傘を忘れた金曜日には.

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681 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/03/20(水) 00:38:33.51 ID:5P8sYMU/o

 じっくりと目を通しているうちに肩が凝ってくる。
 そもそも俺は文章を読むのが得意ではない。

 こんな調子でやっていけるかどうか不安だけれど、俺は約束してしまった。

 さくらの居場所の作り方なんて、正直なところ見当もつかない。

 そもそも、どうなったらさくらの居場所ができたことになるのかもわからない。

 それでも俺は大言壮語を吐いてしまった。今更飲み込み直すこともできない。

 少なくとも……彼女が甲子園を見に行けるくらいにはしてやらないといけない。

682 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/03/20(水) 00:39:53.56 ID:5P8sYMU/o

 と、少し休憩しているところで、真中がじっと俺のことを見ていることに気づく。

「……なに」

「なんでもない」

 なんとなく変な気分で、俺は両手を机の下に垂らすように伸ばした。

 すると真中は、不思議そうな顔で俺の手の甲に指先で触れた。

 ほんの少しなぞるような感触に、肌がざわつくみたいに動揺した。

 何かを言いそうになったけれど、どうしてか声を出せない。
 周囲の様子をうかがうと、みんなそれぞれが別々のことをしていて、こちらを気にする様子はない。

 真中もまた、みんなの様子をたしかめたあと、静かに俺の手に視線を戻して、指先だけでたしかめるように俺の手を撫でた。
 
 俺が文句を言わないのを見て取ると、真中の指の動きはそれまでよりも大胆なものに変わった。
 手の甲全体を手のひらで包むように動かし、かたちをたしかめるように何度も往復する。

 くすぐったい。

 彼女はテーブルの上に載せた本をもう片方の手でもって、何食わぬ顔でそちらに視線を向けている。

 負けてたまるか、いや、何に負けたことになるのかはわからないけれど、などと考えながら、俺は視線をページに戻す。
 真中はまるで俺の我慢を試すみたいにしばらくその動きを続けた。
 
683 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/03/20(水) 00:40:49.40 ID:5P8sYMU/o

 
 やがて彼女の指先が、俺の手のひらの内側に忍び込んでくる。
 彼女の指が、俺の指の一本一本の根本の間を、爪の先でひっかくみたいにくすぐる。
 
「……」

 当然、俺は集中できないけれど、真中は片手で器用に文庫本のページをめくった。
 指先が絡められる。

 ああもう、と俺は思った。

 彼女の指と指の間に、自分の指を滑り込ませ、黙らせるみたいに握ってやると、一瞬真中が驚いたのが手のこわばりだけでわかる。

 それでも真中はかたくなに手を離さず、顔色も変えない。
 こういうことに関しては、真中は慣れきっているのだ。

 それは俺だって同じだ。数年間ずっと、葉擦れの音が聞こえ続けるなかで生活してきたのだから、さして難しくない。
 そのはずだ。

 真中はしばらく、俺の手の中でじたばたあがくみたいに指先を動かしていたけれど、やがて諦めたみたいにされるがままになった。
 ようやく静かになった、と思って、俺と彼女は互いの手のひらをそのままに、それぞれに文章を読み始めた。

 
684 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/03/20(水) 00:41:17.02 ID:5P8sYMU/o




 佐久間茂の文章の物語。仕掛け。

 それはさして難しい秘密ではなかった。
 別人名義の編集後記や、ところどころの短編小説や散文に、その影を推し量ることができる。

 当然、さまざまな人間が書いた文章という体裁なので、全体像を把握することは難しい。
 
 それでもはっきりと、隠された物語を見つけ出すことはできた。

 それは、『守り神』についての話だった。
 人と人とを結ぶ縁の神。

 少女の姿をした神様は、普段は制服姿で生徒たちの間に隠れ、ひっそりと人々の縁を結ぶ手伝いをしている。
 彼女は誰からも見ることができず、彼女の声は誰にも聞こえず、彼女は学校から出ることができない。

 校門近くの大きな桜の樹。その樹の精だという噂もある。

 その精霊の噂話が、あたかも本当に生徒のあいだでまことしやかに語られていたかのように、ところどころで触れられている。

『さくら』はましろ先輩の空想の友達だ。それはたしかだろう。
『さくら』を連れたましろ先輩が『むこう』に行ったことでカレハが生まれたのだとしたら、そうだ。

 だとすれば、『さくら』が生まれたのは……。

 佐久間茂の書いた『薄明』。
 ましろ先輩の『空想の友達』。
 そして、『夜』と『むこう』。

 その三つが複合的に絡み合った結果なのではないか。
『夜』によって叶えられた『むこう』。そこに踏み込んだ『ましろ先輩』。その『空想の友達』。
 そしてその『空想の友達』、眠っていた空想の友達が、ましろ先輩がこの学校に入学したことで、
『守り神』としての形を持って再構成された。

 ──わたしはこう思ってる。さくらはあの学校にずっと居たわけじゃない。
 ──あの学校にずっと居た、という記憶を持って、ある日突然あらわれたんだって、そう思ってる。

 やはり、ましろ先輩が言っていたとおりなのだろうか。

685 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/03/20(水) 00:41:55.26 ID:5P8sYMU/o

「……いや」

 と、思わず独り言を言うと、瀬尾がちらりとこちらに視線をよこした。

「なんでもない。少し考え事だ」

「……そ?」

 納得のいかないような顔だったけれど(俺は瀬尾に隠し事ができないらしいので仕方がない)、あえて何も聞いては来なかった。

 ……だとすると、カレハはどうなる?

 カレハが生まれたのは、ましろ先輩がむこうにいったとき、そのはずじゃないか。

 ……。
 けれど……。

 そもそもカレハは、どうして、瀬尾がいなくなった頃に、俺の前に姿を見せたんだろう。

 むこうの俺は、六年前からずっと、あの場所に置き去りだったはずだ。
 そのときからカレハが居たなら、カレハが俺の前に現れるのは、もっと前でもよかったはずだ。

 だとすると、こうだ。

 まず、『俺がさくらを見つけた』。
 
 そして、『カレハがむこうの俺の前に現れた』。

 カレハもまた、ずっとあっちに存在していたのではなく……。
 俺がさくらを見つけたから、俺の前に現れることができるようになったんじゃないのか?

 ……さすがに、頭が混乱してきて、パイプ椅子の背もたれに体重を預けて息をつく。

 この仮定が本当だったところで、どう判断したものか。
 ふと、真中が俺の手をぎゅっと握った。俺はされるがままにしておいた。

686 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/03/20(水) 00:42:22.38 ID:5P8sYMU/o
つづく
687 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2019/03/20(水) 00:51:19.82 ID:hZv4zwpOo
おつおつ
続きが気になる
688 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2019/03/20(水) 10:08:34.49 ID:B6sQ61W+0
おつです
689 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2019/03/20(水) 22:37:06.01 ID:36JIBwBg0
おつです
690 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/03/27(水) 22:36:50.49 ID:zBDZg6OAo





「ね、三枝くん。お願いがひとつあるんだけど、いいかな」

691 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/03/27(水) 22:37:17.74 ID:zBDZg6OAo



 部活を終えて帰ろうという段になったとき、瀬尾にそう声をかけられて、俺はいくらか面食らった。

「いいけど……なに?」

 瀬尾はほんの少しためらいがちに、俺の近くにいた真中を見る。
 真中の方はそのまま瀬尾を見返していた。

「……お願い?」

 なんとなく硬直した空気をいさめるつもりで俺が聞き返すと、瀬尾はこくんと頷いた。

 うなずいてからも、瀬尾は言いにくそうにもじもじと視線をそらしている。
 瀬尾が俺に頼み事をするのも珍しいが、こんなふうに落ち着かない様子でいるのも珍しい。

「お願いって?」

「えっとね……」

「うん」

「……せんぱいって」と、黙っていた真中が口を挟んだ。

「ん」

「青葉先輩にはやさしいよね」

「……」

 俺と瀬尾はそろって真中の方を見た。

「……なんでそうなる」

692 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/03/27(水) 22:37:44.97 ID:zBDZg6OAo

「だって、そんな感じするし」

「そんなことないと思う」

 と、瀬尾と俺の声は揃った。

「……失礼なやつだな」

「や、べつにそういう意味じゃなくて……」

「どういう意味だよ」

「三枝くんはみんなに優しいじゃん」

「……」

 俺と真中は顔を見合わせた。

「……せんぱい、どんな弱みを握ったの?」

「俺はどんな人間だと思われてるんだ?」

「……わたし変なこと言った?」

 瀬尾は不思議そうに首をかしげた。
 
「変というか……」

 俺が何かを言うのも違う気がして、話を戻す。

693 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/03/27(水) 22:38:15.70 ID:zBDZg6OAo


「で、結局お願いってなに」

「あ、うん」

 そこで瀬尾は真中の方をちらりと見た。

「……わたし、邪魔?」

「邪魔だってさ」

「や、や。邪魔ってことはないけど」

「いい。せんぱい、今日は先帰るね」

「はいはい」

 俺のうなずきを待たずに、真中はあっさりと去っていった。
 相変わらずのペースで、かえって面食らってしまった。

694 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/03/27(水) 22:38:47.56 ID:zBDZg6OAo


「……えっと、ふたり、どうしたの?」

 瀬尾にそう訊ねられても、俺はうまく答えられずに肩をすくめるしかない。

「どうというか……まあな」

「あらためて付き合うことになったの?」

「そう言っていいものか」

「よくわかんないね」

「複雑なんだ」

 まあとはいえ、事実だけを言えば、俺から告白したようなものか。
 
「よかったの? 帰らせちゃって」

「真中がいたら話しづらい話題なんだろ」

「そうだけど……」

「変な気を使うな」

「……さっきまでベタベタしてたくせに」

 それはまあ、そうなのだろうけど、ここで真中を追ったところで、良いビジョンがあまり見えないのが不思議なところだ。

『今日は先に帰るね』と真中は言った。
 
『また今度一緒に帰ろう』という意味だろう。

 経験上、そういう意味だと思う。

 それからたぶん、このあとに起きることも聞かれるのだろう。
 不思議なものだ。

695 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/03/27(水) 22:39:28.41 ID:zBDZg6OAo


 と、思っていたところで、携帯がポケットのなかで震えた。

 真中から、

「ばか」

 と来た。

「……」

 ごめんと返すと、またすぐに、

「節操なし」

 と来る。

「はくじょうもの」

「うわきもの」

「ごめんて」

「ゆるす」

 許すんだ。

 良い子かよ。

「良い子」

「えへへ」

 ……えへへってなんだ。誰だこれ。

696 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/03/27(水) 22:40:03.26 ID:zBDZg6OAo

 とりあえず対応に困ったので、返信をせずに携帯をしまう。

 それから瀬尾のほうに向き直った。

「それで?」

「あ、うん……。連れてってほしい場所があるんだ」

「……ふむ」

 まあ、ちょうどいいと言えばちょうどいい。
 俺も瀬尾に話さないといけないことがある。

 ちせと、ましろ先輩。
 それから……市川にも。

 とはいえそれはひとつひとつだ。

「じゃあ、とりあえず行くか」

「……うん」

697 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/03/27(水) 22:40:35.59 ID:zBDZg6OAo



「……えと、ね」

 校門を抜けたところで、瀬尾は言いにくそうに口を開いた。

「どうした」

 と訊ねても、やっぱり困ったような顔をするだけだ。

 甘えるような目でこちらを見ている。
 
「なんだよ」

「ちょっとまってね」

 と言って、瀬尾は深呼吸をした。

「まだ、迷ってる部分もあって……」

「……ふむ」

「えと……」

「うん」

 こんな瀬尾も珍しいな、という気持ち以上に、もっと不思議な違和感のようなものがある。
 この感覚を俺は知ってる。

「……『トレーン』」

「え?」

「『トレーン』に、連れて行ってほしいの」

698 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/03/27(水) 22:41:06.63 ID:zBDZg6OAo

