【グラスリップ】透子「かけるくん?」

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122 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga sage]:2019/04/15(月) 11:07:42.05 ID:SWPDcXJr0
「確かに……俺たちが見たり聞いたりしていたものは、未来じゃなかったかもしれない」

 俺の《欠片》が、俺の淡い期待や願望をアンプのように増幅させていたように。

「だけど今、君は窓の外に冬の景色を見ている」

 透子の《欠片》は今、透子の不安を映写機のように増大させ、感情とともに制御が利かない状態になっているのだとしたら。

「何かが見えて、聞こえていたことは間違いないんだ」

 どんなに得体が知れないイメージでも、気味の悪いヴィジョンでも、《欠片》が内心を映し出す鏡なのだとしたら――それは受け入れなくてはいけない。

「……そうよね」

 透子は深く息を吸って、頷き、窓の外を見た。

「何かが起こってるってことは、認めなきゃね」

 俺たちは出会った。それは事実、過去だ。

 出会って、変化し、今なお変化し続けている。それも事実、現在だ。

 その先に、どうなるかわからない未来が待っている。

 俺たちはそんな未来に期待を寄せたり、不安を抱いたりするけれど。

 いずれにせよ目を背けることはできない。

 それは否応なく、いつか必ずやってくる。

 果てしなく遠くの、想像もつかない場所なんかじゃない。

 今この場所から、俺たちの過去や現在から、地続きの未来。

 そんな未来に、俺たちは進んでいかなければならないんだ。
123 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga sage]:2019/04/15(月) 11:11:05.34 ID:SWPDcXJr0
「そう。それに――」

 俺は、透子に、一歩近づく。

 降りしきる雪の中にいるという、透子。

 何もかもが凍てつき、人影さえ見えない、一面の銀世界。

 そんな寂しい場所に、透子が今、一人で立ち尽くしているというのなら。

 どうにかして、その隣に俺は駆けつけよう。

 透子の声が、存在が、ぬくもりが、俺の胸を満たしてくれたように。

「こうすれば……それは《未来の欠片》だってことだろ」

 脳裏に、彼らの言葉が過ぎる。

『おまえ透子の気持ちに気づいてねえのかよ!?』

『ユキがかっこ悪くなったのはあんたのせい』

『おまえさあ、透子さんが好きなのか?』

『あなた、透子ちゃんのこと……好きなの?』

 彼らは俺の覚悟を、気持ちを、問うてきた。

 それに対する答えは、もう、決まっている。

 それを伝えるべき相手も今、目の前にいる。

 ならば、俺のすべきことは、ただ一つ――。

「っ……!」

 震える彼女を、強く、抱き寄せて。

 冷たい氷を溶かすように。

 俺は透子にキスをした。
124 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga sage]:2019/04/18(木) 09:39:32.52 ID:OU1b3DXA0
 †

『一緒に花火を見に行こう』

 夏祭りの前日、俺はみんなとそう約束した。

 家に帰るなり、俺は母さんに祭りのことを話した。お祭りは街の外からも人が来るくらいに大きく、クライマックスにはたくさんの花火が上がって、それをみんなで見るのだ、と。

 寝床に入ってからも、明日の祭りが楽しみでなかなか寝付けなかった。

 そして、当日。

 空には雲が多く、夕方になるにつれ、世界はぼんやりと暗くなり始めた。

 黄昏時――人の顔がわからなくなる時間帯。

 大通りには屋台が連なり、街の雰囲気はがらりと変わっていた。

 華やかな装いの人たちが道いっぱいにあふれて、少し先も見通せない。

 まだ道に慣れてなかった俺は、約束の時刻に遅れてしまった。

 やっとの思いで待ち合わせの場所に着いて、辺りを見回す。

 そこに、みんなの姿はなかった。
125 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga sage]:2019/04/18(木) 09:45:21.43 ID:OU1b3DXA0
<第11話 ピアノ>

 窓の外の景色が、照明をゆっくりと落としていくように、薄ぼんやりと明度を失っていく。

 美術準備室の中で、俺と透子は棚に背中を預け、並んで座っていた。

 教室の扉は開いている。あんなことをしたあとだったから、閉めてしまうと、なんだかうまく息ができないような気がしたのだ。

「びっくりした、嬉しい……」

 透子はこんなときでも透子で、感じたことを感じたまま素直に語った。

 だからこそ透子の言葉は時々、深々と胸に突き刺さる。

「でも……駆くん、私のこと本当に好きなのかなって」

 その問いかけは一瞬で心の奥底まで這いってきた。

 透子が、私――、と何か続けて言おうとするが、俺は動揺を抑えられずに自問した。

「俺は……そう思い込もうとしているだけ、なのか?」

 俺は透子と出会えて、隣にいて、今まで感じたことのないような安らぎを覚えた。

 透子と一緒にいると、胸の中があたたかいもので満たされるように感じた。

 好きだ、と思った。

 だが、それは巧妙な気持ちのすりかえだったというのか――?
126 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga sage]:2019/04/18(木) 09:47:39.70 ID:OU1b3DXA0
「……そうなの?」

 真実を見極めるように、透子が訊く。

 俺は透子のことを好ましいと思う。愛おしく思う。

 だが、それは本当に、純粋に彼女を想う気持ちなのだろうか?

「俺は、自分のことを確かめたいだけ……?」

 今までの俺には何もなかった。

 街から街へ流れていくだけで、中身はからっぽの器のようなものだった。

 それが、透子と出会ってから、《欠片》の輪郭がはっきりしていったように、俺という存在もまた、確固とした形を得ていった。

 自分の意思が、望みが、存在する理由が、みるみると確かなものになっていく――そんな手応え。

 そんな実感を得たいがために、俺は、俺が透子を想う気持ちを、利用しているのか?

 好きという言葉で飾って、透子を繋ぎとめようとしているのか?

 透子に守ってもらいたい――自分を守りたい――結局、それだけなのか?
127 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga sage]:2019/04/18(木) 09:51:37.56 ID:OU1b3DXA0
「………………」

 透子が好き――その気持ちは今、砂上の楼閣のようにぐらぐらと揺れていた。

 つまるところ、自信がないから。

 土台になるものが何もないから。

 本当に深いところでは何も共有できていないから……なのだろう。

「今だって、私の周りには雪が降ってる。でも、駆くんには見えてない」

 そう、透子は一つの事実を突きつけてくる。

「私たち、何もわかりあってない」

 ――分かり合っていない。

 《未来の欠片》も、俺のことも、透子のことも。

 俺たちは互いのことをほとんど何も知らない。

「……そうだな。俺には雪は見えていない」

 透子の抱えている恐怖や不安を、俺は知らない。

 透子が、俺の感じてきた孤独を知らないのと同じように。

 けれど、そのことに気づけたのは大きな前進ではないだろうか。

 俺たちは何も分かり合っていない。分かり合っていないと、わかった。

 だから、透子は俺の《唐突な当たり前の孤独》を知りたいと言ってくれた。

 俺も、透子の周りに降りしきる雪の冷たさを知りたいと思う。
128 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga sage]:2019/04/18(木) 10:29:11.87 ID:OU1b3DXA0
 もっと互いのことを確かめて、分かり合いたい。

 そう思うと言葉は自然に出てきた。

「今度、母にピアノを弾いてもらおうと思う」

 母さんのピアノ――俺にとって、とても特別なもの。

「透子にも来てほしい」

 誘うと、透子は快く受けてくれた。

「お母さんのピアノ? ……素敵」

「うん。一応プロだし、本気で弾いてくれると思う。そしたら――」

「そしたら……なに?」

 はっきりそうだ、とは言えない。

 だが、予感のようなものがあった。

 母さんのピアノは、俺の《欠片》の引き金――俺の心と深く結びついているもの。

 前に一度、たまたま母さんがピアノを弾く場面に透子と居合わせたとき、俺は逃げ出すように透子をピアノの音が聞こえないところへつれていった。

 俺の《欠片》を――本当の気持ちを透子に知られることに躊躇があった。

 それを、もう一度、やり直したい。

 俺は、俺のことを透子にきちんと知ってほしい。

 互いに分かり合うために必要なのは、本音で向き合うことだと思うから。

「来てほしい」

「……そこに行ったら、駆くんと私のことがわかる?」

 わかるかもしれない、わからないかもしれない――いずれにせよ決断の時は迫っている――急がねばならない。

「今から母に電話する。明日やってもらおう」

 俺は透子に頼んで、携帯電話を貸してもらった。
129 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga sage]:2019/04/18(木) 10:43:13.92 ID:OU1b3DXA0
 *

