水本ゆかり「人形の檻」【ゆかさえ】

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102 : ◆wsnmryEd4g [saga]:2020/10/18(日) 13:13:50.34 ID:iX/HvtXE0

「――……ここに来るのも久しぶりだね」

「だいぶ感じ変わって見えるなぁ」

「なんだか、前よりも小さくなってない? 建物」

「ゆかりがおっきくなったんとちゃう?」

「私、そんなに背伸びたかな?」

「精神的に成長したんよ、きっと」

私たちは広い庭園を意味もなくぶらつきながらしゃべっていた。

かつてここを一面覆っていたラベンダーだのバラだのといった花々はもはやすっかり身を潜め、後にはただぼそぼそした緑の植物が広がっているだけだった。


そして私たちの目の前にはあの威厳に満ちた城郭が建っているはずだった。

太陽の光の中に、友のように寄り添っていた木々と青葉の中に、老いてなお誇りを失わずにいる眠れる戦士のように私たちの再訪を迎えてくれるはずだった。

しかし実際、この淋しい感じはどうだろう?

その肌はまるでひび割れた化石のように私の目に映った。
鮮やかなコントラストを描いていた白と黒の外壁は今やただのぼやけた灰色だった。
冷たい秋風がその身を枯らしてしまったように、彼は周囲に対して卑屈に背をかがめていた。

彼は孤独だった。
しかも彼は彼自身が単なる背景のひとつでいることに何の不満も抱いていないらしかった。
それが余計に私には切なかった……。
103 : ◆wsnmryEd4g [saga]:2020/10/18(日) 13:14:45.34 ID:iX/HvtXE0

私たちはお互いになんとも言い出しかねて、まるで建物に立ち入るのを渋るかのように庭の辺りをうろうろしていた。
かと言ってベンチに座り込む気にもなれず、そうして歩きながら本当に話したい事とは全然関係ないような事ばかりしゃべっていた。

が、結局、私たちは気付かないうちに入口のポーチの前に流れ着くようにして立っていた。
私たちはつい顔を見合わせて、それから、ふふ、と笑った。恩師の元を訪ねるようなものだと……緊張はあっても不安はない、そう考えるといくぶん気が楽になった。


重たい扉を開けると、中はしんと静まり返っていた。
入ってすぐ横に窓口があり、そこでは明かりだけが煌々と灯っていて、人の姿はなかった。
呼び鈴を鳴らすかどうか迷ったけれど、紗枝ちゃんが「入場無料みたいやし別にええんとちゃう?」と言うので、私たちはそのまま靴を脱いで中に上がり込んだ。

見たところ私たちの他に客はいないらしかった。
スリッパの擦れる音が二人分、薄暗い廊下に響いた。

「静かだね……」

「ん……」

撮影の風景ばかり記憶していたせいで、こうして再び中を見渡してもあまり懐かしいという感じがしなかった。
それに、内装も微妙に違っている。
あの時には無かったものが――いくつかの写真と歴史資料の展示物が――廊下の壁に掲げられていた。

私たちは、あたかもそうすることで私たちの思い出をこの空間に馴染ませることができるとでも言うように、それら一つ一つをじっくりと見ながら進んで行った……が、結局、その行為はかえって私たちに余所余所しい思いばかりを募らせていった。
104 : ◆wsnmryEd4g [saga]:2020/10/18(日) 13:15:34.54 ID:iX/HvtXE0

こうした違和感は決して私たちを戸惑わせはしなかったけれど、どこか失望にも似た諦めが頭をもたげてきたのも確かだった。

しかし一階の応接間に入った瞬間、思い出が向こうからぶつかってきて私は思わず立ち尽くしてしまった。

「あぁ、懐かしい……」

そう呟いたのは紗枝ちゃんだった。

懐かしい……いや、けれどよく目を凝らしてみると色々なものが私の記憶と違って見えた。

広々した部屋には見覚えのあるソファやテーブルが並んでいて、部屋の奥の古くて立派な暖炉も――以前紗枝ちゃんが珍しがって興奮していたけれど私には見慣れたようなものだったあの暖炉も――前と変わらずそのままだった。

しかしここにはカメラも照明もマイクも、舞台セット用の小道具も置かれていなかった。

今、ここにあるのは厳粛な、それでいて親しみのある静寂だけである。

ふと窓辺に目をやると、そこから差す秋の光が柔らかなカーペットの上に明るい陽だまりを描いている――そうだ、あの夏、ここは寒いくらいに冷房が効いていたのだ――私は部屋の隅々を眺め尽くしながら、そんなことをいまさら頭の裡に蘇らせていた。

これらの、思い出とはまるで違うような風景を前にして私の感傷を強く刺激したものの正体はなんだったのだろう?
もしかしたら、匂い、空気、音……どれもが心に思い当たるようで、しかしどれも違うような気がする。
105 : ◆wsnmryEd4g [saga]:2020/10/18(日) 13:16:18.01 ID:iX/HvtXE0

ふいに、横で声がした。

「ねえ、二階のベランダは開いてるかしら?」

私はぎょっとして声のする方を振り向いた。

どうやらそれは紗枝ちゃんの呟きらしかった。

しかし彼女は何か考え事をしているように部屋の隅を見つめたまま、私の返事などまるで期待していないようだった。
束の間、私はそんな彼女の幼すぎる横顔に驚きながら見入っていた。

やがて彼女が少年のようなしなやかさで私の方を振り向いた時、そこにはもう、紗枝ちゃんの面影はなかった。

「連れて行ってくれるんでしょう?」

気が付くと私はハルの手を握っていた。
冷たい手……その病人の肌の感触が一瞬、ノラを怖気づかせた。
が、ノラは迷いを振り切るように乱暴にハルの手を引っ張ると、そのままずかずかと廊下を歩いて行った。

ハルは、そんな怒ったようなノラに引かれながら、嬉しいような、嘲るような微笑を浮かべ、黙ってあとについていくのだった。……
106 : ◆wsnmryEd4g [saga]:2020/10/18(日) 13:17:01.71 ID:iX/HvtXE0

ノラ『――……ここに居たらあそこの水車小屋から見えてしまうわ。もしバレたりしたら……』

ハル『大丈夫よ、どうせ誰もいやしないわ……』

ノラ『管理人さんが来るかもしれないじゃない』

ハル『その時は素直に謝ればいいだけよ。……ふふ、ノラったらそんなに怯えて、あなたらしくもない』

ノラ『またあなたが倒れてしまうんじゃないかって心配なだけよ!』

ハル『いいえ、違うわ。あなたはただ自分が責められるのを怖がっているだけ……自分の心を知らないだけなのよ』

ノラ『…………ハルは私のことが嫌いなのね』

ハル『どうして?』

ノラ『私をいじめるんだもの』

ハル『いじめてなんかいないわ』

ノラ『…………。(黙り込んで、ベランダの隅にある植木鉢に目を向ける)』

ハル『……その葉、ノラがお世話してくれたんでしょう?』

ノラ『ええ……』

ハル『ありがとう』

ノラ『べつにあなたのためにやったわけじゃないわ……ただ、そのまま枯らしてしまうのはもったいないと思っただけよ』

ハル『そう……でも、ちょっと水のやりすぎね』

ノラ『…………。(気を悪くしてそっぽを向いてしまう)』

ハル『ふふ、ごめんなさい。意地悪だったかしら』
107 : ◆wsnmryEd4g [saga]:2020/10/18(日) 13:18:09.59 ID:iX/HvtXE0

ノラ『私……私あなたのことが分からないわ、ハル……どうして私にばかりそんな態度を取るの? 他の子には一度だってからかったりなんかしたことないじゃない』

ハル『あなたのことが好きだからよ』

ノラ『嘘よ。違うわ、そんなの……』

ハル『どうしてそう思うの?』

ノラ『……恨んでいるんだわ。私のこと……きっとそうよ』

(その言葉を聞いた途端、ハルは声をあげて笑って)

ハル『まだあの時のこと、気にしてるの? あんなの、なんてことないわよ』

ノラ『命に関わる状態だったって先生おっしゃってたわ! 私……意地悪されるのはまだ我慢できるの。でも優しくされるのは耐えられない。私、あなたを殺しかけたのよ』

ハル『だから言ってるじゃない、私はそんなの気にしてないわ。本当よ……。それに私、自分なんかいつ死んだっていいと思っているもの。誰に殺されようがおんなじだわ……』

ノラ『そんなこと!(目に涙を浮かべる)』

ハル『……ノラは優しいのね』

ノラ『違う、私は優しくなんかない。だって、今もこうやってあなたを連れ出して――



突然、頭の奥で何かが弾けた。

と思うと、次の瞬間、得体の知れない不吉な予感が、私が次の台詞を発するよりも早く私の意識を覆いつくした。

私は目を見開いてその場に固まった。
木枯らしが吹き、落ち葉がベランダの上でかさかさと音を立てていた。
二人の長い髪の毛が乾いた空気に絡まるようになびいて、それは私に、眠りから覚めた怪物の黒く禍々しい双翼を思い起こさせた。
108 : ◆wsnmryEd4g [saga]:2020/10/18(日) 13:18:47.67 ID:iX/HvtXE0

「……ゆかり? 大丈夫?」

異様な胸騒ぎに襲われ、言葉を失っていた私の耳に、紗枝ちゃんの心配そうな声が聞こえた。

私は軽い眩暈を覚えてベランダの手すりに寄り掛かった。

深呼吸し、気分を落ち着かせ、私は外の林の奥にじっと目を凝らした。
そうでもしていないと本当に倒れてしまいそうだった。

横で再び紗枝ちゃんの声が聞こえた。

「具合、悪いん?」

しかし私は彼女の方を見ることができなかった。

私は怯えていた。

ただ黙ったまま、意識の底にこびりついた予感を拭おうとして頭を振ることしかできなかった。

すると、そんな私の様子のおかしいことに気づいたらしい紗枝ちゃんが、欄干に乗せた私の手の上に、慰めるようにそっと手を重ねて置いた。


「……!」


私の手が、紗枝ちゃんの手を振り払った。


反射的な、無意識の行動だった。
自分でも何をしたのかすぐには理解できなかった。
109 : ◆wsnmryEd4g [saga]:2020/10/18(日) 13:19:48.56 ID:iX/HvtXE0

私は呆気にとられた。
直後、これまで感じたことのないような激しい後悔に胸を貫かれ、咄嗟に彼女の方を振り返った。

彼女も最初は何が起きたか分からないようなぼんやりした表情で私を見つめ返していた。

が、やがてその瞳に戸惑いの色が、次に怒りと悲しみの色が燃え滾りだしたのを私は見た。

かつてないほど大きな波紋が彼女の泉の上に広がった。
そして、ついにその縁から一粒の雫が溢れだした時、それでも二人の間を結んでいたのは張り詰めた沈黙だけだった。

私は何かを言おうとして口をぱくぱくさせていた。

が、何を言えばいいかも分からず、喉の奥で虚しく声を萎ませてばかりいた。

彼女もまた何かを言おうとしていたらしかった。

小さな唇を震わせ、私を睨みつけながら、声にならない声を絞り出していた。
110 : ◆wsnmryEd4g [saga]:2020/10/18(日) 13:20:25.70 ID:iX/HvtXE0

私はその歪んだ眼差しから彼女の心を読み取ろうとした。

彼女は私を責めていた。

そして同時に、縋るような、慈悲を乞うような弱々しい希望をも私に向けていた。

私はそれにどう応えるべきだったろう?

いつもなら微笑みとキスだけで全てを赦し合えていた私たちが、この時ばかりは、言葉によってしか埋められない溝があるのだと認めないわけにはいかなかった。

そして、ああ、彼女の涙をこの手で拭うことさえできたら!

愚かな私は、それでもまだ手を伸ばせば二人の間の断絶を乗り越えられるものと信じていた。
彼女を抱きすくめ、その唇に触れさえすればすぐにでも私たちの間に失われたものを取り戻せるはずだと信じていた。

しかし結局、その願いは叶わなかった。
私の臆病な心は、彼女に手を差し伸べる勇気も、無様な弁明に言葉を尽くす覚悟もついぞ果たすことができなかった。
私はただ叱られるのを待っている、彼女が、女王のように鞭を振るうその時を、そして私を罵倒するその言葉を……その願いすら今はもう望むべくもないというのに。


そうしているうちに一階から人の声が聞こえ、それを合図に紗枝ちゃんが涙を振り切るように先にベランダを出て行ってしまった。

一人取り残された私は、彼女の後ろ姿を呆然と見送りながら、そこで初めて自分が大きな過ちを犯してしまったことに気付いたのだった。……
111 : ◆wsnmryEd4g [saga]:2020/10/18(日) 13:21:35.05 ID:iX/HvtXE0


「待って、紗枝ちゃん、私――」

彼女の後を追いかけて私は叫んだ。
すでに建物を出て庭を歩き過ぎようとしていた彼女が、木春菊の群がる花壇の前でぴたりと立ち止まった。

私はわずかに息せき切らせて、それからようやく、彼女の背中に向けて言った。

「ごめんなさい……私、ひどいことを」

こんな言葉で、彼女が許してくれるとは思っていなかった。
謝罪の言葉など、今となっては何の意味も持たないはずだと分かっていた。
しかしそれでも私は叫ばずにはいられなかった。
傷ついた彼女の心に寄り添うためではなく、ましてや誤解を解くためでもなく、ただ私自身、この苦しみから逃れたい一心で……。

ところが彼女はまったく思いもよらない反応を私に見せた。
立ち止まって背中を向けたままの彼女に、私はゆっくりと近づいて再び声をかけた。

「紗枝ちゃ……」

「わっ!」

私は驚きのあまり小さく飛び上がってしまった。
彼女が急に振り向き、私を驚かせたのだ。
彼女はしてやったりな顔で私を見、それからおかしそうに笑った。

「うふふ、びっくりしたやろ? お返し」

紗枝ちゃんが涙の跡を拭いながら言った。

「うちの方こそ、さっきは取り乱してもうて、ほんまに堪忍どすえ。せっかくの旅行やのに、変なごっこ遊びに付き合わせて……ちょっと面白がって、ふざけてみただけやったんどす」

私は、違う、と言いかけて口をつぐんだ。
きっと、これもまた彼女が彼女自身を救うために必要な言葉なのだろうと思ったから。
すると私はますます胸が苦しくなって、

「ごめんなさい、紗枝ちゃん……」

と、彼女の顔をまともに見みることもできず、取って付けたような謝罪の言葉を繰り返した。
112 : ◆wsnmryEd4g [saga]:2020/10/18(日) 13:22:02.33 ID:iX/HvtXE0

「うち、気にしてへんよ。せやからまた、紗枝って呼んで? ね?」

「…………」

私はきまりの悪い思いがしてまたしても黙り込んでしまった。

が、紗枝ちゃんはその沈黙も織り込み済みといった風に、溜め息のような微笑を浮かべてもう一度、私の手を取った。

彼女の手のひらは温かかった。

私はいよいよ泣きそうになって、思わずその手を両手で包み、自分の胸の中に祈るように抱え込んだ。

それが私の精一杯の懺悔だったのだ。……
113 : ◆wsnmryEd4g [saga]:2020/10/18(日) 13:24:09.11 ID:iX/HvtXE0

帰りの新幹線、紗枝ちゃんはいつになく饒舌だった。
私もまた、気まずい空気を恐れる気持ちから、あるいは罪滅ぼしの気持ちから、彼女の気遣いに乗じて楽しげにはしゃいでみせた。
実際、そうして笑い合っているうちは、あのベランダでの険悪なやり取りなどまるでなかったかのようだった。
私たちは誕生日のこの日を嫌な気持ちで終わらせたくなかった。
幸福な思い出だけで満たしたかった。
そうして未だ疼いてやまないこの傷跡さえも、いつかは懐かしいものとして平和に思い返せる日がくると信じたかったのだ。

