過去ログ - 速水奏「ここで、キスして。」
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8:znAUHOH90 7[sage]
2017/04/05(水) 01:40:14.96 ID:znAUHOH90
「え?」
「なんかさ、昇格するんだって。まだ確定じゃないけど」
「……へ、へー……そう……」

にやけ顔が消えて、言葉は途切れ途切れになる。平静を装おうとする奏に、後ろ髪引かれる思いになる。

「その、転勤、とか?」
「都内なんじゃないかな、わからんけど……」
「!……そう、どんなお仕事になるのかしら」
「んーそれも詳しくはわからん。何人かのプロデューサーの指揮を執るって感じになるんじゃないか」
「私とプロデューサーさんの間に誰か入るってこと?」
「たぶんな」
「そう、なんだ」

少しだけ泳いだ視線。

「お祝い、しなきゃね。ねえ、次にオフが噛み合うのはいつ? どこにいくか決めておかないと、ね? 仕事で会える機会が少なくなるなら、次にいつ会うかもその時に決めなきゃね」

いつも通りを装った不自然。
手の中を滑り抜けていくものを焦って繋ぎ止めるような、そんなふうな早口だった。
体を起こして近くにこようとした奏を、手首をつかんだまま、押さえ付けた。

「もう会わないほうがいいと思う。」

奏のその時の表情は、少し唇が震えただけで、眼は腹の据わったもんだった。

「どうして?」
「奏はもっと上に行くからだよ。もっと輝ける。」
「なら、ちゃんと最後まで見ててよ。仕事の立場なんかなにも関係ないじゃない。」
「俺の事なんか気にしなくたって良いさ」
「貴方のアイドルよ! 私は!」
「みんなの、だろ?」

しんと部屋が静まった。

「……もう、帰らないとな。あんまり事務所遅くまで開けてたらちひろさんにどやされちまう。」
「……帰っていいなんて言ってないわ。」

手首をそっと離した瞬間、するりと掌を絡めとられる。
しっかりと指を絡めて、決して離すまいとするようだった。

「逃げないでよ。」

まっすぐに俺を貫く琥珀色の瞳。
綺麗な女だなあ、本当に。

「俺じゃお前に釣り合わないさ。」

普通ならすれ違いざまに振り返って呆然と見遣ることくらいしかできないだろう良い女と、たまたまいいタイミングで出会って、少し近くに居られた。
それだけなんだよ、本当に。

「奏は……たぶん、今が人生のすべてだと感じてるだろうけど、実際には10代なんてのは本当に一瞬でさ。これから俺の年になるまで、ずっと濃くて遥かに多くの人間と出会っていく。片や俺はお前に寄っかかってるだけの、何にもねえカラッポさ。上司の指示一つで吹っ飛ぶ、速水奏のプロデューサーって看板取ったら何も残らないただのサラリーマンのおっさんだよ。こんな詰まらん男に、勘違いしちゃダメだ。五年もすれば、ああ、あんな奴もいたな、って思えるようになる。俺じゃとても手の届かない良い女になってな。」

吐露した、情けない本心。奏の若さと純粋さに対する、自分の若くなさと、引け目を感じてしまう卑屈さ。
煌めくばかりの奏と、何も持たない俺。
心のどこかでは、やっぱりわかっている。たぶん奏の未来を邪魔したくないというのも建前で、本当は自分が傷付きたくないんだと。この素敵な女と並んで、幸せにしてやれない惨めさを味わうのが怖かった。
何処までも臆病で、なおさら、釣り合わねえな、と思った。

「なに、それ」

目線を外した独白。再び向き直ったとき、奏はまっすぐ俺を見つめていた。
最初から最後まで、俺が視線をそらしているときも、ずっと、奏は俺から目をそらさなかった。

「馬鹿にしないでよ……」

明らかに高ぶった感情が、締め付けるような琥珀の瞳と、指に込められた力で分かった。それと、震えた声も。
一瞬のうちに、視界は奏でいっぱいになり、近づきすぎて見えなくなった。

「……っ!」

触れ合う唇の感覚。押し当てられる舌の温さ。歯が、かちんと鳴った。
彼女のにおい、熱。思わず息を止めた。時間まで止まった気がした。
不意に強烈な痛みで、留まった意識が覚醒する。ガリ、という音と、広がる鉄の味。
思わず眉をしかめる、唇の感覚。スッと離れていったぬくもり。

「……最低。」

長い睫毛に滴った雫。震える唇は、俺の血で濡れていた。
握り返した手をぐっと押し返し、ぬくもりがすり抜け、事務所から出ていく。
冷めたコーヒーと、ろくでもない男だけが残った。



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