田井中律誕生日記念SS2016(must was the 2014)

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42 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/08(月) 21:36:59.14 ID:F8PqAWbf0

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4章

 律の乗る電車は、横浜駅からみなとみらい線に直通した。
そして律は、みなとみらい駅を電車に乗ったまま通過する。
夜になれば、唯達はこの駅で降りるのだろう。
まだ午後になったばかりの今、律の目的地は此処ではなかった。

 終点の元町・中華街駅で降りた律は、長い地下道を一人で歩く。
澪と待ち合わせている場所は、中華街東門を正面に据えた出口だった。
恋慕の情が細い足を急かすが、期待は禁物だと自分の胸に言い聞かせる。
これは、偽装の逢瀬でしかないのだ。少なくとも、澪にとっては。

 事実、この時間帯に律が此処に来た理由も、
唯達を騙す為の打ち合わせと練習を兼ねたものだ。
夜の時間帯に見せる逢引で、唯達を騙し切らなければならない。
当日の打ち合わせや練習は不可欠だと、澪に言われていた。

 本当のデートなら良かったのに。と、家を出てから何度も胸中で呟いている。
だが、演出された偽りの逢瀬であれ、
恋情を抱く相手と恋人のように振る舞える好機には違いない。
律は無理矢理に自分を奮い起こすと、地上へと出た。

 律の瞳に、入口となる中華街の壮麗な東門が映る。
前途の多難を示すような曇天が恨めしかったが、眼前の門は太陽光などには頼っていない。
薄い光の中でさえ、雅の凝らされた装飾が輝いて律を迎えていた。
仮の装飾でしかない澪との逢引も、この街でなら優雅に映えるかもしれない。
禁物だと分かっていながらも、希望を抱かずにはいられなかった。

「律。ここからはエスコートするよ。今日の私は彼氏らしいからな」

 門に向かって歩こうとした律の足を、聞き覚えのある声が止めた。
一瞬のうちに、律の胸が興奮で沸騰する。
飼い主を見つけた子犬のようだと自覚しながらも、勢いよく振り向く首を止められない。
43 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/08(月) 21:38:09.35 ID:F8PqAWbf0
「澪っ……っ?」

 だが、振り向いた先の人物を見て、律は絶句してしまった。
澪であるはずなのだが、律の記憶にある彼女の容姿と一致しない。
勿論、変装して来る事は分かっていた。
それを織り込んでいても、俄かには信じ難い。
この目に映している者は、秋山澪なのだろうか。

「こら、律。彼氏の名前を間違えるなよ。サング、だろ?」

 律の内心の問いに呼応したかのように、澪が間違いを正してきた。
その通りではある。そうであるように、変装して来たのだから。

 化粧だけ見ても、随分と印象は変わっている。
だが澪が見せた変貌は、そういった可逆的な装いに留まっていない。
それだけならば違いに驚く事はあっても、律とてここまでの動揺はしなかっただろう。

 律は息を急き切らせ、何とか言葉を紡ぐ。

「そうなんだけど。えっとぉ……どうしたの、その、髪」

 昨日見た時は、澪の美しい黒髪は腰に届く程の長さを誇っていたはずだ。
なのに、眼前の澪の黒い髪は、輪郭の縁を覆う程度の長さにカットされている。
もみあげは顎の下にこそ突き出ているが、首の付け根には達していない。
後頭部の髪も項が覗ける長さだった。

「どうしたって、髪形を変えるって言っただろ?」

 澪は周知した事だと言わないばかりの、当然のような口振りだった。
失った髪に対して、執心を片鱗さえも見せていない。

 確かに律は、澪が変装の為に髪形を変えると聞いていた。
ただ、大胆な散髪まで伴う処置になるとは思ってもいなかった。
元の長さには手を加えず、
あくまで髪の纏め方を変える程度に留まるのだろうと認識していた。
命と同視し得る大切な髪を、一時を凌ぐ為だけに切るなど律には発想もできない。
44 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/08(月) 21:39:30.34 ID:F8PqAWbf0
 当の澪が無頓着な様子を見せているのに対し、律の方が未練を感じていた。
律も見惚れていた立派な黒髪が、恋しくて惜しくて切ない。

「何で、そこまでするの?」

 自然と、問う声にも惜しげが込もる。

「この方が、私だって事がバレないからな。
だから昨日、最後の準備に切ったんだ。
唯達と鉢合わせしないように、いつもの所じゃなくって、ちょっと遠出してな。
サロン『ハーゲンタフ』って、ファッション雑誌とかで見たあるだろ?
そこ使ってみたんだ」

