田井中律誕生日記念SS2016(must was the 2014)

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1 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/06(土) 21:39:37.47 ID:8onyAH8e0
 けいおんの田井中律の誕生日SSです。
本日から律の誕生日である8月21日にかけて、毎日更新で投下していきます。
(最終日は0時を跨いで迎えたいので、実質的には20日深夜までの予定です)

 なお、タイトルは2014年に投下したかったネタだけど2016年になってしまった、という自省です。
特に意味等はございません。


注意事項及び補足は下記

・直接的な性交渉はありません。
但し、マニアックな描写や際疾い描写が一部にありますので、
念の為にSS速報Rに投下しております。
閲覧の際はご注意下さい。

・地の文有り。

・長いです。

・全17章構成ですが、日に2章分投下する事もございます。



 その他、所謂「何でも許せる人向け」の内容ではございますが、
ご海容頂ける方は高覧下さると幸いに存じます。
 以下より本文です。
2 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/06(土) 21:40:49.54 ID:8onyAH8e0
1章

 この順番も彼女、田井中律で最後だった。
秋山澪は興味ない風を装って、
昔日から愛用している白いバラへと目を落としたまま聞いた。
だが、田井中律の明かしたスリーサイズは、彼女の体躯と照らして納得できる値ではない。
澪は手に持ったバラの白い花弁から、律の身体へと視線を移す。
そして上から下へ、続いて下から上へと、切れ長の瞳を往復させた。

 改めて見ても、自分の抱いた感覚に自信を深めただけだった。
やはり律の体型は、彼女が自ら申告した値を備えているようには見えない。
夏休みの部室に集う面々も、思いを同じくしているようだった。
澪を含む四人の視線が一点、律の胸部へと注がれる。

「何処見てんだよぉっ。言っとくけど、脱ぐと凄いんだからぁー」

 集った視線の意味を悟ったのか、律が喚いた。
スリーサイズを打ち明け合った場では、律の大胆な物言いも自然と溶け込む。
学期内とは異なる雰囲気が、話題にも口走った言葉にも見て取れた。

 夏休み前と今で違うのは、唯の席の斜め後ろの窓周辺だけではない。
休暇入りの直後に工事が行われたその窓は、見目に目立って装いを一新していた。
伴って、その周辺の家具の配置も僅かに動いている。
だが、インテリアの変化など些事に思える程、
夏休みが彼女達の精神に与えた影響は大きかった。

 夏季休暇に入って十日以上過ぎ、暦は八月に突入している。
多感な年頃にある彼女達の話題を夏休みが毒すには、充分な時間だった。
長期休暇は気分に開放を齎し、人気の少ない学校は部活に閉鎖性を齎す。
その双糸が、彼女達を際どい会話に導いたのだろう

「そんな、ムキにならなくてもいいじゃないですか。
私達だって正直に言ったんだから、律先輩も本当の事を言っていいんですよ?」

 澪達が属する軽音部の中で、唯一の後輩である中野梓が苦笑交じりに言った。
部員五人の中で一人だけ色違いの赤いタイが、
律と同じくらいにしか見えない胸元で結ばれている。
3 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/06(土) 21:42:12.48 ID:8onyAH8e0
「嘘なんかじゃないっ。澪やムギ、唯はともかく、梓には負けないんだからな。りっ」

 そう言って律が胸を突き出した。
胸に二つ尖る円錐の鋭角は、専ら梓のみへと向いている。
胸に鈍角の膨らみを盛り上がらせた紬や唯とは、張り合おうなどとしていなかった。
律も見目に明らかな分の悪さを理解しているのだろう。

 一方で、同程度の胸囲と思しき梓に対しては、対抗意識を剥き出している。
先輩としての矜持も透けて見えるようだった。
彼女に勝りたい気持ちが、律を詐称に走らせたのかもしれない。

「そぉ?ていうか、あずにゃんの方が少しだけ、大きく見えるような気もするけど。
少しだけ、ね」

 律や梓を構う好機と見たのか、平沢唯が茶化すような声音で割り込んだ。
唯は普段から、この二人へと頻繁に絡んでいる。
虐めと弄りは違うという思考の透けた、彼女なりの可愛がり方だ。

「もう。少しだけ、ってそんなに強調しなくてもいいじゃないですか」

 からかわれた梓が、棘のない穏やかな声音で唯に返す。
言葉とは裏腹に、律より上と認められた事で気を良くしているらしかった。
一方の律は不満露わに頬を膨らませ、唯と梓の胸部に険しい視線を送っている。

「駄目よー、身体の事をからかったりしたら。
りっちゃんに謝らないと、ね?」

 琴吹紬が唯を窘めた。
元々、律に甘い紬だが、それだけが擁護の動機ではないだろう。
紬自身、心無い人間から肥満だと嘲られる事が少なくない。
紬は虐めと弄りを同一視するらしく、そういった揶揄を許していないのだと推せた。

「えーっ?からかったりなんか、してないよー」

 唯が口を尖らせた。まだ、と頭に付ければ、その通りの発言ではある。
体型の事で茶化そうとしている態度を察せられ、紬が機先を制した。
それくらい、澪にも分かる。
4 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga sage]:2016/08/06(土) 21:43:28.87 ID:8onyAH8e0
「律も意地を張るなよ。大きければ良いって訳じゃないんだから」

 公平を期す訳ではないが、澪も律を諭しておいた。
唯は不満気だが、甘い物でも与えれば機嫌は直る。
だが、律は根に持つ性格だった。
紬の擁護を受けた今もまだ、瞋恚に燃えた瞳で唯と梓の胸を睨んでいる。
自分の主張が通らない事で、拗ねているのだ。

「意地なんて張ってないし。本当の事だもん」

 律は澪に対しても口を尖らせ反駁してきた。
反抗的な語勢が癇に障った澪は、バラの切っ先で律の口を指しながら睨み付ける。
生意気な態度も躾けてやらなければならない。

「まー、でも、大きければ良いって訳じゃないのは、その通りだけどー」

 途端に律は態度を軟化させ、澪の言を援用してきた。
惚れた側の弱みに違いないと、澪は所期の効果に内心で笑んだ。
付き合ってこそいないが、律は自分に惚れているという自信があった。
惚れた相手を前にして、真っ向から反目する度胸など律にはないだろう。

 それでも胸囲以外の事で迎合の姿勢を示すあたり、
律は主張の本旨を覆してはいなかった。

「あれー?りっちゃん、負け惜しみー?」

 唯は席を立って窓の前へと移動し、挑発的に胸を揺らしながら煽った。

 部室の窓枠のほぼ全てには、奥へスライドする方式の小窓が六つ装着されている。
唯の後方の窓も、夏休みの前までは例外ではなかった。
六つの小窓を一つの片開きの窓へと統合したのが、この夏休み初頭の工事である。
工事した窓の周辺は赤いビニールテープで囲まれており、
唯はそのビニールテープの作る四角い空間の中に位置を占めていた。

 目立つ場所に立ってまで律を挑発する唯の姿に、澪も呆れざるを得ない。
そこまでして、律に構ってもらいたいのだろうか。
5 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga sage]:2016/08/06(土) 21:44:24.74 ID:8onyAH8e0
「違うっての。事実じゃん。
大きいからって、唯は見せる相手も揉ませる相手も居ないじゃんかぁ。
サイズじゃないっていう、いい証拠だよ」

 律も唯の挑発を捨て置けば良いのに、彼女の掌の上で吠え立てていた。
自分の横槍が唯に付け入る隙を与えてしまっただろうか。
紬に任せておけば良かったかもしれないと、澪は思わないでもなかった。

 だが、律の胸は澪の肉欲をそそるに十分な用を為している。
自分に惚れているのなら、自分に対してだけ扇情的であれば良い。
婉曲であっても、その思いを宣せずには居られなかったのだ。

「そうだねぇ。でも、りっちゃんも居ないでしょ?
どうせ居ないなら獲得に有利な方、つまりは胸の大きい私の勝ちですなーあ」

 勝ち誇った笑みを唯が見せる。
対照的に、律の顔には悔しさが滲んでいた。

 そろそろ、唯の方を咎めるべきだろうか。
律を諭した所で、唯を調子に乗らせるだけだろう。

「もう。駄目よ、唯ちゃん」

 唯を叱ろうとした矢先に、紬が先行していた。
澪は出かけた言葉を、喉の奥へと押し戻す。
こういう役は、自分よりも紬の方が向いているとの判断からだ。
万事淑やかな彼女なら、場を荒立てずに唯も律も収められる。
そう思い、澪は黙って紬の次の言葉を待つ。

「居るもん」

 だが、澪の鼓膜を叩いた声は、穏やかな紬の声ではなかった。
激しい感情の籠もった、律の声音だ。
6 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga sage]:2016/08/06(土) 21:45:35.83 ID:8onyAH8e0
 紬と梓と唯の三様に呆けた顔が、一様に律へと向く。
彼女達と同じ表情を浮かべている自分の顔が、澪の脳裡を過ぎった。
律の言った事が理解できない。
それどころか、幻聴との区別さえ曖昧だった。

