井は、その光の色が窓から覗き見た居酒屋の明かりの色とよく似ていることをぼんやりと思い浮かべていた。


ーー
ーー
ーー
625 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/07/08(日) 20:45:53.45 ID:Wqc3ZOPPO


コウマ陸佐「上の連中は敵を見くびってる」


 苦々しい声が会議室に広がった。厚労省の会議室には亜人管理委員会の数名が出席していた。メンバーの数は少なかった。委員会メンバーのひとりは殺され、リストから二番目の人物も今朝死体が発見された。みな額や背中にいやな汗を滲ませていた。


コウマ陸佐「佐藤は素人じゃない、あきらかに高度な戦闘訓練を積んだ者だ」

研究者1「警察が無能なだけだろ!」

コウマ陸佐「そんなことはない!」


 思わず声を荒げたコウマ陸佐は、静かに息を落ち着かせてから話を続けた。


コウマ陸佐「グラント製薬、今回の二件でも警察は敵を何度も殺してはいる。だが、亜人だ。警護が百人いようと敵は無限大」

研究者2「ふん、じゃあこっちも作るか、亜人のお友だちを」

コウマ陸佐「そういえば岸先生はどうした?」

研究者1「奥さんを連れて身を隠したよ。暗殺リストに載ってるからな」

626 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/07/08(日) 20:47:08.82 ID:Wqc3ZOPPO


 突然、研究者が戸崎をきっと睨み付け、責めるような声をあげた。


研究者1「戸崎! おまえもだろ! よく涼しい顔して出てこられるな。私たちまで巻き添えを食ったらどうする気だ!?」

戸崎「私はリストの下から二番目、まだ時間があります」


 戸崎は研究者に視線を返さず、冷たいな声で言った。


戸崎「それより次の策を練りましょう」


 戸崎が会議を再開しようとするとき、ドアが開けられた。曽我部だった。戸崎を見たとたん、ドアを開けた姿勢のまま動きを止めた。


曽我部「戸崎先輩……! ちょっと……」

戸崎「後にしろ、曽我部」
627 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/07/08(日) 20:48:10.19 ID:Wqc3ZOPPO

 曽我部を制したのは報告の内容が予想できたからだった。おおかた暗殺リストの三人目が消化されたのだろう。今朝遺体が発見された桜井に引き続いてとなると、たしかにそのペースにはすこし眼を見張るものの、別段驚くほどのことでも……


曽我部「岸先生が、暗殺されました」


 曽我部が言った。岸の名前はリストの最後に載せられていた。


戸崎「……順番じゃないのか」


 首筋を引っ掻かれたような気がした。── IBM……? ── 戸崎が停止したまま、数秒が過ぎた。

 なにも起きなかった。首筋の感触は戸崎の気のせいだった。いまこの瞬間においては気のせいだった。


ーー
ーー
ーー
628 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/07/08(日) 20:50:46.90 ID:Wqc3ZOPPO

すぐ眼の前に喫煙室があった。ガラス張りされた透明な隔離所にはクールビズ姿の男性職員がふたり、煙草を吹かして紫煙を吐き出していた。壁掛けテレビが他愛もない午後のニュースを報じていた。
 戸崎は喫煙の欲求をなんとか押さえ込み、自販機横にある合成皮革の長椅子に腰を下ろした。


戸崎「別種ども……」


 戸崎は背中をまるめながら、組んだ手で口元を隠していた。眼付きはいらだちによって鋭く、鼻先も内面が現れたかのように尖っているようにみえる。

 リスクの上昇。暗殺リストの存在感はこれまで以上にひりついて感じられた。許容できると思っていた命のリスクは、戸崎の想像の範囲を容易く越えてきた。

 二〇パーセント……命のリスクがそれまでならなんとか許容できる。仕方がない、金払いはいいんだ、こういう仕事は……非合法な仕事、物騒な仕事、調査し確定し拘束する仕事、口止めする仕事、脅すか賄賂をつかませる仕事、目撃者に気をつけなければならない仕事、ときに命を奪う仕事、足場が不安定な仕事、へまをすれば消される仕事、彼女との約束を違えた仕事……
629 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/07/08(日) 20:51:56.15 ID:Wqc3ZOPPO

