田井中律誕生日記念SS2016(must was the 2014)

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50 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/08(月) 21:49:52.34 ID:F8PqAWbf0
>>42-49
 本日は以上です。
 投下していて気付きましたが>>44の8行目

誤 >サロン『ハーゲンタフ』って、ファッション雑誌とかで見たあるだろ?

正 >サロン『ハーゲンタフ』って、ファッション雑誌とかで見た事あるだろ?

でした。
推敲はした積もりでしたが、見落としがあったようでお詫びします。

 それではまた明日、よろしくお願いします。
51 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/09(火) 21:21:07.95 ID:NAPwLUtio
 こんばんは。>>49の続きを投下します。
52 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/09(火) 21:22:12.22 ID:NAPwLUtio

*

5章

 中華街の大通りに入って、すぐに澪は左に曲がった。
手を引かれるまま、律も従う。
上海路と呼ばれる道だと、澪が教えてくれた。

 大通りに比して、人の往来は少ない。
飲食店も大型の店舗が数軒構えているだけだった。
右手側は大通りと遜色のない綺麗で立派な店構えだが、熱気には欠けている。
左手側に至っては、工事中と思しき建物があった。

「こっちは人通りが少ないんだね」

 律は後方の大通りを一瞥して言った。
寂しい道よりも、殷賑の渦中を共に歩んでみたい。
澪が手を引いてくれている限り、人混みの中でも逸れる事はないのだ。

「上海路、市場通り、それと更にその奥の通り。
折角だから、その三つを全て、見せてやろうと思ってな。
安心しな、そっちの二つは賑やかだから」

 律は一言口にしただけだが、澪には十分だったらしい。
律の気持ちを汲み取って、繁華の路にも後で寄ると教えてくれた。

 澪の気の回りように、本当の逢瀬のように錯覚しそうになる。
偽装の逢引を練習しているという、程遠い状況であるにも関わらず、だ。
付言すれば、練習や食事だけを目的として、ここ中華街に寄った訳ではない。
食事をしながら、この後の段取りの最終的な確認を行うのだ。
53 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/09(火) 21:23:34.01 ID:NAPwLUtio
「本当?ありがと、早く見たいな。
でも、人通りが多いなら、澪と逸れないようにしないと」

「不要な心配だな」

 澪が、握る手に力を込めてくれた。
律は忘我の心地で澪の手を握り返す。

「それに。目立つから大丈夫だよ」

 律が呆けて我を忘れているうちに、澪が続けて言った。
熱の消えない耳に届いた言葉を、思わず律は反芻する。

「目立つ?」

 直後、澪が進路を変えた。
気付けば、上海路は三叉路に突き当たっている。

「こっちだ」

 澪は質問に答えないまま、右の道へと律を誘導した。
犇めく店舗を挟んで大通りと平行している道である。
こちらは関帝廟通りと言うのだと、澪が教えてくれた。
沿って二人は、中華街を奥へと進む。

 曇天に阻まれて日光の直射こそ避けられているが、季節は夏である。
肌も汗ばみ始めていた。

「暑そうだな。でももうそこの通りだよ、律。後少しの辛抱だ」

 澪の励声を受けて進んだ先、右側に道があった。
この道が澪の言っていた市場通りなのだと、門に掲げられた文字が教えている。

 市場通りは、上海路に比して狭い道だった。
見通す限りでは並ぶ店構えも小さく、絢爛さでは見劣りしている。
だが、盛況ぶりや熱気は比べものにならなかった。
行き交う人で混雑した道に、軒を連ねた店舗から威勢のいい声が響き渡っている。
54 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/09(火) 21:24:45.84 ID:NAPwLUtio
 澪が言っていた通りの殷賑に迎えられ、律は門を潜った。
この通りを先に進めば、再び大通りへと出る事になる。
澪は大通りと関帝廟通りの間でコの字を描きながら、中華街を進んでいくつもりらしい。

 食事も話し合いも、もう一つの通りも見物した後だろうか。
中華街に寄った目的を思い起こす律の傍らで、澪が歩みを止めた。
まだ、市場通りの門を潜ってから、然したる距離を歩いていない。

「ここだ。ちょっと寄り道するぞ」

 澪に連れられた店は、飲食店ではなかった。
土産物を扱う店らしく、龍やパンダを象った造形品が並べられている。
今居る一階だけでも品揃えは豊富だが、二階に続く階段も見えた。
上階にも、商品が溢れているのだろう。

「ああ、良かった。貴方が居てくれたとは、話が早くて助かります。
え?そうだったんですか?態々すみません」

 舶来の品々に没頭していた律だが、澪が女の店員と話している事に気付いた。
知り合いなのか、澪はこの時間帯に此処に来る予定を告げていたらしい。
澪の反応から察するに、店員の方もその時間帯に合わせ店番をしていたようだった。

「ええ、早速。
おいで、律」

 何かの話が合意に達したのか、澪の言葉を受けた店員が二階へと上がっていく。
間を置かず、澪は律の手を引いてきた。

「何?どうしたの?」

 訝しく質しながらも、律は招じられるまま澪に身を委ねた。
澪は店員の後を追うように、階段を上っている。
それでも律を慮ってか、足取りは緩やかだった。
55 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/09(火) 21:25:30.86 ID:NAPwLUtio
「来れば分かるよ。楽しみにしてな。
誕生日、だろ?」

 澪が微笑の浮かぶ横顔を向けてくれた。律も理解する。
誕生日プレゼントを貰えるのだ、と。去年までも、毎年欠かさず貰っている。
偽装のデートの道中であっても、澪は律儀に例年通り踏襲してくれるらしい。

 ならば、中身に対する質問は野暮だ。
贈る側もまた、受け手の喜ぶ反応を楽しみにしている。
そして、それは口頭で先行して見るより、現物の披露と同時に見たいものだ。
律とて理解している。

「うんっ。楽しみにしてるね」

 だから今は、表情と言葉で期待を示すに留めておく。
内心でも喜んでいたから、自然に表出させる事ができた喜色と声色だ。

 澪はまた横顔を向けただけだったが、律の気持ちは伝わっているらしい。
相好を崩してこそいないが、頬の緩みは微笑の度を越えていた。

「ああ、すいません。お待たせしました」

 二階で出迎えてくれた先程の店員に、澪が一礼しながら言った。
会釈を返した店員に誘導され、二人は壁際へと進む。
歩きざまに見回した所、二階では中華風にデザインされた生地を扱っているらしい。
一階に比べて人の入りは少ないが、律達の他にも生地を物色する客の姿が見えた。

「ええ、間違いないです。オーダー通りです。ああ、はい」

 澪は生地を予め注文していたようだった。
店員から受け取った品物を確かめた後、受領書にサインをしている。
この店員と知り合いらしいのも、単に注文時に会話をしたからなのだろう。
56 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/09(火) 21:26:24.59 ID:NAPwLUtio
 ただ、この店員は懇意にも、澪の来店する時間帯に店で構えて居てくれている。
また、澪の口振りから推しても、事務的な会話のみ交わした間柄とは考えづらかった。
こうもコミュニケーションが深まる手順を要する注文で、澪は何を贈ってくれるのか。
澪の背を見つめながら、明かされる時を律は大人しく待った。

「律、待たせたな。早速着てみてくれ。
折角のデートだ、律もおめかししないとな」

 受領書を受け取った店員が去ってから、澪が手渡してくれた。
手元に渡ったそれを、律は両手で広げてみる。
黄を基調とした布地に華の柄がデザインされた、チャイナドレスだった。

「いいの?嬉しいけど、高かったんじゃない?」

 生地の手触りが合成繊維などではなく、絹だと教えている。

「別に。大したものじゃないさ。
ただ、律には似合うと思う。人通りの少ない上海路は終わったんだ。
大勢の人に、お披露目してやりな。唯達にも、な」

 近くにある試着室を指差して、澪が言った。

「これ着てデートなんて、唯も羨ましがるね」

 唯達に見せ付ける姿を想像しただけで、胸が弾んだ。

「ああ、間違いない。そうだ、着替えは私が持つよ。
ほら、バッグに余分なスペースがあるからさ」

 試着室の前まで付いてきた澪が、ボストンバッグの口を広げながら言った。
澪は余分なスペースと言ったが、
空きを用意する為に大きなバッグを持って来たに違いない。
逢引には不釣り合いなサイズのバッグだと思っていたが、
澪は荷物が増えると分かっていたのだ。
57 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/09(火) 21:27:34.36 ID:NAPwLUtio
「もうっ、手際がいいんだから。
似合うかどうか分からないけど、着てみるね。
一度、着てみたかったんだ」

 律はチャイナドレスを手に、試着室へと上がる。
そのままカーテンを閉じようとしたが、澪に抑えられた。

「待った。律ってチャイナドレスは初めて着るんだよな?」

「そうだけど」

 律はチャイナドレスに目を落とした。
着物と違い、着用がそう難儀とは思えない。

「じゃあ、言っておく事がある。大事な事だ。
いいか、全部脱いでから着るんだぞ」

 澪が真面目な顔で当たり前の事を言うので、律は笑い声を漏らしてしまった。

「分かってるよ。その分、澪には迷惑を掛けるけど」

「ブラジャーやショーツもだぞ?」

「えっ?ええっ?」

 澪の発言の意味が分かり、律は仰け反ってしまった。
笑顔から驚愕へと変わる表情を制御できない。
熱を帯びて赤くなる顔色も、制御できなかった。

「やっぱり知らなかったか。身体のラインが出ちゃう服なんだよ。
ブラジャーやショーツの形が出ると、見栄えに影響する。
それに、スリットも深いから、横からショーツが見えかねないぞ」

 下着の形が浮き出るという説は、律にも真贋を判じかねる話だ。
ただ、襟は閉じても、直下の胸元が菱型に開けている。
ブラジャーはそこから見えかねない。
58 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/09(火) 21:28:45.74 ID:NAPwLUtio
 加えて、スリットからショーツが見える事も心配だった。
艶やかなランジェリーではあるが、ティーバックのようにサイドが極細という訳ではない。
素直に澪の忠言を容れるべきだろう。

「うん、分かった。何だか恥ずかしーしっ」

 律は含羞に衝き動かされるように、カーテンを勢いよく閉じた。
人前に顔を晒す事さえ憚られる程、今の顔色は羞恥で茹っているだろう。
この後は多くの人前の中を、外気に性器を触れさせながら歩く事になる。
その意味を考える程に、身体が火照って律の内から体液を湧き出させた。
汗が、滲んでいる。そう律は自分へと言い聞かせた。

「着替るまで待ってるから、ゆっくりでいいぞ」

 カーテンの向こうから、澪の落ち着いた声が聞こえてきた。
澪は急かしていないが、いつまでも悶えている訳にもいかない。
律は覚悟を決めると、脱衣に取り掛かった。

 メッシュ状の黄色いケープも、ベージュのキャミソールも律から容易に離れた。
赤を基調としたチェック柄のフレア状スカートにも手間取りはしない。
次いで、フリルの付いた靴下に取り掛かる。
上下で色合いをアシンメトリックに着こなしていた服が剥がれると、
律を覆うものは白で統一された下着のみとなった。

 否、もう一つあった。
律は時間稼ぎでもするかのようにカチューシャも外す。
額に落ちた髪を梳くと、律は深く息を吸った。

 胸を覆うブラジャーは、深呼吸の勢いを借りて取り払った。
円錐の双丘を為す乳房が、鏡にも映る。

「りぃ」

 初めて訪れた店で裸になるという実感が、改めて律を襲った。
店内の衆目から律を隔絶するものは、カーテン一枚でしかない。
──否、違う。
59 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/09(火) 21:29:43.68 ID:NAPwLUtio
 律を守るベールは、カーテンなどという布一枚だけではないのだ。
その前には、姫を守る騎士の如く頼もしい澪が居る。
そうして律は兆した怖気と抵抗を取り払い、ショーツに手を掛けた。
隔壁が、落ちる。

 途端。
新鮮な蜜柑の皮を剥いた時、飛散して鼻腔を衝く鮮烈な香り。
その柑橘の甘酸っぱい匂いを、嗅覚が捉えたような気がした。
澪にも、嗅ぎ取られただろうか。

 律は蓋でもするかのように、慌ててチャイナドレスに肌を通した。
初めて着る衣装、着用の手順などは分からない。
ただ、飛散の門を覆いたい一心で、下腹部から服を身体に合わせてゆく。
股を基点に据えた着衣だったが、それでも腕を通す所まで着こむ事ができた。

 興奮と羞恥から、手付きは覚束ない。
律は手子摺りながらも、背中のファスナーと襟元の赤いボタンも閉じた。

「うー」

 鏡に映る自分の姿に、律は声を震わせる。
襟の下、胸元が菱形に開いている事には、チャイナドレスを拡げた時から気付いていた。
ボタンに手間取っている時には、そこから胸が覗けてしまう事も察している。
だが、実際に目にしてしまうと、恥ずかしさも一際だった。
閉じられた襟の下に開く菱形の空間は、これ見よがしに胸の谷間を露出させている。
直上の装飾を携えた赤いボタンも目立って、開きに注目してくれと言わないばかりだった。

 律は全体的に痩身だが、胸を中心に服が窮屈に感じられる。
澪のオーダーしたサイズが小さかったのだろう。
身体の曲線を映すチャイナドレスの特徴も相俟って、
律の身体の線が競泳水着のように強調されていた。

 尤も、服のサイズを目測でオーダーしたのだとすれば、その精度は決して低くはない。
胸の大きさを過小評価した程度には、収まっているだろう。
装飾の腕輪を二の腕に通しながら、律は澪の眼力を内心で擁護した。

 付属された装飾は、もう一つあった。
腕と脚に一つずつの輪、左腕には通したので後は足輪である。
それを太腿に通して、目視で具合を確かめた時──気付いてしまった。
顔へと走る朱の線を、抑える事ができない。
60 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/09(火) 21:30:52.94 ID:NAPwLUtio

 律は立ち見で、下へと長く伸びた裾の上部を凝視する。
脚に嵌めた輪から、斜め上へと視線を転じた場所だ。
土嚢でも積み上げたかのように、恥丘が堆く隆起していた。

「っ」

 意図せず、荒い呼気が漏れる。
自分の身体の特徴は知っていたが、裸の時よりも目立って見えた。
突き出たそこから、匂いも放たれているように思えてならない。
視覚では勿論、嗅覚でも注意を惹き付けそうな有様だった。

 露わに突き付けて、人前を闊歩する。
考えただけで、胸に火が付いて全身を火照らせた。
体内の熱が逃げ場を求めて、肌を汗ばませる。
胸の鼓動と連動して、呼気も荒くなった。切なくて、息苦しい。

 律は興奮に指を震わせながらも、ショーツを手に取った。
自分が残した温度も湿気も、未だに残っている。淡く色付いてもいた。
これをそのまま、澪に渡す訳にはいかないだろう。
律は畳んだ服の間に、ショーツとブラジャーを挟み込んで隠した。

 ここまで終えると、もう試着室に用はなかった。
安全への名残を振り切って、律はカーテンに指を掛ける。
掛けた指が、震えた。
血液を打ち出す心拍の震動も胸板に響いて、心臓がポンプ機関であると実感させられる。
身の内奥から滾り噴くこの狂熱は、含羞だけが生み出せる情動ではない。
自分の身体の変化が、律に教えていた。
──澪に、見て欲しいのだと。皆に見せ付けたいのだと。
秘していたものを明かして、解放の悦びに浴したい。いっそ、淫したい。
羞恥と不安の先にある悦びを求めて、律はヴェールを捲った。
61 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/09(火) 21:32:09.18 ID:NAPwLUtio
「おかしーし」

 素直な一言は出てこなかった。
羞恥に押され、右手が胸の谷間を庇う。
それでも、恥丘に手は添えなかった。
左手が腹部にまで動いたが、そこで留め置く。
情動を燃え盛らせるこの一線だけは、含羞を御して死守できた。

「ああ、似合うよ」

 律の口が逃げていても、澪は言って欲しかった言葉を口にしてくれた。
聞いた途端、律の目元に朱の縞が走る。
鏡も見ずに自覚できる程の熱を、律は顔に感じていた。

「これっ、着替えたのっ」

 喜色ばむ自分から注意を逸らすべく、律は畳んでおいた服を渡した。
受け取った澪はバッグに収める間も、そして仕舞ってからも、
律の全身を舐めるように眺め回している。

「サング?あんまり見られると、恥ずかしぃし」

「ああ、済まない、見惚れていた。ところで、律」

 澪の手が、律の右手を掴んだ。
強引とも言える力で、胸部を隠していた手が退かされる。
乱暴には感じたが、律は抵抗などせずにエスコートされるが侭に任せた。

「確かに、着痩せするタイプかもな。
こういう身体のラインが出る服だと、胸がそこまで小さくないって分かるよ」

 澪の視線が、律の胸に注がれている。
そう意識すると、余計に気恥ずかしさが増した。
連鎖して深まる自意識が止まらず、吐息が荒くなる。
62 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/09(火) 21:33:34.42 ID:NAPwLUtio
「でも。身体は本当に細いよな。
ウエストなんて、ほら、こんなに括れて、綺麗な弧を描いている」

 澪の両手が律の腋に入れられ、側面を腰に向けて滑る。
澪の掌に肋骨を撫でられ、柔らかい横腹にも触れられた。

「ん、ひゃぁんっ」

 堪え切れなかった声が、喘ぎとなって律の口から漏れ出た。
澪の手に刺激され、身体が奥から疼く。

 腰骨まで撫で下ろされてから、律は澪の侵略から漸く解放された。
澪の手は緩慢な動きだったが、それでも十秒とは経っていないだろう。
だが律には、長時間に渡って愛撫されているような気分だった。
今も腰骨には、澪の手によって加えられた圧力の名残が燻っている。

「綺麗な身体のラインがくっきりだ。
ただ、そこは想定していなかったよ。
隆起が目立って、不躾な視線を引くかもな」

 澪の視線が、律の堆い恥丘を射抜く。
律は恥じらいに身を捩らせ、気付けば太腿を閉じて擦り合わせていた。
逃げる一方では、不審ばかりが目立ってしまう。
蹂躙される侭の我が身を叱咤して、律は話の矛先を転じるべく開口した。

「服がちょっと小さくて、ピッチリしてるからだし。
でも、見た目でサイズを判断したなら、かなり合ってる方だと思うよ。
見た目からサイズを推すのって、自信ある方?それとも、賭けだった?」

 話を変える意図こそ含めているが、目測の精度に対する礼賛は本心でもある。
サイズの規格で選ぶ既製の服とは違い、
オーダーメイドは店側にサイズを伝える必要があるのだ。
実測に依らずここまで適合させたのなら、それは称揚に値するだろう。

