水本ゆかり「人形の檻」【ゆかさえ】

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1 : ◆wsnmryEd4g [saga]:2020/10/18(日) 08:43:18.56 ID:iX/HvtXE0
ゆかさえ誕SSです
2 : ◆wsnmryEd4g [saga]:2020/10/18(日) 08:45:52.30 ID:iX/HvtXE0


   一

小さい頃から温厚でいつもぼんやりしていた。

そんな私の性格は、周りからは落ち着きのあって手のかからない子だと誉めそやされはしていたものの、家族、特にお母さまは、私の無防備な振る舞いを内心とてもご心配なさっていて、「知らない大人のひとに付いて行ってはいけませんよ」とか、「下校する時は寄り道せずにまっすぐ帰って来なさい」というようなことを、中学に上がってからも散々口をすっぱくしておっしゃっていたくらいだったから、その日、演奏会から帰った私が、「お母さま、東京からアイドル事務所のプロデューサーという方がお見えになって……」と見知らぬ男性をお屋敷に招いた時は、まるで目の前で交通事故が起きたような真っ青なお顔をなさって、慌てて警察に通報したほどだった。

この時の、お屋敷中を騒がせたお母さまの豹変や、私の頓珍漢な言い訳の数々は、私が青森に帰省するたびに、いつも思い出深く語られる笑い話になっている。
3 : ◆wsnmryEd4g [saga]:2020/10/18(日) 08:47:13.68 ID:iX/HvtXE0

本州北端は青森の外れ、なだらかな山並みを遠景に背負った平凡な町中に、ひときわ目立つ建物がある。
それが私の家だった。

建築当時はハイカラだったという西洋風のお屋敷は、私が生まれた頃はもう、現代的な町の風景にのまれて時代に置き去りにされていた。
五百坪あまりの敷地や、二十もあるお部屋は、それこそ昔は多くの兄弟姉妹や二世帯家族を住まわすために必要だったかもしれないけれど、私と、私の両親、そして父方の祖父母の五人程度で暮らすには明らかに不釣合いな広さだった。

実際、水本家はかつて県下有数の大地主だったと、お父さまはよくおっしゃっていた。

そんな封建的権威主義の名残のようなお屋敷は、現代においてはむしろ滑稽な印象ばかりが目立っていたように思われる。

派手で見栄っ張りなアーチ状の門、手入れするだけでお金のかかりそうな広大な庭、何年も使われていない形だけの噴水、威圧感のある白塗りの外壁に規則的に並んだロココ調の窓枠、その三階にひょっこりひらけたバルコニー……そうした無神経な華やかさは、どこかみじめな虚しさがあった。

けれど、それは同時に、女性的な可愛らしいわがままや、優しさ、気品さに置き換えることもできた。

とりわけ冬、町のすべてが雪に覆い尽くされる季節、その日暮れ時の静寂の中で、こんもりした雪を頼もしく支えながら、窓の明かりを優しく庭に投げかけているお屋敷のシルエットが、私には無性に切なく映って、そしてたまらなく好きなのだった。
4 : ◆wsnmryEd4g [saga]:2020/10/18(日) 08:47:53.29 ID:iX/HvtXE0

そのようにして、私があのお屋敷に思いを馳せる時は、いつもそこにお母さまの面影を重ねて見ていた。

「お母さまって、まるで暖炉みたい。そこに座っていらっしゃるだけで、どんな寒い冬でも暖かくなるような気がする」

ある時、私がふと思いついた感想を呟くと、それを聞いたお母さまは可愛らしくお声をあげてお笑いになって、

「おかしな子。それじゃあお母さまは、夏になったら用済みね」

とすましたようにおっしゃるから、
「そんなこと……!」
と慌てて自分の言葉を打ち消して、それから、悲しくなった。

お母さまもお母さまで、私が傷ついたと見るや否や、困り顔で「冗談ですよ」などとおっしゃって、そっと私の手を取ったりした。

そうした動作の一つ一つまでもが、美しかった。

テーブルの上に投げ出した私の手のひらに、気付くとお母さまのお手が触れている。
遠慮がちに、まるで傷つきやすいガラス細工の表面を撫でるように、私の指を包む。
少しうつむき加減に私と繋いでいる手を見つめ、それからためらいがちにお顔を上げて、次に、私を見る。
そうすると、今度は私がうつむいてしまう番なのだった。
5 : ◆wsnmryEd4g [saga]:2020/10/18(日) 08:49:09.17 ID:iX/HvtXE0

お母さまは、決して裕福な家に育った人ではなかった。

その昔、まだ駆け出しの政治家だったお父さまは、アルバイトでウグイス嬢をしていたお母さまに一目惚れした。

この馴れ初めのエピソードは、数年前、お父さまが客人を招いてお酒をふるまっていた時に、その客人の方がうっかり口をすべらせて、それで私は初めて知ったのである。

それまで、お父さまもお母さまも恥ずかしがってちっともお話してくださらなかったから、その時私はその客人の御方が酔って話すのを熱心に聞いたものだった。
横でお父さまが年甲斐もなく慌てふためき、お顔を真っ赤になさっていたのは、いま思い出しても笑ってしまいそうになる。
酔って顔が赤いのだと言い訳をしていらしたけれど、私は、台所で聞き耳を立てていたお母さまのお顔までもが赤くなっていたのを、よく覚えている。

ともかく、そのような出会いがあって、お母さまは水本家に嫁いだ。
けれどお母さまは、今でもそうだけれど、少し世間知らずな所がおありだったから、このお屋敷に住み始めた当初は何もかも勝手が分からずにしくじってばかりいたのだという。
政治家の、それも由緒ある家柄ともなれば、何より世間体との付き合いに苦労するものである。
こんな広いお屋敷だから、家事労働だって一筋縄ではいかない。

それでもお母さまは私の前では弱音や愚痴など一言も洩らさなかった。
あるいは、生来呑気な性格でいらしたから、そうした苦労を苦労とも思わなかったのかもしれない。

私にとってお母さまはいつも優雅なお人だった。

野生に咲く一輪の花のように、健気だけれどもたくましい感じがあった。
6 : ◆wsnmryEd4g [saga]:2020/10/18(日) 08:50:06.47 ID:iX/HvtXE0

いつだったか、確か小学校低学年の頃、私が近所の餓鬼大将に執拗にからかわれていた時期があった。

蛇の模型で驚かされたり、下校中に雪玉を投げつけられたり、挙句にはスカートを捲くられたりもした。

それに私もこんな性格だから、最初のうちは不幸な事故に会うものだなぁなんて能天気にぼうっとしていて、それからようやく周囲の友人に「なんで怒らないの?」と言われてはっと気付くような有様だった。

それについて、私がお母さまにどうやって相談したか、実はあまり覚えていない。

覚えていないくらいだから、当時の私はそのことをあまり真剣に考えていなかったのだろう。

お母さまは、そのいじわるな餓鬼大将の話を聞いても、少し表情を曇らせただけで怒ったりなどはなさらなかった。
ただ一言、「ゆかりはもう少し……そうね、もう少し、自覚を持つようになさい」とおっしゃったきりだった。

それは決して責めるような物言いでなく、朝露にぬれた木々の葉っぱが自然と水滴を垂らすような、何気ない一言だったけれども、かえってそんな何気なさが、私の心の水面に、無視できない小さな波紋を落とすのだった。

自覚。

その言葉の正体を、私は今でも知らずに生きている。

私が私の人生に対して抱く感想は、いつも私を守ってくれる人の言葉の中にあった。

青森を離れ東京へ出るまでの十五年余、無知ゆえに流され易かった私の良心は、お母さまのそうした何気ない言葉や、また長い年月を経て水本家の歴史と融和していったお屋敷の、白い雪の景色の中に、魂を何色にも染められないまま、絶えず守られ続けてきたように思われる。


ところで、例の餓鬼大将は、ある日、お母さまが将棋でこてんぱんにやっつけてしまった。
小学校の親子レクレーションで、近所では負けなしと豪語していた彼らの得意気な鼻っ柱を、あの優雅な調子で容赦なく粉砕してしまったのである。
それ以来、私が餓鬼大将にちょっかいを出されることはなくなった。
7 : ◆wsnmryEd4g [saga]:2020/10/18(日) 08:51:02.80 ID:iX/HvtXE0

中学最後の冬に、私は家族みんなと一緒に新青森駅の新幹線のホームに立っていた。

三月の、珍しく雪がふぶいていた日だった。

灰色の高い屋根の下で、冬の終わりの冷たい風が、私たちの白い息をあちらこちらに散らしていた。
お祖父さまとお祖母さまも見送りに来てくださっていて、これから一人で旅立って行くというのに、あまり寂しいという感じがしなかった。

