過去ログ - あなたの物語を。トエル 『氷菓』
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11: ◆KM6w9UgQ1k[saga sage]
2017/01/09(月) 18:41:21.27 ID:fiJYedV+0
肩を揺すると、うめき声をあげながら夫が目覚める。寝ぼけ眼が私と子供の寝顔を捉え、表情が薄い笑みへと変わった。
すまない、知らない間に寝てしまっていた、と断りを口にする夫に私は首を振る。
「いいの、あなたも疲れているでしょうからゆっくり休んでください」
12: ◆KM6w9UgQ1k[saga sage]
2017/01/09(月) 18:42:59.16 ID:fiJYedV+0
夫が私の頬に口づけし、立ち上がって障子戸を開いた。予報通り、夜空には雨雲が浮かんでいる。
まるで明け方からの雨に備えて、その一片一片の雨雲同士がお互いの策を披露している集会のようだった。
明日は雨か。夫がそう漏らし、おやすみと私たち二人に呟いて障子戸を閉じる。私は障子戸へ向かっておやすみと独りごちたあと横になり、
13: ◆KM6w9UgQ1k[saga sage]
2017/01/09(月) 18:43:47.63 ID:fiJYedV+0
隣室へと繋がる障子戸を見遣る。立ち上がれと自らを鼓舞する。
身体を瀰漫していく疲労感に抗うためには、気持ちを奮い立たせる必要がある。私がやりたいことでしょ!
心の内でそう何度も命令し、立ち上がって、隣室へと歩を進めるが、障子戸の引手に手を掛けるとそこでも逡巡が訪れる。
14: ◆KM6w9UgQ1k[saga sage]
2017/01/09(月) 18:45:13.18 ID:fiJYedV+0
本当に私にできるのだろうか? 技術や感性、運といった総合的なものを力や才能とするならば、
それを飛翔させる翼になるものはきっと若さだ。私に力は残されているのだろうか。翼は折れていないだろうか。
雑念を振り払うように、勢いで障子戸を開く。真白なキャンバスが木製のイーゼルの上に鎮座している。
15: ◆KM6w9UgQ1k[saga sage]
2017/01/09(月) 18:45:51.68 ID:fiJYedV+0
目をつぶり、ゆっくりと数字を十まで数える。余計なことを振り払うための私なりのルーチンだ。
匂いがこもるといけないので、中庭に面した窓を開け、脚にカバーを履かせた椅子に腰掛けた。
16: ◆KM6w9UgQ1k[saga sage]
2017/01/09(月) 18:46:41.37 ID:fiJYedV+0
開け放した窓から夏の香りがこの鼻腔を素通りしていく。
脳裏に浮かんでくるのは、どれもこれもオリジナルとはいえない代物ばかり。
苛立ちから、思わず膝小僧にげんこつをぶつけていた。
17: ◆KM6w9UgQ1k[saga sage]
2017/01/09(月) 18:47:41.67 ID:fiJYedV+0
残り時間はどのくらいなのだろうか? 向き合うたび、焦燥感だけが募っていく。
雲間から現れた三日月、夏の虫の音、緩く吹く風。時間は、私から技術だけを奪い去っているわけではなかった。
あらゆる事物のささめきがいまやじっと耳を澄ましていなければ、容易には聞き取れない。
18: ◆KM6w9UgQ1k[saga sage]
2017/01/09(月) 18:48:58.40 ID:fiJYedV+0
現実的に見れば、私の最たる望みが叶うことは非常に難しい。
そう理解しているつもりでも、心がその考えを跳ね除ける。
ありえるわけもない、希望の一握りをこの手にすることができるならば……けれど、そのためには
19: ◆KM6w9UgQ1k[saga sage]
2017/01/09(月) 18:49:53.10 ID:fiJYedV+0
叫び出したい気分になる。何の恥じらいもなく、思う存分夜闇に向けて声が枯れてしまうまで叫びたかった。
責任やしがらみを投げ捨て、全力で走りだしたかった。その間だけでも、きっと色々なことを忘れることができるだろうから。
20: ◆KM6w9UgQ1k[saga sage]
2017/01/09(月) 19:23:29.48 ID:fiJYedV+0
あの子の泣き声……私を呼んでいる。なるべく物音を立てないように、あの子の傍に歩み寄り、
その小さな身体をそっと抱きしめた。子どもらしい、あの柔らかな匂いが私の鼻先をくすぐる。
お気に入りのうさぎのぬいぐるみが所在なげに仰臥し、
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