「いや、自信はないし、かと言って賭けでもない。
忘れたか?自分の身体のサイズ、皆で言い合ったじゃないか」

「あっ」
63 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/09(火) 21:34:37.27 ID:NAPwLUtio
 律の口から、意図せず声が上がった。
この逢瀬の端緒である、スリーサイズを明かし合った日が蘇る。
すぐに恋人の有無へと場の関心が移ってしまった為、
澪の印象からも薄れていると思っていた。
それだけに、律は驚きを隠せない。

「あの時に言ったサイズ、憶えてたのっ?」

「ああ、記憶力はいい方だからな」

 澪は何でもない事のように言った。
律とて澪のスリーサイズは憶えているが、他の部員の細かな数値までは思い出せない。
張り合った梓のサイズさえ、律はもう忘れてしまっている。
澪にとっては記憶力の問題でしかないのなら、
律と違い彼女達のサイズも憶えているのだろう。

「ただ、私も唯達と同じで、見栄を張っているものだと思っていたよ。
そのチャイナドレスがタイトなのも、その所為だ。済まないな」

 澪の謝る声が、律の耳に降りかかる。

「別に、謝る事なんかじゃないよ、サング。
だって、ほら、実際に、恋人が居るなんて、嘘だった訳だし。
それが原因で、こうして嘘のデートに付き合ってもらってる訳だし」

「しおらしいな。でも、確かに謝る事じゃなかったかもな。
タイトになった分、強調された綺麗なボディラインを唯達に見せ付けてやれるよ。
ほら、次はその打ち合わせに行こう」

 澪が促すまま試着室から出ようとして、律は気付いた。
履いてきた黒いローファーブーツの代わりに、
ドレスと同色のチャイナシューズが揃えられている。
律は思わず、澪を見上げた。

「ああ、いいよ。チャイナドレスには、これの方が似合う。こっちは既製品だけどな。
サイズは下駄箱を覗かせてもらったけど、合うか?」

「ありがとう」
64 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/09(火) 21:35:42.61 ID:NAPwLUtio
 礼を言いながら、律はチャイナシューズに足を通した。
大きさに過不足は感じない。

「うんっ、大丈夫っ」

「良かった。そうだ、その服。
唯達にはサングからのプレゼントだって言っていいよ。
どうせ恋人から何を貰ったのかとか、明日は色々と訊かれるだろうからな」

 確かに、明日は今日の事で、数多の質問を受けるだろう。
解答を用意できたと言うのは、心強かった。
そして、目立つ服で関心も引けるのだから、話題の集中も図れる。
襤褸が出るような質問を封じる効果も期待できるのだ。

「み……サングには頭が上がらないな。私の所為でこうなったのに、何から何まで」

「気にするな。この服に付いては、あの件は関係ない。
プレゼントは毎年上げているし、私も貰っている。
サングからって言うのも、唯達向けの対策なだけで。
友人としての毎年恒例のプレゼントだと、気楽に思ってなよ」

 澪はそう言うが、例年よりも明らかに値が張っている。
ただ、指摘はしなかった。
律に気を遣わせまいとする澪の配慮を、無下に扱いたくはない。

 それを踏まえて澪に報いたいのなら、行為で示せばいい。

「じゃあ、プレゼントのお返しは、サングの誕生日にさせてもらうね」

 その意気込みを律は宣した。

 願わくば。偽装の逢瀬を演出してもらう礼もしたい。
それは誕生日と言わず、機を捉え次第、今日にでも。
口には出さない思いも、律は自分の胸に宣した。
65 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/09(火) 21:36:51.64 ID:NAPwLUtio
「期待しているよ」

 澪は言葉だけではなく、笑みも添えて返してくれた。
律の宣言が口先だけのものではないと、伝わったようだ。

 歩き出す澪の背を律は追って、そして並んで歩く。
店を出ると、また澪が手を取ってくれた。

「何処に行くの?計画とか、話すんでしょ?」

 市場通りも終わりに近づき、大通りも見えてきていた。
だが澪は、立ち並ぶ店舗の何れにも入ろうとしていない。
食事を摂りながら、最後の打ち合わせをする予定にも関わらず、だ。

「何処かって?勿論、律の行きたい所。
連れて行ってあげるから、安心して付いてきな」

 市場通りの出入口を左に曲がりながら、澪が言う。
新しい景色が開けた。
澪に伴われた律は、中華街の大通りを東門から遠ざかって奥へと進んでゆく。

 このチャイナドレスを受け取る時、澪は代価を支払っていなかった。
キャンセルの利かないオーダーメイドなのだから、前払いしていたのだろう。
サイズや意匠を指図した、その時に。
併せて、本日辿る道筋の下見も済ませていたに違いない。
澪の慣れた足取りが、不案内の地ではない事を教えている。
66 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/09(火) 21:37:47.39 ID:NAPwLUtio
「うんっ。任せるから、連れてって」

 行きたい所など頭に浮かんでいないが、律は大船に乗った心地で行先を澪へと委ねた。
些事から要事まで、澪が備えを欠く事はない。
これから向かう先が何処であれ、期待が裏切られる事はないだろう。

「すぐ、そこだ」

 左手には、律も知っている有名な焼売屋が店舗を構えている。
店舗の角に、上海路や市場通りと平行する道があった。
焼売屋もこの道に渡って、二面に展開している。
──そして。

「ここだよ」

 澪に声を掛けられる前に、律は理解していた。
自分の行きたい場所とは、此処の事だったのだと。
道の出入口に設えられた門が、律にそれを教えている。

*

67 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/09(火) 21:41:47.32 ID:NAPwLUtio
>>52-66
 本日は以上です。
チャイナドレスを纏う律は、二年以上前に拝見したイラストに多大な影響を受けております。
チャイナドレスは律に最も似合うファッションの一つだと、教えられた思いです。

 それではまた明日、よろしくお願いします。
68 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします :2016/08/10(水) 20:50:53.62 ID:u9YDDC8ko
こんばんは。
>>66の続きを投下します。
69 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/10(水) 20:52:21.58 ID:u9YDDC8ko

*

6章

 門は質素な造りだった。
壮麗を極めた東門や、華やかな彩を放つ市場通りの門とは対照的である。
それでも律は望外の喜びを胸に感じていた。
この門の上段の看板に記された文字が、
見目の飾り気以上に乙女心を擽ってくる。
律の願望に沿おうという、澪の砕心が読み取れるからだ。

 そこには、こう記されていた。香港路、と。

「屁理屈というか、子供騙しで済まない。流石に海を越えた香港は敷居が高くてな。
ここで満足してくれるか?」

 澪は負い目を感じさせない声で言う。
それは代替を最上の形で提案した者だけが取れる態度だ。
そして、澪にはその資格があると、律の乙女心も認めている。

 あの日、律が勢いに任せて並べた願望を、澪は憶えていてくれたのだ。
この誕生日に香港で逢引など無理な話であると、言い放った律自身も承知している。
それでも澪は、夢想から零れた一言すらも大切にしてくれていた。

「過分のエスコートだよ。
軽く行きたいなんて言っちゃって、無責任な言葉だったのに、
こんな形で叶えてくれるなんて。夢みたい」

「律こそ言い過ぎだ。あくまで、強引なこじつけさ。
今は此処で満足して貰うしかないけれど、
本物の香港は本物の彼氏に連れて行ってもらいなよ」

 澪は夢のような舞台を提供してくれても、共有はしてくれないのだろうか。
どちらに掛かろうとも、”本物の”などという言葉で醒まされたくはない。
70 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/10(水) 20:53:20.66 ID:u9YDDC8ko
「あーらサングったら、本物の彼氏だなんて、おかしな事言っちゃってぇ。
唯達が聞いてたらどうするのさー」

 律は口を尖らせ抗議する。
唯達が偶然通り掛かる可能性など、ほぼ零に等しい。
あくまで、牽強付会だ。

「これは一本取られたな。店に入るまでは、私も気を付けよう」

「いや、まあ、大丈夫だろうけど。じゃなきゃ、此処で今夜の最終確認ができないし」

 難癖に近い抗議に澪が真摯な対応を見せたので、律は思わず擁護の弁を放っていた。
直後、自分の抗議の正当性を守るべく、慌てて付け加える。

「でも、万が一って事もあるから、お店に入っちゃおうよ。
ほら、唯ってば食い意地が張ってるから、
デートを見る前に中華街で暴食、なんて可能性もあるでしょ?
お店に入って見通しが利く席を確保しちゃえば、
万が一唯達と遭遇しても危険な話をすぐ止められるし」

 糊塗すべく口から出た言葉は、悉くが言い訳のようだった。

「鉢合わせ云々は置いといても、その意見に賛成だ。
私も唯と同じで、食い意地が張ってるからな。空腹を早く満たしたいんだ。行こう」

 澪は律の物言いに怪訝を見せず、空腹を理由に急かしてきた。
有り難いと胸を撫で下ろし、律も澪の言に続く。

「あ、私も。お腹空いてる」

 律が言い終わるのを待たず、澪は動き出していた。
澪に手を引かれた律も、一歩遅れて門を潜る。
71 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/10(水) 20:54:17.46 ID:u9YDDC8ko
 香港路は市場通りに比べれば、狭い道だった。
行き交う人で溢れた路に、通行人を招く声が飛び交っている。
律は歩きながら視線を右に左に、両側に並ぶ店舗を眺めた。
それらは外装や内装ではなく、あくまで料理で勝負する矜持を漂わせている。
上海路や大通りに比べれば店構えこそ小さいが、醸す熱気は勝るとも劣らずだ。
提供するメニューを壁面に貼り出して覆い尽くし、空腹の律を目移りさせる。
だが、澪は既に店を決めているのか、数多の誘引を無視して歩いていた。

「どの店に」

 入るの、と続けようとした所で、澪が足を止めた。
律は澪の顔を一瞥した後、視線を澪の眼差しの向きに沿わせて動かす。
視界を共有した事で、澪が入店を考えているらしい店が映った。

「此処?」

「ああ。いいか?」

 一見しただけでは、他の店との違いは分からない。
初見の地で店毎の差異を見分けられない以上、澪のエスコートだけが決定打だった。
期待はあっても、異議などあろうはずもない。

「うんっ。私も此処がいいなって、思ってたんだ」

 律は同意のみならず、共感も付して澪に阿った。
店の前に出ていた従業員も律達の視線に気付いたのか、
コースの貼られた看板を指差しながら声を掛けてくる。

「セット、ありますよー。二人様、こちらお勧めです。
おいしですよー。どですかー」

 此処では聞き慣れた発音の日本語だ。
律は澪と目を合わせてから首肯し、店員に従って入店する。
空調で冷やされた空気が、律の汗ばんだ肌を心地好く覆った。
72 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/10(水) 20:55:27.60 ID:u9YDDC8ko
「二名様、入られましたー。どぞ、空いてる席にー」

 店員は店内に向けて日本語で客の来訪を告げてから、
律と澪に空席を一つ一つ指し示しながら続けて言った。
彼女が言い終わる前に、澪は既に動いていた。
奥の席に座った澪に従って、律も腰を下ろす。
澪がジャケットを脱いでいる間に、店員が大きなティーカップを運んできた。

「飲茶セットを二名分」

 澪はメニューも見ずにそう告げると、律の顔を窺ってきた。
律は首肯で追認を示す。

 注文を復唱した店員が去ると、澪はティーカップを口元で傾けた。
律も倣って、喉を湿らせる。
冷たいジャスミン茶が、人混みの熱気で茹っていた身体に染み渡った。

「うー、生き返るー。暑かったよね」

「ああ、夏だからな」

 季節を一つ違えたような恰好をしていたのに、澪は然して堪えた様子を見せていない。
思えば、部活でも澪は猛暑の中、凛とした姿勢を崩していなかった。
それどころかダイエットの為と、紬と共に着ぐるみを着込んだ事もある。
暑気で唯とともに身心を緩ませる律とは、対照的な強さだった。

「どぞー。なくなったら、言って下さい」

 暑がる律に気を遣ったのか、店員がポットを二つ机に置いてくれた。
律は姿勢を正すと、澪に小声で言う。

「私、そんなに暑がっちゃったかな?
気を遣って貰っちゃったみたい」

「この店はな、セットメニューを頼むと、ウーロン茶がお替わり自由になるんだ。
ジャスミン茶だけなら、無料で供する店もあるんだけどさ」
73 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/10(水) 20:56:27.31 ID:u9YDDC8ko
 澪が机に置かれたポットを指差しながら言った。
見れば、各々のポットにラベルが貼られている。
澪の言う通り、ジャスミン茶とウーロン茶だった。
気遣われた訳ではなく、仕様だったらしい。

「良い店を選んだね」

 入念な下調べの苦労を想いながら、律は澪を労う。
澪は得意気な顔を浮かべ、身を乗り出してきた。

「律もそう思うか?
評判の良い店やコスパに優れる店なら、他にあるんだろうけど。
私達にとって一番大事なのは、やっぱりこれだからな」

 澪が両手で、各々のポットを軽く持ち上げた。

「そこなの?まぁ、計画とか色々話したり、時間までの暇を潰すには、
飲み物お替わり自由の方が良いけど」

 言った後で、律は澪の意図を読み違えたらしい事に気付いた。
澪が唇の前に人差し指を立て、片目で律を見ている。

「何だ、そういう意味で良い店って言ったのか。
いいか。私達は飲茶セットを頼んだよな?
で、中国茶を飲みながら点心を食べる事を、香港とかでは飲茶って言うんだ。
それを踏まえて、飲茶を英訳してみな?」

「Tea Time.あっ」

 答えて、律は澪の意図に気付いた。
同時に、胸の奥から共感の念が溢れてくる。
間違いなく、自分達にとって最も大切な要素だ。

「確かにね。やっぱり私達には、これだよね」

 上辺ではなく心底から、律は澪を肯んじた。
放課後TeaTimeというバンドの名に負わず、
律達は部活動で茶を飲みながら談笑して過ごしてきている。
紅茶から烏龍茶に変わろうと、英語から中国語に変わろうと、変わらない象徴なのだ。
74 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/10(水) 20:57:40.95 ID:u9YDDC8ko
「そう。何があろうと、私達はこれで繋がってるよ」

 澪が律のティーカップに、烏龍茶を足してくれた。
律が一息に飲み干すと、今度はジャスミン茶が注がれる。
ジャスミン茶にも口を付けた時、最初の料理が運ばれてきた。

「ワンタンスープと春巻です」

 机の中央に春巻きの載った皿が配され、律と澪の前にスープと小皿が置かれた。

「二本だから、一本ずつみたいだね。サング、足りる?」

 律は澪を仰ぎ見ながら言う。
セットと云うのだから多種運ばれてくるのだろうが、大食の澪を満たすには心許ない量だ。

「私の事は心配するな。油分が多いから、見た目よりはボリュームがあるぞ」

「もしかして、私の為に、少ない店を選んだの?」

 小食の自分に配慮してくれたのだろうか。
律はそう思ったが、当の澪は首を振っている。

「いやいや、飲茶セットなんて何処もこんなものさ。
少量ずつ多種食べたい人用のセットなんだから、一種に付き一個で理に適う。
寧ろだ、サイズを見る限り、此処は多い方じゃないのか?」

「言われてみれば、脂っこいものを沢山は、私じゃなくても胃に重いかも。
でも色々な物は食べたい、そういう時に重宝するよね」

 澪の気遣いもあるのだろうが、飲茶セット自体も律に向いたメニューらしかった。
量は食べられないが種類は食べたい、律の適性に合っている。
75 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/10(水) 20:58:43.97 ID:u9YDDC8ko
「ああ。それに油分が多いとは言っても、利点だってあるぞ。
茶が進む。特に、烏龍茶がな」

 澪が律のティーカップを指差して、空けるように促してきた。
澪が注いでくれたジャスミン茶は、カップの半分も満たしていない。
折角だから給しただけで、メインは烏龍茶で考えていたのだろう。

 律はジャスミン茶を飲み干して、ティーカップを空にした。
代わって容れてもらった烏龍茶と併せ、春巻きを口に運ぶ。
澪の言う通りだった。
脂っこさが烏龍茶の苦みと調和して、味わいに深みが出ている。

「おいしー。最近は紅茶ばっかりで、他のお茶はご無沙汰だったけど。
烏龍茶って、こんなに深い味があったんだね」

 律は感想を漏らす事で、澪への感謝を伝えた。

「中華料理との相性が良いからな。油分の吸収も抑えるし、黄金の組み合わせさ。
ほら、次の料理が運ばれてきたみたいだぞ。
普段とは違うティータイムだ、楽しむといい」

 澪の指差す方向に視線を向ければ、こちらに向かって盆を運んでくる店員が見える。
食欲を醸す匂いとともに近付いて来て、律達の机の前に止まった。

「韮饅頭と翡翠焼売、エビ蒸し餃子です」

 律と澪の前に置かれた蒸籠の中で、三種の点心が湯気を立てている。
律が始めに口へと運んだ韮饅頭は、味も風味も香味も濃かった。
だが、対処する術は知っている。
烏龍茶を間に挟む事で、癖の強い味を楽しむ事ができた。

「お醤油とかの調味料、要らない感じだよね」

 鮮やかな緑色の映える翡翠焼売を食みながら、律は言う。
76 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/10(水) 20:59:43.68 ID:u9YDDC8ko
「スーパーとかで売ってる惣菜との違いだよな。
味が濃いから、ゆっくりと烏龍茶を飲みながら食べるといい」

 そう返す澪は、運ばれた点心を既に平らげている。
口の小さい律とは違い、澪は一口に頬張っていったようだ。
部活のティータイムでも、食べ終わる速度は澪と唯が最も早い。

「話でもしながら、な」
 
 続けて放たれた一言に、律は顔を上げて応じた。
その話も兼ねて、中華街まで来ているのだ。

「うん、今夜の事とか、話さないとね。
今はまだ唯達も、横浜には着いていないはず」

 律は周囲を見回してから言った。
唯達が居る訳ないとは分かっている。それでも身体が勝手に動いていた。

「指定時間まではまだ大分あるからな。
まぁ、早く来て時間まで観光してる、とかも考えられるけど、唯の事だ。
早く来る可能性より、遅刻する可能性の方が高いだろう」

 澪が含み笑いを漏らした。
律も釣られて笑う。

「小龍包とゴマ団子です」

 店員の声を機に、律と澪は笑声を落とした。
小龍包の蒸籠とゴマ団子の皿が机に配されてから、律は澪に改めて問う。

「唯達のウォッチポイントって、ワールドポーターズの屋上だよね?
サングに貰ったメールは、指示通りに唯達三人に転送しておいたけど。
あそこから、私達って見えるのかな?」