 ああ、そうだ、と俺は思った。
 
 今の瀬尾は……さっきの言葉も、そうだ。

 ちどりに似ている。どことなく。

「ほんとはすごく迷ってるの」

「……だろうな」

「だけど、でも……そうしないと、進めない気がする」

 進むって、どこに。

 そう訊ねたかったけど、やめた。

「だけど、ひとりじゃいけない。だから……」

「俺に付き合えって?」

「……だめかな」

「……駄目じゃないよ、べつに、もちろん」

「そ、そう?」

 瀬尾がいいなら、いいのだろう。

「瀬尾は……」

「ん」

「すごいな」

「……なに、急に」

「あとで牛乳プリン買ってやるよ」

「……それ、約束だからね」

「俺は嘘をつかない」

「……それは嘘」

 瀬尾はぎこちなく笑った。
 
699 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/03/27(水) 22:42:02.76 ID:zBDZg6OAo
つづく
700 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2019/03/27(水) 22:48:49.95 ID:dLSrOJbU0
おつです
701 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2019/03/28(木) 00:08:15.15 ID:FYh3U4650
おつん
702 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2019/03/28(木) 16:48:26.65 ID:aAjGkucG0
おつです
703 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/02(火) 23:12:22.89 ID:DGAy5fz9o




『トレーン』の扉を開けるといつものようにベルが鳴る。

 夕方の店内には、何人かの客の姿があった。応対をしていたマスターは、ちらりとこちらに目を向けると静かに笑った。

「いらっしゃい」

 瀬尾は俺の背中に隠れ、店内の空気をたしかめるように呼吸をした。

「どうも」とだけ声をかけて、俺は奥のテーブル席へとむかう。
 瀬尾は黙ったまま俺を追いかけた。

 席についたところへ、いつものようにちどりがやってきた。

「いらっしゃい、隼ちゃん」

 そう言って、いつものように俺を見てから、瀬尾の方へと視線をうつし、
 その表情が不可解そうに揺れた。

 なにか不思議なものを見たような、
 そんな顔だ。

「……あ、えと。お友達ですか?」

「ん。まあな。……忙しそうだな」

「ええ、まあ、いつもよりは、少し」

「そうか」

「注文は……」

「ブレンド。瀬尾は」

「あ、同じで」

「かしこまりました」

 そう言って、ちどりは小さくお辞儀して去っていく。

704 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/02(火) 23:13:12.56 ID:DGAy5fz9o

「……」

「ずいぶん緊張してるな」

「まあ、ね」

 来たいというから連れてきたものの、俺は瀬尾が何をするつもりなのか知らない。
 ちどりはもちろん、茂さんも瀬尾の存在を知らない。
 
 茂さんなら、瀬尾を見れば何が起きたかを感づくだろうか。

 それもそうかもしれない。
 俺はひょっとして、瀬尾をここに連れてくるべきではなかったのか。

 ……いや。

 瀬尾青葉の判断は、瀬尾青葉の判断だ。

 俺がどうこうできるものじゃない。

 ましてやそれは、ややこしい変な出来事のせいで制限されていいものでもないはずだ。
 おそらくは。
705 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/02(火) 23:13:51.17 ID:DGAy5fz9o


「……」

「なんか、顔赤いな」

「ん。や、まあ……」

「どうした」

「や。……ほんとに敬語だったなあって」

 恥じ入るみたいに、瀬尾はテーブルに両肘をついて顔を手のひらで覆った。

「……なんでおまえが恥ずかしがる」

「……三枝くんにはわかりませんことよ」

「そりゃ、べつにいいけどな。いいじゃないか、敬語」

「そう?」

「似合ってる」

「そうですか?」

「……」

「……」

「似合わないな、不思議と」

「不思議ですね……」

 ちょっとやけになっているみたいだった。

706 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/02(火) 23:14:19.30 ID:DGAy5fz9o

「それで……?」

「ん……」

「どうする気でここにきたんだ」

「ん。まあ、いろいろ考えてたんだけど。ひとまず……忙しそうだし、あとにしよっか」

「……」

 忙しそうだし、というからには、やはりちどりと話したいのか。
 いや、話してみたいのか。

 それはそう、かもしれない。

 瀬尾にとってちどりは可能性そのものだ。

「それより、三枝くんこそ、わたしになにか話があるんじゃないっけ」

「……俺、そんなこと言ったっけ?」

「あれ、言ってないっけ?」

「まあ、あるのはホントだけどさ」

 言ってなかったとしても、瀬尾とももう長い付き合いだ。
 こいつなら見透かしてもおかしくないかもしれない。

 今となっては瀬尾は、俺を取り巻く状況について、いちばん知っている人間だとも言える。

707 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/02(火) 23:14:50.03 ID:DGAy5fz9o

「さくらのことだ」

「さくら……」

 瀬尾は、一瞬きょとんとした顔になって、

「あ、さくら!」

 と、声をあげた。周囲の客がこちらに視線を寄せてくる。俺は唇の前に人差し指を立てた。

「声が大きい」

「ごめんなさい」

「素直でよろしい。覚えてるみたいだな」

「ん。今の今まで忘れてた。戻ってきてから、わたし、姿を見てないよ。……見えなくなっちゃっただけ?」

「いや。たぶん、姿を見せてないだけだろう」

「……そうなの?」

「ああ。さくらはいる」

「……そっか。すっかり、頭から抜けてた。……うん。さくらね」

「そう。さくらのこと」

「……さくらが、どうかしたの?」

「ま、いろいろあったんだけど、ややこしいから過程は省略する」

「省略するんだ」

「説明が面倒でな」

「……ま、三枝くんらしいけどさ。それで?」

708 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/02(火) 23:16:03.05 ID:DGAy5fz9o


 説明、そう、説明だ。
 それが必要だ。……俺に、できるだろうか。

 そもそも俺は、自分が何をしようとしているのか、ちゃんと理解できているのだろうか。

 目的。

 さくらの居場所を作る。

 手段。

“夜”を利用する。

 さくらの居場所をこの世界に書き足す。

「……『薄明』を作りたい」

「……ん。なに、突然」

「フォークロアを作る」

 俺の言葉に、瀬尾は目を丸くした。

「ごめん、順番に説明してくれる?」

「……だよな」

 まあ、仕方ない。話せる部分だけ、話してしまおう、と、そう思ったところで、声をかけられた。

709 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/02(火) 23:16:41.51 ID:DGAy5fz9o

「おまたせしました。ブレンドふたつですね」

 ちどりがやってきた。

 俺と瀬尾が話している間に、客は少しずつ減っていた。
 周囲を見ると、いくらか落ち着いた雰囲気だ。

「……あの、鴻ノ巣ちどり、さん?」

 不意に、瀬尾がそう声をかけた。

「……あ、はい」と、戸惑ったふうに、ちどりが返事をする。

「あの、わたし、瀬尾青葉っていいます」

「……あ、はい。はじめまして、ですよね」

「……うん。三枝くんから、いつも話は聞いてる」

「……ほんとに?」

 と、なぜかちどりは俺を見た。

「なんで」

「だって、隼ちゃんが誰かにわたしの話をするなんて、思えないです」

「……」

 たしかに、と思うと同時に、瀬尾が『たしかに』という顔をした。

「……や、まあな」

「三枝くんとは文芸部で一緒で、いろいろ話をしてるうちにね」

710 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/02(火) 23:17:18.87 ID:DGAy5fz9o

 そんなふうに誤魔化しながら、瀬尾はちどりに笑いかける。
 やっぱりいくらか、緊張した様子だ。

 それにしても……ふたりはやっぱり似ている。
 瓜二つ、とまでは言わない。

 それでもやはり、似ている。

「前から、ちどりちゃんに興味があったんだ」

「興味……ですか」

「うん。あのね、もしよかったら……わたしと、友達になってくれない?」

「……ともだち、ですか?」

「うん。……駄目かな」

 ちどりは、いくらか戸惑った顔を見せた。

 無理もない、といえば、無理もない。
 初対面の相手に、そんな言い方をされたら、普通はそうなる。

 でも、

「駄目なんてこと、ないです。隼ちゃんのお友達なら、大歓迎です」

「……」

 瀬尾は恥ずかしそうに目を覆った。

「どうした」

「や……自分のことじゃないのに、この無垢な信頼が恥ずかしい」

「……そう言われると俺のほうが恥ずかしい気がしてくるな」

「えっと?」

「あ、ごめんね。……うん。じゃあ、わたしと、おともだちになってください」

 そんなふうに瀬尾は、ちどりに手をさしだした。

 ちどりはその手を受け取った。
 
711 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/02(火) 23:18:05.04 ID:DGAy5fz9o





 
 瀬尾とちどりが話をするのを聞きながら過ごして、店を出たとき、まだ外は明るかった。
 夏が近い。

 俺は瀬尾に訊ねずにはいられなかった。

「どうしてだ?」

「ん」

 少しほっとした様子の瀬尾を見て、俺は不思議に思う。
 どうして、ちどりと友達になりたかったんだろう。

 それは瀬尾にとって、もしかしたら、とても残酷なことなんじゃないか。

「……わたしはさ、瀬尾青葉だからね」

「……うん」

「瀬尾青葉だから。鴻ノ巣ちどりじゃない。でも、なんだか、こうしなかったら、いつまで経ってもわたしは、本当の意味でわたしになれない気がする」

「……よく、わかんないな」

「わかんない、かもね。『三枝くんの幼馴染』に興味があったのも本当だし……でも、ちょっと説明がむずかしいかな」

「うん」

712 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/02(火) 23:18:31.91 ID:DGAy5fz9o

「わたしは……わたしとして生きる。だから、鴻ノ巣ちどりは、ちどりちゃんは、わたしのともだち」

「……」

「だめかな?」

「……いや」

 俺がどうこう言うことじゃない。
 きっと、たくさん考えたんだろう。

 ああでもないこうでもないと、もがいてあがいた結果なんだろう。

 だとすれば、それを俺が認めるとか認めないとかいう次元の話じゃない。
 
 瀬尾青葉は瀬尾青葉として生きる。

「……ホントはずっと、悩んでたんだ。鴻ノ巣ちどりとしての記憶を持ってる自分が別人として生きるって、絶対変だから」

「……」

「でも、決めた。『それ』を含めて、わたしはやっぱり瀬尾青葉なんだって」

「……そっか」

「今、わたしがここにある。そこに至るまでのすべてがぜんぶわたし。そう思ったらすっきりしたから」

 だからだろう。
 瀬尾の表情が澄み切って見えるのも。

713 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/02(火) 23:19:21.81 ID:DGAy5fz9o


「だからね、“隼ちゃん”」

「……」

「これからもよろしくね」

「……まあ、好きに呼べよ」

「つめたーい。わたしのこと好きって言ってたくせに」

「なんだそれ、記憶にねえよ」

「覚えてないの?」

「いつの話だ」

「ずっと昔」

「そっか」

 ここに至るまでのすべて。

 経験。
 記憶。
 歪み。
 痛み。
 ありとあらゆる感情。

 今ある混乱。 
 そのすべてが自分であるならば……。

714 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/02(火) 23:19:49.97 ID:DGAy5fz9o

「大丈夫だよ。柚子ちゃんとのこと、邪魔したりしないから」

「そんな心配、してない」

「……そう?」

「ああ」

「ちょっと残念かも」

「なんで」

「隼ちゃんには、わかんないですよ」

「……」

「……なに?」

「いや、ちょっと今……」

 ちどりみたいだった、と、またそう言ったら怒るだろうか。

715 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/02(火) 23:20:28.92 ID:DGAy5fz9o

「ちどりちゃんみたいだった?」

「……うん」

「それはそうだよ」

 と、瀬尾はなんでもないように言う。

「それを含めて、わたしはわたしだからね」

 瀬尾青葉は本当に、強い人間だと思った。

「それで……さっきの話だけど」

「ん」

「フォークロアを作るって?」

「……ああ」

 そうだな、
 その話を始めなきゃいけない。

 他のことはすべて、もう、一段落した。
 最後の仕上げをしなきゃいけない。

716 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/02(火) 23:20:55.44 ID:DGAy5fz9o
つづく
717 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2019/04/02(火) 23:36:28.06 ID:sv9LSuKLo
ちどりと青葉が会うのドキドキした
乙乙
718 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2019/04/03(水) 07:36:23.61 ID:WMGt4U9+0
おつです
719 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2019/04/03(水) 22:39:47.31 ID:qSiUdSAW0
おつです
720 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2019/04/04(木) 02:31:47.89 ID:7l+6ad+Io
721 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/05(金) 01:37:39.98 ID:iNQmpNLTo




