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【デレマス】佐藤心「世界征服☆」
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41 :
◆V1gN/9sbLo
:2018/11/18(日) 22:23:56.58 ID:878XYWmy0
「おい島村。いるのはわかってるんだぞ」
「ひぇっ!」
思わず情けない声が出ました。
だって、まさかトレーナーさんにバレてるなんて思わなくて……。
「何してる?」
「えっと、観察を……」
「観察?」
「ああ、私のことでしょ☆」
私に気づいて、そう反応する女性。
綺麗な人でした。どこか派手な格好をしているように見えて、その実中身は地味な感じ。それが、私が彼女に抱いたイメージでした。
42 :
◆V1gN/9sbLo
:2018/11/18(日) 22:24:22.88 ID:878XYWmy0
「今日からアイドル候補生としてレッスンしてる、佐藤心だゾ☆ しゅがーはぁとって呼んでね☆」
「は、はい! よろしくお願いします、しゅがーはぁとさん!」
「……めっちゃ良い子☆ それに比べて、トレーナーさんは冷たいし……」
「いや、私にそのテンションは似合わないだろ……」
――熱意のある人だなぁ、と思いました。
やる気にあふれていて、元気で、常に笑顔。いや、たまに疲れた顔をするときもありますが、私が話しかけたときはいつも笑顔です。
レッスンだって真摯に取り組んで、失敗の数も回数を重ねるごとに着実に減らしていく。
努力の人でした。
43 :
◆V1gN/9sbLo
:2018/11/18(日) 22:24:53.06 ID:878XYWmy0
「ふぃ〜……疲れた……」
「お疲れ様。では今日のレッスンは以上、特に佐藤の技術もわかったので、明日からはそれを基本にメニューを組んでいく。島村もお疲れ」
「ありがとう……ございました……」
息も絶え絶え。だというのに、トレーナーさんは軽く汗をかいているだけで、決して息は切れていません。流石です。
「汗はきちんと拭けよ。風邪をひいてはいけないからな。じゃ、また明日」
と言って、トレーナーさんは部屋から出ていきました。
「……ねぇ卯月ちゃん、毎日こんなレッスンやってんの?」
「は、はい……大体こんな感じ、ですね……」
「マジか……今日は湿布祭りだな☆」
44 :
◆V1gN/9sbLo
:2018/11/18(日) 22:25:25.33 ID:878XYWmy0
「あ、そうだ。しゅがーはぁとさん」
「長いしはぁとでいいよ☆」
「はぁとさん。お幾つなんですか?」
「……26」
「えっ!?」
私と十歳近く離れていました。
「なんだよー、がっかりした?」
「な……なんで、アイドル目指してるんですか?」
「え?」
45 :
◆V1gN/9sbLo
:2018/11/18(日) 22:26:19.48 ID:878XYWmy0
それはどこか、失礼な質問だったかと思います。
もしかしたら、気を悪くさせてしまったかも。
そう思いましたが、それに対して――はぁとさんは、当たり前のような顔をして、答えました。
「世界征服☆」
「……ほえ?」
「世界征服が目的なんだよ☆」
「えーっと……」
魔王か何かですか?
「いや、支配したいってわけじゃないんだよ。ただ、世界中の全員が私を知ってて、それで心の片隅にでも私があれば、それは世界中の人間のハートを征服したってことになるだろ☆」
「……なるほど」
「だから、そういう意味での『世界征服』なの☆ みんなが考えるのは『世界支配』だもんな☆」
途方もない夢のように思えました。
私にはそれが、どうしても無理なような気がします。
けれど。
彼女なら、何故か出来てしまうような気がしました。
なんというか、見てきた夢の数が違うというか――折れた心の数が、違うというか。
46 :
◆V1gN/9sbLo
:2018/11/18(日) 22:27:22.61 ID:878XYWmy0
レッスンが終わると、はぁとが戻ってきた。しかも、厄介な絡み方で。
「おい塩崎ぃ〜、ごはん行こうよ〜☆ 行くぞ☆」
「一人で行けよ佐藤」
「げーソルティー……ってか佐藤って呼ぶなよ☆」
「俺は忙しいんだよ。ライブバトルの取り付けに、その他諸々の作業もな」
「いーじゃん、お酒飲もうぜ☆」
「お前レッスンとか色々控えてるんだから、体に気をつけろよな」
「はー、もういい。怒った。帰って寝る」
「おーそうしてくれ」
「じゃあな塩崎、また明日」
「また明日」
47 :
◆V1gN/9sbLo
:2018/11/18(日) 22:28:01.51 ID:878XYWmy0
「……今の会話は一体?」
「ああ、あの二人、幼馴染なんですって」
「あー、だから塩崎さん、いつもに増してあんなに口が軽くなっちゃってるんですね……」
「ええ。らしいです」
「……なるほど」
「ま、業務に支障がなければいいんですけどね、私としては」
48 :
◆V1gN/9sbLo
:2018/11/18(日) 22:28:34.11 ID:878XYWmy0
家路についたはぁとを見送ったあと、資料に目を通していると島村が声をかけてきた。
「ところでプロデューサーさん」
「何?」
「はぁとさん、昔から“ああ”なんですか?」
「……ま、そうだよ」
なんだか含みのある言い方だった。
確かに、はぁとのあの性格は慣れなくては厳しいものがあるだろう。
実際、あいつも昔からアレで苦労しているのである。
けれど、今更変える気もないのだろう。別に、俺だって変えてほしいわけじゃない。
「昔から“ああ”なのさ。それがはぁとの良いところ」
「仲良しさんなんですね」
「……そうかもね」
「ところで、はぁとさんは海外の方なんですか? しゅがーはぁとなんて、日本人じゃないですよね。髪色も薄いですし」
「……いや、本名は佐藤心だよ。「こころ」って書いて、「しん」って読むの」
「えっ、日本人だったんですか!?」
「……島村は純粋だなぁ。なんというか、汚れなき……」
「え、ええっ、恥ずかしいなぁ……」
49 :
◆V1gN/9sbLo
:2018/11/18(日) 22:29:11.19 ID:878XYWmy0
なんやかんやと日は流れ、ライブバトルを翌日に控えたその日。俺はふと気になって、レッスン室を訪ねてみることにした。本来、あまりアイドルのレッスンを見ることはしないのだが、その日はなんとなく気になって、ちら見することにした。
「……」
こっそり扉のガラス越しに、室内を見る。
そこでは島村とはぁとが、二人でレッスンをしていた。特におかしなことはない。トレーナーさんもいて、三人でリズムに合わせてダンスしている。
明日の課題曲は『お願いシンデレラ』。美城プロダクションからデビューしたアイドルはこの曲から始まる。トップアイドルである高垣楓でさえも、デビュー時には『お願いシンデレラ』で観客を沸かせたという。
当然室内から流れてくるのは、『お願いシンデレラ』である。
「……」
淀みのないステップ。まあ、俺の視点から見ても及第点である。見てくれが悪いというわけではない。むしろ、よくぞ一週間でここまで鍛えたものである。
だが。
俺はノックをすると、返事を待たずに部屋に入った。当然、三人が驚いた顔で俺を見てくる。
「どうした塩ざ……――」
「はぁと、足見せて」
「なっ……!」
「見せて」
50 :
◆V1gN/9sbLo
:2018/11/18(日) 22:29:50.67 ID:878XYWmy0
逡巡する彼女をなんとか床に座らせ、靴を脱がせる。それからやけに長い靴下を脱がせてみれば、そこには赤く腫れた足が隠れていた。
「……これは」
「我慢するの、得意だもんな。けど、これは我慢しちゃいけない痛みだ。わかるだろ?」
「……っ、それは」
「いいんだよ。怪我したなら言ってくれれば。捻挫?」
「……うん。変な捻り方、したかも」
「いつ?」
「一昨日。そっから毎日冷感と温感の湿布を使い分けてる」
「処置は流石だな。だけど、こんな状態で練習したら、時間が無駄だろう」
「……ごめん」
「俺じゃなくてトレーナーさんに謝れ」
「ごめんなさい」
「……あ、いや、いいんだが……」
51 :
◆V1gN/9sbLo
:2018/11/18(日) 22:30:23.02 ID:878XYWmy0
狼狽えるように後ずさるトレーナーさん。
「それにしても、よくわかったな、プロデューサー。私も一週間とはいえ、よく見ていたつもりだったんだが……」
「はぁとにしては動きは弱かったですからね。それに、長い靴下履いてる時は大抵足のケガしてるんですよ、こいつ」
「……お前、いつからだと……」
「はぁとが初めてそれをやったのは、中学生の時の運動会前日だ。覚えてるからな」
「……」
「いつまでだって覚えてるよ」
「……そ、そっか」
「うん」
ふと、はぁとを見る。
と、手で顔を隠された。
「なんぞ」
「こっち見んな」
「……いや、別に患部が見れればそれでいいんだけど」
はぁとの顔が見えないのは、別に問題ではなかった。
「おっけ。足だけ見てろ」
「おう。といっても、もう言うことはないけどな」
「……」
52 :
◆V1gN/9sbLo
:2018/11/18(日) 22:30:50.46 ID:878XYWmy0
「……ふむ。佐藤、確かに処置こそ適切だが無理はいかんな。明日は本番だが、お前の練習量はもう十分だよ。実際、こうして不調が現れるくらいにはな。今日はもう帰って休め」
「……いや、それじゃ」
「……?」
「それじゃダメっしょ。まだ足りてないんだよ」
「……」
「確かに、明日のライブバトルで最低限のパフォーマンスをやる分には、これで十分だろうけどさ……今帰ったら、私絶対に妥協する。甘えちゃう。だろうから……喰らいついてでも、ここで練習する」
汗が、ぽとりと落ちる。
弾ける結晶に映ったのは、決して砕けない不屈の意思。
「プロデューサーからも何か言ってやってくれ」
「……いや、はぁとの言ってることも一理ありますよ」
「おい、プロデューサー……」
「正論が常に正答だとは限りません。ただ、確かにこのままレッスンをするのも危険ですから……明日のイメージトレーニングなんてどうでしょうか」
「さっすが塩崎☆ 話わかんじゃん☆」
「うるさいぞ佐藤。じゃ、そこにホワイトボード使って俺と作戦会議しよう。その間、島村はトレーナーさんとレッスンを……」
「あ、いや……」
「?」
53 :
◆V1gN/9sbLo
:2018/11/18(日) 22:31:19.22 ID:878XYWmy0
「今重要なのは、きっと私よりもはぁとさんですから……はぁとさんのレッスンを、中心にできませんか?」
「島村……」
「卯月ちゃん……」
「島村……」
「あ、あは……なんて、少し高慢でしたかね」
「いや、ありがとな☆ 嬉しいぞ」
「いえ、どういたしまして。ただし、塩崎さん、一つ質問があるんですけど」
じぃ、と俺を見る島村。
その瞳に映っているのは、僅かな疑惑と、確信だった。少なくとも、俺にはそう感じられた。
「なんぞ?」
「あなたの夢って、なんですか?」
「……そりゃ決まってるだろ」
「……」
「世界征服だ!」
54 :
◆V1gN/9sbLo
:2018/11/18(日) 22:31:51.16 ID:878XYWmy0
翌日、ライブバトル当日である。
無論形式はランクアップライブバトル。
相手方のアイドル情報は基本的に当日に公開される仕組みになっているが、相手の顔を見て安心した。知らない顔である。知らないということは無名ということ。はぁとが相手するにしたとしても、互いに知名度なんて全くない新顔勝負。
加えて、僅かだが観客も入る。熱心なアイドルファンから、各種雑誌のライターや時間を余らせた一般人がやってくるのである。無料でこそないが、ここでアイドルの原石を見つけることに魂をかけているファンも、一定数いるのである。いわば美城プロのアイドルオタク、である。
これならばまあ五分五分といったところであろう。勝つにせよ負けるにせよ、大した心配はない。どちらかに観客の声援が偏ることもないだろう。
が、勿論個人的には、はぁとに勝ってほしいところである。
55 :
◆V1gN/9sbLo
:2018/11/18(日) 22:32:24.82 ID:878XYWmy0
「で、はぁと。足はどうよ?」
「んー、まあ不調かな☆」
ライブバトル開始一時間前、控室にて。
用意された(彼女の普段着から想像するに)控えめなコスチュームに身を包み、はぁとは足にテープを巻いていた。
「長い靴下あって助かったな。もしなかったら包帯って設定で行こうかと思ったけど」
「それははぁとのセンスじゃあねぇな☆」
「うん、お口は元気みたいだな。なら頑張れるか」
「おうともよ☆ 任せとけ♪」
「頑張るのは良いけれど、足を壊さないように。痛みを感じたら無理をしない。多分感じるだろうから、絶対に我慢はするな。無理だと思ったらライブを止めてもいい。ま、そんなことを言ってもお前は止めないだろうから、俺が止めに行くけど」
「……お前、ほんっとうに私を見る目が鋭いよな」
「何年来の付き合いだよ」
「……」
照れるように、ペットボトルを開けるはぁと。水をくいっと口に入れて、あくまでも含む程度の給水。決して飲みすぎず、だが水分補給は欠かさず。
「にしてもこの服、派手さが足りないよなー」
「お前が十分派手なんだから、安心しろよ。そうだ、ライブの前の自己紹介する時間あるから、そこでぐっと観客を掴め」
「え、マジで? このキャラで行っていいの?」
「あったり前だ。変にかしこまると後々困るぞ」
「……へっへー☆」
にやりと笑うはぁと。を見ながら、俺はほっと溜息をつく。
56 :
◆V1gN/9sbLo
:2018/11/18(日) 22:32:58.81 ID:878XYWmy0
「私はさ」
「……」
「昔からアクセルばっか踏んできた。道も考えず、ただ真っすぐに。進めたよな」
「……」
「お前が……塩崎が、時折ブレーキかけたり、道を正してくれたりしたからな。そういう意味では、感謝してる。すごく。今だって、こんな舞台を用意してくれて。規模は小さいし、観客も少ないけど……」
「はぁと……」
「くっそー!」
「っつぇ!?」
ばしん、と背中をたたくはぁと。もちろん、叩いたのは俺の背中。
57 :
◆V1gN/9sbLo
:2018/11/18(日) 22:33:27.71 ID:878XYWmy0
「ありがとな、塩崎っ」
「……どういたしまして」
びりびりと痺れる感覚が全身を伝う。懐かしい痺れだった。
彼女の肩に、そっと手を添える。安心させるように――それは、彼女を安心させるつもりなのか、自分を安心させるつもりなのか――優しく、手をのせる。
「……?」
「ここがスタートだよ。俺とお前の……約束の。ここからは、アクセル踏みっぱなしだ。俺が道を整えて、お前が走るだけ。あの頃と同じだよ」
そう言って、彼女の目を見る。
「お前、いつからそんな気障なこと言えるようになったんだよ……」
目を逸らされた。
58 :
◆V1gN/9sbLo
:2018/11/18(日) 22:34:03.51 ID:878XYWmy0
はぁとが舞台に立つのを確認すると、俺はひっそりと舞台袖を離れた。
なんとなく、見なくてもいいような気がしたのだった。不思議とハラハラしたりしない。不安でも緊張でもない。末端が冷えるような感覚も、中心が熱を分散させるような感覚も。
ただ、胸の奥に、じんわりと確信のような温かいものが、熱を持っているかのようだった。
俺は一足先にはぁとの控室に行って、椅子に座った。
そこで数回、息を整えるように深呼吸。気にはならなかったけれど、高翌揚はしているようだった。
しばらくすると部屋をノックする音が聞こえてきた。
「……塩崎さん。探しましたよ」
千川さんだった。
「大方舞台の裏にでもいるかと思ったんですけどね。探して回ってみれば、なんでもふらふらと幽霊みたいに控室に入っていったって話じゃないですか」
59 :
◆V1gN/9sbLo
:2018/11/18(日) 22:34:42.40 ID:878XYWmy0
「見ないんですか、初舞台」
「……少し、頭でも冷まそうかと思いまして」
「……確かにそうですね。言い方はアレですが……最近のあなたたちは、少し目に余りますから」
「……」
目に余る、か。
確かにそうなのだろう。事実、最近あまりにも情念に気をやりすぎている。感覚だけで動いているところは否定できない。
千川さんはそう言うと、部屋にカギをかけた。
「へ?」
カギ?