『沖倉でございます』

 電話に出た母さんは、余所行きの声で応じた。

「母さん?」

『駆? どうしたの?』

 相手が俺だとわかると、母さんは途端にくだけた調子になる。俺は早速用件を伝えた。

「知り合いになった子がいるんだけど、母さんのピアノ、聴かせてあげてくれないかな」

『あら、珍しい。初めてね、そんなこと言うの』

「……うん」

 初めてなのは、当然だ。母さんのピアノを聴くと《欠片》が聞こえる――そのことを隠さなくてもいい相手、それどころか《欠片》を共有できる存在なんて、透子が初めてなのだから。

『いいわよ。どうせだから、何曲か弾こうかな。いらっしゃるなら、ご両親もお呼びしたら?』

 透子の両親を呼ぶ――それもまた互いに分かり合うためのいい機会になるだろう。

「……そうだね。ありがとう、母さん」

 少しの間が空く。通話を切ろうかどうか迷ったが、母さんが切り出した。
130 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga sage]:2019/04/18(木) 10:44:37.56 ID:OU1b3DXA0
『駆』

「ん?」

『このあいだの話、どう?』

「どう、って?」

『私と一緒に行かない?』

「……うん、考えてる」

 母さんの提案――考えれば考えるほど、透子の存在がちらつく。

 透子のことと別々に結論を出すのはもはや不可能だ。

 ただ、それをありのままに母さんに言うのはちょっとな――と俺が言い訳に困っていると、母さんは見透かしたように言った。

『で、この携帯を貸してくれた子、深水さんでしょ?』

 どうして気づかれた、と驚いたが、考えてみれば、出先から電話しているのだから可能性は限られてくる。

『一度お会いしたのよ。たまたま駆がいないときに訪ねてらして』

 そのことは知っている。俺のことを話したことも、透子から聞いた。
131 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga sage]:2019/04/18(木) 10:47:43.81 ID:OU1b3DXA0
「……そっか」

 どういうわけか透子は、父さんとも母さんとも、俺が紹介する前にコンタクトを取ってしまう。

 俺は透子を横目に見ながら、大事な人を紹介するつもりで、彼女の人となりを伝えた。

「気は優しくて優柔不断。周りに振り回されてて、本人は大変で、俺はその子をさらに混乱させてて……俺がなんにもわかってないって、わからせてくれた」

 全ては、透子に出会ってから。

 求めていたものを見つけたように思って、これで完全な形になれるような気がして、でもそれは結局ひとりよがりな願望で、俺は俺のことも、透子のことも、まだ全然わかってない。

 本当に、透子に出会ってから、今までになかったことが次々と起きる。

『……そう』

 母さんは、ゆったりと、優美な旋律にため息をもらすように言った。

『好きなのね』

 俺は、少しの嘘も混ざらないように、力を込めて肯定する。

「…………ああ」

 そうでありたい、と心から思っている。

 だから、確かめるんだ。

 俺は通話を切った。透子は窓の外を見ている。今も雪が降っているのだろうか。
132 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga sage]:2019/04/18(木) 10:51:42.57 ID:OU1b3DXA0
「……帰ろうか」

 携帯を返すと、透子は、授業中に出た課題がまだ終わっていないというように、言った。

「私、もう少しここに残る」

 課題の答えを探し求めているのか、教室の一点を見つめて言う、透子。

「なんか、今年の夏は、ここから始まった気がする」

 それは、自惚れでなければ、透子が初めて俺を意識したことを言っているのだろう。

「もっと、ここにいたい。ここが私の場所なの。きっと」

「……場所?」

「さっちゃんが教えてくれた。季節と時間が、それから一緒にいる人が、いつもの場所を特別な場所に変えるって」

 一緒にいる人――それならよくわかる気がする。

 あの高台に透子を招いたとき、確かに、そこが特別であるように感じた。
133 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga sage]:2019/04/18(木) 10:56:15.01 ID:OU1b3DXA0
「あまり遅くならないうちに帰るほうがいい」

「うん」

 俺は立ち上がり、透子に別れを告げる。

「じゃあ、明日の午後、うちにきて」

「わかった」

 俺は美術準備室を後にする。

 教室を出るとき、振り返ると、透子もこちらに振り向いて、俺たちは微笑を交わした。

 それから俺は扉を閉めて、昇降口へと歩き出したが……。

 こっこ、こっこ、と、一羽の鶏――ジョナサンが、名残惜しそうに足を突いてくる。俺はその鶏冠に触れて、戯れる。

 そうしていると、教室の中から透子の声が聞こえてきた。

「あっ、ひなちゃん? ……うん、お願い。明日の朝には必ず帰るから」

 明日の朝、という言葉に、帰ろうとしていた足が止まる。

「お母さんたち、心配しないように、よろしく」

 気づくと、俺は隣の教室の扉に背を預けていた。

「お願い、じゃあね、切るね」

 透子の声が聞こえなくなる。俺は糸が切れたように、すとん、とその場に腰を下ろした。
134 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga sage]:2019/04/18(木) 11:01:35.60 ID:OU1b3DXA0
 張っていた気が緩んで、少しうとうとしていた。

 かつん、とリノリウムの床を硬い靴底が叩く音に、目が覚める。

 外はすっかり日が暮れて、廊下は薄闇に包まれていた。

 そこに明かりが灯る直前、俺はほとんど反射的に、階段下の死角に身を隠した。

 かつん、かつん、という足音に耳を澄ませながら、俺は見回りの教師をやり過ごした。

 廊下が再び闇に包まれる。

 やり過ごした以上、美術準備室の中を確認しないわけにはいかなかった。

 いや、まさか――そう思いつつ、扉に近づいて小窓から中を覗くと、

「っ……!?」

 透子はまだそこにいて、目を丸くしてこちらを見ていた。

(……帰らなかったの?)

 内側から、声をひそめてそう訊いてくる透子。それは俺の台詞だ。

(しばらくしたら帰るはずだったろ?)

 だが、言ったところで状況は変わらない。
135 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga sage]:2019/04/18(木) 11:04:21.87 ID:OU1b3DXA0
 どうしたものかと迷ったが、そんな俺を尻目に、こんこん、とジョナサンが扉を突き始める。

 嫌に大きく響く音に、見回りの教師が戻ってきやしないかと気が気でなく、なんとかしてノックをやめさせようとするが、ジョナサンは聞く耳を持たなかった。

「……はぁ」

 降参だ。俺はため息をつき、教室の扉を開けた。

 ジョナサンは躊躇いもなく、ひょこひょこと中に入っていく。

 人の気も知らないで……と恨めしい気持ちで俺はジョナサンを見、それから、許可を求めるように、ちら、と透子に視線を送った。

 透子は、さすがに気恥ずかしそうだったが、わりとすんなり頷いてくれた。

 俺は敷居をまたぎ、先ほどのように透子の横に腰を下ろす。

 そのとき、意図せず肩がぶつかった。正直、過剰に意識してしまう。

 が、教室の隅っこでうずくまるジョナサンが目に入った瞬間、妙な気持ちはあっさりとどこかへ消えた。
136 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga sage]:2019/04/18(木) 11:08:02.79 ID:OU1b3DXA0
 俺は教室を見回す。

 そこまできっちりと物が整理されているわけではない。どちらかと言えば、気の赴くままに、雑然とした感じ。

 けれど、よく見れば、煌めくもの、美しいものがそこかしこに隠れていて、それらは外に向けてひけらかされることなく、とても大事に、大切に、ひっそりと内に秘められている。

