高垣楓「あなたがいない」

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16 : ◆eBIiXi2191ZO [sage saga]:2020/09/13(日) 22:59:30.24 ID:kh3F9e+N0

 車内。私は流れる街灯りをぼんやりと眺めている。
 今日は本当に、いろいろとありすぎた。目まぐるしく変化する状況に、理解が追い付かない。
 今こうしている間も、これが現実と思えない私がいる。

 女子寮を出てマンションを借りてもらったのは正解だった。
 たぶん今、女子寮の中は混乱の渦真っただ中だろう。その環境でクールダウンすることは、とても難しいことに思える。
 タクシーがマンションに着く。私はじりじりとした頭痛を抱え、部屋へと戻った。

 がちゃり。玄関からリビングへ向かうと、冷蔵庫のうなりが私を出迎える。
 いつもの光景。
 しかし今の私には、その音すら煩わしく感じた。
 ソファーにバッグを放り、そのまま寝室へ。私はベッドへ倒れこむ。

 はあ。
 ため息をこぼす私。ベッドで横になると、体が異常にこわばっていたことに気付いた。
 そうか、ずっと気を張って、冷静を装っていたのか。
 ようやく冷えてきた頭で、私は思う。

17 : ◆eBIiXi2191ZO [sage saga]:2020/09/13(日) 23:00:14.02 ID:kh3F9e+N0

 あれは、現実だったのだろうか。
 部長さんの落胆する表情。社長さんの苦悩の色。そして、ちひろさんの涙。
 耳には、スタッフの指示の声。そして。
『自死』の言葉。

 忘れたくても忘れられない、その響き。
 ベッドに横になり、徐々に体が弛緩してようやく、その言葉の意味を理解するようになる。
 Pさんは自ら、消えることを選んだ。心を打ち明けることなく、ひとりで決め、そして実行した。
 その気持ちが理解できるとかできないとか、なぜ打ち明けてくれなかったとか。
 私は、そんな独りよがりなことを思ってしまうのだ。でも。

18 : ◆eBIiXi2191ZO [sage saga]:2020/09/13(日) 23:00:44.32 ID:kh3F9e+N0

 私は、彼ではないのだから。

19 : ◆eBIiXi2191ZO [sage saga]:2020/09/13(日) 23:01:24.85 ID:kh3F9e+N0

 その事実が、心に突き刺さる。
 だが彼は、デビュー前からずっと、私を担当してくれたプロデューサー。そして、この芸能界で最も深く長いお付き合いをしている、大切な人。
 私たちは二人三脚で、シンデレラロードを歩いたのだと思っている。
 そのことに気付いて、私は理解した。

 そう。彼は、ベターハーフなんだ。
 私は、私の半身を失ったんだ。
 ほろり。
 両の目に、温かいものがこみ上げてくる。私はタオルケットで、顔を押さえた。
 言葉が出てこない。いや、言葉にできない。私のベターハーフ。

 私はようやく、泣くことが、できた。

―― ※ ――

20 : ◆eBIiXi2191ZO [sage saga]:2020/09/13(日) 23:02:53.62 ID:kh3F9e+N0

※ 今日はここまで ※

副業の合間を縫って更新します。
毎日は無理そうなので、しばらくずっとお待ちください(←?

ではまた ノシ
21 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2020/09/14(月) 00:43:23.38 ID:AZmn02Jho
おつ
きたい
22 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2020/09/14(月) 11:54:14.94 ID:SzajDXTSo
23 : ◆eBIiXi2191ZO [sage saga]:2020/09/14(月) 21:03:53.23 ID:Od9IjqsH0
投下します

↓ ↓ ↓
24 : ◆eBIiXi2191ZO [sage saga]:2020/09/14(月) 21:04:49.23 ID:Od9IjqsH0

 朝が、きた。
 どうやら、そのまま眠ってしまったらしい。起き上がると鈍い頭痛がする。
 昨日のことを思い出したりするけれど、今日は今日でいつもの日常が待っている。仕事が待っている。
 くらくらする頭を、シャワーで洗い流す。いくらかさっぱりはするものの、気持ちはまったく晴れない。
 昨日の今日で気持ちが切り替えられるのならどんなに楽だろうと想像するけれど、簡単に切り替えられないから私なのだ、などと自分に言い訳をした。

 悲しいかな、どんなに嘆いたところでPさんが帰ってくるわけじゃない。
 それよりも彼が残してくれたスケジュールを、私はこなさねばならない。それが唯一彼に報いることなのだと、その時の私は思っていた。
 玄関を出る。
 私ははっとした。そうだ、もうPさんの送迎は、ないのだ。
 アイドルとして名前も売れシンデレラガールの称号を得た私が、電車で通うなど問題が大いにありすぎる、と。
 担当が責任をもって送迎する、それが事務所のやり方。
 Pさんが私を迎えに来る、それが今までの私の日常だったのだ。

 そして今、日常は打ち破られている。
 足がすくむ。どうしようという気持ちがぐるぐると、私を締め付けた。
 でも、Pさんの残してくれた仕事があるからと、そう自分に言い聞かせながら私はタクシーを捕まえた。

25 : ◆eBIiXi2191ZO [sage saga]:2020/09/14(月) 21:05:56.49 ID:Od9IjqsH0

 昨日より遅くに、事務所へ着いた。ドアを開けるとそこにはスタッフの右往左往と、アイドルたちの沈んだ顔。
 事務所の中は昨日よりもずっと重く、ずっと深かった。少しは想定していたとはいえ、この雰囲気に飲まれそうになり、一歩が踏み出せない。

「楓ちゃん」

 ふと声をかけられ視線を向けると、瑞樹さんが手を振って待っていた。

「瑞樹さん……今日は」

 私が声をかけようとすると、彼女は手で言葉を制しかぶりを振った。

「楓ちゃん……大変だったわね」
「いえ……私よりもむしろ、ちひろさんや社長さんのほうが」
「それはそうでしょうけど……楓ちゃん、P君と一番古い付き合いじゃない。だから心配になって」

 瑞樹さんは一番に、私のことを気にかけていた。

26 : ◆eBIiXi2191ZO [sage saga]:2020/09/14(月) 21:06:56.49 ID:Od9IjqsH0

 確かに私とPさんは古い付き合いで、彼にスカウトされ、彼のプロデュースでデビューし、彼のおかげでシンデレラガールにまで登り詰めた。
 その間に彼は何人かのアイドルを同時にプロデュースしていたこともあったけれど、今は私だけとなっていた。
 なぜか。

 それは、私が事務所の看板アイドルだからということが大きかった。
 稼ぎ頭のプロデュースを専属のプロデューサーが行う、異例と言っても過言ではなかった。
 私は確かに、特別扱いされていたのだ。

 瑞樹さんは、私の次に彼がプロデュースを手掛けたアイドルで、彼女とはユニットを組んだこともある。
 この業界の酸いも甘いも互いに知った、戦友と言ってもいい存在。
 今でこそ彼女は、セルフプロデュースで安定した仕事をこなしているけれど、それは前職がアナウンサーという経験がなせるものだと、私は知っている。
 Pさんの次に付き合いの長い彼女だから、こうして心配をしてくれるのだろう。本当にありがたい。

27 : ◆eBIiXi2191ZO [sage saga]:2020/09/14(月) 21:07:39.84 ID:Od9IjqsH0

「まあ、大丈夫とはとても言えないですけど……でも、Pさんが残してくれた仕事がありますから」

 私がそう答えると、瑞樹さんは「待って」と言い、私と目を合わせる。

「ダメ。ダメよ。そんな物分かりのいい楓ちゃん、P君が望んでる楓ちゃんかしら?」

 瑞樹さんは言う。彼女の言いたい意味は分かる気もする。
 しかし今は、それではいけない。私は視線を外し、瑞樹さんに言った。

「ごめんなさい……今はこうしていないと、自分自身どうかなってしまいそうですから……」

 私は瑞樹さんに、ひどい言い訳をした。彼女はため息をひとつ、こぼす。

「そうね。昨日の今日だし、気を張ってしまうのは仕方ないわ。でも」

 瑞樹さんは再び視線を向ける。

「張りすぎた弦は、いつか切れるわ」

 瑞樹さんは私の肩をぽんと叩くと、スタッフに声をかける。

「それじゃあ、現場へ行ってきます。みんな、頑張りすぎないでね」

 言葉を残し彼女は、事務所をあとにした。

28 : ◆eBIiXi2191ZO [sage saga]:2020/09/14(月) 21:08:23.61 ID:Od9IjqsH0

 残された私はまず、Pさんのデスクに向かった。
 彼がいないのは事実。でも彼のデスクで当日のスケジュールを確認することが、私のルーティーン。
 だからいつものように、そう、いつものように。
 デスクの上の閉じられたノートパソコンを、私は撫でた。
 ゆっくりと開け、電源を入れる。しばらくして、慣れ親しんだ画面が浮き出てきた。
 彼から教えてもらったパスワードを入力する。目の前に浮かび上がる、見慣れたデスクトップ。私はマウスを動かし、社内SNSを立ち上げた。

29 : ◆eBIiXi2191ZO [sage saga]:2020/09/14(月) 21:09:02.79 ID:Od9IjqsH0

「私にパスワードを教えて、いいんですか?」
「もちろんです。見られて困るものは全然ありませんし、一緒にスケジュール確認するなら、このほうがいいでしょう?」
「私、Pさんに内緒で、エッチなホームページの履歴を探しちゃうかもしれませんよ?」
「いやいや楓さん。これ、ちゃんとウェブフィルターがかかってますから、最初から見られませんよ」
「あら。じゃあ一度は見ようとしたんですね?」
「……ばれました?」
「ふふふっ」
「あははは」

 そんな冗談を交わしたことを、不意に思い出す。少し心が、痛くなった。
 スケジュールを目で追っていると、ちひろさんがそばにやってきた。

30 : ◆eBIiXi2191ZO [sage saga]:2020/09/14(月) 21:09:54.19 ID:Od9IjqsH0

「楓さん……昨日は本当に、ありがとうございました」
「いえ、ただ一緒に帰っただけですから。少し、落ち着きましたか?」
「ええ……まあ」

 ちひろさんは沈んだ表情を浮かべる。当たり前だ。たった一日で落ち着けるはずもない。お互いの慣用句が、むなしく響く。

「スケジュールの確認、ですか?」

 ちひろさんが私に尋ねる。

「ええ、まあ。いつものことなので」
「そうですね……あ、そうだ」

 そういうとちひろさんは、Pさんの袖机を開け、大判手帳を取り出した。

「これ、楓さんが持って行ってください」

 彼女は取り出した手帳を、私に渡す。

31 : ◆eBIiXi2191ZO [sage saga]:2020/09/14(月) 21:10:33.88 ID:Od9IjqsH0

「え? ちひろさん、勝手にPさんの手帳出して、いいんですか?」
「はい。Pさんには以前から『ここに手書きのスケジュールとか入れておきますから、いつでも見てください』って言われてましたから。
ほんと、Pさんはオープンな人ですよね」

 そう言ってちひろさんは、無理に笑顔を作った。

「ありがとうございます。じゃあ遠慮なく」
「あ、あと。これを」

 ちひろさんはそう言うと、私にメモを渡す。そこには、日付と時間、そして。

「……これ」
「はい。先ほど事務所に連絡がありました。Pさんの告別式の、場所です」

 そこには、日付と時間と、告別式の斎場が、書かれていた。

32 : ◆eBIiXi2191ZO [sage saga]:2020/09/14(月) 21:11:22.25 ID:Od9IjqsH0

 慌ただしい日々は続く。それでも。
 私はどうにか、告別式で焼香できる時間をひねり出すことに成功した。
 当日は収録の仕事が入っていたけれど、中抜けをして斎場に向かうことができるよう、事務所のスタッフが手配してくれていた。
 みんなギリギリの心理状態であろうに、本当にいくら感謝しても足りないくらい。

 テレビ局から中抜けし、車で移動する。そんな中ふと、漫画で読んだのだったか、火葬場で煙を見上げるというシーンを思い出す。
 しかし実際は近所の迷惑になるからと、煙は見えなくするよう工夫をしているのだそうだ。
 それを私に教えたのは、Pさんだった。
 なぜそんなことを知っているのだろうと不思議に思ったことを、私は覚えている。

