水本ゆかり「人形の檻」【ゆかさえ】

Check このエントリーをはてなブックマークに追加 Tweet

143 : ◆wsnmryEd4g [saga]:2020/10/18(日) 13:57:11.07 ID:iX/HvtXE0

すると突然、私は彼女に伝えるべきことがあるはずだと思い出した。

その閃きは、後に振り返ってみれば、彼女をただ困惑させただけの、私の自己満足に過ぎないものだった。

が、なぜか私はその時、これだけは伝えておかなければならないという奇妙な使命感に突き動かされて、深く考えるよりも先に言葉が口をついて出た。

「……あの、ね」

「…………」

「今度の日曜日、なんだけど……演奏会があって」

「……知っとる」

彼女はぶっきらぼうに答えた。

私は内心、驚きにうろたえた。
と同時に、心のどこかで安堵している自分も発見した。
私は動揺を悟られまいと努めて平静を装って続けた。

「私……頑張ってるから……だから、その……紗枝、の都合が合えば、良ければ見に来て欲しいな、って……」

視界の隅で、彼女がこちらを振り向いたのが分かった。

私は相変わらず正面を向いたまま、湯水に透き通っている自分の足と、その隣に並んで同じように横たえている彼女の足とを、見比べるようにじっと眺めていた。

「本気……?」

私はハッと顔を上げた。
彼女のまっすぐな眼差しが私の視線に重なった。
144 : ◆wsnmryEd4g [saga]:2020/10/18(日) 13:58:34.91 ID:iX/HvtXE0

言葉とは裏腹に、その瞳に嫌悪の感情はなかった。
彼女はただ純粋な困惑から、私にそんな疑問を投げかけたらしかった。
私の真意を読み解こうとして、彼女はおそらく自分でも意識していないくらいの真剣な目つきを私に注いでいた。

そうして私は見つめられながら久しく忘れていた感動を思い出していた。
ああ、彼女の瞳はこんなにも美しかったのだと。

私は、言いたいことを全部言い尽くしてしまったように、そっとうつむいて口をつぐんだ。

そんな私の投げやりな態度を、彼女がどんな風に受け止めたかは知れない。
けれど私にはもう、これ以上話すことがなかった。


紗枝ちゃんが静かに立ち上がった。
すると私の横目にすらりとした肢が映り、そしてそれが思いがけずセンシュアルな肉感に引き締まっていたので、私は無意識のうちに彼女を見上げ、その水に濡れた艶かしい裸体に魅入った。

湯気にぼやけた彼女の表情が、切なそうに私を見下ろしていた。
そうして彼女はまるでその痩せ細った身体を見せつけるようにしばらく私の前から動かなかった……
が、それは私の錯覚かもしれなかった。
彼女の身体の美しい曲線に目を奪われて、あるいは長く湯に浸かっていたために私の頭ものぼせてしまったようだった。
145 : ◆wsnmryEd4g [saga]:2020/10/18(日) 13:59:53.87 ID:iX/HvtXE0

やがて彼女は何も言わずに湯から上がった。

私はそこでようやく我に返り、彼女の背中に向けて言った。

「あの、チケット。……ポストに、入れておくから」

焦るような気持ちからつい張り上げてしまった声が、浴室に反響して彼女の肩をぴくりと震わせた。
しかしそれきり彼女は反応せず、湯上りのシャワーを浴びるとそのまま出て行ってしまった。

広い浴室で一人、ぽつんと取り残された私は、軽くシャワーを流しながら今しがた交わされた無言のやりとりを頭の中に反芻していた。

彼女は果たして来てくれるだろうか?

私の見立てでは彼女もきっと迷っているに違いなかった。

こうした、私たちの間ではすっかり当たり前になっていた曖昧な意思表現がまだその法則を保っているのなら、彼女はこんな風に言っていたはずだった。

――考えさせて――と。


しかし、お風呂から上がって脱衣所で着替えているうちに、再び激しい後悔が胸の奥で渦巻きだした。

私は何かとんでもない間違いを犯してしまったのではないだろうか?

冷静になった今、一体なんのために彼女を演奏会に誘ったのか、自分でもその目的を説明できなかった。

彼女に私の演奏を聴いてもらって、それで元気になって欲しいとでも思っていたのだろうか?

いや、違う。
私はただ寂しさと恋しさから、彼女を振り向かせようとしてあんなことを口走ったのではなかったか? ……。
146 : ◆wsnmryEd4g [saga]:2020/10/18(日) 14:00:25.72 ID:iX/HvtXE0

私は混乱していた。

が、どのみち済んでしまったことなのだ。

ここまできたら彼女にチケットを渡さないわけにはいかない、そう考えて、己の軽率さを呪いながら部屋に戻った。


深夜、毛布に包まりながら私は、これまで押さえ込んでいた想いを発散するようにひたすら自慰に耽った。

暗闇の中に紗枝ちゃんの笑顔が、あの柔らかい肉体が、優しい指使いが蘇る。
かつて幾度も身体を重ね、隅々まで感じ合っていた悦びを思い出し、そうして際限なく昂ぶっていく身体を慰めながら私は、気がつけば汗と愛液でシーツをぐっしょり濡らしていた。

私は息を荒げ、震えるような快感の残滓にしばらく身を浸していた。

しかしそれでもこの切なさが満たされることはなかった。
むしろそうやって彼女のことを想うたびに、孤独感も恋しさも一層募るばかりだった。

私は枕に顔を埋め、吼えるように咽び泣いた。……

147 : ◆wsnmryEd4g [saga]:2020/10/18(日) 14:01:51.08 ID:iX/HvtXE0
小休止
次で最後です
148 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [sage]:2020/10/18(日) 14:53:05.18 ID:2CaeeWOko
きたい
149 : ◆wsnmryEd4g [saga]:2020/10/18(日) 16:50:14.99 ID:iX/HvtXE0


   十五

駅でお母さまのお姿を発見して、手を振った。
するとお母さまも私の方に気付いて、ぱっとお顔を輝かせた。
そして相変わらず人混みをものともしない優雅な調子でつかつかとお歩きになって、その品のある振る舞いは見ているだけで襟を正されるような思いがした。

お母さまは私の傍で「ふう」とひと息つくと、「わざわざありがとう」と嬉しそうにおっしゃって、それから目の前の私を頭からつま先まで眺めながら、

「素敵なコートね。似合ってるわ」

「お母さんこそ……長旅お疲れ様でした」

私ははにかみながら答えて、お母さまが重たそうに抱えている手荷物をいくつか預かった。
中身はどうやら私への仕送りのつもりで持ってきたお菓子だのフルーツだのが入っているらしかった。

「ゆかり、背、伸びたかしら?」

「そう?」

「ずいぶん立派に見えるわ」

お母さまは見上げるような仕草で私の頭に手をかざした。
実際、だいぶ前からお母さまの身長は越えていた。
とはいえ、ここ一年で特に背丈が伸びた覚えはない。
今度、事務所へ行ったら一応測り直してもらおうかしら、そんなことを考えていたら、お母さまが私の顔をまじまじと見つめておっしゃった。

「美人になったわね、ゆかり」

「もう、またそんな……お母さんほどじゃないよ」

しかしお母さまは大真面目に首を横に振って、

「なんだか、しばらく見ないうちにすっかり大人のひとになっちゃったみたい」

などとおっしゃるので、私は照れ隠しに「そうかなぁ」と首をかしげてはぐらかした。
150 : ◆wsnmryEd4g [saga]:2020/10/18(日) 16:50:54.11 ID:iX/HvtXE0

それから私はお母さまと一緒に駅構内を少し歩き、休憩がてら喫茶店に入ることにした。
お母さまは腰を落ち着けるや否や、ドラマの感想だの、お父さまや親戚の話だの、色々なことを興奮気味に話された。
そのうち半分くらいは電話や手紙ですでに知らされていたようなことだったけれど、およそ一年ぶりに私と会うということで、お母さまもきっと楽しみにしていらしたのだろう、そんな様子が伺えた。
それに、お話したいことがたくさんあるのは私も同じだった。
そうして気がつけば私たちは一時間以上も喫茶店でおしゃべりしていたのだった。

その後、私たちは駅構内のお店へ寄り道しながら迷路のような地下鉄へ降りて行った。
今回は特に迷うことなくホームまで辿り着いた。
というより、前回、私が迷ったのは、確かお母さまの予約したホテルへ先に送り届けようとして、それで今まで利用したことのない路線を使ったからだと思い出した。

そう言うと、お母さまは「そうだったかしら」ととぼけたようにおっしゃって、その無邪気な感じがいかにもお母さまらしく、子供っぽい愛嬌に溢れていたので、私はいまさらながら感心してしまった。