 佐久間茂はあの森を作った。
 
 夜の力を借りて。

 夜は現実に影響をきたした。
 その結果、『薄明』を通じてさくらが生まれた。

 これが最初の仮定。

 そしてこう続く。

 仮に『薄明』がさくらのディティールを作り上げたのならば、
『薄明』によってそれを書き換えることは可能ではないか。

 佐久間茂がデミウルゴスなのだとしたら、夜はデウス・エクス・マキナだ。

 これはもはや呪術的儀式に近い。

 佐久間茂の『薄明』、その『後日談』を描くことで、『さくらのディティールを書き換える』。

 矛盾なく、さくらを揺らがせないように、慎重に。
 さくらを今のさくらのままで保ちつつ、さくらを書き換える。

 そのためには、佐久間茂がそうしたように、
『薄明』を作らなければいけない。

『薄明』そのものを物語にしなければならない。

 そのとき夜は、昼の世界に静かに侵食するだろう。

『薄明』。

 夜明け前のほのかな明かり。

722 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/05(金) 01:38:12.56 ID:iNQmpNLTo

 


「……突拍子もないこと考えるね」

「まあな」

「本当にできると思う?」

「わからん」

「でも」

「ん」

「おもしろそう」

 そう言うと思った。

723 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/05(金) 01:38:56.24 ID:iNQmpNLTo




 『薄明』平成四年春季号

 目次

 
 1.小説

『ゆりかごに眠る / 赤井 吉野』
『白昼夢  / 佐久間 茂』
『空の色 / 弓削 雅』
『悲しい噂 / 酒井 浩二』
『ひずみ / 峯田 龍彦』
『ハックルベリーの猫 / 峯田 龍彦』
『許し / 笹塚 和也』



 2.散文

『ちょうどいい季節 / 酒井 浩二』
『神様の噂 / 赤井 吉野』
『偏見工学 / 峯田龍彦』
『恋人のいない男たち / 笹塚和也』 

 3.詩文

『冬の日の朝に思うこと / 赤井 吉野』
『夕闇 / 弓削 雅』
『たちまちに行き過ぎる / 弓削 雅』
『成り立ちについて / 弓削 雅』
『作り方 / 佐久間 茂』


 編集:赤井 吉野  弓削 雅
 表紙:赤井 吉野


 編集後記:赤井 吉野

724 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/05(金) 01:39:52.24 ID:iNQmpNLTo




 『薄明』平成四年夏季号

 目次

 1.小説

『ふんわりとした音 / 赤井 吉野』
『水の上 / 佐久間 茂』
『茜色には程遠い / 弓削 雅』
『もしもあなたがいなくても / 弓削 雅』
『真実 / 峯田 龍彦』
『日々かくのごとし / 峯田 龍彦』
『白線捉える / 峯田 龍彦』
『永遠の途中 / 笹塚和也』

 2.散文

『猫と犬について / 赤井 吉野』
『屋上遊園地について / 赤井 吉野』
『天気について / 赤井 吉野』
『縁結びの少女 / 赤井 吉野』
『幽霊の所在 / 峯田 龍彦』
『無限の猿と踊る / 佐久間 茂』


 3.詩文

『白衣 / 弓削 雅』
『風遥か / 弓削 雅』
『鈴の音 / 弓削 雅』

 編集:赤井 吉野 弓削 雅
 表紙:赤井 吉野
 

 編集後記:赤井 吉野 

725 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/05(金) 01:40:37.10 ID:iNQmpNLTo



 瀬尾と別れたあと、俺は結局、『トレーン』の店先に居た。
 俺がやろうとしていることは、正しいことなのか、可能なことなのか。

 そんな考えが浮かんでは消えていく。
 
 そんなとき、不意に、見知った姿を通りの向こうに見つける。
 彼女は軽く手をあげてから、静かに歩み寄ってきた。

「やあ」と彼女は言う。

「やあ」と俺は返事をする。怜だった。

「最近はよく見るな」

「思ったより簡単にこっちに来られることに気付いたものだからね」

「そうか。何よりだ」

「うん。たったこれだけの距離だったのにな」

「……?」

 その響きになにか変なものを感じて、俺は思わず眉をひそめた。

「べつに深い意味はないよ。……さっき、誰かと一緒みたいだったけど」

「ああ、さっきまで……」

「……瀬尾、青葉さん?」

「……だな」

「……ねえ、隼。どうして彼女がちどりにそっくりなんだって、教えてくれなかったんだ?」

「……」

「彼女は、ちどりだよね」

 さて、どう答えたものか。
 けれど本当は、悩むようなことでもなかった。


726 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/05(金) 01:41:05.82 ID:iNQmpNLTo

「ちどりと言えば、ちどりだが……」

 怜が何かを言い出すよりも先に、言葉を続けた。

「今は、瀬尾青葉だ。本人がそう言ってる」

 怜は、なにか承服し難いような顔をしたが、やがて頷いた。

「なるほど。……どうして彼女はここに?」

「ちどりと、友達になりたかったらしい」

「……」

 今度こそ、いよいよ納得がいかないような顔を、怜はする。
 どうしてだろう。

 いつもより、どこか感情的に見える。

「そっか」

 とだけ言うと、怜は店内へのドアの取っ手を開いた。

「隼は帰るの?」

「そうだな。考えなきゃいけないこともあるし、遅いと純佳が心配する」

「そっか。……ね、隼」

「ん」

「瀬尾さんは強いね。ちどりも、きっと」

「……まあ、そうだな」

「ぼくは……」

「……ん」

「……」

「怜?」

「いや……」

727 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/05(金) 01:41:58.07 ID:iNQmpNLTo


「言いかけてやめるなよ。怜、悪い癖だ」

「隼には言われたくない。ただ、なんとなくね……」

「なんとなく、なんだ」

「ぼくは……昔から、ちどりになりたかったんだ」

「……どういう意味?」

「いや。……なんでもない、忘れてよ」

 そう言って、怜は、今度こそドアを開けた。

「あ、怜」

「……なに?」

「ひとつ、聞きたかったんだ。おまえ、最初に“むこう”の話をしたときのこと、覚えてるか?」

「……えっと、学生証の話をしたとき?」

「そう。そのとき」

「あのときがなに?」

「覚えてるか? おまえ、言ってたよな。“案内人がいた”って」


728 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/05(金) 01:42:28.52 ID:iNQmpNLTo

 ──怖い思いはしたから気をつけてたんだ。本当に危ないところには、近付かないようにしてた。案内人もいたしね。

「……そんなこと、言ったっけ?」

「ああ。あの案内人って、誰のことだったんだ?」

 ましろ先輩ではない。
 佐久間茂でもない。
 おそらく、カレハでもない。誰もそんな話はしていなかった。

 だとしたら、怜の案内人は、誰だったんだ?

「……えっと、思い違いじゃないかな。そんなこと、言った覚えがないんだけど」

「……そう、か?」

「うん。ぼくはむこうにいるときは、いつもひとりだったし」

 ……でも、それでは話が通らない、ような気がする。
 が、本人にそう言われては、確かめようもない。

「それだけ? ぼくは行くけど」

「……あ、ああ」

「じゃあね、隼」
 
 最後、怜は俺の顔を見なかった。
 そんなこと、今まではなかった。
 
 それなのに俺は、怜に対して何を言えばいいのかもわからない。
 怜のことを、自分がどれだけ知っているのか。

 そんなことを、どうしてか、考えてしまった。

729 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/05(金) 01:43:09.10 ID:iNQmpNLTo




 隼はきっと、気付かないだろう。
 おそらくこの事実はぼくの中でしか存在できない。
 
 砂浜に書いた文字のように、やがては波にさらわれて消えていくだろう。
 
 誰にも確かめられないし、誰にも知ることができない。

 誰も気付かない。

 ぼくをぼくと呼ぶこのぼくが、泉澤怜なのだと、みんなが信じている。

 このぼくがここにあることは……ぼくがぼくを獲得した結果だと、誰も知らない。

 それでいい。

 隼はぼくを探偵と呼ぶ。ぼくは隼を詐欺師と言う。

 けれど本当は違う。
 
 本当の詐欺師は探偵のような顔をしているものだ。

 そんなことを隼は知らなくていい。

 ぼくは、ちどりになりたかった。
 隼になりたかった。
 
730 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/05(金) 01:43:34.96 ID:iNQmpNLTo



「……それで?」

 と、市川鈴音は言った。
 渡り廊下のベンチに腰掛けて、市川鈴音は本を読んでいる。『ゴドーを待ちながら』だ。

 部誌を作る、と俺は言った。瀬尾に話を通した以上、あとは部員を説得するだけだ。

「市川、絵が描けるだろ」

「そりゃ、描けるけど……」

「表紙」

「……もう、期末だよ。部活動休止期間」

「関係ない」

「なくない。なんでそうなるの?」

「まあ、なくはないか。いや、でも、ちょっと描いてほしいんだよ」

「そう言われても……ううん、描くぶんには、いいんだけど、なんで急に?」

「必要だと思う」

「……前作ったときは、なかったよね?」

 たしかに、前回作ったときは、なかった。
 とはいえ、これは儀式だ。

「描いて欲しい絵がある」

「……」

731 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/05(金) 01:44:04.54 ID:iNQmpNLTo


 市川は、静かに考え込んだ。やはり、説明しないわけにはいかないのだろう。

「……なあ、市川」

「ん」

「前から思ってたんだけど……」

 彼女は俺を見ようともしない。ずっとページに目を落としている。

「おまえ、"むこう"に行ったことがあるな?」

「……」

 ようやく彼女は俺を見た。

「……どうして?」

「見たからだよ」

「……」

 さくらを連れ戻しにいった、あの日。

 帰り際、俺は渡り廊下で人影を見た。
 最初はただの気のせいだと思った。

 でも、それだけのはずがない。

 市川鈴音の姿をあのタイミングで幻視するなんておかしな話だ。

732 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/05(金) 01:44:31.80 ID:iNQmpNLTo

 思えば、市川は最初からおかしかった。

 俺が部誌に寄せていた文章、そのなかの、"むこう"に近い風景の描写。
 それを彼女は「実話か」と訊ねた。

 そんなわけがない、と俺は答えたけれど、そもそもの話……。

 どうしてあんな馬鹿げた風景を、こいつは"実話"だなんて思えたんだ?