しかし私は忘れることができなかった。

この傷跡を見ないふりはできなかった。

そして将来、私たちがどれだけ二人の愛を育んでいったとしても、この傷を完全に消し去ることはできないだろうということも……。

こんな些細な事で、と思われるだろうか?
単に私が紗枝ちゃんの手を払い退け、その親切心をほんのちょっぴり裏切ってしまったくらいのことで……

確かに、それだけなら何かの間違いで済んだのかもしれなかった。
悪気はなかったと、驚いて咄嗟に動いてしまっただけだと、笑いながら謝ってしまえばそれで済んだことかもしれなかった。

ところが私を真に脅かしていたのはそんな非運や行き違いの誤解などではなかった。

この不安の正体、この苛立ちの正体は、まさにあの時、ベランダで感じた不吉な予感のことだったのだ。

私は警告されていた。

記憶の中のノラの台詞を追いかけながら、この道の行き付く先は絶望だと……
それも決して遠くない未来、私たちを破滅へと導く運命がそこに待ち受けているだろうということを。


その最初の試練が私たちの間に立ちふさがったのは、誕生日の旅行から間もない十一月のある日のことだった。
114 : ◆wsnmryEd4g [saga]:2020/10/18(日) 13:24:55.68 ID:iX/HvtXE0


   十二

その日、私はフルートのレッスンでスタジオに入っていた。
年明けに定期演奏会があり、今はそれに向けて少しずつ練習を重ねているところだった。

その演奏会も、もしかしたらこれが最後になるかもしれない。
そんな想いで私は、この日のレッスンに臨んでいた。

もちろん、大学に進学した後もフルートを続けるつもりでいる。

しかし私が東京に来てから定期的に参加しているこの演奏会は、もともと先生が手がけている音楽教室の合同発表会という名目で開かれている。
つまり、もし仮に、私が進学を機にアイドルを辞めてしまった場合、先生のご指導も同時に受けられなくなり、すると私が演奏会に参加する理由も資格も自動的に失われてしまう。

とはいえ、一応、事務所を通してでなく個人として先生の教室に通い続けるという選択肢もあったし、そもそもアイドルを辞めるかどうかも決めかねている今、これが最後の演奏会などと考えるのはやや早計かもしれなかった。

ただ、少し前からアイドルのお仕事を減らしているのは事実だった。
以前、プロデューサーさんに薦めていただいた大きなお仕事を断ってしまってから、私はアイドルらしいことはまるでしていなかった。
表向きは学業に専念するためということになっていたけれど、大学はエスカレーター式で決まっていて受験勉強の必要もなかったし、正直なところ今の私にとって一番大事なのは紗枝ちゃんと過ごす時間だったので、自然、アイドルのお仕事を続けていく動機も薄れてきてしまったのである。
それを、恋愛事にかまけてばかりでやるべきことを疎かにしていると言われたら、返す言葉もない。
115 : ◆wsnmryEd4g [saga]:2020/10/18(日) 13:25:55.54 ID:iX/HvtXE0

そしてもうひとつ、私にとって大事だったのは、まさにフルートを吹いているこの時間だった。

実を言うと、ここ最近は特に自主練習のために一人でスタジオを予約することが多くなった。
会社のスタジオが予約で埋まっている時は、多少遠出をしてでも楽器店に行き、そこでスタジオを借りたりした。
今では学校でも、放課後、たまに音楽室の一角を借りて気ままにフルートを吹いている。


元からフルートは私の心のよすがだった。
これがなければきっと私は東京でアイドルを続けていくこともできなかっただろう。
そしてそれは紗枝ちゃんと付き合い始めてから今に至るまでの間も変わっていない。

確かに私は、あの夏の日以来、生活の全てを彼女に捧げてきたつもりだった。

けれど、ただひとつフルートだけは、私の生活の一部でありながら彼女の愛にその居場所を奪われることはなかった。
フルートは私にとって、紗枝ちゃんの存在と同じくらい、侵しがたい聖域だったのだ。

私がそのことをはっきりと感じるようになったのはつい最近のことである。

あの誕生日のことがあって、私はこれまでより一層フルートに執心するようになった。
そんなことを言うと、まるで私の心が紗枝ちゃんから離れて行ってしまったように聞こえるかもしれない。
もちろん、その推測は間違っている……と言い切りたいけれど、本当のところは私自身にもよく分からない。

ただ、近頃は紗枝ちゃんの甘え方もなんだかストレートになってきて、世話が焼ける、というほどでもないけれど、そんな彼女の際限のない要求に応えるのが大変でもあり、また楽しくもあった。

おそらく、私にとって紗枝ちゃんとフルートは天秤のはかりのようなものなのだ。
一方が傾くと、もう片方にも比重をかけて均衡を保とうとするような心の機構……
そんな未知の力学の支点に立って、私は、ひとつの素朴な疑問を頭に浮かべていた。

なぜ、この二つは区別されなくてはならなかったのだろう?
まるで水と油のように、この二つは私の中では決してお互い相容れないものだった。

改めて考えてみると不思議なことだった。

私は、その気になれば彼女のためにフルートを吹くことだって出来たはずなのだ。
それなのに私は端からその可能性を考えたことすらなかった……。
116 : ◆wsnmryEd4g [saga]:2020/10/18(日) 13:26:46.10 ID:iX/HvtXE0

「水本さん」

レッスンが終わり、ぼうっと考え事をしていると、いつものように先生にお声をかけられた。
考え事に耽っていた私は、つい反応が遅れてしまって、はい、と返事をした後、すみません、と謝った。
先生は私のそんなぼんやりしがちな性格も元から承知の上で、そのまま話を続けられた。

「ドラマ、見たわよ」

何のことか、すぐには飲み込めなかった。
それから、ふと理解して、ありがとうございます、と答えたら、急に恥ずかしくなった。

「つたない演技で、お恥ずかしい限りです……」

「謙遜しなくていいのよ。水本さんとっても素敵だったわ」

先生はまるでご自分のことのように喜ばれて、役が合ってる、とか、演技が良かった、等、お世辞にしては褒めすぎなくらい、真面目に感想を述べてくださった。

一方、私は照れくさいやら恐れ多いやら、目を泳がせながら意味もなく鞄のアクセサリーを指先で弄って、曖昧な返事をしてばかりいた。
褒められるのは、嬉しい。
けれど、面と向かって言われるのは、やはり慣れない。

それに、あの誕生日の事件以来、私はドラマのことはあまり考えないようにしていた。
というより、意識しないうちに頭から遠ざけていたように思う。
紗枝ちゃんとの会話でもその話題が出た覚えはなかったし、気付かないうちに一種のタブーになっていたのかもしれない……
要するに私は、今の今までドラマのことなんぞすっかり忘れていたのである。
117 : ◆wsnmryEd4g [saga]:2020/10/18(日) 13:27:27.55 ID:iX/HvtXE0

そんな調子だったので、先生が色々とお褒め下さっているにも関わらず、私の歯切れの悪さといったら、自分でも何をしゃべっているのか分からないくらい、支離滅裂な回答を繰り返していた。

しかしそんな私のまとまりのない思考も、先生が何気なくおっしゃった次の言葉に一瞬で釘付けになった。

「……それでね、実は娘が水本さんのファンなのよ」

「え?」

私はあからさまにうろたえて聞き返した。

先生は私の驚きを喜びの反応と捉えたらしく、そのまま続けておっしゃった。

「前の演奏会の時にね、水本さんがソロを吹いたじゃない? あれがすごく気に入ったみたいなのよ」

「娘さんが見に来ていらしたんですか?」

以前、先生に娘がいらっしゃるという話は聞いていた。
でも、その時はコンサートに連れて行くような年齢ではなかったように記憶している。

そう言ったら、「もう小学三年生よ」と返されて、びっくりしてしまった。
確かに、私が先生にお会いしてからもう二年半過ぎているのだから、その歳月だけ子供が成長するのは当然である。
しかし、それにしても月日が経つのは早いものだと、しみじみ感じずにはいられなかった。

「……そしたらアイドルの方の水本さんにも興味が移って、ほら、前に水本さんが出したCD、あれを聞かせたらこれがまた気に入っちゃってね。ライブのDVDも家でよく観てるのよ。そうしたら今度ドラマに出演するって言うじゃない? うちの子ったらすごく喜んで、楽しみにしていたんだから」

先生は、それから優しく私に微笑みかけて、

「もっと自分に自信を持ちなさい」

とおっしゃった。

私は、なんと答えて良いやら、震える声で「はい」と返事するのが精一杯だった。

帰り際、先生は例のチャーミングな笑顔で「次の演奏会もたぶん見に来ると思うから」とおっしゃって、私を応援するように小さく手を振り、見送りに出てくださった。
118 : ◆wsnmryEd4g [saga]:2020/10/18(日) 13:28:33.40 ID:iX/HvtXE0

私は重たい足をやっとのことで動かしながら駅までの道のりを歩いて行った。
耳の奥がざわざわと鳴っている。
途中、何度か眩暈を覚えて立ち止まり、それから自分のいる場所を確かめるように辺りを見回した。


私はここにいる。

けれど一歩、踏み出すごとに、分からなくなる。

私はどこへ行こうとしているのだろう?

まるで世界で私だけが取り残されてしまったようだった。
私は、その場にうずくまりたい気持ちを懸命に抑えながら、無意識のうちにその名前を口にしていた。


紗枝!


私は助けを求めて叫んだ。
そして思った、私を助けてくれるのは彼女しかいないと。
彼女さえ隣にいてくれたらそれ以外には何もいらなかった、たとえそれが彼女の愛に覆われた盲の檻の中だったとしても、私はそこでしか生きる方法を知らなかったのだ。


駅に着いてすぐ彼女に電話をした。

呼び出し音が鳴っている間、私は人混みに流されてしまわないよう、建物の隅にじっと佇んで携帯を耳に押し当てていた。

しばらく経って、はい、と間延びした声が聞こえた時、安堵のあまり思わず目に涙が浮かんだ。

今すぐ会いたい、そう言うと、紗枝ちゃんは何ということもなく、ん、とだけ答えて、それから二、三、言葉を交わしたあと、私は電話を切って急いで電車に乗り込んだ。
119 : ◆wsnmryEd4g [saga]:2020/10/18(日) 13:29:44.52 ID:iX/HvtXE0


   十三

あまり馴染みのない駅の、小さな改札口の前に紗枝ちゃんが立っていた。
いつものように帽子を深くかぶり、髪をまとめ上げていて、ベージュのコートに身を包んだ彼女はいかにも雑踏にまぎれる風に壁に寄りかかっていた。

やがて彼女の方も私に気が付いて、微笑みながら僅かに首をかしげてみせた。
私はそれに引き寄せられるようにふらふらと歩いて改札を出る。

「寂しがり屋さん」

紗枝ちゃんがからかうように言った。
私は取り繕う余裕もなく、ただ一言「会いたかった」とだけ呟いて、彼女のコートの裾をつまんだ。

彼女はそんな私の不審な態度を前にしても「どうしたの」とは尋ねなかった。
ただ優しげな表情を浮かべたまま、あやすように私の髪を撫で付けていた。

私はとうとう堪えきれなくなって、コートをつまんでいた手をそっと腰に回し、彼女の身体を引き寄せようとした。
が、体勢が不安定だったために、かえって私の方が彼女の身体へ倒れこむ格好になった。
彼女の小さな身体が、鈍い衝撃とともに背後の壁と私の身体とのあいだに挟まれた。
しかし彼女は可愛らしい悲鳴をちょっとあげたくらいでまるで慌てた様子もなく、私の次の行動を待つようにじっと私を見つめ返していた。
唇が触れ合うくらいの距離で、彼女の大きな黒い瞳が私を覗きこんでいた。

そうして思いがけず彼女の瞳に魅入られながら私は、よっぽどキスをしたい衝動に駆られていた。
が、ふと思いとどまって、

「……今日はなにしてたの?」

と、この状況ではなんだか間の抜けた質問をしてごまかした。
120 : ◆wsnmryEd4g [saga]:2020/10/18(日) 13:30:17.08 ID:iX/HvtXE0

「んー? 買い物……」

「私も一緒に、いい?」

すると彼女は少し考えて、

「実はうち、もう帰るとこやったんどす。ゆかりがどっか行きたい言うなら、付き合うけど……」

私は、ううん、と首を横に振った。

「ほな、帰ろか?」

私は眠るようにこくりと頷いて、けれど彼女を壁に押し付けたまま離そうとはしなかった。

紗枝ちゃんは苦笑しながら肩を優しく押し返して、そうして私が不安の表情を浮かべるより先に、被っていたハンチング帽を私の頭にひょいと乗せて言った。

「よう似合っとる」

私はようやく安心して、彼女に手を取られるまま歩きだした。
121 : ◆wsnmryEd4g [saga]:2020/10/18(日) 13:31:37.51 ID:iX/HvtXE0

電車に乗っている間も私たちはほとんど抱き合うくらいぴったりくっついて立っていた。
空いている車両の隅の方で、今度は紗枝ちゃんが私を壁に閉じ込めるように身体を寄せていた。

私たちは何をしゃべるということもなく、お互いの髪や服を手持ち無沙汰に弄ったり、綺麗な肌や顔立ちをぼんやり眺めたりしていた。

電車の揺れる動きに合わせて紗枝ちゃんの身体が重くなったり軽くなったりして、そのたびに私は言いようのない心地良さを感じたりした。

私は紗枝ちゃんの肩越しに、窓の外に移りゆく風景を眺めながら呟いた。

「……私、アイドルのお仕事も頑張ろうと思う」

彼女は、私の肩にもたれかかった頭を小さく頷かせて、「うん」と答えた。
それは、どちらかといえば空返事気味な調子で、彼女もおそらく考え事に耽っていたらしかった。
先ほどからずっと私のブラウスの襟を指でなぞっていて、視線は一点を見つめてばかりいる。

電車がゆっくりと減速し、人気のない駅に停まった。
息継ぎのような音を立てて扉が開く。
すると紗枝ちゃんが、ようやく我に返ったように顔を上げて言った。

「もしかして、あの仕事受けるつもりなん?」

乗客は一人も降りなかった。
開かれた扉の向こう、駅のプラットホームには誰もいない。

扉が閉まり、電車が再び動きだした。

私は「うん」と答えた。

紗枝ちゃんが困ったような笑みを浮かべて私を見つめた。

冗談でしょう? そんな言葉が聞こえてくるようだった。
122 : ◆wsnmryEd4g [saga]:2020/10/18(日) 13:32:10.95 ID:iX/HvtXE0

「そない言うたって、前にいっぺん断わってもうたんやし、もう他の人んとこに回されてるんちゃう? プロデューサーはんかて困ってまうやろ」

「それでも、もう一回頼んでみる」

紗枝ちゃんは信じられないといった表情で首を横に振った。

「無理どす。いまさらそない話したって……」

「たとえ駄目だったとしても、私、アイドルを続けていきたい。中途半端なまま終わるのは、なんだか嫌……」

紗枝ちゃんは困惑したように瞳を揺らし、私の顔のあたりを見上げていた。
すると、やがて呆れたようにそっぽを向き、彼女はそれきり黙ってしまった。

電車の揺れる音がごうごうと響いていた。
私は相変わらず夢の中にいるようで、けれど胸の奥では何物かが、確かな熱を帯びて目覚めつつあるのを感じていた。
123 : ◆wsnmryEd4g [saga]:2020/10/18(日) 13:33:40.23 ID:iX/HvtXE0

目的の駅に着き、私たちは電車を降りた。
紗枝ちゃんが何も言わずに私の手を握り、人混みの中を少し先に歩いた。

改札を通り、駅を出ると、見慣れた街の風景がいつものように私たちを迎えた。
頭上には、冬の気配のする、灰色の厚い雲が低く垂れこめていた。

駐輪場の手前で、紗枝ちゃんがふと足を止めた。

「考え直してくれた?」

私は首を横に振った。
紗枝ちゃんはいよいよ嫌悪の表情をにじませながら、そんな自分自身を落ち着かせるようにゆっくりと溜め息をついて、言った。

「うちのことはもう、どうでもええの?」

「そんなことない!」

「なら新しいお仕事なんかよして」

「どうして? 私がアイドルを続けても、紗枝と離れ離れになるわけじゃない」

「うち以外の子とゆにっと組んで、うちの知らんとこでお仕事して、それでもうちを忘れないって、ほんまに言える?」

「忘れたりなんかしない。それに、大学に行ったら一緒に住むんでしょ? 何も不安に思うことないよ」

「うちはいや。たとえ一緒に住んでても、二人別々の道に進んでもうたらきっと心も離れ離れになる」

「私は、そうは思わない……」

すると紗枝ちゃんはとうとう涙を浮かべ始めて、私を憎々しげに睨みつけた。

「こっちの気も知らんで! うちかて好きであいどる辞めるわけちゃう! そら、うちがあいどるで食っていけるくらい売れてたら、親の反対なんか知ったことやない、どこまでもゆかりに付いて行きます。二人でゆにっと組んで、一緒に楽しくお仕事して……なんぼ夢見たか分からん。けど、現実はそんな上手くいかへんかった。それも全部、うちのせい言うんどすか?」

