高垣楓「あなたがいない」

Check このエントリーをはてなブックマークに追加 Tweet

116 : ◆eBIiXi2191ZO [sage saga]:2020/09/21(月) 22:59:52.09 ID:brMXuKjJ0

 私は、薬を飲む。
 泣きはらして多少は、心が軽くなったかもしれないけれど。日々は変わることなく、流れていく。
 私の調子は一進一退というところで、決して芳しいとは言いにくい。それでもライブはやってくるわけで。

「はーい、楓さん。今日はこのくらいにしましょう!」
「……はあ、はあ……ありがとうございました」

 レッスンは休むことなく続けられた。
 ライブスタッフの対応はいつもと変わりなくて、私は瑞樹さんが約束を守ってくれていることを理解した。そのことに感謝しつつ私は、ライブの完成度を上げていく。
 もうすぐ、あと少し、と。私たちが納得いく仕上がりになり、ついに。
 ライブの日が、やって来た。

―― ※ ――

117 : ◆eBIiXi2191ZO [sage saga]:2020/09/21(月) 23:00:38.63 ID:brMXuKjJ0

 ライブ当日。開演一時間前。
 私はいつになく落ち着かなかった。

「おや楓さん。緊張してます?」

 プロデューサーが声をかける。

「ええ、そうですね。なんだかデビュー当時を思い出して」
「そういうもんですか。アリーナ公演もこなした楓さんでも、久々だと緊張するものですか」
「そういうものですよ。ただのアイドル、ですから」
「ま、そりゃそうですね。でも、よかった」
「よかった、ですか?」
「ええ、そういう人間くさい楓さん、僕たちは大好きですから」
「まあ。ふふっ」

 プロデューサーは今の私の状態を、緊張、と呼んでくれる。だが私の心は、緊張とは離れた状態にあった。しいて言えば『不安』
 そう、不安、なのだ。

118 : ◆eBIiXi2191ZO [sage saga]:2020/09/21(月) 23:01:11.10 ID:brMXuKjJ0

 なにに対して不安になっているのか、私自身認められていない。漠然とした、ちりちりという焦燥感。それでも。
 その時は、やってくる。
 ふとプロデューサーの言葉を思い出す。人間くさい、私。彼らはそういう私が好きなのだ、と。そして、気付く。
 ああ、Pさんもそう言っていた。完璧じゃない、人間くさい私が好きなのだ、って。
 それだけの、こと。ただそれだけのことが、妙に嬉しい。

 私はポーチから、頓服のエチゾラムを取り出す。これには何度もお世話になって、今は服用しても、ちっとも眠くならなくなってしまった。でも、私のお守り。
 一粒の薬を手に、私は自問する。
 プロデューサーも、スタッフも、ファンも。私を求めてくれている。さて。
 今、私はアイドルでいられている?
 今、私は私でいられている?

 よし、大丈夫。

 私はそれを服用することなく、ポーチへしまい込む。
 顔を上げた先、鏡に映る私は確かに、アイドルの顔をしていた。

119 : ◆eBIiXi2191ZO [sage saga]:2020/09/21(月) 23:01:43.29 ID:brMXuKjJ0

 舞台袖、私は佇む。客席の熱気と緊張が、肌に伝わってくる。ベルが鳴った。

「本日は、高垣楓アコースティックライブにお越しくださいまして、誠にありがとうございます……」

 サポメンとの円陣。私はみんなに告げた。

「本日の出会いに感謝して……さあ、行きましょう」

 掛け声はいらない。静かにエールを送り、そして舞台へ。
 ライブはアコギのアルペジオから、静かに始まった。

 アコースティックの音は静かに熱気を帯びて、私を躍らせる。
 曲が進むたび、私は気持ちが高揚するのを、体いっぱいに感じる。
 このスリリングな駆け引き、生音の緊張感が私をさらに昂らせる。
 そしてファンの熱気。ライブは最高潮に達する。

 ああ、この気持ち。この、肌触り。
 気が付けば予定の曲をすべてこなし、アンコールへと突入するのだ。

120 : ◆eBIiXi2191ZO [sage saga]:2020/09/21(月) 23:02:11.76 ID:brMXuKjJ0

「本当に今日はありがとうございます……アンコールまで、こうして待っていただいて、嬉しいです」

 わああ、と。沸く客席。そして私に求められている曲、それを私は知っていた。

「今日まだ掛けていない曲、皆さん、お待ちなんですよね?」

 私の問いかけに、全力で応えるファンの声援。

「分かりました。このために実はとっておいたんですよ? ……ではお送りしましょう……『こいかぜ』」

 そう私が告げ、照明が落ち、私とピアノにスポットが当たる。
 ピアノと私だけの、饗宴。

121 : ◆eBIiXi2191ZO [sage saga]:2020/09/21(月) 23:02:45.05 ID:brMXuKjJ0

 ――渇いた風が 心通り抜ける
 ――溢れる想い 連れ去ってほしい

 シャンソンのように。ピアノの自由律に私は、語り掛けるように歌う。顔を上げ客席を見れば、そこは緑の光の洪水。
 そう。これはPさんと共に見てきた、光景。
 この歌は、Pさんと共に作り上げてきた歌。私に残された、かけがえのない宝物。
 だからこそ、最後に持ってきた。忘れないという、想いを胸に。

 ――ココロ風に 閉ざされてく
 ――数えきれない涙と 言えない言葉抱きしめ

 何度も、何回も、歌ってきた曲。私自身ともいえる曲。歌詞を噛みしめるたび、彼のことを思う。
 そして歌詞が、今の私に語り掛ける。

 あなたは、泣かないの?
 あなたは、想わないの?

 ――震えてるの 心も体も
 ――すべて壊れてしまう前に 愛がほしいの

 そんなわけがない。いつだって私は、彼を想っている。今だってほら。
 苦しい。
 苦しいの。
 何度も歌ってきた曲が、私を狂わせる。なぜPさんが、ここに。
 いないの、だろう。

122 : ◆eBIiXi2191ZO [sage saga]:2020/09/21(月) 23:03:12.28 ID:brMXuKjJ0

 ――満ちて欠ける 想いは今
 ――苦しくて溢れ出すの 立ち尽くす風の中で

 助けて。
 私を、助けて。
 手を伸ばしても届かない。ほらすぐそこに、その先に。光があると、いうのに。

 ――君のそばにいたい ずっと

 歩む。手を伸ばす。
 歩む。
 手を、伸ばす。
 もうすぐ、もうすぐ届くのに。
 
 ああ、Pさん。
 私を。

 ふわり。

123 : ◆eBIiXi2191ZO [sage saga]:2020/09/21(月) 23:03:39.97 ID:brMXuKjJ0


「きゃああああああああああ!」


124 : ◆eBIiXi2191ZO [sage saga]:2020/09/21(月) 23:04:07.73 ID:brMXuKjJ0

 客席から響く叫び。そして、嘆き。
 浮遊感。
 光を、掴み損ねて。
 私は。

 落ちてゆく。

―― ※ ――

125 : ◆eBIiXi2191ZO [sage saga]:2020/09/21(月) 23:04:35.02 ID:brMXuKjJ0

※ 今日はここまで ※

ではまた ノシ
126 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2020/09/22(火) 19:39:46.96 ID:wveq3qYUO
おつ
127 : ◆eBIiXi2191ZO :2020/09/22(火) 21:28:15.85 ID:CC20O+KU0

投下します

↓ ↓ ↓
128 : ◆eBIiXi2191ZO [sage saga]:2020/09/22(火) 21:29:14.40 ID:CC20O+KU0

 気が付くと今度こそ、見知らぬ天井だった。私は知った。
 ああ、私。病院に運ばれたんだ。
 頭の痛みと、足の痛み。ねん挫をしたのだろうか。
 先ほどまで、煌めくステージの上にいたというのに。
 気持ちが昂っていたからかあまりよく覚えていないけれど、間違いなく私は、ステージから落下したのだ。

 本番の時のあの昂ぶりが嘘のように、今の私は冷静に物事を考えている。ううん、冷静というのは正確ではない。まるで。
 感情が、抜け落ちてしまったように。
 しばらくしてぼうっとしていると、看護師さんに案内されたのか、社長さんとプロデューサー、それと……

「楓ちゃん!」

 瑞樹さんが私を抱きしめようとしていた。

129 : ◆eBIiXi2191ZO [sage saga]:2020/09/22(火) 21:29:58.74 ID:CC20O+KU0

「い、痛い」
「あ、ごめんなさい!」

 体のあちこちが痛んで、私はつい声を上げてしまった。瑞樹さんが申し訳なさそうにしている。
 私はなんとか体を傾けようともぞもぞ動いてみるけれど、痛みに負けて動くことをあきらめた。

「とりあえず、第一報は済んでます」

 社長さんの声だった。第一報とはおそらく、今回の事故についてのこと。
 マスコミに投げ込みをしたか、ひょっとしたら会見をしたのかもしれない。

「本当に、ごめんなさい」
「いえ、高垣さんの無事がなによりです」

 社長さんの掛ける言葉に、私は謝るしかない。

「プロデューサーにも、ご迷惑をおかけしました」
「いや、楓さんが無事なら、それでいいんですよ」

 私の謝罪に、プロデューサーはそう答えた。

「それで、ライブは」
「ああ、いいからいいから。今はなにも考えなくていいから」

 プロデューサーは私を押しとどめる。
 私は思っていた。
 ああ、ファンの皆さんに心配をかけているな。代替公演を計画しないと。
 まずは、他のスタッフとサポメンにも謝罪しなければ。
 この後の段取りを、淡々と。不思議と悔しいとも、悲しいとも、思うことがなかった。