なんで?
「塩崎さん。女性と付き合ったことってありますか?」
「……ないです、けど」
「女性経験は?」
「ないです」
「でしょうね。あなたはどこか、女性不信の気がありますから」
「……」
何その言い方。
というか、何この雰囲気。
「なぜです? 昔、嫌な目にでも合いましたか?」
「……そんなことはありませんよ。というか、逆です」
「逆?」
「約束があるんですよ。昔のね。幼い子供の、ちっぽけなものですが……俺にとってはあまりにもでかくて、重たすぎる約束が」
60 :
◆V1gN/9sbLo
:2018/11/18(日) 22:35:09.01 ID:878XYWmy0
幼いころ。具体的は小学生の時だったか。
俺の知る“佐藤心”は、不登校児だった時期があった。
理由は複雑なものではなく、単純に学校での排斥が原因だった。いじめにあっていたとか、家庭内暴力の犠牲だったとか、そういうことではないのだ。純粋に、学校に馴染めていない孤独感。そこからくる苦痛。
それはもう、なるべくしてなったというか、多感で鈍感な幼児にはどうすることも出来ない、嫌悪感と自己中心感があったのだろう。クラスの人達にのけ者にされている佐藤心の背中が、そこにはあったのである。
俺はその背中を見ていた。小さく丸まって、部屋でうずくまっていた彼女を。
61 :
◆V1gN/9sbLo
:2018/11/18(日) 22:35:37.64 ID:878XYWmy0
ある日、プリントを届けに行った。見慣れた彼女の部屋では、ベッドの中でうずくまっているはぁとが一人、それだけだった。いつもの光景に見えた。
だが、いつも机の上にあったアイドル雑誌は無造作にゴミ箱に捨てられており、彼女のお気に入りだったノートは、無残に地面に散らばっていた。
「どうしたんだよ」
「……」
最初は答えなかった。
いつものことだった。
昔のはぁとは、こうだった。
「別にはぁとのものをはぁとがどうしようとも、それははぁとの勝手だけどさ。そのノート、俺と一緒に買ったものだったよな」
「いらない」
「いれよ。何のために買ったんだよ」
「もう、アイドルなんて目指さない」
「……」
「世界征服なんて、しない」
毛布にくるまり、くぐもった声が聞こえた。
「……」
「……」
「そっか」
62 :
◆V1gN/9sbLo
:2018/11/18(日) 22:36:14.29 ID:878XYWmy0
それだけ言うと、俺は机の上に持ってきたプリントを置いた。
実際のところ、俺にははぁとの痛みなどわかるはずもなかった。そんな中で「つらかったね」とか「がんばれ」なんて無責任なこと、言うべきじゃないと思っていた。それは今から思っても正しかったし、思えばそのころから十分に俺はソルティーだったのだろう。
「やめるのか」
「うん」
「あきらめるのか」
「うん」
「アイドル、ならないのか」
「……うん」
「じゃあお前は今日からただの佐藤心だぞ」
「……」
「……」
「……」
「嫌?」
「……それは、嫌かも……」
「でもアイドル目指してないお前はしゅがーはぁとじゃないだろ。ただの佐藤心だ」
「……」
63 :
◆V1gN/9sbLo
:2018/11/18(日) 22:36:44.78 ID:878XYWmy0
「別に説得しに来たわけじゃないし。好きにしてくれ」
「……うん」
「じゃあな、佐藤」
「……もう、呼んでくれないの?」
「二度と呼ばない。一生佐藤って呼んでやる」
「……それは」
「嫌か?」
「うん……」
「でもきらきらしてないお前はただの佐藤だよ」
今思ってもひどい言い方だった。言いがかりにも近かった。けれど、その時俺が感じた失望を、無慈悲に投げつけるほど子供でもなかった。選んで吐き出した言葉だった。
「……はぁとって呼んで」
「嫌」
「はぁとって呼んでよ、しおざきぃ……」
「……」
俺は彼女の気持ちを察せるほど、女性を理解しているわけではない。彼女が何を思ってそう言ったのかはわからなかったし、そのままの彼女をはぁとと呼ぶ気もなかった。
意地を張っていたのだと思う。
「しおざき……」
64 :
◆V1gN/9sbLo
:2018/11/18(日) 22:37:25.91 ID:878XYWmy0
「別に学校に来たくなきゃ来なけりゃいい。それでいいんだよ。けど、俺が……その……えっと、好きだったしゅがーはぁとは、こんなに弱いやつじゃ、なかったぞ」
「……」
ずぼ、と毛布から顔だけを出すはぁと。顔は真っ赤で、涙と鼻水でずぶ濡れ。息も絶え絶えで、上手に呼吸出来ているようではない。
「やだぁ……」
「何泣いてんだよ……」
「……やだやだぁ……」
泣きじゃくるはぁと。そんな弱々しいはぁとは、久しぶりだった。
「……俺だって嫌だよ」
「くぅ……っそ……ぉ、よ……」
「……」
「よくも、あいつらめ……!」
「……」
「私の夢は、世界征服だもん……クラスの子たちなんて、大嫌いだもん……」
「俺も、そんなに好きじゃねーよ」
はぁとのことを、悪く言うやつは。
「許さないもん……絶対に、見返してやる……わたし、アイドル……なるもん……」
支離滅裂なセリフ。だが、それがはぁとの思いだったのだろう。願いだったのだろう。
――絶対に許さない。絶対に報復してやる。目にもの見せてやる。
ふつふつと湧き上がる情熱の怒りを、燃やしているようにも見える。
65 :
◆V1gN/9sbLo
:2018/11/18(日) 22:38:13.35 ID:878XYWmy0
別にクラスメイトからいじめられていたわけではない。ただ、彼女特有の濃いキャラが、段々クラスで浮き始めたというだけだ。そして、気づいたら居場所がなくなって……落ちるところまで、転がるように落ちてきた。
見上げる場所には、クラスメイトがいる。もとは同じ場所に立ってた連中だ。勝手にはぁとが転がり落ちただけだということは明白――だが、彼女はそれを燃料に立ち上がる。
見下しやがって。見下ろしやがって。よくもそんな目で見たな。絶対に引きずり落としてやる。将来トップアイドルになって、私をハブったことを後悔させてやる。
逆恨み上等のルサンチマン。歪んだ怨念をエネルギーに変換して、前に進もうとする爆弾みたいな女。
佐藤心は、昔からそんな女だった。
毛布から這い出たはぁとは、地面に散らばったノートの破片を拾い集めた。
「ごめん塩崎……破っちゃった……」
「……」
泣きながら、呼吸が崩れながら、彼女は紙切れを集める。
「いいよ、別に。もう一回描けばいいよ」
破片をつなぎ合わせると、拙いタッチで描かれた衣装案が描かれた。頭の上には輪が乗っていて、砂糖菓子のように甘いロリータ。背中にはやけに大きな羽が描かれていて、ツインテールの女がそれを着ている。
「何回だって描けばいい。破るたびに、描けばいいよ」
「うん……ごめん……」
「いいって。もう泣くなよ」
66 :
◆V1gN/9sbLo
:2018/11/18(日) 22:38:53.73 ID:878XYWmy0
俺自身、はぁとが泣くという事態は正直かなりの驚きだったのである。
どんなことが起きても飄々としていた彼女が泣くなんて、よっぽどのことだったのだろう。実際、いろいろ彼女にも溜まっていたところがあるようだった。
「ねぇ塩崎、約束してよ」
「何を?」
「私を、アイドルにして」
「……なんでそれを俺に言うんだよ」
「塩崎が私を“ぷろでゅーす”するんだよ。今までは横だったと思うけど、これからは後ろから」
「ぷろでゅーす……」
「アイドルにして、世界で一番有名になる。で、世界征服もする。そのぷろでゅーすを」
「……ふぅん」
「……やって」
「いいよ」
即答した。その記憶は、やけに鮮明に覚えていた。
彼女のその問いに、希望や志のような……暖かく明るい、展望が見えた気がしたからだった。
「俺がお前をぷろでゅーすする。で、お前がアイドル。いや……」
「……?」
「トップアイドル。に、なる。それで世界征服だ」
「――……うんっ」
67 :
◆V1gN/9sbLo
:2018/11/18(日) 22:39:23.86 ID:878XYWmy0
「……とまあ、そんなことがありましてね。縁が長いとは言いましたが、言ってしまえば運命みたいなものですから」
「……ふぅん」
と、怪訝そうな表情の千川さん。
「何やら、昔は結構ずかずか言う性格だったようですね。それとも、佐藤さんにだけ?」
「……色々あるんですよ」
「色々、ね」
反芻して、かみ砕くように言い直す千川さん。
「ま、確かに誰にでも……色々、ありますね」
「そういうわけで、俺はほかの子に色目を使っていくわけにはいかないんですよ。それに、佐藤の件もあって……なんていうか、ミーハーな女の子が、若干苦手に思っているところもありますし」
「結局女性不信ではあるんですね」
「……」
「見栄張りましたね?」
「はい」
見抜かれてしまった。
いや実際、陰湿でこそなかったにせよ、あれほど徹底的に排斥しようとする幼女性陣の暗い恐怖のようなものは、今でも思い出せるほど鮮明だった。確かに俺自身、アレを怖いとは、今でも思っている。そういう意味では、女性不信というのは決して否定できない事実だった。
言い訳するなら、差別とかしないで、ありのままを受け入れてくれる女性は好き。
68 :
◆V1gN/9sbLo
:2018/11/18(日) 22:39:54.02 ID:878XYWmy0
「お互いラクじゃありませんね……まったく」
吐き捨てるように言って、千川さんは扉の鍵を開けた。
「……なんで閉めたんですか?」
「色々あるんです」
「色々って……」
そんな曖昧な。
「あなたが色々思うところがあるように、やはり私にも思うところがあるのです。考えて、困るようなことがわんさかね」
「……そうですか」
「それに――」
ノブを持つ。くるりと捻る。
「――男女が密室ですることなんて、相場が決まっているでしょう?」
「……ちょっ」
――がちゃん。
69 :
◆V1gN/9sbLo
:2018/11/18(日) 22:40:26.80 ID:878XYWmy0
俺が初めて千川さんと出会ったのは、大学卒業後、美城プロに就職してすぐのことだった。俺より二歳年上だという彼女は事務員をしており、入社後即プロデューサーという地位を与えられた俺に、何かとよくしてくれた。
美城プロダクションは、アイドル育成のための事務所が社内に幾つかあるという性質から、排他的なところがある。ようは、縦でこそつながっているが、横ではそれほど強固なつながりはない。無論、隣部屋の相手に蹴落とされる可能性があると考えれば、やはりそれもやむなしなのだろうが。
ともかく、そういったやけに息苦しい空間で、千川さんは俺の面倒を見てくれたのだった。