 月明かりが射し込む美術準備室は、真っ暗闇というほど暗くはない。おぼろげながら全体が見渡せる。

 けれど、光の届かない部屋の隅や戸棚の影は、どんなに目を凝らしても見ることができない。

 ここは、そんな、透子の場所。

 そこに俺は――ついでに言えばジョナサンも――居ることを許されている。

「……一晩ここにいたら、ここが俺の場所になるかな」

「それは――」

 どこにも見つけられなかった俺の居場所――それが、ここにあるなら。

「もし俺の場所ができたら……」

 透子の場所に、透子の心に、寄り添うことができたなら。

「《唐突な当たり前の孤独》に、もう出会わなくても済む?」

 心のどこかでそう期待していたことは否めない。

 透子が好きだから、透子の隣にいたいと願うのか。

 透子の隣にいれば一人じゃないと思えるから、透子を好きだと言うのか。

 こうしていても自分の気持ちなんてわからないことだらけだ。

 ましてや、透子の気持ちなんて俺にどこまで理解できるだろう。
137 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga sage]:2019/04/18(木) 11:11:35.08 ID:OU1b3DXA0
 俺は窓の外に目をやった。空には三日月が浮かんでいる。

「まだ雪が降ってるのか?」

「……ううん、もう降ってない」

 透子はそう言った。

 けれど、それが本当かどうか、俺に確かめる術はない。

 こんなに強く惹かれるのに、触れ合うほど近くにいるのに、俺は透子と同じものを見ることができない。

 分かり合いたい、その想いが強くなればなるほど、本当に分かり合えるのかと、不安も大きくなっていく。

 俺は今、確かに、透子の隣にいる。

 満たされている、そう感じるのに。

 一抹の寂しさが、消えてくれない。

「………………」

 考え込んでいると、透子が俺の肩に頭を預けて、すやすやと寝息を立て始めた。

 最初こそ意識したが、しばらくすると慣れてきたのか、俺も瞼が重くなってくる。

 姿勢をまっすぐに保てなくなって、とうとう透子のほうに重心が傾く。

 人という字はなんとやら、俺と透子は絶妙な加減で釣り合いを保ち、均衡を得る。

 冴えた月明かりの射す教室、なのに陽だまりの中にいるような、穏やかな気持ちになる。

 けれど、どうしてなのだろう。

 まるで趣味の悪い騙し絵のように。

 胸の中には、いっぱいの安らかさとともに、同じだけの怖さが、溶け込んでいた。
138 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga sage]:2019/04/18(木) 11:27:40.16 ID:OU1b3DXA0
 *

 翌朝、俺たちはジョナサンの鳴き声で目を覚まし、慌ただしく学校から抜け出した。

 家に帰ってテントに入り、俺は寝袋を敷くのも面倒でそのままぐったりと横になる。

 そうして仮眠を取っていると、母さんがやってきた。

「駆、おはよう。昨日の電話――また外泊なの?」

 怪訝そうな声が聞こえて、入り口の幕が開く。射し込む光が眩しくて、俺は片目だけを開けて応じた。

「……おはよう」

 寝起きの掠れ声でそう言のうがやっとの俺に、母さんはうきうきと弾んだ声で訊く。

「深水さんのご両親は来てもらえそう?」

「たぶん……」

「じゃあ、早めに来ていただいて、軽いお食事でもしましょう」

「……ああ」

 乗り気な母さんのテンションに当てられて、強制的に目が覚める。

 のろのろと起き上がり、テントの外に出ると、《俺》たちが難しい顔で待ち構えていた。

『透子にちゃんと話しておくんだろう?』

「あぁ……」

 曖昧な返事をすると、《俺》は批難めいた口調で言う。

『まだ決められないのか?』

 母さんの提案は魅力的だ。俺のやりたいことにも合致する。

 しかし、それを選べば、俺はもう透子とは一緒にいられない。

 だが、もし仮に透子と一緒にいることを選んだとして、その先は――?

『透子がいたからって、あれからは逃げられない』

「……ああ、わかってる」

 まとまらない思考を振り払うように、強く言い返す。

 透子と一晩一緒にいて、今までにない安らぎを得られたのは本当だ。

 透子のことも、もっと知りたいと、前よりずっと強く惹かれる。

 でも、そうして近づけば近づくほど、耐えがたい恐怖が俺を襲う。

 これまで何度も何度も思い知らされてきたこと。

 一つの街でずっと暮らしてきた人間と、街から街へ移り住んできた人間は、あまりにもかけ離れている。

 両者の間には、埋められない深い溝がある。

 近づこうとすれば、どこかで必ず底のない淵へ落ちることになる。

 今この瞬間も、それは真夏の影のように、俺の足元で黒々とした口を開けている。

 透子とも、俺自身とも、真剣に向き合おうとするからこそ、わかり過ぎるほどにわかってしまう。

 《唐突な当たり前の孤独》からは、逃れられない。
139 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga sage]:2019/04/18(木) 11:29:44.50 ID:OU1b3DXA0
 *

 午後になり、透子の家族がうちにやってきた。

 以前工房で見かけた透子の妹――深水陽菜は、可愛らしい赤のワンピースを着ていた。

 それから、透子の父親から、うちの家族へ、演奏のお礼にと花瓶が贈られた。

 海のように澄んだ群青の花瓶に、淡紅色の大和撫子が活けられる。

 奇しくも、それは透子のくれた揃いの蜻蛉玉と同じ配色だった。
140 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga sage]:2019/04/18(木) 11:33:34.38 ID:OU1b3DXA0
 *

 軽い会食の後、俺は庭に出て芝生に水をやっていた。

 リビングでは、両親たちが世間話に花を咲かせながら、デザートの準備をしている。

 すると、透子の妹が、何か甘いものでもねだるような、きらきらした目でこちらに近づいてきた。

「あのっ」

 人懐っこい笑みを浮かべて、なぜか敬礼する、深水陽菜。

「昨日、私、頑張りましたっ! にひひっ」

 小さな猫に懐かれたみたいで、微笑ましい気分になる。

 言われてみれば昨日、電話で透子がよろしくと頼み込んでいたが――口ぶりからすると、うまくやったらしい。

「あの、二学期から、お姉ちゃんと同じ、日乃出浜高校なんですか?」

「……その予定。まだ正式には、転校手続きは終わってないけどね」

 あくまで、予定。嘘ではない。

 そうして俺たちが話していると、透子が何か言いたげな顔でやってきた。深水陽菜は、いつぞやと同じようににまにまと笑み、俺の隣を透子に譲ろうとする。

 と、そのタイミングで父さんがリビングから顔を出した。

「陽菜さん、ケーキ食べないか?」

「あっ、いただきまーす!」

「駆、おまえたちも――」

 父さんがそう言いかけたところで、透子が俺と父さんの間に割って入った。

「あ、すみません! 私たち散歩してきますっ!」

 どうやら透子はそれを言うためにやってきたようだ。

 俺たちに気を遣って、父も強く誘うことはなかった。

 五時半には始める、そんな母さんの言葉に送られて、俺たちは二人で家を出た。
141 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga sage]:2019/04/18(木) 11:39:01.60 ID:OU1b3DXA0
 *

 いつもの高台の林の中に分け入って、俺たちは海と街が一望できる場所を見つけ、そこに腰を落ち着けた。

 そこで透子は、ぽつぽつと自分のことを話し始めた。

「私、ガラス職人の父の影響で、小さい頃からずっと、きらきら光るものを見てきたの」

 きらきら光るもの――透子にとっての《欠片》。

「あれがなんなのか、またわからなくなっちゃったけど、見始めたのはいつ頃からだろう……」

 言いながら、透子は俺の左手に巻かれた蜻蛉玉に目を留めた。

「それ、ちょっと貸して」

「ああ」

 透子は、そうすることに何か特別な意味があるように、自分のと俺の、二つの蜻蛉玉を並べて、そのガラス越しに街を眺めた。

「……これから実験が始まるんだね。何かがわかるといいね」

「ああ」

 俺にとっての、母さんの弾くピアノの調べは、透子にとっての、透子の父親の作るガラスの煌めきと、同種のもの。

 小さな頃から馴れ親しみ、強い影響を受けてきた、自身の核心にあるもの。

 それを二人で共有することで、何か特別なことが起きるのではないか。

 あるいは、俺たちの《欠片》がなんなのか、判明するのではないか。

 もっと互いのことを分かり合えるのではないか。

 そんな予感めいたものがあって、俺は透子を家に招いた、けれど……。
142 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga sage]:2019/04/18(木) 11:42:08.70 ID:OU1b3DXA0
「でも、そうじゃなくてもいいのかもしれない」