「彼氏、居るもんっ」

 呆けた澪達に突き付けるように、律が叫んだ。
それは空気を震わせて迫り、容赦なく鼓膜に叩き付けられる。
澪の中で現実と幻聴の区別が、別たれた。

「冗談、ですよね?」

 未知の物に触れるような口振りで放たれた梓の問いは、
取りも直さずに澪の嘆願を代弁していた。

 律が今まで自分に対して取ってきた、行動や言動の一つ一つが脳裏を巡る。
そこから恋情を汲み取っても、不自然ではないと思えるものばかりが。

「あーら、失礼な事言っちゃってぇ。
私にだって彼氏くらい居るし」

 だが、眼前の律は、澪の見通しを木端微塵に粉砕する発言ばかり続けている。
律から感じていた好意は、勘違いに過ぎなかったのだろうか。
或いは、勘違いさせられていたのか。
澪の自信が揺らぎ、変わって怒気が腹の底から湧いてくる。

「りっちゃんたら、逸早く抜け駆けしてたのね。いいなぁ」

 憧憬を滲ませた声音で紬が言う。
律を見つめる彼女の眼差しも、羨望に満ちていた。
澪には紬同様の態度で、律の発言を遇する事などできない。
落胆と怒りが視線に籠もらないよう、自分を抑えるだけで精一杯だった。
7 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga sage]:2016/08/06(土) 21:46:48.73 ID:8onyAH8e0
「えーっ?りっちゃんは私より先に彼氏を作ったりしないよねぇ?」

 唯が眉根を寄せて、律に問う。

「ふーんだ。胸ばっかり出てて度胸を出さずに、のろのろしてるからだ」

「りっちゃんの癖に」

 唯は頬を膨らませて、そっぽを向いてしまった。
拗ねた態度を隠そうともしていない。
唯にせよ紬にせよ、素直な反応だった。

「いや、やっぱりおかしいですって。
何で彼氏が居るって事、隠してたんですか?」

 梓も倣うかと思いきや、正面切って疑問を浴びせていた。
言われてみれば、と澪も胸中で同意する。
もし、律が恋人を作っていたのならば、自分が気付いているはずだ。

「隠してた訳じゃないって。別に訊かれてもいないのに、自分から言う事でもないからさ」

 梓に対しては、そうかもしれない。自慢のように聞こえて、宣する事は憚られるだろう。
だが、澪に対して一言も相談しないとは考えづらかった。
些細な事でさえ、律は澪の意見を求めてきている。
異性との交際など、澪に頼り切りの律が一人で処理できる事柄ではない。

 それ以上に、恋愛の当事者という重要な変化を遂げておきながら、
いつも傍に居る自分に勘付かれなかった事が不自然だ。
一体何時、逢瀬の刻を持ったと言うのだろう。

「隠れてなければ、気付くと思うんですけど。
そうだ、澪先輩。律先輩から彼氏が居るような素振りを感じたりしてました?」

 梓もそこに思い至ったらしい。
自分達はまだしも、澪には勘付かれるはずだ、と。
8 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga sage]:2016/08/06(土) 21:47:44.51 ID:8onyAH8e0
「おいおい、私に聞くなよ。
別に律なんかの一挙手一投足に注意を払ってる訳じゃないんだからさ。
どっかで男を誑してても、気付きやしないよ」

 澪は突き放すような語勢で答えた。
不自然な点を見つけたからと言って、澪の怒りは収まっていない。

「ほーら、澪先輩だって気付いていないみたいですよ。
で、何で隠してたんですか?それとも」

 梓は意味深に言葉を切ると、細めた目で律を見つめた。
律の事など興味がないと澪は言った積もりであったが、梓の受け取り方は異なっている。
自説に有利な部分だけ抽出し、律への詰問に充てていた。

 律に恋人ができると、梓にとって不都合な事でもあるのだろうか。
そう思わせる必死さが、彼女の論法に見え隠れしている。

「いいじゃない、きっと恥ずかしかったのよ。
大丈夫よ、りっちゃんの彼氏さんなんですもの。いい人、なのよね?」

 浮かれていた調子から一転、紬が声を引き締めて問うた。
同時に、梓の瞳が真剣さを帯びる。
澪も梓の真意を理解した。それは間を置かず、共感へと変わる。

 梓は律が悪い男に誑かされていないか、心配なのだ。
箱の外に疎い律が男を選るに当たり、自衛まで見据えられるとは考えづらい。
逆に、甘言に釣られてしまう危うさがあった。

「うん。いい人だよ。ダァったら、恰好良くって、頭も良くって、スポーツも得意なんだ。
優しくて甘やかしてくれるし、お姫様みたいに扱ってくれるんだけど、
でも、恥ずかしい事もやらせてきたりして。
うん、辱めてきたりもする、サディスティックな面も持ってて。
りーっ」

 言っているうちに恥じ入ったのか、律は赤く染まった顔を両手で覆って呻く。
9 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga sage]:2016/08/06(土) 21:48:38.43 ID:8onyAH8e0
「それ、りっちゃんの願望?そんな都合の良い人、居ないよねぇ」

 唯にしては珍しく、世間の人間像に拠った意見だった。
だが、当事者の心理状態にまでは寄り添っていない。
痘痕も笑窪。
欠点が多く長所の少ない相手でも、強烈に惚れてしまえば完璧な人間像をそこに見る。

「そうですか?なんか聞いてて、澪先輩みたいな人だなって思いましたけど。
律先輩には、澪先輩みたいな人が似合うかもしれませんね。
実際、似ているんですか?」

 邪気のない梓の声に、澪の心臓が跳ねた。
自分だけが律に似合っている。
それは、澪が長らく確信してきた命題だ。

「はぁ?全っ然っ違うし。何を聞いてたんだよぉ」

 律は梓の謳ったテーゼに、偽と回答するらしい。
殊に、喚き散らす強い語勢が、澪の癇に障った。
そこまで嫌なのか、と詰め寄りたくなる。
澪の気分をこの上なく害す、生意気で反抗的な態度だ。

「ああ、全く以って似てないな。大体、私がこんなのをお姫様扱いするか。
優しくする気にも、甘やかす気にもなれないな」

 澪は怒りの侭に言い放つ
尖る言葉も刺す語調も構わずに突き放してやった。
律の強張る顔を見ても、溜飲は下がらない。
その頬を張ってやったら、少しは怒気も収まるだろうか。
このバラの白い花弁が赤く染まるまで傷付けてやったら、気も晴れるだろうか。
いっそ、押し倒してしまおうか──
10 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga sage]:2016/08/06(土) 21:49:45.50 ID:8onyAH8e0
「いや、あの。似てるって言っても、完璧な所が、って意味で。
澪先輩、恥ずかしい事とかはやりたがらないし、やらせたりもしませんものね」

 律と澪の反論の勢いが予想外だったらしく、梓は慌てたように言い繕っていた。
悪意のない軽口を咎めた形になって、澪も決まりが悪い。

「ああ、分かってるよ、冗談だって事くらい。
第一、私は完璧じゃないからな」

 澪は朗らかに笑って、詫びに代えた。
反面、笑顔の裏に隠した心中で呟く。
唯の言うように律の願望であるならば、恥ずかしい振る舞いを強要するに吝かでない、と。

 一方の律は発言を繕う事なく、黙ったままだった。
自然、話の流れに間が訪れる。

「ねー、りっちゃん。その彼氏とは、いつデートしてるの?」

 話の切れ目に唯が割り込んで、話題を変えてくれた。
尤も、雰囲気の軟化に加勢した訳ではないだろう。
間が空く機を見計らうかのように、唯は律から視線を逸らしていなかったのだから。

「いつって。そりゃ、時々、としか。学校も部活も、唯達との約束もない時にしてるんだよ」

「ははぁ。ヤリ目ですなぁ。遊ばれてたりして?」

 唯の言葉に、特徴的な紬の眉根が眉間に寄る。
そして梓と律の反応は、殊に顕著だった。

「唯先輩っ?」

「はぁっ?どういう発想だよぉっ。信っじらんないっ。唯ったら何なのよ、もー」

 梓は唯の名を叫んで固まり、律は忙しく言葉を並べて抗議している。
11 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga sage]:2016/08/06(土) 21:51:14.79 ID:8onyAH8e0
「いやぁ。だって、私達と居ない時って言うと、夜でしょ?
その時間なら、やる事は決まってるよねー?
脱いだら凄いんだもんね?」

 唯は律と梓の反応を楽しむように、二人を窺いながら言った。
唯は本当に、恋人が居るという律の話を信じていないようだ。
故に、恋人が居るように繕う律と、それに釣られて右往左往する梓が愉快で堪らないらしい。