 今、私は思う。
 煙が見えたなら、どれほど心がざわつくのだろうか。
 それを確かめる術は、ない。

33 : ◆eBIiXi2191ZO [sage saga]:2020/09/14(月) 21:12:28.09 ID:Od9IjqsH0

 そして到着した告別式、僧侶の読経が響く。中に入ると、驚くほど人がいなかった。
 小さな祭壇に、社長さんやちひろさんなど事務所スタッフ数名、それからおそらく、彼のお姉さん。
 両手で十分数えられる人数。私は茫然とした。
 お姉さんと思しき人は、私の顔を見てわずかに会釈した。

 そうだ、あまり時間がない。
 わずかな中抜けしかできない以上、少ない時間の中で彼を惜しむしかない。
 祭壇に誘導され、遺影を見る。その姿はいつ頃の写真なのだろうか。
 社会人というにはまだ少しあどけない表情で、おそらく大学生の頃なのだと想像できた。
 私の知らない頃の、Pさん。
 そして、無垢の棺の中に眠っているだろう、私の知っているPさん。

 彼の顔を見ることが、怖い。
 そんな気持ちがよぎる。

 私は一歩、また一歩と、焼香台へ向かう。僧侶へ一礼し、遺影に向かう。
 焼香をつまむと、ひとつ、またひとつとくべていく。
 煙の奥で笑う、Pさんの表情。私はそれをしっかりと目に焼き付け、手を合わせた。
 願わくは、彼岸への旅路が安寧でありますように。そして、いつか私がそちらへ旅立つことがあれば。
 彼に、会えますように。

 そして、私はすぐにお暇をする。お姉さんに会釈をひとつ、社長さんとちひろさんにも会釈を。
 ちひろさんは落ち込んだ表情を浮かべたまま、私に頷き返した。
 結局彼の顔を伺うことは、しなかった。
 いや、できなかった。

34 : ◆eBIiXi2191ZO [sage saga]:2020/09/14(月) 21:13:13.56 ID:Od9IjqsH0

 収録へ戻る車の中。私は、臨時でマネジメントをしてくれているスタッフに話しかけた。

「本当に」
「……なんです? 楓さん」
「……あっけないものですね」

 私は、どういう意味でそんなことを言ったのだろう。それきり、会話は途切れた。

 今頃、Pさんはどうなっているのだろう。
 もう火葬場へと向かったのだろうか。
 煙が見えたなら、なんて思ったけれど、それをこうして想像するだけで、ちりちりと痛みを感じる。

 無言のまま、車はテレビ局へ滑っていく。
 窓から伺える街の喧騒が、私を日常へ戻るよう強いているようで、心がざわついた。
 目を伏せ、アイドルへ戻る作業へと、私は没頭する。
 まぶたの裏では、先ほどの遺影が、私に笑いかけていた。

―― ※ ――

35 : ◆eBIiXi2191ZO [sage saga]:2020/09/14(月) 21:14:18.80 ID:Od9IjqsH0

 手帳を、開く。
 Pさんが残してくれた、私のスケジュール。それは半年先まで埋まっていた。
 もちろん、これから詳細を調整する必要があるものばかりだけれど、私たちアイドルのスケジュールをこれだけ埋めておけるというのは、やはりPさんの力量が並外れていることの証左と思う。
 カレンダーの後ろ、メモのところにはびっしりといろいろなアイディアや備忘録、彼の考え方や私のことなどで埋め尽くされていた。
 彼のすべてとは言わないけれど、手帳には想いが詰まっていた。

 シンデレラガールを射止めたあとも、トップアイドルとして私があり続けられるようにと、いつもいつも考えてくれていた。
 書かれている文字ひとつひとつを惜しむように、私はなぞっていく。
 本当に、私は大事にされている。私は……Pさんに報いたい。
 そう、決心した。

36 : ◆eBIiXi2191ZO [sage saga]:2020/09/14(月) 21:15:26.03 ID:Od9IjqsH0

 社長さんから、Pさんの後任の打診を受ける。Pさんの先輩で、プロデューサーとしての実力も確かな人だった。

「高垣さんには酷な話だと思っています。だが我々も万全の体制で、引き続き頑張っていきたいと考えています」
「……」
「よろしく、お願いしたい」

 Pさんを失ったとは言え、仕事は続いていくわけで。各所への配慮を考えれば、たぶんベストなのだろう。
 しかし、私は逡巡する。
 Pさんには、やりたかったことがまだまだあった。できるなら、それを実現したい。それが私にできること。私の心は囚われていた。

「ありがとうございます」

 私は社長さんに一礼する。しかし。

「でも、今はお受けできません……ごめんなさい」

 私は言った。

37 : ◆eBIiXi2191ZO [sage saga]:2020/09/14(月) 21:16:08.17 ID:Od9IjqsH0

「……それは、P君のことが忘れられない、ということなのですかね?」

 社長さんが問う。

「そういう気持ちがないと言ったら嘘になります……でも、それ以上に」

 私は、まっすぐに告げる。

「私自身を信じて、しばらくセルフプロデュースでいきたい、と。そう、考えています」
「セルフ、ですか……ふむ」

 社長さんはなにやら考えている。

「川島さんの例もありますけど……やはり今後のことを考えると、分かりましたとは、さすがに」
「そうだろうと、私も思います。でも」

 そう言って私は、バッグからPさんの手帳を取り出す。

「それは?」
「これは……Pさんの、スケジュール帳です」
「……そう、ですか」

 テーブルの上に置かれた、黒いシンプルな手帳。社長さんはそれを手に取り、ぺらぺらとめくり始めた。

「私はちひろさんからこれを預かりました。そして中を見て、Pさんの思い描く先を想像しました」
「……なるほど」
「私は、この想いに報いたい。そう、考えています。そしてそれは」

 私は一息つくと、社長さんの目を見る。

「私自身がトップアイドルであり続けること、そこに繋がるものだと、確信しています」

38 : ◆eBIiXi2191ZO [sage saga]:2020/09/14(月) 21:17:13.10 ID:Od9IjqsH0

 わがままだということは十分分かっている。だがどうしてもこれだけは、譲れない。
 社長さんは手帳をテーブルに置くと、両手を組んで私に言った。

「高垣さんの想いは分かりました。ただ、それでもセルフでというのは、承諾できません」
「……」
「チームを組みましょう。そのリーダーは、高垣さん、あなたで」
「……えっ」
「私たちが高垣さんをバックアップします。彼の想いを実現できるよう、頑張りましょう」

 私は、なにを言われたのか一瞬、分からなかった。今も少し、混乱している。

「マネジメントと営業のスタッフの人選は任せてもらいます。それと、先ほどのプロデューサーは、アドバイザーとして参加させます」
「……」
「では、詳細は後日、詰めていきましょう」
「……あ、はい」

 なにかがあっけなく決まっていく。拍子抜けするほどに。でも、これで。
 Pさんに、報いることができる。
 私は、彼ではない。だから彼のようにできるとは思わない。
 それでも、彼の意志を継ぐということが私にとって、なにより重要なことなのだ。
 こうして私は、困難な道を進むことを決めた。それがどういう結果をもたらすか、分からないのだけれど。
 それでも、私は幸せだった。

39 : ◆eBIiXi2191ZO [sage saga]:2020/09/14(月) 21:18:25.87 ID:Od9IjqsH0

 翌日。オフであった私に一本の電話が届く。チームの構成について打ち合わせをしたい、ということだった。
 私は早速事務所へ顔を出した。

「おはようございます」
「あ、楓さん。お待ちしてました」

 ちひろさんが出迎える。
 彼女の表情は明るさを取り戻しつつある、とは言い難い。
 時間が人を癒やしてくれるとは言うけれど、そうすぐに解決できるほど人の心は単純じゃない。
 たぶんそれは、私にも言えることだ。

 会議室には社長さんと、チームのメンバーとなるであろう人たちが集まっていた。
 先輩プロデューサー、ベテランマネージャー、そして営業兼事務のメンバーがふたり。
 中心に座る社長さんが言う。

「うちの事務所で考えうる、ベストメンバーを用意しました。まあ、高垣さん専属とはさすがにいきませんけど」

 それは致し方ない、というか、それが当然だと思う。
 集まってくれた面々はすでに担当アイドルが複数いるわけだし、引き抜くわけにいかない。兼務というのは至極妥当な話だ。

40 : ◆eBIiXi2191ZO [sage saga]:2020/09/14(月) 21:19:06.98 ID:Od9IjqsH0

「いえ、ありがとうございます。正直、ここまでしていただけると、私のプレッシャーが」
「いやいや、私たちのほうがプレッシャーですって。ほんと、お手柔らかに」

 私の言を受けて、プロデューサーが言う。少し、場の雰囲気が和らいだ。
 メンバーの顔触れをもう一度確認し、私はバッグからPさんの手帳を取り出す。そして、それをプロデューサーに渡した。

「これが、Pさんの全部、です。よろしくお願いします」
「分かりました、お預かりします。あとこれはスキャンしてお返ししますね」
「え?」
「だって、彼のすべて、でしょう?」

 そうか、プロデューサーは私に、最大の配慮をしてくれたのだ。これが私にとってどれほど大切なものなのかを、彼は知っているのだ。
 Pさんの先輩であるからこそ、そうしてくれた。
 心が、詰まる。
 ありがたいと思う気持ちはあるけれどそれ以上に、もう彼はいないという、現実を突きつけられた気がした。

「よろしく、お願いします……皆さん、頑張りましょう」

 チームのみんなが頷く。私は言葉を絞り出すのが、精いっぱいだった。

41 : ◆eBIiXi2191ZO [sage saga]:2020/09/14(月) 21:20:15.89 ID:Od9IjqsH0

 翌週から仕事の合間を縫って、ミーティングが開かれる。
 私がリーダーになったとは言え、企画からスケジュール管理まで行うのはチームの他のメンバー。
 私はアイディア出しとパフォーマンス、それを求められている。実際、仕事のスケジュールは半年先まではある程度埋まっている。そこは問題ない。

「やはり、ライブでしょうか……」

 私は切り出す。
 チームを作っているからこそ、先々にある道標(ランドマーク)を表さねばならない。それもはっきりと目立つように。

「そうなるでしょうね」

 私の切り出しに、プロデューサーは頷く。

「楓さんはどういうコンセプトでやってみたいと思ってます?」

 プロデューサーは言葉を続けた。

42 : ◆eBIiXi2191ZO [sage saga]:2020/09/14(月) 21:21:11.65 ID:Od9IjqsH0

「そうですねえ……ホールはあまり大きくなくていいんです、と言うか、あまり大きくないほうがいいんですが。
私の肉声が聞こえるくらいの近さで、アコースティックなライブがやってみたいです」
「ああ、なるほど。アコースティックですか」

 コンセプトはある程度、分かってもらえそうな雰囲気。

「ただ、やはり楓さんクラスのアイドルがライブを行うのなら、五百から千人のハコでは、小さいと思います」

 マネージャーはそう意見する。これにはプロデューサーも同意した。

「営業的には二千人くらいまでのハコでPAは使用。演奏はアコースティックオンリーでいくのはどうでしょう?」

 プロデューサーは落としどころを探る。そのコンセプトなら、Pさんが思い描いていたライブに近いもののような気がした。

「そうですね……それなら、いいかと」

 私は答える。

「分かりました。基本はそれで。ライブの時期は一年後くらいでしょうかね。ハコを押さえる関係がありますし」
「はい。それでいきましょう」

43 : ◆eBIiXi2191ZO [sage saga]:2020/09/14(月) 21:21:58.43 ID:Od9IjqsH0

 プロデューサーのざっくりしたスケジュールに、私はゴーサインを出す。
 チームの道標は決まった。あとは詳細を詰めていく作業へ移る。
 チームが、事務所が、人々が、慌ただしく動いていく。私の新しいスケジュールは徐々に、密に埋まっていく。
 それが私にはありがたかった。

 なぜならPさんのことを思い出さずに、済むから。

 私が私であるために今は、仕事にまい進する。
 それが今私に求められていることだと、勝手に思っていた。
 仕事にレッスンに、私は時間を割いていく。Pさんを想いつらくなることは少なくなり、それは見事に成功しているようだった。
 仕事に私を捧げ、半年が過ぎた。

―― ※ ――

44 : ◆eBIiXi2191ZO [sage saga]:2020/09/14(月) 21:22:56.95 ID:Od9IjqsH0

※ 今日はここまで ※

徐々に、お話は進んでいきます。

ではまた ノシ
45 : ◆eBIiXi2191ZO [sage saga]:2020/09/14(月) 21:33:58.33 ID:Od9IjqsH0
余談

芦名星さん逝去の報道に、心乱してます
46 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2020/09/14(月) 21:49:51.77 ID:sRegz+Goo
単純に好奇心で聞きたいんですが、紙で出したものの再録をここでする理由ってなんですか?
逆(掲示板SS→紙の同人誌)なら修正をしたいとかあるのかな、と思いますが

それと、音葉SSの続きはもう書かないんですか?