「え?」

「透子の家族と俺の家族が、一緒に母さんのピアノを聴くって、そんなこと思いもしなかったけど、それだけでも十分なんじゃないかって」

 ここへ来てあと一歩が踏み出せないのは、母さんの提案をまだ透子に話せていないからだろう。

 俺がこの街からいなくなるかもしれないこと。

 もしそうなるのなら、《欠片》のことや、互いのことを、分かり合ってどうなるというのだろう。

 離ればなれになってしまうなら、もっと純粋に、一夏の稀有な思い出として、今日という日を安らかに楽しく過ごせれば、それでいいんじゃないだろうか。

「それって、駆くん――」

 俺の決心が鈍るのを感じ取ったのだろう、透子が不安げな声を出す。

 透子に出会えたことには感謝している。

 今の時点でも、俺にとって透子は十分、特別な存在だ。

 この上、分かり合いたいなんて、そんな風に求め合って――その先は?

「……怖がってるんだと思う……」

 最後に別れが待っているのなら、これ以上踏み込まないほうがいいんじゃないか?

 仮に別れないで一緒にいることを選んだって、《唐突な当たり前の孤独》は変わらず付き纏うだろうし、うまくいく保証もない。
143 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga sage]:2019/04/18(木) 11:44:08.82 ID:OU1b3DXA0
 そうして俺が覚悟を決められずにいると、突然、透子が何かに気づいて声を上げた。

「あっ……」

 振り返ると、透子が食い入るように蜻蛉玉を覗き込んでいた。俺もそちらに目を凝らして、はっ、と息を飲む。

「駆くんにも見えてる?」

「ああ……」

 ガラス球の向こうの、奇妙に歪んで、不可思議に色づく街。

 そこに、いくつもの花火が上がっていた。

 透子と初めて出会った日――俺がこの街にやってきた最初の日。

 あの時、透子の《欠片》を通して見た景色のように。

 色とりどりの大輪が、日乃出浜の海上に咲いては、水平線の下に消えていった。
144 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga sage]:2019/04/18(木) 11:46:23.26 ID:OU1b3DXA0
 *

 ガラス越しに見えた花火は、しばらくして打ち止めとなった。

 それからは特に何も起こらず、俺たちは諦めて家に戻ることにした。

 海沿いの道を透子と並んで歩く。

 頭の中では、さっきから同じ言葉が回っていた。

 言わなければ。

 伝えなければ。

 でも、なんと?

 心が決まらないまま、予定の時刻が迫る。

 家に帰るのを拒むように歩みが鈍っていく。

「どうしたの?」

 透子が心配するように訊く。俺は声が震えるのを止められなかった。

「俺は……一緒にいるのが、怖いのかもしれない」

「え?」
145 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga sage]:2019/04/18(木) 11:51:37.99 ID:OU1b3DXA0
「……母さんが、演奏旅行について一緒に世界を回らないかって、誘ってくれてる」

 そう告げると、透子は目に見えて動揺した。

「駆くん……なに言ってるの? 駆くんがもうすぐここからいなくなるかもしれないってこと?」

 ここに残ったって――そう思うことを止められない。

 近づこうとすればするほど、知ろうとすればするほど、果てしない距離を感じる。

 透子は生まれたときから十七年、この街の中で暮らしてきた。

 対して俺は、この街にやってきて、まだ一ヶ月しか経っていない。

 俺が透子と一緒に過ごした時間はあまりに短い。

 俺が透子と一緒に見てきた風景はあまりに限られている。

 どんなに強い気持ちを抱いたって、その事実は変えられない。

 このままここに残ったって――高校卒業までの数ヶ月を透子と一緒にいられたって――きっと俺たちの間にある溝は埋められない。

 どうしたって、否応なく、情け容赦なく、その瞬間はやってくる。

「いつか不意に訪れる、《唐突な当たり前の孤独》をまた経験するのは、もういいかなって」

 どこに留まっても、誰に出会っても、俺が流れ者である限り孤独は付いて回る。

 ならば、ひとところに留まろうとしなければいい。

 孤独に抗うことも叶わず、孤独を受け入れることも怖くてできないのなら。

 どこまでも、いつまでも、逃げ続けるしかないのかもしれない。
146 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga sage]:2019/04/18(木) 11:55:36.29 ID:OU1b3DXA0
「……私たち昨日、ずっと一緒にいたのに……」

 目に涙を溜めて、透子が悔しそうに訴える。

「っ……」

 美術準備室で共に過ごした一夜。

 透子の場所にいることを許され、透子に守られていると感じて、確かに幸せだった。

 けれども同時に、途方もない隔たりを感じた。

 俺には、透子の見る雪が見えない。

 透子がこの街で過ごしてきた長い時間、そこで何を見て、何を感じて、どう生きてきたのか、何も知らない、知りようがない、想像もできない。

 透子にも、俺の孤独はきっとわからない。

 俺が街から街へと飛び回ってきた長い時間、そこで何を見て、何を感じて、どう生きてきたのか、どれだけ言葉を重ねたって、本当の意味で理解されることはないだろう。

 それくらい、俺たちは異なる世界を生きてきた。

 時を戻せないように。

 人生をやり直せないように。

 それはどうしようもないことのように思えて、俺は透子の顔を見られなかった。
147 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga sage]:2019/04/18(木) 12:02:53.61 ID:OU1b3DXA0
 *

「……ただいま」

 俺たちが家に帰りついたとき、演奏の準備は既に整っていた。母さんはピアノの前に、透子の家族はその後ろに並んで、座っている。

「お姉ちゃん、早く早く! もう始まっちゃうよ!」

 待ちきれない、といった様子の深水陽菜。

「二人とも、そのへん適当に座って」

 父さんに促されて、俺はピアノが横から見える位置に腰を下ろす。透子も俺の隣に座った。

「……あれが本当に《未来の欠片》なら……」

 どこか自分に言い聞かせるように、透子は囁く。

「来年の花火をまた二人で見るってことだよね?」

 それは問いかけではなく、願い事を唱えるようだった。

 透子の横顔は心細げで、今にも泣き出しそうだった。

 そんな透子を見ていられなくて、掛ける言葉もなくて、俺は俯く。

 すると、透子の手が、そっと、俺の手に触れた。

 にぎわう祭りの人波の中、はぐれないよう、手を差し伸べるように。

 俺は、せめて今この時間だけはと、透子の手を固く握り返した。

 そして、母さんの演奏が始まる――――――。
148 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga sage]:2019/04/18(木) 12:15:17.42 ID:OU1b3DXA0
 †

 あの夏祭りから数年が経ち、俺もそれなりに分別がついてきて、ようやく理解した。

 街から街へと飛び回る俺には、同じ場所で、同じ顔ぶれと、長い時の中で思い出を共有することができない。

 俺とみんなの間には、忘れられない時間や、忘れられない場所というものがない。 

 だから、何かの拍子に、みんなは俺のことを忘れてしまう。

 それは、しかし、俺の生き方が今のようである以上、仕様のないこと。

 当たり前のことなのだ。

 当たり前なのだから、それは俺が構えていようといまいと、不意を突いていつか必ずやってくる。

 ゆえに、俺は『それ』をこう呼ぶことにした。

 唐突な、当たり前の、孤独。

 そう名前を付けてからは、以前ほど頻繁に、深く傷つくことはなくなった。

 けれど、名前を付けて、はっきりと意識するようになってからは、無視もできなくなった。

 どこにいても、誰といても、自分の中にぽっかりと空いた欠落の存在を意識してしまう。

 でも、もしも、特別な場所で、特別な存在と一緒にいられたら?

 何かが変わるのだろうか?

 《未来の欠片》に抱く淡い期待に似た儚い空想。

 それはしかし、怖い想像でもあった。

 コインの裏表のように、希望はたやすく絶望に変わる。

 ――もしも、何も変わらなかったら?