 携帯の着信音が聴こえた。現実に引き戻された戸崎は、数コールしてからスーツの左側の内ポケットから携帯を取り出した。画面が暗い。着信音は右側から聴こえる。右ポケットを探る。非通知設定の電話着信。


戸崎「私用の携帯に……」


 戸崎は電話に出た。


『テレビをつけろ!』


 無遠慮な大声。聞き覚えがある。


戸崎「誰だ!」


 命令に負けじと強い口調で返事をしながら、戸崎は喫煙室のテレビに視線をやった。タバコ休憩の職員たちはまだそこにいて、頭をあげてニュースに見いっていた。戸崎は喫煙室に近づいた。ガラス越しに音声が聞こえた。ヘリからの生中継、暴走している赤い車が猛スピードで他の車を追い越している、追跡するパトカー、アナウンサーが永井圭の名前を叫ぶ。
630 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/07/08(日) 20:52:48.82 ID:Wqc3ZOPPO

戸崎「永井圭だと!? なにをしているんだ」

『ああ! いまその車内から掛けてる! 僕らがどこに向かってるか……』


 電話が切れた。


戸崎「あの、道は……」


 戸崎は電話をかけ直さなかった。そうしようとしたが、携帯は耳から離れたまま、携帯を持った手を胸の前に浮かせながらテレビを注視していた。映像によって記憶が刺激され、俯瞰が主観になった。道路をなぞる俯瞰から道路を運転する主観へと。


戸崎「あの野郎……!」


 永井がなにを言わんとしていたか戸崎にはわかった。


ーー
ーー
ーー

631 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/07/08(日) 20:55:11.87 ID:Wqc3ZOPPO

 アナスタシアにとって九月三日の朝は、新たな殺人の報告から始まった。午後にはまた新たな死者。わずか二日で三人が殺された。

 彼らの死をどう受け止めればいいのだろうか。

 はっきりとわかったことがある。亜人虐待の映像、田中が何度も何度も殺されていくさまを記録した映像は本物だということだ。確信が持てたのは永井の破れた頸の再生の仕方を見たからだ。その様子は映像の田中と同じだった。

 十年間。田中が捕獲されてから現在までの年月。アナスタシアは田中に同情している自分に気づいた。亜人にとってこの国は異常さを感じる国になっていた。政府はいまだに亜人虐待の事実を認めず、映像は偽物だと主張し続けている。テロの原因はすべて、亜人という生物の凶暴性に由来しているというのが政府の見解だった。

 大半の国民もその見解に同意していた。佐藤グループとその他の亜人を同一視するのは、危険であり差別であるという冷静で真っ当な意見を言う者は敵視され、亜人びいきと揶揄されるまでになっていた。

 差別的言説が国内に広がっていた。
632 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/07/08(日) 20:57:55.29 ID:Wqc3ZOPPO

 そういった言動は昨日の告別式でも聴かれた。疲弊しきって口を閉ざす両親と泣きじゃくるクラスメイトたちのあいだからそういった声が聴こえてきた。誰彼ともなく。不安を口しているようで偏見を表明していた。穏やかで控えめなレイシズム。穏やかに話せば差別ではないと思っている。

 だれかが亜人を呪う言葉を吐いた。女の子の声、自分と同じくらいの年の子、友だちのだれか……? いや、気のせい、そのはず、言ったとしても亜人というのは佐藤のことで、わたしのことじゃ……アナスタシアはクラスメイトのことすら信用しきれてない自分にショックを受けた。同時に被差別者になってしまったことにも。家の柱についた小さな傷が目につくように、アナスタシアは心の中に猜疑心を見つけた。いったんそれを見つけると、その小ささにかかわらず、存在自体が想像を延ばす原因となった。それを隠そうとしても、柱の傷を指で押さえても指の腹に欠けた箇所を感じてしまうように、猜疑心を消すことはできなかった。