私は、お母さまやお祖母さまが同じ注意を何度も繰り返しなさっているのを、はい、はい、と頼もしく答えながら、一方では、手袋を車の中に置き忘れてきてしまったことに気付いて、家族をますます不安がらせたりするのだった。
そうしてお父さまが、

「東京はここよりずっと暖かいだろうから、いらないんじゃないか」

とおっしゃるのを、お母さまは頑として受け入れようとなさらず、しきりに自分の手袋を私に持たせようとした。

結局、私の手にはお母さまが長年使っていた手袋がはめられた。

「切符はちゃんと持った?」
「忘れ物はもうない?」
「下宿先に着いたらきちんと挨拶するんですよ」
「菓子折りは潰さないように気をつけなさい」
「何かあったら駅員さんに言うんですよ」
「寂しくなったらいつでも連絡しなさい」

そうしているうちに新幹線が来て、私はたくさんの荷物をかかえながらデッキに乗り込んだ。

後ろから、お父さまの応援するような掛け声が聞こえて振り返った。

みんな、思い思いの表情を顔に浮かべて、そしてそのほとんどは私を心配するためにどこか不安げだったけれど、私なんぞといったら、そうして大事そうに見送られることがなんだか妙にこそばゆくて、デッキに突っ立ったまま、曖昧な微笑をずっと浮かべてばかりいた。
8 : ◆wsnmryEd4g [saga]:2020/10/18(日) 08:52:05.93 ID:iX/HvtXE0

お母さまが、もう座席につきなさい、とおっしゃった。
それで私はのろのろと新幹線の中に入って行った。

車内は暖房が効きすぎなくらい効いていた。
窓際の指定席に座ると、ホームで手を振っている家族四人が見えた。

お母さまは、大きな荷物は上の棚に置きなさい、というようなことを身振り手振りで指示なさっていた。
私は重たいキャリーバッグを不安定な体勢で持ち上げて頭上の棚に置いた。

そうして落ち着いてからも、相変わらずお母さまたちは窓の外から心配そうに私を見つめていらしてばかりいた。
私はまた少しこそばゆい気持ちがして、まるで遊園地の乗り物に一人で乗って得意そうにしている子供のように、いたずらに窓の外に向かって手を振っているのだった。

アナウンスが流れ、扉が閉まった。

突然、お母さまがその場にうずくまってしまわれた。

私は思わず身を乗り出して、どうしたんだろう、どこか具合を悪くされたのかしら、などと考えていた。

そうして私は、窓越しにうずくまったままのお母さまと、そんなお母さまの肩を抱いて堪えがたいものを堪えているようなお父さまの姿とを、何か自分がおそろしい事をしてしまったような気持ちで見ていた。

やがて新幹線がゆっくりと走り出した。
お父さまやお祖母さまたちは小さく手を振って見送ってくださった。

けれどもお母さまは最後までその場に座り込んでいらしたきりだった。

そうして窓の向こうに次第に遠ざかっていく家族の姿を、私はそれが見えなくなってしまうまで見つめていた。

新青森駅を発てばすぐ、窓の外には雄大な八甲田山を眺められるに違いなかった。
しかしその日は吹雪のために灰色の憂鬱な風景が通り過ぎて行くばかりだった。
9 : ◆wsnmryEd4g [saga]:2020/10/18(日) 08:53:33.03 ID:iX/HvtXE0

途端に、私はひとりになった。

故郷が、ずんずんと、おそろしい速さで遠ざかっていくのを、私は急に焦るような気持ちで眺め出した。
外はこんなにも天気が荒れているのに、家族を置いて、私だけがこうしてぬくい座席に座り、故郷を見捨てようとしている、そんな思いがした。

両手にはめたお母さまのお気に入りの手袋が、ここでは暑すぎるくらいだった。
そして駅のプラットホームでのお母さまのご様子を思い出して、私は、この手袋を私にお譲りになったせいで、お母さまのお手が冷えて、それであんなになってしまわれたのだ、と思った。


急に、さびしくなった。

いますぐお母さまに会いたいと思った。

そう思うと、目から涙が溢れて止まらなかった。

新幹線が暗いトンネルに入って行った。
10 : ◆wsnmryEd4g [saga]:2020/10/18(日) 08:55:03.24 ID:iX/HvtXE0


   二

冷房のひんやりした空気に飽きてベランダに出ると、地平の果てに太陽が沈んでいくのが見えた。

眼下にひろがる巨大な街が、真夏の夕焼けにまんべんなく染まっていた。

もう、あれから二年半になる。
ここから眺める景色も、見慣れてしまった。

「なんやえろう眩しいなぁ」

背後で紗枝ちゃんの声が聞こえた。
と思うと彼女はすでに私の横に並んで立っていた。
冷房のために冷えた細い腕を、夏の大気に馴染ませるようにさすりながら、そうして眩しそうに夕日を眺めているのだった。

先ほどまで紗枝ちゃんと楽しく話していた故郷の思い出が、なぜだか急に懐かしいものとして私の心に蘇ってくる。長い夢を見ていたような気さえするほどに。

「ゆかりはんの部屋、見晴らしええんやなぁ……こんな真っ赤な夕日、久々に見たわ」

「そうなんですか?」

「うちの部屋、東向きやし、景色いうても周りが背の高いびるばかりで味気ないんどす」

「でも、この部屋は陽が射して暑いですよ」

「うちの部屋かてべつに涼しいわけやあらへんもん」

「そういうものでしょうか」

しめった風が吹いて私と紗枝ちゃんの髪をなびかせる。
このベランダに吹く風はいつも、東京の街の喧騒と臭いを一緒くたに運んでくる、そしてそれがこの時だけは、なんだか物憂げな、切ないような倦怠を私の胸のうちに呼び覚ますのだった。
11 : ◆wsnmryEd4g [saga]:2020/10/18(日) 08:55:44.98 ID:iX/HvtXE0

「今日は長いこと話し込んでもうて、かんにんな」

「いえ、私の方こそ、たくさんお話できて楽しかったです」

「うちも暇ができたら青森行ってみたいわぁ。そしたらゆかりはんのその立派なお屋敷も遊びに行けるやろか」

「もちろん、歓迎しますよ」

紗枝ちゃんはベランダの手すりの上に腕を重ねて、その手の甲に、気だるげに顎を乗せながら「はぁ」と小さく溜め息をついた。
夕日の赤がもろに彼女の顔に当たって輝いていた。
斜陽、そんな言葉が、不意に頭の中にひらめいた。


……この二年半、細々と続けていたアイドルのお仕事は、けっして華やかなだけではなかった。

むしろ私にとっては、華やかさとは無縁の、地道な、泥くさい日々ばかりが思い返される。

グループで一人だけ遅れを取って、夜、居残りで曲の振り付けを練習した日々。
人前できちんとお話ができるように、テレビやラジオ番組のトークに合わせてしゃべる練習をしてみたりもした。
野外のイベントで通りすがりの人にやじられたり、握手会で露骨に自分のスペースだけ人が集まらない事も少なくなかった。
報われない自分の惨めさに、涙をこぼした日だってある。

けれど、私はそれで後悔したことは一度もなかった。

それはもしかすると、私がアイドルというお仕事を楽しんでいたからかもしれないし、あるいはそんな不条理な世界に対する免疫が元々私の中に備わっていたからかもしれない。

どちらにせよ、私は今日までアイドルを続けることができた。

同期の、他のアイドルたちが次々に辞めていっても、私は自分のステージを夢見るのをやめなかった、それはともすれば私が初めてフルートを学び音曲の世界に足を踏み入れたその時からずっと夢見ていた場所と、少しも違わないような気がするのだった。
12 : ◆wsnmryEd4g [saga]:2020/10/18(日) 08:56:42.02 ID:iX/HvtXE0

今年の春、私の所属していたグループが解散した。

原因は、私なんぞには分からないくらい複雑だったようだけれど、一番は、メンバーのリーダー格が引退した事が引き金になったと言われている。
でも、きっと本当のところは、売れなかった、ただその一言に尽きる、他愛もない、ありふれた理由なのかもしれない、いや、きっとそうに違いなかった。

事務所のプロデューサーさんは、グループが解散した後も私たちを励まして面倒を見てくださったけれど、大半のメンバーは、自分たちの活動が実を結ばなかったこと、厳しい競争の世界に嫌気がさしてしまったこと、そんな心境から、アイドルを辞め、事務所を去っていった。

……こうして振り返ってみると、私はむしろアイドルでありたいと願うより、アイドルを辞めたいと思うほどの理由を見つけられなかった、それだけのために今、ここにこうして紗枝ちゃんと一緒にいる、そんな気さえしてくるのだった……。