 特別な場所で、特別な存在と一緒にいても、この孤独が消えなかったら?

 他にどうしようもないなら、方法は一つしかないだろう。

 どこにいても、誰といても、孤独を感じてしまうなら。

 どこにもいようとせず、誰ともいようとしない。

 それしか、ないのかもしれない。
149 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga sage]:2019/04/18(木) 12:20:30.60 ID:OU1b3DXA0
<第12話 花火(再び)>

 母さんの演奏が終わりに近づいたときだった。

 繋いでいた透子の手に、急に力がこもる。

 振り返れば、透子は茫然と、どこか遠くを見つめていた。

 何か、あったのか――?

 また、透子にしか見えない、何かが……。

 俺は透子が話してくれるのを待つ。

 透子は俯き、ぽつりと呟いた。



「なんでも……なんでもないの」



 その『なんでもない』は、とても遠いところから届く、別れの言葉のように聞こえた。

 ほどなくして、母さんの指が鍵盤から離れ、演奏は傍目にはつつがなく幕を閉じる。

 リビングに拍手の音が満ちて、厳かな空気から一転、華やいだ雰囲気に変わる。

 その直後だった。

「っ――透子!?」

 透子は、長く過酷な旅からやっと故郷へ帰りついた旅人のように、その場で意識を失った。
150 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga sage]:2019/04/18(木) 12:56:44.25 ID:OU1b3DXA0
 †

『一緒に花火を見に行こう』

 そう約束をして、しかし待ち合わせの時刻に遅れてしまい、置いていかれた俺は、諦めきれずにみんなを探した。

 ゆったりと歩く大人たちの隙間を縫って、きょろきょろと左右を見ながら、早足に駆けていく。

 そうして、俺はようやくみんなの姿を見つけた。

 人波に流されながら、俺はすれ違いざま、みんなに声を掛ける。

「――――!」

 俺の声は周囲の喧騒に掻き消されて、みんなに届かない。

 そのうちに、みんなは何か面白いものを見つけたのか、はしゃぎながらどこかへ走り出す。

 そのとき、一人が何かに気づいたように振り返った。

 確かに目が合ったと思った。

 よかった、これで一緒に祭りを回れると、安堵がこみ上げてきた。
151 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga sage]:2019/04/18(木) 12:58:33.29 ID:OU1b3DXA0
 ――だが、現実はそうではなかった。

『どうしたんだ?』

『……なんでもない』

 そう、口が動くのが見える。

 俺を探しているようなそぶりはなかった。

 俺との約束も、俺の存在すらも、忘れてしまったように。

 みんなの姿が人ごみに紛れる。

 残された俺は立ち尽くすしかなかった。

 呼びかける気にも、追いかける気にもなれない。

 今のみんなに声を掛けたら、初めて会うような反応が返ってきそうで、たまらなく怖かった。

 そんな俺をよそに、花火の打ち上げが始まる。



 どんっ――!



 肌がびりびりと震えるほどの轟音。

 その一発を皮切りに、爆音は途切れることなく続いた。

 誰もが足を止め、顔を上げて、空を見上げる。

 俺に目を留める人など、どこにもいなかった。

 みんな、まるで俺が見えていないみたいに。

 誰一人、俺がここにいると気づかない。

 どうして――?

 胸が痛くなって、ぎゅっと手を押し当てる。

 誰か――。

 助けを求めるように、声にならない声を出す。

 誰か……。

 返事はない。どこからも。誰からも。

「――――――」

 つぅ、と透明な雫が零れ、頬を滑り落ち、ぽつ、ぽつ、と爪先に当たって砕ける。

 ひゅ、と火の玉が打ち出され、どん、どん、と頭の上で弾けては、色をばらまく。

 滲む視界は、いくつもの色が映りこみ、出来の悪いステンドグラスのようだった。

 しゃくりあげるのを堪えようと、重たい扉を閉ざすように力いっぱい瞼を下ろす。

 涙が溢れ、一面の色ガラスは跡形もなく散らばり、俺の目には何も映らなくなる。

 ただ、花火の音だけが、不粋な訪問者のように、俺の鼓膜をしつこく叩き続けた。
152 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga sage]:2019/04/20(土) 13:37:53.27 ID:e2KAc5lx0
<第13話 流星>

 倒れた透子をソファに寝かせ、目覚めるのを待った。

 父さんや母さん、透子の家族たちは、俺たちに気を遣ってか庭に出ている。

 そして客観的には十数分、体感ではその五倍くらいの時間が経った頃、透子はようやく目を覚ました。

「大丈夫か?」

 そう呼びかけて、俺は透子の家族にも知らせようと立ち上がる。すると、

「――行かないでっ」

 ぱっ、と意外なほど強い力で腕を掴まれ、引き止められる。

 透子は冬の寒空の下をあてもなくさ迷ったあとのように蒼白な顔をしていた。俺は激しい後悔に駆られる。

「……俺のせいだ」

「違う。私も駆くんと一緒に、お母さんのピアノの演奏を聴きたいって思った」

 透子は俺を庇うように言ってくれる。しかし、 

「俺には何も聞こえてはこなかった。でも、透子は気を失うほどの何かを感じた」

「実験は成功したってこと……?」

「……かもしれない。だけど、俺は透子を危ない目に遭わせたんじゃないのか……?」

 分かり合おうとして、近づき過ぎた結果がこの有様だ。

「私、平気だし、それに――」

 透子が何か言い掛けるが、窓をノックする音に遮られ、透子の父親がリビングに戻ってくる。

「……やっぱりひとところにいようとすると、他の人を余計なトラブルに巻き込むことになる……」

 俺が孤独に苛まれるだけならまだしも、透子を危険に晒すなんて論外だ。

 やはり、ここに残ることはできない。早々に立ち去らなければ――と、

 そう考えていた俺の耳に、予想外の言葉が飛び込んできた。

「私、もう少しここにいたい」

 透子の発言に、深水陽菜が「お姉ちゃん?」と訝しむ。俺も同じような気持ちだ。

「確かに、もう少しじっとしてたほうがいいかも」

 しかし、透子の母親は、俺にはわからない透子の意思を汲み取ったように、透子の背中を押した。

「……戻ったら、蜻蛉玉、作りたい」

 決意を固めるように呟く、透子。

 彼女の中で何か変化が起きている――そう感じるけれど、演奏中に彼女が何を見たのか聞かされていない俺には、それがなんなのかわからない。

 結局、透子は一人、うちに残ることになった。
153 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga sage]:2019/04/20(土) 13:40:23.49 ID:e2KAc5lx0
 *

 残ってどうするのかと思ったら、透子はまたしても予想もつかないことを言い出した。

「えっ? もう一曲?」

 もう一度ピアノを聴かせてほしい――さすがの母さんも、ちょっと驚いたようだった。

「はい、お願いします。それを聴いたら、帰ります」

「大丈夫なのか……?」

 たまらず俺は訊くが、透子は「うん」と力強く頷いて、母さんに熱っぽくリクエストする。

「あの、えっと……すごく、ドラマチックなのをっ!」

 これは一体、どういうことなのだろう――。

「はい、わかりました」

 笑顔でピアノの前につく母さん。

 透子は椅子に座り、居住まいを正して演奏を待つ。

 俺は棒立ちのまま、そんな透子を見ていることしかできない。

 再び母さんの演奏が始まる。

 選ばれたのは、幻想即興曲。

 一度目と同様、俺には何も見えなかったし、聞こえてこなかった。
154 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga sage]:2019/04/20(土) 13:50:27.73 ID:e2KAc5lx0
 *