130 : ◆eBIiXi2191ZO [sage saga]:2020/09/22(火) 21:30:45.16 ID:CC20O+KU0

「楓ちゃん、改めて、本当にごめんなさい」

 瑞樹さんが私に謝る。はて。

「瑞樹さん、どうして謝るんです?」

 それがとても不思議だった。
 なにか彼女は、私に謝るようなことをしただろうか。まったく覚えがない。

「あの時」

 瑞樹さんの声がわずかに、震えている。

「P君のために、って。言ったこと」

 あの時?
 ああ、そう言えばそんなこともあった。あれは瑞樹さんと呑みに行った時だったかしら。しかしそれは。
 瑞樹さんが、謝るほどのこと、かしら。

 私があの時どんな思いだったのか、今この時点で思い出すことができない。それがすべて。
 私の感情は今、まったく揺れ動かない。

「いえ、いいんです。謝らないでください」
「そんな謝らないでって……」

 瑞樹さんは私の顔を覗き込む。そして顔色を失い、口元を押さえて呟いた。

「……いえ……そう。分かった。今は、言わないわ……」

131 : ◆eBIiXi2191ZO [sage saga]:2020/09/22(火) 21:31:34.40 ID:CC20O+KU0

 瑞樹さんがショックを受けたような表情をしているけれど、私には理解できない。
 今の私に瑞樹さんの気持ちを推し量ることは、できそうにない。
 ……脳が、疲れたな。

「ごめん、なさい。少し寝ても、いいですか」

 私は言う。

「ああ、また具合がよくなったら、伺います」

 社長さんはそう言い、彼らはベッドから離れていった。

「また様子を窺いに来ますからね。なにかあったらナースコールのボタン、押してくださいね」

 知らない女性の声。ああ、看護師さんか。
 私は「はい」とだけ答え、目を伏せる。
 
 ああ、なにもしてないけれど、疲れたな。
 たぶん眠れないだろうけど、目を伏せるだけでも違うだろう。不眠はもう、慣れている。
 しばらく、私は思考をやめた。

132 : ◆eBIiXi2191ZO [sage saga]:2020/09/22(火) 21:32:48.97 ID:CC20O+KU0

 翌朝。もう退院することを告げられる。
 頭を打っていたため一応異常がないかを観察していたそうで、CTなどで異常がないことを確認してから、という条件ではあるけれど、めでたく放免ということらしい。
 事務所にも連絡が行っていたようで、社長さんとちひろさんが見舞いに来てくれていた。

「瑞樹さんは」
「ああ、彼女は事務所に残ってもらいました。また取り乱されてはかなわないですからね」

 社長さんは苦笑した。
 ところが、CTだけではなくMRIも急遽撮ることに決まり、社長さんとちひろさんはかなり待たされることが決定した。
 退院時間はだいぶ遅くなるらしい。

「控室で待ちますから、大丈夫ですよ」

 ちひろさんはこともなげに言う。
 こればかりはお医者様が決めたことなのでどうしようもないけれど、私は申し訳なく思った。

133 : ◆eBIiXi2191ZO [sage saga]:2020/09/22(火) 21:33:54.19 ID:CC20O+KU0

「なんかお待たせして、ごめんなさい」
「いいですいいです。気にしないで」

 彼女の笑顔に救われる。昨日より心が動いていることに、私はふと気付いた。
 空腹のまま造影剤を入れられ、CTとMRIを撮影する。幸い気持ち悪くならなかったけれど、体に力が入らないのはなかなかに堪えた。

 左足首のねん挫と、額の裂傷。それ以外に外傷はなさそうだ。
 相変わらず体はぎしぎしと痛い気がするけれど、看護師さんが車いすで補助してくれている。
 こうした経験は滅多にするものではないし、したら大事ではあるから、私は貴重な経験をしていることになる。
 せっかくだから今日は、お任せにしましょう。ちょっとだけ楽しく思った。

 検査が終了し、部屋で待たされる。
 検査の時間は短いのに、こうして待っている時間は存外に長い。ようやく呼ばれ説明を受ける頃には、すっかり夕方になっていた。
 そしてめでたく退院、社長さんとは病院でお別れし、ちひろさんは私のマンションへ一緒に向かう。

「今日は私、楓さんと一緒にお泊まりしますので」

 ちひろさんは明るくそう言った。きっと彼女なりの配慮なのだろう、私は素直に甘えることにした。
 マンションに着きドアを開ける。ノブの重さが久々のように感じられる。

134 : ◆eBIiXi2191ZO [sage saga]:2020/09/22(火) 21:34:39.47 ID:CC20O+KU0

「ただいまー」
「お邪魔しまーす」

 私は足を引きずりつつ、ちひろさんをリビングへ案内した。

「あ、楓さんは無理しないで。いろいろな準備は、私がしますから」
「そうですか……じゃあ、お願いします」

 本来はホステスがきちんとしなければならないところなのだけれど、なにせこの体だ。
 彼女の好意に遠慮なく甘えよう。私は客布団の場所などを教え、ダイニングの椅子に腰を下ろす。

 辺りを眺める。
 ほんの二日間、家を空けていただけなのに、ずっと帰ってきていなかった錯覚に囚われる。
 そう思うと、あのライブでの出来事はとても奇異に感じられた。

 あのライブでの私は、アイドルの私であったはずなのだけど、それをかなり逸脱していた気もする。
 なぜこうなったのか。それを考えようとすると、どうにも考えがまとまらなくなる。まるであの時を拒絶しているかのようだ。
 私であって、私でない。気味の悪いなにかに取り憑かれているみたいで、私は恐ろしくなる。

135 : ◆eBIiXi2191ZO [sage saga]:2020/09/22(火) 21:35:34.02 ID:CC20O+KU0

「楓さん。お夕飯どうします?」
「あ。ええ、そうですねえ……あまり食欲もないので」
「食べないのは、いけませんよ?」
「……そうですね。じゃあ、軽いものをなにか」

 ちひろさんは、冷蔵庫の中身でリゾットと温野菜サラダを作ってくれる。その温かさが私の体に染み渡っていく。

「ちひろさん。今日はなにからなにまで、ありがとうございます」
「いえ。私のわがままですから」
「え? ここに泊まるのって、社長さんからの指示では?」
「いえ? 私の独断です」

 そう、なのか。だとしたら本当に、申し訳ないことをしている。
 ううん。今日はもう、そういうことを考えるのはよそう。彼女の気持ちを蔑ろにする、から。
 食事も終わり、さすがに足をくじいている状態で風呂に入るわけにもいかないので、着替えて寝ることにする。

「じゃあちひろさんは、自由にお風呂とか使ってください、ね」
「はい、ありがとうございます。片付けは私がやっちゃいますから、今日はもう休んでください」
「……ありがとう」
「いえ。おやすみなさい」

136 : ◆eBIiXi2191ZO [sage saga]:2020/09/22(火) 21:36:07.09 ID:CC20O+KU0

 足を引きずり、寝室へ。どうにか寝間着に着替え、私は睡眠薬を取り出す。
 ふと、思う。

 これをいっぱい飲んだら、目覚めなくなるのかしら。

 なにを馬鹿なことを。
 ふるふるとかぶりを振り、私はニトラゼパムを一粒、口に含んだ。苦みを水で流し込む。
 先ほどの考えを、なかったことにするみたいに。

 ベッドに潜り、私は眠くなるのを待つ。目覚ましの音が、かち、かち、と。
 私は、どうしたというのだろう。近いうちにクリニックにも、行かなくては。
 やがて睡魔が、私を包み込む。
 明日がどうか、来ますように。

137 : ◆eBIiXi2191ZO [sage saga]:2020/09/22(火) 21:37:39.80 ID:CC20O+KU0

 その言葉どおり、朝は来た。リビングに行ってみると、ちひろさんがすでに朝食の準備をしている。

「あ。おはようございます」

 ちひろさんは笑顔で挨拶してくれた。

「おはようございます。まさか、朝起きたら朝食が用意されてるなんて」
「ちょーショック、は、なしですよ?」
「言われちゃいましたね」
「うふふ」
「ふふっ」

 ちひろさんの心遣いにはいつも驚かされる。大いに感謝し、ふたりで朝食を楽しんだ。
 タクシーに便乗し、事務所へ。社長室へまっすぐ向かった。
 落下事故の謝罪とその対応へのお礼のために。

138 : ◆eBIiXi2191ZO [sage saga]:2020/09/22(火) 21:38:12.84 ID:CC20O+KU0

「高垣さん、おはようございます。お体、いかがですか?」
「ええ、おとといよりはだいぶましになりましたけど」

 社長さんの問いかけに私は素直に答える。

「足は長引くかもしれませんから、無理だけはしないように、お願いしますね」
「はい。申し訳ありません」

 私はそう言って軽くお辞儀をした。

「あと、それから」
「はい」

 一呼吸、入れる。

「本番中に落下するという事故を起こしてしまい、本当に申し訳ございません」

 先ほどより私は、深く深く礼をした。

139 : ◆eBIiXi2191ZO [sage saga]:2020/09/22(火) 21:38:53.30 ID:CC20O+KU0

「それと、その後の対応についても、いろいろお手を煩わせてしまい、申し訳ありませんでした」
「いえ、いいんです。それが私たちの仕事です」

 私の謝罪に、社長さんは事もなげに言った。

「私たちの仕事は、アイドルの皆さんを盛り立て、なにかあればサポートしフォローするのが本分です。ですから高垣さんが気にすることではありません」
「でも」
「そうですね。まあ、ファンの皆さん、それからマスコミに対しては、ご本人から何らかお話しいただく必要は、あるでしょうね」
「……はい」
「その調整についても私たちに任せてください。しばらく、高垣さんにはお休みいただく方向で、我々は動くつもりですので」
「それは、つまり」

 私は、社長さんの顔色を窺いながら、尋ねてみた。

「……高垣さん。高垣さんがどうお考えなのか分かりかねますけど、お休みいただくのはご本人の体調を考えてのことです。
決して、ペナルティーとかそういうことではありません。それは私が断言します」
「……はい、ごめんなさい」
「まずは、高垣さん自身が元気になることが一番、ですから。私たちも、ファンの皆さんも、それを待っていると思いますよ」
「はい……分かりました」

140 : ◆eBIiXi2191ZO [sage saga]:2020/09/22(火) 21:39:29.05 ID:CC20O+KU0

 社長さんはそう言ってくれたものの、事故を起こしたアイドルへの風当たりは、間違いなくきついものだろう。
 しかし私には、それを説明できる言葉を持たない。なぜなら。
 私にも、よく分からないのだから。
 ただ人前に出るには、若干の猶予をいただいたのだ。それを無碍にするわけにはいかない。
 同じように私は、プロデューサーへも謝罪する。

「いや、本当に楓さんが無事で、それだけでよかったですよ」

 プロデューサーは言った。

「あの……この件で取材とかは」
「ああ、それなら問題ないです。任せてください」

 私が尋ねてもプロデューサーは答えない。それがいっそう、私の心を曇らせる。
 これでいいのか、いやよくはないけれど。
 今、私にできることは、ないのだ。
 そのことが、ただ悲しかった。無力な、私。

141 : ◆eBIiXi2191ZO [sage saga]:2020/09/22(火) 21:40:10.41 ID:CC20O+KU0

 翌日。
 クリニックを受診することになった。今日は、ちひろさんも一緒に。

「私もまだお世話になってますから。ちょうどいいです」

 そうちひろさんは言うけれど、私は申し訳なさでいっぱい。うつむいたままタクシーに乗り、いつものクリニックへと近づいていく。

「ニュースで拝見しました……大変でしたね」

 開口一番、先生は私に言う。

「いえ、本当にお騒がせして、申し訳ありません」
「いや私はその場にいたわけじゃないですし、謝らないでください」

 沈黙が、診察室を包む。

「高垣さん。今の高垣さんを見ていると、本当につらそうで心が痛みます」

 先生が言う。私は、なにも答えられない。

「大変申し上げづらいことですが……しばらく、お仕事を休まれてはいかがですか?」
「え?」

142 : ◆eBIiXi2191ZO [sage saga]:2020/09/22(火) 21:40:46.34 ID:CC20O+KU0

 うつむいた顔を上げる。私は、先生の言ったことがよく理解できてない。

「なに、を」
「診断書も書きます。高垣さん。お仕事を休まれたほうが」
「……待って……ください」

 仕事を、休む? 私が?

