過去ログ - 西島櫂「たまたま」
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8:aho ◆Ye3lmuJlrA[saga]
2013/12/22(日) 17:26:23.93 ID:y7rCDTmB0
「瞳子さん」

 無遠慮すぎるとは思いつつも、尋ねずにはいられなかった。

「じゃあ、瞳子さんは、どうして今まで辞めずに続けてこられたんですか? 何度も辞めたいって思って……それでも辞めずに頑張って、今の成功に辿り着けたのは……どうしてなんですか?」

 過去の成功を根拠に、私には実力があるのだからいつかもう一度、と夢見ていたわけでもないのならば。
 辞めずに続けて来られたのはどうしてなのか。
 そこに、どんな強い想いや、秘めたる信念があったのか。

「……そうね……」

 やはり、瞳子は気分を害した様子は見せなかった。
 顎に手を当て静かに目を閉じ、じっくりと過去を振り返る様子だった。
 櫂は両手を膝に、背筋を伸ばして身構える。
 一体、どんな答えが返ってくるのだろう。
 それを聞いて、自分の中にどんな感情が生まれるのか。
 その感情が、今度こそ水泳への未練を断ち切って、自分を新たな道へと歩ませてくれるのだろうか?
 そんな風に息を潜めて見守る櫂の前で、瞳子は長いこと黙りこんでいた。
 やがて、考え始めたときと同じように、静かに目を開ける。

「……私が辞めなかった理由……それは……」
「そ、それは……!?」

 身体に力が入り、自然と身を乗り出す。
 そんな櫂の前で、瞳子は妙に可愛らしく首を傾げると、

「……たまたま、かしら……?」

 どことなく気の抜けた声で、あっさりとそれだけ言った。
 櫂は身構えた姿勢のまま、数秒ほども硬直する。
 今言われた言葉を数回ほども頭の中で繰り返し、ようやくその意味を悟ると

「……はい?」

 ぽかんと、口が開いた。
 それを見た瞳子は、なんだか少しはしゃいだ声で、

「あら……櫂さん、その表情、ちょっと可愛いわ……」
「え……あ、いや、どうも……じゃなくって!」

 思わずテーブルを叩いてしまう。

「たまたまって……ど、どういうことですか!?」
「ああ……ごめんなさい、何か、ご期待に添えない答えだったかしら……?」
「え……あ、いや、そ、そういうわけじゃ……」

 本当は図星だったので、櫂は動揺する。
 瞳子は相変わらず穏やかに微笑んだまま、

「でも、本当に……思い返してみると、たまたまとしか言いようがなくて……」
「いや、だって……さっき散々大変な目に遭った話ばっかり聞かされたのに、それでも辞めなかった理由がたまたま、ってのは、なんかどうも……」

 もう礼儀も何もあったもんじゃないことを言っているような気がしたが、あまりにも力が抜けすぎて気にしている余裕がない。
 瞳子の方も別段気にした様子はなく、また思い返すように遠い目をして、

「本当に……思うだけじゃなくて、何度も辞めかけたのよ……口で伝えるのは無理かもしれないって思ったから……辞める意志と謝罪の言葉を書いた手紙を握りしめて、事務所のドアを開けた朝もあったわ……」
「辞表みたいなもんですか」
「そうね……」
「でも、受け取ってもらえなかった?」
「ううん、そうじゃなくて……出せなかったの」
「どうして?」
「そういうことがある朝に限って、決まって小さな仕事が舞い込んできていて……事務員さんもプロデューサーさんも、良かったね、良かったねって凄く喜んでくれて……そんなときに辞めるなんて言い出すのは、あまりにも迷惑だから、また仕事がないときにしようって思って……そのたび、手紙をしまい込んだの」
「……間が悪かったってことですか」
「ええ……思い返したら、本当にそういうことばかりでね……だから、たまたま」

 瞳子はくすっと微笑んで、

「でも、結果的には良かったのでしょうね……その間の悪さがなければ、きっと本当に辞めていたでしょうから……」
「はあ……」
「少し歯車がズレていたら……今頃、死にそうな顔でスーパーのレジ打ちでもしていたかもしれないわ……」

 想像してみたらあまりにも似合いすぎていて、櫂は何とも言えない気持ちになる。


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