担当するアイドルも、昔から養成所でレッスンをしていたという島村卯月をこっそりオーディションに選んでくれ(しかも好ましい性格の女性である!)、俺のレベルに似合う仕事を持ってきてくれたりもした。
頭を下げても下げたりない、尊敬すべき人間である。少なくとも、そう思っていた。
70 :
◆V1gN/9sbLo
:2018/11/18(日) 22:40:55.58 ID:878XYWmy0
「……マジか」
そういうことを考えたことがなかった――というわけではなかった。
例えば、彼女との逢瀬を年甲斐もなく想像してみたこともあった。意味もなく、彼女を見ながら彼女が欲しいなぁ、なんてことを考えたこともあった。
しかし、いざこういった好意を向けられて見ると、どうしたものか対応に困るところもあった。
「……ってか、アレは好意なのか?」
わからなくなってきた。
けれど確かな事実は、彼女の行為に残っていた。
71 :
◆V1gN/9sbLo
:2018/11/18(日) 22:41:23.80 ID:878XYWmy0
(あーやばい。めっちゃ恥ずかしいしましたね)
壁に背を預け、ずりずりと落ちていく。ぴたりと床にお尻がつくと、スカート越しでもひんやりして心地が良い。勢い上がってのぼせそうな体温を下げるのは、ちょうどよかった。
(っていうか逆レイプですよアレ……セクハラだ……)
自分が嫌になる。嫉妬だとか、そういうこと。醜い気持ちの片鱗を、彼に見せてしまった自分が恥ずかしい。
ようは怖かったのである。彼を取られることが。
初めは、なんだか要領の悪い後輩だな、と思った。
しかし、情報を与えるだけ吸収し、次の事象に備える律儀で高い能力も持っていた。自分が振った仕事は難なくこなしてきて、挙句こっちの心配までしてくるという仕事人間。気が付けば要領の悪いというより、どこか不器用な人間だと思っていた。どこか引っ込み思案で緊張しやすい体質なのに、大事なところは前のめり。目標が見えればまっすぐ進み、止まることはない。
そんな彼を、上から見ているつもりだった。
けど気が付けば、後ろから見ているようだった。
そして、ふとした時に気が付いたらなんとなく好きになっていた。
72 :
◆V1gN/9sbLo
:2018/11/18(日) 22:41:55.15 ID:878XYWmy0
好きになることに理由なんてないのだろう。実際、彼のどこが好きかなんて、私自身よくわかっていない。なんとなく好きなのだろうけれど、確実に好きなのである。
だからある日、ふと見た前方で、彼の横に女の影見えたとき、途方もない焦燥を感じてしまった。
アレは、やばい。
きっとアレが――彼の“目標”だ。
アレに、彼を取られてしまう。それは嫌だ。言葉には出来ないけれど、なんとなくもやもやした感情が自分を覆っている。不安や不信といった諸症状が自分を襲ってくる。
だから、あんなことをしてしまった。
(うぅぅ〜……あんなはしたないこと……っていうか色々、失敗したぁ……)
しかも結局行動はできなかった。
それが、自分と佐藤心との間にある溝なのだろう。そしてそれは、自分と彼を分ける隙間。
「悔しいなぁ……」
それが、今の感情だった。だってそうじゃないか。
自分だって塩崎さんが好きだ。だっていうのに、あとから現れて過去の話とかし始めて正妻ぶりだすのは卑怯だ。ずるい。
けれど、そう考えてしまう自分だって、ずるいはずだ。
卑怯な女。ずるい女。それはどっち?
73 :
◆V1gN/9sbLo
:2018/11/18(日) 22:42:22.07 ID:878XYWmy0
「何が悔しいの?」
「……えっと、それはですねぇ……」
「うんうん」
「――って、佐藤さん!?」
「何が佐藤だよ☆ しゅがーはぁとって呼べよ☆」
「ら、ライブバトルはどうなったんですか?」
「ん? もう終わったよ?」
「結果は?」
「勝ったよ。当然じゃん☆」
「……」
そんな、なんでもなさそうな声音で。
74 :
◆V1gN/9sbLo
:2018/11/18(日) 22:42:51.11 ID:878XYWmy0
「なんせ夢は世界征服だからな☆ こんなとこで躓くわけにはいかねーっしょ☆」
にこりと笑う佐藤さん。その表情は、やけに晴れやかで――私は、とても嫌になった。
「で、何が悔しいのよ☆」
「……なんでもありません」
「なんでもないってこたーねーだろ☆ 思わず廊下で、隣に私がいるのにも気づかず、ついため息を吐いちまうなんて、何かあるにきまってるだろ☆」
「っ……」
す、鋭い……。
「で、何用? それとも、私には言えないような悩み? それか――私についての悩み?」
「……」
「っぽいな……ごめん。やりすぎたか。じゃ、私先に控室に行ってくるから」
「いや……待ってください」
思わず、彼女の手を取ってしまった。
感じたのは、やけに冷たい彼女の手――よりも、更に冷たい、自分の手。
緊張、していたのか。
あの人みたいに。
「……」
「やっぱり、聞いてください」
75 :
◆V1gN/9sbLo
:2018/11/18(日) 22:43:22.25 ID:878XYWmy0
気が付いたらはぁとのライブバトルは終了している時間だった。
だというのに、彼女が一向に控室に帰ってこないものだから、俺は自ら探しに行くことにした。
探すのは大変ではなかった。むしろ、扉を出て、少し歩いて廊下を曲がった先に、二人はいた。人気のない廊下に、二人で床に座って、何やら話している。
もうすぐ衣装の返却の時間だぞ。
言おうとして、止めた。
千川さんが、泣いていたからだった。
「……」
初めて、彼女が泣いている光景を目にした。衝撃的な情景に、思えてしまった。
だから思わず、角に隠れる選択をした。そこに、俺がいることが間違えだったように思えたからだ。
「……で、言いたいことは終わり?」
「……はい」
「そっか。じゃ、要求とかある? 私にしてほしいこと」
「それは……」
「なんかある?」
「特には、ないです。聞いてくれただけで、もう」
「……そっか。じゃ、私はもう行くから」
76 :
◆V1gN/9sbLo
:2018/11/18(日) 22:43:52.04 ID:878XYWmy0
立ち上がり、こっちに歩いてくるはぁと。
やばい、バレる。急いで戻ろ……。
「おーい、塩崎☆」
「……げっ」
バレてるし。
「バレてないとでも思ったか、オイ☆」
「……思った。で、どうしたんだよ」
「ちっひーから色々聞いたゾ☆」
「……おう」
「結論から言うと大したことじゃない。私は……はぁとは、淡々とアイドルをやるし、ちっひーは事務員。塩崎はプロデューサー。後のことは、世界征服やってから考えればいいんだよ」
「ま、そりゃ端的に言えばそうだが……千川さんは、それで納得するの?」
「納得させた。人間二人いりゃあ意見は割れるもんよ。必要なのは割れた意見のすり合わせ。異なるモノを合わせることより、寄らせることだゾ☆」
「確かにそれは正論だけど、正論が正答とは限らないだろ」
「いーんだよ。納得させれれば」
「……」
「なんか変な目だな☆」
「いや……どうしたもんかなって」
「だったら直接話せよ。その方がいいだろ」
「……それもそうだけど」
77 :
◆V1gN/9sbLo
:2018/11/18(日) 22:44:29.60 ID:878XYWmy0
……いや、ここでじっとしていても何も始まらないか。
前に出るしか、ないのだろう。
俺は千川さんの隣まで歩いて、そっと足を止めた。音が、やけに大きく感じた。耳を澄ませば遠くからは帰ろうという観客の声が聞こえてくる。機材を扱っている人の声も聞こえる。音は、止むはずもない。
この廊下はもとより人気もない。控室から、さらに一本離れた廊下。やけに入り組んだ作りをしているから、そもそも使う人もいない。
つまり、好都合である。
「……塩崎さん」
「なんですか」
「私、あなたのことが好きかもしれません」
「……ありがとうございます」
ぼろり、と大粒の涙が床に落ちた。ふと尾引いた線が、煌めいて映る。
78 :
◆V1gN/9sbLo
:2018/11/18(日) 22:45:00.26 ID:878XYWmy0
「それで、どうしたんですか」
「私、あなたが佐藤さんにとられるの、嫌かもしれません」
「……それは」
「付き合ってください」
「……」
「だってそっちの方がいいはずです。佐藤さんはトップアイドルになるんですよね。だったら、プロデューサーとの恋愛なんてスキャンダルです。私なら、職場内恋愛で済みますし」
「打算的ですね」
「……ええ、そうです。私は、卑怯な女なのです」
「ありがとうございます、千川さん。交際ですが、まじめに検討させてください」
「はい……えっ?」
俺を見上げる千川さん。まさにびっくりしました、みたいな顔である。
「オイ塩崎ちょっと待てやァ!!!!」
「落ち着けはぁと」
「お……おま、こんな時にはぁとって呼ぶな!」
「ただ、まだ結婚とかは全然考えていないので、あくまでもお互いを知るところから始めましょう」
「わ、私はどうするんだよ! 私の関係は!?」
「確かに俺ははぁとのこと好きだけど、別に付き合いたいとかそういうわけじゃないし」
「マジで!? 付き合いたくないの!?」
79 :
◆V1gN/9sbLo
:2018/11/18(日) 22:45:42.98 ID:878XYWmy0
「いや付き合いたくないわけじゃないけど、なんていえばいいのか……もはやそういう話じゃないでしょ、俺たち」
「じゃあなんだよ!」
「熟年夫婦的な」
「っ……!」
「別に今さら付き合うとか……ねぇ?」
「ちょ、ちょっと待ってください。塩崎さん」
「なんですか」
手を挙げて俺を制止する千川さん。
「……文通について、どう思います?」
「良い文化だと思いますよ。そうですね、恋愛の基本ですよね。まず文通から始まる恋もあって然りだと思いますけど
「佐藤さん、この人って昔からこんな感じなんですか?」
「……うん。そういえば、昔も知人に恋愛相談を受けて、ラブレター書くのを勧めてた」
「……」
80 :
◆V1gN/9sbLo
:2018/11/18(日) 22:46:08.23 ID:878XYWmy0
「ってか塩崎……もしかして、文通→交際→結婚、みたいなこと考えてる?」
「いや、そこまでじゃないけど。流石にもっとイベントは多いでしょ」
「基本構造はそうなのかよ! お前いつの時代の人間だよ!」
「現代だけど……」
「精神構造の話だよ!」
「っていうか塩崎さん、なんというか……そういえば、恋愛経験もないんでしたね」
呆れた表情の千川さんが、やけに強く視界に入る。っていうか、言い方ひどくない?