 アナスタシアはなにかを誤魔化すか、言い訳をするかのようにあたりを見渡した。
633 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/07/08(日) 20:59:54.95 ID:Wqc3ZOPPO

 クラスメイトたちはみんな顔を伏せていた。そのなかに顔をまっすぐあげている子がいた。悲しみの群れのなかにひとりだけ強張って黙っている顔があった。その子は昨日アナスタシアに最初におはようと言った子だった。涙を流していなかった。噛み千切らんばかりに下唇を噛み締め、手のひらに爪が深く食い込むほど強く手を握りしめたが、それでも泣かなかった。泣くよりほかにするべきことがあるとでもいいいたげな表情。

 彼女は遺影をまっすぐ見据えていた。棺の小窓は閉じられていたから、死んだ友達の顔を見るには遺影を見るしかなかった。瞳は潤んでいたが、眼には怒りの色があった。怒りの対象はもちろん佐藤に向けられていたが、その射程はもっと別の、遠くにあるなにかまで届いていた。

 そのなにかを具体的な言葉で指示することは難しい。それは死ではあるのだが、ある特定条件下における死であり、つまり暴力が作用した死、理不尽で倫理に悖る死ではあるのだが、というより怒りの対象はやはり死ではなく死をもたらす要因、原因、根源的ななにかではあるのだが、具体的な言葉で指示することは難しい。

 怒りの眼差しは一点に、亜人というカテゴリーや佐藤という個人に収斂してはいないように見えた。行為を起こした者への責任は認めているが、その背景にあるものを決して無視していない。
634 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/07/08(日) 21:01:04.64 ID:Wqc3ZOPPO

 その子を見たとき、アナスタシアは自分のやるべきことがわかった。

 そしていま九月三日の午後、アナスタシアは自分の部屋で三人目の犠牲者が確認されたことを知る。スマートフォンを手に取り、発信する。ワンコールもしないうちに相手は電話に出た。
 

アナスタシア「ケイ?」

『なんだ!?』


 永井は食い気味に応えた。叫ぶような大声に焦燥の色が混じっていて、アナスタシアは驚き、一瞬怯んだが、すぐに気を取り直し、はっきりした口調で決意を告げた。


アナスタシア「わたしも……サトウと戦いま」

『わかった! 切るぞ!』


 言い終わらないうちに一方的に電話が切られた。
635 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/07/08(日) 21:02:08.71 ID:Wqc3ZOPPO


アナスタシア「え、あの、もしもし?」


 何度かけ直しても向こうは通話中で、その日は二度と永井につながることはなかった。アナスタシアは拍子抜けしたような、あきらめたような気持ちで、階下へ向かった。ともかく、言いたいことは伝えた。何をどうするか具体的なことはぜんぜんわからないが、それは永井に任せるしかない。覚悟を決めたのに、戦う覚悟を決めたのに、なんとも情けないありさまだと思うが、しかし、テロリストの潜伏先なんてぜんぜん見当がつかないのだから……それしても、最後の語尾くらい言わせてくれても……

 そこまで考えたとき、アナスタシアは永井がなぜ焦燥していたのか理解した。

 ラウンジのテレビがついていた。コの字型に配置されたソファにはだれも座っておらず、スクールバックだけが置かれていたので、学校帰りのだれかが飲み物でも取りに行っているのだろう。つけっぱなしのテレビから画面のくすみと揺れを含んだ生中継の映像が流されている。ヘリコプターからの空撮は国道を映し、猛スピードで道路を駆け抜けている赤い自動車を画面の中央に納めている。
636 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/07/08(日) 21:05:51.72 ID:Wqc3ZOPPO