「何言ってるんだよ。部活だって毎日ある訳じゃないし。
そういう時に毎回、澪と会ってる訳じゃないんだよ。
空いた日にデートしてるのっ」

 律も唯から信じられていない事を認識したのか、返す言葉に苛立ちが篭っている。

「夏休みはいいけど。学期中は大変だったよねー。
私達と会わない休日の日中に、誰の目にも付かずにデート、だもんね」

 唯が楽しげな笑みを崩さぬまま言った。
唯は虚言を証す材料を、一つ明かした気で居るらしい。

 だが、決して白昼に逢瀬を重ねられる日がなかった訳ではない。
第一、唯の推量は、昼の逢瀬の困難さを指摘しただけに終わっている。
唯が冗談交じりに言及した、夜に会って褥を共にしている可能性は残り続けるのだ。

「あーら、仰る通り、大変でしたのよーだ。
でももう、周知の話になっちゃったから、予め言わせてもらうからね。
今月の私の誕生日だけど、部活休む。ダァとデートするんだもん」

 皮肉の込もった声音で唯の言葉を肯んじた後、
律は一転させた毅然たる声調で逢瀬を宣していた。
嘘を尤もらしく見せる方便かもしれないし、
本当に恋人と誕生日を共に過ごすのかもしれない。
澪は判断の量りを一方に傾かせる事ができぬままだ。
12 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga sage]:2016/08/06(土) 21:52:24.25 ID:8onyAH8e0
「あっ、やっぱり誕生日は彼氏とだよねー。いいなー。
そうだ、りっちゃんや、周知になった序に、一つお願ーい」

 唯が勿体ぶった声音を靡かせ、律の顔を覗き込んだ。
唯は愉快な事を思い付いたらしく、口元が緩んでいる。
推量を働かせるまでもなく、唯にとって”は”愉快な事に違いない。

「お願いって、どんな?」

 唯の口から何を頼まれるのか。律は慎重な口調で問うていた。
眇めた目と引いた顎にも、律の警戒が表れている。

「そのデート、私達も影から見てていい?」

 大胆な要求に、澪は呆れる外なかった。
恋人の存在が偽であれ真であれ、律が呑むはずなどない。
偽にベットしている唯は、不可能な要求で律を困らせたいのだ。
そこは澪も理解しているが、唯の戯れは度を越しているとも思う。

「まぁ、素敵ね。私もりっちゃんの彼、見たいなー」

 律が言葉を失くしているうちに、紬も便乗の声を上げていた。
唯が律の身体面の特徴を笑いの種にしていた時とは違い、
彼女の過ぎた戯れを叱ろうとはしていない。
それどころか、加勢さえしている。
厳格な道徳心を所作で示す事はあっても、紬も年頃の少女なのだ。
同級生の浮いた話に、無関心で居られるはずもない。

「ええ。私も見に行きたいです。
勿論、ちゃんとした方だとは思っていますけど」

 梓までも同調を示した。
紬を向こうに回した痛手の律に、包囲となって襲い掛かる。
13 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga sage]:2016/08/06(土) 21:53:22.68 ID:8onyAH8e0
 尤も、二人とも律の敵ではない。
紬は律の話を信じており、そして梓は律を心配している。
律に対する害意は欠片もなく、好意から出た言動に他ならなかった。
ただ、好意が必ずしも本人の意向に沿うとは限らない。
目下の律を見舞う四面楚歌も、そこに列せられた一例に過ぎないのだ。

「いやいや。普通に考えて、変だって。
普通、デートなんて友達に見せるものじゃないよ」

 律は常識を盾として、彼女達の要求に抗っていた。
だが、便乗した二人はともかく、発端の唯は始めから理不尽な強請りだと分かっている。
からかう事が目的なのだから、正論で構えても引き下がらせる効果は期待できない。

「えー?りっちゃん、あんなに自慢してたじゃんかー。
自慢のダァ……プッ、を見せびらかす良いチャンスだよ?
それともまさか、嘘って事はないもんねー」

 唯が意地悪く煽る。
嘘である可能性に言及した辺り、追い込みの段階に入っているのだと察せられた。

 ここが正念場だと、澪は固唾を呑んで見守る。
もし律が唯の要求に従うのなら、自分の負けだ。

「嘘ならまだいいんですが……」

 語尾を濁していても、梓の言いたい事は察せられた。
自分達を心配させないが為、不幸な恋愛を隠そうとしている。
そう懸念しているのだろう。
14 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga sage]:2016/08/06(土) 21:54:33.79 ID:8onyAH8e0
「りっちゃん、嘘なんかじゃないわよね?
本当に居るもんね。見せて、安心させてあげましょうよ。
それに」

 紬が律を励ますように言った。その口は、まだ閉じていない。

「見返してあげないとね」

 続け様、紬は唯を一瞥して付け加える。
察するに、唯に反発を感じていたらしかった。
恋愛への興味を捨てきれないが、さりとて律をからかう唯も捨て置きたくない。
その二つの思いが胸裏で鬩ぎ合った結果。
律の逢瀬を見物するという結論で止揚したのだろう。

 三人が三様の感情を込めて、律へと迫る。
澪は無関心を装いながらも、律の言葉を待っていた。
律が応じれば敗北だ。否んでくれれば、嘘の可能性に縋る事ができる。

 嘲笑と心配と激励。源は異なっていても、律に向けられた要求は一つだ。
その単純な問いを受けた律の口が、開いた。
声が、唇の隙間から漏れ出て、澪の鼓膜に、届く。

「いいよ、いいじゃないの。見せてやろうじゃないの。
そんなに見たいなら、後学に供してあげる。
私達のデート、見せ付けてやるんだから」

 鼓膜を叩いた振動が増幅されて、澪の回路を伝動する。
脳に収める事のできなかった大きな衝撃は、
胸にまで突き抜けて澪の願いを無残に破壊した。

 居ない相手との逢瀬を見せる事はできない。
見せると宣言した以上、律には恋人が居るという事だ。
第一波を取り乱さず凌いだ澪に、その思考が追い討ちを掛ける。
受けた驚愕が大きかっただけに、論理による理解が後を追っていた。
15 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga sage]:2016/08/06(土) 21:55:48.79 ID:8onyAH8e0
「ええっ?ほんとにほんと?本当に、りっちゃん、彼氏居るの?
で、しかも見せてくれるの?楽しみー」

 唯の変わり身は早い。
律に彼氏など居ないと決め付け、からかった事を恥じ入りもせず、
律の逢瀬に期待を膨らませている。
澪は呆れる反面、唯の気持ちの切り替えの早さが羨ましくもあった。

「ほら御覧なさい、私の言った通りでしょう?
でも、私も楽しみよ。りっちゃん、勉強させてもらうわね」

「期待ばかりもしていられないですよ。
本当に律先輩に相応しいかどうか、見極めなきゃいけないんですから」

 紬の声は緩んでいたが、追う梓の声には気負いが篭っている。
梓の言う通りだ。落胆ばかりもしていられない。
律に値する人間か否か、律の恋人を見定めなければならない。

 分かっている、なのに──。
それが自分の最後の役目だと言い聞かせても、気力が湧いてこない。

「あっ。言っとくけど、邪魔は駄目だからな。
見せるって言っても紹介とかしないし、陰に隠れて遠くから見てるんだぞ。
それが条件だもん」

 澪が黙っている間に、律は話を進めていた。
提示された条件に、唯が真っ先に胸を反らして開口する。

「勿論だよ、分かってる分かってる。
りっちゃんの邪魔なんて、野暮な事しないよ」

「唯が一番心配なのっ。
不自然っていうか不審なんだから、ダァに見付からないようにしてろよ。
知り合いだと思われたくないし」
16 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga sage]:2016/08/06(土) 21:57:10.62 ID:8onyAH8e0
「酷いー、りっちゃんが私をお荷物にするー。あんなに仲良かったのにー。
あずにゃんや、りっちゃんは男が出来て変わったねぇ。
友情よりも男なのかねえ」

 律に要注意を宣された唯が、芝居掛かった声音で戯けた。

「もうっ、ふざけないで下さい。
でも、同性の交友関係にまで口出しするような人なんですか?」

 梓が眉を顰めて問う。

「違うっての。たださ、まだ皆に紹介とかは早いと思うし。
だから、観察されてる所を見付かると、言い訳が利かないんだよねー。
大体皆、見た目は、いいからなー。心移りされたくないし」

 律こそ”見た目は”佳い。
だが、過度に我儘で極度に依存症な彼女の内面を、
自分以外に包容できる人間が居るとは思っていなかった。
否、今も思っていない。
──だから別れろ今すぐに。

