76: ◆wsnmryEd4g[saga]
2020/10/18(日) 11:30:03.24 ID:iX/HvtXE0
「……ゆかりはん?」
「え?」
「どないしたん? ぼーっとして」
私はまとまらない思考をむりやり頭の隅に退けて、なんでもないよ、と答えた。
ふと、時計に目をやると、夕方はすでに六時を回っていた。
私はさりげなく紗枝ちゃんに目配せし、鞄を手に取った。
そろそろ帰ります、私がそう言って席を立とうとした時、プロデューサーさんに、水本、と呼び止められた。
話がある、そう言って、私の横にいる紗枝ちゃんに小さく謝るようなそぶりをした。
紗枝ちゃんは一言、お邪魔しました、と頭を下げ、静かに会議室を出て行った。
扉が閉まった後、プロデューサーさんは改まったように私の方へ向き直り、口を開いた。
次の仕事だが、実は――そう切り出して、新しいユニット結成、ローカル番組のレギュラー出演、公演のオファー、そんな話が矢継ぎ早に私の耳に聞こえてきた。
まだ正式に決定したわけではないが……と言いながらプロデューサーさん自身、話しぶりにも徐々に熱が入ってきて、最後は嬉しそうに、私の努力の実ったことを称えてくださった。
それは確かに、嬉しいニュースに違いなかった。
私は、思いがけず降ってきたこのチャンスに、おそらくプロデューサーさんが期待した通りの反応を見せた。
まずは、驚き、それから、喜びと興奮のために、いつになく声を大きくして舞い上がってみせて……
しかし私は、そうして分かりやすい感情を表に出しながら、一方、自らの言葉をまるで他人事のように聴いていた。
もちろん、喜びがなかったわけではない。
にもかかわらず、私は自分の喉が震えるのを、どこか遠くから聴いているような気分だった。
心の声はまったく違う言葉を私に言い聞かせようとしていた……が、もはやその声も明るい光の中にかき消される寸前だった。
私はそうして私の喜びと感謝の表情を演じてみせながら、一方、この目はただ、窓の外にとうとう激しく降りだした雨と、その夕闇の景色に浮かび上がる私の影とを、ぼんやりと見つめてばかりいた。……
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