「違う、そんなこと……!」
124 : ◆wsnmryEd4g [saga]:2020/10/18(日) 13:34:29.41 ID:iX/HvtXE0

「ゆかりがお仕事で忙しゅうなったら、取り残されたうちはどうなるん? ゆかりが他の子と踊ったり、番組で楽しそうにしゃべるのを指を咥えて眺めてろ言うん? 考えるだけで耐えられへん。そんなの、うちが絶対に許さない」

「…………それでも、私はアイドルを辞めたくない。紗枝ならきっと分かってくれるって信じてる」

「馬鹿!」

紗枝ちゃんは血の気の失せた唇をわなわなと震わせ、苦しそうに顔を歪めていた。
私は、そんな彼女の姿を見ているのもつらくて、つと視線をわきに逸らし、痛々しい沈黙から顔を背けた。
何かを言えば、それだけ彼女は傷ついてしまうと思ったから。



突然、凍えるような悪寒が背筋を這った。

それは、かすかな、けれど風の中でもはっきり聞こえるくらいの、不気味な笑い声だった。

私は驚きながら彼女を見た。

その表情には怒りも憎しみもなかった。

そこにあるのはただ、残酷な、人をいたぶることに何の躊躇いもないような、冷たく激しい悪意の眼差しだけだった。

私は身震いした。

剥き出しになった彼女の本性を前に、恐れと興奮を覚えて。
125 : ◆wsnmryEd4g [saga]:2020/10/18(日) 13:35:10.77 ID:iX/HvtXE0

「……かわいそうなゆかりはん。なんも知らんで、えらそうに……」

まるで喉元に鋭い刃を突き付けられたような気分だった。
額に脂汗が滲み、私は、思わず逃げ出したくなって半歩、後ずさった。

しかし私は逃げなかった。
私の中に目覚めつつある何者かが私に語りかけていた。
恐れは問題ではない、ただ必要なのは、勇気だけだと。

私はその場に踏み止まって、言った。

「……どういう意味?」

「いくらあんさんがプロデューサーはんに頼み込んだところで無駄っちゅうことどす。あの企画はもう全部白紙に戻されたし、なんなら今年度いっぱい、ゆかりはんのところに新しいお仕事は来いひんようになってますさかい」

「……どうしてそんなこと知ってるの?」

「さあ、なんでやろなぁ?」

「はぐらかさないで」

「あらあら、威勢のええこっちゃなあ……けどそろそろ、ええ加減にしときや?」

私はひるまなかった。
かと言って無闇に立ち向かおうとはしなかった。
私の脳裏には、あの運命の警告が、不吉の予感が蛇のように目を光らせてうずくまっていた。
そしてそれは今も未知の怪物には違いなかった。

しかし脅威ではなかった!
私はただ受け入れさえすればよかったのだ、たとえそれが私の心を傷だらけにしたとしても、いつかは通り過ぎ、そして私自身のものになると分かっていたから。
126 : ◆wsnmryEd4g [saga]:2020/10/18(日) 13:36:11.85 ID:iX/HvtXE0

再び、私たちの間に沈黙が流れた。

私は依然、苦しみの中にいた。

紗枝ちゃんもまた同じ苦しみの中に悶えていたのだろうか?

私には分からない。

しかし彼女が次に口を開いた時、そこには明らかな苛立ちと、それから悲しみの色が現れていた。

「……誰の、おかげやと思て……」

彼女は、言ったことを後悔するように、ふと口をつぐんで私から目を逸らした。

そして再び、今度は決意したように振り向いて、私を睨みつけながら言った。

「ゆかりが、これまであいどる続けてこられたんは誰のおかげや思てるん? うちが全部、面倒見てあげたからやないの! うちが口利きせえへんかったらあんな無能プロデューサーにどらまの企画なんて声かかるわけない、うちが、うちがゆかりのためになんぼ身を粉にして尽くしてきたか、それも知らんと好き勝手ばかり言って!」

紗枝ちゃんの言っていることの意味が、咄嗟に理解できなかった。
頭の中に嫌な考えが浮かんできて、私は、そんなはずはない、と心に唱えて打ち消した。
127 : ◆wsnmryEd4g [saga]:2020/10/18(日) 13:37:23.24 ID:iX/HvtXE0

彼女は続けて言った。

「……ちょうど、去年の今ごろやった。覚えてる? あんさんのぐるーぷ、CDのりりーすいべんとやってて……うち、たまたま通りかかって見てたんよ。寮でよう見かける子や思て……そしたらまあ、踊りはばらばらやし、声は震えてるし、音響も進行もぐだぐだ、客は騒ぎたいだけの阿呆しかおらん。えらい愉快なお遊戯会やなぁ思て眺めてたんどす。……けどな、ゆかりはん。あんさんだけは他の子と違てた。あほみたいに必死に歌って、必死に踊って、しゃべりもぎこちなくて……うち、あんなに無様にあいどるやってる子初めて見た。目が離せんかった。知ってた? ゆかり、他の子から嫌がらせ受けてたんやで?」

「…………嘘。嫌がらせなんて、されてない」

「かわいそうな子。ほんまに、かわいそう……うちは見ててすぐ分かった。なのに当の本人は自分のことで精一杯で、周りのことなんかまるで気付かれへん……馬鹿な子やなぁって最初は思てた。けどやっぱし、目が離せんかった。不思議やった。あの子を見て、羨ましい、て思う自分が、分からんかった……そう、羨ましかったんどす。なんで自分がすてーじに立ってるかもよう分かってへんような子が、まぶしくて、羨ましくて、妬ましくてしゃあなかった……そん時に、思たんどす。あの子は、うちが守ってあげなあかん、て」

「違う、そんなの、嘘……だって、おかしいよ。私たちドラマの共演で初めて……」

「なんもおかしなことあらしまへん。おしゃべりしたんは確かにあん時が初めてやったけど、共演が決まるよりずっと前から、うちはゆかりのこと見て、知ってました。その共演にこぎつけるんも、なかなか骨が折れましたえ? ゆかりに嫌がらせした子を、一人ずつ追い詰めて辞めさせたのも、うち。あんなぐるーぷ、解散させた方が会社のためや言うて、うちのプロデューサーにも協力してもろて……どらまのお仕事も、最初はうちのとこで全部やる予定やったんどす。けど、なんとかゆかりと共演できるよう上を説得して根回しした、それも全部、うちが一人でやったこと……」

心臓がばくばくと音を立てて胸を打ちだした。

私はうまく息を吸えず、身体を屈め、まとわりつく思考を振り払うように頭を振った。

どす黒い理解が、こみ上げてくる吐き気とともに私の思い出を塗りつぶしていく。
128 : ◆wsnmryEd4g [saga]:2020/10/18(日) 13:38:24.64 ID:iX/HvtXE0

「……けど、失敗やった。ゆかりに主役なんか、やらせるんやなかった。へんに希望持たせたばっかりに……それに、うちも甘かった。ゆかりと愛し合えるのが嬉しくて、幸せで、何もかも全部、すっかり手に入れたもんやと思い込んでた。確かに、一度はゆかりのお芝居見て、ああ、うちが間違うとったんかなって、思たことはある。この子には、人を惹き付ける才能がある、うちがそれを、自分本位な理屈で潰してええんやろか、って……けど、そんな後悔したところで今さら手放せるわけない。だって、ゆかりが……」

紗枝ちゃんの目から、ぽろぽろと涙が流れだした。
そうしてついに泣きじゃくりだした彼女は、震える喉から声を絞り出すように、途切れ途切れに叫んで、言った。

「ゆかりが、ゆかりが悪いんよ。ゆかりのせいで、うち、へんになってもうた。ゆかりのこと考えると、胸が苦しゅうて、つらい。うちはこんな汚い人間やのに、こんなうちを愛してくれるゆかりが、憎くて、愛おしくて、いっそ一緒に死ねたらどない幸せやろって、そんなんばっかし考えてまう。離れ離れになるのはいや。ゆかりが傍にいてくれへんかったら、生きてる意味ない、死んだ方がましや!」

すると彼女が一歩、私の方へ歩み寄った。そして哀願するように、

「なぁ、ゆかりはん……あいどるなんか続けて、何になるん? また昔みたいに、惨めな思いして、無様な格好晒して、つらい思いするだけやないの?」

「…………」

私は答えられなかった。
つらいことは分かっていた。
アイドルを続けても、良いことなんて何もないかもしれない……。

「これだけは言うときます。ゆかりはきっと、後悔する。あんさんみたいな真面目すぎる馬鹿が何も知らんまま生き残れるほど、あの世界は甘うない。いつか酷い目にあって、身も心もずたぼろになって、しょうもないことに貴重な人生捧げてしもたって、泣いて後悔するに決まっとる」
129 : ◆wsnmryEd4g [saga]:2020/10/18(日) 13:39:23.76 ID:iX/HvtXE0

「……どうして、紗枝は……そんなに、私にアイドルを諦めさせたいの?」

彼女の肩がぴくりと動いた。
どうやら初めて、私の言葉にまともに耳を傾けたらしかった。

彼女は何かを飲み込むように大きく息を吸うと、泣き腫らした目を伏して、自らに問いかけるようにその胸に手をかざした。
やがてゆっくりと息を吐き出しながら、

「……怖いんどす。ゆかりが、ゆかりの綺麗な心が、あんな欲まみれの汚い世界に染められてくのを見るのが怖い。それだけやない、うちみたいなろくでなしも愛してくれるようなゆかりの純粋さが、もし壊されて失われでもしたら? きっとうちなんか、見捨てられてまう。こないな性悪女、嫌いになるに決まっとる。それがうちには何より怖い……」

「見捨てたりなんかしない。嫌いになんか、ならないよ。絶対」

その時、紗枝ちゃんの目から大粒の涙が零れて頬を伝った。

私は息を呑んだ。

彼女は微笑んでいた。
悲しげに、全てを諦めたように、私をまっすぐに見つめて……。

「ここまで言うてまだ分からんなら……やっぱし、ゆかりはあいどるに向いてへんね。けど、うちはそんなゆかりが好きやったから、守ってあげたい、そう思たんどす……ふふっ、ほんまに馬鹿やったのは、どっちなんやろなぁ」

「ねえ、私たち、まだ終わりじゃないよね? これからいくらでもやり直せるよ、だから……」

「さっきうちが言ったこと、覚えてる? ゆかりのために、身を粉にして尽くしてきた、って……ううん、ゆかりのためだけやない、自分がこの業界で生き残るために、うちが何をしてきたか、それを知ってもまだ、ゆかりはあいどる続ける言うつもりどすか? うちの犠牲も、無駄にするつもりどすか?」

「やめて。ねえ紗枝……もう、やめよう。これ以上、二人して傷つく必要なんてない!」

言いながら私は、もう後には戻れないことを悟っていた。

私は泣いていた。

そして一度、流れ出てしまえば、もう止めることはできなかった。
130 : ◆wsnmryEd4g [saga]:2020/10/18(日) 13:40:16.34 ID:iX/HvtXE0

「ほんまに、ええお笑い種どす。親を見返そう思て東京まで来て、あいどるになれたはええけど結局、ここでは通用しいひんかった。悔しい、こんなはずやないって、挙句の果てにプロデューサーに取り入って、もっと上の、お偉いさんとこも行った。そこでうちは、うちは――」

「やめて!」

私は叫んだ。彼女は話し続ける。

「……それでも、だめやった。身体を売っても、この世界ではそれが普通なんやって、思い知っただけやった。結局、うちは最後まで半端もんのまま、残ったのはこの汚れた心と身体だけ……なぁ、ゆかりはん? うちはもう、疲れたんどす」

「……ああ……ああ……!」

苦しい。苦しい……
頭の中が、ぐちゃぐちゃになって、立っていられない。
言葉にならない声が、喉から漏れる。
とめどなく涙が溢れてくる。
視界が滲んで、何も見えない。
耳の奥が熱い。
助けて、紗枝、助けて――
叫びたくても、思うように息ができない。

「これで分かってくれはった? うちのこと、可哀想やと思てくれはる? 同情してくれはる? ならうちのために、あいどるなんか諦めておくれやす。そしてもう一度、愛して。うちのこと愛してよ!」

分からない。

私は一体、どうすればいいのだろう?

今はただ、苦しい。何も、考えられない。考えたくない……。

「……かわいそうなゆかり。うちみたいな女を信じたばっかりに、傷ついて、苦しんで、もがいて……けど、うちは諦めへん。どんな手を使っても、逃がしまへん。ゆかりを傷つけてええんはうちだけや。誰にも渡さない。絶対に」

出口のないトンネルの中で、彼女の声が果てしなく反響して私の耳にこだました。
131 : ◆wsnmryEd4g [saga]:2020/10/18(日) 13:40:50.65 ID:iX/HvtXE0

私はその場にへたりこんで、顔を手で覆っていた。
そんな私の腕を、彼女は乱暴に掴んで立ち上がらせた。
足に力が入らず私は、思わずよろけて彼女の腕にしがみついた。
そのコートの厚みの下には紗枝ちゃんの優しく慈しみに満ちた身体があるはずだった。

しかし私は何も感じなかった!
まるで知らない人の腕に寄りかかってしまったように、私は反射的に後ろへのけぞり、駐輪場の壁に背中を打ち付けた。
そうして壁にもたれながら私は、未だこの胸を去らない苦痛と混乱に悶え苦しんで、自分の足元の一点をぎゅっと見つめて動かなかった。


時間がむなしく過ぎていった。
冷たい風が吹きぬけて足元に落ち葉を転がしていた。

目の前にいる紗枝ちゃんは何をするということもなくただ黙ってそこに立っている。

彼女は、それだけで私をこの壁に縛り付けられると知っている。

私には反抗する力も、逃げる力も残っていない。……
132 : ◆wsnmryEd4g [saga]:2020/10/18(日) 13:41:45.18 ID:iX/HvtXE0

が、不意に私は思い出した。
私には、まだ何者にも侵されずにいる聖域があるはずだった。
今となっては弱々しく、絶望の雨と嵐の中に霞んで消えかけていたものが、ぐったりと力の抜けた私の肩からずり落ちた勢いで、思いがけずその光を取り戻しつつあった。

私は落ちかけたケースを咄嗟に支えて胸の前に抱え込んだ。
これだけは手放してはいけない、そんな藁にもすがる思いで私は、フルートのケースを腕の中に堅く抱きしめていた。

そうして縋っていても、絶望が消えるわけではなかった。
悲しみも苦しみも和らぐことはなかった。

私はただ記憶に呼びかけられていた。

低い、地鳴りのような原初の鼓動に……
それはまるで海の底から響いてくるようだった。

私は呼びかけられるままに沈んで行った。

そうすればこの海の上の荒れ狂う嵐からも逃れられると思って。



やがて静寂が私を取り囲んだ。

133 : ◆wsnmryEd4g [saga]:2020/10/18(日) 13:44:22.09 ID:iX/HvtXE0

そして、そこには誰もいなかった。

私を呼びかけていた声も、私を安心させてくれるはずの何物もここには存在していなかった。

そうして私はようやく気づいたのだった。

私を呼んでいたのは他ならぬ自分自身だったのだと。

私は孤独だった。
どうしようもなく独りだった。
深い暗闇の中に、かつてない不安と恐れとが生まれつつあった。
見えない恐怖が、私の目と鼻の先で息づいていた。
そうしてそれらは暗闇を貪りながら肥大化し、やがて私をも飲み込んでしまうに違いなかった。

けれど不思議なことに、そこには同時に力強い意志も目覚めつつあった。
今や私ははっきりと感じていた、孤独は私を脅かしはする、けれど決して敵ではないのだと。
孤独は私の力だった、そして今こそ私は孤独を友として生きなければならないと。


私は顔を上げて紗枝ちゃんを見た。
彼女は静かな表情で相変わらず私を見つめていた。

そしてふと思った、彼女もまた私と同じように孤独の中に生きている人なのだろうか、と……。

確かに、かつて彼女の瞳に見た冷酷な情熱は、私が記憶の底に見い出したあの冷たい静寂と似ていた。
彼女の心はいつも焦がれていた、私がどんなに深く潜り込もうとしても決して届かないその透明な炎によって……
そして私もそんな彼女の激しい情熱を愛していたはずだった。

しかしそれは寂しさと弱さのための孤独ではなかったか?