 そう思った瞬間、あれが単なる幻だったとは思えなくなった。

 思えば市川は、やけに"むこう"の話に対して理解が早かった。

「……隼くんは、探偵みたいだね」

「俺は探偵にはなれない」

「そうかもだけど」

「……で?」

「……どうかな」

「……どうかな、って、どうなんだよ」

「わかんないの」と市川は言った。

733 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/05(金) 01:45:09.07 ID:iNQmpNLTo

「わたしは夢に見てるだけ」

「夢?」

「うん」

 珍しく、真摯な声音だった。
 そのせいで俺は、それ以上の追及ができない。

「……夢、か」

「うん」

「……そっか」

 なら、言っても仕方がない。

「ま、いいや」

「……ん。描いてほしい絵って?」

 訊ねられて、俺は少しだけためらった。
 けれどたぶん、必要なものだろう。

 たぶん、その絵は、描かれるべきだろう。


734 : ◆1t9LRTPWKRYF [saga]:2019/04/05(金) 01:45:36.15 ID:iNQmpNLTo
つづく
735 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2019/04/05(金) 02:13:07.06 ID:X67qyF8J0
乙です。
736 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2019/04/05(金) 07:18:53.63 ID:a3QCfA1F0
おつです
737 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2019/04/05(金) 13:12:44.46 ID:FzCrcLhvO
738 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2019/04/05(金) 21:13:05.09 ID:aoQsTvLco
おつおつ
続きが気になりなる
739 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2019/04/05(金) 23:40:05.58 ID:JCf+zWWr0
おつです。
740 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/10(水) 23:08:07.07 ID:1j+CnVDuo




 期末テストが終わって、夏休みが目前に迫った頃、俺達は部誌を完成させた。

 突貫と言えば突貫だったけれど、瀬尾と真中は協力的だったし、市川も拒みはしなかった。
 そうなれば大野だって付き合いはいいやつだし、その上ちせも引き込めたことが大きかった。

「それにしても」と瀬尾は言った。

「三枝くんがこんなにやる気になる瞬間を生きてるうちに見られるなんてね」

 茶化すみたいなそんな言葉が、やけに照れくさかった。

 文芸部には少しだけ変化があった。

 真中と俺の関係性が変わったこともそうだけれど、そのうえ、ちせが入部することになった。
 
「なんとなくですけど、必要な気がするので」

 と、彼女は言った。それはたしかにそのとおりだと俺は思う。
 ちせがいないと、俺の計画していることは、ほんの少しだけ面倒が増える。

 
741 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/10(水) 23:08:40.61 ID:1j+CnVDuo

「でも、こんなことで本当にうまく行くんでしょうか」

 と、ちせはそう言った。

 何のために部誌を作ろうとしているのか、それを知っていたのは、俺と瀬尾とちせだけだった。

 理由は単純で、この三人にはさくらが見えるから。

 以前、ちせがさくらと顔を合わせたとき、ちせにはさくらが見えていた。

"むこう"に行った人間にはさくらが見える。それが俺の仮説だった。

 そして瀬尾とちせに対して、俺はいくらかの説明をした。

 結果として、それが上手く行ったかどうか、効果はまだ掴めない。

 ひとまず今は、それも一段落したので、俺は少し羽を休めることにしていた。

742 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/10(水) 23:09:20.25 ID:1j+CnVDuo




 放課後、屋上に寝そべって昼寝をしていると、「サボりですか」とさくらがやってきた。

「がんばったんだから、少しくらいサボったって、バチは当たらない」

「ま、そうかもですけど」

「……」

 なんだろう。
 何かを言えるような気がしたんだけど、何も思い浮かばない。

 どうしてだろう。


743 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/10(水) 23:09:50.39 ID:1j+CnVDuo



 『薄明』夏季特別号。


 目次


 0.部誌発行にあたって 
『物語の影響 / 瀬尾 青葉』
『概略 / 三枝 隼』

 
 1.小説

『涼やかな午後 / 大野 辰巳』
『寝顔 / 真中 柚子』
『湖畔 / 瀬尾 青葉』
『朝靄 / 瀬尾 青葉』
『塔  / 市川 鈴音』
『夜霧 / 宮崎 ちせ』
『幽霊のよまいごと / 宮崎 ちせ』
『あなたがそこにいなくても / 宮崎ちせ』
『白日 / 三枝 隼』


 2.散文

『平成四年に発行された部誌『薄明』に関する調査と仮説 / 三枝 隼』
『噂話の効用 / 瀬尾 青葉』
『ファンタジーと現実との対照 / 宮崎ちせ』
『桜の少女についての再考 / 三枝 隼』
『わたしたちの不確かな現在 / 瀬尾 青葉』

 3.詩文

『成り立ちについて / 瀬尾 青葉』
『作り方 / 宮崎 ちせ』
『薄明 / 三枝 隼』


 編集:瀬尾 青葉 三枝 隼
 表紙:市川 鈴音


 編集後記:瀬尾 青葉

744 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/10(水) 23:10:17.26 ID:1j+CnVDuo




 俺の考えは、さくらの存在が佐久間茂の作った『薄明』に根ざしているという仮定から始まる。
 だからその詳細をさくらに話すわけにはいかない。

 誰かの書いた文章が自分の存在を生んだかもしれないなんてこと、さくらは知らなくていい。

 まず第一に必要だったのは、佐久間茂がさくらについてどのような『設定』を用意していたかを確認することだった。

 それはそんなに難しいことではない。『薄明』を確認すればいいだけだからだ。

「でも、本当にそれだけでいいのかな」

 と瀬尾は言っていた。

「部誌に書かれてる以外の設定もあるんじゃないの?」

 そうだとしても、佐久間茂に確認すればいい。それはそうだが、俺は別の理由からそっちを無視した。
 仮に薄明に描かれている以外の情報がさくらの存在に反映されるとしたら、さくらの存在はもっと揺らぎやすく曖昧になる。

 噂話だって変化する。茂さんがさくらのことを忘れることもあるだろう。
 にもかかわらず存在し続けているのは、さくらが『薄明』に依拠しているからだ。

 と、仮定しないかぎり、そもそも俺の解決法も成立しないのだが。

 はっきりいって、根拠があるわけではない。
 
 単に、『これで駄目なら他の方法を試すしかないから、とりあえずやってみるしかない』という理由だ。

745 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/10(水) 23:10:44.90 ID:1j+CnVDuo

「そのために……この『薄明』を使うんですか?」

 平成四年に作られた『薄明』を見て、ちせはいかにも不思議そうな顔をした。
 無理もないと言えば無理もない。

「もし仮にこの『薄明』がさくらを規定しているとしたら、この『薄明』に書かれている情報は無視できない」

「……まったく別のお話を作ることはできないんですか?」

「できなくはないが」

 仮にそれをしてしまったら、今度はさくらではない別の存在が生まれることもありえるだろう。
 もっと言えば、いまいる『さくら』が根っこから変化してしまうこともある。

 それでは意味がない。

 であるなら、『佐久間茂の薄明』を前提にして、そこに情報を付け足すことでさくらに変化を与えなければいけない。

「そんなこと、できるんですか?」

 できるかどうかはわからない、と俺は答えた。

 それはそうか、という顔を、ちせも瀬尾もしてくれた。

746 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/10(水) 23:11:10.65 ID:1j+CnVDuo



 そして俺たちは、『平成四年に作られた薄明において語られた噂話』を検証するという体裁を使った。

 佐久間茂の『薄明』においては、噂話の真偽は曖昧に、あくまでも『そういう噂がある』というふうに語られていた。
 その噂は今現在この校内で流布している噂話の原型になっている。

 桜の樹の精。
 縁結びの神様。

 その物語を『検証する』というかたちで、俺達はそれを作り変えることにした。

 これに関してはひとつアイディアがあった。

『聞き取り調査』だ。

 平成四年に作られた『薄明』の中で『神様』と『縁結びの少女』について書いていたのは赤井吉野という生徒だった。

 俺たちは、赤井吉野という少女──というのは文体からの想像だが──に、さくらについて直接質問しにいった。

 つまり、

『現在流布されている噂話の原型を知っている相手へ聞き取り調査を行い、その詳細を確かめた』。

 さて、とはいえもちろん、『赤井吉野』という生徒が実際に『薄明』を作るのに参加していたわけではない。
 佐久間は『幽霊部員だらけの文芸部』を利用して部誌を作ったのだ。

 けれどだからこそ、『赤井吉野』という生徒は、当時の卒業アルバムにはちゃんと載っている。

 だから、あくまでも、『赤井吉野に聞いた』というかたちで、『さくらについての情報』を書き加えたのだ。
 
747 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/10(水) 23:11:47.93 ID:1j+CnVDuo

・赤井吉野はさくらを見たことがある。
・それは『薄明』を作り上げたあとのことである。
・よって平成四年の『薄明』に描かれた情報は真実というよりは推測であった。
・その少女は時折人前に姿をあらわす。
・彼女は人と人との縁を繋ぐことを楽しみにしている。
・自分がどうしてそんなことをしているかはわからない。
・誰かが必要としたとき、彼女は姿を見せる。
・こっそりと人々の手伝いをしている。
・ある一時期、文芸部は彼女のために恋愛相談所として機能していた。
・文芸部の部室には当時使っていた相談用のボックスが置かれていた。
・それは今現在も残っているはずである。
・赤井吉野自身も勘違いしていたが、彼女は校内から出ることもできるし、望んだ相手と会うこともできる。
・実際、卒業してから彼女が会いにきたといっていた人間もいる。
・彼女は寂しがりなので、相手をしてあげると喜ぶ。

748 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/10(水) 23:12:38.12 ID:1j+CnVDuo



 俺と瀬尾とちせ、それから暇をしていたましろ先輩は、日曜大工をして木製の箱を作り上げた。

 ちょうどよく古びた木材を釘で打ち合わせて。

 そして「古くなっていたものをキレイにした」風に見えるようにしてから、文芸部の部室に置いた。

「なにこれ?」と大野に聞かれたとき、
「調べ物をしているうちに見つけた。文芸部の部室にあったらしい」と伝えたところ、
 大野は疑いもせずに「ふうん」と言った。

 あまり興味のないことなら、人はその真偽を疑わない。

「本当にこれでいいのかな?」と瀬尾は言った。

「さあ?」と俺は答えた。

「でも……」とちせは笑った。

「なんだか、楽しいですね」

749 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/10(水) 23:13:03.74 ID:1j+CnVDuo




「隼!」

 と、声がして、俺は昼寝を邪魔された。

「……なんだよ」

 体を起こすと、さくらが息を切らせて(息が切れるのか。初めて知った)俺のそばにきていた。

「どうした」

「ちょっときて! きてください!」

「どこに」

「校門です!」

 そう言ってさくらはぱっと姿を消した。

 あいつはそれで済むかもしれないが、こちらは階段を降りて渡り廊下を歩いていかなきゃいけないのだ。
 とはいえ、言われたとおりにすることにした。

 近くに置いていた鞄を背負って、靴を履き替えて外に出ると、さっきまでより遠くなったはずの夏の日差しがやけに近く感じる。

 校門のそば、桜の樹。

 そこに彼女は立っている。

750 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/10(水) 23:13:35.32 ID:1j+CnVDuo

 歩み寄ると、今までに見たことがないくらい浮かれた表情で、彼女は得意げに笑った。

「ほら! 早く!」

 俺が近付くと、彼女は俺の手をとって走り出した。

 校門を抜ける。……ここまでは、いつもどおり。
 以前、学校を出るまでの坂道で、さくらを見たことはある。
 このあたりまでは、彼女は前から来ることができた。

 その先。

 坂道を嬉しそうに下っていくさくらを見ながら、俺はもう何が起きたかを理解できていた。

「そんなに走るなよ」

 周囲からはどんなふうに見えるんだろう。俺が手を前に出したまま走っているように見えるんだろうか。
 それもまあ、今は別にかまわない気がする。

 さくらは止まることなく走っていく。息を切らして、楽しそうに笑っている。

「どこまで行く気だ?」

「ちょっとそこまでです!」

 一応鞄を持ってきて正解だった。

 さくらは坂道を下り切ると、どうだと言わんばかりに俺に向き直った。

「どうですか!」

「……なにが」

「この坂道、前まで、下りきれなかったんです」

「……」

「この坂道、わたしには、終わらない坂道だったんです。それが、ほら!」

751 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/10(水) 23:14:05.92 ID:1j+CnVDuo

 道の先の交差点のコンビニに近付くと、さくらは入り口で何度か跳ねた。
 すると自動ドアが反応する。

「……おいおい」

 そりゃまずい、と思って、俺も入り口に近付いて、何気ないふうに入店する。

 するとさくらもついてきた。

「ほら! ほら!」

 さくらは嬉しそうに笑っているけど、俺はさすがに返事ができない。

 ポケットから携帯を取り出して耳にあてる。

「よかったな」

「はい!」
 
「上手くいってよかったよ」

「どんな魔法を使ったんですか?」

「たいしたことはしてない」

「嘘です」

 まあ、ほんのちょっと悪いやつと契約したくらいだ。

「悪いやつ?」

 そうだ。心が読めるんだった。

「ま、追って沙汰があるだろう」

 それだけ言ってから、俺は適当に飲み物を二本買った。店を出て片方をさくらに渡すと、彼女は物珍しそうに受け取る。

「いったい、どうやったんですか」

「知らぬが仏だ」

「……これは、大きな借りができてしまいましたね」

「大げさだな」

752 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/10(水) 23:14:38.68 ID:1j+CnVDuo