 やはり澪は、何でもない事のように言った。
切る前にも葛藤なく、些事を処理する調子で決断したのだろうか。
もしかしたら、その決断も早い段階で下されていたのかもしれない。
律が澪に偽装の恋人役を頼んだ、その日の内に。

 律は澪から、サングの容姿を唯達に伝えるなと言い付けられていた。
あれはこの為の指示だったのだと、今となっては律にも推せる。

「変か?」

 澪の目には考え込んでいる律の姿が、似合わないと言いたげに映ったのかもしれない。
今日の装いの評価を訊ねてきていた。
45 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/08(月) 21:40:39.42 ID:F8PqAWbf0
「んーん」

 反射的に答えてから、律は改めて澪を眺めた。
髪が短くなった事で、澪の端正な顔立ちが前面に出てきている。
毛先にジャギーが入っている為に、ボブのような緩さはない。
逆に、剣の切っ先を長短交えたように、毛の束が鋭く連なっている。
初見では戸惑いが大きく熟視する余裕もなかったが、
落ち着いた今なら確信を持って言える。
澪に似合う、鋭利な印象を際立たせる髪形だ、と。

 顔にも見惚れてしまう。
化粧とはいっても、目元以外は大して手を付けていない。
心持ち、普段より白く見える程度だ。
勿論それだけでも、印象の変化に大きな寄与をしているのだろう。
だが、目元に走るアイシャドウは、別人と為り遂せる装いに決定的な役割を果たしていた。

 眼孔を覆う赤紫のアイシャドウの細いラインが、目尻を越えて引かれている。
醸し出されるエスニックな色気は、中華街の雰囲気に合っていた。
また、鋭い目付きと相俟って、妖艶でサディスティックな色香をも漂わせている。
澪の瞳から、別世界の色を流したようだった。

「カッコいいよ、似合ってるし。
それに、知人が見ても、パッと見じゃ気付かないよね」

 律でさえ、澪なのか俄かには判じかねた程なのだ。
他者が判別を付けるには、凝視が必要だろう。

「ああ。最初は、サングラスやマスクが必要かと思ったけどな。
でも、日焼けした梓や、すっぴんのさわ子先生の例もあるから。
それに、ごつい恰好した奴と歩くなんて、嫌だろ?」

 澪の言葉で、引かれた二つの例を思い出す。
部活の顧問である山中さわ子の時は、暗闇から急に灯が点った時だった。
明順応していない瞳孔も相俟って、
化粧をしていないさわ子が普段とは別人のように見えていた。
思わず「すっぴんのさわちゃん怖い」と言ってしまい、頬を抓られたものだ。
46 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/08(月) 21:41:51.19 ID:F8PqAWbf0
 海で日焼けした梓の例は、更に顕著だった。
クラスメイトの平沢憂や鈴木純までもが、初見では誰だか分からなかったらしい。
そう妹の憂から聞いたと、部活のティータイムで唯が話していた。

 それらを思い出すまで、律もサングラスやマスクが必要だと思っていた。
比して、想起の早い澪は逢瀬の雰囲気を壊す事なく、洗練された対応で解決してくれている。

「嫌だなんて、無理なお願いした私に言えるのかな。
でも、マスクとかで変装されるより、今の方が素敵だよ。
それより、髪まで切っちゃって、本当に良かったの?」

 律は感じ入る反面、澪を巻き込んでしまった自責の念も胸に兆している。
澪の黒髪には、自慢に供しても恥じない美麗さがあった。
もし律が唯達と出来ない約束さえしなければ、今も美しく靡いていたに違いない。

 本当のスリーサイズを明かしたのに、嘘だと扱われた事が悔しかった。
この日の発端となった八月初旬の、あの日の出来事が律の胸に蘇る。

 意地悪く煽ってきた唯に立腹して、意地になって誇大な話を繰り広げた。
勿論、その後先を考えない反射的な対応が、此処に至った最大の原因ではある。
だが、律が自分の嘘に固執した理由は、それだけではない。
澪の反応が見たかったのだ。

 澪に恋情を抱いていた律は、澪が律の嘘に動揺してくれる事を望んでいた。
だが、律の期待に反して、澪は無関心な様子しか見せてくれない。
それでも恋人の話を続けたが、当の澪から冷淡な態度で遇されてしまった。
律も乙女心に応えようとしない澪に苛立ち、先鋭化させた発言を向けてしまっている。
そうして意固地になった律は、
到底果たせられない約束を唯達と交わす羽目に陥ってしまった。
47 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/08(月) 21:43:05.49 ID:F8PqAWbf0
 追い込まれた律は澪に縋り付く以外、進路も退路もなくなっていた。
苛立って反発した相手に泣き付くなど、本来なら屈辱極まりない事である。
律とて澪以外ならば、意地でも助けを求めなかっただろう。
それが澪に対する、度を越した甘えであるとの自覚はある。
だが──