……
134 : ◆wsnmryEd4g [saga]:2020/10/18(日) 13:46:00.97 ID:iX/HvtXE0

私は歩き出した。
背後から紗枝ちゃんの声がした。

「どこ行くん!」

私は振り返って答えた。

「ごめんなさい」

その時の、彼女の絶望した表情が忘れられない。

身を引き裂くような喪失の痛みが、彼女の眼差しから伝わってくる。

哀れみの言葉が喉元まで出かかった。

彼女を助けてあげたいと思った。

けれど私には、彼女を救う言葉など何も持ち合わせていなかったのだ。


私は被っていた帽子を脱ぎ、彼女に差し出した。

「これ……返すね」

紗枝ちゃんは無言で私を睨み返すと、怒りに任せて私の手から帽子を叩き落した。

私はしゃがみこんで帽子を拾い上げ、土埃を払って片手に抱えた。

そうして怒りと絶望に震える彼女を残し、私は踵を返して歩いて行った。


…………。


…………。

135 : ◆wsnmryEd4g [saga]:2020/10/18(日) 13:51:10.89 ID:iX/HvtXE0


   十四

一月の東京の街はひどく冷え込んでいた。

夕方、私は五時間にも及ぶ合奏練習を終え、これから帰路に着くというところだった。

講堂を出ると、火照った肌に冷たい空気が沁みて気持ち良かった。
長い間、狭いリハーサル室に籠ってフルートを吹いていたから、かえって目が覚めたような心地がする。
が、それもほんの一瞬の癒しにすぎず、私はすぐに寒さに耐えかねてコートを羽織り、鞄からマフラーを取り出して首に巻いた。
そうしてほっと一息つくと、夕闇の街に白い吐息がきらきら舞った。

季節は冬で、私はまだアイドルを続けていた。

と言っても、表舞台に立つような仕事はもう何ヶ月もしていない。
実態としてはただ会社に在籍しているだけで、活動らしい活動といえば定期の基礎レッスンくらいのものだった。
それに、私が所属しているプロジェクトも、今年度いっぱいで解体されることが決定している。
つまり、このまま何も手を打たずにいれば、私は春にはアイドルを辞めなければならないはずだった。

これに関しては、とりあえずプロデューサーさんのご厚意に預かる形で解決した。
今年新しく立ち上げるプロジェクトに、私も引き続き参加させていただくことになったのである。

そんなわけで、新規プロジェクト立ち上げのお手伝いをするのが目下、私のお仕事だった。
その手伝いも、基本的にはグループのコンセプトに関わるアイデアに意見を出したり、新人のスカウトだのオーディションだのといった人選について相談を受けたりする程度で、正直なところ力になれているとは言い難い。

けれど、以前のようにプロデューサーさんに頼りきって自分から何も動かないよりは、微力でもこうして関わっていた方が、少なくとも今は気が楽だった。

それと、かつて私が例の仕事を断ってしまったことの罪滅ぼしという理由もある。
あるいは、私がこうしてプロジェクトに密接に関わることで、今後もしかしたらあるかもしれない紗枝ちゃんの妨害も未然に防げるはずだという思惑も、ないではなかった……
そんなこと、信じたくはないけれど。
136 : ◆wsnmryEd4g [saga]:2020/10/18(日) 13:51:39.67 ID:iX/HvtXE0

……あれから、紗枝ちゃんとはまともに会っていない。

最初のうちは通知が鳴り止まないほどひっきりなしに連絡してきた彼女も、年が明けた頃からようやく落ち着いてきて、お正月に「会いたい」とメールが来たのを最後に、その後のやりとりはなかった。

もちろん、これまでまったく顔を合わせなかったわけではなかった。
同じ寮の同じ階に住んでいたから廊下ですれ違うことも二度三度あったし、何より彼女自身、私を取り戻そうとやけになっていたので、出先で待ち伏せされるなんてことも少なくなかった。
私はそのたびに困ったように笑ってみせて、忙しいからまた後でね、とか、もうこんなことやめよう、などと言ってあしらったりしていた。
そして、それでも彼女が引き下がらなかった時の、私の言い分はこうだった。

「私たち、もう少しゆっくり考える時間が必要なんだと思う」

けれど紗枝ちゃんは、ある日は泣いて謝ったり、ある日は脅すように威圧したり、ある日は情に訴えかけたり、そうやって私の心を繋ぎ止めようとすることに必死で、私の言葉なんかまるで聞こうとしなかった。


それでも私は粘り強く耐えた。
彼女が私を諦めないのと同じように、私もまた彼女の考えが変わることを諦めなかった。

そうしているうちに一週間が過ぎ、半月が過ぎ、クリスマスを迎え、気が付けば年が明けていた。
137 : ◆wsnmryEd4g [saga]:2020/10/18(日) 13:52:19.63 ID:iX/HvtXE0

そうして二ヶ月近く経って、少しずつ私の生活から紗枝ちゃんの存在が薄れてきた今でも、私の頭には彼女との幸福だった思い出がこびりついて離れなかった。

あの頃に戻れたら、と泣いて後悔した夜もある。
別れの傷痕に苦しんでいたのは彼女だけではない。
私だって、何も知らないままでいられたらどんなに楽だったろうと思う。

しかし同時に、無知に閉じ込められた関係が私たちの愛を真の幸福に導いてくれるとも思えなかった。

私は今も変わらず彼女を愛していた。

だからこそ私は、二人が幸せになるために茨の道を選んだのだ。

そして、たとえその先に私たちの望む愛の形が見つからなかったとしても、その時はお互い別々の道を歩み、新たな幸せを探せばいい、そう思っていた。……
138 : ◆wsnmryEd4g [saga]:2020/10/18(日) 13:53:06.14 ID:iX/HvtXE0

この日の夜、お母さまから電話がかかってきた。
今週末、私の演奏会を見るためにわざわざ青森から来てくださることになっていて、その確認の連絡だった。

「……うん。じゃあその時間に、駅に迎えに行くね。一応、電話もしてね……ふふっ、迷子になりそうだなんて、前も一度いらしたことあったじゃない。……え? 私が? そんなことあるかなあ。だって、あの駅は何回も使ったことあるよ……ああ、地下鉄……そういえば、そんなことあったかも。……うん、……はい。じゃあ、また……はい。おやすみなさい」

電話を切り、私は腰掛けていたベッドにごろんと寝転がって天井を仰いだ。
心地良い疲労と重力が身体にのしかかって、頭の中では今日何度も吹いたフレーズがリフレインしている。
そうしてじっと天井を見つめていると、今度はお母さまのお顔が目に浮かんで、お会いしたら何を話そう、どこか良い店でお食事でもしようかしら等々、そんな雑多な考え事が次から次へと移っていった。

そうして気を抜いていると本当に眠ってしまいそうだったので、私は大きく息を吸うと「えい」と掛け声をかけて身体を跳ね起こした。
今日はシャワーを浴びたらすぐ寝よう、そう思ってそそくさとお風呂の支度をした。
そして、寮の共用風呂に向かう途中のことだった。

紗枝ちゃんとばったり会った。

私は思わず「あ」と声に出て、足を止めてしまった。
139 : ◆wsnmryEd4g [saga]:2020/10/18(日) 13:53:33.50 ID:iX/HvtXE0

彼女もびくりと身体を強張らせて立ち止まった。

そして一瞬、呆けたように私を見上げると、すぐにきまり悪そうに目を背け、そのまま黙ってしまった。

「…………」

しんと静まり返った廊下で、思いがけず相対した私たちの間を気まずい沈黙が流れた。

彼女もどうやらお風呂に向かうらしかった。
この時間だと、もしかしたら二人きりになるかもしれない。
そんな思いが二人の間に無言のうちに交わされて、皮肉なことに、この偶然の沈黙が私たちにかつての懐かしい関係を思い起こさせた。


そして私は自分がショックを受けていることにしばらく経って気付いた。

最後に彼女を見たのはいつだったろう?

久しぶりに会った彼女は明らかにやつれて見えた。

それだけではない。

以前の彼女なら、こんな風に私を前にして黙ったまま目を背けるなんてことがあっただろうか?
140 : ◆wsnmryEd4g [saga]:2020/10/18(日) 13:54:13.90 ID:iX/HvtXE0

――紗枝ちゃんに避けられている。

私はすぐに理解して、さあっと血の気が引いた。

あれほど熱烈に私を求めていた彼女が、ついに私を忌避しだした。
その事実に打ちのめされて、声も出なかった。


直後、激しい自己嫌悪が胸のうちで暴れだす。
なんて身勝手な感情だろう!
彼女を突き放しておきながら、いざ自分が避けられていると分かると動揺を隠せない。

私は自分の愚かしさを恥じた。
そして自らを軽蔑した、こんな醜い心を持っている私が、愛の正しさと公平さをどうして信じられるだろう?
結局、私は一方的に求められる関係に甘んじて、自惚れと思い上がりから彼女をいたずらに傷つけただけなのではないか?

彼女のやつれた、覇気のない表情と、虚空に幻影を見ているような曖昧な眼差しを目の前にして、私はそんな恐ろしい後悔に目覚めつつあった。

やがて彼女が躊躇うように後ずさり、私に背を向けた。

私は咄嗟に声をかけようと身を乗り出した。

が、よく見れば彼女は単に浴場に向かって歩きだしただけだった。

私は、自分でも何を言おうとしたか分からないような言葉をぐっと飲み込んで、彼女のあとについて行った。
141 : ◆wsnmryEd4g [saga]:2020/10/18(日) 13:55:27.84 ID:iX/HvtXE0

脱衣所で見る彼女の裸は、やはり以前よりもずっと痩せこけているように思われた。
彼女は、私なんぞまるで無視してそのまま浴室へ入って行くと、視線を遮るようにぴしゃりと戸を閉めてしまった。
それから私もようやく服を脱ぎ始めて、そしてふいに自分の惨めさに涙を零しかけた。

当然の仕打ちだと分かっていても、辛かった。
私には言葉をかける資格も悲しむ権利もなかった。
彼女の、あの何もかも諦めてしまったような痛ましい姿こそ、運命が私に与えた罰なのだと思った。
そして私はその報いを粛々と受け止めなければならないはずだった……。


しかしその後、早々にシャワーを済ませて上がろうとした私の前に思わぬ誘惑が立ちはだかり、私をその場に釘付けにした。

紗枝ちゃんが、私にその細く白いうなじを向けて静かに湯船に浸かっていたのである。
まるで話しかけられるのを待っているかのように……

こうした考えも、やはり自惚れにすぎないのだろうか?
しかし実際、彼女が本当に私を避けたがっているのなら、わざわざ二人きりの場面でこんな風に長居するのは不自然だった。
あるいはもっと単純に、彼女は元から私のことなんぞ何一つ気にかけていなかったのかもしれない……
どちらにせよこの瞬間、私は自責の苦悩から解放されたい一心で、何でもいいから彼女と話がしたい、そんな誘惑に駆られていた。
142 : ◆wsnmryEd4g [saga]:2020/10/18(日) 13:56:29.38 ID:iX/HvtXE0

私は濡れた身体のまま立ち尽くし、選択と決断を迫られていた。

もしかしたら再び大きな過ちを犯すことになるかもしれないこの愚かな希望が、熱湯と湯気と彼女の美しい裸姿に、そしてそこに懐かしく疼きだした情とによって、私を最後の審判にかけようとしている……。


……私は彼女の居るすぐ横に立つと、湯船に足を差して、それからゆっくりと浸かって入った。
そうして彼女の隣に並ぶと、あの誕生日の温泉旅行を思い出して、つい、切なさに溜め息のような鳴き声が漏れた。
泣いてはいけない、この痛みを言い訳にしてはいけない、そう思いながら私は、湯水の中で膝を抱え、しばらくじっと耐えていた。

彼女は相変わらず私の方へは注意を向けようとしなかった。
けれど先ほどのように拒絶するような素振りも見せなかった。

私は、そんな彼女の無関心な態度をありがたいと思う一方で、いよいよ身動きが取れずに押し黙ってしまった。
いまさら何を言っても手遅れだと分かっていながら、私の頭には謝罪の言葉だの、体調を気遣う言葉だの、無意味な台詞ばかり次々に浮かんでくる……。
143 : ◆wsnmryEd4g [saga]:2020/10/18(日) 13:57:11.07 ID:iX/HvtXE0

すると突然、私は彼女に伝えるべきことがあるはずだと思い出した。

その閃きは、後に振り返ってみれば、彼女をただ困惑させただけの、私の自己満足に過ぎないものだった。

が、なぜか私はその時、これだけは伝えておかなければならないという奇妙な使命感に突き動かされて、深く考えるよりも先に言葉が口をついて出た。

「……あの、ね」

「…………」

「今度の日曜日、なんだけど……演奏会があって」

「……知っとる」

彼女はぶっきらぼうに答えた。

私は内心、驚きにうろたえた。
と同時に、心のどこかで安堵している自分も発見した。
私は動揺を悟られまいと努めて平静を装って続けた。

「私……頑張ってるから……だから、その……紗枝、の都合が合えば、良ければ見に来て欲しいな、って……」

視界の隅で、彼女がこちらを振り向いたのが分かった。

私は相変わらず正面を向いたまま、湯水に透き通っている自分の足と、その隣に並んで同じように横たえている彼女の足とを、見比べるようにじっと眺めていた。

「本気……?」

私はハッと顔を上げた。
彼女のまっすぐな眼差しが私の視線に重なった。
144 : ◆wsnmryEd4g [saga]:2020/10/18(日) 13:58:34.91 ID:iX/HvtXE0

言葉とは裏腹に、その瞳に嫌悪の感情はなかった。
彼女はただ純粋な困惑から、私にそんな疑問を投げかけたらしかった。
私の真意を読み解こうとして、彼女はおそらく自分でも意識していないくらいの真剣な目つきを私に注いでいた。

そうして私は見つめられながら久しく忘れていた感動を思い出していた。
ああ、彼女の瞳はこんなにも美しかったのだと。

私は、言いたいことを全部言い尽くしてしまったように、そっとうつむいて口をつぐんだ。

そんな私の投げやりな態度を、彼女がどんな風に受け止めたかは知れない。
けれど私にはもう、これ以上話すことがなかった。


紗枝ちゃんが静かに立ち上がった。
すると私の横目にすらりとした肢が映り、そしてそれが思いがけずセンシュアルな肉感に引き締まっていたので、私は無意識のうちに彼女を見上げ、その水に濡れた艶かしい裸体に魅入った。

湯気にぼやけた彼女の表情が、切なそうに私を見下ろしていた。
そうして彼女はまるでその痩せ細った身体を見せつけるようにしばらく私の前から動かなかった……
が、それは私の錯覚かもしれなかった。
彼女の身体の美しい曲線に目を奪われて、あるいは長く湯に浸かっていたために私の頭ものぼせてしまったようだった。
145 : ◆wsnmryEd4g [saga]:2020/10/18(日) 13:59:53.87 ID:iX/HvtXE0

やがて彼女は何も言わずに湯から上がった。

私はそこでようやく我に返り、彼女の背中に向けて言った。

「あの、チケット。……ポストに、入れておくから」

焦るような気持ちからつい張り上げてしまった声が、浴室に反響して彼女の肩をぴくりと震わせた。
しかしそれきり彼女は反応せず、湯上りのシャワーを浴びるとそのまま出て行ってしまった。

広い浴室で一人、ぽつんと取り残された私は、軽くシャワーを流しながら今しがた交わされた無言のやりとりを頭の中に反芻していた。

彼女は果たして来てくれるだろうか?