 その赤い自動車を見た瞬間、アナスタシアの記憶が刺激される。視覚の記憶は内側に、それだけでなく、耳で聴き、口で話し、舌で味わったことも思い出す。

 いやまさか、と記憶を疑う。だってあの永井圭がこんな目立った失敗をするはずが……

 テレビではアナウンサーが報道中の映像に説明を加えていた。


 ──運転しているのは失踪中の亜人、永井圭との情報もあり──


アナスタシア「ハァ!?」

みく「に゛ゃ!?」

アナスタシア「Ой (オイ!)」


 アナスタシアの仰天に前川みくが仰天し、アナスタシアがさらに仰天しスッ転んだ。みくは麦茶のはいったグラスを落とした。プラスチック製だから割れはしなかったが、カランと響きのいい音をあげ、中身が床に広がった。みくの紺色のソックスの先に麦茶が染み込み、そこだけ黒っぽくなった。


みく「あ、あーにゃん……? だいじょうぶ?」

アナスタシア「アァー……ミク、アーニャ、出かけます!」

みく「えっ、どうしたの?」

アナスタシア「忘れもの!」


 ラウンジから駆け出したアナスタシアはそのまま玄関のスニーカーをひっ掴み、靴も履かずに外に飛び出した。


ーー
ーー
ーー
637 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/07/08(日) 21:11:11.84 ID:Wqc3ZOPPO

 永井と中野は入口に突っ込んだ自動車を乗り捨て、病院のなかを突っ走っていた。


永井「中野! 戸崎とは一対一で交渉する、おまえは隠れててくれ!」


 廊下を駆けながら、永井は後からついてくる中野に叫んだ。


永井「敵が強硬確保に走ったときの切り札だ、おまえの幽霊でやつの取り巻きを鎮圧してくれ!」

中野「幽霊……あの黒いバケモンか」


 中野はわずかに戸惑ったあと、意を決して言った。


中野「おれ、アレ出せねーぞ」

永井「は!? 笑えないんだけど」

中野「マジだよ! 厚労省前ではじめて見てすげえビビったんだから!」


 眼前に階段が迫っていた。永井は罵りたい気持ちをぐッとこらえ、手すりをつかんで身体を引き上げた。


永井「……どっちにしろ隠れてろ、おまえがいたら話がこじれそうだ」


 言いながら永井は踏段をいくつか踏み飛ばして階段を駆け上がる。目的の階までなんとか間に合うように。
 

ーー
ーー
ーー
638 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/07/08(日) 21:12:23.20 ID:Wqc3ZOPPO

 病室は静かだった。

 亜人のテロを警戒し病院側は患者を避難させ、いまでは職員の避難も完了している。建物の中には僅かな人間しかいない。

 周囲を包囲している警官たちは命令によって待機したまま、病院内に突入してくる気配はいまのところなく、カーテンが閉めきられ明かりが落とされた病室には人工呼吸器の作動音ぐらいしか聞こえない。

 何度も訪れた病室。呼吸器も、身体に繋がった様々な種類のチューブも、寝たきりの彼女も何度も見てきた。何度もマスクに覆われた彼女の顔を見てきた。それが外れてベッドから起き上がる彼女を見ることが望みだった。

 いま戸崎が見ているのは、彼女ではなかった。正確に言えば、彼女を視界の中心には収めてなかった。この病室に入って初めてのことだった。

 ヘッドボードに両手を起き、睨めあげるように戸崎に視線を向ける者がいた。
639 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/07/08(日) 21:13:56.02 ID:Wqc3ZOPPO

永井「戸崎さん、あなたの顔なんて二度とみたくありませんでしたよ」


 永井圭が緊張を抑えながら言った。


戸崎「残念だが、われわれは毎日顔を合わせることになる。ガラス越しでな」


 戸崎は冷静さを印象づけるように声を低めた。顔に一筋の汗が流れ落ちた。


永井「話があります。物騒なことはやめましょうよ」

戸崎「なら外でしないか? 今日はいい天気だ」


 永井に近い壁には窓があり、平沢と真鍋がカーテンに隠れながら麻酔銃を永井に向けている。ほかの黒服ふたりも戸崎に従う下村の背後、入口ちかくのカーテンに身を隠している。


永井「捕まえる気なら、眠る前に幽霊を放ちます」


 永井は努めて戸崎を見据えたまま言った。
640 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/07/08(日) 21:15:30.27 ID:Wqc3ZOPPO