「どれくらい……休めば、いいですか? 二日? 三日?」
「いえ、最低三か月は休まれたほうがいいです」

 待って。三か月? 三か月って、どのくらい?

「先生……」

 言葉を失う私に、先生は悲しそうにかぶりを振った。

「……いや」
「高垣、さん?」
「いや、です」

 私は、頭がかっとする感覚を覚える。

「いやです! やめて! お願い!」

143 : ◆eBIiXi2191ZO [sage saga]:2020/09/22(火) 21:41:14.24 ID:CC20O+KU0

 私が、私でなくなってしまう。
 そんな焦燥が私を包み込んだ。

「高垣さん。今高垣さんに必要なのは、完全な休息です。ゆっくり療養される、その時間が必要なんです」
「ダメなんです! それじゃ、ダメなんです!」

 私は狂ったように叫んだ。

「私から、仕事を、奪わないでください! ……私は、アイドルを続けなければ、いけないんです! それが!」

 そして、力なくへたり込む。

「Pさんの残してくれた、ものだから……私とPさんの、たったひとつの、繋がり……お願い……」

 振り乱した髪もそのままに、私は呟くのだ。

「もう……奪わないで……」

144 : ◆eBIiXi2191ZO [sage saga]:2020/09/22(火) 21:41:56.71 ID:CC20O+KU0

 先生が看護師さんを呼ぶ。私はうずくまり、ただ泣くだけ。
 処置室に促され、私はジアゼパムを注射される。酩酊する感覚、そして私は、眠りに落ちた。

 どのくらい経っただろうか。
 目を開けると処置室には誰もいない。ドアを開けると、待合室にちひろさんがいた。

「あ、目が覚めました?」
「ええ……はい」

 私はぼうっとした頭で返事をする。ちひろさんはふらつく私を支え、診察室へと連れて行った。

「少し、落ち着かれましたか」
「……はい」

 未だはっきりしない頭のまま先生から問われ、曖昧に返事をする。

145 : ◆eBIiXi2191ZO [sage saga]:2020/09/22(火) 21:42:31.06 ID:CC20O+KU0

「高垣さん。ちょっとですね、お薬を変えましょう」
「え……お薬、ですか」
「はい。今まで飲んでもらっていたミルナシプラン、あれは前向きになるお薬でしたけど、今の高垣さんには、気分を整えるお薬のほうが大事に思われます。
ですから、ミルナシプランを別のお薬にします」
「そう、ですか」

 ぼんやりした頭で、先ほどのことを思い出そうとしてみる。
 おぼろげだけれど、私がなにを言っていたのか浮かんできた。

「あの……」
「なんでしょう」
「……仕事、は」

 先生は「ああ」と呟き、私の顔を伺うと。

「それは、お仕事先で相談してください。千川さんにも、お話させてもらいましたので」

 私は力なく「はい」としか、答えられなかった。

146 : ◆eBIiXi2191ZO [sage saga]:2020/09/22(火) 21:43:22.30 ID:CC20O+KU0

 再びタクシーで、まっすぐマンションへ帰る。今日もちひろさんが付いてきてくれた。

「今日も私、お邪魔していいですか?」

 ちひろさんが私に尋ねる。

「それはいいですけど……ご実家は?」
「それはもう、連絡してあります」
「そう、ですか。じゃあよろしければ」
「はい。お邪魔しますね」

 マンションに着き、私はちひろさんとまた、いただいた薬について確認していた。
 ミルナシプランはオランザピンという薬に変わっていた。そしていつものニトラゼパムと頓服のエチゾラム。
 薬の説明を見ると『気分を整える薬です』と書いてある。

「あの……ちひろさん」
「はい?」

 私は、ちひろさんに訊いてみた。

「私のことについて、ちひろさんはなにか説明されました?」
「はい。説明を受けました」

 私に質問に、ちひろさんはまっすぐ私を見て、そう答えた。

147 : ◆eBIiXi2191ZO [sage saga]:2020/09/22(火) 21:44:18.90 ID:CC20O+KU0

「今の楓さんは、『双極性障害』の疑いがある、そう先生はおっしゃってました」
「そうきょくせい、しょうがい?」
「はい。昔は『躁うつ病』と呼ばれていたものだそうです」
「そう、うつ、びょう……」

 私は、目の前が真っ暗になった感じがした。
 躁うつ病って、なに? 私は『うつ』ではなかったの?
 私の頭がぐるぐると、なにか答えを探し求めている。ちひろさんはかなり困った顔をしていた。

「楓さん。あまり自分を責めないでくださいね」
「ちひろ……さん」
「先生がおっしゃってました。お仕事でいろいろ気が張りつめて、気持ちが高揚したのかもしれない、って」

 ちひろさんの言葉に私は、はっとする。
 気持ちが高揚する。
 そう、あの時私はそうだったと、気付いたのだ。

148 : ◆eBIiXi2191ZO [sage saga]:2020/09/22(火) 21:44:47.26 ID:CC20O+KU0

「双極性障害って、要は気持ちの波を自分でうまく調整できなくなる状態だって、おっしゃってました。
なんでもやれる自分と、なにもできない自分のギャップに、心が参ってしまう病気だと」
「……ああ」

 なるほど、確かに当てはまるような気がする。今の私はあまりに無力で、なんにもできない木偶の坊とすら、思えるのだから。

「でもできないって思うのは、まやかし、ですからね?」
「え?」
「だって今日は楓さん、事務所に行けたし社長ともお話しできたし、クリニックにも行けたじゃないですか」
「でも、それは当たり前のことで」
「当たり前のことができている、それで十分じゃないですか?」

 私が自分のふがいなさを探そうとすると、ちひろさんはそれを否定した。

「それで、ですね」

 ちひろさんは手を胸元で合わせ、私に言った。

「私しばらく、楓さんと一緒にここに住むことにしました!」
「は?」

149 : ◆eBIiXi2191ZO [sage saga]:2020/09/22(火) 21:45:20.46 ID:CC20O+KU0

 ちひろさんはにっこり笑い、「はい」と言った。

「え……どういうこと、ですか」
「しばらく、楓さんと二人三脚で、一緒に頑張っていきましょう、ってことです」
「そんな……ちひろさんはご実家があるわけですし」
「……実はもう、相談しちゃいました」

 私の心配に、ちひろさんはあっけらかんと言うのだ。

「母が『あら、いいわね』なんて、賛成してくれて。『トップアイドルと過ごすなんて、あなたすごいわね』って、褒められちゃいました」
「……」
「父も『ご迷惑にならないようにな』と、認めてくれました」
「……」
「あと、社長にもお願いしまして。『よろしくお願いします』って、頼まれちゃいました」
「……ああ」

 私はがっくりと項垂れる。
 私のこの状態で、ちひろさんに多大な迷惑をかけていると、そう思えて仕方ない。

「まあ、明日からすぐってわけじゃないですけど。私も、心の病気と向き合っていますし、お互いさまってことで」

 ちひろさんは私の手を取り、優しい笑みを向けてくれた。

「よろしく、お願いしますね」

 そう言われて、私は否と言えるはずがない。今後に不安を感じながらも、私は。

「はい」

 そう答えるしか、なかった。

150 : ◆eBIiXi2191ZO [sage saga]:2020/09/22(火) 21:46:17.10 ID:CC20O+KU0

 一週間後。
 ちひろさんは約束どおり、うちにやってくる。

「今日からしばらくお世話になります。よろしくお願いしますね」
「いえ、こちらこそ。お世話になります」
「そうですね。お世話します。うふふ」

 ちひろさんからそう言われ、私は苦笑する。
 ともあれ、ちひろさんがやってくる準備として、家の中をきちんと掃除できたことは、褒められてもいいかもしれない。
 とにかくこの一週間、薬が変わったことでかなり体調がすぐれなかったのだ。

 まず食欲が落ちた。
 食べようとする気力が萎えてしまう。したがって「食べなくても、いいかな」となる。
 以前のように食べようと努力すればいいのかもしれないけれど、とにかく気力が続かない。

 食べるだけじゃない。
 なにか行動を起こすにも、気力が湧かない。私はどうなってしまったのだろう。
 薬を飲んでこの調子では、私はますますダメになってしまうのではないか。不安が拭えない。
 そんな状態なので、掃除ひとつでも私は、自分なりにかなり頑張った気がするのだ。よくやれたとすら思っている。
 次の診察で、先生に薬を戻してもらおうか。私はそんな風に考えていた。

151 : ◆eBIiXi2191ZO [sage saga]:2020/09/22(火) 21:47:06.79 ID:CC20O+KU0

「じゃあ、私はここに」

 ちひろさんはリビング脇の和室に、自分の荷物を置く。
 必要最低限の着替えと、メイク用品一式、あと黒い袋。いわゆるデリケート用品。
 彼女は本当に最低限の荷物だけで、ここに来た。もっともお客様用の布団も食器類も完備しているので、それで十分だった。

「なにか、お手伝いすることは」
「いえ、こんな荷物だけですし、特になにも」
「そう、ですか」

 ちひろさんにそう言われ、私はなぜか安堵した。
 今私はなにかを手伝おうとしても、たぶん満足にお手伝いはできない。早くも馬脚を現すことがなかった、安堵。
 そう感じることが、私を悩ませる。こんな役立たず、必要なんかないじゃないか、と。

「楓さん?」
「なんでしょう?」
「……ダメ、ですよ?」

152 : ◆eBIiXi2191ZO [sage saga]:2020/09/22(火) 21:47:38.58 ID:CC20O+KU0

 ちひろさんは私の顔を見て、たしなめる。私の不安が表情に出ていたのだろうか、彼女に申し訳なく思う。
 ああ、ほんと。ダメ。
 なにを考えてもネガティブに。今の私は、アイドルである私の対極にいるようで、本当に情けなかった。

「ひととおり荷物が片付いたら、引っ越し祝いになにか美味しいもの食べましょうね」
「引っ越し、祝い。ですか」
「ずいぶん軽めの引っ越し、ですけどね」

 ちひろさんは笑う。
 彼女がここまで笑えるようになるまで、どれほどの苦痛を味わったのだろう。今それを私が想像することは、果てしなく困難に思えた。

 それでも。
 誰かがいる、ということは、とても大きなもので。
 ちひろさんが食事の支度をすれば、私が手伝いをしなければ、と気力を振り絞って動くことをするし。
 後片付けも、彼女の労力に報いたいとなんとかやろうとするし。
 気が付けば自分がなにかをしている、という状況が作り出されていた。
 ひとりでは、とてもなにかをやろうという気持ちが湧かないのに、ちひろさんがこうしていることで、やらなければ、やろう、という環境ができあがっている。
 昨日までのダメな私からあまり変わっていない気がするけれど、それでもなんとかやっている。