空はもうすっかり夜だった。

私は自分でもどれくらいそうしていたか分からないくらい、ぼうっとしていたらしかった。

隣りでは紗枝ちゃんが同じようにぼんやり街を眺めていた。

私たちのいるベランダには背後から部屋の明かりが漏れ出ていて、そしてそのために紗枝ちゃんの整った横顔が、今度は暗がりの中に影になって浮かんでいるのだった。
私はその何か考えにふけっているような紗枝ちゃんの物憂げな横顔をしばらくじっと見つめていた。

「綺麗ですね」

思わずそんな言葉が口をついて出た。

「ほんまやなぁ」

紗枝ちゃんはそれとは違う意味にとらえて返事をした。

実際、街は夕闇から夜へと輝き始めていた。

しかし私はそれでも尚、彼女の横顔から目を逸らすことができずにいたほどだった。
13 : ◆wsnmryEd4g [saga]:2020/10/18(日) 08:57:38.13 ID:iX/HvtXE0

彼女と初めて出会ったのは私がこの寮に越してきた時、つまり二年前のことになるけれど、彼女とこうして親しくお話ができるようになったのはつい一週間前のことである。

きっかけは、あるドラマ番組での共演だった。

というより、今まさにそのドラマの撮影に向けて二人で親睦を深めようとして、それで彼女を私の部屋に招いたのだった。

それまで私たちは寮の同じ階に住んでいながらほとんど接点がなく、お互いなんとなく顔見知りな関係のまま長い間すれ違っていたのが、一緒にお仕事をすることが決まって挨拶を交わすや否や、すぐに打ち解けて仲良くなった。
同い年で、誕生日も同じという事実が判明すると、なおのこと親近感がわいた。
二人で話していると、それがかえって私たちのこれまでのすれ違いが不自然に感じるほど、なんだか昔からの知り合いだったように思われてくるのだった。

ただ私と違うのは、彼女が私よりもずっと売れっ子のアイドルという事である。

とは言っても、それは私より比較的人気がある、という程度の意味合いでしかなく、本人も認めているように、たぶん世間では私も紗枝ちゃんも無名という点ではそう変わらないのかもしれない。

だから今回のドラマで私が主役に抜擢されたことについて、紗枝ちゃんのファンから不平不満の声が噴出した、などという話はとくに聞かれなかった。
むしろ、スタッフの方々から期待の声をかけられたほどである。

役者なんてまったく経験のない私がいきなり主役を演じることになったのは自分でも驚いたけれど、ともかく私は、一生懸命がんばろうと思った。
各話たった一〇分の連作短編ドラマとはいえ、私にとってはようやく手にした大事な、大事なお仕事だったから、いい加減な気持ちではいられないと思った。
14 : ◆wsnmryEd4g [saga]:2020/10/18(日) 08:58:36.22 ID:iX/HvtXE0

「そないじっと見つめられたら恥ずかしいわぁ」

紗枝ちゃんがいたずらに微笑んで言った。

私は自分の考えに熱中するあまり、いつの間にか彼女の瞳に見入っていたらしかった。

私は慌てて視線を逸らして、

「暑くなってきましたね」

とごまかすように首筋の汗をぬぐいながら言った。

「うちも汗かいてもうたわ」

紗枝ちゃんはTシャツの胸元を少しおおげさすぎるくらいに仰いでみせた。

そうして私たちは冷房のきいた部屋に戻り、こんな時間だから夕食も是非ご一緒に、というような話をして、それからまたしばらく時間を潰していた。
その間、私の部屋のテーブルに開きっぱなしにして置いてあった、私と紗枝ちゃんとで持ち寄った故郷のアルバムを、ふたたびお互い何とはなしにめくりながら、それぞれ他愛もない感想を言い合ったりしていた。


波長が合う、とでも言うのだろうか。
紗枝ちゃんと一緒にいると、不思議と安心できた。
沈黙している時でさえ、私たちの間には自然な心地良いリズムがあった。
この何かにつけて急かされるような日々においては、彼女と作り出すそんな雰囲気が、私にはとても貴重なもののように思えた。
その気持ちはきっと紗枝ちゃんも同じだったに違いない。
15 : ◆wsnmryEd4g [saga]:2020/10/18(日) 08:59:28.44 ID:iX/HvtXE0

結局その日、私たちは一緒に夕食をとり、一緒に寮のお風呂に入り、そのあと今度は私が紗枝ちゃんの部屋に遊びに行って、テレビや雑誌、お仕事や勉強の話なんぞを延々と話し込んで、そうして夜が更けると紗枝ちゃんが「今日はこのまま泊まったらええのに」などと言うから私もすっかりその気になってしまって、なんだか修学旅行のような、合宿のような一夜を過ごすことになったのだった。


……この時の、思いがけず急速に近づいていった私たち二人の関係には、そこに何か失ったものを互いに埋め合わせるような執着心がすでに生まれつつあって、そうして私たちはそれを知らず知らずのうちに、後に私たち自身をも苦しめ出すような、美しい色をしたあの神秘の毒花へと育てていってしまったのではないかと思う。
あのたそかれどきのベランダ、東京の夜めいていく風景、それをぼんやりと見つめて思いつめたように押し黙っていた二人、その沈黙の向こうに聞こえていたふるさとの残響……
私たちの追憶はそこでぴったり重なったのだ。

それは束の間の白昼夢のようなものにすぎないけれど、かえってこうした何でもない一瞬が、いつかきっと、自分たちでも驚くくらいにはっきりした映像となって、記憶の底に蘇ってくる日があるような気がする。

そしてその時こそ、私と彼女との運命を決定的なものにした悪魔が姿を現すような予感がするのだった。
16 : ◆wsnmryEd4g [saga]:2020/10/18(日) 09:03:03.48 ID:iX/HvtXE0


   三

街が真っ白に燃えている。

真夏の太陽の、垂直に降り注いでくる光があちこちに反射して、目に痛い。

予報では今年一番の猛暑だと言っていた。
確かに、この日の東京の街は、日陰に入っていても息苦しいくらい、どうしようもなく暑かった。

朝、寮を出て、最寄の地下鉄駅に到着した頃にはもう、汗が粒になって首筋を伝っていた。
地下鉄のホームは風が吹いていて、外に比べると少し涼しかった。
この地下の、圧迫するような音の反響や、生臭い匂いのする空気はいまだに苦手だけれど、こういう暑い日や天気の悪い日にはありがたいと思う。

私は鞄からハンカチを取り出して、そっと肌に当てて汗を吸わせた。
あとでもう一度日焼け止めクリームを塗らなければ、と思った。
制汗剤を使おうかとも考えたけれど、人前で服の下に手を入れるのは気が引けるし、第一はしたない。
その代わり、近くにあったコンクリートの柱がひんやりしていて気持ちがよかったので、そこにしばらく手をあてて涼んでいた。

やがて地鳴りのような振動が手を伝わって、それから突風と一緒に電車が滑り込んできた。

冷房のきいた車内に乗り込むと汗が冷えて心地良かった。

私は手すりに掴まって立ちながら、このままずっと電車に乗っていたいな、と思った。
その行く果てがどこか、そんな事はまるで考えもせずに。


ほんの三駅ぶん電車に揺られて地下鉄を降りた。

地上に昇る階段の途中で、ああ、やっぱり暑い、と思い知らされた。
なんだか自分の甘い考えを太陽に見透かされたような気がした。

そこから歩いて会社に向かうまでの間、熱のかたまりを押しのけて進んでいる気分だった。
次第に、肩に下げているフルートのケースの中身がどろどろに溶けてしまう、そんな妄想が頭をよぎった。

もし本当に高熱で溶けてしまったら先生になんて言い訳すればいいのだろう、家を出た時はちゃんとフルートの形をしていたんです、と言って信じてもらえるだろうか、でも冷やしてしばらく置いておけば元に戻るかもしれない、などと考えていたら、会社に着いた。
17 : ◆wsnmryEd4g [saga]:2020/10/18(日) 09:03:51.39 ID:iX/HvtXE0

スタジオに向かう通路で先生と鉢合わせした。

「おはようございます」

と業界お決まりの挨拶をすると、先生はちょっとおかしいような、驚いたような顔をなさって、スタジオに入る前に御手洗いで鏡を御覧なさい、とおっしゃった。

怪訝に思ってトイレに入り、鏡を見ると、白いシャツがたっぷり汗を吸って、濡れた肌が透けて見えてしまっていた。
慌てて周囲を見渡して、個室にも誰もいないことに安堵したけれど、どちらにせよもう遅い。
私はいまさら恥ずかしくなって赤面した。
鏡にはそんな私の赤くなった顔まではっきりと映った。


不意に、そこに立っている破廉恥な姿をした私が、私の知っている私ではなくなっていくような感覚がした。

明るい光を反射している長い髪の毛。
私をまっすぐ見つめる、するどい瞳。
小さな薄い唇、紅潮した頬、汗ばんでいる喉、胸元、肩、腋、それらにぴったり吸い付いているシャツの透明な肌色、そこに透けて見える下着の淡い輪郭……