「見た目は、って何ですか。何でそこ、強調するんですか」

 梓は怒ったような顔をしているが、見目をそやされて悪い気はしていないのだろう。
澪とは対照的な垂れ気味の目元が緩んでいる。

「その見た目にしても、りっちゃんより上なんて存し得ないと思うの。
でも、お邪魔はしないから安心してね。
見つからないように、彼とのデートを眺めてるから。
あ、そうだ、まだ伺っていないんだったかしら。その人のお名前は?」

 前置きした言葉に遠慮の心を代弁させて、紬が問う。
恋愛の話に最も目を輝かせていた彼女の事だ、
本心では万に渡る質問を向けたいに違いない。

「え?名前?名前はー」
17 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga sage]:2016/08/06(土) 21:58:33.37 ID:8onyAH8e0
 焦らすように、律は間を置いた。
「勿体ぶるな」と怒鳴りたくなるが、澪は堪える。

「さんぅ゛だよ」

 苛立っていたせいか、澪には律の返答の一部が不明瞭に聞こえていた。
う段の濁音だと当たりが付いたものの、意味する一語に辿り着けない。
だが、言い直すように求めて、関心があるように思われる事も癪だった。

「サンジュ?」

 唯も聞き取り辛かったらしく、図らずも訊き返してくれていた。
聞く側の問題ではなく、律の発音からして不明瞭だったのかもしれない。

「違うよ、サングだよ、サング。
漢数字の三に旧字の玖を書いて、三玖」

 今度は聞き取れたが、姓名のどちらかまでは分からない。

「へー。変わった名前だねぇ。
で、そのサング君とのデートなんだけど、私達は何処に何時頃に行ったらいいの?」

 唯は呼び名が付いただけで満足したらしく、具体的な計画へと話を進めている。
唯はより興味を惹く対象がある限り、些事には頓着しない。
それは集中力を一方向に傾けられる長所である反面、注意が散漫という短所でもあった。

「まだデートの行き先さえ決めてないよ。香港行けたらなー、とは思うけど。
絶佳の夜景を眼下に、ダァと恥ずかしい事しちゃったりとか。おかしぃし、りーっ」

 律は願望を並べた挙句、勝手に恥じ入って顔を真っ赤に染め上げてしまった。
いつもなら愛でられる律の仕草も、今となっては癇に障る。
律を茹でている者が、自分ではないからかもしれない。
18 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga sage]:2016/08/06(土) 21:59:40.80 ID:8onyAH8e0
「りっちゃん、乙女ねー」

 上気した頬に手を添えて、紬が呟く。

「で、現実は?」

 対して、梓は容赦がない。
ロマンチシズムには目も呉れず、プラグマティックに有用な情報だけを求めていた。

「ん、国内のそんなに遠くない所だと思うよ。ダァに決めてもらうんだ。
でも、映画みたいなデートにはしたいな。誕生日なんだし」

 現実的な答えを返しつつも、恍惚の念が抜け切った訳ではないらしい。
映画を模したいという望みに、理想への未練が透けていた。

「じゃあ、りっちゃん。こうしよう。プランが決まったら、私達に連絡頂戴ね。
私達も二十一日は空けておくから。それでいいよね?」

 惚気るばかりの律に痺れを切らしたのか、唯が音頭を取って提案した。
唯は遊ぶ段になると手際がいい。
マイクパフォーマンスにも活かして欲しいと、澪は度々思ってきている。

「うん、それがいいと思う。詳細が決まり次第、改めて連絡するね」

 律は素直に頷いた。
紬と梓も唯々諾々と頭を縦に降っている。
提案への応否を確認する唯の視線が、その三人の頭上を当然のように通過して──
一人、追従の動作を取らなかった澪の前で止まる。

「澪ちゃんも来るよね?」
19 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga sage]:2016/08/06(土) 22:00:48.13 ID:8onyAH8e0
「澪は来ないよ」

 澪が口を開くよりも早く、律が唯に答えた。

「澪、私なんかに関心ないもん」

 無関心な澪に拗ねているような口振りで、律が付け足した。
澪は律のこういった態度に、今まで幾度も遭遇してきている。
そしてその度、自分に気がある素振りだと解してきた。
だが、他に彼氏が居る以上、単なる我儘でしかなかったらしい。
律は興味のない相手からでさえ、常に注目されていないと気が済まないのだ。
度を越した主我の強さに、腸が溶鉱炉の如く煮え滾る。

「ああ。律のデートなんかに関心はないな。
その日は、家でロメロゾンビでも観賞しているよ。
よっぽど有意義だ」

 澪は誰とも目を合わさずに吐き捨てる。
逢瀬への同行に気乗りしなかった事は確かだが、
律への怒りが澪の態度をより硬化させていた。
裸に剥いた律を磔刑に処し、遍く衆人に公開してやりたい。

「澪先輩?何かあったんですか?」

 梓が不審そうに訊ねてきた。
目敏い彼女は、澪の放った棘のある言葉を見逃してはくれない。

「別に、何もないよ」

 努めて穏やかに澪は返す。笑みも添えてやった。梓に罪はないのだから。

「そうですか」

 納得した訳ではないだろうが、梓は引いてくれた。
澪が律を突き放す事など、茶飯事ではないが初めてでもない。
不審は買っても追及まではされない、その程度には些事でもあった。
20 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga sage]:2016/08/06(土) 22:02:02.75 ID:8onyAH8e0
「じゃあ、話も付いた事だし。そろそろ練習しようか」

 気持ちを切り替えようと、澪は立ち上がった。
先程、澪が同行に同調しなかった仕返しではないだろうが、誰も倣おうとはしない。

「えー。今日はもう、帰ろうよー。
いっぱいお話して、衝撃的な事実を聞いちゃったから、疲れちゃったよ」

「インパクト、大きかったですものね」

 怠惰な唯が口を尖らせただけではなく、勤勉な梓までも帰宅に与する声を上げていた。
確かに、澪も気疲れしている。

 加えて。律へと棘のある声音を向けた直後だけに、周囲と態度を違える事は憚られた。
立て続けば、不審は追及に至る。

「しょうがないな」

 澪も周囲に合わせ、ティーカップを手にシンクへと向かった。

*

21 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga sage]:2016/08/06(土) 22:03:36.50 ID:8onyAH8e0
>>2-20
 本日はここまでです。
また明日、よろしくお願い致します。
22 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [sage]:2016/08/07(日) 17:33:58.27 ID:CcCrXnESO
期待
23 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/07(日) 21:14:08.71 ID:KqyK4dU00
こんばんは。
>>20の続きを投下します。
24 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga sage]:2016/08/07(日) 21:15:12.92 ID:KqyK4dU00

*

2章

 澪は唯達とは横断歩道で別れた。
紬は先に駅で見送っている。
ここから先は、律と二人きりだった。

 先程とは打って変わって、律は黙りこくって歩いている。
皆で歩く帰路の途中、唯に囃されて喧しく応じていた姿はもうなかった。

 澪も倣って、律に話し掛ける事はしなかった。
聞きたい事なら山ほどある。
だが、自分から話し掛ける事は、焦らし合いに負けるようで嫌だった。
澪は律の方を見ようともせず、手に携えた白いバラばかりに焦点を置いて歩く。
反面で、律の傍を離れて一人で帰る事もできなかった。

 無言のままで帰路の道程を消化し、家が近付いてきた。
この気詰まりする関係を、明日の部活に持ち越したくはない。
意地など張らずに譲歩して、何か話し掛けるべきだろうか。

「ねえ」

 言葉を探していた澪に、律が話し掛けてきた。
視線を向けると、弱気な表情を浮かべた律が映る。
いつも澪の譲歩を引き出してきた、見捨てる事のできない顔だ。

「今からうち、来てくれない?
どうしても澪にしておきたい話があって」

「ああ。このまま行くよ」

 律に対する怒りが収まった訳ではないが、突き放せぬままに澪は諾した。
加えて。何時になく真剣な表情の律が言う、話の内容も気になっている。
深刻な問題を抱えていなければいいが、と思わずには居られなかった。
.
25 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga sage]:2016/08/07(日) 21:16:07.07 ID:KqyK4dU00
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 澪を部屋に招じ入れた律の瞳が潤んでいる。
深刻な話なのだろうか。梓の危惧した通り、サングとの関係は不幸な恋愛なのかもしれない。

 澪は身構えながら問い掛ける。

「で。話ってのは、何なんだ?」

「実は……みーおー」

 律は澪の名を叫びながら、飛び付いてきた。
澪は小さなその身体を受け止め、髪を撫でてやる。
彼女の一部に触れた指を優しく動かすだけで、落ち着きを取り戻していく律が愛おしい。
自分が守ってやらなければならないと、澪の使命感を改めて呼び起こす反応だ。