「ちひろさん」

 リビングでくつろいでいるちひろさんに、キッチンから声をかける。

「はい」
「……ありがとうございます。いろいろと」

 ちひろさんは嬉しそうに「まだ初日ですよ」と言った。
 本当に彼女には、感謝しかない。

153 : ◆eBIiXi2191ZO [sage saga]:2020/09/22(火) 21:48:29.26 ID:CC20O+KU0

「そろそろ、投げ込みしましょうか」

 足の痛みが退けてきた頃、社長さんから話を切り出された。

「はい、分かりました」

 私はすでに、覚悟というか準備はできている。どういう方法にするのか、それをここで決めるのだ。
 社長室には私と社長さん、それとプロデューサーの三人。

「すでにだいぶ時間が経っているので、会見という形にはしないつもりです」

 社長さんは言った。

「それは、なぜ」
「あまり突っ込まれても困りますし、それに」
「それに」
「高垣さんも、質問されても返答に困るでしょう?」
「……ええ」

 それは確かに、本当だ。
 あの時の状況を思い出してみるけれど、私がどう思ったのか、未だによく思い出せない。
 というより私の中で、あの状況がきちんと消化できていない。

154 : ◆eBIiXi2191ZO [sage saga]:2020/09/22(火) 21:49:14.39 ID:CC20O+KU0

「そこを突っ込まれるのは、対外的には格好の餌ですしね」
「確かに」
「それにあれは事故です。ファンの皆さんが心配なのは高垣さんの体のことであって、どうしてそうなったのか、その事実についてはあまり興味はないでしょう。
事故の要因は私たち事務所スタッフの責任ですから」
「いや、それでは」
「社会的に、そういうものなのです。アイドルの責任は事務所が受け持つ、これは当然のことなのですよ」
「……申し訳、ありません」

 社長さんにそう言われれば私は、申し訳ないと言うしかない。私はあまり表に出るな、そうくぎを刺されているのだ。

「なので、高垣さんには自筆のメッセージをいただきます。あ、あまり事務所のこととか考えなくていいですからね。
高垣さんのファンへの想いを、そのまま書いてください」
「……分かり、ました」
「じゃあ高垣さんのメッセージができあがったら、プロデューサーに確認を取ってください。一応、ね。事務所のチェックはさせてください」
「……はい」

 そして社長室から出ると、私はちひろさんから便せんを渡された。

「あまり、深刻に考えないでくださいね」

 ちひろさんが言う。私はこくりと頷いた。
 打ち合わせテーブルで私は文章を考える。
 こうして文章を考えていると、頭の中にぐるぐると、様々な想いが渦巻いて吐き気を催しそうになる。
 でも、できるだけ素直に、ファンの皆さんの、ために。
 そうしてようやく、メッセージができあがる。

155 : ◆eBIiXi2191ZO [sage saga]:2020/09/22(火) 21:49:41.52 ID:CC20O+KU0

 ファンの皆様へ

 先日のステージでの事故では、皆様に多大なご心配をおかけしました。
 スタッフから発表があったとおり、足のねん挫とところどころ打ち付けたあざ程度で、大きな怪我をせずに済みました。
 私は、大丈夫です。
 早く良くなって、ファンの皆様に歌を届けます。
 もう少しだけ、待っていてくださいね。

 高垣 楓

156 : ◆eBIiXi2191ZO [sage saga]:2020/09/22(火) 21:50:28.69 ID:CC20O+KU0

 できあがったメッセージを、プロデューサーに見せる。すると。

「ちょっと楓さん。申し訳ないですけど、ここ、直してもらえますか」

 プロデューサーは私の『もう少しだけ』のところに二重線を入れる。

「どうして、です?」
「……実は楓さんには、ちょっと仕事をお休みしてもらいたいんです」

 プロデューサーの一言に、私は蒼白になる。

「待って、ください……仕事……お休みしないと、いけませんか」
「楓さんの体はもうだいぶいいんでしょうけど、ステージから落ちた心がね、心配ですから」
「……お願いです」

 プロデューサーの心配は理解できる。しかし私は、それを承諾するわけにはいかなかった。

「今までどおり、私に仕事させてください!」
「え、ちょっと楓さん」
「大丈夫です! 私できます! できますから!」

 私はプロデューサーに掴みかかる勢いで、嘆願する。プロデューサーは、困惑しているようだった。

「お願いです!」

157 : ◆eBIiXi2191ZO [sage saga]:2020/09/22(火) 21:51:00.36 ID:CC20O+KU0

 私の勢いに、周りのスタッフが私を見る。彼らもどうしたらいいのか、手をこまねいている。
 そこに、ちひろさんが入ってくる。彼女は私とプロデューサーの間に入り込み、こう言うのだった。

「楓さん! まず、社長室に行きましょう。ね?」

 私の興奮は収まらない、しかしちひろさんが間を取り持ってくれたのだ。私はちひろさんの言葉に首肯する。
 私とプロデューサーと、ちひろさん。三人は社長室に逆戻りした。

「おや、どうしました」

 社長さんは私たちを応接テーブルに案内する。私は社長さんに問いただした。

「私の休養の件について、教えてください」

 社長さんは「ああ、それですか」と言い、私たちをソファーに座らせる。

「そうです。私が指示をしました」
「なら……それを撤回してください」
「撤回、ですか?」
「はい」

 ここで、休むわけにはいかない。私も必死だった。

158 : ◆eBIiXi2191ZO [sage saga]:2020/09/22(火) 21:51:53.31 ID:CC20O+KU0

「うーん……では伺いますけど、今の状態で高垣さんは、ベストパフォーマンスを出せる、と言い切れますか?」
「……いえ」
「なら高垣さんご自身がよく分かると思いますけど。それは、ファンの皆さんに失礼だ、って」
「……」

 私はその言葉に言い返すことができない。悔しさがこみ上げてくる。
 けれど、社長さんの言っていることには、説得力がある。その時。

「社長。先日私が、クリニックの先生から、アドバイスをいただきました」

 ちひろさんが、会話に入り込んできた。

「ほう。なにかありましたか」
「はい。楓さんは今、自分のバランスに苦心している状態だと」
「バランスですか……ならなおさら休みが必要なのでは?」
「いえ、そうではないそうですよ」

159 : ◆eBIiXi2191ZO [sage saga]:2020/09/22(火) 21:52:42.56 ID:CC20O+KU0

 ちひろさんは、続けて言う。

「今生活しているリズム、仕事をしているリズム、全体のリズムを大きく変えてしまうのはあまり好ましくない。そうおっしゃってました」
「リズム、ですか」
「はい、リズム、だそうです」

 ちひろさんの言葉を受けて、社長さんはなにかを考えている。そして、プロデューサーと目を合わせると、彼に問うた。

「今、高垣さんのスケジュールはどうなっていますか?」
「事故のことがありましたんで、今のところは白紙で」
「そうですか……仕方ないですね」

 社長さんはため息をひとつ、吐いた。

「足の痛みがよくなったら、状態を見てあまり負担にならないところから始めてください。お願いします」

 社長さんからのオーダーに、プロデューサーは驚いた。でもその指示に「承知しました」と首肯する。
 私は、ぽかんとしていた。

160 : ◆eBIiXi2191ZO [sage saga]:2020/09/22(火) 21:53:25.11 ID:CC20O+KU0

「高垣さん」
「え……は、はい」
「これからも無理のない程度で、よろしくお願いしますよ」
「あ……ありがとう、ございます!」

 私は慌ててお辞儀をする。
 よかった、私から仕事が奪われてしまう不安は、ひとまず回避された。

「それから千川さん」
「はい、社長」
「くれぐれも高垣さんのこと、しっかりサポートしてあげてくださいね」
「ええ、承知しました」

 ちひろさんはいつもと変わらない笑みで、社長のオーダーに首肯する。
 ちひろさんには本当に、迷惑をかけてばかり。私が少し落ち込みそうになると。

「気持ちが楽になる程度に、ぼちぼち、頑張りましょうね」

 ちひろさんが、フォローしてくれた。

「そうそう。そのあたりのさじ加減は、私たちに任せてください」

 プロデューサーはそう言うと、サムズアップをして、続けた。

「僕たちは、楓さんのチーム、ですからね」

 ああ。
 私ひとりのために、これだけの人たちが動いてくれる。私はそのことがとてもうれしく思い、そして。
 とても申し訳なく、思った。

―― ※ ――

161 : ◆eBIiXi2191ZO [sage saga]:2020/09/22(火) 21:54:07.39 ID:CC20O+KU0

※ 今日はここまで ※

ではまた ノシ
162 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2020/09/23(水) 00:30:07.02 ID:lNyw44KCO
おつ
163 : ◆eBIiXi2191ZO [sage saga]:2020/09/24(木) 21:31:06.38 ID:itU6iUE10

投下します

↓ ↓ ↓

164 : ◆eBIiXi2191ZO [sage saga]:2020/09/24(木) 21:32:28.29 ID:itU6iUE10

 公式にメッセージを配信してしばらく経った。まだ仕事は再開して、いない。

「カウンセリングを受けてみたら、どうかしら」

 近くのカフェで一緒にお茶をしている時、瑞樹さんが言った。

「カウンセリング?」
「自分ひとりだと苦しいことでも、話を聞いてもらうことで整理できたりするし、いいと思うの」
「……はあ」

 瑞樹さんはあの事故のことがあって、いろいろ気にかけてくれる。それはありがたい事だけれど。
 私自身、カウンセリングを受けてみようかという気にならない。
 むしろ、早くに仕事を再開したいという思いでいっぱいで、そんなところまで気が回る余裕はなかった。

「でもあまり、気が進まないですね」

 私がそう答えると、瑞樹さんは。

「合う合わないもあるし、エステに行くような気持ちで、一度くらい行ってみたら?」

 などと気安く言うのだった。
 それは彼女なりの優しさだと、もちろん私は知っている。無碍にするのも申し訳ないので、調べてみようかしら。
 事務所に戻り、プロデューサーを訪ねてみた。
 彼はすでに次の現場に出かけていていない。というか、スタッフのほとんどが出払っていた。

「今日はちょっと忙しいみたいで」

 ちひろさんがぽつんと、留守番をしている。私はちひろさんの隣、出かけているスタッフの椅子を無断で借りた。

165 : ◆eBIiXi2191ZO [sage saga]:2020/09/24(木) 21:33:06.57 ID:itU6iUE10

「忙しいのは、ほんと、なによりじゃないですか」

 私が言う。

「そうですね。楓さんはそろそろ、再開されるんですか?」

 ちひろさんが訊く。

「私はもう始めたくてうずうずしてるんですけど、プロデューサーからゴーサインが出なくて」
「そうですか。ならお手伝い、お願いしますね」
「ええ、喜んで」

 そう、仕事をしていない今、レッスンなどで時間を費やすことも必要だと思うのだけれど、なぜかそれもストップされている。
 手持ち無沙汰な私に、ちひろさんは事務の手伝いをお願いする。ありがたく、その仕事を拝命するのだ。