そんな私の細部それぞれが私自身から取り外され、私とは無関係にそこに集まって、それから次第に私の姿を模した肉体へと再構築されるような……

そんな風に不思議に思って鏡をじっと見つめていると、気付いた次の瞬間にはもう、鏡には私自身の姿が蘇っていた。
試しに手のひらを自分の頬に当ててみると、それは確かに私の体の一部だった。
それからもう一度鏡を見つめてみたけれど、あの不思議な感覚はもう戻ってこなかった。
18 : ◆wsnmryEd4g [saga]:2020/10/18(日) 09:05:09.21 ID:iX/HvtXE0

シャツを軽く乾かして、それからスタジオに入った。

レッスンが始まる前にチューニングを済ませなければいけない。
ケースの蓋をおそるおそる開けてみる。
幸い、私のフルートは溶けずにきちんと形を保っていた。

「水本さん、今度ドラマに出演するんですって? しかも主役で」

先生がホワイトボードに予定やら練習メニューやらを書き込んで、それから私の方を振り向いておっしゃった。

「はい、おかげさまで」

「おかげさまって、私なにもしてないわよ。水本さん自身の努力のおかげでしょ」

先生はそれでも嬉しそうに、にっこりとお笑いになった。

先生はお母さまと同じくらいの年齢で、しかしお歳のわりにいくぶん頬のこけた険しい顔つきの御方だった。
そして実際、それなりに厳しい指導をなさる先生でもあった。

けれど、笑う時の目じりの小皺などは意外なほどチャーミングで、私の先生に対する尊敬の半分くらいは、この優しい笑顔によって支えられていたのではないかと思う。

私がいま受けているこのフルートのレッスンは、事務所が私たちアイドルに提供している支援のひとつで、私の場合は月に一、二回、会社の練習スタジオを借りて外部講師の先生から稽古をつけてもらっている。
こんな風に言ってしまうのも少し気が引けるのだけれど、故郷で私が通っていた音楽教室と比べると、施設も講師も、ここはまるでレベルが違う。
月二回という少ない稽古でも私が腕前を落とさずに済んでいるのは、プロである先生の優れた指導のおかげである。

むしろ、演奏に対する心構えや、音楽の世界それ自体への好奇心といったものは、故郷でのんびりとフルートを吹いていた頃より、ずっと高い場所へ引っ張り上げられた気がする。

世界が広がる、というのは、こういうことを言うのだろうか。

そして、それは確かに、私にとって東京で数少ない、楽しいと思える変化だった。
お仕事や学校のことで落ち込んでも、東京で経験する音楽とフルートの楽しさを知ればこそ耐えられた。

だから私がアイドルのお仕事をがんばって続けて、その結果ドラマの主役を手に入れることができたのは先生のおかげである、と言い切るのは、あながち誇張ではないと思うのである。
19 : ◆wsnmryEd4g [saga]:2020/10/18(日) 09:05:49.40 ID:iX/HvtXE0

九〇分、集中して練習すると、それだけで一日分の気力を使い果たしたようで、稽古が終わる頃にはいつも頭がふらふらしてしまう。
この日は特に、夏場で体力が落ちたせいか、身体全体に疲労を感じた。
最近はお仕事の方も演技レッスンが中心で、他の基礎トレーニングにかける時間が減っていたから、そのせいかもしれなかった。

「夏バテかしら」

「……少し、疲れが溜まっていたみたいです」

「ご飯はちゃんと食べてる?」

「ええ、それはもちろん……」

答えてから、そういえば今朝はお茶と飴しか口にしていなかった事を思い出した。

そうしてふと黙ってしまった私の表情を見抜いてか、先生は心配そうに、

「アイドルも色々大変だと思うけど、自分の体が第一なのよ。大事になさい」

とおっしゃった。

「でも……そうね、確かに今日の水本さんは、少し緊張していたような、力んでいるような調子があったかもしれない」

「緊張……?」

思い返してみても、心当たりがなかった。
そもそも私は、今日に限らず稽古に臨む時はいつだって緊張している。
20 : ◆wsnmryEd4g [saga]:2020/10/18(日) 09:06:39.59 ID:iX/HvtXE0

「何か、お聞き苦しい所があったのでしょうか?」

「そういうわけじゃないのよ。むしろ今日の水本さんはいつも以上にブレスが安定していたし、言われた事もちゃんと覚えていて、レッスンの内容としては十分合格ラインです」

急に褒められたので、私はどう答えたらよいか分からず、つい「はあ」などと間抜けな声を出してしまった。

先生はそれから意外なことをおっしゃった。

「あまり変な風に受け取らないでほしいのだけど、今日の演奏はなんだか水本さんらしくないような気がしたのよ。つまり、そうね……張り詰めた雰囲気、とでも言うのかしら」

「張り詰めた……」

「ああ、勘違いしないでね? べつにそれが悪いっていうわけじゃないんだから。ただ……いえ、なんでもないわ。水本さんにも心当たりがないというなら、私の気のせいね、きっと」

先生は納得されたように話を打ち切り、それから帰り支度のために御自分の荷物のところへ行かれてしまった。

私もまた荷物を片付けて帰る支度をした。
その間、先ほど先生がおっしゃったことの内容が、私がその理解を曖昧なままにしていたせいでしばらく頭にこびりついて離れなかった。

私の知らない所で、私の身になにか変化が起こったのだろうか。少なくとも今日のレッスン中、調子が乱れたり、思うようにいかないという感覚はなかった。やはり、先生の思い違いか、そうでなくとも私が真剣に考えるほどの問題ではないのかもしれない、先生のあの口ぶりからしても……けれど、それでもわざわざ言及なさったくらいなのだから、どこか私の演奏にひっかかるものがあったに違いない。……これも私の考えすぎだろうか?

そんな風に悶々としていたら、ふと、あの時の、鏡に映った私そっくりの私の姿を思い出して、寒気がした。
21 : ◆wsnmryEd4g [saga]:2020/10/18(日) 09:07:54.77 ID:iX/HvtXE0

スタジオを出て先生と別れたあと、早めにお昼を食べようと思い、一階のロビー近くにある売店へ向かった。
そこへ行くためには、エレベーターを降りたあと、広大なエントランスを横切り、向かい側の棟のエスカレーターを回りこんで、その奥にある待ち合いスペースまで歩かなければならない。
つまり、途中で社員や来客の方々と頻繁にすれ違うことになるわけで、そうなると当然、顔見知りの方と挨拶する機会も少なくない。

でも、この時の私は、その出会いの偶然に自分でも思いがけないくらいびっくりしたから、彼女が何か険しい様子で口論しているのを目撃した気まずさもあって、咄嗟に物陰に隠れてしまったのだった。
相手は紗枝ちゃんのプロデューサーさんだった。

「……こないな場所でそんな話、よしておくれやす……約束なんてした覚えありまへん……うちはただ、ゆかりはんと……」

自分の名前が聞こえて、はっと身体がこわばった。
途端に、聞き耳を立てているのがひどく悪いように思われて、立ち去ろうか、とどまろうかオロオロしているうちに、二人の会話は打ち切られた。

やがて足音が私の隠れている方へ近づいて来、そのまま私はどうすることもできずに紗枝ちゃんと鉢合わせした。
通路の曲がり角で、うつむきがちに早足に歩いて来た紗枝ちゃんは私の姿を見止めると「あっ」と小さく声を上げて驚きに目を見張った。

「すみません、あの、お昼ごはんを買おうと思って……」

「聞いてはったんどすか?」

私が慌てて取り繕うのを見透かして彼女は言った。
観念して素直に謝ると、

「そんな切なそうな顔して謝られたら、かえってうちが悪いことしたみたいやわぁ」

そう言って愉快そうに笑うのだった。
22 : ◆wsnmryEd4g [saga]:2020/10/18(日) 09:08:55.49 ID:iX/HvtXE0

「別になんでもあらへんのよ。……ちょっと今度のどらまのことで、先方と食い違いがあったみたいで……ふふっ、いややわぁゆかりはん、あんさんがそない心配することやないのに」

ドラマの話が出て、私がふいに深刻な表情を浮かべたせいか、紗枝ちゃんはごまかすように話題を変えた。

「これからお昼? そんなら一緒に食べに行かへん? うちもお腹すいたし」

「ええ、それは是非……でも……」

でも、と言ってから、次の言葉が出てこなかった。
紗枝ちゃんはキョトンとして私の言葉の続きを待っていた。
私はしばらく逡巡したのち、一言「なんでもありません」と言って微笑んでみせた。



近くのファミレスで昼食を済ませたあと、紗枝ちゃんの提案で一緒に買い物に出かけることになった。
私もちょうど午後は暇だったので、快く誘いにのった。

「お稽古事もええけど根詰めてばかりやと身体に悪いし、たまには気分転換も必要ですやろ? せっかくやし二人でどっか涼しい店にでも遊びに行きまひょ。ゆかりはんは何か欲しい物あります?」