 唯達のウォッチポイントは、澪が決めていた。
律は澪から、位置や視点まで細かく指定されたメール文面を貰っている。
一昨日、律はそれを転送しただけだ。
だから、具体的に自分達がどのようなデートコースを辿るのかまでは分かっていない。
77 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/10(水) 21:01:02.53 ID:u9YDDC8ko
「律は分かっても私は分からない、くらいの見え方にしなきゃいけないのさ。
そういう風に行動するよ。
ああでも、今日の律は分からないかもな。自撮りしてLINEに画像を流しておきな」

「自分で撮るの?」

「ああ、その方が自然だ。
唯達がデートを見物する事なんて、彼氏は知らない設定なんだからな」

 澪は律のカップに烏龍茶を足しながら答えた。
食べる随に烏龍茶を飲もうとも、澪が機敏に注ぎ足してくれる。
お蔭で、ティーカップが空になる事はなかった。

「うー、そうだね。撮って部活のグループに送信しておくよ。
で、実際に見せる時の、私達の行動のプランなんだけど。
私達がどういうルートを辿って、どう行動するのか、教えてもらってもいい?」

 唯達をどう誘導するかの指示は受けていても、
自分達が動く時の委細は教えてもらっていない。

「憶える事なんて何もないよ。だから、教える程の事じゃない。
律はただ、私と一緒に行動して、私に付いて来ればいいだけだ」

 澪は豪快に小龍包を口に詰め込んだ。
詰まる様子も見せずに咀嚼して嚥下する、咽喉の動きが見えた。

「うー。それは頼もしいけど。
演技するんだから、私も少しは知っていたいよ。
じゃないと、尤もらしく振る舞うポイントが」

「そこがいけないんだよ」

 律の言葉は、澪の喝破するような声に遮られた。
78 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/10(水) 21:01:53.10 ID:u9YDDC8ko
「演戯しようと意識し過ぎると、却ってあざとい挙動になって、不審だぞ。
いっそ、知らない要素があった方が自然に振る舞える。
唯達にどう見せるかじゃなく、彼氏にどういう自分を見せたいか、に専念しろ」

 澪の指示に、律は顎を落として肯った。
澪をここまで巻き込んでおいて、自分の失態で計画を台無しにしたくはない。
何より。澪にどういう自分を見せたいのか、実践してみたくなっていた。

「五目炒飯です」

 目の前に五目炒飯が置かれた。
店員は空いた皿を手に、厨房へと戻ってゆく。
澪の前には五目炒飯だけが残ったが、
律の前には未だ食べ終えていない料理が留まっていた。

 それでも澪に急かす様子はなかった。
律のティーカップに何度も烏龍茶を注ぐ行為が、無言のメッセージを表している。
ゆっくりとティータイムを楽しめ、と。

「デザートのー、杏仁豆腐です」

 澪が五目炒飯を食べ終わった頃合いに、デザートが運ばれてきた。
これで最後だろう。
律はゴマ団子を嚥下すると、五目炒飯へとレンゲを伸ばした。
澪は杏仁豆腐には手を付けずに、待っていてくれている。

「サングも手伝って?」

 律は五目炒飯を卓の中央に寄せ、援けを乞うた。
食べ切れそうにもない。
澪もこの事態を見越して、素早く食べ進めていたのかもしれなかった。
遠慮する事なく、空になった皿を差し出す事で応えてくれている。

 五目炒飯が終わると、飲茶のメニューも残りは一品である。
二人同時に、杏仁豆腐の一片をスプーンに乗せた。
油分を多量に摂った直後だけあって、甘さと爽やかさが口中で際立つ。
二片目、三片目と、滑らかに食べ進めてゆける。
そうして、二人同時に食べ終わった。
79 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/10(水) 21:02:52.88 ID:u9YDDC8ko
「少しは香港気分を味わって頂けたかな?」

 口元を紙ナプキンで拭きながら、澪が問う。 

「充分だよ。香港でティータイムが出来るなんて、思ってもみなかったし。
今までで最高の誕生日だよ」

 口にした後で、律は”未来も含めて”最高の誕生日だと気付いた。
胸に兆した寂しさを追い払う為にも、目先の事に没頭してしまいたい。
その効果を求めて律は、問いを付け加えた。

「まだ唯達とのデートまで随分と時間があるけど、この後はどうしよう?」

 店の時計を見るに、十四時にもなっていない。

「考えてあるよ。
会計を済ませて来るから、その間に自撮りして唯達に送信しておきな」

 澪が会計に向かった後で、律は指示された通りの行動に移る。
立ち上がって携帯電話を頭上に構え、全身が映るように斜め上から撮った。
人前で自分を撮る事に羞恥の念はあるが、嘲る者は澪に言い付ければ捨て置かないだろう。
勇を得た律は、顔、胸部、腹部から腰回り、太腿と、正面からの角度の写真も撮っていった。
それら五枚の画像とメッセージを唯達に向けてグループ送信し終えた頃、
会計を済ませた澪が声を掛けてきた。

「お待たせ。そっちの首尾はどうだ?」

「今、送信した所だよ。
今日のりっちゃんのファッション、って感じの簡単なメッセージを添えてね。
サングにも通知行ってるでしょ?
ねーね、ところでサング。幾らだったの?」

 律は自分の分は自分で出すつもりだったが、澪は首を振っている。

「いい。律は気にするな。今日はお前の誕生日なんだしな」
80 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/10(水) 21:04:00.06 ID:u9YDDC8ko
「えーっ?悪いよー、悪いー。
誕生日って言っても、こんな素敵な服までプレゼントしてもらったんだし。
この上、料理まで御馳走してもらうなんて」

 律が恐縮しても、澪は奢る姿勢を頑として崩そうとはしない。

「私にも見栄があるんだよ。今日の私はサングとして、律の彼氏役なんだろ?
偽装とは言え、彼女に甲斐性無しのように扱われるのは屈辱的だ。
だからお姫様はこの程度の金の心配を一切するな。
生々しい現実の処理は一切を私が請け負う。
今日は私に恰好付けさせてくれ」

「っ」

 短い息が空を切る。
声を出そうとしても、舌が痺れて発声できなかったのだ。
澪の凛々しい態度に、芯から感電してしまっている。

「出よう。次の場所へ攫って行くよ」

 棒立ちしている律の腰に、澪の右腕が回された。
その侵略の早さは、驚きの声を上げる暇すらも与えてくれない。
右側に突き出た腰骨が、早々と澪の右手に掌握されていた。

「っ」

 変わらず、口唇から声は出ない。荒い吐息が、断続的に漏れるだけだ。

「おいで」

 律の腰部を抱く澪の腕に、力が籠もった。前へと促す圧力が、律の足を動かす。
そうして腰を澪に抱き支えられたまま、律は店を出た。
81 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/10(水) 21:05:04.82 ID:u9YDDC8ko
 退店しても、澪に律を解放する様子は見えない。
腰部に回った澪の右腕に歩みを操られたままだ。
律もまた、熱が滾って発汗する身体を澪へと押し付ける。
掌握されて蕩けてしまった今、支えを失っては歩けそうにもない。

 多くの人が行き交う雑踏を、澪に連れられて歩いた。
注がれる多くの視線が、律を火照らせる。
自意識過剰なのだと自分に言い聞かせても、身に受ける注視の圧力は消えない。
大通りに入ると、より多くの目が律を迎えた。

「ほら、律が綺麗なものだから。皆が一瞥しちゃうよな」

 澪が耳元で囁く。自分の思い過ごしではなく、本当に注目されていたのだ。
店内で自分を撮った時よりも、胸が含羞に疼く。
一人で自分をカメラに映した時よりも、二人で居る今の方が面映ゆい。

「もー、サングったら、何を言うのかしらー。サングが恰好良いからでしょ」

 羞恥を糊塗するように戯けた態度で返したが、言葉自体には本音も含まれている。
今の澪こそ、衆目を振り向かせるに足る凛々しさがあった。

「いーや、律だな」

「んーん、サングだよ」

 言葉を交錯させてから、律は笑みを零した。
梓あたりが見ていれば、『バカップル』と形容するに違いない遣り取りである。
傍から見て呆れられるような言葉の応酬を、澪と交わせる事が嬉しかった。

「何笑ってるんだよ。
全く、律は強情だな」

 そういう澪も微笑を浮かべている。
律の笑みに釣られただけなのだろうが、この気分を共有しているのだと錯覚していたい。
82 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/10(水) 21:06:08.39 ID:u9YDDC8ko
「これだけは退かないもーん」

 律は言って、澪の胸元に頭を寄せた。
曇天とはいえ、密着すれば暑さも増す。
それでも離れるつもりはなかった。
茹だる暑気さえ、寄り添う悦びの前では障害にもならない。

「いや、でもやっぱり律だよ。ほら、皆そこに目が行っちゃってる」

 耳元で囁く声に衝かれ、律は澪の瞳の先へと視線を沿わせた。
途端、反論しようもない物証が、目に飛び込んでくる。
布地を盛り上げる、隆起した恥丘。
本当に、見せ付けているかのようだ。

「なっ、馬鹿ぁっ」

 律は八つ当たりの怒声を上げてから、衆人の投げる一瞥の焦点を窺ってみた。
澪の指摘を裏付けるように、”そこ”一点に注がれている。
自分の身体の一番熱い所を見透かされているかのようだった。
意識すればするほどに、衆目から放たれる熱線が威力を猛らせて襲ってくる。

 だが、その視線に、もう圧されはしなかった。
羞恥が消えた訳ではない。羞恥を乗り越えただけだ。
感情同士の鬩ぎ合いで、喜悦が羞恥を打ち負かしたのだから。
83 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/10(水) 21:07:14.26 ID:u9YDDC8ko
 気付けば、中華街の東門が間近に迫ってきていた。
中華街に入った時と同じ門なのに、違う自分になったような心持で潜る。
確かに別世界へと案内された気分だ。
そして自分がお姫様で居られる時間は、まだ終わっていない。
ゲートを潜ってもなお、律は別世界に生きていた。

「次は何処に攫っていってくれるの?」

 東門を出て真っ直ぐ歩きながら、律は首を傾げて問う。

「すぐ、そこだよ」

 律が澪の答えを聞いて、前方へと目を向けた時。
元町・中華街駅の出入口が、後方へと過ぎていった。

*

84 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/10(水) 21:13:11.84 ID:u9YDDC8ko
>>69-83
 本日は以上です。
 当方、横浜に地縁はございませんので、実際と掛け離れた描写が今後とも目立つものと思われます。
その点、お目溢し頂けましたら幸いです。
 それではまた明日、よろしくお願いします。
85 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします :2016/08/11(木) 04:28:33.83 ID:Z9jZJr810
サンジュネタとはリドルさんにしては珍しいですね。名前だけとはいえ
86 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/11(木) 20:35:44.84 ID:2B6vRpJ6o
こんばんは。
>>83の続きを投下します。
今回は長いです。
87 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/11(木) 20:36:22.19 ID:2B6vRpJ6o

*

7章

 本当に時間は掛からなかった。
東門から直進して、五分も経っていない。
それだけの時間で中華の雰囲気から一転、緑葉茂る木々を散在させた公園に着いていた。
入ってすぐの噴水を迂回して進んだ先では、アスファルトの道が横長に伸びている。
その向こう側は、海だった。
向かい風が海水を擽って、律の鼻に潮の匂いを届けてくる。
波が岸壁に当たって砕ける音も空気を震わせ、律の鼓膜を叩いた。

 右に目を動かせば、鎖で岸壁に繋ぎ止められた船が映った。
そして道の手前側、即ち海の対面にはベンチが並べられている。
だが、そこに腰掛けて海を眺めている人は少なかった。
活発に道を往来する人の多さとは対照的である。
どちらにも属さない律は、澪の隣に立って瞳を右往左往させていた。

「山下公園だよ」

 海に沿って展開するこの公園の名前を、澪が教えてくれた。
律とて、名前くらいは知っている。
みなとみらい21や中華街に比して知名度でこそ劣るが、それでも有名な場所だ。
観光の名所として、或いはデートのスポットとして。

 事実、中華街ほどの密集ではないにせよ、
団体客、親子連れ、そして恋人と思しき男女の組が視界に絶えない。
観光名所の名に負わず、写真を撮る人の姿も目立つ。

「此処が、あの山下公園。人気のデートコースだよね」

 律は声に出して、自分へと言い聞かせる。
そうする事で、デートスポットに澪と一緒に訪れられた喜びを胸へと浸透させた。
88 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/11(木) 20:37:44.29 ID:2B6vRpJ6o
「そうだな。アリバイ作りには丁度いいだろ?」

「アリバイ?」

 律は澪の言葉を反復した。
澪の発言の意図自体は、聞いた瞬間に理解できている。
ただ、気分を壊された不満が、衝動的に口から漏れてしまっただけだ。

「ああ。夜、唯達に見せるのは、デートの途中から、って設定だろ?
だったら当然、その前にも私達はデートしているはずだよな。
明日、自分達が見る前は何処で何をしていたのかって、唯達から訊かれるかもしれない。
こうして事実を作っておけば、中華街と山下公園に行ってましたって、答え易くなるぞ。
実際に訪れているんだから、襤褸は出にくい」

 分かり切った説明が、律に現実を突き付ける。
デートスポットに立ち寄った事も、唯達を騙す策の一環でしかないのだ。
勿論、澪の気遣いに感謝はしている。
律の頼みを周到な計画と入念な準備で先導している上、
魔法に掛かったような夢の舞台まで演出してもらっているのだ。
一日限りの夢とはいえ、忘恩に等しい不満を抱くべきではない。

 そして、明日になれば魔法は解け、自分達の関係も友人でしかなくなる。

「じゃあ、デートっぽい事をしておかないとね。
唯達に言っちゃった大言壮語、実現するくらいにさ」

 ならば、せめて魔法が掛かっている今を、精一杯に享受しよう。
律は明るい声を出すと、岸壁へと走り寄った。

 足を運ぶごとに、右手に見えていた船が正面へ近付いていく。
船の舳先を真向かいに捉えた所で、律は立ち止まって手摺に手を置いた。
眼下に収めた海面と陸地の境界面では、小波がコンクリートに当たって弾けている。
その度、水飛沫とともに潮の匂いが飛散した。

「あっ、律」

 人の間をすり抜けながら、澪も追い付いてきた。
89 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/11(木) 20:38:45.30 ID:2B6vRpJ6o
「まだ、航行している船なの?」

 鎖で繋がれた船を見上げて、律は呟く。

「いや、昔の船だ。運航から引退して、もうそれなりの年数が経ってる。
展示されているだけだよ」

 隣に並んだ澪が教えてくれた。
船首の下の船体には、この船の名称が書かれている。
一瞬、いつもの癖で『丸川氷』と読んだが、
右から左に『氷川丸』と読むのが正しいのだろう。
横文字が逆に流れている所にも、この船が経てきた長い年月が表れている。

「外観だけじゃなく、中も見れるけど。入るか?」

 澪の指に沿って右方へと目を向けると、船の側面へと続く足場が洋上に設けられていた。
その上では、入場する者と退場した者が擦れ違っている。
足場の更に右方に、チケットの売り場らしき窓口も視認できた。

「デッキには出れないんだよね?」

 船の舳先に目を転じて、律は澪へと問い掛けた。
出られたとして、やろうか、やるまいか。律は迷う。
やるとしても、澪の協力は不可欠だ。

「ああ。デッキが開放される日もあるけど、平日は立ち入れないな」

 澪の返答を聞いた律は、落胆と同時に安堵も感じていた。
デッキに出る事が出来たとしても、実践には羞恥の壁がある。
ましてや海の方向は、ここから視認のできない船尾だ。
恥じらいを忍んでも、律の望みが叶うとは限らない。
90 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/11(木) 20:39:32.26 ID:2B6vRpJ6o
「じゃ、私はいいや。
でも、サングが見たいなら、私も付いていくよ」

 律は辞する意思を見せつつ、最終的な決断を澪に委ねた。
本音を言えば、デッキに出られないのであれば踵を返したい。
願望を諦めた律の内部で、別の焦燥が疼き始めている。
飲茶で大量に飲んだ烏龍茶が響いて、膀胱が尿意を訴え始めたのだ。
内装を見学するだけでも興味はあるものの、こちらの鎮静化が先決に違いない。
船中にも手洗いはあるのだろうが、事は急を要するだけに手間の少ない方を選びたかった。

「いや、私もいいよ。
でも、ここで他にやりたい事もないなら、中の展示物だけでも見てみるか?」

 律の内心の焦燥を組んだ訳ではないだろうが、澪も乗り気を見せなかった。
入船すると言ったなら、先に手洗いだけ行かせてもらおうか。
そう対策も思い付いていたものの、不要となった。

「ベンチに座って、海を眺めていたいな」

「夏の海も、そろそろ見納めだしな」

 律の提案を容れた澪が、手を握って先導してくれた。
二人、船から遠ざかる方向へと、海の際に沿って山下公園を進んでゆく。
噴水のある広場が左手に見えた。自分達が入園してきた場所である。
そこを通り過ぎた辺りで、澪が足を止めた。
背の高い澪の目線が落ちて、背の低い律の瞳に向く。

「ここでいいか?」

「うん。丁度、ベンチも空いてるし」

 目を合わせて問う澪に、律は即答した。
見晴らしだけで言うなら、ベンチに座るよりも手摺の前で立っていた方がいい。
殊に噴水の前の歩道では、バルコニーのような扇形の突端が海側に設けられている。
反面、ベンチは舗道の緑地側に据えられており、眺望で劣る事は避けられない。

 だが、律は体力がなく、澪は軽くない荷物を持っている。
落ち着いて海を観賞するには、座っていた方が良かった。
91 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/11(木) 20:40:30.55 ID:2B6vRpJ6o
「じゃあ、ここにするか」

 律の返答を確認した澪がベンチに腰掛けたが、当の律は座らなかった。
落ち着いて海を鑑賞するには、下腹部で疼く焦燥を鎮めなければならない。

「律?」

 澪の首が怪訝そうに傾ぐ。
座る素振りを見せない律に、不審を抱いているらしい。

「えーとね。ちょっと、席外すから。ここで待っていてくれる?」

 顎の前で両手の指を合わせ、恥じらいが伝わるように言った。
澪ならば仕草だけで、律の意図を察してくれるだろう。

「場所は分かるか?何なら、連れて行こうか?」

 律の期待した通り、澪は理解してくれた。
のみならず案内まで申し出てくれたが、律は両手を振って遠慮する。

「えっ?いいよ。サングには、荷物と場所の番を頼みたいし。
だから、場所を教えて?何処が一番近いの?」

 途端、澪の眉根が不愉快そうに歪んだ。
表情の変化は一瞬だったが、見間違いという事はないだろう。
素直に教えてくれると思っていただけに、意外な反応が網膜に焼き付いて離れない。