こんな風に、いつまでも可愛らしくありたい。そう思った。
151 : ◆wsnmryEd4g [saga]:2020/10/18(日) 16:51:39.78 ID:iX/HvtXE0

この日は、とりあえず寮の私の部屋へ招いて、夕飯時まで二人でゆっくり過ごすつもりでいた。

お母さまは私の部屋に到着するとさすがにお疲れになったのか、荷物を置くと床にぺたりとお座りになって、小さな溜め息をつかれた。
が、すぐ気を取り直したように私の部屋を見渡して、本棚の本やCD、そしてそこいらに無造作に置かれた小物を興味深げに観察していらした。

「賑やかなお部屋ね」そうおっしゃって、ベッドの枕元にある子犬のぬいぐるみに目を向けられた。

私は、そのぬいぐるみの経緯を説明しようとして、ふいに言葉に詰まった。

それは、昔、紗枝ちゃんにゲームセンターに連れて行かれた時に、彼女がクレーンで取って私にくれた初めての贈り物だったのである。

そうして改めて自分の部屋を見渡すと、ぬいぐるみだけでなく、小物や洋服、ポスターやCDなど、何かしら紗枝ちゃんの影響で買い揃えたものばかり目に付いて、妙な胸騒ぎがした。
もう、とっくに彼女の庇護から抜け出したものとばかり思っていたのが、未だ無意識では彼女の支配化にあって、それと知らずに暮らしている……
ふと、そんなことを考えて、寒気がした。
152 : ◆wsnmryEd4g [saga]:2020/10/18(日) 16:52:12.50 ID:iX/HvtXE0

私はよっぽどお母さまに相談しようか迷った。

私のかつての恋人について、二人の間に深い傷痕を残して別れてしまったこと、また私自身、彼女との関係をまだ引きずっていることを、洗いざらい告白したい衝動に駆られていた。

しかもその時、まるで見計らったかのようにお母さまが、

「ゆかりは今、好きな人はいるの?」

とおっしゃりだしたので、それこそ紗枝ちゃんの名前が喉元まで出かかったくらいだった。

けれど結局、お母さまには話さなかった。
「今は、いないよ」そう答えて、素知らぬ顔でやりすごした。

代わりに、私はこんな質問をした。

「ねえ、お母さん……お母さんは、本当は私がアイドルになるの、嫌だったんじゃないの?」

するとお母さまはぽかんとして、「どうして?」とお尋ねになった。

「だって……」

と言いかけて、口ごもった。
自分でも、なぜそんなことを言い出したのか、分からなかった。

するとお母さまは、何か考え事をするように遠くをぼんやり見つめて、やがて重々しく口を開かれた。
153 : ◆wsnmryEd4g [saga]:2020/10/18(日) 16:53:00.24 ID:iX/HvtXE0

「……正直なことを言うと、最初は、反対したい気持ちもありました。高校生なんてまだ子供だし、ましてやゆかりみたいなぼんやりした子が東京で一人で暮らしていくなんて、もう心配で心配でとてもじゃないけれど賛成できない、最初はそう思っていましたよ。それに、アイドルにしたってお母さんには何がなにやらさっぱりな世界だし、そんな危険かも分からないようなところへゆかりを送り出すのは親としても非常識なんじゃないかしら、って……」

お母さまは昔を懐かしむようにおっしゃった。

「でもね、ゆかり。その頃お母さんは別のことも心配してたのよ。ほら、ゆかりって昔からわがままとか言わない子だったでしょう? 素直で良い子で、そのうえ嫌なことがあっても我慢してるんだか気にしてないんだか分からないくらい、ぽけっとしてて……それがちょっと心配だったの。真面目なのは良い事だけれど、なんというか、主体性に欠けてるような気がしたのね。それで思ったのよ。実は私たちの方こそ、ゆかりを大事にしすぎて、あの家に閉じ込めて、自由な心を奪ってしまってるんでないかしら、って」

私は黙って耳を傾けていた。

「せっかく広い世界を知ることができるチャンスなのに、ここでゆかりの可能性を私たちが潰していいのかしら……そんな風に思ったの。それにね。もっと言えば、ゆかりにはお母さんみたいな世間知らずな大人にはなってほしくなかったのよ。だから、最終的には、ゆかりを東京に行かせることには反対しませんでした」

「……お母さんは、そうして正解だったと思う?」

お母さまは私の目をじっと探るように覗き込んで、それから、寂しげにおっしゃった。 

「そうね。ゆかりはたくましくなったわ」

そして、まるでご自身に言い聞かせるように、

「もう、子供じゃない」

そう呟かれて、嬉しいような、切ないような微笑をふわりと浮かべるのだった。
154 : ◆wsnmryEd4g [saga]:2020/10/18(日) 16:54:08.97 ID:iX/HvtXE0


演奏会当日、外は雲ひとつない青空だった。

そんな清々しい空模様とは裏腹に、大気は凍てつくように冷たい。
冬らしい、からっとした日差しに元気付けられるように、朝、私はコンサートホールに向かっていた。

会場に集まり、挨拶と軽いミーティングをした後、準備が始まった。
受付の配置、ステージのセッティング等を済ませ、あとは昼食までの間、リハーサルをおこなう。


調子は、悪くない。
指は温まっているし、緊張もコントロールできている。
リハーサル後、私たちは早めのお昼を取ると、午後の開演時間まで少しの間、暇になった。

私は他の出演者の方々と談笑して時間を潰していた。
今日は母が見に来るんです、そう言うと、先生が、

「あら、そうなの? じゃあご挨拶しないといけないわね」

とおっしゃって、すると他の方々も、「お母さまは何か音楽をやっていらっしゃるの?」とか、「青森から? それはまた遠い所から……」等々、話題が私の家族や故郷へと移っていった。

そんな本番前のリラックスした空気の中、私はそれらの会話に快く興じながら、一方、内心では別のことを気にかけてばかりいた。


もしかしたら今日、彼女は来ないかもしれない……

そんな予感が胸をよぎった。

それは、不安、というよりも、諦めに近い心境だった。
155 : ◆wsnmryEd4g [saga]:2020/10/18(日) 16:54:44.83 ID:iX/HvtXE0

どちらにせよ、今は目の前の本番に集中しよう、そう思って、彼女のことは一旦頭の隅に追いやった。

しかし午後、受付が始まると、私はやはり気が気でなくなって、エントランス付近の物陰にこっそり隠れ、人の出入りを注意深く観察したりしていた。

すると、しばらく経ってお母さまの姿がお見えになった。
さりげなくお声をかけると、お母さまは例の慎ましやかな微笑を浮かべ、少し早く来すぎたかしら、とおっしゃった。
私は、あちらへ、とロビーに案内して、そこで少しの間、お茶をご一緒しようとして、席に腰掛けた。

「ゆかり、時間は大丈夫なの?」

「うん。もう少ししたら、着替えないといけないけど……」

言いながら私は、相変わらず受付の方をちらちらと横目に見てばかりいた。
お母さまは、そんな私の不審な態度を見かねてか、

「お母さんのことはいいから、行ってらっしゃいな」

そうおっしゃって、急かすように私を立たせると、一人優雅にお茶を啜られた。

私は小さく手を振って、気もそぞろにエントランスを横切って行った。

まだ開演まで時間があるとはいえ、準備の都合で私もあまりのんびりしていられない。

会場には少しずつお客さんが増えてきていた。

けれど、やはり紗枝ちゃんの姿は見当たらなかった。
156 : ◆wsnmryEd4g [saga]:2020/10/18(日) 16:55:23.48 ID:iX/HvtXE0

私は諦めて控え室に戻った。
制服に着替え、すでに出演者のほとんどが待機しているバックステージへと向かう。
気負うような雰囲気ではないけれど、さすがに直前ともなると、小声でおしゃべりする団員の間にもそれなりの緊張感が漂っている。

私は居住まいを正し、深呼吸した。

舞台に上がる前のこの高揚感が、私は好きだった。

それはアイドルのお仕事をしていた時も同じだった。

自分を表現するということ、自分はここにいるということ、それをたくさんの人に伝えられるということを、何よりも実感できるのはいつだってステージの上だった。



開演のアナウンスが鳴る。

舞台袖から一人ずつ壇上にあがり、拍手で迎えられながらそれぞれの位置に着く。

ここから見ると決して小さくはないホールには、奥の方まで客席が埋まっている。

思わず目を凝らして観客ひとりひとりの顔を眺めだした私の前方に、マイクを手にした先生が颯爽と現れる。
開演の挨拶、それから今回演奏する曲目の簡単な解説をしたあと、指揮者の方が登場し、拍手に迎えられながら指揮台に上がる。