 眠れない夜を過ごした、その翌朝。

 重たい身体を引きずるようにテントから出て、庭の水道で顔を洗い、縁側に腰掛けてぼんやりと考え事をしていると、父さんがコーヒーを持ってやってきた。

「駆、どうするか決めたか?」

 母さんの提案のことだ。俺は、うん、と頷いて、コーヒーを受け取る。

 結果的に、昨日のことで俺も決心が固まった。

「もうおまえも一人前の歳だ。これからは、おまえの好きなことをしていいし、できる限り協力するつもりだから」

 よっぽど俺が浮かない顔をしていたのだろう、父さんは励ますようにそう言った。

 それにしても――好きなこと、か。

 無茶を承知で言うなら、俺も普通に、どこか一つの街でずっと暮らしてみたかった。

 透子みたいに仲のいい友人を持って、祭りの日には、いつもの面々といつもの場所で落ち合い、みんなで打ち上がる花火を見ながら、他愛ないお喋りをしてみたかった。

 でも、現実はそうならなかった。子供の俺に選択肢はなかった。

「……中学まで、結構厳しかったよ」

 今でこそ慣れたものだけれど、昔は転校のたびに大変な思いをしたものだ。

「中学までは子供、高校からは大人、みたいな、変な区切りが俺にはあってな。ま、なんとなくなんだが――」

 仕方がない。翼が大きくなるまで、雛は親の庇護下で育つしかないのだから。

 ふと、麒麟館のツバメはもう巣立っただろうかと、そんなことを思った。

「おまえ、山、続けてるみたいだなぁ」

 父さんがそんな話題を振ってくる。

「うん。けど、登るってほどじゃないよ。低山を半日歩き回るだけ」

「俺が誘ってた最初の頃はあんまり乗り気じゃなかっただろ」

 わかってたのに連れ回したのか――と、苦笑してしまう。

「そうだね。いつの間にかね」

「一緒に登らなくなって長いな」

「父さん、俺についてこられるかな?」

「大きく出たな」

 昔のことを話しているうちに、感慨深い気持ちがこみ上げてくる。

 最初は苦手だったことが、いつの間にか好きなことになっていた。

 本当は疲れるし、苦しいし、外に出て山なんか登るより、家の中で本を読んだり、ピアノを聴いているほうがよかった。

 本当はつらいし、寂しいし、転校なんて一度もしないで、一つの街に留まり、そこを自分の場所だと思えるようになりたかった。

 でも、いつの間にか……変わっていた。

 母さんについていくことは、今や立派な俺の好きなこと、したいことに、変わっている。

 その気持ちは本物だ。

 だから、俺は決めた。

 透子のこと、《未来の欠片》、それに《唐突な当たり前の孤独》――そういった心残りはあるけれど……。

「ちょっとー、あなたー、手伝ってー」

 家の中から母さんの声がする。父さんが母さんの元へ向かうと、タイミング悪くドアチャイムが来客を知らせた。

「俺が出るよ」

「すまないな」

 俺は早足で玄関へ向かう。そして扉を開けると――、

「……高山?」

 現れたのは、高山やなぎだった。
155 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga sage]:2019/04/20(土) 13:54:41.33 ID:e2KAc5lx0
 *

 いつかの井美雪哉のように、高山は俺を外へ連れ出した。目的地はカゼミチとのこと。用件も察しがつくので俺は従った。

 以前会ったときより随分と吹っ切れたような、軽やかな足取りで歩く高山に続き、しばらく街を歩いていく。

 すると、高山はとある坂道の下までやってきたところで、

「ちょっと、休憩」

 と、木陰にぽつんと置かれたベンチに腰を下ろした。俺も足を止めて海に視線をやる。

「ヒナちゃんから聞いたけど、家でお母さんのピアノ演奏会やったんだって?」

「……演奏会ってほどじゃない。もっとささやかなものさ」

 そう返しつつ、頭の隅で、深水陽菜から聞いたなら透子が倒れたことも知っているだろう、と考える。

 けれど、高山は今はその話題に触れるつもりがないのか、俺たちの頭上に広がる青空のように明るく言った。

「次やるときは、ウチも呼んでよ」

「高山は――」

「やなぎ」

 ぴしゃりと訂正が入る。俺は念のため振り返って確認する。高山は微笑した。

「やなぎでいいよ」

「……やなぎは、クラシックに興味あるのか?」

「実はよく聞いてる」

 ――あるいは出会い方が、もしくは世界が異なっていれば。

 俺は高山やなぎと……それに井美雪哉や、永宮幸や、白崎祐と、友人になれたのかな――。

 そんな突拍子もない空想をしてしまうのは、強い日差しのせいか、あるいはうるさいくらいに鳴きしきるクマゼミのせいか、そのどちらかだろう。
156 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga sage]:2019/04/20(土) 13:58:19.46 ID:e2KAc5lx0
 *

 カゼミチの店内に入ると、高山は奥のテーブル席に向かった。

 俺は彼女と向き合うように席を選び、そこに落ち着く。

 高山は真面目な顔になって、いよいよ本題を切り出した。

「約束を果たして。もし忘れてるなら説明するけど」

「覚えてるよ。君との約束なんて一つしかない」

 海で言われたこと――『きっちり説明してもらうから』――を思い出しながら、俺は答える。

 そのとき、エプロン姿の白崎祐がコーヒーを持ってやってきた。高山は彼に「座る?」と声を掛けたが、気遣い屋の白崎祐は「あとで聞くよ」と柔らかく断って、仕事に戻った。

「サチから大まかな話は聞いてる」

「……そうか」

 それは永宮から既に聞いていた。永宮は、透子の『きらきらしたもの』のことを高山に尋ねられた、と言っていた。

 俺は自分の《欠片》のことや、透子の《欠片》のこと、それが出会ってから今までどのように変化してきたのかを、掻い摘んで話した。

「君と約束をする破目になった海辺のことも、今回、透子が倒れたのも……俺のせいなんだ」

 話を聞き終えると、高山は困ったような顔で言った。

「それって、どこまで信じればいいの? まるごと信じるのって難しいかも」

「それで構わないが、本当のことだ」

 俺には《声》が聞こえ、透子には《映像》が見えていた。

 そんな妙な力が、あの花火の日、俺たちを引き合わせた。
157 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga sage]:2019/04/20(土) 14:00:58.24 ID:e2KAc5lx0
「それに、透子の存在が必要だったことは確かだ」

 俺は透子と出会い、ついには《欠片》も聞こえなくなった。

 その過程で彼女には随分と助けられた。

 透子は俺にたくさんのことを教えてくれた。

 透子を失いたくない。別れたくない。そう思った、けれど――。

「だけど俺がいなければ、透子はこんな目に遭わなかった」

 結果的に見れば、俺は透子を混乱させ、不安にさせてばかりだった。

「……俺が透子を傷つけた」

 散々振り回したあげく、《欠片》がなんだったのかはわからないまま。

 出会った意味も、そのあとに起きた変化の理由も、どうするのが正解だったのかも、わからない。

 俺は透子に何も返せていない――彼女が何を望み、何が彼女の幸せになるのかも、わからない。

「俺には……透子が何を見たのか思いもつかないんだ」

 演奏の後、なんでもない、と口を閉ざした透子。

 あのとき瞳の奥で揺れていた透子の本当の気持ちに、手が届かない。

 どこに行っても、思い出を分かち合えない。

 誰と出会っても、想いを分かり合えない。

 そんな自分がたまらなく嫌になる。
158 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga sage]:2019/04/20(土) 14:06:03.70 ID:e2KAc5lx0
「……いいことばかりじゃないわよ」

 ため息をこぼすように、高山は言った。

「気づくってことは」

 ハッとして、俺は顔を上げる。

 発言の意図を探るように見つめていると、高山はむずがるように目を細めた。

「……なに?」

「井美雪哉のことか?」

 図星だったらしく、高山は恥ずかしさに顔を赤らめた。

 しかし過度に照れることはなく、むしろ誇らしげに井美雪哉のことを語った。

「……そう、ユキのこと。言葉なんかなくても、あいつが何考えてるのかすぐにわかる」

 相手が何を考えているのか、言葉を交わさなくてもわかる。

 そんなことができたらいいと思っていたけれど、違うのか?

 たとえ完全に分かり合えたとしても、それはそれでいいことばかりではない、と……?