 彼女はペットボトルをしげしげと眺めている。

 蓋を開けるのを実演してみせると、おそるおそるといった具合に自分でもやりはじめた。

「お、おお」

「初めてか」

「はい。こんなふうになってたんですね」

「うむ。祝杯である」

「はい、乾杯」

「かんぱーい」

 といって、俺達はボトルを打ち合わせた。店先に誰もいなくてよかった。

 このようにして、嘘から生まれた真を、新しい嘘で書き換えた。

 毒をもって毒を制し、嘘をもって嘘を制する。

 俺にできるのはこのくらいだろう。

753 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/10(水) 23:15:19.88 ID:1j+CnVDuo



『薄明』の表紙は、市川に頼んで、その絵の構図を俺が指定した。
 それは、ひとりの少女が坂道の下から──つまり、学校の敷地の外から、学校を見上げている様子だ。
 
 容姿は俺が可能な限りの注文を入れて、さくらに近いようにしてもらった。

 事情を知らない市川は、

「こういう子が好みなの?」

 と不審そうな顔をしたが、面倒だったので、

「そういうことだ」

 と適当に返事をしておいた。

 そして今、その絵と同じ光景が、俺の目前に広がっている。

「めでたしめでたし」

 と俺は呟いた。
 
 さくらは楽しそうにまた笑った。


754 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/10(水) 23:15:49.47 ID:1j+CnVDuo
つづく
そろそろおわりたいです
755 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2019/04/11(木) 00:37:00.26 ID:+/5m/pBX0
おつおつ
756 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2019/04/11(木) 01:15:21.77 ID:I+cIz9XxO
757 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2019/04/11(木) 07:18:14.00 ID:N6XyIpstO
おつです
758 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2019/04/11(木) 23:49:58.15 ID:2VbMBPYC0
乙です
759 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/20(土) 23:54:15.53 ID:GpXAKj/vo




 真っ暗なところにひとりで立っている。左右には壁があり、少し低い天井がある。
 あたりの空気は湿気と黴の臭いに侵されている。足を一歩踏み出すと、石を叩く靴音が聞こえる。
 それがやけに響いていた。

 切れかけた裸電球が等間隔でぽつぽつと薄暗く通路を照らしている。

 その明滅の隙間に、通路の先の暗闇がぽっかりと口を開けている。
 背後を見ても同じ様子。自分がどちらから来て、どちらに向かっているのか、もうわかりそうもない。

 しばらく俺は立ち尽くし、そしてやがて歩き始めた。

 時間の感覚がなく、どれだけ歩いても一瞬だという気もするし、ずいぶん長い間歩いてきたという気もする。
 ただ電灯が明滅している。

 そして俺はそれと出会う。それがそこにあることを俺はあらかじめ知っていた。

 だから俺は挨拶をする。

「やあ」

「やあ」

 とそれは返事をした。

760 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/20(土) 23:54:43.39 ID:GpXAKj/vo

「調子はどうだい?」

 と“夜”は言った。

「どうだろうな」と俺はとぼけて見せた。

 夜は黒い竹編みの椅子に悠然と腰掛けていた。
 
 彼の姿を俺は初めてみた。それで驚いた。
 俺は彼の姿を知っている。

「おまえのおかげで助かったよ」

 と彼は言った。

「……おまえを助けた覚えはない」

「いずれわかるさ」

 はっきりと、彼は笑みをつくる。

「……が、それは今じゃない」

「……でも、こちらこそ助かった」

 一応、礼を言うことにした。

「ありがとう。おかげで書き換えられた」

 彼はおかしそうに笑う。

「……本当にここまでするとは、思っていなかったけどな。たぶんおまえは才能があったんだろう」

「才能?」

 才能。俺には無縁なものだ。

761 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/20(土) 23:55:14.63 ID:GpXAKj/vo


「……でも、本当にこれでよかったのか?」

 そう、夜は俺に訊ねた。

「……どうだろうな」

 俺は、
 他にどうしようがあったんだ? と、
 そう訊ねかけて、やめた。

 その言い方は、誰かに責任を押し付けているような気がしたから。

「自分では気付いていないだろうが……おまえは佐久間茂にはできなかったことをした」

「……?」

「おまえは世界を書き換えた」

「それは……茂さんだってしたことだろう」

「違うね。あいつは書き足しただけだ。おまえは書き換えた。その差は大きい」

「……」

「あいつはこの世に暗がりを作った。けれど、それは所詮、粘土のように夜をこねくり回しただけのことだ。
 おまえはけれど、夜を昼に滲ませた。おかげで扉が開かれた。
 あの女に負けたときはこれで終わりかと思ったが、俺にもようやく運が回ってきた」

「……」

 こいつは、
 何の話をしてるんだ?

「けれどまあ……それは、おまえとは直接関係ない。とにかく、感謝するよ」

「……」

「二度も俺の力を使いやがったんだ。普通なら代償を求めてやるところだが……お釣りが来るくらいだ」

「……何を言ってる?」

「礼を言ってるのさ」

762 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/20(土) 23:55:41.46 ID:GpXAKj/vo


「違う。“二度”って……何の話だ?」

「……なんだ、覚えてないのか。人間ってのは、不便なもんだな」

「……」

 二度。
 二度?

「……なるほどな。おまえはどうやら本当に才能があるらしい。自分で書き換えた物語を、自分で信じ込んでいるわけだな。
 それでこそ、というところではある。本当の嘘つきっていうのは、自分がついている嘘を信じ込まなくちゃいけないもんだ。
 しかし……凄まじいな」

「……」

「なあ……おまえ、自分で疑問に思わないのか?」

「……何がだ」

「宮崎ましろ。泉澤怜。鴻ノ巣ちどり。瀬尾青葉。市川鈴音。佐久間茂。そして、おまえ。
 夜の世界、おまえが神様の庭と呼んだ世界。どうしてそこに関係している人物が、おまえの周辺で完結してるんだ?」

「……」

 疑問に思わなかったわけではない。
 
 ましろ先輩、瀬尾、俺。どうしてあのとき、むこうに行った人間が、揃ってこの高校の文芸部に入部したのか。
 そして、どうしてそこに、佐久間茂が通っていたのか。

 神様の庭の夢を見るという市川鈴音が、どうして文芸部に入部していたのか。
 
 どうしてこんなにも完結した関係性の中に、そんな出来事が起きたのか。

 まるで誰かが、

「……まるで、誰かが書いた物語みたいだと思わないか?」

763 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/20(土) 23:56:08.25 ID:GpXAKj/vo


 そんな言葉が。
 馬鹿らしいと笑えないのは、どうしてだったのか。

「おまえは何を言ってるんだ?」

「佐久間茂がどうして『薄明』で遊んだか、覚えてるか?」

 どうして。
 どうして、だったっけ。

「……“どうして?”」

「おまえはどうして、真中柚子をそんなに欲するんだ?」

「……」

「おまえのなかには矛盾した感情がある。
 ほしいものがひとつもないという感情。真中柚子を烈しく求める感情。
 どうしてそんなことが成立する? その矛盾には何か……明らかに、秘密がある」

「……」

「だが、まあ、俺も山師だ。だからおまえのその程度の嘘くらい、なんとも思わない。
 この世界は苦痛に満ちていて、柔らかな光はいつも暗い痛みに押し潰される。
 これから先、どんな光を手にしたって、きっと、それはすぐに失われてしまう。
 そのなかにあって……おまえの嘘は、実に俺の好みだった」

「……待て、おまえは、何を言ってる?」

 二度……俺は、『夜』を使った?
『書き換えた』?

「面白い見世物だったよ、三枝隼。ずいぶん凝ったシナリオを作ったもんだ」

「……」

「おまえのおかげで、俺は自由だ」

 不意に頭上の電球が明滅し、
 もう一度点いたときには、夜の姿はそこにはなかった。

764 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/20(土) 23:56:35.35 ID:GpXAKj/vo




 ねえ、せんぱい、本当にわたしのことを捕まえていてくれる?


765 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/20(土) 23:57:04.89 ID:GpXAKj/vo




 おまえを居なかったことになんかしない。
 おまえがいなくならなきゃならないような世界なら、そんなの、世界のほうが間違ってるんだ。

 おまえを傷つけるだけの世界なら、俺が全部書き換えてやる。


766 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/20(土) 23:58:02.18 ID:GpXAKj/vo






 不意に目をさますと、俺は眠っていた。目をさましたのだから、当たり前といえば当たり前だ。
 でも、いつから眠っていたのか、わからない。

 何か夢を見ていたような気がするが、はっきりとしない。

 体を起こすと、屋上だ。見慣れた屋上。俺だけが鍵を持つ、秘密の場所。

 昼寝をしていたらしい。

「隼さん、またサボりですか」

 ドアが開く音が聞こえて、そちらをむくと、ちせが立っている。

「……ああ」

 むっとした顔のちせを眺めながら、俺は返事をする。

「もう。大野先輩も青葉さんも怒ってますよ」

「怒らせときゃいいんだよ。第一、部誌だって出来上がったんだし、顔出す理由もそんなにないだろう」

「でも……」

 ちせは何かを言いたげに俺の方を見た。

「……隼さん、ひとつ聞きたかったんですけど」

「ん」

767 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/20(土) 23:58:34.07 ID:GpXAKj/vo

「隼さんが書いた小説のタイトル。あれって、どんな意味があるんですか?」

「ん。読んでわからなかった?」

「はい、まあ……」

「つまりさ……次の日が土曜日で休みだろ」

「……?」

「だから、ずぶ濡れになって踊ろうって意味」

「……よくわかんないです」

 俺は起き上がって空を仰いだ。

 瞬間、
 空が拉いだ。

768 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/20(土) 23:59:02.44 ID:GpXAKj/vo
つづく
769 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2019/04/21(日) 00:25:15.54 ID:nBjw/t4Oo
おつです。
770 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2019/04/21(日) 00:26:46.92 ID:nMQdOy3D0
おつん
771 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2019/04/21(日) 06:49:04.54 ID:91kAx3ZY0
おつです
772 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/21(日) 21:54:21.70 ID:hfXGEpDLo



「兄、起きてください」

「……」

「兄。起きてください。もう起きる時間ですよ」

「……ん。あと五分」

「そんな定番の寝言言う余裕があるなら起きてください」

「……ねむい」

「もう。夜遅くまで起きてるからですよ。昨夜は何してたんですか」

「……ちょっと」

「ちょっとじゃないです。ほら、起きないと恥ずかしいことしますよ」

 恥ずかしいことってなんだ。
 恥ずかしいことってなんだろう。

 興味を引かれて寝たふりを続けると、純佳の声がすっと近付いてきた。

 耳元で、

「起きてください」

 と、囁かれる。
 こそばゆい。

 そのまま黙っていると、湿った柔らかい感触があって、思わず俺はからだをびくりとさせて目を開いた。

773 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/21(日) 21:55:35.91 ID:hfXGEpDLo

「……なにをしたいま」

「耳をなめてみました」

「なめるな」

「目がさめましたか?」

「おかげさまで」

「じゃあ、早く着替えて降りてきてください。お味噌汁さめちゃいますから」

「……わかったよ」

 平気な顔で純佳が部屋を出ていく。

 どうしてこんな育ち方をしてしまったやら。

774 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/21(日) 21:56:10.10 ID:hfXGEpDLo



「もうすぐ夏休みですね」

 ダイニングテーブルを挟んで朝食を一緒にとりながら、純佳はそんな世間話をはじめた。

「何か予定は?」

「特には……バイトくらい」

「ですか。柚子先輩とは出かけないんですか?」

「ああ……どうだろうな」

「他人事みたいですね」

 そんなつもりはないけれど、そういう癖がついてるんだろう。

「なんだか……兄は最近、元気そうで何よりです」

「……そう?」

「はい」

「そう見えるなら、そうなんだろうな」

「うん。そうだと嬉しいです」

 そんなふうに思ってくれる人なんて、きっと長く生きていても、そんなに多くはないだろう。
 それだけで、やっぱり俺は恵まれている。

 さくらがいつか言っていた通りに。


775 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/21(日) 21:57:05.43 ID:hfXGEpDLo




