【Another】恒一「……中村青司?」

Check このエントリーをはてなブックマークに追加 Tweet

74 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/21(木) 02:26:10.98 ID:qJudscWY0
17

もう1キロは走っただろうか。駅はまだ遠い。
息はとっくに切れて、走るスピードもだいぶ落ちていた。
手術で肺は完治したのだから、せめて休みの日くらいはジョギングでもしておくべきだったかもしれないと、今更ながらに後悔する。

それでも何とか足だけは止めずにいたが、例の男はおろか、車や通行人ともすれ違わないままだ。
そこまで考えてようやく、あいつがあのまま徒歩で立ち去ったとは限らないことに思い至った。
相手は大人だ、車を使った可能性だってある。
そう考えた途端、気持ちが折れ、もう走れなくなった。

膝に両手をついて、肩でぜえぜえと息をする。それだけでは呼吸が静まらず、二、三度咳込んだ。
反射的に肺の痛みを予期して体を硬くしてしまうが、手術のお陰だろう、痛みが襲ってくることはなかった。

そのまま荒い呼吸を続け、それがようやく治まってきた頃。
うなじに、ぽつりと冷たいものが当たった。空を見上げると、それは顔にもぽつぽつと当たる。
頭上には黒い雲が広がっていた。

どうするべきか考える前に、今度はポケットに入れた携帯電話が震える。
ディスプレイに表示されたのは、鳴の電話番号。
通話ボタンを押し、「もしもし」と呼びかけた。

「榊原くん?」

「……ああ、見崎」
75 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/21(木) 02:27:03.14 ID:qJudscWY0
ぼくが知る限り、この番号は鳴にとって二代目の携帯電話になる。
携帯を「いやな機械」と言ってはばからない鳴は、合宿の後、一度それを捨てたのだ。

もっとも、すぐに霧果さんから新しいものを持たされることになるだろう、という本人の予想通り、
前回の訪問時には既にこの番号を使っていたのだけど。
鳴からの着信は、その時以来のことだった。

「今、どこにいるの?」

「ごめん、何も言わずに飛び出しちゃって……」

そう応じながら、重要なことを思い出す。

「――そうだ見崎、警察には通報した?」

「警察?」

「うん、だって犯人を捕まえてもらわないと」

「……」

鳴は少しの沈黙のあと、「榊原くん」とぼくの名を呼ぶ。

「今日のことは気にしないで。……もう、大丈夫だから」

「えっ?」
76 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/21(木) 02:27:50.21 ID:qJudscWY0
一瞬、何を言われたのか理解できなかった。

「だけど……人形が壊されたんだよ。霧果さんだって、きっと」

「それも平気。霧果には、わたしの方から伝えておくから。――雨、降ってるんでしょ? 榊原くんも、もう帰った方がいいよ」

鳴の言う通り、雨はどんどんと勢いを増していて、道路の乾いた部分はほぼ無くなりかけていた。

「でも見崎、犯人が――」

「ねえ、榊原くん」

濡れるのも構わず、なおも食い下がろうとしたぼくに、鳴がぴしゃりと言葉を重ねる。

「犯人犯人って、誰のことを言ってるの?」

「誰って……ぼくらが地下に行く前に、男の人がギャラリーから出てきたんだ。だからその人が」

「わたしは見てない。――そんな人、本当にいたの?」

「いたから、こんなことになったんだよ。あいつが入ってきて……ええと」

「それで、人形を壊して出ていった? そう言いたいの?」

「う、うん」
77 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/21(木) 02:28:45.98 ID:qJudscWY0
言いたいことはたくさんあるのに、言葉がまるで出てこない。
鳴の家を飛び出してから五分近くが経っていたけれど、
冷静さを取り戻すどころか、何事も無かったかのような様子の鳴に、かえって動揺が強くなっている。

「……榊原くん、まずは落ち着いて。それから、あなたは何もしなくていいの」

「見崎……?」

ぼくに言い聞かせるような口調で、鳴は続ける。

「あなたの言う、犯人。ギャラリーに入ってきて、人形を壊して出ていった、男の人」

ざあざあという雨音の中で、それははっきりと聞こえた。



「――いないの。そんな人は」
78 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/21(木) 02:29:40.43 ID:qJudscWY0
「……いない……?」

「そう。……もう、大丈夫だから。じゃあね」

それだけ言って、電話は切れた。鳴が終話ボタンを押したのだろう。
スピーカーからは、ツー、ツーという不通音が流れてくるのみ。

なにもかも、理解できなかった。
大丈夫? もう平気? いない? そんな馬鹿な。それじゃ、それじゃあまるで……。
様々な感情が浮かんでは、そのまま通り過ぎていく。

雨はほとんど土砂降りに近いものとなり、ぼくはとうに全身くまなくびしょ濡れとなっていた。
もう、慌てて帰ることも、雨宿りだって必要ない。

しばらくそうして雨に打たれていると、ついさっきまでぼくを突き動かしていた熱のようなものが、徐々にその温度を失っていくのを感じた。
もう少し時間が経ってしまえば、ここから動くことすらもできなくなりそうな気がして、そうなる前になんとか足だけは家に向け、歩き出す。
これ以上何かを考える気にはとてもなれなかった。
79 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/21(木) 02:30:26.44 ID:qJudscWY0
……真冬の冷たい、雪に変わる寸前の雨が好きだと、いつか鳴が言ったことがある。
それには程遠いはずの十月の雨が、この時ばかりは凍てつくように冷たく思えた。
80 : ◆8D5B/TmzBcJD [sage]:2019/02/21(木) 02:31:57.29 ID:qJudscWY0
一旦区切ります。
続きはなるべく早めに投下します。
81 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2019/02/21(木) 13:19:46.01 ID:n38NCHPT0
乙です!!
82 : ◆8D5B/TmzBcJD [sage]:2019/02/21(木) 21:13:17.73 ID:qJudscWY0
再開します。
83 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/21(木) 21:14:05.71 ID:qJudscWY0
18

その翌日、日曜日。
ぼくはまだ布団の中にいた。時刻は、午前十時を回ったころ。
とっくに目は覚めていたのだけど、もう一時間以上はこうしてぼんやりしている。

思考に浮かんでくるのは、昨日の出来事ばかり。
棺の中の、顔を失った人形。こちらを見つめる蒼い瞳。
いかにも「でき過ぎ」なあの光景を思い出す度に、やっぱりあれは夢か何かだったのではないか……。
そんな気もしてくるが、もちろんそうではない。間違いなくぼくが目にしたものだ。

にもかかわらず現実感が薄いのは、自分の目で見ておきながら、その意味をぼく自身が理解していないせいだろう。
そのせいで考えているとはいっても、それは何か具体的な形をつくるでもなく、絡まってはほどけてを繰り返していた。

枕にしていた右腕が痺れてきたので、寝返りをうって仰向けになる。
具合が悪いわけではなかった。昨日あれだけ雨に濡れたというのに、むしろ体の調子は良い。
濡れねずみになって帰ってきたぼくを出迎えるなり、一も二もなく風呂場に放り込んでくれた祖母のおかげだろう。
84 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/21(木) 21:14:43.21 ID:qJudscWY0
……なんというか、祖母には本当に心配をかけてばかりだな、と思う。
ここに来てすぐ気胸で入院したことに始まり、その後の通院、合宿明けには手術まで。
その間ずっと、ぼくの面倒を見てくれたのは祖母だった。

昨日だって、出かける時に伝えていた帰宅時間を大きくオーバーした上に、ずぶ濡れで帰ってきてしまった。
それに――ああ、そうだ。
心配をかけているのは、いまこの瞬間だってそうだったじゃないかと思い出す。

ちょっと前、なかなか起きだしてこないぼくに、祖母はそろそろ朝ご飯を食べたらどうかと声をかけてきてくれた。
それに対してぼくは、昨日のことが頭から離れず「まだいいや」なんておざなりの返事をしただけ。
まったくもって不義理極まりない。
急に、自分がものすごく悪いことをしているような気がして、いても立ってもいられなくなった。

いい加減に起きよう。
そして祖母や祖父に――それから一応、九官鳥のレーちゃんにも――おはようを言うのだ。
話はきっと、それからだろう。

「よし」と誰に言うでもなく口に出し、ぼくは勢いをつけて体を起こした。
85 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/21(木) 21:15:23.40 ID:qJudscWY0


遅めの朝食を済ませた後、洗面所で顔を洗った。
十月に入ってお湯を使うようになっていたけれど、今日はなんだか気合を入れたくて、冷水で思い切りバシャバシャとやる。
濡れた前髪をタオルで拭いていると、鏡の中の自分と目が合った。

左手で前髪を押さえている鏡像のぼくのあらわになった額の右上、ちょうど髪の生え際辺りに、小さな傷痕があった。
長さは縦に約1センチ。そこだけ皮膚の色が白くなっていて、ちょうどチョークで引いた線のようにも見えるけど、
普段は前髪で隠れているから目立つというほどでもない。

これは合宿の時にできたケガ、らしい。
らしいというのは、ぼくにその瞬間の記憶がなくて、はっきりしたことが言えないからだった。

とはいえ、それがいつのものなのか、おおよその目星はついている。
合宿で"死者"――怜子さんの背にツルハシを突き立てた後、襲ってきた強烈な肺の痛みに耐えかね、ぼくは意識を失った。
最後の記憶は、砂利混じりの地面が急速に接近する光景。
次に目を覚ましたのは病院のベッドの上で、額には大きなガーゼが当てられていた。
要するに、倒れた時に石で切るなりしてできた傷、ということなのだろう。
86 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/21(木) 21:15:56.22 ID:qJudscWY0
この傷痕を目にする度に、ぼくはどうしてもその時のことを、そして怜子さんのことを思い出してしまう。
逆に言えば、この傷がある限り彼女のことを忘れるなんて絶対にあり得ないのではないか、そんな風にも思うのだけど、
それはきっと、甘すぎる考え方だ。

今ぼくが、どんなに鮮明に覚えていたとしても関係ない。「その時」が来てしまえば、それまでなのだ。
傷痕だって、何か違う理由でできたもの、ということになってしまうに違いない。
あるいは……この滅茶苦茶な<災厄>のことだから、傷痕そのものをなかったことにする、くらいのことはやりかねないんじゃないか、きっと。

いつの間にか思考が捨て鉢なものに傾いてきてしまっていることに気づいて、もう一度顔を洗うことにした。
勢いよく水を顔に打ちつけると、そこだけ皮膚が薄くなっているわけでもないのだろうが、傷痕がひりひりと染みる。
けれどおかげで頭は随分とすっきりした。

もう少ししたら、着替えて出かけることにしよう。
87 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/21(木) 21:16:41.34 ID:qJudscWY0
19

雨はあれから今日の明け方まで降り続いたものの、それで満足したとでも言うように、今では青空が広がっている。
昨日のこともあって一応傘を持ってはきていたが、この分ではただの手荷物で終わってしまいそうだ。
かといってわざわざ置きに戻るというのも面倒だしと、傘を杖代わりにして、かつかつ、こつこつとアスファルトを突っつきながら歩いた。

歩きながら考えたのは、それでも昨日のことだった。
あの地下展示室であったはずのことを、ぼくは想像する。
さきほどはまるでまとまらなかった思考が、今度はすんなりと、あるイメージとなって浮かんだ。

それは人形で溢れた暗い部屋と、そこに佇む一人の少女――鳴。
そして彼女の前には、身長と同じくらいの高さの棺が一つ。
その蓋は閉ざされている。ぼくの目の前で、鳴が閉めたからだ。

あの時はまだ、棺の中の人形は無事で、何の異常もなかった。
それはぼくがこの目で見たのだから間違いない。
88 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/21(木) 21:17:11.72 ID:qJudscWY0
ぼくを地下から追い払った後、鳴は"準備"のため、人形を棺ごと隠したと言っていた。
衝立の裏に置いてあった人形を引っ張り出し、代わりに棺をそこに隠す。
ただそれだけのことにあれほどの時間を――大体二十分くらい――かけていたのだから、
きっとあそこに決めるまで、それなりに悩んだのだろう。

とにもかくにも棺を隠し終えた鳴はエレベーターで三階に向かい、地下に残るは人形たちだけ……。
そう思いきや、階段を降りてくる影が一つ。

ひょろりと背の高い、リュックを背負った男。鮮明な鳴の姿とは対照的に、男の服や顔はぼやけて判然としない。
まあ、これがぼくのイメージであり、ぼくがこの男を間近で見たわけでもない以上、このくらいが限界だ。

男は、鳴とほぼ入れ替わりでギャラリーに、そして地下展示室に侵入する。
それから手際よく地下を探し、お目当てのもの――棺に入った鳴の人形を見つけ、にやりと笑う。
もちろん笑ったなんてことはぼくの想像でしかないが、これから彼がすることを思えば、それはひどく相応しい行為に思えた。

やにわに背負っていたリュックを下ろし、その中に手を入れる男。
取り出されたその右手には……日曜大工で使うような、ハンマーが握られている。
彼が最初からそのつもりだったとすれば、道具は予め自分で用意していたことだろう。
それにぼくの知る限り、地下展示室にはそういう類のものは置かれてなかったはずだ。
89 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/21(木) 21:17:53.66 ID:qJudscWY0
男の目が、じっと人形を見据えた。
と思った次の瞬間には、彼は勢いよく腕を振りかぶり、人形めがけて振り下ろす。

一回。
二回。
三回。
……もう一回くらいか?
念には念を入れて、四回。

それだけで、人形の顔は無くなってしまった。それを見た男は、満足げに深く息を吐く。

後は、撤収する準備だ。
ハンマーをしまい、リュックを背負う。棺の蓋を閉め、衝立と首なし人形も元通りに。
そして足早に階段を上がる。

そのまま出ていこうとした男の足が止まったのは、出口付近。目に留まったのは、「入館料五百円」と書かれた小さな黒板。
そこでまた男は、ふっと笑うのだ。
そして何を思ったか財布を取り出し、百円玉を五枚、重ねてカウンターに置く。
そうして、今度こそギャラリーをあとにした。
90 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/21(木) 21:18:57.33 ID:qJudscWY0
そこから先、ギャラリーから去っていく男の姿は、実際にぼくがこの目で見ている。
だから、以上がぼくの想像というわけだ。

想像といっても、他の可能性があるようには思えなかったし、いくつかの根拠らしきものもある。
確信には至らないまでも、それが真実だろうと思うことはできた。

――いないの。そんな人は。

鳴に、そう言われるまでは。
91 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/21(木) 21:19:29.42 ID:qJudscWY0
人形を隠していた間を除けば、鳴はずっとぼくと一緒にいた。
彼女にしても、状況はぼくとほとんど変わらない。
いやそれどころか、あの時ギャラリーから出てくる男のことを、鳴は見てもいなかった。
彼女自身もぼくに電話でそう言っていたはずだ。
ぼくから言われるまで、男の存在そのものを認識していなかったのだろう。

なのにどうして、あそこまできっぱりと言い切れる?
状況から考えれば、誰かが忍び込んで人形を壊したのは自明のことじゃないか。

それを訊こうとあれから何度か鳴の携帯にかけてみたけど、電源を切っているらしく、一度も繋がらなかった。
……まあ、これは昨日のことがあったせいとかではなく、いつも通りの鳴なのだろうけど。

かといって、家の電話の方にかけるというのはどうにもためらわれた。
鳴が出ればまだいいが、もし霧果さんが出たとき、ぼくは何と言えばいい?
何も言えないまま電話を切ってしまいそうな気がするし、それではいたずら電話になってしまう。

それに、例え鳴と話せたとしても、鳴はきっと何も教えてはくれないだろう。
そんな予感があった。
92 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/21(木) 21:20:10.32 ID:qJudscWY0
だから結局、あれから状況に変化があったわけでも、目の覚めるような新情報がもたらされたわけでもない。
ただ……鳴にああ言われた結果、昨日あそこで実際に起きたことは、ぼくが想像しているようなものだったとは思えなくなっていた。

鳴の言うことに同意するわけではない。
ただ、これだと思う考えに一度ストップをかけられて、自分でも気づいたことがあると言うべきか。

あの時、地下から戻ってきた鳴を出迎えた後。
ぼくらはすぐに地下へと戻ったはずだ。
ほんの少し話をしたり、外の様子を確認したりということはあったけど、その全てを合わせたとして、多めに見積もっても五分少々といったところ。
そのわずかな時間で、人形を見つけ出し、それを壊して、全部を元通りにして去っていくなんてことが可能だろうか?