やがてオーボエから始まるチューニングの音が漣のように広がり、ホールをひとつの調和で満たしていく。

音が止み、指揮棒が上がる。

そして、一呼吸置いた後、流れるように曲が始まった。
157 : ◆wsnmryEd4g [saga]:2020/10/18(日) 16:55:56.68 ID:iX/HvtXE0

そうして一度、始まってしまえば、あとはこのゆりかごのような慣性に身を委ねるだけだった。

呼吸するように、私は大きなうねりの中にいた。
もはやフルートだけでなく、音楽自体が私の一部なのだった。
ひとつの秩序、ひとつの世界に組み込まれながら私は無限に拡張され、同時にその全てと混ざり合う。

一〇分に満たない序曲が終わり、拍手が上がった。

私はステージの黄金の輝きの内側から、仄暗い客席へと目を走らせた。



そこで私は見た。

ホールの入口付近に一人、見慣れた背丈の人影が立っている。

黒く目立たないコートを着て、背景に溶け込むようにひっそりと佇んでいる。

けれど私にはすぐ分かった。

以前、私が持ち帰り、そして彼女の部屋のドアノブにそっと掛けておいたあの帽子を深々と被って、こちらをじっと見つめている……。
158 : ◆wsnmryEd4g [saga]:2020/10/18(日) 16:57:09.23 ID:iX/HvtXE0

特別、驚きはしなかった。

かと言って安堵したり、喜んだりすることもなかった。

この瞬間、私たちはきっと二人きりだった。

お互いを隔てている客席、明暗、それらの障害の一切が消え失せて、私の目の前にはただ紗枝ちゃんの姿だけが、遠く見つめ合うほどすぐ近くに感じられた……
が、それも長くは続かなかった。

指揮者が構え、次の曲目が始まろうとしていた。

私は振り上げられたタクトに視線を戻した。
再び、楽曲とオーケストラと、観客と、そして自分自身へと没頭していく。
感覚を研ぎ澄まし、ホールに響く音と一体になる。

しかし私は、そうして演奏に集中する一方、意識の上には彼女の懐かしい記憶ばかり鮮明に思い浮かべていた。

豊かに、繊細に奏でられる交響曲の中に私が見い出していたのは、たった一人の、私が愛した恋人の姿だった。

私は今や彼女のためだけに演奏していた。

私はここにいる、そう叫ぶように……。
159 : ◆wsnmryEd4g [saga]:2020/10/18(日) 16:58:13.76 ID:iX/HvtXE0

やがて無心のうちに曲が終わった。

沸き起こる拍手の嵐が私を徐々に現実に引き戻した。

そうしてふと我に返ると、一瞬、ステージの照明の眩しさに目が眩んだ。
顔をしかめながら私は、ホールの入口の辺りに再び目を凝らした。


が、そこには誰もいなかった。

観客席を見渡しても、彼女の影はもう、どこにも見当たらなかった。


……それが、私が最後に見た紗枝ちゃんの姿である。

160 : ◆wsnmryEd4g [saga]:2020/10/18(日) 17:02:46.07 ID:iX/HvtXE0


   十六

春、大学生になった。
新居は、大学と会社の両方にアクセスの良いマンションを選んだ。

大学生活は、最初こそ何もかも新鮮で戸惑ってばかりいたけれど、一ヵ月も経てば少しずつ慣れてきて、学科では一緒に遊びに行くような友達も何人かできた。
また、そのうちの一人に誘われて演劇サークルに入ったりもした。

私がアイドルをしているという事実は、自分からはことさらに主張しなかったけれど、会話の流れなどからぽつぽつ打ち明けていたら、気が付けば口伝てに広まって、初対面の人に一方的に認知されているなんてことも珍しくなくなった。


そのアイドルのお仕事も、春から新しいプロジェクトがスタートして、ようやく活動が本格化してきたところだった。
私は新人を含む数人のアイドルと一緒にグループを組むことになった。

そのデビューイベントが六月に予定されていたものだから、大学も始まったばかりの時期に、講義の合間を縫ってレッスンやミーティングに参加するのは想像以上に忙しく、大変だった。

おかげで、せっかく入った演劇サークルも、最初のうちはほとんど顔を出せずにいた。
フルートのレッスンだけはかろうじて月に一度、申し込んでいたけれど、定期演奏会に参加できるほどの余裕はなく、どちらかと言えば気分転換のために通っているようなものだった。

それでも、もう一度アイドルのお仕事ができると思うと、嬉しかった。

メンバーの中では私が最年長で、キャリアも一番長かったから、先輩として新人の子たちと接するのも初めての体験だった。
彼女たちとは正式にグループを組む前から何度か顔を合わせていて、その時に私がお仕事や業界について教えたりしたのだけれど、そんな風に面倒を見ていたらいつしかプロデューサーさんからもリーダーとして扱われるようになってしまった。

しかし結局、正式なリーダーは最終的に別の子に決定した。

一応、私も勧められてはいたけれど、そもそもリーダーなんて柄ではないし、自分でも向いていないと分かっていたので、断わったのである。

そんなわけで、入学からしばらくの間、私は学業とアイドルの両立に悲鳴をあげながらもそれなりに充実した日々を送っていた。
161 : ◆wsnmryEd4g [saga]:2020/10/18(日) 17:03:27.69 ID:iX/HvtXE0

――その後、六月のデビューイベントを成功させた私たちは、勢いにのってトークイベント、握手会、フェスのゲスト参加等、精力的に活動を続けていった。
九月には二枚目のシングルも発売し、スケジュールにはライブの予定が次々に舞い込んできて、しかもそのうちのひとつはチケットが完売するという、昔の私なら考えられないような事態が起こり、そこで私はようやく、自分たちが注目されてきているということを実感した。

相変わらず学業と折り合いをつけるのは大変だったけれど、そうした苦労がきちんと結果に結びついていることが何より嬉しくて、少しくらいの忙しさは全然、気にならなかった。

それに、大変なのは私だけではなかった。
むしろグループの他の子たちの方が、経験が少ないぶん私より苦労しているはずだった。
私は、レッスンもお仕事もなるべく彼女たちをサポートするように立ちまわって、危なげなところは都度、フォローしたりしていた。

その甲斐あってか、メンバーからはずいぶん慕われるようになった気がする。
これまでに個人的な相談に乗ってあげたことも一度や二度ではない。


相談、と言えば、ある日、メンバーの子から恋愛相談を受けたことがある。
高校の先輩を好きになってしまったというので、アイドルとして、あるいは一人の女の子として、どうしたらいいかという真剣な相談だった。
この時ばかりはさすがに私も困り果てて、具体的な意見を示せず曖昧に答えてしまったのだけれど、その子に、

「ゆかりちゃんは好きな人、いなかったんですか」

と聞かれた時、真っ先に思い浮かんだのはやはり紗枝ちゃんのことだった。
162 : ◆wsnmryEd4g [saga]:2020/10/18(日) 17:03:58.86 ID:iX/HvtXE0

決して、忘れていたわけではなかった。

しかしその頃の私はとにかく毎日が忙しくて、彼女のことをゆっくり考える暇もなかったのだ。


最後に彼女の姿を見てから、半年以上が経っていた。

本来なら、私と同じ大学に進学しているはずだった。
が、もちろん入学以来、彼女を見かけたことはない。
私は、きっと別の大学を受けたのだろうと思っていた。

けれど彼女の進路に関して、とある噂も耳にしていた。
紗枝ちゃんはアイドルを辞めたあと、大学には進学せず実家に戻ってしまったというのである。

その噂が本当かどうか、プロデューサーさんに聞いて確かめようと思ったことはある。

けれど、過去に紗枝ちゃんとの付き合いでプロデューサーさんに色々とご迷惑をおかけしたこともあり、私からその話題を持ち出すのはなんとなく気が引けていた。
そもそも、未練がましく彼女にこだわり続けること自体、間違っている、そんな思いもあった。
163 : ◆wsnmryEd4g [saga]:2020/10/18(日) 17:04:48.06 ID:iX/HvtXE0

ただ、それとは別に、やはり彼女のことが心配だった。
あの時の、やつれた細い身体、覇気の失せた表情を思い出すと、もしかしたら、という不吉な考えが頭に浮かぶ。

しかし結局のところ、私は紗枝ちゃんの安否を案ずるだけ案じて、実際に何か行動を起こすことはなかった。
目の前の一日一日をひた走ることに夢中で、言ってしまえば、必要以上に過去を振り返るほどの余裕がなかったのである。
事実、アイドルのお仕事が一段落ついた時、あるいは大学が夏休みに入った時には、それまで忙しくて手の回らなかったフルートのレッスンや演劇サークルに参加したり、また別の日には友達と一緒に遊びや旅行に行ったりしていて、それこそ暇らしい暇なんぞまるでなかったのだ。