「そう言えば……」

 書類整理をしながら、私はちひろさんに昼間のことを話してみた。

「カウンセリング、ですか」
「ええ。ちひろさんは受けられたこと、あります?」
「いえ、実は私も、ないんです」

 ちひろさんも、経験はないようだ。

「私の場合は、親がいろいろ話し相手になってくれたので……特に必要はなかったかなあ、って」
「ああ、なるほど」

 身近な相手がいる、ということ。確かに大きいと思う。でも私は。
 つい、ちひろさんをちらちら見てしまう。
 今彼女と一緒に暮らしていることもあって、一番身近な相手というと、やはり彼女かなあという気がする。

「ん?」

 ちひろさんが視線に気付く。私はちょっと恥ずかしくなった。

「私でよければ、いつでも」
「いえ、ちひろさんには毎日お世話になってますし、たまには別な方に相談するのもいいかなあ、と」
「あら、振られちゃいましたね」
「いえいえ! そんなことは!」
「うふふ、冗談です」
「……もう」

 彼女にお世話になりっぱなしは、良くない。
 少しは自分自身でなんとかする癖を、つけなくては。

166 : ◆eBIiXi2191ZO [sage saga]:2020/09/24(木) 21:33:41.62 ID:itU6iUE10

 とりあえず事務所近くにカウンセリングルームがあることが分かった。
 九十分で一万二千円、高いのか安いのかよく分からない。女性専用ということだったので、ここに予約を入れてみた。

 カウンセリング当日。
 マンションの一室、玄関に小さくカウンセリングルームの看板が張り付けてある。
 中では瑞樹さんと同年齢くらいの女性が、私を待っていた。

「ようこそ。はじめまして」
「はじめまして。高垣と申します。よろしくお願いします」
「よく存じ上げてます……と言っても、テレビ画面の中ですけど」
「そうですか。ありがとうございます」

 ひととおりの挨拶。私は応接ソファーに案内される。
 カウンセラーさんはお茶を入れ、私に勧めてきた。

「ハーブティー、お嫌いですか?」
「いえ、頂戴します」

 カモミールの香り。心を落ち着けるための配慮ということか。

「あと、先にご説明しますね。プライベートに関してお話を伺った内容は、一切公表いたしません。
プライバシーに関する誓約書を取り交わしますので、安心してくださいね」
「はい、よろしくお願いします」

 しばらく世間話をする。
 もちろん芸能界に関することは、話せない。
 それはたとえ誓約書を交わしたとしても、こういう業界にかかわる人間であれば細心の注意を払うことだから。
 当たり障りのない話。話をしながら私は、心が冷えていくのを感じる。

167 : ◆eBIiXi2191ZO [sage saga]:2020/09/24(木) 21:34:14.13 ID:itU6iUE10

「さて、高垣さん。こちらに来られた理由を、お伺いしてもいいですか」
「……そうですね。そのために来ましたので」

 私は逡巡する。事ここに至って、なにを話せばいいのだろう。そして。

「実は……今『うつ』を患ってまして」

 私は、嘘を吐いた。
 嘘と言うには少し違うと思うけれど、しかし正確ではないことを、私は言った。

「なるほど」

 カウンセラーさんは、メモを取りながら私の話を聞く。
 私がところどころ考え、言葉が出なくても、カウンセラーさんはずっと、私の言葉を待つ。時間だけが無碍に過ぎていく、そんな気がした。
 ひととおり話を終える、と言っても、自分がうつであることと、今クリニックで治療を受けていること、そのくらいか。

「ありがとうございます。お話は、そこまでですか?」
「え?」

 カウンセラーさんは私に言った。

「そうですねえ……なんと言うか、高垣さんがお話されたことは、今現在ご自身が置かれている状況ですよね」
「はい」
「なかなか、お気持ちを話すことは、難しいですか」

168 : ◆eBIiXi2191ZO [sage saga]:2020/09/24(木) 21:34:41.65 ID:itU6iUE10

 どきりとする。
 確かに、今の私の気持ちを話せるかと言えば、それは難しい。なぜなら彼女は私の知らない他人、なのだから。

「そう、ですね」
「そうでしょうね。実際、高垣さんのような方は、多いです」
「そうなんですか?」
「はい。うつを患っている方は、ご自身のことをなかなか打ち明けていただけません。致し方ないことだと思います。
いきなり見ず知らずの他人に打ち明けるなんて、普通の人でも難しいですしね」

 カウンセラーさんは一般的な話、と前置きをする。そしてこう言った。

「もし高垣さんがお話ししてもいい、と思われたら、話してください。それでいいんです」
「はあ……なんか、ごめんなさい」
「いえ。それが私の仕事ですから」

 予定されていた時間はとうに過ぎている。それでも彼女は私にこうして付き合ってくれていた。しかし。
 縁が、なかった。私はそう思った。
 確かにこうして話を聞いてもらえることで、心が軽くなる人もいるのだろう。しかし私は、その段階を超えてしまっている、そんな気がする。
 こうして話をしたところで、彼は戻ってこない。
 私には諦念がある。それをどうにかできないうちは、話をしても無駄に思える。

「今日は時間オーバーでお話を聞いていただいて、ありがとうございました」

 私は彼女にお礼を言う。彼女は、私をどう思ったのだろう。

「いえ。もしまたご縁があれば、お話、聞かせてください」

 カウンセラーさんは私に握手を求めた。手のぬくもりが、私を悲しくさせる。
 ご縁があれば。
 その縁はおそらく、繋がっていない。

169 : ◆eBIiXi2191ZO [sage saga]:2020/09/24(木) 21:36:22.62 ID:itU6iUE10

 私はようやく、仕事を再開する。
 歌番組の収録。録画ものでインタビューなし、という、今の私にはありがたいものだ。しかも瑞樹さんと共演。
 事務所スタッフの努力と配慮に感謝しながら、スタジオへ向かった。

「楓ちゃん、やっほー」

 瑞樹さんは先に部屋入りしていた。別の収録からまっすぐこちらへ、という段取りだったのだ。

「瑞樹さん、今日はよろしくお願いします」
「なーに言ってるの。この前一緒にお茶した仲じゃない」
「そうですね。お酒じゃなかったですけど」
「そうねえ、今度は夜、ご一緒しちゃいましょうね……ところで」

 瑞樹さんが尋ねる。

「カウンセリング、行ってみた?」
「ええ、先日」
「……どう? 少しは楽になった?」
「……どうなんでしょう」

 私は苦笑するしかなかった。その表情で理解したのか、瑞樹さんは「そっか」と言い。

「今の楓ちゃんには、合わなかったってことね。それでいいんじゃないかしら」

 私に笑みを向けた。

170 : ◆eBIiXi2191ZO [sage saga]:2020/09/24(木) 21:36:49.44 ID:itU6iUE10

「せっかくお勧めしていただいたのに、なにか申し訳なくて」
「いいのよ、私も気楽に言っただけだし。そうね。今度は体もリフレッシュするように、全身エステ、行きましょ?」
「そう、ですね。ぜひ」
「じゃあ、今日は楓ちゃんの復帰初仕事、頑張りましょう!」

 瑞樹さんは私を慮って、努めて明るく振舞ってくれた。

 収録本番。瑞樹さんとのデュオは久々で緊張する。でも、それが妙に嬉しかった。
 足はほぼ大丈夫になっているけれど、無理をしないということで、振り付けを最小限に抑えている。
 相変わらず綺麗で伸びやかな、瑞樹さんの歌声。聞き惚れてしまう。日頃ソロで歌うことが多い私には、こうして誰かと歌うことが貴重で、ありがたい。
 サビ。ふたりの息を合わせ……

「はーい! ストップでーす!」
「楓ちゃん、大丈夫?」

 収録スタッフの声と、瑞樹さんの声。私は、固まって動けない。

171 : ◆eBIiXi2191ZO [sage saga]:2020/09/24(木) 21:37:16.71 ID:itU6iUE10

 歌詞が、飛んだ。

172 : ◆eBIiXi2191ZO [sage saga]:2020/09/24(木) 21:37:44.50 ID:itU6iUE10

 瑞樹さんとのデュオで、歌い慣れていたはずの曲。歌詞が出てこない。頭が真っ白になったのだ。

「す、すいません……大丈夫、です」
「ごめんなさい! 五分、休憩ください!」

 私がアピールするものの、プロデューサーがそれを制した。

「了解でーす。じゃあ次の歌い手さんを先に収録しますんで、それでいいですか」
「はい、お願いします」

 収録スタッフとプロデューサーのやり取り。私は瑞樹さんに付き添われ、楽屋へ戻った。
 どき。どき。
 鼓動が鳴り響く。色を失った私に、瑞樹さんが声をかける。

「楓ちゃん。楓ちゃん! 大丈夫よ。大丈夫。ほら、お茶飲んで」

 手渡された紙コップを、両手で掴む。手がわずかに震えていた。
 こくこくとお茶を飲む。少しだけ気持ちが、戻ってきた。

173 : ◆eBIiXi2191ZO [sage saga]:2020/09/24(木) 21:38:34.46 ID:itU6iUE10

「……瑞樹、さん」
「大丈夫? 楓ちゃん」
「ごめんなさい……飛んでしまい、ました」
「いいのいいの、久しぶりだし。大丈夫だから」
「……私」
「え?」
「まだ……早かったんでしょうか……復帰」
「……それは違うわ。うん、違う」

 動揺する私に、瑞樹さんは語り掛ける。

「復帰に早いも遅いもないわ。たまたま今日は、調子が悪かっただけ。問題ないの」
「でも」
「歌詞が飛ぶなんて、よくあるじゃない。完璧じゃなくていいの。それより……」
「……」
「私との共演、楽しみましょ。ね。楽しんで?」

174 : ◆eBIiXi2191ZO [sage saga]:2020/09/24(木) 21:39:00.96 ID:itU6iUE10

 緊張が止まらない私に、瑞樹さんがウインクを投げる。その仕草が、私にすっと入り込んできた。
 ああ、いつもの瑞樹さんだ。
 ようやく、緊張の糸が解ける。涙がこぼれそうになるけれど、私はそれをこらえ、瑞樹さんに言った。

「ありがとうございます……大丈夫、戻ってきました」
「そう。なら次で、決めちゃいましょうね」
「……はい」

 収録が再開し、今度はオーケーをもらう。どうにか復帰初仕事を無事、終えることに成功した。

「お疲れさまでした。緊張しました?」

 帰りの車で、プロデューサーが尋ねた。

「緊張もしましたけど、それより……申し訳ない気持ちで、いっぱいですね」

 私は窓の外、流れる景色をぼんやり見ている。

「大丈夫です。ぼちぼち、行きましょう」

 プロデューサーは、私を慰めた。
 道のりはまだ、険しい。

175 : ◆eBIiXi2191ZO [sage saga]:2020/09/24(木) 21:39:28.39 ID:itU6iUE10

 私は、薬を飲む。

 オランザピンに変えて三か月。なかなか気持ちをコントロールするのが難しい。
 先日は部屋で大泣きをして、ちひろさんを困らせてしまった。
 なぜか分からないけれど、悲しい気持ちが渦巻いて泣くしかなかったのだ。そこに理由はない。ただ悲しい、それが横たわるだけ。

 そうかと思えばひどく冷静になって、アンドロイドになったかのように歌い、踊る。
 決して感情がこもっていないとか、冷たいとか、そういうことではなく。
 どこか他人のようなもうひとりの私が、歌っている私を客観的に眺めている、そんな感覚に囚われた。

 もちろん、普通に過ごせる私もいる。だがそう感じる私に、もうひとりの私が語り掛ける。
 普通って、なに?