ぼくの場合は、人形を見つけるだけで三分かかった。
それにしたって、衝立の存在に運よく気づいて三分だったのだから、もっと時間がかかっていた可能性だってある。
人形を破壊して逃げる余裕なんて、とてもない。

もちろん、最初から隠し場所を知っていて、迷いなく行動できたとすれば、五分というのは充分な時間になるだろう。
しかしあの時点では隠した本人である鳴を除いて、それを知るすべは無い。

つまり、あの男は棺のありかを知らなかったはずなのだ。
それを全くの偶然、幸運によってすんなり見つけられたと考えるのは、流石に無理があった。
93 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/21(木) 21:20:57.50 ID:qJudscWY0
疑問はそれだけじゃない。
ぼくが見た男が犯人であるとするなら、彼は初めから鳴の人形を狙っていたということになる。
展示されていた他の人形たちには何もせず、わざわざ棺を探し出して中の人形を破壊していることからもそれが窺えるし、
そもそも棺の人形の存在を知っている人間でなければ、隠されたそれを探す、という行動はできない。

だとすると、彼は以前にもあそこを訪れたことがあって、鳴の人形を見たことがあった。
そして昨日、何らかの理由でそれを壊していった、ということなのか?

「何らかの理由」なんて言っても、具体例を挙げられるわけじゃない。そんなものがあるのか、という気さえしている。
更に言えば、仮にそんなものがあったとしても、なお不自然な部分は残るのだった。

まず、今回のことが計画的な行動だったのならば、夕方の、しかも人までいる時にわざわざそれをする必要がない。
住人の不在時や、寝静まった真夜中。
もっと良いタイミングがあったはずだ。

しかも、そんな間の悪さで行為に及んだ上に、標的の人形が見当たらないというアクシデントにまで見舞われたのに、
態勢を立て直そうとするでもなく、悠長にそれを探し始めた……と?
どうにも納得がいかない。

それに、鳴からそう教えられたぼくとは違い、彼には「地下展示室のどこかに棺が隠されている」という確信はなかったはずだ。
霧果さんの工房にあるとか、あるいはもう、既にそれが売れてしまっているかもしれないとは考えなかったのだろうか。
あの人形ってそもそも売り物なのか、という疑問もあるけど……とにかく。
94 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/21(木) 21:21:31.66 ID:qJudscWY0
例の男が犯人だとすると、いろいろと腑に落ちないことがあるのだった。
しかもそれは考えてもどうにかなるものじゃなく、結局のところ、そもそもの前提が間違っていたのではないか、としか思えなくなっていた。

それは、つまり。

「……犯人じゃない、か」

まだどこか納得できないでいるぼく自身に言い聞かせるように、そう言葉に出した。
結局は、そういう結論になってしまうのか。
というより、ぼくもそれに薄々感づいてはいたけど、認めまいと無駄な抵抗をしていただけだったのかもしれない。

だって、彼ではないとするなら……それはぼくたちの中の、誰かがやったということに他ならないのだから。
正確に言えば、ぼくか、鳴か、霧果さんか。
95 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/21(木) 21:22:10.90 ID:qJudscWY0
もちろん、ぼくではない。それはぼく自身が一番よく知っている。
ロバート・ブロックの「サイコ」みたく、ぼくの中にもう一人ぼくがいて、自分でも知らないうちに……なんてことはないと思う、きっと。

霧果さんは鳴が人形を隠す前からリビングに来ていたし、ぼくが待っている間もずっと三階にいたことは間違いない。
だから、人形を壊すことはできない。

つまり、残るは――

ふっと視界が暗くなり、思考が中断される。
大きな影の中に入っていた。
見上げれば、この辺りではひときわ大きなコンクリートの直方体が聳えている。
鳴の家――<夜見のたそがれの、うつろなる蒼き瞳の。>。

あれこれ考えごとをしていたら、いつの間にかここに辿り着いていた……なんて、白々しいことを言うつもりはない。
ぼくは間違いなく、自分の意志でここに来たのだ。昨日ここであったことを、もう一度確かめるために。
96 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/21(木) 21:22:40.49 ID:qJudscWY0
ギャラリーの入口には、昨日とは違い「閉館」の札が下がっていた。
もしかしてと思ってドアを開けようともしてみたが、流石に今度はしっかりと施錠されていた。
まあ、これは予想していたことだ。
そもそも昨日だって、本当は閉館だったのに運良く入れたようなものだったし。

だから今日のぼくは、最初から三階のインターフォンを押すつもりだった。
もちろん鳴がとり合ってくれない可能性もある。
が、わざわざやってきたぼくを即座に追い返す、なんてことはしないんじゃないだろうか。
それに見知った人が相手なら、たった一本の電話線だけでつながって表情も分からないまま話をするよりも、
こうして直接話す方がかえって気楽だ。

ところが。
インターフォンを押しても、誰の返事も返ってこない。
そして、窓の外から見えるリビングには、人の気配が全くなかった。

……留守か。そこまでは考えていなかったな。
二人で買い物、あるいは今の時間帯を考えれば、食事にでも出かけているのだろうか。
97 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/21(木) 21:23:42.69 ID:qJudscWY0
いずれにしても、これでは出直すしかない。
ぼくも一度家に戻って、お昼ご飯でも食べた方が良さそうだ。
さっき朝食を食べたばかりで、あまりお腹は減っていないのだけど。

そんなことを考えながら仕方なく階段を降りていくと、

「ありゃあ、閉館かあ」

という、どこかのんびりとした声が聞こえてきた。
どうやら、ぼくと同じようにここを訪ねてきて、肩すかしを食らった人がいるらしい。

階段を降りきったぼくは、そこに立っていた来訪者の姿を目にして――凍りついた。

リュックを背負った長身の男。
忘れもしない"あいつ"が、そこにはいた。
98 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/21(木) 21:24:29.06 ID:qJudscWY0
20

こういう時は、なんでもないふりをしなくちゃいけない。
第一、向こうだってぼくの顔をはっきりとは覚えていないかもしれないのだ。
大きく反応したり、動きを止めたりしてしまえば相手にまでそれを悟られてしまう。

とにかく今はこの場をやり過ごして、ここにはまたあとで来ればいい。
そう。ぼくはただ、この家に用事があって来ただけだ。誰もいなかったから、あとは帰るだけ。
そうやってあくまで冷静に、ただ通り過ぎてしまえば大丈夫……。


――なんてことを思ったのは、たっぷり五、六秒は固まってからだった。
とっくに手遅れだ。
目の前の男が、こちらに顔を向ける。
99 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/21(木) 21:25:17.60 ID:qJudscWY0
初めに感じた印象は、思っていたよりずっと年上の人なんだな、ということだった。
おそらく、男性としては少し長いウェーブのかかった髪や、ベージュのジャケットに濃い青のカッターシャツという着こなしといった、
彼が全体として纏っている――言ってしまえば洗練された雰囲気が、ぼくにそう思わせたのだろう。
しかしこうして間近に顔を見ると、浅黒い肌に深く刻まれた皺に彼の過ごした年月が窺える。

頬がこけた顔や、まさに「鷲鼻」という表現がぴったりの大きめの鼻、落ち窪んだ眼窩……。
部分部分を書き出すと、どちらかと言えば鋭利な顔立ちをしている人だと気づく。
しかしその目はやや垂れ目がちになっており、それが彼の印象を柔和なものにしていた。

なんというか、そう……ぼくの周りの人で例えるなら、千曳さんに似ている。
たぶん、年齢も大して変わらないはずだ。

少なくともこうして向き合っていると、悪い人のようには見えないのだった。
けれども改めて彼を目にしたことが呼び水になったのか、ぼくの直感はいっそう強く、

――昨日見たのはこいつだ、間違いない。

と訴えかけてきている。

当の男は、ぼくの顔を見て何かを思い出したかのようにほんの少し眉をひそめ、

「君は……」

と口を開いた。
100 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/21(木) 21:25:54.49 ID:qJudscWY0
どうしよう。
このまま走り去ってしまうべきだろうか? それとも、いっそ携帯で警察に通報を?

いやいや、さっきぼくはこの人が犯人じゃないという結論を出したばかりではないか。
……でも、それは本当に?
ああ、だけど――

そうこうしている内に、男はすっと上を指差して言う。

「昨日の夕方、あそこに立っていたよね。ここの家の子供さんかい?」

「はい?」

やっぱり、見られていたらしい。しかも一部誤解がある。

「……ここは、ぼくの家じゃないですよ。それよりなんで、それを知っているんですか?」

「ん? ああ、ちょっと覗かせてもらったという話でね」
101 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/21(木) 21:26:27.88 ID:qJudscWY0
そう言ってポケットの中から、覗き穴が二つついた平べったいケースのようなものを取り出した。
折りたたみ式の、オペラグラスという双眼鏡の一種だろう。
父が似たようなものを使っていたはずだ。

「申し訳ない。あまりお行儀のいい話ではなかったかな。しかし、となると君は……」

「……ここはぼくの、クラスメイトの家なんです。昨日は、それで」

「はあん、そういうことか」納得がいったというように、うんうんと頷く男。

「しかしここ、今日は休館なんだねえ。……君は、今日もそのお友達に会いに来たということかな?」

やたらとこちらのことについて訊いてくる。探りを入れられているようで、あまりいい気分ではなかった。

……この人、人形は壊していないのかもしれないけど、それとは別に何か企んでいるのか?
そう考えはじめると、ぼくの受け答えも自然とぶっきらぼうな物言いになってしまう。

「そうですけど、留守みたいですね。誰もいませんでしたよ」
102 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/21(木) 21:27:02.52 ID:qJudscWY0
「留守?」男が目を見開いた。「しまったな……やっぱり昨日、上の方も訪ねておくべきだったか」

「何か、ここの人に用事でもあるんですか」

「人というよりは……家に、だね」

――家?
そう言われて、記憶のほんの浅い部分でざわめくものがあった。
そうだ。鳴から昨日聞いたばかりじゃないか。この家は――

ぼくがそれを言うより早く、彼はその名前を口にした。


「――君は、中村青司という男を知っているかい?」
103 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/21(木) 21:27:48.48 ID:qJudscWY0
中村青司。
<夜見のたそがれの……。>を建てた建築家。
そして、孤島で非業の死を遂げた男……。

「……この家を建てた、建築家だって聞きました」

もともと正答は期待していなかったのだろう、「ほう」と答える男は驚きの表情を隠さなかった。

「それも、君のクラスメイトから?」

ぼくが頷くと、矢継ぎばやに次の質問が飛ぶ。

「じゃあ、ちょっと確認させてくれ。この家は見崎紅太郎という実業家が、中村青司に設計を依頼したものだと聞いたんだが、合っているかい?」

頷く。

「現在ここに暮らしているのは、件の見崎氏ではなく、人形作家である彼の妻だとも聞いたけど、それは?」

頷く。

「うんうん。……それで、この辺の人たちはここを"夜見山の人形館"と呼んでいる?」

頷く。

……質問攻めにあうというのはなかなかにしんどいものだと、ぼくはこの時、自分がされる側になってようやく思い知った。
これは鳴でなくても「嫌い」と言いたくなる。
104 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/21(木) 21:28:30.36 ID:qJudscWY0
男はそんなぼくにはお構いなしと言わんばかりの、いよいよ喜色満面といった様子で、

「成程。半信半疑だったけど、これはいよいよ信憑性が増してきたなあ」

なんて言い、また一人でうんうんと頷き、それからこちらを覗きこむように顔を近づける。

「君、他には? どんな話を聞いた? それだけじゃないだろう?」

「まあ、いろいろと聞きましたけど……」

「どうだろう、僕にもそれを聞かせてくれないかい? ぜひ頼むよ」

まだこの人の正体もよく分かっていないのに、いつの間にか彼のペースでどんどんと話が進んでしまっている。

……でも、これはある意味チャンスじゃないか?
昨日のことについて、彼の話を聞けば何か分かることがあるかもしれない。
それにお互い、一番話を聞きたい人間に聞けないでいるという立場は同じなのだ。
そんな風に考えると、この人のことをぞんざいに扱う気にはもうなれなかった。
105 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/21(木) 21:29:02.45 ID:qJudscWY0
「……又聞きですし、大したことは話せないと思いますけど、それでもよければ」 

そう返答すると、男は「ありがとう。恩に着るよ」と満足げに笑う。
ぼくがさっきまで考えていたイメージの中で彼が浮かべていた邪悪な笑みとは、似ても似つかないものだった。
……やっぱり、悪い人じゃないんだろうか。

そんなぼくの内心を知るはずもなく、彼は「さて」と腰に両手を当てる。

「そうと決まれば、ここで立ち話ともいかないだろう。なんだが――」

「?」

「あいにく、この辺は地理不案内でね。どこかゆっくりできる所があったら、連れて行ってくれないかい」

そう言って、男はまたにっこりと笑うのだった。
106 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/21(木) 21:29:41.88 ID:qJudscWY0
21

十分後。
三組のクラスメイトの一人、望月優矢の姉・猪瀬知香さん夫妻が経営する<イノヤ>に、ぼくら二人はいた。
「どこかゆっくりできる所」なんて言われても、中学生のぼくが知っている場所なんて、夜見山ではここだけだ。

ここも、数ヶ月ぶりになる。
前に来たのは確か、夏休みのあの日。
ここで知香さんから<災厄>の解決に関わる、重大な情報がもたらされたのだ。
あの時ここにいたのは、ぼくの他には望月と勅使河原が。