「うーん……あっ、そういえば洗剤、切らしてたんだった」

ふと思いついてそう言うと、紗枝ちゃんは怒ったように口を尖らせて、

「もう、いけずなんやから……あんな、ゆかりはん。うちらあいどるなんやから、ちょっとは"らしく"振る舞わなあきまへんえ」

「らしく……?」

意味を図りかねてぽかんとする私に、紗枝ちゃんはなぜか得意そうに鼻を鳴らして言った。

「ふふん、これはうちが修行つけてやらなあかんようやなぁ」
23 : ◆wsnmryEd4g [saga]:2020/10/18(日) 09:10:52.03 ID:iX/HvtXE0

外はあいかわらず息詰まるほどな猛暑だった。
私たちはオフィス街のささやかな並木道を二人で並んで歩いて行った。
おしゃべりしながら歩いていると、この不快な暑さも幾分まぎれるような気がした。

一方、紗枝ちゃんは私ほど暑がっているように見えない。
京都の蒸し暑さに比べたらこれくらい大したことじゃないのかも、などと考えながら彼女の私服姿を眺めていたら、あることに気が付いた。

「その帽子、かわいいですね」

「そう? うちはあんまし被り物って好きやないんけど」

「日差し避けですか?」

「それもあるけど、一応あいどるやし、これでも変装しとるつもりなんよ」

変装!
私は思わず感心して「芸能人みたいですね」と口にした。
すかさず紗枝ちゃんが「なに言うてはりますのん」と突っ込んで、それから二人で小さく笑った。

「変装なんて、私ほとんど考えたこともなくて……」

「せやねえ、ゆかりはんはも少し自覚を持った方がええんかもしれんなぁ」

自覚、と言われてドキッとした。
紗枝ちゃんはそんな私の驚いた顔を覗きこんでいたずらに目を細め、

「こないなべっぴんさんが無防備に歩いてたら、あいどるやなくても声かけられてまうやろ」

とからかった。

実際、街を歩いている時に声をかけられることは珍しくない。
東京に来たばかりの頃はそういうナンパ行為をあしらう術を知らず、友達にずいぶん心配されたものだった。
アンケートに答えてほしいと声をかけられ、得体の知れないビルに連れて行かれたこともある。
あれは確か化粧品の購入契約だったか、そんな説明を受けた後、○○プロのアイドルをやっていると話すと途端に相手方の腰が低くなり、そのまま丁重に帰されたのだった。
24 : ◆wsnmryEd4g [saga]:2020/10/18(日) 09:11:38.63 ID:iX/HvtXE0

「その件に関してはプロデューサーさんに厳しく注意されちゃいましたけど」

そんな風に私が懐かしがって話すのを紗枝ちゃんはじっと押し黙って聞いていた。

私は目的も忘れてぼんやりと歩いていた。

陽のひかりがあちこちに真夏の結晶をきらめかせ、景色はゆるやかに行き過ぎながらなお私たちの行く手にどこまでも横たわっている。
立ち並ぶビルの向こう側から、湿った、唸るような喧騒が聞こえてくる。
そんな昼下がりの街の声に、私たちの気まぐれな沈黙が曖昧に溶け込んでいく。
時折すれ違う人々のせわしない足どり、アスファルトから立ち上る陽炎、そして蜃気楼……

「ゆかりはん」

呼ばれて我に返ると、地下鉄に降りる入口を通り過ぎてしまっていた。
慌てて紗枝ちゃんの元へ戻る私を、彼女は特にじれったいような素振りも見せず、のんびり待ってくれていた。

しかしその時の、私を呼び止めた紗枝ちゃんの表情が一瞬ひどく悲しげに……何か痛々しい感情を堪えているように見えたので、私は妙な興奮と罪悪感とから反射的に顔を背けてしまった。
そうして地下鉄の薄暗い階段の奥に目を凝らしながら、この何とも言えない不安の正体をその嫌な匂いのする風のなかに見出そうとした。
が、すぐに思い直して再び紗枝ちゃんの方を振り返った。
彼女はそんな私の不可解な仕草などにはまるで気付いてない様子で階段の先へ降りて行こうとしていた。

私は、今しがた見た彼女の悲しげな表情はすべて幻だったこと、単にこの夏のおびただしい日照りが彼女の顔に投げかけた偶然の影にすぎなかったことを、半ばそうであってほしいと願うような思いで自分に言い聞かせ、彼女の後に付いて行くのだった。……
25 : ◆wsnmryEd4g [saga]:2020/10/18(日) 09:12:49.34 ID:iX/HvtXE0

その後、私と紗枝ちゃんは近郊のショッピングモールへ立ち寄り、あれこれ意見を言い合いながら素敵なお洋服やアクセサリーなどを見てまわった。

「これなんて変装にぴったりや思わん?」

たまたま通りがかった雑貨店で、紗枝ちゃんがハート形のサングラスをかけて私の方を振り向いた。
思わず吹きだしそうになるのをなんとか耐えて「お似合いですよ」と答えた。

「言うたな〜」

彼女は嬉しそうに言って、そのサングラスを今度は私にかけさせた。
すると彼女が声を上げて笑い出すので、どんなだろうと鏡を覗いてみるとそこにはおかしな眼鏡をかけて生真面目に佇んでいる自分がいた。
とうとう私も堪えきれずに笑ってしまった。

「この眼鏡じゃ、ちょっと変装には向かないかもしれませんね」

「でもゆかりはん、普通の眼鏡は似合いそうやなぁ。ただでさえ賢そうな目元してはるし」

「そうでしょうか?」

紗枝ちゃんが何やら熱心に私の顔を見てうなずいている。
私は照れくさくなって、近くに置いてあるシュシュになんとなく手を伸ばしてみる。
それからふと思いついて、シュシュを二つ、目に当ててふざけてみせる。
すると紗枝ちゃんはお腹をかかえて笑い出し、つられて私も声を出して笑う。
そうして二人でしばらく笑い合って、なんだかとても嬉しくなった。
こんなに笑ったのはいつぶりだろう。


「お茶目どすなぁ、意外やったわ」

ひとしきり騒いだ後、賑やかなショッピングモールを歩きながら紗枝ちゃんが言った。

「ふふっ、そう言う紗枝ちゃんも案外お茶目ですよね。もっとこう……おしとやかな人だと思ってました」

「おしとやかねぇ……やっぱりうちってそんな風に見られとるんやろか?」

「嫌なんですか?」

「嫌っちゅうわけやないけど……」

彼女は何かに気を取られるようにそっぽを向いて、それきり黙ってしまった。
そして私が声をかけようと口を開きかけたところで、

「なぁなぁ、おやつにしぃひん? ほらあそこ、おいしそうなくれーぷ屋さん」

と急にはしゃいで私の手を取り、人ごみの奥へ進んでいくのだった。
26 : ◆wsnmryEd4g [saga]:2020/10/18(日) 09:13:39.00 ID:iX/HvtXE0

お昼を過ぎてもう時間も経つのに、フードコートは人でいっぱいだった。
クレープ屋さんの列に数分並んで、私はメイプルバターと紅茶のシンプルなセットを、紗枝ちゃんはバニラアイスと黒蜜に生クリームまで乗った豪華なクレープとタピオカの抹茶ミルクを注文した。
私たちは隅っこの方のテーブル席に座り、出来立てのクレープをほおばりながら味について感想を言い合ったり、お互いに食べ合いっこしたりした。

「物足りひんのかなぁ」

唐突に彼女が切り出したので、私はびっくりしてしまった。
こんなに胃に重たそうなクレープを食べてまだ足りないなんて、人は見かけによらないものだなあ、なんて感心しかけたところで、すぐにそれが先ほどの話題の続きだと気付き、改まって椅子に座りなおした。

「確かにうちは元の性格がのんびりしてるさかい落ち着いた風に見えるんはきっと間違ってへんし、下品な娘や思われるよりよっぽどええんやけど……でも、うちがただ大人しいだけの面白みのない人間や思われるんも、なんやつまらんなぁ思て……」

彼女は独り言のようにつぶやいて、それから抹茶ミルクを一口飲んだ。

「私は、紗枝ちゃんはとても個性的で面白い人だと思っていますよ」

「せやろか?」

「はい」

私はやや力を込めて返事をした。
彼女はテーブルに片肘をつき、手に頬をのせ、何か物思いにふけるような遠い眼差しで私の胸のあたりを見つめていた。
私は食べかけだったクレープに口をつけ、目の前にいる紗枝ちゃんの可愛らしい顔立ちをなんとはなしに観察しながら、彼女のその悩ましげな瞳に思いがけないほどな美しさを発見したりした。