「先生」
「なんでしょう」
「私、おかしいんでしょうか」

176 : ◆eBIiXi2191ZO [sage saga]:2020/09/24(木) 21:39:57.70 ID:itU6iUE10

 先生に、今のわたしを打ち明ける。
 ふたりの私がいること、感情の浮き沈みがまだ激しいこと、そのために心が、疲れてしまうこと。

「そうですね……高垣さんの今は、まだ過渡期なんだと思います」
「過渡期?」
「徐々に穏やかになっていく、その途中なのだと、思いますよ」
「そうでしょうか」

 私にはそう思えない。
 だってこんなにも激しくて、こんなにも誰かに迷惑をかけている。
 ちひろさんや瑞樹さんや、プロデューサーやスタッフ。社長さん。みんなに、迷惑を、かけている。

「私は、今の私が嫌い、です」
「私には、産みの苦しみのように見えますね」
「産みの、苦しみ……」
「はい」

 そうしてまた、私は同じ薬を処方される。閉塞感に、押しつぶされそう。

177 : ◆eBIiXi2191ZO [sage saga]:2020/09/24(木) 21:40:35.49 ID:itU6iUE10

「お帰りなさい」
「ただいま、帰りました」

 ちひろさんがマンションで、私の帰りを待ってくれていた。
 今日、彼女は振替の休みの日だというのに、私のために時間を作ってくれたのだ。

「せっかくのお休みなのに、ごめんなさい」
「いえいえ。こうして楓さんとの共同生活も、もう当たり前になってて、このほうが落ち着くんです」
「……ありがとう」

 そうだろうか。
 こんな手のかかる相手と一緒の生活なんて、苦しい以外の何物でもなかろうに。
 このところネガティブなことばかり、考えてしまう。

「さあ、夕食にしましょう。今日はお手伝い、お願いしますね?」
「……もちろん」

 そうしてまた、いつものようにふたりの食事。
 ちひろさんとこうしてふたりで過ごせることは、とてもありがたい。
 だが思う。彼女をこうして束縛してしまっている現状は、私たちふたりにとって不幸なことなのではないか、と。
 閉塞感。行き詰まり。
 そして、諦念。

 お風呂から上がって睡眠薬を取り出す。このルーティーンを行うようになって、どれくらい経ったろうか。
 薬のお世話になって一年以上経っているというのに、私は少しも良くならない。
 むしろ悪化しているように、思える。
 先生はよくなっていると言うけれど、それを実感することは、ない。
 私は、いつまで。

「……」

178 : ◆eBIiXi2191ZO [sage saga]:2020/09/24(木) 21:41:01.95 ID:itU6iUE10

 目の前にある、薬。白い粒をじっと見つめる。ふと悪魔が私に、ささやいた。

 これをたくさん飲んだら、目覚めないかしら。
 かつて私が、思いついたことだった。
 私は疲れてしまった。
 いろいろ努力していると思っているし、みんなのサポートも受けている。
 それなのに、私はみんなになんにも返せていない。報いることができない。

179 : ◆eBIiXi2191ZO [sage saga]:2020/09/24(木) 21:41:30.30 ID:itU6iUE10

 いらない……こんな私。

180 : ◆eBIiXi2191ZO [sage saga]:2020/09/24(木) 21:41:59.01 ID:itU6iUE10

 ざらざらと、溜まっていたニトラゼパムとエチゾラムを出す。これを全部、飲んだら。

「楓さん!」

 私の寝室にちひろさんが入ってきた。ちひろさんは私を抱きしめ、言った。

「馬鹿! ダメでしょう!」

 ……え? なにが?

「なにをしてるんですか! 楓さん!」

 なにって、えっと……なに?

 ……あ。

 視線の先には、折り重なる睡眠薬のシート。
 私、なにをしてるんだろう。

「よかった……よかった」

 ちひろさんは私を抱きしめたまま、ぼろぼろと泣き出した。

「あの……ちひろ、さん」
「ダメです」

 そう言ってちひろさんは私を離さない。涙はいつか泣き声となる。

「楓さん! ダメですよ! ダメです!」

 泣き叫ぶちひろさん。その叫びが私を、現実へと戻していく。
 体が震え、頭がぐらぐらする。

「……ごめん、なさい」

 私は口癖のように、彼女に謝った。

「許しません! 許しませんから……」

181 : ◆eBIiXi2191ZO [sage saga]:2020/09/24(木) 21:42:41.09 ID:itU6iUE10

 抱きしめたまま泣き続けるちひろさん。私は、深い後悔を覚えた。
 私は、ひどいことをした。
 こんなにもちひろさんや事務所のみんなが、私を支えてくれているというのに。
 私はなんて、おぞましいことを考えてしまったのだろう。それは決して、許されない、こと。

「……ごめん、なさい……ほんとに……ごめんなさい」

 わあわあと泣くちひろさんを、私も抱きしめる。
 なにを言われても私は、謝ることしかできない。それほどのことを、ちひろさんにしてしまった。
 ひとりきりだったら、私はどうしただろうか……
 ちひろさんはまた、私を助けてくれた。私は彼女を、これ以上苦しめてはいけない。それはつまり。

 私は、いなくなってはいけない。

 私の中に深く、それを刻み付けなければ。それが彼女への贖罪、ならば。
 それを思い続けることが、できるのだろうか。不安が消えない、ままで。

182 : ◆eBIiXi2191ZO [sage saga]:2020/09/24(木) 21:43:21.78 ID:itU6iUE10

 それから。
 私の薬の管理は、ちひろさんがすることになった。当然だ、前科があるのだから。

「はい、楓さん。薬です」
「ありがとうございます」

 朝晩と、彼女から薬を手渡される。それが私たちの新しいルーティーン。
 ちひろさんには手間をかけさせてしまうけれど、彼女は「このほうが私は安心ですから」と言ってくれる。
 なにより私には誰かがいてくれる、そう思えることが私には重要だった。

 少しだけ地に足が着いた気分。それが支えとなり、仕事を順調に回すことができる。
 仕事が回せると、気持ちが多少コントロールできるようになってくる。好循環だった。

 もちろん、波はやってくる。
 未だに泣き叫びたくなる気持ちになるし、ふたりの私がいる感覚もあまり変わらない。
 つらい気持ちに苛まれることも、まだまだ多い。でも。
 あの時よりは、まし。

183 : ◆eBIiXi2191ZO [sage saga]:2020/09/24(木) 21:43:49.22 ID:itU6iUE10

 ちひろさんと共同生活をするようになって八か月、少しだけルーティーンが軌道に乗ってきていた。

「ただいま戻りました」

 事務所に戻ってくる。スタッフが「お帰りなさい」と声をかけてくれる。
 いつも変わらないこと雰囲気が、私に安心を与えてくれる。そして。

「お帰りなさい。待ってました」

 ちひろさんが、声をかけてきた。

「あら。なにかありました?」
「ええ、ありました。実は」

 ちひろさんから打ち明けられた内容に、私は驚く。そして、体の力が抜けていくのを感じた。

「Pさんのお姉さんから、電話があって……楓さんに、お話があると」

 なぜ、今。ああ。
 気が付けば、彼が亡くなってから二年が経とうとしている。三回忌。
 時が過ぎるのは、早いのか、それとも。

 遅いのか。

―― ※ ――

184 : ◆eBIiXi2191ZO [sage saga]:2020/09/24(木) 21:44:42.78 ID:itU6iUE10

※ 今日はここまで ※

次回で完結です。
ではまた次回 ノシ
185 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2020/09/24(木) 23:33:14.59 ID:q5iPp6v6o
186 : ◆eBIiXi2191ZO :2020/09/25(金) 23:30:17.50 ID:17bnaLyc0

投下します

↓ ↓ ↓
187 : ◆eBIiXi2191ZO :2020/09/25(金) 23:31:14.58 ID:17bnaLyc0

「……」

 呼び鈴を押す手が、震える。

 東京から新幹線に乗り、駅からタクシーでしばらく。家に着く。
 Pさんのお姉さんは結婚されていて、旦那さんとお子さんと暮らしていると、電話口で伺った。
 なぜこの時、私に連絡をくれたのか。私がそれを問うことは、叶わなかった。
 それでも心を振り絞り、私はお邪魔する約束を取り付ける。そして。

 閑静な住宅街に、ひとり。
 ぴんぽーん。呼び鈴を押すと、中でぱたぱたという足音が聞こえる。
 がちゃり。中からかわいらしい男の子がひょっこり、顔を出した。

「あら、こんにちは」

 私が挨拶をすると急に恥ずかしくなったのか、ぱたぱたと走って、人の陰に隠れる。その人こそ。

「ようこそ、いらっしゃいました」
「……ありがとうございます」

 Pさんのお姉さん、だった。
 お入りくださいと案内され、リビングに通される。
 続きの和室の客間に、小さな祭壇。そこに鎮座していたのは、Pさんの遺影と、まだ納骨していないであろう骨壺。

188 : ◆eBIiXi2191ZO :2020/09/25(金) 23:31:48.84 ID:17bnaLyc0

「あ……」

 私は、言葉を失う。
 会いたかった人が、そこにいる。全身が震え、力が抜けそうになる。

「どうぞ、線香をあげてください」

 お姉さんに促され、一歩、また一歩、祭壇へ歩む。
 あの日、告別式で見たPさんの笑顔。変わらないそれを見て、心がとても締め付けられる。
 苦しくて。悲しくて。なぜ。どうして、と。
 わけも分からない感情に支配され、私はPさんの祭壇にしゃがみ込む。そして。