……それから、赤沢さんもいた。
なんだか、遠い昔のことのように感じる。

「へえ、ここはなかなか雰囲気がいいね。君、やるじゃないか」

能天気にそう呼びかけられて、現実に立ち戻る。
目の前の男は興味深げに、店内をきょろきょろと見回していた。

さっきから思っていたけど、なんというか……年齢の割に、子供っぽいというか、落ち着きが無いというか。
千曳さんのよう、という第一印象は、もはや欠片も残っていない。
と言うより、初めて来る場所で、中学生とはいえ初対面の相手と一緒にいるというのに、なんでこの人はこんなに寛いでいるんだろう。
それともやはり、ぼくがこの人を必要以上に警戒してしまっているだけ、なんだろうか。
107 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/21(木) 21:30:23.37 ID:qJudscWY0
店の奥から知香さんがやってきた。

「あら、お久しぶり」

「……どうも。お久しぶりです」

そうして、向かいに座る男を見て、もう一度怪訝そうにぼくを見る。

――まあ、明らかに変な組み合わせだろうな。

しかし、そこは仕事中と頭を切り替えたのか「ご注文は?」と尋ねる知香さん。

「どうぞ」

ぼくは男にメニューを差し出す。

「うん? ああ、君から先に決めてくれ。好きなものを頼んでくれて構わないよ。流石に君みたいな未成年をつかまえて、割り勘なんてしないからさ。話を聞かせてもらう手間賃だと思ってもらってもいい」

おごってくれる、ということらしい。少し迷ったが、素直に甘えることにする。

「……ありがとうございます。それじゃあ、コーヒーを」

「はい」

ぼくの注文を聞いて、男が目を丸くする。

「コーヒーが好きかい? その歳で珍しいね」

「別に好きってほどでも無いんですけど……ここのコーヒーは、本物ですから」

「……ふふ」

知香さんが、それを聞いて微笑む。

「そういう風に言われると気になっちゃうなあ。じゃあ僕もコーヒーと……それから、サンドイッチでも頂こうかな。お昼も近いことだし」
108 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/21(木) 21:31:07.33 ID:qJudscWY0


知香さんが奥に消えたあと、先に口を開いたのは男の方だった。

「さて、僕から誘ったわけだし、色々と訊きたいことはあるんだが……その前に」

少し困ったように眉を寄せ、ぼくを見やる。

「なんだか、君からあまり良く思われてないというか、疑われてる気がするんだな。僕はそんなに胡散臭いかい?」

急にそう言われると返答に困ってしまう。
肯定とも否定とも言えない、というのが正直なところだった。

「ああいや、確かに僕は昨日もあの家に行ったわけだが……それはさっきも言ったように、あの家そのものに興味があったんだ。まあ、訪ねたはいいけど一階には誰もいないし、上に人がいるのは分かったが今にも雨が降りそうだしで、昨日はそこで引き上げたんだがね」

それでも沈黙を続けるぼくに、彼は「もしかして」と前置きをしてこう言った。

「昨日、あの家で何か事件でもあったのかい? それで僕が怪しいと?」

手元に落ちていた視線が、一気に上へ、男の方へと向いた。
平静を装うことはできなかった。
そんなぼくの反応がまるで予想通りだったかのように、

「ふん。どうやら図星のようだね、少年」

と言って顎を撫でる彼の態度には、全く慌てた様子はない。
109 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/21(木) 21:32:07.42 ID:qJudscWY0
「……どうしてそれを。まさか本当にあなたが」

「ちょっと待った。僕はまだ何があったのかも知らないよ。ただ、あそこが本当に青司の"館"だというなら、そういうこともありえる、そう思っただけさ」

釈然としない表情を浮かべるぼくに「まあ、その辺はおいおい説明するよ。まずは君の不安を解消しておきたい」と言って、男は脇に置いたリュックの中を探る。

「初めに、僕がどこの誰なのか、それをはっきりさせておこう。間の悪いことに名刺は切らしていてね。これで勘弁してほしい」

そう言って彼がテーブルに置いたのは、運転免許証だった。
氏名の欄には「島田 潔」とある。住所は東京になっていた。
写真を見る限り、彼のもので間違いはなさそうだ。

「島田さん、っていうんですね」

「そう、島田潔(しまだきよし)。職業も言った方がいいのかな」

「いえ、そこまでは」

今日は日曜日だから、この人がどんな仕事をしているか断定はできないけど、
雰囲気からしてなんとなく、サラリーマンとかではなさそうな気がする。
<夜見のたそがれの……。>を調べているようだったし、ジャーナリストとか、フリーライターとかだろうか?

いずれにしても、そこまで訊くのもなんだか申し訳ないと思って断ったのだが、島田さんはどこか残念そうな顔をしている。
……むしろ、訊いてあげた方が良かったんだろうか。

「君がいいって言うなら、それでいいさ。……じゃあ次は、僕にも君の名前を教えて欲しいのだけど、どうだろう? もちろん、無理強いはしないが」

「……ぼくの名前、ですか」

会話の展開を考えれば当然そうなるべき流れではあったけれど、やはり返事に警戒は混ざってしまう。
彼もそれを敏感に感じとったようで「ああ」と言葉を続ける。
110 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/21(木) 21:33:31.66 ID:qJudscWY0
「別に深い意味は無いんだ。もし君が言いたくないのなら、偽名でもいいよ。例えば……僕は友人の一人を『こなん君』と呼んでいてね。もちろん彼の本名ではないんだが」

……この人は、推理小説が好きなのだろうか?
その名前だけを聞いても、当の「こなん君」がどんな人なのか、全くイメージが浮かばない。

「まあ、そういう類の渾名みたいなものでいいんだ。要は『君』とか『少年』とかじゃあ、こっちが呼びにくいってだけの話でね。なんなら、僕が名付けようか」

彼はそう言って「ふむ」と、ぼくを観察するようにじっと見つめ出した。
ぼくがこのまま沈黙していれば、おそらく一分もしない内に名前が決まってしまうことだろう。
そうなる前に口を開く。

「大丈夫です。島田さんに名乗ってもらった以上、ぼくも自己紹介するので」

「そうかい? 考えるのも手間じゃないし、別に僕は構わないよ」

「……いや、ぼくが困ります」

何にせよ、そんな名前で呼ばれ続けてはたまらない。ぼくも島田さんにならい、学生証を差し出した。
111 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/21(木) 21:34:09.85 ID:qJudscWY0
「榊原――君か。ははん、こりゃあ因果な名前だねえ」

「……それを言われるのも、もう慣れましたよ。むしろ最近はご無沙汰でした」

強がりではない。本当にそう思ったのだ。
ここ夜見山に移り住む発端となった、ぼくの苗字にまつわるあれこれ。
それを淡々と、「ああ、またか。久しぶりだな」とだけ。
心が動くこともなかった。
ここに来てからというもの、あまりにも色々なことがあり過ぎたせいかもしれない。

「それは失敬。どうも歳を取ると、いつまでもこういうことを言ってしまって駄目だねえ、どうか忘れて欲しい」

「別に、気にしてませんから。……そんなことより、本題に入りましょう」

待ってましたとばかりに、彼は頷く。

「ああ、それがいいね。それじゃあ、教えてもらうとしよう。――昨日、あの家で一体何があったんだい?」
112 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/21(木) 21:34:55.19 ID:qJudscWY0
22

ぼくが昨日起きた事件について説明する間、島田さんはじっとぼくの話に耳を傾けていた。
その途中で知香さんがコーヒーとサンドイッチを運んできたが、彼はそれに手をつけようともしない。
ぼくも同じくコーヒーはそのままにして、まずはひと通りの説明を終わらせた。

「――そして今日、ぼくはあなたに会ったというわけです」

「ふむ、成程ねえ。……話を聞く限り、確かに怪しいな。君が三階で見たというその男は」

まあそれは僕なんだけどさ、なんて言って、島田さんはおかしそうにくつくつと笑う。
それからようやくコーヒーに手を伸ばし、一口啜った。

「これは美味しいなあ、榊原君の言う通りだ」

「……ぼくはまだ、その人影が島田さんだったとは言ってないんですけど」

「いやいや、気を遣ってくれなくてもいい」と彼は空いた方の手をぶんぶんと振る。

「大体、同じ格好をした人間が偶然、一度に二人も現れるはずないだろう。……君が見たのは僕だよ、榊原君。それに僕だってその時、君のことを見たんだからねえ。そこの部分を誤魔化すつもりはないさ」

「じゃあ、そういうことにさせてもらいます。あれは、ギャラリーから出てきたところだったんですか?」

「ああ。さっきも言ったが、昨日一階の方にはお邪魔させてもらっていたんだ。もっとも、誰もいなかったわけだがね。そこでさっさと上を訪ねてれば良かったんだろうが……」

「……何かあったんですか?」

「いいや、何も。ただ、あそこに人形がいくつか置いてあっただろう? ちょっと見入ってしまってね。……凄いな、あれは」

なるほど、そういうことか。その気持ちはよく分かる。
なんだか彼に親近感が湧いてきて、ほんの少し口元が緩むのが自分でわかった。
113 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/21(木) 21:35:29.82 ID:qJudscWY0
「すごいですよね。具体的に説明しろって言われると、ぼくも難しいですが」

「ああ。本物の人間そっくり、というのとはちょっと違うんだが……"濃い"んだろうな、存在が。かれこれ十五分近くはあそこにいたんじゃないかなあ」

彼はそう言って、今度はサンドイッチに手を伸ばす。
一口食べたとたんにそれまでの神妙な顔つきから一転、「おお」と目を輝かせた。
なんとも忙しい人だ。

「そういえば、ギャラリーにお金が置いてありましたけど、あれも島田さんが?」

カウンターに積み上げられた百円玉を思い出す。「入館料五百円」だ。
もっとも、ぼくは中学生だからと天根さんから半額にしてもらったり、
最近では「鳴の友達」という理由でそもそも免除してもらったりと、思えばまともに支払ったことがない。
天根さんの裁量によるところが大きいのだろう。

「そうそう。あれだけのものを見せてもらった以上、対価はちゃんと払うさ」

「……今更ですけど、ひとつ確認させて下さい。つまり、島田さんは『いた』んですよね? 昨日、あの時、あの家に」

「もちろん。君の目に狂いはなかったと僕が保証するよ。……ただ、地下に人がいたとは知らなかったな」

「昨日は、地下展示室の方には行かなかったんですか?」

「階段があることは分かってたんだが、誰にも会わない内に、勝手にそこまで入るのもどうかと思ってね。僕としては当然、無用なトラブルは避けたいものだから」

「……そうですか」
114 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/21(木) 21:36:06.82 ID:qJudscWY0
「だからまあ、見崎氏の娘さんが僕に気づかなかったとしても不思議ではないんだが……」

釈然としないもの言いだ。「何か、気になることが?」

「それがねえ。何か引っかかってはいるんだが、どうもはっきりしなくてね。――ところで、君も飲んだらどうだい。冷めてしまうよ」

島田さんがぼくのカップを示す。話に夢中で、全く口をつけていなかった。
言われるままに、一口飲む。
もうだいぶぬるくなってはいたけど、それでも花のようにさわやかな香りと果物のような酸味が、ぼくの中を通り抜けていった。

おいしい。でもちょっと、苦い。

――やっぱり、ブラックはまだぼくには早いかもしれないよ、赤沢さん。
115 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/21(木) 21:36:45.40 ID:qJudscWY0


それから半分ほどコーヒーを飲んで、カップを置いたぼくに、島田さんが「さて」と切り出した。

「昨日の僕の行動は、大体そんな感じだな。まあ、信じてはもらえないかもだが」

「……一応言っておきますけど、島田さんのことを疑ったのは事件直後の話で、今は違いますよ。嘘だとは思ってません」

彼に会うまでぼくなりにまとめていた結論は、もう既に伝えてあった。

「ああ、それもさっき言っていたっけねえ。僕としては別に異論はないし、妥当な推理だとも思うが……せっかくだし、一つだけ補足させてもらおうかな」

そう言って人差し指を立て、なおも彼は続ける。

「もし僕が犯人だったとしたら、僕があの館に行った時点で既に、人形は衝立の裏に隠されていた訳だ。これはいいね?」

「そうなる……と思います」

「すると僕は棺を探し当て、そのまま人形を壊した、と。つまり衝立の裏が犯行現場だ」

すっ、と指がぼくの方を向いた。

「だとしたら、これは妙じゃないか。目にしているべきものを、君は見ていない」

「ぼくが、ですか?」いきなり照準を向けられ、少しうろたえてしまう。「見てないって、いったい何を?」

「そこで犯行があったという証左。……つまり、返り血だよ」
116 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/21(木) 21:37:43.00 ID:qJudscWY0
一瞬意味が分からず、「はい?」と気の抜けた返事をしてしまったが、思考はすぐに追いついた。

「……人形に、血は流れていないと思いますが」

我が意を得たりとばかりに、彼は大きく頷く。

「ごもっとも。この場合は、その破片ということになるかな。……榊原君、君が棺を見つけた時、周りに破片は?」

「いえ、散らばったりはしていませんでした」

ぼくが棺を見つけた時には、周囲を含めて何の異常もなかった。だから深呼吸をする余裕だってあった。
もし破片が落ちていれば、蓋を開ける前に気づいただろう。

けれど、あそこまで人形を壊そうと思えば、当然かなりの強さで殴る必要がある。
破片を散らさず、それができたとは思えない。
眼球だって、あんな風に棺の中には残らず、そのまま転がっていってしまいそうだ。

「わざわざ拾い集めて、棺に戻したんでしょうか」

思い浮かんだことを、そのまま口にした。

「どうだろうねえ。大きいものならともかく、全部となるとこりゃなかなかに大変だ。むしろ……初めから破片が飛び散らないようにしていた、とかね。棺を寝かせた上で壊したなら、破片はほとんど棺の中に落ちるだろう?」

「ですけど、棺の置いてあった辺りはいろいろと物があって、棺を寝かせるだけの広さはありませんでしたよ? だとしたら――」

「それができるところまで移動させてからやった、ということだろうね。……しかしだ、破片を拾い集めたにせよ、棺を寝かせたにせよ、僕が犯人だとしたらそんな手間をかける理由は一体何だと、そういう話になってくる訳だなあ」
117 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/21(木) 21:38:16.71 ID:qJudscWY0
確かに、そこまでこだわる理由は存在しない。
そもそもこの時点では、後でぼくらが人形探しを始める、なんて予想はできなかったはずで。
発覚を遅らせたいのなら、元通り衝立で隠しておくだけでも充分だろう。