「何があったんだ?もう怖がる必要はないから、言ってごらん?
サングとか言う野郎に、何か不本意な事でもされているのか?」

 律を安心させるよう努めて穏やかな声で、それでもサングに対する怒りを隠す事なく。
澪は律を促した。

 澪に導かれ、律は意を決したようだった。
埋めていた顔を上げ、口を開く。

「実はね。その話なんだけど……私の嘘なの。
彼氏なんて、本当は私、居ないの」

「えっ?」
26 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga sage]:2016/08/07(日) 21:17:17.86 ID:KqyK4dU00
 澪は自身の耳を疑い、次に自分の正気を疑った。
律を独占したい欲心が産んだ、幻聴だろうか。
現実の律の声ではなく、願望の律の言葉を聞いたのではないか。

 胸を引く小さな力が、澪を正気に引き留める。
律が澪の胸部を引っ張ったのだ。
まだ聞いて欲しい話があると、非力な律が健気にも澪の関心を引いている。
澪は確かに現実の律の声を聴いていたと、その小さな動作が証していた。

「居ないのに、居るって言っちゃって。
どうしよう。デートなんて、見せられないのに」

 律はそれ以上を口にせず、涙ぐんだ瞳で澪を見上げてきた。
察して欲しいと、甘えている。

 後を引き取って、澪は言う。

「じゃあ、何で約束なんてしちゃったんだよ。
唯もムギも、楽しみにしていたぞ。
梓なんて、本当に心配ちゃってたし」

 安堵が声に出ぬよう、澪は詰責の体で言葉を紡いだ。
嘘との報に胸を撫で下ろした反面、律に踊らされた憤りもある。
心労を費やさせた虚言に、全面的な擁護の姿勢で臨みたくはなかった。

「だって。唯が意地悪ばっかり言うんだもん。
サイズも信じてくれないし。
それで意地張っちゃって、後に引けなくなってって。りー」

 律は尖らせた口で言い募ると、頬を膨らませて唸った。

 一つの嘘を取り繕う為には、更に多くの嘘を要する。
そうして気付いた時には、雪だるまのように膨らんでしまっているものだ。
律も虚言を通そうと詐言で膨らませた結果、
吐いた本人のコントロールを離れてしまったらしい。
27 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga sage]:2016/08/07(日) 21:18:28.16 ID:KqyK4dU00
「どうだか。本当は居るんじゃないのか?
今更怖気付いてないで、見せてやれよ」

 事情は呑み込めたが、ここでも澪は突き放した。
嘘であっても、恋人が居るなどと口走った罪は重い。
自分への恋情を隠している事と併せれば、許し難いものだ。
律が潔白を証さずして、澪も安易に協力などできない。

「居ないっ、私、本当に彼氏なんて居ないのっ。
澪まで私の事、虐めないでよ」

 涙交じりに喚く律の必死な姿を、澪は冷めた目で遇してやった。
煽る意図を零下の視線に隠している。
自分に信じてもらう為、狂乱の醜態を晒す事さえ厭わない律が愛おしい。
貪欲にそして冷酷に、澪は律から必要とされる実感を欲していた。

「やだ、やだ、やだっ。みーおー、どうして?どうして?どうして?
どうしてそんな意地悪するの?見捨てないでよ、みーおー。
そうだっ。携帯っ、メールの受信フォルダ見てよ。
通話ログもアプリの履歴もLINEのログも」

 律はスマートフォンを差し出してきたが、澪は受け取らなかった。
必要ない。もう充分、否──やり過ぎだ。

 代わりに澪は、涙に濡れた律の頬をハンカチで拭ってやった。
目元も軽く抑えてハンカチに吸水し、霞んだ視界に自分の姿を取り戻させてやる。
明瞭となった律の瞳に映す顔は、穏やかな微笑だ。

「ごめんな。律の言う事を信じてるから、泣かないで。
それに私、初めから分かってたんだ。律に男なんて居ないって事」

 優しく言ってやると、律も安心したらしくスマートフォンを引っ込めた。
澪も倣ってハンカチを仕舞うと、空いた手で律の髪を撫でてやる。
28 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga sage]:2016/08/07(日) 21:19:34.30 ID:KqyK4dU00
 本当は、分かってなどいなかった。
事実、部活中は律の恋人の有無を判じかねて、苦しい時を過ごしている。
その鬱憤も相俟って律に意地悪く当たったのだが、度を越していたと澪は自省していた。

 どうせ律を見捨てられないのなら。
自分の怒りなど度外視して、始めからこう言ってやれば良かったのだ。

「明日、一緒に梓達に謝ってあげるから。
それで、デートの話は無かった事にしてもらおうな。
もし唯が笑ったりしたら、私が怒ってあげるから」

 用意していた言葉を、そして恐らくは律が最も欲しているであろう言葉を、
澪は告げてやった。
律が安堵し歓喜する顔を、脳裏に浮かべながら。

 だが、眼前の律の表情は、予想と異なっていた。
満足していないように、首を振っている。

「どうした?律。私と一緒に謝るのは嫌なのか?」

 心外な律の態度に戸惑いながら、澪は問い掛ける。
一人で決着を付ける積もりなのだろうか。
律にその度胸がない事くらい、澪は知悉している。
現に、嘘だと言い出せないからこそ、ここまで話が大きくなってしまったのだ。

「違うの。唯達に、嘘だってバレちゃうのは嫌なの。
馬鹿にされるに決まってるもん」

 律は唯の態度に怒り心頭らしく、すっかり臍を曲げていた。
29 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga sage]:2016/08/07(日) 21:20:35.01 ID:KqyK4dU00
「おいおい。かと言って、このまま誤魔化せはしないぞ?
それとも、今からデートを見せない方向に持って行くつもりか?」

 それが難しい事くらい、発言した澪自身も分かっている。
紬は兎も角、心配する梓を納得させる事は骨が折れそうだった。
唯も律の恋人の不在を再び疑い出すかもしれない。
素直に虚言だと認めて謝ってしまう事が、最上の策なのだ。

「んーん。デートだって見せるよ」

「どうするんだよ。だって、男なんて居ないんだろう?
見せようがないじゃないか」

 不安に駆られながら、澪は言う。
嘘を本当にしてしまわないか、心配だった。
今からでも恋人を作ってしまえば、誕生日のデートに間に合わせる事ができる。
それだけは、何としても阻止しなければならない。

 その時、律の指が動いた。
拳の中で人差し指だけが立って、澪を向く。

「りっ」

 澪を指し示すと同時に、律が短く鳴いた。
澪の心臓が跳ね上がり、胸板を内側から激しく叩く。
間違いなく律は、自分を指名している。

 告白、なのだろうか。
追い詰められての事とはいえ、遂に告白する勇気を律が持ったのだろうか。
澪は確認の意を込めて、自分を指差しながら言う。

「私?」

 肯んずるのか、逃げるのか。
緊張を体の中に抱え込んで、返答を待つ。
30 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga sage]:2016/08/07(日) 21:21:40.24 ID:KqyK4dU00
「そう、みぃお。お願ーい、みーおー。男装して、私の彼氏の役やってよー」

 素早く答えた律の言葉は、澪の期待を瞬時に剥落させた。
脱力と落胆に苛まれながら、澪は律を見遣る。

「何言ってるんだよ」

 緊張の反動は大きく、返す澪の声調を無愛想に染めていた。

「だって、そうするしかないじゃん。他に頼める人居ないんだから。
澪って丁度、その日、私のデートを見に来ない話になってるし」

 丁度、などと偶然であるかのように律は表現しているが、
澪が見に来ないと初めに宣した者は紛れもなく律だった。
思えば、律はこの策を実行する為に、澪を唯達との同行から遠ざけたのかもしれない。

「策士だな。でも、バレると思うぞ」

 生半可な変装で、唯達の目を誤魔化せるとは思えない。
それだけの日々を、彼女達とも過ごしている。

「大丈夫だよ。長髪で胸板の厚い彼氏、って事にしておくから」

 律は甘い見通しを述べているが、決して楽天家ではない。
澪ならどのような無理難題でも叶えてくれる、という信頼の表れなのだ。
否、信頼の表れと繕うよりも、過度の依存の結果だと換言した方が正鵠を射る。

「乳房まで筋肉で出来てる訳じゃないんだぞ」

 澪は呆れながら言う。固い筋組織で構成されているのではなく、柔らかい脂肪だ。
だが、柔らかいからこそ、コルセットで締められる。その外観は筋肉に似るだろうか。
31 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga sage]:2016/08/07(日) 21:22:41.84 ID:KqyK4dU00
 気付けば、律の望みを叶える方向で考えていた。
澪は流されそうな自分を取り戻すべく、自論を述べ直す。

「正直に謝った方がいいと思うよ。さっきも言ったけど、私も一緒に謝るからさ。
梓は安心するだろうし、ムギだって許してくれるよ。
唯が笑うようなら、きつーく叱り付けてやるし」