「……P、さん」

 私はうずくまり、声を殺し、涙を流し続けた。
 五分、十分、どのくらい時間が経ったか。私はどうにか、顔を上げる。
 すると、お姉さんは傍らで、一緒に涙を流していた。男の子は不思議そうな顔をして、お姉さんの顔を覗き込む。

「だいじょぶ?」

 彼は私に大丈夫、と、声をかけてくれた。

「ええ……ええ。大丈夫よ」

 私は答える。男の子はまたびゅーっと走って、母親の後ろへ隠れた。

189 : ◆eBIiXi2191ZO :2020/09/25(金) 23:32:22.48 ID:17bnaLyc0

 少しだけ落ち着いた私は、祭壇に線香をあげる。仄かな煙が、彼の顔を霞ませる。
 それがいっそう物悲しくて、私は再び涙を流す。ただ、悲しい。
 それでもどうにか涙を拭き、お姉さんへ一礼をする。彼女は「どうぞ」とリビングへ案内した。
 春とはいえまだ寒く、こたつのぬくもりが心地よい。男の子はお姉さんにべったりとくっついて、離れようとしない。

「この子、だいぶ人見知りで。ごめんなさい」
「いえ、とってもかわいらしくて。ねえ、いくつ?」

 私は男の子に尋ねる。彼は母親の後ろからひょこっと顔を出し、手で『三』を示した。

「そう、三歳なんだ。しっかりしてるのね」

 私がそう言うと、彼はまたひょいと顔を隠した。
 お姉さんはお部屋で遊んでらっしゃいと促すけれど、男の子は離れようとしない。そのまま彼女は、男の子を抱っこした。

「お忙しいところわざわざ来ていただいて」
「いえ却って、ご連絡いただきありがとうございます」

190 : ◆eBIiXi2191ZO :2020/09/25(金) 23:32:53.21 ID:17bnaLyc0

 私はお礼を返す。
 そう言えば、告別式の時はあまり時間がなかったのでうろ覚えだったのか、Pさんの面影があると思い込んでいたけれど。
 こうして改めてお会いすると、あまり似ていない。

「……弟と似ていないでしょう?」

 私はまじまじと見てしまったのか、彼女はそう言った。その言葉に私は、恥ずかしさを覚える。

「実は私、母親の連れ子でして。再婚相手との子が、弟なんです。ですから歳も離れてて」
「失礼ですけど……おいくつ」
「十二歳、離れてます」

 そう言う彼女の表情は、暗く落ち込んでいる。

「私がもっとしっかりしていれば、弟はこんなことにならずに、済んだのに……」

 彼女の言葉には、後悔の思いしか映し出されていない。そんな気がした。

「もし、よかったら」

 私は彼女に、言葉を促す。それはとても重い、話だった。

「私たちの、親は……」

191 : ◆eBIiXi2191ZO :2020/09/25(金) 23:33:21.28 ID:17bnaLyc0

 私たちの親は、いわゆる『毒親』だったんです。
 私の実の父と私の母が離婚して、ほどなく再婚しました。実はその時にはすでに、母のお腹には弟がいました。
 そう、母は浮気相手と再婚したんです。

 あの男は、ひどい男でした。母に暴力をふるう、借金もする。
 父親と呼ぶことも憚られる、私にとっては害虫でした。そんなところに弟が生まれて、弟はかわいそうでした。
 あの男、いや『虫』ですね、虫はいつだって家にいない。母がひとりで私と弟を育てる、そういう環境です。
 でも母は生活するために働かないとならない。いつしか母は、弟を私に任せ自分で育てることをやめました。

 虫は普段、母のところには戻らず、他の女のところを転々とするような奴だったと聞いています。
 時たま帰ってきては家のお金を持っていく。
 母も苦労していたと思いますけど、それを私は哀れだと思いません。だって、私や弟に暴力をふるい怪我をさせても、なにひとつ庇おうとしないんですから。

 そして私が中学の頃です。
 虫に襲われそうになりました。恐ろしくて、私は何度も母に「逃げよう!」って、訴えました。
 でも母は動こうとしない。学校の先生にも訴えて、そこから児童相談所へ連絡が行って。
 どうにか、私たちは虫から逃げることができました。そして所縁のない町で新しい生活を始めたんです。

 しばらくは穏やかな生活でした。母もこの時は、優しかったような気が、します。
 高校を卒業して私は東京で就職することになり、家を出ました。
 それが、間違いでした。
 就職して彼氏ができて、私自身が幸せだなと思っていた時、虫から電話があったんです。
 あいつを、どこへやった、と。
 虫から電話があって私は、あまりに恐ろしくてすぐ切りました。
 そして、住んでいたアパートから彼の部屋へ引っ越して、電話番号も変えて、一日おびえる日々でした。
 その後、虫から連絡が来ることはなく、私は彼と結婚して、今に至ります。

192 : ◆eBIiXi2191ZO :2020/09/25(金) 23:33:52.07 ID:17bnaLyc0

 お姉さんが一息ついて、お茶を飲む。男の子は彼女の膝の上で、アップルジュースを飲んでいる。
 お姉さんの境遇を思い、私の心は締め付けられる。

「弟の消息を知ったのは……」

193 : ◆eBIiXi2191ZO :2020/09/25(金) 23:34:21.47 ID:17bnaLyc0

 弟の消息を知ったのは、弟が楓さんの事務所に就職して、だいぶ経ってからのことでした。彼から私に、連絡があったんです。
 どういういきさつで私の消息を知ったのか、弟は話してくれませんでした。
 でも、彼が無事でいてくれて嬉しかった。そう思っていました。
 せっかくだからと、弟がここに遊びに来てくれて、その時弟の境遇を聞きました。

 私は、ひどい姉です。
 私が就職してしばらく、母親が逃げたそうです。今どこにいるのか、私には分かりません。
 事もあろうに弟は、虫に預けられたんです。
 そこでどういう仕打ちを受けたのか、弟は話してくれませんでしたけど、ひどいことをされていたのだと思います。

 弟が虫から逃げて東京に行き、楓さんの事務所にお世話になってようやく、弟は安心できるようになったと、思います。
 今、アイドルのプロデュースなんて、信じられないような仕事やってるよって、嬉しそうに言ってました。
 そこで、楓さんが担当だと、伺いました。私も信じられない気持ちで、すごいねって。弟が本当に幸せそうで、嬉しくなりました。

 ところが。
 次に弟のことを知ったのは、楓さんもご存じのとおり、弟が亡くなった時でした。
 楓さんの事務所の社長さんから、連絡がありました。そして、弟と対面して……

194 : ◆eBIiXi2191ZO :2020/09/25(金) 23:34:49.28 ID:17bnaLyc0

 お姉さんは言葉を失い、泣くばかり。男の子はそんな母親を心配して「げんきだして。だして」と、お姉さんに声をかける。
 ……なんと言えばいいのか、いや、なにも、言うことはできない。
 フィクションのような、テレビのような、そんな虚構と思いたくなる話。でも、現実の話。
 私は言葉を失った。

「うっ……うう……」

 声を殺して泣くお姉さんに、私は声をかけられない。なにを言ったところで空々しく、無意味に思えたから。
 お姉さんは落ち着くまで、私はその場にとどまるしか、できなかった。
 肩越しに見える、Pさんの遺影。その笑顔が、私をいっそうつらくさせる。
 Pさん。あなたは。
 どうして、いなくなったのですか?

195 : ◆eBIiXi2191ZO :2020/09/25(金) 23:35:30.44 ID:17bnaLyc0

「ところで」

 私はお姉さんに尋ねる。

「納骨は、されないんですか?」

 お姉さんは彼の遺影を眺めたまま、呟く。

「弟のお墓を作って納骨してしまったらもう、会えなくなる気がして……」

 私と、同じだ。そう思った。

 Pさんはもういない。それは紛れもない事実。
 しかし私は、事実を認めたくない。認めてしまったら、私の中のPさんがいなくなってしまう。そんな気がしたのだ。
 それが私の呪縛であることも、知っている。
 そうして心壊れても私は、Pさんを想い続けている。

「お姉さん」

 私も、彼の遺影を見ながら、呟いた。

「時々、Pさんに会いに来て、いいですか」

 お姉さんは、私の問いかけに答える。

「いつでも……会ってあげてください」

 お姉さんのお宅から辞去する時、手紙を渡される。

「これ、受け取ってください」
「これ、は?」
「弟が楓さんに宛てた、手紙です」

 本当ならすぐに渡せばよかったけれど、心の踏ん切りがつかなくて、と、お姉さんから謝罪を受ける。
 それは些細なことで、こうしてPさんの手紙が私の手元へ来たことが、とてもありがたかった。
 彼女にお礼を言い、男の子に「また来ても、いい?」と言葉をかける。彼はこくり、と頷いた。
 それだけで不思議と、ほっとする。私は「また伺います」と言い残し、東京へ帰る。

 帰りの新幹線。Pさんからの手紙を、開けた。

196 : ◆eBIiXi2191ZO :2020/09/25(金) 23:35:57.77 ID:17bnaLyc0

 楓さんへ

 これを楓さんが読まれるとき、僕はこの世にいないでしょう。
 ごめんなさい。本当に、ごめんなさい。
 僕は弱い人間です。個人的な揉め事で心を乱して、今こうして、自分を殺めようとしている。そんな馬鹿な男です。
 楓さんと出会えて、楓さんがトップアイドルとなって、僕は幸せでした。
 楓さんが、好きでした。大好きでした。
 一緒に歩めなくて、ごめんなさい。僕はもう、駄目なんです。
 楓さんがトップアイドルで居続けられることを、祈っています。
 さようなら。

197 : ◆eBIiXi2191ZO [sage saga]:2020/09/25(金) 23:36:45.05 ID:17bnaLyc0

 便せん一枚に、短い言葉。
 彼はなにを思って、これを書いたのだろう。私は。
 私は。

 それでも彼に、生きてて欲しかった。

 こんな言葉を残すくらいなら、私に話して欲しかった。ともに生きて欲しかった。どうして……
 どんなに思っても、どんなに考えても、答えなど分からない。彼はもう、いない。
 ひとり車内で、涙を流す。そして、思う。
 Pさんはずるい、です。私をこんなに泣き虫にさせて。責任を、とってください。
 ……それはもう、叶わない。
 悲しみを携えたまま、新幹線は東京へと向かい、私は日常へ戻るのだった。

198 : ◆eBIiXi2191ZO [sage saga]:2020/09/25(金) 23:37:23.52 ID:17bnaLyc0

 翌日。私は社長室へ向かう。

「社長さん」

 Pさんの手紙を手に、私は社長さんに問うた。

「Pさんのこと、知ってらっしゃったんですか?」

 手紙を社長さんに押しつけ、私は尋ねる。社長さんはため息を吐き、私をソファーに座らせた。

「……知ってました」

 私の心はざわつかない。社長さんの言葉を、待つ。

「彼はとても強かったです。私は彼の強さを見込んで、プロデューサーにスカウトしました」
「……」
「でも彼が亡くなる直前、彼の父親と名乗る人物から、私に連絡がありました。高垣楓のスキャンダルをバラして欲しくなかったら、金をよこせ、と」