「場所って、何の場所だ?
それを伝えてくれなきゃ、私も教える事ができないな」

 分かっているくせに。
意地悪く惚ける澪に、律は口を尖らせた。

「何のって、分かってるじゃんかー」
92 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/11(木) 20:41:20.29 ID:2B6vRpJ6o
「ああ、自動販売機の場所か?曇天とはいえ、夏だもんな。
じゃあ、私が買って来てやろうか?
五百ミリの冷たい缶ジュース、一気飲みさせてやるよ」

 澪は言って、嬲るように笑う。
尿意もいよいよ激しさを増した今、
五百ミリもの冷水を一気に飲ませられたら堪ったものではない。
澪は間違いなく、分かっていて律を虐めているのだ。
気に触る事をした覚えのない律は、涙声になって訴える。

「虐めないでよ。何処の場所を聞いているかなんて、言わなくても分かってるくせに。
どうしてそんな」

──意地悪言うの。
と、続ける事はできなかった。代わりに「りっ」と、短い声が律の口から走り出る。
澪に腕を掴まれ、強引に彼女の太腿の上に座らせられたのだ。
驚きと身体に掛かる引力が、律の言葉を奪っていた。

「言わないと分からないのは、お前も同じだと思うけどな」

 耳元で囁かれ、律は心臓を掴まれたような気がした。
心の奥底まで抉り取っていく刃が、澪の声に乗せられている。
言わないと伝わらない。その事実が、澪の言葉とともに重く重く圧し掛かる。
感じ取らせるだけでは、圧倒的に不足だ、と。

「ほら、言ってごらん?取り返しが付かなくなる前に」

 今度は圧力を心ではなく身体に感じた。
律は堪らず、身を捩らせる。
澪の指に下腹部を押されたのだ。
強い力ではない。
だが、尿意が迫り上げている今は、脅威の衝撃となって律を見舞った。

「ん?」

 澪は急かすような声とともに、無慈悲にももう一押し加えてきた。
先程よりも、強い力で。
93 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/11(木) 20:42:18.78 ID:2B6vRpJ6o
「んっ」

 滴が零れそうになり、律は慌てて下腹部に力を込めた。
猶予はない。意地を張っていれば、沈黙は致命傷に至ってしまう。

「お手洗いっ。私、お手洗いに行きたいの。
だから、お手洗いの場所、教えて」

 澪は満足したような顔を浮かべると、律を解放してくれた。

「良く出来ました。まぁ、あれだけ烏龍茶を飲めば、そうなるよな」

 飲ませた張本人に言われたくなかったが、抗議などせずに言葉を待った。
時間が惜しい上に、機嫌を損ねたくもない。

「この角を真っ直ぐ行くだけだよ。そこにある小さい建物がトイレだ」

 澪が腋の角度を狭めて指差した道は、たった今通り過ぎたばかりの道だった。
噴水の脇を通る道のすぐ横に、平行した道が通っている。
続いて澪が指差した先に、律は確かに屋根の姿を認めた。
眼前の角を曲がって直進するだけの道程である。
一聴と一見に留めても、迷いようがなかった。

「ありがと。ここからなら、そんなに遠くないね。
じゃあ、すぐに戻ってくるから」

 礼だけ言って、律は爪先を手洗いに向けた。

「待て」

『マテ?』
 澪に留められては、急く足も止まる。
律は躾けられた犬のように、飼い主の指示を待った。
94 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/11(木) 20:43:20.48 ID:2B6vRpJ6o
「もし野郎から声を掛けられたら、大声を出して私を呼べ。
この距離なら必ず聞き届けて、仕留めてやるよ」

 切れ長の目で律を見据え、澪が言い切った。
自分を独占するかのような言葉に、律は蕩けた瞳を澪へと向ける。
本当に、嫉妬深い恋人であるかのようだ。

「勿論、本当の彼氏ができてお役御免なら、唯達との問題は一番スマートに解決するけどな」

 だが、その感覚も直後の言葉で途切れた。
律が錯覚を起こす度、常に現実が突き付けられる。
目の前に居る恋慕の対象は、本当の恋人ではない。
窮地を脱する為に協力してくれている、親友なのだ。

 だからこそ、律は疑問だった。
此処で都合良く異性から求愛されて付き合えば、唯達との約束は嘘ではなくなる。
本当の彼氏として、逢瀬を披露できるのだ。
それを否む理由など、協力者の澪にはないはずである。

「でもな。そんな恰好している女に声を掛けてくるのは、どうせ下心がある奴だけだ。
その程度の野郎じゃムギや梓が心配するから、付いて行くなよ?
もっと落ち着いた時に、信頼できる相手を選べ」

 律の疑問を先取りした訳ではないだろうが、澪が噛んで含めるように言った。
言うまでもなく、この艶美な服をプレゼントした者は当の澪である。
それだけに、色欲が目当ての輩を追い払う義務も感じているのかもしれない。

 そして律は、先ほど行先を暈して一人でトイレに行こうとした際、
澪が怒っていた理由も分かった気がした。
だが、可能性としては有り得るというだけで、当て推量の域を出てはいない。
律は”他に思い付けなかった”という理由だけで、自信がないままに問い掛ける。

「もしかして、だけど。
サングがさっき怒っていたのって、私が無警戒だったから、なの?」

 護衛が含意された同行の申し出を、律は遠慮してしまっている。
澪の義務感を尊重せず、扇情的な恰好で一人歩こうとした格好だ。
澪が怒りを覚えても不思議ではない。
95 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/11(木) 20:44:33.06 ID:2B6vRpJ6o
「怒ってないよ」

 律の問いを否定する澪は、涼しい顔を見せている。
だが、澪の言葉を額面の通りには受け取れない。
問い掛けた推測が間違っていたとしても、或いは本当に怒っていなかったとしても。
澪は間違いなく、律に対して尋常ならざる厳しい態度で臨んでいた。

 尤も、律にこれ以上追及する余裕などなかった。
膀胱が限界を訴えている。
額から脂汗を滲ませる程に、身を捩りたい程に、耐え難い衝動だ。

「なら、いいんだけど。ごめん、サング。
もう私、耐えられそうもなくて。行っちゃうけど、いい?」

 太腿を忙しく擦り合わせ、態度でも限界を訴えた。
排泄さえ管理されている我が身が、飼い犬のようにも思えてくる。
そのような自分を、惨めだとは思わなかった。
いっそ、本当に飼われて、調教して欲しいと願っている。

「ああ、行っていいぞ。引き留めてごめんな。
今も言ったけど、気を付けろよ」

 許可の出た律は、教えられた道を小走りに進んだ。
それでも履き慣れないチャイナシューズが、急く足の動きを抑えている。
肌に当たる向かい風も鬱陶しかった。背に腹は代えられない。
律は行儀の悪さを承知で、足を大股に動かした。
慣れない靴で無理に走っては転びかねないが、
大きな歩幅で移動するなら安全に距離を稼げる。
そう、思っていた。

 だが、注がれる無遠慮な視線が、律に失態を気付かせる。
大股で歩き始めた時は、然程気に留めていなかった。
下心のある者から見られているだけだろう、程度の認識でしかなかった。
しかし、歩を進めるうち、視線の主に同性も含まれている事を看取した。
自分の身体に何か付いてでもいるのだろうか。
地を大きく跨ぎながら、律は自身の肢体を見下ろした。
そして、頭に上る熱い血の気とともに、理解へと至る。
96 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/11(木) 20:45:41.43 ID:2B6vRpJ6o
 深いスリットが入っている為に、脚の動きに裾も連動して靡いている。
その服を着て大股で動くとどうなるか、律の瞳は捉えていた。
太腿の上に載った裾は脚の動きに沿って滑り、脚の付け根をほぼ露見させてしまっている。
股さえ晒しかねない、際どい位置だ。

 知覚によって生じた夥しい感情の氾濫を、脳は慌ただしく処理している。
それが故、歩幅を縮めろという、脚部に発するべき脳の指令は間に合わなかった。
もう一歩を踏み出す動作が、始まってしまっている。
折り悪く、前方から一際強い風が吹いた。
太腿の内側へと滑った裾が強風に煽られ、横へと靡く。
澪にさえ見せた事のない花冠が、手折られる危機を迎えて──

「っ」

 無意識に裾へと手が伸び、赤裸々な露出は免れた。
裾の端に掛かった指が、際どい所だったと教えている。
律は裾を掛け直すと、顔を俯かせて歩き出した。
此処に留まって居られない。

 露出は免れたと言っても、正面からの話だ。
観測者の立ち位置次第では、網膜に収められたかもしれない。
考えてみれば、危機を自覚した今に限った話ではないのだ。
大股で歩き始めた時から、強風は幾度か受けている。
その間、性器を露出させかねない足取りで歩いていた。
視座によっては、覗けた者が居ても不思議ではない。
自分を見ていた周囲は、どのような感想を抱いただろうか。
考えれば考える程、頭が茹って赤面してしまう。

 幸いにも、手洗いは眼前に迫っていた。
律は顔を伏せたまま、視線の追跡から逃れるように突進してゆく。
晒した痴態を人目から隠したい一心が、律の足を動かしている。
そうしてコンクリートの壁を迂回すると、俯かせた瞳が灰色の四角い入口を視認した。
あの中に逃げ込めば、衆目を遮る事ができる。
お化け屋敷の出口に駆け込む童女のように、律は入口に身を躍り込ませた。
入った途端、安堵の吐息が込み上げてくる。
律は憚る事なく相好を崩し、喉に迫り上げた息を吐き出した。
97 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/11(木) 20:46:45.41 ID:2B6vRpJ6o
「えっ?」

 顔を上げた律は、目に移る信じ難い光景に短い声を漏らす。
律を迎えたのは、男性たちの驚いた顔だった。
何故ここに律が居るのか分からない、彼等の顔にそう書いてある。
そしてその疑問が当然だと、律も瞬時に気付く。
忘我に飛び込んだ先は、男性用の手洗いだったのだ。

「りっ」

 謝る事さえ忘れて、律は飛び出した。顔が熱い。
直後に、隣接する女性用の手洗いに入ろうとしていた同性と目が合った。
男性用の手洗いから飛び出した律を見て、彼女の顔が驚愕に見開かれる。
そして間を置かずに表情が軽蔑へと変わり、彼女は足早に手洗いの中へと消えて行った。

 折悪しく、気まずい所を目撃されてしまった。
その上で軽蔑を隠さなかった彼女と、同じ場所に入りたくはない。
だが、膨張した膀胱が律の選択肢を奪っている。
律は息を詰まらせる思いで、彼女の後を追って女性用の手洗いへと入った。

 先程の女性は、折好く個室の中に身を収めた所だった。
変質者に向ける視線で遇されずに済み、律は胸を撫で下ろす。
しかし、安堵は束の間だった。
見回す目には扉の閉まった個室が飛び込むばかりで、不運を嘆息せずにはいられない。

 早く何処か空かないだろうか。
脂汗を滲ませながら、祈るような気持ちで律は待った。
太腿を擦り合わせて踵で足踏みし、身を捩らせて必死に耐える。
蹲りたい衝動は抑えられても、尿意に悶える身体を鎮める事は容易でない。
個室から聞こえる衣擦れの音にも、用を終える兆候であって欲しいとの祈りを乗せた。
手洗いの中では、音姫であろう擬音だけが絶えずに響く。

「澪の馬鹿ぁ、私の馬鹿ぁ」

 思わず澪を詰ってしまっていたが、間髪を置かずに言い直した。
直後に轟いた浄水の音が、律の思考を押し流す。
一日千秋の思いで待った扉が、遂に開くのだ。
98 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/11(木) 20:47:58.31 ID:2B6vRpJ6o
 実際には、然したる時間は経っていないのだろう。
後続の者は誰も入ってきていないのだ。
だが、待つ身の苦しみの上では、秒針でさえもが緩慢に動く。
今も律は衣擦れの音に耳を傾けながら、穴を穿たんばかりに扉を見つめている。
もうすぐだと分かっているのに、一秒一秒が長く遠く遅い。

 焦らすような間を置いて、漸く先客が扉から出てきた。
待ちに待った瞬間だが、律は下腹部に刺激を与えないよう慎重に歩く。
歩く際の震動さえもが、響いて疼痛のように沁みた。

 個室に入って鍵を掛けた律は、便器の形状を改めて見遣る。
腰掛けずに済む和式である事に、安堵の吐息を漏らしていた。
抗菌スプレーの入ったバッグは、澪の鞄の中に預けたままである。
律は排泄の欲求に急く緊急時でも、衛生面への留意を忘れてはいなかった。
仮に洋式であっても、便座クリーナーやシートがあるなら我慢できる。
それさえなかったら、
トイレットペーパーを便座に敷くという窮余の策に出ざるを得なかった。

 これで安心して、身体の切なる訴えの通りに行動できる。
限界との戦いから開放されるという軽やかな安堵からか、便座へと踏み出す足取りは軽い。
だが、便座の脇に足を置こうとして、律の身体は電流が走ったように強張った。

 律は顎を引いて、身に纏う被服の長い裾を見遣る。
排泄など日常的な生理現象であるにも関わらず、
実際に直面するまでこの問題が頭に擡げる事もなかった。
律は眼球だけを動かして、何度も便座と裾を往復させる。
理解した事態ではあるが、悪足掻きの確認をせずには居られない。

「汚しちゃう」

 往生際の悪い作業を打ち切る為に、律は疾うに確かめ終わっている事を口にも出した。
裾の長いチャイナドレスでしゃがみ込めば、裾が便器の中に落ちて水で汚してしまう。
後方の床や前部の凸部に裾を流す等、方策を頭の中に浮かべてはみた。
だが、僅かな動きで、裾が便器の中に落ちる危険性を排除できない。
加えて、澪から貰ったドレスである。
乾いた床であれ、不浄の場で服を地に付けたくはない。
99 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/11(木) 20:49:13.48 ID:2B6vRpJ6o
 裾を持ち上げればいいのだろうか。
足首にまで伸びる裾の長さを考えれば、非現実的な案だ。
裾を折り畳む事にも思慮を馳せたが、
前方のみならず後方も同様の処置を施さねばならない。
二本しかない手で、上手くできるとは思えなかった。
ましてや、事後に拭く事ができない。

 考え付く案が悉く不採用になる中、無情にも尿意は激しく募る。
膀胱に膨満する尿が波を打って、下腹部を内部から圧しているようだ。
もう、猶予はない。

 律は背中のファスナーに手を回した。
これから行なう事を思えば耳が熱くなるが、葛藤している時間はない。
膀胱が破裂せんばかりに膨張しているのだ。
律はファスナーを下限まで下ろすと、袖から両腕を抜いた。
乳房を露わにして、布が地に付かぬよう慎重にチャイナドレスから両足も抜く。
裾を汚さずに排尿するには、チャイナドレスを脱ぐしかない。

「きゃはっ」

 ドレスを畳んだ律が放った吐息は歪んで、笑い声のように弾けていた。
視界には、裸の我が身を映している。
公共の場で胸部も性器も晒して裸になるなど、我が身ながら変態に思えてならない。
この手洗いの壁を隔てた場では、多くの人が文明的な恰好で行き来しているのだ。
思えば思う程に、心臓が激しく波打って呼吸を乱す。
律の吐く息を、歪ませてしまう。

 淫猥な姿に堕したものの、これで漸く目的を果たす事ができる。
律は畳んだドレスを胸に抱えて、便座に就いた。
余裕はなくとも音姫のセンサーに指を近付け、作動させる事も怠らない。
そして川の流音の響く中、耐えてきた堰を切った。

「うわ」

 排出された液体の不規則な軌道に、律の口から呻きが漏れる。
予期した直線を描かずに、出ると同時に弾けて飛沫を散らしたのだ。
飛散は花火のように一瞬で終わったが、直後の軌道は安定していない。
水溶性の膜に覆われた蛇口から、水を放ったかのような動態が辿られていた。
通り道を邪魔する膜が流水に払われてしまえば、軌道も安定に至る。
事実、律の下腹部が楽になるに連れて、軌道も直線へと転じていった。
100 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/11(木) 20:50:36.05 ID:2B6vRpJ6o

 律は初め驚きこそしたが、原因に付いては瞬時に察しが付いている。
相次ぐ興奮に見舞われる中で、性器から分泌された粘液が尿道口にも被さったのだろう。
流水を弾いて散らした膜の正体は、それに違いない。

 自覚とともに、性的な含羞を抱いた事象の一つ一つが思い出される。
中華街でチャイナドレスに身を纏った時から、律の身体を刺激して止まないものだ。
ここ、山下公園に着いても、興奮と羞恥は律の身から離れていない
殊に、澪と離れて手洗いに向かった時からは、その連続だった。

「うー」

 胸に抱えていたドレスへと顔を埋めて、律は唸った。
身を焼くような記憶が脳裏に巡って、顔を上げてなど居られない。
痴女に思われても仕方がないくらい、媚態を晒してきたのだ。
澪に告白できなかった小心者のくせに、と、律は胸中で呟く。
臆病者らしく、晒した痴態を恥じて落魄に窶していれば釣り合うのだ。
なのに身体は、身の程を弁えていない。
晒した痴態を悦ぶかのように、粘つく体液を分泌して生理現象の軌道さえ変えていた。

 顧みているうちに、用は終わっていた。
腹部の疼きも消えている。
律は顔を上げると、トイレットペーパーホルダーへと手を伸ばした。
早く拭いて、服を着てしまおう。
公共の場で裸身を晒して興奮する淫奔の沙汰から、早く脱したい。
そう思って伸ばした指は、手応えなく空振りしていた。
勢い、指と指が柔らかく当たり合う。

「えっ?」

 律は拍子の抜けた声を漏らした。
衝かれたように、ホルダーへと首ごと視線を振り向ける。
頭を垂れて謝するようなホルダーの蓋に、律は絶句する他なかった。
ホルダーの蓋を持ち上げてみるが、紙も希望も見当たらない。
律は忙しく個室内に視線を走らせたが、
予備のトイレットペーパーが瞳に飛び込む事はなかった。
101 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/11(木) 20:51:38.00 ID:2B6vRpJ6o
「りー」

 律は弱々しい鳴き声を、唇の隙間から零した。
こればかりは、工夫や知恵で乗り切れる類のものではない。
壁越しの個室に話を通して、予備のペーパーを投げ入れてもらえないだろうか。
その案が脳裡を過ぎった直後に、自分へと軽蔑の眼差しを向けた女性の顔が蘇る。
頼める訳がない。
自分の痴態で頭が一杯になり、隣室の挙動など感知する余裕もなかった。
まだあの女性が隣の個室に居る可能性は、決して低くはない。
只でさえ、見知らぬ人にデリケートな儀を頼む事には抵抗があるのだ。
自分を蔑視で遇した人間に懇請するなど、律の弱い心が許容できる事態ではない。