私の見立てでは彼女もきっと迷っているに違いなかった。

こうした、私たちの間ではすっかり当たり前になっていた曖昧な意思表現がまだその法則を保っているのなら、彼女はこんな風に言っていたはずだった。

――考えさせて――と。


しかし、お風呂から上がって脱衣所で着替えているうちに、再び激しい後悔が胸の奥で渦巻きだした。

私は何かとんでもない間違いを犯してしまったのではないだろうか?

冷静になった今、一体なんのために彼女を演奏会に誘ったのか、自分でもその目的を説明できなかった。

彼女に私の演奏を聴いてもらって、それで元気になって欲しいとでも思っていたのだろうか?

いや、違う。
私はただ寂しさと恋しさから、彼女を振り向かせようとしてあんなことを口走ったのではなかったか? ……。
146 : ◆wsnmryEd4g [saga]:2020/10/18(日) 14:00:25.72 ID:iX/HvtXE0

私は混乱していた。

が、どのみち済んでしまったことなのだ。

ここまできたら彼女にチケットを渡さないわけにはいかない、そう考えて、己の軽率さを呪いながら部屋に戻った。


深夜、毛布に包まりながら私は、これまで押さえ込んでいた想いを発散するようにひたすら自慰に耽った。

暗闇の中に紗枝ちゃんの笑顔が、あの柔らかい肉体が、優しい指使いが蘇る。
かつて幾度も身体を重ね、隅々まで感じ合っていた悦びを思い出し、そうして際限なく昂ぶっていく身体を慰めながら私は、気がつけば汗と愛液でシーツをぐっしょり濡らしていた。

私は息を荒げ、震えるような快感の残滓にしばらく身を浸していた。

しかしそれでもこの切なさが満たされることはなかった。
むしろそうやって彼女のことを想うたびに、孤独感も恋しさも一層募るばかりだった。

私は枕に顔を埋め、吼えるように咽び泣いた。……

147 : ◆wsnmryEd4g [saga]:2020/10/18(日) 14:01:51.08 ID:iX/HvtXE0
小休止
次で最後です
148 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [sage]:2020/10/18(日) 14:53:05.18 ID:2CaeeWOko
きたい
149 : ◆wsnmryEd4g [saga]:2020/10/18(日) 16:50:14.99 ID:iX/HvtXE0


   十五

駅でお母さまのお姿を発見して、手を振った。
するとお母さまも私の方に気付いて、ぱっとお顔を輝かせた。
そして相変わらず人混みをものともしない優雅な調子でつかつかとお歩きになって、その品のある振る舞いは見ているだけで襟を正されるような思いがした。

お母さまは私の傍で「ふう」とひと息つくと、「わざわざありがとう」と嬉しそうにおっしゃって、それから目の前の私を頭からつま先まで眺めながら、

「素敵なコートね。似合ってるわ」

「お母さんこそ……長旅お疲れ様でした」

私ははにかみながら答えて、お母さまが重たそうに抱えている手荷物をいくつか預かった。
中身はどうやら私への仕送りのつもりで持ってきたお菓子だのフルーツだのが入っているらしかった。

「ゆかり、背、伸びたかしら?」

「そう?」

「ずいぶん立派に見えるわ」

お母さまは見上げるような仕草で私の頭に手をかざした。
実際、だいぶ前からお母さまの身長は越えていた。
とはいえ、ここ一年で特に背丈が伸びた覚えはない。
今度、事務所へ行ったら一応測り直してもらおうかしら、そんなことを考えていたら、お母さまが私の顔をまじまじと見つめておっしゃった。

「美人になったわね、ゆかり」

「もう、またそんな……お母さんほどじゃないよ」

しかしお母さまは大真面目に首を横に振って、

「なんだか、しばらく見ないうちにすっかり大人のひとになっちゃったみたい」

などとおっしゃるので、私は照れ隠しに「そうかなぁ」と首をかしげてはぐらかした。
150 : ◆wsnmryEd4g [saga]:2020/10/18(日) 16:50:54.11 ID:iX/HvtXE0

それから私はお母さまと一緒に駅構内を少し歩き、休憩がてら喫茶店に入ることにした。
お母さまは腰を落ち着けるや否や、ドラマの感想だの、お父さまや親戚の話だの、色々なことを興奮気味に話された。
そのうち半分くらいは電話や手紙ですでに知らされていたようなことだったけれど、およそ一年ぶりに私と会うということで、お母さまもきっと楽しみにしていらしたのだろう、そんな様子が伺えた。
それに、お話したいことがたくさんあるのは私も同じだった。
そうして気がつけば私たちは一時間以上も喫茶店でおしゃべりしていたのだった。

その後、私たちは駅構内のお店へ寄り道しながら迷路のような地下鉄へ降りて行った。
今回は特に迷うことなくホームまで辿り着いた。
というより、前回、私が迷ったのは、確かお母さまの予約したホテルへ先に送り届けようとして、それで今まで利用したことのない路線を使ったからだと思い出した。

そう言うと、お母さまは「そうだったかしら」ととぼけたようにおっしゃって、その無邪気な感じがいかにもお母さまらしく、子供っぽい愛嬌に溢れていたので、私はいまさらながら感心してしまった。

こんな風に、いつまでも可愛らしくありたい。そう思った。
151 : ◆wsnmryEd4g [saga]:2020/10/18(日) 16:51:39.78 ID:iX/HvtXE0

この日は、とりあえず寮の私の部屋へ招いて、夕飯時まで二人でゆっくり過ごすつもりでいた。

お母さまは私の部屋に到着するとさすがにお疲れになったのか、荷物を置くと床にぺたりとお座りになって、小さな溜め息をつかれた。
が、すぐ気を取り直したように私の部屋を見渡して、本棚の本やCD、そしてそこいらに無造作に置かれた小物を興味深げに観察していらした。

「賑やかなお部屋ね」そうおっしゃって、ベッドの枕元にある子犬のぬいぐるみに目を向けられた。

私は、そのぬいぐるみの経緯を説明しようとして、ふいに言葉に詰まった。

それは、昔、紗枝ちゃんにゲームセンターに連れて行かれた時に、彼女がクレーンで取って私にくれた初めての贈り物だったのである。

そうして改めて自分の部屋を見渡すと、ぬいぐるみだけでなく、小物や洋服、ポスターやCDなど、何かしら紗枝ちゃんの影響で買い揃えたものばかり目に付いて、妙な胸騒ぎがした。
もう、とっくに彼女の庇護から抜け出したものとばかり思っていたのが、未だ無意識では彼女の支配化にあって、それと知らずに暮らしている……
ふと、そんなことを考えて、寒気がした。
152 : ◆wsnmryEd4g [saga]:2020/10/18(日) 16:52:12.50 ID:iX/HvtXE0

私はよっぽどお母さまに相談しようか迷った。

私のかつての恋人について、二人の間に深い傷痕を残して別れてしまったこと、また私自身、彼女との関係をまだ引きずっていることを、洗いざらい告白したい衝動に駆られていた。

しかもその時、まるで見計らったかのようにお母さまが、

「ゆかりは今、好きな人はいるの?」

とおっしゃりだしたので、それこそ紗枝ちゃんの名前が喉元まで出かかったくらいだった。

けれど結局、お母さまには話さなかった。
「今は、いないよ」そう答えて、素知らぬ顔でやりすごした。

代わりに、私はこんな質問をした。

「ねえ、お母さん……お母さんは、本当は私がアイドルになるの、嫌だったんじゃないの?」

するとお母さまはぽかんとして、「どうして?」とお尋ねになった。

「だって……」

と言いかけて、口ごもった。
自分でも、なぜそんなことを言い出したのか、分からなかった。

するとお母さまは、何か考え事をするように遠くをぼんやり見つめて、やがて重々しく口を開かれた。
153 : ◆wsnmryEd4g [saga]:2020/10/18(日) 16:53:00.24 ID:iX/HvtXE0

「……正直なことを言うと、最初は、反対したい気持ちもありました。高校生なんてまだ子供だし、ましてやゆかりみたいなぼんやりした子が東京で一人で暮らしていくなんて、もう心配で心配でとてもじゃないけれど賛成できない、最初はそう思っていましたよ。それに、アイドルにしたってお母さんには何がなにやらさっぱりな世界だし、そんな危険かも分からないようなところへゆかりを送り出すのは親としても非常識なんじゃないかしら、って……」

お母さまは昔を懐かしむようにおっしゃった。

「でもね、ゆかり。その頃お母さんは別のことも心配してたのよ。ほら、ゆかりって昔からわがままとか言わない子だったでしょう? 素直で良い子で、そのうえ嫌なことがあっても我慢してるんだか気にしてないんだか分からないくらい、ぽけっとしてて……それがちょっと心配だったの。真面目なのは良い事だけれど、なんというか、主体性に欠けてるような気がしたのね。それで思ったのよ。実は私たちの方こそ、ゆかりを大事にしすぎて、あの家に閉じ込めて、自由な心を奪ってしまってるんでないかしら、って」

私は黙って耳を傾けていた。

「せっかく広い世界を知ることができるチャンスなのに、ここでゆかりの可能性を私たちが潰していいのかしら……そんな風に思ったの。それにね。もっと言えば、ゆかりにはお母さんみたいな世間知らずな大人にはなってほしくなかったのよ。だから、最終的には、ゆかりを東京に行かせることには反対しませんでした」

「……お母さんは、そうして正解だったと思う?」

お母さまは私の目をじっと探るように覗き込んで、それから、寂しげにおっしゃった。 

「そうね。ゆかりはたくましくなったわ」

そして、まるでご自身に言い聞かせるように、

「もう、子供じゃない」

そう呟かれて、嬉しいような、切ないような微笑をふわりと浮かべるのだった。
154 : ◆wsnmryEd4g [saga]:2020/10/18(日) 16:54:08.97 ID:iX/HvtXE0


演奏会当日、外は雲ひとつない青空だった。

そんな清々しい空模様とは裏腹に、大気は凍てつくように冷たい。
冬らしい、からっとした日差しに元気付けられるように、朝、私はコンサートホールに向かっていた。

会場に集まり、挨拶と軽いミーティングをした後、準備が始まった。
受付の配置、ステージのセッティング等を済ませ、あとは昼食までの間、リハーサルをおこなう。


調子は、悪くない。
指は温まっているし、緊張もコントロールできている。
リハーサル後、私たちは早めのお昼を取ると、午後の開演時間まで少しの間、暇になった。

私は他の出演者の方々と談笑して時間を潰していた。
今日は母が見に来るんです、そう言うと、先生が、

「あら、そうなの? じゃあご挨拶しないといけないわね」

とおっしゃって、すると他の方々も、「お母さまは何か音楽をやっていらっしゃるの?」とか、「青森から? それはまた遠い所から……」等々、話題が私の家族や故郷へと移っていった。

そんな本番前のリラックスした空気の中、私はそれらの会話に快く興じながら、一方、内心では別のことを気にかけてばかりいた。


もしかしたら今日、彼女は来ないかもしれない……

そんな予感が胸をよぎった。

それは、不安、というよりも、諦めに近い心境だった。
155 : ◆wsnmryEd4g [saga]:2020/10/18(日) 16:54:44.83 ID:iX/HvtXE0

どちらにせよ、今は目の前の本番に集中しよう、そう思って、彼女のことは一旦頭の隅に追いやった。

しかし午後、受付が始まると、私はやはり気が気でなくなって、エントランス付近の物陰にこっそり隠れ、人の出入りを注意深く観察したりしていた。

すると、しばらく経ってお母さまの姿がお見えになった。
さりげなくお声をかけると、お母さまは例の慎ましやかな微笑を浮かべ、少し早く来すぎたかしら、とおっしゃった。
私は、あちらへ、とロビーに案内して、そこで少しの間、お茶をご一緒しようとして、席に腰掛けた。

「ゆかり、時間は大丈夫なの?」

「うん。もう少ししたら、着替えないといけないけど……」

言いながら私は、相変わらず受付の方をちらちらと横目に見てばかりいた。
お母さまは、そんな私の不審な態度を見かねてか、

「お母さんのことはいいから、行ってらっしゃいな」

そうおっしゃって、急かすように私を立たせると、一人優雅にお茶を啜られた。

私は小さく手を振って、気もそぞろにエントランスを横切って行った。

まだ開演まで時間があるとはいえ、準備の都合で私もあまりのんびりしていられない。

会場には少しずつお客さんが増えてきていた。

けれど、やはり紗枝ちゃんの姿は見当たらなかった。
156 : ◆wsnmryEd4g [saga]:2020/10/18(日) 16:55:23.48 ID:iX/HvtXE0

私は諦めて控え室に戻った。
制服に着替え、すでに出演者のほとんどが待機しているバックステージへと向かう。
気負うような雰囲気ではないけれど、さすがに直前ともなると、小声でおしゃべりする団員の間にもそれなりの緊張感が漂っている。

私は居住まいを正し、深呼吸した。

舞台に上がる前のこの高揚感が、私は好きだった。

それはアイドルのお仕事をしていた時も同じだった。

自分を表現するということ、自分はここにいるということ、それをたくさんの人に伝えられるということを、何よりも実感できるのはいつだってステージの上だった。



開演のアナウンスが鳴る。

舞台袖から一人ずつ壇上にあがり、拍手で迎えられながらそれぞれの位置に着く。

ここから見ると決して小さくはないホールには、奥の方まで客席が埋まっている。

思わず目を凝らして観客ひとりひとりの顔を眺めだした私の前方に、マイクを手にした先生が颯爽と現れる。
開演の挨拶、それから今回演奏する曲目の簡単な解説をしたあと、指揮者の方が登場し、拍手に迎えられながら指揮台に上がる。

やがてオーボエから始まるチューニングの音が漣のように広がり、ホールをひとつの調和で満たしていく。

音が止み、指揮棒が上がる。

そして、一呼吸置いた後、流れるように曲が始まった。
157 : ◆wsnmryEd4g [saga]:2020/10/18(日) 16:55:56.68 ID:iX/HvtXE0

そうして一度、始まってしまえば、あとはこのゆりかごのような慣性に身を委ねるだけだった。

呼吸するように、私は大きなうねりの中にいた。
もはやフルートだけでなく、音楽自体が私の一部なのだった。
ひとつの秩序、ひとつの世界に組み込まれながら私は無限に拡張され、同時にその全てと混ざり合う。

一〇分に満たない序曲が終わり、拍手が上がった。

私はステージの黄金の輝きの内側から、仄暗い客席へと目を走らせた。



そこで私は見た。

ホールの入口付近に一人、見慣れた背丈の人影が立っている。

黒く目立たないコートを着て、背景に溶け込むようにひっそりと佇んでいる。

けれど私にはすぐ分かった。

以前、私が持ち帰り、そして彼女の部屋のドアノブにそっと掛けておいたあの帽子を深々と被って、こちらをじっと見つめている……。
158 : ◆wsnmryEd4g [saga]:2020/10/18(日) 16:57:09.23 ID:iX/HvtXE0

特別、驚きはしなかった。

かと言って安堵したり、喜んだりすることもなかった。

この瞬間、私たちはきっと二人きりだった。

お互いを隔てている客席、明暗、それらの障害の一切が消え失せて、私の目の前にはただ紗枝ちゃんの姿だけが、遠く見つめ合うほどすぐ近くに感じられた……
が、それも長くは続かなかった。