 玄関を出ると、そこにさくらが立っていた。

「遅いです。遅刻しちゃいますよ」

「……さっそく出かけてるのな」

「探検してました。一緒に登校しましょう」

「……ん。まあ」

 まあいいか、と俺は思う。

 純佳はとっくに家を出ていた。俺はさくらとふたり、学校への道のりを辿る。

「しかし、面白いものだらけですね」

「そうか?」

「そうです。こんな面白いものに囲まれてるなんて、あなたは幸せですよ」

「そうかな」

「そうなんです」

「……そうなのかもな」

 でもきっとそれは、
 慣れてしまえば……
 見慣れてしまえば、きっと……。

 けれど、今は……。


776 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/21(日) 21:57:52.68 ID:hfXGEpDLo

「……もっと楽しんだほうがいいよ、か」

 そんな言葉を思い出して、俺は思わず笑ってしまった。

 どんな日々を過ごしたって、たぶん結論なんて出ないけれど、おんなじところに行き着いてしまうものなんだろう。

「なあ、さくら」

「はい?」

「俺はさ」

「……馬鹿なことを考えてますね」

 こんなことで、本当にさくらの居場所を作ったことになるんだろうか。
 俺は結局、さくらに何もできていないんじゃないか。

 そんなことを考えたところで、どうせいまさらだとわかってるのに。

「ね、隼。お願いがあるんです」

「ん」

「あのね……」

777 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/21(日) 21:58:25.45 ID:hfXGEpDLo





 部誌を完成させてからまだほんの少ししか立っていないが、文芸部には変化があった。

「これで三通目だね」

 と、瀬尾が呟く。

 それからじとりと、責めるような目で俺を見た。

「……」

 俺たちが完成させた部誌『薄明』はいつものように図書室のスペースを借りて展示・配布されている。
 
 今回、どうやら大野が図書新聞のスペースを借りて宣伝してくれたらしく、けっこう多くの生徒の目に止まっているらしい。

 その宣伝というのが、いわゆる「縁結びの神様についての研究」をピックアップしたものだったという。
 どうやらその話題に興味がある人間というのは少なくはなかったらしく、結果的にさくらの存在は急速に生徒たちに認知されつつある。

 結果、
 冗談半分に文芸部の入り口に置いておいた偽物の箱に、恋愛相談の手紙が何通かやってきている、というわけだ。

「願ったり叶ったりですね」

 と言うさくらの声は、俺と瀬尾とちせにしか聞こえていない。

「……ったく。どうすんだよ、これ」

 呆れたふうに語る大野の隣には市川が座っている。
 おまえたちだって恩恵を受けているんだぞ、とは俺は言わないでおいた。

778 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/21(日) 22:01:45.73 ID:hfXGEpDLo


「ま、まあまあ。でも、ほら、こういう形でも、部が認知されるのは悪いことじゃないし」

「活動目的に反してるだろ」

 事情をいくらか知っている瀬尾が庇ってくれるけれど、大野は俺の方を見ていた。

「……こんなことになるなんて思わないだろ?」

「そりゃそうだが。どうもこの手紙、いたずら半分ってわけでもなさそうだぞ」

「……みんな真剣に生きてるなあ」

「おまえも真剣に対応してやれ」

「俺?」

「そりゃあな」

「なんで。一番不向きだろ」

「おまえが原因だろうが」

「だから……こんなことになるなんて」

「でも、結果としてこうなった。どうするんだよ」

「どうするったって」

 ……いや。
 まあ、そうだな。

779 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/21(日) 22:02:13.03 ID:hfXGEpDLo

「……どうにかしてやるしかないだろうな」

 俺のその言葉に、大野は少し面食らった顔をした。

「ん……?」

「なんだよ」

「いや、てっきり、知ったことじゃないって言うかと思ったから」

「……まあ」

 普通なら、そう言っているところだけれど。
 ここまで込みで約束したのだ。

 最初から投げ出すつもりはない。

「どうにかやってみるさ」

 さくらが笑った気配がした。
 そっちを向くと、もうそっぽを向いている。


780 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/21(日) 22:02:45.19 ID:hfXGEpDLo



「せんぱい、わたしに秘密にしてることあるでしょ」

 部活を途中で抜けてふたりで屋上に来ると、出し抜けに真中はそう言った。

「まあな」

 と俺は取り立てて隠さなかった。

「さいきん、せんぱいとちせの様子がおかしい」

「ああ、まあ」

「ちせも関係あること?」

「そうだな」

「わたしには関係ないこと?」

「そういうわけじゃない」

 真中はむっとした顔をする。
 俺はそれを見て少し笑う。

「なんで笑うの」

「べつに、隠したいわけじゃない。ただ、話してもあんまり信じられないようなことだから」

「……そんなの、もういまさらでしょ」

「ん」

「青葉先輩のこととか、絵のこととか、いろいろあって、いまさら信じられないことなんて、想像つかない」

 それもそうか、という気もする。


781 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/21(日) 22:03:12.25 ID:hfXGEpDLo

「でも、話せないなら、べつにいいよ」

「……いいのか?」

「うん。あのね、せんぱい。わたしがつらいのはね、もっとべつのこと」

 俺たちはフェンスに近付いていく。
 網目を掴んで、街を見晴らす。

 少しだけ考える。

「べつのこと、って?」

「わかんない?」

 そう言って彼女は、ふいに俺の方へと手を伸ばす。
 その指先が、俺の目尻のあたりに触れた。

「……すごい隈」

「……」

 そんなにひどいのかな。

「部誌が完成する前から、ずっとそんなふうだったけど。まだ治ってない」

「……」

「なにか、無理してたんでしょ」

「……べつに、そういうわけじゃない。寝不足には慣れてるし」

「でも、疲れてるみたいだよ」

782 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/21(日) 22:03:38.42 ID:hfXGEpDLo

「そうかな。純佳には、元気そうになったって言われたけど」

「それは、前よりは、そうかもだけど。でも、やっぱり、無理してる感じ」

 そうなのかなあ、なんて考えてたら、真中は「どうしたの?」というみたいに微笑んだ。

 夏の日暮れはやけに遅くて、だから空はまだまだ明るい。
 それなのに今が夕暮れみたいな気がした。
 
 もうすぐ夜が来てしまうような、そんな気がした。

「……瀬尾が」

「ん」

「瀬尾がいなくなったのは……俺が、あいつの小説を真似たからだ」

「……そう?」

「うん。俺が、俺の文章を書けなかったから、あいつを真似て、あいつはそれで、ショックを受けて、いなくなった」

 発端は、そうだった。
 他のいろんな事情が絡まっているにせよ、そうだった。

「だから俺は……早く、俺だけの文章を書けるようにならないと」

「……そんなの、あるの?」

「わからない」

 創作は模倣から始まる。
 模倣と剽窃からの逸脱が、個性になる。

 そういう理屈はわかる。
 
 でも俺は……。

783 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/21(日) 22:04:23.11 ID:hfXGEpDLo

「文章が書けるようになりたかったんだ。昔から」

「……書けてたじゃない」

 まるで小さな子供を見るみたいな微笑み。そのせいで、気が緩んでるんだろうか。
 
「書けなかった。だから書こうとして、書こうとして、ずっともがいてた。
 それを続けて、その結果、瀬尾を傷つけた。だから……」

「……だから、書けるようになりたい?」

「……うん」

「まさか、それで……部誌が出来上がったあとも?」

「……笑う?」

「……ふふ」

 笑われてしまった。

「せんぱいはばか」

「……まあ、なあ」

784 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/21(日) 22:05:29.69 ID:hfXGEpDLo

「あのね、せんぱい。せんぱいがどれだけ隠しても、わたしには全部わかるんだよ」

「……へえ? たとえば?」

「青葉先輩がいなくなったときに、せんぱいがすごく心配して、責任を感じてたこと」

「……それはさ」

「それに、大野先輩も言ってた」

「なんて」

「あいつは基本的にめんどくさがりで嘘つきでスカしてるように見えるけど」

 ひどい言いようだ。

「でも、困っている人を助けるときには善悪にすら縛られないって」

「……」

「大野先輩が困ってるところ、助けてたんだって?」

「なんのことだ?」

「大野先輩が言ってたよ。文章が書けない自分のために、代わりに書いてあげてたって」

「あれは……」

「青葉先輩も、言ってた。新入部員の勧誘のときだって、結局動いたのはせんぱいだったって」

 そんな些細なこと。
 そんな些細な……。

「中学の時だって、わたしのことを守ってくれた。守ってくれる理由なんて、ひとつもなかったのに」

「……そんなの、結果論だろ」

「でも、みんなにはそう見えてるんだよ」

「……」

785 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/21(日) 22:05:56.80 ID:hfXGEpDLo

「だからね、せんぱい。そんなに自分を追い詰めなくても平気だよ」

「……」

「それがどんなにわかりにくくても、わたしはちゃんとそれを見抜いてあげるから。
 それを見抜いている人だって、きっとたくさんいるはずだから」

「……そうかな」

「うん」

 そう言って、彼女は俺の頬を撫でた。

 どうしてだろう。

 泣きそうになるのはどうしてだろう。

「だから、無理をしないで。自分に何かが欠けてるなんて思わないで」

「……」

「せんぱいは、せんぱいのペースで、少しずつ、なりたい自分になっていけばいいんだよ」

「……年下のくせに、偉そうに」

「……元気になった?」

「うるさい」

「せんぱいってさ、嘘つきっていうより……見栄っ張りだよね?」

「……」

「かっこつけ」

「うるさい」

786 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/21(日) 22:06:28.99 ID:hfXGEpDLo


 真中の肩に腕を回して、引き込むみたいに抱きしめた。

 泣きそうな自分を見られたくなかった。

 こいつは分かってない。
 こいつは全然分かってない。

「……せんぱいは、強がりすぎ」

「そんなことない。弱音吐いてばっかりだよ、俺なんか」

「……そうかも。そうかな。どうなのかな。わかんないけど」

 真中の小さなからだは、すっぽりと腕の中におさまっている。
 声がそばに聞こえる。

「せんぱい」

「……ん」

「わたしを離さないでいてくれて、ありがとう」

「……なんだよ、それ」

「守ってくれて、ありがとう」

「……」

 俺は、
 真中を守ってなんか、いない。


787 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/21(日) 22:06:56.74 ID:hfXGEpDLo




 真中を好きになることはない。
 真中を好きになることはできない。

 俺は真中を守れなかったんだから、そんな資格があるわけがない。

 俺は真中を守ったりしなかった。
 真中が傷つくのを眺めているだけだった。

788 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/21(日) 22:07:44.78 ID:hfXGEpDLo




 それでも、今、真中は俺のそばにいる。

 それが奇跡みたいに思えるのは……どうしてなんだろう。

「ときどきね……」

「ん」

「ときどき、変な夢を見るんだ」

「……どんな?」

「わたしが死んじゃう夢」

「……」

「その夢のなかでは、誰も助けてくれなくて、中学の頃のわたしは、とてもつらくて、それで、死んじゃうの。
 そういう夢を見るんだ」

 俺は、不意に、純佳といつか話したことを思い出した。

789 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/21(日) 22:08:19.25 ID:hfXGEpDLo

 ──……また夢ですか。

 ──またって?

 ──……あ、いえ。以前にも、そう、他の人に、同じようなことを言われたことがあって。

 ──……他の人?