 俺は高山と井美の関係を思う。

 分かり合えなくて、ではなく、分かり過ぎるほど分かってしまって、互いに傷ついたのだろう、二人のことを。

「……確かに、それは少し厄介そうだ」

 高山の忠告を吟味するように、俺はコーヒーに口をつける。

「――それで」

 高山は急に雰囲気を変え、どうしてか心配そうな顔で、こちらを見据えた。

「カケル、あなたはいなくなるの?」

 質問の形を取っていたけれど、高山は俺の答えを必要としていないようだった。

「なんだかそんな気がして……」

 そう言う彼女も、どこか遠くへ行ってしまいそうに、俺には思えた。
159 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga sage]:2019/04/20(土) 14:08:25.29 ID:e2KAc5lx0
 *

 高山に別れを告げたあと、俺は家に帰り、両親と今後の話をした。

 母さんについていく、そう決めたと、二人に伝えた。

 日乃出浜高校への転校は白紙になった。

 いくつもある選択肢の中から俺自身で決めたことだった。

 俺の意思が固まったことで、父さんも母さんも喜んで準備を手伝ってくれた。

 旅立ちの日取りも定まった。

 夏休みの終わりを待たずして、俺はこの街から去ることになった。
160 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga sage]:2019/04/20(土) 14:13:23.30 ID:e2KAc5lx0
 *

 流星群を見に行ってくる。

 そう言って家を出て、俺は日乃出浜の街を歩いた。

 坂が多く入り組んだ街並み、海からの風、潮の匂い、やまない蝉の声、甲高く鳴く鳶。

 ほんのひと月しか過ごしていないのに、不思議と懐かしく感じる。

 懐かしく、名残惜しい。

 最後にやってきたのは、あの高台だった。

 草の上に寝転がり、目を閉じて、耳を澄ませる。

 《欠片》は聞こえない。

 けれど、待ち人は現れた。

 さっ、さっ、と草を踏む、柔らかい足音が近づいてくる。

「……駆くん?」

 目を開け、声のしたほうを見て、俺は待ち望んでいた人の名を呼ぶ。

「透子……」

 上体を起こして、俺は彼女を見つめた。

 本当はすぐさま立ち上がって、迎えにいきたい。でも、できなかった。

 透子は穏やかな表情で俺を見つめたまま、すぐ目の前までやってくる。

「横に座っていい?」

 その言葉だけで、霧が晴れるように、救われた気持ちになる。

「……ああ」

 扉を開いて、部屋へと迎えるように、俺は微笑む。

 透子はごく自然に、怖がることなく、俺の隣に腰を下ろした。
161 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga sage]:2019/04/20(土) 14:15:58.67 ID:e2KAc5lx0
「今日、流星群が見られるらしい。花火みたいに見えたら最高かな」

「また一緒に、花火が見られたらいいね」

 来年の花火をまた二人で――透子の願いに応えられないことに、胸が痛む。

 だから、せめて最後くらいは、そう思ったけれど、これまでの行いが悪かったのだろう。

「……この空じゃ、無理か」

 見上げれば、灰色の雲が、幕を下ろしたように空を覆っている。

「冬の花火を――」

 一瞬、透子がなんと言ったのかわからなくて、振り返り、聞き返した。

「えっ……冬の?」

「《未来の欠片》の中でね、冬の花火をみんなで見に行こうって」

 俺を見て、微笑みかける透子。

 その口から語られたのは、昨日、母さんのピアノを聴いたときに見た《欠片》のこと。

 いつものメンバーで、冬の花火を見ようと約束したらしい。

「見たのか?」

「うん」

 小さく頷くと、透子は切なげに目を細め、どこか遠くのほうを見る。

「一人で見た」

 一人で? 透子が? なぜ――。

「みんなは?」

 そう訊くと、透子は力なく俯く。

「私に気づいてくれなくて……」

 寂しげで、何もかも諦めたような、透子の横顔。

 幼い頃の俺がそこにいるようで、胸が締めつけられた。
162 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga sage]:2019/04/20(土) 14:18:39.27 ID:e2KAc5lx0
「そうか……。一人で見たのか」

 あの時、俺はみんなと確かに約束した。

『一緒に花火を見に行こう』

 なのに、祭りの当日になって、はしゃぐみんなは俺のことなど忘れてしまって。

「一人で見る花火……初めてだった」

 すれ違っても、声を掛けても、気づいてくれなくて……俺は――。

「唐突な、当たり前の孤独、だったかも」

 あの時の、どうしようもない心細さを。

 寂しさや切なさ、もどかしさを。

 透子は《未来の欠片》の中で感じてきたというのか……?

「――その花火、俺も見たかったな」

 少しでも励ましになればとそう言うと、透子は穏やかな顔で振り向いた。

「駆くんも見てたよ、みんなと」

 透子は、《欠片》を見たというより、もっと壮大な――異なる世界を渡ってきたかのように話す。

 その世界で、俺はいつものメンバーと仲が良かったらしい。

 そして透子のほうが、他から来た流れ者だった。

 ガラス球の向こうにある景色のような、現実とあべこべにズレたところ。

 冬に打ち上がる花火のように、交わるはずのないもの同士が奇妙に融和した、不思議な世界。

 そんな世界で、俺はみんなと花火を見ていた――そう、透子は言う。
163 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga sage]:2019/04/20(土) 14:23:14.31 ID:e2KAc5lx0
「その俺は楽しそうだったかい?」

「うんっ、とっても」

 透子の笑顔を見る限り、その世界の俺はかなりうまくやっていたらしい。

 それはたぶん、かつて俺が空想して、『なりたい』と思っていた俺だった。

「それは、よかった」

 夢が一つ叶ったような、重い荷を下ろしたような気持ちで、ため息がこぼれる。

 《欠片》の中でそんな俺を見たのは、透子がそれを望んでくれたからなのだろうか。

 自分だけの特別な場所を持たない、現実の俺の、ささやかな希望を叶えるために?

 それだけじゃない、透子は俺の《唐突な当たり前の孤独》を知ろうとして、果敢にもあれに向き合ってきたという。

 誰とも分かち合えないと思っていた、この胸の痛みに。

 煌めくガラスの向こうの、《欠片》の世界で。

「《未来の欠片》って、なんだったんだろう……」

「もう、その言葉はそぐわないかもしれないな」

「……お母さんが――」

「え?」

「ううん、なんでも……」

 何か言いかけて、結局口ごもる透子に、俺は思わず苦笑してしまう。

 透子が不思議そうにこちらを見てくるので、俺は言ってやった。

「また透子の『なんでもない』が始まったって思ってさ」
164 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga sage]:2019/04/20(土) 14:29:06.26 ID:e2KAc5lx0
 正直、透子の『なんでもない』には随分やきもきさせられた。

 けれど、今はそれも透子らしさだと思える。

 俺も少しは透子のことをわかってきたんだ。

「でも、透子がそう言うときは、いつも大切なことがあるときなんだろ?」

「……私って、わかりやすい?」

 ちょっとムキになったように言い返す透子に、そうでもない、と俺は答える。

 すると、透子は考えを整理するように、閉ざしていた胸の内を明かしてくれた。

「そうか、そうかも……大切なこと」

 透子は《欠片》について、思うところを聞かせてくれる。

「あの日、花火大会の日、駆くんが見えた。あれは偶然?」

「少し、違うと思う。偶然なんかじゃない。あの時……見たいと思ったから見えた」

 それは、答えになってないかもしれないけれど、俺なりの結論だった。

 俺にとっての《欠片》は、導きの光。

 こだまのように、俺の心のうちにある望みを反響するもの。

 曖昧な希望には曖昧な《声》が返ってきた。

 透子の声が聞きたいと願えば透子の《声》が聞こえた。

 そして《欠片》ではない、透子の存在そのものを求めたとき、俺は《欠片》を聞くことができなくなった。

「あれは、未来なんかじゃなくて――」

 透子も、《欠片》がなんだったのか、自分の言葉で答えを出そうとしていた。

「まだ起こってない、だけど、きっと、これから起きること」

 考えを言葉にすることに慣れていないようで、そう口にして透子は混乱する。

「あ、あれ? これって、同じ意味?」

 考えを言葉にすることに慣れている俺は、《俺》にでもなったように相槌を打つ。

「同じ意味で言ったのかい?」

「うえ、ああ…………違うかも」

「だったら、それは違う意味なんじゃないか?」

 そう手助けをすると、透子の表情が確信に満ちたものに変わる。
165 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga sage]:2019/04/20(土) 14:32:04.71 ID:e2KAc5lx0
 まだ起こってない、だけど、きっと、これから起きること。