47 : ◆eBIiXi2191ZO [sage saga]:2020/09/14(月) 22:03:12.58 ID:Od9IjqsH0
>>46
再販はしないよってことと、単純に自分の作品を公開したいってことですかね。
公開なら渋もあるけど、やっぱり速報の投下スタイルが私は好きです。

音葉SSを覚えていただいてるとは……書きたいのはやまやまですが、今現在は精神的余裕がないので……
がんばりますとしか……
48 : ◆eBIiXi2191ZO [sage saga]:2020/09/18(金) 22:36:28.28 ID:QGubcxXe0
投下します

↓ ↓ ↓
49 : ◆eBIiXi2191ZO [sage saga]:2020/09/18(金) 22:37:02.91 ID:QGubcxXe0

「おはようございます」

 私はいつものように、事務所へと顔を出す。

「おはようございます、楓さん」

 ちひろさんは笑顔で応えてくれた。
 こうして日常に至るまで、半年と言う時間がかかってしまった。
 それほどPさんを失った影は大きく、どれほど折り合いをつけることが難しかったことか。
 私は、折り合いがついたのかしら?

「今日はレッスンですね」
「ええ」

 いつもの会話、しかし今日は少しだけ違っていた。
50 : ◆eBIiXi2191ZO [sage saga]:2020/09/18(金) 22:37:32.62 ID:QGubcxXe0

「ところで楓さん……ちゃんと食べてます?」
「え?」

 ちひろさんの何気ない一言。私はちょっぴり驚いた。

「ええ、もちろん。アイドルは体が資本、ですからね」
「ですよねー。あ、気を付けて行ってらっしゃい」

 ちひろさんは私を送り出してくれた。そう。
 私は、嘘を吐いている。

51 : ◆eBIiXi2191ZO [sage saga]:2020/09/18(金) 22:38:02.97 ID:QGubcxXe0

 決して食べていないわけじゃない。あまり食欲が湧かないのだ。
 もちろん体が資本だと分かっている。だから私は、きちんと食べるように努力していた。
 それでも、体重は以前よりかなり落ちていた。食べているのに、増えない。
 私にも分からなかった。

 仕事が忙しいからなどと言ったところで、減る限度というものがある。
 ふらついていてはみんなが心配する。私なりに頑張っている、はずだ。
 でも確かに、なにを食べてもあまり味を感じない。

 以前なら美味しいお酒と美味しい食事で私の心は満たされていたし、それを得るためにこの仕事をやっているのだとさえ、思っていた。
 ところが、どうだろう。今の私はなにを食べても、感動しない。食事をすることがまるで修行のようだ。
 もともとやせ型だったこともあって、体重が減っていること自体あまり気付かれていないように感じる。
 それでも察知されることを嫌って、このところ体型が隠れるラフな服装を好んで選んでいた。
 こんなごまかしでいつまでも騙せるはずがない。私は不安で仕方なかった。

52 : ◆eBIiXi2191ZO [sage saga]:2020/09/18(金) 22:38:40.12 ID:QGubcxXe0

 レッスンでもそうだ。ハードレッスンを受ければ当然、体を酷使する。
 ついていけなければトレーナーさんから指摘されるし、心配もされる。
 だから私はどんなにつらくても、それを顔に出さないよう努力した。

「どうした、高垣! 遅れてるぞ!」
「はい! すいません! 大丈夫です!」
「大丈夫なわけないだろう! ……もういい、今日はここまでにする」

 ベテラントレーナーさんから、レッスンの終了を告げられる。

「……はい。すいませんでした」
「……高垣。少し休んだほうがいいんじゃないか?」
「いえ、仕事は待ってくれませんし。まあ、ちょっとハイペースだったかもですから、多少スローペースでぼちぼちやります」
「あまり感心しないな……きちんと休むことも、アイドルの仕事だぞ。きちんとクールダウンしろ。あと」

 ベテラントレーナーさんは言った。

「しばらく、私のレッスンは受けなくていい」
「え?」
「こんな状態では、身に付くものも身に付かないからな。もう少し体調を整えてから、もう一度来い」
「……はい」

53 : ◆eBIiXi2191ZO [sage saga]:2020/09/18(金) 22:39:09.89 ID:QGubcxXe0

 もう、ごまかしも限界にきていることを、感じずにはいられない。
 疲れ切った体を引きずり、私はマンションへ帰る。送迎はベテランマネージャーが、その役を担ってくれている。

「高垣さん、大丈夫ですか?」
「ええ、なんとか。今日のレッスンはずいぶんとハードでしたから……ゆっくり、休みますね」
「ぜひそうしてください。無茶だけは、しないでくださいよ」
「もちろん。承りました、ふふっ」

 そんなたわ言を述べ繕いつつ、車はマンションへと近づいていた。

54 : ◆eBIiXi2191ZO [sage saga]:2020/09/18(金) 22:39:37.30 ID:QGubcxXe0

「……ただいま」

 誰もいない部屋。
 私は独り言が多くなった。
 バッグをソファーへと放り、キッチンのガスコンロに火をつける。お酒のつまみに、鍋に入った作り置きの煮物を温めるのだ。
 そして冷蔵庫から私は日本酒を取り出した。

「今日は……これかな」

 山形の『惣邑』。Pさんが好きで、たまにお相伴に与っていたお酒。
 四合瓶からガラスの冷酒器へ移し、お猪口と一緒にリビングのテーブルへと置いた。そして私は、キッチンへ戻って鍋の様子を眺める。
 ちりちりと泡立ちはじめる音を聞きながら、揺らぐ碧い炎をぼんやり見つめていた。

55 : ◆eBIiXi2191ZO [sage saga]:2020/09/18(金) 22:40:24.84 ID:QGubcxXe0

 どうしてしまったのだろう、私は。
 Pさんが亡くなった衝撃で、食欲が落ちているのだろうか。
 そういう分かりやすい理由なら、もっと打ちのめされた気持ちになってしかるべきものなのに、私はそこまで悲しくなれない。
 ちひろさんの悲嘆に暮れた顔を思うたびに、私は薄情なのかしらと訝ることもしばしばだった。
 決してそんなつもりはない。あの時私は確かに、泣き疲れて眠ってしまうくらい泣けたのだ。
 そして、Pさんがベターハーフであったと、気付いたはずだ。

 ところがどうだろう。
 あれから半年が過ぎ、私は仕事にかまけてPさんを忘れようとしているのではないか。そんな馬鹿なことを考えることが、たまにある。
 忘れられるはずもないと思う気持ちと、実はそれほど痛みに思っていないのではという疑念。
 矛盾を抱えていても私は、なにかアプローチしようとせずただ立ち竦んでいるだけじゃないのかしら。
 アイドルとしての自分を一番に考えるべきところで、私は思考を浪費しているような感覚に囚われていた。
 ことことと鍋から小気味いい音が聞こえてくる。火を止め、小鉢に煮物を取り分けた。

56 : ◆eBIiXi2191ZO [sage saga]:2020/09/18(金) 22:41:11.87 ID:QGubcxXe0

「それじゃあ、いただきます」

 冷酒器からお猪口へ、お酒を注ぐ。澄んだ命の水をありがたく、頂戴する。

「?」

 違和感を抱く。
 このお酒の持つ豊かなうまみが、口の中に感じられない。一昨日開栓したばかりなのに、そんなわけはない。
 煮物に箸をつける。飴色をした大根を一口、ほおばる。
 おかしい。妙な甘ったるさを強く感じる。
 もう一口、お酒を含む。先ほどとは違う、妙な痺れを感じた。

 私、変だ。

57 : ◆eBIiXi2191ZO [sage saga]:2020/09/18(金) 22:41:45.02 ID:QGubcxXe0

 味覚が安定しない。自分の舌は、どうなってしまったのか。
 不安な気持ちが膨らんでいく。
 私は慌ててキッチンへ戻り、コップに水を汲む。やわらぎ水で口をリセットし、お酒を呑み始めた。

 先ほどよりはましになった気がする。
 私は安堵した。やはり疲れなのだろうか、ベテラントレーナーさんもマネージャーさんも、私に休むよう進言してくれる。
 そうね、お酒をゆっくりいただいて、ゆっくり休んで、明日の英気を養いましょう。
 水を挟みつつ、私は結局四合瓶ひとつ空けることとなった。
 あまり酔った気がしない。もう少しなにか呑もうか。
 ロック用に置いてあるラムが、冷凍庫に鎮座している。私はこれを取り出して、ショットグラスに注いだ。
 ぐいっ。氷も入れない刺激物が、私ののどを焼く。
 うん、今日はこれでお開きにしよう。明日の仕事のことを考えつつ、私はテーブルを片づけ始めた。

 ベッドに潜る。眠くない。
 まああれだけお酒を入れたし、そのうち眠くなるだろうと思いながらも、私の頭はさっぱり茹だっていなかった。そう言えば。
 最近私は、いつ『酒あわせ……』と言っていただろうか。
 ふと、そんなことを、思った。

58 : ◆eBIiXi2191ZO [sage saga]:2020/09/18(金) 22:42:27.42 ID:QGubcxXe0

 翌々日。チームのミーティングでプロデューサーから言われる。

「楓さん」
「はい」
「ペースを、落とします」
「……え? どうして?」

 突然のペースダウン発言に、私は驚いた。

「いや、楓さん。どうしてもないでしょう? ……ベテラントレーナーさんから聞きましたよ」

 ああ、そういうことか。
 ひょっとしたらとは思ったけれど、もはやごまかしが許されない状況なのだと、観念するしかなかった。

「楓さんだからということで我々もバックアップに努めていましたけれど……ありていに言えば、楓さん、頑張りすぎ」

 プロデューサーのきつい一言に、チームのみんなが頷く。

「どうも空き時間を見つけては自主練していたそうじゃないですか。そういうところは美徳だと思いたいですけど、さすがに心技体そろってはじめて、そう言えるんじゃないかと」
「……そう、ですね。ごめんなさい」
「いえ、謝って欲しいわけじゃないです。もちろん、我々の当面の目標はライブに設定してますけど、それはまだ先の話です。今から根詰めてどうするんです?」
「……」
「心配なんですよ、我々だけじゃなく、スタッフみんなが」
「……そうですね」

 私はそう答えるしかなかい。

59 : ◆eBIiXi2191ZO [sage saga]:2020/09/18(金) 22:43:12.95 ID:QGubcxXe0

「心配かけてすいません……ありがとう」
「いえ、チームですから」

 プロデューサーが笑う。私の心は晴れなかった。
 チームなのだから……そう言って私の心配をしてくれる。他のスタッフだって、トレーナーさんだって、ちひろさんだって、私が大丈夫なのかと心配する。
 当然だろう、私はこの事務所のアイドルであって、ひとつの商品なのだから。

 ……え?
 私は、なにを思ったの?