 ──ええと、兄の知らない人です。

「でも、その世界にもせんぱいはいるの。せんぱいはわたしを守ってくれようとして、でも、わたしは、その手を取れずに死んでしまうの」

「……」

「だからね、わたしは毎朝目をさますたびに、思うんだよ。最近は本当に、強く思う。
 ああ、よかった、ただの夢だったんだ。この世界にはせんぱいがいて、せんぱいはわたしを守ってくれたんだって。
 だから、せんぱい、気付いてないかもしれないけど、せんぱいがしたことは、わたしにとっては奇跡みたいなことなんだよ」

「……」

 うるせえよ、バカ、と、言いかけて、やめた。

「そんなの……」

「ん」

「奇跡なんて、そんなの……」

 言葉にするのが嫌になって、真中をぎゅっと抱きしめた。
 真中がここにいることが、奇跡みたいに思えるのは、俺の方だ。

「……へへ」

 真中は、そんなふうに笑った。俺は、その真中の表情が見られないことを少し悔やみながら、それでも真中を離せずにいた。

790 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/21(日) 22:09:03.74 ID:hfXGEpDLo

 
『薄明』平成四年春季号の冒頭には、江戸川乱歩が好んで記したという言葉が引用されていた。

 曰く、

「うつし世はゆめ 夜の夢こそまこと」

 その言葉の意味も意図も、俺は知らないままでいい。

 俺たちは何かを演じているのかもしれない。誰が仕組んだ舞台なのかもわからないまま。
 それを仕組んだのが、仮に俺自身だったとしても。

 それがどうしたっていうんだろう。

 今この腕のなかにあるもの。
 それが離してはいけないものだ。

 それだけわかっていればいい。


791 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/21(日) 22:10:11.78 ID:hfXGEpDLo
つづく
792 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2019/04/21(日) 22:14:17.48 ID:nMQdOy3D0
おつん
793 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/22(月) 00:41:50.97 ID:zLydDmoho




「遅いぞ、後輩くん」

 学校近くのファミレスで、俺とましろ先輩は待ち合わせた。

「急に呼び出していったい何の……」

 言いかけたところで、ましろ先輩が気付いた。

「……さくら」

「ましろ」

 俺の斜め後ろから、さくらが顔を見せた瞬間、ましろ先輩は頬を緩めた。

「さくら!」

「あ、先輩。声が大きい」

「なんでさくらが……後輩くん。これは……」

「や。会いたがってたんで」

「会いたがってたって、でもさくらは……」

「隼がなんとかしてくれました」

「なんとかって……」

 ましろ先輩が目を丸くしているのを、俺は初めて見た気がする。

「すごいね……」

 今度ばかりは、俺の勝ちみたいだ。いつも踊らされてばかりだったから、悪い気はしない。

794 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/22(月) 00:42:17.95 ID:zLydDmoho

 テーブル席に座ってから、ドリンクバーを頼んだ。
 三人分。店員は変な顔をしていたけれど、「あとで来るんで」と言うと頷いてくれた。

 俺が三人分のジュースを持って席に戻ると、ましろ先輩は俺のことを見上げた。

「いったい、どんな方法で?」

「企業秘密です」

「……きみに鍵を渡したの、正解だったみたい」

 ましろ先輩じゃないみたいな気がした。
 彼女は何もかも、いつもお見通しみたいに見えたから。

 グラスを二人の前に置くと、さくらは当然のようにストローをグラスにさした。
 周囲から見たら、ひとりでに飲み物が減っていくように見えるのだろうか?

 ……人の認識なんて曖昧なものだ。
 誰かが見たとしても、気のせいで済むものかもしれない。

 仮に俺が見たら、そう思うような気がする。

795 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/22(月) 00:42:53.94 ID:zLydDmoho

 さくらに頼まれてましろ先輩を呼び出したわけだけれど、彼女たちはお互いに、何も話そうとはしなかった。
 どうしていいかわからないみたいに、ずっとそわそわしてばかりだ。

「さくら」

「はい?」

「なにか、話したかったんじゃないのか」 

「え?」

「そうなの?」

「……えっと、そういうわけじゃないです」

 てっきりそうだと思っていた。
 ということは、まあ、そういうことなのだろう。

796 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/22(月) 00:43:22.74 ID:zLydDmoho


「ただ、外に出られるようになったから……ましろに会いたかったんです」

「……」

「迷惑でしたか?」

 ましろ先輩は、一瞬、驚いたような顔をして、また笑った。

「何言ってるの。わかるでしょう?」

 彼女が笑うとさくらも笑う。
 さくらは、不安だったのかもしれない。

「ね、さくら。わたしも何度か、さくらに会いにいこうとしたんだ」

「……そう、だったんですか」

「うん。でも、なんだかそれって……すごく、ひどいことのような気がして」

 だから、会いに行けなかった。ましろ先輩はそう言った。

「さくら。……ひとりにして、ごめんね」

 そんな言葉で、俺はましろ先輩のことが、少しだけわかったような気がした。

「ね、ましろ」

 テーブルを挟んで向かい合って、さくらは先輩の手をとった。

「これからも、ましろに会いにきてもいいですか?」

797 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/22(月) 00:43:50.17 ID:zLydDmoho

「……何度だって、会いに来てよ」

「……」

「さくらは、わたしの友達だもの」

 俺は、なんだか自分が邪魔をしているみたいに思えたけれど、そんなことを考えた瞬間に、さくらがこちらを見て、

「何をいってるんですか」

 と笑った。

「あなたのおかげです」

「……」

 そうなのかな。
 どうしてか、そんなふうには、思えない。

 それなのに、

「ありがとう」とさくらは言った。
 泣いているみたいに見えた。

798 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/22(月) 00:46:02.93 ID:zLydDmoho





 ちせを部員に加えた文芸部は、瀬尾の主導で夏休み中に新たな部誌を作ることに決まった。

「前回は、わたしが消化不良だったからね」と瀬尾は言う。

 彼女はときどき『トレーン』に顔を出すようになった。
 俺を誘うこともあるし、誘わないこともある。

 ちどりと瀬尾は馬が合うのか、すぐに仲良くなって、週末に一緒に遊びに行く話をするようになるまですぐだった。

 まあ、趣味だってある程度は共通しているのだろうから、当然と言えば当然だろう。

 怜もまた、以前よりも頻繁に『トレーン』を訪れるようになった。

「一度こっちに来てみたら、意外とそんなに遠くないんだと思ってね」

 ということらしい。引越し先では上手くやっているというし、実際そうなのだろう。

 怜はときどき、何か言いたげな表情を見せることがある。
 そのたびに俺は訊ねてみるのだけれど、彼女は首を横に振ってはぐらかすだけだった。

 それを話してくれる日が来るのかどうか、俺には今のところ見当もつかない。
 
 改めて『むこう』のことについて話したけれど、怜も茂さんも、やはり、あちらには行けなくなったままらしい。

 どうしてそんなことになったのかはわからない。
 誰もがむこうにいけなくなったのか、
 それとも俺たちが、むこうにたどり着く条件を満たせなくなったのか。

 茂さんは、むこうについても、瀬尾についても、あまり多くを語らなかった。
 思うところは、きっとあるのだろう。それでも彼は、カウンターのむこうで笑っている。あの覆い隠すような笑みのままで。

 いずれにせよ、俺たちをさんざん混乱させた春の出来事は、まるで夢か何かだったみたいに、途絶えてしまった。

 カレハや、あいつがどうしているのか、俺にはわからない。
 夜からの音沙汰も、今の所はない。記憶しているかぎりは、ない。
 
 少し拍子抜けしているけれど、そんなものなのかもしれない。

799 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/22(月) 00:50:36.57 ID:zLydDmoho


 さくらは文芸部の部室に顔を出すようになって、他のやつらがいないときには、よく瀬尾やちせと話している。
 特にちせとは、ましろ先輩という共通の話題があるからか、だいぶ仲良くなったみたいだ。

 とりあえずのところ、仮に俺や瀬尾が卒業したとしても、ちせがいる。

 あとのことは、『薄明』がどのくらい機能しているかに関わっている。

 それについて大野は、

「あの噂がだいぶ広まってるみたいで、ずいぶんみんなに受け入れられてるらしい」

 と言った。

「みんな正直だね」と、呆れ調子で言ったのは市川だった。

 彼女が見る夢について、俺は詳しい話を聞いていない。
 けれど一度だけ、どうしても気になって訊ねた。

「まだ、夢は見るか」と。

 市川は、うん、と短く頷いた。それだけだ。

 彼女はまだむこうの夢を見ている。

 それはただの夢なのだろうか。
 それとも、まだ何かがあるのだろうか。

 あるのかもしれない。あそこは理外の森だから、俺たちの事情とは関係なく、きっと存在し続けるのだろう。
 どこかでぽっかりと口を開けているのだろう。

 それは俺にはわからない。

 わかるのは、市川と大野の距離が、以前よりも近付いたらしいということくらい。
 それについての詳しい話を俺は聞かなかったし、大野も言わなかった。

 やけに俺のことを買いかぶっている大野だから、言わなくてもわかると思っているのかもしれない。


800 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/22(月) 00:51:03.33 ID:zLydDmoho

 部室の前に置いておいた箱の中には、ときどき手紙が入っていることがある。
 それの担当は、ひとまず俺ということになった。

 といっても、『神様に対する恋愛相談』を果たして俺が覗き込んでいいものか、という問題もあるにはあった。
 
 とはいえ、『代理人』の役目はやっぱり俺だろう、という話もある。

 ときどき瀬尾やちせの力を借りつつ、主にさくらの主導で、俺は『縁結び』をやることになった。
 手紙には大抵名前も学年も書かれていなかったので、俺達はひっそりと、陰ながら、彼や彼女の悩みに手を貸すことになった。

 それは上手くいったりいかなかったりした。それは当然のことだ。

 さくらがやっていたときとは違う。

「人は縁がない相手のことも好きになったりするものですから、仕方のないことです」と、さくらは言っていた。
 
 そう言われると、俺は自分がやっていることがものすごいおせっかいなんじゃないかという気がしたが、

「それでも、無駄にはなりませんよ」

 とさくらは言っていた。

 そうであってくれればいいと俺も思う。
 傲慢になるつもりはないけれど、そうでなければ寝覚めが悪いから。

 もしそうでなくても……それは仕方ない。
 
 最初からそれは正しいことではないのだ。これは、嘘の上に成り立ったものなのだから。
 だから俺にできることがあるとしたら、その嘘を可能な限り誠実なものにするように努めることだけだろう。

801 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/22(月) 00:51:39.29 ID:zLydDmoho

 ちせはときどきさくらを家に招くようになったという。
 それはつまり、さくらがましろ先輩の家に遊びにいくようになった、ということだ。

 あのとき話しただけでは話し足りないことが、ふたりの間にはきっとあるのだろう。

 それができるのを自分の功績だと誇るつもりはないし、おそらくまだ完全ではない。
 
 二重の風景を見ることがなくなった俺は、不思議と今になって、その事実に寂しさを覚えている。

 あいつはどこかに消えてしまったのか。
 カレハはどこにいるのか。

 それを考えるたびに、俺はあの絵の中の景色に入り込みたくなるけれど、
 たとえそれができたとしても、もうむこうには行くべきではないような気がした。

 あなたの中の彼と合一を果たして。

 カレハはそう言ったけれど、俺は結局、そうはならなかったような気がする。
 あの暗い森で、灰のように崩れ落ちたあいつの傍らに、カレハが今もいるような気がする。

 そうであってほしいと、思っているだけなのかもしれない。

802 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/22(月) 00:52:49.90 ID:zLydDmoho

 七月の末近い土曜日に、茂さんは俺を車に載せてある場所へと連れて行ってくれた。

 高速道路を二時間走った先には、見渡す限りの森と山があった。
 
 俺と茂さんはふたりで森の中へと入り込み、そこでひとつの廃墟を見た。

 草花の気配が古びた建物に侵食して、割れた天窓から差し込む光に、割れたコンクリートの隙間に咲いた花が照らされていた。

「ここだよ」と彼は言った。

「ここがモデルだったんだ」

 どうしてそこに、俺を連れて行きたかったのか、茂さんは話してくれなかった。
 あのとき、あの絵の中で、茂さんは俺の背後に何かを見ていた。

 それはひょっとしたら、かつての自分の姿だったのではないか。
 そんな想像をしたけれど、俺にはどうせ本当のことはわからない。

 何を言いたくて俺をそこに連れて行ったのか。
 ただ、自分がそこに行きたくて、誰かを道連れにしたかっただけなのか。

 本当のことなんて、どうせ俺にはわからない。
 それでいいのかもしれない。

 その森の茂みのなかで、俺は跳ねる二匹の動物の影を見た。
 そこになにかの面影を重ねたけれど、それは単なる俺の感傷なのかもしれない。

803 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/22(月) 00:53:56.45 ID:zLydDmoho

 真中にも釘を差されたけれど、俺は毎夜ノートに向かって自分の文章を書こうとすることをやめなかった。
 
 文章を書けるようになりたい。少なくとも、みんなが書ける程度のものを書けるようになりたい。
 その欲望は、いつしか最初の理由や目標なんて置いてきぼりにして、欲望だけになってしまったような気がする。 