永井「僕の幽霊は命令なしに暴走する。僕の意識が落ちてもひと暴れしてくれるはずだ。とくに、いちばん近いこの女性は……」


 永井が肩に力を込めた。肩の位置が低くなった。視線は戸崎を睨んだまま、脅迫の意図を強める。戸崎の眼が殺意に細くなる。


戸崎「おまえ、殺してやる」

永井「ただじゃあ済まないだろうね」


 永井の右手の甲から黒い粒子が滲み出た。下村だけがそれに気づいた。息をのみ、対応のため黒い幽霊を発現しようとする。発現の兆候を永井も察知する。

 突然、天井板が外れ、中野が落ちてきた。戸崎たちはもちろん、永井も驚愕し、「ハァッ!?」と、声をあげた。

 黒服たちがカーテンから飛び出す。戸崎も懐から麻酔銃を引き抜く。


永井「待て! 撃つなぁっ!」

641 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/07/08(日) 21:16:46.91 ID:Wqc3ZOPPO

 永井は反射的に人質から飛び退いた。両手を開いたまま突きだし、降参する寸前のようなポーズをとる。この行動は正解だった。逃避的に距離をとるための動作が、攻撃してきたのみ反撃しろと厳命された黒服たちの行動を一瞬遅らせた。


中野「永井! こんなことしなくていいだろ!」

永井「邪魔するな中野!」

真鍋「どうする、撃つか!?」


 矢継ぎ早に叫びが飛んだ。彼女のいる病室が混乱しそうになる。


戸崎「私を殺しに来たわけじゃなさそうだな、なにが目的だ!」


 戸崎がとっさに叫び、問いかける。


永井「……夏だ」


 ずっとそのことを考えてきたとでも言いたげに、永井は静かに話し出した。
642 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/07/08(日) 21:18:25.40 ID:Wqc3ZOPPO

永井「日差しが差し込む教室、ホワイトボード、汗ばんだ手が、ノートに張り付く。静かで退屈だが、洗練されてた……こんなはずじゃなかっただろ、アンタも!」

戸崎「ああ! おまえらのせいでな!」

永井「違う!」


 静かに高まっていく声により大きな声。永井はより強く戸崎を否定する。


永井「ここまで話をこじらせたのは、僕でも、アンタでもない!」

永井「 僕らは同類だ! ここへはビジネスをしに来た!」

戸崎「亜人など信用できるかァッ!」
643 : ◆8zklXZsAwY [sage]:2018/07/08(日) 21:20:10.34 ID:Wqc3ZOPPO

 挑発的にも聴こえる永井の訴えを、戸崎はなかば感情的に退けようとした。そのとき、中野がぐっと膝から立ち上がり、「なあ!」と叫んだ。銃口が中野に向いた。中野は怯まず、戸崎に話しかけた。


中野「おれは難しいことはよくわからない。けど、これだけは言える。おれたちは、何がなんでも佐藤を倒してみせる」


 中野が息をはく。そして、落ちつかせた声で、言うべきだと思ったことを言う。


中野「この女の人のためにも」


 戸崎の感情が揺らぐ。間髪入れず永井が戸崎に宣言する。


永井「アンタの駒になってやるよ、不死身の兵士として」


 揺らぎがさらに大きくなる。病室に静まりが戻ってきた。人工呼吸器の音が、戸崎の耳に痛いほどはっきり聞こえた。


ーー
ーー
ーー

644 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/07/08(日) 21:20:57.85 ID:Wqc3ZOPPO

「あ、出てきたぞ」


 病院前を包囲していた警官が、入口から出てきた黒服に気づいてパトカーの陰から身体を出した。

 平沢を先頭に、黒服たちは悠々とした態度で歩いていった。警官たちは上官の(黒服は偽のIDを用意し、現場到着時に彼らに見せていた)そうした態度にすこし安堵した。すれ違いざま、平沢は警官に向かって言った。