指揮者が構え、次の曲目が始まろうとしていた。

私は振り上げられたタクトに視線を戻した。
再び、楽曲とオーケストラと、観客と、そして自分自身へと没頭していく。
感覚を研ぎ澄まし、ホールに響く音と一体になる。

しかし私は、そうして演奏に集中する一方、意識の上には彼女の懐かしい記憶ばかり鮮明に思い浮かべていた。

豊かに、繊細に奏でられる交響曲の中に私が見い出していたのは、たった一人の、私が愛した恋人の姿だった。

私は今や彼女のためだけに演奏していた。

私はここにいる、そう叫ぶように……。
159 : ◆wsnmryEd4g [saga]:2020/10/18(日) 16:58:13.76 ID:iX/HvtXE0

やがて無心のうちに曲が終わった。

沸き起こる拍手の嵐が私を徐々に現実に引き戻した。

そうしてふと我に返ると、一瞬、ステージの照明の眩しさに目が眩んだ。
顔をしかめながら私は、ホールの入口の辺りに再び目を凝らした。


が、そこには誰もいなかった。

観客席を見渡しても、彼女の影はもう、どこにも見当たらなかった。


……それが、私が最後に見た紗枝ちゃんの姿である。

160 : ◆wsnmryEd4g [saga]:2020/10/18(日) 17:02:46.07 ID:iX/HvtXE0


   十六

春、大学生になった。
新居は、大学と会社の両方にアクセスの良いマンションを選んだ。

大学生活は、最初こそ何もかも新鮮で戸惑ってばかりいたけれど、一ヵ月も経てば少しずつ慣れてきて、学科では一緒に遊びに行くような友達も何人かできた。
また、そのうちの一人に誘われて演劇サークルに入ったりもした。

私がアイドルをしているという事実は、自分からはことさらに主張しなかったけれど、会話の流れなどからぽつぽつ打ち明けていたら、気が付けば口伝てに広まって、初対面の人に一方的に認知されているなんてことも珍しくなくなった。


そのアイドルのお仕事も、春から新しいプロジェクトがスタートして、ようやく活動が本格化してきたところだった。
私は新人を含む数人のアイドルと一緒にグループを組むことになった。

そのデビューイベントが六月に予定されていたものだから、大学も始まったばかりの時期に、講義の合間を縫ってレッスンやミーティングに参加するのは想像以上に忙しく、大変だった。

おかげで、せっかく入った演劇サークルも、最初のうちはほとんど顔を出せずにいた。
フルートのレッスンだけはかろうじて月に一度、申し込んでいたけれど、定期演奏会に参加できるほどの余裕はなく、どちらかと言えば気分転換のために通っているようなものだった。

それでも、もう一度アイドルのお仕事ができると思うと、嬉しかった。

メンバーの中では私が最年長で、キャリアも一番長かったから、先輩として新人の子たちと接するのも初めての体験だった。
彼女たちとは正式にグループを組む前から何度か顔を合わせていて、その時に私がお仕事や業界について教えたりしたのだけれど、そんな風に面倒を見ていたらいつしかプロデューサーさんからもリーダーとして扱われるようになってしまった。

しかし結局、正式なリーダーは最終的に別の子に決定した。

一応、私も勧められてはいたけれど、そもそもリーダーなんて柄ではないし、自分でも向いていないと分かっていたので、断わったのである。

そんなわけで、入学からしばらくの間、私は学業とアイドルの両立に悲鳴をあげながらもそれなりに充実した日々を送っていた。
161 : ◆wsnmryEd4g [saga]:2020/10/18(日) 17:03:27.69 ID:iX/HvtXE0

――その後、六月のデビューイベントを成功させた私たちは、勢いにのってトークイベント、握手会、フェスのゲスト参加等、精力的に活動を続けていった。
九月には二枚目のシングルも発売し、スケジュールにはライブの予定が次々に舞い込んできて、しかもそのうちのひとつはチケットが完売するという、昔の私なら考えられないような事態が起こり、そこで私はようやく、自分たちが注目されてきているということを実感した。

相変わらず学業と折り合いをつけるのは大変だったけれど、そうした苦労がきちんと結果に結びついていることが何より嬉しくて、少しくらいの忙しさは全然、気にならなかった。

それに、大変なのは私だけではなかった。
むしろグループの他の子たちの方が、経験が少ないぶん私より苦労しているはずだった。
私は、レッスンもお仕事もなるべく彼女たちをサポートするように立ちまわって、危なげなところは都度、フォローしたりしていた。

その甲斐あってか、メンバーからはずいぶん慕われるようになった気がする。
これまでに個人的な相談に乗ってあげたことも一度や二度ではない。


相談、と言えば、ある日、メンバーの子から恋愛相談を受けたことがある。
高校の先輩を好きになってしまったというので、アイドルとして、あるいは一人の女の子として、どうしたらいいかという真剣な相談だった。
この時ばかりはさすがに私も困り果てて、具体的な意見を示せず曖昧に答えてしまったのだけれど、その子に、

「ゆかりちゃんは好きな人、いなかったんですか」

と聞かれた時、真っ先に思い浮かんだのはやはり紗枝ちゃんのことだった。
162 : ◆wsnmryEd4g [saga]:2020/10/18(日) 17:03:58.86 ID:iX/HvtXE0

決して、忘れていたわけではなかった。

しかしその頃の私はとにかく毎日が忙しくて、彼女のことをゆっくり考える暇もなかったのだ。


最後に彼女の姿を見てから、半年以上が経っていた。

本来なら、私と同じ大学に進学しているはずだった。
が、もちろん入学以来、彼女を見かけたことはない。
私は、きっと別の大学を受けたのだろうと思っていた。

けれど彼女の進路に関して、とある噂も耳にしていた。
紗枝ちゃんはアイドルを辞めたあと、大学には進学せず実家に戻ってしまったというのである。

その噂が本当かどうか、プロデューサーさんに聞いて確かめようと思ったことはある。

けれど、過去に紗枝ちゃんとの付き合いでプロデューサーさんに色々とご迷惑をおかけしたこともあり、私からその話題を持ち出すのはなんとなく気が引けていた。
そもそも、未練がましく彼女にこだわり続けること自体、間違っている、そんな思いもあった。
163 : ◆wsnmryEd4g [saga]:2020/10/18(日) 17:04:48.06 ID:iX/HvtXE0

ただ、それとは別に、やはり彼女のことが心配だった。
あの時の、やつれた細い身体、覇気の失せた表情を思い出すと、もしかしたら、という不吉な考えが頭に浮かぶ。

しかし結局のところ、私は紗枝ちゃんの安否を案ずるだけ案じて、実際に何か行動を起こすことはなかった。
目の前の一日一日をひた走ることに夢中で、言ってしまえば、必要以上に過去を振り返るほどの余裕がなかったのである。
事実、アイドルのお仕事が一段落ついた時、あるいは大学が夏休みに入った時には、それまで忙しくて手の回らなかったフルートのレッスンや演劇サークルに参加したり、また別の日には友達と一緒に遊びや旅行に行ったりしていて、それこそ暇らしい暇なんぞまるでなかったのだ。

……いや、その言い分は少し違う。
私はきっと恐れていた。
何もせずに立ち止まったら今度こそ過去に追いつかれてしまうと思って……
過去は常に暇と退屈の中に潜んでいた、だからこそ私は一人の時間を憎み、そこから逃れようともがいていたのだった。
164 : ◆wsnmryEd4g [saga]:2020/10/18(日) 17:05:27.72 ID:iX/HvtXE0

そして私は後に思い返す。

この、繁忙の熱狂に我を忘れたように生活していた日々こそ、かつて私が思い描いていた幸福のひとつの形だったのではないかと。

アイドルを志し、青森の駅で家族と別れたあの日からいつか歩むことになると約束されていた運命の道を、気付かぬ間に通り過ぎていたのかもしれないと。

この狂気に満ちた街に暮らす多くの人々と同様、私もまたその狂気を飼い慣らしつつあった。
そしてそれはほとんどの場合、私自身の生活との闘いだった。
幸福とは、こうした闘いの果てにあるものではなく、闘うことそれ自体がすでに幸福の原型なのだと、私はずっと後になって知ることになる。

が、少なくともこの時の私は、不安や焦り、あるいは愛すべき人を失ったことへの後悔から、それらの心の隙間を埋め合わせるために、ただやみくもに走り続けていただけのように思われてならない。

いずれにせよ私は、狂気の中に身を投じ、背後を過去に脅かされながらも決して闘うことをやめなかった。
私を突き動かしていたものが何であれ、この道の行く先にはきっと私が追い求めていた理想の世界があるはずだと、そう思っていたのだ。
165 : ◆wsnmryEd4g [saga]:2020/10/18(日) 17:06:15.68 ID:iX/HvtXE0

しかし、目の前の現実は私が想像していたよりも遥かに堅く、険しく、非情だった。

確かに、私たちのグループは一時期、大きく勢いに乗っていた。
九月の比較的大きなライブイベントを終え、一旦は落ち着いた活動も、その後、秋から年末にかけて予定されていた各種イベントのために、水面下ではそれぞれの目標に向けて課題に取り組み続けていた。
そして実際、ホワイトボードに記された十月のスケジュールには、これまで以上に多くのお仕事の予定が詰まっていた。

が、ある時を境に、ホワイトボードの空白が埋まらなくなった。

十一月、十二月の日程には、元々決まっていたイベントの他に、かろうじてひとつ、小さな劇場でのライブイベントが入ったくらいで、それ以外のお仕事は一向に増えないまま、やがて十月が終わり、私は十九歳になった。

プロデューサーさんは、私たちから見ても心配になるくらい、それこそ寝る間も惜しんで営業に励んでいたけれど、それでも目立った成果はなかなか見えてこなかった。

何より、この時期になると各プロダクションから次々に新グループがデビューし、劇場やライブハウスの取り合いになるので、そもそも個別のライブイベントを開催すること自体が難しかったのである。

そこで大抵の場合、イベントは合同という形で組まれるのだけれど、それも私たちのグループに声がかかることはほとんどなかった。


私たちは少しずつ焦りはじめていた。

プロジェクト全体が思うように進んでいない、そんな雰囲気を感じ取って、せめて勢いは落とさないようにと、ブログやSNSでファンとの交流に力を入れ、細々した小さなお仕事でも自分たちをアピールすることを欠かさなかった。

けれどもやはり、お仕事の規模はどんどん小さくなるばかりで、次第に雑な現場や過激なファンも目に付くようになり、メンバーの士気が日に日に落ち込んでいくのが私にも分かるくらいだった。
166 : ◆wsnmryEd4g [saga]:2020/10/18(日) 17:06:59.41 ID:iX/HvtXE0

私たちは緩やかな敗北を喫していた。

十二月になり、次のライブの目途がまったく立っていないことが分かると、私もとうとう認めざるをえなくなった。

私たちに足りなかったのは実力だろうか、それとも運?
あるいはその両方かもしれない……

私は悔しさに歯噛みした。

諦めるつもりはなかった。

しかし私は同時に悟ってもいた。

こうなってしまえば、おそらく私一人ではどうすることもできないのだろうと。

私たちには協力者が必要だった。

助言でもいい、とにかく支援してくれる誰かの力が欲しかった。


そして、私がその答えに辿り着くまでにそれほど時間はかからなかった。

私は紗枝ちゃんの言葉を思い出していた。
かつて彼女がこの業界で生き残るために何をしたのだったか?

考えただけで息が詰まる思いがした。

あの時の彼女の悲痛な告白が、今度は私自身の姿と重なって一層、生々しく蘇る。
私は、そんな自らの想像に吐き気を催しながら、ついに目の前に現れたこれらの可能性への恐怖に、思わず肩を震わせた。

私は悩んだ。

そうして時間が経てば経つほど、残された選択肢も少なくなっていった。

私は決断しなければならなかった……。
167 : ◆wsnmryEd4g [saga]:2020/10/18(日) 17:07:54.79 ID:iX/HvtXE0

……後になって振り返れば、この時の私は、求めていたものを寸でのところで取り逃したと思い込み、自暴自棄な心に縛られていただけだったのかもしれない。

目先の結果に捉われ、判断力を失った私が、もしこの時、本当に一歩を踏み出していたらと思うと、ぞっとする。

そして実際、私はその一歩をほとんど決意しかけていたのだ。


十二月の半ば、みぞれが降る寒い日だった。

私はレッスンを終え、プロデューサーさんに相談したいことがあるからと、一人で事務室に向かっていた。
今日こそ話そう、プロデューサーさんに私の覚悟を伝えようと何度も繰り返した決心を、私は事務室の扉の前に立ちながら再び心の中に唱えていた。

が、土壇場になって私は、どうやって話題を切り出すべきか何も考えていなかったことに気付いて、今さら頭を捻りだした。
そうして部屋の前で何分も考え込んでいたら、突然、扉が開いて、プロデューサーさんと鉢合わせしてしまった。

私は不意をつかれて慌てふためいた。
プロデューサーさんは最初、驚きに目を丸くして、何かを言おうとしていたらしかった。
が、ふと考え直したようにちらりと背後に目線をやると、なにやら真剣な様子で、

――ちょうどよかった、水本に話したいことがある――

そう言って、私を事務室に招き入れた。

……その話というのが、以前、ドラマ『あいくるしい』でお世話になった監督から、私宛に次の映画への出演のオファーが来ているというものだった。
それも、まさに数分前の電話で……。
168 : ◆wsnmryEd4g [saga]:2020/10/18(日) 17:09:53.54 ID:iX/HvtXE0

この、出来すぎた偶然のようなチャンスを、果たして幸運の一言で片付けてしまっていいのだろうか?

私は驚きと喜び、それからこの数週間悩み続けた切実な苦しみを思って、つい、プロデューサーさんの前でぽろぽろと涙を流してしまった。
プロデューサーさんはそんな私を慰めながら、また彼自身、報われたことの感動から涙を堪えている様子だった。

が、私は必ずしも希望的な安堵から感情を昂ぶらせたのではなかった!

この運命のいたずらとしか言いようのない偶然に、私は心から畏怖の念を抱いていた。
もし私が少しでも決断を早めていたら、あるいは先方からの電話が数日でも遅れていたら、私はきっと紗枝ちゃんと同じ道を辿っていただろう。
結局のところ、私自身の臆病さとたった一度の些細な偶然、それだけで私たちの未来はこんなにも違うものになってしまうのだ。


その時だった。

私の脳裏に、紗枝ちゃんの懐かしい笑顔がはっきりと浮かび上がった。

私はハッとした。

――今こそ彼女を救うべき時なのではないか?