 律は胸に抱くチャイナドレスを見遣った。
このまま、着るしかないのだろう。
理解はしていても、抵抗の念は消えずに残っている。
だからこそ、採り得ない解決策にさえ思いを巡らせたのだ。
貰ったばかりの服に、不浄の跡を付けたくはない。
排尿自体が綺麗に行えた訳ではなかった事も、律の葛藤に拍車を掛けている。
陰部に塗れる粘液が尿を爆ぜさせた際、全ての雨滴が便器へと散っていった訳ではない。
その粘液自身に吸着した尿が、今も律の陰部で泥濘んでいる。
染みや匂いを遮断する下着がない以上、布地や空気が泥濘へと直接触れてしまう。
そうなれば、他者の視覚に嗅覚に、赤裸々な主張を突き付ける惨事へと至りかねない。

 だが。こうしている間にも、澪が律の身を案じて待っている。
悪い男に絆されないよう、念を押して諭してくれた友人だ。
早く戻って、安心させてやりたい。
どうせ選ぶ余地のない懊悩なら、時間を空費しているに過ぎない。
逡巡を経た所で一本道は変わらず、通る時が今か後かの違いでしかないのだ。
結論の出ている事なのに澪を待たせる訳にはいかない。
澪を不安の渦中に置いて、焦らして煩悶させる訳にはいかない。
律は、覚悟を決めた。羞恥が何だというのだ。

 律は立ち上がりざま、チャイナドレスを広げた。
裾が床に付かないよう、そして布地が湿地に付かないよう、慎重に足を通す。
両腕も袖に通してチャックを締めると、僅かに姿勢を前傾させた。
腰を支点に、裾が下へと真っ直ぐに伸びる。
律は裾の具合を確認しながら、緩やかに背筋を伸ばしてゆく。
裾の布地が恥丘に触れたが、滲み出してはいない。
背筋が伸びきっても、染みが布地に浮き出る事はなかった。
102 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/11(木) 20:52:47.59 ID:2B6vRpJ6o
 律は心労を押し出すように、長く息を吐き出す。
幸いにも、布地が触れる個所の大部分は、体液の付着の具合が少なく済んでいた。
直下に濃く塗れたゾーンがある以上、楽観まではできない。
それでも気を付けて歩けば、惨事には至らないだろう。

 たかが排尿に、多くの時間と労力を割く羽目になったものだ。
律は疲弊の我が身に呆れながら個室を出た。
入れ替わるように、律の出た個室へと人が吸い込まれてゆく。
待たせてしまった相手は、澪だけではなかったらしい。
自身の優柔不断を省みながら、律は両手を洗う。

 無手の律はドライタオルに濡れた手を翳すに留め、トイレを後にした。
せめてハンカチだけでも持ってくれば良かったと思う。
言うまでもなく、手を拭く為ではない。
染みて匂って悟られないかとの懸念を、粘って纏わる液もろともに払拭する為だった。

 澪の下へと戻る道は険しさを増して、辿る律を苛んでいる。
風で煽られる度、痴態が露わになってしまいそうだった。
今や、太腿を滑るスリットだけが脅威なのではない。
風や動作で匂いが飛散して、往来する人の鼻腔に痴女の存在を宣していないだろうか、と。
律は頻りに周囲を気にしながら歩いた。
103 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/11(木) 20:53:57.96 ID:2B6vRpJ6o
 四方へと張り巡らせた律の意識も、愛しき者の姿を捉えては一点へと収まる。
無遠慮な視線に犯され続けた律を、澪は抱擁で迎えてくれた。
腰と肩に回された澪の手も、耳元で囁かれる澪の声も、
律は多淫に仕上がった一身で受け入れる。
澪が、欲しい。
生殺しにされた性が疼いて、澪を欲している。

「やはり今のお前は、一際目を引いているな。
命知らずな野郎に絡まれたりしなかっただろうな?」

 言った後で、澪が威嚇するように鋭い瞳を左右に振った。
獲物の横取りを許さぬが如き澪の剣幕に怯んだのか、
律に注いでいた不躾な視線の群れが一様に伏せられる。
いつになく激しい澪の態度が、
自分が掛けてしまった心配の大きさを物語っているようだった。
律が葛藤に費やした時間を、澪は心労に費やしていたに違いない。
自分が彼女の下を離れて手洗いへと行く時から、澪は律を案じていたのだから。

 もし、これが唯ならば、と律は思う。
「遅いよー。あ、もしかして。りっちゃん、うんこ?」
などとデリカシーの欠片もない問いで、律の乙女心を踏み躙っていたに違いない。
脳裡には、嘲弄的な笑みを浮かべた唯の顔が蘇っている。
彼氏の有無で揉めた先日、律を煽ってきた時に見せた笑みだ。

 澪ならば、思っても口にはしないだろう。
現に、心配の言葉だけを掛けてくれているのだから。

 そこまで考えて、律の胸が焦燥に急いた。
澪には、野卑な想像さえも避けて欲しい。

「うん、大丈夫。でも遅くなって、心配掛けちゃったよね。
ただ、お手洗いで順番待ちしちゃって。紙もなかったし」

 言い訳でもするかのように、言葉が自然と口を衝いていた。

「紙がなかったのか?それで、どうしたんだ?
ティッシュも何も持って行ってないだろう?」
104 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/11(木) 20:55:35.98 ID:2B6vRpJ6o
 澪がその疑問を口にするのも当然ではあるが、答えるには躊躇する。
抱いて当然の疑問だけに、問われるとの予期もあった。
そして、紙がなかったなどと余計な事は言わず、
手洗いが混んでいたとだけ伝えていれば、受けずに済んでいた問いでもある。
にも関わらず正直に告げたのは、澪を心配させた負い目があるからに他ならない。
答えも正直を貫いてこそ、責を果たした事になるのだろう。
加えて、澪に確認しておきたい事もあった。
律は逡巡を押し遣って、重い口を開く。

「拭いてないの。それでね、本当のこ」

「えっ?拭かずに出たのか?どうりで強い匂いが」

 律が言い切らないうちに、驚いた様子の澪が声を割り込ませていた。

「ええっ?」

 律も澪にみなまで言わせていない。
受けた衝撃の大きさ故、最後まで口を閉じている事ができなかったのだ。
──本当の事を言って欲しいんだけど──などと前置きして、澪に問うまでもなかった。

「うっ、嘘っ?やっぱり匂うの?分かっちゃうの?」

 瞳の奥から滲んでくるものを感じながら、律は半狂乱に問う。
羞恥のあまり、泣き出してしまいそうだった。

「ごめんな、冗談だよ。律からはいい匂いしかしないよ。
いや、冗談というよりは、いつも以上に快い香りがするように感じるよ」

 柔らかく告げる澪の声が、取り乱していた律の鼓膜を叩く。
律は潤んだ瞳で澪を見上げながら、瞬きを繰り返した。
そうして、澪の言葉を咀嚼して遅い理解に至った律は、抗すべく口を尖らせる。
言いたい事ばかりが脳裏を巡るが、喘ぐような呼気に阻まれて声が上手く出せない。
唇の隙間から短く一言漏らすだけで、精一杯だった。

「意地悪」
105 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/11(木) 20:56:52.82 ID:2B6vRpJ6o
「ごめんな」

 澪がハンカチで律の目元を優しく叩いてくれた。
ただそれだけの動作で、あれだけ取り乱していた律の心が落ち着きを取り戻してゆく。
動から静へと至る過程すら、律の心それ自身を以って感じ取れる。
意地悪をされても優しくされると許してしまう。
自分の心は澪に掌握されて為されるがままだと、諦めにも似た気持ちで律は思った。

「でも。正直な所は、どうなの?本当に冗談で言ったの?
匂ったりしてない?」

 落ち着いたところで、律は改めて問い直した。
冗談と言う澪の発言を信じ切る事ができない。
本音を零してしまったが、律の取り乱した態度を見て繕った。
その疑念が、頭に擡げている。

「言ったろ?律からはいい匂いしかしない、って」

 澪は先程と同じ答えを繰り返した。
即ち、澪は今も先程も、無臭だとは言っていないのだ。
そこに律は拭い切れない疑念を抱いている。

「つまりそれって、匂うって事じゃ」

 律は確認するように言うが、口から漏れる声は細く弱く消え入ってゆく。

「そんなに心配なのか?なら、確かめてやるよ」

「えっ?あっ」

 律の了解を待たず、澪が顔を律の首筋に沿わせてきた。
頬に当たる澪の髪の感触が擽ったい。

「ちょっとっ、みっ」

 首の付け根に呼気を感じ、律は堪らず声を上げた。
吸音まで聞いては冷静で居られるはずもないが、
それでも”澪”と叫びかけた声は途中で押し留める。
106 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/11(木) 20:57:52.26 ID:2B6vRpJ6o
「うん。いい匂いだ。
律が気にするような匂いは一切ないよ」

 律の首に顔を埋めていた澪が、表情を持ち上げて耳元に囁いてきた。

「なっ、何言ってるんだよぉ。
そんな事してくれなんて、私言ってないし」

 自分の身体を嗅ぎ取られた律は、恥辱で息も絶え絶えに抗言を張った。
だが、澪に気にした様子は見られない。

「律がしつこく気にしているから、確かめてやってるってだけだろ?
それに。お前、いつから私に命令できるようになったんだ?
私はお前に何を言われようと、お前の身体を好きなように扱うよ。
お前が私に出来るのは、お願いとおねだりだけだ」

 硬直して言い返せない律を眼前に置いて、澪は一呼吸だけ置いて付け加えた。

「だって今日の私は、お前の彼氏役なんだろ?
恥ずかしい事をやらせてきたりする、サディストな彼氏なんだろ?」

 高圧的に振る舞う澪を、律は拒めなかった。
田井中律を所有している者は、自分ではない。
澪の言う通り自分に許されている事など、赦しを乞うように懇願する事だけだ。

「お願い、サングー。
熱くて蒸しちゃって、汗とかもいっぱい掻いてるから。
だから」

「だから、匂わないか心配なんだろ?だから、確かめて欲しいんだろ?」
107 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/11(木) 20:59:11.59 ID:2B6vRpJ6o
 澪が後を引き取って言った。
律が言わんとしていた内容とは正反対である。
だが、律が訂正をする前に、澪は動き出していた。
律の髪の毛に、早くも澪の鼻腔が埋まっている。

「サンッ、うー」

 律は頭に熱気を上らせながら耐えた。
澪の放つ呼気が髪の中で燻り、痒みのような疼きが首筋に走る。

「うん、いい香りだ。ん?暑いのか?耳まで真っ赤だぞ」

「熱いんだよー」

 律は身体の状態を答えたが、澪は同音異義を聞き分けられただろうか。
尤も、問うた澪とて、気温だけが原因だとは思っていまい。
恥ずかしがらせると宣していたのだから。

「みたいだな。
そのせいで今日はいっぱい汗をかいているだろうから、入念にチェックしてやるよ」

 律の襟元から胸部へかけて、澪の鼻が黄色いシルクの上を滑ってゆく。
執拗に嗅ぎ取る吸音を、間断なく響かせながら。

「やっ」

 乳首を鼻の頭で擦られた律は、短い声とともに背を仰け反らせた。

「逃げるなよ。ここは特にいい匂いがするんだ」

 澪の強い力に引き寄せられては、律も抗いようがない。
そう、圧倒的な膂力に屈しただけだ。
澪の甘い言葉に擽られたせいではないと、律は自分に言い聞かせる。

 その間にも澪の鼻梁が、無抵抗な律の胸部を蹂躙していく。
双の房の合間、露出した谷間も、澪に容易く侵略された。
108 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/11(木) 21:00:24.58 ID:2B6vRpJ6o
「堪能したよ。芳しかった」

 律の身体から顔を話した澪が、満足を表情に浮かべて言った。
律は解放感に全身を弛緩させ、口を尖らせる。

「もー、強引なんだから。じゃあ、もうお終いっ。休も休も」

「いーや、お腹や背中も確かめて欲しいだろ?」

 澪の手に力が籠もり、律も再び身体を強張らせた。

「いっ、いいよ。そんな事しなくて」

「遠慮するなよ、お前らしくない。あっ、そうか。
こっちの方が気になるもんな。こっちを確認して欲しいって事か」

 澪は慌てて拒む律を意に解していなかった。
一方的に納得して、律の左腕を持ち上げている。

「あっ、こらっ、だめっ」

 腰を屈めた澪の姿勢に、律も彼女の意図を察して喚く。
急いで腕を閉じようとするが、澪の腕力には適うはずもない。

「ねっ、そこだけは、めっ、なのっ。許してよ」

 律の懇願は、無情にも聞き入れられなかった。
澪の端正な顔が、律の腋へと埋められてゆく。
そして、吸音が、響いた。

「やぁっ」

 顔を反らして呻く律に、自分達へと視線を注ぐ衆人の姿が映った。
一様に軽蔑が顔へと浮かんでいる。

「っ」
109 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/11(木) 21:01:45.40 ID:2B6vRpJ6o
 込み上げる激しい恥辱が行き場を求めて、瞳から雫となり滴り落ちた。
唐突に学校での平穏な日々が思い出され、皆の笑顔が脳裏を巡る。
あの日々の自分と、大衆から蔑みに満ちた視線で遇される自分が、
同じ存在だとは到底信じられない。隔世の感だ。
あの日々を恋しがれば恋しがる程に、涙が溢れて止まらない。

「許してよぉ……恥ずかしくって死んじゃうよぉ」

 涙声を喉の奥から絞り出し、律は必死の思いで嘆願した。
それが通じたのか、単に目的を果たしただけなのか。
澪の顔が律の腋から離れた。

「発汗が他より多い部位だからな。
律の甘酸っぱい香りが濃厚で、病み付きになりそうだよ」

「馬鹿っ。止めてって言ったのに」

 律は濡れた瞳で澪を睨みつけた。

「悪かったな、焦らしたりして。怒るのも分かるよ。
だって、律が嗅いで欲しかったのって、こっちなんだもんな」

 澪の視線が落ちて、律の恥丘へと注がれた。
律は慌ただしく手を当てがって、澪の視線を遮り喚く。

「やぁっ、ここは駄目っ。絶対の絶対の絶対駄目っ」

「匂わないか私に聞いてきたのは、律の方だぞ。
拭いてないんだろ?
だから周囲に匂いを撒き散らしていないか、気になって仕方がないんだろ?」

 澪の言う通りだった。始めに自分から質問している事に違いない。
髪にも首にも胸にも腋にも言及はしていなかったが、
今澪の視線が注がれている局部には言及していたのだ。
そこばかりは、逃れようがない。
そして、強引に蹂躙の限りを尽くした澪が、逃してくれるはずもない。
110 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/11(木) 21:02:49.72 ID:2B6vRpJ6o
「いやっ。ひっく、ぐすっ、えぐぅっ」

 反論も許容もできない律は、泣きじゃくる事しかできなかった。
そこを許してしまえば、往来する人も蔑みの色が強まった目線で律を糾弾してくるだろう。
耐えられない。

 だが、無慈悲にも澪は動いていた。
衣擦れの音が、彼女の息遣いが、人に篭る温度が、律へと迫りながら危機を告げている。

「ひぐっ」

 澪の指が自分へと触れて、律は強く目を瞑った。涙の粒が、瞼から振り落ちる。
だが、吸音は聞こえてこない。澪が触れた場所も恥丘ではなく、頭頂の髪だった。
優しく髪を撫でる澪の仕草に、律は促されたように感じてゆっくりと目を開いた。
その指使い同様に優しく微笑む顔が、霞んだ視界の向こうに映っている。
ぼやけていても分かる、律を甘やかしてくれる時の顔だ。

「悪かったよ。律がそんなに嫌がるなら、やらないよ。
それに。やるまでもなく、分かってる。
何をした後の何処を嗅いだって、律からはスウィーティーな匂いしかしないって事」

 律を気遣う澪の舌は、喋って慰めるだけの用で終わっていない。
律の眼窩の直下に伸びて、零れた涙を舐め取ってくれた。
律は潤んだ瞳で澪を見上げ、顔に這う愛撫を受け入れる。

「泣かせてごめんな。瞳まで涙に濡れてる。
ちゃんと、拭ってやるからな」

 澪の舌は休む暇もなく動いた。
口内に引っ込んで謝罪の言を繰り出した直後には、
再び口唇から飛び出て律へと伸びてきている。
澪の赤い舌先が、明瞭となった視界の中で大きくなってゆく。
111 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/11(木) 21:04:31.23 ID:2B6vRpJ6o
「えぅっ」

 澪の舌先が瞳に触れた途端、律は反射的に瞼を閉じて背も仰け反らせた。
眼を衝いた生暖かい感触が、遅れて瞼の裏で走っている。

 開いたままの右目で見遣った澪は、律の顔を覗き込んでいた。
嫌か?と視線で問うてくる澪に、律は閉じていた瞼を開いて答えに代える。
泣いた自分を慰撫してくれる、澪の愛撫に浴していたい。

 もう一度伸びてきた澪の舌を、律は左目を開いたままで受け入れた。
瞳の上で舌先が転がり、間断なく痛みと違和を律に走らせる。
閉じそうになる瞼を意志で抑える度、異常を訴えるように目の回りの筋肉が痙攣した。

 目の中に入れても痛くない、その思いで澪を見てきた。
だが実際には、慣用句では収まらない思いを抱いていたらしい。
今や、目の中に入れる痛みを受忍してでも、澪を求めてしまう。

「あっ、はぁっんっ」

 深く侵入してくる澪の舌に、律は耐え切れずに声を漏らした。
瞼の裏側が攻められ、眼球の上部曲面に海鼠のような舌が這ってきている。
澪に塞がれて、瞼は閉じられない。瞬きの自由さえも奪われていた。
瞬きせずとも、瞳は乾く暇がない。
澪の唾液が、律の眼に塗り付けられてゆく。

 視界が揺れ動く。
否、何も映っていないのに、視界が揺れている。
酔ったように気持ちが悪い。
嘔吐しそうな感覚が、澪が舌を置く奥の奥の脳から放たれている。
唾液か涙か、眼窩の縁に水気が堪り、自重で頬を伝っていった。