 それが、透子の出した《欠片》の答え。

 確定した未来ではなく、可能性であったり、希望であったり、はたまた仮想であったり。

 透子は《欠片》の中に、いつか、どこかの世界を思い描くことができるのだろう。

 そんな俺たちの《欠片》に共通しているのは、投影されるのは俺たち自身の想いである、ということ。

「私は駆くんを見たかった」

「俺は透子を見たかった」

「だから、見えた?」

 ずっと見つけたかった――だから、見つけられた。

 お互い名前も顔も知らなかったけれど、俺たちは二人とも出会うことを望んでいた。

 胸に秘めたことを打ち明けられて、大切なものを分け合える存在を。

 偶然によって引き合わされただけならば、きっと今こうして並んではいない。

「……それに、あの時の花火の音と光が、そうさせたのかも」

「すごい光と音だったもんね」

 炎が煌めくだけでは、まぶしいだけ。

 爆音が轟くだけでは、うるさいだけ。

 性質の異なるもの同士が重なり合うことで、花火は完成する。
166 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga sage]:2019/04/20(土) 14:39:26.44 ID:e2KAc5lx0
「……でも、どうして私? 私、冬の花火のときも、駆くんに何もしてあげられてない。ただ、駆くんの気持ちが少しわかったような気がしただけ。なんにも……なんにもしてあげられてないよ?」

 なんにもしてあげられてないなんて、そんなこと、あるものか。

 安らぎをくれた。気にかけてくれた。色々なことをわからせてくれた。特別な場所に招いてくれた。幼い俺の夢を叶えてくれた。そして何より――、

「それで十分だよ」

 透子は、俺の孤独に寄り添ってくれた。

「それでいいの……?」

 いいんだ、本当に、透子はたくさんのものを俺にくれた。

 あの日の花火の美しさが今も脳裏に焼きついているように。

 たとえ一夏の出来事で終わっても、透子と出会えて、好きになれて、俺は幸せだった。

 もちろん、このまま、いつまでも一緒にいたいと思う気持ちもある。

 けれど、俺には俺のやりたいことがある。透子もそうだろう。

 この夏、俺たちは巣立ちの時を迎える。

 生きていくために、飛び方を覚えなくちゃいけない。

 だから、今はそれぞれに、互いの進むべき場所を目指す。

 そのせいで遠く離れることになっても、大丈夫。

 望むなら、その未来はいつか必ず現実になる。

 《欠片》の導きがなくたって、絶対に君を見つけ出す。

 だから、これは別れなんかじゃない。

 未来へ羽ばたくための、これは、約束。

「この街で君に会えてよかった」

 いつかまた、出会った日のように。

「駆くんが、この街に来てくれてよかった」

 一緒に花火を見に行こう。
167 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga sage]:2019/04/20(土) 14:47:28.38 ID:e2KAc5lx0
 *

「星、見えないね……」

 そう言うと、透子は「そうだっ!」と何か思いつき、持っていた包みを解いた。

「これ、星になるかな?」

 中に入っていたのは、花火のように色とりどりの、蜻蛉玉。

「これ、全部君が?」

「うん」

「……すごいな」

 数もそうだし、柄も一つ一つ違う。かなり気合いを入れて製作した作品のようだ。

 俺は、そのうちの半分を受け取り、手のひらを器にして乗せる。

 透子も同じようにして、手のひらいっぱいに蜻蛉玉を湛えて、空を見上げる。

 そして、透子は大きく息を吸い込み、空に叫んだ。

「せーのっ!」

 息を合わせて、心を合わせて、俺たちは蜻蛉玉を宙に放った。

 いっぺんに撒かれた蜻蛉玉が、街明かりを反射して無数の輝きとなる。

 その輝きは連鎖し、透子の《欠片》が、まるで世界に溢れ出すように、夜空へと拡散していく。

「……流星……」

 きらきらと、出会った日のように、見えないはずのものが見えた。

「……ああ」

 この光景を俺は一生忘れないだろう。

 出会って、惹かれて、触れ合って。

 戸惑ったりすれ違ったり、怖くて立ち止まったりもした。

 君の目に映るものが見えなくて、もどかしく思った。

 それでも今は、こうして見えている。

「駆くんにも見えるの?」

 君と同じ景色を。

「ああ――」

 いつかまた、こんな夜空を君と見上げよう。

 そう思って、思ったときには、彼女の手を取っていた。

 ガラスのように煌めく流星が、次から次へと、天から滑り落ちていく。

 今なら、どんな願い事だって叶えられる――そう、思った。
168 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga sage]:2019/04/20(土) 14:50:05.99 ID:e2KAc5lx0
 *

「ねえ、駆くん」

「なに?」

「いま、幸せ?」

「この上ないくらいに」

「どう生きたい?」

「広い世界を、飛び回りたい」

「私、あなたを守れてる?」

「そうだね、とても」

 降りそそぐ流星の下、空を見上げて、俺たちは未来を思い描く。

「また、会える?」

「会えるさ、きっと」

 巣立ちの朝を待つ二羽の雛のように、ひっそりと、寄り添いながら。
169 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga sage]:2019/04/20(土) 14:58:01.68 ID:e2KAc5lx0
 †

 いくつもの季節が巡り、俺は母さんと渡り鳥のように世界各地を飛び回った。

 彼女とはあれから一度も会っていない。

 ただ、連絡は時々取り合っていた。

 なんとなれば、海外に出て最初に俺がやったのは、自分の携帯電話を持つことだったから。

 なので、彼らが今なにをしているのかもある程度は知っている。

 永宮幸と白崎祐の二人は、県内の国立大に進み、ともに教育学部で学びながら、相変わらずの関係を続けているという。

 井美雪哉は医療を専門とする学校に進んだ。理学療法士の資格を取り、将来は身体に障害を持つ人を助ける仕事をしたいという。陸上は今でも続けていると聞いた。

 高山やなぎは都内の大学に合格し、上京のために日乃出浜を去った。今は学業にモデル業にと充実した毎日を送っているらしい。

 そして、深水透子も卒業後は上京し、希望通りに美術大学に通っている。高山とはたまに会うそうだ。それと、あのきらきらした《欠片》は、もうほとんど見ることがないという。

 誰もが、それぞれの道を歩いていた。

 自らの力で、広い世界に飛び立つために。
170 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga sage]:2019/04/20(土) 15:04:34.29 ID:e2KAc5lx0
 †

 久しぶりの帰国が決まったのは、いよいよ本格的に夏が始まろうという時期だった。

 俺と母さんは、かつての国名を冠するガラス工芸で有名な、海上の街に滞在していた。

 そこは彼女が喜びそうなお土産であふれていた。

 聞いたところによれば、彼女はまもなく夏休みに入り、地元に戻るらしい。

 ちょうど、俺と母さんが父さんの家に帰る頃と重なる。

 会う約束をすることは、そう難しくないだろう。

 だが……と、子供みたいなイタズラ心が湧く。

 何も知らせないで会いにいくのも面白いかもしれない。

 たとえば、街中でいきなり声を掛けたら、彼女はどんな反応をするだろう。

 そう、想像を巡らせた、そのときだった。



《――かけるくん?――》



 彼女の柔らかな声が、海からの風に乗って耳に届く。

 周りを見回すと、きらきらと光を反射する街角のショーウインドウが目に入る。

 大きな瞳を丸くして、ちょっと間が抜けたような顔で振り返る透子の姿が、映った気がした。
















《Pieces of glass like a star slipped over the sky――GLASSLIP End.》
171 :以下、名無しにかわりましてSS速報Rがお送りします [saga sage]:2019/04/20(土) 15:56:11.54 ID:e2KAc5lx0



ご覧いただきありがとうございます。

色づく世界の明日からがよくて、名前しか知らなかったグラスリップを見たんですが、めちゃくちゃ面白いですね。

今年で五周年だそうですが、もう見た方もまだ見てない方も、ぜひいま一度見てほしい。

では、お付き合いいただきありがとうございました。
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