……いや、その言い分は少し違う。
私はきっと恐れていた。
何もせずに立ち止まったら今度こそ過去に追いつかれてしまうと思って……
過去は常に暇と退屈の中に潜んでいた、だからこそ私は一人の時間を憎み、そこから逃れようともがいていたのだった。
164 : ◆wsnmryEd4g [saga]:2020/10/18(日) 17:05:27.72 ID:iX/HvtXE0

そして私は後に思い返す。

この、繁忙の熱狂に我を忘れたように生活していた日々こそ、かつて私が思い描いていた幸福のひとつの形だったのではないかと。

アイドルを志し、青森の駅で家族と別れたあの日からいつか歩むことになると約束されていた運命の道を、気付かぬ間に通り過ぎていたのかもしれないと。

この狂気に満ちた街に暮らす多くの人々と同様、私もまたその狂気を飼い慣らしつつあった。
そしてそれはほとんどの場合、私自身の生活との闘いだった。
幸福とは、こうした闘いの果てにあるものではなく、闘うことそれ自体がすでに幸福の原型なのだと、私はずっと後になって知ることになる。

が、少なくともこの時の私は、不安や焦り、あるいは愛すべき人を失ったことへの後悔から、それらの心の隙間を埋め合わせるために、ただやみくもに走り続けていただけのように思われてならない。

いずれにせよ私は、狂気の中に身を投じ、背後を過去に脅かされながらも決して闘うことをやめなかった。
私を突き動かしていたものが何であれ、この道の行く先にはきっと私が追い求めていた理想の世界があるはずだと、そう思っていたのだ。
165 : ◆wsnmryEd4g [saga]:2020/10/18(日) 17:06:15.68 ID:iX/HvtXE0

しかし、目の前の現実は私が想像していたよりも遥かに堅く、険しく、非情だった。

確かに、私たちのグループは一時期、大きく勢いに乗っていた。
九月の比較的大きなライブイベントを終え、一旦は落ち着いた活動も、その後、秋から年末にかけて予定されていた各種イベントのために、水面下ではそれぞれの目標に向けて課題に取り組み続けていた。
そして実際、ホワイトボードに記された十月のスケジュールには、これまで以上に多くのお仕事の予定が詰まっていた。

が、ある時を境に、ホワイトボードの空白が埋まらなくなった。

十一月、十二月の日程には、元々決まっていたイベントの他に、かろうじてひとつ、小さな劇場でのライブイベントが入ったくらいで、それ以外のお仕事は一向に増えないまま、やがて十月が終わり、私は十九歳になった。

プロデューサーさんは、私たちから見ても心配になるくらい、それこそ寝る間も惜しんで営業に励んでいたけれど、それでも目立った成果はなかなか見えてこなかった。

何より、この時期になると各プロダクションから次々に新グループがデビューし、劇場やライブハウスの取り合いになるので、そもそも個別のライブイベントを開催すること自体が難しかったのである。

そこで大抵の場合、イベントは合同という形で組まれるのだけれど、それも私たちのグループに声がかかることはほとんどなかった。


私たちは少しずつ焦りはじめていた。

プロジェクト全体が思うように進んでいない、そんな雰囲気を感じ取って、せめて勢いは落とさないようにと、ブログやSNSでファンとの交流に力を入れ、細々した小さなお仕事でも自分たちをアピールすることを欠かさなかった。

けれどもやはり、お仕事の規模はどんどん小さくなるばかりで、次第に雑な現場や過激なファンも目に付くようになり、メンバーの士気が日に日に落ち込んでいくのが私にも分かるくらいだった。
166 : ◆wsnmryEd4g [saga]:2020/10/18(日) 17:06:59.41 ID:iX/HvtXE0

私たちは緩やかな敗北を喫していた。

十二月になり、次のライブの目途がまったく立っていないことが分かると、私もとうとう認めざるをえなくなった。

私たちに足りなかったのは実力だろうか、それとも運?
あるいはその両方かもしれない……

私は悔しさに歯噛みした。

諦めるつもりはなかった。

しかし私は同時に悟ってもいた。

こうなってしまえば、おそらく私一人ではどうすることもできないのだろうと。

私たちには協力者が必要だった。

助言でもいい、とにかく支援してくれる誰かの力が欲しかった。


そして、私がその答えに辿り着くまでにそれほど時間はかからなかった。

私は紗枝ちゃんの言葉を思い出していた。
かつて彼女がこの業界で生き残るために何をしたのだったか?

考えただけで息が詰まる思いがした。

あの時の彼女の悲痛な告白が、今度は私自身の姿と重なって一層、生々しく蘇る。
私は、そんな自らの想像に吐き気を催しながら、ついに目の前に現れたこれらの可能性への恐怖に、思わず肩を震わせた。

私は悩んだ。

そうして時間が経てば経つほど、残された選択肢も少なくなっていった。

私は決断しなければならなかった……。
167 : ◆wsnmryEd4g [saga]:2020/10/18(日) 17:07:54.79 ID:iX/HvtXE0

……後になって振り返れば、この時の私は、求めていたものを寸でのところで取り逃したと思い込み、自暴自棄な心に縛られていただけだったのかもしれない。

目先の結果に捉われ、判断力を失った私が、もしこの時、本当に一歩を踏み出していたらと思うと、ぞっとする。

そして実際、私はその一歩をほとんど決意しかけていたのだ。


十二月の半ば、みぞれが降る寒い日だった。

私はレッスンを終え、プロデューサーさんに相談したいことがあるからと、一人で事務室に向かっていた。
今日こそ話そう、プロデューサーさんに私の覚悟を伝えようと何度も繰り返した決心を、私は事務室の扉の前に立ちながら再び心の中に唱えていた。

が、土壇場になって私は、どうやって話題を切り出すべきか何も考えていなかったことに気付いて、今さら頭を捻りだした。
そうして部屋の前で何分も考え込んでいたら、突然、扉が開いて、プロデューサーさんと鉢合わせしてしまった。

私は不意をつかれて慌てふためいた。
プロデューサーさんは最初、驚きに目を丸くして、何かを言おうとしていたらしかった。
が、ふと考え直したようにちらりと背後に目線をやると、なにやら真剣な様子で、

――ちょうどよかった、水本に話したいことがある――

そう言って、私を事務室に招き入れた。

……その話というのが、以前、ドラマ『あいくるしい』でお世話になった監督から、私宛に次の映画への出演のオファーが来ているというものだった。
それも、まさに数分前の電話で……。
168 : ◆wsnmryEd4g [saga]:2020/10/18(日) 17:09:53.54 ID:iX/HvtXE0

この、出来すぎた偶然のようなチャンスを、果たして幸運の一言で片付けてしまっていいのだろうか?

私は驚きと喜び、それからこの数週間悩み続けた切実な苦しみを思って、つい、プロデューサーさんの前でぽろぽろと涙を流してしまった。
プロデューサーさんはそんな私を慰めながら、また彼自身、報われたことの感動から涙を堪えている様子だった。

が、私は必ずしも希望的な安堵から感情を昂ぶらせたのではなかった!

この運命のいたずらとしか言いようのない偶然に、私は心から畏怖の念を抱いていた。
もし私が少しでも決断を早めていたら、あるいは先方からの電話が数日でも遅れていたら、私はきっと紗枝ちゃんと同じ道を辿っていただろう。
結局のところ、私自身の臆病さとたった一度の些細な偶然、それだけで私たちの未来はこんなにも違うものになってしまうのだ。


その時だった。

私の脳裏に、紗枝ちゃんの懐かしい笑顔がはっきりと浮かび上がった。

私はハッとした。

――今こそ彼女を救うべき時なのではないか?