私はようやく彼女を愛する資格を得たのだと気付いた。
すると、これまで封じ込めていた過去が突然、不思議な輝きと情熱を帯びて私の心を焚きつけだした。

私に課せられた責任とは、まさに彼女への愛を再び自分自身に蘇らせることではなかったか?
169 : ◆wsnmryEd4g [saga]:2020/10/18(日) 17:10:31.57 ID:iX/HvtXE0

……しかし一方で私は冷静だった。

私と紗枝ちゃんの関係はすでに終わったものだと、もはやかつてのように純粋に愛し合える日は来ないのだということを、頭でははっきりと理解していた。

だから、私は紗枝ちゃんその人ではなく、私の中に住み着いている郷愁と愛慕を救わなければならなかった。
この誓いは、あるいは偽りの救済、偽善的な自己満足にすぎないものだったけれど、それが今の私にできる精一杯の贖罪だったのだ。

そして、それは同時に私の希望でもあった。

私は、この新たな誓いに自らの希望を託すことでようやく自分の人生の第一歩を踏み出せると思った。

紗枝ちゃんを諦め、彼女を大切な思い出として心の中に住まわせる事こそ、私の目指していた幸福の形なのだと……あとは私が、その事実を受け入れさえすればいいのだと。



そう、思っていた。

少なくともあの日、紗枝ちゃんが私の元を訪れる時までは。

それは、冷たい雨の降る夜、クリスマスイブのことだった。
170 : ◆wsnmryEd4g [saga]:2020/10/18(日) 17:11:27.92 ID:iX/HvtXE0


   十七

夜、九時ごろだった。

ネットで調べものをしていると、突然、インターホンが鳴りだした。
こんな夜中に誰だろう、私は怪訝に思いながら、マンションの自室に備え付けてあるドアホンのテレビカメラを覗いた。

一瞬、誰か分からなかった。
紺のジャンパーを羽織り、ぶかぶかしたフードを被っているその人物は、まるで浮浪者のように全身を雨に濡らして私の部屋の前に立っていた。

それは、確かに怪しい人物には違いなかった。
が、私は警戒するより先に、その見覚えのある姿に奇妙な胸騒ぎを覚えていた。
フードの影に垂れている長い前髪、ほっそりした顎のライン、そしてつぼみのように小さく結ばれた口元……

まさか、という予感が閃光のように走る。
心臓が早鐘を打ち、私は、それでも信じることができずに、

「……どなたですか?」

とドアホン越しに呼びかけた。

すると来訪者はぴくりと怯えたように反応し、震える手でフードを脱いだ。


私は玄関までのほんの僅かな距離を駆け出して行った。

なぜ、どうして……私は心に叫んでいた。

あらゆる疑問、あらゆる感情が胸のうちに押し寄せ、そのまま激突するようにドアノブに手をかける。

「紗枝ちゃん!」

彼女は、私の姿を見るや否や、顔をくしゃくしゃにして、感極まったように泣き出した。

吼えるような慟哭がマンションの通路にこだまする。
けれど私は、それすら気にも留めずに、彼女の取り乱した姿を食い入るように見つめてばかりいた。
171 : ◆wsnmryEd4g [saga]:2020/10/18(日) 17:12:23.86 ID:iX/HvtXE0

私は困惑していた。
それこそ夢を見ているような気分だった。
こんなにも唐突に、何の前触れもなくやってきた彼女との再会をどう受け止めればいいか分からなかった。

私は興奮に息を詰まらせながら彼女の背中に手を回し、ひとまず部屋に招き入れた。

扉を閉め、私たちは薄暗い玄関で向かい合って立った。
私は明かりを点けるのも忘れ、ただ一言、「どうして」と呟くことしかできなかった。

彼女はまだすすり泣いていた。
私の顔もまともに見ることができず、嗚咽交じりの呼吸を引き攣らせながら涙を懸命に拭っている、その痛々しい姿はまるで迷子の子供のようだった……
いや、彼女は実際、今までずっと迷子だったのだ、と私は思った。

「紗枝ちゃん、もう、大丈夫だよ。だから落ち着いて、ね? ……」

私は自然に、考えるよりも先に彼女を抱きすくめていた。

びしょ濡れの彼女の身体は私の腕の中で震えていた。
それが嗚咽の痙攣なのか、寒さによる身震いなのか、咄嗟に判断できなかった。
私は、とにかく彼女を落ち着かせなければと思って、その泣き腫らして真っ赤になった頬にそっと両手をあてがった。

雨と涙に濡れた肌はぼんやりと熱がこもっていた。
不審に思い、額にも触れてみると、やはり少し熱っぽかった。

「大変……!」

私は慌ててタオルを取りに部屋に戻った。
紗枝ちゃんは玄関の壁に寄りかかったまま朦朧としていて、何やらうわ言のようなことをぶつぶつと呟いていた。
172 : ◆wsnmryEd4g [saga]:2020/10/18(日) 17:13:28.34 ID:iX/HvtXE0

彼女はひどく弱っていた。
その長い黒髪は単に雨に濡れただけではない奇妙なべたつきがあった。
落ち窪んだような目元、よく見れば青ざめている唇、そしてこの高熱……羽織っているジャンパーを脱がすと、その下はシャツ一枚という薄着だった。

一体、彼女の身に何が起きたのだろう?
私はよっぽど事情を問いただしたかった。
が、今はそれよりも彼女の身体が心配だった。

私は、力の抜けた彼女の重たい身体を支え、ベッドの上に座らせた。
するとふいに酸っぱい匂いが鼻をついて、それは薄汚れたシャツから臭ってきていた。

私はためらいながら彼女のシャツも脱がした。
明るい部屋の中に見る紗枝ちゃんの下着姿は一層哀れだった。
以前よりさらに痩せこけ、あばら骨が浮き出ている。
私は思わず目を背け、そしてそれを誤魔化すように替えの服を探しに行った。


その後、私は彼女を着替えさせると毛布に包んでベッドに寝かしつけた。
あの様子だともしかしたら食事もろくに取っていないかもしれない、そんな予感がして、私は、バスタブにお湯を溜めている間、台所で軽くご飯の支度をした。
簡単な雑炊とりんごを三切れ、用意してベッドまで運んだ。

彼女は相変わらず辛そうに息をしていた。
が、先ほどよりはずっと意識もはっきりしてきたようだった。
私はトレーを机に置いてベッドの脇にかがみ、そののぼせたような赤い顔にそっと手を伸ばした。

彼女の頬はしっとりと汗ばんで熱かった。

そうして肌に触れながらまじまじと見つめているうちに、気付けば私は、もうこれ以上自分の心を欺き続けるのは不可能だと悟った。


私はどうしようもなく紗枝ちゃんのことが好きだった。

彼女への憧れ、彼女への愛慕は、この空白の一年間、少しも変わっていなかったのだ。

彼女の苦しみに歪んだ表情を、私は胸が張り裂けるような思いで見つめていた。……
173 : ◆wsnmryEd4g [saga]:2020/10/18(日) 17:14:11.51 ID:iX/HvtXE0

紗枝ちゃんがふと目を覚ました。

まだ少し朦朧としているらしい濁った視線を宙に向けて、それからようやく、横にいる私を認識したようだった。

私は、こみ上げてくる切ない気持ちをぐっと堪え、にこりと微笑んでみせた。
彼女は瞼を痙攣させながら、私の手を包むように自らの手をそこに重ね、
――気持ちいい――そう呟いた。

「お水。飲めそう?」

コップを差し出すと、彼女はふらふらと上体を起こし、私に背中を支えられながら水を飲みだした。
私は次にりんごを一口、差し出した。

「食べる?」

彼女はこくりと頷くと、力なく口を開け、しゃり、と食んだ。

私は、彼女がゆっくりと咀嚼する様子を黙って眺めていた。
その後、残りのりんごと雑炊を少し食べ、お水を飲むと、彼女は再びぐったりとベッドに横になった。

そして、私が濡れタオルを準備しようと立ち上がったら、ゆかり、と呼び止められて、振り返ると、

「……ごめんなさい」

だしぬけに紗枝ちゃんがそんなことを言い出した。

「大丈夫、気にしてないよ」

しかし彼女はそれでも、ごめんなさい、許して、と何度もうわ言のように繰り返した。
そうして私が、「お水、持ってくるね」そう言って離れた後も、ベッドからは、ゆかり、行かんといて、と弱々しく呼び続ける声が聞こえていた。
174 : ◆wsnmryEd4g [saga]:2020/10/18(日) 17:14:53.03 ID:iX/HvtXE0

しばらく経つと、彼女の顔色も少し良くなった。

私は体温計を彼女の腋に差しながら、このあと近くのコンビニまで買出しに行って来ようかしらなどと考えていた。

「ゆかり……」

「うん?」

「ほんまに、堪忍どすえ……」

「そんなの、気にしてないから。本当に……紗枝ちゃんと会えて、私、嬉しいよ」

「うち、どうかしとった……もう、帰る……」

「帰るって、どこに?」

「…………」

彼女はばつが悪そうに目を逸らした。

どのみち私は彼女をこのまま帰すつもりはなかった。
とにかく事情を話してもらわなければ、そう思って、私は改まって彼女に尋ねた。

「……ねえ、教えて。何があったの? どうして私の部屋が分かったの? 今までずっとどこにいたの?」

彼女は何も答えず、黙って天井を見つめていた。

私は彼女のそんな態度を責めはしなかった。

話したくないのなら、今はそれでもいい。
彼女の口から直接聞かずとも、遅かれ早かれ分かることだろうと思った。

ただ、彼女が私に対して未だ心を閉ざしているように思われて、それが私には気がかりだった。
175 : ◆wsnmryEd4g [saga]:2020/10/18(日) 17:15:26.07 ID:iX/HvtXE0

熱を計ると、三十八度あった。
この時期だと、インフルエンザという可能性もある。
病院に行こう、そう言うと、彼女はふるふると首を振って、「保険証、持ってへん」と答えた。

私が、それでも、と説得しようとしたら、彼女は何を思ったか、急に身体を起こして、

「やっぱし、帰る。これ以上、迷惑かけられまへん……」

ぶつぶつとそんなことを呟きながら、ベッドから起き上がろうとした。

「だめ!」

私は悲鳴を上げ、彼女をベッドに押し戻した。

「迷惑なんかじゃない。それより、もう私に心配かけさせないで。お願い」

そうして叱りつけるような口調で諭すと、彼女は観念したように目を閉じ、再び苦しそうに呼吸しだした。

夜間診察は、移動手段を考えると彼女の体力的にも厳しそうだったので、病院は明日連れて行くことにした。

私は彼女にベッドで大人しくしているよう言い聞かせ、土砂降りの雨の中、コンビニへ出かけた。
スポーツドリンクと冷却シート、それからマスクを買い、ふと店内の時計を見ると、すでに零時を回っていた。

陽気なクリスマスソングが雨音に混じって寂しく流れていた。
176 : ◆wsnmryEd4g [saga]:2020/10/18(日) 17:16:03.09 ID:iX/HvtXE0


翌朝、ソファの上で目覚めた。

起き上がり、ベッドの方を見ると、紗枝ちゃんがすやすやと眠っていた。

そっ、と彼女の額に手を置いてみる。
ほんの少しだけ、熱があるような気がする……けれど、昨晩ほどではない。

すると、紗枝ちゃんがゆっくりと目を覚まして、私を見上げるようにぼんやりと瞳を揺らした。

「気分はどう?」

私が尋ねると、彼女は、楽になった、と答えて、それから小さく微笑んだ。

私はホッとして、朝ごはんはどうする? 服も着替えないとね、と、まるでこの一年間、ずっとそうして二人で暮らしてきたかのように、クリスマスの朝を迎えたのだった。
177 : ◆wsnmryEd4g [saga]:2020/10/18(日) 17:17:01.24 ID:iX/HvtXE0

「七度三分……微熱だね」

おそらくただの風邪だろう。
とはいえ一応、病院には行った方がいいかもしれない。
そう言ったら、彼女はやはり首を横に振って、もう平気、と意地を張るように答えるのだった。

そして、体調が徐々に回復してくると、私の心配をよそに「もう帰ります」などと言って、しきりに立ち去ろうとした。

私は彼女を逃さなかった。

少なくとも事情が判明するまで、彼女を一人にはしておけないと思った。

というのも、私は昨晩、紗枝ちゃんの身体をタオルで拭いた時に、その腕にとある異変を発見していたのである。

「手首の傷……自分でやったの?」

彼女はびくりと肩を震わせた。
そして気まずそうに私から目を逸らし、左手首をそっと押さえ、黙った。

彼女の自傷行為について、私はもちろんショックを受けていた。
気付かなければよかったと、あるいは何かの間違いであってほしいと、先ほどまではそう思っていた。

が、今や私の心のうちには、憐れみや悲しみよりももっと深い感情が、それこそ私自身、今まで感じたことがないくらいに激しく燃え滾っていた。

それは怒りだった。

紗枝ちゃんのあの美しい肉体が、気品と情熱に満ちた精神が、彼女自身の手によって傷つけられていると知ると、言いようのない焦りと苛立ちを感じた。

そして彼女をそこまで追い詰めてしまった原因が自分にもあるのだと思うと、やりきれなかった。

だから私は、これ以上彼女を傷つけさせないためにも、今は私の目の届く範囲に置いておかなければならなかった。
178 : ◆wsnmryEd4g [saga]:2020/10/18(日) 17:17:46.81 ID:iX/HvtXE0

私は最初、この不快感の正体が何なのか分からなかった。

そこで、怒りという攻撃的な衝動にまだ十分慣れていなかった私の心は、その昂ぶる感情を分かりやすい別な欲求として解消することにした。

「お風呂、入ろっか」

昨晩、何度かタオルで汗を拭ったとはいえ、彼女の身体はずいぶん臭った。
かつてあれほど綺麗だった黒髪も、今や脂ぎって埃にまみれている。
私は、不潔さそのものというより、紗枝ちゃんの薄汚れた姿を見続けることに耐えられなくなっていた。

私は彼女の美しさを取り戻したかった。

すると不意に、彼女の身体を洗い清める光景が目に浮かび、私の官能をひどく刺激した。

次第に私はその想像に夢中になった……そしてこれらの色情は実際、怒りの代用として十分な効果を果たした。

が、一方で私は、必ずしも肉体の欲求にのみ従って彼女を辱めようとしたわけではなかった!

私はあたかも崇高な使命に導かれるように彼女の精神と肉体の浄化を願っていた。
神に捧げる生贄の儀式、そのみそぎのため、名誉ある仕事を任せられた司祭のように……。
179 : ◆wsnmryEd4g [saga]:2020/10/18(日) 17:18:56.69 ID:iX/HvtXE0

彼女は抵抗しなかった。
あるいは、抵抗する力もなかったのかもしれない。

私は彼女をバスチェアに座らせると、まず汚れた髪をシャンプーで二、三度洗った。

その後、私は彼女の身体の隅々に丹念に手を這わせ、ボディソープを泡立てていった。

その時点で彼女はもう、私にされるがままになって、そんな彼女の熱っぽい身体をくすぐるようになぞるのは楽しかった。

私は彼女の背後に膝立ちになり、抱きつくように腕を回してその乳房や恥部に指を食い込ませた。
すると彼女は小さな嬌声を上げて善がりだした。

私はゆっくりと、掻き出すように彼女の膣内を洗った。

そうして彼女の感じ易いところをわざとらしく責め立てているうちに、やがて絶頂を迎えたらしい痙攣が私の指を締め付けた。
しかし私はそれでも指を動かすのを止めなかった。
彼女は濡れた前髪を額に張り付かせながら、私を見て怯えたように首を振った。

私は無言で彼女の頬にキスし、今度は陰核を剥いて激しく指で擦った。

短い叫び声が浴室に響き、彼女が二回目の絶頂に達したのが分かった。
そうしてそれが三回、四回と続いていくと、最初は快感に甘えていた嬌声も次第に鋭い悲鳴に変わってゆき、そして五回目の絶頂でとうとう失禁しだした彼女は、私の手のひらに生温かい小水を注ぎながら、

「もうやめて!」

と叫んだ。
しかし私はやめなかった。

「また汚れちゃったね。いま、綺麗にしてあげるから……」

私は小水が滴る手のひらで彼女の口を塞いだ。

驚きに目を見張る彼女をよそに、私は出しっぱなしのシャワーを彼女の恥部に当てた。

そしてようやく抵抗しようと暴れだした彼女を軽くいなしながら私は、再び彼女が果てる瞬間を待った。
180 : ◆wsnmryEd4g [saga]:2020/10/18(日) 17:19:57.05 ID:iX/HvtXE0

しかし六度目はなかなか訪れなかった。

私は諦めて彼女の口元に臭う汚水をシャワーで洗い流すと、息も絶え絶えに震えている彼女を立ち上がらせ、一緒に湯船に入った。

私たちはぬるいお湯に浸かりながら向かい合って座った。
しかし紗枝ちゃんはなぜか恐怖におののくような目で私を見、私から遠ざかるように身体をくねらせていた。
私はそんな彼女の左腕を掴み、醜い傷痕がよく見えるように引き寄せた。

「もう二度とこんなことしないって、約束してくれる?」

しかし彼女はただ困惑した表情で、わけがわからないといった風に私を見つめてばかりいた。

私はそこで初めて、ああ、これが怒りなんだ、と理解した。

「痛い! 離して……」

「ねえ、紗枝ちゃん。私、紗枝ちゃんのこと、信じてたんだよ? 紗枝ちゃんならきっと分かってくれる、いつか本当の意味で私を愛してくれるはずだって……」

「分からへん、うち、ゆかりが何言っとるか、分からへん……」

私は身を乗り出して強引に彼女の唇を奪った。

彼女に逃げ道はなかった。
そして結局、彼女もまた、恐怖に怯えつつも私の欲望を受け入れてしまうのだった。
以前の私たちならキスだけで全てが通じ合っていたのに、今やこの唇はただお互いの性欲を吐き出すためだけの器官に成り果てていた。