ふいに彼女は溜め息まじりの微笑を私の方に向けた。

潤んだ大きな眼が私を見つめ返す。

その瞬間、私たちの周りから音がさあっと引いていく。

彼女の口が艶かしく動き、薄紅色のくちびるを震わす。

すると私の意識にはもう彼女のはっきりした輪郭だけが焼きついて、他は何も残らなかった。

私たちはお互いに何の言葉も交わさないまま、ただそうやってお互いの瞳の中を見つめてばかりいた。……
27 : ◆wsnmryEd4g [saga]:2020/10/18(日) 09:14:38.18 ID:iX/HvtXE0

が、それは私の思い違いだった。
紗枝ちゃんは何やらずっと私に向かって話しかけ、私は無意識に相槌を打っていたらしかった。
そのことに気付いた時にはもう、紗枝ちゃんは話したい事をほとんど話し終えてしまっていた。

私は奇妙な喉の渇きを覚えてコップを手にした。
が、中身はすでに飲み干していて、さきほどまで食べていたはずのクレープも気が付けば全て平らげてしまっていたのだった。
そしてそれは紗枝ちゃんも同じだった。

「あら、もうこない時間に……ほな、そろそろ行きまひょか」

満足げに席を立つ紗枝ちゃんの後に付いて行きながら、私は今しがた見舞われた奇妙な幻想について考えを巡らせていた。
私がぼんやり彼女の瞳を見つめ続けていた間、そこに一体どんな会話が交わされていたか、はっきりとは覚えていない。

しかし同時に、あの瞬間、私は彼女の言いたいことの全てを理解していたのだ。

あの憂いを帯びた眼差し、表情、指先のわずかな振動、そうした彼女を形作るすべてのものから……

そのようにして私は自分のこの不思議な考えに夢中になった。
どうかして彼女にも私のこの理解が伝わっていないものかなあと願いながら……。


寮に着く頃にはもう日が暮れかけていた。

私たちは両手にたくさんの買物袋をぶら下げ、汗を滲ませながら寮の階段を上っていった。

そして前と同じように二人で一緒に夕飯を食べ、お風呂に入り、私の部屋でテレビを見た。

夏休みの、なんということもない一日だった。
次の日もきっと同じように過ぎていくだろうと信じられるような一日だった。
私たちは自由で、けれどそれは明日また二人で遊びに出かけようと約束することによってのみ果たされる自由だった。
28 : ◆wsnmryEd4g [saga]:2020/10/18(日) 09:15:19.43 ID:iX/HvtXE0

私たちは夜遅くまでおしゃべりしたあと名残惜しく「おやすみ」を言い合って別れた。


突然、私はひとりになった。

いつもと変わりないはずの自分の部屋が、今はなぜかよそよそしく感じられた。

テーブルの上には広がったままの雑誌が、その横には空になったお菓子の袋が丁寧に折り畳まれて並んでいた。

私はふいに寒気を感じて冷房を切った。

すると自分の部屋のあまりの静かさに息が詰まりそうになった。

驚きながら私は、自分が今までずっとこんなに寂しい空間で暮らしていたのかと思って恐ろしくなった。

二年前、ここへ初めて越してきた時の心細さを思い出す。
あの夜、私は故郷のお母さまの声とお顔を思い浮かべてはこみ上げる涙を堪えて布団にくるまっていた。
それが今は……。


忘れていた疲労がゆるやかに身体中に広がっていくのを感じた。
痺れるような未知の情念と裏腹に、私は部屋の明かりを消して眠気に誘われるままベッドに倒れ込んだ。

自然と閉じられていく瞼の裏に、紗枝ちゃんの楽しそうな笑顔が映る。

東京へ来て初めて、私に親友と呼べる人ができたと思った。
29 : ◆wsnmryEd4g [saga]:2020/10/18(日) 09:19:21.40 ID:iX/HvtXE0


   四

紗枝ちゃんとはそれからも頻繁に遊びに行くようになった。
あるいは寮のどちらかの部屋で一緒に過ごす日が多くなった。

私の部屋のクローゼットには彼女が選んでくれた可愛らしい洋服が日に日に増えてゆき、また彼女が好きなアーティストのCDや漫画雑誌、二人で買い揃えたアクセサリーや小物などが部屋のあちこちに置かれるようになった。

日中、外へ遊びに出かける時は二人でそれとなく変装するようにした。

遊びに誘うのはいつも紗枝ちゃんの方からで、私から誘うのは十回に一度くらいのものだった。
最初、私はそのことに引け目を感じていて、たとえば買い物の途中、不意に携帯が鳴り、それが紗枝ちゃんからの電話だと分かった瞬間、ああ、また先を越されてしまった、次こそ私から連絡しよう、などと一人後悔しては反省し、そうして次の機会をうかがっているうちにまた彼女から、今日はおやつ買ってきたから一緒に食べようとか、勉強で分からないところがあるから教えてほしいとか、他愛ないきっかけで誘われたりする、そんなことを繰り返していた。

ある日、そうやって私ばかり受身でいて申し訳ないというようなことを彼女に打ち明けたことがある。
すると彼女はまるで私の考えなんてお見通しと言わんばかりに――せやなあ、うちもいつ御馳走に誘ってくれるんやろかって、今か今かと待っとるんやけど――などと得意気に皮肉るのだった。
また私がその言葉を真に受けると彼女はからから笑って、冗談どすえ、と言った。

そして実のところ紗枝ちゃんも似たような悩みを抱えていたのだという。
――うちばかり一方的にちょっかいかけて、もしかしたらゆかりはん迷惑なんちゃうやろか――
結局のところそれらは単なるすれ違いにすぎなかったのだ。


私たちはそのようにして、二人の間に見つけた落とし穴を小さな驚きとはにかみと共に埋めていった。

そして関係とはいつもその共同作業の上に築かれていくものだった。
多くの場合、穴は二人だけのルールや約束事や暗黙の了解によって埋め立てられた。
時にはそれが私たちの信頼の旗印にもなったりした。
のちに私の方から紗枝ちゃんを遊びに誘うとき、そこに何か特別な意味が込められるといった認識が生まれたのも、そうした共同作業のひとつの結果だった。
30 : ◆wsnmryEd4g [saga]:2020/10/18(日) 09:19:56.74 ID:iX/HvtXE0

私たちが夏休みの短い間にこれほど親密になれたのは理由がある。
確かに紗枝ちゃんはプライベートでも何かと世話を焼いてくれたし、私自身も彼女を好いていたけれど、それだけではない。
というのも、例のドラマのお仕事があったので私たちは必然的に顔を合わせる機会が多かったのだ。

ドラマの撮影はすでにリハーサルを終え、近いうちに本番を撮ることになっていた。

実際のところ、すべてが順調とは言えなかった。
やはり初めてのお仕事ということもあって、うまく身動きが取れずにスタッフの方々に迷惑をかける場面が少なくなかった。
折々プロデューサーさんや紗枝ちゃんがフォローしてくれはしたものの、不慣れなのはともかく、飲み込みが悪いのは私自身の能力不足である。

またそれとは別に、撮影スケジュールそのものがタイトで余裕がなかったこともある。

私や紗枝ちゃんが夏休みで時間の空いてる隙に撮影を終わらせてしまおうというプロジェクトの意向で、紗枝ちゃんに言わせれば単に予算を抑えたいのだろうとの話だったけれど、ともかくそういった事情から現場はいつも慌しかった。

しかし、こと演技に関して言えば、私は思いのほか上手くやってみせたらしい。
リハの段階で監督からはお褒めの言葉を頂いたし、私としても、大勢の前で役を演じる事にぎこちなさや恥ずかしさみたいなものはまったく感じなかった。
技術的な部分については演技レッスンの直接の賜物とはいえ、それ以上に私は自分がこれほど自然に役になりきれることに自分自身驚いたくらいだった。
31 : ◆wsnmryEd4g [saga]:2020/10/18(日) 09:20:34.47 ID:iX/HvtXE0

「ゆかりはんの演技、堂々としてて雰囲気出てはるもんなぁ」

リハを終えて二人で帰る道すがら、紗枝ちゃんが言った。
私はそれとなく満足げに答えた。

「お芝居って、けっこう面白いものですね」

「あら、余裕しゃくしゃくかいな〜?」

「うふふ」

「んもう、得意そうにしはって……うちなんか台詞追うのに精一杯でお芝居まで気ぃ回らんわ」

「そんな風には見えませんでしたけど……」

「まあ、形だけこなすっちゅうんは慣れとるさかい、ごまかしはきくんやけどな」

紗枝ちゃんが言っているのはおそらく、彼女が幼少期から続けているというお稽古事の話だろう。
日本舞踊や茶道、華道など、歴史ある芸事というのは何かと作法を重んじるものである。
彼女はそれこそ「叩き込まれた」とまで言っていたくらいだから、型を身につけることの重要性も、そのコツのようなものも熟知しているのだと思う。