私はようやく彼女を愛する資格を得たのだと気付いた。
すると、これまで封じ込めていた過去が突然、不思議な輝きと情熱を帯びて私の心を焚きつけだした。

私に課せられた責任とは、まさに彼女への愛を再び自分自身に蘇らせることではなかったか?
169 : ◆wsnmryEd4g [saga]:2020/10/18(日) 17:10:31.57 ID:iX/HvtXE0

……しかし一方で私は冷静だった。

私と紗枝ちゃんの関係はすでに終わったものだと、もはやかつてのように純粋に愛し合える日は来ないのだということを、頭でははっきりと理解していた。

だから、私は紗枝ちゃんその人ではなく、私の中に住み着いている郷愁と愛慕を救わなければならなかった。
この誓いは、あるいは偽りの救済、偽善的な自己満足にすぎないものだったけれど、それが今の私にできる精一杯の贖罪だったのだ。

そして、それは同時に私の希望でもあった。

私は、この新たな誓いに自らの希望を託すことでようやく自分の人生の第一歩を踏み出せると思った。

紗枝ちゃんを諦め、彼女を大切な思い出として心の中に住まわせる事こそ、私の目指していた幸福の形なのだと……あとは私が、その事実を受け入れさえすればいいのだと。



そう、思っていた。

少なくともあの日、紗枝ちゃんが私の元を訪れる時までは。

それは、冷たい雨の降る夜、クリスマスイブのことだった。
170 : ◆wsnmryEd4g [saga]:2020/10/18(日) 17:11:27.92 ID:iX/HvtXE0


   十七

夜、九時ごろだった。

ネットで調べものをしていると、突然、インターホンが鳴りだした。
こんな夜中に誰だろう、私は怪訝に思いながら、マンションの自室に備え付けてあるドアホンのテレビカメラを覗いた。

一瞬、誰か分からなかった。
紺のジャンパーを羽織り、ぶかぶかしたフードを被っているその人物は、まるで浮浪者のように全身を雨に濡らして私の部屋の前に立っていた。

それは、確かに怪しい人物には違いなかった。
が、私は警戒するより先に、その見覚えのある姿に奇妙な胸騒ぎを覚えていた。
フードの影に垂れている長い前髪、ほっそりした顎のライン、そしてつぼみのように小さく結ばれた口元……

まさか、という予感が閃光のように走る。
心臓が早鐘を打ち、私は、それでも信じることができずに、

「……どなたですか?」

とドアホン越しに呼びかけた。

すると来訪者はぴくりと怯えたように反応し、震える手でフードを脱いだ。


私は玄関までのほんの僅かな距離を駆け出して行った。

なぜ、どうして……私は心に叫んでいた。

あらゆる疑問、あらゆる感情が胸のうちに押し寄せ、そのまま激突するようにドアノブに手をかける。

「紗枝ちゃん!」

彼女は、私の姿を見るや否や、顔をくしゃくしゃにして、感極まったように泣き出した。

吼えるような慟哭がマンションの通路にこだまする。
けれど私は、それすら気にも留めずに、彼女の取り乱した姿を食い入るように見つめてばかりいた。
171 : ◆wsnmryEd4g [saga]:2020/10/18(日) 17:12:23.86 ID:iX/HvtXE0

私は困惑していた。
それこそ夢を見ているような気分だった。
こんなにも唐突に、何の前触れもなくやってきた彼女との再会をどう受け止めればいいか分からなかった。

私は興奮に息を詰まらせながら彼女の背中に手を回し、ひとまず部屋に招き入れた。

扉を閉め、私たちは薄暗い玄関で向かい合って立った。
私は明かりを点けるのも忘れ、ただ一言、「どうして」と呟くことしかできなかった。

彼女はまだすすり泣いていた。
私の顔もまともに見ることができず、嗚咽交じりの呼吸を引き攣らせながら涙を懸命に拭っている、その痛々しい姿はまるで迷子の子供のようだった……
いや、彼女は実際、今までずっと迷子だったのだ、と私は思った。

「紗枝ちゃん、もう、大丈夫だよ。だから落ち着いて、ね? ……」

私は自然に、考えるよりも先に彼女を抱きすくめていた。

びしょ濡れの彼女の身体は私の腕の中で震えていた。
それが嗚咽の痙攣なのか、寒さによる身震いなのか、咄嗟に判断できなかった。
私は、とにかく彼女を落ち着かせなければと思って、その泣き腫らして真っ赤になった頬にそっと両手をあてがった。

雨と涙に濡れた肌はぼんやりと熱がこもっていた。
不審に思い、額にも触れてみると、やはり少し熱っぽかった。

「大変……!」

私は慌ててタオルを取りに部屋に戻った。
紗枝ちゃんは玄関の壁に寄りかかったまま朦朧としていて、何やらうわ言のようなことをぶつぶつと呟いていた。
172 : ◆wsnmryEd4g [saga]:2020/10/18(日) 17:13:28.34 ID:iX/HvtXE0

彼女はひどく弱っていた。
その長い黒髪は単に雨に濡れただけではない奇妙なべたつきがあった。
落ち窪んだような目元、よく見れば青ざめている唇、そしてこの高熱……羽織っているジャンパーを脱がすと、その下はシャツ一枚という薄着だった。

一体、彼女の身に何が起きたのだろう?
私はよっぽど事情を問いただしたかった。
が、今はそれよりも彼女の身体が心配だった。

私は、力の抜けた彼女の重たい身体を支え、ベッドの上に座らせた。
するとふいに酸っぱい匂いが鼻をついて、それは薄汚れたシャツから臭ってきていた。

私はためらいながら彼女のシャツも脱がした。
明るい部屋の中に見る紗枝ちゃんの下着姿は一層哀れだった。
以前よりさらに痩せこけ、あばら骨が浮き出ている。
私は思わず目を背け、そしてそれを誤魔化すように替えの服を探しに行った。


その後、私は彼女を着替えさせると毛布に包んでベッドに寝かしつけた。
あの様子だともしかしたら食事もろくに取っていないかもしれない、そんな予感がして、私は、バスタブにお湯を溜めている間、台所で軽くご飯の支度をした。
簡単な雑炊とりんごを三切れ、用意してベッドまで運んだ。

彼女は相変わらず辛そうに息をしていた。
が、先ほどよりはずっと意識もはっきりしてきたようだった。
私はトレーを机に置いてベッドの脇にかがみ、そののぼせたような赤い顔にそっと手を伸ばした。

彼女の頬はしっとりと汗ばんで熱かった。

そうして肌に触れながらまじまじと見つめているうちに、気付けば私は、もうこれ以上自分の心を欺き続けるのは不可能だと悟った。


私はどうしようもなく紗枝ちゃんのことが好きだった。

彼女への憧れ、彼女への愛慕は、この空白の一年間、少しも変わっていなかったのだ。

彼女の苦しみに歪んだ表情を、私は胸が張り裂けるような思いで見つめていた。……
173 : ◆wsnmryEd4g [saga]:2020/10/18(日) 17:14:11.51 ID:iX/HvtXE0

紗枝ちゃんがふと目を覚ました。

まだ少し朦朧としているらしい濁った視線を宙に向けて、それからようやく、横にいる私を認識したようだった。

私は、こみ上げてくる切ない気持ちをぐっと堪え、にこりと微笑んでみせた。
彼女は瞼を痙攣させながら、私の手を包むように自らの手をそこに重ね、
――気持ちいい――そう呟いた。

「お水。飲めそう?」

コップを差し出すと、彼女はふらふらと上体を起こし、私に背中を支えられながら水を飲みだした。
私は次にりんごを一口、差し出した。

「食べる?」

彼女はこくりと頷くと、力なく口を開け、しゃり、と食んだ。

私は、彼女がゆっくりと咀嚼する様子を黙って眺めていた。
その後、残りのりんごと雑炊を少し食べ、お水を飲むと、彼女は再びぐったりとベッドに横になった。

そして、私が濡れタオルを準備しようと立ち上がったら、ゆかり、と呼び止められて、振り返ると、

「……ごめんなさい」

だしぬけに紗枝ちゃんがそんなことを言い出した。

「大丈夫、気にしてないよ」

しかし彼女はそれでも、ごめんなさい、許して、と何度もうわ言のように繰り返した。
そうして私が、「お水、持ってくるね」そう言って離れた後も、ベッドからは、ゆかり、行かんといて、と弱々しく呼び続ける声が聞こえていた。
174 : ◆wsnmryEd4g [saga]:2020/10/18(日) 17:14:53.03 ID:iX/HvtXE0

しばらく経つと、彼女の顔色も少し良くなった。

私は体温計を彼女の腋に差しながら、このあと近くのコンビニまで買出しに行って来ようかしらなどと考えていた。

「ゆかり……」

「うん?」

「ほんまに、堪忍どすえ……」

「そんなの、気にしてないから。本当に……紗枝ちゃんと会えて、私、嬉しいよ」

「うち、どうかしとった……もう、帰る……」

「帰るって、どこに?」

「…………」

彼女はばつが悪そうに目を逸らした。

どのみち私は彼女をこのまま帰すつもりはなかった。
とにかく事情を話してもらわなければ、そう思って、私は改まって彼女に尋ねた。

「……ねえ、教えて。何があったの? どうして私の部屋が分かったの? 今までずっとどこにいたの?」

彼女は何も答えず、黙って天井を見つめていた。

私は彼女のそんな態度を責めはしなかった。

話したくないのなら、今はそれでもいい。
彼女の口から直接聞かずとも、遅かれ早かれ分かることだろうと思った。

ただ、彼女が私に対して未だ心を閉ざしているように思われて、それが私には気がかりだった。
175 : ◆wsnmryEd4g [saga]:2020/10/18(日) 17:15:26.07 ID:iX/HvtXE0