「まあ、あくまで補足だからね。僕の仕業じゃないと考えてくれているなら、それでいいさ。――それよりも榊原君」

「?」

「君の考えはついさっき教えてもらったわけだが、あれはまだ途中だね。その続きはどうなるんだい」

「……続き、というのは?」

「犯人かどうか検討するべき人間が、もう一人いるってことさ」

どくん、と心臓が一度、大きく脈を打つのが分かった。
それに呼応するかのように、背筋も自然とまっすぐに伸びる。

そんなぼくの様子を見てか、島田さんは申し訳なさそうに目を伏せた。

「……ああ、君にしてみればあまり考えたくない話だったかな」

「別に考えたくないとか、そういうことじゃないですよ。ただ……来るべきものが来たな、と」

神妙にそう答えると、彼も苦笑しながら頷いた。
118 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/21(木) 21:38:50.22 ID:qJudscWY0
実際、ぼくだって「その可能性」を考えなかったわけではない。
むしろ、真っ先に疑ってかかるべきだとさえ言えるだろう。

だからこそ、ぼくは確かめる必要がある。

「ふむ、それじゃあお許しも頂いたことだし、考えてみることにしようか」

そう言う島田さんの手が、サンドイッチの最後の一切れをひょいとつまみ上げる。
それと同じくらいこともなげに、彼はこう口にした。


「見崎紅太郎氏の娘――鳴さん、だったかな? 彼女が犯人である可能性についてね」
119 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/21(木) 21:39:27.50 ID:qJudscWY0
23

分かっていたことだ。

ぼくではない。
霧果さんでもない。
島田さんでもない。
残る人物は、ただ一人――鳴だけ。

「……やっぱり、そうなってしまいますよね」

「おやおや。随分とがっくりきているね。何も僕は、最後に彼女が残ったから犯人だ、なんて乱暴なことを言うつもりはないよ」

サンドイッチを食べ終え、両手と口が空いた島田さんが言う。
ぼくのことを慮ってか、慎重に言葉を選んでくれているのが分かった。

「ですけど結局、見崎は怪しいんでしょう?」

「まあ、疑うことを避けては通れないだろうねえ。第一、『もうすぐお別れ』なんて、まるで事件が起こることを予め知っていたような口ぶりじゃないか」

――この子とも、もうすぐお別れね。

人形が壊される前、鳴がそう口にするのをぼくは確かに聞いた。
そして、直後に「別れ」は訪れたのだ。

事件が起きることを、鳴は知っていた。
……というよりもむしろ、鳴こそが人形を壊した張本人だと、そう考えるのが自然だろう。
島田さんの言うとおり、疑うなという方が無理がある。
120 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/21(木) 21:40:12.29 ID:qJudscWY0
そのことを再認識して目を伏せたぼくだったが、島田さんの言葉は思わぬ方向へ続いていく。

「とはいえ……そんな言葉だけで疑うのも、失礼ってものだけどね」

「えっ?」

「考えてもごらんよ。『お別れ』って言葉、意味するところは随分とあやふやだ。例えばその後、彼女は人形を隠したんだろう? つまり、壊されなくとも人形は消えていた訳だ。彼女にとっては、それを指しての『お別れ』だったのかもしれない」

「人形を壊すことではなく、ですか」

「ああ。それにもし彼女が犯人なら、そんなことを君に仄めかしたって何の得もない。そうやって色々と考えていくと、どうにもしっくりこない部分が多くてね。結論、僕にとって彼女は"怪しい"止まりなんだな」

おどけたように、彼は両手を広げる。
それがどこまで本心からの言葉なのか、ぼくには分からない。

「その辺りの確認も踏まえて、ひとつひとつ検討してみようか。……まずは、機会について」

「つまり、いつ人形を壊すことができたか、ですよね」

「ああ。人形が壊されたのは彼女がそれを隠して三階に戻り、再び君と一緒に戻ってくるまでの間。そう考えると君と霧果氏には犯行の機会が無くなり、僕にしたって時間は五分程度しかない」

ぼくは無言で頷いた。
ここまではぼくも同意見だった。
……そしておそらく、その先も。

「だが、これは彼女以外が犯人なら、だ。彼女が犯人ならば、話はもっと単純になる。なにせ君を追い払ってから三階に戻るまで、ずっと一人で人形の近くにいたんだからね。壊そうと思えば、その機会はいくらでもあったはずだよ」
121 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/21(木) 21:40:54.50 ID:qJudscWY0
そう、鳴がやったのだと考えれば、話はきわめて簡単になるのだ。
事件が起きた後、鳴が警察に通報したがらなかったことも、これで納得がいく。
自分の犯行を警察に知られたいと望む犯人なんて、普通はいない。

「さっき僕らが話題にした破片の問題にしても、それは例外じゃなくてね」彼はなおも続ける。

「他の人が犯人なら、犯行に及んだのは人形が彼女によって隠された後。この場合、人形は隠され、そして壊されたという順番だ。だからこそ、犯人は破片をどうしたのか、なんて疑問が生まれた訳だが……それも、彼女が犯人なら消えてなくなる。つまり……」

「――『隠され、そして壊された』のではなく、『壊され、そして隠された』から。……そういうことですよね」

ならば当然、人形が壊されたのは衝立の裏以外の場所、ということになるだろう。そこに破片が無いのは当然の話だ。
そしてぼくが人形探しをしている間、床に破片を見つけた覚えはなかったから、
島田さんの言う通り、棺を寝かせて壊したということなのかもしれない。

「ああ。行動の順番としてもそう考えるのが自然だろうねえ。そしてその順序で行動できたのは、もちろん彼女だけ。……ところがだ」

「何か問題があるんですか?」

「どでかいのが、一つね。僕がさっき『十五分くらいギャラリーにいた』と言ったことを覚えているかい?」

「霧果さんの人形に見入ってしまって、でしたっけ」

「そうそう。他にちょっと確認したいこともあったりでね」

まあとにかくだ、と言葉を継いで彼は言う。

「とても静かで、有意義な時間だったよ。――だからこそ、問題なんだな」

そう言って、唇の端を僅かに持ち上げた、まるで問題とは思ってなさそうな表情でぼくを見た。
というより、それのどこが問題だと言うのだろう? 良いばっかりなのでは、とぼくには思えてならない。
あの日は音楽も流れていなかったのだから、それはそれは静かだったはず……。

――あれ? それってつまり……。

「島田さんがギャラリーにいた間、物音は一切聞いていないってことですか?」
122 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/21(木) 21:41:53.41 ID:qJudscWY0
「そういうことさ。榊原君の話を聞く限り、人形はかなり派手に壊されているようじゃないか。彼女がことに及んだ時点で既に僕がいたのなら、その音は間違いなく聞こえてきたはず。そうじゃないということは」

ぼくに向かって突き出された彼の右手から、人差し指がぴんと上がる。

「僕があそこを訪れた後で、犯行が行われたはずがないんだ。だから彼女に『機会がいくらでもあった』というのは、表現として正しくはない」

「でも、それで見崎の疑いが晴れるわけじゃないですよね? 逆に、島田さんが来る前であればチャンスはあった、という言い方もできるんじゃないですか」

「はあん」顎に手をやり、彼は今度こそはっきりと笑った。「なかなか手厳しいじゃないか。僕よりも君の方が彼女を疑っているみたいだ」

「……今は見崎が犯人かどうか、それをはっきりさせる場面ですから。疑問は残したくないんです」

「ふん。なら、その辺りの時間をはっきりさせておいた方が良さそうだな。榊原君、君が一人で地下から三階に戻ったのはいつだい?」

「四時の……十分になるかならないか。そのくらいだったと思います」

「じゃあ、鳴さんが三階に戻ってきたのは?」

「四時三十分でした」時計を見ていたから、ここの時刻については自信があった。

「となると、彼女が一人で地下にいた時間は大体二十分くらいか。君の言う通り、人形を隠すだけにしては少々時間がかかり過ぎている気もするが……まず今はいいだろう」

島田さんはコップの水を氷ごと口に含み、がりがりと咀嚼しながら続ける。

「昨日、僕があの家に入った時間は四時二十分だったよ。入った時に腕時計を見たからね。そこは間違いない」

そう言ってぼくに示すように左手を掲げ、袖口から腕時計を覗かせた。
123 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/21(木) 21:42:43.43 ID:qJudscWY0
「それからしばらくギャラリーを見て回って、帰ったのが四時三十五分ころ……ってところだ。まあ、その時間については君も異論はないだろう?」

「ええ」互いに姿を目にしている以上、ここは間違いない。

「そしてさっきも言った通り」揃えた指先でこちらを指して言う。「僕がギャラリーにいる間、大きな物音――それこそ何かを壊すような音は、一切聞こえなかったよ」

「……それなら、仮に見崎がやったのだとして、人形を壊すことができたのは」

「四時十分から二十分までの、およそ十分。そういうことになりそうだ」

「隠すのは島田さんが来てからでも良いとして、壊すだけで十分、ですよね。充分な時間に思えますけど」

少なくとも、これで鳴に機会がないと言い張ることは無理がある。

「だが、時間があるというだけで人形は壊せない」

「……それは、凶器が必要という意味ですか?」

人形の損壊部位は顔に集中していた。
偶然の事故、例えば壁や床にぶつけてしまったとかでは、決してああはならない。
何かしらの道具――ぼくはそれをハンマーと想像したわけだけど――を使った、意図的な行為だと考えるべきだろう。

「あの家で、そういう道具がありそうな場所だと……」

「二階にある霧果氏の<工房 m>、とかかな。しかしね、なにも必ずそこから調達しなきゃならないって話でもない。彼女がその気だったのなら、予め自分で用意していた可能性だってある」

「それじゃ結局、凶器は大した問題にはならないんじゃないですか? 見崎がどうにかしてそれを準備して、人形を壊した。それだけの話なんじゃ」

「うーん、僕にはそこまで単純な話に思えないんだよなあ」島田さんはそう言いながら、こめかみの辺りを指でつんつんとつついている。

「もちろんぼくは、見崎がそんなものを持っている場面は見てないですけど……ぼくがいなくなって一人になった後に取りに行ったとか、あるいはもともと、地下展示室に隠していたのかもしれませんよ」

こうは行ってみたものの、工房に取りに行ったのだとすれば、どうしてエレベーターを使わなかったのかという疑問は残る。
124 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/21(木) 21:43:22.54 ID:qJudscWY0
それに、地下のどこかに隠していたのだとしても。
昨日、ぼくが鳴の家に行ったのは完全なる思いつき。鳴にとっては偶然だったのだ。
いつか来る機会に備えて、前もって仕込んでおいた……。
全くないとは言わないけれど、それはあまりにも大袈裟すぎやしないか、なんて気もしてしまう。

とはいえ、現に人形は壊れているのだ。
可能性がある以上、いやおうなしにそう認めざるを得ないのでは、とぼくは思うのだけど……島田さんは釈然としない顔で、まだこめかみをつついていた。
もうそろそろ、それは「つんつん」ではなく「こんこん」と形容しなきゃいけないくらいの強さになりつつある。

「榊原君の言う通り、彼女が現場に凶器を持ち込めたかどうかについては」不意に、彼の手がぴたりと静止する。「抜け道はいくらでもありそうだ。しかし……」

「しかし?」

「それから、凶器はどこへ行ったんだろうねえ。彼女が三階へ戻ってきた時は、当然なにも持ってはいなかったんだろう?」

「確かに、見崎は手ぶらでしたけど……地下展示室のどこかに隠していたんじゃないですか?」

「だが、地下は君が隅々まで調べているじゃないか。そしてそんなものは目にしてないときた」

「ぼくが探していたのは、たったの三分間だけでした。そりゃあ、あらかたのところは探しましたけど……ぼくが見落としただけかもしれないですよ?」

「見落としがあった可能性は否定しないさ。……が、そもそもね、これから徹底的に捜索されると分かっている場所に、敢えて凶器を隠したりするものかい? 君がもっと長い制限時間を要求することだってあり得たんだ」

「あ……」

そうだ。三分という時間を決めたのは他ならぬぼくだった。
ならば、隠し場所に地下展示室を選ぶのはまるで「見つけてください」と言っているに等しい。
125 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/21(木) 21:44:02.29 ID:qJudscWY0
それに、実際に探した身としては、やっぱりあそこに凶器が隠してあったとは思えないのも事実なのだ。
……ギリギリまで衝立の存在に気づけなかった手前、それを堂々と口にするのは、ちょっとはばかられるものがあるけれど。

どうせ隠すなら、最初からぼくが絶対に探さないような場所を選ぶだろう。
それこそ、ぼくが真っ先に除外してしまうような――

――人形があるのは間違いなく、こ・の・ち・か。

不意に、鳴の言葉が頭をよぎる。
今思えば、鳴にしては珍しく挑戦的というか、何か裏がありそうなもの言いだったけれど……。
あれはもしかして、誘導だったのだろうか?
ぼくの意識を地下に向け、他から遠ざけるための。
だとすれば、凶器の隠し場所は。

「一階のギャラリーはどうですか。隠してあったのなら、島田さんも気づかなかったでしょうし」

それは半ば確信を持っての問いかけだった……のだが。

「それなんだがねえ。実は昨日、僕はあそこを調べているんだ。凶器になりそうなものは無かったよ。断言してもいい」

「えっ?」

この上なく明確に、そしてあっさりと否定されてしまった。
126 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/21(木) 21:44:54.59 ID:qJudscWY0
「カウンターの内側とかも、ちゃんと見たんですか?」

「ああ。手抜かりなくしっかりとね」

「じゃあ、陳列棚の上は?」

「見たよ。もちろん、棚の下も」

他にありそうなところは……と更に考えたが、諦めた。
こうして考えると、あのギャラリーに物を隠せそうな場所はあまり多くない。

「というか……そもそも島田さん、どうしてそんなとこまで見てるんですか? 確認したいことがあった、って話でしたけど」

呆れの色も隠さないぼくの質問に、彼は笑いながら頭を掻いている。

「いやあ、いろいろと理由があってね。これも後で説明するが……今はまあ、中村青司のせい、とだけ言っておこうかな」

あの家を建てた中村青司に原因が? ともかく、ギャラリーに凶器がなかったのは確からしい。

「だったら、二階の工房ですよ。道具もやっぱり、そこから持ってきたんです」

「わざわざエレベーターは使わずに、かい? そこまで忌避する理由はあったんだろうか」

「それは……」

「とはいえ君の言う通り、彼女が工房へ行かなかったという保証もない。僕が『しっくりこない』と言った意味が、段々と分かってきたろう? ……ところで榊原君」

「なんですか?」

「ようやくと言うべきか、思い出したことがあるんだ。ギャラリーの入口には、ドアベルが付いていたね。それも結構大きな音の鳴る」

「そうですけど……それが?」

そう答えた直後、違和感を覚えた。
正体までは分からない。けれど、確かに感じる。
そんな微かな違和感を。
127 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/21(木) 21:45:48.02 ID:qJudscWY0
「僕があそこに入った時も、もちろんそれは鳴った訳だが……あの音、地下展示室には聞こえないのかい?」

「!」

曖昧だった違和感の輪郭が、その言葉でくっきりと浮かび上がる。
……そして、それが何を意味するのかも。

「昨日、君もあのドアから入ったんだろう。そして地下で鳴さんと会った。――その時はどうだった? 彼女に音は聞こえたんだろうか」

昨日のことだ。思い出すまでもない。
扉を開け、ぼくが館に足を踏み入れた時。
あの時、鳴は。


――誰か、そこにいるの?