「嫌っ」

 澪が全面的に助勢すると宣しても、律は強情な姿勢を崩さなかった。

「何で、そんなに意地を張るんだ?
元はと言えば、嘘を吐いたのはお前の方なんだぞ?」

 唯に誘導されていった以上、全面的に律を責める気にはなれない。
それでも結果として、律が嘘を吐いた事実は存するのだ。
責任は取らねばならないだろう。

「だって。ムギの言う通り、失礼な唯を見返してやりたいもん」

 律が眦を決して言う。
唯に対する憤りの念は、澪にも共感できた。
調子に乗る唯を看過して、剰え勢い付かせてしまった責も感じている。
律がそこまで言うのなら、意思だけでなく行動も同じくして良いかもしれない。
何より、偽装とは言え律と同伴できるのだ。
考えてみれば悪くはない。
32 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga sage]:2016/08/07(日) 21:24:01.94 ID:KqyK4dU00
 いや。考えて、澪は気付いた。
仮に成功した所で、その結果は軽視できないものになる。
澪にとって、致命的な不都合が生じてしまうのだ。
否んでしまおうと、自身の心が呟いた時。
別の声が、鼓膜を叩いた。

「ぐすっ、みーおー、お願いだよー。
こんな我儘な事頼めるの、みぃおだけなの。助けてよ、みーおー」

 瞳の端に涙を溜めた律が、澪の名を連呼して嘆願していた。
振り切る事など、出来やしない。
ましてや、意地の悪い問いを放って虐めてしまった負い目もある。
詫びも兼ねて、律の我儘は極力叶えてやりたい。
致死に等しい不都合を承知で、澪は言う。

「分かったよ。当日はお前の男を装って、エスコートするよ」

 律の表情が翻った。

「ほんとっ?みぃお、引き受けてくれるの?
わっ。みぃおが男装するなら、すっごいイケメンになれるよ。
ふふーん、唯を見返して、羨ましがらせてやるんだから」

 顔を嬉笑に綻ばせた律が、悦喜の言を連ねて舞う。
泣き顔から一転した燥ぎように、澪は苦笑せざるを得ない。

「浮かれるのもいいが、バレないように気を付けろよ。
デートする時の私は澪じゃなくて、サングだからな?」

「分かってるよ。みぃおの方こそ、バレないように気を付けてよ?
髪とか胸とかの、男子にしては不自然な容姿は、
予め私の方で言い繕っておくけど」

 律は乗り切れる目算を立てているようだが、
澪には露見の可能性を軽視しているように思えてならない。
楽観は禁物である。入念に準備を整える必要があるのだ。
33 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga sage]:2016/08/07(日) 21:25:14.83 ID:KqyK4dU00
「律の狙いは分かるよ。
不利な事は先回りして言っておく事で、言い訳が利くように仕向けたいんだろ?
でも、言を弄して策する段階で襤褸が出たら、元も子もないぞ。
彼氏の容姿には言及しない方がいい。梓が言った事、忘れたのか?」

「梓?私が心配みたいで、色々言ってたけど」

 律は梓の放ったどの言葉を澪が指しているのか、判じかねているようだった。

「私みたいな人を想像した、とか言っていただろ?
それは軽口だったんだろうけど、連想する種はあるんだ。
下手に私に近い外見を上げてしまうと、軽口が疑いに育ちかねない。
分かるな?」

 梓が言い放った直後、当の律が否定した発言だ。
躍起になった激しい応酬は、今でも鮮明に思い出せる。

「そっか。策の段階で下手を踏んだら、余計に危なくなるもんね。
その場で詰問されるにしても、疑いの目でデートの見物に臨まれるにしても。
分かったよ。自分からは言わないし、もし唯達から彼氏の外見に質問されても、
当日のお楽しみ、って答えておくね」

 律は納得したらしく、澪の論を咀嚼の後に嚥下していた。

「その当日にしても、過度の心配はするな。幾らでも誤魔化せる。
髪形を変えるだけでも、印象は随分と変わるからな」

 澪はそこまで言うと、笑みを浮かべて付け加える。

「前髪を下ろしたお前みたいにな」
34 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga sage]:2016/08/07(日) 21:26:07.88 ID:KqyK4dU00
「もうっ。澪だって髪を結んだら、別人みたいになるくせに。
大体、気を付けるのは髪だけじゃないんだからねっ。その大きな胸を抑える事を考えてよ」

 拗ねたように噛み付いてくる律の頬が、仄かな恥じらいの色に染まっている。
律が髪を女の命と見立てている事は、
友人として過ごしてきた時間の中で澪も気付いていた。
それだけに、髪が関わると律は繊細な反応を見せる。
今も証した通りだ。

「分かってる、これだって抜からないよ。
律も当日、襤褸を出すなよ」

「澪の方こそ、当日はロサ・ブランコを手に持ったりしないでよ?
白いバラを持ち歩いているのなんて澪くらいなんだし、澪だってバレちゃうからね」

──ロサ・ブランコ

 バラの種名である。
普段から携えているほど、澪はこの白い薔薇を気に入っていた。
強靭かつ高貴で気高い特性が、花弁の美しさと相俟って澪を惚れ込ませている。

 非常に硬い茎に有した鋭利な棘は、ダンボールさえも容易に貫いてしまう。
柔肌で棘に触れようものなら、一溜まりもなく皮膚を切り裂いて流血に至る。
花弁も強靭であり、生半可に力を加えても形が崩れる事はない。
花弁の白色は多色に馴染み易く、浸す染料の色を忠実に映す。

 そして花言葉は『道無き道』。
鋭い棘々の屹立する険しき茎を登れる者だけが、美しく香り高い花弁に辿り着ける。
転じて、掲げたる高き目標に向かい、
困難でも怯まずに立ち向かって行く勇士を称揚するモチーフとしても名高い種だった。
35 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga sage]:2016/08/07(日) 21:27:03.03 ID:KqyK4dU00
「言われるまでもないよ。サングの正体が私だと簡単に看破されちゃう材料からな。
大丈夫、私は上手く演じ切ってみせる。
だから律はいつも通りに私を信じていればいい」

 律が恥じらいの冷めやらぬ顔色で頷く。
それでも、澪に協力を嘆願していた時に比べれば、落ち着いて見えた。
交渉は律の望む形で妥結したのだ、その安堵が影響しているに違いない。

 意地を張っている点も、勇気がない点も自分達は同じかもしれない。
そのシンパシーもまた、澪が律の提案に乗る一つの動機となっている。
だが、澪に生じた深刻な不都合を、律は共有していないらしい。
自分達二人に関わる事だというのに、だ。
目先の危機を乗り切る事に腐心するあまり、そこまで頭が回っていないのだろう。

 律は急迫する問題に目途を付けて、一息吐いている。
その眼前に立つ澪は、新たに生じる問題と併せて準備に付いて思考していた。
即ち、律の恋人を装う準備の事だ。

*

36 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga sage]:2016/08/07(日) 21:29:00.08 ID:KqyK4dU00

*

3章

 夏休みも終わりに近づき、律の誕生日も明日に迫っている。
澪の準備も後一つを残すのみだった。
それを終わらせる為に、今日もファッション街へと足を運んだのだ。

 澪の労など露知らず、今日の部活でも唯達は律を囃し立てていた。
律が逢瀬を見せると宣して以来、その有様で彼女達は部活を過ごしてきている。
当の律も澪の援けを取り付けて気が大きくなったのか、
調子に乗った態度で唯達と接していた。
特に三日前の事は目に余り、目の裏に焼き付いてしまっている。
.

.
 律が見せびらかしてきた手帳には、予定が一切書き込まれていなかった。
月別カレンダーの日付の下に、丸印とハートマークが記されているのみである。
春から始めて今月までのページを捲った後で、唯が口を開いた。

「何これ?ハートマークがデートの日なの?」

 唯の言った通りの意味で律は記号を書いたのだろうと、澪も思った。
その律の本意は、恋人が居るよう装う為に違いない。

 それにしては、稚拙な工作だと思わざると得なかった。
丸印にせよハートマークにせよ、連続してしまっている。
また、平日にも遠慮なく書き込まれ、学校や部活、
そして自分達と遊んだ日々とも重なっていた。
幾ら架空の予定だとは言っても、
以前の自分の話と整合性を持たせようとはしなかったのだろうか。
これでは、逆効果だ。
37 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga sage]:2016/08/07(日) 21:30:13.01 ID:KqyK4dU00
「そんなに連日、デートしていたんですか?
平日とか、やっぱり夜だったんじゃないですか」