「……分かってくれないなら、もう、いい。紗枝ちゃんは、私が思ってたよりもずっと、ずっと弱い人だったんだね」

「ゆかり……ほんまに、どないしたん……?」

私は答える代わりに彼女の首筋に吸い付き、舌を這わせた。

そして再び、彼女の嫌がる言葉も無視して執拗に身体を犯し始めた。

彼女はもはや行き過ぎた快楽のために苦痛の叫び声を上げていた。
狭いバスタブの中、彼女は逃げ場もなく私に蹂躙され続けた。

私は途中から絶頂に達した回数を数えるのも面倒になってしまって、とりあえず彼女が限界を迎えるまでひたすら愛撫を続けることにした。
181 : ◆wsnmryEd4g [saga]:2020/10/18(日) 17:20:43.48 ID:iX/HvtXE0

やがて彼女はぐったりと私に抱かれたまま動かなくなった。

もうどこを触っても刺激しても、ほんのり筋肉を痙攣させるだけで反応らしい反応が見られなくなった。

私はそこでようやく彼女の体調が悪かったことに気付き、一度バスタブから上がってバスチェアに座らせ、茹だった身体を冷やしてあげた。

「大丈夫?」

呼びかけても返事はなかった。

彼女はひどく疲弊していた。

呼吸は荒く、半分に開かれた瞼の下には焦点の合わない目がふらふらと宙を泳いでいる。

しかし少なくとも意識はあるようだった。

私は、今こそ彼女に最後の罰を与えようと、耳元に顔を近づけて、言った。

「あのね、紗枝ちゃん。私、本当は今日、プロデューサーさんと出かける予定だったの……でも安心して? さっきキャンセルの電話を入れておいたから。プロデューサーさん、残念がっていたけど、でも仕方ないよね。紗枝ちゃんの具合がこんなに悪いんだもの、放っておけないよ。だから今日はずっと二人きり、ね?」

「あ、ぅ……」

彼女は何やら意味不明な言葉を漏らしてゆっくりと首を振った。私は構わず続けた。

「……一年前、紗枝ちゃん言ってたよね。私のプロデューサーさんのこと、無能だ、って……でも、それは違うよ。あの人は無能なんかじゃない。ただ真面目で、正直すぎただけなの。あの人は、紗枝ちゃんがやったようなことは絶対に私たちにさせようとしなかった。私たちを守ろうとしてくれてたんだよ。そのせいで他の同僚の人たちに出し抜かれたり、結果が出せなかったりしても、あの人は諦めずに、ずっと私たちを支えてくれてた……だから私、あの人となら付き合ってもいいって、そう思ったんだ」

「……え……?」

一瞬、表情の固まった彼女ににっこりと微笑みながら、私は言った。

「私、先週からプロデューサーさんとお付き合いしてるの。それでね……この前、初めて男の人に抱かれたんだ……」
182 : ◆wsnmryEd4g [saga]:2020/10/18(日) 17:21:22.83 ID:iX/HvtXE0

紗枝ちゃんの身体が奇妙な痙攣に震えた。

そして、うっ、という声がして、彼女が咄嗟に口元を押さえるのを見た。

その手の隙間から、濁った液体がごぽごぽと吹き出して私たちの足元に零れだした。

「あっ。だめじゃない紗枝ちゃん、また汚れちゃう……」

私は両手を差し出して彼女の吐瀉物を受け止めた。

彼女は激しくえずきながら私の手のひらに嘔吐し続けた。

そうして時々、息継ぎの合間に悲痛な叫び声が響いて浴室にこだまするのを、私は不思議と愉快な気持ちで聞いていた。……


それから私は、胃液を出し尽くして涙と鼻水と涎にぐちゃぐちゃになった彼女の表情を見つめながら、手のひらになみなみと溜まった吐瀉物を掲げて、

「はい」

と彼女の口元に寄せた。

彼女は肩で息をしながら、私が言ったことの意味をすぐに理解し、パニックに襲われたように再びむせび泣いた。

私は黙って、彼女が完全に服従する時を待っていた。

やがて彼女は絶望にすっかり狂ったようになって、私の手のひらに口をつけ、何度も咳き込みながらついに全て飲み下した。

「よくがんばりました」

私は満足し、彼女を抱きしめた。

そして今度こそ身体を綺麗に洗い流してやり、濡れた身体を優しくタオルで包みながら浴室を出た。
183 : ◆wsnmryEd4g [saga]:2020/10/18(日) 17:21:51.72 ID:iX/HvtXE0


――窓の外を閃光が走った。
土砂降りの雨音に混じって雷鳴が轟く。
私は、このクリスマスらしくない悪天候を憂いて溜め息をつき、そして言った。

「……そっか。紗枝ちゃんも、辛かったんだね」

私はベッドのわきに腰掛け、紗枝ちゃんの話を聞いていた。

彼女は布団の中に横たわり、疲労と病と絶望に空っぽになった心を天井に彷徨わせながら、まるで出来損ないのロボットのように私の質問に答えた。


彼女は高校を卒業したあと、実家に戻っていた。
そこで半年余、引きこもりのような生活をしていたという。
リストカットはその頃に覚えた、自殺未遂をして親を泣かせたこともある、そんな事も彼女は話してくれた。

私はもう、それを聞いても怒りは感じなかった。
ただただ彼女のことが哀れで、切なくて、同情することしかできなかった。

紗枝ちゃんはその間、テレビやネットからも遠ざかっていた。
何かの拍子で、私の姿をちらりとでも思い出してしまうのを恐れていたらしかった。
私は、彼女なりに過去を忘れようと努力していたのだと知って、いくらかは彼女を許してあげてもいいような気持ちになっていた。
184 : ◆wsnmryEd4g [saga]:2020/10/18(日) 17:22:31.88 ID:iX/HvtXE0

しかし結局、彼女は過去を乗り越えられなかった。

十月、私たちの十九歳の誕生日に、彼女はついに孤独に耐えられなくなった。

自暴自棄になった彼女は、引きこもるのをやめた代わりにネットを通じて寂しさを紛らわそうとした。

そして、それこそ男も女も見境なく、出会っては刹那的な関係に溺れる日々を繰り返した。

もちろん、そんな生活が長く続くはずはなかった。
私は知っていた、一時の快楽に孤独を忘れることはできても、孤独そのものを消し去ることは誰にもできないということを。
彼女は知らなかったのだ、人の孤独とは決して癒すことのできない不治の病だということを。

私は思った。
もしもあの日、あの駅前で、私がそのことを伝えていれば彼女が救われる未来もあったのだろうか?

かつて私たちは言葉を必要とせず、二つの心をひとつに溶け合わせる事こそが愛だと信じていた。
そして、それが所詮は見せかけの信頼に過ぎないということを、一年前、私は紗枝ちゃんとの会話で悟ったはずだった。


しかしその時にはもう手遅れだったのだ。
私たちは数ヶ月の短い間にあまりに多くのものを共有し、存在を融和させようと努めていたので、言葉によって二つの心に境界線が引かれることを極端に恐れていた。

その結果、私たちはお互いの境界を見失ったまま醜く分裂し、そうして私の心には紗枝ちゃんの魂の断片が、紗枝ちゃんの心には私の魂の断片が、まるで呪いのようにこびりついてそれぞれに根を張ってしまったのだ。

そう、私はこの一年間、紗枝ちゃんの呪縛から逃れようともがいていた。
一度、溶け合いかけた二つの心を引き剥がすにはそれくらいの年月が必要だったのだ……
いや、むしろ私たちが真に孤独を飼い慣らし、本当の愛を育んでいくためには、二年、三年、あるいはもっと長い時間が必要になるに違いなかった。
185 : ◆wsnmryEd4g [saga]:2020/10/18(日) 17:23:17.02 ID:iX/HvtXE0

そして私は気付いたのだった。
私にはやはり紗枝ちゃんの存在が必要なのだと。

私たちは出会った時からすでに運命を共にしていた。

そしてついに分かち難い融和を果たした二つの魂は、もはやお互いを傷つけずにはいられないほど歪に絡み合い、それは私一人の力ではどうすることもできなかったのだ。


だから私は彼女を救わなければならなかった。

私自身の人生を克服し、自らの愛を築いていくためには、彼女にもまた彼女自身の愛を築いてもらわなければならなかった。

そう、これはいわば運命への復讐なのだ。

今日はそのための最初の儀式にすぎない……
186 : ◆wsnmryEd4g [saga]:2020/10/18(日) 17:24:33.85 ID:iX/HvtXE0

私はその後も質問を続けた。

彼女がここの住所を知った経緯は簡単なことだった。
彼女の元プロデューサーに連絡し、過去の肉体関係を盾に脅して私の情報を聞き出したのだという。

彼女は昔からそうやってプロデューサーを利用していたのだ。
かつて私とのドラマの共演を仕組んだのも、裏でそうした手引きが行われていたからだった。

そして、私の元を訪れようと思った理由も、些細な偶然がきっかけだった。
淫蕩な生活に明け暮れていた彼女は、ある日、同年代の女性と一夜の関係を持った。
その女性がたまたまアイドルに詳しかったために、紗枝ちゃんは正体を知られ、そして過去に出演していたドラマの話題からふいに私の名前も上がった。
その女性は、嬉々として水本ゆかりの現在のアイドル活動について紗枝ちゃんに話して聞かせた。

それが決定打になったのだという。
紗枝ちゃんは数日後には家を飛び出し、残り少ない貯金を全て下ろして東京まで赴いた。

紗枝ちゃんがベッドの上で滔々と呟いた。

「……一度は、ゆかりのこと諦めよう思うた時もあった。あの演奏会の時……ゆかりの演奏してる姿見て、ああ、もう手遅れなんや、って……ゆかりはもう、うちの知らない人になってもうたんや、そう思て……。せやからうち、ゆかりとは二度と会わへんようにしよう、そう心に決めてたんどす」

「…………」

「けど、ゆかりが楽しそうにアイドル続けてるの知ったら、そんなんどうでもよくなってもうた。うちのことなんかすっかり忘れたみたいに呑気に生きてるゆかりが、憎くて、憎くて、許せんかった……。ほんまはうち、ゆかりを殺そう思て東京に来たんどす。ゆかりを殺してうちも死のうって、それで家を飛び出て……けど、無理やった。うちにはそない度胸なかった。それどころか、ゆかりの姿を一目見て、ああ、やっぱし綺麗やって、こない愛らしい人を殺すなんてうちにはできひん、って、そしたらもう、わけが分からんくなって……」

「……ご両親には、何て言って出たの?」

「なんにも……今頃、うちのこと探してるかも分からん。けど、それももう、知ったことやない……」

すると彼女は突然、ふふっ、と笑い出して、いい気味どすえ、そう吐き捨てるように言った。

私は、そんな罰当たりな言葉を口にする彼女を咎めはしなかった。
それよりも別のことが気がかりだった。
187 : ◆wsnmryEd4g [saga]:2020/10/18(日) 17:25:13.44 ID:iX/HvtXE0

「携帯には連絡とか来てないの?」

「電源切れたままやから、分からへん……」

「携帯、私が預かってもいい?」

彼女は一瞬だけ、不審そうな目をちらりと私に向けた。
そしてすぐに何かを察したように「ん……」と答えた。

「他に、足がつきそうなものとか、ある?」

「……強いて言うなら、あの人やろか……うちが電話かけたの、あの人が最後やったし……」

彼女が言っているのは、おそらく紗枝ちゃんを担当していたプロデューサーのことだろう。

確かに、もし彼女の捜索願が出されるようなことがあれば、手がかりを求めて事務所に連絡が来る可能性もゼロではない。

「分かった。他は……大丈夫そうかな」

そうして一人で納得しだした私をよそに、彼女は虚ろな目を窓の外に向け、独り言のように、

「うち、これからどうやって生きていけばええんやろ……」

と呟いた。

「え?」

私は思わずキョトンとして、

「なに言ってるの? ずっとここに居ていいに決まってるじゃない」

そう答えて、同じようにキョトンと見つめ返した彼女の顔の、その前髪をそっと手でかき分けながら、

「ねえ、私たち、また前みたいに二人で暮らそうよ。お金は大丈夫、私がなんとかする。最近ね、お仕事の方もそれなりに上手くいってるんだ。だから紗枝は何の心配もしなくていい、ただ私と一緒に住むだけでいいの。そうすれば毎日セックスできるし、紗枝も寂しい思いしなくて済むでしょ? そのかわり、私が良いよって言うまで紗枝はこの部屋から外に出ちゃだめ。分かった?」

「え……?」
188 : ◆wsnmryEd4g [saga]:2020/10/18(日) 17:25:44.55 ID:iX/HvtXE0

「私ね。紗枝のこと、もっとちゃんと知りたいの……そして紗枝にも、もっと私のことを知ってほしい。だから、もう一度、最初からやり直そう? それでゆっくり話し合って、今度こそ二人で生きていくの。たぶん、時間はかかると思うけど……でも、私たちならきっとうまくやれるよ」

私はそう言って、ベッドに横たわる彼女の、その青ざめた表情に覆いかぶさるように顔を近づけた。

「……どうしたの? 震えてるみたい……もしかして、まだ寒い? ねえ、言ってくれないと分からないよ」

「ゆかり……どうして……」

「どうして? だって、外に出したら紗枝、また自分を傷つけるでしょ? 私がいないと生きていけないって、言ってたじゃない。だから、まずはちゃんと生きてもらわないと。ね? もう絶対、リストカットなんかしちゃだめだよ。ああ、それと他の誰かに電話したり、連絡したりするのも禁止。外の世界は、紗枝にはまだちょっと早いみたいだから……。当然、ネットも禁止だからね。テレビとラジオは……まあいっか。……うん。とりあえずのルールはこんなところかな。分かった? ……分かったらちゃんと返事して。……はい、よくできました。それと、もしルールを破ったら、その時は……ふふっ、どうしたの紗枝、私まだ何もしてないよ?」

彼女の顔は恐怖に青ざめ、濁った瞳が粘ついた泥のように私をじっと見つめていた。

が、同時にその口元は奇妙な形に歪んでいて、それはまるで抑えきれない歓喜のために思わずこぼした、彼女の心からの笑顔のように見えた。
189 : ◆wsnmryEd4g [saga]:2020/10/18(日) 17:26:28.39 ID:iX/HvtXE0

私は一息つき、軽く伸びをした。

明日から紗枝の身の回りのお世話もがんばらなくては、そう意気込んで、気持ちも新たに深呼吸した。

するとふいに胸の奥を爽やかな風が吹き抜けて、興奮に思わず武者震いをした。


まずはお洋服と下着を買ってあげなくちゃ。

それと私が留守にしている間に変な気を起こさないよう、監視カメラも用意した方がいいかな?

そういえば犬のしつけ用に電気の流れる首輪があるって、テレビか何かで聞いたっけ……
どれくらい痛いのか分からないけど、一応、調べてみてもいいかもしれない。
電気なら、身体に傷痕は残らないよね。

あとは……そうだ、部屋にずっと居たらさすがに退屈だろうし、彼女の喜びそうな玩具も買ってあげよう。
でももし紗枝が一人遊びにハマっちゃったら、それはそれで困るかも。
……まあ、その時は私も一緒に使ってみて、二人で気持ちよくなれたらそれでいいよね。
紗枝、喜んでくれるといいな……。


私はわくわくするような気分で今後の計画を頭に思い浮かべた。


それはきっと、今までに感じたことのないような素敵な未来の予感だった。


私たちの物語がこれから始まるんだ。





END

190 : ◆wsnmryEd4g [sage]:2020/10/18(日) 17:40:33.65 ID:iX/HvtXE0
このSSは去年のゆかさえ誕の時にpixivに投稿した『飼育』というSSを少し書き直したものです
191 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [sage]:2020/10/18(日) 17:50:14.41 ID:xEmdF3xDO


わーい、ヤンデレ四天王の名目、保ちましたですな
192 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [sage]:2020/10/25(日) 17:08:13.57 ID:lZXNrZw40
ワオ…
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