「ああ。前も言ったけど、そっちは髪を下ろしたお前に着想を得たんだよな。
ヒントをありがとな。
それと、恋人から似合っているって言って貰えて、きっとサングも冥利に尽きているよ」

 澪はこうして、律の我儘全てを許すかのように微笑んでいた。
だから律は自立心を堕す事になっても、澪に依存してしまう。
田井中律という一個の人権主体が壊されて猶、律は澪が好きだった。
恋人に、なりたかった。

 律はこの恋の勝算を、皆無と見立てている訳ではない。
澪の自分に対する態度を思い返せば、好意の表れではないかとさえ思えてくるのだ。

 だが、踏み切れない。勇気がなかった。
もし澪の態度に対する自分の読みが、勘違いだったら立ち直れない。
同性愛に対する唯達の目も怖かった。
先日は律の恐怖を裏付けるように、彼女達の異性愛に対する憧憬を見てしまっている。
澪との関係性が変わる事も、未知への不安があった。

 何より。
正式な恋人となると、甘えに正当性が付されてしまうのだ。
それは、澪に淫する依存の歯止めが、本当に無くなってしまう事を意味している。
その状態に至ってしまえば、もう自分自身の所有者を自らに留めては置けまい。
比喩ではなく、澪が所有者だ。
田井中律に属する権利の行使を全て、彼女に委ねる形となるのだから。
主体的な自意識を完全に放棄して、戻れなくなるほど壊れてしまう自分が怖かった。

「私だけじゃないって。誰に見せても似合うって言うよ。
きっと、唯達に見せても」

 自分を壊す決断に至れないまま、律は前言を他者の評価へと一般化して逃げた。
そうして自らの言葉で気付く。
澪の散髪は、今日を凌ぐだけの逃げ道しか提供していない事に。
48 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/08(月) 21:44:16.89 ID:F8PqAWbf0
「あっ。そうだ、唯達だよ。今日は誤魔化せると思うよ?
でも、明日以降どうするの?」

 律は続け様に訊ねた。
明日も部活がある。
そこで髪の短くなった澪を見れば、今日の相手が彼女だったと唯達に気付かれてしまう。

「そのくらい、考えてから髪を切ってるよ。
明日以降を乗り切る策くらい考えた上での行動だから、心配するな」

 澪も当然、その程度の事には気付いていた。
策まで用意しているとは頼もしいが、具体的にはどう対処するつもりなのだろう。

「どうするつもりなの?」

「後で話すよ。それより今は、目の前の中華街に行こう。
おいで。本番のつもりでエスコートするよ」

 澪は空腹らしく、食事を優先していた。
律も食い下がる事なく、素直に従う。
もう髪が切られてしまっている以上、澪の見せる自信を信じる外ない。

 第一、美食の地を目前に置いて、垂涎の思いを留める事も憚られた。
今に至るまで、中華街の前に留まり話し込んでしまっている。
その間にも、大食の澪の胃は食欲で疼いていたに違いない。

「うんっ、そうだね。私も何か、胃に入れておきたいよ。
美味しい物、案内してよ。みぃ」

 澪の表情に気付き、律は言い直す。

「サングッ」

 澪は満足そうに頷くと、律を先導するように緩やかに歩き始めた。
肩紐で脇に垂らしている澪のボストンバッグが、歩みに沿って揺れる。
逢引に用いるよりも、小旅行で使うような大きなバッグだ。
バスドラムの幅を狭めて、奥行きを伸ばした形相が最も近いだろうか。
律は自分が部活で担当しているパートから、サイズに大凡の当りを付けた。
49 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga]:2016/08/08(月) 21:45:39.74 ID:F8PqAWbf0
 そのバッグが翻り、澪の全身も回った。
直後、中華街の東門を背に屹立する澪が、律の瞳に映る。
澪の普段着とは違うコーディネートも相俟って、別世界への案内人のようだった。
澪が夏に長袖を着ている姿など、サマージャケットであっても見た事はない。

 澪は白と黒のボーダーが入ったシャツの上に、
細く青いストライプが施されたジャケットを着用していた。
襟の巾が大きく、縁全体に白いラインが走っている。
そしてボトムはジャケットと同色のスラックスだった。
そのモッズスーツ風の服装の中、目元に走るアイシャドウがエスニックなインパクトを添えている。

「ようこそ。律がお姫様で居られる時間へ」

 確かに律は、別世界へと案内された。
導かれるままに、律は澪の手を取る。
或いは、サングの手を取った。

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