平沢「容疑者は確保した。あとはこっちでやる」


 その一言に警官たちの緊張は溶けるようになくなっていった。亜人テロの対応。どう考えても、命がいくつあっても足りない。


「ところで、ほんとうに永井圭でしたか?」


 警官のひとりが額に汗を滲ませながら尋ねた。平沢は警官のほうをちらと振り返った。


平沢「いや別人だ。似てるだけのな」


 そう言われた警官は制帽を脱ぎ、額の汗を腕で拭った。



ーー
ーー
ーー
645 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/07/08(日) 21:22:20.86 ID:Wqc3ZOPPO

 タクシーからおりるときになってようやく、アナスタシアはスニーカーをはいた。料金を支払い、女子寮から飛び出したときと同じように駆けていく。眩いなかを走って行くと、すぐに汗が吹き出す。かまわず走り続け、薬局を通りすぎ、病院の裏口へと向かう。

 駐車場にはぽつぽつと数台の車が残されているばかりで、そのおかげか、裏口のすぐ側にスペースを無視して横付けされた車があるのを一目で見てとれた。

 警察車両ではない。一般車両だとしたら、あんなところにあるのは不自然。あの車は亜人管理委員会の誰かが乗ってきた車だとアナスタシアは考えた。おそらく、戸崎という人が病院に来てるはず。そうなると、あの亜人の女の人もここにいる。黒い幽霊で戦うことになるかもしれない。

 アナスタシアは深呼吸をした。ながく息をはき、まっすぐ裏口を見据える。覚悟をあらたに一直線に駆け出そうと一歩目を踏み出す。
646 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/07/08(日) 21:23:52.48 ID:Wqc3ZOPPO

 自動ドアが開き、裏口から永井が歩いて出てきた。顔に陽光があたったのか、足をとめて眩しそうに手をかざそうとしたが、光線はおもったより強くなく、永井はすぐにまた歩き出した。

 永井がアナスタシアを見つけたのは、アナスタシアが二歩目を蹴り出したそのときで、光り輝く銀髪がぱっと持ち上がり、風に流されようとするその瞬間、アナスタシアは永井と眼があった。アナスタシアは驚きのあまり足を止め、立ちぼうけてしまった。

 表情が伺えない遠くからでも、永井がしかめっ面をしていることがアナスタシアにはわかった。かりに舌打ちでもしたら、そのこともわかったし、「チッ」という音が実際に耳にしたときのように再現されただろう。

 永井はアナスタシアを無視してふたたび歩き出し、横付けされている車のほうへ向かっていった。
647 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/07/08(日) 21:25:11.99 ID:Wqc3ZOPPO

 引っ張られでもするかのように、永井を追いかけようとアナスタシアの身体が傾いた。

 永井のあとに続いて、中野、その後ろに戸崎と下村が病院から出てきた。下村の輪郭が陽光の下に出てくるまえに、アナスタシアはあわてて近くに停めてあった車の陰に隠れた。

 ドキドキしながら身を隠していると、エンジンが始動する音が聴こえ、続いてタイヤがアスファルトを擦る音がした。

 アナスタシアは慎重に車から頭を出し、駐車場をゆっくり横切る車を見つめた。永井は後部座席にいた。つまらなそうに窓に頭を預けてる。

 永井とは眼があうこともないまま、車は道路へと出ていった
648 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/07/08(日) 21:26:11.43 ID:Wqc3ZOPPO

 アナスタシアは何があったのかさっぱりだったが、しばらくして永井が仲間を求めていたことを思い出した。まるで信じられなかった。よりにもよって、自分を追いかけ、捕獲し、切り刻んできた相手を仲間にしようだなんて。

 アナスタシアはあきれたように大きく息をはいて、それ以上考えるのをやめた。とにかく、永井は無事だった。いまはそのことに安心しよう。

 立ち上がり、帰ろうとするアナスタシアはふといやな予感をおぼえ、慌てて財布を取り出した。予感はあたっていた。タクシー代を支払ったため、お金はほとんどのこっていなかった。

 財布を手に持ったまま、アナスタシアはその場にへたりこんだ。残暑がまだまだ厳しいなか、歩いて帰らなければならなくなったからだった。


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