熱を計ると、三十八度あった。
この時期だと、インフルエンザという可能性もある。
病院に行こう、そう言うと、彼女はふるふると首を振って、「保険証、持ってへん」と答えた。

私が、それでも、と説得しようとしたら、彼女は何を思ったか、急に身体を起こして、

「やっぱし、帰る。これ以上、迷惑かけられまへん……」

ぶつぶつとそんなことを呟きながら、ベッドから起き上がろうとした。

「だめ!」

私は悲鳴を上げ、彼女をベッドに押し戻した。

「迷惑なんかじゃない。それより、もう私に心配かけさせないで。お願い」

そうして叱りつけるような口調で諭すと、彼女は観念したように目を閉じ、再び苦しそうに呼吸しだした。

夜間診察は、移動手段を考えると彼女の体力的にも厳しそうだったので、病院は明日連れて行くことにした。

私は彼女にベッドで大人しくしているよう言い聞かせ、土砂降りの雨の中、コンビニへ出かけた。
スポーツドリンクと冷却シート、それからマスクを買い、ふと店内の時計を見ると、すでに零時を回っていた。

陽気なクリスマスソングが雨音に混じって寂しく流れていた。
176 : ◆wsnmryEd4g [saga]:2020/10/18(日) 17:16:03.09 ID:iX/HvtXE0


翌朝、ソファの上で目覚めた。

起き上がり、ベッドの方を見ると、紗枝ちゃんがすやすやと眠っていた。

そっ、と彼女の額に手を置いてみる。
ほんの少しだけ、熱があるような気がする……けれど、昨晩ほどではない。

すると、紗枝ちゃんがゆっくりと目を覚まして、私を見上げるようにぼんやりと瞳を揺らした。

「気分はどう?」

私が尋ねると、彼女は、楽になった、と答えて、それから小さく微笑んだ。

私はホッとして、朝ごはんはどうする? 服も着替えないとね、と、まるでこの一年間、ずっとそうして二人で暮らしてきたかのように、クリスマスの朝を迎えたのだった。
177 : ◆wsnmryEd4g [saga]:2020/10/18(日) 17:17:01.24 ID:iX/HvtXE0

「七度三分……微熱だね」

おそらくただの風邪だろう。
とはいえ一応、病院には行った方がいいかもしれない。
そう言ったら、彼女はやはり首を横に振って、もう平気、と意地を張るように答えるのだった。

そして、体調が徐々に回復してくると、私の心配をよそに「もう帰ります」などと言って、しきりに立ち去ろうとした。

私は彼女を逃さなかった。

少なくとも事情が判明するまで、彼女を一人にはしておけないと思った。

というのも、私は昨晩、紗枝ちゃんの身体をタオルで拭いた時に、その腕にとある異変を発見していたのである。

「手首の傷……自分でやったの?」

彼女はびくりと肩を震わせた。
そして気まずそうに私から目を逸らし、左手首をそっと押さえ、黙った。

彼女の自傷行為について、私はもちろんショックを受けていた。
気付かなければよかったと、あるいは何かの間違いであってほしいと、先ほどまではそう思っていた。

が、今や私の心のうちには、憐れみや悲しみよりももっと深い感情が、それこそ私自身、今まで感じたことがないくらいに激しく燃え滾っていた。

それは怒りだった。

紗枝ちゃんのあの美しい肉体が、気品と情熱に満ちた精神が、彼女自身の手によって傷つけられていると知ると、言いようのない焦りと苛立ちを感じた。

そして彼女をそこまで追い詰めてしまった原因が自分にもあるのだと思うと、やりきれなかった。

だから私は、これ以上彼女を傷つけさせないためにも、今は私の目の届く範囲に置いておかなければならなかった。
178 : ◆wsnmryEd4g [saga]:2020/10/18(日) 17:17:46.81 ID:iX/HvtXE0

私は最初、この不快感の正体が何なのか分からなかった。

そこで、怒りという攻撃的な衝動にまだ十分慣れていなかった私の心は、その昂ぶる感情を分かりやすい別な欲求として解消することにした。

「お風呂、入ろっか」

昨晩、何度かタオルで汗を拭ったとはいえ、彼女の身体はずいぶん臭った。
かつてあれほど綺麗だった黒髪も、今や脂ぎって埃にまみれている。
私は、不潔さそのものというより、紗枝ちゃんの薄汚れた姿を見続けることに耐えられなくなっていた。

私は彼女の美しさを取り戻したかった。

すると不意に、彼女の身体を洗い清める光景が目に浮かび、私の官能をひどく刺激した。

次第に私はその想像に夢中になった……そしてこれらの色情は実際、怒りの代用として十分な効果を果たした。

が、一方で私は、必ずしも肉体の欲求にのみ従って彼女を辱めようとしたわけではなかった!

私はあたかも崇高な使命に導かれるように彼女の精神と肉体の浄化を願っていた。
神に捧げる生贄の儀式、そのみそぎのため、名誉ある仕事を任せられた司祭のように……。
179 : ◆wsnmryEd4g [saga]:2020/10/18(日) 17:18:56.69 ID:iX/HvtXE0

彼女は抵抗しなかった。
あるいは、抵抗する力もなかったのかもしれない。

私は彼女をバスチェアに座らせると、まず汚れた髪をシャンプーで二、三度洗った。

その後、私は彼女の身体の隅々に丹念に手を這わせ、ボディソープを泡立てていった。

その時点で彼女はもう、私にされるがままになって、そんな彼女の熱っぽい身体をくすぐるようになぞるのは楽しかった。

私は彼女の背後に膝立ちになり、抱きつくように腕を回してその乳房や恥部に指を食い込ませた。
すると彼女は小さな嬌声を上げて善がりだした。

私はゆっくりと、掻き出すように彼女の膣内を洗った。

そうして彼女の感じ易いところをわざとらしく責め立てているうちに、やがて絶頂を迎えたらしい痙攣が私の指を締め付けた。
しかし私はそれでも指を動かすのを止めなかった。
彼女は濡れた前髪を額に張り付かせながら、私を見て怯えたように首を振った。

私は無言で彼女の頬にキスし、今度は陰核を剥いて激しく指で擦った。

短い叫び声が浴室に響き、彼女が二回目の絶頂に達したのが分かった。
そうしてそれが三回、四回と続いていくと、最初は快感に甘えていた嬌声も次第に鋭い悲鳴に変わってゆき、そして五回目の絶頂でとうとう失禁しだした彼女は、私の手のひらに生温かい小水を注ぎながら、

「もうやめて!」

と叫んだ。
しかし私はやめなかった。

「また汚れちゃったね。いま、綺麗にしてあげるから……」

私は小水が滴る手のひらで彼女の口を塞いだ。

驚きに目を見張る彼女をよそに、私は出しっぱなしのシャワーを彼女の恥部に当てた。

そしてようやく抵抗しようと暴れだした彼女を軽くいなしながら私は、再び彼女が果てる瞬間を待った。
180 : ◆wsnmryEd4g [saga]:2020/10/18(日) 17:19:57.05 ID:iX/HvtXE0

しかし六度目はなかなか訪れなかった。

私は諦めて彼女の口元に臭う汚水をシャワーで洗い流すと、息も絶え絶えに震えている彼女を立ち上がらせ、一緒に湯船に入った。

私たちはぬるいお湯に浸かりながら向かい合って座った。
しかし紗枝ちゃんはなぜか恐怖におののくような目で私を見、私から遠ざかるように身体をくねらせていた。
私はそんな彼女の左腕を掴み、醜い傷痕がよく見えるように引き寄せた。

「もう二度とこんなことしないって、約束してくれる?」

しかし彼女はただ困惑した表情で、わけがわからないといった風に私を見つめてばかりいた。

私はそこで初めて、ああ、これが怒りなんだ、と理解した。

「痛い! 離して……」

「ねえ、紗枝ちゃん。私、紗枝ちゃんのこと、信じてたんだよ? 紗枝ちゃんならきっと分かってくれる、いつか本当の意味で私を愛してくれるはずだって……」

「分からへん、うち、ゆかりが何言っとるか、分からへん……」

私は身を乗り出して強引に彼女の唇を奪った。

彼女に逃げ道はなかった。
そして結局、彼女もまた、恐怖に怯えつつも私の欲望を受け入れてしまうのだった。
以前の私たちならキスだけで全てが通じ合っていたのに、今やこの唇はただお互いの性欲を吐き出すためだけの器官に成り果てていた。