 あさましい自分の思考を封印する。そう、私はやり遂げなければならないのだから。
 それが、私のとれる道なのだから。
 営業さんのアプローチしている仕事の内容を吟味し、私のスケジュールは徐々に軽くなっていく。
 目を離すと無理をしそうだと、レッスンの時にはマネージャーが必ず付いた。
 そこまで私は無理していないのだけれどと思いながらも、彼らの心配を和らげるのも私のやることなのだろうな、と自分で歯止めをかける。

60 : ◆eBIiXi2191ZO [sage saga]:2020/09/18(金) 22:43:51.89 ID:QGubcxXe0

 ペースダウンを余儀なくされたものの、負荷を軽くしたことが思いもよらず好循環を生む。
 私の歌に鋭さが加わったと、評判が上がったのだ。果たしてそれは、本当に負荷を軽くしたおかげなのだろうか?
 私には実感がなかった。
 私は今までどおり歌ってきたし、なにも変えたところなどない。鋭さと言われても、それがなにを指しているのかさえ、見当もつかない。

「最近の楓さん、ずいぶん評判がいいですね」
「そうですか?」
「ええ。歌の力がさらに上がったと、収録スタッフからも驚きの声です。ほんと、私も鼻が高いですよ」

 マンションへの帰り道、マネージャーがそんなことを言う。

「それは嬉しいですけど、あんまり実感がなくて」
「いやそれは、楓さんのレベルがさらに上がった、ってことじゃないでしょうか」

 マネージャーはそう言うけれど、私にはどうしてもそう思えない。
 まだまだ、私はもっと高みを目指さなくてはならない。私はまだやり続けなくてはならない。
 私は。

「楓さん?」
「……はい?」
「どう、しました?」

 マネージャーが、私を呼んだ。

「いえ、なんでも」
「いや、なにか深刻に考え事をしてたように見えたので」
「うーん、今日はなにを呑もうかしら、って」
「まあ命の水も、ほどほどに」
「ですね、ふふふっ」

 お酒、か。そう言えばあれから、あまり美味しいって思いながらお酒をいただいていないなあ。
 最近はなにを食べても、なにを呑んでも、あまり味を感じない。生きている実感がない。
 車は、まもなくマンションへ着こうとしていた。

61 : ◆eBIiXi2191ZO [sage saga]:2020/09/18(金) 22:44:32.04 ID:QGubcxXe0

 朝。
 いつもの気だるさではなく、妙な重苦しさをもって起き上がる。
 今日はレコーディングに向けてのレッスンだっけ。目覚めを呼び起こすため、シャワーを浴びる。シャワーの粒がピリピリと肌に痛い。

 昨日の車の中で、私はなにを考えていたのだろう。
 周りの評判と、私の実感。それが乖離していくほどに、私の心は軋みをあげる。
 私はまだ、なにも成し遂げていないし、なにもファンにあげられていない。私は、もっと頑張らなければならないのに。
 ずきり。
 頭が痛む。片頭痛のような痛み。

 待って。私は今日、レッスンがあるの。行かなきゃ。
 私がそう思うほど、痛みが私を苛む。息が上がる。
 その場にへたり込み、私は深呼吸しようと試みる。うまく息ができない。
 意識がなにかに持っていかれるような感覚。
 これは、なに?
 濡れたままの体を引きずり、私はどうにかリビングまでやってくる。バッグからスマホを取り出し、事務所へ電話をした。

『おはようございます。CGプロでございます』
「……ち、ちひろ、さん」
『はい……楓、さん?』
「……ごめん、なさい……だれ、か」
『……楓さん! 楓さん!』

 私は、意識を手放した。

―― ※ ――

62 : ◆eBIiXi2191ZO [sage saga]:2020/09/18(金) 22:45:20.64 ID:QGubcxXe0

※ 今日はここまで ※

ではまた ノシ
63 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2020/09/19(土) 02:19:40.76 ID:gSlMKMxqo
おつ
64 : ◆eBIiXi2191ZO [sage saga]:2020/09/19(土) 15:23:50.82 ID:+7YhSCXJ0

投下します

↓ ↓ ↓
65 : ◆eBIiXi2191ZO [sage saga]:2020/09/19(土) 15:25:12.33 ID:+7YhSCXJ0

 気が付くと、私はベッドに寝かされていた。見たことのない天井、のわけがなく、ここは私の寝室だった。

「気が付きました?」

 声のほうを向けば、ちひろさんがそこにいた。

「あ」
「ほんと、びっくりしましたよ?」
「そうそう。ほんとよかった」

 ちひろさんとは違う声がする。少し顔を上げると、清良ちゃんが一緒にいた。

「ああ、清良ちゃんまで……ごめんなさい」
「いいんですよ。あ、無理に起きちゃダメね」

 清良さんは私を寝かしつける。

「ちひろさんから急に電話をもらって、大変! どうしたのかしらって思ったけど。でも、頭も打ってなかったみたいだし、顔色も悪くなかったから、とりあえず寝かせて様子を見ましょう、って」
「……清良ちゃん」
「過呼吸を起こしたんじゃないかしら。なにか心配事でも?」
「……」

 答えられない。心配事と言われても、私には思い当たる節がない。
 清良ちゃんはなにかを察したのか、柔らかい笑顔を向け、こう言った。

「でも、どこか悪くしているかもしれないから、今日中に病院に行ってくださいね? あと」
「あと?」
「トップアイドル高垣楓が緊急入院、なんてことになったらそれこそスキャンダルですよ?」
「……ああ」

66 : ◆eBIiXi2191ZO [sage saga]:2020/09/19(土) 15:25:39.94 ID:+7YhSCXJ0

 少し朦朧とした頭で、清良ちゃんの言葉を反芻する。
 そうだ、ここで例えばちひろさんが救急車を呼んだとする。そうすれば私は、どこかの総合病院に担ぎ込まれることになる。マンション界隈は大騒ぎになるだろう。
 そして、それをマスコミがかぎつければ。
 トップ記事の、できあがり。

「ほんとに……ありがとう、清良ちゃん」
「いいえ、ちひろさんの機転にお礼、言ってくださいね」
「ええ。ちひろさん、ありがとう」
「いえ、ほんとよかったです。あと、病院は私がいいところを知ってますから。今日はそこに行きますからね」
「え、でも。今日は」
「ここに来る前、レッスンはキャンセルしておきましたから。観念して私と、病院に行きましょうねー」

 どうやら有無を言わさず、私は病院送りにされるらしい。彼女たちの配慮に、私はほっとする。
 ちひろさんの言葉を聞いて、私は少し眠くなってきたらしい。

「もう少し、休んでもいいですか?」
「はい、午後になったら行きましょうね」

 誰かがいる安心。私は久しぶりに眠った、気がした。

67 : ◆eBIiXi2191ZO [sage saga]:2020/09/19(土) 15:26:25.35 ID:+7YhSCXJ0

 午後。
 ちひろさんは私の看病に付いてくれていた。
 あまり食欲はないけれどこれではいけない、と彼女とブランチをともにする。誰かとこうしてプライベートに食事をするなんて、いつぶりだろう。
 いやいつぶりというほど久々というわけじゃない。仕事のお付き合いとか、仲間のアイドルたちに誘われたりとか、一緒に食事に行くことはよくあった。
 でも、その印象を私は覚えていない。
 冷たい女なのかな、などとつまらない考えが過ぎる。

「ほら、楓さん」
「え?」
「考え事、ダメですよ?」

 ちひろさんに指摘される。せっかく事務所の仕事を放ってまで来てくれているのだ、彼女との食事に集中しよう。
 そうは言っても食べられる量は多くなく、ちひろさんは一瞬困ったような顔をした。しかし彼女はすぐに笑顔を取り戻し、私に。

「さあ、それじゃあ病院に行きましょうか」

 と告げた。

 タクシーでちひろさんと移動する。案内された先は、ビルの中にある一室だった。

「ここ、は」
「私も通っているんです。さ、行きましょう?」

 入口にある看板に書いてあったもの、それは。

『メンタルクリニック』

 の文字だった。

68 : ◆eBIiXi2191ZO [sage saga]:2020/09/19(土) 15:27:18.40 ID:+7YhSCXJ0

「高垣楓さん、ですね?」
「はい」

 私は今、先生の前で診察を受けている。

69 : ◆eBIiXi2191ZO [sage saga]:2020/09/19(土) 15:28:05.53 ID:+7YhSCXJ0

 受付を済ませ、しばらく看護師さんから質問を受けた。
 曰く。最近眠れてますかとか、食事は摂れてますかとか、お仕事は忙しくないですかとか。
 心配事はありますか、とか。
 心配事? そう言われても、心当たりがない。
 それは朝に清良ちゃんから言われて、私が思ったものだ。メンタルクリニックだからと言ってそんなことを訊かなくてもいいのに、などと、私は少しかちんとくる。
 だが、朝と違うのは、ちひろさんが同席しているということと、ここは病院だということ。
 なぜか尋問されているような気がして、私は息苦しく思った。

 ちひろさんと看護師さんが話をする間、私は待合室に座っていた。
 私以外に人はいなく、待合室もとても落ち着いていて心地いい。少々解放された気楽さなのか、周りの様子が気になる。
 テーブルの前には、休診日などが書いてある紙。それを見てふと気が付く。

「今日は……休診日?」

70 : ◆eBIiXi2191ZO [sage saga]:2020/09/19(土) 15:28:45.47 ID:+7YhSCXJ0

 そう、今月と来月の休診日が書いてある紙には、今日が休診日と記載されていた。なのに、私は診察を受けに来た。それがどうにも心に引っかかる。
 後でちひろさんに訊いてみよう。
 手近にある雑誌をめくりつつ、ちひろさんを待つ。
 紙コップと温かいほうじ茶も用意されていた。もちろん、セルフだけど。
 そうして紛らせているうちに、ちひろさんが戻ってきた。

「お待たせしちゃいましたね、楓さん」
「いえ、いいんです……ちひろさん、私に教えて欲しいんですけど」
「はい、なんでしょう?」
「今日ここ、お休みですよね? なんで開いてるんです?」
「……気が付いちゃいましたか」

 ちひろさんは観念したような表情を見せる。そして、私に言った。

「今日ここにお連れしたのは、楓さん。楓さんが私のようだったからですよ?」
「ちひろさんの、よう?」
「ええ。Pさんを亡くした頃の、私のようだったので」

 そしてちひろさんは、種明かしを始める。

71 : ◆eBIiXi2191ZO [sage saga]:2020/09/19(土) 15:29:27.46 ID:+7YhSCXJ0

 Pさんを失った直後からしばらくのちひろさんは、それはもうひどく悲しみに暮れていた。
 事務所では気丈に振る舞っていたけれど、誰が見ても痛々しくて、とても見ていられなかった。
 その後、一週間ばかりお休みをいただいたことがある。
 私たちはひどく心配したけれど、それからの彼女は徐々に、本当に徐々にでしかなかったけれど、いつものちひろさんに戻りつつあるようだった。

「その時に、ここを紹介されたんです。社長から」
「社長さんから?」
「はい。ここ、芸能人がよく来られるとこなんだそうですよ」

72 : ◆eBIiXi2191ZO [sage saga]:2020/09/19(土) 15:30:03.99 ID:+7YhSCXJ0

 謎は解けた。つまりこういうことだ。
 休診日というところに、芸能人がお忍びで診察に来る。
 実のところ休診日と謳っているところが、診察日だったのだ。
 今のご時世メンタルクリニックに診察に来ることなど、そう珍しいことではないし、そうやって心の安寧を図ることはあってしかるべきことだろう。

 しかし芸能人ならどうか。
 芸能人がメンタルクリニックに通っている。それがマスコミに知れたら、言い方は悪いけれど格好の餌だ。
 なにが彼ら、彼女らに起きたのか。それを根掘り葉掘り、掘り起こしにかかるかもしれない。
 いくらやましいことがなくても、報道する彼らにはあまり関係がない。その時のタイムリーな話題を、すぐにお茶の間へ。

 芸能人だって人だ。心を病むことだってあるだろうに、それすらも許されないのか。
 需要のあるところに供給がある。ここはそのひとつなのだという。世間のプライバシーに配慮された、お忍びのクリニック。