「前言撤回です。交際については、先送りしてもらって構いません」
「……はぁ。千川さんがそういうのでしたら」
「なんというか、呆れました」
「……はぁ」
「っていうか塩崎、なんでずっと千川さんって呼んでるの?」
「千川さんは俺の先輩だから」
「嘘ォ!? 同期かと思ってたわ!」
「あー……もういいですよ、その口調で。なんか慣れてきましたし」
「あ、そう? よろしくなーちっひー☆」
「やっぱり前言撤回で」
81 :
◆V1gN/9sbLo
:2018/11/18(日) 22:46:43.09 ID:878XYWmy0
しばらくすると、はぁとの活動も落ち着いてきたのか少しずつ仕事が入ってくるようになってきた。
そういう意味で、落ち着いたのである。前のように生き急いだようなレッスンを入れる必要はなくなったし、俺もプロデューサーとして島村さんをプロデュースする余裕が出てきた。
それに、変わったこともある。
「珈琲飲みます?」
「あ、どうも。ちひろさんは紅茶ですか?」
「はい。最近ハマってまして」
少しずつ、前に進んでいるような気がする。だからきっと、これは良いことだ。
と思ったら部長に呼び出された。
82 :
◆V1gN/9sbLo
:2018/11/18(日) 22:47:30.83 ID:878XYWmy0
「最近とあるプロデューサーが街に出てね。ある女の子をスカウトしたんだ。彼女が気が強く、若い割にはよくできた女の子だ。そして君は最近余裕も出てきただろう、波に乗っているというか、色々慣れてきたところもあるだろう。そこで……」
「……俺が、その子をプロデュースすればいいってことですか?」
「うん、そうだね。よろしく頼むよ」
「……ま、まあ多分大丈夫です」
一応、最速で世界征服を考えていたわけだが……ま、こういったアクシデントや停滞はつきものだろう。むしろ良い障害になるはず。俺自身が成長出来るのは良いことだ。
「ところで、その子の名前はなんて言うんですか?」
「橘ありす。どうにも、ありすって名前が嫌いらしいから、橘と呼んであげてくれ」
83 :
◆V1gN/9sbLo
:2018/11/18(日) 22:48:00.39 ID:878XYWmy0
三人目のアイドルは少女というよりも童女であった。
美しい黒髪にロリータの似合う雰囲気。理知的で、どこか大人っぽい彼女に見え隠れする子供っぽさが売りである。実際礼儀正しいところもあり、大人っぽいというよりも子供っぽくないという方がそぐうかもしれない。
無論俺もプロデューサー。相手がどんな性格でも全力を出す人間だ。彼女との相談の中で、二人で折り合いをつけながらプロデュースの方向を定めていく。何よりも個性を伸ばすというのは大切なことである。まあ、俺の苦手なタイプではないこともあり、多少はやる気が出ていた。
「大人っぽい仕事をお願いします」
と思ったらこれだった。
「……というと、例えばどんな仕事?」
「握手会とかそういうのじゃなくて、もっと歌の仕事やモデルとかです。バラエティ番組なんかはキャンセルしてください」
「……」
マジで?
きつすぎるでしょ。
「えーと、ありすちゃ……」
「橘です」
「……」
「……」
84 :
◆V1gN/9sbLo
:2018/11/18(日) 22:48:27.71 ID:878XYWmy0
「橘さん」
「はい」
「流石に知名度のない君を、しょっぱなからモデルとして起用するのは無理がある」
「はい」
「そこで、下積みとしてもっと小さな仕事からだね」
「嫌です」
「……」
「私は歌とモデルをしに来たんです」
……そうか、彼女はスカウト組か。
プロデューサーに直接スカウトされてやってくるアイドルは、たまにこういうのがいるらしい。ようは、言い方こそあれだが自惚れているタイプ。そもそも可愛い子しかスカウトされないのだから、こうしてスカウトされてくる子は大方が可愛いと言われなれた子たちなのである。故に自尊心も強く、いわゆるこういった子が来る可能性も高い。何より、美城プロダクションのプロデューサーに直接スカウトされたという事実が、それに拍車をかける。
ようは、オーディションを受けてアイドルになろうとする者たちとは、根底から違うのである。加えて相手はまだ年端もいかない子供……いや、どうしたものか。
85 :
◆V1gN/9sbLo
:2018/11/18(日) 22:49:07.54 ID:878XYWmy0
「……とにかく、俺の担当アイドルである以上、従ってもらうことには従ってもらうよ。まずしなくちゃいけないこともあるし」
「なんですか?」
「宣材写真。予約もしてあるから、もうすぐしたら撮りにいかなきゃいけない」
「そうですか。ともかく、なるべくバラエティなんかはキャンセルの方向でお願いします」
「……」
うーん。
なんというか。
困ったことになったな。
86 :
◆V1gN/9sbLo
:2018/11/18(日) 22:49:36.55 ID:878XYWmy0
しばらくすると、はぁとが事務所にやってきた。抑え目ではあるが、いつもと同じ派手な服装に派手な格好。若干、橘さんが引いていた。
「おっす塩崎ぃ☆ 撮りに行くんだろー?」
「おはよう。そうだよ、はぁとは同じ場所で雑誌のモデル」
「いやー、はぁとのスウィーティーな体型がようやく世間様にお披露目ってわけだな☆」
「ま、あくまでもメインは服だから、そこまで気張らなくてもいいぞ。場合によってはツインテで行けるかもしれないけど、大方髪下ろせって言われるだろうよ」
「……ま、それも致し方ねぇよな☆ どうせ写真だし、変に目立ってこれから呼ばれなくなる方がまずいし」
最近のはぁとは間違いなく成長していた。少なくとも、昔の猪突猛進で後先を考えなくなったころからは考えられないほどに、色々なものが見れるようになっていた。
87 :
◆V1gN/9sbLo
:2018/11/18(日) 22:50:10.74 ID:878XYWmy0
「ところで、その子は?」
「ああ。今日から俺が担当することになった、橘ありすちゃん」
「橘と呼んでください」
「おっす、よろしくなありすちゃん☆」
「……」
「私は……しゅがーはぁとって呼んでね☆」
「プロデューサーさん、この人誰ですか」
「えっと……佐藤心。一応君の先輩。はぁとって呼んであげてね」
「佐藤さん」
「……」
強いな、こいつ。
88 :
◆V1gN/9sbLo
:2018/11/18(日) 22:50:39.27 ID:878XYWmy0
「えっとぉ〜、ありすちゃん☆」
「橘です」
「……」
「……」
「塩崎」
「なんぞ」
「これマジ?」
「マジだ」
「……」
「なんですか」
「やばいな、なんか」
89 :
◆V1gN/9sbLo
:2018/11/18(日) 22:51:13.39 ID:878XYWmy0
時間になったので、二人を連れて社内を歩き回る。ここまで会社自体が大きなものだと、撮影から録音まで、何か何まで自社内で行えるのはかなり楽である。無論端から端まで歩けばかなりの距離になるが、エレベーターなんかを使えば、端にある事務所から撮影室まではすぐだ。
だが、今はその短い時間さえつらい。
「……」
「……」
「……」
気まずい。
言葉にできない気まずさを抱えながら、俺たちは三人撮影室まで向かう。
はぁとは雑誌の撮影。最近になって入るようになった仕事のひとつである。表紙でもメインでもなんでもないが、彼女の理想的なプロポーションはそれなりに人気であり、黙っていれば可愛いことも相まってモデルの仕事もじわじわ増えていた。
このままいずれは表紙を飾ってもらいたいものだが、とにかく。
無言のまま歩いて、撮影室についた。一旦顔を出して、それから衣装さんや化粧さんと化粧室でメイク、というのが流れである。また、同じ部屋の別の場所で橘さんの宣材写真の撮影も行うため、今回は二人とも同じ部屋である。
無名であるため致し方ない。というより、むしろ部屋をくれるだけ好待遇なように思えた。
90 :
◆V1gN/9sbLo
:2018/11/18(日) 22:51:40.44 ID:878XYWmy0
「じゃ、俺は挨拶に行ってくるから。二人とも、呼ばれたら元気よく愛想よくカメラさんに従ってな」
「あいよ☆」
「わかりました」
二人をその場に残すのは若干の不安があったが、流石にアイドルを侍らせて挨拶周りというのも失礼だろう。俺は早足にその場から消え去ると、まずはやってきた雑誌の企画長のもとへ向かった。
「……」
「あー、えっと。アイドル事務所の塩崎です。今日はよろしくお願いします」
「ん? ああ、よろしくね。今日は」
「どうかしたんですか?」
「それが、困ったことになってね。今日撮影するはずだった子が、来てないんだよ」
「それは困りましたね。誰ですか?」
「城ケ崎莉嘉。なんでも、渋滞に巻き込まれちゃったとかで」
「それは……仕方ないですね。代役はいますか?」
「いや、呼んでないんだよ」
「……」
「どうかしたかい?」
「だったら、うちの橘はどうですか?」
91 :
◆V1gN/9sbLo
:2018/11/18(日) 22:52:06.15 ID:878XYWmy0
「嫌です!」
「えー?」
「えー?」
橘さんは、開口一番元気よくそう言い放った。
「衣装を見ましたが、なんでもちゃらちゃらした感じで……淑やかじゃありませんっ」
「淑やかって……」
「そこをなんとか頼むよ」
「嫌ですっ」
どうしても首を縦に振る気はないらしい。改めてはぁとを見ると、とっくに撮影を終えた後で、メイク落としも終わっている。
92 :
◆V1gN/9sbLo
:2018/11/18(日) 22:52:35.68 ID:878XYWmy0
「大体、ティーン向けの仕事なんてティーンにしか出来ないんだから、今のうちにやっておくべきだと思うけどな☆」
「まあ正確にはぎりぎりティーンじゃないけど」
「私はもう大人です」
「……塩崎」
「まだ橘さんは12歳だけどな」
「プロデューサーさん!」
「事実だし……」
「ま、結局のところ、ありすちゃんが受けたくないってんなら受けなくてもいいんじゃねぇの?」
「……っつっても、もう企画長に言っちゃったしな」
「だったら私がやってやんよ」
「……ティーン?」
「ぴっちぴちだろオラァ!」
「服入るのか?」
「……」
「答えろよ」
93 :
◆V1gN/9sbLo
:2018/11/18(日) 22:53:06.71 ID:878XYWmy0
「とにかく、嫌です」
むすっとした表情で言い放つ橘さん。
「……っていうか、なんでよ? なにが嫌なの?」
「子供っぽいからです」
「……」
それに気を悪くしたのだろう。明らかに顔をしかめて、ため息をついてから、はぁとは言った。
「ナマ言ってんじゃねーぞガキ☆」
「ひっ」
「おいはぁと!」
「言わせろ塩崎! これじゃ今日はぐっすり眠れねぇ!」
橘さんに掴みかかろうとするはぁと。これはまずい、と俺は急いではぁとの腕を掴んだ。
「ちょっ、暴れるな! 橘さん、一旦外に出てて!」
94 :
◆V1gN/9sbLo
:2018/11/18(日) 22:53:42.58 ID:878XYWmy0
急いで外に出ると、まだ中からは二人の喧騒が聞こえてきました。
あんなことで感情出しちゃって。バカみたい。
それに、あんなに怒るなんて。私はもう、子供じゃないのに。あの人、怖いなぁ。
私は少しだけ部屋から離れようと思って、少し廊下を歩いてみることにしました。
「――あの佐藤って人、やばくない?」
ふと、そんな声が聞こえてきました。悪意があるのか――抑え目なトーン。女性二人で会話しているようでした。
「あの年であの性格ってのもねぇ。すごいよね」
「すごいっていうか、うん。色々見えてないんじゃないかな」
「馬鹿みたいだよね」
どうやら、私の評価は正しかったようでした。おそらく客観的に見ても、あんなにちゃらちゃらした人は好かれないのでしょう。私も苦手ですから。
95 :
◆V1gN/9sbLo
:2018/11/18(日) 22:54:16.02 ID:878XYWmy0
――ただ、一つ気になったことは。
さっきの撮影中、あの声が聞こえていたことでした。
私と佐藤さんの撮影場所は薄い壁を隔てた同じスペースで、つまり一人の言葉は全員に聞こえます。そんな中で、あの二人の声は、さきほども聞こえていたのでした。
内容は今ほど棘のあるようには思えませんでしたが、何やら持て余しているかのような発言。
とにかくどうやら、佐藤さんはみんなが馬鹿にしているようでした。それもそのはず、あのような性格であれば、致し方ないことなのかもしれません。
そしてタンス式に気になったもう一つのことがありました。
彼女はその声が聞こえていたにも関わらず、なんで自ら撮影を代わりたい、なんて言ったのでしょうか。
96 :
◆V1gN/9sbLo
:2018/11/18(日) 22:54:52.40 ID:878XYWmy0
だって、そんなことする必要はないはずです。そこまでして、自分から叩かれに行く必要なんてないはずなのです。