だからだろうか。
紗枝ちゃんを見ていると、振る舞いにしろ人付き合いにしろ器用だなあと感心することが少なくない。
時には羨ましいとさえ思ったりする。
彼女の、そうやって何でもそつなくこなす姿に私は憧れていたし、同時に尊敬してもいた。
本人の前でそれを口にしたことは一度もないけれど。

「たぶん、自然な演技、ちゅうのが苦手なんやろなぁ」

「うーん……紗枝ちゃんの演じる役自体、難しいんじゃないでしょうか」

「それもあるやろなぁ。『愛を伝える少女』なんて……意味分からんもん」

紗枝ちゃんが拗ねたように言うので私は思わず「ふふ」と笑ってしまった。

「まだ『愛を知らない少女』の方が簡単かもしれませんね」

「なぁなぁ、今のうちに役、交代せえへん? うちもそっちやりたかったわ」

「いくら紗枝ちゃんの頼みでも、主役は譲れませんよ」

「いけずぅ」

言いながら楽しそうに小突くのだった。
32 : ◆wsnmryEd4g [saga]:2020/10/18(日) 09:21:19.28 ID:iX/HvtXE0

それにしても、愛、だなんて、私たち高校生には難しすぎるテーマではないだろうか。
台本には『愛』という言葉はたくさん出てくるけれど、それが主人公である私の役にとってどんな意味を持つ言葉なのか、いまいち理解していないのが正直なところだった。
私もまだまだ勉強不足なのだろう。

「ゆかりはんは真面目に考えすぎどすえ。そんなん普通、大人にだって分かってへんのやし」

「でも、興味深いです。紗枝ちゃんは愛について考えてみたことは?」

すると彼女は一瞬口をつぐみ、やがて溜め息混じりに呟いた。

「……ゆかりはんのそーゆーとこ、ほんま羨ましいゆうか……敵わんなぁ思いますわ」

「?」

「素面でそないな台詞吐ける人、ようおらん思うで? うちかてお芝居やなかったら愛なんて言葉、小ッ恥ずかしくて言えへんわ」

「こっぱずかしい、ですか?」

「もう、ほんまにいけずなんやから……」

紗枝ちゃんは呆れたようにそっぽを向いて、そのまま黙ってしまった。

怒らせてしまっただろうか?
そんな風に不安に思っていると、再び彼女が口を開いた。

「愛って、うちが語れるほど単純なもんなんやろか。そら、確かに恋愛のお歌はたくさん歌ってきたけど……それやってただ言われたとおりに歌ってただけやし、なんぼ表面ばかり取り繕っても根っこでは全然、真剣やない、お仕事やから、言われたから従ってただけ……そないな人間に、愛について語る資格がありますやろか?」

「私は、紗枝ちゃんにも愛を語る資格はあると思います」

即答したので、紗枝ちゃんは面食らったように私の方を振り向いた。
しかし私もそこから二の句が継げず、まごついてしまった。

「……ふふっ、よっぽどゆかりはんの方が愛を心得てるみたいやなぁ。ほんまに」

「ごめんなさい。なんだか、生意気でしたね、私……」

「そないなことあらしまへんえ。むしろゆかりはんがそうやって断言してくれはると、なんや心強いわぁ」
33 : ◆wsnmryEd4g [saga]:2020/10/18(日) 09:22:14.85 ID:iX/HvtXE0

ドラマの話題はそこで打ち切られた。
コンビニの前を通りがけに紗枝ちゃんがちょうど用事を思い出したと言って、それで私も一緒に寄っていくことにした。
どうやらお金を引き落とすらしかった。
ATMはすでに年配の方が一人、先に使っていたので紗枝ちゃんはその後ろでしばらく待つことになった。

私はその間、日用品の棚を眺めながら何か必要なものを思い出そうとしたけれど何も思いつかず、それから手持ち無沙汰にお菓子の棚を見てまわった。

が、結局何も買う気が起きないまま、なんとなく雑誌コーナーの前で適当な本を手に取り、紗枝ちゃんを待った。

彼女の番はなかなか回ってこなかった。

私はそうして雑誌のページをめくりながら内心そちらの方ばかり気にかけていた。


急に、何か悪い予感に迫られでもしたかのように、私は無造作に顔を上げて彼女の方を一瞥した。
それが思いがけず焦れったいような素振りになってしまったので、私は慌ててごまかすように視線を逸らした。

ところが彼女は私の少し近いところの通路に並んで突っ立ったまま、何もない壁をぼうっと眺めやっているのだった。
その横顔はなにやら考えに耽っているらしかった。

私は再び雑誌に視線を落とした。
しかし手はずっと同じページを開いたまま、意識の上にはそれとは別の風景を浮かべていた。

なぜあんな風に考えもせずきっぱり答えてしまったんだろう、まるで知ったように決め付けて……そんな後悔が頭のうちに目覚めつつあった。

そのため後に、用事を済ませた彼女に声をかけられた時、私があたかも雑誌に夢中になって気が付かなかった風を装ったのも、そうした不安と焦りとを彼女に悟られまいとする無意識の作用か、あるいは私自身への罰のつもりだったか知れない。……
34 : ◆wsnmryEd4g [saga]:2020/10/18(日) 09:23:20.96 ID:iX/HvtXE0


   五

早朝、私と紗枝ちゃんはスタッフの方が運転するバスに乗ってロケ地へ赴いた。
東京からそう遠くない地方で、けれど途中いくつかトンネルを通って行くような山あいの道だった。

冷房の効いた車中、紗枝ちゃんは私の隣で言葉少なに、眠たそうに揺れていた。
一方、私といえば窓の外に流れていく険しい山々だの木々だのを飽きもせず眺めていた。

やがて山がひらけて小さな集落が現れた。
目的地はその集落からさらに奥まったところ、雑木林を抜けて行った先にぽつんとあった。

舞台となる古い洋館はその昔、英国の某伯爵が別荘として設計し、建築したのを、戦後、観光施設として開放したという歴史ある建造物である。

私たちは以前、一度だけここへ来たことがあった。
台本の読み合わせが始まった頃に、私のプロデューサーさんが私と紗枝ちゃんを下見に連れてきてくださったのである。

当時は初夏の少し暑いくらいな日で、避暑地として栄えた高原の集落はまさにそんな時期にうってつけのロケーションだった。
私も紗枝ちゃんも半ば興奮気味に、その閑静な木立の影にひっそりとベランダなどが見え隠れしているのを、そこへ夏の日差しが微笑むように降り注いでいるのを、それらみずみずしい緑の匂いの中に私たちの少女らしい空想が溶け込んでいくのを、ほとんどうっとりするような気持ちで眺めていたものだった……。


ところが、目的地に着き、ロケバスを降りると、ここはもう真夏の領国なのだった。
叩きつけるような蝉の鳴き声とそのパノラマ、草木の燃える湿った臭い。
地面から燃え立つ熱気の息苦しさ、そして目を細めずにはいられないほどの眩しい光線……

この数週間ですっかり夏に支配されてしまったようだった。
目の前にある異国風の建物も、今や生い茂る木々の葉に埋もれて窮屈そうにしている。

けれど私は、以前ここへ来たときの憧れをすべて見失ったわけではなかった。

老兵はまだ夏にその支配権を完全に明け渡したのではなかった。
夏ごとに燃え出す青葉の生命力をも、この古城は自らの威厳の中に同化させようとしていた。
私はその三階建ての建物の、白と黒の格調高い外壁を仰ぎ見ながら、今となっては憧れというよりむしろ郷愁に近いような不思議な感動に胸を打たれていた。
それはもしかすると、この燃えさかる太陽の季節が私に見せた幻、遠い記憶の幻影なのかもしれなかった。
35 : ◆wsnmryEd4g [saga]:2020/10/18(日) 09:24:26.50 ID:iX/HvtXE0

監督と一緒に管理人さんに挨拶に伺ったあと、さっそく機材が運ばれ、準備が始まった。

私たちキャストはまず演出家さんと話し合い、全体の進行から細かい位置取りなどを確認して、それから各々の準備に取り掛かった。
準備と言っても、衣装に着替えてメイクを終えてしまえば、あとは待機するだけだった。

私より先に着替えを済ませた紗枝ちゃんが、鏡の前でしきりに自分の格好を確かめていた。

「ロングスカート、とても似合ってますよ」

「せやろか? ならええんやけど……」

「どうかしたんですか?」

「うち、普段あんましこういう服着ぃひんし、なんやおかしないかなぁ思て……」

「ちっともおかしくなんてないですよ。とても素敵です」

「うふふ、ありがとう」

そう言われて、私はなぜかドキッとしてしまった。
そしてすぐ、彼女が京言葉でなく、標準語のイントネーションでしゃべったからだと気付いた。
36 : ◆wsnmryEd4g [saga]:2020/10/18(日) 09:25:05.88 ID:iX/HvtXE0