「楓さんには申し訳なかったんですけど、私の独断で連れてきちゃいました」

 ちひろさんは苦笑気味に言った。

73 : ◆eBIiXi2191ZO [sage saga]:2020/09/19(土) 15:30:59.04 ID:+7YhSCXJ0

「……いろいろ、大変でしたね。今、おつらくないですか?」

 場面は診察室に戻る。私の前にいる先生は、人の好さそうなおじいちゃん先生だった。

「いえ、特には」
「そうですか。高垣さんとご一緒に来られた方にも、お話は伺っています。ですが、高垣さんからいろいろお聞かせ願えれば、私は嬉しいです」

 おじいちゃん先生は優しく説くように、私に話しかける。そう言われても、私はなにを話していいのか分からない。

「そうですねえ。それじゃあ、女性に尋ねるのは申し訳ないですけれど……去年と比べて、体重はどのくらい落ちましたか?」
「体重、ですか?」
「はい。体重、です」

 体重と訊かれると、さすがに正直に答えないわけにいかない。先ほど看護師さんから質問を受ける前に、身長や体重を量ったのだ。

「ええと……だいたい六キロ、です」
「六キロですか」
「はい」

 六キロ、つまり今の私の体重は四十三キロ。この身長で四十キロ台前半は、あまりよろしくない。

74 : ◆eBIiXi2191ZO [sage saga]:2020/09/19(土) 15:31:42.97 ID:+7YhSCXJ0

「なるほど、あまりご飯は食べられてない、ですね」
「いえ、決して食べてないわけじゃ」
「なるほど食べてるんですね。でも、身にならない、と」
「……はい」

 先生に図星を突かれる。私自身きちんと食べているはずで、それなのに体重が減っていく。
 ただでさえやせ気味な私がこれ以上やせてしまうのは、ビジュアル的に致命傷だと思っている。

「高垣さんのように食べてもやせてしまう方とか、いらっしゃいますから。頑張っておられるのですね」
「いえ……そんなことは」

 頑張っていると言ったところで、結果やせてきているのでは意味がない。

「大丈夫ですよ。高垣さんは、大丈夫です」

 先生が穏やかに言う。私にはその言葉が不思議に思えた。なにを根拠に大丈夫と言えるのだろう。ところが。

「高垣さんは、私が大丈夫と言ったとしても、あまり実感は湧かないでしょう」

 先生はまるで、私の心を見抜いたようだった。

75 : ◆eBIiXi2191ZO [sage saga]:2020/09/19(土) 15:32:58.76 ID:+7YhSCXJ0

「……どうし、て」
「ああ、別に超能力でもなんでもないですよ。こういう仕事をやっていますから、高垣さんのような患者さんを何人も、診ているわけです」

 その言葉で、私は頑なだった何かが解ける気がした。
 そうだ、目の前にいる人は、その道のプロだ。だから、私が頑なになっている『意味がない』

「……分かりました」

 そういうことなのだ。私は自分に納得して、Pさんとの別れを話し始める。
 先生は時々頷きながら、私の話を聞いてくれている。私はところどころつっかえながら、話を進めていく。
 彼が亡くなった後のこと、チームを組んだ頃のこと、ここ最近のこと。
 どのくらい話したろうか。時計を見ると、先生の問診が始まってもう四十分が過ぎようとしていた。

「少し、疲れましたか? 良ければお茶、どうぞ」

 先生は、紙コップに入れられたお茶を勧めてくれた。

「なにか、話がとっ散らかってしまって申し訳ありません。時間もかかっちゃって」
「いえ、高垣さんのお話、伺いました……芸能人の方は本当に、頑張られる方ばかりですね」
「そう、なんですか?」

 だいぶ冷めたお茶でのどを潤し、私は先生に尋ねた。

76 : ◆eBIiXi2191ZO [sage saga]:2020/09/19(土) 15:33:54.95 ID:+7YhSCXJ0

「そうですねえ、私のところに来られる方しか存じ上げませんけど、皆さん努力家と思います」
「そうなんです、ね……私はまだまだ」
「いえ。高垣さんも、頑張られている方、そのものですよ」
「え?」
「私は、そう感じました」

 先生は私を、頑張っていると言ってくれる。私にはさっぱり実感はないけれど、初対面の先生がそうおっしゃるのなら、そうなのかもしれない。
 先ほどとは私の感じ方が変わってきていることに、私は気付いていない。

「ところで、高垣さんはだいぶお仕事がお忙しそうですね。先ほどのお話を聞いてそう感じます」
「そうでしょうか……でも私には必要なことだと思っているので」
「お仕事をされている最中に、眠くなったり、いつも以上にだるく感じたりすることはありませんか?」
「眠く? だるく、ですか?」
「はい」

 ここ一週間ほどの仕事を思い浮かべる。ああ、そう言えば。

「眠くなるというほどではなかったですけれど、確かに気だるさを感じ続けていた時は、あります」
「そうですか」

 先生は、私との受け答えをカルテに書いていく。

77 : ◆eBIiXi2191ZO [sage saga]:2020/09/19(土) 15:34:44.80 ID:+7YhSCXJ0

「睡眠はいかがですか? 眠れてますか?」
「そうですね……あまり、眠れてないかもですね」
「なるほど……食欲は先ほど伺いましたし……それじゃ、お仕事」

 先生は一言タイミングをずらすかのように呼吸を入れ、私に尋ねる。

「楽しい、って感じてますか?」
「……」
「芸能人の方を診させていただくようになって、皆さん本当にお仕事を楽しまれているんだなあ、と。とても思うようになりました」
「……はあ」
「ですから、高垣さんはどうなのかと思いまして。もちろん人それぞれですから、生きるため、糧を得るためとおっしゃる方もおられますし、義務的にされてる方もおられるようです。
ただ、ここに来られる方、皆さん口にすることがですね」
「……」
「楽しかったはずの仕事が、楽しめてない、と。おっしゃるんです」

 先生の一言が、ひどく私を惑わせる。私は、楽しんでいただろうか?
 ううん、アイドルになってPさんと過ごした日々、慣れないお仕事もとても楽しかった、はずだ。
 うん?
 いえ、楽しかった?

 はっきりと、思い出せない。
 今、楽しめている? 仕事、お酒、日常……

78 : ◆eBIiXi2191ZO [sage saga]:2020/09/19(土) 15:35:31.72 ID:+7YhSCXJ0

「……あの、先生」
「はい」
「最近、楽しく感じていないんです……いえ、仕事のことではなくて、お酒のことで」
「ほう、高垣さんはお酒をたしなまれるんですか。うらやましいですね、私はさっぱり呑めないので」
「まあ、周りのお友達と比べて、ちょっとだけ、お酒が呑める程度ですけど」
「ほうほう。それでもうらやましいです」

 私の口が、私が思いついたままのことを、ストレートに出していた。

「私、お酒をたしなむことが好きで、そうですね……お酒のためにお仕事をさせてもらってると言っても、大げさじゃないな、なんて思ってたんです」

 先生はにこりと微笑み、私に続きを催促した。

「それが、このところ。お酒をいただいても美味しく感じなくて、いえ、味すら感じないこともあって……なにより」
「なにより?」
「お酒をいただくたびに、ああ、幸せだなあって。そう思っていたはずなのに」

 私は、思い出してしまった。

「お酒が、楽しめないんです……楽しめないん、です」

79 : ◆eBIiXi2191ZO [sage saga]:2020/09/19(土) 15:36:05.81 ID:+7YhSCXJ0

 私のなにかが、切れた音がした。ぽたり、ぽたり、と。
 涙が、こぼれはじめた。

「これって……なんなのでしょう? 先生……これ、なんですか? 私」

 我慢しようとしても勝手にあふれてくる涙。心配をかけてしまうのに、なんてことを。

「私は、どうなっちゃったんですか?」

 くしゃくしゃの顔を上げ、私は先生に問うのだった。
 先生は相変わらず柔らかい笑みを湛え、私に答える。

「高垣さんは、どうもなっていませんよ。ちょっとバランスを崩したんです」

―― ※ ――

80 : ◆eBIiXi2191ZO [sage saga]:2020/09/19(土) 15:36:34.33 ID:+7YhSCXJ0

※ 今日はここまで ※

ではまた ノシ
81 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2020/09/19(土) 17:23:52.23 ID:dJkO+Hwwo
82 : ◆eBIiXi2191ZO [sage saga]:2020/09/20(日) 22:03:55.44 ID:LTP9DQ6S0

投下します

↓ ↓ ↓
83 : ◆eBIiXi2191ZO [sage saga]:2020/09/20(日) 22:04:40.66 ID:LTP9DQ6S0

 私とちひろさんは、私のマンションには戻らず、事務所へと戻った。
 ちひろさんは家でゆっくりと言ってくれたけれど、私がお願いした。
 ちひろさんと会議室でふたり、クリニックでの出来事を振り返っていた。

「高垣さん。高垣さんは心のバランスを崩して、結果食べられなくなったり、疲れやすくなったり、楽しめなくなったり。
今高垣さんが感じているもやもやな状態、それは『うつ状態』と言っていいと思います」

 先生は言った。私は『うつ状態』なのだ、と。心のバランスが崩れて、そのまま体のバランスも崩れてしまったのだ、と。

「一週間ほどお薬を出します。心のバランスを整えるのは、気の持ちようとか自分で解決できるとか、そういう方もいらっしゃいますけど、私は薬の助けを得ることは悪くないと思ってます。
今は気持ちがすっかり弱っているというか、自分でもどうしたらいいか分からない状態かと考えますから、まず心を落ち着かせるところから始めてみましょう」

 そうして診断書と、クリニックで薬まで処方され、こうして事務所に戻ってきたのだ。そしてまず、社長さんに報告をした。

84 : ◆eBIiXi2191ZO [sage saga]:2020/09/20(日) 22:05:19.07 ID:LTP9DQ6S0

「そうですか。分かりました」

 社長さんはそう言うと、私たちをソファーへと案内する。

「まあぶっちゃけこの業界、いろいろなことがありますから。それこそ有象無象というか。心を病むアイドル達も少なからずいるのです。
今はこうして、メンタルクリニックとか心療内科とか、心のケアを専門に診てくれるお医者様が増えました」

 社長さんは視線を外して、呟く。

「昔は精神科、しかありませんでしたから。やはり敷居が高いというか、というより、精神科で診てもらうというのはもうアイドルとしては致命的だとすら、言われるような時もありましたから」
「そうなんです、か」

 ちひろさんは、そう相槌を打った。

「ええまあ、『うつ』というものにあまり理解がなかった、というのが大きくて、ね。怠け者の烙印を押されてしまうのですよ」
「……」
「なので、当人とごく一部のスタッフでなんとかしなければ、と、ほんの数人が悶々と抱えるしかなかったんです。しかも解決は、まあ、ね」
「……」
「所詮、メンタルケアについては、素人の集まりでしかなかったわけですから」

 おそらく、社長さんの経験なのかもしれない。発する言葉には、たいそうな重みを感じる。

「それで私に、あのクリニックを紹介してくださったんですか?」

 ちひろさんは社長さんに尋ねる。

「このご時世、メンタルの問題はうちの事務所だけのことじゃないですからね。横の繋がりもあるわけです」

85 : ◆eBIiXi2191ZO [sage saga]:2020/09/20(日) 22:05:45.78 ID:LTP9DQ6S0

 今日伺った先生のところは、芸能人がよく行くところだと聞いた。
 何らかのきっかけがあって芸能人かあるいはその関係者が診てもらい、その評判が広がって、今のような状態に落ち着いたのだろう。
 もちろん先生も商売だろうから、芸能人を受け入れるというのは、特別な配慮をしてもなお『美味しい』と感じる、そういうものがひょっとしたらあるのかもしれない。
 いずれにせよ、悪い先生のようには感じられなかった。

「あと高垣さんのチームメンバーには、私から話をしておきます。ご本人から打ち明けるには、さすがに勇気がいる、どころの話じゃないですからね」

 社長さんは笑った。
 まさにそのとおりで、私はどうチームに話したらいいか、そのことで頭がいっぱいだった。だから社長さんの申し出は、本当にありがたいと思う。

「すいません。よろしくお願いします」

 私は社長さんのご厚意に甘えることとした。

86 : ◆eBIiXi2191ZO [sage saga]:2020/09/20(日) 22:06:14.17 ID:LTP9DQ6S0

「これが、気持ちを前向きにする薬。これが朝晩の二回。それと、寝付きをよくする薬で、これは寝る前に一錠、ですね」

 私は会議室で、ちひろさんと薬の確認をしていた。
 出された薬は、ミルナシプラン、というものと、エチゾラム、というものだった。
 ミルナシプラン。薬の説明紙には『気分を落ち着かせ、前向きにするお薬です』と書いてある。
 先生が少し説明してくれたけれど、飲めばすぐに効く、という薬ではないのだそうだ。
 まず飲んで体調が悪くならないか確認して、大丈夫なようなら続けていこう、と。そういう方針で出されたものだった。

 エチゾラム。いわゆる睡眠薬なのか、と思ったのだけれど、これは『不安を取り除くお薬です』と書いてあった。
 抗不安薬、と言うらしい。

「私は、ドキドキ落ち着かなくなる場合とか、緊張して不安で仕方ない時に飲んでくださいって、出されましたけれど」
「そうなんです、ね?」

 ちひろさんの説明に、私は相槌を打つしかない。
 実際よく分かっていないので、ふうん、という思いでしかないのだ。

「ただ、飲むと確かに急に眠くなるんで、ああ、睡眠薬だって思いましたよ?」

 そういうちひろさんが妙におかしくて、私はくすりと笑ってしまった。

87 : ◆eBIiXi2191ZO [sage saga]:2020/09/20(日) 22:06:41.19 ID:LTP9DQ6S0

 あれ?
 今、私、笑った?