全く持って無意味だと思いました。撮影が終わったら、とっとと帰れば良いのに。
「おーい、橘さん。ここか」
そんな考えを散らすように、プロデューサーさんが現れました。
「おいもう離せよ☆」
「んにゃ、いつ暴れるかわかんないしな」
「動物園じゃねぇんだぞ☆」
「動物園じゃなくてもお前は動物だろ」
「きしゃー☆」
やけに高いテンション。年齢不相応の姿で、彼女はやってきました。
97 :
◆V1gN/9sbLo
:2018/11/18(日) 22:55:44.01 ID:878XYWmy0
「――ねぇ、あの年であんなキャラ……」
「……」
そこにばったり、あの声の主が現れたのです。最悪のタイミングでした。角を曲がった瞬間、最低の瞬間です。
「あっ」
そんなこと言わずに、すぐに立ち去れば良いのに。とっととここから消えてしまえば、この雰囲気は消えてしまうはずなのに。
だというのに、佐藤さんは動じませんでした。その場できちんと立って、真正面から声の主を見据えていたのです。
意味はわかっているはずです。先ほどから自分を馬鹿にしていた二人が、今まさに目の前にいるのです。
とっ捕まえて、殴り倒すのかと思っていました。しかし、動きません。ただ、タイミングを見計らっているだけのようでした。
「……ありすちゃん。私はさ」
「……」
そんな中、唐突に話し始めます。
98 :
◆V1gN/9sbLo
:2018/11/18(日) 22:56:43.53 ID:878XYWmy0
「別にこのキャラが万人受けするとはこれっぽちも思ってねぇんだわ。普通清純派の方が受けるだろ。でもなぁ、これが私なの。清純派なんかやったら数日でボロが出るだろうし、何より私が嫌いだ。自分のことはぁとなんて呼ぶやつはそんなもんなんだよ」
「……なんで」
「……」
「なんでそんなに飄々としてるんですか?」
「負けらんねーからな。私には夢がある。だから、そのためにこいつらなんかの嘲笑で止まるわけにはいかねぇんだよ」
ぎらりと睨む。声もなく、その場にただ立っていることしか出来ない二人。まるで、蛇に睨まれたカエルです。
怒ってはいるのでしょう。だけども、先ほどのように激しい怒りというわけではないよう。むしろ、冷静に事態を見た結果、自分を諫めているようにも見えます。
「別に怒っちゃいねぇからさっさと行っちまえ。けどそんな陰口みたいな言い方されると、胸が痛まないわけがないだろうがよ」
「す、すいませんでしたっ!」
許しを乞えたと思ったのか、二人は頭を下げると急いでこの場を離れました。
99 :
◆V1gN/9sbLo
:2018/11/18(日) 22:57:29.46 ID:878XYWmy0
「はぁと……お前これからどんな顔してあの人達に会えばいいんだよ。雑誌の企画担当だし、直接ではないかもだけど人選には偏るかもだぞ」
「マジで? やっちゃったな」
「……ま、いいんだけどさ。俺が頭を下げれば済む話だし。それに、言いたいこと言えたろ」
「……わかってんじゃん」
「佐藤さん!」
二人の会話を遮るように、私は言いました。
「なんぞ」
「わかりません。あなたのことが……なんで怒ったのかも、なんで怒らなかったのかも」
「……私としては怒らないようにって思ったんだけど、個人的には今のは確かに怒ってたぞ」
「いや、昔に比べたらあんなの怒るうちにも入らないでしょ。ものが何も壊れてないし」
「信用は?」
「……ヒビくらいかな」
100 :
◆V1gN/9sbLo
:2018/11/18(日) 22:58:00.32 ID:878XYWmy0
佐藤さんは私のもとまで近づいて、乱暴に頭を撫でました。くしゃくしゃと弄るので、髪がばらついてしまいました。
「いーんだよ。別にさっきのことも、怒ってるっていうか失望しただけだから。気にしなくて」
「失望?」
「私は昔からアイドルやりたかったの。で、今やれてるだろ? だったら、藁にも縋る思いで今全力で行かなきゃ生き残れねぇの。少なくとも、はぁとはそんな世界にいる。だってぇのに、あんなチャンスを無下にするなんて勿体ないだろ? だから、そういう意味での失望だゾ☆」
「……」
「お前は生半可な覚悟で入ってきたかもしれない世界。だけど、そこに全力出してるやつもいるってこと」
「……すいませんでした」
「謝ってほしいわけじゃねぇよ」
佐藤さんは、微かに笑いながら言いました。
「で、どうすんだ? はぁとがやる? それとも――」
「やらせてください、撮影。なんかやっぱり、あなたに負けるのは悔しいです。見返してやります」
「……」
「……」
「へへっ。言うじゃねぇの、ありすちゃん☆」
「橘ですっ!」
101 :
◆V1gN/9sbLo
:2018/11/18(日) 22:58:46.27 ID:878XYWmy0
橘さんの撮影が終わりに近づいたころ、俺はようやく下げた頭をもとの位置に戻す機会を得た。
「謝ってきたよ。うちのはぁと、情緒不安定なんです。女の子だからって」
「オイ塩崎☆」
「嘘だよ」
「オイ☆」
「……どう、橘さんは?」
「さあ? 知らねぇよ。はぁとだってこの業界、長いわけじゃないしな」
「違うよ。先輩として、どうよ」
「……ま、いいんじゃねぇの? 過程はどうあれ、やる気は出たみたいだし」
「……お前が言うと、少しだけ安心できるよ」
「そうだな。確かに、ああやって道があるのに燻ってるやつみると、イラつくんだよな」
「……流石はぁと。ぶれないね」
「はぁとははぁとだから」
「うん、いつまでもしゅがーはぁとでいてくれ」
「……うん」
102 :
◆V1gN/9sbLo
:2018/11/18(日) 22:59:26.34 ID:878XYWmy0
後日、事務所に届いた見本誌には、はぁとと橘さんの写真が載っていた。二人とも綺麗に撮られており、特に橘さんのものは異質なものがあった。いわば個性的。紫を基調としたカラーリングに、随所に散りばめられたシックなフリル。お嬢様っぽいというと、彼女は怒るだろうか。はぁともそれなりに綺麗で、大きな声では言えないけれど、抜群のプロポーションをこれでもかと発揮していた。
「そういえば、プロデューサーさんって、佐藤さんのことはぁとって呼びますよね? なんでですか?」
「なんでって……はぁとははぁとだし」
橘さんの無邪気な質問には、そう答えるしかなかった。
俺はぬるくなった珈琲を口に含みながら、暇そうにしている橘さんの相手をしている。ちひろさんは気づいたらいなくなっていて、もはやそれはいつものことだった。
「昔からそう呼んでるから、今でもはぁとのまんまだよ。特に理由なんてないし」
「……ふぅん」
「橘さんだってそうでしょ。橘って呼んでほしいなら、ずっと橘って呼ぶよ」
「結構です。ありすって名前は、子供っぽいので」
「左様ですか」
「左様ですっ」
俺はくるりと椅子を回転させ、意味もなく時間を潰していた。
103 :
◆V1gN/9sbLo
:2018/11/18(日) 22:59:59.84 ID:878XYWmy0
「この後、会議があるんですよね?」
「うん。はぁとの進級と、常務からのありがたいお話」
ここ数日で再びライブバトルに出たはぁとは、なんとランクアップに成功していたのである。今までのはぁとは初期のDランクだったのだが、先日二回目の勝利で晴れて事実上Cランクアイドルとなった。事実上、というのはまだ書類の上ではDランクであり、本日の昇進認定があって初めてCランクになるからである。とはいえCランク入りはほぼ確定事項であり、これもまた大きな一歩である。
「島村さんももうすぐBになれそうだし、橘さんも是非Cランク目指して頑張ってね」
「無論です」
最近では橘さんのモチベーションにも火がついたようで、以前より多少は様々な仕事に出ることを前向きに検討してくれている。
「じゃ、時間だしそろそろ行ってくるね。レッスン室はわかる?」
「大丈夫です。何度か行ったことありますし」
「そっか。じゃあ頑張ってね」
「はい。プロデューサーさんも」
104 :
◆V1gN/9sbLo
:2018/11/18(日) 23:00:30.24 ID:878XYWmy0
最悪な日というのものは突然やってくる。
あの日もそうだったし。たまたま、今日がその日だったわけだ。
「――というわけで、美城プロダクションのブランド化を図る。そういった意味で、そぐわないアイドルは基本的に排斥を考えている」
「……」
美城常務のありがたいお言葉。
それはマジでありがたいお言葉だった。
要約すると、質の高いものへと変化させるため、色物は基本的に排斥していく、という考えなのであった。
「ちょ、ちょっと待ってください!」
「……塩崎プロデューサー。何か意見でも?」
「もちろんです!」
思わず立ち上がっていた。他のプロデューサー達の視線が集まる。それだけでない、企画長達もいる。彼らが同様にアイドルと深くかかわっている人間だ。俺に、そう言えと言っていた。
「うちのアイドルはどうなるんですか? 今が彼女たちの成長期だというのに……」
105 :
◆V1gN/9sbLo
:2018/11/18(日) 23:01:08.41 ID:878XYWmy0
「だったら成熟したものを使えば良い。ここ最近、アイドル業では平坦化が進んでいる。ようは、様々な企業間での個性が少ない、というわけだ。一般受けするものばかりが排出されている。そんな中、我々美城プロはアイドルのブランド化を目指し、頭一つ抜き出ることが必要であると考えた」
「……だったら、私の担当しているアイドルは? 夢半ばで、切り捨てるということですか……?」
「そうだ」
「納得しかねます」
「決定事項だ」
「解せません」
「私はした」
「ならば!」
「……」
「うちのアイドルだけでもやっていけることを、証明すれば良いのですね?」
106 :
◆V1gN/9sbLo
:2018/11/18(日) 23:01:43.04 ID:878XYWmy0
「……塩崎プロデューサー。確か君は、佐藤心というアイドルを担当していたな」
「しゅがーはぁとです」
「……私の主義にそぐわない色物だ」
「だったらうちのはぁとがトップアイドルになったら、考え直してくれませんか?」
「確か……その佐藤心はまだDランクだろう。トップアイドルといえばAランクは必須。その中でも一握りだ」
「だったら一か月でAランクになったら? それが証明されれば、他のアイドル達でも可能なはずです」
オマエ何言ってるの? そんなことできるわけないだろ。でも、それしかないんじゃないのか。うちの子たちを、どうにかしてやりたい。
多くのプロデューサーの意見が、流れ込んでくるようだった。緊張で手が震える。のども、舌も、足も指も。
けど、言わなきゃ気が済まなかった。
だって常務が言っていることは、みんなの努力を否定することだからだ。
107 :
◆V1gN/9sbLo
:2018/11/18(日) 23:02:11.10 ID:878XYWmy0
アイドル業界は厳しい。全員が全員トップアイドルになれるわけがない。だからこそ誇り高い夢が、そこにはある。そして、俺たちはその夢を掴ませなくてはならない。
だったら、俺たちが夢を掴むための努力を否定してはならないはずだ。ブランド化といっても、ようはクールなアイドルを取り揃えるだけだろう。確かにそれも良い判断ではある。だが、そのために排斥するというのは納得がいかなかった。
「言ったな?」
「言いました。ようは業績があれば良いのでしょう? だったら、うちのはぁと以外でも無理じゃない」
「……いいだろう。一か月だ。一か月でAランクになれなければ、君の部署は解体だ」
「……はい」
「一応言っておくが業績が全てではない。現在過去未来全てを視野に入れ、最も適した判断を下すことが全てだ。それに関し、今回が業績をメインにしただけだ」
「……はい」
108 :
◆V1gN/9sbLo
:2018/11/18(日) 23:02:44.53 ID:878XYWmy0
言うんじゃなかった。会議が終わって、すぐそう思った。
けど、言わなければどちらにせよ解体だったのだろう。であれば、その期間が延びただけマシだろう。
「塩崎」
「塩崎さん」
「あ、はい?」
同僚のプロデューサーたちだった。
「まさかあんなこと言いだすなんてな」
「あ、はは……」
「お前のおかげで首の皮一枚つながったよ」
「それは、よかったです……けど」
「ああ。実際に結果出さなきゃいけないからな。じゃなきゃただのほら吹きだ。常務だって、嫌がらせや自己満足でやってるわけじゃないんだよ。この会社を大きくしたいんだ」
「それは……わかってます」
「だから、やんなきゃいけない。そして――それは俺たち、他の部署でも同じだ。お前だけが孤独に戦う必要はないからな。俺が出来れば、お前でもできるはずだ」
「……確かに」
「けどまあ、あんだけ啖呵切ったんだから、実際にAランクになってもらわなくちゃな。今はDだったろ? 無理があるんじゃないか?」
「いや、今日付けでCです」
「……なるほど。二週間でランク一個上げればいけるか?」
「いえ」
「?」
「一週間でBランクになります」