 私は、その事実に驚く。虫はPさんが亡くなる直前まで、彼からすべてをむしり取ろうとしていた。
 私は、思う。虫は本当に、Pさんの父親なのか。血が繋がってるというのに、そんな仕打ちをどうしてできるというのか。
 闇は、私の想像を超えて、深かった。

「私は、自称父親に対峙しました。金など、払えない。そもそもスキャンダルなど、ありませんから、と」

 社長さんの表情は、お姉さんと同じように深い後悔に包まれていた。

199 : ◆eBIiXi2191ZO [sage saga]:2020/09/25(金) 23:37:50.09 ID:17bnaLyc0

「P君が亡くなったのは、その翌日だったのです……彼はその自称父親に、追い詰められていたのだろうと、思います」

 どれほどのプレッシャーを、Pさんは感じていたのだろう。
 それをおくびにも出さず、彼は私のプロデュースを続けていた。
 私たちは、Pさんを知らなかった。そして彼は、自らの命を絶った。

 無知は、罪。
 あまりにも劇画のようで、現実離れしている話。しかし、現実の話。
 私も社長さんも、その罪を抱えて、これから過ごしていかなくてはいけない。
 それでもなお、私は願わずにいられなかった。

 せめて、打ち明けて欲しかった。
 どうして、いなくなったのですか。

―― ※ ――

200 : ◆eBIiXi2191ZO [sage saga]:2020/09/25(金) 23:38:30.31 ID:17bnaLyc0

 季節は、移ろいゆく。
 Pさんがいなくなって、二年と半年。私はテレビの中で、歌っている。

「ありがとうございました」

 カメラの先にいるであろう、たくさんのファンの皆さんに、お礼を。私は深くお辞儀をする。

「高垣さん、お疲れさまでしたー」
「お疲れさまでした。お先します」

 収録が終わる。局スタッフに声をかけられ、私たちは事務所へと引き上げるのだった。

「どうでした、か?」

 帰りの車で、私はプロデューサーに声をかける。

「ええ、よい出来でした」

 プロデューサーの答えに、私は安堵する。
 事務所ではちひろさんが待っていた。

「お帰りなさい」
「はい。ただいま戻りました」

201 : ◆eBIiXi2191ZO [sage saga]:2020/09/25(金) 23:38:59.90 ID:17bnaLyc0

 いつもの挨拶。でも今は、少しだけ違っている。

「ところで楓さん」
「はい?」
「今日は楓さんのところ、お邪魔してもいいですか?」
「はい。喜んで」

 もうちひろさんとは一緒に、共同生活をしていない。
 彼女は実家へ戻り、私はひとり暮らしを再開した。それは私の様子がここに来て安定してると、判断されたから。

「あ、でも今日は先約が」
「あら、じゃあ今日はやめますね」
「いえ、瑞樹さんと久々に店呑み、なんです。よかったらちひろさんもいかがですか? 私の歯止め役として」
「歯止め役、ですか。うふふ。じゃあ私もご一緒させてもらいますね」

 クリニックの先生からは、飲酒は極力控えるようにと言われているけれど、ほんの猪口っと、いえ、猪口じゃなくてグラス一杯くらいは、見逃して欲しい。
 今は彼女たちとの語らいが、とてもよく効く薬なのだと、思っている。
 だから私は、また次のステージに、向かうことができる。

「楓さん、じゃあミーティングを始めますか」

 プロデューサーが、我がチーム高垣を招集する。

「はい、今行きます」
「久々のライブですから、しっかりと安全に、いろいろ段取り決めていかないと」
「そうですね、よろしくお願いします」

 次のステージ。それは久々のライブ。あの事故以来の企画、もうああいうことを起こしてはならないと、みんな緊張している。
 私も、気をつけないと。

202 : ◆eBIiXi2191ZO [sage saga]:2020/09/25(金) 23:39:28.16 ID:17bnaLyc0

「そう言えば、楓ちゃん」

 夜。いつものイタリアンバルで、瑞樹さんとちひろさんと一緒にお酒をたしなんでいた。

「なんです?」
「先週、行ったんでしょ? P君のところ」
「はい、行きました」
「どう? 少しは落ち着いた?」
「おかげさまで」
「そう……ならよかった」

 私と瑞樹さんの会話を、ちひろさんはにこにこと眺めている。
 私が安定しているもうひとつの要因、それは間違いなくPさんだった。
 薬が効いてだいぶ安定しているとは言え、いつまた暴発するか、分からない。そう思ってしまうことが私を不安にさせる。
 でも。

 あそこに行けば、Pさんに会える。
 そう思うことで、私は心の安寧を得ている。
 それは現実を受け入れず、未だ夢を見ていると、そう言われても仕方のないことだ。
 けれどどうしても私は、Pさんを忘れることなど、できない。折り合いをつけること、それができるのは彼に会うこと。私の中にひとつルールができた。

 私たち三人はゆっくりと語らい、気が付けば夜もだいぶ遅くなってしまう。
 ちひろさんは私のマンションに寄るつもりだったけれど、今日は遅いしもうお開き、ということになった。

203 : ◆eBIiXi2191ZO [sage saga]:2020/09/25(金) 23:39:55.32 ID:17bnaLyc0

「ただいま」

 誰もいない部屋。この暗さにももう、慣れた。
 この前までちひろさんと一緒に料理したり、ゆっくりと話し合ったり。あるいは。
 泣きはらして、慰められたり。
 私はキッチンへ向かい、コップに水を注ぐ。ポーチから薬を取り出し飲もうとして。

「あ。今日はちょっと深酒しちゃったし」

 副作用が強くなってしまうといけない。そのままポーチへ、薬を戻した。
 さっとシャワー程度で済ませ、私は寝る準備をする。かち、かち、と。目覚ましの音。
 うまく、眠れない。
 やはり薬のお世話になるべきかと頭をよぎったけれど、それはダメなことと、もう一度目を瞑る。だが睡魔はやって来ない。
 私はむくりと起き電気をつけ、化粧台の引き出しから彼の手紙を、取り出した。

204 : ◆eBIiXi2191ZO [sage saga]:2020/09/25(金) 23:40:30.20 ID:17bnaLyc0

 何度も何度も読み返す、手紙。
 読み返せば、悲しみが襲ってくる。自傷行為と言われても仕方ない。だけど。
 こうして傷を負うことで、彼を忘れずにいられるのなら。
 私は意味のない自傷を、繰り返す。心は未だ、歪んだまま。
 安定なんて、それは気持ちの波の大きい小さいの違いでしかなく、多少ましなアンバランスに過ぎない。

 私は、気持ちにけりもつけられず。
 死を選ぶことも、できず。
 いつまでも現状をたゆたうだけの、存在。

 アイドルである私。
 最近は妖艶さが増したなどと言われるけれど、私にはその価値が分からない。
 でもアイドルであるうちは、私は自分の存在を確かめることが、できている。

 そして、アイドルではない、私。
 なにもないただの高垣楓に、どれほどの価値があるというのか。
 存在を認められる私と、存在を黙殺する私と、二律背反が心の中にあり続けている。
 きっかけがあれば簡単に壊れてしまう私を、今この場にとどめているのは確かに、Pさんの存在なのだ。

205 : ◆eBIiXi2191ZO [sage saga]:2020/09/25(金) 23:40:58.51 ID:17bnaLyc0

 Pさん。私は。
 アイドルでいられていますか?
 私で、いられていますか?

 私はいつだって、Pさんを呼び続けている。求め続けている。でも。
 あなたが、いない。
 その事実を突きつけられるたび私は、心の中で慟哭する。泣いて、泣いて。泣き疲れて。
 そして今日も、眠るのです。

 Pさん、あなたが好きです。
 あなたに、会いたい。
 言葉が、想いが、漂いながら空へ溶け、見えなくなる。
 私はベッドの中でうずくまり、朝が来るのをただひたすらに待つ。そしてまた私は、アイドルへと戻るのだろう。

206 : ◆eBIiXi2191ZO [sage saga]:2020/09/25(金) 23:41:25.02 ID:17bnaLyc0

 朝が来る。
 私は。


207 : ◆eBIiXi2191ZO [sage saga]:2020/09/25(金) 23:41:52.24 ID:17bnaLyc0

「あなたがいない」


(了)

208 : ◆eBIiXi2191ZO [sage saga]:2020/09/25(金) 23:45:13.76 ID:17bnaLyc0

完結です。おつかれさまでした。

このお話はもともと個人誌用に書き下ろした作品で、ほぼ冊子がはけたので記念に投下したものです。
ハッピーエンド至上主義の私が、ハッピーじゃない話を書いてみよう、ということで、自分の持てる限りを尽くして書かせていただきました。

お読みくださりありがとうございます。
読んでくださった方の琴線に触れたら、この上ない慶びです。

ではまたいつか ノシ
209 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2020/09/26(土) 02:17:30.11 ID:IEeppdbDO
……余計に問題が増えたのに先送りの打切りエンドなイメージ

例えるなら、沖縄決戦の映画で第32軍司令が自決する寸前で終わったみたいな……
210 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2020/09/26(土) 02:29:33.68 ID:jIuZaEQX0
乙でした

まあいやらしい言い方だけど、楓さんにとっては「Pが死んだのは自分のせいじゃなかった」
という結論を与えられたおかげで救われた感じがあるのかもね
この後、復讐をする事が生きがいな人間に変貌する可能性もあるけど
211 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2020/09/26(土) 09:24:43.30 ID:dcIST1SzO
おつ
212 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2020/09/26(土) 09:53:53.00 ID:P0uCsOuho
213 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2020/09/26(土) 13:23:28.57 ID:r63/Yeaa0
おつ
214 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2020/09/26(土) 23:06:01.52 ID:3dIyquIRo
215 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2020/09/28(月) 15:58:28.54 ID:NtXNaaqi0
二人セゾン?
171.18 KB Speed:0.1   VIP Service SS速報VIP 更新 専用ブラウザ 検索 全部 前100 次100 最新50 続きを読む
名前: E-mail(省略可)

256ビットSSL暗号化送信っぽいです 最大6000バイト 最大85行
画像アップロードに対応中!(http://fsmから始まるひらめアップローダからの画像URLがサムネイルで表示されるようになります)


スポンサードリンク


Check このエントリーをはてなブックマークに追加 Tweet

荒巻@中の人 ★ VIP(Powered By VIP Service) read.cgi ver 2013/10/12 prev 2011/01/08 (Base By http://www.toshinari.net/ @Thanks!)
respop.js ver 01.0.4.0 2010/02/10 (by fla@Thanks!)