「……地下にいた見崎の方から、声をかけてきました」

「成程。それはつまり――」

「島田さんがギャラリーに入って来た時も、見崎にはそれが分かったはずです」
128 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/21(木) 21:46:43.30 ID:qJudscWY0
「しかし、なぜか僕の場合は声をかけて貰えなかった。どうしてだろうね。一応『すみません』と挨拶もしたんだが……逆に怪しまれてしまったかなあ」

そう問いかける口調こそ穏やかなものだったけれど、こちらを見つめる彼の視線はいつの間にか鋭さを帯びている。
そんな話ではない、君だって分かっているだろう――。
暗にそう追及されているような気がした。

「……ぼくは見崎から『誰かが入ってきた』なんて一言も聞いてません。それどころか――」

「僕のことを『いない』と断言した。そうだったね?」

そうなのだ。確かに鳴はそう言った。「そんな人はいない」と。
もちろん、昨日あそこに島田さんがいたのは確かなこと。
鳴が彼の姿を見ていない以上、そう考えても仕方がないか……と思ったりもしたのだが、実際は真逆だったのだ。
「いない」だなんて、言えるはずがない。

「……もし見崎が地下にいなかったとすれば、気がつかなくても不思議じゃないとは思います」

「だがこの時間、彼女が地下展示室にいたのは間違いない、と」

「ええ。エレベーターが使われたのは見崎が戻ってきた時だけですし、仮に階段を使って他の階に移動していたとすれば――」

「再び地下へ戻る時、僕と鉢合わせになる、か。彼女が三階へ戻ってきたのは、僕が立ち去る前の話だったね」

「はい。しかも地下から、エレベーターを使って、です。地下以外の場所にいたのなら、島田さんがいる間に必ず一階を通ることになります」 
129 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/21(木) 21:47:21.64 ID:qJudscWY0
つまり鳴にも、島田さんが「いた」ことは分かっていたはずなのだ。
それなのに彼女は「いない」と言う。矛盾は明らかだ。

――もう、答えは出たも同然だった。
それを口にしようがしまいが、もはや大した差なんてない。

「結論は、一つだと思います」

だから、それは自分で言おうと決めた。

「見崎は確かに地下展示室にいた。そして地下にいた以上、島田さんのことも分かっていた。――けれど、見崎は気づかないふりをした」

島田さんが、同意を示すように小さく頷く。

彼に存在を悟られないように息を潜め、一方でぼくや霧果さんには平静を装い、闖入者などなかったかのように振る舞う。
ここまで来たら、もう疑う余地はない。



――鳴は、嘘をついている。
130 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/21(木) 21:48:06.42 ID:qJudscWY0
24

議論がひとまずの結論に達して、ぼくらの間には沈黙が訪れた。
「失礼します」と知香さんがテーブルに歩み寄り、空いたカップと皿を片付けてまた戻っていく。
邪魔にならないタイミングを見計らっていたのだろう。思えば、ずっと話を続けていたのだ。

島田さんは目を閉じ、何事かを思案している様子だった。
次に何を言うべきか、適当な言葉が見つからないでいるぼくも、自然と無言になってしまう。

かといって、このままじっと彼を見つめているのも落ち着かない。
頭上で回るシーリングファンや、カウンターでコーヒーを淹れている知香さんといった店内のあちこちを見ていると、
まるで、ぼくらのいるテーブルだけが違う時間の流れに取り残されてしまったような気分になってくる。
そんな奇妙な感覚から逃げ出したくて、ぼくも目を瞑った。
131 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/21(木) 21:48:46.39 ID:qJudscWY0


――背丈も髪型も服装も、全く同じ少女が二人、向かい合わせに立っている。

艶のある黒髪に隠れて、彼女らの顔は見えない。けれど、そのシャギーショートボブの髪型には見覚えがあった。
蒼白いドレスに身を包み、二人して身じろぎひとつせず立ち尽くしている。
不意に、向かって左手に立つ少女の右手がゆっくりと上がる。
そしてその手にはいつの間にか、ハンマーが。

あっと思った次の瞬間、それは勢いよく反対側の少女へ振り下ろされる。
声を発する間もなかった。

ばきっ、という乾いた音が響き、彼女はその場にくずおれる。
脚や腕、首までもが不自然に曲がり、それはまるで操り糸の切れた人形のよう。

……人形?

よくよく見れば、彼女は殴られたというのに血を流すこともない。
代わりに周囲にはその肌と同じ色をした、白い欠片が散らばっている。
なるほどそれは、確かに人形だった。

じゃあ、こっちは? 
やっぱりこっちも人形なのか?
未だハンマーを持ったまま立ちつくしているもう一方の彼女が、ゆっくりとぼくの方を向く。
132 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/21(木) 21:49:26.19 ID:qJudscWY0
その右目にあるのは、蒼ではなく漆黒の瞳。
そして左目には、真っ白な眼帯。
……鳴だった。

その唇が微かに動く。しかし声は聞こえない。
人形を砕いた音はあれだけはっきりと聞こえたのに、今はもうなにも聞こえない。
それでも唇の動きから、鳴の言葉は理解できた。

――どうして。

どうして、だって?
それはぼくが言いたいよ、見崎。どうしてそんなことをする必要があるんだ?

叫ぼうとしても声は出なかった。
鳴は口を閉ざしたまま微動だにしない。ただ、ぼくの方を見ている。


なぜだかとても、淋しそうな顔をしていた。
133 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/21(木) 21:50:16.73 ID:qJudscWY0


「――君。おおい、榊原君」

島田さんにそう呼びかけられて、目を開ける。

「あ……すいません。何ですか?」

「煙草。吸わせて貰ってもいいかな」

見れば、いつの間にか彼の手元には灰皿が引き寄せられていた。

「……ああ、どうぞお構いなく」

肺のことを思えば、好ましくないのは間違いないんだろうけど、そこまで神経質になるようなことでもない。
話すべき話題も尽きかけてきていたのだし、なんならぼくが席を外せばいいだけの話だ。

「喋り通しで疲れたんじゃないかい。この辺でお開きにしておこうか?」

「大丈夫です。……ちょっとぼーっとしてましたけど、疲れたとかではないので」

目を閉じてはいたけど、もちろん眠ってはいない。
ただ、さっきまでの……白昼夢とでも言うのだろうか、自分の妄想じみたイメージに没入してしまって、
まるで寝ぼけたような反応をしてしまった。

「そうかい。じゃあ失礼して」と言って上着のポケットから島田さんが取り出したのは、手のひらにすっぽりと収まってしまいそうな、小さな黒い物体。

てっきり煙草の箱とライターが出てくるものだとばかり思っていたから、それが一瞬、ひどく異様なものに映る。
形だけを見れば、それは印鑑を入れるケースによく似ていた。
しかし中を開けば、入っていたのは印鑑ではなく煙草が一本だけ。
134 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/21(木) 21:50:53.93 ID:qJudscWY0
「今日の一本」

彼はそう口にして煙草をくわえ、ケースを近づけて火を点けた。ライターまで内蔵されているらしい。
そのまま目を細めて一度大きく煙を吸い込み、そして天井に向けて吐き出す。

しみじみと煙草を味わう島田さんを眺めながら、思考はどうしても先ほどの光景に傾いていく。
……いや、あれは正確にはぼくの想像でしかない。
ただ、昨日のことが鳴の仕業だとすれば、あれと同じことが起きたはずなのだ。

最後に見た鳴の淋しげな表情が、頭から離れない。

「見崎はどうして、人形を壊したんでしょうか」

夢の中ではできなかった問いかけが、言葉となってようやく出てきた。

「うん?」

こんこんと灰皿の縁を叩き、煙草の灰を落としていた島田さんだったが、すぐには答えず、
代わりにじっとぼくの方を見た……かと思いきや、

「なんだい、随分と怖い顔をしているねえ。ガールフレンドに嘘をつかれたのが、そんなにショックだったかい?」

なんて言って、愉快そうに笑う。
135 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/21(木) 21:51:39.55 ID:qJudscWY0
「なっ……いやいや! ぼくと見崎は別に、そんなんじゃ」

「おやおや。しかし、彼女の家にはよく行くんだろう?」

「そんな頻繁に行くわけでもないです! 昨日だって久しぶりで……」

必死に言葉を並べながら、全身がじんわりと熱を帯びていくのを感じる。 
鏡を見るまでもない。間違いなく、ぼくの顔は真っ赤だ。

「まあ、意地悪はこれくらいにしておくとしよう。それよりも、だ。……実際、榊原君はどう思うんだい。犯人は彼女で決まりかい?」

「……少なくとも、見崎は何かを隠しています」

「僕が来た時、気づかないふりをした、か。確かに、そういう結論になるだろうが……じゃあどうして、彼女はそんなことを?」

「ぼくが思いつく可能性は、ひとつだけです」

「それは?」

「島田さんに、地下展示室を見られたくなかったんでしょう。――もう既に、人形を壊してしまっていたから」

「……ふん、成程ねえ。僕が入って行きにくいように、敢えて無人を装ったってことか」

「さっき言ってましたよね。『誰にも会わない内に、勝手にそこまで入るのもどうかと思った』って。そう思わせたかったんだと思います」

もちろん、例え嘘をついていたからといって、それだけで鳴が犯人だと決まるわけではない。
その理由が分からないのならば、なおさら。
しかしそれでも、隠し事をする理由なんてそのくらいしか考えつかないのも事実だった。

「だがねえ、君も疑問に思っているようだけど、彼女に動機はあるんだろうか」
136 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/21(木) 21:52:22.05 ID:qJudscWY0
「ぼくが知らないだけで、そうせざるを得ない事情があったのかもしれません」

「人形を壊したこと自体は、そうかもしれないさ。でも、その後のことは? 壊した人形をどうしてわざわざ君に見せつける必要がある?」

あの時ぼくは、何をするのか直前まで知らされてはいなかった。 
仮に鳴がぼくに対して壊れた人形の存在を隠し通したかったのだとすれば、適当にはぐらかしてしまえばよかったのだ。
わざわざ人形探しを提案して、それを見つけさせる必要なんてどこにもない。

「……例えば、そうやってぼくと一緒に人形を見つけることで、犯人が外からやって来たと印象づけようとしたとか」

実際、それでぼくも島田さんを一度は犯人と疑ったのだ。
それこそが、鳴の狙いだったのでは?

「要するに、外部犯の仕業にしたかった、と」

「島田さんがあの日ギャラリーに入れたのも、そういうことだったんじゃないかって気がします」

「それはつまり、ギャラリーの入口が開いていたのは、彼女が鍵を掛け忘れたのではなく、意図的にそうしていたから……ということかい?」

「そうです」ぼくは頷いて言う。

「もしギャラリーの入口まで施錠してしまえば、外からの侵入は不可能になります。そうなれば、犯人は家の中にいた人だってすぐに分かってしまいますから」

だからこそ、鳴はぼくに入口が開いていたと言われた後も、鍵を掛けに行かず、そのまま話を続けたのだ。

島田さんは「ふうん」と唸って、煙草の赤い火と、そこからまっすぐ昇っていく煙を見つめている。

「外部犯の可能性を残すために、涙ぐましい努力をしていたって訳だ」

「ええ」

「じゃあ、そうやってせっかく現れた、僕という犯人候補。――それを自分から潰してまで、なぜ彼女は嘘をつく?」 

「……それは……」

この上なく真っ当な理屈だった。
137 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/21(木) 21:53:34.77 ID:qJudscWY0
電話で鳴と話した時、ぼくは島田さんを疑っていたのだ。
外部に疑いを持たせたいのならば、目論見通りのぼくの話は肯定するのが自然だ。それこそ、嘘をついてでも。

だが実際は真逆で、鳴は嘘をついてまでぼくの話を否定し、島田さんの存在を"いないもの"にした。
……そう、まるで"いないもの"なのだ、この状況は。
そんなことをする必要は、どこにもないというのに。


「それに外部犯に見せかけたいなら、人形を隠した後にもっと間を取りたがると思うけどねえ。誰もいない時間が長ければ長いほど、その可能性も高まるってもんだろう」

「そう……ですね」

三階へ戻ってきてから、適当な理由をつけて時間稼ぎをすることも出来たはずなのに、鳴はそれすらしていない。
更に言えば、あの時の鳴はすぐ地下へ戻ろうとしていた。
もしぼくがそれに従っていれば、外部犯の可能性はゼロに等しくなっていただろう。
自分が犯人であることを隠したいのなら、それとは正反対の行為を鳴はしている。
……どうしてだ?

「僕がしっくりきていないのは、むしろこの辺の事情についてなんだよ。彼女が犯人だという結論に事実を当てはめることはできても、内面はそうはいかない。どう考えても、"形"が歪になってしまうような気がするんだ」

組んだ両手の上にあごを載せ、彼は小さくため息をついた。
その指に挟んだままの煙草は、もうだいぶ短くなっている。

「だからね、こう考えるべきなんじゃないかな。――この事件の本当の"形"は、もっと違うものなんだと」
138 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/21(木) 21:54:28.70 ID:qJudscWY0
「"形"、ですか」

「ああ。この事件にはまだ、隠された何かがあるんじゃないか、そんな気がしてね。もっともこれは、僕の願望も入り混じっているのは否定しないが」

「……その、願望というのは?」

「まあ、つまりは……これが"青司の館"で起こった事件である以上、そう単純なものであるはずがない。そういう自分勝手な願望、だねえ」

そう言って煙草を灰皿に押し付け、火を消した。

「ええと……それって、何かしらの意味が欲しいってことですか?」

「そんな感じさ。何にせよ今の段階じゃあ、事件についての議論はここらで打ち止めだろうね。……榊原君、まだ時間に余裕はあるのかい?」

そう言われて時計を見れば、いつの間にか時刻は十二時を回っている。空腹はまるで感じていなかった。

「平気です。全然」

「ふん。だったら、今度は別の話を聞いてもらえるかな。僕が昨日、あの家にいた理由――中村青司と、彼の"館"についてね」
139 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/21(木) 21:55:10.72 ID:qJudscWY0
25

「そういえば島田さん、『あの家そのものに興味がある』って言ってましたよね」

「ああ。ちょっと前に、青司の"館"がここ夜見山にあるという噂を耳にしてね。それで東京からやって来たんだ」

そう言いながら、備え付けの紙ナプキンを一枚抜き取る。
口でも拭くのかと思ったけど、彼はテーブルの上で折りたたまれたそれを広げ、かと思えばまた折り、そしてまた広げ、そんな動作を角度を変えながら何度も繰り返す。
そうして折り目だらけになった紙ナプキンを、今度はしっかりと折り込み、何かを形作っていく。