109 :
◆V1gN/9sbLo
:2018/11/18(日) 23:03:16.22 ID:878XYWmy0
「……というわけで、すまんがここから一か月忙しくなる。よろしく頼む」
「はぁ……なんだか突拍子もない話ですね」
島村さんはというと、うまく事態を呑み込めていないようだった。橘さんも同様で、顔をしかめては状況をかみ砕こうとしていた。
「難しく考える必要はないゾ☆ ようは、ここ一か月全力で頑張れば良いってことだからな☆」
「ま、端的に言えばそうなる」
最も状況を把握していたのは、はぁとだった。冷静に、事態を受け止めていた。
「そこで、ここからはレッスンも詰め込んで、ライブバトル漬けの日々になる。申し訳ないが、一か月だけ頑張ってくれ」
「……塩崎さん、私たちより大変ですよね。塩崎さんが頑張ってらっしゃるんなら、私たちも頑張らないとです」
「島村さん……」
「私も問題ないです。もとから、高みを目指していたのですから」
「うん。ありがとう」
「で……覚悟は決まったところで、方針はどうするの?」
「とりあえずは全員のランクアップをメインに据えていく。はぁとと島村さんはAランク、橘さんはBを目指していく」
「……正気か?」
「正直、狂気だよ。けどやらなきゃいけない。それに、世界征服までの時間が早まったと考えろよ」
「……ま、それもそっか」
110 :
◆V1gN/9sbLo
:2018/11/18(日) 23:03:44.78 ID:878XYWmy0
「目下、はぁとは一週間でBランクになってもらう。一週間で二回ライブバトルだ。やれるか?」
「おうともよ。休憩時間はしっかり入れろよ☆」
「うん。考えとく」
「入れろよ!?」
「で、島村さんは今週一回ライブバトル。それでBになってもらう。余裕があると思うから、しっかりレッスン入れつつ残りでBの上位に食い込むか、あわよくばAまで」
「はいっ、島村卯月頑張ります!」
「橘さんもライブバトル。ガンガンやっていくよ。そのほかの仕事も隙間時間に入れていくから、地道に稼いでいこう」
「……よし、頑張るぞ☆」
「というわけで、頑張るぞーっ!」
「「「おーっ」」」
111 :
◆V1gN/9sbLo
:2018/11/18(日) 23:04:11.08 ID:878XYWmy0
冷静に考えると、その晩は無理があったな、なんて思った。
いや、そんな一か月でトップアイドルになれるもんなら誰だってなれているはずなのだ。なれていないということは、その山が非常に険しく厳しいということ。それが証明されているはずなのだ。
だからきっと、これは無理なことなのだ。難しいとかではなく、無理なこと。
何なら一年かかっても――いや、一生かかっても。なれない者はAにはなれない。
けれど、それが目標なのだ。いや、目指す先はもっと先か。もっと上。Aランクなんて比ではない、その先のトップアイドル。世界的アイドル。
それにならなくてはならない。だってそれが、世界征服だから。
112 :
◆V1gN/9sbLo
:2018/11/18(日) 23:04:47.48 ID:878XYWmy0
だが俺の予想に反し、はぁとは一週間でランクをBに上げた。
「塩崎さん、最近どうですか? 寝てます?」
「ちひろさんこそ寝てるんですか?」
「床ってひんやりして気持ちいいんですよ〜」
「俺より過酷ですよ、それ」
ちひろさんのおかげ、というのが大きかった。常に大きくアドバンテージの多い仕事ばかりを選んで持ってきてくれる。もちろん失敗するわけにはいかないが、その仕事に出れるだけで知名度は爆発的に上がる。そういった穴場的な仕事を、たくさん持ってきてくれたのだった。極めつけは、ライブバトルの相手の選択。ギリギリはぁとが勝てる最高の相手を選び、実際戦績も僅差でのものだった。
そういったぎりぎりを見分ける能力が、ちひろさんにはあった。
そのおかげもあって、一週間と三日が過ぎることには、はぁとと島村さんはBランクアイドルになっていた。
Cランクから一か月もしないでBランク入りというのは異例の事態で、他の部署のプロデューサーもこれにはびっくりしているようだった。それに加え、活気立っているようだった。
多分、希望のようなものが見えていたのだろう。あるいは、はぁとにそれを見出したのか。プロダクション全体が、息を吹き返したように精力的な活動に乗り出したのである。
他社間のライブバトルにも数多くのアイドルが参戦し、多くの勝利を収めてきた。そちらの方が知名度が上がりやすいということもあり、多数のアイドルのランクが右肩上がりで増加していった。
いける。そういうタイミングだった。
113 :
◆V1gN/9sbLo
:2018/11/18(日) 23:05:23.75 ID:878XYWmy0
と思ったら、ある日立てなくなっていた。
(あれ……)
なんだか思考がまとまらない。今どこで何時で、さっきまで何をしていたのかがわからない。
頭には柔らかい鉛がのっかったような違和感があり、どこか不透明で異質な感覚がする。
加えて、とにかく不愉快な悪寒があった。頭痛にも似た鈍い痛みが全身にあるようで、倦怠感と嫌悪感を合わせたような独特の濁りを感じた。
これは、やばい。
ぼやける思考でそう考えていた。けれど、そう考えたところで動く手足は重過ぎる。
「ぅ……ぉ、おお……」
なんて声にもならない悲鳴が、絞り出すように出てきていた。
意識が薄れていく。折角取り戻した意識が、まどろむように消えていく。
まずい。多分、これ死ぬやつだ。
過労死。孤独死? 死亡? 死?
なんだかわからないけれど、多分そう。
死ぬのか。いや、死にたくないけど。ぼうっとした思考では、何も考えられなかった。
ゆっくりとまぶたが閉じていく感覚。世界が、狭まっていく感覚。
114 :
◆V1gN/9sbLo
:2018/11/18(日) 23:05:59.32 ID:878XYWmy0
「塩崎さん!」
「……し、ま……むら、さん……」
「はい、何してるんですか!」
視界に入ってきたのは、揺れる長い茶髪。真っ赤に染めた顔。今にも泣き出しそうな、島村さんだった。
それはとても、心配しているような声で。思わず、何をそんなに慌てているのだろう、と思った。
「床で倒れてるなんて、普通じゃありません!」
「ゆか?」
気づけば背中にはひんやりとしたタイルの冷気。気づかない間に、椅子から滑り落ちてしまっていたらしい。
「うぁ……床、だったのか」
「どこだと思ってたんですか?」
「天国」
「もうっ!」
115 :
◆V1gN/9sbLo
:2018/11/18(日) 23:06:28.55 ID:878XYWmy0
島村さんは俺を抱き起し、上半身を抱えた。太ももで体を、腕で頭を支えるように抱え上げている。彼女の体温が伝わってきて、少しだけ安心する。
「昨日は何時間寝たんですか?」
「寝てない」
「一昨日は?」
「覚えてない」
「……」
ぺちり、と額に温かい感覚。島村さんが、俺の頭に手をのせていた。
「馬鹿です……」
いや、やっぱり叩いたのかもしれなかった。
わからなかった。
「……」
「最近、いつ見ても苦しそうな顔してます。心配でした」
「……ごめん」
「謝らなくていいです。ちゃんと休んで、休養をとってくれれば」
「……いや。明日は島村さんのライブバトルだし」
「塩崎さん!」
「……」
「私は一人でやれます。塩崎さんのために……いえ、私のためにも、私は頑張れます」
「……そっか」
116 :
◆V1gN/9sbLo
:2018/11/18(日) 23:07:02.06 ID:878XYWmy0
「島村さん。君は何のためにライブバトルに……いや。君は何のためにアイドルをやってる?」
ふいにそんな問いが出てきた。何故したのかはわからないけれど、なんとなく口から出た問いだった。答えはわかっている質問。まるで、問いただすように。
「自分のためです」
「……」
「自分と、自分を支えてくれる人。その人たちに恩返しするため――つまり、自分のため。そのためなら、私は頑張れます。あなたへの恩返し、でもあるんですよ……」
島村さんは、努力家だ。
昔は養成所にいた。アイドルを目指して、小さいころから頑張っていた。一向に上手くならないステップに、平凡な歌唱力。カラオケなら90点代は出るだろうが、その程度。
よく言えば平凡。悪く言えば凡庸。そんな人間だった。
だから俺は、そんな彼女を見たとき、素直にすごいな、と思えた。
こんな普通な子が、よくもまあ、何年間もアイドルを目指せたな、と思った。
俺だったら途中で折れてしまうだろう。友人が養成所をやめた途端、自分もやめてしまうだろう。他人は有名になり、自分はなれない。その劣等感から、俺はきっとすぐにやめてしまう。
だというのに、彼女は折れなかった。レッスンを続けていた。
117 :
◆V1gN/9sbLo
:2018/11/18(日) 23:07:33.03 ID:878XYWmy0
ある意味――狂気めいたものを感じてはいた。ただただ寡黙にレッスンを続ける。それはもはや背水の陣だとか、負けられない戦いがあるだとか、そういう高尚なことは微塵もなかったのだろう。いや、むしろ彼女には何もなかったのだ。
やめるという選択肢が、もとより存在していなかったのである。
だから、俺は応援したくなった。幼い頃の誰かを重ねた。決して折れることのない、不屈の覚悟。そこに展望を感じた。
実際、島村さんはオーディションに受かった後も平凡だった。決して一気に人気が出たわけでも、元から何かに秀でていたわけでもない。
ただ、止めることをしなかっただけ。ひたすら前に。歩む足を止めることなく。ただただ、歩き続けただけだ。
その結果、今がある。
ひたすらに、がむしゃらに、止めることをせずに、止まることをせずに。ただ歩いてきた。
「……私は、感謝してるんです。塩崎さんに」
「……」
「あなたが倒れたら心配しちゃったりします。私たちのために働いてくれているのであればなおさらです。あなたには、感謝がありますから」
「……ごめん」
「明日は一人で出ます。塩崎さんは、休んでください」
「そういうわけにはいかない」
「……」
「今は忙しい時期なんだ。それに、二、三日寝なかったところで何さ。きっと大丈夫。まだ頑張れる……」
「本当ですか?」
「……」
「本当に、頑張れますか?」
118 :
◆V1gN/9sbLo
:2018/11/18(日) 23:08:02.12 ID:878XYWmy0
その声は。
自分に、言い聞かせているようでもあり。
「疲れませんか? 歩き続けることは。苦しくはありませんか? 足を止めないということは。辛くはありませんか? 前に進むということは。私は――」
「――島村さん」
「……」
「それは、言っちゃいけないことだ」
「……はい」
「君のためにも……いや違うな。俺のためにも、はぁとのためにも。みんなのためにも。君が、一番言ってはいけないことだ」
何よりも努力してきた君が。
努力を否定してはならない。
天性の能力もなく、天賦の才もなく、才能も技能も特質した異能もなく。ただただ普通だった女の子が、今アイドルをやれている。その事実の背後にあるものを、何よりも普通だった君が、否定してはならない。
「ありがとう。でも、立ち上がるよ。自分で立つ」
「……」
「今が正念場だ。人生擦り切れても、今立たなきゃ絶対に後悔する」
「私……」
「頑張れ、島村卯月。俺は、ずっと君を見てきた。君なら頑張れる。ま……確かに明日、ライブバトルに行くのは控えるかもしれないけどね」
「そうしてください」
「うん。余裕がなかったらね」
119 :
◆V1gN/9sbLo
:2018/11/18(日) 23:08:31.21 ID:878XYWmy0
島村さんの体温が離れていく感覚を惜しみつつ、俺は立ち上がる。
視界は不良。体調も不調。足元はおぼつかず、どこに力を入れて立っているのかわからない。けれども立ち上がれた。こけても、立ち上がることさえできれば、それは失敗ではない。
「体調、少しはよくなりましたか?」
「瞼は重いし体は鈍い。さっき自分が何を喋ったかも覚えていない。口の中は乾いているし、お腹も減った」
「……つまり?」
「ベストコンディションだ」
俺は椅子に座り、再びキーを叩き始めた。体が勝手に動いている。まるで、操り人形にでもなった気分だ。
「私、ごはん買ってきます」
「……ありがとう島村さん。恩に着るよ」
「……頑張らない程度に、頑張ってください」
「うん」
120 :
◆V1gN/9sbLo
:2018/11/18(日) 23:08:59.79 ID:878XYWmy0
島村さんが買ってきてくれたコンビニ弁当を食べ、飲み物を飲むと、まるで殴られたみたいに鈍重な眠気が襲ってきたので、流石にこれはやばいと事務所のソファで仮眠をとることにした。幸い、明日までに提出すれば問題ない資料ばかりである。ライブバトルに関しても、日付はとっくに決まっているし、それに関して今更提出すべき書類はない。しいて言えば、営業や撮影の仕事が数件入っているが、それもアポをとるところからなので、一日程度の遅れなら取り返せる。