「うえぇ……み、おぉ」

 堪えた嘔吐に代わって、澪を呼ぶ声が口から漏れ出ていた。
サング、などと繕う思考の余裕はない。
瞼に始まった痙攣は全身に回り、立っている事にさえ限界が訪れている。
下半身の力が抜けて、腰から崩れていってしまいそうだった。
膝が、折れる。
112 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/11(木) 21:05:26.84 ID:2B6vRpJ6o
 律が崩れ落ちるよりも早く、澪が機転を利かせて動いていた。
立つ事も侭ならない律の腰に手を回して、身体を支えてくれている。
膝を折ったまま、律は顔を上方へと向けた。
そこに澪の口唇が降りかかってくる。
頭から食べられるような心持ちで、律は澪の唇を眼に受け入れた。
優しい口付けにも、違和に敏い瞳が瞬きの欲求に疼く。

 重力に逆らえないほど身体が困憊していても、律に休む間は与えられなかった。
澪の口唇から這い出た舌先の表面が、律の瞳に覆い被せられる。
澪の味覚を担う器官が、口中の飴玉を転がすように上下に動く。
それは緩慢に始まり、往復を重ねるうちに激しさも伴っていった。
そうして、澪の味蕾を気にしていた律から、それだけの思考の余裕が奪われてゆく。

 目が回る、脳が回る。
眩暈と吐き気に現実感を奪われる中、鋭い痛みだけが律に現実味を与えている。
制御できない涙液が涙腺を通って鼻に落ち、喉にも流れ込んでゆく。
揺らされる視覚を通じて脳が犯され、身体の末端が小刻みに震えた。
汗が、涙が、涎が、自律を保てない身体から流出してゆく。
自我も、保てない。自分が壊れる。

「み……お……」

 壊れてしまう前に、と。
律は荒い息と嘔吐の欲求の間隙から、愛しき者の呼声を喘がせた。
113 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/11(木) 21:06:54.43 ID:2B6vRpJ6o
 直後、空いていた方の目が、愛しき者の姿を捉える。
律の眼窩に被さっていた口唇も間近に見えた。
その隙間に覗く舌先から、細い糸が自分へと落ちている。
唾液が引いた糸だと理解する間に、それは澪の唇の中へと吸い上げられていった。
吸い込んだ澪の喉が鳴り、嚥下を知らせる。

「大丈夫か?」

「うん。ちょっと、くらくらするけど」

 澪の問いに答えるも、
呂律の回らない舌が”ちょっと”どころではないと告げてしまっていた。
舐められた側の目にも痛みの余韻が燻り、閉じた瞼を開ける事ができない。

「だろうな。綺麗にしたら、少し休もうか」

 澪がポケットから取り出したハンカチで、唾液と涙に塗れた律の目元を拭いてくれた。
律は異物感が緩和された左目を、緩慢な動作で開く。
視力が完全には回復していない為か、視界には霞んだ輪郭ばかりが映る。
それも衝撃が齎した一時的なもので、直に戻ってくるだろう。
脳が揺れたような眩暈もまた、少しずつ落ち着いてきている。

 同時に、自分の身体の状態を把握する余裕も戻ってきた。
全身の肌から滲んだ汗で、身体全体が湿気を纏って蒸れている。
吸汗性に優れているシルクの素材の内側にも、
高温多湿の熱気が籠もって肌を沸かせていた。
だが、蒸気に似た湿気が纏わりつく肌よりも、一段と律の注意を引く局所があった。

「おいで、律」

 ベンチに座った澪が、隣の席へと手招いていた。
誘われるままに澪の隣席に座すべきか、律は局所の状態を知覚しながら迷う。
そこを湿らせる液体は、粘液だけではない。
澪に狂わされて制御の効かない身体は、膀胱の隅々からも液体を絞り出していたらしい。
感覚的な濡れ具合が、それを律に教えている。
幸いにも手洗いに行った直後だからか、極めて少ない量で済んでいた。
膀胱の内部に堪った状態であったのならば、
失禁する様をライブで人々に露呈していた事だろう。
114 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/11(木) 21:08:08.34 ID:2B6vRpJ6o
 一方で、同時に湧いた粘液は、夥しい量を律の局所に塗りたくっていた。
溢れた液が脚の付け根を越えて垂れ、性器の真下にある太腿の内側までも濡らしている。
服に染みが浮き出て、淫らな形跡を赤裸々に晒していないだろうか。
恐れながら目を向けた律は、布地が恥丘に貼り付いてしまっている事に気付いた。
局部の形状を、委細隈なく明晰に浮き上がらせている。
目立たないだけで、滲み出た染みも見えた。
だが律は、形跡よりも形状を浮き上がらせる事の方が、遥かに恥ずかしい。
堆い恥丘が布地を突き上げていただけの時とは、含羞の深刻さが違う。
律は慌てて裾を摘むと、布地と性器を引き剥がした。
そうして律は布が肌から離れた開放感の直後に気付く。
蓋を開けて、抑えられない且つ止まらない漏出を招いてしまったのだと。

 酸味の強い匂いが弾け、律の鼻腔を衝いた。
爆ぜた液も地に落ちて、落下地点に染みを増やしてゆく。
地を彩る飛沫の跡から察するに、眼球を舐められている最中にも垂れていたらしい。

「変態」

 澪の口から発せられた罵声に、律は身を震わせた。
だが、目を向けて映る澪の顔に、軽蔑の色は浮かんでいない。
茶化すような笑みが浮かんでいるだけだ。
澪から蔑まれなかった事に、律は胸を撫で下ろす。
澪は律が口にしていた彼氏の像を演じているだけなのだ。

「何をポタポタと漏らしてるんだよ。真性だな。
目を舐められて感じちゃったのか?」

 律は小さく顎を引いて頷くと、小走りで澪の下へと向かった。
まだ脳の奥に残る眩暈が、足元を覚束なくさせている。
それでも転ぶ事なく澪の前まで辿り着ける程度には、回復してきていた。

 迷っていた事に決断を下した律は、澪の眼前に立って口を開こうとする。
だが、言おうとしていた言葉が口中で絡んで出てこない。
先程は恥ずかしさから逃げてしまった事を、頼む決心が漸く付いたというのに。
115 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/11(木) 21:09:19.55 ID:2B6vRpJ6o
 口に出せないのなら、態度で示せばいい。
律は座ったままの澪へ向かって、歩みを進めた。
澪の顔と律の服が触れ合える距離まで、深く狭く近付く。
そうして澪の鼻先へと、恥丘を突き出した。

「何だよ?」

 対する澪の口調は、突き放すように冷たい。
軽蔑するような視線も、律の熱く溶ける局所を突き刺している。

「トイレの時に躾けたはずなんだけどな。
私に何か伝える事があるなら、言葉にしてみろよ。
ここを、どうして欲しいんだ?」

 澪は”ここ”の指し示す部位を、中指の先端で以って強烈に弾いた。
中指の先端を親指で抑えてから弾き出すこの動きは、
所謂「でこぴん」と呼ばれるものではある。
だが、今その呼称を用いるのは相応しくないだろう。
律が打ち込まれた箇所は、額ではないのだから。

「んぅっ」

 固い爪の背が過敏な場所へと叩き込まれた律は、堪らず苦悶の呻きを上げていた。
同時に、打たれた部位が重く湿った音を上げる。
そこに多く含まれた水気が防音材の用を為し、衝撃の齎す轟音を鈍らせたのだろう。
鋭い痛みに息を荒げながらも、部活の成果なのか音に対しては敏感だった。

 打擲の爪痕は、音と痛みだけではない。
地に落ちた飛沫も、澪が与えた一撃の強烈さを物語っていた。
滴を零すほど激しく陰唇が震えたのなら、
体液だけではなく匂いも撒き散らされたに違いない。
だが、澪の嗅覚に届いた程度では、律の本願を満たすには至らないのだ。
116 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/11(木) 21:10:35.43 ID:2B6vRpJ6o
「で、何だ?」

 悶える律に澪は容赦がない。
再び指を構えながら、問いの文句を繰り返していた。

 一方の律も、腰を引きはしない。澪の眼前に構えたまま、躾けられた通りに口を開く。

「嗅いで?」

 泣いて逃げた時よりも艶やかに塗れて匂いの濃くなった性器が、
澪の目先に布一枚を挟んで蕩けて泥濘んでいる。

「それでいい」

 応えた澪の鼻梁が、突き出した律の恥丘を布越しに弄った。
粘つく糊を捏ねるような音に交じって、澪の鼻の鳴らす吸音が響く。

「どうかな?
汗とか……色んな液とかで、凄い事になっちゃってると思うんだけど」

 性感と含羞に身を上気させながら、律は問い掛けた。

「ああ、堪らない。お前の雌の匂いに、脳が犯されてるみたいだ。
こんな垂涎の上物、お行儀良く嗅いでられるかっ」

 前から後ろへと回された澪の大きな両手に、律の臀部が鷲掴みに抱かれる。
そして逃場を失った律の下腹部に、澪の顔が強く強く押し付けられた。
比例して澪の吸音も、強く大きく荒々しくなってゆく。

「もー、飢えちゃって。乱暴なんだからー」

 律は口を尖らせるが、内心は満更でもなかった。
澪は律の香を獰猛に貪るほど、甚く気に入ってくれたらしい。
衆人の中で性的な羞恥を強いられる行為であっても、
惚れた相手に強く求められて悪い気はしなかった。
117 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/11(木) 21:11:44.27 ID:2B6vRpJ6o
「もっと乱暴に扱ってやるよ。
私は恥ずかしい事をやらせる彼氏、だったよな?」

 顔を上げた澪が、確認するような口振りで同意を求めてきた。
間違いなく自分が口にしていた言葉なので、否めはしない。
だが、不要な発言で言質を取られたなどと、嘆ずる念も湧いてはこなかった。
唯達に語った彼氏の像は虚栄ではなく、唯の指摘した通りに願望だったのかもしれない。
と、今更ながら、律は気付いた。

「うん。恰好良くって頭も良くてスポーツも得意で、
優しくて甘やかしてくれてお姫様みたいに扱ってくれて、
でも辱めてきたりもするサディスティックな彼氏、だよ」

 本心だから、だろうか。
律は澪の言葉に、弁も滑らかに同調する事ができた。

「なら、遠慮なく。もう後悔しても遅いから、覚悟だけしろ」

 傲然と言い放って立ち上がる澪を、律は一歩も場を譲らずに迎えた。
元から詰めていた距離である。
澪と律の間で、互いの衣や肉が擦れ合った。
そうして後、二人は互いの肌を向かい合わせて圧し合う体勢となる。
間を置かず、澪の胸の中で律の身体が回り、澪の胸に背を預けて止まった。

「鼻を直接宛がって確かめるだけじゃ不十分だ。
匂いが周りに霧散しないかも、確認しないとな」

 律を後ろから抱き支える澪が、耳元で囁いた。
耳朶に被る息と低い声が、擽るように律の耳小骨を愛撫して響く。
堪らず顔に朱の線を走らせながらも、律は首を縮めて耐えた。
118 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/11(木) 21:12:56.71 ID:2B6vRpJ6o
「それに、濡れて漏れて蒸れちゃってるぞ。
だから、そこの風通しも良くしてやるよ」

 澪は継いだ言葉で律を嬲ってから、左腕を同じ側にある律の膝下へと添えてきた。
そして右腕で律の腰部を支えながら、律の左脚を上方へと引っ張って伸ばす。
右脚との角度が広がるにつれて、股に疼痛が募ってゆく。
左脚が腰と水平になる頃には、裂かれるような苦しみに喘いでいた。
股関節にも強い負荷を感じ、堪らず右脚を跳ねさせて足掻く。
澪に支えられていなければ転倒してしまうだろうが、
転んで地へと逃れた方が如何に楽か知れない。

 一方の澪は、残酷なまでの徹底ぶりで応じている。
自身の右脚を律の股下に割り込ませる事で、拘束の度合いを強めてきていた。
澪の逞しい右脚が、律の右脚に当て木のように添えられる形となる。
これではもう、足を跳ねさせて逃げる事も適わない。
その上で、澪は無慈悲にも左腕に込める力を増していた。

「外れちゃうよお」

 律は息も絶え絶えな口から、泣き言にも似た声を漏らした。
軋む脚の付け根が、股関節の脱臼の危機を告げている。
骨の継ぎ目が擦れる音さえ、腰の奥から響いてきそうだった。
身体が解体される痛みに、律の口から苦悶の吐息が漏れ出る。

 その吐息を限界の合図と見たのか、澪が動きを止めた。
右脚から頭頂部を真っ直ぐに結んで直立する幹の横に、
斜め上へと向けて左脚が伸びている。
爪先の高さと肩の高さが水平に近い律の姿は、
正面から見た者には片仮名のトの字を逆さにしたように映る事だろう。

 尤も、律は記号や象形文字の類ではなく、生身の体を持った人間である。
開脚が止まっても、無理な姿勢で留められた身体は苦痛に軋んだ。
吐く息も荒く、湿り気を帯びている。
119 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/11(木) 21:14:11.33 ID:2B6vRpJ6o
「辛いか?痛いか?苦しいか?」

 問い掛けてくる澪に、律は肯んずる態度と言葉を繰り出そうと思う。
実際、喉元にまで言葉を上らせ、声に出しかけていた。

「私から解放されたいか?」

 だが、続けて放たれた澪の問いを、律は肯んずる事ができなかった。

「どうなんだ?」

 黙した律に、澪が答えを迫ってくる。
そうなのだ。澪は明言を求めている。
全てはお前次第だ、と突き付けられているのだ。

 律は首を振った。
仕草だけでは足りないと思い、言葉も態度に追わせて放つ。

「んーん、解放、しなくていい」

 律の口から出た答えに、脚の付け根が痛みで不満を訴えている。
反面、そのすぐ傍にある律の性の象徴は、口から出た回答を歓迎していた。
律の”ここ”は痛みでさえも甘受して、女としての幸せに変えてしまう。
さながら、出産のように。

「そこは全開の寸前まで開放しかけてるけどな」

 律の腰を抑えていた澪の右手から、発話に合せて中指が伸びる。
指し示す先を目で追うと、斜め上に張られ続けている左脚の根が映った。
左脚の傾斜に沿って裾が肌の上を滑り、
大きく開いたスリットが律の太腿を付け根まで余さず露出させている。
そして、露見は太腿に留まっていない。下腹部の縁の際どい所まで覗けていた。
堆い恥丘が引っ掛かりとなって、滑る裾を極限の所で堰き止めたようにも見える。
危うい縁の差の死守だった。
120 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/11(木) 21:15:37.09 ID:2B6vRpJ6o
「ね、サング。それで、どうかな?
ここまで開放しちゃうと、やっぱり霧散しちゃってるかな?
匂い、撒き散らしちゃってる?」

 全壊の寸前まで開放しかけた股が、絶え間のない激しい痛みを走らせる。
それに発声のテンポを乱されながらも、律は問い掛けた。
付け根付近に湿潤して放たれる艶が、目に付いて離れない。
眼球を舐められて感じ入った際の跡に違いなかった。
ここまで濃く多くの体液を溢れさせてしまった身が、
蓋を極限まで取り払った状態で往来に晒されている。
激痛を押してでも、匂いの程度を訊ねずにはいられなかった。

「誘因されるようだよ。
覆うもの何もなく、ヴェール一枚で視覚だけ遮って、大開脚だもんな。
強烈鮮烈峻烈。
この匂いだと、風向き次第で十メートル越えた所の人間まで振り向かせるんじゃないか?」

「大袈裟、だよ。桁が違うし」

 喘ぐ呼気の合間に言葉を割り込ませ、律は反駁を試みる。

「あながち、大袈裟とは言えないな。ほら、ご覧?
皆、お前に注目してるぞ。放つ香りに誘因されてるんじゃないのか?」

 澪が指摘する通り、今の律は衆目を一身に集めている。
だが、嗅覚に訴えて集客の功を為した訳ではない。
今始まった事ではないのにと、律は口を尖らせた。

「前から、じゃん。さっきから、恥ずかしいかっこ、してるからぁ。
きっと皆、私の事、淫らな女だって思ってるんだ」

 否定できない痴態が、隠せない滴となって股下から落ちている。
下着を剥いだ身では、自重に耐えかねて滴る体液を堰き止められない。
大きく開脚した姿勢も、垂水の湧出に拍車を掛けていた。
121 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/11(木) 21:16:46.93 ID:2B6vRpJ6o
「ああ、そうか。言われてみれば。さっきからずっと、お前見られてたもんな。
遠近を問わず、皆見てから通り過ぎてったっけ。
淫らな、今自覚してるまんまな見目のお前をね」

 今気付いたかのように澪は言うが、白々しい振る舞いを隠そうとはしていない。
説明するような口調にも、態とらしさが染み出ている。
だが、むくれる律に構う事なく、澪は言葉を続けた。

「でも匂いが拡散されているのも事実だよ。
お前が放っているんだって、気付いている者もいるはずだぞ」

「そんなぁ」

 喉から漏れる恥じ入った声を、自分でも白々しく思う。
匂うとの蓋然性を股の具合から自覚して、澪に嗅ぐよう頼んでいたのだ。
澪の物言いを態とらしいなどと詰れた筋合いではない。

「分かってたくせに」

 律の胸の内を透かしたように、澪が追い討ちを掛けてくる。
耳を嬲る言葉に対し反論できず、律は耳朶に熱を篭らせる一方だ。
自身の顔色を視認できずとも、耳まで赤くなる自分が鏡像を通したように自覚できている。
122 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/11(木) 21:17:39.11 ID:2B6vRpJ6o
 行き交う人々も律の羞恥を煽って止まない。
痴態を晒す律の姿は、好奇と下心が込められた視線の的となっている。
勿論、瞥見に留めるだけの理性を持った者が過半ではあるが、
無遠慮に眺めてくる者も少なからず居た。
通りすがりにスマートフォンを構えて、撮影や録画を行う者も散見できる。
大胆にも、デジタルカメラで堂々と撮影及び録画を行っている者さえ居た。
観光地だけあって、デジタルカメラを持ち込んでいる者も少なくはないのだ。
鮮明に、克明に、律の晒す痴態がメディアへと巻き取られてゆく。

 メディアに記録された淫縦な姿は、
動画サイトやSNSにもアップロードされるかもしれない。
田井中律という個人の特定に至るだろうか。
知り合いの目に留まって軽蔑されてしまうだろうか。
そして、ネットを通じて全世界の人々の目に留まり、
この地球という星に生きるありとあらゆる人種から変態のレッテルを貼られてしまうだろうか。
或いは、ワールドクラスの変態として淫祀されるのだろうか。

 視線に犯される状況下で、律の想像が暴走してゆく。
股を裂く鋭い痛みも、自我を保つ用は為していない。
逆に脳から冷静に思惟する余裕を奪う形で、妄想の誇大化に与してさえいた。