彼は折り紙をしているのだと、そこでようやく気がついた。
完成形が何なのかは想像もつかないけれど、鶴を折っているわけじゃないのは確かだった。

「君も知っての通り、中村青司は建築家として異彩を放つ存在だった。それから、極めて早熟の人間でもあってね」

そう言葉を紡ぐ一方で、彼の視線は手元に注がれたまま、指先は淀みなく紙ナプキンを折り続けている。
彼にとって、中村青司にまつわる話はそのくらい引き出すことのたやすい記憶なのだろう。

「特に亡くなるまでの十年間は隠居状態で、殆ど建築家としての活動はしていなかったという話だが……『殆ど』という言葉は、なかなか厄介なもんだねえ。当然、皆無ではない。そしてその実例の一つが、ここ夜見山にあったという訳さ」

「見崎の家のことですか?」

「この辺の人たちは"夜見山の人形館"と呼んでいるんだろう? もっとも、あそこにはちゃんとした名前があるようだけど」

「分かりやすいと言えば、そうですけどね。<夜見のたそがれの……。>って、最初は建物の名前とは思いませんでしたし」
140 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/21(木) 21:56:12.45 ID:qJudscWY0
「名は体を表す、というやつだねえ。他の青司の館も、大体はそんな感じだよ」

「そうなんですか?」

「例えば、時計が沢山あるから『時計館』、仮面のコレクションがあるから『奇面館』……なんて具合でね。そしてここ夜見山にあるのが――『人形館』、か。……うん、成程ねえ。そうかそうか」

この人はたまにこうして一人で納得する部分があるな、というのがぼくにもうっすらと分かってきた。
……それにしても、なんだか妙に感慨深げな口調なのが引っかかる。
中村青司の館をようやく見つけた達成感、なのだろうか。

「ああ。一つ誤解の無いように言っておくが、あの館は青司の本来の作風からは大きく外れているよ。彼の館は大半が西洋建築の流れを汲んでいる。ああいうモダニズム的なものはまず無いと言っていい」

そう言われても、ぼくが知っている彼の建築物は鳴の家だけだから、あまりぴんとは来ないのが正直なところだった。
西洋建築と聞いてイメージできるのは、今はもうないあの<咲谷記念館>ぐらいだけど、ああいうものともまた趣が違っているのかもしれない。

「だからね、さっきも言ったが僕は半信半疑だった。人づてにあの館が青司の手によるものだと耳にはしたが、とてもそうは見えなくてね。――しかし、君が鳴さんから聞いた話でようやく納得できたよ。つまりあれは、霧果氏の意向だったんだな」

「霧果さんがああいう家をオーダーしたから、その通りに建てたと?」

「ああ。依頼主の要望を聞きつつも、自分好みの趣向はこれでもかと凝らすのが青司の常なんだが、彼女に人形を創ってもらうという交換条件があった手前、そこは自重したのか、言いなりになるほど彼女の人形に心惹かれていたのか……」

まったく、と言う彼の口からため息が漏れる。

「あの青司を虜にしてしまうとはねえ。つくづく恐れ入るよ。……まあ、実物を見た身としては納得だがね」

「その時霧果さんが創った人形って、今はどこにあるんですか? 中村青司はもうずいぶん前に亡くなったそうですけど」

「そうだねえ。彼の最期については、もう聞いているかい?」

「あまり詳しくは……えっと、殺人事件だった、とだけ」

「その認識で合っているよ。そしてその時、彼が住んでいた屋敷は燃えてしまっているんだ。だからおそらく……人形も火事で一緒に焼けてしまったんじゃないかな」
141 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/21(木) 21:57:29.67 ID:qJudscWY0
「……そうなんですか」

「ああ」そう答えた直後、島田さんの指の動きが初めて止まる。「榊原君、青司について君が知っていることは、鳴さんから聞いた話だけかい?」

ぼくが頷くと、彼は再び指を動かし始めた。
手の中の折り紙は、複雑な構造をした紙飛行機のようにも、はたまた鳥のようにも見えたが、何を作っているのかは窺い知れない。
ただ、それが未だ工程の途中だということだけは確かだった。

「そうかい。だとすれば、ここから先は君の知らない話になるな」

「まだ、続きがあるんですよね」

そう言えば、鳴もそんなことを言っていたっけ。
昨日はあんなことがあったから結局聞けずじまいだったし、率直に言えば忘れてしまっていた部分もある。

「ああ。僕や君にとっては、青司自身のことより、彼が命を落とした後の方が重要かもしれない。……彼の死後、全国各地に点在する彼の館では、不可思議な事件が起こるようになった」

「それってまさか……中村青司の幽霊が出るようになったとか、ですか?」

ぼくの言葉に、島田さんが大きくかぶりを振る。


「その程度だったら、まだましだったのかもしれないね。――起きるのは、決まって殺人事件だよ。それも凄惨な」
142 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/21(木) 21:58:26.80 ID:qJudscWY0
26

再び"殺人事件"なんて言葉が出てきたことに、動揺がなかったわけじゃない。
だけどそれ以上に、ぼくの中で強く湧き上がる得体の知れない感覚があった。
……何だ、これは?

「青司が死んだ角島に建つ"十角館"、岡山の"水車館"、京都・丹後半島の"迷路館"……。全てを挙げればきりがないからこの辺にしておくが、ほぼ全てにおいてそんな事件が起きている。多くは君がまだ小さい頃の話だから、あまり記憶には残っていないかな」

「……島田さんは、どうしてそんなに詳しいんですか?」

「まあ、僕自身興味を持っていろいろ調べているせいでもあるが……いくつかの事件については、実際に僕も関わっていてね。当事者って訳さ。こういう言い方もあれだけど、縁があるんだろうねえ」

実際に、事件を経験した当事者。
それはつまり、この話も無責任な噂なんかじゃなく、本当に起きたということだ。
――だとしたら。

「ちょっと待って下さい。じゃあ島田さんは、見崎の家でも、いずれそういう事件が起こるって言うんですか。あそこが本当に、中村青司の館なら」

彼の表情が、眉間に皺の寄った厳しいものになる。
ほんの少しの間があった。

「可能性は低くはない、と思うね」

「……!」

「僕も、面白半分でこんな話はしないよ。ただね、他の"館"でそういう事件が立て続けに起こっているのは事実なんだ。見て見ぬふりをする方が、かえって危険かもしれない。そう思える程にね」

「でも、殺人事件なら当然、犯人がいたわけですよね? だったら原因は館じゃなくて、あくまで別にあるんじゃ」

「もちろん、事件を起こすのは人さ。動機だって館とは無関係に蓄積された因縁だったり、不幸な偶然の連鎖だったり様々だった。……だが、それが起こるのは決まって"館"で、なんだ。まるで事件の方が呼び寄せられているかのようにね」

「だったら昨日、人形が壊されたのは? あれは予兆だったんですか、将来起こる事件の」

「……さてねえ。館によっては、そういう予言じみたこともあったと記憶しているが……まだ何とも、ってところかな」
143 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/21(木) 21:59:09.83 ID:qJudscWY0
ぼくに「話の続き」をするはずだった鳴。
続きとは、中村青司の館で起こる事件についてのことだったのだろうか?

もしも、そうだとしたら。
自分の家でもそういう事件が起こりうると、鳴が知っていたのだとしたら。
未来の自分となるかもしれない無残な姿の人形を見て、彼女は何を思ったのだろう。

……いや、それは鳴が自分でやったことかもしれないじゃないか、と思い直す。
さっきまで犯人なのではとあれほど疑っていたのに、今ではもうこんなことを考えている。
ぼくは鳴を疑いきれていないのか、それとも信じていたいだけなのか。
自分でも分からなかった。

そして本来なら、常識で考えるなら、ぼくはいい加減に声を荒げるべきだったのかもしれない。
そんな非科学的な話を持ち出すなんて、その家に住んでる人に失礼じゃないですか……と。

なのにぼくは、島田さんの話に言いようのない説得力を感じてしまっている。
それに気圧されて、口から言葉が何一つ出てこない。
理由は明白だった。
他ならぬぼく自身が、同じように理屈では説明できない<現象>を、ついこの間まで体験してきたのだから。
144 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/21(木) 21:59:58.08 ID:qJudscWY0
そして、先ほどからぼくの中で渦巻いている、このひどく奇妙な感じ。
その正体も徐々に分かり始めていた。
つまるところ、これは「既視感」なのだ。
過去に経験した事物に対する、拭いがたい既知の感覚。
……ぼくはそれを、島田さんの話に、中村青司の館に対して感じている。

そんなぼくのただならぬ様子を見てとってか、彼は更にこう続けた。

「とはいえ、それがいつ起こるのかについては分からないよ。あの家……"夜見山の人形館"が他人の手に渡ってからかもしれないし、そうじゃないかもしれない」

「ですけど、結局は起こる?」

「……ああ」未だ完成途中であろう折り紙を放り出して、彼は悩ましげに額に手を当てる。

「ここで『大丈夫だ』と言って君を安心させるのはたやすい。が、実際に経験してきた身として、そんな気休めを言うのは不誠実だと僕は思うんだ。だからね、やはりこう言うしかない」

細く息を吸う音が聞こえた。

「――人が死ぬのさ、青司の館では」

そう言い終えて、島田さんはゆるゆると頭を振る。
早々に消えていた千曳さんのイメージが、再び彼へと重なりはじめていた。

……似ている。どうしようもなく。

そう感じながら、ぼくは言った。

「つまり中村青司の館では、とにかくそれが起きる、と? 彼の呪いとか、悪意とかじゃなくて」
145 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/21(木) 22:00:46.41 ID:qJudscWY0
それはかつて、千曳さんが<災厄>をぼくに説明した時の言葉。
だけどもそれは、中村青司の館に対しても違和感なく当てはまってしまうようだった。

「少なくとも、青司の幽霊の仕業ってことはないだろうねえ。いやもちろん、もし青司が化けて出てきてくれるのなら、僕は是非ともお目にかかりたいところなんだが……長年彼の館を追いかけてるのに、一向にその気配はないね。残念なことに」

心の底からそう思っているというような調子で、島田さんは続ける。
折り紙はいつの間にか、その手の中へと戻っていた。

「しかし、一連の事件が青司の死を皮切りにしているのも事実だ。要は彼が死んだことを契機に、その館までもがこう……なんだろうねえ。死神に魅入られてしまったと言うべきか……」

より良い表現を探しているのか、彼はそう言って「ううん」と唸った。
今や魚のような鰭――それともあれは、腕だろうか?――を生やした折り紙を持つ手は静止している。
それだけ考え込んでいるということなんだろう。

けれど、ぼくにはもう分かっていた。
呪いでも悪意でもなく、ただ単にそれは起こる。
そんなものを言い表すのに相応しい言葉なんて、ひとつしかない。

「……そういう<現象>なんでしょうね」

「うん?」

「中村青司が亡くなって、彼の建てた"館"までもその"死"に引きずられて、"死に近い場所"になってしまった。それで事件が起きる。……そういうことじゃないですか?」
146 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/21(木) 22:01:30.63 ID:qJudscWY0
ぼくがある種の諦観をもって、淡々と言葉を並べ終えてからも、島田さんはぽかんとした様子で固まっていた……が、ややあって、

「……そうか……」

という呟きが、彼の口から漏れた。

「成程ねえ。なかなか面白い考えだと思うよ。青司の館は"死に近い場所"だから、そういうことが起こる。これはそんな<現象>なんだと。うん、確かにそうかもしれないな」

そう言ってひとしきりうんうんと頷いた後、「しかし、あれだねえ」と思い出したように言う。

「なんというか、ちょっと意外だなあ」

「何がですか?」

「いやね、榊原君みたいな若い子にこんな話をしても、話半分にしか聞いてもらえないと思ってたからさ」

「だって事件が実際に起きてるんだったら、信じるしかないですよ」

「まあそうなんだが、どちらかと言えばオカルトめいた話だろう? 現実にそういうことがあっても、館と関連づけて考えるのはあり得ない、って否定される覚悟はしていたからね。そこが予想外だったという話だよ」

「……」

確かに、以前のぼくならそうだったかもしれない。
だけど今はもう、島田さんの話を「あり得ない」と一笑に付すことはできなかった。
だってぼくは、知ってしまったのだから。
147 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/21(木) 22:02:03.81 ID:qJudscWY0

確かに「ある」のだ。

この世界には。

そういうことが。
148 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/21(木) 22:02:58.47 ID:qJudscWY0
甦る<死者>。
不可解な死の連鎖。
クラスの一人を"いないもの"にする「おまじない」。

そんな不条理が、ついこの間までぼくの、三年三組の現実だった。
だから……中村青司の館では必ず殺人事件が起きるのだ、なんて言われて、否定することなどできるはずもない。

――仕方ないよな。だって、そういうものなんだから。
そんな諦めにも似た感情が、ぼくの中にあった。

むろん、こんな赤裸々な心情を島田さんに語るつもりなんて、初めからぼくにはなくて。

「実はぼく、ホラー小説とか結構読むんです。それで、こういう話に抵抗がないのかもしれません」

だからこう言って、適当に誤魔化したつもりだったのだけど……これは思いのほか、彼を喜ばせる話題だったらしい。

「へえ。なかなかいい趣味じゃないか。それじゃあ、ミステリなんかも読むのかな」

「……その、ミステリは」

「あんまり好きじゃない?」

「……はい」

「ふうん。僕はホラーとミステリは相性が良いと思っているから、もしやと思ったんだが」
149 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/21(木) 22:03:45.83 ID:qJudscWY0
「別に、嫌いってほどでもないんです。ただ……」

「ただ?」

「……実際は、あんな風にならないじゃないですか」

「トリックのことを言っているのかい? まあ、ものによってはそういうのもあるからねえ。割りきって楽しまなきゃいけないというのは、その通りかもしれないなあ」

「……」

「おっと、もちろん僕の好みを押し付けるつもりはないよ。変な話をして悪かったね」

「いえ。――こちらこそ、すみません」

「いやいや、何も榊原君が謝る話じゃないさ」

そう言った後、島田さんはトイレに行くと告げて席を立ち、ぼくは一人取り残される形になった。
なんとも気まずい感じで、会話は終わってしまった。

……実のところぼくは、いわゆるミステリに分類される小説もそれなりに読んではいたのだ。
怪異や超常現象に人間が翻弄されるホラー小説とは違い、
ミステリの世界では、名探偵たちが刃のように切れ味鋭い推理でもって、謎に満ちた世界を律する。

ホラーを読んだ後にミステリを手に取ると、そんな彼らの姿を実に頼もしく感じたものだった。
だからこそ、ぼくはホラーを「物語」として純粋に楽しむことができていたのかもしれない。

大丈夫。実際にはこんな恐ろしいことはあり得ないんだから。
だって現実の世界に不思議なことは何もなくて、こんな風に全てが秩序だっているじゃないか……と。
少なくとも、それがぼくのリアルだったし、そう信じていられた。

――だけどもそれは、しょせん幻想でしかなかったのだ。
150 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/21(木) 22:04:39.69 ID:qJudscWY0
常識で考えれば信じがたい<災厄>で人が理不尽に死んでいくのを、ぼくは何度も目の当たりにした。
現実の世界が秩序あるものだというのはただの思いこみで、本当は不条理に溢れていた。