何より――やはり、体調管理が大切だった。
島村さんの言うことは正しく、良い休憩は良い成果を生む。しっかり寝てから、しっかり働いた方が効率もあがるのだ(まあ、先日までは寝る暇がないほど時間を詰めた生活をしていたわけだが)。
とにかくとして、俺はソファに毛布一枚持って寝ころび、三時間だけアラームをセットして仮眠に入った。
はずだったのだが、目が覚めたら七時間経っていた。
「ぅお……やべ……やらかした」
121 :
◆V1gN/9sbLo
:2018/11/18(日) 23:09:30.78 ID:878XYWmy0
急いで毛布をはねのけ、時計を確認すれば時刻は19時を少し回ったところ。寝すぎたか。いや、それにしても完璧にスケジュールが崩れてしまった。15時には起きて、やりたい仕事があったのに。
「おや塩崎さん。おはようございます」
「ち、ちひろさん!? 今日は休みだったはずじゃ……」
「卯月ちゃんからメールがありましてね。塩崎さんが倒れたーって」
「……」
「ま、私は仕事人間ですからね。休日返上も何も痛くありません」
「ちひろさん……」
「それに、好きな人の寝顔が見れるというのも悪くありませんでしたよ」
「……」
「――すいません。今のは忘れてください……」
そっと目を逸らすちひろさん。恥ずかしがるなら言うなよ……とは思ったが、口には出さない。
122 :
◆V1gN/9sbLo
:2018/11/18(日) 23:09:58.60 ID:878XYWmy0
「すいません、助けてもらってばかりで」
「いえいえ。ところで、例の件のアポは来週に回しましたが、大丈夫ですか?」
「大丈夫です。レッスン室の件なんですが……」
「21日は無事取れましたよ。ただ、23日が怪しいですね。まだトレーナーさんの予定が曖昧で」
「ってことは、万が一取れなかった時のための時間を取っておく必要がありますね。翌日は休日でしたよね」
「はい。仕事はまだ入ってません」
「でしたらそこにレッスン(仮)を入れておきましょう。はぁとはソロ曲、個人的にも練習しているようなので安心できそうです」
「卯月ちゃん、ありすちゃんはソロ曲大丈夫ですかね?」
「島村さんはソロもらってそこそこ経ちますし、橘さんはダンスもそこまで多くありません。やはり、がんがん動くはぁとが心配です」
「……眠ってから、なんかキビキビしてますね?」
「そうですか? だとしたら……島村さんのおかげです」
「?」
俺も椅子に座り、パソコンと向かいあう。
まるで修羅場のような仕事量だが、決して往なせないほどではない。何より、この事務所の仲間と一緒なら、なんでもできるような気がしていた。
仲間、か。
思えば、ずっとはぁとと二人きりでやってきた。そこに、他者が入ってくることなんてなかった。
甘かったのだろう。たかが二人で果たせる夢ではなかったのかもしれない。今になって思えば、もっと仲間は増やすべきだった。
だが、こうして横には必要な仲間がいる。今は、これだけで充分すぎるほどだ。
123 :
◆V1gN/9sbLo
:2018/11/18(日) 23:10:33.10 ID:878XYWmy0
翌日、島村さんはライブバトルに勝利した。俺はやはり余裕があったので控室に行くと、島村さんは困ったように笑ってくれた。
「もう……なんで来たんですか?」
「色々あるんだよ。で、どう。行けそう?」
見れば、島村さんの表情はどこか青い。緊張しているというのもあるだろう。相手はそこそこ知名度の高く、有名なアイドルだった。
「手は震えてますし、体は冷たいです。今にも逃げ出したい感じがします。格上の相手と戦うわけですから、負けるわけにもいきませんし。今すぐにでもこの場を離れて、一人空調の効いたお部屋でゆっくりしたいです」
「つまり?」
「全力で頑張らなくちゃいけない。つまり、これが私のベストコンディションです」
「……うん」
124 :
◆V1gN/9sbLo
:2018/11/18(日) 23:10:59.78 ID:878XYWmy0
結局、島村さんはライブバトルに辛勝した。どれほど僅差であろうとも、勝利は勝利であった。
彼女が歌った曲は「S(mile)ing!」。彼女の持ち曲であり――彼女を示す、意味は笑顔と歌。アイドルに必要不可欠な、だけれども、ただの普通の能力だった。
125 :
◆V1gN/9sbLo
:2018/11/18(日) 23:11:31.62 ID:878XYWmy0
「島村さんはAランク。はぁともBまで来たな!」
「[
ピーーー
]気かオイ☆」
事務所で二人、お昼の休憩をとる。
はぁとはソロ曲の歌唱力のみならず、その独特なパフォーマンスで一躍有名になっていた。まあ、これほど濃いキャラクター、一度見たら忘れられるはずもないだろうけれど(忘れてたけど)。
また、初めてのライブバトルのころから応援しているという筋金入りのファンも多数存在し、はぁとに魅せられた人も数多く存在しているらしい。
俺はお弁当の出汁巻き卵を口に放り込みながら、はぁとを見た。
「残り一週間。それだけでAランク、行けると思うか?」
「現実的な話、無理ではないだろうってのが正直なところだな☆」
はぁとは焼き鯖弁当らしい。鯖をほぐしながら、俺に答えた。
「ま、確かにそんなところだな。あとは運否天賦によるところもあるだろうし。ちなみに俺が聞いたのは、やれそうかじゃなくて、やれるかなんだよね」
「それ、聞く必要ある?」
「……うん」
嬉しくなった。その答えが、聞きたかったのだろう。俺は思わず頬を緩ませ、所在なく箸を空中で躍らせた。
126 :
◆V1gN/9sbLo
:2018/11/18(日) 23:12:23.80 ID:878XYWmy0
「ところで、さっきの会議はどんな内容だったん? なんか嬉しそうにしてたけどさー☆」
「書類上での正しいランクアップが認められてね。島村さんがAで、はぁとがB。橘さんがCってな具合でね。常務にも一応とはいえ認められたっぽいし」
「……けど、解体の可能性は残ってるんだろ?」
「うん。約束は約束、業績は業績ってね。こんだけ頑張って短期間でランク上げまくってる敏腕プロデューサーに、もう少し優しくしてくれてもいいと思うんだけどね」
「そうかもな☆」
「ちなみにはぁと、疲れたりとかしてない? 最近、体の調子はどう?」
「んー、少し疲れてるなっては思うけど、そこまで重くて病的な感じじゃないかも☆ なんというか、純粋にハードスケジュールが少しずつ積み重なってきてる感じだな☆ っつっても、お前が適度に休み入れてくれてるから、そこまでじゃないぞ☆」
「そっか。ならいいんだ」
「で、塩崎は休めてるの?」
「うん、思ったよりね。自分でも、やっぱり休息は必要だなーとか思うわけで」
「ま、そりゃ確かにな☆」
「適度に休みを入れつつやってるよ。頑張れる程度に、頑張ることにしてる」
「……卯月ちゃんみたいなこと言うじゃん☆」
「かもね。移ったのかも」
「……へぇ?」
127 :
◆V1gN/9sbLo
:2018/11/18(日) 23:12:55.81 ID:878XYWmy0
最近活動がスムーズに行えているのは、他の部署との連携にもよるものがあった。先日常務に啖呵を切って以来、何故か俺を英雄視する人が増え、結果的に支援の数が一気に増えたのである。事実、常務のブランド化に関しては文句はないが、それによる色物部署の排斥というものは多くの者が嫌がっており、俺の行動を後押ししてくれる人がちらほら出てきてくれたのだ。
例えばライブバトルの日取りを譲ってくれたり、むしろ自分のアイドルとやらないか、なんて聞いてくれたりもした。これは無名のうちでは中々わかりにくいことだが、いざなってみると実に喜ばしいことだった。
ただ、それに対して俺は必ず一言付け加えていた。
「ありがとうございます。よろしくお願いします。でも、絶対に手は抜かないでください。八百長はダメです。必ずそっちも全力でぶつかってきてください。そのうえで、倒しますから」
結果、ここ数週間でのはぁとのライブバトル数は異例の二桁に突入しており、一日に二回行われるということも多少あった。そのたびに休息は取らせているのだが、やはり心配ではある。急に倒れられたら――ああ、なるほど。島村さんの気持ちが、少しだけわかった気になった。
勿論、はぁとも勝ちっぱなしではない。何度も負けている。というか、事情を知らない者からすれば、まるではぁとがアイドルたちの波状攻撃を受けているような状態なのだ。ありえないほど短い間隔で、幾度となくライブバトルに参戦している光景は、理由が見えなくては馬車馬のように働いているようにも見えるのだ。そこにネットでは「生き急いでいるのでは」といった意見も見られ、実際に否定できないところもあるのだった。
生き急いでいる。確かにそうだ。
今この刹那を、全力で生きている。そしてこの刹那に、人生を懸けている。
128 :
◆V1gN/9sbLo
:2018/11/18(日) 23:13:24.78 ID:878XYWmy0
馬鹿なことかもしれない。もっと長く見て、未来に懸けた戦いをすべきかもしれない。けど、俺は俺で、はぁとははぁとであるように、俺達にはこの手段しかなかった。きっと何度繰り返しても、またここにたどり着くだろう。そして、また同じ道を選ぶ。
ならば簡単だ。千載一遇のチャンスが、向こうから来てくれている。あろうことか、そこで待ってくれている。であれば、それは逃がせない。ただではすませない。絶対に掴んで、一気に引っ張り上げてもらう。
それが、俺たちの今だった。
129 :
◆V1gN/9sbLo
:2018/11/18(日) 23:13:56.35 ID:878XYWmy0
「ところで、はぁとって後何回くらい勝てばAランクになれるの?」
「そうだなぁ。あと二回ってところかな。もちろん、撮影とか諸々の細かいところを切り詰めて、二回でぎりぎり滑りこめそう。もちろん完璧ってわけじゃないけれど、幸いにもライブバトルのチャンスはあと三回ある。一回までなら、負けても構わない」
「なんだよその言い方☆」
「……そうか。ごめん、変なこと言った」
「おう☆ 負けてもいいだとか、そんなことは言うんじゃねぇゾ☆ 勝つために、はぁとはここにいるんだからな☆」
「うん」
確かにこれは、変な言い方だった。あらかじめ負けを見越していくなんて、自分らしくない。そう思った。
しかし、そう思うのも当然――明日のライブバトルの相手が相手だったのである。
それは神懸かり的歌姫。颯爽と美城プロダクションに現れては数多くのファンの視線をかっさらい、一躍有名になった女王。
高垣楓。彼女の戦いが、明日に控えているからであった。
130 :
◆V1gN/9sbLo
:2018/11/18(日) 23:14:24.35 ID:878XYWmy0
翌日、俺と一緒に控室に入ったはぁとは、まるで呪詛のように持ち曲の歌詞を詠唱していた。
「……」
喋りかけるのも憚られた。それだけ緊張しているのだろう。空調は効いているというのに、彼女の肩は震えていた。吐く息さえも苦しそうに、呼吸を戸惑っている。
「塩崎……」
「なんぞ」
「勝てると思う?」
「わかんない。何しろあっち、Aランクだし」
ランクバトルは基本が同ランク帯のアイドルバトルとはいえ、それも必ずそうでなくてはならないというわけではない。むしろ、一ランク差のアイドル同士であれば、経験の差だけではなく実力の差にもよるため、かえって上位ランクのアイドルとのバトルを挑むことは少なくない。つまり、実力のみがものを言うこのライブバトル、ランクだけを見てはいけないのである。
とはいえ、高垣楓はAランクの中でも更に上位の、まさしくトップアイドルである。世界の歌姫としても呼ばれており、海外人気も高い。近頃の日本でのアイドルブームの先端を走り続けている、一線級の女王なのだ。
「……わかんないか」
「うん、わかんない。もしかしたら勝てるかも、としか言えない」
「そっか」
ふと、沈黙が訪れる。
耳を澄ませば、入ってきた観客の喧騒が聞こえてくる。誰のために来たのだろうか。はぁとのためなら嬉しいけれど、高垣楓のためだろうか? 多分そうだろう。きっとそうだ。
「なあ、塩崎」
「なんぞ」
131 :
◆V1gN/9sbLo
:2018/11/18(日) 23:15:15.74 ID:878XYWmy0
「今から弱音吐くから、聞き流して、背中を叩いてくれる?」
「……いいよ」
「もし、外に来てる観客がさ。全員高垣楓のファンで、私のことなんて知らない。コールも歓声も、何一つ上げる気なんてなかったら、どうしよう」
「……」
「私なんてただの前座。ミニサラダみたいなもんで、別になくってもいい、とか。思われてたら、どうしよう。私、どうしよう……」
「……」
「塩崎ぃ……」
今にも泣きそうな顔で。
俺を見た。
プレッシャーは相当なものだろう。何しろ、相手はあの高垣楓だ。
格下が勝手に挑んで、無残に敗北するならまだいい。けれど、そこには観客がいる。冷えた目線。自分のことなど、目もくれないような態度だったら?