 書きたい、書きたい、という、欲望だけになってしまったように思える。

 純佳はそんな俺に呆れてため息をつきながら、ときどきコーヒーを差し入れてくれる。

 そして朝になると起こしてくれて、弁当まで作ってくれている。

「そろそろ妹離れしてくださいね」
 
 なんて純佳は言う。

 それでも「そうだな」と頷くと、少し寂しそうな顔をするのだ。

 書くのに疲れて窓の外を見てみると、空にはぽっかりと月が浮かんでいる。
 いつか見たときのような恐れのような気持ちは、今は綺麗になくなってしまっている。

 そのたびに俺は何かをなくしたような気持ちになって、なんだか自分が長い夢を見ていたような気分になるのだ。
 あるいは、こんな日常さえもが、ただの夢なのかもしれない。

 本当と嘘の区別なんて、どうせ俺たちにはつきやしない。

 だったら、気にするだけ無駄だ。
 
 そんな夜でも眠ってしまえば朝が来て、杞憂だと言わんばかりにあたりまえの明日がやってきた。

804 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/22(月) 00:55:09.21 ID:zLydDmoho

 部活をサボって屋上で昼寝をしていたある日、真中が勝手にそばにやってきて、寝そべった俺の頭を勝手に自分の膝の上にのせた。

「なんだよ」

「なんでもないよ」

 気にしないで、と真中は笑った。

 感情表現が豊かになった真中は、近頃めっきりモテるようになった。

 嘘から出た真で恋人になった俺としては頭の痛い事実だが、今のところ、不届き者は現れていない。

「もしそんなことになっても、せんぱいじゃ相手が悪すぎるよ」

 と、真中が照れもなくそんなことを言うので、

「そりゃあ買いかぶり過ぎだろう」というと、そうではない、と首を横に振って、

「せんぱいは手段を選ばないから、かわいそう」

 手段を選ばない。まあたしかに、そうなのかもしれないな、と俺は思った。
 
 その日はとてもいい天気で、俺はそれが、世界の終わりか始まりか、そのどちらかのようにさえ思えた。
 
 けれどそれはあくまでも、どこまでも地続きの日常の一端で、
 だから俺はほっとして、真中の膝の上で眠った。

「夏だね」

 と、真中がそう呟くのが聞こえて、俺は思わず笑ってしまった。

 いつのまに、こんなに明るいところまで来ていたんだろう。

 
805 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/22(月) 00:56:17.49 ID:zLydDmoho



 夏休みに入ってすぐのある日、瀬尾がみんなに召集をかけた。

 みんなというのは文芸部のメンバーだけでなく、ましろ先輩やちどりや怜、更にはさくらまでもを含む『みんな』だった。

 真中とちせが誘ったというので、コマツナまでが来ていたくらいだ。

「お邪魔してよかったんですかね」とコマツナが遠慮していた様子だったが、気にするような奴はひとりもいない。

 瀬尾が俺たちを呼びつけたのは、今となっては廃校寸前というくらい生徒数が減少してしまった小学校、
 の、旧校舎だった。

 野草の生い茂るグラウンドと、周辺を囲うような雑木林のせいで、あたりから隠されているような気さえする。

 俺と大野は瀬尾に言われて背負っていたリュックサックを下ろすように命じられた。
 彼女はその中からいくつものおもちゃの水鉄砲を取り出した。

「……それは、なに」

「水鉄砲」

「見ればわかる」

「見てわかるなら、しようとしてることもわかるはず」

「……何歳だよ」

「楽しそうでしょ?」

「正気か?」
 
 と言って周囲を見ると、みんなはやれやれという顔をした。

「……なんで誰も文句言わないんだ?」

「三枝くん以外、みんな何するか知ってたからね」

「……こいつら全員ノリノリなの?」

 試しに周囲を見てみると、それぞれがそれぞれに自分の得物に手をつけていた。

806 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/22(月) 00:56:44.01 ID:zLydDmoho

「……なんだってこんなこと」

「楽しそうでしょう?」

「そりゃ……」

「ね、三枝くん」

「ん」

「もっと、楽しんだほうがいいよ」

 そう言って、瀬尾はからりと笑う。
 
 もう、むこうに逃げ込んでいたときの瀬尾とは違う。
 こんなこと、たしかにちどりは言い出さないだろう。

 瀬尾はもう、瀬尾青葉になったのだ。

「……本気かよ」

「チーム戦。じゃんけん、グーパーね」

 それで俺たちは、日が暮れるまでずぶ濡れになって踊るみたいに遊ぶことになった。
 その日は綺麗に晴れていて、俺達は馬鹿みたいに笑った。

 帰り道の途中で、不意の夕立ちに降られても、俺たちはとっくにずぶ濡れだったから、馬鹿みたいにはしゃいだままだった。
 
 たぶん、この日のことを思い出すとしたら、俺はきっと、その、雨に濡れた瞬間のことを、思い出すんじゃないだろうか。
 ずっとあとになって思い出す瞬間があるとしたら、きっと、そういう瞬間なんじゃないだろうか。

 みんなの濡れた髪や服や、遠くの山に被さる黒い雲の隙間の夕焼けのことなんかを。

 やがて、ずっとずっとあとになって、何もかもが過ぎ去ったあとに、ふと思い返すのだとしたら。


807 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/22(月) 00:57:11.33 ID:zLydDmoho



 部室の隅の戸棚の中に、俺達の書いた『薄明』も並べられる。
 これからも俺たちは『薄明』を並べるだろう。

 そのたびに、いくらかの注意を要するかもしれない。
 その懸念はあるけれど、俺はあまり悲観も心配もしてはいなかった。

 いつか、この『薄明』を他の誰かが読むことになるのだろう。

 俺たちがそうしたように、いずれ誰かの目に留まるのだろう。

 それはべつに、俺達の痕跡になるとまでは言えないだろう。
 佐久間茂の『薄明』のような例もあるのだから。

 それでもこれを読んだ誰かは、俺達がここにいたのだと想像するのだろうと思う。

 誰かがこれを見つけるだろう。

 この古い戸棚は化石を隠した地層のように堆積していく。

 それはかつて現在だったもの。更に前には未来だったもの。そして今となっては過去になってしまったもの。
 これから過去になっていくもの。

 俺たちは、そのときちゃんと、誰かにとっての何かになれるだろうか。 
 そんなことを、俺はときどき考える。

808 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/22(月) 00:57:43.92 ID:zLydDmoho




 たとえば当たり前に季節が変わり、
 船が積荷を載せ替えるように、人々が入れ替わったとしても、
 また桜が咲いて、その中で誰かが孤独だったとしても、
 あるいは、孤独であるからこそ、誰かが彼女を見つけるだろう。


809 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/22(月) 00:58:18.56 ID:zLydDmoho




「もう部活決めた?」

「まだ」

「いろいろあって悩んじゃうよねえ。文化系だっけ?」

「ん。美術部か、写真部か……文芸部にしようかな、と」

「ふうん。なんでその並び?」

「……サボりやすそうだし」

「あはは。文芸部って言えば……この学校の文芸部、変な噂があるんだって」

「噂?」

「なんでも……桜の精霊が……」

「ええ、このご時世にそんな噂?」

「でもなんか、先輩たちが話してるの聞いたんだもん。見える人もいるんだって」

「ふうん……。まさか、信じてる?」

「んー。わたしは自分が見たものしか信じないからなあ」

「友情も愛情も信頼も? 寂しい生き方だね……」

「こら、勝手に人を寂しいやつにするな。そういう意味ではない」

810 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/22(月) 00:58:47.78 ID:zLydDmoho

「わかってるよ。……あ」

「ん。どったの」

「校門のところ。誰か立ってる」

「ん?」

「ほら。桜の下……」

「……どこ?」

「え?」

「誰もいないよ……?」

「……そう、なの?」

「うん」

「気のせいかな……」

「……ひょっとして、からかってる?」

「まさか。……早く行こう。移動教室、遅れちゃうよ」


811 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/22(月) 00:59:50.53 ID:zLydDmoho




 文芸部室の壁には、一枚の絵が飾られている。

 淡いタッチで描かれたその絵は、線と線とが溶け合いそうになじんでいて、ふちどりさえもどこか不確かだ。
 けれど、描かれているものの境界がぼやけてわからなくなるようなことはない。

 鮮やかではないにせよ、その絵の中には色彩があり、陰影があり、奥行きがあった。
 余白は光源のように対象の輪郭をぼんやりと滲ませている。
 その滲みが、透明なガラス細工めいた繊細な印象を静かに支えていた。

 使われている色を大別すると、三種になる。青と白と黒だ。
 絵の中央を横断するように、ひとつの境界線がある。
 
 上部が空に、下部が海に、それぞれの領域として与えられている。

 境界は、つまり水平線だ。空に浮かぶ白い雲は、鏡のような水面にもはっきりとその姿をうつす。
 空は澄みきったように青く、海もまたそれをまねて、透きとおったような青を反射する。

 海と空とが向かい合い、それぞれの果てで重なり合うその絵の中心に、黒いグランドピアノが悠然と立っている。
 グランドピアノは、水面の上に浮かび、鍵盤を覗かせたまま、椅子を手前に差し出している。

 ある者は、このピアノは主の訪れを待ち続けているのだ、と言う。
 またある者は、いや、このピアノの主は忽然と姿を消してしまったのだ、と言う。そのどちらにも見えた。

 その絵は、世界のはじまり、何もかもがここから生まれるような、無垢な予兆のようでもあったし、
 何もかもがすべて既に終わってしまっていて、ただここに映る景色だけが残されたのだというような、静謐な余韻のようでもあった。

 そこに映る景色には、誰もいない。今はもう誰もいない。

 けれどそれは、たぶん絶望ではなかったのではないか。今になって、そんなことを思う。
 そこには誰かがいたのかもしれないし、これから現れるのかもしれない。

 だからこそ、この絵は、予兆のようでも余韻のようでもあるのかもしれない。

 たとえばすべての部品が入れ替わってしまった船があるとしても、
 その船を形作ってきた部品たちが、朽ちてしまったとしても、これから朽ちていくとしても、
 それは存在しなかったわけではない。

 たとえ描いた人間がそう思っていなかったとしても、そういう嘘を、信じてもいいような気がしている。

812 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/22(月) 01:00:16.76 ID:zLydDmoho
おしまい
813 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2019/04/22(月) 01:07:28.17 ID:HRfqi1PA0
乙でした
怜の案内人のこととかってよく読み返したらわかるんだろうか
814 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2019/04/22(月) 06:47:12.95 ID:D+ZRSQp00
1年間、ここの更新を確認するのが日課でした
おつかれさまでした
815 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2019/04/22(月) 06:48:55.68 ID:2q9uPnj20
おつでした
816 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2019/04/22(月) 08:17:24.70 ID:9DNGlqwnO
乙でした〜
まだ理解できなかったところがあるので
読み返します〜!
あと最後の方の後日談っぽい感じが良かったです!
817 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2019/04/22(月) 16:53:24.99 ID:4zgMi7zSO
818 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2019/04/22(月) 20:16:24.47 ID:2zM9mCL8O
おつです。
いい作品を読ませてもらって感謝です。ゆっくり読み返しますわ。
819 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2019/04/22(月) 23:51:22.91 ID:SBeiMLGB0
おつです。お疲れ様でした!
820 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2019/04/23(火) 00:40:25.88 ID:Ap7DvQ/Lo
おつです。
平成最後の名SSをありがとうございます。
821 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2019/04/23(火) 00:48:12.15 ID:0NhWc7w90
おつでした。書いてくれてありがとう。
822 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2019/04/23(火) 18:55:05.75 ID:iiyQ+TdOO
おつ
823 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2019/04/25(木) 04:41:11.54 ID:Mbgu3+v2O
出遅れた!終わっとるやんけ!
リアルタイムで追えて良かったです。
お疲れ様でした
824 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2019/06/29(土) 19:46:39.17 ID:Qp0aUxZmo
また気が向いたら書いてください
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