そして結局、不条理そのものと言うべき<災厄>からぼくらを救ってくれたのは、
<死の色>が見えるという、鳴の異能じみた<人形の目>――。
つまりは、また別の不条理だったというわけだ。

もしもミステリの名探偵が今年の三年三組にいたところで、<災厄>にはきっとなすすべがなかったことだろう。
そもそも、彼らがよりどころとするべき「事実」ですら、改竄であやふやなものとなってしまうのだから。

そんなわけでぼくは、なんとなくミステリに対して疎遠になってしまっている。
ホラー小説に対しても似たような抵抗は少なからずあったのだけど、元々「物語」だと思っていたか、そうでなかったかの違いは意外にも大きくて……。
この世界の現実以上に突拍子もない展開が起きたりすると、かえって安心してしまうこともあるのだ。
だから、なんだかんだでホラーは今も読み続けていた。

――それにしても、とぼくは思う。
この世界は、全てがミステリのように合理的・論理的に進むとは限らない。
そんなことはもう、痛いほど思い知らされている。
その前提を踏まえた上で……昨日の事件は、果たして一体どうなのだろう。

ただ単にぼくの知らない事実があって、真相をつかみそこねているだけなのか。
……それとも結局は<災厄>のように、ぼくらにはどうしようもない出来事だったのか。

結論にたどり着く見込みもない思考が、頭の中で渦を巻いている。
島田さんが席に戻ってくるまで、とりとめのないそれは続いた。
151 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/21(木) 22:05:29.56 ID:qJudscWY0
27

「この店、やっぱりいい豆を使っているようだねえ。支払いの時に少し買っていくとしようかな」

トイレからの帰り道、カウンターの知香さんとコーヒーについて言葉を交わしていたらしい彼は、そう言って再び席についた。

「何か頼んだらどうだい、榊原君。こんな時間だ。お腹が空いてるんじゃないか」

「いや、そうでもないんです。起きたのが遅かったので」

「じゃあ、コーヒーのお代わりでも頼もうか? それとも紅茶にするかい」

「気にしないで下さい。……あの、さっきから思ってたんですけど」

「うん?」

「それって、何なんですか?」

席につくなり、島田さんが再び興じていた紙ナプキンの折り紙を指差す。
先ほどまで魚のように見えていたそれは、また得体の知れない形状に姿を変えていた。

「ああ、これかい」

まるで悪戯を企む子供のような笑みを浮かべて彼は言う。

「出来上がってのお楽しみってところだねえ。まあ、もう少しで完成するよ」

「もうすぐ完成なんですか?」

それにしては、彼が一体何を作っているのか、ぼくは未だにさっぱりなのだけど。
152 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/21(木) 22:06:49.19 ID:qJudscWY0
「うん。だからそれまで、あとちょっとだけ僕の話を聞いてもらうとしようかな」

「えっと……今度は、何の話を?」

「もちろん、中村青司の"館"についてさ」

「……まさか殺人事件が起こるほかに、まだ何か?」

さっきまでの話の流れからすると、どうしても不吉なものを感じてしまう。

「いやいや、そんなに身構えるような話ではなくてね」

彼は愉快そうに白い歯をのぞかせる。

「第一、青司の館がそういう"場"になってしまったのは、あくまで彼が死んだ後、だろう? それと館自体が持つ『特徴』は、別のところにあるのさ」

「特徴って、さっき言ってた西洋建築だとか、そういう話ですか?」

「そうそう。榊原君も青司が奇妙な館ばかり建てていたことは、もう聞いているね? とはいえ、あの"夜見山の人形館"しか目にしたことの無い君には、ぴんとこないかもしれないが」

「まあ……そうですね」

「他のところはもっと強烈だよ。例えば……さっき僕が言った"十角館"。あれはその名の通り、上から見ると正十角形の形をしている」

「正十角形?」

数学の問題で目にしたことは何度かあるが、すぐにはイメージが浮かばない。
少なくとも、日常生活ではなかなかお目にかからない図形だろう。

「後は……"迷路館"もそう。名前でなんとなく察しはついていると思うが、廊下が迷路になっているんだ。各部屋を行き来するのには、毎回その迷路を通る必要があるんだよ」

……面白そうではあるけれど、実際に住むとなるとものすごく不便なんじゃないだろうか。
もしも火事が起きたりしたら、住み慣れていても焦りで迷ってしまいそうな気がする。
153 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/21(木) 22:07:31.88 ID:qJudscWY0
「他にも、まあ色々だね。是非とも一度足を運んでみて欲しい……と言いたいところなんだが、事件が起きた後で空き家になってしまったり、中には取り壊されてしまったものもあるらしいから、難しいだろうねえ」

「……こういう言い方も変ですけど、見崎の家みたいに奇抜なところがないのは、むしろ異色なんですね」

「そうかもしれない。……だが、もしあそこが紛れもない青司の"館"だとすれば、一つだけ共通しているはずのものがある」

「それは?」

「それこそが彼の館のもう一つの『特徴』でね。言うなれば――そう、からくり趣味だ」

「からくり趣味?」

「ありていに言えば、隠し部屋とか秘密の通路とか、そういう類のものだねえ。青司は館を設計する際、必ずと言っていいほどそういった仕掛けを仕込んでいたのさ」

「あの"夜見山の人形館"にも、それがあると?」

「おそらくそうなんじゃないかと、僕は踏んでいるけどね。時には依頼主にも内緒で仕掛けを施すこともあったというから、住む人間がその存在を知らないことも珍しくない」

「それって、普通に暮らしていても気づかないものなんでしょうか?」

「偶然見つけることもあるだろうが、まず気づかれないだろうねえ。大抵の場合、仕掛けを作動させるレバーなりスイッチなりがあるんだが、それにしたって壁の中や床下やらに隠されている。そういうものの存在を知った上で、意図的に探してみない限りは難しいと思うよ」

「――あ。そう言えば島田さん、昨日ギャラリーの中を徹底的に調べたって言ってましたよね。それって、もしかして」

「ああ、君の想像通りだよ。あの館の仕掛けを探していたんだ」

彼がそれを「青司のせい」と表現したのは、つまりはそういうことだったのだ。
154 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/21(木) 22:08:28.86 ID:qJudscWY0
「とはいえ結論としては、あそこにそれらしきものはなかったがね」

「その仕掛けを見つけたら、島田さんはどうするんですか?」

「別にどうもしないさ。こうやって探しているのだって、特に深い目的があってのことじゃないしね。ただ……」

「?」

「そこに隠し部屋や秘密の通路があるって言われたら――気になっちゃうじゃないか、どうしてもさ。ねえ?」

同意を求めるようにぼくに向けられた彼の表情は、この日一番の笑顔だった。

いやいや、あまりに身も蓋もない……と呆れる気持ちがなかったと言えば嘘になってしまうけど、
その分、この純粋で無邪気な答えこそが紛れもない彼の本心なのだろう、とも感じた。

「ギャラリーが違うのなら、可能性は他の場所、ですよね」

「ああ。地下か、それとも上階か……もし上階にあるなら、住人の許可無しには探せないなあ」

島田さんがそう言い終えた、その時。
それまでずっと動き続けていた彼の指が、まるで最後の一画を入れ終えたような、ある種の余韻を持ってその動きを止めた。

「――さて、完成だよ」
155 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/21(木) 22:09:14.28 ID:qJudscWY0
28

唐突に彼はそう言って、手の中の物体をぼくに向かって放り投げる。
それまでの繊細な手つきとは裏腹に、無造作な動きで投げ出されたそれは、テーブルの上を一度跳ね、ぼくの目の前に「着地」した。

「"七本指の悪魔"。自慢じゃないけど、これを折れる人はそうそういない」

彼の言葉通り、こちらを向いて直立しているそれの手には、鋭い爪を備えた指が七本。
山羊を思わせるたわんだ角に、背中には羽。矢じりのように先の尖った尻尾。
紙ナプキンの白の中にあっても禍々しさを隠しきれていないそれは、紛れもなく悪魔だった。
――しかし。

「……あの、島田さん。これって、元から"こう"なんですか?」

彼は確かに「完成」と言った。だとしたら、あるべきものがここにはない。

ぼくの問いに、彼はにやりと笑う。
それはもちろん、肯定の笑み。

「お察しの通り、今回はいくつかの手順を省略させてもらったよ。……榊原君が遭遇した事件のことを思うと、こうするべきなんじゃないかと思ってね」

折り紙の「悪魔」は本来、裂けたように大きな口を開け、一目でそれと分かる邪悪な表情を浮かべているという。
だが、これは後から調べて分かったことで、この時のぼくにそれを知るすべはなかった。

なぜなら――やはり、なかったのだ。
昨日ぼくが見つけたあの人形と同じく、この折り紙の悪魔にも、顔が。
顔の部分には、まるで削り取られたような平面があるだけ。

顔のない、純白の悪魔――。

言葉もなく、ぼくはただそれをまじまじと見つめることしかできない。

「僕らにとって昨日のことは、この悪魔のようなものなのかもしれないなあ」
156 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/21(木) 22:09:54.41 ID:qJudscWY0
ぐるぐると肩を回して、島田さんがぽつりと言う。
ひと仕事を終えてほっと一息、といった風情だ。

「ある程度の輪郭は掴めていても、肝心な部分はぼやけたまま、どんな表情をしてるかすら分かっちゃいない。……さてと」

そう言い終えると、彼はやおら立ち上がった。

「それじゃあ、僕は行くとしようかな」

「行くって、どこにですか」

「もちろん東京だよ。そろそろ戻らないとね」

思わず「ええっ」という声が出てしまった。

「もう帰っちゃうんですか? 今日も見崎の家に行く予定だったんじゃ」

「本当はそうしたかったけど、留守ならどうしようもないさ。一度は中に入ったんだから、それで良しとしておくよ」

「……なんだか、残念ですね。島田さん、せっかく遠くから来たのに」

「いやいや、門前払いを食らってそれっきりのところもあるからねえ。そうじゃないだけでもありがたい話さ。また来ればいいんだから」

「じゃあ、またいつか夜見山に?」

「スケジュールと相談になるだろうが、いずれ、ね。――だから事件についてはもう、どうするかは君次第だ、榊原君」

「……」
157 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/21(木) 22:10:37.95 ID:qJudscWY0
「昨日の事件、あれは言ってしまえば器物損壊だ。警察に届け出るのも一つの選択ではあるが……まあ、それは実質的な被害者である霧果氏の意向を尊重すべきだろうね」

事件のことを、霧果さんはどう考えているのか。思えば、ぼくはそれすらも分かっていない。

「……ぼくは、どうするべきなんでしょうか」

リュックを背負う島田さんに問いかける。
このまま別れてしまえば、どうすれば良いのか分からず、後はもう途方に暮れるしかなくなってしまいそうだった。
そんなぼくの心中を知ってか知らずか、彼はやはり軽い調子でこう言う。

「そんなに難しく考える必要はないさ。君がしたいと思ったことをすればいい」

「ぼくの、ですか」

「ああ。そもそも君は、これからどうしたい? 犯人を懲らしめたいのか、真実を知りたいのか……あるいは、もう考えたくないのか」

島田さんが与えてくれた選択肢を、一つ一つ考えてみる。

まず――犯人を懲らしめたい、なんて感情はぼくにはなかった。
というより、これはまだ上手く説明する言葉を得られていないのだけれど……この事件は「そういうもの」ではないんじゃないか。
そんなぼんやりとした感覚が、この時のぼくには既にあったのだ。

そして……考えることを放棄して、事件から目を背ける選択。
それも嫌だった。
例えとして適切かは分からないけど……それはまるで、他の人たちと一緒にクラスで鳴を"いないもの"として無視するような。
そんな選択のように、ぼくには思えたのだ。
158 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/21(木) 22:11:32.73 ID:qJudscWY0
だとすれば結局、ぼくがするべきことは――。

「――やっぱり、気になります。昨日、あの家で何が起きたのか」

ぼくの返事に、島田さんは満足げに頷いた。

「うん。だとすれば、その気持ちに従うべきだよ。君だって、この事件については当事者と言っていい。そうする権利はある……と、僕は思うね」

そう言って、今度はどこか寂しそうに笑う。

「逆に、そういう意味では僕は部外者だからねえ。首を突っ込むのはここまでにしておこう」

「でも、また来るんですよね?」

「もちろんさ。……そうだねえ、今度はあそこの主がちゃんといる時に訪ねるとするよ」

あそこの本来の所有者である、鳴の父親――紅太郎さんがいる時、ということだろうか。
彼が次に夜見山に帰ってくるのは、果たしていつになるだろう?
……というか、帰ってくるんだろうか?

「もっとも、しばらくは事件の影響で先方もゴタゴタしているだろうから、少し時間を置いた方がいいかなあ。……榊原君とも、また会えるといいんだが」

「……そう、ですね」

彼の言う「また」がどのくらい先のことを指しているかは分からなかったけど、それが来年度以降の話であるなら、
まず間違いなく、ぼくはもうここにはいない。
159 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/21(木) 22:12:38.39 ID:qJudscWY0
けれども、それはわざわざ口にする必要もないことだったし、
そもそも彼の場合、お目当ては鳴の家なのであって、ぼくがいようがいまいがきっと関係のないことだろう。

「ありがとうございました。その、色々とお話を聞かせてもらって」

「それはこっちの台詞だよ。長々と付き合わせて悪かったね。コーヒー一杯じゃ釣り合わないなあ。……君、別にもう絶対コーヒーは飲みたくないって訳じゃないだろう?」

「え。……まあ、そうですけど」

「よし。それじゃもう一杯ご馳走するから、ゆっくりしていくといい」

そう言って伝票をひょいと取り上げ、彼はすたすたとレジの方へ歩いて行く。
知香さん相手に会計を済ませ、ついでに購入したらしいコーヒー豆が入った紙袋を持ち、出入口の扉を開けて店の外へ……。
と思いきや、最後にもう一度ぼくの方を向いて軽く手を挙げ、今度こそ島田さんは出て行った。

そうして、テーブルにはぼくひとりが残された。
知香さんはカウンターに戻り、コーヒーサイフォンのフラスコにお湯を注いでいる。
島田さんが帰り際、ぼくのために注文していったものだろう。
少なくともそれを飲み干すまで、いましばらくの間はここへ釘付けにされてしまった格好だ。
まあ、今すぐここを離れなきゃならない事情もないから、ぼくにとってはありがたいばかりなのだけど。
160 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/21(木) 22:13:30.83 ID:qJudscWY0
緊張が途切れたせいか、急に全身が疲労感に包まれる。
テーブルに顔を伏せ、そのままだらしなく伸びをすると、頭のてっぺんに何かがかさりと触れた。
顔を上げると、文字通り目と鼻の先に紙ナプキンの悪魔が立っている。