それはとても、惨めなことだ。惨めなことは悲しくて悔しくて、嫌になる。はぁとはそういう人間だ。少なくとも俺にだってそういう気持ちはわかるし、はぁとはそれよりも何倍も敏感に感じてしまうだろう。
自分を見てくれるのだろうか。
「はぁと」
「……」
「多分、そうかもしれない」
「……」
132 :
◆V1gN/9sbLo
:2018/11/18(日) 23:15:43.21 ID:878XYWmy0
「もしかしたら、観客は全員高垣楓を見に来てるのかもな。お前のことなんて知らない。佐藤心? しゅがーはぁと? 誰? みたいな」
「……」
「けど、それでいいんだよ。むしろ、そうじゃないとおかしいだろ」
「……え?」
「世界征服なんて言っても、まだ駆け出しだろう、俺たち。だったら、俺たちのことなんて知ってるやつはほぼいない。もしいたとしても、身内だったり俺たちをもとから知ってるやつらばかりだ。だからむしろ、この状況はただのスタートラインなんだよ」
全世界の人間の、心の片隅に残ること。
誰に聞いてもしゅがーはぁとを知っていて、そしてどんなカタチであれ、しゅがーはぁとが全世界に広まっている状態。すなわち、世界に知れ渡るビッグなトップアイドルになること。
その結果があるならば、スタートラインは世界的に知られていないということ。
「どちらにせよ……いずれ戦わなくてはならない相手だしね。今のうちに戦っておくのも悪くはないでしょ」
「塩崎ぃ……今そういう話してるわけじゃなくない?」
「いや、そういう話だよ」
「……」
「失敗したことのないスターはいないよ。誰だって何度もこけて、そして立ち上がってる。それに、はぁとは普通の人よりもたくさん立ち上がってるしね」
「……それって、たくさんこけてるってことでもあるよな?」
「ま、ね」
「……ったく」
はぁとはずぼりと髪の中に手を突っ込んで、強引にかき乱した。整えた髪が台無しだ。けど、それが俺には正しいことのように思えた。
無法故に自由。無秩序故に軽快。
133 :
◆V1gN/9sbLo
:2018/11/18(日) 23:16:13.86 ID:878XYWmy0
「くそ……!」
がつん、と地団駄を踏む。地面に悪感情を吐き出して、彼女はさらに髪を振りほどいた。
結んだツインテールをほぐす。髪はぱらぱらとわかれながら落ちて、虹色のカーテンのように瞬いた。
「立ち止まってる場合じゃない、ってこったな」
「そういうこと。下向いてる場合じゃないぞ」
「怖くて今すぐ逃げ出したい。あんな強大な相手とやるのなんて、私にはまだ早いと思う。敵地は四面楚歌だ。ここはホームじゃない」
「それがどうした? 一個でも多く、高垣楓に勝ってこい。お前が全敗するとでも思ってるのか? はぁとは確実に、勝ってるところがあるはずだ。それがはぁとの、大切なところ」
「……おう☆」
「よし、行くぞ」
肩にそっと、手を添える。震える肩が、やがて収まる。
134 :
◆V1gN/9sbLo
:2018/11/18(日) 23:16:46.70 ID:878XYWmy0
結局、はぁとは高垣楓に敗北を喫した。点数差も僅差とはいえない、圧倒的な敗北だった。
しかし、重要だったのは敗北よりも――高垣楓ではなく、はぁとに点を入れてくれた人もいた、ということ。一人一票しか投票出来ない形式上、基本的には好きなアイドルに投票することが多い。それに加え、今回のバトルではあの世界の高垣楓が相手だったのである。点数差は絶望的。ワンサイドゲームではあったものの――わずかでも、はぁとに入れてくれた人もいた、というわけだ。
それが、なによりも重要な出来事。
はぁとを見てくれる人がいる。昔からの、大きくて小さな進歩だった。
「やっぱり勝てないか……」
「そりゃな」
「オイ塩崎☆」
「でもいいだろ。立ち上がりやすいこけ方だ」
「それに……楓ちゃんに塩までもらっちまったしな☆」
「……塩?」
「うん。色々アドバイスもらっちゃった。歌い始めの声の出し方のコツとか。はぁとにも使えるかはわかんねーけど」
「……そっか」
色んな人が、俺たちのことを応援してくれているみたいだった。
それはとても、嬉しいことだ。全員が、俺たちの背中を押してくれている。気づかなくては、いつまでもわからなかったことだ。だから、気づけたことが嬉しかった。
135 :
◆V1gN/9sbLo
:2018/11/18(日) 23:17:13.63 ID:878XYWmy0
「楓ちゃん、塩崎のこと応援してたぞ」
「マジで?」
「うん。楓ちゃんも、常務とやらの意向には反対なんだと」
「……」
確か高垣楓はブランド化の際のトップアイドル筆頭。すなわち目玉として扱われ、今回の経営方向の転換でも変わらず前線に立ち続けていたはずである。そんな彼女にも、やはり何らかの思いがあったのだろう。俺たちを応援してくれているということは、すなわちそういうことである。
「……何はともあれ、あとは負けられない戦いしかない」
「おう。ま、最初っからそんなもんだったけどな」
「行こう、はぁと。風邪をひいてしまうからね」
136 :
◆V1gN/9sbLo
:2018/11/18(日) 23:17:43.39 ID:878XYWmy0
次なるライブバトルにて、はぁとは圧勝。高垣楓からのアドバイスを活かせたのか、彼女の不得意とするダンス中に歌う際の声のぶれが減り、全体的な完成度は一気に向上していた。もとより、彼女のソロ曲はアップテンポなところもあったため、いずれにせよ早期にそのテクニックの習得はせねばならなかった。
そういう意味ではまさに鶴の一声。高垣楓のアドバイスは実に効果的に作用したわけである。
おそらくこの調子でいけばAランクに昇格はできるだろう――というのが、現在の見通しだった。そもそも、Aランクになること自体は、一定のセンスか、もしくはある程度の芸歴さえあれば難しいことではないらしい。問題は、実際にAランクに昇格してから、どこまで行けるか。下位で燻るか、それとも昇っていくか。それはやはり、アイドルの素養の問題である。
137 :
◆V1gN/9sbLo
:2018/11/18(日) 23:18:12.11 ID:878XYWmy0
翌日に会議が開かれた。内容は他部署の猛進中アイドルのランクアップなどにまつわることであり、ここ数週間で一気に多くのアイドルが燃え始めていることは明らかだった。つまり、やればできるということが常務にも伝わったのである。
これはかなりの僥倖であった。あの美城常務が、変な顔をしながら俺のことを見ているのである。
「……塩崎プロデューサー。君の言うことを……どうやら、認めなくてはならないようだな」
「ありがとうございます」
「だが、ブランド化の件については中止しない。これは決定事項だからな。ただ……若干、他の部署にも手を回そう。ひとまず、他アイドルたちの排斥に関しては見送ることとする」
瞬間、その部屋から歓声が沸いた。
これが、俺たちの求めていたことである。それが今この瞬間、果たされたのである。
夢半ばで散ったもの。今も夢を追っているもの。みんなの努力が、切り捨てられることはなかったのである。
猛烈な高翌揚感。あの常務に、認められたのだという、火柱のような熱が、俺の中をぐるぐると回りながらうねっている。
「だが、無論約束は約束だ。君の担当する……しゅがーはぁとがAランクにならなければ、君の部署は解体だ」
「はい!」
それは事実上の認可とも言えた。俺たちの功績は全て常務が把握しており、現在のはぁとの状況もきっちり理解しているのである。それに加え、近頃の猛烈な追い上げもわかっていることだろう、常務は困ったように表情を緩め、俺を見た。
「結果が全てだ」
「……はい」
「他者の目に映るのは結果だけだ。過程はどうあれ、そこに残るのは結果だけだ。だから私たちは、何よりも結果を重要視しなくてはならない。そして、それと同じように……過程も、いや、もっと多くのものも重要である、というわけだ。今回、つくづく実感させられた」
常務は目を閉じ、俺に言い放つ。冷たく――だが、認めてくれたかのように。
「では引き続き、気兼ねなく邁進を続けてくれ。以上、解散とする」
138 :
◆V1gN/9sbLo
:2018/11/18(日) 23:18:40.42 ID:878XYWmy0
「余裕が出来たので、橘さんもライブバトルやろっか!」
そう言った翌日には、本当にライブバトルが出来てしまっていたのだから、まったくびっくりである。
とはいえ、今回の形式は他社間で行われるワンオンワンバトル。すなわち、アイドルランクには大して影響のないライブバトルである。とはいえ、全くの無関係というわけでもなく、実際はきちんと経験値としてポイントが加算される。ただ、同社間帯での頭一つ抜き出るライブバトルに比べれば、一歩ポイントの少ないバトルではある。
故に、無意味とも言い切れない。加えて、他社アイドルの現状や自分の世界での立ち位置を知れるということもあり、得られることは表面下ではあまりにも多い。それ故、得られることも多いだろう。そういうことを見越しての選択だった。
139 :
◆V1gN/9sbLo
:2018/11/18(日) 23:19:07.84 ID:878XYWmy0
そして会場入りして、気がついた。俺の横で、余裕があったからといってどうしてもついてきたはぁとが、ぼそりと呟いた。
「おい塩崎。何の冗談だ?」
「さあね。そも、ライブバトルの相手は当日まで知らされないのがセオリーだろ……?」
相手は見たことのある顔だった。というよりも、忘れたくても忘れられない顔。はぁとをこの世界に強く引きずり込んだ要因。
対する相手の名前は、七見椒子。今日橘さんとバトルするのは、例の、五人目のオーディションの女の子だった。
「……激やば?」
「劇的にやばいと書いて、激やば」
「書いてないぞ☆」
冗談でも言わなくては、やってられない。そんな状況下だった。今すぐにでもこの場から去りたい、そんな気分。
何より、戦う相手が橘さんだというのが最高に分が悪い。これがはぁとであれば一泡吹かせることなど容易いだろう。今のはぁとは、昔とは違う。質の良い練習を、淡々と積んできたのだ。
「よし、準備はどう?」
「いつもと同じ感じです。少し寒気がして、空調だってついてるはずなのに何故か温かくない。それに、指先が震えて止まりません」
「つまり?」
「ベストコンディションです」
「うむ。平常通りだね」
少しずつだが、橘さんは自分の感情を俺たちに教えてくれるようになっていた。弱みを教えてくれる、と言ってもいいのだろうか。ともかく、今自分の思っていることを、比較的ストレートに教えてくれるのである。
「ま、気負うことなくやればいいよ。相手は確かに格上だ。同じCランクって言ったけど、おそらくあと数勝もすればBに上がるだろう。それだけの実力はある」
「ご存知なんですか?」
「ご存知もなにも、俺が捨てた石ころだからね」
「?」
140 :
◆V1gN/9sbLo
:2018/11/18(日) 23:19:34.07 ID:878XYWmy0
「石ころとは言うじゃねーか、塩崎☆」
ぬ、と控室にはぁとが入ってくる。少しお手洗いに行くとのことだったので、俺だけ先に控室に来ていたのである。
はぁとはというと、なんでもないようないつもの表情で、柔らかな笑みを浮かべながら橘さんを見ていた。どこか勝気な笑み。いつも通りだった。
「さ、佐藤さん? いらっしゃったんですか?」
「おう、ありすちゃんおはよう。暇だったからな〜♪ ってか、はぁとって呼べよ☆」
「佐藤さん」
「……」
頭をかくはぁと。一応、こんなでもアイドルなんだよなぁ……。
「で、どうよ。励ましに来たつもりだったけど、いらないっぽい?」
「け、結構です。佐藤さんなんていなくても、私はやれます」
「ふーん? ま、それならいいんだけどな☆」
「……」
「頑張れよ☆ 応援してるからな☆」
「……あ、ありがとうございます。有難く頂戴しておきますっ」
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