「ゆかりちゃんも、すごく似合ってる。清楚で、キリッとしてて……本当に、素敵ね」

標準語で……というよりも、演じる役の言葉遣いで話す紗枝ちゃんの声に、私の心は不意にかき乱され、そしてあからさまに動揺してしまう。
別に今日が初めてというわけでもないのに。

「どないしはったん? うちの言葉遣い、やっぱし変やった?」

「え、あ、そういうわけじゃなくて……!」

私がそんな風に慌てて取り繕うのを見て、彼女はどこか愉快そうな、いじわるな笑みを浮かべるのだった。

「しばらくはこの話し方でいきましょう。出番までに少しは慣れておかなくちゃいけないし」

「そうですね」

「あ、ゆかりちゃん。髪の毛に埃が……」

彼女はそう言って私の首筋へ手を伸ばした。

私はまるで金縛りにかかったように身動きがとれずにいた。

彼女の美しく潤んだ瞳に、可愛らしく赤みがさした頬に、滑らかに動く口唇の甘い輝きに、それらが思いがけず接近してきたせいで目をそらす隙もなく魅了されていたから。
37 : ◆wsnmryEd4g [saga]:2020/10/18(日) 09:26:12.45 ID:iX/HvtXE0

「……はい。あとは大丈夫?」

「え、ええ……たぶん、大丈夫だと思います」

私は改めて鏡の前に立ち、平静を装いながら答えた。

「こうやって二人並んでみるとなんだか姉妹みたい。ね?」

紗枝ちゃんがおもむろに私に寄りかかるように立ち、耳元で囁いた。
鏡が一人分の幅しかないために、そうやって二人の姿を重ねようとしていたのだった。

彼女は抱きしめるようにして私の体を縛り、そして肩にその小さな頭をもたれさせた。
密着する彼女の熱と甘い匂いに私は返事もできず、紗枝ちゃんが鏡越しに見つめてくるのをぼうっと見つめ返す他は何もできなかった。

そこに映る私と紗枝ちゃんの姿は確かに、姉妹らしいと言えなくもない一種の法則が……つまり、同じ衣装を着ているがためによりはっきりと区別されるはずの差異が、かえってお互いの関係性を強く印象付けるというような感じがあった。
そうして私は次第にその合わせ鏡のような観念に飲み込まれていった。

――ああ、また、と思った。
鏡の中にいる私の身体が私のものでなくなっていく感覚。
身体がそれぞれの部品に分解され、意味を失い、それから無秩序に集積されていく。
この肉体はもはや私の意志によってではなく、別の何者かの大きな力によって決定されている。
私にはそれをどうすることもできない、というような錯覚――

「緊張してる?」

耳元に紗枝ちゃんの呟きが聞こえた。

「……少しだけ」

私は言葉少なに、けれど精一杯の返事をした。
そうして声を発してみるともう、次の瞬間には鏡に私の姿が復活しているのだった。
私は紗枝ちゃんに寄りかかられて呆けたほうに突っ立っていた。

私の中にはただ、不可解な、奇妙な感覚が残っているだけで、嫌悪感や疲労感といった不安の種も特に認められなかった。
が、それでも私は安堵のために深く息を吐いた。
紗枝ちゃんもまた気分を落ち着かせるように深呼吸し、そしてもったいぶるように私から離れた。
38 : ◆wsnmryEd4g [saga]:2020/10/18(日) 09:26:41.44 ID:iX/HvtXE0

「そういえば……」

紗枝ちゃんはふと思いついたように話題を変えた。
この町に有名な和菓子のお店があるらしいとか、時間が空いたら屋敷の中を散策してみようだとか、そんな他愛のない話をして、上機嫌にはしゃいでみせた。
私もまた何事も無かったように紗枝ちゃんの話題に乗っかった。
おそらく紗枝ちゃんは私の緊張を気遣って、それで気分を紛らわそうとしてくれたのだろうと思う。

だからこそ私は、この緊張の本当の原因について彼女本人に打ち明けることがついぞできなかった。

そればかりか私自身でさえ、彼女に対して初めて抱いたわずかな違和感をなかったことにしようとした。

その判断が後にどんな結末を招くかも知らずに。……
39 : ◆wsnmryEd4g [saga]:2020/10/18(日) 09:27:45.57 ID:iX/HvtXE0

不安はなかった。
心構えはできていたはずだった。
緊張こそしていたけれど、うまくやってみせる自信はあった。

そういう意味では最初、私を気遣ってくれた紗枝ちゃんの方が不安そうに見えたくらいだった。
それでも私たちは本番直前の、カメラの回らない通しのリハだって問題なくこなしてみせたのだ。
今日はこのままいけばすぐ終わるだろう、そう思っていた。

実際、致命的と言えるほどのミスを犯したわけではなかった。

撮影は、多少遅れたとはいえおおむね予定通りに進んでいった。

私がしでかした多くの失態は、監督や紗枝ちゃんや他スタッフのフォローによってすぐ挽回できる程度のものだったし、それによってことさら誰かに責められたり、叱られたりということもなかった。

しかし、それでもやはり、現場の空気が徐々に失望と侮りの色に変わっていくのを意識せずにはいられなかった。

最初は、台詞が飛んだ。
今まで一度も間違えたことのないシーンで、ふと、頭が真っ白になり、固まってしまった。
次は、移動するタイミングを間違えた。
微笑むべきところでうまく表情を作れなかった。
何気ない会話で、急に、声が震えてしまった。
これまで一度もしたことのないようなミスが続き、やがて焦りをコントロールすることもできなくなった。
40 : ◆wsnmryEd4g [saga]:2020/10/18(日) 09:28:22.35 ID:iX/HvtXE0

五つめのカットのあと、休憩が入った。
私はすでに申し訳なさと恥ずかしさと情けなさとですっかり気落ちしていた。

紗枝ちゃんはそうした私の不調をいち早く察してくれたらしかった。
休憩の声がかかるとすぐ私の元へやってきて、お水の入ったコップを差し出してくれた。

「大丈夫?」

彼女の心配そうな表情を横目に、私は反射的に「はい」と答えて、それから自分でも取り繕えないくらいの声色で、

「大丈夫ですよ」

と言った。

すると彼女は、悲しげな……いや、悲しいというよりむしろ憐れむような目をはっきりと私に向けた。
それこそ睨みつけるくらいの、私の態度を責めているような険しい目つきだった。
彼女のそんな表情を見るのはもしかすると、この時が初めてだったかもしれない……そして私といえば、その厳しい眼差しに戸惑いも萎縮することもなく、かと言って悪びれもせず、ただ生真面目に向き合うばかりだったので、やがて彼女の方から耐えきれなくなったように、ぐっと俯いてしまった。

が、それも一瞬の出来事で、次に彼女が顔を上げた時、そこにはいつもの憂うような微笑が浮かんでいた。
41 : ◆wsnmryEd4g [saga]:2020/10/18(日) 09:30:37.21 ID:iX/HvtXE0

「やっぱり場慣れしてないと、難しいわよね。特にロケなんかは……」

「……ええ。思うようには、いかないものですね」

「それに、ちょっと冷房も効きすぎなんじゃない? スタッフさんに言って来ようかしら」

そう言うと紗枝ちゃんは長いまっすぐな髪をひるがえして廊下を行ってしまった。

私は紙コップを片手に壁に寄りかかって深呼吸した。
何か別のことを考えて気分を紛らわしたかった。
しかし頭の中に思い浮かぶものといったら、ドラマのこと、撮影のこと、台本、台詞、役、失敗、恥……考えても仕方のないようなことばかり、次々に脳裏を掠めて行くのだった。

「気分、落ち着いた?」

気が付くと紗枝ちゃんが正面に立っていて、私の顔を心配そうに覗き込んでいた。

「あ、はい」

私は驚きながら返事をした。

すると、不意に彼女と目が合った。
42 : ◆wsnmryEd4g [saga]:2020/10/18(日) 09:31:34.72 ID:iX/HvtXE0

直後、激しい興奮が痺れるように私の神経を貫いた。

私の意識の全ては今、その濡れた漆色の瞳に吸い込まれていた。

冷汗が滲み、恐ろしい寒気が背中を這う。

紗枝ちゃんが私の中に潜り込んでくる。


彼女の、細く白い両手が、私の熱い頬をそっと包んだ。
冷たい手のひら……それだけで私の身体は自由の何もかもを彼女に明け渡してしまったようだった。
激しい動悸と眩暈に襲われながら、私は、その夜のような瞳がゆっくりと私に迫ってくるのを子猫のように震えて待つほか何もできなかった。

彼女の甘い吐息が私の口元に吹きかかる。
あともう少し……彼女の艶やかに濡れた唇が、私の息を塞いでしまうまで……
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