 梓がその矛盾を見逃すはずもなく、口を尖らせて律に噛み付いた。
だが、律に慌てる様子は見えない。

「違うっての。これはサングとのデートを記した方の手帳じゃないよ。
私の身体の管理を記した手帳だよ」

 一同の瞳が、律に向いた。
その視線を一身に受けて、律が得意気に説明する。

「丸印が安全日なんだ。そして、ハートマークがねー」

 律はそこで自分の身体を掻き抱くと、両目を強く閉じて甲高い声で叫んだ。

「危険日っ。りぃーっ」

 身体を悶えさせて一人で興奮している律に、澪は呆れる外なかった。
見れば律の誕生日の日付にも、一際目立つ形でハートマークが記されている。
桃色の波線に囲まれたそれは、周囲に小さなハートマークまで靡かせていた。
.
38 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga sage]:2016/08/07(日) 21:31:35.29 ID:KqyK4dU00
.
 思い出すだけで口元へと込み上げて来る溜息を、澪は吐かずに堪える。
確かに、律は調子に乗ってこそいた。
だが、澪の言い付け通り、サングの容姿を唯達に教えてはいない。
加えて、自分と打ち合わせた事も、唯達との間で合意に至らせている。
そこは評価すべきだろう。

 上手に唯達を騙す為には、彼女達の動きを制御下に置かなければならない。
律に場所や時間といった当日の逢瀬の予定を話させるとともに、
唯達が観察する時間や取るべき距離まで言い含めさせた。

 その中に、唯達は逢瀬を始めから見るのではなく、
途中から見るという合意も含まれている。
内幕の露見を避ける為には、暗くなってから短時間だけ見せた方が都合はいい。
サングに見つからないよう最高潮の場面だけ見せる、というのが口実だ。
その為、場所は横浜のみなとみらい、時間は夕方を指定させている。

 今度こそ、澪は溜息を堪えられなかった。
致死的な不都合を負ってまで、計画を事細かに練る自分が滑稽に思えてならない。
そう、この芝居の結果、律と恋仲になるという希望は潰えてしまうのだ。

 そう、律は既に恋人が居るという事を、唯達に証明する事となる。
律の恋人の席は架空の男で埋められ、澪が座を占める余地はなくなってしまう。
律はこの事に気付いていないのか、或いは澪と交際する希望を諦めてしまっているのか。
何れにせよ、澪は望まぬ結末に至ると知っていながら、律の詐称に手を貸す事となった。
39 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga sage]:2016/08/07(日) 21:32:47.35 ID:KqyK4dU00
 こうなる前に、自分から告白してしまえば良かった。
この三週間近い日々、その後悔に苛まれなかったとは言うまい。
だが、それでは上手くいかないと見越したからこそ、見送ってきたのだ。
臆病な律では澪に告白されてなお、幸福からさえ逃げた事だろう。
律の殻を破る為には、澪に惚れていると自認させなければならない。
その上で、偕老同穴の道程で生じる全てのリスクを、
澪と共に背負うと覚悟させる必要があった。
律に告白させるという或る種の荒療治は、どうしても避けられない。

 だが、澪はまだ諦めてはいなかった。
律が唯達に本当の事を話して自分への告白に踏み切る、そのシナリオを捨てていない。
律に今まで持った事のない勇気を強いる策が、澪の頭部にはあった。
否、策ではない。賭けだ。

 けれども、賭ける価値ならある。義務もあった。
律が勇気を持てるまで、待つ身に甘んじてきた自分にも責任があるのだから。
だからこそ、此処に来た。これが、最後の準備である。
そして最後の準備はデートの前日でなければならなかった。
明日になるまで、唯達に見せられないのだから。

「Our Splendid Songs」

 私達の勇気の歌を。
長く美しい自慢の黒髪を靡かせ、澪は律を手に入れる為の一歩を踏み出した。
『ハーゲンタフ』と描かれた看板が目立つ店、ここに用がある。
その扉を潜り、律の勇気にベッドした。

 律を手に入れる為ならば、女の命さえ惜しくはない。

*

40 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga sage]:2016/08/07(日) 21:36:50.06 ID:KqyK4dU00
>>24-39
 本日はここまでです。
余談ですが、サングという偽名は澪が「さんかれあ」に少し似ていたので、サンゲリアより拝借しました。
ハーゲンタフはバタリアンです。

 また明日よろしくお願いします。
41 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/08(月) 21:36:14.88 ID:F8PqAWbf0
こんばんは。>>39の続きを投下します。
42 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/08(月) 21:36:59.14 ID:F8PqAWbf0

*

4章

 律の乗る電車は、横浜駅からみなとみらい線に直通した。
そして律は、みなとみらい駅を電車に乗ったまま通過する。
夜になれば、唯達はこの駅で降りるのだろう。
まだ午後になったばかりの今、律の目的地は此処ではなかった。

 終点の元町・中華街駅で降りた律は、長い地下道を一人で歩く。
澪と待ち合わせている場所は、中華街東門を正面に据えた出口だった。
恋慕の情が細い足を急かすが、期待は禁物だと自分の胸に言い聞かせる。
これは、偽装の逢瀬でしかないのだ。少なくとも、澪にとっては。

 事実、この時間帯に律が此処に来た理由も、
唯達を騙す為の打ち合わせと練習を兼ねたものだ。
夜の時間帯に見せる逢引で、唯達を騙し切らなければならない。
当日の打ち合わせや練習は不可欠だと、澪に言われていた。

 本当のデートなら良かったのに。と、家を出てから何度も胸中で呟いている。
だが、演出された偽りの逢瀬であれ、
恋情を抱く相手と恋人のように振る舞える好機には違いない。
律は無理矢理に自分を奮い起こすと、地上へと出た。

 律の瞳に、入口となる中華街の壮麗な東門が映る。
前途の多難を示すような曇天が恨めしかったが、眼前の門は太陽光などには頼っていない。
薄い光の中でさえ、雅の凝らされた装飾が輝いて律を迎えていた。
仮の装飾でしかない澪との逢引も、この街でなら優雅に映えるかもしれない。
禁物だと分かっていながらも、希望を抱かずにはいられなかった。

「律。ここからはエスコートするよ。今日の私は彼氏らしいからな」

 門に向かって歩こうとした律の足を、聞き覚えのある声が止めた。
一瞬のうちに、律の胸が興奮で沸騰する。
飼い主を見つけた子犬のようだと自覚しながらも、勢いよく振り向く首を止められない。
43 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/08(月) 21:38:09.35 ID:F8PqAWbf0
「澪っ……っ?」

 だが、振り向いた先の人物を見て、律は絶句してしまった。
澪であるはずなのだが、律の記憶にある彼女の容姿と一致しない。
勿論、変装して来る事は分かっていた。
それを織り込んでいても、俄かには信じ難い。
この目に映している者は、秋山澪なのだろうか。

「こら、律。彼氏の名前を間違えるなよ。サング、だろ?」

 律の内心の問いに呼応したかのように、澪が間違いを正してきた。
その通りではある。そうであるように、変装して来たのだから。

 化粧だけ見ても、随分と印象は変わっている。
だが澪が見せた変貌は、そういった可逆的な装いに留まっていない。
それだけならば違いに驚く事はあっても、律とてここまでの動揺はしなかっただろう。

 律は息を急き切らせ、何とか言葉を紡ぐ。

「そうなんだけど。えっとぉ……どうしたの、その、髪」

 昨日見た時は、澪の美しい黒髪は腰に届く程の長さを誇っていたはずだ。
なのに、眼前の澪の黒い髪は、輪郭の縁を覆う程度の長さにカットされている。
もみあげは顎の下にこそ突き出ているが、首の付け根には達していない。
後頭部の髪も項が覗ける長さだった。

「どうしたって、髪形を変えるって言っただろ?」

 澪は周知した事だと言わないばかりの、当然のような口振りだった。
失った髪に対して、執心を片鱗さえも見せていない。

 確かに律は、澪が変装の為に髪形を変えると聞いていた。
ただ、大胆な散髪まで伴う処置になるとは思ってもいなかった。
元の長さには手を加えず、
あくまで髪の纏め方を変える程度に留まるのだろうと認識していた。
命と同視し得る大切な髪を、一時を凌ぐ為だけに切るなど律には発想もできない。
44 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/08(月) 21:39:30.34 ID:F8PqAWbf0
 当の澪が無頓着な様子を見せているのに対し、律の方が未練を感じていた。
律も見惚れていた立派な黒髪が、恋しくて惜しくて切ない。

「何で、そこまでするの?」

 自然と、問う声にも惜しげが込もる。

「この方が、私だって事がバレないからな。
だから昨日、最後の準備に切ったんだ。
唯達と鉢合わせしないように、いつもの所じゃなくって、ちょっと遠出してな。
サロン『ハーゲンタフ』って、ファッション雑誌とかで見たあるだろ?
そこ使ってみたんだ」

 やはり澪は、何でもない事のように言った。
切る前にも葛藤なく、些事を処理する調子で決断したのだろうか。
もしかしたら、その決断も早い段階で下されていたのかもしれない。
律が澪に偽装の恋人役を頼んだ、その日の内に。