「り?」

 その時、母親と手を繋ぎながら歩く子供が律の目に止まった。小学生くらいだろうか。
律の正面前方を通り過ぎようとする彼は、聡よりも幼く見える。
だが、律の方を盗み見る視線に、彼の男性性が萌芽を覗かせていた。
123 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/11(木) 21:18:45.73 ID:2B6vRpJ6o
「あはっ」

 盗み見る彼と目が合った拍子に、律は笑いかけてみた。
言語を絶する痛みの中でも、表情を攣らせる事なく笑顔が作れたと思う。
初体験の最中で彼氏に笑い掛けている気分だった。

「っ」

 反射的に顔を伏せる彼の初々しい姿が可愛らしい。
息を呑んだ少年の吸音まで聞こえてくるようだった。
そして、伏せったまま時折向く横目も、律の悪戯娘としての性を刺激していた。

「えへへ」──ませた子供に悪戯しちゃおうかな。

 律は右手を伸ばすと、左側の下腹部に掛かる裾を摘まんだ。

──いいもの、見せてあげるね。

 痴女の目が我が子へと向いている事に、母親も気付いたらしい。
『見てはいけない』と言う間も惜しんだ母親の手が、我が子の目元へと伸びる。
間に合わない、という焦燥が彼女の顔に表れていた。

 そう、間に合わない。裾を摘まんだ律の右手が、右側へと動く。
そうして晒される生殖器は、間違いなく少年の視界へと飛び込むはずだった。

「こらっ、律っ」

 だが、少年の目は、淫猥な光景に当てられずに済んでいた。
『見てはいけない』と我が子を守る母が居るように、
『見せてはいけない』と律に躾ける存在が居る。
その存在たる澪が、怒声を放ちながら自身の右手で律の右手を払い除けたのだ。
同時に、律の左脚を掴んでいる澪の左手が、戒めるかのように上げる力を増す。
124 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/11(木) 21:19:48.79 ID:2B6vRpJ6o
「痛ぁっ」

 股に掛かる負荷が増して、律は堪え切れずに悲鳴を漏らした。
律は激痛に悶えながらも、少年の母親が自分へと向けた表情は捉えている。
嫌悪と軽蔑と怒りを隠す事なく、眉間も頬も口元も歪めていた。
穢らわしい”忌き物”に向ける表情そのものだった。
それは決して”人”に向けて良い表情ではない。
顔に唾を吐かれた気分で、律は親子の後姿を見送った。
もし射程の範囲内に居たならば、本当に吐き掛けられていたに違いない。

「誰彼構わず、場所も弁えずか?このド淫乱が。
幼い男の子にそんなものを見せて、トラウマになったらどうするんだよ?」

 無言で侮蔑の表情だけ残して去った母親に代わり、澪が怒気を露わに耳元で凄んでいる。

「ごめんなさい。でも、トラウマは人聞きが悪いもん。
そんなグロテスクじゃないし。あ、確かめてみる?」

 弁解の途中で浮かんだ思い付きを口にして、律は裾を摘んで見せた。

「確かめるついでにね。直接、嗅いでみたらどうかなって。
さっきは、生地を間に挟んでたし」

 誘う律の脳裏では、スリットから両肩を露出させて裾に潜り込む澪の姿が浮かんでいる。
そこで律の陰唇に鼻を押し付けて、存分に匂いを吸引するのだろう。
生地を通した匂いでさえ、澪の見せた興奮は常軌を逸していた。
ならば、嗅覚と対象が密着した状態で直接嗅いだのならば、
澪はどんな反応を見せてくれるのだろうか。
悦びを先取りした心が逸って止まない。
125 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/11(木) 21:20:58.24 ID:2B6vRpJ6o
「いーや、私は確かめないよ。私なんかが、そんな事しちゃ駄目だろ?」

 勇む姿を想像していた律にとって、澪の返答は慮外のものだった。
今更、何を言っているのだろう。
澪にブレーキなど存在しないはずだと、律は詰め寄る語勢を強めた。

「今更、じゃんかー。焦らさないでよー。
ここまでやっておいて、そんな事も、駄目も、ないよ」

 股が裂かれる、恥骨が外れる。
律の声を喘がせるその痛みも、抗議の弁に加勢していた。

「あるよ。これ以上は資格がないんだよ。
さっきだって、幼い子供のメンタルヘルスだけが問題なんじゃない。
資格も問われている。
いいか?そこをどうこうしていいのは、お前の恋人だけだ。
そういう存在が本当に現れる時まで、勿体振って取っておけ」

 人の身体を支え続ける事は重労働のはずだが、澪の長広舌は一糸たりとも乱れていない。

「その恋人が、サングじゃんかー。
それに、今更だよ。人前で、こんなに私の身体を辱めておいて」

「だから。サングにその資格がないんだって、お前も分かってるはずなんだけどな」

 耳元で囁く澪の声が、律の意識に冷たい氷を落とす。

「サング如き架空の存在に、お前に関わる全権限を委ねるのは、本物の彼氏に失礼なんだよ」

 澪は言葉を続けながら、律の左足を吊り上げる力も強めていた。
痛覚を強烈な波が走り抜け、律の股下から脳へと突き抜ける。
それは澪の言葉が巡る脳に理解を齎す一撃となった。
ここまでの痛みも、今までの恥辱も、澪が与えるものだから享受できるのだ、と。
余の者では、甘受さえできない。
痛みも恥辱も拒んで、悲鳴を上げてでも逃避していただろう。
それは、律の願望を集めて作り上げた彼氏の虚像でシミュレートしたとしても同じだった。
このサディスティックな彼氏を本心からサングとして扱っていたのなら、
耐えられはしなかった。
──況や悦びの享楽をや。
126 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/11(木) 21:21:51.47 ID:2B6vRpJ6o
「本物の彼氏は……。彼氏なんて、居ないし」

 律は言い淀んで、言い直した。
胸の奥で痞える本心は、喉元まで擡げても口外には至らない。

「それはこれから作れ。度胸か覚悟か勇気か、足りないものを充たしてからな。
取り敢えずは目先の、唯達を騙す事に集中していればいいさ」

 澪の手が、律から離れた。
律を苛んでいた過度の負担が緩和され、身体が軽くなる。
反動からか、律は身体の平衡を失してしまった。
律の肢体が、重力のまま澪へ向かって撓垂れ掛かる。
受け止める澪は、律が左足を地に着けるまで支えてくれた。

「いい子だ、良く耐えて頑張った、偉いぞ。
似合っていたよ、律」

 澪は律を解放すると、ベンチに腰を下ろす前に褒めて労ってくれた。

「おいで、律。好きな所を貸してあげる。私の身体で休め」

 ベンチの右側に腰掛けた澪が、左手で手招きして律を隣席へと誘う。

「うん」

 律は小さく頷いた。
眼球を舐められて回した目が、思い出したように吐き気を再来させている。
痛みに意識を取られていた時は、眩暈も忘れていた。
今になって頭を預けて休みたいと、揺れる脳が訴えている。
127 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/11(木) 21:22:46.65 ID:2B6vRpJ6o
 律は覚束ない足取りで、澪の隣へと向かう。
脳や目の調子だけが問題なのではない。
無理な開脚も確実に足取りを蝕んでいた。
脚の付け根から股に掛けて、痺れるような疼痛が残っている。
それが眩みと相俟って、数歩の距離を天竺への険路に変えていた。

「大丈夫か?」

 蹣跚の体で隣席に辿り着いた律を、澪が労わってくれた。

「大丈夫、じゃないかも」

 律は苦笑を浮かべて返答した。
姿勢を反転させる時も、座す為に腰を下ろす時も、鼠蹊が鈍痛に軋んでいる。
何より、脳に擡げる吐き気は着座した今も収まっていない。
目立った外傷がないだけで、律は満身創痍の体を抱えていた。

「無茶しちゃったもんな。眠ると良い。
唯達との約束には間に合うよう、ちゃんと起こすから」

「そっちが本番だもんね。
じゃあ、お言葉に甘えて、ここ借りるね」

 律は澪の肩に自身の頭を預けた。
極度の疲労と酔ったような吐き気が、律から遠慮する余裕を奪っている。
128 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/11(木) 21:23:38.39 ID:2B6vRpJ6o
「肩でいいのか?何処でも貸してやるぞ?」

「んー、肩でいい」

 律は首を小さく左右に動かした。
律が頭を預け眠る先として、澪の胸部も太腿も申し分のない魅力を擁している。
だが、疼痛の残る股や脚に配慮するなら、首だけ傾ければ済む肩が最も楽だった。

「確かにそこが、一番お行儀は良いかもな。
何処でもいいさ、律が休み易い所なら。今は眠って、しっかりと身体を休めておけ」

 律の髪の毛を右手で撫でながら、その手付きと変わらぬ優しい声音で澪が囁く。
そう、今は身体を休めねばならない。
目が覚めた後は、唯達の前で逢瀬を演じ切らねばならないのだ。
律は今日の使命を胸中で反芻し、重くなる瞼に逆らわず瞳を閉じた。
身心の疲羸の所為か、間を置かずに意識が離れてゆく。

「今夜は長くなるぞ」

 眠りに落ちる一瞬、律は五感も曖昧な夢現の中で、澪の声を聴いた気がした。

*

129 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/11(木) 21:27:18.70 ID:2B6vRpJ6o
>>87-128
 本日はここまでです。
また明日、よろしくお願いします。

 余談ですが、明日より始まるコミケに行かれる方は、暑さにお気をつけ下さいませ。
失礼します。
130 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/12(金) 21:02:49.77 ID:Hh3tvLiko
こんばんは。
>>128の続きを投下致します。
131 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/12(金) 21:03:54.97 ID:Hh3tvLiko

*

8章

 未来を名に冠する港の地に、梓は唯とともに来ていた。
今夜、此処みなとみらいで、律とその恋人の逢瀬を見る為に。

 コーヒーショップに入る前に、梓はスマートフォンに表示される時刻を確かめた。
液晶には15時4分と表示されている。
律に指定された時刻までは、まだ猶予があった。
アナログ時計ならば、長針を三周は回せるだろう。
だが、それを以って時間に間に合ったと言う事はできない。
律の他には誰とも約束していない事が条件となるからだ。

 彼女ならば、出先でも時刻を確認するのに携帯端末は使うまい。
恐らくはアナログ式の腕時計、
仮にデジタルだったとしてもウェアラブル型の端末が手首に嵌まっているはずだ。
梓は確信に近い思いを抱きながら、コーヒーショップに入店する。

「あっ、居た。ムギちゃーん」

 入店するや否や店内を見回した唯が、目敏く紬を見付けて呼び掛ける。
手を振る唯に、紬も手を振って応えていた。
その手首には、想像通りにアナログ式の腕時計が嵌められている。
待たせている間、時計の針と店の出入口の間で瞳を往復させてしまっただろうか。
梓は挨拶に代えて謝罪の言葉を口にしながら、紬の席へと近付いてゆく。

「ごめんなさい、遅れてしまって。待ちましたよね?」
132 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/12(金) 21:05:05.62 ID:Hh3tvLiko
 テーブルには、既に梓と唯の分のコーヒーも用意されていた。
蓋にストローが刺さった容器なので、紬のコーヒーの残量は分からない。

「いいのよ。ちゃんと連絡してくれたじゃない。
それに5分程度、気にしなくていいわ。時間はまだたっぷりあるんだし」

 彼女の本心なのだろう。鷹揚に振る舞う紬から、不満な様子は感じられない。
思い返してみても、梓は紬から怒られた事はなかった。
それだけに以前、唯が体型や彼氏の件で律をからかった時、
紬が唯に取った窘める態度には一驚を喫したものである。

「ごめんねぇ。普段乗らない電車だと、乗り換えとか戸惑っちゃてさー」

 唯も遅刻には申し訳なく思うのか、紬へと素直に謝っていた。

「分かるわ。私も来る事自体久し振りだし、一人でなんて初めてだったから。
結局、唯ちゃん達は東急から来たの?」

 紬の言う通り、東急みなとみらい線みなとみらい駅が、梓達が下車した駅だった。
出口を出てからは、南側の高層ビル群を左手に南西へ向かい歩いている。
そのビル群の中でも、交差点へと突き当たる南端に際立つ高さで聳える建物が、
ここランドマークタワーだった。
交差点を左折した先、梓達が居るコーヒーショップも、
ランドマークタワーの一階の一角を成している。

「うん。ムギちゃんはJRだっけ?海の方?」

 頭の中で地図を広げている梓の横で、唯が応答した。

 みなとみらい駅の出口同様、ここからでも海は見えない。
海はもう一つ交差点を左折し、みなとみらい駅から高層ビル群を跨いだ道路の側だった。
だが、JRで降りていた紬は、ここに来る途中で海を目にしていただろう。

「ええ、桜木町駅」
133 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/12(金) 21:07:27.67 ID:Hh3tvLiko
「私達もそっちを使えば良かったですね」

 梓は自省を込めて呟く。
JRから私鉄に乗り換えたのは、地名が冠された駅を利用してみたかったからだ。
お上りさん根性で余分な料金を払い、遅刻までしているのだから世話はない。
結果も、メトロよりは瀟洒な地下鉄である事を確認できたに過ぎなかった。

「でも、二手に分かれてから集合って言うのも、何かのミッションみたいでいいわね。
そっちの首尾はどうだったかしら?なんて」

「へい、みなとみらい駅の先に、中華街がありやした。
ムギちゃん隊長、今度は中華街にも行ってみたいです」

 冗談めかして戯れる紬に、唯が本音を織り交ぜながら合わせた。
梓は唯の希望を、電車の中で繰り返し聞かされている。
みなとみらい駅で降りる時も、唯は元町・中華街駅に未練を見せていた。

「唯先輩ったら。色気より食い気なんですね」

 呆れる梓に、唯が色を成して論駁してきた。

「色気の方を優先したから、ちゃんとこっちに来たんじゃんかー。
それに、りっちゃん達だって、中華街でご飯食べてたかもしれないよ?
あのまま中華街まで行ってたら、一足早くりっちゃん達を観れたかも」

「何言ってるんですか。自分が食べたいだけのくせに。
大体、遅刻でムギ先輩を待たせておいて、自分達だけ抜け駆けなんて許されませんからね」

 梓は腰に手を当て、眦も吊り上げてみせた。
134 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/12(金) 21:08:50.55 ID:Hh3tvLiko
「まぁまぁ、梓ちゃん。私は気にしてないわ。
それに、唯ちゃんじゃなくても、中華を意識しちゃうのは無理ないと思うの。
二人も見たのよね?綺麗な装いをしたりっちゃんの画像」

 取り成す紬が言い添えた画像の件とは、
律の写真が送られたLINEトークの事で間違いないだろう。
『今日のりっちゃんのファッション』とのメッセージが付されたその画像は、
部活のグループに向けて送信されていた。
冒頭に付されたメッセージに背かず、
チャイナドレスを着た律の画像が五枚貼付されている。
トークを読むに、自分自身で撮影したものらしい。
カメラ視点で映る画像のアングルも、律の言葉通りだと裏付けている。

 中華のシンボルであるチャイナドレスを見たから、
唯が中華料理を意識してしまうのも仕方ない事だと紬は言いたかったらしい。
だが、梓はその説に賛同できない。
チャイナドレスを纏った律は、
露出が多いだけでなく身体のラインも浮き彫りになっている。
律の肢体の際どい所が、まるで見せ付けるように強調されて映ったのだ。
この律のチャイナドレス姿から惹起される欲求は、食欲ではなく肉欲の方だろう。

「ええ、見ました。何というか、凄い大胆な恰好をしていましたね。
あれなら、見間違いようがありません」

 脱いだら凄い、と律は自称していた。
画像を見た今となっては、それが満更の嘘でもなかったらしいと分かる。
決して豊満な肉体ではなく、寧ろ全体的に小振りで華奢な肢体だ。
ただ、身体のパーツは形が良く、それが薄い生地と露出の多い服の下で晒されている。
撫で回してみたい衝動に駆られる曲線美を、律の肢体は備えていた。

「一目見たら忘れられないもの。りっちゃんたら、彼氏の前だとあんなに大胆なのかしら。
綺麗で色っぽくて、可愛かったわね」

 頬を上気させて述べる紬の口上に、梓は顎を引いて肯う。
黄を基調としたチャイナドレスは綺麗で、纏う律の肢体も色香を放っていた。
一方で、律の顔に浮かんでいた表情は、少女のものだった。
目元に朱の筋を走らせながら、はにかんだ笑みを口元に浮かべている。
好きな人の前で少女が背伸びして、綺麗で色っぽい恰好をしているように見えた。
135 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/12(金) 21:10:15.76 ID:Hh3tvLiko
「大胆っていうか、あれじゃ変態さんだよねぇ。
特に下なんて、服を突き上げちゃってて目立ち過ぎ。まるで見て欲しいみたいじゃん。
あれってりっちゃんの性癖?それともやっぱり、彼氏の趣味なの?」

 ──恥ずかしい事もやらせてきたりして。
唯の言葉に触発されるようにして、彼氏を評していた律の言葉が脳裡に蘇る。
サディスティックな彼氏であるらしい。
バンドの大切な仲間である律が、
梓の知らない所で彼氏の好む変態へと染め上げられていたのだろうか。
考えただけで、頭を振りたくなる。

「いいじゃない、似合っていたわ。
あのくらい攻撃的じゃないと、恋愛の戦場では勝ち残れないのね。
それに、羨ましいわ。あんな服が着れて」

 自分の体型を見下ろして、紬が溜息を洩らした。
私だって身体のラインが出る服を着てみたいわ。
”お嬢様”ではなく”女の子”としての紬の本音が、拗ねた仕草から漏れ出てくるようだ。

「まぁでも、これだけ目立っていれば、
私達としてはウォッチしやすくて助かりますけどね。
それが目的、って訳じゃないんでしょうけど」

「そうだねぇ、偶然擦れ違っても、あれなら見落としようがないね。
偶然、こっち来ないかなぁ」

 そうしたら楽なのに、と唯が顎を手に載せて言う。
逆に梓は、弾かれたように顔を上げていた。

「そう言えば。律先輩って、今どこに居るんでしょうね。
もうこっちに着ているんでしょうか」

 梓達は夜を指定されているが、律達の逢瀬がその時刻に始まる訳ではない。
自分達は律が過ごす逢瀬の時間のうち、
切り取られた一部の時間へと触れるに過ぎないのだ。
律は既に横浜へと到着しているかもしれない。
それどころか、彼氏とのデートをさえも始めているかもしれない。
136 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/12(金) 21:11:34.41 ID:Hh3tvLiko
「そりゃ着いて、デートを始めているんじゃないの?
今日の部活、丸一日中止にしてたし。
って事は、りっちゃんはあんな恰好しながら、外で自撮りしてたのか。
ますます露出狂じみてきたね」