「……分かってくれないなら、もう、いい。紗枝ちゃんは、私が思ってたよりもずっと、ずっと弱い人だったんだね」

「ゆかり……ほんまに、どないしたん……?」

私は答える代わりに彼女の首筋に吸い付き、舌を這わせた。

そして再び、彼女の嫌がる言葉も無視して執拗に身体を犯し始めた。

彼女はもはや行き過ぎた快楽のために苦痛の叫び声を上げていた。
狭いバスタブの中、彼女は逃げ場もなく私に蹂躙され続けた。

私は途中から絶頂に達した回数を数えるのも面倒になってしまって、とりあえず彼女が限界を迎えるまでひたすら愛撫を続けることにした。
181 : ◆wsnmryEd4g [saga]:2020/10/18(日) 17:20:43.48 ID:iX/HvtXE0

やがて彼女はぐったりと私に抱かれたまま動かなくなった。

もうどこを触っても刺激しても、ほんのり筋肉を痙攣させるだけで反応らしい反応が見られなくなった。

私はそこでようやく彼女の体調が悪かったことに気付き、一度バスタブから上がってバスチェアに座らせ、茹だった身体を冷やしてあげた。

「大丈夫?」

呼びかけても返事はなかった。

彼女はひどく疲弊していた。

呼吸は荒く、半分に開かれた瞼の下には焦点の合わない目がふらふらと宙を泳いでいる。

しかし少なくとも意識はあるようだった。

私は、今こそ彼女に最後の罰を与えようと、耳元に顔を近づけて、言った。

「あのね、紗枝ちゃん。私、本当は今日、プロデューサーさんと出かける予定だったの……でも安心して? さっきキャンセルの電話を入れておいたから。プロデューサーさん、残念がっていたけど、でも仕方ないよね。紗枝ちゃんの具合がこんなに悪いんだもの、放っておけないよ。だから今日はずっと二人きり、ね?」

「あ、ぅ……」

彼女は何やら意味不明な言葉を漏らしてゆっくりと首を振った。私は構わず続けた。

「……一年前、紗枝ちゃん言ってたよね。私のプロデューサーさんのこと、無能だ、って……でも、それは違うよ。あの人は無能なんかじゃない。ただ真面目で、正直すぎただけなの。あの人は、紗枝ちゃんがやったようなことは絶対に私たちにさせようとしなかった。私たちを守ろうとしてくれてたんだよ。そのせいで他の同僚の人たちに出し抜かれたり、結果が出せなかったりしても、あの人は諦めずに、ずっと私たちを支えてくれてた……だから私、あの人となら付き合ってもいいって、そう思ったんだ」

「……え……?」

一瞬、表情の固まった彼女ににっこりと微笑みながら、私は言った。

「私、先週からプロデューサーさんとお付き合いしてるの。それでね……この前、初めて男の人に抱かれたんだ……」
182 : ◆wsnmryEd4g [saga]:2020/10/18(日) 17:21:22.83 ID:iX/HvtXE0

紗枝ちゃんの身体が奇妙な痙攣に震えた。

そして、うっ、という声がして、彼女が咄嗟に口元を押さえるのを見た。

その手の隙間から、濁った液体がごぽごぽと吹き出して私たちの足元に零れだした。

「あっ。だめじゃない紗枝ちゃん、また汚れちゃう……」

私は両手を差し出して彼女の吐瀉物を受け止めた。

彼女は激しくえずきながら私の手のひらに嘔吐し続けた。

そうして時々、息継ぎの合間に悲痛な叫び声が響いて浴室にこだまするのを、私は不思議と愉快な気持ちで聞いていた。……


それから私は、胃液を出し尽くして涙と鼻水と涎にぐちゃぐちゃになった彼女の表情を見つめながら、手のひらになみなみと溜まった吐瀉物を掲げて、

「はい」

と彼女の口元に寄せた。

彼女は肩で息をしながら、私が言ったことの意味をすぐに理解し、パニックに襲われたように再びむせび泣いた。

私は黙って、彼女が完全に服従する時を待っていた。

やがて彼女は絶望にすっかり狂ったようになって、私の手のひらに口をつけ、何度も咳き込みながらついに全て飲み下した。

「よくがんばりました」

私は満足し、彼女を抱きしめた。

そして今度こそ身体を綺麗に洗い流してやり、濡れた身体を優しくタオルで包みながら浴室を出た。
183 : ◆wsnmryEd4g [saga]:2020/10/18(日) 17:21:51.72 ID:iX/HvtXE0


――窓の外を閃光が走った。
土砂降りの雨音に混じって雷鳴が轟く。
私は、このクリスマスらしくない悪天候を憂いて溜め息をつき、そして言った。

「……そっか。紗枝ちゃんも、辛かったんだね」

私はベッドのわきに腰掛け、紗枝ちゃんの話を聞いていた。

彼女は布団の中に横たわり、疲労と病と絶望に空っぽになった心を天井に彷徨わせながら、まるで出来損ないのロボットのように私の質問に答えた。


彼女は高校を卒業したあと、実家に戻っていた。
そこで半年余、引きこもりのような生活をしていたという。
リストカットはその頃に覚えた、自殺未遂をして親を泣かせたこともある、そんな事も彼女は話してくれた。

私はもう、それを聞いても怒りは感じなかった。
ただただ彼女のことが哀れで、切なくて、同情することしかできなかった。

紗枝ちゃんはその間、テレビやネットからも遠ざかっていた。
何かの拍子で、私の姿をちらりとでも思い出してしまうのを恐れていたらしかった。
私は、彼女なりに過去を忘れようと努力していたのだと知って、いくらかは彼女を許してあげてもいいような気持ちになっていた。
184 : ◆wsnmryEd4g [saga]:2020/10/18(日) 17:22:31.88 ID:iX/HvtXE0

しかし結局、彼女は過去を乗り越えられなかった。

十月、私たちの十九歳の誕生日に、彼女はついに孤独に耐えられなくなった。

自暴自棄になった彼女は、引きこもるのをやめた代わりにネットを通じて寂しさを紛らわそうとした。

そして、それこそ男も女も見境なく、出会っては刹那的な関係に溺れる日々を繰り返した。

もちろん、そんな生活が長く続くはずはなかった。
私は知っていた、一時の快楽に孤独を忘れることはできても、孤独そのものを消し去ることは誰にもできないということを。
彼女は知らなかったのだ、人の孤独とは決して癒すことのできない不治の病だということを。

私は思った。
もしもあの日、あの駅前で、私がそのことを伝えていれば彼女が救われる未来もあったのだろうか?

かつて私たちは言葉を必要とせず、二つの心をひとつに溶け合わせる事こそが愛だと信じていた。
そして、それが所詮は見せかけの信頼に過ぎないということを、一年前、私は紗枝ちゃんとの会話で悟ったはずだった。


しかしその時にはもう手遅れだったのだ。
私たちは数ヶ月の短い間にあまりに多くのものを共有し、存在を融和させようと努めていたので、言葉によって二つの心に境界線が引かれることを極端に恐れていた。

その結果、私たちはお互いの境界を見失ったまま醜く分裂し、そうして私の心には紗枝ちゃんの魂の断片が、紗枝ちゃんの心には私の魂の断片が、まるで呪いのようにこびりついてそれぞれに根を張ってしまったのだ。

そう、私はこの一年間、紗枝ちゃんの呪縛から逃れようともがいていた。
一度、溶け合いかけた二つの心を引き剥がすにはそれくらいの年月が必要だったのだ……
いや、むしろ私たちが真に孤独を飼い慣らし、本当の愛を育んでいくためには、二年、三年、あるいはもっと長い時間が必要になるに違いなかった。
185 : ◆wsnmryEd4g [saga]:2020/10/18(日) 17:23:17.02 ID:iX/HvtXE0

そして私は気付いたのだった。
私にはやはり紗枝ちゃんの存在が必要なのだと。

私たちは出会った時からすでに運命を共にしていた。

そしてついに分かち難い融和を果たした二つの魂は、もはやお互いを傷つけずにはいられないほど歪に絡み合い、それは私一人の力ではどうすることもできなかったのだ。


だから私は彼女を救わなければならなかった。

私自身の人生を克服し、自らの愛を築いていくためには、彼女にもまた彼女自身の愛を築いてもらわなければならなかった。

そう、これはいわば運命への復讐なのだ。

今日はそのための最初の儀式にすぎない……
186 : ◆wsnmryEd4g [saga]:2020/10/18(日) 17:24:33.85 ID:iX/HvtXE0