 律は澪から、サングの容姿を唯達に伝えるなと言い付けられていた。
あれはこの為の指示だったのだと、今となっては律にも推せる。

「変か?」

 澪の目には考え込んでいる律の姿が、似合わないと言いたげに映ったのかもしれない。
今日の装いの評価を訊ねてきていた。
45 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/08(月) 21:40:39.42 ID:F8PqAWbf0
「んーん」

 反射的に答えてから、律は改めて澪を眺めた。
髪が短くなった事で、澪の端正な顔立ちが前面に出てきている。
毛先にジャギーが入っている為に、ボブのような緩さはない。
逆に、剣の切っ先を長短交えたように、毛の束が鋭く連なっている。
初見では戸惑いが大きく熟視する余裕もなかったが、
落ち着いた今なら確信を持って言える。
澪に似合う、鋭利な印象を際立たせる髪形だ、と。

 顔にも見惚れてしまう。
化粧とはいっても、目元以外は大して手を付けていない。
心持ち、普段より白く見える程度だ。
勿論それだけでも、印象の変化に大きな寄与をしているのだろう。
だが、目元に走るアイシャドウは、別人と為り遂せる装いに決定的な役割を果たしていた。

 眼孔を覆う赤紫のアイシャドウの細いラインが、目尻を越えて引かれている。
醸し出されるエスニックな色気は、中華街の雰囲気に合っていた。
また、鋭い目付きと相俟って、妖艶でサディスティックな色香をも漂わせている。
澪の瞳から、別世界の色を流したようだった。

「カッコいいよ、似合ってるし。
それに、知人が見ても、パッと見じゃ気付かないよね」

 律でさえ、澪なのか俄かには判じかねた程なのだ。
他者が判別を付けるには、凝視が必要だろう。

「ああ。最初は、サングラスやマスクが必要かと思ったけどな。
でも、日焼けした梓や、すっぴんのさわ子先生の例もあるから。
それに、ごつい恰好した奴と歩くなんて、嫌だろ?」

 澪の言葉で、引かれた二つの例を思い出す。
部活の顧問である山中さわ子の時は、暗闇から急に灯が点った時だった。
明順応していない瞳孔も相俟って、
化粧をしていないさわ子が普段とは別人のように見えていた。
思わず「すっぴんのさわちゃん怖い」と言ってしまい、頬を抓られたものだ。
46 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/08(月) 21:41:51.19 ID:F8PqAWbf0
 海で日焼けした梓の例は、更に顕著だった。
クラスメイトの平沢憂や鈴木純までもが、初見では誰だか分からなかったらしい。
そう妹の憂から聞いたと、部活のティータイムで唯が話していた。

 それらを思い出すまで、律もサングラスやマスクが必要だと思っていた。
比して、想起の早い澪は逢瀬の雰囲気を壊す事なく、洗練された対応で解決してくれている。

「嫌だなんて、無理なお願いした私に言えるのかな。
でも、マスクとかで変装されるより、今の方が素敵だよ。
それより、髪まで切っちゃって、本当に良かったの?」

 律は感じ入る反面、澪を巻き込んでしまった自責の念も胸に兆している。
澪の黒髪には、自慢に供しても恥じない美麗さがあった。
もし律が唯達と出来ない約束さえしなければ、今も美しく靡いていたに違いない。

 本当のスリーサイズを明かしたのに、嘘だと扱われた事が悔しかった。
この日の発端となった八月初旬の、あの日の出来事が律の胸に蘇る。

 意地悪く煽ってきた唯に立腹して、意地になって誇大な話を繰り広げた。
勿論、その後先を考えない反射的な対応が、此処に至った最大の原因ではある。
だが、律が自分の嘘に固執した理由は、それだけではない。
澪の反応が見たかったのだ。

 澪に恋情を抱いていた律は、澪が律の嘘に動揺してくれる事を望んでいた。
だが、律の期待に反して、澪は無関心な様子しか見せてくれない。
それでも恋人の話を続けたが、当の澪から冷淡な態度で遇されてしまった。
律も乙女心に応えようとしない澪に苛立ち、先鋭化させた発言を向けてしまっている。
そうして意固地になった律は、
到底果たせられない約束を唯達と交わす羽目に陥ってしまった。
47 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/08(月) 21:43:05.49 ID:F8PqAWbf0
 追い込まれた律は澪に縋り付く以外、進路も退路もなくなっていた。
苛立って反発した相手に泣き付くなど、本来なら屈辱極まりない事である。
律とて澪以外ならば、意地でも助けを求めなかっただろう。
それが澪に対する、度を越した甘えであるとの自覚はある。
だが──

「ああ。前も言ったけど、そっちは髪を下ろしたお前に着想を得たんだよな。
ヒントをありがとな。
それと、恋人から似合っているって言って貰えて、きっとサングも冥利に尽きているよ」

 澪はこうして、律の我儘全てを許すかのように微笑んでいた。
だから律は自立心を堕す事になっても、澪に依存してしまう。
田井中律という一個の人権主体が壊されて猶、律は澪が好きだった。
恋人に、なりたかった。

 律はこの恋の勝算を、皆無と見立てている訳ではない。
澪の自分に対する態度を思い返せば、好意の表れではないかとさえ思えてくるのだ。

 だが、踏み切れない。勇気がなかった。
もし澪の態度に対する自分の読みが、勘違いだったら立ち直れない。
同性愛に対する唯達の目も怖かった。
先日は律の恐怖を裏付けるように、彼女達の異性愛に対する憧憬を見てしまっている。
澪との関係性が変わる事も、未知への不安があった。

 何より。
正式な恋人となると、甘えに正当性が付されてしまうのだ。
それは、澪に淫する依存の歯止めが、本当に無くなってしまう事を意味している。
その状態に至ってしまえば、もう自分自身の所有者を自らに留めては置けまい。
比喩ではなく、澪が所有者だ。
田井中律に属する権利の行使を全て、彼女に委ねる形となるのだから。
主体的な自意識を完全に放棄して、戻れなくなるほど壊れてしまう自分が怖かった。

「私だけじゃないって。誰に見せても似合うって言うよ。
きっと、唯達に見せても」

 自分を壊す決断に至れないまま、律は前言を他者の評価へと一般化して逃げた。
そうして自らの言葉で気付く。
澪の散髪は、今日を凌ぐだけの逃げ道しか提供していない事に。
48 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/08(月) 21:44:16.89 ID:F8PqAWbf0
「あっ。そうだ、唯達だよ。今日は誤魔化せると思うよ?
でも、明日以降どうするの?」

 律は続け様に訊ねた。
明日も部活がある。
そこで髪の短くなった澪を見れば、今日の相手が彼女だったと唯達に気付かれてしまう。

「そのくらい、考えてから髪を切ってるよ。
明日以降を乗り切る策くらい考えた上での行動だから、心配するな」

 澪も当然、その程度の事には気付いていた。
策まで用意しているとは頼もしいが、具体的にはどう対処するつもりなのだろう。

「どうするつもりなの?」

「後で話すよ。それより今は、目の前の中華街に行こう。
おいで。本番のつもりでエスコートするよ」

 澪は空腹らしく、食事を優先していた。
律も食い下がる事なく、素直に従う。
もう髪が切られてしまっている以上、澪の見せる自信を信じる外ない。

 第一、美食の地を目前に置いて、垂涎の思いを留める事も憚られた。
今に至るまで、中華街の前に留まり話し込んでしまっている。
その間にも、大食の澪の胃は食欲で疼いていたに違いない。

「うんっ、そうだね。私も何か、胃に入れておきたいよ。
美味しい物、案内してよ。みぃ」

 澪の表情に気付き、律は言い直す。

「サングッ」

 澪は満足そうに頷くと、律を先導するように緩やかに歩き始めた。
肩紐で脇に垂らしている澪のボストンバッグが、歩みに沿って揺れる。
逢引に用いるよりも、小旅行で使うような大きなバッグだ。
バスドラムの幅を狭めて、奥行きを伸ばした形相が最も近いだろうか。
律は自分が部活で担当しているパートから、サイズに大凡の当りを付けた。
49 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/08(月) 21:45:39.74 ID:F8PqAWbf0
 そのバッグが翻り、澪の全身も回った。
直後、中華街の東門を背に屹立する澪が、律の瞳に映る。
澪の普段着とは違うコーディネートも相俟って、別世界への案内人のようだった。
澪が夏に長袖を着ている姿など、サマージャケットであっても見た事はない。

 澪は白と黒のボーダーが入ったシャツの上に、
細く青いストライプが施されたジャケットを着用していた。
襟の巾が大きく、縁全体に白いラインが走っている。
そしてボトムはジャケットと同色のスラックスだった。
そのモッズスーツ風の服装の中、目元に走るアイシャドウがエスニックなインパクトを添えている。

「ようこそ。律がお姫様で居られる時間へ」

 確かに律は、別世界へと案内された。
導かれるままに、律は澪の手を取る。
或いは、サングの手を取った。

*

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