ああ、そういえばこいつもいたんだっけ。
指の先で軽くつついてやると、それは何の抵抗もなくこてんと倒れた。
仰々しい見た目のわりに、ずいぶんとあっけないことだ。

――僕らにとって昨日のことは、この悪魔のようなものなのかもしれないなあ。

島田さんの言葉が甦る。
……こののっぺらぼうの悪魔が、事件の現状なのだとして。
ぼくが暴くべき「顔」とは、一体何なのだろう。

未だはっきりしない、鳴の真意?
館のどこかに隠されているという、中村青司のからくり趣味?
それとも……。
底なし沼のような思考にずぶずぶと沈んでいくぼくを、仰向けになった悪魔が見上げている。


顔のない悪魔が、ぼくを嗤っているような気がした。
161 : ◆8D5B/TmzBcJD [sage]:2019/02/21(木) 22:14:48.26 ID:qJudscWY0
今日はここまでです。
続きはまた明日にでも。
162 :sage :2019/02/22(金) 21:33:08.53 ID:Z5IfMOqx0
乙です
こういうのを読みたかった
163 : ◆8D5B/TmzBcJD [saga]:2019/02/22(金) 21:33:19.03 ID:FyaWLz+D0
再開します。
164 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/22(金) 21:34:22.28 ID:FyaWLz+D0
29

「ほら、ここ」

回答用紙にびっしりと書かれた計算式の一つを、ぼくがとんとんと赤ペンで叩くと、
勅使河原直哉は眉間に皺を寄せ、その部分を覗き込んだ。

「問1の計算を間違えてるだろ? この大問は問1の答えを使って問2と問3を解いていくから、ここにミスがあると全部間違いになっちゃうんだよ」

「うわー……何だよ、そんなことだったのかよ」

「勅使河原の言う通り、考え方も使う公式も間違ってないよ。うっかりミスに気をつけましょう、って話だね」

「ったくもう、散々考えて損した気分だぜ。……悪りいな、サカキ。手間取らせちまった」

「別にこのくらいなら、手間にもなってないよ。分からなかったら訊くしかないんだし、いつでもどうぞ」

「おお、やっぱり出来る人間は言うことが違うねえ。んじゃ、またすぐに甘えさせてもらうことになると思うから、よろしくな」

休日が終わり、月曜日。
昨日はあれからもう一度鳴の家に行ってみたのだけれどやはり留守で、後はそのまま家に帰って一日が終わった。
なんとも居心地の悪い気分のまま登校し、午前中の授業を終え、ようやく昼食を済ませて一息ついたところ……というのが現在の状況だ。
165 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/22(金) 21:35:35.93 ID:FyaWLz+D0
教室を見渡せば、クラスのみんなは思い思いに昼休みを過ごしている。
友人と談笑する者、何をするでもなく微睡んでいる者……。
とはいえ、受験が徐々に迫ってきていることもあってか、昼休みでも変わらず勉強をしている生徒が大半を占めていた。

今しがたぼくにアドバイスを求めてきた勅使河原も、その一人である。
ちなみに、彼はもうとっくに自分の席に戻って次の問題と格闘しているようで、
ぼくの机の真後ろに位置する彼の席からは、鉛筆を走らせる音が忙しなく聞こえてきていた。

勅使河原がこれほどまで真剣に勉強に打ち込むようになったのは、合宿が明けてからのことだ。
それまでの彼は、良く言えばクラスのムードメーカー、悪く言えばお調子者の遊び人といった感じで、少なくとも勉強とは無縁だったと言っていいだろう。
成績も、下から数えた方が早いどころか、それを通り越して「逆トップ争い」の常連だったと、彼が自分で言っていたことがある。

そんな彼の現状は、今ではこの通り。
いつも楽しそうに騒いでいた勅使河原がこんな調子だから、
新学期を迎えてからというもの、休み時間になってもクラスはやけにひっそりとしてしまっている。

……もちろん、理由はそれだけじゃない。そんなことよりも明白で、重大な要因があった。


単純に、人数が少ないのだ。
166 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/22(金) 21:37:20.97 ID:FyaWLz+D0
あの合宿で<災厄>が終わったとはいえ、それまで犠牲となったのは、三年三組の生徒だけでも十二人。
あまりにも多く、人が死に過ぎた。
現在の三組の生徒は、たったの十八人。それで全員だ。

そして当然、残された者たちにしてみても、<災厄>が終わったから全てが元通り……なんて訳にはいかない。
全員がクラスメイトを、あるいはそれ以上に親しい友人を、それぞれ喪っているのだ。
その事実が今もなお、クラス全体に暗い影を落としている。

勅使河原の変化だって、つまりはそういうことなのだ。
彼は新学期になってから、志望校を県内でも有数の進学校である西高へ変えている。
彼の成績を考えれば、無謀でしかない決断。
だがクラス全員、彼がなぜそうしたのか、理由はすぐに分かった。
西高は彼の幼馴染であり、合宿で犠牲になったクラスメイトの一人でもある風見智彦の志望先だったからだ。

勅使河原と風見は、小学三年生の頃からずっと同じクラスで、家も近所同士だったという。
気のいい奴だけど、着崩した服装に茶髪という、見る人によっては不良少年と誤解されかねない風貌の勅使河原とは対照的に、
風見はいかにも優等生然とした、メガネがよく似合う落ち着いた物腰の生徒だった。

けれど二人はよく一緒に行動していたし、話をする時もお互い、いい意味で遠慮なくものを言っていた。
それは彼らの長いつきあいが成せるわざ、といったところだったのだろう。
いろいろあって人間関係がぎくしゃくした挙句、そのリセットも兼ねてここ夜見山へ来たぼくにとっては、そんな二人がほほえましくもあり、羨ましく思ったことだってあった。
まあ、当の彼らは互いの関係を「腐れ縁」なんて言ってはばからなかったのだけど。
167 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/22(金) 21:38:48.62 ID:FyaWLz+D0
その風見が命を落とした経緯について、ぼくはここで多くを語るつもりはない。
ただひとつ言えるのは、勅使河原がその死について責任を感じ、深く悔やんでいるということ。

それから彼が何を思い、西高を志望するに至ったのか。
ぼくはそれを知らないし、本人が語ったこともない。それならそれでいい、とも思う。
ただ友人として、できる限りの手助けはしてやりたいと思うだけだ。

夏休みが明けてもうすぐ二ヶ月が過ぎようとしているが、勅使河原の決意は揺らいでいなかった。
むろん、気合だけでどうにかなるほど現実は甘くない。
クラスのトップクラスではなくとも、勉強ができない部類では決してなかった風見ですら、西高に合格できるかどうかはこれからの努力次第、という状況だったのだ。

勅使河原の場合は、そもそものスタートから大きく出遅れていることもある。
彼の努力は近くで見てきたぼくも痛いほど分かっているが、現時点での学力は合格ラインに遠く及ばなかった。
担任代行の千曳さんが、受験すること自体を許さない可能性だってあり得るだろう。

けれど、それはあくまで現時点での話だ。
この二ヶ月間だけに目を向けると、勅使河原の伸びはクラスでも抜きん出ていた。
仮に彼がこのまま、それこそ年が明けてもずっとこのペースを維持できれば、
確実に合格とはいかないまでも、戦いの舞台に立ち、勝つか負けるかの勝負――それも多少は分の良い――をすることはできる。
そうぼくは確信していた。そして今の勅使河原ならば、きっとそれをやり遂げるということも。
168 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/22(金) 21:40:27.14 ID:FyaWLz+D0
親友の死に対する、彼なりのけじめ。
それが彼を突き動かす原動力なのだろう。
もしかしたら、そこにあるのは前向きな感情だけではないかもしれない。
向き合いたくないことから逃避するための手段として、勉強に没頭しているのではないか……。
そんな疑問が、脳裡をかすめたことも何度かあった。
休日もほとんどの時間を勉強に費やすようになり、めっきり付き合いが悪くなった勅使河原を思うと、その可能性の方が高いのかもしれない、とも。

が、ぼくはそれでもやはり、それならそれでいい、と思うのだ。少なくとも、今は。
賑やかだった勅使河原を知っている身としては、今の彼をほんの少し寂しく思う気持ちもあるけれど、
息があるのなら、足が動くのなら、走れるだけ走ればいい。
そうして辿り着いた結果がどんなものだったとしても、きっと彼の中で何か答えが出るはずだ。

勅使河原の鉛筆の音は、ぼくがこうしてぼんやりしている間も絶え間なく聞こえてくる。
難問に直面しているのか、時折「うーん」という悩ましげな唸り声も。
彼がぼくの後ろの席で良かった、と思った。

――未だ立ち止まったままのぼくにはきっと、彼の姿は眩しすぎる。
169 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/22(金) 21:42:32.30 ID:FyaWLz+D0
30

――おはよう、見崎。

――おはよ。

今日の朝、昇降口で挨拶を交わした鳴の様子はいつも通りに思えた。
それこそ、土曜日のことなどまるでなかったかのように。
だが一方で、あのことについて彼女がぼくに何かを語ることもなく、それきり会話もないままだ。

鳴にどう話を切り出したものか、ぼくが迷って声をかけられないでいる、というのはある。
だがそれ以上に、鳴の方もどことなく、ぼくを避けているというか……話しかけられるのを拒絶する雰囲気があるのは、ぼくの思い過ごしではないはずだ。
まるで――そう、ぼくがクラスで"いないもの"にされていた時の、クラスメイトたちのどこかよそよそしいあの感じ。
そんな印象を鳴から受けるのだ。

……皮肉なものだな、と思う。
ぼくが"いないもの"だった時でも唯一、同じく"いないもの"だった鳴だけは、普通にぼくと接していたというのに。
<災厄>が終わった今になって、よりにもよって鳴とこうなるなんて。
やっぱり何か、ぼくに言えない、言いたくないことがあるということなんだろうか。

振り返り、ぼくの席から見て左後方の窓際、最後列に位置する鳴の席を見やる。
彼女は机にノートを広げ、午前中にあった授業の内容をまとめているらしかった。
俯いたその横顔を髪が隠しているから、鳴の表情は分からない。
多分、ぼくのことも見えてはいないだろう。

こうしてずっと鳴を見つめていれば、いずれぼくに気がつくだろうか?
あるいは……例えぼくを視界の端に捉えたとして、そのまま"いないもの"にしてしまうのかもしれない。

そんなことを考えながら、それでも鳴の方を見ていると、不意に背中をつつかれた。
170 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/22(金) 21:44:15.90 ID:FyaWLz+D0
「早いね。次はどの問題?」

二つ後ろの席の勅使河原は、思い切り身を乗り出し、定規を持った右手をぼくに突き出している。
彼が体を預けている、ぼくのひとつ後ろの席。
そこに座っていた王子誠は、今はもういない。
だから、振り向く前から勅使河原の仕業とすぐに分かった。

「いや、勉強のことじゃなくてよ。……なあ、サカキ」

彼らしくもない、まるでぼくの機嫌をうかがうような声。
ただならぬものを感じて、ぼくの声も自然とこわばった。

「どうしたの?」

「その、なんだ。おれが言えたことじゃないんだろうけどさ」

「?」

「……辻井のこと、許してやってくれよな」

「……うん?」

唐突に出てきた名前に、頭の中が「?」で埋め尽くされる。
当の勅使河原はといえば、さっきまでぼくが見ていた方向――窓側の、鳴の席あたりに顔を向けていた。
ぼくもつられてそちらを向き……ただし目の焦点は、鳴のやや手前で像を結ぶ。
171 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/22(金) 21:45:18.33 ID:FyaWLz+D0
ちょうどぼくと鳴をつなぐ直線上に、眼鏡をかけた一人の男子生徒が座っていた。
彼は立てた教科書でぼくから顔を隠しつつも、時折おそるおそるといった感じでこちらに視線を送り、
そしてぼくと目が合うと、また顔を引っ込める。その繰り返しだった。

彼の名前は、辻井雪人。
彼こそが勅使河原の言う「辻井」なのだった。
つまり、ぼくが鳴の方をじっと見つめていたものだから、勅使河原はぼくが辻井を睨みつけているのだと誤解したらしい。

なんでまたそんな勘違いを……と呆れてしまいそうになるが、勅使河原の表情は真剣そのものだ。
そしてその目には、ほんの少しの怯えの色。

あの合宿が終わってからというもの、彼は時折、こんな顔をするようになった。
……きっと、不安なのだろう。
取り返しのつかない「何か」が起こりそうな、そんな予兆を見過ごすことが。
自分自身がそうだった分、余計に。

「――ああ、違う違う。ぼくが見てたのはさ、ほら」

だからぼくは心持ち大げさに笑顔を作って、改めて鳴の方をあごでしゃくってみせた。
172 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/22(金) 21:46:12.95 ID:FyaWLz+D0
「んん……? ……あ、そういうことか。なんだよサカキ、見崎とケンカでもしたのか?」

それですぐに、彼の表情はぱっと明るくなった。

――やっぱり勅使河原には、いつもこういう顔をしていてほしい。

元気を取り戻した彼の茶々を軽くあしらいながら、そんなことを思う。
これで一件落着……なのだが、問題がひとつ。


それは当のぼく自身に、辻井を恨む心当たりが全くない、ということだ。
だから「許してやってくれ」と言われても、そもそも何を許せば良いのかさっぱり分からない。
173 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/02/22(金) 21:47:24.55 ID:FyaWLz+D0
いくら勅使河原が多少なりともそういうことに対して敏感になっているとはいえ、流石にただ誰かを見ているだけで「睨んでいる」と思ったりはしないだろう。
それは辻井も同じことで、彼がああいう反応をしていたということは、
彼自身もまた、ぼくの視線を「睨まれている」と思っていたということ。

つまり、二人の間で「ぼくが辻井を恨んでいる」、あるいは「そう思っていてもおかしくはない」というのは、どうやら共通認識となっているらしい。
だが、もちろんぼくはそんなことを思ってはいないし、そもそも辻井に悪感情を持ってもいない。
確かにクラスメイトの中でもあまり会話が多いほうではなかったけれど、お互い読書が好きということもあって、
時々そういった話をすることさえあったのに。

しかし考えてみれば、最近は彼と言葉を交わすことがほとんど無くなっているのも事実だった。
そうなったのは……やはりと言うべきか、合宿が終わった後からで。

あの時、ぼくと辻井の間で何かがあっただろうか? 
そう考えてみると、答えは自ずと見えてきた。
353.28 KB Speed:0.1   VIP Service SS速報VIP 更新 専用ブラウザ 検索 全部 前100 次100 最新50 続きを読む
名前: E-mail(省略可)

256ビットSSL暗号化送信っぽいです 最大6000バイト 最大85行
画像アップロードに対応中!(http://fsmから始まるひらめアップローダからの画像URLがサムネイルで表示されるようになります)


スポンサードリンク


Check このエントリーをはてなブックマークに追加 Tweet

荒巻@中の人 ★ VIP(Powered By VIP Service) read.cgi ver 2013/10/12 prev 2011/01/08 (Base By http://www.toshinari.net/ @Thanks!)
respop.js ver 01.0.4.0 2010/02/10 (by fla@Thanks!)