過去ログ - あなたの物語を。トエル 『氷菓』
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7: ◆KM6w9UgQ1k[saga sage]
2017/01/09(月) 18:37:28.88 ID:fiJYedV+0
蛇口から一粒の水滴が落ちる。どこか添水に通底する趣のある音だった。
私たち日本人はこういった静寂を際立たす音色というのを元来好む傾向にあるらしい。
水滴の音、それを包み込む静寂の気配が、十本の指に夢中になっていた私を現実へ引き戻す。
8: ◆KM6w9UgQ1k[saga sage]
2017/01/09(月) 18:38:29.04 ID:fiJYedV+0
そろそろあがらなければならない。長く浸かるつもりはないのに、いつも私は長湯をしてしまうきらいがある。
添い寝して、子供の様子を見てくれている夫にも悪い。あの人だって随分疲れが溜まっているはずなのだから……それに、
寝室の隣部屋に置いてある道具をあの人に見られることには、痴態が露見するような恥ずかしさがある。
9: ◆KM6w9UgQ1k[saga sage]
2017/01/09(月) 18:39:40.75 ID:fiJYedV+0
過去に置いてこなければならなかったであろう物事に指先を掛け、未練がましく引きずっている様は
誰かに知られたいものではない。ただ、夫は優しい人だから、そのようなことを思ったりはしないだろう。
私のことを未練がましい人間だと一番思っているのは、たぶん私自身だ。
10: ◆KM6w9UgQ1k[saga sage]
2017/01/09(月) 18:40:32.82 ID:fiJYedV+0
夫は案の定船を漕いでいた。ここ数日は酷暑の下での作業が続き疲れ果てている様子だったから仕方がない。
「起きて、あなた」
11: ◆KM6w9UgQ1k[saga sage]
2017/01/09(月) 18:41:21.27 ID:fiJYedV+0
肩を揺すると、うめき声をあげながら夫が目覚める。寝ぼけ眼が私と子供の寝顔を捉え、表情が薄い笑みへと変わった。
すまない、知らない間に寝てしまっていた、と断りを口にする夫に私は首を振る。
「いいの、あなたも疲れているでしょうからゆっくり休んでください」
12: ◆KM6w9UgQ1k[saga sage]
2017/01/09(月) 18:42:59.16 ID:fiJYedV+0
夫が私の頬に口づけし、立ち上がって障子戸を開いた。予報通り、夜空には雨雲が浮かんでいる。
まるで明け方からの雨に備えて、その一片一片の雨雲同士がお互いの策を披露している集会のようだった。
明日は雨か。夫がそう漏らし、おやすみと私たち二人に呟いて障子戸を閉じる。私は障子戸へ向かっておやすみと独りごちたあと横になり、
13: ◆KM6w9UgQ1k[saga sage]
2017/01/09(月) 18:43:47.63 ID:fiJYedV+0
隣室へと繋がる障子戸を見遣る。立ち上がれと自らを鼓舞する。
身体を瀰漫していく疲労感に抗うためには、気持ちを奮い立たせる必要がある。私がやりたいことでしょ!
心の内でそう何度も命令し、立ち上がって、隣室へと歩を進めるが、障子戸の引手に手を掛けるとそこでも逡巡が訪れる。
14: ◆KM6w9UgQ1k[saga sage]
2017/01/09(月) 18:45:13.18 ID:fiJYedV+0
本当に私にできるのだろうか? 技術や感性、運といった総合的なものを力や才能とするならば、
それを飛翔させる翼になるものはきっと若さだ。私に力は残されているのだろうか。翼は折れていないだろうか。
雑念を振り払うように、勢いで障子戸を開く。真白なキャンバスが木製のイーゼルの上に鎮座している。
15: ◆KM6w9UgQ1k[saga sage]
2017/01/09(月) 18:45:51.68 ID:fiJYedV+0
目をつぶり、ゆっくりと数字を十まで数える。余計なことを振り払うための私なりのルーチンだ。
匂いがこもるといけないので、中庭に面した窓を開け、脚にカバーを履かせた椅子に腰掛けた。
16: ◆KM6w9UgQ1k[saga sage]
2017/01/09(月) 18:46:41.37 ID:fiJYedV+0
開け放した窓から夏の香りがこの鼻腔を素通りしていく。
脳裏に浮かんでくるのは、どれもこれもオリジナルとはいえない代物ばかり。
苛立ちから、思わず膝小僧にげんこつをぶつけていた。
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