88 : ◆eBIiXi2191ZO [sage saga]:2020/09/20(日) 22:07:07.27 ID:LTP9DQ6S0

 おかしくて、笑う。ただ、それだけのことなのに。
 当たり前のことなのに。
 私にはひどく懐かしく、思えたのだ。
 なぜ今ここにきて、私は笑えたのだろう。その理由が私にはさっぱり分からない。
 その心地悪さが、私を不安にさせる。
 本当ならこうして私が笑えるようになったことは、喜ばしいことのように思える。でも。

 ああ、自分が分からない。

「楓さん? 大丈夫ですか?」

 ちひろさんが心配そうに私の顔を覗いていた。

「あ、ああ。ちょっと考え事していたもので」
「とりあえず、いただいた薬はきちんと守って、飲んでくださいね。あとお酒は、しばらく禁止ですよ?」
「ええ? 禁止ですか? ……どうにか『さけ』られませんか、なんて」
「ダジャレでごまかしてもダメです」
「ですよね……」

 心地悪さをダジャレでごまかす。ちひろさんに話をしている自分が、なぜか他人のように思えて仕方なかった。

89 : ◆eBIiXi2191ZO [sage saga]:2020/09/20(日) 22:07:42.19 ID:LTP9DQ6S0

 マンションに戻る。夕食は途中のパスタハウスで軽く済ませた。
 コップに水を汲む。手には、処方されたミルナシプラン。薄褐色の粒を口に含み、水で一気に流し込んだ。
 これで、私はよくなるのだろうか。

 そもそも心の病と言っても、体の病と違って、目に見えて良くなる気がしない。
 そう思えば、社長さんが口にしていた昔の反応は、今でもあまり変わらないのではないか。つまり、うつは怠け病だ、と。
 私は決して、自分が勤勉だなんて思わない。
 むしろ働きすぎず、ほどほど働きよく遊べを体現していたほうだと、思っている。
 もっとも自分が、どう遊んでいたかをうまく思い出せないのだけれど。
 それも、薬で心のバランスが元通りになることで、思い出していくのかしら。とても気の長い話で、私はそれだけで挫折しそうな錯覚に囚われた。

 いけない、思考がネガティブになっていく。今日はもう寝てしまったほうがいいかもしれない。
 自分なりにやれることはやろうと、バスタブにお湯を張ることにした。
 緊張している感じがするなら、それを緩めよう。リラックス、リラックス。

 少しぬるくした湯船に長く浸かり、汗を流す。湯船から上がり身支度を調え、手に睡眠薬を取った。
 白くて小さな一粒。これですっぱり意識が飛ぶというのだから、なかなか恐ろしい薬だと感じる。
 ぱくっ。
 口に含むと薬はラムネのように溶け始めた。
 ……甘い。

 ああ、本当にこれはラムネのようだ。
 なるほど、これなら睡眠強盗に使えそうね、なんて不謹慎なことを思った。
 スマホでSNSをチェックすること三十分、急にぐらり、と視線が歪んだ。
 これか、こういう感覚なんだ。急激な眠気が襲ってくる。体には力が入らず、普通にしていたら倒れてしまうかもしれない、感覚。
 なるほど、覚えた。
 脱力した体を横たえ、私はベッドにもぐりこんだ。準備は万端だったし、大丈夫だろう。電気を消して。
 おやすみ、なさい。

90 : ◆eBIiXi2191ZO [sage saga]:2020/09/20(日) 22:08:32.05 ID:LTP9DQ6S0

 目が覚める。正しく、朝になっていた。
 本当に睡眠薬の効果は絶大で、私は朝まできちんと眠れたようだ。カーテン越しの朝日を感じつつ、私はベッドから起き上がる。
 ……よいしょ。
 体がものすごくだるい。
 力が入らないというほどではないけれど、全身筋肉痛みたいなカチコチ感を覚えた。
 もっとも昨日、クリニックでいろいろあったこともあるし、本当に筋肉痛なのかもしれない。だるさを解消しようとシャワーを浴びることにした。
 ストレッチを念入りに行い、シリアルと野菜ジュースで軽い朝食を摂る頃には、体のだるさが抜けてきていた。
 この感じ……私はとても驚いた。
 なるほど、薬でバランスを整えるというのは、アリかもしれない。そう思わせるものだった。これなら。
 事務所に電話を入れる。ちひろさんは相変わらず早くから出社していた。

『おはようございます、CGプロでございます』
「あ、ちひろさんおはようございます。楓です」
『ああ、楓さん。おはようございます。お加減、どうですか?』
「ええ……睡眠薬、とてもよく効くんですね。びっくりしました」
『あはは。そうですねー。私も最初飲んだ時はばたっと倒れるくらい効いたので、びっくりしますよね』
「おかげさまで、昨日はきちんと眠れました。本当にちひろさんにはお世話になってばかりで、ごめんなさい」
『いえいえ、いいんですよ。楓さんがよくなるように、これからもサポートしますね』
「ところで、今日。レッスンを受けたいと思うんですけど」
『……あー』

 ちひろさんは少し言いにくそうな反応を返した。

91 : ◆eBIiXi2191ZO [sage saga]:2020/09/20(日) 22:09:04.27 ID:LTP9DQ6S0

『実はですね……楓さんのレッスンは、今週いっぱい禁止になってまして』
「えっ」
『……あはは』

 私のレッスンが、禁止? それ、どういうこと?

「あの、どういうことでしょう」
『ごめんなさい、社長から御触れが出てます。楓さんは次の診察日まで完全お休み、です』
「……」

 なんと、この事態は社長さんによるものですか。え、完全にお休み、ってことは。

「あの……私のお仕事は」
『はい。後ろへ延ばせるものは順延、中止できるものは中止、あとどうしようもないものについては代役をお願いしています』
「……はあ」

 私はため息を吐くしかなかった。
 私のスケジュールを空にするために、かなり無理を強いたのだろう。そのことが容易に想像できた。

「私は、なんてことを」
『楓さん、気に病まないでくださいね。これは私たちの意向なんですから』
「でも」
『今の楓さんがベストパフォーマンスを発揮できるかというと、それは難しいだろう、と。それが社長はじめチームの判断です』

 悔しかった。今までの努力が否定されたみたいで、私の心は荒れ狂いそうになる。でも。
 そこまで追い詰められていたこともまた、私の責任。
 結局、自分の行いが自分に返ってきた、そういうことなのだ。

『本当にごめんなさい。でも、楓さんが元気を取り戻せるようにすることが、一番ファンのためになる、私たちのためになる、そういうことなんです』
「……」
『今は自分本位で、心を穏やかに、過ごして欲しい……私もそう思います』

 ちひろさんにそう言われて、でも、と言うことは難しかった。仕方なく、私は現状を受け入れる。

「分かりました。ゆっくり休むことにします」
『はい、そうしてください……あと、時々お邪魔しますから、こっそり自主練習とかはナシ、ですよ?』
「……はい」

 ちひろさんに見抜かれている。私は白旗を上げるしかない。
 こうして、思いがけずすっぽりと、スケジュールが空いてしまった。
 私は、どう過ごせばいいのだろう?

―― ※ ――

92 : ◆eBIiXi2191ZO [sage saga]:2020/09/20(日) 22:09:44.88 ID:LTP9DQ6S0

「高垣さん、具合はいかがですか?」
「……先週とあまり変わってない、ですね」

 一週間が経ち、私はクリニックに来ている。先生がこの前と同じく、にこやかに尋ねてきた。

 事務所から一週間のレッスン禁止を言い渡され、かつ、仕事もペンディングやリスケをされて、私は正直途方に暮れた。
 心穏やかに、とちひろさんに言われても、どうやったら心穏やかに過ごせるのか、私にはアイディアがなかった。
 とりあえず部屋の掃除でもしようか、と始めてみたものの、あっという間に息が上がってしまい続かない。
 ああ、これではレッスンなんてもってのほか、ね。私は認めざるを得なかった。
 本を読むにしても、音楽を聴くにしても、集中力が続かない。もっとはっきり言えば、すぐ飽きてしまう。これは私にも誤算だった。
 ここまで集中が持続しないとは思ってもみなかった。そして、頭の中に疑問が湧く。

「いつもなら私、どうやって過ごしてたかしら」

 いつもなら、この言葉の持つ意味が、急に重々しく感じられる。
 どうしていたのだろう、本当に思い出せないのだ。
 そして私は、考えることを放棄して眠ることにする。
 だが惰眠をむさぼれるほど、体は疲れていない。結局眠ることもできずに、ただ悶々とするだけ。
 この一週間できたことと言えば、ご飯を食べることと、薬をきちんと飲んだこと。
 これができただけでも、私を褒めて欲しい。そう思うくらい、一週間が長く感じられた。

93 : ◆eBIiXi2191ZO [sage saga]:2020/09/20(日) 22:10:23.93 ID:LTP9DQ6S0

「なるほど。夜は、眠れていますか」
「あ、はい。いただいた薬がよく効くので、寝付きがよくなりました」
「ああ、それはよかったです。まずは寝ることから始められて、いいと思いますよ」
「……ありがとうございます」

 寝ることを褒められるという、なんとも締まらない体験をする。それだけ私は今、普通と違う状態なのだろう。

「食事はどうですか? 食べられてますか?」
「ええと。あまり食べている、という感じではないですけど……食べるようにしています」
「そうですか。でも食べるようにしているなら、いいんじゃないでしょうか」
「……ところで、先生」
「なんでしょう?」
「実は、私」

 私は、この一週間の行動を告白する。
 せっかく事務所から時間をいただいたというのに、無為に過ごしてしまった気がする。結局自分のためにできることは、なにもなかった、と。
 しかし先生は、こう言った。

「いえ、それでいいんです。今はただ休む、それが必要だと思いますよ」
「え?」
「だらだらと考えもせず、休んだのでしょう?」
「え、ええ……」
「ならそれでいいんです。心が休みを欲しているんじゃないでしょうか」
「そう、ですか」

 私の行動が肯定されて、私は返答に困った。
 はた目から見れば明らかに怠けていて、決して褒められるようなことはないように思えるから。

94 : ◆eBIiXi2191ZO [sage saga]:2020/09/20(日) 22:10:51.56 ID:LTP9DQ6S0

「お出ししている薬で、気持ちが前向きになるものがあるじゃないですか」
「はい」
「それが効いてくると自然に、ちょっとなにかやってみようかな、と、やってみたくなる気持ちが出てきますから。それを待ってからでも遅くないと思います」
「そうなん、ですね」
「ええ」

 やってみたくなる気持ち、か。それを今の私が想像するのは、とても難しいことに思えた。
 なにかやることが決まっていて、それをやらなければならないとしたらできるような気がする。
 だが、やりたい、始めたい、と私からすすんでというのは。
 気の長い話に、めまいがする思いだった。

