18: ◆wsnmryEd4g[saga]
2020/10/18(日) 09:05:09.21 ID:iX/HvtXE0
シャツを軽く乾かして、それからスタジオに入った。
レッスンが始まる前にチューニングを済ませなければいけない。
ケースの蓋をおそるおそる開けてみる。
幸い、私のフルートは溶けずにきちんと形を保っていた。
「水本さん、今度ドラマに出演するんですって? しかも主役で」
先生がホワイトボードに予定やら練習メニューやらを書き込んで、それから私の方を振り向いておっしゃった。
「はい、おかげさまで」
「おかげさまって、私なにもしてないわよ。水本さん自身の努力のおかげでしょ」
先生はそれでも嬉しそうに、にっこりとお笑いになった。
先生はお母さまと同じくらいの年齢で、しかしお歳のわりにいくぶん頬のこけた険しい顔つきの御方だった。
そして実際、それなりに厳しい指導をなさる先生でもあった。
けれど、笑う時の目じりの小皺などは意外なほどチャーミングで、私の先生に対する尊敬の半分くらいは、この優しい笑顔によって支えられていたのではないかと思う。
私がいま受けているこのフルートのレッスンは、事務所が私たちアイドルに提供している支援のひとつで、私の場合は月に一、二回、会社の練習スタジオを借りて外部講師の先生から稽古をつけてもらっている。
こんな風に言ってしまうのも少し気が引けるのだけれど、故郷で私が通っていた音楽教室と比べると、施設も講師も、ここはまるでレベルが違う。
月二回という少ない稽古でも私が腕前を落とさずに済んでいるのは、プロである先生の優れた指導のおかげである。
むしろ、演奏に対する心構えや、音楽の世界それ自体への好奇心といったものは、故郷でのんびりとフルートを吹いていた頃より、ずっと高い場所へ引っ張り上げられた気がする。
世界が広がる、というのは、こういうことを言うのだろうか。
そして、それは確かに、私にとって東京で数少ない、楽しいと思える変化だった。
お仕事や学校のことで落ち込んでも、東京で経験する音楽とフルートの楽しさを知ればこそ耐えられた。
だから私がアイドルのお仕事をがんばって続けて、その結果ドラマの主役を手に入れることができたのは先生のおかげである、と言い切るのは、あながち誇張ではないと思うのである。
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