 唯が可笑しそうに口元へと手を添えた。

「部活の中止は唯先輩がくっ付いて来ないように、って警戒もあると思いますよ。
でも確かに、用もない時間から、あんな恰好しませんよね。
もうどっかでデートしているか、こっちに向かってきている可能性は高いでしょうけど」

 出掛ける直前に着替えたのだろうと梓は読んでいた。
まさか家でまで、あの恰好で過ごしてはいまい。
律には多感な年頃の弟が居ると聞いているのだから、尚の事だ。
家族、ましてや思春期に差し掛かった弟に破廉恥な姿を見られるくらいなら、
まだ現地で着替える事の方がハードルは低いだろう。

「案外、このランドマークタワーに居たりしてね。
最上階の展望エリアはほら、デートスポットだから」

 紬が天井に指を向けて言った。
梓も横浜を訪れる前に、観光名所くらいは予習して来ている。
山下公園や赤レンガ倉庫も律のデート候補として挙がるだろうが、
ランドマークタワー最上階の展望エリアからの絶佳の眺望も恋人達にとって捨て難いものだろう。
137 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/12(金) 21:12:44.87 ID:Hh3tvLiko
 ただ、それがどれ程有名なスポットだったとしても、
魅力を存分に享受するには満たすべき条件というものがある。
その条件とは、時間であったり天候であったりするのだ。

「ああ。でも、この時間で、この天気ではどうでしょうか。
煌めく夜景は見れませんし、街並みを見通すにも曇っていますし」

「ぷぷぷ、そんなの関係なく居るかもよ?
りっちゃんたら、高い所とか好きそうだし」

 澪が居れば、お前が言うなと窘めていただろう。
姉と敬う彼女が居ない時は、自分が手綱を締めなければならない。
梓は使命感を滾らせて、唯と相対して言う。

「律先輩だって、唯先輩には言われたくないと思いますよ。
何なら、上って来ればどうですか?
唯先輩のお頭なら、きっとお気に召すはずですよ」 

「いやぁー、私はほら、そこまで馬鹿になれる程、
本気の恋に頭を茹らせてはいないんだよね。
まぁあずにゃんよりは先に、馬鹿になるつもりだけど。
クールに気取ってると置いてかれちゃうよ?」

 皮肉を込めた梓の諫言など、唯は気分を害した風も見せずに軽く躱していた。
やはり自分は澪のようにはいかない。

「置いていかれたというなら、私達皆がそうでしょ。
りっちゃんたら、知らない間に先に行ってたものね。
さて、私達も片付けて、そろそろ出ましょうか。今日は勉強させてもらわないといけないわ」

 紬がコーヒーの入った容器を手に取った。
梓も唯も倣って手を伸ばす。
今に至るまで、ストローにさえ口を付けていなかった。
忘れていた訳ではない。食指が動かなかっただけだ。
138 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/12(金) 21:13:47.75 ID:Hh3tvLiko
 喉を鳴らして嚥下した紬が、苦笑交じりに口を開く。

「駄目ね、締まらないわ。やっぱり私達は」

「お茶、ですよね」

 紬の声に割り込んだ梓は、後を引き取って言った。

「だよねー」

「ええ」

 唯が同調の声を響かせ、紬も我が意を得たりと満足そうに笑んでいた。
偶には紅茶でなくとも構わない。だがコーヒーは違う。

 場所代として払ったに過ぎないコーヒーを、梓達はそれ以上無理に飲む事はなかった。
飲み残しと容器を片付けた三人は、そのまま店を後にする。
空調の効いた一室から一転、多湿の暑気が肌に纏わり付いた。

「やっと冷房から解放されたよ。効かせ過ぎ、エコと私の敵だよねぇ」

 冷房を嫌う唯の声が、夏の空気の中を弾んでいく。
夏に怯んでなどいられない。
唯に触発されるように、梓は背筋を伸ばした。
.
139 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/12(金) 21:14:53.01 ID:Hh3tvLiko
 出たばかりのランドマークタワーを左方に沿って歩きながら、梓は頭上を見上げた。
曇天の空へと繋がっているような高層ビルを、再び眼中に収める。

「でも確かに、高層階からの景色は壮観でしょうね。
展望エリア以外だと、やっぱりオフィスとかの入居が多いんですかね」

「そうみたいね。でも低層階にはショッピングエリアもあったはずよ。
後はホテルとかもあるわ。
真中くらいの階層にもあったけど、
高層階、それも展望エリアの直下くらいまでの所にもあったかしら」

 梓は質問ではなく話題を振ったに過ぎなかったが、
同調に留まらない回答を紬が返してくれた。
唯も感心したらしく、丸くした目を紬に向けている。

「ムギちゃん、詳しいねー。
そういえば、来た事あるんだっけ?」

「ええ、家族と一緒に、ここは二度くらいかしら。
オフィスフロアには勿論足を踏み入れていないし、
泊まったホテルもランドマークタワー内じゃないんだけどね。
でもここでショッピングくらいはしたわ」

「展望台は?そこからの景色、眺めてみたの?」

 梓も気になっていた事を、唯が訊いてくれた。

「ええ。とは言っても、子供の頃の話よ。
夜遅くなる訳にはいかず、夕方くらいだったから、
夜景を堪能するにはベストのシチュエーションではなかったわ。
いえ、雨天じゃなかっただけ、マシと思うべきね」
140 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/12(金) 21:16:16.77 ID:Hh3tvLiko
「時間は兎も角、天気だけは選べませんからね。
子供の頃にこの高さだと、展望台まで行くのも大変だったでしょう。
やっぱり直通エレベーターとかあるんですか?」

 高層ビルでは停止する階層ごとにエレベーターが別れている事くらい、
梓とて知っている。
況してや、展望台のように目的がはっきりしているエリアともなれば、
そこにだけ直通するエレベーターが用意されていても違和感はない。

「直通というか、専用のエレベーターね。展望台は有料だから。
そこは今も変わっていないわ」

 復習したのよ、と紬が赤い舌を出した。
過去に体験した記憶だけではなく、事前調査もして来ているらしい。
事前調査は梓とて行っているが、
経験がある分だけ紬の方が広く深くこの地に知見を有していた。

「あっ、船が止まってると思ったら、展示用なんだねぇ。
へー、中も入れるんだ」

 横断歩道を渡って少し歩いた辺りで、唯が前方を指差して言った。
今もランドマークタワーを左手に歩いているが、
横断して歩道を移れば右手に海が見下ろせる。
その海に浮かぶ帆船へと、唯の視線も指先も向けられていた。

 日本丸、と言うのだと、船の名称を紬が教えてくれた。

「展示用の船で、動いてはいないんですね。
まぁ、こんなビル街の近くまで、船が航行したりはしないですよね」

「いえ、遊覧目的のクルーザーや、宴会用途の屋形船なら走っているわ。
この向こう側、汽車道の辺りね。りっちゃん達に指定された場所から見えるはずよ」

 言いながら、紬が指を日本丸の側面へと向けた。
今は船と平行して歩いているが、この先では右折して橋を渡る事になっている。
その先に、ウォッチスポットとして指定されたワールドポーターズがあるのだ。
そこからなら、紬の言う船が走る海も見渡せるのだろう。
141 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/12(金) 21:17:57.13 ID:Hh3tvLiko
「りっちゃん達、お船に乗って登場したりしてね。
でもクルーザーや屋形船じゃねぇ。
きっとこういう船だったら、りっちゃんタイタニックとかやったよ。間違いないね」

 唯が鼻息を荒げるが、梓に言わせれば当の唯もそのポーズを取りそうだった。
今思い付いたイメージではない。
前に合宿で海へと行った時に、
クルーザーの上でタイタニックのポーズを取る唯と律の姿が梓の脳裡に巡っている。
それは想像でしかなかったものの、少なくとも梓は唯をそういう役回りだと見立てていた。

「タイタニックかー、憧れよねー。
りっちゃんたら、映画みたいなデートにしたいって言ってたし」

 恋愛映画の名作であるタイタニックに、紬は憧憬を抱いているらしい。
船の舳先に両手を広げて立つローズと、それを支えるジャック。
あの有名すぎるポーズには、紬のみならず律も憧れているのだろうか。

「乙女だねー、ムギちゃんもりっちゃんも」

 唯が肩を竦める頃には、ランドマークタワーも帆船日本丸も後方に位置していた。
代わって左手にはクイーンズタワーが聳え、右手側には遊園地らしき一角が覗けている。
そして前方に、右折するポイントである国際橋が見えてきていた。

「唯先輩も見習って、少しは乙女らしく振る舞うべきです。
唯先輩は即物的過ぎるんですよ」

「えー、そんな事ないよー」

 当の国際橋までの距離も、唯と論駁を重ねているうちに終わっていた。
右折して橋を渡る頃には、歩道の右手に隣接する遊園地へと唯の興味は移っている。
コスモワールドと言うのだと、またも紬が教えてくれた。
唯の一定しない話題に、紬も梓も慣れている。
そしてコスモワールドを通過した先、
横断歩道の向かいに目的地であるワールドポーターズが見えていた。
142 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/12(金) 21:19:14.69 ID:Hh3tvLiko
「おおっ」

 横断歩道で歩行者用の信号が青に変わるまで待っていると、
唯が不意の発声で梓達の注意を引いてきた。
目を向けると、唯は興奮しながら道路の向こう側を指差している。

「あれ見てよ、あれっ。カップヌードルミュージアムだって」

「ああ、そうですか」

 梓は淡白に答え、喚き立てる唯から視線を逸らした。
食べる事ばかりに興味が向く姿は、乙女から程遠い。
即物的との評価を唯は言下に否定していたが、
態度は言葉よりも正直に彼女の本性を表していた。

「あーっ。あずにゃん何それぇ。食べ物に興味がないって言うの?
そんなだから、あずにゃんは色々とちっちゃいままなんだよ」

 相手にされていない事に腹を立てたらしく、唯が口を尖らせながら貶してくる。
聞き捨てならない言葉に、梓も色を成して応じた。

「なっ。大きければいい訳じゃないって、律先輩にも言われたじゃないですか。
大体、唯先輩は食べる事ばっかりなんです。
横浜まで来てそんなのばっかりだと、
今度は、食い意地が張ってる、とか律先輩に言われちゃいますよ」

「むむっ、それは言われてそうだねぇ」

 唯は腕を組み、眉間に皺を寄せて唸った。

「そうね。私も摘み食いの事がバレたら、言われちゃうかも」

「摘み食い?」
143 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/12(金) 21:20:10.77 ID:Hh3tvLiko
 何の事?と、紬の言葉を反復した唯が問い掛けている。
紬は曖昧な笑みを浮かべただけで答えなかったが、梓には既知の話だった。
ティータイム用の茶請けを摘み食いする紬に、偶然にも出会してしまった事がある。
実際の所は、紬が食べている場面を直接目にした訳ではない。
だが、梓の出現に慌てている紬を不審に思って問い質した所、
摘み食いの事実を白状されたのだった。

 紬が隠れて摘み食いしていると可愛く思え、唯が食べ物に執着していると卑しく思える。
口に出せば唯がまた文句を言うに違いないので、気付いても梓は黙っていた。
恥じらいや気品の違いが齎す差異だと教えた所で、唯が自省する事はないだろうから。

「ほら、前見て下さい。信号が変わりますよ」

 代わりに、信号が青に変わる事を告げてやった。
信号が変わる兆しは、自動車の流れを見ていれば分かる。

 それでも律に恋人が居る予兆を感じ取る事は出来なかった。
自分達のうち、澪を含めた誰一人も、だ。

 横断歩道を渡り終えた直後に、ワールドポーターズの入口が構えている。
幾つもある入口の一つであり、そしてまた、
施設内のウォッチスポットへ向かう道順も複数あるのだろう。
辿る全ての先で同じ解答の用意された阿弥陀籤のようだと、梓は思った。

*

144 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/12(金) 21:22:16.79 ID:Hh3tvLiko
>>131-143
本日は以上です。
また明日、よろしくお願いします。
145 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/13(土) 21:00:21.87 ID:fx1PVUDlo
こんばんは。
>>143の続きを投下します。
146 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/13(土) 21:01:17.73 ID:fx1PVUDlo

*

9章

 優しく揺れた。朧な意識の中、自分を呼ぶ声も聞こえる。
伴って、緩やかに覚醒してゆく脳が、少しずつ現実を把握し始めていた。

「澪?」

「起きたか?ゆっくりでいい、身を起こせ。そろそろ移動しよう」

 澪に声を掛けられている内にも、
律の意識は現状を思い出せる程度には回復してきていた。
澪、との呼び名も間違っている事も思い出す。
今の相手はサングなのだ。

「すっかり眠っちゃってた。今、何時くらい?」

 曇天なので分かり辛いが、眠る前に比べて辺りは暗くなってきたような気がする。
それでも、焦るような時間帯の暗さでもなかった。
夕方の手前くらいだろうとの見当は付く。

「16時過ぎくらい。唯達との約束まで、時間はまだあるけどな。
どうだ?もう歩けそうか?」

 律の読みと、然したる乖離を来たしていない時間帯だった。
この分なら、寄り道する時間くらいはあるだろう、と。下腹部を軽く撫でてから頷いた。

「うん、お蔭様で大分楽になったみたい。行こ?」

 疲労が完全に癒えた訳ではなく、脚の付け根にも疼痛が残っている。
それでも、自力で歩けるくらいには回復していた。眩暈も感じない。
眼の痛みも気にはなるが、邪魔にならない程度には緩和されている。
147 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/13(土) 21:02:50.23 ID:fx1PVUDlo
「とは言え、女の子の身体に過度の無理をさせちゃったからな。
支えは必要だろう?」

 立ち上がった律の腰に、澪の右手が回ってきた。
中華街から山下公園へと来る時にも、この姿勢で二人連れ添って歩いている。

「ありがと」

 律は引き寄せられるままに受け入れて、澪の胸に頭を委ねた。
そのまま二人、眼下の海を右手側に、歩道を真っ直ぐ北西へと歩いていく。
首だけ小さく振り向けて右目で瞥見すると、後方に遠ざかった氷川丸の側面が映る。
振り向く度、小さくなってゆく。

 歩道が突き当りを迎える直前に、澪は左へと進路を変えた。
澪と同じ方角を向く律の目にも、山下公園の出口が見えてきている。
公道まで、もうすぐだ。

「そうだ。水分を摂らないとな。
自販機で冷たいものでも買おう」

 公道に出た直後、澪が律の顔を覗き込みながら言った。

「えっ。私はいいよう」

 咄嗟に遠慮したが、澪に提案を引っ込める気配はない。

「何を言ってるんだ。喉が渇いていないつもりでも、夏は気を付けなきゃいけないんだぞ。
曇っているから直射はないけど、だからといって水分補給の重要さまで翳る訳じゃない。
第一、さっき寝てた時だって、火照って寝汗かいてたぞ?」

 寝汗の感触は微かながら残っているし、喉が全く乾いていない訳ではない。
加えて、夏場は水分補給が重要であるとの主張は、幾度となく耳にしてきている。
だから澪の言う事こそ正しいとは理解していた。
だが、今はより緊迫した要求が、律の身体に再来している。

「うん、分かってるんだけど。
また、ね、お手洗いに行きたくなってきちゃってるから」
148 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/13(土) 21:04:03.06 ID:fx1PVUDlo
 寝ている間に体内で処理された水分が、下腹部に溜まって寝起きの身体を疼かせている。

「あれだけ飲んで、一度のトイレで済む訳もないか。
さっき、トイレに行かなくて大丈夫か聞いておくべきだったな。
律も言ってくれて構わなかったんだぞ。どうする?戻るか?」

 律は首を振った。

「いいの。公園のお手洗いは、もう嫌だったから。さっき、大変な目に遭ったし。
それよりね、この先の何処かに、お手洗いがないかなーって。
ね、それくらい、寄り道する時間はあるでしょ?」

 澪の表情に、余裕を漲らせた笑みが走る。

「ああ、好都合だ。始めからさ、寄り道、するつもりだったんだよ。
トイレだってちゃんとある。そこの交差点を右だ」

 突き当たった広い交差点を右に折れると、前方に上り坂が見える真っ直ぐな道に出た。
その上り坂を歩いて行くうちに分かったのだが、
客船の泊まる埠頭に通じているらしい。

「船に乗るの?」

 道中の自動販売機でペットボトルを購入する澪に、律は訪ねてみた。

「それも良かったけどな。目的と時間帯を考えたら、そぐわなかったんだ。
それに、だ。乗ったとしても、現実問題、律の好みに添えそうもなかった」

 ペットボトルをバッグに収めた澪の手が、再び律の腰へと伸びてくる。
その手を受け入れながら、律は澪の言葉を反復した。

「私の好み?」
149 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/13(土) 21:04:56.91 ID:fx1PVUDlo
「ああ、お前の好み。
それを実現する為の船に代替する手段も、ちゃんと用意済みさ。
お前は私に連れられるがまま、付いて来ればいい。おいで」

 動き出す澪に、律は腰を委ねて歩く。
自分の好みとは何を想定しているのか、そしてどのような手段を以って応えるのか、
律は問わなかった。
委ねているのは身や心だけではない。
降りかかる結果の全てだ。

 この客船ターミナルを擁する埠頭は、
大さん橋と言うのだと澪が歩きながら教えてくれた。
屋上には散歩や遠望に最適な歩道が左右に展開しており、そこを自分達は歩くらしかった。
車道を挟んで歩道の右側を歩いている律達は、大桟橋の屋上も右側を歩くことになる。
そして澪の意図として、降りる時は左側を使うのだろうと律は察した。
先程の交差点を横断した場合と同じ道へと、自分達は出る事になる。

 澪の説明を咀嚼しているうちに、ターミナルの屋上部分へと足は進んでいた。
眼下に海を置いて、澪に伴われた律は坂を上ってゆく。
華奢な体にとって、決して楽な行程ではなかった。
海上を突き抜けて勢いの増した強風が、海原に突端した埠頭を吹き抜けてくる。
その度、律は何度も裾を押さえねばならなかった。

 正面から叩き付けてくる風が絹の生地を肌に張り付かせ、
体のラインをより鮮明に主張させている。
そして、律の肌を撫でた風が、後方へと吹き抜けていた。
後ろを歩く者に淫靡な香を届けてしまったかもしれない。
そう考えて興奮する身体が、自分の物ではないみたいに感じられた。
少なくとも、昨日までの自分では考えられない。
澪と過ごした今日という日が、自分の新しい嗜好を開発してしまったのだろうか。
或いは、埋もれていた性癖が、熱された事で目覚めて表出しただけなのかもしれなかった。
さながら、冬眠していた生物が、暖気で目覚めて土から這い出してくるように。
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