「もっと早く、そうなれればいいんですが」

 私は答える。そうでないと、事務所にもっと迷惑をかけることになる。

「もっと薬を増やせば、そうなりますか?」

 私は先生に尋ねた。

「いえ、そうはなりません」

 先生ははっきりと言う。

「薬はあくまでサポートです。どうしても心のことは、時間がかかるものです。まあ、特効薬があればね。もっと楽になれる人たちがいっぱいいるとは思いますけど」

 先生は残念そうに呟く。

「そう簡単には、いかないですね」
「……やはり、そうなんですね。残念です」

95 : ◆eBIiXi2191ZO [sage saga]:2020/09/20(日) 22:11:17.52 ID:LTP9DQ6S0

 私は心から、残念に思う。
 時間薬と、よく言われたりする。失恋とか。
 しかしそれは、なにかを忘れるための時間なのであって、本当に薬なのだろうか。
 時間をかけることで、私はPさんを忘れてしまうのだろうか。
 それはとても許せない、気がする。
 どうあっても私は、Pさんを忘れたくない。いろいろな想いがぐちゃぐちゃに混ざり合ったまま、私は今を生きている。

「吐き気とかもないようですし、今の薬を続けてみましょう」
「あの……先生」
「なんでしょう?」
「どのくらい続ければ、結果が出るんでしょう」

 私は藁をも掴む気持ちを、打ち明ける。しかし先生は。

「さすがにひと月では、難しいでしょうねえ」

 そう、くぎを刺すのだった。

96 : ◆eBIiXi2191ZO [sage saga]:2020/09/20(日) 22:11:49.02 ID:LTP9DQ6S0

 私は、薬を飲む。
 二週間。特に変わった様子はない。いや、少しだけ変わってきたことがある。
 相変わらず睡眠薬で昏倒するように眠るのだけれど、寝付きはよくなったが早くに目が覚めることが増えた。
 二時間くらいでぱっちりと。そこからもう一度眠ろうとするのは、とても苦痛だった。
 実際眠れることはなく、悶々とした時間を過ごすだけ。
 もらった睡眠薬を追加で使おうと思ったけれど、今度は薬がなくなった後のことを考えて不安になり、追加することが憚られた。

「こういうことがありまして……」

 次の診察で、私は先生に訴えてみた。

「なるほど、そうですか……そうだなあ、じゃあ熟眠できるように、少し薬を変えてみましょうか」
「よろしいんですか?」
「高垣さんはちゃんと用法どおり飲んでいますから、大丈夫ですよ」

 そうして、睡眠薬が『エチゾラム』から『ニトラゼパム』というものに変わった。
 すると、寝付きは少し悪くなったものの、途中で目が覚めるということがなくなった。
 起きた時の体のだるさには参ったけれど、それでも途中で目が覚める倦怠感よりはましな気がした。
 そして、大きく変わったこと、それは。

「そろそろ、仕事を再開しますか?」

97 : ◆eBIiXi2191ZO [sage saga]:2020/09/20(日) 22:12:19.35 ID:LTP9DQ6S0

 プロデューサーからようやく、ゴーサインが出た。
 ちひろさんがたびたび私の様子を確認に来て、今の状態ならとチームに上げてくれたらしい。
 心から、安堵した。

「ぜひ! お願いします!」

 仕事ができる喜び。私は本当に嬉しかった。
 だが、私の喜びは最初からつまずいてしまう。ボイストレーニングは問題なかったものの、ダンスレッスンに問題が発生した。

「高垣。あまり無理するな」
「いえ、もう一度……お願いします」

 なんとなく、あくまで感覚的なものでしかないのだけれど、ひとつひとつの所作が一呼吸ずれる気がする。
 はた目に見ればまったく問題なさそうなステップも、ベテラントレーナーさんの目はごまかせない。
 もちろん、私自身も。
 これでいい、これで十分。どうしても自分を妥協させる気にならなかった。

「今日はここまで……高垣、もう少し時間をかけて戻すしかなかろう、な」
「……はい……ありがとう、ございました」

 心のもやもやを解決できぬまま、仕事を徐々に戻していく。
 そうしたつまずきはあるけれど、仕事をしている間の私は確かに、私らしく感じられる。

98 : ◆eBIiXi2191ZO [sage saga]:2020/09/20(日) 22:12:45.95 ID:LTP9DQ6S0

「高垣さんは最近、まとまったお休みを取ったとか。どうでした、お休みは」

 番組の収録。司会の方からインタビューを受ける。

「ええ、だいぶお仕事をさせていただいたので、事務所からごほうび、ということで。ごほうびなら、私は、こちらのほうがよかったかなあって」

 ぐい飲みを持つポーズでくいっくいっ、と。お酒をたしなむ真似をする。

「でもその分、ゆっくり、もちろんいっぱい呑まれたんじゃないですか?」
「ふふっ。そうですね。それはもう『一杯』どころではなく」

 呑んでもいない架空の話を、私は口にする。言葉がうわ滑っている。
 大丈夫。徐々に戻るから。大丈夫。
 心の中で呪文のように、私は繰り返していた。

99 : ◆eBIiXi2191ZO [sage saga]:2020/09/20(日) 22:13:14.98 ID:LTP9DQ6S0

 クリニックに通い始めて二か月。
 睡眠はそこそことれているような気がするけれど、仕事のパフォーマンスはさっぱり上がらない。私は少し焦っている。

「先生」
「はい」
「先生からいただいている薬で、夜は眠れるようになってきてます。けど……」
「けど?」
「なにかこう、まだ気持ちが前向きにならないというか、私はまだダメなのかなあ、なんて。ネガティブが考えが支配することも、まだ多くて」
「ふむ、そうですねえ……高垣さんが来られて二か月ですか。正直言えば、二か月くらいで改善することは、そう多くないですね」
「そうですか。でも、私はもう少し……少しでいいんです、早く前向きになれたらって気が逸って」
「それは、どうしてです?」
「やはりファンの方をお待たせするのは、とても申し訳なくて」
「うーん、なるほど」

 先生は、少し考えこんだ。

「今飲まれている前向きになるお薬。高垣さんにはまだ、最低限の量しか出してません。ですから、お薬を増やして様子を見てみましょうか」
「いいんですか?」

 先生の提案に、私は前のめりになる。

「ただ増やすことで体調が急に悪くなったりすることもありますから。その時は減らしてください。いいですね?」
「はい。ぜひお願いします」

 そうして、ミルナシプランを増やすこととなった。
 増やした当初は、胃がむかむかして食欲が落ちた。
 でもこれで前向きになれるのなら、と、しばらく我慢して飲み続ける。
 するとどうだろう。
 胃のむかむかは徐々に忘れるくらいになり、それなりにご飯も食べられるようになった。
 よし、これなら……
 そう思うことが前向き、と言えばそうかもしれない。少しずつであるけれど、自分の感覚のずれが薄れてきたように思えた。

「よし! 高垣、だいぶ調子が戻ってきたようだな」
「はい、ありがとうございます」

 ベテラントレーナーさんとのレッスンでも、以前のような一呼吸のずれが解消されていた。
 よかった。私は、ようやくアイドルへ戻れたのだと、嬉しくなった。
 それまで、私の体調優先でチームの活動もほぼ開店休業状態であった我がチーム高垣は、ここに至ってようやく、掲げていた目標への道を再び歩み始めることとなる。
 それは、単独アコースティックライブ。
 遅れを、取り戻さないと。

 気が付けば、クリニックに通って四か月。目標のライブまであと半年となっていた。

―― ※ ――

100 : ◆eBIiXi2191ZO [sage saga]:2020/09/20(日) 22:13:41.75 ID:LTP9DQ6S0

※ 今日はここまで ※

ではまた ノシ
101 : ◆eBIiXi2191ZO :2020/09/21(月) 22:49:44.72 ID:brMXuKjJ0

投下します

↓ ↓ ↓
102 : ◆eBIiXi2191ZO [sage saga]:2020/09/21(月) 22:50:25.24 ID:brMXuKjJ0

 ライブに向けていろいろなことが進んでいく。使う予定の曲はほぼアレンジが終わっていて、私はボーカルレッスンに勤しんでいた。

「はい。結構です」
「ありがとうございます」

 トレーナーさんからオーケーをもらう。
 もともと私の曲ではあるし、セルフカバーだから問題になり得ないといえばそのとおり。だがステージの演出で、どう魅せるべきか。
 そんなことを考えながら、この後に開かれるライブミーティングへ、私は向かうのだった。
 レッスンが後ろに押したこともあって、すでにミーティングは進行していた。空いている席へ、体を滑り込ませる。

103 : ◆eBIiXi2191ZO [sage saga]:2020/09/21(月) 22:50:56.33 ID:brMXuKjJ0

「ここはアコギメインで、編成をアコギとピアノ、パーカスのトリオでどうかと」

 我々チームを含む、ライブスタッフのミーティングが続く。ここにアイドル自身が加わる必要はないのだけれど、私はできるだけ参加するようにしていた。
 スタッフメンバーからレジュメを渡され、簡単に目を通す。なるほど、編成の確認か。

「高垣さん。いらしたばかりでなんですけど、この編成についてはなにかアイディアは?」

 進行役に突然振られる。私は移動中に考えていたことを打ち明けた。

「そうですね……この曲について今回は、弦の音を生かした形にしたいかと。例えば……アコギを三本にパーカス二名で、とか」
「なるほど、するとサポメンの選定が難しいですね」

 こんな感じ。私のアイディアはアイディアとして、会議の中に取り入れられる。
 もちろん、採用されるとは限らないし、私のライブとは言え、周りのスタッフのほうが海千山千の猛者ぞろいなのだし。
 だから私は、安心して言いたい放題できるのだ。

「やはりサポメンのやりくりに問題がありそうですし、高垣さんの案は今回は申し訳ないですけど」
「ええ、結構です」

 こうして今日も、つつがなく進行していくのだった。

104 : ◆eBIiXi2191ZO [sage saga]:2020/09/21(月) 22:51:41.96 ID:brMXuKjJ0

 私がこうして意見を述べることは、そう多くない。Pさんがいた頃はそれこそ、Pさんにお任せして問題ないとさえ思っていた。
 今回もそのスタンスには違いないはずだったのだけれど、周りのスタッフが気を遣ってくれているためか、私に意見を求める機会がわりとある。
 あらかたの編成は決まったところで、次の議題に移る。ライブの日程は半年前に押さえてあるので、当日までの営業の確認だった。
 予定されている営業活動は、滞りなく進んでいる。私の体調のことがあって心配ではあったけれど、営業メンバーの努力でなんとかしのいでいたらしい。
 本当に申し訳ない。背中に受ける日の温かさを受けながら、私は無言でみんなに詫びる。

「……さん……楓さん」

 我に返ると、プロデューサーが私を起こしにかかっていた。

「あ……はい」
「楓さん、今日はお疲れだったみたいですね。ミーティングは滞りなく進みましたよ。さ、今日は上がりにしましょう」
「……また私、寝てしまってました?」
「ええ。まあ」

 私の質問に、プロデューサーは顔を掻く。
 ああ、またやってしまった。私は恥ずかしくなった。

 このところ、こうした打ち合わせ中に眠ってしまうことがある。
 もちろんインタビューのような仕事の最中に眠ってしまうという失態は、まだ見せていない。ただ、自分が意識しないうちに眠ってしまうのは、かなり問題ではある。
 今度クリニックに行ったら、先生に相談してみようか。

105 : ◆eBIiXi2191ZO [sage saga]:2020/09/21(月) 22:52:39.30 ID:brMXuKjJ0

「なるほど。会議中に眠ってしまう、と」
「はい」

 先生との問診で、私はこのところの居眠りを打ち明けた。

「そうですねえ。夜は眠れてますか」
「いただいた薬で眠れています。ただ」
「ただ?」
「このところ中途覚醒することが増えて、頓服で二度寝をするような有様で」
「そうですか……」

 先生はカルテに、なにかを書き込んでいく。

「あと……ほんとに些細なことなんですが」
「些細な?」
「はい、最近どうにも気持ちがネガティブに傾いてて、気持ちがこう、湧きあがらないというか」
「ふむ」
「もうすぐライブのレッスンも本格的になりますし、もっと気持ちを上げていかないとならないんですが……」
「……分かりました」