私はその後も質問を続けた。

彼女がここの住所を知った経緯は簡単なことだった。
彼女の元プロデューサーに連絡し、過去の肉体関係を盾に脅して私の情報を聞き出したのだという。

彼女は昔からそうやってプロデューサーを利用していたのだ。
かつて私とのドラマの共演を仕組んだのも、裏でそうした手引きが行われていたからだった。

そして、私の元を訪れようと思った理由も、些細な偶然がきっかけだった。
淫蕩な生活に明け暮れていた彼女は、ある日、同年代の女性と一夜の関係を持った。
その女性がたまたまアイドルに詳しかったために、紗枝ちゃんは正体を知られ、そして過去に出演していたドラマの話題からふいに私の名前も上がった。
その女性は、嬉々として水本ゆかりの現在のアイドル活動について紗枝ちゃんに話して聞かせた。

それが決定打になったのだという。
紗枝ちゃんは数日後には家を飛び出し、残り少ない貯金を全て下ろして東京まで赴いた。

紗枝ちゃんがベッドの上で滔々と呟いた。

「……一度は、ゆかりのこと諦めよう思うた時もあった。あの演奏会の時……ゆかりの演奏してる姿見て、ああ、もう手遅れなんや、って……ゆかりはもう、うちの知らない人になってもうたんや、そう思て……。せやからうち、ゆかりとは二度と会わへんようにしよう、そう心に決めてたんどす」

「…………」

「けど、ゆかりが楽しそうにアイドル続けてるの知ったら、そんなんどうでもよくなってもうた。うちのことなんかすっかり忘れたみたいに呑気に生きてるゆかりが、憎くて、憎くて、許せんかった……。ほんまはうち、ゆかりを殺そう思て東京に来たんどす。ゆかりを殺してうちも死のうって、それで家を飛び出て……けど、無理やった。うちにはそない度胸なかった。それどころか、ゆかりの姿を一目見て、ああ、やっぱし綺麗やって、こない愛らしい人を殺すなんてうちにはできひん、って、そしたらもう、わけが分からんくなって……」

「……ご両親には、何て言って出たの?」

「なんにも……今頃、うちのこと探してるかも分からん。けど、それももう、知ったことやない……」

すると彼女は突然、ふふっ、と笑い出して、いい気味どすえ、そう吐き捨てるように言った。

私は、そんな罰当たりな言葉を口にする彼女を咎めはしなかった。
それよりも別のことが気がかりだった。
187 : ◆wsnmryEd4g [saga]:2020/10/18(日) 17:25:13.44 ID:iX/HvtXE0

「携帯には連絡とか来てないの?」

「電源切れたままやから、分からへん……」

「携帯、私が預かってもいい?」

彼女は一瞬だけ、不審そうな目をちらりと私に向けた。
そしてすぐに何かを察したように「ん……」と答えた。

「他に、足がつきそうなものとか、ある?」

「……強いて言うなら、あの人やろか……うちが電話かけたの、あの人が最後やったし……」

彼女が言っているのは、おそらく紗枝ちゃんを担当していたプロデューサーのことだろう。

確かに、もし彼女の捜索願が出されるようなことがあれば、手がかりを求めて事務所に連絡が来る可能性もゼロではない。

「分かった。他は……大丈夫そうかな」

そうして一人で納得しだした私をよそに、彼女は虚ろな目を窓の外に向け、独り言のように、

「うち、これからどうやって生きていけばええんやろ……」

と呟いた。

「え?」

私は思わずキョトンとして、

「なに言ってるの? ずっとここに居ていいに決まってるじゃない」

そう答えて、同じようにキョトンと見つめ返した彼女の顔の、その前髪をそっと手でかき分けながら、

「ねえ、私たち、また前みたいに二人で暮らそうよ。お金は大丈夫、私がなんとかする。最近ね、お仕事の方もそれなりに上手くいってるんだ。だから紗枝は何の心配もしなくていい、ただ私と一緒に住むだけでいいの。そうすれば毎日セックスできるし、紗枝も寂しい思いしなくて済むでしょ? そのかわり、私が良いよって言うまで紗枝はこの部屋から外に出ちゃだめ。分かった?」

「え……?」
188 : ◆wsnmryEd4g [saga]:2020/10/18(日) 17:25:44.55 ID:iX/HvtXE0

「私ね。紗枝のこと、もっとちゃんと知りたいの……そして紗枝にも、もっと私のことを知ってほしい。だから、もう一度、最初からやり直そう? それでゆっくり話し合って、今度こそ二人で生きていくの。たぶん、時間はかかると思うけど……でも、私たちならきっとうまくやれるよ」

私はそう言って、ベッドに横たわる彼女の、その青ざめた表情に覆いかぶさるように顔を近づけた。

「……どうしたの? 震えてるみたい……もしかして、まだ寒い? ねえ、言ってくれないと分からないよ」

「ゆかり……どうして……」

「どうして? だって、外に出したら紗枝、また自分を傷つけるでしょ? 私がいないと生きていけないって、言ってたじゃない。だから、まずはちゃんと生きてもらわないと。ね? もう絶対、リストカットなんかしちゃだめだよ。ああ、それと他の誰かに電話したり、連絡したりするのも禁止。外の世界は、紗枝にはまだちょっと早いみたいだから……。当然、ネットも禁止だからね。テレビとラジオは……まあいっか。……うん。とりあえずのルールはこんなところかな。分かった? ……分かったらちゃんと返事して。……はい、よくできました。それと、もしルールを破ったら、その時は……ふふっ、どうしたの紗枝、私まだ何もしてないよ?」

彼女の顔は恐怖に青ざめ、濁った瞳が粘ついた泥のように私をじっと見つめていた。

が、同時にその口元は奇妙な形に歪んでいて、それはまるで抑えきれない歓喜のために思わずこぼした、彼女の心からの笑顔のように見えた。
189 : ◆wsnmryEd4g [saga]:2020/10/18(日) 17:26:28.39 ID:iX/HvtXE0

私は一息つき、軽く伸びをした。

明日から紗枝の身の回りのお世話もがんばらなくては、そう意気込んで、気持ちも新たに深呼吸した。

するとふいに胸の奥を爽やかな風が吹き抜けて、興奮に思わず武者震いをした。


まずはお洋服と下着を買ってあげなくちゃ。

それと私が留守にしている間に変な気を起こさないよう、監視カメラも用意した方がいいかな?

そういえば犬のしつけ用に電気の流れる首輪があるって、テレビか何かで聞いたっけ……
どれくらい痛いのか分からないけど、一応、調べてみてもいいかもしれない。
電気なら、身体に傷痕は残らないよね。

あとは……そうだ、部屋にずっと居たらさすがに退屈だろうし、彼女の喜びそうな玩具も買ってあげよう。
でももし紗枝が一人遊びにハマっちゃったら、それはそれで困るかも。
……まあ、その時は私も一緒に使ってみて、二人で気持ちよくなれたらそれでいいよね。
紗枝、喜んでくれるといいな……。


私はわくわくするような気分で今後の計画を頭に思い浮かべた。


それはきっと、今までに感じたことのないような素敵な未来の予感だった。


私たちの物語がこれから始まるんだ。





END

190 : ◆wsnmryEd4g [sage]:2020/10/18(日) 17:40:33.65 ID:iX/HvtXE0
このSSは去年のゆかさえ誕の時にpixivに投稿した『飼育』というSSを少し書き直したものです
191 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [sage]:2020/10/18(日) 17:50:14.41 ID:xEmdF3xDO


わーい、ヤンデレ四天王の名目、保ちましたですな
192 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [sage]:2020/10/25(日) 17:08:13.57 ID:lZXNrZw40
ワオ…
249.13 KB Speed:0.1   VIP Service SS速報R 更新 専用ブラウザ 検索 全部 前100 次100 最新50 新着レスを表示
名前: E-mail(省略可)

256ビットSSL暗号化送信っぽいです 最大6000バイト 最大85行
画像アップロードに対応中!(http://fsmから始まるひらめアップローダからの画像URLがサムネイルで表示されるようになります)


スポンサードリンク


Check このエントリーをはてなブックマークに追加 Tweet

荒巻@中の人 ★ VIP(Powered By VIP Service) read.cgi ver 2013/10/12 prev 2011/01/08 (Base By http://www.toshinari.net/ @Thanks!)
respop.js ver 01.0.4.0 2010/02/10 (by fla@Thanks!)