 先生はミルナシプランをさらに増量すると、そう私に告げた。

106 : ◆eBIiXi2191ZO [sage saga]:2020/09/21(月) 22:53:06.66 ID:brMXuKjJ0

「先生」
「なんでしょう」
「本当に、申し訳ありません」
「いえいえ、高垣さんがきちんと自分に向かい合っているわけですから、私はそのお手伝いだけですよ」

 私は今のルーズな気持ちを、薬を増量することで打破しようと思っていた。ミルナシプランを増量するということは、私の思い描いていたとおりだった。
 私のわがままに、先生を巻き込んでしまっている。そのことがとても申し訳なく思う。
 先生まで、私のもろもろに巻き込んでしまわなくてもよかったのに。
 そうは思いながらも、私は目標のためになんでもすると、自分自身に暗示をかけていた。
 私は、ひどい女だ。

107 : ◆eBIiXi2191ZO [sage saga]:2020/09/21(月) 22:53:37.33 ID:brMXuKjJ0

 薬を最大量まで増やして二週間。効果が出てきた気がする。
 なにより、動きが軽く感じられるのだ。

「よしそこまで! 高垣。だいぶキレが出てきたな」
「はい! ありがとうございます!」

 今までのルーズ感はどこへやら。ここまで薬が効くのかと、私自身驚いた。

「お、時間だな。クールダウンは念入りに行っておけ」
「分かりました」

 こうしていい汗をかいている。いったいいつぶり、だろうか。
 本当に、体が、軽い。
 私の調子が上り調子になるに従い、周りのスタッフに好循環が訪れる。目標のライブに向け、すべてが順調に進んでいる。そう思われた。

108 : ◆eBIiXi2191ZO [sage saga]:2020/09/21(月) 22:54:07.41 ID:brMXuKjJ0

「ただいま」

 ひとりマンションへ帰ってくる。体は疲れているものの、自分はやれるという満足感が確かにあった。
 お風呂を沸かすため『ふろ自動』のボタンを押す。そうして私は化粧を落とすため、クレンジングリキッドをコットンに湿らせる。
 ふう。コットンの冷たさが心地よい。目を閉じてしばし、私は現実へと戻ってくる。

 ……え?

 目の前にある目覚まし時計は、帰ってきた時刻からすでに四十分経過していることを告げている。
 そんな、馬鹿な。
 気になって掛け時計を見ると、同じ時刻を指している。
 私、意識が飛んでいた?
 どうやらそういうことらしい。突然眠ってしまうのとは違う、意識が飛んでしまう現象。私の中のバッテリーが、急激にゼロを示したようだった。
 今までとは違う、何らかの副作用。
 薬の増量のせいだとは思いたくない。今やめてしまったら、せっかくここまで持ち直した私自身が、再び動きを止めてしまうようで。不安、いや、恐怖。

 どうしよう、どうしようと、頭の中でぐるぐると疑問が駆け巡る。でも。
 この状態を維持するためにも、さらに頑張らないと。
 私は、自分自身に嘘を吐く。大丈夫。きっと大丈夫だから。
 その根拠は、どこに。

109 : ◆eBIiXi2191ZO [sage saga]:2020/09/21(月) 22:54:48.65 ID:brMXuKjJ0

 ライブに向けてのレッスンは続く。
 目標マイナス三か月。本番に向け、そろそろ最終形を作らなくてはならない時期。私たちはそこに向け、スタッフ総出で問題点をつぶしにかかっていた。

「はい! 楓さん、オッケーです」

 レッスンルームにライブスタッフが集まり、通し稽古を行っている。
 まだ最終案ではないけれど、かなり完成された進行表に従っての、粗々のリハーサル。
 突然のシャットダウンという爆弾を抱えながらも、私の頭は冷静に考えられている。

「……どうでしょう?」
「うーん、少し押してますね。もうちょっと中抜きしましょうか」

 私の確認に、プロデューサーは答えた。

「中抜き、ですか? いえ、中抜きはなしでお願いします」
「それじゃあ」
「前半のトークを削って、時間を作りましょう。できるだけ皆さんに、歌を聴いて欲しいので」

 私は自分の体力と精神を削りながら、ステージに私自身をぶつける。
 それが私のやり方で、今更曲げることなどできなかった。

「了解。じゃあ、このパートのトークを削って、三連続で歌にしましょう……でも大丈夫ですか?」
「ええ、お任せあれ」

 私はスタッフの心配をよそに、彼らにウインクしてみせた。
 こうして徐々に、最終形を作り上げていく。より完璧に、より鋭利に。
 代償は、私自身。

 そしてマンションに帰れば、今日もまた意識が彼方へ飛んでいく。
 自分の体が自分のものではないようで、幽体離脱しているのかしら、などと冗談を言っても、とても冗談には聞こえない。
 幸い聞いているのは、私だけ。それだけが救いだった。

110 : ◆eBIiXi2191ZO [sage saga]:2020/09/21(月) 22:55:27.90 ID:brMXuKjJ0

 目標マイナス二か月。ライブチケットはすでにソールドアウト。ファンの期待が高まっているのを、実感せずにはいられない。
 今日も仕事の合間にライブのレッスン。体力も気力もゴリゴリと削られるけれど、私は歩みを止めない。
 ファンの皆さんが待っているから。Pさんが期待しているから……
 もういないPさんに操を立てているわけではないけれど、私の一挙手一投足はすべてPさんに見守られていると、そう信じていたい。
 仕事は主に午前中、夜はレッスンというルーティーンをこなし、今日もつつがなく予定を消化する。事務所に戻ってきた私に「楓ちゃん」と声がかかる。

「あ……瑞樹、さん」
「忙しそうね……今日これから、ちょっと私に付き合わない?」

 瑞樹さんが久しぶりに私を誘う。そう言えば、Pさんが亡くなってから私は、いろいろなお誘いにあまり参加しなくなっていた。

「ええ、喜んで」

 私は緊張しながら、瑞樹さんのお誘いに乗ることにした。
 ふたりでタクシーに乗り、いつものイタリアンバル。
 瑞樹さんと呑む時は、こういうゆっくりできるところで静かに楽しむのが、ふたりのお約束になっている。

「私はハウスワインの赤で。楓ちゃんは?」

 瑞樹さんが尋ねる。お店に入って私は今更ながらに気付いた。
 私、薬を飲んでいるんだった。どうしよう……

「えーと、じゃあ、スプモーニを」
「あら。楓ちゃんにしては珍しいわね」
「え、ええ。このところ、少し控えてるんです」
「もうすぐライブだものね。そうよね、あまり無理しないで、ね」
「ええ」

111 : ◆eBIiXi2191ZO [sage saga]:2020/09/21(月) 22:56:20.26 ID:brMXuKjJ0

 お互いにグラスと前菜がそろう。私たちはグラスを手に取り、唱和した。

「お疲れさま」

 かちん。
 澄んだ響きが心地よい。
 実のところ、家でこっそりお酒をたしなむことはあったのだけれど、外で呑むのは久々だった。

「……ふう。美味しい」
「あら、誘った甲斐があるわね。よかった」

 私がふとそんなことを口走ると、瑞樹さんは笑って答えてくれた。嬉しい。
 長命水は、心の扉を軽くさせる。久々の瑞樹さんとの呑み会は、私のエントロピーを下げてくれる、そんな気がするのだ。
 そんな私の隙を、瑞樹さんは見逃さなかった。

「ところで楓ちゃん。ライブの準備はどう? 順調?」
「そうですね……まあ順調と言えば順調、ですかね」
「まあ楓ちゃんのことだから、そのあたりは抜かりないと思うけど。でも、ほんとに順調?」
「……それって」
「今の楓ちゃん、ものすごく無理してる、気がする」

 瑞樹さんの瞳が、私の心を射抜く。なにか見透かされているようで、私は怖くなった。

112 : ◆eBIiXi2191ZO [sage saga]:2020/09/21(月) 22:57:08.87 ID:brMXuKjJ0

「ああ、ごめんなさい。実は楓ちゃんのこと、少し知ってる。申し訳ないんだけれど、ちひろさんから聞いたの」
「え、じゃあ」
「うん。今、楓ちゃんが『うつ』で苦しんでいること、知ってる。でも安心して。私しか知らないし、誰にも教えてない」

 瑞樹さんは私の言葉を制し、真摯に告げる。
 できれば知って欲しくなかった、そう思う気持ちと、瑞樹さんならよかったという、安堵。
 心がかき混ぜられる感触に、身震いする。

「その上で楓ちゃんには、言わせてもらうわ……今の楓ちゃんは、おかしい」
「……なに、が……です」
「その目。目よ」

 私の、目?
 瑞樹さんはまっすぐ、私に言う。彼女の言葉の意味が、私には分からない。

「私の目、どうかしました?」
「楓ちゃんは気付いてないのでしょうけど、ううん、気付いててもかしら。今のあなたの目、なにかを犠牲にしているような、ぎらついた目をしてる」
「……」

 私は、そんな目をしているのだろうか。ぎらついた目。私のは心当たりがまったくない。

「今の楓ちゃん、まったく余裕がないように見える。まあ、私の見立てだから同意することないわ。でも、ひとつだけ言わせて」

 瑞樹さんは、私になにを告げるというのだろう。

113 : ◆eBIiXi2191ZO [sage saga]:2020/09/21(月) 22:57:55.41 ID:brMXuKjJ0

「楓ちゃん。今度のライブが終わったら、しばらく仕事から離れなさい」
「え? なにを瑞樹さん突然」
「ダメよ。このまま楓ちゃんが走り続けたら、あなた絶対壊れる」

 そう告げる瑞樹さんの目は、真剣すら突破して、鬼気迫るものがあった。だけど。
 私はそう告げられてもなお、彼女に挙げる言葉を持ち合わせていない。それでもどうにか、思う言葉を絞り出すのだ。

「……無理です。私は、まだ走り続けないと」
「なぜ? 誰のために?」
「……」
「ファンのため? ううん、違うわね」

 きっと瑞樹さんは、気付いている。

「P君の、ため」

 そして瑞樹さんは、答えにたどり着く。私は言葉を失った。

「そういうこと、でしょう?」

114 : ◆eBIiXi2191ZO [sage saga]:2020/09/21(月) 22:58:41.73 ID:brMXuKjJ0

 息が上がる感覚。私は、頭に血が上るのを感じた。

「なぜ、ですか……それが、いけないんですか」

 ふつふつと。言葉が止まらない。瑞樹さんは、言い終わってはっとした顔をした。でも、もうダメ。

「それが、いけないことですか! 私は!」

 私の心が叫びをあげる。今まで抑えてきたすべてが、暴発する。

「私は……私は……」

 そう言いながら、私はぼろぼろと涙を流す。
 顔を伏せ、涙のままに私は打ち明けるしか、ない。

「Pさんは、私のことを導いてくれたんです……私、Pさんになにも返せていない……なにも」
「……ごめん、なさい。言い過ぎた」

 瑞樹さんは謝罪する。でも。

「謝らないでください……分かっていました。分かっているんです……」

 どんなに頑張ったところで。
 Pさんは、いない。

 それが現実というのなら、現実は私には残酷すぎる。それでもなお、希求してやまない、心。
 どうして。
 どうして。
 いくら自問しても、答えなど出てこない、袋小路。

「……ひっ……ううっ……」

 私はただ、泣き続ける。瑞樹さんは私に寄り添い、ささやいた。

115 : ◆eBIiXi2191ZO [sage saga]:2020/09/21(月) 22:59:24.36 ID:brMXuKjJ0

「そう、今は泣くの。ひたすら泣いて、彼のこと、想うの」

 誰もが彼のいない世界で、懸命に頑張っているというのに。
 私がPさんを想うことを、許されるはずがない。そう自分を戒めて今まで走ってきた。
 そして未だに、走り続けている。

「大丈夫。楓ちゃんと私だけだから。今は、泣くの。ねえ」

 瑞樹さんの言葉が、私の弱さを溶かしていく。

「……ううっ……えっ……」

 瑞樹さんは私が限界だと察し、今日こうして誘ったのだと、ようやく気が付いた。そして、心を開かない私に、自らが犠牲になって言葉を放った。
 私は、大事にされている。改めて私は、そのことに気付く。
 ありがとうの言葉は、今は口にできない。
 ただ、こうして泣かせてくれる優しさに、私は感謝する。
 瑞樹さん、今日はごめんなさい。だけど今だけ。

 泣いて、いいですか。

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